神戸地方裁判所 平成3年(ワ)737号 判決 1992年9月10日
原告
甲斐原哲郎
右訴訟代理人弁護士
本田多賀雄
被告
神戸市
右代表者市長
笹山幸俊
右指定代理人
塚本伊平
外四名
主文
一 被告は原告に対し、金五〇万円及びこれに対する平成三年五月三一日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを二〇分してその一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
事実
(申立て)
一 原告
1 被告は原告に対し、金一一五〇万円及びこれに対する平成三年五月三一日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 被告
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 仮執行免脱宣言
(主張)
一 原告の請求原因
1(一) 原告(大正一〇年七月三〇日生)は、訴外甲斐原四郎(明治二七年九月六日生―以下「訴外四郎」という。)・同ヤヨイの長男である。訴外四郎は、昭和一六年に右ヤヨイが死亡した後、同一八年に訴外松永初子(明治四二年一月五日生―以下「訴外初子」という。)と再婚(夫の氏を称する旨届出)したため、原告は、右初子といわゆる継母子関係になった。
訴外四郎と訴外初子夫婦間には子はないまま、同四郎は昭和五一年に死亡した。
(二) 原告は、昭和四四年一二月五日、訴外下市良子(以下「訴外良子」という。)と婚姻(夫の氏を称する旨届出)し、昭和四五年八月二日、長女美樹(以下「訴外美樹」という。)をもうけた。
2(一) 訴外初子は、原告及び訴外良子と養子縁組をする旨合意し、昭和五四年一一月一六日、その届出書(以下「本件届出書」という。)を神戸市生田区役所(以下、後に中央区役所に変わった後も含めて「生田区役所という。)に提出した(以下「本件届出」という。)本件届出は、即時に受理された。
(二) なお、本件届出書には、原告及び訴外良子が訴外初子のいわゆる夫婦養子として縁組をなすこととする旨の記載がされていたものであって、原告のみの届出の記載(以下「単名記載」という。)ではない。また、本件届出書は、訴外初子ないし原告らに対して返戻されたこともないし、原告らは、本件届出に関して、何等の追完ないし補正を求められたこともない。
3(一) 訴外初子は、昭和六三年一〇月二一日、死亡した。
(二) 原告と訴外良子(以下「原告ら」という。)は、昭和六三年一二月頃、訴外初子が所有していた不動産につき相続登記手続をするため、原告らの戸籍謄本(昭和六三年一一月二四日付認証のもの)を取り寄せたとき、かって取得した戸籍謄本(昭和五八年三月三一日付認証のもの)の原告の身分事項欄に掲記されていた「昭和五四年一一月一六日甲斐原初子の養子となる縁組届出」との記載(以下「本件記載文言」という。)が、消除されていることに気付いた。
4 原告らの調査によれば右消除がされるに至った経緯は次のとおりである。
(一) 本件届出書は、訴外初子によって前記のとおり昭和五四年一一月一六日生田区役所に提出され、戸籍課審査係によって審査された結果、適法と認められて受理する旨決定された後、同課記載係に廻された。右記載係は、本件届出書に基づいて原告の戸籍の身分事項欄に本件記載文言を記載したが、その後何等の正当な理由もないのにその他の記載をしないまま放置した。
(二) 右戸籍課の担当職員は、昭和五九年一〇月頃、右記載が不備なことに気付いたことから、神戸地方法務局戸籍課の者と共謀のうえ、右戸籍の記載の不備を隠蔽するため、戸籍法一一条所定の理由がないにも拘らず、昭和五九年一〇月一五日、従前の戸籍を消除して新たな戸籍を違法に再製した。
5 仮に、本件届出書が単名記載であったとしても、前記のとおり本件届出は受理されたのであるから、それは夫婦養子縁組について夫婦の一方についてその意思が缺欠した場合の法理に基づいて、他方の縁組は有効として処理すべきものであった。従って、本件届出書を返戻することは理論上できないことは勿論、原告の戸籍への記載も中断すべきではなかった。
6 原告らは、神戸市当局に対して、前記のとおり消除された本件記載文言の復活並びに前記記載の不備の部分の補充のための記載を求めたが、その申出は拒否されたため、己むなく平成元年二月二一日、原告と訴外良子の両名を原告とし、訴外初子が前記のとおり既に死亡していることから被告を神戸地方検察庁検事正として、原告らと訴外初子の間に養親子関係が存在したことの確認を求める訴(神戸地方裁判所平成元年(タ)第九号養親子関係確認請求事件―以下「本件確認訴訟」という。)を提起した。同訴については、平成二年一二月二一日、原告については請求認容、訴外良子については請求棄却の判決がなされ、その頃同判決は確定した。
