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神戸地方裁判所 平成4年(わ)251号 判決 1998年3月24日

主文

被告人は無罪。

理由

第一  公訴事実

被告人は、社会福祉法人甲山福祉センターが経営する精神遅滞児施設である兵庫県西宮市<番地省略>所在の甲山学園の保母として昭和四七年四月から勤務しているものであるが、同学園青葉寮に収容しているX(当時一二歳)を殺害する目的をもって、昭和四九年三月一九日午後八時ころ、同児を同学園青葉寮から連れ出したうえ、同学園内の北部にある水深約一・五メートルの汚水浄化槽内に投げ込み、よってそのころ用槽内で同児を汚水吸引により溺死させて殺害したものである。

第二  本件訴訟の経緯及び控訴審判決の拘束力

(本件で取り調べた主な証拠は別紙「証拠一覧表」のとおりであり、以下はこれらのうち関係する各証拠を総合して判断したものである。なお、以下においては、必要に応じ具体的に証拠を挙示する場合があるが、その際には請求番号あるいは略称欄の記載によって表示する)

一  本件訴訟の経緯

1  昭和四九年三月一七日、甲山学園青葉寮収容児童のY子(昭和三七年二月二八日生、当時一二歳、以下「Y子」という)が行方不明になり、警察官、職員らによる捜索が行われていたが、その二日後の三月一九日(以下において年の記載のないものについてはことわりのない限り昭和四九年である)、同寮収容児童のX(昭和三六年九月二三日生、当時一二歳、以下「X」という)が行方不明になり、同日午後九時三〇分ころ、職員により、同寮北側裏の汚水浄化槽(以下「浄化槽」という)の中から両名の死体が発見された。

2  兵庫県警察本部(以下「県警本部」という)は、翌三月二〇日西宮警察署(以下「西宮署」という)に捜査本部を置いて捜査を開始し、その結果、四月七日甲山学園の保母である被告人をX殺害の被疑事実で逮捕した。

3  神戸地方検察庁尼崎支部は、勾留期間の満了する四月二八日、処分保留のまま被告人の身柄を釈放したが、捜査は継続して行っていた。

4  被告人釈放後の七月三〇日、被告人と青葉寮指導員乙谷二夫及び同乙島五男が、被告人を逮捕、勾留して捜査したことが違法であり肉体的、精神的な苦痛をこうむったなどとして国及び兵庫県を被告として国家賠償請求訴訟を神戸地方裁判所尼崎支部に提起し(以下右訴訟を「国賠訴訟」という)、右訴訟は一一月二二日を第一回口頭弁論期日として審理が始まった。

5  神戸地方検察庁尼崎支部は、昭和五〇年九月二三日、前記被疑事実を合理的な疑いを容れない程度までに証明し得ると認むべき証拠は乏しいとして、被告人を嫌疑不十分を理由とする不起訴処分に付した。(おおむねこれまでの捜査を「第一次捜査」という)

6  その後、神戸検察審査会は、Xの両親の申立てを契機に昭和五〇年一〇月職権により立件したうえ、右不起訴処分の当否について審査を遂げ、昭和五一年一〇月二八日右不起訴処分は不当であるとの議決を行い、同年一二月一〇日に議決書の送付を受けた神戸地方検察庁は、再捜査を開始した。

7  その間、右国賠訴訟において、甲山学園の園長であった乙山春夫(以下「乙山」という)が昭和五〇年一二月一九日(第八回口頭弁論期日)、昭和五一年一月一六日(第九回口頭弁論期日)及び同年二月二〇日(第一〇回口頭弁論期日)に、若葉寮指導員であった戊田花子(以下「戊田」という)が同年一〇月一五日(第一五回口頭弁論期日)及び同年一一月一九日(第一六回口頭弁論期日)に、それぞれ証人として、宣誓のうえ証言した。

8  神戸地方検察庁は、捜査の結果、昭和五三年二月二七日被告人をX殺害の本件被疑事実で再逮捕すると同時に、乙山及び戊田を右国賠訴訟における偽証の被疑事実でそれぞれ逮捕し、同年三月九日被告人を本件殺人罪で、同月一九日乙山及び戊田を各偽証罪で神戸地方裁判所に起訴した。

(第一次捜査後おおむねこれまでの捜査を「第二次捜査」という)

9  そして、本件殺人被告事件については、昭和六〇年一〇月一七日神戸地方裁判所(以下「一審」という)で無罪の判決が言い渡され、検察官の控訴申立てにより大阪高等裁判所(以下「本件控訴審」という)で審理され、平成二年三月二三日「原判決を破棄する。本件を神戸地方裁判所に差し戻す」との判決が言い渡され、被告人及び弁護人の各上告申立てにより最高裁判所で審理され、平成四年四月七日上告棄却決定がなされ、右控訴審判決が確定した。

なお、右各偽証被告事件については、昭和六二年一一月一七日神戸地方裁判所でいずれも無罪の判決が言い渡され、検察官の控訴申立てにより大阪高等裁判所で審理され、平成五年一月二二日「原判決を破棄する。本件を神戸地方裁判所に差し戻す」との判決が言い渡され、右控訴審判決は確定した。

二  本件控訴審判決が当審を拘束する事実判断の内容

1  本件控訴審判決の結論的部分

(一) 本件控訴審判決は、一審判決を破棄して本件を当審に差し戻したものであるが、その理由中の結論部分の判示は、「以上検討してきたように、原判決が、園児供述に関しては、これら園児に対する口止め等の罪証隠滅工作の有無とその初期供述した時の取調状況等について、自白に関しては、アリバイ及びアリバイ工作の有無について、また、繊維鑑定に関しては、本件犯行時以外に付着の原因があったか否かの点等につき、各検察官請求の証拠を取調べしないでそれらの事実を考慮することなく、それら証拠の信用性を否定し、あるいは、本件との結び付きを否定したのは、取調べるべき証拠を取調べなかった結果各証拠の評価とその事実判断を誤ったもので、原判決には、少なくともこの点において審理不尽があり、その結果、当然これらの証拠により認めるべき事実の認定をしない誤りをおかし、被告人と犯行を結び付けるその他問題となる事実に対する検討を加えないで、被告人と公訴事実とを結び付ける立証が不十分としたことは、そのこと自体判決に影響を及ぼすこと明らかであり、原判決は到底破棄を免れない。論旨は理由がある。よって、刑訴法三九七条一項、三七九条、三八二条により原判決を破棄し、本件につきさらに前記の各点等につき審理を尽くさせるため、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である神戸地方裁判所に差し戻す」というものである。

(二) このように、本件控訴審判決は、破棄の根拠条文として刑訴法三九七条一項、三七九条、三八二条をあげており、<1>審理不尽を理由とする同法三七九条の訴訟手続きの法令違反と<2>同法三八二条の事実誤認を破棄の根拠としている。そこで、当審においては、右<1>の審理不尽の判断に基づいて各種証拠調べを行ったのであるが、右<2>のとおり本件控訴審判決が一審判決に事実誤認があることをも理由としているのであるから、この点において、当審ではどのような事実判断について本件控訴審の判断に拘束されるのかを明らかにしておく必要がある。

2  破棄判決の拘束力

(一) 破棄判決の拘束力は、「破棄の直接の理由、すなわち原判決に対する消極的、否定的判断について生ずる」ものであり、その判断を裏付ける積極的、肯定的判断については生じないと解すべきであるところ、これを、本件控訴審判決の判示に従って具体的に当てはめてみる。

右にいう「破棄の直接の理由となった判断」というのは、端的には要証事実に関する結論的事実認定についての判断をいうのであり、それは、本件控訴審判決でいえば一審判決の「被告人と公訴事実とを結び付ける立証が不十分としたこと」が誤りであるとの判示部分にあたると考えられる。しかしながら、破棄判決の拘束力が認められる実質的理由であるところの「限りない下級審と上級審間の事件の往復を遮断する」という点にも鑑みれば、右「破棄の直接の理由となった判断」というのは、それだけにとどまらず、右の要証事実に関する結論的事実認定の判断と直結する特定の点についての事実判断やその判断に必要な特定の証拠の証明力に関する判断をも含み、それらの判断にも破棄判決の拘束力が及ぶと解すべきである。そして、それは、本件控訴審判決に即していえば、一審判決の「園児供述の信用性を否定した判断」、「被告人の自白の信用性を否定した判断」、「繊維鑑定結果そのものが犯行を裏付けるものとは解されないとした判断」をいずれも誤りであるとした判示部分にあたると考えられる。

したがって、当審としては、本件控訴審判決時と同一の証拠関係にある限り、一審判決のような「園児供述の信用性を否定する判断」、「被告人の自白の信用性を否定する判断」、「繊維鑑定結果そのものが犯行を裏付けるものとは解されないとする判断」はできないことになり、この点において本件控訴審判決に拘束されているといえる。

(二) なお、検察官は、「控訴審判決が、園児供述の信用性に関してはA子及びBの供述の信用性について『事件の核心的部分に関する供述は信用できるとみるべきである』旨、被告人の自白の信用性に関しては『被告人の自由な意思が残され供述したもので虚偽のものとは考えられず、信用性を否定することは相当でない』旨判示して、原審の判断を否定していることが明らかであるから、少なくとも、これらの控訴審の判断(積極的、肯定的判断)が破棄の直接の理由たる判断として拘束力が生じることになる」旨主張する。

しかしながら、前記のように、本来拘束力が及ぶのは、要証事実に関する結論的事実認定についての判断であり、それは、具体的には「被告人と公訴事実とを結び付ける立証が不十分としたことが誤りである」という消極的、否定的判断であり、それ以上に「被告人と公訴事実とを結び付ける立証が十分である」という積極的、肯定的判断ではないことは明白である。そして、特定の点についての事実判断やその判断に必要な特定の証拠の証明力に関する判断にも拘束力が及ぶのは、右の要証事実に関する結論的事実認定についての判断と直接結び付いているからであり、その意味において、その判断は右と同様に消極的、否定的判断に限られるべきである。このことは、実質的にみても、検察官が主張する控訴審判決の判示部分は、それだけによってその園児供述あるいは被告人の自白の各信用性を認めることができるとまで判示した趣旨ではないことからも理由付けられるところである。

したがって、この点に関する検察官の右主張は理由がない。

3  拘束力からの解放

そこで、次に、本件控訴審判決の右で検討した拘束力が現段階においても当審に及んでいるのか、いわゆる拘束力からの解放の点について検討する。

(一) そもそも、控訴審の判断に拘束されるというのは、控訴審判決時までにあらわれた証拠によっては一審判決のような事実判断はできないというものであるうえ、本件控訴審判決自体、前記判断したいずれの点についても、一審が必要な証拠調べを尽くさなかった点で審理不尽がありその結果事実を誤認したとも判断しているのであり、事実誤認があるとした事実判断についてはいずれもさらに証拠調べが行われ、その証拠調べの結果をも含めて新たな判断がなされることを予定しているのである。

したがって、本件控訴審判決が取り調べるべきであると指摘した点に関する証拠を含め各種の新たな証拠を取り調べた現段階での当審においては、本件控訴審判決時とは事実判断の資料を異にするに至っているというべきであるから、もはや右本件控訴審の判断には法律上拘束されるところはなく、自由な心証により公訴事実の存否を認定することができると解するのが相当である。

(二) もっとも、当審においては、園児供述の信用性に関する限り新たに取り調べた証拠は少なく、この点において、果たして本件控訴審判決時とは事実判断の資料を異にするに至っていると言い切れるか問題になり得るところであるので、以下付言する。

(1) 園児供述に関する本件控訴審判決の具体的な判示内容をみると、それぞれの結論部分で若干説示が異なってはいるが、総合すると、園児供述の信用性を判断するためには、園児の知的能力及び供述能力やその置かれていた立場(特に口止め等の罪証隠滅工作の有無)とその事実が初めて供述されたとき(初期供述時)の取調べ状況について証拠調べをする必要があると指摘したうえ、A子、Bに関してはそのうちの知的能力及び供述能力と初期供述時の取調べ状況について本件控訴審で取り調べた結果、一審判決が指摘するような理由をもってその供述の信用性を一概に否定しえないとし、B、D、E子に関しては口止め等の罪証隠滅工作の有無についての事実取調べが行われるべきであり、加えてC、D、E子に関しては初期供述時の取調べ状況についても事実取調べが行われるべきであるとする。

(2) 右の判示からすれば、A子に関しては、当審でさらに取り調べるべきとされる証拠はなく、当審においても独自に取り調べた証拠はA子児童記録(当審弁六七)以外には関連する高橋当審証言など極めて少ないのであるから、本件控訴審判決時と判断の資料を異にするに至っているとはいえず、A子の供述の信用性に関する本件控訴審の判断は拘束力を持続しているという余地があることになる。また、Bに関しても、口止め等の罪証隠滅工作の有無についての証拠調べが行われるべきであるとの指摘はあるが、そもそも検察官から口止め等の罪証隠滅工作の有無に関する固有の証拠調べの請求は一審ではなく、当審においてもそれに関連する証拠調べは極めて少なかったのであるから、A子に関するのと同様に、Bの供述の信用性に関する本件控訴審の判断は拘束力を持続していると考える余地がある。

(3) しかしながら、さらに本件控訴審判決の判示を子細に検討すると、そもそも本件控訴審判決は、取り調べるべきであるとした証拠について検察官請求のどの証拠であるのかを個別具体的に指摘していないうえ、検察官から証拠調べ請求のない口止め等の罪証隠滅工作の有無に関する証拠を取り調べるべきであるとしたり、さらに既に一審で取り調べ済みのC、D、E子に関する初期供述時の取調べ状況に関する証拠を取り調べるべきであるとしている点で、解釈の余地を残す判断をしている。

そこで、その判断の趣旨を合理的に解釈すれば、この園児供述の信用性に関する一審の判断が誤りであるとするその内容は、一審の指摘する理由だけでその信用性を否定した点を誤りであるとし、むしろ、当審で取り調べるべき証拠のほか、既に取調べ済みの証拠によって認められる初期供述時の取調べ状況とか既に取調べ済みの証拠からうかがわれる口止め等罪証隠滅工作の有無に関するものもあわせて、さらにその信用性を総合的に検討すべきであるとの趣旨を含む判断であるということができる。

(4) したがって、当審が本件控訴審の判断に拘束される具体的内容は、一審判決の指摘する理由だけでもってその信用性を否定することができないという限度でしかないものであり、右のとおり他の取調べ済みではあるがその証拠から検討した事実をも考慮してその信用性を判断するのであれば、その点では当然判断の前提となる証拠が異なっているともいい得るのであるから、本件控訴審判決時までとは事実判断の資料を異にするに至っているのと同様に評価でき、結局は、前記のとおり、現段階では、当審において本件控訴審の判断には拘束されないというべきである。

さらにいえば、本件控訴審判決が前記のように特定の事実あるいは証拠の証明力について事実誤認として判示している点については、それぞれが独立して直ちに要証事実に関する結論的事実認定についての判断と結び付いているものではなく、それぞれが直接あるいは間接に影響し合ってその信用性が判断されるべきものであり、そのことによって右結論的判断と直結しているというべきものである。この意味においても、種々の新たな証拠調べ(その中には各園児供述の信用性に関連する証拠もある)をした当審においては、もはや拘束力から解放されているというべきものである。

第三  検察官の立証方針と当審の証拠判断の順序等

一  検察官が釈明した犯行動機と犯行状況の概要

検察官は、起訴状及び冒頭陳述に関して釈明を行い、本件犯行の動機及び犯行状況の概要を、以下のとおり明らかにした。

1  犯行の動機

被告人が甲山学園青葉寮の当直勤務についていた三月一七日、Y子が浄化槽内で死亡した。被告人は、右事実を知っていたが、学園職員らに対してはその事実を秘匿し、あたかもY子が行方不明になったかのように装っていたところ、学園職員らによるY子の捜索が開始されるや、Y子が発見されないまま日時が経過していけば、三月一七日の青葉寮当直者のうちY子が消息を絶ったころ学園内で勤務していたのが自己のみであったことから、やがて自己がY子を殺害したと他の職員らから疑われることになると深刻に思い悩むに至った。そこで他の青葉寮職員の当直勤務中にも、別の同寮収容児童が行方不明となれば、自己にY子殺害の嫌疑がかかるのを回避できるものと考え、そのため、右児童一名を死体が容易に発見される危険性のない浄化槽に投げ込んで殺害したうえ、同児童が行方不明になったもののごとく装うことを企てた。

なお、右Y子死亡に至る経過についての検察官の主張は、「被告人は、三月一七日夕方、夕食の準備をしたうえ夕食をさせようとしたところ、Y子が食堂に姿を見せなかったので、Y子を捜すべく青葉寮北側裏に赴いた。すると、Y子が浄化槽の上で遊んでいたので、被告人が『Y子』と呼びかけたところ、Y子がよろけて、蓋の開いていた(蓋を開けたのは同青葉寮収容児童E子)浄化槽のマンホールから浄化槽内に転落した。被告人は、Y子が浄化槽内に転落したことが発覚することによって当直者としての自己の責任が問われるのをおそれて狼狽する余り、Y子を救助するための手段を講ずることなく直ちに右マンホールの蓋を閉めて同所を立ち去った。このためY子は、浄化槽内に溜っていた汚水を吸飲して間もなく溺死した」というものである。

2  犯行状況の概要

被告人は、戊田についで乙山が甲山学園管理棟事務室を出て行った直後の三月一九日午後八時ころ、同事務室を出たうえ、青葉寮女子棟各室のうち空室となっていたY子の居室「こすもす」に運動場側から侵入し、女子棟廊下に出て殺害に適当な児童を物色するうち、たまたまA子及びG子の居室「さくら」で遊んでいたXを発見した。ここにおいて、被告人は、Xを自己の犯行の対象に選び同人を連れ出して浄化槽内に投げ込み、溺死させて殺害しようと決意した。

被告人は「さくら」の部屋の出入口付近から「Xおいで」と声をかけてXを同室から廊下に呼び出したうえ、同人とともに廊下を東方に歩き、女子棟東端の非常口付近に至り、所携のマスターキーを用いて同非常口の扉を開扉した。危険を察したXが廊下に座り込んだため、被告人はXの両脇に手を入れて立たせようとした。Xは「あんあん」と怒りの声を出しながら両手を振り上げ、物を投げつけるような仕草をして必死に抵抗し、被告人の隙を見て四つん這いの恰好で廊下を西方のディルームに向け逃げ出した。被告人は、逃げるXを追いかけ、非常口から約一〇メートル西方の「ばら」の部屋の前付近で追いつき、直ちにXの両足首をつかんだので、Xはなおも被告人の顔面付近を蹴るなどして抵抗したが力及ばなかった。被告人は、四つん這いのXの両足首をつかんだまま同人を非常口まで引きずって行き、そのまま同所から寮外へ引きずり出し、直ちに非常口の扉を閉めマスターキーで外から施錠した。被告人は、非常口からXを引きずり出したあと、同人を前から抱き上げて浄化槽まで赴き、いったん同人を降ろしてマンホールの蓋を開けたうえ、再度同人を前から抱き上げ、マンホールから浄化槽内に足から投げ込み、直ちに右蓋を閉めて同所を立ち去った。

二  検察官の立証方針

検察官は、「被告人のX殺害行為自体を直接目撃した者はなく、被告人の犯行を直接証明する証拠は、被告人の自白調書が存在するものの、物的証拠に乏しく、目撃者も犯行直前の被告人の行動を目撃した精神遅滞児である園児が中心であり、一方、事件発生直後から、学園職員によるし烈な捜査妨害が展開され、アリバイ工作がなされた事件であるため、公訴事実の立証には数多くの間接事実を立証し、これを積み上げるという方針をとらざるを得ないものである」とし、本件の証拠構造については、「被告人が本件の犯人であることを立証するための主要な証拠として、<1>被告人のX連れ出しについての園児B、同A子、同D、同E子による各目撃供述、<2>構成繊維の付着事実についての被告人及びXの着衣相互に付着していた繊維の同一性に関する鑑定、<3>被告人の自白調書がそれぞれ存在し、さらに、右<1>の目撃供述の信用性を裏付けるものとして、X行方不明前後の青葉寮の状況に関する園児C及び青葉寮当直職員乙川秋子、同乙野一夫の供述並びに右目撃園児の供述能力に関する鑑定やこれら園児の取調べ状況等に関する証拠が、<2>の構成繊維の相互付着については、相互付着の機会に関する学園職員の供述が、<3>の自白供述の信用性を裏付けるものとして、被告人の自白状況についての取調べ警察官の供述、その自白が被告人支援グループの声援等が激しくなされている状況下におけるものであることを明らかにする証拠及びXの胃内に存在したみかんが被告人の購入したみかんであることを示す証拠がそれぞれ存在しており、また、被告人が本件の犯人であることを立証するための間接的、状況的証拠として、<4>Y子の行方不明からXの行方不明及び死体の発見に至るまでの学園内の状況等から犯人が被告人でしかあり得ないことを明らかにする証拠、<5>被告人の主張するアリバイが虚偽であり、被告人にはアリバイが成立しないことを明らかにする電話関係等に関する証拠、<6>乙谷二夫らによる被告人のアリバイ工作に関する証拠が存在する」とし、また、「これらの証拠及びこれら証拠から認定される事実は、孤立した証拠及び事実ではなく、それぞれが有機的に関連し合い、相互に補強する関係にあり、終局的には、被告人の自白供述及び被告人のX連れ出しに関する園児の目撃供述が極めて信用性に富むものであることに集約され、これにより被告人が犯人であることが立証されるものである」旨主張する。

三  当審の証拠判断の方法

当裁判所は、取調べをした各証拠を総合検討した結果、本件における検察官の立証方針によればその証拠関係は右のように多岐にわたるものの、検察官が本件犯行の動機及び犯行状況の概要を釈明し、その釈明された犯行動機及び犯行状況をめぐって当事者間で立証が尽くされたという本件の審理経過にも照らすと、右犯行状況を立証するための核心的証拠である右<1>の園児供述及び右犯行の動機と犯行状況の概要を供述している右<3>の被告人の自白の各信用性に関する判断が、本件犯罪の成否を決するものと思料するに至った。そして、この園児供述と被告人の自白の信用性を判断するためには、右各供述内容の検討等に加え、検察官がその信用性を裏付けるとしてあげている各証拠も検討する必要がある。

検察官は、右以外にも、被告人が犯人であることを立証する主要な証拠として右<2>の構成繊維の相互付着事実をあげるが、後述するように、右<2>の事実は被告人が犯人であることを直接立証し得るようなものではなく、その持つ意味は小さいといわざるを得ない。また、検察官は、間接的、状況的証拠として右<4>ないし<6>をあげ、「これらの間接的、状況的証拠及びこれら証拠から認定される事実は、終局的には、被告人の自白供述及び被告人のX連れ出しに関する園児の目撃供述が極めて信用性に富むものであることに集約され、これにより被告人が犯人であることが立証される」旨主張するが、右<4>については検察官の主張事実によって犯人が被告人でしかあり得ないことを明らかにできるのか疑問であり、右<5>、<6>については、そもそも被告人においてアリバイを証明する必要はなく、たとえ検察官の主張事実が認められたとしても、そのことから被告人の犯人性が明らかになるようなものではないのであり、加えて、前記検討により園児供述及び被告人の自白の信用性が認められる場合にはその補強とはなり得ても、その信用性が認められない場合にはそれを覆して信用性を与えるほどのものではないというべきものである。

したがって、以下においては、右<1>の園児供述の信用性及び右<3>の被告人の自白の信用性について順次判断し、その後、右判断に応じ、必要な限度において、右<2>、<4>ないし<6>に関しても判断することとした。

第四  甲山学園の概要、園児の行方不明状況等

関係各証拠によれば、以下の判断の前提となる甲山学園の概要、園児の行方不明状況等については、おおむね次のような事実が認められる。

一  甲山学園の概要等

1  甲山学園は、社会福祉法人甲山福祉センター(西宮市<番地省略>所在)が経営する精神遅滞児の養護施設(精神遅滞児収容施設)であり、原則として一八歳未満の重度(IQ三五以下)、中・軽度(IQ七五以下)の精神遅滞児を収容し(定員一〇〇名)、これらの収容児童について日常生活を通じての生活指導、訓練を実施し、学齢期に達した者に対しては小・中学教育を行っていた。

甲山学園は、甲山(標高三六〇メートル)西側山麓丘陵地帯に所在(西宮市<番地省略>)し、墓園(西側-北山墓園)、貯水池(南側-北山貯水池)、甲山(東側)に囲まれ、最寄りの駅まで約一・五キロメートル離れ、一般道路から入り込んだ場所に位置しており、付近には人家がまばらに点在するだけである。

甲山学園は、約四万八〇〇〇平方メートルの馬蹄形の敷地の中央部に運動場を設け、この運動場を取り囲むように建物があり、重度の精神遅滞児を収容する「若葉寮」、中・軽度の精神遅滞児を収容する「青葉寮」、園長らの執務する事務室などのある「管理棟」、青葉寮収容児童のための食堂や厨房のある「サービス棟」、授業の行われる「学習棟」、「新学習棟」、用務員の宿舎である「用務員宿舎」及び「倉庫(プレハブ建)」があり、その配置状況は別紙「甲山学園見取図」のとおりである。甲山学園の敷地は、高さ約二・二メートルの金網のフェンスで囲まれて施設外とは区切られており、敷地の南側に設けられた正門以外に学園に出入りできる入口はない。

2  青葉寮及びその周囲の状況は別紙「青葉寮平面図」のとおりであるが、青葉寮は、南向きの玄関を中心に東西に「へ」の字型に伸びる平屋建ての木造建物であり、玄関を入ったところがホールでボイラー室があり、その北側にディルーム(園児の遊戯室、娯楽室として使用され、テレビが設置されている)があり、ディルームから東側が女子棟、西側が男子棟となっている。女子棟の南側には八つの部屋が棟の東端まで並んでおり、ディルームに最も近い部屋が保母室(以下「女子保母室」という)、その東隣が洗濯物の仕分け室となっており、そのほかは園児の居室となっている。男子棟の南側には一〇の部屋が棟の西端まで並んでおり、ディルームに最も近い部屋が保母室(以下「男子保母室」という)となっており、そのほかは園児の居室となっている。女子棟廊下の東端及び男子棟廊下の西端には各非常口があり、通常は施錠されており、開錠は職員が持っているマスターキーによってなされていた。

