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神戸地方裁判所 平成3年(ワ)246号 判決 1992年12月24日

原告

長尾清子

被告

木下静雄

ほか一名

主文

一  被告らは、原告に対し、各自金二一七万一四二〇円及びこれに対する平成二年四月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

三  この判決は仮に執行することができる。

事実

第一原告の請求

主文一項と同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1(本件事故の発生)

原告は、平成二年二月三日午前〇時一〇分頃、大阪市浪速区下寺二丁目環七・五キロポストにおいて、普通乗用自動車を運転中、三和良夫が運転し被告木下静雄(以下「被告静雄」という)が同乗していた普通乗用自動車(ニツサングロリア、以下「被害車両」という)に追突し、被害車両を破損させた。

2(被害車両の所有関係)

本件事故当時、被害車両は、被告静雄の妻被告木下弘子(以下「被告弘子」という)の使用名義になつており、被告らがこれを使用していたが、代金がローンによる分割払いとされていたため、日産プリンス大阪販売株式会社がその所有権を留保していたものであつた。

3(本件示談契約の成立)

原告は、本件事故後間もなく、被告静雄との間で、本件事故の損害賠償につき、次のような内容の示談契約を締結した(以下「本件示談契約」という)。

<1>  原告は、被告静雄に対し、被害車両と同一種類の新車を引き渡す。

<2>  被告静雄は、<1>と引き換えに、原告に対し、被害車両につきローンを完済して所有権留保のない状態にした上、原告名義に所有権登録をしてこれを原告に引き渡す。

<3>  原告は、被告静男に対し、治療費及び慰謝料として金五〇万円を、また、<1>の新車提供時までの期間につき、休車補償として一日金五〇〇〇円の割合によるレンタカー代を支払う。

4(本件示談契約の履行)

(一) 原告は、本件示談契約に基づき、同月八日頃、被告静雄に対し休車補償として一五万円を支払い、また、同年四月二五日頃、代金三六六万五七二〇円を支払つて日産プリンスからニツサングロリアの新車(以下「本件新車」という)を購入し、その使用名義を被告弘子とした上これを被告静雄に引き渡し、もつて被告らに対し被害車両と同一種類の新車を提供した。

(二) ところが、被告らは、本件示談契約の前記<2>の約定にもかかわらず、被害車両を原告に引き渡すことなく、修理費金一〇八万四三〇〇円を負担して修理した上これを使用している。

5(本件示談契約の無効)

(一) 原告の本件事故による被告らに対する損害賠償としては、本来、被害車両の修理費金一〇八万四三〇〇円、事故による評価損金四一万円及び通常の修理期間として一箇月分の休車補償金一五万円の合計金一六四万四三〇〇円の支払をもつて十分なものというべきであつたが、原告は、前記4の(一)のとおり、本件示談契約の履行として、これまでに合計金三八一万五七二〇円もの多額の支出を余儀なくされた。

(二) ところで、原告が本件示談契約を締結するに至つたのは、被告静雄と前記三和から、加害者と被害者という関係を強調され、一方的かつ強硬に新車の提供と慰謝料及び休車補償の支払を要求されたため、対等に話し合うことのできない状態に陥り、畏怖困惑の結果、その場から逃れたい気持ちからやむなく右要求を承諾したことによるものである。

したがつて、本件示談契約は、原告の畏怖困惑に乗じて締結されたものであつて、公序良俗に反し、無効である。

(三) 仮にそうでないとしても、原告は、被告静雄と三和から前記のような要求を受けた結果、本件事故の損害賠償としては前記(一)のように被害車両の修理費、評価損及び休車補償の賠償をすれば足りるべきところを、新車を提供した上慰謝料及び休車補償を支払うなど多額の賠償をしなければならないものと誤信して本件示談契約を締結したのであるから、右契約は、要素の錯誤があつて、無効である。

6(被告静雄の不当利得)

以上のように、本件示談契約は無効であるから、被告静雄は、前記5の(一)のとおり、原告から受領した本件新車の価額と休車補償の合計金三八一万五七二〇円から、本来原告が負担すべき前記損害賠償額金一六四万四三〇〇円を差し引いた金二一七万一四二〇円を不当に利得している。

7(被告静雄の債務不履行―予備的主張)

仮にそうでないとしても、被告静雄は、原告から本件新車の引渡しを受けたにもかかわらず、本件示談契約の前記<2>の約定に違反して原告に対し被害車両を引き渡さなかつた結果、本件新車の価額金三六六万五七二〇円から本件事故前の被害車両の価額金二五二万四〇〇〇円を控除した額と修理後の被害車両の価額金二一一万四〇〇〇円の合計額から、被告らが負担した修理費金一〇八万四三〇〇円を差し引いた金二一七万一四二〇円の損害を原告に与えたものであるから、債務不履行による損害賠償として、原告に対し右金員を支払うべき義務がある。