原告は、平成三年一月二九日、右確定判決に基づき原告につき訴外初子の縁組届出がなされた旨の戸籍訂正の申立てをした結果、その旨の訂正が了された。
7 神戸市長は、いわゆる機関委任事務として委任された人の身分関係の公証や形成に関与する重要なものである戸籍事務の事務管掌者として、これを正確、公正に執行しなければならない。これは、同事務の執行を、その指揮監督下にある補助吏員に補助させるときにも同様である。
しかるところ、本件届出にかかる原告の戸籍の記載等に関する前記一連の行為(以下「本件行為」という。)は、右補助吏員の職務執行につき、故意又は重大な過失によってなされたものであるから、被告神戸市は、国家賠償法一条一項により本件に関連して原告に生じた損害を賠償する責任がある。
8 原告は、本件に関連して左(一)ないし(三)に記載の合計金一一五〇万円の損害を被った。
(一) 訴外初子は、神戸市中央区内に少なくとも価額として約三億五千万円相当の土地建物等を所有していた。従って、仮に原告らは、訴外初子との本件養親子関係が認められないときには、右土地建物等(以下「本件遺産」という。)を相続できないこととなるため、前記のとおり本件確認訴訟を弁護士たる原告訴訟代理人に委任して提起することを余儀なくされ、そのためその着手金、報酬等の弁護士費用として、金七五〇万円を支払った。
なお、本件確認訴訟は、平成元年三月二三日に第一回口頭弁論が開催された後、平成二年九月一七日に開かれた第一一回口頭弁論期日で弁論が終結され、同年一二月二一日に判決が言い渡されたものである。また、本件確認訴訟の訴額は、非財産的請求としての身分関係の確認訴訟であるところから一九〇万円(九五万円×二)であったが、同訴訟は、実質的には本件遺産に対する原告らの相続権確認訴訟であったのであるから、それに対する弁護士報酬は、日本弁護士連合会報酬等基準規定(以下「報酬規定」という。)第一五条に規定されるとおり、又は、報酬規定第一七条二項により、報酬額の算定に当たっては依頼者の受ける利益等を考慮し得るのであるから、その実質的経済利益である訴外初子の前記遺産価額がその基準とされるべきであるので、同基準一八条によりその報酬額等は金七五〇万円を下回らない。
(二) 原告は、原告らの戸籍の前記記載不備を発見した昭和六三年一二月以来、前記戸籍訂正がなされるまでの二年間余、訴外初子の遺産相続ができないかも知れないとの不安を抱えながら日を過ごさざるを得なかったため、精神的苦痛を被った。その苦痛を慰謝するに足る金額は、金三五〇万円を下らない。
(三) 本件行為のため、原告の戸籍には「平成三年一月五日甲斐原初子との養親子関係存在確認の裁判確定同月二九日申請養子縁組事項記載」等との余分な記載がなされた上で、原告と訴外良子の夫婦は同戸籍から除籍され、新戸籍が編製された。そのため右旧戸籍に残った長女の訴外美樹は、改めて原告の戸籍への入籍手続が必要となり、同人の戸籍欄には「平成三年一月二九日父母の氏を称する入籍届出甲斐原哲郎戸籍から入籍」等の余分な記載がなされた。
このような原告の戸籍に関する通常はない記載の存在は、いわゆる「戸籍の汚れ」と言わざるを得ないもので、それによって原告は精神的苦痛を被った。右苦痛を慰謝するに足る金額は金五〇万円を下らない。
なお、平成二年一〇月五日付の法務省民事局長通達がなされる以前は、養子夫婦について新戸籍を編制することなく、現戸籍に縁組事項等を記載する取扱がなされていたものであるから、原告につき新戸籍を編制するという被告の右処置は不当なものである。
二 被告の請求原因に対する認否並びに反論
(認否)
1 請求原因1の(一)(二)、同3の(一)、同6記載の各事実は認める。
同2の(一)記載の事実のうち、本件届出書が訴外初子によって昭和五四年一一月一六日、生田区役所に提出されたこと、同区役所の戸籍審査担当者がこれを受付けたことは認めるが、その余の事実は不知ないし否認。同2の(二)記載の事実は否認する。
2 同3の(二)記載の事実のうち、原告らの昭和五八年三月三一日付認証の戸籍謄本には本件記載文言が存したが、昭和六三年一一月二四日付認証の同戸籍謄本では本件記載文言が消除されていたことは認めるが、その余の事実は不知。
同4の(一)記載の事実のうち、本件届出書は受付けられた後、戸籍課記載係によって原告の戸籍簿の身分事項欄に本件記載文言が記載されたところでその他の記載をしない状態で中断されたことは認めるが、その余の事実は否認し、その主張は争う。