青葉寮の裏庭(北側)には浄化槽が設けられており、北側は金網をはさんで雑木林の丘陵地帯である。この浄化槽は東西約三・二二メートル、南北約二・四六メートルの方状コンクリート造りで、地表より約三二ないし四〇センチメートル高くなっていて、南西隅及び東北隅の二箇所に鉄製の蓋で覆われたマンホールがあり、南西隅のものは穴の内径は約四三センチメートル、深さは約二五六センチメートルで、東北隅のものは底が浅く、中に水中ポンプが設置されている。

管理棟は、南東側が表出入口、北西側が裏出入口となっている平屋建ての建物で、表出入口を入った右側が事務室(以下「管理棟事務室」という)となっている。

3  昭和四九年三月当時、甲山学園には、園長である乙山のほか二九名の職員が在籍しており、その内訳は、園長・副園長各一名、指導員一〇名、保母一二名、事務員・ボイラー技師各一名、用務員三名、実習生一名であった。そのうち、青葉寮には指導員三名、保母七名が、若葉寮には指導員七名、保母五名が配置されていた。

青葉寮を担当する職員の勤務体制は、普通の日勤は午前八時四五分から午後五時まで、早出勤務は午前七時三〇分から午後三時三〇分まで、宿直勤務は午前八時四五分から翌日の午前八時四五分までであった。ただし、日曜、祭日の日勤については、交通機関の関係から終業時刻が午後四時三〇分に繰り上げられていた。

4  昭和四九年三月当時、青葉寮には男子三一名、女子一六名の園児が収容されており、その氏名、生年月日、居室割当等は別紙「青葉寮収容園児一覧」のとおりである。

園児の食事の時間は、朝食が午前八時ころ、昼食が正午ころ、おやつが午後三時ころ、夕食が午後五時ころであり、就寝時間は小学生以下(年少児)は午後八時、中学生以上(年長児)は午後九時である。夕食後、ディルームでは午後六時ころからテレビがつけられ、それぞれの就寝時間までこれを見ることができる。 二 園児の行方不明等

1  昭和四九年三月一七日(日曜日、以下単に「一七日」ともいう)の青葉寮における日勤者は指導員の乙野一夫(以下「乙野」という)と保母の乙川秋子(以下事件当時も使用していた旧姓である「乙原」という)、宿直者は指導員の乙谷二夫(以下「乙谷」という)と被告人であり、同月一九日(火曜日、以下単に「一九日」ともいう)の青葉寮における宿直者は乙野と乙原であった。

2  三月一七日、宿直勤務であった被告人は、園児の夕食時間であるのに、Y子が食堂に姿を見せず、その居場所も分からなかったことから、相勤者の乙谷にその旨を告げ、乙谷は園児らとともに学園の内外を捜したがY子を発見できず、帰宅していた副園長乙海三夫に連絡した。その後、同人や非常召集を受けて登園してきた職員のほか、学園からの通報で出動してきた警察官らが翌一八日午前一時ころまで学園の内外を捜索したものの、Y子を発見するには至らなかった。

三月一八日も朝早くから職員らが園の内外を捜索したがY子の所在は確認できず、同日午後五時ころ捜索活動をいったん中断したうえ、Y子の捜索ビラを作り、男子職員が夜半までビラ配りなどをして捜索活動を続けた。

3  三月一九日は、Y子の捜索ビラを一般市民にも配布して協力を要請することとし、管理棟事務室で捜索ビラの印刷やY子の顔写真入りの立て看板の製作等がなされ、職員らはビラ配りに出向いたりしたが、学園をあげての捜索活動が行われたにもかかわらず、Y子発見につながる情報が得られないまま経過していた。

一九日夜、青葉寮の園児らは、午後七時からテレビで放映される「新造人間キャシャーン」(以下「キャシャーン」という)、午後七時三〇分から放映される「イナズマン」、午後八時から放映される「歌謡ビッグマッチ」を見るため、その大部分がディルームに集まってテレビを見ており、テレビを見ない園児は居室で遊んだり、就寝していた。同日午後八時過ぎころ、宿直勤務の乙野は、居室にいるはずのXの姿が見あたらなかったことから、相勤者の乙原とともに同寮内の居室等を捜したが、Xを発見できず、当時在園していた職員にも連絡し、園内全体にわたる捜索が行われ、同日午後八時五六分ころ、学園から西宮署に一一〇番通報がなされた。

そして、前記のとおり、同日午後九時三〇分ころ浄化槽から両名の死体が発見され、同日午後一一時過ぎころ、Y子、Xの死体が相次いで引き上げられた。

4  三月二〇日午前一〇時三〇分ころから、捜査官らが学園の敷地周囲に設けられているフェンス及びその外側周辺の捜査及び検索を実施したが、犯人が外部から学園内に侵入したことをうかがわせる痕跡、遺留物件等は発見されなかったほか、学園の内外での聞き込み捜査、変質者の調査等を行ったが、不審者等はうかがわれなかった。

5  捜査本部の嘱託により、三月二〇日、神戸大学医学部法医学教室所属の医師溝井泰彦によってXの司法解剖(執刀は同所属の医師竜野嘉紹)が行われ、その結果、Xの死因は溺死と考えられること、解剖開始時(同日午前一一時五八分)において死後約一二ないし一八時間を経過していると考えられること、その左右頭頂後頭部に三箇所の皮下出血が認められる以外には新しい外傷はないことが鑑定されたほか、Xの胃の中にはかなり消化された米飯等があり、夕食後二ないし三時間以内の消化程度であること、Xの胃の中にはほとんど消化されていないみかん片のあることが明らかになった。

第五  園児供述の信用性判断についての総論的考察

一  検察官の主張する園児供述の概要

検察官は、前記主張の犯行状況のうち、被告人(以下においては、供述の引用の際などに旧姓である「沢崎」という場合がある)がXを青葉寮から連れ出す前の状況を青葉寮内の園児らが目撃しているとして、おおむね次のような目撃状況を主張する。

すなわち、

(1) 被告人が「さくら」の部屋に赴く直前に女子棟廊下にいたところを、ディルームにいた園児E子が目撃し、

(2) 次いで、被告人が「さくら」の部屋からXを呼び出すところを、同室にいた園児A子が気付き、

(3) その後、被告人とXが女子棟廊下を歩いている状況を、右A子、女子棟廊下付近にいた園児B及び右E子、ディルームにいた園児D(戸籍上はD´)が目撃し、

(4) 被告人がXを女子棟非常口からむりやり引きずり出すのを、右Bが目撃した。というのである。また、右Bの供述を裏付けるものとして園児Cの供述がある旨主張する。

二  園児供述の持つ意味

検察官は、その主張する犯行状況のうち、被告人が「さくら」の部屋にいたXを呼び出して青葉寮女子棟非常口から連れ出す状況については、右園児らの各供述内容が信用できるとして、その各供述内容に沿って構成、主張しており、他に右状況を直接立証し得る証拠はないのであるから、右園児らの各供述内容に信用性が認められるか否かが、本件にとって極めて大きな意味を持つことになる。

ところが、右園児らの供述については、大まかにいっても、例えば、<1>右園児らは、当時一一歳から一六歳までの少年であるうえ、いずれも当時甲山学園に入所していた精神遅滞児であること、<2>右園児らは、Xの行方不明に気付いた青葉寮当直職員の乙野、乙原が青葉寮内を捜索した際、検察官が主張するような目撃状況あるいはそれに関連する事項を誰一人として右乙野らに述べていないこと、<3>しかも、右園児らの各供述は、第一次捜査で得られたものは少なく、そのほとんどが第二次捜査によって得られたものであり、かつ、その内容には様々な変遷があること、という特徴がみられるのであり、その供述の信用性についての判断を複雑なものにしている。というのは、<1>の点において、一つは、少年であることによりその供述の信用性評価についてどのような点に留意しなければならないのか、もう一つは、精神遅滞児であることにより健常児と異なった能力や性格があるのか、その違いは供述の信用性判断についてどのような意味を持つのか、<2>及び<3>の点において、通常であれば、これらの点は何らかの合理的な理由がない限りその供述の信用性を否定する方向に傾くものであるが、<1>の点とあいまって通常とは異なった考慮をしなければならないのか、という検討しなければならない点があるからである。

そこで、以下においては、右すべてに関係すると思われる<1>の点について主として検討し、<2>及び<3>の点については後に個別に検討する。

三  園児供述の信用性判断にあたって少年であること及び精神遅滞児であることの持つ意味

1  概要

右園児らは、右目撃したとされる当時の年齢が、A子が一一歳、Bが一二歳、Dが一五歳、Cが一五歳、E子が一六歳といずれも少年であるうえ、いずれも精神遅滞児収容施設である甲山学園に入所していた精神遅滞児である。

2  精神遅滞児の一般的能力、特性についての考え方

そこで、まず、精神遅滞児であることにより一般的にどのような能力や特性があるのか、また、そのことが供述の信用性判断にどう影響するのかをみておく。

(一) 一般的に、精神遅滞児についてどのような能力や特性があるのかという点については、それが精神医学とか心理学等の領域の問題であるから、その検討にあたっては専門家の知見を参考にする必要性があるところ、この点に関する主な証拠としては、一谷証言(なお、以下においては、広義の供述証拠〔これを「供述」ともいう〕中、当裁判所が直接聞いたものと否とを問わず、証言として供述されたものは「証言」、その他の供述ないし供述記載は「供述」という)及び岡本夏木証言があり、さらに武貞証言中にもそれに触れている部分があるので、以下、これらの証拠を中心に判断する。

(二) 精神遅滞とは、例えば、一谷証言によれば「何らかの原因で精神発達が抑制され、あるいは不完全、不十分な発達しかしていない状態」を、岡本夏木証言によれば「その生活年齢から予想される知的行動の平均水準をかなり下回るような状態にある場合」をいうとされ、精神遅滞であるかどうかの診断は知能テストと日頃の生活場面における行動の観察等による総合判定ではあるが、従前から知能テストによる知能指数によって重度、中度、軽度と分類されていることからもうかがわれるように、主として知的側面が重視されてきたのが現状である。

そして、その精神遅滞者に、一般的に健常者と異なる能力や特性があるのかについては、岡本夏木証言によれば、「同じ精神年齢の精神遅滞児と健常児を比べたとき、それぞれのグループに特有の知的能力の違いはない。両方とも、非常にそれぞれ大きい個人差を持ちあるいはそれぞれが皆個性を持っている。知的能力以外の面では、その生活環境から行動とか性格面での違いが出てくるが、それは健常児でも遅滞児でも同じである。記憶能力についても、精神年齢が同じだと際だった差はない。再生あるいは表現する能力、裁判などで問題になる供述する能力について、同じ精神年齢の児童と比較した場合、健常児と精神遅滞児では大きい差はない」というのであるが、武貞証言中には、「精神遅滞者は、被暗示性は強いが、健常者の場合と異なり単純なものではないとかからない。精神遅滞者と健常者では空想の中身が違う。精神遅滞者は、自分が体験してもいないこと以外は言えないし、論理的矛盾を含まずまた深い見通しを持って虚偽の事実を構成することが困難である」とか、一谷証言では、「精神遅滞児の場合、記憶能力、表現能力、供述能力に特徴がある」として精神遅滞児には健常者と異なる能力や特性がある趣旨の証言がある。

しかしながら、一谷証言と武貞証言で述べるその能力及び特性は必ずしも一致しておらず、一谷彊自身、その特性というのも健常児と精神遅滞児にみられる一般的な差ではなく、健常児であれ精神遅滞児であれ個々人にみられる差にすぎないとの趣旨の証言もしているのであり、また、岡本夏木証言では、右一谷らが指摘する精神遅滞児の能力及び特性については間違いや誤解等があることを指摘しているのであるが、右一谷自身も認めるように、右岡本夏木が発達心理学の第一人者であること、その証言内容はその経験、理論に基づく説得力のあるものであることに鑑みると、右一谷証言及び武貞証言にあるような能力や特性をもって、精神医学とか心理学等によって精神遅滞児の特性として一般的に確立されたものというには疑問があるといわざるを得ない。

そうすると、この点に関しては右岡本夏本証言に沿って考えるべきであり、「精神遅滞児であるから、健常者と異なった能力や特性があり、その供述の信用性を判断するためには、健常児のように一定の基準をあてはめてはならない」というような考えをとることはできないといわざるを得ない。

3  年少児であることによる留意点

次に、園児らが少年であることから、その供述の信用性判断について留意すべき点がないか、検討する。

(一) 前記のとおり、右園児らは一一歳から一六歳までの少年であるが、右年齢は暦年齢(生活年齢)であり、精神遅滞児であることからその精神年齢はそれぞれその生活年齢よりも低く、例えば、目撃したとされる当時Bは生活年齢は一二歳であるが精神年齢は五歳半前後から六歳程度と判定されているように、少なくとも精神年齢的には年少者であることを念頭において判断すべきである。

しかしながら、そのことは、年少者であることによる特別な能力や特性が一般的にあり、それを判断の前提にすべきことを意味するものではない。すなわち、一谷証言及び武貞証言であげられた精神遅滞児の能力や特性については、精神遅滞児の定義からいっても、年少児の能力や特性といえる面を持っているように、この点では、右一谷証言及び武貞証言がとりえないとの前記2の説示がそのままあてはまるというべきである。検察官は、右一谷証言等に沿って各園児の能力や特性を主張しているのであるが、これとても、年少児一般のものとしてとりあげているのではないのであり、その具体的当否については各園児供述の信用性のところであらためて判断する。

(二) そこで、ここでは、年少児である園児らの供述の信用性を判断するうえで留意しておくべき点を若干あげておく。

一つは、その園児の能力、性格等を考慮する必要はあるが、そのことを過大視してはいけないということである。そのことは、例えば、頭が良い人であるとか、記憶力が良い人であるとか、正直な人であるということだけから、具体的な供述内容の分析等をしないまま、直ちにその人の供述が信用できるということは経験則上できないことからも明らかであり、その能力、性格等はその供述の信用性の判断の一資料になるにすぎないというべきである。

もう一つは、年少児の場合、誘導や暗示による影響を受ける危険性が極めて大きいのであるから、その影響の有無については特に慎重に検討すべきであるということである。これらの点については、後に各園児供述を検討する際に詳しく述べる。

さらに、園児らは証人として証言はしているが、いずれも、宣誓の趣旨を理解することができない者として、宣誓させられないまま証言していることである。このことから直ちに供述の信用性を否定する方向に傾くというものではないが、その供述の信用性の判断には慎重さを要求する一つの事情ということができる。 四 園児供述における根本的疑問

1  乙野、乙原の捜索の際、園児の誰一人としてその後の目撃供述に関連する事実を述べていないこと

(一) 乙野証言の概要

一九日の当直者の一人である乙野は、次のように証言している(乙野証言)。

(1) 男子棟の園児の就寝状態を見て回った際、「まつ」の部屋にいるはずのXが見あたらなかったため、、就寝準備をしていた同室のCに対し、「X知らんか」と尋ねたところ、Cは「知らん」と答えた。

(2) そこで、男子棟のトイレに行き、さらにディルームを見たが、Xの姿は見えなかった。男子棟居室のどこかに入っているのかと思い、ディルーム寄りの居室から奥へと順番に捜して回った。それでもXを見付けることができなかったため、ディルームに行き、そこにいた乙原にXの行方不明を伝えた。そのとき、ディルームにはD、E子の年長児がいた。

(3) そして、もう一度ディルーム寄りから男子棟の各居室を捜して回り、押し入れの戸を開けて確認したり、誰かのふとんの中にもぐりこんでいないかを確認したが、Xはいなかった。その際、園児らに声をかけたという記憶はないが、調書(49・4・16巡面弁八)で、目を覚ましている子供にXを知らないかと尋ねたが誰も知らないと答えただけと供述しているのであれば、X知らんかと聞いたのかも分からない。

(4) そこで、女子棟を捜そうとして、ディルームあたりを通るとき、ディルームにいるDの方に向かって、「X知らんか」と聞いたところ、Dが「七時半までいた」と答えた。

(5) その後、女子棟の居室を全部見て回り、同じく女子棟でXを捜していた乙原とすれ違った後、玄関から外へ出た。

(二) 乙原証言の概要

同じく一九日のもう一人の当直者である乙原は、次のように証言している(乙原証言)。

(1) ディルームにいるとき、乙野からXの行方不明を聞かされた。そこで、女子棟に行き、ディルーム寄りの洗濯物仕分け室から順に女子非常口寄りの居室まで捜した。押し入れの戸を開けてしまってあるふとんもめくって調べた。その際、起きていたA1とR子に声をかけたと思うが、何か答えたか覚えていない。調書(49・5・24検面弁五三)で、「Xいない」と聞くと右R子が「おらへんで」と言ったと供述しているが、それはその当時の記憶をありのままに述べた。

(2) そこで、男子棟も捜しに行った。その際、「まつ」の部屋ではCとNが起きていて、「Xは」と聞くとふとんの中にいたCが「おらんで」と言ったが、右Nは何も言わなかった。調書(右49・5・24検面)では、「くす」の部屋でBにXのことを聞くと「おらん」と言ったと供述しているが、「くす」の部屋でBにXのことを聞いたことは覚えていない。

(3) 男子棟にもXはいなかったため、ディルームに戻り、そこにいたE子、D、Kら園児に「Xいたよね」と聞いた。E子がうなずいたので、さらに「七時半までいたよね」と言うと、E子かKがうなずいた。調書(49・4・2員面弁三〇)では、「ディルームヘ行きテレビを見ていた中学生以上の園児にXいたよねと聞いたところ、E子がここにいたよと言ってディルームの西側の壁前に置いてある長椅子の方を指でさして教えた。本当にいたよねと問い正すと、E子はうんと言って今度はこたつの西側の方にいたように変更した。何時ごろいたと聞くと、E子は七時半ころいたと答え、Kもうんと言ってうなずいていた」旨供述しているが、今はそのように供述したかは覚えていない。

(三) 各園児の供述の概要

各園児については、それぞれその供述内容が一定していないので、右の乙野、乙原のX捜索の際の状況、尋ねられたことなどについての判断は後に検討するとして、とりあえずは、それぞれ次のような証言をしており、また、本件後の間もないころの供述調書または捜査復命書には次のような記載がある(以下において、供述調書等の記載を引用する場合には、誤記等も含め、できる限り原文のとおり記載する)ことが指摘できる。

(1) A子については、「ふとんに入ってから乙原と乙野がXを捜しにきた。乙原や乙野は何も言わなかった」旨の証言があり、また、A子に関する49・4・4捜復(弁七五)に「乙原、乙野らが、Xがいないと言って部屋を捜しに来た」旨の記載がある。

(2) Bについては、「ふとんに入ってから、乙野が来てX君おらへんかと言ったので、知らんと答えた。J、Iも知らんと答えた」旨の証言があり、また、Bの49・4・11検面(弁一一四)に「乙野が部屋などを捜していた」旨の記載がある。

(3) Cについては、「ふとんに入ってから、乙野が来て、X君おりませんと言ったので、自分もX君おりませんと言った」旨の証言があり、また、Cに関する49・3・29捜復(弁一六六)に「寝ていると、乙野、乙原が部屋に来た。Xは帰っていないと言うと、部屋の押し入れなどを見て捜していた」旨の、Cの49・4・2員面(弁一六八)に「乙原が部屋を見にきて、Xがいないと言った」旨の記載がある。

(4) Dについては、「乙野がXがおらへんと言ってきたので、男子棟の部屋を捜した。Xのことは話していない」旨の証言があり、また、Dに関する49・3・29捜復(弁一四九)に「乙野、乙原もXを捜していた」旨の、Dの49・4・3員面(弁一五二)に「乙野がディルームに来て、Xがいないと言った。僕とKは、乙野と一緒に男部屋の押し入れを全部捜した」旨の記載がある。

(5) E子については、「乙野がXがいないと言ってきた、玄関にXの靴を見に行った」旨の記載があり、また、E子に関する49・3・31捜復(弁一二五)に「乙野がXがいなくなったと言ってきた」旨の、同49・4・5捜復(弁一二六)、E子の49・4・10員面(弁一二七)に「先生がX知らへんかと捜しに来たので、知らんと答えた。L子と一緒に玄関までXの靴を見に行った」旨の記載がある。

(四) 検討

右(一)ないし(三)を総合すると、Xがいなくなったことに気付いた当直者である乙野及び乙原が、園児らの居室を見て回ったり、園児らにXを知らないかと尋ねたりしながら、Xを捜していたこと、前記園児五名を含め青葉寮園児は誰一人として、Xや被告人のことを乙野及び乙原に話さなかったことが認められる。

ところで、E子、B、Dは男子棟廊下付近に被告人と一緒にいるXを見た、A子は、Xが被告人に呼び出されたことを知っていて、Xが被告人と非常口の方へ歩いているのを見た、Cは「さくら」の部屋にいるXを呼びに行ったとして、いずれもXの姿を目撃した旨を供述している。右園児五名がそのような場面を実際に目撃していたのであれば、それは検察官の主張によれば右乙野らがXを捜し始める数分前、長くみても一〇分ないし一五分前の出来事であるから、名園児の記憶に残っていると考えるのが自然であり、しかも、乙野らからXを知らないかと聞かれたり、すぐ近くで乙野らがXを捜しているのであるから、目撃したことについて話す機会ときっかけは十分あったと考えられる。そうであるのに、Bの場合はその目撃内容からみて話さなかったことが不自然ではないかといいうる面はあるとしても、全員そろって、その目撃したことについて乙野らに一切話していないのであり、このことは、後に各園児の供述の信用性を検討する際にBを除くそれぞれの園児について具体的に検討するが、不自然であるといわざるを得ない。

(五) 検察官の主張とそれに対する判断

この点について、検察官は、「乙原がA子に対し、Xのことに関して何ら具体的な質問をしていない」、「E子に対して直接尋ねたものではなく、しかも、その質問内容は簡単なものである」、「乙野は、Cに対しては、それ以上の問いかけを行っていないのであり、十分なものではなかった」、「乙野のDに対する質問内容をDが十分に理解し、的確に応答したとは必ずしもいい得ない」としたうえ、「精神遅滞児から過去の経験事実を聞く場合には、個々の子供について、その発達の度合いに応じた配慮が必要である。健常児の場合には質問者の質問の意図を察知して喚起した記憶内容を述べることができるが、それだけの能力のない精神遅滞児の場合には、記憶が喚起されても質問の意味を理解できたことだけしか答えないため、答えない部分について直ちに記憶がないとは判断できず、また情緒面の発達が遅れているので自分以外の外界の事象に無関心な傾向が強く、自己防衛の姿勢が強く、知っていることでも『知らない』と答えたり『分からない』と答えたり沈黙を守ることがある」とか「精神遅滞児から供述を求めるためには、その能力、特性に応じて細かいステップをたどりながら、ひとつひとつゆっくり質問しなければ、記憶内容を正確に聞き出すことはできないし、包括的、抽象的な質問に対してはイメージが浮かんでも的確に表現できないことなど一般の健常児と異なる特徴がある」ことを指摘し、目撃事実を述べなかったとしても不自然なことではない旨主張する。

しかしながら、検察官の右主張は、以下のとおりいずれも理由がない。

(1) 聞き方に問題があったとする検察官の主張について

各園児はいずれも乙野らがXを捜していることを認識していたと認められる(ただし、A子に関しては、乙原の供述によればA子は寝ていて肩をちょっとゆすったが起きなかったというのであり、A子の供述と食い違いがあるが、この点については後に検討する)。そして、A子を除く園児らは、乙野及び乙原の供述によれば、例えば、Cは「知らん」と答え、Dは「七時半までいた」と答え、Bは「知らん」と答え、E子は「七時半ころまでここ(ディルーム)にいた」と答えたというのである。また、Dは男子棟を捜し、E子は玄関にXの靴の所在を見に行ったというのである。このことは、右園児らは、乙野らが例えば「X知らんか」と聞いたことによって、Xがいないことを理解し、それに答えたりそれに応じた行動を起こしたりしているということであって、検察官の主張のように聞き方に問題があったとは到底いえない。

検察官は、これに加えて園児らの能力、特性もあげてそれに応じた聞き方をしなかったためである旨主張するが、そもそも、ここで問題になっているのは、部屋にいるべきはずのXがいない、そのXがどこにいるのか知らないかということであって、何ら複雑な答えを求めたりするような事柄ではない。乙野らがXを捜していることが理解できれば、それに関連するしかもほんの少し前の出来事であるから、十分答えうる事柄なのである。各園児の知的能力はそれぞれ後記認定のとおりであるが、その能力で十分理解可能であり、答えることができる事柄であるといわざるを得ない。このことは、各園児と生活を共にしていた乙野らは経験上園児らに「X知らんか」という程度の聞き方をすることで、園児らがその意味を理解できると考えていたことがうかがわれ、また、園児らが、その問いかけに従って右のような対応をしていることからも十分うかがい知ることができる。

したがって、園児らに対する乙野らの聞き方に問題があったとする検察官の主張は理由がない。

(2) 精神遅滞児の特徴からみて不自然ではない旨の検察官の主張について

園児は自分以外の外界の事象に無関心な傾向や自己防衛の姿勢が強いとの検察官の主張については、そもそも、仮に園児(年少児)あるいは精神遅滞児にその傾向がみられるとしても、前記のとおり、それが、すべての園児(年少児)あるいは精神遅滞児にみられる傾向であるということには問題がある。また、前記園児らの中には、午後七時半までディルームにいたと答えた者がいたり、Xの靴を見に行ったり、Xを捜すのを手伝った者もいたのであり、この事実からしても、園児らがそのような傾向を共通に持っていたとは到底認めることはできず、検察官の右主張はその前提において理由がないといわざるを得ない。

(六) 小括

以上みてきたように、Xを捜している乙野、乙原に対し、青葉寮園児の誰一人として、目撃事実に関連することを話さず、しかも、目撃をしたとされる園児五名全員が、記憶が残っていてしかるべき時点において、一致してそのことを話さなかったということは、いかにも不自然であり、そのこと自体がその目撃供述の信用性について大きな疑問を抱かせる事実であるといわざるを得ない。