8(被告弘子の不当利得)

被告弘子は、原告から本件新車の引渡しを受けてこれを使用しているが、さらに被害車両を原告に引き渡すことなくこれをも使用しているものであつて、原告の損失により、前記7と同様に、金二一七万一四二〇円を不当に利得している。

9(請求の要約)

よつて、原告は、被告静雄に対しては、主位的に不当利得により、予備的に債務不履行により、また、被告弘子に対しては、不当利得により、それぞれ金二一七万一四二〇円及びこれに対する本件新車の引渡日の翌日である平成二年四月二六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うべきことを求める。

二  請求原因に対する認否(被告ら)

1  請求原因1及び同2の各事実は認める。

2  同3の事実中、被告静雄が原告主張の時期に原告との間で本件事故について本件示談契約を締結した事実は認め、その内容については、次の点を除き、原告主張のとおりであることを認める。

(一) 本件示談契約の前記<2>のうち、被害車両の引渡しについては、被告静雄は原告に対し事故直後のそのままの状態で引き渡せばよいとされていた。

(二) 同<3>のうち、治療費及び慰謝料金五〇万円の支払については、原告は被告静雄に対し平成二年三月一五日までにこれを支払うものとされていた。

3  同4の事実は認める。

4  同5の各事実のうち、原告が原告主張のような支出をしたことは認めるが、その余の事実は否認し、その主張はすべて争う。

本件示談契約は、平穏に話し合つて締結されたものであり、被告静雄及び三和が原告を畏怖困惑させるような言動を取つたことは全くないから、有効である。

5  同6ないし同8の主張はすべて争う。

三  被告静雄の相殺の抗弁

1  被告静雄は、本件示談契約に基づき、原告に対し、治療費及び慰謝料として金五〇万円及びその後の休車補償の未払分として金二六万円の債権を有しているほか、被害車両の修理工場における保管料等として金一〇万円を原告のために立替払いしたので、その求償金債権を有している。

2  被告静雄は、原告に対し、平成三年一一月一日原告に送達された準備書面をもつて、右合計金八六万円の原告に対する債権をもつて、原告の本訴請求債権と対当額で相殺する旨の意思表示をした。

四  抗弁に対する認否

被告静雄主張の債権の存在はすべて争う。

なお、本件示談契約は既に述べたとおり無効なものであるから、本件事故によつて被告静雄に生じたとする損害については、本件示談契約の内容にかかわらず、実額をもつてあらためてこれを認定すべきところ、被告静雄には治療費及び慰謝料として金五〇万円に相当するだけの損害が現実に発生したものとは認められないし、また、休車補償についても、被害車両の修理には通常一箇月程度の期間をもつて足りると考えるから、仮に一日金五〇〇〇円の割合による補償が必要であつたとしても、既に支払ずみの金一五万円によつて補償ずみである。

第三証拠関係

証拠関係は、本件記録中の証拠目録調書記載のとおりである。

理由

一  請求原因1(本件事故の発生)、同2(被告車両の所有関係)及び同4(本件示談契約の履行)の各事実はすべて当事者間に争いがなく、また、同3(本件示談契約の成立)の事実についても、被告静雄が被害車両を原告に引き渡す際にローンを完済して所有権留保のない状態にした上原原告名義に所有権登録をすべきものとされていたかどうか、また、治療費及び慰謝料金五〇万円の支払時期について平成二年三月一五日までとされていたかどうかという点を除くと、当事者間に争いがない。

二  そこで、本件の主たる争点である本件示談契約の効力について検討する。

1  前記当時者間に争いのない事実と甲七及び八号証の各一ないし四、証人三和良夫の証言、原告及び被告静雄の各本人尋問の結果(いずれも第一、二回)並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  被告静雄は、前記日時及び場所において、本件事故に遭つた結果、被害車両の後部が破損して運転できない状態になつたため、原告に対し、原告が被害車両を引き取り、その代わりに新車を提供することを申し入れた。そして、被害車両と原告運転の車両は、いずれも高速隊によつて処理され、原告の知り合いの兵庫県西宮市内の修理業者サンセブンに保管されることになつた(なお、原告運転の車両はその後廃車になつた。)。

(二)  その後、原告は、平成二年二月上旬の昼頃、兵庫県姫路市内のホテルの喫茶店において、中学二年生の次男を連れて、被告静雄及び三和と会い、本件事故の損害賠償について話し合つた。