3 同4の(二)記載の事実のうち、戸籍課の担当職員が、昭和五九年一〇月一五日、戸籍法一一条に基づいて原告の戸籍を新たに再製したことは認めるが、その余の事実は否認する。同5記載の主張は争う。
4 同7記載の事実のうち、神戸市長は、いわゆる機関委任事務として委任された、人の身分関係の公証や形成に関与する重要なものである戸籍事務の事務管掌者として、これを正確、公正に執行しなければならず、同事務の執行を、その指揮監督下にある補助吏員に補助させるときにも同様であることは認めるが、その余の事実は否認しその主張は争う。
5 同8の(一)記載の事実のうち、原告らが本件確認訴訟を弁護士たる原告訴訟代理人に委任して提起したこと、同訴訟及びその提起後の経緯並びにその訴額等は認めるが、その余の事実は不知、またその主張は争う。
6 同8の(二)記載の事実は否認し、その主張は争う。
同8の(三)記載の事実のうち、原告の戸籍には「平成三年一月五日甲斐原初子との養親子関係存在確認の裁判確定同月二九日申請養子縁組事項記載」の記載がなされたこと、その上で原告ら夫婦は除籍されて新戸籍が編製されたこと、右旧戸籍に残った長女の訴外美樹については、改めて原告の戸籍への入籍手続がとられたことから、同人の戸籍欄には「平成三年一月二九日父母の氏を称する入籍届出甲斐原哲郎戸籍から入籍」との記載がなされたことは認めるが、その余の事実は否認し、その主張は争う。
(反論)
1 本件の事実経過は、次のとおりである。
(一) 昭和六二年法一〇一号による改正以前の民法七九五条(以下「旧規定」という。)は、「配偶者のある者は、その配偶者とともにしなければ、縁組をすることができない。」と定めていた。しかるところ、本件届出においては、訴外初子は、原告が配偶者を有していたにも拘らずこれを単独でその養子とする旨の前記単名届出書を提出した。
(二) 生田区役所の戸籍審査担当者は右届出を過って受付け、これを戸籍記載担当者に廻したので同担当者は戸籍への記載に取りかかったが、本件記載文言の記載を了した時点で本件届出は夫婦養子の要件に不備があることに気付いた。そのため、その受理を保留することにしてその後の記載を中止した。そして記載済みの部分についてはそのままにして補正を求めることとし、その結果によって右記載部分の抹消ないしは訂正、又はその記載の完了をすることにした。
そこで、右戸籍審査担当者は、本件届出人である訴外初子に対して昭和五四年一一月一六日頃電話で来庁を促したが、同訴外人はこれに応ぜず、また、その後文書で数回来庁ないし補正を求めたが、その目的を果たせなかった。
(三) 右担当者は、昭和五五年八月頃、本件届出は要件不備のため受理できないものとして、本件届出書を訴外初子に対して郵送で返戻した。
2 従って、右のとおり本件届出に関しては、戸籍の記載を脱漏したものではないし、また、長期間未処理のまま放置していたものでもない。
即ち、被告において、本件届出につき前記のとおりの届出書の返戻処置をとり、また、原告らからの戸籍の記籍に脱漏等が存する旨の申出後その記載要求に応じなかったのは、被告側の判断によれば、本件届出は本来受理すべきものではない不備なもので戸籍への記載も完了しない状態にあったのであるから、受理があったものとすることには疑問が存したことと、仮に本件届出が既に受理された状態にあったとしても、行政実例では「夫婦養子においては、当初から夫婦の一方の届出を欠如する縁組は、届出の存する夫婦の一方の縁組についても無効である。」旨解釈(昭和二六年七月二三日民事甲第一四九七号法務省民事局長回答、昭和五三年一月二三日民二第四九七号法務省民事局第二課長回答等)されていたため、それは無効なものであると解していたからである。そこで、前記のとおり中止した戸籍への記載の完成を本件確認訴訟の確定に至るまでしなかったものであって、その処置につき違法はない。仮に然らざるとしても、右処置は己むを得ないものであって、それにつき故意又は過失は存しない。