2  園児に対する口止め事実の主張自体が罪証隠滅工作のものとして評価できないこと

(一) 検察官の主張

検察官は、控訴審判決の「園児に対する口止め等の罪証隠滅工作の有無について証拠調べをする必要がある」旨の判示に対応する当審における証拠調べについて、「園児に対する口止め工作状況」として「乙沢(戸籍上は乙沢)冬子証言、戊山証言等」をあげるだけであり、その主張としても、Bの供述が事件の約三年後になされたことが不自然でないことの理由の中で「乙谷が、Bのみならず、その余の青葉寮園児に対しても、警察官には何もしやべらないようにとの口止めをしていたことは明らかである」旨主張し、E子、Dに関しても同程度に主張するだけである。

右検察官の主張の具体的内容は、<1>Bが、「乙谷からジャングルジムから投げられたりしたことがあり、その乙谷から口止めされた」旨供述していること、<2>Bの担任である戊原一江(旧姓戊山、以下「戊山」という)が、「Bが怖がっているような状態がしばらく続いた」旨供述していること、<3>Bの父親丁原太郎(以下「太郎」とか「父親」とか「父親太郎」ともいう)が、「Bが、事件後、甲山学園にいるのが嫌だと言うので、甲山学園から連れて帰った」旨供述し、また、「聞いた日にちは覚えていないが、Bから、『乙谷先生から、市電のところで、沢崎先生のことは言うな。Xを連れ出したことは言うなと言われた』旨のことを聞いたことがあった」旨供述していること、<4>Xの母親乙沢冬子が、「五月五日に甲山学園に行ったところ、Bが『Xは沢崎先生に殺されたんや。殺されたと言ったら僕も殺されるから、言ったらいかんと言われた』旨言ってきた」旨供述し、戊山も同趣旨の供述をしていること、<5>戊山が、「被告人の釈放された日の夕方、サービス棟の食堂で、Bが、被告人に対し『先生はY子やXを殺したやろ』という発言をした。被告人は、Bをきつい目でにらみながら、『そんなことを誰にも言うたらあかんよ』と言った。そのとき、Kが、Bに対し『言うたらいかん』と言った」旨供述し、また、「後で、そのように言った理由をKに尋ねたところ、同人は、『先生に言ったら警察の人にしゃべるから、言うたらいかん』と言って理由を話さなかった。後日、Kが警察官から事情聴取を受けたときに立会をした際、Kが、『言うたらいかんと言われているので、言わへん』と言ったので、事情聴取からの帰りに同人に、誰かに言ったらいかんと言われているのかを聞いたところ、同人は、『乙谷先生や』と言っていた」旨供述していること、<6>Dが、「被告人のことを言わなかったのは、乙谷から絶対に言うなよと言われていたし、色々考えていたから」旨供述していること、<7>E子が、「Y子やXのことを今言うたらいかんと先生に言われた」旨供述したが、その先生の名前については沈黙していたこと、<8>R子が、「(五月)一六日の朝、早出の乙谷先生に食堂で、今度から警察の人に聞かれても何も言うたらいかんと言われた」旨供述していることである。

(二) 検察官の主張自体についての評価

右のように、検察官の主張する「口止め工作状況」というのは、右のような園児の供述、職員や父兄らの供述から、乙谷が園児らに対して警察官にしゃべらないようにとの口止めをしたことが認められるというにすぎないものであり、具体的にいつ誰に対してどのような口止めがあったのかについては何ら明らかにしていない。控訴審判決が説示する「園児に対する口止め等の罪証隠滅工作」を立証する証拠というものがもともと検察官の請求証拠の中にはなかったことは前記のとおりであるが、ここにいう罪証隠滅工作としての口止めと、検察官が主張する口止めというのは、意味合いが大きく異なっているというべきである。

すなわち、検察官の主張によれば、口止めされたことを供述しているのは、B、E子、D、K、R子であり、その内容は、右職員や父兄の供述を合わせても、丁原太郎の供述では被告人のこととXを連れ出したことについて、E子の供述ではY子やXのことについてというだけであり、結局は、大ざっぱに「言ったらいかん」という趣旨のものでしかなく、それ以上口止めに関する具体的な言動は出ていないと評価せざるを得ない。また、検察官の主張する犯行態様によれば、被告人がX連れ出しを目撃されたと考えるべき園児はA子とその同室のG子であるが、この両名についての口止め事実の主張はなく、また、乙谷が園児らに口止めをするとすれば、乙谷がいつどのような形で園児らの目撃事実を知ったかにもよるが、右両名を含む青葉寮女子園児を口止めの対象者と考えるのが自然であるが、右にあげた園児以外に関する口止め事実の主張はない。しかも、その口止めをしたという時期が明らかではなく、右主張事実をみると事件直後ではないと思われるのである。このような検察官の主張する口止めというのは、罪証隠滅工作としての口止めとは大きくかけ離れているといわざるを得ない。

したがって、検察官の「口止め工作状況」に関する右主張については、それを罪証隠滅工作の一つ(検察官がそのようなものとして主張していないともいえるが)とみることはできないのであり、検察官が指摘する事実があったとしても、それは、園児に対して単に警察官に言ってはいけないということがあったことを示すものにすぎないとみるべきである。後記のとおり、乙谷らが捜査のやり方に対して不満を持ち、事情聴取を拒否したりしたことがあることに照らすと、その一環として、乙谷が園児らに対して警察官に何も言うなと一般的に言ったということは十分推測可能であり、検察官の主張事実もその程度のものとしてみるのがむしろ自然ともいえる。

そうすると、検察官の主張は、特定の事実(例えば目撃事実)に関して特定の園児らに対して具体的に言わせなくするという罪証隠滅工作としての「口止め」とは異質なものというべきであり、これを「口止め工作状況」として主張し、園児らがそれぞれ目撃事実を当初から供述しなかったことを右口止めによって説明すること自体に問題があったというべきである。

3  園児らが当初に目撃事実を供述したのはいずれも捜査官に対してであること

後記のとおり、各園児が目撃事実あるいはそれに関連する事実を最初に供述したのは、証拠上はいずれも捜査官に対してである。各園児は、その期間の長短はあるものの、いずれも甲山学園に入所して指導員、保母のもとで生活していたものであり、何か出来事があれば、日常生活を共にしている指導員や保母に対して、あるいは面会や帰省の際に両親に対してまず話すのが自然と思われる。各園児全員が、あるものは何年も誰にも話さなかったことを、最初に捜査官に対して話していることは不自然というべきである。しかも、この供述には、後に検討するように、各園児の供述の相互の影響もみられるのである。

4  各園児供述には、お互いの関わりに関するものがほとんどなく、また、乙野、乙原の供述による裏付けが全くないこと

(一) 各園児供述にはお互いの関わりに関するものがほとんどないことなど

(1) 各園児の供述内容は後に検討するが、大まかにいっても、B、A子、E子及びDの供述によれば、お互いに同時または近接したころに同じ廊下上のX連れ出し場面を目撃していることになるが、右各園児の目撃供述の内容をみても、お互いの関わりがほとんど出てこない。また、各園児供述には、目撃されている被告人の行動に、周囲をうかがうとか後ろを振り向いて注意を払うなどの動作に関するものが全くない。弁護人が指摘するように「あたかも観客が映画を見ているような供述で、目撃者である供述者は、供述している場面へのコミットがほとんどなく、供述者同士の関わり合いもない」のである。

(2) 殊に、B、A子、E子は、その供述によれば、非常に近接した時間と場所に位置していることになるが、お互いの関わりがほとんどみられず、相互の姿を目撃すらしていないのである。

すなわち、当初の供述では、A子は、非常口の手前二つ目の「ぼたん」の部屋の前付近にいる被告人とXを見たと供述し、Bは、非常口に一番近い「ゆり」の部屋の前付近にいる被告人とXを見たと供述しており、その限りでは、A子とBは互いに姿を目撃していなくても不自然ではなかった。

ところが、E子が、同人の53・3・13検面(弁一四六)で女子棟廊下入口付近から「ぼたん」の部屋の前にいる被告人とXを見たと供述したことから、それぞれの目撃の可能性が出てきたのである。このE子の供述によれば、E子は、「さくら」の部屋から顔を出して見ていたA子の姿を見ることになるのに、その趣旨の供述は一切ないのである。また、Bは、B証言で、女子保母室前付近から被告人とXを見たときの二人の位置は「ぼたん」の部屋の前であると供述を変遷させたことから、この供述によれば、Bも、「さくら」の部屋から顔を出して見ていたA子を見ることになり、また、BとE子も、ほぼ同時に女子棟廊下の入口に立っていたことになって、互いの姿を見ることになるが、B証言には、A子やE子に関する供述は一切ないのである。

(3) 各園児供述の中で、お互いの姿が供述されているのは、E子の「女子トイレに行くとBがいた」との供述である。この供述の信用性については後に検討するが、右供述は、単にBがいたというだけであり、他に一切の情景描写がないこと、捜査投階のBの供述によれば、E子、Bの順序で廊下上の被告人を目撃したことになるのであって、女子トイレに行ったときにBがいたというのは不自然であったこと、B証言からすれば、B、E子の順序ということもあり得ないわけではないが、そうであっても、女子トイレに行くまでBの姿を見ていないというのは不自然であることが指摘できる。しかも、Bは、女子トイレに入って来るE子について一切供述していないのである。

(4) 右でみたように、各園児供述にはお互いの関わりに関するものがなく、あっても情景描写に極めて乏しいものである。

このことは、各園児が供述する内容の真実性に疑いを抱かせる事情の一つといえるものである。

(二) 各園児供述には乙野、乙原の供述による裏付けが全くないこと

各園児は、後に検討するように、それぞれ目撃事実あるいはそれに関連する事実を供述しているのであるが、その供述を裏付けるものは各園児の供述でしかなく、次のとおり、一九日の当直者である乙野、乙原の供述中にはそれを裏付けるものが何もないのであり、いかにも不自然である。

(1) Cに関して

ア Cの供述によるCの行動は、おおむね、「イナズマン」のテレビが終わり、ディルームから「まつ」の部屋に戻ったところ、XがいないのでXを呼びに「さくら」の部屋に行ったこと、Xを呼んでもXは出てこないので「さくら」の部屋から男子棟に戻ったところ、男子トイレの前でBと出会い、BにXが戻らないことを告げ、「まつ」の部屋に戻ったことである。

イ Cが「まつ」の部屋から「さくら」の部屋へ行く行動は、時間的にみて乙原が男子保母室へおやつを取りに行く行動と触れ合う可能性があるが、乙原の供述中には、このようなCの行動に関するものが一切ない。また、CのBとの出会い、「まつ」の部屋に戻る行動は、そのころ男子棟居室を奥から見て回っている乙野によって目撃される可能性があるが、乙野の供述中には、このようなCの行動に関するものが一切ない。

ウ また、Cは、「イナズマン」のテレビのときに、Xを「さくら」の部屋に連れて行ったと供述するが、そのころディルームにいたはずの乙原の供述中には、Cのそのような行動をうかがわせるものは一切ない。

(2) Dに関して

ア Dの供述によるDの行動は、おおむね、テレビを見ているときに女子棟の「うめ」か「さくら」の部屋の間に廊下にいる被告人とXを見たことである。

イ Dが目撃したのは、こたつの東側に座っているときのことであり、それも体をねじるようにして倒して見たというものであるが、そのころ、こたつでDの隣に座っていたと思われる乙原の供述中には、Dのそのような動作に気付いた趣旨のものは一切ない。

(3) E子に関して

ア E子の供述によるE子の行動は、おおむね、ディルームに座っているとき女子保母室前にいる被告人を見たこと、「ぼたん」の部屋に行こうと思って、廊下に行くと「ぼたん」の部屋の前にいる被告人とXを見たこと、この後女子トイレに行き、そこでBを見たこと、この後ディルームに行ったことである。

イ E子は、こたつから立ち上がってディルームを出るという行動をとっていることになるが、そのころに、こたつでE子の前に座っていたと思われる乙原の供述中には、E子がそのような行動をとったことをうかがわせるものは一切ない。

(4) Bに関して

ア Bの供述によるBの行動は、おおむね、男子トイレ付近でCと出会い、CからXが「さくら」の部屋にいて戻らないことを聞いたこと、ディルームの玄関側を通り女子棟に行くとき、被告人とXが廊下上にいるのを目撃したこと、女子トイレに入り、トイレから、被告人がXを非常口から連れ出すところまでを見たこと、女子トイレから出て非常口まで行き、その後、洗面所から外を見たこと、ディルーム玄関側を通って「くす」の部屋に戻ったことである。

イ 男子トイレ付近でCと出会ったことに関しては、そのころは、乙野が男子棟の各居室の就寝状態を見て回っていたのであり、廊下上にいるBに気付いてもおかしくないのに、乙野の供述中にはBの右行動に関するものは一切ない。また、このときBがいったん「くす」の部屋に戻っていないとすると、乙野は、「くす」の部屋でBがいないことに気付いたはずであるが、乙野の供述中にはその旨の供述は一切ない。

ウ Bは男子棟と女子棟を行き来しており、Dがその趣旨の供述をしているのであるが、そのころ、Dの隣に座っていた乙原の供述中にはそれに関するものは一切ない。

エ 乙野が「まつ」の部屋にXがいないのに気付いてディルームに一回目に行ったときは、時間的にいって既にBの女子棟での目撃が始まっていると思われるのであるが、乙野の供述中には、女子棟でBを見た趣旨のものは一切ない。

オ 乙野は、Xがいないのに気付いてからディルームに行った後、ディルーム寄りの部屋から男子棟の各居室をXを捜して回っているのであるが、そのころは、Bは女子棟での目撃を終わり、「くす」の部屋へ戻る途中であると思われるが、乙野の供述中には、Bのこの動きに関するものは一切ない。

(5) 検察官の主張に対する判断

ア 検察官は、右(4)のイの乙野が男子棟の各居室の就寝状況を見て回った際にBが在室していなければ当然乙野にその旨の供述があるはずなのにそれがない点について、それが矛盾しない旨主張するが、その主張とそれに対する判断は、後記第六の三の8の(五)の(2)のとおりであり、検察官の主張はとれない。

イ 右(4)のウのBが男子棟と女子棟を行き来しているのに乙原が気付いていない点について、検察官は、「乙原は、ディルームでこたつに入り、女子棟に背を向ける形で座って園児と雑談していたのであり、Bの行動に気付かなかったとしても不自然ではない」旨主張する。

確かに、乙原の座っていた位置やテレビを見るとか雑談していたと思われることからすれば、行き来する園児に気付かなくても不自然とはいえないのであるが、就寝時間に年少児であるBが女子棟へ行き来しているのであれば、気付く可能性もないとはいえず、それに関する供述がないという意味で、その裏付けがないのである。

ウ 右(4)のオのBが「くす」の部屋に戻る際に男子棟にいる乙野に気付かれていない点について、検察官は、「乙野とBが男子棟内で近接した場面があったという可能性も否定はし得ないが、乙野は男子トイレ内に入って捜索している場面もあったと思われ、また、各居室を捜索するについては、居室の廊下側の戸を開け、その中の板間のところから廊下側に背を向ける形で室内を確認していた場面もあり、しかも、乙野は、その各場面において、Xの所在確認にその注意を集中していたと思われるから、廊下上を『くす』の部屋に帰って行くBに気付かなかったとしても、何ら不自然ではなく、Bも午後八時を過ぎていたことから乙野や乙原に気付かれないように自室に戻ったことも十分考えられるところである」旨主張する。

しかしながら、乙野は、Xを捜そうとして行動しているのであり、廊下を通る園児の足音や気配があれば、それに注意が向くのはむしろ当然のことである。検察官が主張するように、乙野が気付かなくても不自然でないということもできるが、Bの行動が乙野の供述によって何ら裏付けされていない点こそが問題になるのである。

(三) 小括

以上のように、各園児供述には、お互いの関わりに関するものがなく、また、当直者であった乙野、乙原の供述による裏付けがないのであり、このことは、各園児供述の信用性に疑問を抱かせるものであるといわざるを得ない。

第六  Bの供述の信用性について

一  Bの供述の持つ意味と問題の所在

1  Bの供述の持つ意味

(一) 検察官は、被告人がXを連れて女子棟の廊下を非常口の方に歩いて行き、非常口からXを引きずり出すのを、青葉寮収容児童Bが目撃している旨指摘し、その目撃状況を供述したB証言及び同人の捜査投階の供述は信用性がある旨主張する。

(二) Bは、昭和五五年二月四日、昭和五六年六月四日、同月二五日、同年七月一六日、同年九月一〇日、同年一〇月八日の六回にわたり証人として証言し(B証言。もっとも、宣誓の趣旨を理解することができない者と認められ、宣誓はさせられなかった)、第一回目の検察官の主尋問において、目撃事実に関しておおよそ次のような証言をしている。

(1) 晩ご飯がすんでから、「くす」の部屋に帰って自分のふとんを敷いた。それから洗濯物を分けてディルームにテレビを見に行った。ディルームには乙原先生がいて、乙原先生はQを抱いてテレビを見ていた。

(2) ディルームでイナズマンを見ているときに、CがXを「さくら」の部屋に遊びに連れて行くのを見た。

(3) その後、父から電話がかかってきたので男子保母室へ行った。電話が終わってからディルームにテレビを見に行った。

(4) イナズマンの予告編が終わって乙原先生がテレビを切ったので、男子トイレに行った。トイレを出たところでCと会った。同人が「X君言うこと聞かへんで」と言ったので、Xを連れに女子棟の方へ行こうとした。

(5) 女子保母室付近に行ったとき、女子棟廊下の「ぼたん」の部屋の前あたりに被告人がXの肩あたりを押すような感じで女子棟非常口の方を向いて歩いているのが見えた。怖かったので女子トイレに入り、しゃがんで廊下の方を見た。

(6) 被告人とXは女子棟非常口ドアのところまで行った。そこでXはその場にしゃがみ、被告人がXの後ろから脇の下に両手を入れてXを立たせようとしたが、Xはいやがり立たなかった。Xは手を前に出し「アアン、アアン」と言っていた。Xは、四つん這いになって「ばら」の部屋の前あたりまで這って来た。被告人は、Xの後ろから歩いて来て、Xの両足首をつかんで非常口のドアのところまで下がって行き、Xの足をつかんでいる片方の手を放してドアを開けようとしたとき、Xがその足で被告人の顔を蹴った。それから、ドアを被告人が開けて、被告人とXが出て行った。ドアはすぐ閉まった。

(7) Xが顔を蹴ったときに被告人の顔が見えた。被告人に間違いない。被告人の服は、上は赤いトックリセーターでその上に黒いコート、下は青いジーパンであった。コートは、長さは股のあたりまで、袖は手首までで、裏には模様が入っていた。Xの服は、上は頭からかぶるセーターで、色は青で白い線が入っていて、下は茶色い長ズボンであった。

(8) ドアが閉まった後、すぐトイレから出て非常口ドアのところに行き、ドアをさわったが開かなかった。それで、横の窓から背伸びして外を見たり、女子棟洗面所の上に上がって横の窓から青葉寮の裏を見たが、暗くて見えなかった。

(9) それから、ディルームの玄関の方を通って「くす」の部屋に帰った。寝巻に着替えてふとんに入った。その後、乙野がXを捜しに来たが、もし言ったら被告人にXと同じように連れて行かれると思って怖かったので、Xが連れて行かれるのを見たことは言わなかった。

(三) そして、検察官がいわゆる二号書面として請求したBの供述調書九通のうち三通(52・5・11検面検四七六、52・5・21検面検四七八、52・6・17検面検四八〇)にも、おおむね同趣旨の記載がある。

(四) 右証言及び各供述調書の内容は、検察官が主張する犯行態様のうち「被告人は、Xとともに廊下を東方に歩き、女子棟東端の非常口付近に至り、所携のマスターキーを用いて同非常口の扉を開扉した。危険を察したXが廊下に座り込んだため、被告人はXの両脇を手を入れて立たせようとした。Xは『あんあん』と怒りの声を出しながら両手を振り上げ、物を投げつけるような仕草をして必死に抵抗し、被告人の隙を見て四つん這いの恰好で廊下を西方のディルームに向け逃げ出した。被告人は、逃げるXを追いかけ、非常口から約一〇メートル西方の『ばら』の部屋の前付近で追いつき、直ちにXの両足首をつかんだので、Xはなおも被告人の顔面付近を蹴るなどして抵抗したが力及ばなかった。被告人は、四つん這いのXの両足首をつかんだまま同人を非常口まで引きずって行き、そのまま同所から寮外へ引きずり出し、直ちに非常口の扉を閉めマスターキーで外から施錠した」という被告人のX連れ出し状況の重要な部分を裏付けるものであり、右証言及び供述が信用できるか否かが検察官の右主張ひいては本件犯罪事実が断定できるか否かについて大きな意味を持つことになる。

2  問題の所在

右のようにBの供述が持つ意味は極めて大きいのであるが、Bが、右証言と同趣旨の目撃事実を最初に供述したのは、事件後約三年を経た第二次捜査段階になってからであるうえ、その供述内容自体にも変遷があり、加えて、Bは年少者であり、かつ、甲山学園に入所していた精神遅滞児であるところから、その供述の信用性については、より慎重な検討が必要である。

(一) 捜査経過と供述変遷の概略

Bに関しては、第一次捜査段階において、昭和四九年三月二六日に司法巡査がBの父親太郎から事情聴取をした際のBからの話として捜査復命書一通(弁九八)が作成され、その後、同年五月二五日までに司法警察員により二通(弁一〇二、一〇三)、検察官により一通(弁一一四)の各供述調書が作成され、昭和五〇年五月七日から同年八月八日までの間に司法警察員が三回事情聴取をして、それに関する捜査復命書二通(弁九九、一〇一。なお、弁一〇一は昭和五二年六月一三日付で作成されている)、供述調書一通(弁一〇四)が作成されている。

ところが、これらの捜査復命書、供述調書中には、前記証言内容に沿う目撃事実に関する記載は一切なく、それをうかがわせる記載も49・3・26捜復(弁九八)にXが「さくら」の部屋にいたとの記載があるほかは一切ないのである。

そして、第二次捜査に入った昭和五二年五月七日の司法警察員の事情聴取によって初めてその目撃事実が供述され、同日から昭和五四年一二月五日までの間に、司法警察員により捜査報告書一通(弁一〇〇)及び供述調書八通(弁一〇五ないし一一〇、一一二、一一三)が、検察官により供述調書一〇通(弁一一五ないし一二四。うち九通が二号書面として検四七六ないし四八四。以下においてはもっぱら弁で特定する)が、また、司法警察員により実況見分調書一通(弁一一一)が作成されている。

このように、右証言におけるBの目撃事実に関する供述内容は、第一次捜査段階では全く出ていなかったものが、事件後約三年を経た昭和五二年になって出てきたものであるうえ、その内容も後記のとおり変遷を重ねたものであり、右証言の信用性を判断するにあたっては、このような供述の出方、供述内容の変遷の合理性についての検討を行うことが不可欠であり、供述の出方に特異な点があるので、取調べの経過等もあわせて検討する必要がある。

(二) Bの能力等

Bは、昭和三六年一二月二五日生まれで、昭和四四年四月二三日甲山学園に入所し、本件事件当時青葉寮の「くす」の部屋で起居していたものである。

Bの知的能力をみると、一谷証言及び一谷鑑定書(当審職四)によれば、「昭和五二年八月実施の知能検査の結果は、鈴木・ビネー式知能検査では知能指数は四三で精神年齢は六歳八か月、田中・ビネー式知能検査では知能指数は四二で精神年齢は六歳六か月、WISC知能検査では知能指数は言語性検査では五一、動作性検査では五七、全検査では四七であり、精神年齢は七歳四か月であり、中度の精神遅滞の状態にある。知的発達の水準は、検査段階においては六、七歳程度であって、普通の健常に発達した子供におきかえると、小学校一年生ないし二年生あたりに該当する」旨、また、「事件当時の知的発達の水準は、五歳半前後から六歳ころに相当し、幼稚園年長の半ばころから就学直前あたりに相当する」というのであり、また、武貞証言及び吉田証言並びに武貞・吉田鑑定書(当審職一)によれば、「鑑定時である昭和五二年八月段階での知能指数は五〇で、精神年齢は六歳から七歳前後であり、中等度精神遅滞児である。遅滞の原因は、小頭症に起因するものと考えられる。日常の簡単な生活とかに関しては小学校一ないし二年レベルの生活能力は十分ある」というのであり、以上を総合すれば、Bは中度の精神遅滞の状態にあり、事件当時の知的発達の水準は、五歳半前後から六歳ころ、すなわち幼稚園年長の半ばころから就学直前あたりに相当すると認められる。

そうすれば、事件当時のBの暦年齢は一二歳二か月であるが、精神年齢は五歳半前後から六歳ころという年少者の段階であるため、その供述の信用性を判断するためには、その精神年齢が五歳半前後から六歳ころであることと、目撃供述を初めてしたころの精神年齢は六歳から七歳前後であることを念頭においておくべきである。

二  B証言の信用性の具体的検討

1  証人尋問の状況

Bに対する証人尋問(B証言)は、期日外尋問として合計六回実施され、第一回ないし第五回については神戸地方裁判所尼崎支部会議室において、第六回については神戸地方裁判所姫路支部会議室において行われ、各尋問には、検察官が二名ないし三名、弁護人が少ないときで一六名、多いときで二七名出席した。

第一回は、昭和五五年二月四日午後二時一〇分から午後三時五〇分までの間、検察官の主尋問と弁護人の反対尋問が行われ、第二回は昭和五六年六月四日午前一〇時二〇分から午後零時四分までと午後一時一八分から午後四時四六分までの間、弁護人の反対尋問が行われ、第三回は、同月二五日午前一〇時五分から午後零時までと午後一時三分から午後三時五七分までの間、弁護人の反対尋問が行われ、第四回は、同年七月一六日午前一〇時五分から午後一時までと午後二時五分から午後五時五分までの間、弁護人の反対尋問が行われ、第五回は、同年九月一〇日午前一〇時五分から午後零時一二分までと午後一時一五分から午後五時五分までの間、弁護人の反対尋問が行われ、第六回は、同年一〇月八日午前一〇時三八分から午後零時二一分までと午後一時二二分から午後六時五〇分までの間、弁護人の反対尋問、検察官の再主尋問及び弁護人の再反対尋問が行われた。