(三)  その際、原告は、被告静雄から、原告が本件事故の加害者なのであるから新車を提供するように言われたため、原告が被害車両と同一種類の新車(三〇〇万円以上を要するものと考えていた。)を提供する代わりに被害車両をそのままの状態で受け取ることと、新車提供時までの間について休車補償として一日金五〇〇〇円の割合によるレンタカー代を支払うことが取り決められ、さらに、被告静雄と三和から、本件事故現場から帰宅する際のタクシー代のほか、原告の運転車両が任意保険に加入していなかつたため、病院の治療費等をも含めた一切の費用として各金五〇万円を同年三月一五日頃までに支払うことを強く要求された結果、原告自身の要望を申出し出ることをしないまま、その場でこれらを応諾した。

(四)  ところで、原告は、本件事故後から右の話合いまでの期間において、本件事故の損害賠償について相談をした相手は妹だけであり、その内容も、原告自身には十分な資力がなかつたため、妹が賠償金の支払につき援助をしてくれるかどうかといつた程度のことにすぎなかつたが、他に資金援助をしてもらえると思われた知人がいたため、何とか資金繰りができるものと考え、右の話合いの際にもこれを頼りして本件示談契約を締結したものであつた。

(五)  その後、原告は、被告静雄に対し、本件示談契約に基づき、一箇月分の休車補償として金一五万円を支払うとともに、知人の資金援助を得て本件新車を購入の上、同年四月二五日頃、被告静雄にこれを引き渡したが、同年五月頃、被告静雄が前記五〇万円の支払がされないことを理由として原告に連絡することをせずに被害車両を前記修理業者から引き上げ、これを修理して使用するようになつたため、原告代理人神垣守弁護士のもとに善処方の相談に行つた。

(六)  なお、原告は、その後の調査によつて、被告静雄と三和が病院で治療を受けたのは本件事故当日と同年二月六日の二回の通院だけであつたことを知つた。

2  以上の認定事実に基づいて、本件示談契約が無効であるとする原告の主張について検討する。

(一)  公序良俗違反

まず、原告は、本件示談契約は原告の畏怖困惑に乗じて締結されたものであるから公序良俗に違反して無効である旨主張する。

しかしながら、本件全証拠を検討してみても、被告静雄と三和が、前記の話合いの中で、かなり強い口調で話しをしたことは窺えるものの、原告に対し脅迫的な言動を取り、その結果原告を畏怖困惑させて本件示談契約を締結させたことまでをも認めるに足りるだけの証拠は存在しないから、原告の右主張は採用しない。

(二)  要素の錯誤

次に、原告は、本件示談契約締結には要素の錯誤があつたから無効である旨主張する。

そこで検討するに、原告が被告静雄との間で締結した本件示談契約においては、原告が被告静雄に対し被害車両と同一種類の新車を提供する代わりに被害車両をそのままの状態で受け取ること、新車提供時までの休車補償として一日金五〇〇〇円の割合によるレンタカー代を支払い、また、事故現場から帰宅する際のタクシー代、治療費等一切の費用として金五〇万円支払うことを合意したことは前記のとおりであり、また、証拠(原告本人尋問の結果(第一、二回))によると、右契約締結当時、原告は、このような賠償をしなければならないものと信じていたことが認められる。

ところで、本件事故によつて損傷を受けた被害車両については、証拠(甲九号証、証人栗本宣俊の証言及び弁論の全趣旨)によると、修理可能な状態にあつたことが認められ、いわゆる全損又はこれに準ずる重大な損傷が生じた場合には当たらないというべきところ、このように、交通事故によつて修理可能な車両損害が生じた場合には、その損害賠償としては、原状回復の原則に従い、通常要する修理費のほか、いわゆる評価損と修理期間中の休車損害を求め得るにすぎないものと解すべきである。

これを本件事故についてみるに、原告としては、被害車両についての通常の賠償として、休車に伴う補償のほかには、被害車両の修理費金一〇八万四三〇〇円及び評価損金四一万円(甲六号証及び証人栗本宣俊の証言によつて認める)を負担すれば足りると解されるところを、被告静雄の強い要求のもとに、十分な検討をしないまま、被告静雄の要求どおりの賠償をしなければならないものと信じた結果、前記のように、本件示談契約においては、金三六六万五七二〇円の価額の新車を提供するという債務を負担し、その引き換えとしては金一〇六万二〇〇〇円程度の価額の未修理のままの被害車両(甲五号証と証人栗本宣俊の証言によつて認める)をそのままの状態で受け取ることを合意したというのである。