なお、原告は、最高裁判所昭和四八年四月一二日言渡の判決(民集二七巻三号五〇〇頁)(以下「本件引用判決」という。)を引用して、「旧規定は、届出の受理要件を定めたに過ぎないので、夫婦養子の原則に違反する届出も受理されてしまえば、夫婦の一方については縁組は有効に成立すると解すべきである。従って、仮に本件届出が単名届出であったとしてもその受理があった本件においては、訴外初子と原告との間の養子縁組は有効に成立したものとして処理されなければならなかったものである。」旨主張するが、右引用にかかる判例は、形式上は有効な縁組届出が存したものの夫婦の一方に実体的に縁組意思が欠缺した事案に関するものであり、またその判旨も「夫婦養子の規定に反する縁組は縁組意思のある他方の配偶者についても原則として無効であるが、その他方と相手方との間に単独でも親子関係を成立させる意思があり、かつ、そのことが一方の配偶者の意思に反せず、また、その利益を害するものでもなく、養親の家庭の平和を乱さず、養子の福祉をも害する虞がないなど夫婦養子制度の趣旨にもとるものではないと認められる特段の事情が存する場合には、縁組の意思を欠く当事者の縁組のみを無効とし、他方の縁組は有効に成立したものと認めることを妨げない。」とするもので、例外的に特段の事情がある場合に限り、縁組意思のある他方配偶者に有効な縁組の成立を認めるものである。しかるところ、前記補正の求めに応じなかった訴外初子の態度等からすると、右特段の事情の存在は認められないものと解されるので、同判例の趣旨を本件には直ちに適用し得るものではないと判断されたものであるから、原告の右主張は採用されるべきではない。
3 本件届出は、単名届出であって受理すべきものでなかったことは、次の事由等から明らかである。
(一) 本件届出に基づく原告を筆頭者とする再製原戸籍(昭和五四年一一月一六日当時の戸籍)等への記載が不完全であること。即ち、
同戸籍には、夫婦養子の場合には原告の身分事項欄には、「昭和五四年一一月一六日妻とともに訴外初子の養子となる縁組届出」と記載されるべきところ、前記のとおり同戸籍については「妻と共に」との文言を欠く、「昭和五四年一一月一六日甲斐原初子の養子となる縁組届出」との本件記載文言のみが記載されているのみである。また、養子縁組の必要的記載とされている養母の本籍の表示及び養母欄の各記載が存しないばかりでなく、本件記載文言の末尾に為されるべき戸籍事務管掌者の認印がないこと。
また、夫婦養子の場合に原告の妻である訴外良子の身分事項欄にも記載されるべき、養子縁組事項及び養母欄の記載が為されていないこと。
(二) 訴外初子の戸籍にも原告並びに訴外良子との養子縁組を窺わせる記載は何等存しないこと。
(三) 市町村長は、戸籍に関する届出を受理した場合には、戸籍受付帳に本籍人である者と本籍人でない者に分けて記載(戸籍法施行規則二一条)しなければならないが、本件届出は戸籍受付帳に記載されていないこと。即ち、戸籍関係の届出を受理した場合には、戸籍受付帳への記載を遺漏することはあり得ない。このことは本件届出がなされた当日には別件の養子縁組の届出が同受付帳に記載されていることからも明らかである。
(四) 本件届出書が保管されていないこと。
戸籍に関する届出書は、それに基づく戸籍の記載が了された後、一ヶ月分がまとめられて監督法務局へ送付され、その後二七年間保存されるのが原則であるが、本件届出書は、送付・保管された形跡がない。
このことからも本件届出書は前記のとおり届出人である訴外初子に返戻されたことが推測される。
4 本件確認訴訟の確定判決に基づく原告の戸籍訂正の申立によって、原告の戸籍の身分欄等には本件養子縁組の記載がなされた後、平成二年一〇月五日付の法務省民事局長通達(以下「本件通達」という。)に基づいて、原告及び訴外良子の夫婦については新戸籍が編制された。そのため縁組前の戸籍に在籍した長女の訴外美樹については、同人の意思により、父母の氏を称してその戸籍に入籍するために戸籍法九八条に基づくその入籍届手続がとられた。
なお、右通達以前には、原告のように自己の氏を称する婚姻をした者が氏を同じくする父のいわゆる後妻と縁組をしたような場合には、養子夫婦について新戸籍を編制することなく現戸籍に縁組事項等を記載するという取扱がなされることもあったが、その取扱は実務手続上の簡略化した便宜的なものとしてなされていたものに過ぎなかったもので、本件通達は、戸籍法の原則(戸籍法二〇条、一八条三項)に正しく従うように指示するものであるから、同通達に従った右取扱は正当なものである。
5 本件確認訴訟は、訴外初子の遺産自体に係る訴訟ではなく養親子関係の存在確認についてのものであるから、その訴訟の目的の価額は、財産上の請求でない請求に係る訴として、民事訴訟費用等に関する法律四条二項により九五万円と看做されるものであるから、原告主張の弁護士費用のうち右遺産に係る部分については本件と相当因果関係にない。また、それと同様に本件遺産承継に関する原告の慰謝料請求も相当因果関係はないことは明らかである。