第六回の尋問終了以降、Bが出頭を拒否したため、尋問を続行するか否かが検討されたが、結局その後はBに対する尋問は行われなかった。

2  B証言の内容からみた検討

(一) 主尋問における証言内容

第一回の検察官の主尋問におけるBの目撃事実に関する証言内容は、前記一の1の(二)のとおりである。

(二) 反対尋問における証言内容とその検討

ところが、反対尋問におけるこの点に関するBの証言内容をみると、次のとおり、変遷とあいまいさが多くみられ、右主尋問における証言内容が維持されているとは到底いえない。また、その証言内容は詳細すぎるなどの不自然さがみられる。さらに、Bは、主尋問と異なる証言をした理由あるいは捜査段階での供述と矛盾している理由についてはほとんど説明できていない。

(1) CがXを連れて行くのを見たことに関する証言について

ア この点に関連する主尋問の内容は、「晩ご飯がすんでから、『くす』の部屋に帰って自分のふとんを敷いた。それから洗濯物を分けてディルームにテレビを見に行った。ディルームには乙原先生がいて、乙原先生はQを抱いてテレビを見ていた。イナズマンを見ているときに、CがXを『さくら』の部屋に遊びに連れて行くのを見た。その後、父から電話がかかってきたので男子保母室へ行った」というものであった。

イ ところが、反対尋問では、BがCとXを見た時期について、第五回では、「ディルームに行ったときにはXはいなかった。それははっきり覚えている。Xは『さくら』の部屋でA子と遊んでいた」、「ディルームに来てちょっと間してから、キャシャーンのときに、CがXを連れて行くのを見た」、「ディルームに行ったときXはいなかった。そのときXは女の子の部屋にいた」、「ディルームにいるときXを見たことはない。(CがXを連れて行ったと言うが、これはディルームに来る前かとの質問に対し、沈黙の後)ディルームに行ってから」と供述し、また、第六回では、「キャシャーンを見ているとき、Xがディルームにいた」、「(父親からの電話でディルームから保母室に行くときXがディルームにいたかとの質問に対し、沈黙の後)覚えていない。見ていない」あるいは「見た」とも供述するなど、その見たとする時期に変遷があり、見た内容と矛盾したような供述もしており、一貫していない。

また、CとXを見たとの内容について、第六回で、そのときの二人のいた場所については答えず、二人の様子については、「Xが前でCが後ろで、片方の手をつないでいた」と供述し、また、「Cが後ろからXの右の肩を押していた」と供述したが、その様子を動作で示すことはできなかった。しかるに、その後すぐの別の弁護人からの尋問に対しては、「二人が女子棟に行くところを見た。女子保母室のあたりで、玄関の方を通って、『さくら』の部屋に行った」と供述し、さらに、「二人を見たとき、自分はディルームから動いていない。女子保母室の方へは行っていない」と供述しながら、「二人が『さくら』の部屋に入るのを見た」、「その後Cは部屋に戻った。Xは出てこなかった」と供述している。すなわち、尋問者が異なればその直前に供述しなかったことも供述したり、Bが座っていたディルームの場所からは二人が「さくら」の部屋に入る姿も、Cが部屋(「まつ」)に戻る姿も見ることはできないと思われるのに、見たと供述している。 ウ このように、CとXは見たとの証言については、見たとする時期が主尋問と反対尋問で異なったり、見た状況も、あいまいなものと不自然に詳しいものとが混在したものとなっており、その信用性に疑問を抱かせるものになっている。

(2) Cとトイレの前で出会ったことに関する証言について

ア この点に関する主尋問の内容は、「トイレから出たところでCに会い、Cが『X君言うこと聞かへんで』というので、Bが『頼りないから先に帰っておけ』と言って、Xを連れに女子棟の方へ行った」というものであった。

イ この点に関する反対尋問の内容を見ると、第四回及び第五回で、「男子トイレに行ったときに、Cが『まつ』の部屋から出てくるのを見た」、「トイレから出て、Cと会った。トイレに行くときに、Cが『まつ』の部屋から出てくるのを見た」、「Cに会ったとき、Cの体はトイレの方に向いていた。Cはトイレを出たところにいた。Cはトイレに行った」と供述しながら、「Cは部屋の方からトイレの方へ歩いてきたのではない」と供述したり、「Cと出会ったのは、トイレから廊下を自分の部屋に二、三歩歩いたくらいのところ」、「Cは女子棟の方から来たと思った」と供述し、さらに確認されて、「Cは『まつ』の部屋から出てきたと思っている。出てくるところを見たかどうか覚えていない」と供述している。

このように、Cが女子棟の方から来たと思ったとも供述するが、全体としては、Cが女子棟から帰る途中に出会ったという位置関係、状況ではない。また、その内容も質問されるたびに少しずつ異なっており、一貫していない。Bは、思い付くままに供述し、問い直されると、直前まで供述している場面とのつながりを考えて答えを変更していると評価できるような証言である。

ウ また、BがCに「頼りないから先に帰っておけ」と言ったとの主尋問の内容についても、反対尋問では、第五回で「Cとは普通は友達同士みたいに話す。命令するみたいには言わない。帰っとけとか頼りないとかは友達同士では言わない」と供述し、第六回で「Cはしっかりしている子で、頼りないと思ったことはない」とも供述しており、主尋問とは異なったCに対する評価をしており、この点からみると、主尋問での会話内容は不自然ということになる。

(3) 被告人とXを目撃したことに関する証言について

ア この点に関する主尋問の内容は、「女子保母室前付近に行ったとき、女子棟廊下の『ぼたん』の部屋の前あたりに被告人がXの肩あたりを押すような感じで女子棟非常口の方を向いて歩いているのが見えた。怖かったので女子トイレに入り、しゃがんで廊下の方を見た。被告人とXは女子棟非常口ドアのところまで行った。そこでXはその場にしゃがみ、被告人がXの後ろから脇の下に両手を入れてXを立たせようとしたが、Xはいやがり立たなかった。Xは手を前に出し『アアン、アアン』と言っていた。Xは、四つん這いになって『ばら』の部屋の前あたりまで這って来た。被告人は、Xの後ろから歩いて来て、Xの両足首をつかんで非常口ドアのところまで下がって行き、Xの足をつかんでいる片方の手を放してドアを開けようとしたとき、Xがその足で被告人の顔を蹴った。それから、ドアを被告人が開けて、被告人とXが出て行った。ドアはすぐ閉まった。Xが顔を蹴ったときに被告人の顔が見えた。被告人に間違いない。被告人の服は、上は赤いトックリセーターでその上に黒いコート、下は青いジーパンであった。コートは、長さは股のあたりまで、袖は手首までで、裏には模様が入っていた。Xの服は、上は頭からかぶるセーターで、色は青で白い線が入っていて、下は茶色い長ズボンであった。ドアが閉まった後、すぐトイレから出て非常口ドアのところに行き、ドアをさわったが開かなかった。それで、横の窓から背伸びして外を見たり、女子棟洗面所の上に上がって横の窓から青葉寮の裏を見たが、暗くて見えなかった」というものであった。

イ そこで、以下、反対尋問の内容をみてみる(なお、この点に関しては、検察官の再主尋問と弁護人の再反対尋問が行われ、弁護人は尋問の続行を強く希望したが、その後Bが出頭せず、結局その後の尋問は行われていないので、その限りにおいてである)。

第六回の反対尋問、再反対尋問において、おおむね次のような供述をしている。「女子棟の廊下にXと被告人がいるのを、女子保母室の前から見た。Xと被告人は非常口ドアの方を向いて歩いて行っていた。Xと被告人は、『ぼたん』の部屋のまん中ぐらいにいた。二人は、一列というか、後ろと前になっていた。最初に見たとき、Xの顔は非常口ドアの方を向いていた。手はどうしていたか覚えていない。最初に見たとき、被告人は、二つの手でXの肩を後ろから押すような感じであった。見たとき、すぐに被告人とXと分かった。はじめは分からなかった。Xが被告人の顔を蹴ったとき分かった。Xの服は、上が、白い線に青い縞模様の頭の上からかぶる普通のセーター、下は茶色い長ズボン。何を履いていたかは覚えていない。被告人の服装は、黒いコート、赤いトックリセーター、青いジーパン。履物は覚えていない。二人が歩いて非常口ドアのところまで行ってから、自分はトイレに入った」、「二人は非常口ドアのところに行って、外に出た。Xが非常口ドアの方を向いて、しゃがんでしまった。女の大人が、立って、座ったXの脇の下に両手を入れXを立たせようとした。そのとき顔がよく見えて、被告人であった。そのときの被告人の服は、赤いトックリセーター、黒いコート、青いジーパン。Xは片手をあげ、石や土を投げるような格好をしていやがった」というのである。

ウ これらの目撃状況、すなわちBの位置、廊下上の二人の位置、姿勢などについては、沈黙した場合も一部あるが、ほとんどの場合具体的な質問に対して答えている。弁護人の再反対尋問の途中であるということなので、その限度ではあるが、この点に関しては、おおむね主尋問の内容と同旨であるとの評価も一応はできる。

しかしながら、廊下上の二人を最初に目撃したときに、被告人とXであることが分かったと供述したが、なぜ分かったのか質問されると、「はじめは分からなかった。Xが被告人の顔を蹴ったとき分かった」と供述し、なぜそのように変わったのかとの質問には沈黙し、あるいは、「最初に見た時はよその人と思ってた」とか、「学園と関係のない人と思った。学園の先生と違うと思った」と供述している。そしてそのような最初見たときの思いにもかかわらず、「二人は遊んでいると思った」と供述し、さらに、「二人はXの部屋に行って遊ぶと思った」とも供述している。そのうえ、続けて、どうしたのか質問されて、「もう部屋に帰った」とまで供述している。これらは、明らかに前記目撃状況とは異なった状況を供述しているというべきものであり、供述の変遷というよりも矛盾した供述といい得るものである。そして、大人の女の人はどこに行ったか聞かれて沈黙し、裁判長の質問には「覚えていない」と答え、なぜ違う答えをするのか質問されて沈黙し、再度同様の質問を受けて沈黙するなどしている。

また、B証言によるXと被告人の位置関係からすると、見えないあるいは見えにくいはずであるのに、その状況を具体的に供述したり、服装、色合いについて詳しく供述するなど、不自然なまでに過剰な表現になっており、例えば、主尋問の服装等に関する供述内容はかなり詳細であり、そこまでの観察が実際にできたのか疑問であるうえ、最初に見たときの大人の服装について裁判長から聞かれて、「覚えていない」と答えながら、直後の弁護人の質問には「黒いコートを着ていた」とか「青いジーパンをはいていた」と答え、本当はどちらか聞かれて沈黙を続けるなどしている。

(三) 小括

以上のようなBの反対尋問時における本件目撃状況に関する証言内容をみると、到底、主尋問における証言内容と同じであるとはいえない。しかも、反対尋問での証言内容は、変遷が多くあいまいな点も多いのであり、Bが主尋問と異なる証言をした理由あるいは捜査段階での供述と矛盾している理由についてほとんど説明できていないこと、さらに、証言内容が詳細すぎたり、不自然さがみられることに照らせば、その信用性に疑いを抱かせる事情が多々認められるといえるのであって、結局、本件目撃状況に関する主尋問の内容がそのままBの証言であるとか、その主尋問の内容が信用できるというにはちゅうちょせざるを得ない。

3  検察官の主張に対する判断

(一) 検察官の主張

検察官は、B証言は証言状況からみて信用性があるとして、「検察官の主尋問は二時間足らずで終了したが、弁護人の反対尋問は、合計五回という多数回で、いずれも一日約四時間ないし約七時間という長時間にわたるものであり、知的面及び情緒面での発達が未熟であるBにとっては、そのこと自体が、その能力の限界をはるかに超えていたものと思われる」、「その尋問内容も、Bの証言する目撃事実及びこれに直接関連する事実についてではなく、むしろ、同人に対する捜査官の取調べやテスト状況等を中心に、目撃事実とは直接関係のない事項についてかなりの尋問が行われ、また、その尋問に際しては、一人の弁護人だけでなく、複数の弁護人がそれぞれ角度を変えて質問がなされた。Bに対しては、ステップを踏んだ質問を行えば正確な供述を得ることができるのであるが、弁護人の尋問内容が、包括的、抽象的であるがために混乱してしまい、混乱したままで証言し、弁護人において、その混乱したBの証言を基にさらに尋問を行うことによって、さらに同人が混乱して証言するという状態が多々あった」旨主張し、また、「弁護人の反対尋問においては、沈黙したり、『分からない』旨述べたりする状況が多くなり、検察官の主尋問時における証言と矛盾するような供述をもしているのであるが、Bの供述内容自体は、具体的で、一貫しているのであり、Bの供述態度が、同人の目撃証言の信用性を減殺するようなものではない」旨主張する。

(二) 検察官の主張に対する判断

(1) 前記の証人尋問の状況に鑑みると、Bの証人尋問は、合計六回にわたり、検察官が二ないし三名、弁護人が少ないときで一六名、多いときで二名出席して行われ、第一回以外は午前、午後にわたり、第二回以降はいずれも(第三回は一日合計約四時間四九分であるが)一日合計約五時間を超え、第四回には午前一〇時五分に始まった尋問が午後一時まで続き、この間、検察官の意見もあったが、昼食をとらなかったり、第六回には一日合計約七時間一一分にも及び、終了時刻も午後六時五〇分となっているなど、証言時には暦年令としては一八歳から一九歳に達していたとはいえ、精神遅滞児収容施設である丙丘園あるいは丙野園に入所していた中度の精神遅滞児であったBにとって厳しいものであったことは、一応認められるところである。

このことは、Bの証人尋問に関する父親の「Bは、最初は普通に出て行っていたが、三回目ぐらいから、何回も何回も行くのは嫌だと言っていた。多数回出ることについて大分すねており、相当精神的にまいっていたと思う」旨の証言(丁原太郎控訴審証言)からもうかがわれるところである。

また、質問に対し、第一回の弁護人の反対尋問の際には答えていたのに、第二回以降「知らない」、「分からない」という答えや沈黙が多く見られたこと、それは、今まで幾度となく尋ねられた目撃状況や学園生活状況についてではなく、初めて尋ねられるような証人尋問に先立つ検察官のテストの状況や捜査段階における事情聴取の状況、供述の食い違い等についての尋問の際に顕著であること、同様の質問が幾度となく多数の弁護人から多方面にわたってなされていること、弁護人の尋問の中にはいささか弾劾的、命令的とも思われるものがあったことが認められ、Bが弁護人に反感を抱いたり混乱した供述をしているとみうる面もあったことは否定できない。

(2) しかしながら、右のように回数を重ね、尋問時間が長くなったりしたのは、弁護人の反対尋問の方法によるところが大きいとはいえ、Bの応答によるところも大きな原因になっているというべきである。

すなわち、B証言をみると、Bは、主尋問では「目撃状況を一番最初に話した相手は警察官の西村である」旨を供述し、その直後の反対尋問において「尋問をした検察官が加納と逢坂である」旨供述していたのに、第二回の反対尋問の最初のころから「西村は知らない。前回尋問をしたのが誰か分からない」旨供述し、それ以降の反対尋問において、Xがいなくなった日のことを誰かと話したと供述することを避けるように不自然な供述を続け、供述調書や従前の証言との矛盾を指摘され、おかしいということが分かっていてもそれに固執し、困ると沈黙してその場をやりすごすという証言内容、態度であり、このことが前記の大きな原因の一つとなったと評さざるを得ない。

(3) また、弁護人の反対尋問の方法について、確かに、検察官主張のように、目撃事実と直接関連する事実だけでなく、捜査官の取調べやテスト状況を中心に複数の弁護人によりかなりの尋問がなされたことが認められるが、事件発生後三年以上も経過した後に極めて重要な目撃事実等を初めて供述したという本件での証人としての占める位置及び検察官の主尋問においては質問と答えがよどみなくなされたことがうかがわれるというBの証言状況に照らせば、弁護人が主張するように、「弁護人側としては、過去になされたBの捜査官に対する供述と証言内容との食い違いや矛盾点を指摘し、供述変遷の理由を問い正すという手法で反対尋問を行うこととし、その前提として、証人尋問に先立つ検察官のテストの状況や捜査段階における事情聴取の状況等について明らかにする質問を行い」、場合によっては複数の弁護人が角度を変えて質問することは、反対尋問の方法として不適切であるとか不当であるとはいえないものである。

(4) なによりも、Bの反対尋問での証言状況は、Bの能力の限界とか弁護人に対する反感あるいは混乱ということでは説明できない点が多いということである。

すなわち、右証人尋問がBにとって右のような厳しいものであったにもかかわらず、Bは、弁護人の多方面にわたる尋問に対しても何らかの答えをするなど、ほとんどそれなりの応答ができているのである。特に捜査官に関する尋問や捜査段階あるいは従前の供述との矛盾を指摘する尋問の場合に「知らない」、「分からない」という答えや沈黙が多く見られるが、この点についても質問者が異なればある程度の答えをしたり、尋問事項が異なればそれなりの答えをしているのであり、弁護人に対する反感とか混乱というだけでは説明できない。

(5) なお、前記2の(二)の(3)のウで指摘したように、Bが「女子棟廊下で、Xと大人の人を見た後、部屋に帰った」旨証言していることについて、検察官は、「右証言は、第六回の証人尋問時におけるものであり、既に弁護人から繰り返し尋問を受けることを拒否したい気持ちを持っていたと思われ、心を十分に開いて証言をなし得るような状態にはなかったと考えられるうえ、右証言がなされるに至った状況をみれば、弁護人から、『二人はどこに行くと思ったか。何をしていると思ったか』という二人の行動の評価という理解困難な抽象的な質問を受け、さらに、『遊んでいると思ったのか』という不適当な意見の押し付けがなされ、『そのように思った』旨の証言をしたところ、右正確とは思えない証言を前提にして、さらに証言を求められ、その証言した内容の間に矛盾があるとして理由を聞かれるなどしており、B自身相当の心理的混乱状態にあったものと思われる。そして、そのような中で、弁護人から、『きみは、二人はXの部屋に戻って遊ぼうとしていると思ったと言ったが、きみはどうしたの、その場にずっとおったの』という質問に対して、『もう部屋に帰った』旨証言したのであり、当時Bが心理的に混乱した状態にあったと思われること及び同人のもう部屋に帰ったという証言が弁護人の抽象的な質問を受けてのものであることに鑑みれば、それが、被告人によるX連れ出し状況を否定した証言であるとは考えられない」旨主張する。

しかしながら、右指摘の尋問経過に照らしても、そこでの弁護人の質問が抽象的で理解できないとか不適当な押し付けであると評価することはいささか疑問であるうえ、Bは混乱しているのではないかとは思われるのであるが、それがどのような理由からなのかが問題なのであり、これまで検討したBの証言状況に照らすと、検察官主張のようにいえるのかは疑問であるといわざるを得ない。

(6) さらに、検察官の「Bの供述内容自体は具体的で一貫している」旨の主張については、前記2の(二)でみたように、B証言の内容は一貫しているとは到底いえないものである。

この点について、検察官は、「一般的にも、通常記憶し得ないような細かな事実についてまで証人が答えたからといって、それが記憶に基づかない単なる想像に基づく証言と速断し得るものではない。Bは精神遅滞児童であって、その証言内容を見ても、断定的に答えるか、『覚えていない』、『分からない』と答えるかのどちらかであり、このことは、Bが自己の記憶の強弱の程度を外部に表現する能力を有していないことを示しているものである。Bが、通常記憶喚起がなし得ないと思われるような詳細な事実についてまで証言している場合、それは非常に弱い記憶に基づく証言である可能性もあり、ただ、それを区別して表現する手段を持たないため、外部から見た場合に、その証言内容が一見不自然なように見えるだけである。Bが弁護人から矛盾を指摘されて証言を変え、あるいは沈黙したというものの中には、Bの証言が断定的であることから、弁護人が明確な記憶があるものとして、その証言を基にさらに追及し、そのために、Bが証言を変えあるいは沈黙したと考えられるものが多く存しており、このような点についてBの証言内容が変遷し、あるいは沈黙したからといって、それによって直ちに、Bの証言全体の信用性に影響するようなものではない」旨主張し、「Bの目撃証言において、変遷がある部分はその目撃事実のうちの情景の一部分を構成するにすぎないさ細な事実に限られているのであって、右部分についての記憶が弱いものである可能性はあるが、その目撃事実の核心となるべき事項については何らの変遷はなく、この部分について明確な記憶を有していることについて疑いを入れる余地はなく、Bの証言に信用性があることに問題はない」旨主張する。

しかしながら、検察官が主張するような記憶の強弱があったり、それを十分表現できないことがあることは否定できないものの、Bにその表現能力がないとする点について証拠上特に根拠があるものではなく、検察官の右判断自体一つの推測にすぎないと評さざるを得ないものであり、不自然と思われる詳細な供述とか供述の変遷等を検察官が主張するような判断ですべて説明することには無理があるといわざるを得ず、そもそも記憶にあることなのか否かを問題としている場面において、右のような推測でもって判断することは本末転倒との感を否めない。

しかも、検察官が、「目撃事実の核心となるべき事項については何らの変遷はなく、この部分について明確な記憶を有していることについて疑いを入れる余地はない」旨主張していることについては、供述に変遷がなく一貫していることはその供述の記憶の確かさを裏付けその供述の信用性を高めるものではあるが、それは、単に核心となるべき事項さえ変遷がなく一貫していればよいというものではなく、その核心的事項を構成する種々な具体的事実あるいはそれに関連するその前後の供述事実等が変遷なく一貫していてこそ、その供述に信用性を与えることができるのであり、検察官の右主張は、このような自明の経験則を無視することにもなりかねず、とることができない。

4  B証言の評価

以上の検討に加え、前記2の(二)で検討したのは主として目撃事実に関する証言部分であるが、その余の証言部分でも同じような特徴がみられるので、これをも総合していえることは、B証言の供述内容には、客観的事実に反するもの、不自然、不可解なもの、矛盾したものが多くみられ、その証言状況も、尋問を受ける時期、尋問者が異なれば、同じような質問でも様々な答えをし、質問の仕方を変えれば同じような質問でも矛盾した答えをするとか、質問されたことにはほとんど何らかの応答をし、知っているはずがないとか覚えているはずがないことでも、質問されると知らないとか覚えていないということがほとんどないという特徴がみられるのであり、どの証言部分に信用性があるのかB証言だけでは判断することは困難であり、検察官の主尋問にあらわれた目撃供述部分が信用できるということもできない。右目撃供述部分の信用性を真に判断するためには、次のとおり、それと同趣旨の供述が第二次捜査段階においてなされているのであるから、Bの捜査段階における供述の検討も含めて総合的に判断する必要がある。

三  Bの捜査段階における供述の信用性

1  はじめに

前記のとおり、B証言についてはその信用性に疑問とすべき点が多いのであるが、Bは、右証言をする前である第二次捜査段階の昭和五二年五月七日、右証言の主尋問における目撃供述の骨格となる事実を供述し始め、最終的には右主尋問における供述と同旨の供述をするに至っている。そして、B証言(昭和五五年二月四日主尋問実施)は、右第二次捜査での最初の供述調書が作成されてから約二年九か月、事件から約六年足らずを経てからなされたものであり、また、右第二次捜査での検察官に対する供述調書のうち昭和五二年六月一四日付分を除く九通が、いわゆる二号書面として検察官から請求(検四七六ないし四八四)され、採用して取り調べているのであるから、右二号書面記載内容の信用性はもちろんのこと、右証言の信用性を真に判断するためにも、Bの捜査段階における供述の信用性を検討しておく必要がある。

2  昭和五二年五月七日にBから本件目撃供述を得るに至った経緯とその供述内容

(一) 証拠によれば、おおむね次の事実を一応認めることができる。

(1) 第二次捜査の主任検事逢坂貞夫(以下「逢坂」という)は、第一次捜査で収集された証拠を検討した結果、50・5・10捜復(弁九九)にBに関しての特異な記載があり、そこにはKが書いたノートの切れ端のメモが添付されていて、それには警察官にも誰にも言うたらあかんとの趣旨が記載されていたのに、右捜復にはそのことについて何も触れられていなかったので、BがKから目撃状況について何か聞いているのではないかと考え、Bから事情聴取をする必要があると考えた。

(2) 逢坂は、昭和五二年五月五日A子の事情聴取をして捜査本部に立ち寄った際、捜査官から、Cの自宅に大阪の弁護士から問い合わせがあったと聞いたため、早急にCから事情聴取をすることとし、当時Cが在園していた兵庫県出石郡出石町所在の丙丘園に捜査官を派遣することに決めた。その際、わざわざ遠方に出向くので、丙丘園に甲山学園の園児が他にいないかを調べると、Bも丙丘園に在園していたことから、あわせて同人に対しても事情聴取を行うこととし、Kから何か聞いていないかを中心に事情聴取するように捜査官に指示した。

(3) 捜査第一課巡査部長西村末春(以下「西村」という)及び同菅原昭博は、昭和五二年五月七日午前Cの事情聴取を行う他の捜査官と共に丙丘園に赴いた。西村らが同園に到着した際、玄関前付近にいた園児らがやってきたが、車を降りて歩き出した西村らに対し「僕は何も知らんで、言ったらおこられるから言わんで」という子供がおり、それがBであった。

(4) 西村は、丙丘園指導課主任丙本九夫(以下「丙本」という)の立会いのもとで、同園宿直室においてBの事情聴取をはじめたが、午前中は、Bの気持ちをほぐすため雑談をし、そのなかで甲山学園での自分の部屋、園児及び先生の名前などについても尋ねるなどした。

(5) 午後、昼食で休憩したのち、西村がBにXがいなくなった日の夕食後の出来事を中心に聞いていった際、Bが、廊下にいるXと被告人を見たことなどを供述した。

(6) そこで、西村は、捜査本部の警視山本悦也に電話で指示を仰いだところ、もう一度ゆっくり聞いて調書を取るようにと指示されたため、再び午後六時三〇分ころ以降の出来事を中心にBから事情聴取を行い、供述調書(52・5・7員面弁一〇五)を作成した。