以上のような金額を対比して考えると。原告は、本件事故後間もない時期において、本件事故の損害賠償として自己が負担すべき内容についての合理的な判断を誤り、その錯誤に基づいて本件示談契約を締結したと認めるのが相当であるから、右契約には、原告において法律行為の要素に錯誤があつたものというべきであり、休車補償及び前記金五〇万円の支払の点を含め、示談契約全体として、民法九五条により無効であるといわなければならない。

三  被告らの不当利得

被告静雄が原告からその使用名義を被告弘子とされている本件新車の引渡しを受けたことは前記のとおり当事者間に争いがなく、また、証拠(被告静雄本人尋問の結果(第一回)及び弁論の全趣旨)によると、被告弘子も、本件新車を被害車両の代わりに受け取つて使用していることが認められるから、結局、本件新車は、被告らが共同して使用しているものということができる。

そして、原告が本件新車購入代金三六六万五七二円を出捐して被告らに対し本件新車を引き渡したのは、本件示談契約の履行としてされたものであるから、前記のとおり右契約が錯誤によつて無効と解すべきである以上、被告らは、法律上の原因なくして、原告の出捐のもとに本件新車を利得したものということができ、さらに、前記認定の事実関係、殊に本件示談契約締結前後の事情によると、被告らは、本件新車の受領時点において、右利得が法律上の原因を欠くものであることを知つていたものと推認することができる。

ところで、本件においては、本件新車につき被告らによるこれまでの使用によつて相当程度の価格低下がみられることは推認するに難くないところであるから、現物返還ではなく価格償還によるのが相当であるというべきところ、原告は、本訴において、前記休車補償として支払ずみの金一五万円と本件新車の代金相当額金三六六万五七二〇円の合計金三八一万五七二〇円から、原告が本来負担すべきものとして自認している右休車補償金一五万円、被害車両の修理費金一〇八万四三〇〇円及び評価損金四一万円の合計金一六四万四三〇〇円を差し引いた金二一七万一四二〇円を不当利得金として請求しているものであるから、結局、原告は被告らに対し右の額の不当利得返還請求権を有するということができる。

四  被告静雄の相殺の抗弁

被告静雄は、本件事故の結果、以上のほかに、次のような損害を被つたなどとして原告に対する債権をもつて原告の本訴請求権との相殺を主張しているので、右相殺債権の存否について順次検討する。なお、これらの認定に当たつて、本件示談契約を無効と解すべき以上、右契約の内容とは切り離して別個に検討すべきものといわなければならない。

1  治療費及び慰謝料(主張額金五〇万円)

証拠(被告静雄本人尋問の結果(第一回))によると、被告静雄は、前記のとおり本件事故後二回にわたつて三和の知合いの多胡病院に通院したが、レントゲン上は異常がないと診断され、平成二年二月六日の通院を最後として治療を受けていないことが認められるところ、本件事故の結果、被告静雄がどのような傷害を受けどのような治療を受けたかなどについてはこれを確定するに足りるだけの的確な証拠は提出されていないのであるから、結局、被告静雄に傷害が生じたことを前提とする治療費及び慰謝料といつた損害の発生を認めることはできないというべきである。

2  未払の休車補償(主張額金二六万円)

原告が被告静雄に対し本件事故日から一箇月分の休車補償として一日金五〇〇〇円の割合によるレンタカー代合計金一五万円を既に支払つたことは前記のとおりであるが、このような代車使用料が認められる場合というのは、相当な修理期間について現実にレンタカー等を使用した場合に限られるものと解すべきところ、本件においては、被告静雄は、右一箇月の後から本件新車の提供を受けるまでの間についても休車補償が未払になつている旨主張し、これに沿う供述をしているが、右一五万円を上回る代車使用料を具体的に支出したことを裏付けるに足りるだけの的確な主張、立証はされていないのであるから、被告静雄にそのような損害が発生したことを認めることはできないというべきである。

3  被害車両の保管費用等の求償金(主張額金一〇万円)

被告静雄は、被害車両の保管費用及びレツカー代等として原告のために合計金一〇万円を立替払いした旨主張し、これに沿う供述をしているが、原告提出の証拠(甲一〇号証の一ないし五)に照らすと、右供述は採用できず、他にこれを認めるに足りる証拠はないから、被告静雄主張の右求償金債権の存在を認めることはできない。

4  以上によると、被告静雄の相殺の抗弁は、その他の点について判断するまでもなく、理由がない。

五  そうすると、原告の被告ら各自に対する本訴請求はすべて理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を、仮執行宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 安浪亮介)

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