6 仮に、本件に関して被告に何等かの責任が認められるとしても、本件は訴外初子が不適法な本件届出をしたうえ、戸籍担当者の補正要求にも応じなかったことに起因するものであることに加え、また、訴外初子は本件届出当時一人住いであるばかりでなく、病気のために入退院を繰り返すような状態にあったのを原告も充分知悉していたのであるから、原告においても本件養子縁組の成立を確認すべきであったのにこれを怠ったことにも本件の一因がある。また、少なくとも原告が昭和五八年三月三一日付認証の戸籍謄本を取得したときに、本件届出に基づく養子縁組の戸籍記載の異常に気付くべきであったのであり、そうすれば不測の事態は未然に防止できたものであるから、これらの事実は本件において過失相殺の事情として考慮されるべきである。
(証拠)<省略>
理由
一請求原因1の(一)(二)に記載のとおり、原告は、訴外甲斐原四郎・同ヤヨイの長男であるが、訴外四郎が、右ヤヨイ死亡後訴外初子と再婚したため、同初子と継母子関係になったこと、訴外四郎と訴外初子夫婦間には子はないまま、同四郎は昭和五一年に死亡したこと、原告は、訴外良子と婚姻し、その間に長女訴外美樹をもうけたこと、訴外初子は昭和六三年一〇月二一日に死亡したことは当事者間に争いがない。
二また、本件届出書が訴外初子によって昭和五四年一一月一六日生田区役所に提出されたこと、同区役所の戸籍審査担当係は、同届出書を受付けてこれを戸籍記載係に廻したこと、同記載係は、原告の戸籍の身分事項欄に本件記載文言のみを記載した後、その他の事項の記載を中止したこと、原告が取得した昭和五八年三月三一日付認証の原告の戸籍謄本の身分事項欄には本件記載文言が存したこと、生田区役所の戸籍課の担当職員は、昭和五九年一〇月一五日、本件記載文言の存した原告の戸籍を閉鎖し、同文言の存しない原告の戸籍を戸籍法一一条に基づいて新たに再製したこと、従って、原告が取得した昭和六三年一一月二四日付認証の原告の戸籍謄本には同文言が存在しなかったこと、原告らは神戸市当局に対して、前記のとおり消除された本件記載文言の復活並びに前記記載の不備の部分の補充のための記載を求めたが、その申出は拒否されたため、平成元年二月二一日、原告と訴外良子の両名を原告とし、訴外初子が前記のとおり既に死亡していることから被告を神戸地方検察庁検事正として、原告らと訴外初子の間に養親子関係が存在したことの確認を求める本件確認訴訟を提起したこと、同訴訟については、平成二年一二月二一日、原告については請求認容、訴外良子については請求棄却の判決がなされ、その頃同判決は確定したこと、原告は、右確定判決に基づき、平成三年一月二九日、原告につき訴外初子の縁組届出がなされた旨の戸籍訂正の申立てをした結果、原告の戸籍には「平成三年一月五日甲斐原初子との養親子関係存在確認の裁判確定同月二九日申請養子縁組事項記載」との記載がなされてその訂正が了されたこと、その上で原告と訴外良子の夫婦は同戸籍から除籍され、新戸籍が編製されたこと、原告の右旧戸籍に残った長女の訴外美樹は、改めて原告の新戸籍への入籍手続がとられたことから、同人の戸籍欄には「平成三年一月二九日父母の氏を称する入籍届出甲斐原哲郎戸籍から入籍」との記載がされて同戸籍に入籍されたこと、なお、平成二年一〇月五日付の法務省民事局長通達がなされる以前には、養子夫婦について新戸籍を編制することなく、現戸籍に縁組事項等を記載する取扱もなされていたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
そして、<書証番号略>、原告本人尋問の結果の一部、並びに弁論の全趣旨によれば、継親子関係にあった訴外初子と原告は、昭和五四年一一月頃、養子縁組をすることに決めたが、その届出書の作成並びにその届出は訴外初子においてすることとされたこと、但し、養子縁組の要件を定めた昭和六二年法一〇一号による改正以前の民法七九五条(旧規定)は、「配偶者のある者は、その配偶者とともにしなければ、縁組をすることができない。」と規定されていたのであるから、訴外初子が配偶者を有する原告を養子とするときにはその妻の訴外良子とともにしなければならなかったのであるが、訴外初子並びに原告らは、本件養子縁組の目的が訴外初子の遺産を原告に相続させることにあったのと、原告を養子とするときには、いわゆる嫁である訴外良子も当然に原告と同様の立場に事実上立つものと考えていたことから、訴外初子は、原告のみをその養子とする旨の本件届出書を作成し、前記のとおり、昭和五四年一一月一六日、生田区役所に提出したこと、その届出を受けた戸籍審査係は、原告の戸籍謄本等のその添付書類と共に本件届出書の審査をしたが、届出の添付書類である戸籍謄本から判断される原告の婚姻の事実を看過したため、単名記載であって受理すべきでない本件届出書を誤って受理したこと、そして前記のとおりこれを直ちに戸籍課記載係に廻してその記載にかかったが、原告の身分欄に本件記載文言を記載した段階で原告には配偶者である訴外良子が存するので本件届出は受理できないことが発見されたこと、そのため戸籍係としては原告の戸籍への記載をその段階で中止し(記載途中であることを示すために紙を挾み込む等した。)