(二) そして、右52・5・7員面に記載された目撃状況は、「テレビが終わり、次回の予告をはじめたころに、自分の部屋に帰るのに男子保母室の前を歩いていたところ、Cが一人で女子寮の方からテレビのうしろの方をまわってきたのとばったり会った。Cは僕の顔を見るなり『X君はきけへんから』と言ってXをさくらの部屋においたままで帰ったことの意味を話していた。僕はCに、『そしたら先に帰っとけや』と言って、僕がXを呼びにさくらの部屋に行こうと思って女子保母室の前で女子寮の方を見たとき、一番端の部屋(ゆり)の前のへんにXが非常口の方に向いて、そのうしろから頭の袋つきの男っぽいコートにパンタロンのようなズボンをはいて、右肩には黒ハンドバックをかけた、靴をはいた女の人がXの両肩を持って押していた。そのとき、Xはいつものくせで砂を人に投げるようにいやがる仕草をして、アンアンと声を出して座り込んでいた。女の人は、いやがるXの丸首白セーターのうしろ襟首をつかんで立たせようとしていたが、Xはすぐ座り込んでいた。その女の人は、今度は前かがみになってXの両足をもって戸びらの方に引っ張った。このときに、僕は怖かったが、誰だろうかと思っていたので、その顔を見るために女子便所のところに隠れてよく見たところ沢崎先生だった。沢崎先生は、非常口のドアーを右まわりにしてあけて、先に外に出て、Xの足をとって外に出そうとしたところ、Xは先生を蹴ってあばれていた。それでも、先生はXの両足をにぎって外に引きずり出して、ドアーの内側の鍵を中から押して外に出て閉めた。僕は、その後、すぐ非常口の近くの方に行ったが、外を見るのが怖くてディルームの方に帰った。そのとき、テレビは次のテレビが何をしていたか知らないが、はじまってから間がないように思った。僕はディルームで、その晩に食べものをもらえない日なので中学生の子らは何か食べていたが先生におこられると思って、そのまま自分の部屋に帰って寝た。ふとんに入ってうつぶせになっていたところ、乙野先生が『X君おらへんか、どこへ行ったんや』と言うので『しりません』と嘘をついた。それは沢崎先生が怖かったので本当のことを言ったらおこられると思ったから。Xの服装は、白い線の入った丸首セーター、下は黒のズボンのようだった。沢崎先生の服装は、頭の袋つきの黒っぽいコート、色は忘れたがズボンに男っぽい靴をはき、右肩にハンドバックのようなものをかけて持っていた」というものである。

3  検察官の主張の概要

前記のとおり、Bは、事件後三年以上経った昭和五二年五月に至るまで、証言におけるような目撃事実に関する供述を一切していなかった。このような経過がある場合は、何らかの理由により供述しなかったかあるいは供述できなかったという事情が認められなければ、通常であれば、その供述の信用性に疑いを抱かせるものであるから、その信用性判断についてはその理由の検討が必要であり、殊に、Bのような年少児(精神年齢において)の場合には、前記のとおり誘導や暗示により影響を受ける危険性が極めて大きいことが指摘されているところであって、事件直後の供述と異なり時を経た後の供述については外部からの影響が及びやすいのであるから、その信用性判断についてはより慎重な検討が要求されるところである。

検察官は、Bの供述について、<1>Bの目撃供述は、同人の記憶能力、供述能力からみて信用性があること、<2>Bの目撃供述が本件事件から約三年後になされたことは不自然でないこと、<3>Bの事件後の態度、言動は、同人の目撃証言及び供述の真実性を裏付けていること、<4>Bの目撃供述は、その供述経過、供述状況から信用性があること、<5>Bの目撃供述は一貫しており、その取調べに不当な誘導等はなく、信用性があることを主張するので、以下、順次検討する。

4  検察官が主張するBの記憶能力、供述能力に関して

(一) 検察官の主張

検察官は、Bの目撃供述は、同人の記憶能力、供述能力からみて信用性があるとして、武貞証言、吉田証言、武貞・吉田鑑定書で判定されたBの一般的能力、表現能力、虚言能力、記憶保持能力、さらには、一谷証言、一谷鑑定書で判定されたBの知的能力、供述能力を主たる根拠として、「Bが供述する目撃事実は、具体的事実に関するものであり、そこには特に高度の知的操作や、抽象的思考を必要とするものはなく、日常生活内において生起する範囲の具体的、経験的な事実なのであるから、Bの能力の範囲内において十分認知し得る内容のものである。しかも、同人が日常生活を営んでいる場でよく知っている関係人の間に生じた出来事についての供述であって、存在しない事実を実存する事実として誤って認知したことも考えられない。また、Bは、自分が認知したこと、知覚したこと以外のことを想像で組み立てて作り上げる能力は極めて弱く、論理的矛盾を含まずまた深い見通しを持った虚偽の事実を構成することは困難であると判定されているところ、同人の供述する事実は、極めて具体的かつ詳細なものであって、このような詳細な事実を、自己が直接目撃していないのにもかかわらず矛盾なく構成して供述することは到底困難であると考えられ、Bの証言及び供述内容が、自らの体験に基づいて述べられたものであることは明白であって、その供述の信用性は極めて高いというべきである」旨主張する。

(二) 検察官の主張に対する判断

(1) まず、検察官の右主張のうち、「Bが供述する目撃事実は、具体的事実に関するものであり、そこには特に高度の知的操作や、抽象的思考を必要とするものはなく、日常生活内において生起する範囲の具体的、経験的な事実なのであるから、Bの能力の範囲内において十分認知し得る内容のものである。しかも、同人が日常生活を営んでいる場でよく知っている関係人の間に生じた出来事についての供述であって、存在しない事実を実在する事実として誤って認知したことも考えられない」との点については、Bの知的能力(前記一の2の(二)のとおり)に照らし、また、武貞証言、吉田証言、一谷証言からも、異論なく認められる(なお、右の後半部分は認知の点をいう限りにおいてである)ところである。

(2) 次に、「Bは、自分は認知したこと、知覚したこと以外のことを想像で組み立てて作り上げる能力は極めて弱く、論理的矛盾を含まずまた深い見通しを持った虚偽の事実を構成することは困難であると判定されているところ、同人の供述する事実は、極めて具体的かつ詳細なものであって、このような詳細な事実を、自己が直接目撃していないのにかかわらず矛盾なく構成して供述することは到底困難であると考えられ、Bの証言及び供述内容が、自らの体験に基づいて述べられたものであることは明白であって、その供述の信用性は極めて高いというべきである」旨の検察官の主張については、確かに、武貞昌志及び吉田熈延は、武貞証言、吉田証言、武貞・吉田鑑定書において、Bについて、「自分が認識したこと、知覚したこと以外のことを想像で組み立てて作り上げる能力は極めて弱く、そういう虚言はまずできない。その知的能力、性格等全人的な面から考え、論理的な矛盾を含まず、また、深い見通しを持って、虚偽の事実を構成することは困難である。その内容が緻密になるほど困難の度を増すといえる」旨判断し、一谷彊は、一谷証言、一谷鑑定書において、「本件事件当時のBが相当する知的水準における知能や思考の特色は、知的イメージに大きく支配されて行動し、物事を理解することである」旨判断しているところであり、また、一谷鑑定書中には「実験的調査の結果、知能検査などの反応からみて、Bには虚言的傾向が否定できる」旨の判断記載がある。

しかしながら、次のとおり、武貞、吉田、一谷の右各判断はいずれも根拠に乏しいといわざるを得ないのであり、右判断をその前提とする検察官の右主張はとることができない。

ア まず、武貞証言、吉田証言、武貞・吉田鑑定書については、右判断の根拠があいまいであるということである。

すなわち、右判断の根拠は、「知的能力、性格等全人的な面から考え」(鑑定主文では「知能、人格的全体的な構造から考え」)たというのであるが、右鑑定書の内容をみると、その理由となるべき性格、人格に関する記述中にはその旨の記載がなく、結局はWISC知能検査を直接の根拠とし、中度の精神遅滞児であることを加味しているというものと理解できる。しかしながら、そもそもWISC知能検査という一つの検査で右のような判断ができるのか極めて疑問であるうえ、右検査は一回実施したものであるが、当初Bはやりたくないと言ったりふざけたりしていたというのであり、その結果も、同じころに実施された一谷鑑定書記載のWISC知能検査の結果と大きく相違しているのであって、右判断には疑問があるといわざるを得ない。

また、中度の精神遅滞児の特徴からといいながら、その具体的根拠は明らかになっておらず、逆に武貞証言では、弁護人が指摘するように、精神遅滞児でも、「単純なこと、日常生活上あり得るような事項については暗示にかかることもある」、「物語を読んで聞かされてその中身を楽しむことはある。物語の中身について記憶に残すこともできる」、「その人が持っている生活実態と言語能力さえあれば、作話というのは展開できる」、「自分が理解できる範囲であれば、客観的に存在しない事項でも再現することは可能である」旨供述し、虚言の前提となる事項を認めている。

イ 次に、一谷証言、一谷鑑定書については、その根拠とする知的水準の考えに誤りがあり、とり得ないということである。

すなわち、一谷は、教育心理学、特に性格分析に関する投影法を専門分野にしており、発達心理学については専門家ではないこと、岡本夏木が発達心理学の第一人者であり、右岡本の発達心理学の著述部分を引用していることを自ら認めているところ、右岡本によって、一谷鑑定書中の長期記憶に関する実験的調査方法についての誤り、エビングハウスの実験の誤解、記憶の干渉に関する誤解等が指摘され、一谷自身一部そのことを認めたり、弁護人の指摘にも的確に反論ができていないのである。殊に、前記検察官主張の一谷の判断部分は、ピアジェの発達段階の理論に基づく直感的発達段階の理解を前提にしているものであるが、右岡本により、その理解の誤りが指摘されている。

さらに、一谷鑑定書中の前記「虚言的傾向が否定できる」との点については、その根拠としてあげるP-Fスタディ検査は虚言傾向の判断には関係がなく、また、知能検査中にも虚言傾向をみる項目がないことを、一谷自身認める趣旨の証言をしているのである。

ウ さらにいえることは、検察官の主張する右判断は、「論理的な矛盾を含まずまた深い見通しを持って虚偽の事実を構成すること」に関することであるが、本件でBが供述している内容は、そのような複雑な事柄ではないということである。

すなわち、Bが供述する目撃事実というのは、女子棟廊下においてXと保母である被告人がいるのを見たということを基本にしており、その限りにおいては甲山学園における日常ありふれた出来事といい得るものであり、その細部の状況、それから発展するXの連れ出し状況も含め、「論理的な矛盾を含まずまた深い見通しがなければ構成できない」というものとは思われない。

エ また、一谷も発達心理学の第一人者であると認める右岡本によって、Bの知能程度の発達段階にある者について、物語構成能力、作話能力がある旨指摘されていることである。

すなわち、岡本は、「空想、作話の簡単なものは二歳くらいからできるし、四、五歳になればもっとできる。対話が子供の言語活動の基本であり、子供が対話をやれるようになると、その段階で作話がどんどんできるようになる。精神年齢六、七歳くらいの場合、うそをつく動機が多く、誰かを陥れるとか、人を喜ばすためであるとか、先生の考えを感じとって、うそを言うなどがある」旨証言している。

オ そして、右武貞証言等においてさえ、Bの作話能力や依存性、多言性、場当たり的供述等の傾向がうかがわれるほか、B児童記録(当審弁六八)等によれば、種々の虚言の事実がうかがわれる。

すなわち、例えば、一谷証言では、「他人に認められたいという欲求が顕著である。他者依存的で、庇護・救済を求める傾向、社会的承認への欲求が強い傾向にある」旨、武貞・吉田鑑定書、吉田証言では、「自我が弱く不安定であり、依存的で他人に従っていると安定感がある」とか「他からの影響を受けやすく、相手に対して迎合しやすい。自分への注意を引きたがり、相手から見放されることに不安を持っている。自己の利害に比較的敏感で、相手の動きに応じて自分の動きを変える」旨指摘されており、右各証言、B生活指導状況報告書(当審職二九)、B児童生活記録(当審職三一)、戊山証言を総合すれば、Bの性格特性として、社交的、活動的で、迎合的なところがあり、多言的傾向があることが指摘できる。そのうえ、武貞証言では「Bが思い付いたことをばっぱっと口から出任せに言う場面がいくらでもある」旨、吉田証言では「場当たり的に、その場限りの答えをする傾向がある」旨までも指摘されている。さらに、弁護人が指摘するように、B児童記録、B生活指導状況報告書、B児童生活記録中にはBの虚言といってもよい言動が記録されているのであり、その中には、単なる否定的弁解のみならず、積極的に虚偽の事実を作り上げたとみられるものや、社会的承認の欲求を動機とするものがみられ、そのこと自体を一谷は一谷証言において認めている。

なお、検察官は、右の指摘に関して、「Bについては、盗癖の存在はうかがわれるが、虚言癖の存在は見受けられない。武貞・吉田鑑定書によれば、自己が悪いことをして他から問いつめられたような状況下に置かれた場合には、自己の責任を回避し、自己に対する叱責を免れるため、単純なうそをつくことはあっても、そのような状況がないのにかかわらず、自ら積極的にうそをつくようないわゆる虚言癖がBに存していないことは明らかである」旨主張し、「B児童記録によっても、Bが積極的にうそをついたような状況はみられず、右児童記録中にみられるBの弁解は、それが虚偽のものであったとしても、それは、自己に対する責任追及を逃れるための消極的なうそにすぎず、その内容も全く単純なうそであって、これをもって、本件目撃事実がBの虚言癖から出た虚偽事実の可能性があると考えられないのはもちろん、むしろ、同人が、自己に対する責任追及の可能性などが全くない状況の中において、積極的に本件目撃事実を供述していることは、同人の本件目撃証言及び供述が虚偽でないことを裏付けているというべきである」旨主張する。

しかしながら、武貞・吉田鑑定書についての疑問点は前記のとおりである。また、ここで問題にしているのは、Bに虚言癖があるかどうかではなく、右鑑定書で判断されたようにBの能力からみてうそをつくことがないといえるかどうかということなのであり、検察官の主張とは前提を異にしている。さらに、検察官は、Bがうそをつくとしてもそれは自己の責任を回避する場合における単純なものだけである旨を前提にして主張しているのであるが、その根拠となる右鑑定書自体に前記のとおり問題があるうえ、B児童記録中の記載にあるBの言動は、検察官主張のようなものだけではないことは前記のとおりである。したがって、検察官の右主張は理由がない。

5  検察官が主張する、事件から三年後に供述したのが不自然でないことに関して

(一) 検察官の主張

前記のとおり、Bの目撃供述は事件から約三年後になされたものであるが、検察官は、そのことが不自然ではない旨主張し、事件後約三年間供述していなかった理由について、「見たことを言うと、Xと同じように連れて行かれると思い、怖かった。乙谷からジャングルジムから投げられたりしたことがあり、その乙谷から口止めをされたことや、父親から『いらんことは言うな』と言われたためである」旨のB証言を信用できる旨主張するので、以下、検討する。

(二) Bの供述調書の記載からみた疑問

まず、検察官主張のB証言のような事実が認められるか否かは後にそれぞれ検討するとして、Bの事件後まもないころの供述調書等をみると、Xに関連する事実を含め種々の内容が実に豊富に記載されており、到底、右のような検察官の主張では説明できない内容となっているのであって、このことだけからでも検察官の主張には大きな疑問があるといわざるを得ない。

(1) Bの事情聴取状況及び生活状況等の概観

その前提として、Bの事件後の事情聴取状況とそれに関連するBの生活状況等を概観すると、それは次のようなものである。

ア Y子、Xの死体が発見された翌日である三月二〇日、Bを含む青葉寮にいた園児は若葉寮に移されたが、三月二一日ほとんどの園児が甲山学園から帰省し、Bも同日父親に連れられて姫路市内の自宅に帰り、父親のもとで生活していた。四月七日本件殺人容疑により被告人が逮捕されたが、Bは、自宅において、被告人逮捕の報道をテレビで見たりしていた。その後甲山学園が再開され、Bも四月二四日ころ甲山学園に戻ったが、五月三一日甲山学園を退所して再び姫路市内の自宅に帰り、六月一二日丙丘園に入所した。

イ この間、まず、三月二六日、自宅において、機動捜査隊員高品静生及び中神保美によって太郎から事情聴取がなさられ、49・3・26捜復(弁九八)が作成され、四月二日、自宅において、巡査部長宇高時雄によって太郎立会いのもとでBから事情聴取がなされ、49・4・2員面(弁一〇二)が作成された。四月一一日、自宅において、検察官村越安好によって太郎立会いのもとでBから事情聴取がなされ、49・4・11検面(弁一一四)が作成された。そして、四月二四日ころBは再開された甲山学園に戻ったが、被告人が四月二八日処分保留のまま釈放され、五月二四日に甲山学園に立ち寄った際、Bは被告人と出会っており、そのときの様子が写真撮影されている(弁一八七)。翌五月二五日、甲山学園において、巡査部長斉藤栄治郎によって当時の甲山学園園長乙海三夫の立会いのもとでBから事情聴取がなされ、49・5・25員面(弁一〇三)が作成された。

(2) Bの供述内容

右(1)のイ記載のうち、事件後間もないころに作成された49・3・26捜復、49・4・2員面、49・4・11検面における、Xがいなくなった日の午後七時ころ以降のことについての記載内容は、おおむね以下のとおりである。

ア 49・3・26捜復では、父親太郎から聞いたこととの記載で、Bからの話として、「電話を教えてくれたのは乙野先生で、その時テレビを見ていた。午後七時から八時ころの間、僕はテレビを見ていた。Xは、女の子のA子の部屋で、A子、H子、G子、Xの四人で先生ごっこをしていた。僕は、先生ごっこに加わらずテレビを見ていたが、時々見に行った。午後八時ころ、A子の部屋に行ったらXはいなかった。パジャマを着ていたとき、先生がXがいなくなったと言って、懐中電灯を持って、押し入れ、便所などを捜していた。その後は寝た」旨の記載があり、さらにその日の朝九時前ころにXが服を着替えているのを見たことや、着替えたXの服装についての記載もある。

イ そして、49・4・2員面では、「午後七時からディルームのこたつに入り、テレビのキャシャーンを見ていた。そのとき、Xは、A子の部屋で、A子、R子、G子、H子、Qと六人で先生ごっこをして遊んでいた。この先生ごっこという遊びは、先生と生徒に別れ、先生になったものが生徒になったものに歌や勉強を教えて遊ぶ。午後七時から七時三〇分ころまでの間は、A子、R子が先生になり、G子、H子、Q、Xの四人が生徒になって遊んでいた。僕が先生ごっこをして遊んでいるのを見に行ったのは、一緒に先生ごっこをして遊ぼうかと思って行ったが、あまり面白そうでなかったので、遊ばずにディルームに戻って来て、テレビを見ていた。七時三〇分、乙野先生がチャンネルをかえて、イナズマンをかけてくれたので、見ていると、乙野先生が『お父さんから電話がかかっている』と呼びに来た。男子保母室に行きお父さんと電話で話をしたが、僕が男子保母室に行くとき見ると、Xはいつの間に来たか知らないが、僕がテレビを見ていた右前の畳の上に座ってテレビのイナズマンを見ていた。男子保母室で一〇分間位お父さんと話をして、ディルームに戻って来ると、テレビはイナズマンの次週の予告をしていたが、こたつに入って、Xがいた畳の方を見ると、Xはいなかった。すぐに午後八時になったので、小学生は午後八時からはテレビは見られないので、部屋に帰り、同室のI、Jと一緒に寝た。(テレビを見ていたときのXの服装と何人位がテレビを見ていたか問われて)Xは、そのとき、薄茶地に白い縦のすじの入った襟の大きいセーター、黒い長ズボンを着ており、テレビは、K、B1、D、C1、M、D1等二〇人位が見ていた。僕が、Xがいなくなったことを知ったのは、翌日の二〇日朝、青葉寮のお姉ちゃんから聞いて知ったが、Xがなぜいなくなったのか訳は分からない」旨の記載がある。

ウ また、49・4・11検面では、「僕が、午後七時からのテレビキャシャーンを見て、次に午後七時半からのイナズマンをディルームのこたつに入って見ているとき、Xは、『さくら』のA子の部屋で、A子、R子、G子、H子、Q等と、先生ごっこをしたり、ディルームに来て畳の上でテレビを見たりしていた。八時少し前、父から電話がかかっていると乙野先生が呼びに来たので、男子保母室に行ったが、行くとき、Xはディルームの畳の上でテレビを見ていた。父と電話をして、ディルームのこたつのところに来たとき、来週のイナズマンをやっていた。そのときは、Xはもうディルームにはいなかった。僕は、一〇分位父と電話をした。僕は、もう寝る時間だったので、歯をみがいてすぐ寝た。僕が寝てから、乙野先生が僕の部屋等捜していた。僕は、朝になって食事に行くとき、Kから、Xがいなくなったことを聞いた」旨の記載がある。

(3) 検討

このように、事情聴取であるから、主として行方不明になったXに関することについて聞かれてそのことが中心に供述調書等に記載されるのは当然のこととしても、Xが「さくら」の部屋にいたことや遊びの内容、その後Xがディルームにいたことやその場所、そこからXがいなくなっていたことなどについて具体的に種々供述した内容となっている。加えて、右以外に、Y子のいなくなった日のことについても、Y子の行動を中心にして多くの内容が記載されている(特に49・4・2員面において)のである。果たしてこれが、検察官が主張するような怖がっていたとか口止めをされていた者の供述と評価できる内容といえるのか、極めて疑問である。

すなわち、Bがこれらの供述をする前に仮に口止めがあったとして、その口止めの内容にもよるであろうが、後に検討するような「余計なことを言うな」とか「Xのことを言うたらあかん」とかいうことであれば、右のような豊富な内容になっていることの説明が付かず、そもそも、検察官の主張によれば、そのような漠然とした言葉による口止めによって、Bがそれを理解し、言ってよいことと言ってはいけないことを判断して供述したということになると思われるが、関連した事実をも含めて全く供述しない場合であればまだしも、ある程度区別して供述することはそれ自体一般的にいっても困難な作業であり、前記のとおりのBの精神年齢を考慮すればより困難な作業であることは明らかである。そして、右Bの供述中には、Xが「さくら」の部屋にいた時期、その後Xがディルームにいたこと、Xがそこからいなくなっていることに気付いたことなど、後に供述する目撃事実と一部矛盾した内容も含まれており、到底、その目撃事実だけを言わなかった供述とは評価できず、結局、右検察官の口止めの主張によっては説明ができない内容となっているといわざるを得ない。また、右にみたように、乙谷や被告人が怖かったことにより供述しなかったあるいはできなかった者の供述とは到底いえないほど、XあるいはY子に関する事実がまことに詳しく記載されているのであり、検察官の主張するようなBの心理状態を感じさせるものとはいえない。

(4) 小括

以上のとおり、事件後間もないころの供述調書等の記載内容自体からは、検察官の主張を裏付けることはできず、むしろ、検察官の主張を否定するものといわざるを得ない。

次に、以下において、検察官の主張する理由について個別に検討する。

(三) 被告人を怖がっていたとの主張について

(1) 検察官の主張

前記のとおり、Bは、「見たことを言うと、Xと同じように連れて行かれると思い、怖かった」旨証言しているが、検察官は、右Bの証言は信用できる旨主張し、その根拠として、<1>Bが目撃した事実は極めて衝撃的な出来事であり、被告人に恐怖感を抱いたとしても何ら不自然なことではないこと、<2>Bは、最初に目撃事実を供述した昭和五二年五月七日においても、これまで供述しなかった理由の一つとして右の点を述べていること、<3>Bがおびえていたことは、青葉寮職員で同人の担任保母であった戊山及び父親太郎の供述から明らかであることをあげる。

(2) 検察官主張の根拠<1>及び<2>について

検察官が根拠としてあげる<1>については、Bが真に目撃していれば当然いい得ることであり、そのことには異論はないものの、それをもってBが怖がっていたことの根拠とし得るものでないことは明らかである。また、<2>については、後述の昭和五二年五月七日の事情聴取状況の検討のとおりであり、右記載があることは事実であるが、それは取調べをした西村の影響による供述の疑いがあり、この記載をもって右根拠とするには疑問がある。

(3) 検察官主張の根拠<3>について

ア Bの担当保母であった戊山は、「Bは不断は、すごく明るくて物おじしないようなところがあり、人なつこいが、事件後は、戊山が帰るときに、何か怖がったみたいに帰るな、園に泊まってほしいと言うようになった。また、初めのうちは、刑事が来ると付いて回り、いろんなことを聞いたり、普通の話をしていたが、いつからか覚えてないが、刑事のそばには全然近寄らなくなった」旨証言(戊山証言)し、戊山の52・5・17検面(当審検二〇一)においても、「事件後、Bは実家の方にしばらく帰り、しばらくして園に戻ってきたが、そのころからおびえている様子があり、急に怖がりだした。このような状態は、同人が退園する昭和四九年五月末ころまで続いた」旨供述している。

しかしながら、戊山証言によれば、同人が、Bが何か怖がっているように感じたというのは、戊山が帰るときに、帰るなとか園に泊まってほしいと言うようになったからというにすぎないのであり、その言動自体は、園内が非常に緊張している状況を察して怖かったのではないかとか、園児が全員いたわけではないことから寂しかったからではないかともとらえることができる事実であり、逆に、戊山は、Bの態度について、「昼間子供同士で遊んでいるときとかは変わってなかったように思う。保母たちとの接し方でも、全然変わってなかったと思う」とか「Bが、特定の職員に対して怖がっているそぶりを日常生活の中でみせていたようなことはなく、乙谷に対しても、特に変わった態度をとっているということはなかった。ごく普通に接触していたと思う」と供述しているのであって、このようなBの態度は、検察官主張のような目撃による大きな恐怖心を抱いた者の態度とは思えないものである。