、本件届出については受理簿に記載前であったことからこれを受理前の届出で保留中のものとして取り扱うこととし、本件届出の補正の説明等のために受付けの際に電話番号を控えてあった届出人である訴外初子方へ架電して同訴外人の来庁を求め、さらにその後数度にわたって郵便で同訴外人の来庁及びその補正を求めたが、その目的を遂げなかったこと(但し、右来庁ないし補正の求めが、一人暮しで病身のため入退院を繰り返していた訴外初子本人に現実には何時どの様に伝達されたのかは明らかでない。)、このような状態の下で日を過ごしているうちに昭和五八年三月三一日には、原告らからの請求を受けた戸籍課の係員は、原告の戸籍は前記のとおり本件記載文言のみの不完全な記載状態であることに気付かず、そのままの状態の戸籍謄本を交付してしまったこと、右謄本の交付を受けた原告においては、その養子縁組の記載が養親欄の記載を欠くなど不備であることに気付かなかったこと、但し、訴外良子においては、その身分欄に本件縁組の記載は存しなかったことにつき何等異議を申し述べることはなかったこと、その後、生田区役所においても何時までも原告の戸籍を不完全なままにしておけないことから、昭和五五年夏頃、本件届出書を届出人である訴外初子に返戻することとし、これを同訴外人宛に郵送したこと(但し、同郵便が訴外初子本人によって現実に受領されたか否かは明らかでない。)、また、原告の戸籍については、砂消しゴム様のもので本件記載文言の消去を図るという不正規な方法で同文言の消除を試みたが旨くいかなかったため、本件記載文言部分の上に紙を貼付してこれを消去したことにしたこと、そして、前記のとおり昭和五九年一〇月一五日、原告の戸籍の前記のとおりの不正規な抹消状態を解消するために、神戸地方法務局から同戸籍については滅失の虞があることを理由とする許可を受けてこれを再製したこと、従って、その後の原告の戸籍からは本件記載文言が存在した形跡は全く失われることとなったこと、その後、原告は、昭和六三年一一月二四日に訴外初子の遺産相続手続の必要から再製戸籍の謄本を取得したことから、本件記載文言が消去されたことを知ったこと、そこで原告は区役所に対して原告及び訴外良子につき本件養子縁組の記載をなすよう要求したが、これを拒絶されたため己むを得ず本件確認訴訟を提起するに至ったものであること、以上の事実を認定ないし推認することができ、他にこれを左右するに足る証拠は存しない。
三1 なお、原告は、「本件届出書には、原告及び訴外良子が訴外初子のいわゆる夫婦養子として縁組をなすこととする旨の記載がされていたものであって、原告のみの届出の記載(単名記載)ではない。また、本件届出書は、訴外初子ないし原告らに対して返戻されたこともないし、原告らは、本件届出に関して、何等の追完ないし補正を求められたこともない。」旨主張しているが、<書証番号略>によれば、養子縁組の届出書自体からは、その書式からしてその受付時の審査において、夫婦養子の要件の記載漏れを看過すことはあり得ないこと、他方、本件養子縁組の実体的要件審査については、原告は前妻重子と離婚していたためその戸籍の記載から妻は存しないものと錯誤し、同戸籍上の妻良子の記載欄を見過ごす可能性はあり得るものと推認することができること、また、被告の反論3の(一)(二)に記載のとおり、本件届出が夫婦養子の要件を満たしていたとするときには、本件記載文言を含めて原告の戸籍への記載が不合理に不完全であることが認められるのであるから、本件届出はいわゆる単名届出であったものとであると認めることができるもので、この点に関する疑問は存しない。
さらに被告の反論3の(四)に記載のとおり、本件届出書はその届出日からすると未だ保存期間にあるにもかかわらず、生田区役所並びに管轄地方法務局では保管されていないことが認められ、また、本件届出は前記のとおり、夫婦養子の届出としては不備なものであったので生田区役所の戸籍係は、単名での養子縁組の戸籍への記載の途中でその不備に気付いてその記載を中止したことは前記のとおりであるから、その後の一連の処理として訴外初子にその補正を求めた後、最終的にはこれを同訴外人に返戻したと推認されるとする、証人小林憲司の証人調書である<書証番号略>は、事務処理の合理的流れからの推認に基づくものとして、十分措信できる。
2 他方、被告は、「本件届出は未だ受理されていなかった。そのことは、被告の反論3の(三)に記載のとおり、市町村においては戸籍に関する届出を受理した場合は戸籍受付帳に記載を義務付けられていて、その記載を遺漏することはないところ、本件届出は同受付帳に記載がないことからも明らかである。」旨主張するところ、戸籍受付帳である前掲<書証番号略>には本件届出の記載は存しないことは認められるが、<書証番号略>並びに弁論の全趣旨によれば、生田区役所における本件届出当時に執られていた事務処理の要領は、別紙図面に記載のとおりの手順で行われていたもので、それによれば、届出はこれを受付けた後、戸籍審査係が審査して適法と認めたときはこれを受理し、すぐにそれを戸籍記載係に廻してその記載等を了し、翌日、各種届出を整理後に改めて受付帳に、その届出のあった旨の記載をしていたことが認められるのであるから、右受付帳にその記載が存しない場合にも、本件届出が受理されたことを認定することを妨げないものである。
四神戸市長は、いわゆる機関委任事務として委任された人の身分関係の公証や形成に関与する重要なものである戸籍事務の事務管掌者として、これを正確、公正に執行しなければならず、同事務の執行をその指揮監督下にある補助吏員に補助させるときにも同様であること、民法八〇〇条は「縁組の届出は、その縁組が第七九二条乃至前条の規定その他の法令に違反しないことを認めた後でなければ、これを受理することができない。」と定められていることは明らかである。
そして、<書証番号略>並びに弁論の全趣旨によれば、被告主張のとおり、行政実例では「夫婦養子においては、当初から夫婦の一方の届出を欠如する縁組は、届出の存する夫婦の一方の縁組についても無効である。」旨の解釈(昭和二六年七月二三日民事甲第一四九七号法務省民事局長回答、昭和五三年一月二三日民二第四九七号法務省民事局第二課長回答等)がされていたこと、また、本件引用判決の判旨も「夫婦養子の要件に違反する届出は、民法七九五条本文の趣旨にもとるものではないと認められる特段の事情が存したときにのみ、他方の配偶者と相手方との間の縁組は有効である。」というものであるから、判例の立場は旧規定を単なる受理要件とするものではなく、これを夫婦の片方につき有効と解するについては特段の事情段を要するとしたものであることが認められる。
これらのことを前提に、前判示の事実関係を検討すると、本件届出は旧規定に違反するものであったのであるから、民法八〇〇条により受理すべきでなかったものであるから、受理後であっても手続を中断してその義務は存しないものの、その補正を求めたことは窓口担当者の実務上の処理として相当であったことは明らかであるが、本件が養子縁組という国民の身分関係に重大な変更をもたらすものであることを考慮すれば、右手続の中断によってその届出の効力につき、これを実体的意味でも形式的意味においても、未確定ないし不明確な状態におくことはできるだけ短期間にせねばならない執務上の義務が存したことも明らかである。
しかるところ、生田区役所においては、本件届出を受理した昭和五四年一一月一六日から昭和五九年一〇月一五日に結果的には本件届出はなかったものとして原告の戸籍から本件記載文言を事実上削除したうえで、原告の戸籍を再製するまでの長期間、訴外初子によるその補正が容易にできるものと誤信し、また、その後の処置を取ることを失念ないし懈怠したことにより、右戸籍の状態を前記不明確な状態のままに置いて、戸籍官吏としての前記執務義務に違反した。そのため右の期間内に、原告に対して昭和五八年三月三一日右不明確な状態のままの戸籍の謄本を交付し、原告に対して本件届出は何等の問題もなく効力を発生させたものとの誤解を与えた。(なお、右交付された戸籍謄本における養子縁組の記載自体は不備なものであったが、国民の戸籍制度ないし市町村の吏員の発行する戸籍謄本に対する信頼性からすれば、原告の右誤信は己むを得ないものと判断される。)
そしてさらに、生田区役所の戸籍係においては、本件届出は未だ受理されていないとの見解の下に本件届出書を事実上訴外初子に返戻しているが、本件届出は受理されていたものであることは前記のとおりであるから、同係は、訴外初子に対する補正要求を断念したときに、単名届出であった本件届出の効力については、これを前記行政解釈等に従って無効であると解したときは、本件届出を過って受理したことを理由とする却下処分にして(少なくとも、当事者に戸籍法一一八条所定の不服申立てがなしうる不受理等の処分にして)、訴外初子及び原告らその届出当事者に同処分を争わせる機会を与え、ないしは、再度適法な届出をする機会を与えるべきであったのにこれを怠ったため、訴外初子の死後、前記のとおり本件届出は事実上なかったことにされていたことを知った原告においては、本件確認訴訟を提起せざるを得なかったものと判断せざるを得ない。