そのうえ、戊山は、Bの態度の変化を見たと言いながら、特にBに対してその理由を尋ねたり手当をしたりはしていない(警察官にこの点を述べたのかについて、戊山は述べたと思う旨証言するが、それをうかがわせる記載はない)のであって、戊山の供述するBの態度の変化自体がさほどのものではなかったことをうかがわせるものである。

また、戊山は、Bが生活態度を変化させたことの一つとして、それまでと違って警察官に近寄らなくなった点を供述しているが、そのこと自体は検察官主張の恐怖心を裏付けるものとはいい難いものである。

さらに、戊山の供述によれば、同人自身が、本件を乙谷と沢崎の共犯であると思っていたり、乙谷の言動から自分の身に危険が迫るのではないかと考えたというのであるから、Bの行動の変化及びそれに関する戊山の評価についての供述内容を、そのまま認めることには疑問のあるところである。

イ 検察官は、父親太郎が、「事件後すぐにBを自宅に引き取ったが、その後甲山学園の方に戻した。しかし、それから、車で甲山学園に行ったときに同人が車に乗り込んできて、甲山学園にいるのが嫌だということで車から降りようとしないので、連れて帰った」旨証言(丁原太郎控訴審証言)している点を指摘し、Bが、事件直後から甲山学園退園時まで、何かにおびえていたことは明らかである旨主張する。

しかしながら、「甲山学園にいるのが嫌だ」という場合には、種々の理由が考えられるのであり、このBの言動だけから、検察官の主張のような恐怖心を根拠付けることはできない。

ウ したがって、検察官主張の<3>の点も根拠にならないといわざるを得ない。

(4) 検察官の主張と矛盾する事実の存在

前記のとおり、本件後間もないころに作成された供述調書等の記載からは、右検察官主張の事実をうかがわせるものはないのであるが、それ以外にも、検察官の主張とは異なる次のような事実が認められる。これらの事実はある一面だけをとらえているものであり、そのことによって検察官の主張を直接否定するものではないが、検察官の主張では説明できず、また検察官の主張とは矛盾する面を待っていることは明らかである。

ア 業務日誌(当審弁六五)によれば、昭和四九年三月二〇日の児童の行動記録欄に「E子、Dはたいくつ気味。K、L子はそうでもない様子。I、A子、B、楽しそう」との記載がある。これは前記戊山証言の「Bは学園に戻ってきてから怖がりだした。Bの態度は昼間は変わりなかった」との供述とも合致するものであるが、Xがいなくなった翌日という、検察官の主張によればその恐怖心は極めて大きいと思われる時期であるにもかかわらず、右のようなBの態度が記載されているのであって、検察官主張の恐怖心とは矛盾する事実である。

イ 前記のとおり、四月七日被告人が逮捕されている。検察官の主張によれば、Bは、保母である被告人がXを連れ出したことを目撃し恐怖心を抱いていたというのであるから、Xを連れ出した被告人が逮捕されたという事実は、その目撃者であるBにとって極めて大きな意味を持っているといえる。そして、前記のとおり、Bは、被告人が逮捕された事実はテレビを見るなどして知っていたのであるから、被告人逮捕により、Bの態度等に何らかの変化が生じると考えるのが自然である。

ところが、そのような変化をうかがわせる証拠はなく、例えば、Bは、被告人逮捕後の四月一一日に検察官から事情聴取を受けているのであるが、その際作成された49・4・11検面の内容は、被告人逮捕前に作成された49・4・2員面とほとんど同じであり、全くといってよいほど変化がない。このことは、検察官の主張を前提に考えれば不自然な事実ということができる。

ウ Bは、B証言で、「沢崎先生が警察から帰って来たとき、甲山学園の門を入ったところで、沢崎先生に『X君やY子ちゃん殺したん違うか』と言った」旨供述している(50・8・8員面弁一〇四にも同趣旨の記載があるが、言った場所は食堂となっている)。また、戊山も、「被告人が釈放された日に、食堂において、Bが被告人に『先生はY子やXを殺したやろ』というようなことを言っていた」旨供述している(戊山証言、戊山の52・5・17検面)。

戊山の右供述は、前提事実があいまいであるとか、そのことが同人の調書上出てくるのはそのことがあったとされる時期から一年も経ってからであることなどから、その信用性にやや疑問があるものの、仮にBがそのようなことを直接被告人に言ったとすれば、目撃後約一か月経ったころに、しかも目撃したその相手に「X君やY子ちゃん殺したん違うか」と直接言うことは、被告人に対する恐怖心からは到底説明できないことであり、しかも、検察官の主張によれば、その旨の記載があるBの供述調書が作成された昭和五〇年八月というのは、未だ恐怖心が残っていた時期と思われるのであるが、そのころにBが右のように被告人に言ったことを警察官に供述すること自体、同様に説明できないことといわざるを得ない。

この点について、検察官は、「被告人がXを殺害したと考えているBが、その本人である被告人をたまたま目撃した場合に、黙っていることができなくなって突発的に右発言を行うに至ったことは十分考えられ、Bのやむにやまれぬ気持ちから出ていることが明らかである」旨主張する。

しかしながら、検察官は、三年間も目撃事実を誰にも供述しなかった理由の一つとして被告人に対する恐怖心をあげているのであるから、その恐怖心がBにとってかなり大きなものであったことを前提に主張していると考えざるを得ない。それにもかかわらず、恐怖心の対象である被告人本人に対し、「突発的に」発言することが十分考えられるというのは、到底納得し得るものではない。しかも、それが「やむにやまれぬ気持ちから」というのも、なぜ当の本人に言うことが「やむにやまれぬ気持ちから」なのか理解しがたいといわざるを得ない。

エ 弁護人上野勝作成の写真撮影報告書(弁一八七)によれば、前記のとおり、五月二四日に被告人が甲山学園を訪れた際の状況が写真撮影されているが、右報告書添付の一九枚の写真の中には、Bが、被告人の近くにいて、また、被告人の体に触れたりして写っているものが散見されるのであり、このことは、検察官主張の恐怖心では説明しがたい事実である。

(5) 小括

以上のとおり、検察官の右主張については、その根拠としてあげるところは理由がなく、また、前記のとおり、事件後間もないころに作成された供述調書等の記載内容自体からは右主張事実がうかがわれないことや、むしろ、右主張とは矛盾し、あるいは説明できない事実が指摘できるのであり、結局、右主張は理由がないといわざるを得ない。

(四) 乙谷からの暴行、口止めの主張について

(1) 検察官の主張

検察官は、「Bは乙谷から暴行を受けて乙谷に恐怖心を抱いていたが、その乙谷から口止めされた」旨主張し、それを裏付けるものとして、Bの供述と丁原太郎、乙沢冬子らの供述をあげる。

(2) Bの供述とその検討

ア 検察官の主張を裏付けるものとしては、B証言がある。すなわち、Bは、主尋問において、「乙谷にタイヤを持てと言われたが、Kにかわったところ、ジャングルジムの上から投げられた。また、一輪車に土を運んで上まであがるとき、一輪車をこかし、乙谷に足を蹴飛ばされたことがあった。それで、乙谷を怖いと思っていた。ジャングルジムの横の市電の中で遊んでいるとき、その乙谷が電車の中に入ってきて、『Xがおらへなんだことは警察にもお父さんにも言ったらあかん』と言われた」旨証言し、また、反対尋問においても同趣旨のことを証言している。

しかしながら、右反対尋問においては、口止めされた時期について、「甲山学園にいるときの昼間で、沢崎先生が帰って来る前」と答え、さらには、「家に帰るより前の甲山学園にいたとき」とか「青葉寮にいたとき」と答えており、前記のとおり、事件後は一時的に若葉寮にいて、三月二一目からは自宅に帰っていたものであり、結局はいつのことかよく分からない証言になっている。そのうえ、「口止めされたのは、Xが行方不明になった日より前のことか後のことか」との質問に「前の日」と全く不合理な答えもしている。

また、弁護人からさらに具体的に質問されたときの証言をみると、例えば、何を頼まれていると思ったかとかどんなことを言ったらあかんと言われたと思っているのかとの質問には沈黙し、「口止めされるまでに乙谷に事件の日のことは話していない」と答え、事件のあった日のことはみんな言ったらあかんということだと思っていたのかとの質問には「はい」と答えたり、「乙谷に口止めされるまでにも言わなかった」とか「口止めされたから、もう言わないようになった」と答えたり、乙谷の言うことだったら聞くのかとの質問に「あまり聞かない」と答えるなどしている。

これらの証言は、前記のようなB証言にみられる特徴の一つであるところの、同じことを聞かれても様々な供述をしたり矛盾した供述をするとの特徴を示しているものと評価できるのであって、適当に思い付くまま供述しているのではないかとの疑問が払拭できず、結局、右乙谷による口止めに関する証言自体、その信用性が乏しいといわざるを得ない。

イ それでは、Bが捜査段階においてはどのように供述しているのかをみると、右B証言の主尋問と同趣旨の供述は、54・12・5検面(弁一二四)になって初めて出てくる。その内容は、「西村警察官に聞かれるまで言わなかったのは、沢崎先生や乙谷先生が怖かったから。乙谷先生から言うなと言われたから。甲山学園にいるときに、乙谷先生から、警察やお父さんから聞かれてもXのことは言うたらあかんと言われた。僕が、市電の運転するところで遊んでいたときに、乙谷先生から言われた。沢崎先生がXを連れ出したところを見たと、乙谷先生には言っていない。言ってないのに乙谷先生がXのことを言うたらあかんと言うので、僕が沢崎先生がXを連れ出すところを見たのを乙谷先生が知ってるのかなあと思った。沢崎先生が怖いのは、僕が沢崎先生がXを連れ出すのを見たことをしゃべったら、僕も沢崎先生からXみたいに殺されると思った。乙谷先生が怖いのは、僕がタイヤ持たなかったら、ジャングルジムから落とされた。一輪車で土を運んでたときにひっくり返したら、足を乙谷先生から蹴られた。沢崎先生がXを連れ出したことを話したら、乙谷先生が怒って僕を投げたり、蹴ったりすると思った」というものである。

ところが、Bが初めて目撃状況を供述をしたときの52・5・7員面では、「今まで本当のことを知っていて話さなかったのは、お父さんから言うなよと言われたし、沢崎先生が怖かったから」というにすぎず、乙谷による口止めの事実は供述していない。

その後の供述調書をみても、52・5・10員面(弁一〇六)では、被告人が怖かったことと父親から「いらんことを言うなよ」と言われていたので黙っていたと供述し、すぐ次に、タイヤを持たされようとしたときのことを述べて乙谷が怖いと供述しながら、乙谷による口止めの事実は供述していない。

また、52・5・11検面(弁一一五)では、右52・5・7員面と同趣旨であって、乙谷による口止めの事実は供述していないし、もう一通の52・5・11検面(弁一一六)では、右タイヤのことで乙谷に投げられたことは供述しているが、そのことと口止めとの関連には何ら触れていない。52・5・21検面(弁一一八)及び52・5・29員面(弁一一二)でも、右52・5・7員面と同趣旨であって、乙谷による口止めの事実は供述していない。

右にみたように、Bが目撃供述をはじめたのは昭和五二年五月七日であり、それから多数の供述調書が作成されている。当然なぜ今まで言わなかったかについて聞かれているはずである。それにもかかわらず、右のような形での供述しかなされておらず、乙谷による口止めの事実が出るのはそれから二年半以上も経ってから、それも一通の調書があるにすぎない。乙谷から暴行を受けた事実については具体的に供述し、乙谷が怖いとまで供述しながら、乙谷に口止めされていることは述べず、二年半以上の時を経て唐突にその供述が出てくるのは不自然といわざるを得ない。このことは、それだけ乙谷が怖くてその口止めが功を奏していたともいえなくはないが、右のとおり、乙谷から暴行を受けた事実について具体的に供述し、乙谷が怖いとまで供述していることや、後記の検察官主張のBが目撃状況を供述した際の状況からすれば、やはり不自然といわざるを得ない。

ウ なお、Bは、B証言では、乙谷から暴行を受けて乙谷を怖いと思っていてその乙谷から口止めをされた趣旨の供述をしている。

Bは、タイヤを持たされようとした際に乙谷から暴行を受けた事実(右証言における乙谷からの暴行のうち、一輪車の際に暴行を受けたことは、54・12・5検面とB証言にだけ出てくるものであり、しかも一輪車のことが出るのは53・3・15検面< 弁一二三>が最初であるが、そこでは、タイヤを運べと言われたことがそれまでにあったのかということで質問され、一輪車で土を運べと言われたことがあったと供述しているにすぎない。したがつて、一輪車の際に暴行を受けたとの供述の信用性には根本的な疑問がある)については、第一次捜査段階においても、昭和五〇年五月七日の事情聴取の際に供述したことがうかがわれ(52・6・13捜復弁一〇一)、50・8・8員面でも同趣旨の供述をしており、これらの供述を総合すると、乙谷から暴行を受けたという時期は、一部供述の変遷はあるが、一度自宅に帰り再び甲山学園に戻った四月二四日ころ以降ということになり、Bが供述する乙谷による口止めはその後ということになる。そうすると、前記のとおり、それ以前に作成された供述調書中に目撃事実に関する供述が一切ないことの説明が検察官の主張ではつかないのである。

エ 以上を総合すると、乙谷による口止めに関するこれらB証言及び右54・12・5検面の供述の信用性については、大きな疑問があるといわざるを得ない。

(3) B以外の供述とその検討

ア 検察官は、Bが口止めをされていた事実については、<1>丁原太郎が「聞いた日にちは覚えていないが、Bから、『乙谷先生から、市電のところで、沢崎先生のことは言うな。Xを連れ出したことは言うなと言われた』旨のことを聞いたことがあった」旨証言していること、<2>Xの母親の乙沢冬子は、「五月五日保護者会のため甲山学園に行ったところ、Bが、私を呼んで駆け寄ってきて『Xは沢崎先生に殺されたんや。殺されたと言ったら僕も殺されるから、言ったらいかんと言われた』旨言ってきた」旨証言していること、<3>Bのみではなく、D、E子、R子、K(戊山証言により)も、同じように口止めの事実を供述していることから明らかである旨主張する。

イ 検討するに、検察官は、乙谷による口止めの事実については、いつ、どのような口止め行為があったのか具体的に主張しないまま、右のようないわば間接事実によって乙谷から口止めされていた旨のBの供述が信用できると主張するだけである。

しかしながら、Bは、前記のとおり、ジャングルジムの横の市電の中で遊んでいるときに乙谷から「Xがおらへなんだことは警察にもお父さんにも言ったらあかん」と言われた旨、ある程度具体的に口止め状況を供述している。右乙谷による口止めというのは、Bが長期間目撃事実を供述しなかったことを合理化する一つの重要な事実であり、口止めをされたというそのB自身がその状況について具体的事実を供述している以上、その具体的事実の有無とその信用性を問題にすべきであり、それを離れたいわば抽象的ともいえる「乙谷から口止めされた」という供述だけを検討すれば足りるというものではない。この点において、検察官が具体的事実を主張しないまま、右のような間接事実によってB供述が信用できるとだけ主張するのは、それ自体相当とはいえない。

もっとも、「口止め」という事の性質上、具体的事実を明確にしがたい事柄でもあるので、間接事実によって、ある程度抽象的ともいうべき「口止め」に関する供述が裏付けられる場合もあることは否定できない。しかしながら、本件の場合は、Bがその状況について具体的事実を一応供述していること、それを含めて口止めに関するBの供述内容はその信用性に大きな疑問があることからすれば、右のように間接事実によって口止めに関する供述が裏付けられる場合があるとしても、その間接事実というのは、口止めとの関連性が具体的で意味のあるものでなければその裏付けにはならないというべきである。

その点から検察官の主張する点をみると、<1>については丁原太郎がBの言ったことを聞いたというにすぎず、その時期も明確でないものであり、B供述の信用性を高めるものとはいえず、また、<2>、<3>については、園児に対する口止め全体の問題として前に検討したが、Bに関する限りでは、右Bが具体的に供述する態様による口止めの事実を推測させるものでないことは明らかであるから、右検察官の主張はとれない。

(五) 父親からの口止めの主張について

(1) 検察官の主張

検察官は、「Bが父親から『いらんことは言うな』と言われた事実については、昭和四九年四月二日の警察官の事情聴取の際に、太郎が警察官の態度に立腹し、Bに対し『警察には何も言わなくてもいい』旨述ベていることが、丁原太郎控訴審証言から明らかであり、これが、Bをして警察に本件目撃事実を供述することを阻害する一因となったことも明らかである」旨主張する。

(2) 検察官の主張に対する判断

ア 丁原太郎控訴審証言によれば、太郎は、「四月二日、宇高刑事ともう一人の若い刑事が自宅に事情聴取にきたとき、若い刑事が犯人扱いのような言葉を吐いたので、私は腹を立てて怒り、『何も言わんでよろしい』と大きな声で言ってBに席をはずさせた」旨供述している。

しかしながら、右証言において、太郎は、「その直後、宇高刑事が『申し訳ない』と謝ったので、機嫌を直し、Bに『知っていることは話しなさい』という趣旨のことを言った。そして、Bは質問に対しては十分考えながら答えていた」旨、また、「四月一一日の村越検事による事情聴取の際、Bは一所懸命に答えていた」とも供述しているのである。

イ 右太郎の証言を総合すれば、太郎は、刑事の言葉に一時立腹して「何も言わんでよろしい」との発言をしたが、その直後に、刑事が謝罪をしたためその状態は解消され、太郎がBに「知っていることは話しなさい」という趣旨のことを言って事情聴取が続けられ、Bは、事情聴取に素直に応じていたという経過が認められる。前記のとおり、この際に作成された供述調書(49・4・2員面)をみると、内容においても、量においても、極めて豊富なものとなっており、右の経過が裏付けられているということができる。

ウ 丁原太郎控訴審証言によれば、太郎は、Bから目撃事実等について聞いておらず、Bが何を知っているのかについては全く知らないというのであり、また、B証言によれば、Bも父親に事件のことは話していないというのであるから、Bも父親がBの目撃事実を知っているとは思っていないといえる。このようなBと太郎の事件に関する認識を前提にすれば、右太郎の「何も言わんでよろしい」との言葉をBが目撃事実を供述してはいけないという口止めととらえ、以降目撃事実だけは供述しなかったと考えることは、極めて不自然である。

また、後記のとおり、約三年後の「警察のおじちゃんが調べに行ったらBの知っていることを言ったらええ、言うてしんどかったら言わんでええ」との言葉を、この口止めの解除と考えることは、そのこと自体に大きな無理があり、さらには、仮にその言葉が口止めの解除といえるのであれば、「何も言わんでよろしい」と言われたその直後に、言った太郎自身から「知っていることは話しなさい」という趣旨のことを言われたことは、当然のことながら、その解除になると考えるのが自然である。

エ したがって、検察官の右主張は理由がないといわざるを得ない。

6  検察官の主張するBの事件後の態度、言動について

(一) 検察官の主張

検察官は、Bの事件後の態度、言動は、同人の目撃証言及び供述の真実性を裏付けている旨主張し、前記のBが被告人に「X君やY子ちゃん殺したん違うか」旨言ったこと、また、前記の乙沢冬子が五月五日にBから「Xは沢崎先生に殺されたんや。殺されると言ったら僕も殺されるから、言ったらいかんと言われた」旨言われたことについて、甲山学園における青葉寮職員と同寮園児の関係は対等ではなく、支配、服従の関係にあったことは明らかであるとして、「このように、甲山学園職員に対して精神的に従属関係にあったBが、園児を指導、監督する立場の学園職員である被告人について、直接あるいは間接的であるにせよ、右のような発言を行うことは、B自身にとって、相当の心理的負担を要する行為であったと考えられるのであり、そのような発言を同人があえて行ったという事実は、同人が、それまでに得ていた情報から被告人を本件事件の犯人として推測していたからであるというような単純な理由からでは説明が困難であり、Bのこれらの発言は、まさに、同人が、被告人によるXの連れ出しを実際に目撃していたからこそできたものであるというべきものであって、この発言は、被告人によるX連れ出しの目撃事実を強く裏付けているものといえる」旨主張する。

(二) 検察官の主張に対する判断

しかしながら、Bが被告人に対し右の趣旨の発言をしたことについては、戊山証言及び同人の供述調書があるが、前記のとおり戊山証言には疑問点が指摘できるうえ、戊山は乙谷に反発し、被告人及び乙谷をX殺害の犯人と疑っていたものであり、また、乙沢冬子は、Xの母親であり、被害者として警察に協力し、本件の犯人を何としても突き止めたいと考えていたものであり、しかも、戊山、乙沢冬子とも昭和四九年当時右各事実を捜査官に供述した形跡がうかがわれないことに照らせば、そもそも右各事実があったのか疑いを抱かざるを得ない。

そして、仮に右のような事実があったとしても、前記のBの能力、性格、供述状況からみて、検察官主張のように、それがBにとって「相当の心理的負担を要する行為であり、それをあえて行った」ととらえ、それは、「まさに、実際に目撃していたからこそできた」と結び付けるのは、推論に飛躍があるといわざるを得ず、検察官の主張をとることにはちゅうちょせざるを得ない。

7  検察官が主張するBの供述経過、供述状況に関して

(一) Bの事情聴取の経緯及び供述状況について

(1) 検察官の主張

検察官は、Bの目撃供述は、その供述経過、供述状況から信用性がある旨主張し、まず、昭和五二年五月七日の西村による事情聴取の経緯について、

「西村は、当時みかん及び繊維関係の捜査に従事していたところ、同月六日ころ、本件事件の捜査を指揮していた山本から、『堀部警部補が丙丘園にCを取調べに行く。そこにBもいるので、ついでにBから何か聞けたら聞いてきてくれ』と指示され、関係のある捜査復命書等に目を通しただけで、園児の供述内容についての詳細を調査する間もなく、翌同月七日にBを取り調べることとなった事実が認められる」とし、また、Bの西村に対する供述状況については、「同月七日のBの取調べは、丙丘園の指導員丙本の立会いのもとで行われ、西村が取調べを始めるにあたっても、Bが精神遅滞児であり、かつ初対面であることから、その緊張感を和らげるため、午前中は、丙丘園の生活状況や以前在園していた甲山学園の先生、園児らのことなどを話題にしてBに話しやすい雰囲気作りを行ったうえ、午後になってから、事件当夜の出来事を聞いたところ、被告人によるX連れ出し事実を供述した。西村は、右供述内容に驚くとともに、供述内容の重要性から、念のために、改めてその夜の夕食からのことを初めから聞き直したが、Bの右目撃事実についての供述内容は変わらなかった事実が認められる」として、「西村による事情聴取は、Bから特定の供述を引き出すために行われたものではなく、西村においても、Bに対して、供述内容を誘導、教示し得るような資料を持たずに事情聴取にあたったことは明らかであり、実際にも、この日の取調べにおいて、西村が、Bから話を聞くについて、誘導したり強要するということは一切なく、その供述が自発的になされたものであることは、右事情聴取に至る経過、状況から明らかである」旨主張する。

(2) 検察官の主張に対する判断

ア はじめに

確かに、前記2の(一)で認定したBから事情聴取をするに至った経緯や西村が本件捜査に専従するようになったのは昭和五二年四月中旬ころからであり、そのころ西村はみかん関係、繊維関係の捜査に従事していたこと、右事情聴取の際に終始立ち会っていた丙本は、丙本証言において、西村らの事情聴取において誘導とか強要はなかった旨供述していること、西村は、西村証言において、Bが目撃事実を供述した際、全く予想外のことであった旨供述し、丙本も、丙本証言において、自分も驚いたが、西村ら警察官も驚き何度も尋ね直していた旨供述していることに照らすと、西村による事情聴取には、ことさらBからある一定の供述を引き出す目的であったとか、ある供述を引き出すため明白な誘導にわたるような尋問がなされたとまでは認められないと一応いい得るところである(なお、その後、検察官逢坂によりBの事情聴取がなされ、Bの目撃状況が記載された供述調書が作成され、これが二号書面として取り調べられている。逢坂のBに対する事情聴取は、誘導にわたらないように配慮されたものであったことが認められるが、目撃事実に関する供述については、その供述が最初になされた際に誘導等の問題がなかったかが重要であるので、この点について判断すれば足りると考える)。

しかしながら、前記のとおり、年少児の場合誘導や暗示による影響を受ける危険性が極めて大きいのであり、これに、前記のBの性格、すなわち、社交的、活動的で迎合的なところがあり、多言的傾向があることに照らすと、Bは、誘導や暗示の影響を受けやすいと評価できる。したがって、Bの供述の信用性を判断する場合には、その影響の有無について慎重な検討をする必要がある。しかも、その影響の有無を検討する際には、捜査官の意図的な誘導や暗示だけでなく、それと同時に、捜査官の主観的な意図とは関わりなく、捜査官の言動の結果としてBの供述に誘導や暗示の影響が生じたかどうかも問題にする必要があることは、弁護人が指摘するところであり、その指摘は正当であると考える。加えて、Bの右供述は事件直後のものではなく、事件後三年も経ってからの供述であるから、その間にその他の種々の情報による影響がなかったかも問題にすべきである。

そうすると、この意味において、捜査官である西村や立会人である丙本が誘導等がなかった旨を証言したからといって、そのことからだけでは、誘導や暗示あるいはその他の情報による影響がなかったと判断することはできないといわざるを得ない。ただ、この点を直接証明する証拠はないのであるから、供述調書等の記載内容や西村証言及び丙本証言等を総合して推認せざるを得ない。

以下、検討する。

イ 事情聴取の経過からの検討

(ア) 事情聴取の経過について、西村は、西村証言(主尋問)において、「Cを取調べに行く捜査官がいるので、ついでに何か聞けたら聞いてきてくれんかと指示された。具体的に何を聞くか言われたが、内容は記憶していない」、捜査記録についても、「ざっとみた程度で十分検討していない」旨供述して、Cから事情聴取するついでにBからも事情聴取をすることになったものであり、捜査記録からの予備知識もほとんどないまま事情聴取をした趣旨の証言をする。