戸籍係の右義務の懈怠は、本件届出は受理されていたにも拘らず、過失によりこれが無いものと解しうるとしたことに起因したものであると判断するのが相当であるので、被告は、右戸籍係の措置と相当因果関係にある原告の損害について賠償する責任がある。
なお、生田区役所においては、旧規定は縁組の受理要件のみを定めたものと解したうえ、本件届出は既に受理されたことを前提として、これを原告と訴外初子との間の養子縁組としては有効なものとして認め、早期に前記中止した記載を完成させる処置をとることはしなかったが、前記行政解釈並びに特段の事情は明らかでない本件においては、本件引用判例の判旨(本件においては特段の事情の存否は、生田区役所にとっては明らかでなかったことは明白である。)に従って、これを無効と解したこと自体については許容されるところであるので、そのことについては過失等は存しない。
また、原告は、原告の本件確認訴訟に基づく戸籍訂正の申立てによってなされた原告の戸籍の訂正方法及びその後に原告夫婦を同戸籍から除籍して新戸籍を編制する等した戸籍係の措置等も違法ないし著しく不当である旨主張するが、右戸籍訂正及びその後の手続は前記争いのない事実として記載したとおりであるところ、同手続は戸籍法等に則っておこなわれた適法なものと認められるので、右原告の主張は採用できない。
五原告らは本件確認訴訟を弁護士たる原告訴訟代理人に委任して提起したこと、同訴訟は、平成元年三月二三日に第一回口頭弁論が開催され後、平成二年九月一七日に開かれた第一一回口頭弁論期日で弁論が終結され、同年一二月二一日に判決が言い渡されたこと、同訴訟の訴額は、非財産的請求としての身分関係の確認訴訟であるところから一九〇万円(九五万円×二)であったことは当事者間に争いがなく、また、<書証番号略>並びに弁論の全趣旨によれば、原告は、右訴訟代理人に対し、原告及び訴外良子と訴外初子の各間の養親子関係確認請求訴訟の着手金、報酬等の弁護士費用として金七五〇万円の支払をしたこと、その弁護士費用の算定に当たっては、本件養子縁組を前提として原告らが相続することとなる訴外初子の遺産の価額がその弁護士費用算定の根拠とされたことは認められるが、養子縁組は、その結果養子が養親の遺産を相続することもあるものの、その制度の趣旨からして遺産相続を目的とするものではないのであるから、遺産相続はあくまでもその結果に過ぎないものといわなければならない。
従って、本件においても被告の前記行為と相当因果関係を有する原告の財産的損害としては、前記のとおり非財産的請求であることから訴額が九五万円とされる原告と訴外初子との間の本件確認訴訟自体の追行に出捐された費用のうち、必要にしてかつ十分な額に限られるものと解されるのが相当であるところ、右争いのない事実に<書証番号略>並びに弁論の全趣旨から認められる本件確認請求事件における主張立証の難易性等を勘案するときには、原告が弁護士費用として出捐した前認定にかかる金額の内、金五〇万円をその相当因果関係にあるものと認めるのが相当である。
なお、原告は、「本件により訴外初子の遺産相続ができないかも知れないとの不安を抱えながら日を過ごさざるをえなかったため、それによって精神的苦痛を被った。」旨主張しているが、<書証番号略>原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、原告は、右遺産相続を果たしていることは明らかであって、また、本件が原告側が法令に違反する縁組届出をその根本原因として生じたものであること等を勘案するときには、右原告の精神的苦痛は右遺産相続の結果慰謝されているものと認めるのが相当である。
また、原告は「戸籍の汚れ」と称する主張をしてそれに起因する精神的損害を主張しているが、前記のとおりその主張にかかる戸籍の記載には何等違法不当な点は存しないことは前記のとおりであるところ、原告の主張する「戸籍の汚れ」なる観念はそれ自体を認めることはできないものであるので、右主張は主張自体失当である。
六以上によれば、原告の本件請求のうち金五〇万円の支払を求める部分は理由があるので認容することとするが、その余の請求部分は理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については、民事訴訟法八九条、九二条本文に従って、主文のとおり判決する。なお、仮執行宣言については、事案の性質上相当でないのでこれを付さないこととする。
(裁判官廣田民生)
別添一戸籍届出事件処理工程図
(昭和五十四年当時)<省略>