しかしながら、西村は、一方で、「目撃とか、本人の見たままのことを一人一人現地調べするので聞いてきてくれ」という具体的な指示があったことや、捜査記録についても、捜査会議があったこと、重要なことを頭に入れていたこと、A子の第一次捜査段階での供述調書とか捜査復命書なども見ていたと思うことを証言している。そして、逢坂は、BがKから何か聞いていないかを中心に調べるよう指示した旨証言(逢坂証言)していること、西村外一名が作成した右事情聴取に関する捜査報告書(52・5・7捜報弁一〇〇)によると、右事情聴取の目的について、「昭和五〇年五月一〇日付捜査復命書記載のBの『自分は見ていないが、Kは知っていると思う』旨の事実の掘り下げ捜査のため」と明記されていることにも照らすと、西村自身、「時間がないので捜査記録のうち園児関係を拾い読みして取調べに臨んだ」(西村証言)というようなものではなく、時間があまりなかったとしても、事前にできる限り捜査記録の検討を行い、重要と思われる事項を頭に入れたうえで、Bの事情聴取にあたったことがうかがわれる。加えて、西村は、50・5・10捜復(弁九九)をコピーして丙丘園に行く途中の車の中で読んだ旨証言しているが、後記のとおり、右捜復にはBの目撃供述の骨格にあたる事実が記載されているのであり、そのような捜復をコピーしてしかも事情聴取の直前に読んでいたことは、その内容の西村に対する影響を否定できない。

そして、西村は、前記2の(一)の(3)のとおりBが「僕は何も知らんで、言ったらおこられるから言わんで」と言うのを聞き、直感的に、Bが今まで何らかの事実を隠していたのではないかと感じた旨証言するが、この言葉は、単に、子供が言わないという意思を示すときにしばしば使う表現として「言ったらおこられるから」と言ったにすぎないとも考えられるものである。西村がBの右言葉を右のように感じたということは、西村が、それまでの捜査記録から得た情報(特に右50・5・10捜復の記載内容)から事件についてある程度の想定をしていたこと、そして右Bの言葉によりBが何かを目撃していると考えたことを推認させるものであり、西村が、Bの事情聴取にあたっては、いわば白紙の状態で臨んだ(何かを想定してその方向に誘導しようとするものではないという意味で)趣旨を証言しようとしているが、そうではないことを示すものといわざるを得ない。

(イ) また、西村は、「Bの気持ちをほぐすためあるいは怖さや不安を取り除くため、父親から許しをもらっていること、丙丘学園は甲山学園から遠く、乙谷や沢崎らが来ることはないこと、乙谷からいろいろされたがそれももうないことなどをBに話した」旨証言する。

しかしながら、そもそも、西村証言によれば、事情聴取の当日にBが何かを怖がっていたというような具体的な状況は、前記のBが「僕は何も知らんで、言ったらおこられるから言わんで」と言った出来事以外には、一切なく、また、丙本証言によっても、当日あるいはそれ以前にも、Bが何かを怖がっていたような様子をうかがわせるものは認められない。逆に、丙丘学園での生活状況をみると、例えば、B児童生活記録の昭和五〇年二月八日及び同年六月二五日の欄には「甲山学園に遊びに行きたい」

旨の記載があり、同月三〇日のB生活指導状況報告書には「甲山学園の先生たちに会いたいと盛んに言う」旨の記載がある。そして、西村は、事情聴取の前に、Bがしつけの厳しい父親を怖がっていたこと、Bが第一次捜査段階において捜査員とのやりとりで父親から話すなと厳しく言われたことや、乙谷についていろいろ出来事があってBが乙谷を怖がっていることを知っていた旨証言している。これらを総合すれば、西村は、Bの右言葉を聞き、捜査記録等によって知り得た情報から事件についての想定をし、Bが目撃をしていてそれを供述するのを怖がっていると考え、その考えに従ってBに前記のように話したと推認できる。

さらに、Bの前記性格に照らし、また、初対面の警察官にわざわざ自ら発言したこと、丙本証言によれば、「はじめは無口であったが、話ができるようになるのにそんなには時間はかかってなかった」こと、西村証言の「勢いがついたらぺらぺらしゃべる」ということをもあわせ考えると、Bの事情聴取の際の様子は、西村の言うような気持ちをほぐす必要のあるものであったのかいささか疑問である。

ウ 事情聴取の際のやりとりからの検討

(ア) 西村は、事情聴取における「廊下上の沢崎とXを目撃した」との新たな供述がなされた際のやりとりについて、西村証言において、次のような様々な供述をする。

例えば、「Xが部屋にいたのかという話をしたが、もじもじしていたのか、そこでぱっと出たのか、廊下まで行ったらという話で、そしたらXを見たのかという話をしたら、その話が出たような気がする」、「Xを連れてくるという話をしているから、その次に、そしたらあんたはXを連れて帰ったのかと質問すると、それが出てきた。ぱっと不意に出たような感じで聞いていた」、「順序立てて時間的にずっと経過をおいながら、Bの動きを中心に見たこと聞いたことを話している間に出てきた」、「順序立てて聞いていて、その中で自然なかたちで出てきた」、「よくよく調べたら目撃事実がずばり出てきた。Cに会ってそこからどこに行ったのと。聞いたら出た」などと供述し、「何か見たのと言ったら、見たと。何を見たのかと言ったら、Xを見たと。そうではないか」との質問に対して「そうです。聞いたら出た」と答えている。

このように、西村は、「廊下上の沢崎とXを目撃した」との供述が出た際の状況については様々な証言をしているが、全体を総合すれば、順序立てて聞いていくうち自然なかたちで出た旨を証言していることがうかがわれる。

(イ) しかしながら、右事情聴取に関する52・5・7捜報の記載内容に照らすと、右証言は信用できないといわざるを得ない。

すなわち、52・5・7捜報には、「午後一時から夕食時以降の出来事について取り調べた。自分の動きと他の者の動き、自分が見たこと聞いたこと話したことなどを混同しないように理解しやすい言葉を使いその真相の究明に努めた。その結果、<1>ディルームでイナズマンのテレビを見た。<2>イナズマンのテレビを見ていたときに父親から電話がかかってきた。<3>CがXを『さくら』の部屋に連れて行った。<4>イナズマンのテレビの本番が終わったころにCに会った。そのときXが『さくら』の部屋から帰らないことを聞いた。<5>『さくら』の部屋に行ったらXがいなかったなどの供述をしていたが、『Xがいなかった』という言葉の弱々しさと、CからXが『さくら』の部屋にいることを聞いてすぐに女子棟に行った事実の裏面に何らかの目撃事実が隠されている疑いが持たれた。そこで、事細かく聞き返す心算りで入念な取調べをした結果目撃供述が出た」旨の記載がある。

この記載によると、Bから事情聴取をした際、Bは、当初は、CからXが「さくら」の部屋から帰らないと聞いて「さくら」の部屋に行ったらXがいなかったと述べていたのであり、その後、「事細かく聞き返す心算りで入念な取調べをした結果」、目撃事実の供述が出たというのであり、右西村証言のように、順序立てて聞いていくうちに自然に目撃供述が出てきたというものではないことになる。

(ウ) この点について、西村は、合理的説明ができず、52・5・7捜報の記載殊に<5>については誤りである旨証言する。

しかしながら、捜査報告書の性質上、その記載内容の証明力には問題があるとはいうものの、西村のこの点に関する証言があいまいであること、西村証言中には、52・5・7捜報記載の経緯であったことを認めるような部分もあることや、丙本は、何回も前に進んだり後に戻ったりしていた趣旨の証言をしていることに照らすと、52・5・7捜報記載のように、Bの最初の応答は、右<5>の「『さくら』の部屋に行ったがXはいなかった」というものであったと認めるのが相当である。

そうすると、前記目撃供述は、結局は西村とBのその後のやりとりの中で出てきたといわざるを得ず、そこには暗示や誘導による影響の危険性が大きくなることが否定できない。

(エ) さらに、52・5・7捜報の記載によれば、西村は、右<5>の「『さくら』の部屋に行ったがXはいなかった」という供述については、「『Xがいなかった』という言葉の弱々しさと、CからXが『さくら』の部屋にいることを聞いてすぐに女子棟に行った事実の裏面に何らかの目撃事実が隠されている疑い」を持って、あらためて午後七時三〇分ころから午後八時ころの出来事を事細かに聞き返していったということである。

このことは、Bにとってみれば、「Xはいなかった」と答えたことが西村に受け入れられなかったこと、すなわち、西村の期待するものではなかったことを意味しており、Cから聞いて女子棟の方へ行ったという話のところでBがもじもじしていたようにもうかがわれる西村証言は、この点から理解できる。

(オ) また、西村は、黙っているBに対し、「何か見たのか」、「Xを見たのか」との質問をしていったというのであるが、このような質問は、右のように一度供述した後に事細かに聞き返すなかで行われることにより、誘導ないし暗示の効果を持つことになるのは明らかであり、Bが答えるべきことに気付き、「Xを見たのか」という質問に「Xを見た」と答えたのではないかとの疑問を持たざるを得ない。

そのうえ、西村証言によれば、西村は、Bが「Xを見た」と答えたあと、「一人だったのか二人だったのか」、「その人はどういう人だったのか」、「位置はどうだったのか」などと事細かな質問を投げかけ、Bがそれに応える形で、しかも、一つの発問に対して直ちに答えがあるというのではなく、いくつもの発問を重ねてようやく答えが出てきたりしたというのである。このように質問が細かであればあるほど、右のような二者択一的な質問であればあるほど、その質問の組立てかた、言葉の調子などにより、Bの想像力を一定の方向に沿ってかき立てていく危険性が大きいのであり、前記のBのとにかく何かを答えてしまう証言態度からすれば、そのようなやりとりの中で、具体的な目撃状況の供述ができあがったのではないかとの疑いが払拭できない。

(カ) これに加えて、同じ事情聴取の結果である52・5・7捜報と52・5・7員面との記載内容においては、重要な部分で相違点が存在しており、Bが右五月七日に矛盾する事実を供述し、その中から西村なりに取捨選択して整理し、右員面を作成したと思われる。

すなわち、例えば、廊下上でXを連れ出している人物が被告人であることが分かったのがいつの時点であるかについて、右員面では、「その女の人はこんどは前かがみになってX君の両足をもって戸びらの方に引っ張りました。このとき僕はこわかったのですが、誰だろうかと思っていたのでその顔を見るために女子の便所のところにかくれてよく見たところ、沢崎先生でした」とあるが、右捜報では、「最初に見たのは後ろ姿であったので髪型と格好で沢崎先生に似ているなあ、先生がなんであんな無茶なことをしているのだろうなあ、と思い、こわかったけれど本当に先生だろうか、とよく見るために便所に隠れた」となっている。

また、その後のBの行動についてであるが、右員面では、「僕はこのご、すぐ非常口の近くの方にゆきましたが、外を見るのがこわくて、ディルームの方に帰りました」とあるが、右捜報では、「Xと沢崎が外に出た後、すぐドアは閉った。その後、非常口のところまで行って近くの窓からトントン飛び上がって外を見たが、暗くて見えなかった」とあり、異なる内容となっている。

エ 事情聴取の際に立会人がいたことからの検討など

(ア) 検察官は、丙本が終始立ち会っていたことを誘導等がなかったことの理由の一つとし、丙本も、誘導や強要はなかった旨証言する。

しかしながら、そもそも、丙本証言によれば、丙本自身、誘導の意味についての知識に乏しいことがうかがわれるのであるから、右証言をもって誘導等がなかったとはいえず、また、誘導というのは、前記アで指摘した観点からも検討する必要があるのであって、立会人である丙本が終始立ち会っていて誘導等がなかったとの証言をしたとしても、それだけでは誘導等がなかったとの理由にはならないことは前記のとおりである。また、丙本は、西村らがBの供述に驚いていた旨証言するが、このことだけでは前記判断をくつがえすことにはならない。

(イ) さらに付言すれば、西村証言によれば、Bが三年後に供述をはじめた理由について供述調書等に記載されていること、すなわち、父から言うなよと言われたことと沢崎先生が怖かったからということ(52・5・7員面、52・5・10員面弁一〇六、52・5・7捜報)は、すべて西村が考えていたことであり、しかも、それを西村自身口に出してBに話したというのであって、それ以上のものではないということが指摘できる。

また、Bが目撃供述をした際の状況については、西村証言によれば、「ぱっと不意に出た感じ」、「自然な形で出てきた」、「緊張した状態で話していない」ということであり、丙本証言によれば、「同じように和やかな雰囲気であった。突然様子が変わったことはなかったと思うが、印象には残っていない」ということであり、これは、Bが何かによってあるいは誰かによって供述することを妨げられていたがそれを供述するに至ったという状況をうかがわせるようなものではないということが指摘できる。

(二) 父親からの口止めの解除について

(1) 検察官の主張

検察官は、供述経過及び供述状況からみた信用性に関して、「Bは、昭和五二年五月七日の時点において警察官に自発的に目撃事実を供述するようになった理由について、『フラワーセンターに遠足に行ったとき、父親から、知っていることは全部話しなさいと言われた』旨証言しているところ、甲山学園から丙丘園に移り、乙谷らの支配下から脱して次第に恐怖感も薄れ、遠足に行った際に、父親からの前記発言を受け、心理的拘束が解けたことにより、Bがそれまで話すことができなかった目撃事実をその時点において警察官に話すに至ったとしても、何ら不自然なことではない」旨主張する。

(2) 検察官の主張に対する判断

ア 父親の発言について

(ア) 「Bが父親から知っていることを全部話しなさいと言われた」旨の検察官の主張を裏付ける証拠は、52・5・21検面(弁一一八)である。

その内容は、「今年の四月フラワーセンターヘ遠足に行ったとき、お父さんが『警察のおじちゃんが調べに行ったらBの知っていることを言ったらええ、言うてしんどかったら言わんでええ』と言ってくれた。僕は『言うてもしんどうない』と言っておいた。それで、今度警察のおじちゃんが来た時にX君のことで知っていることを言った」というものである。

(イ) この事実については、右検面以外にそれを裏付ける証拠はなく、丁原太郎は、丁原太郎控訴審証言において、「昭和五二年四月にフラワーセンターヘ行ったことがある。甲山学園には行かないだろうという話はしたが、他にどういう話をしたか覚えていない」旨供述し、右事実については供述していない。

しかも、昭和五二年四月というのは、E子に対する事情聴取が何回か行われているにすぎず、また、前記のとおり、丙丘園に事情聴取に行くきっかけとなったのは同年五月五日にCから事情聴取をする必要が生じたからであり、その前である右四月に丁原太郎がBに同人が供述するようなことを言う理由が見あたらない。

(ウ) したがって、Bが供述する右事実については根拠が薄弱であるといわざるを得ないのであるが、仮に、Bが供述するような事実があったとしても、そのことを、事件後三年間も言わなかったのにこの時点において警察官に目撃事実を供述するようになった理由の一つにあげることには疑問を抱かざるを得ない。 すなわち、まず、検察官は、「先に、父親から、『余計なことは言うな』と言われて心理的影響を受けていたBにとっては、『知っていることは全部話しなさい』という趣旨の父親の発言が記憶に残る」旨主張しているのであるが、右の「余計なことは言うな」という発言は、前記の昭和四九年四月二日の「何も言わんでよろしい」との発言をさしているものと理解できる。そうすると、検察官の右主張によれば、右四月二日に父親から言うなと言われ、それから三年後の昭和五二年四月にたまたま知っていることを言うてよいと言われ目撃事実を話したということになるのであるが、右のような三年後のたまたまの言葉をもって右四月二日の言うなということからの解放と考えることは、そのこと自体に大きな無理があり、さらには、仮にその言葉が右解放といえるのであれば、前記のとおり、「何も言わんでよろしい」と言われたその直後に、言った父親自身から「知っていることは話しなさい」という趣旨のことを言われたことは、当然のことながら、その解放になると考えるのが自然である。

次に、西村は、丙丘園に赴いた際、Bが「言ったらおこられるから言わんで」と言ったので、その言葉を「お父さんからおこられる」という意味に受け取った旨証言するが、検察官の右主張を前提にすれば、この時点では父親から知っていることは全部話しなさいと言われていたというのであるから、このBの言葉は不自然、不合理なものといわざるを得ない。

イ 恐怖心が薄れたことについて

(ア) 検察官は、「Bが、甲山学園から丙丘園に移り、乙谷らの支配下から脱して次第に恐怖感も薄れた」旨主張する。

(イ) しかしながら、前記のとおり、Bが恐怖心を抱いていたと認めることには疑問があるが、その点はおくとしても、Bに対する事情聴取の状況をみると、右検察官の主張は理由がないといわざるを得ない。

すなわち、Bは、昭和四九年三月二一日に甲山学園から姫路市内の自宅に帰り、父親のもとで生活し、その後一時甲山学園に戻ったが、五月三一日甲山学園を退所して再び姫路市内の自宅に帰り、六月一二日丙丘園に入所しているのであり、その問のBに対する事情聴取は、五月二五日に甲山学園において乙海三夫の立会いでなされたほかは、三月二六日(父親からの事情聴取として)、四月二日、同月一一日と姫路市内の自宅において父親立会いのもとでなされている。そして、丙丘園に移った後も、昭和五〇年五月七日に姫路市内の自宅において父親立会いのもとで事情聴取がなされ、同月一〇日には兵庫県小野市のXの母親の家において右乙海からの立会いのもとでなされ、同年八月八日には自宅近くの姫路警察署神田派出所において父親立会いのもとでなされている。

このように、甲山学園において事情聴取がなされているのは、昭和四九年五月二五日だけであり、その他は、ほとんどは父親の立会いのもとで姫路市内の自宅とか近くの派出所でなされている。しかも、一年以上経った昭和五〇年五月や八月にも事情聴取をされている。甲山学園との距離、場所、立会人、時期的な問題、そのすべてにおいて昭和五二年五月七日の事情聴取の際と条件としては大きな変わりはない。あえていえば、一年と三年との違いということになるのであるが、それが決定的な違いというにはちゅうちょせざるを得ない。

(三) 49・3・26捜復について

(1) 検察官の主張

検察官は、供述経過及び供述状況からみた信用性に関して、49・3・26捜復に「事件当夜、Xが、『さくら』の部屋で遊んでおり、午後八時ころに『さくら』の部屋に行ったらXがいなかった」旨の記載があることを指摘し、「警察官高品は、丁原太郎から甲山学園に電話をした時刻の確認をする目的で同人方に赴き、たまたま同所にBがいたため、そのついでに同人からも事件当日のことについて簡単な事情聴取を行ったものと思われ、また右高品が、初動捜査の応援として入ったにすぎない機動捜査隊員であることを考えれば、その事情聴取に、不当な誘導があったとは考えられない。そして、被告人に対する恐怖心などから真実の目撃事実を述べることができなかったBにとって、それが供述し得る精一杯のものであったと考えられるところであり、少なくとも、B証言中、『イナズマンが終了した後、Xを迎えにさくらの部屋に行った』という部分については、右捜復の記載からも、B自身の記憶に基づく証言であることが明らかであり、このことは、Bのそれ以外の証言部分についても、同人の推測などによるものではないことを示すものである」旨主張する。

(2) 検察官の主張に対する判断

ア 確かに、右捜復の記載内容、丁原太郎控訴審証言、高橋当審証言によれば、右検察官主張のように、右事情聴取の目的は、丁原太郎から三月一九日に電話をした事実の有無とその内容について確認することであったこと、事情聴取をした警察官高品らは本件初動捜査の応援として来ていた機動捜査隊員であること、右捜復は、Bからの話としてY子の不明とXの不明に関する記載があり、Xの不明の項には「Xは女の子の部屋(A子)で先生ごっこをしていた。午後八時ころA子の部屋に行ったらXはいなかった」旨の記載があることが認められる。

イ しかしながら、右事実、殊に右捜復の記載から、「被告人に対する恐怖心などから真実の目撃事実を述べることができなかったBにとって、それが供述し得る精一杯のものであった」とか「B証言中、『イナズマンが終了した後、Xを迎えにさくらの部屋に行った』という部分が、B自身の記憶に基づく証言であることが明らかであり、このことは、Bのそれ以外の証言部分についても、同人の推測などによるものではない」ということができるのかは疑問である。

すなわち、XがG子と仲が良く「さくら」の部屋で一緒に遊ぶことが多かつた趣旨のことは、Xの担当保母であった丁田二江(旧姓丁山、以下「丁山」という)をはじめ多くの職員が供述するところであり(例えば、丁山証言、乙原証言、戊山証言、丙坂三江<旧姓丙田、以下「丙田」という>の49・4・23検面当審検一八七など)、Xが「さくら」の部屋にいて遊んでいることは特異な出来事ではなく、甲山学園での日常ありふれた出来事であったといえる。そして、捜査官がこのことを早い時期に把握していたことは、乙原の49・4・2員面(弁三〇)にはXに関するその旨の記載があるが、この調書はそれまでの事情聴取の結果をまとめたものであることや高橋当審証言による捜査状況からうかがわれるところである。

したがって、右捜復の記載については、この部分だけを独立させてそれを真実であると評価したり、後のBによる目撃供述が記憶に基づく証言であることを裏付けるものとして用いたりするのは早計であり、この部分を含めその全体を考察し、さらにその後の供述とも照らし合わせてその内容が信用できるか否かを検討し、そのうえで評価すべきものである。

ウ そこで検討するに、前記のとおり、事件後間もないころに作成された供述調書等は右49・3・26捜復、49・4・2員面、49・4・11検面がある(その内容のうちXがいなくなった日の午後七時ころ以降の出来事に関するものは前記5の(二)の(2)のとおりである)が、この三通に記載されたBの供述内容をみると、次のとおり、事実に反すると思われる供述、ある特定の人物に注目した供述、不自然なまでに詳細な供述、供述の変遷がみられ、信用性に乏しい内容となっているといわざるを得ず、右捜復に父親太郎の申立てとして「X(注・Bの誤記)の言葉では六〇ないし七〇パーセント位は信用できると思われるが、時々全く意味の判らないことがある」との記載があるが、それを一面では裏付ける内容となっている。

(ア) まず、右捜復の記載内容だけをみても、三月一七日のことについては、「お昼ごはんを一緒に食べた。午後三時のおやつも一緒に食べた。おやつはチョコレート(ドロップ様のもの)。この時はY子はいた。いなくなったのは明るいうちであった。僕も捜した。Y子の服は赤い服、オレンジ色のセーター、赤いズボンだった」との簡単な記載があるが、右の当日の具体的な記載である二つ(おやつの内容、当日のY子の服装)とも客観的事実(おやつは牛乳、ビスケット、ムカコーヒーであり、Y子の服は赤色セーター、黄色地木綿シャツ。濃紺スラックスである)と異なっていること、三月一九日のことについても、A子の部屋で「A子、H子、G子、X」が先生ごっこをしていたとあるが、その後の供述内容に照らして、H子がいたとの供述は信用性に乏しいこと、また、その日の朝Xが服を着替えているのを見た旨の具体的な記載があるが、その日卒業式の予行演習のためXの服を着替えさせたのは乙治四江(旧姓乙林、以下「乙林」という)であるとの乙林証言(当審検一七)と異なっているのであって、これだけでも右捜復の記載内容の信用性には疑問を抱かざるを得ない。

(イ) 次に、その後に作成された49・4・2員面、49・4・11検面をみていくと、次のとおり、その内容の真実性には大きな疑問を抱かざるを得ない。

三月一七日の出来事に関する供述をみると、49・4・2員面では、「おやつを食べてから武庫川のおねえちゃん五人位が遊びにきていた。Y子は、黒スカートで、やせ型、髪を肩まで伸ばした背の高い二〇歳位の人と、市電の中でままごと遊びをしていた。ちょっとして、Y子一人が市電の中から出てきて、手を叩いて笑いながら、青葉寮の方へ歩いて行っていた。僕は、そのとき、友達のKとサッカーボールをして遊んでいたが、Y子が出てきたので朝礼台の上にあがり、Y子が青葉寮ディルームの入口の戸を開けて寮に入っていくのを見ていると、入口の戸を閉めずに入って行った。僕が、Y子を見ていたのは、仲良しだから、僕の部屋に行くかもわからないと思って見ていた。Y子は、僕の部屋に入るといつもすぐロッカーを開けて服などを畳の上にほり出してしまうので、一緒に遊んでいたKに部屋へ行こうかと誘った。Kが、『先に行っておってくれ』と言ったので、僕一人で青葉寮に帰った。『くす』の部屋に行ったがY子が来ていなかったので、ディルームのこたつに入って寝ていると、Y子が、『ばら』か『こすもす』の部屋から出てきて、Kの『すぎ』の部屋の戸を開けて入って行った。いたずらをしたらいかんと思って、『すぎ』の部屋を見に行くと戸が閉まっていたので、戸のこわれた穴から部屋の中をのぞくと、いつの間にかKが部屋に帰ってきて洗濯物をたたんでおり、Y子が座ってそれを見ていた。僕が『すぎ』の部屋をのぞいていると、Y子が出てきてXの部屋に入った。そして、すぐY子はXと一緒に出てきて、Y子とXは、手をつないでディルームのところに行き、玄関の方へ曲がって行った」というのであり、また、49・4・11検面では、「おやつを食べてからグランドに出て、Kとサッカーをして遊んでいた。朝礼台の上に上がって遊んでいるとき、Y子がディルームの入口から寮の中に入って行くのを見た。Y子は、僕の部屋に行って僕のロッカーから服をよく引っ張り出して悪戯をするので、このときもいたずらをするのではないかと思ったので、Kと遊んでいるのを止めて青葉寮に入り、自分の部屋に行ってみた。僕の部屋にはY子がいなかったので、ディルームのこたつに入り寝ていると、Y子は、『こすもす』あたりの部屋から出て、Kの『すぎ』の部屋に入って行った。Kは外で遊んでいると思ったので、Y子がいたずらしてはいかんと思い、『すぎ』の部屋に行くと、戸が閉まっており、戸のこわれたところから中をのぞくと、Kが洗濯物をたたんでおり、Y子が座って見ていた。僕の部屋の前まで行って見ていると、Y子が『すぎ』の部屋から出てXの部屋に入り、すぐY子はXと一緒に出て来てディルームのところに行き、入口の方に曲がって行った」というのである。

右内容によれば、Bは、Y子が行方不明になる直前から、その日の事件発生を予想するかのように、ずっとY子の動向を注目し、遊びを途中でやめてまでしてY子の後をつけ、青葉寮内でのY子の行動を監視し、部屋の中をのぞいたりしているという特徴がみられると評さざるを得ず、また、この出来事で名前が出てくるのはBの供述調書でしばしば出てくるKとその日に行方不明となったY子と本件Xだけであり、しかも、最後には、Y子はXの部屋に入っていき、Xと一緒に出てきて手をつないでディルームのところから玄関の方へ曲がって行ったというのであり、弁護人のいう「まさにBの新供述の雰囲気を彷彿とさせる内容」となっている。

また、三月一九日の出来事に関する供述の中心的な部分は、前記5の(二)の(2)のとおりであるが、この内容によれば、Xが「さくら」の部屋にいたことに関する内容が、一緒に遊んでいた人数、名前、遊んでいた時間帯に変遷があり、しかも、いわば日常的な生活のひとこまと思われる遊びの内容について、自分はテレビを見ていたとか面白そうなのですぐディルームに戻ったとか供述しながら、誰が先生役で生徒役かについてまで供述し、また、その段階ではBがXに注目する理由は何もない状況と思われるのに、「電話と呼ばれて男子保母室に行ったとき、いつの間に来たのか知らないが、Xはディルームの畳の上でテレビを見ていた。電話が終ってディルームに戻ったときは、Xはもうディルームのところにはいなかった」と、ことさら、Xの所在に注意を払っている内容となっている。しかも、前述のとおり、この点のBの供述はその目撃供述と矛盾する内容となっている。

エ 以上を総合すれば、49・3・26捜復の記載内容から、検察官主張のようにいうことはできないといわざるを得ない。

8  検察官が主張する目撃供述の一貫性等に関して

(一) 検察官の主張

検察官は、Bの目撃供述は一貫しており、信用性がある旨主張し、具体的には、「Bは、昭和五二年五月七日における西村の事情聴取以後、B証言までの間、警察官及び検察官から多数回にわたって取調べを受けているものであるが、この間のBの供述内容については、その目撃事実の核心となるべき事項については何らの変遷はなく、変遷があるのはその目撃事実のうちの情景の一部分を構成するにすぎないさ細な事実に限られているものであって、その供述の信用性は極めて高い」旨主張するので、以下、検討する。

(二) 52・5・7員面(弁一〇五)の内容

Bが最初に目撃事実を供述した際の供述調書(52・5・7員面)の内容は、次のようなものである。

<1> Xがいなくなった日には、夕方食堂に行ってみんなと一緒にそろって食事をした。Xはどこで食べていたか知らない。食事はどんな食事がでたかはっきり覚えていない。ハヤシライスがでたように思うが、おかずがあったかなかったか覚えていない。

<2> 食事をしてからは、みんな一緒に青葉寮に帰った。XはKに腕を持ってもらって寮に帰った。洗濯物を片づけてからMやKらと一緒に運動場で自転車のりをして遊んだ。

<3> 午後六時三〇分ころに保母室にいた遅出の先生が「ふとんを敷きなさいよ」と言われたので、僕らは部屋に入ってふとんを敷いた。僕は自分のふとんを敷いてから「まつ」の部屋に行った。そのとき、「まつ」の部屋の者は全部そろい、XのふとんをCが敷いていた。

<4> ふとんを敷いてから、CとNと僕の三人は、「まつ」の部屋で少し遊んでから、七時から始まるテレビを見るのに一緒にディルームに行った。そのとき、Xは部屋に残っていて、一緒にテレビを見に行っていない。Kも最初の間はテレビを見てなかったように思う。

<5> 僕がテレビを見たところは、ディルームの裏庭に出る入口のドアの近くにあるスチームのところ。こたつのところにいたのは、M、O、P、Q、R子、L子、Tたちで、そのほかにもテレビを見たり遊んだりしていたが、乙原先生はQをだっこして座っていた。

<6> 僕がイナズマンのテレビを見ていたとき、男子保母室にいた乙野先生が「B、電話ですよ」と知らせてきたので、僕は保母室に行き電話口に出た。その相手の声でお父さんであることがわかった。お父さんは「Bか」と言うので、僕は「はい」と答えた。お父さんは「元気でおるか。今学校で何をやっているのや」と聞くので、僕は「剣道をやっている。算数もやっている」と返事をした。「先生は誰や」と言うので、「丙森先生」と言った。お父さんは、戊山先生に用事があるから電話したことも話していた。それから乙野先生に電話をかわり、先生もお父さんと話をして電話を切った。

<7> 僕は、もとのところに帰ってテレビを見ていた。イナズマンが変身して人間に変わった場面が出たころに、CがXを連れて男子寮の方からテレビのうしろの方を通って女子寮の「さくら」の部屋の方に行き、部屋に入っていた。僕は、女子保母室の前の付近でそれを見て、またもとのところに帰ってテレビを見た。Kも女子寮のA子の部屋(さくら)にXやCらも遊んでいたようだった。Kは僕にわからないようにするために、男子トイレに入らないで、近くにある女子寮のトイレに入っていたのを見ている。

<8> テレビが終わり、次回の予告をはじめたころに、自分の部屋に帰るのに男子保母室の前を歩いていたところ、Cが一人で女子寮の方からテレビのうしろの方をまわってきたのとばったり会った。Cは僕の顔を見るなり「X君はきけへんから」と言ってXを「さくら」の部屋においたままで帰ったことの意味を話していた。

<9> 僕はCに、「そしたら先に帰っとけや」と言って、僕がXを呼びに「さくら」の部屋に行こうと思って女子保母室の前で女子寮の方を見たときに、Xが一番端の部屋(ゆり)の前のへんにXが非常口の方に向いて、そのうしろから頭の袋つきの黒っぽいコートにパンタロンのようなズボンをはいて、右肩には黒ハンドバックをかけた、靴をはいた女の人がXの両肩を持って押していた。そのとき、Xはいつものくせで砂を人に投げるようにいやがる仕草をして、アンアンと声を出して座り込んでいた。女の人は、いやがるXの丸首白セーターのうしろ襟首をつかんで立たせようとしていたが、Xはすぐ座り込んでいた。その女の人は、今度は前かがみになってXの両足をもって戸びらの方に引っ張った。このときに、僕は怖かったが、誰だろうかと思っていたので、その顔を見るために女子便所のところに隠れてよく見たところ沢崎先生だった。沢崎先生は、非常口のドアーを右まわりにしてあけて、先に外に出て、Xの足をとって外に出そうとしたところ、Xは先生を蹴ってあばれていた。それでも、先生はXの両足をにぎって外に引きずり出して、ドアーの内側の鍵を中から押して外に出て閉めた。

<10> 僕は、その後、すぐ非常口の近くの方に行ったが、外を見るのが怖くてディルームの方に帰った。そのとき、テレビは次のテレビが何をしていたか知らないが、はじまってから間がないように思った。僕はディルームで、その晩に食べものをもらえない日なので中学生の子らは何か食べていたが先生におこられると思って、そのまま自分の部屋に帰って寝た。

<11> ふとんに入ってうつぶせになっていたところ、乙野先生が「X君おらへんか、どこへ行ったんや」と言うので「しりません」と嘘をついた。それは沢崎先生が怖かったので本当のことを言つたらおこられると思ったから。

<12> Xの服装は、白い線の入った丸首セーター、下は黒のズボンのようだった。沢崎先生の服装は、頭の袋つきの黒っぽいコート、色は忘れたがズボンに黒っぽい靴をはき、右肩にハンドバックのようなものをかけて持っていた。

(三) 右供述内容からの検討

(1) 以上が、Bが最初に目撃事実を供述した際の供述調書の概要であるが、右のとおり、この調書においては、三年以上も前の出来事でありながら、実に詳細な供述がなされていることが指摘できる。

例えば、夕食の内容(<1>)、夕食後の行動(<2>ないし<4>)、ディルームでテレビを見ていた園児の名前、そこにKやXがいたか否か、あるいはそのときに自分がテレビを見ていた位置など(<4>、<5>)、いわば極めて日常的と思える事柄についての具体的、詳細な供述があり、また、父親との電話の時期、特にテレビの場面との関連、電話で話した内容についても(<6>)詳細に述べ、目撃状況に関しても、ドアーのノブを右まわりにして開けたとか(<9>)、沢崎の服装やXの服装について(<12>)まで詳細に供述をしている。 三年以上も前の日の出来事、それも日常的な事柄も含めてこのように詳細に記憶していること自体不自然といわざるを得ないが、Bの供述内容には、次に検討するように供述の変遷があることや裏付ける事実がなかったり他の証拠と矛盾したりしていることが指摘できるのであり、これらにも照らし合わせると、右具体的、詳細な供述が、Bが三年以上もの間記憶し続けたことで真実であるというには、大きな疑問があるといわざるを得ず、ひいてはBの供述全体の信用性に疑いを抱かせることになるのである。

(2) この点について、検察官は、「事件直後から何回にもわたって尋ねられてきたもので、その都度記憶を新たにする機会もあったものであるから、順序立てて尋問することにより、Bが漸次出来事を思い起こし詳細に述べることがあったとしても、そのことをもって直ちに不自然とまではいえない」旨控訴審判決を引用する形で主張し、また、「一般的に、通常記憶しないような細かな事実についてまで答えたからといって、それが記憶に基づかない単なる想像に基づくものと速断し得るものではないうえ、Bは精神遅滞児であり、Bの供述の信用性を一般通常人の供述内容を評価するのと同じ基準で計ることができないことは当然である」旨主張する。

しかしながら、前者については、一般的にはそのようなことがいえるとしても、三年間目撃供述をしなかったBがその供述をするに至ったという前提にたてば、そこで供述する内容は固定したものになっていると考えるのが自然であり、次に検討するように、Bの供述内容には実に多くの変遷があることに照らすと、この点において右主張は当てはまらないというべきである。

また、Bの事情聴取については、目撃供述をするまでの間には、例えば昭和四九年六月ころから約一年間、昭和五〇年九月ころから約一年八か月の空白があることがうかがえるのであって、「事件直後から何回にもわたって尋ねられその都度記憶を新たにする機会もあった」ということだけでは説明できないといわざるを得ない。

さらに、後者については、具体的にはB証言の信用性の際に検討した部分(前記二の3の(二))のとおりであり、理由がない。

(四) その後の供述内容からの検討

(1) 供述の変遷や不自然な供述

右Bの52・5・7員面の供述(この項においては「5・7供述」という)は、その後の供述調書等(必要に応じて証言も含める)において、次のように、種々の点において変遷し、またそれらにおいて不自然な供述がみられる。

ア <1>の昭和四九年三月一九日の夕食の内容について

5・7供述によれば、どんな食事であったか覚えていないと供述しながら、ハヤシライスが出たと思うと供述し、また、おかずがあったかなかったか覚えていないと供述している。ところが、この三日後の52・5・10員面(弁一〇六)によれば、おかずははっきり覚えていないと供述しながら、生野菜をまいたものもあったようだと供述し、52・8・8員面(弁一一三)ではおかずは忘れたと供述している。

三年以上も前の特定の日の夕食の内容を記憶していること自体不自然であり、覚えていないとか忘れたと供述していることは(事件の約二か月後の49・5・25員面でも、忘れたと供述していることに照らしても)納得のいくものである。しかしながら、Bはそのように忘れたと供述しながらも、5・7供述ではハヤシライスが出たと思うと供述し、その三日後には覚えていないと述べていたおかずについて、生野菜をまいたものもあったようだと供述する。そして、献立表(検二〇〇、二〇一)によれば、当日の夕食は、「生節の煮付、白和え、土佐煮」ということであって、ハヤシライスとか生野菜をまいたものは出てこないのである。

このことは、Bは、覚えていないことでありながら、質問されると思い付くまま適当に供述したのではないかと思われ、Bの供述の特徴がうかがわれる。

イ <2>ないし<5>の夕食後の行動について

この点に関しては、夕食後青葉寮に帰り、洗濯物を片付け、M、Kらと一緒に遊び、その後ふとんを敷いたりしてから、ディルームにテレビを見に行ったという大筋においては変遷はみられないといってよい。

しかしながら、5・7供述では、Xに注目した不自然ともいえる供述があり、52・5・11検面(弁一一五)では、いわば大筋だけの記載しかなく、証言では、主尋問では、同じく大筋だけの供述があるが、反対尋問では、「夕食後、どこにもよらずに『くす』の部屋へ一人で帰った。ほかの子はみなディルームに戻った。夕食後、Xがどうしたか見ていない。Cは、夕食後寝るまでの間見かけていない。Kと夕食後一緒に青葉寮に帰っていない。キャシャーンを見ているとき、Kがディルームでテレビを見ていたのは見た。自分の部屋でふとんを敷いたが、先生に言われたのではなく、自分で敷いた。洗濯物を分けたのはふとんを敷く前で、I、Jと自分の部屋でした。夕食後、Kと二人で自転車に乗って遊んだことがある。それは洗濯物を分けてふとんを敷く前のこと。(もう一度聞かれて)夕食後ディルームに行くまでの間、友達と一緒に遊んでいない」など、弁護人に問われるまま供述し、その内容は、5・7供述とは異なったものとなっている。 ここには、日常的な行動でありながらXに関して不自然に注目するという特徴と、問われるまま適当に答えているのではないかと思われる特徴がみられる。

ウ <6>の父親からBへの電話について

この点に関しては、52・5・10員面(弁一〇六)と52・5・11検面(弁一一五)に記載があるが、大筋では変わりはないものの、右検面では、先生に迷惑をかけたらいかんと言われたことと、Y子やパトカーのことを話したことはないとの供述が加わっている。証言では、「先生の言うことを聞いているかと聞かれた。他に学校で剣道をしたり算数をしていると言った」と供述しながら、「剣道をしたのは事件後で、青葉寮から若葉寮に移ったときだけ。他の話はしてない。Y子のことや戊山先生のことは言っていない」と供述している。

電話の相手方である父親太郎は、電話の内容について、「子供がいなくなったらしいが万一おまえにそんなことがあってはいかんので電話した。ちょろちょろして先生に迷惑をかけたらいかんぞ」と言った(49・3・26捜復、丁原太郎控訴審証言)というのである。このように、電話の内容は太郎の供述と一致しておらず、剣道をしたという不自然な供述をしている。

エ <7>のCがXを連れて行ったのを見た時期及び状況について

まず、CがXを連れて行ったのを見た時期について、5・7供述、52・5・10員面(弁一〇六)では、いずれも右電話のあとの出来事として供述し、52・5・11検面(弁一一五)では右電話のあとであると明確に供述しながら、52・5・17員面(弁一〇九)において、「僕が勘違いして話していた」として、右電話がかかってくる前であると供述し、それ以降は証言も含めて右電話がかかってくる前であると供述している。また、見ていたテレビの内容からもその時期を述べているが、5・7供述では「イナズマンが変身して人間に変わったころ」、52・5・17員面(弁一〇九)では「イナズマンが一回目の変身をしてすぐ後」、52・5・21検面(弁一一七)では「イナズマンに変身する前」、52・5・29員面(弁一一二)では「変身しているときか、変身してすぐかなあ」と供述し、どのような場面を言っているのかはっきりしない内容となっている。

次に、CがXを連れて行ったのを見たときの状況については、5・7供述では「僕は、女子保母室の前付近でそれを見て、またもとのところに帰ってテレビを見た。Kも『さくら』の部屋にXやCらと遊んでいたようだ。Kは僕にわからないようにするために、男子寮のトイレに入らないで、近くにある女子寮のトイレに入っていたのを見た」との供述であったが、52・5・10員面(弁一〇六)では、「僕は女子保母室の近くに立って、CがXをA子の部屋に入れていたのを見た。Cは、ディルームの方へ帰ってきていた。そのとき、KがA子の部屋から出てきて、僕から隠れるように男子のトイレに入らないで、女子のトイレに入っていたのを見た。KもA子の部屋でXらと遊んでいたようだが、何時ごろディルームに帰ったのか知らない」、52・5・11検面(弁一一五)では「僕も一緒に遊ぼうと思って、女の部屋の方へ行った。CとXは、A子の部屋に入った。僕は、A子の部屋でお医者さんごっこをしようというKの声が聞こえたので、A子の部屋に入るのをやめてディルームに戻った。テレビを見ていると、Cが女の部屋の方からディルームに来てテレビを見た」などと供述し、Kに注目した不自然な供述がみられ、また、ディルームに戻っただけの供述が、女の部屋の方に行き、部屋の中の声が聞こえたなどと次第に詳しくなっていっている。

このCがXを連れて行った点については、新たな供述の一つであるが、右にみたように、それを見た時期についての供述が大きく変遷し、その際のBの行動等についても内容の変遷がみられる。そのうえ、B供述の特徴といえるある人物にこだわった不自然な供述がみられ、一体、どれが真実ととらえてよいのかわからないものとなっている。この点、B証言でも、「(Xが『さくら』の部屋にいることを知っているとして)電話の前にCがXを連れて行くのを見た」と供述するが、他方で、「Cを夕食後寝るまで見かけていない」とか「キャシャーンとイナズマンをしているとき、Cを見かけていない」と供述し、その後再度夕食後Cを見たかと質問されて「Xを連れて女の子の部屋に遊びに連れていくのを見た」と供述するなど、聞き方が異なれば異なった供述をし、確定しがたい証言となっている。

オ <8>のBとCとの出会いの場面について

いつどこでCに会ったのかについて、5・7供述では、自分の部屋に帰るのに男子保母室の前を歩いていたときという供述であったが、52・5・10員面(弁一〇六)では、「男子棟の便所の前で会った。便所に行った後と思うがはっきり覚えていない」と、そして52・5・11検面(弁一一五)では「『くす』の部屋へ戻るためディルームから出た。そして男便所に入って小便をした。便所から出たとき、Cがディルームの方からきたのに出会った」と、明確になるとともにCがどこから来たかまで供述している。

また、Cと会ったときのやりとりについては、5・7供述では、「Cは『X君はきけへんから』と言ったので、Cに『そしたら先にかえってとけや』と言った」と供述していたが、52・5・10員面(弁一〇六)ではCの言った言葉が「XはA子ちゃんの部屋から帰らない」となり、Bの言葉は出てこず、52・5・11検面(弁一一五)ではCの言った言葉が「X君が帰らんと言うて、いうことを聞かない」と両方合わせたものになり、Bの言葉は出てこない。52・5・29員面では、「Cが『X君が言うこと聞かん』と言って、僕が『連れに行く』と言った」と供述している。

そして、これらいずれの調書でも、Bは「さくら」の部屋の方に向かった旨の供述になっているが、52・5・17員面(弁一〇九)では、Cから聞いてから、「男子便所に入っておしっこをし、それから僕の部屋に帰り、すぐに出て、X君の部屋の中を見て、Xが帰っていなかったので」女子棟の方に向かったと供述している。

このように、Cと会って女子棟に向かって行くという目撃のきっかけになった重要な場面に関する供述であるが、その時期、やりとり、その後の行動等について様々な供述をしている。

カ <9>の廊下上での目撃状況について

(ア) この部分が、新たな供述のうちその目撃状況の中心になるものであるので、まず、各供述内容をみておくと、5・7供述では<9>のとおりである。

52・5・10員面(弁一〇六)では「A子の部屋へ行ってXを呼んでやろうと思い、女子棟の方へ行った。そのとき、女子棟廊下の入口から廊下を見ると、Xが非常口の方へ向かって、その後ろから大人の女の人がXを押しているのを見た。女の人をよく見ると、体つきや服から沢崎先生だなあと思った。見たのは、廊下の入口のところの女子保母室の前とディルームとの境いのところ。Xと沢崎先生は、女子棟廊下の一番遠い端の部屋の前に、Xが非常口の方を向いて、その後ろから沢崎先生が両手で両肩を押していた。Xは、いつもよくやる砂を人に投げるような格好をして『いや』というふうにして、アンアンと言って座ってしまった。アンアンという声を聞いたが、Xはいややと言えないのでいやのときに言っていた声。Xの声はそんなに大きい声ではなかった。その様子を見るのに、便所に隠れてしゃがんで、顔だけ出して見た。便所の中に入ったのは、沢崎先生に見つかるのが怖かったから。Xを知らない人が連れて行くような感じがしたので怖かったし、そんなことをしている沢崎先生が怖かったから。沢崎先生は、出口の戸をあけて外に出て、かがんでXの両足を持って外に引きずり出した。そのとき沢崎先生の顔をはっきりと見た。先生は、Xに顔を蹴られていたがすぐに戸を閉めた」というものである。

52・5・11検面(弁一一五)では、「女子保母室の戸の前のあたりへ来たとき、廊下の奥の方で女の人がXの後ろから肩か背中を押して歩いて行くのを見た。その女の人が誰かそのときはわからなかった。どこかよその人かと思った。その女の人は、黒っぽいコートを着て、パンタロンのようなズボンをはいていた。Xであることは、青い毛糸の服を着ていたのでわかった。その女の人がよその人かと思ったので、怖い気持ちになり、すぐ女便所に入り、ちょっと顔を出して廊下の奥の方を見ていた。女の人とXは、奥の扉のところまで行き、女の人が扉を開けた。Xは、ディルームの方を向いて廊下に尻もちをついて座り込んだ。女の人がXのうしろから両方の脇の下に手を入れて立たせようとした。Xは、砂をつかんで投げるような恰好をして、アン、アンと言った。アン、アンは、遊んでいるときによく言っていた。廊下で座り込んだとき、Xは嫌がっていると思った。Xは、犬のように四つん這いでディルームの方へ逃げた。すぐ女の人が追いかけて来て、Xの両足の足首のへんをつかんだ。そのとき、女の人の顔を見て、それが沢崎先生とわかった。廊下に電気はみなついていた。Xは両足をつかまれて廊下の奥の方へ引きずられて行った。奥の扉のところで沢崎先生の体を足で蹴って暴れた。どのへんを蹴ったかよくわからない。沢崎先生の足の方を蹴ったのかも知れない。Xは両足をつかまれたまま、奥の扉のところから外へ引きずり出された。扉はすぐ閉められた。(Xが沢崎先生に引きずり出されるのを見たときの模様を、図面で説明している)」というのである。

52・5・21検面(弁一一七)では「女子保母室の戸の前あたりへ来たとき、廊下の奥の方で女の人がXのうしろから肩か背中を押して歩いて行くのを見たことは、間違いない。女の人とXは、奥の非常口の方へ歩いて行った。普通は、その非常口から出たり入ったりしていない。そのとき、ほかに誰も廊下にいなかった。A子が『さくら』の入口からのぞいているのを見たことはない。僕はすぐ女便所に入った。そのとき『さくら』の戸を見たが閉まっていた。女便所に入ってから、かがんで顔を少し出し、廊下の奥の方を見た。女の人とXは、奥の非常口のドアのところで、Xが尻もちをついて、非常口のドアの方を向いて座り込んだ。この前は、ディルームの方を向いて座り込んだと説明したが、それは勘違い。そのとき、Xがアン、アンと言ったのは間違いない。Xは、遊んでいるときでも、怒ったときにアン、アン言っていた。女の人は、Xのうしろから両手を脇の下に入れて立たせようとした。Xは、砂をつかんで投げるような恰好で手を振っていた。それから四つん這いでディルームの方へ逃げた。女の人は、追いかけて来て、すぐXを捕まえた。Xの両方の足の下の方をつかんで、非常口の方へ引きずって行った。非常口のところで、Xはその人の体を蹴った。その女の人は、沢崎先生に間違いない。四つん這いで逃げるXを追いかけて来たとき、僕は女便所から顔を見た。非常口のドアは、最初閉まっていた。Xらがドアまで歩いて行ったとき、いっペん女の人がドアを開けたが、すぐ閉まった。風で閉まったと思う。Xが足をつかまれて引っ張って行かれたあと、沢崎先生がまたドアを開けた。それからXの足をつかんで引きずり出してドアを閉めた。Xが沢崎先生の体を足で蹴ったとき、ちょっと手が足から離れた」というものである。

52・5・29員面(弁一一二)では「女子棟の保母室の前で見た。Xが女の人に連れて行かれていた。後ろからXの肩を押して連れて行きよったのを見た。便所に入って見た。便所に隠れて見たのは、怖かったから、知らんよその女と思っていた。女の人はXを押して奥の方へ行っていた。非常口の方だった。Xはいやがっていた。Xはしゃがんだ。座り込んでしまった。女の人は後ろから抱えて立たせようとしていた。Xは、土を投げるようにしていやがっていた。そのとき、Xは、アン、アンと言っていた。Xは、白い線の入ったトックリセーターを着ていた。女の人の服装は、黒い頭の袋のあるコート。その女の人は服装で誰かはよくわからなかった。Xは、それから四つん這いになって逃げた。僕がいる方(ディルーム側のこと)を向いていた。女の人の顔を見たが、沢崎先生。沢崎先生は、四つん這いになって逃げているXの後ろから、二つの足をとって引っ張っていた。扉は閉まっていた。沢崎先生があけた。Xは、扉の方を向いて先生の顔を蹴っていた。沢崎先生が扉をあけて先に外に出た。沢崎先生は、Xの両足を持って外に引きずり出した」というものである。

52・6・17検面(弁一二〇)では「その晩、女子保母室のところで、女の人とXが女子棟廊下を歩いて行くのを見たのは、間違いない。そのとき、よその女の人と思った。女子便所に入ってしゃがみ、戸のところから少し顔を出して見ていた。その女の人に見つけられたら怖いと思ったから、便所に隠れた。Xらは、廊下の奥の非常口のところまで行った。Xが尻もちをついて座り、土を投げる感じで、両方の手を振り上げ、アーン、アーンと言った。女の人がうしろからXの両脇の下に手を入れて立たせようとした。Xは、四つん這いになってディルームの方へ少し逃げた。女の人が少しうつ向いて追いかけた。そのとき、女の人の髪の毛がゆれ、顔がちょっと見えた。それで、女の人が沢崎先生とわかった。沢崎先生は、すぐXの両足をつかんで非常口のところへ引きずって行き、非常口の戸を開けてXを引きずり出した。そして、すぐ戸を閉めた。Xは、足をつかまれて引きずられて行くとき、沢崎先生の顔のへんを蹴った」というものである。

(イ) 以上が、新たな供述の中心となる目撃状況についての主な供述調書の記載であるが、一読しても分かるように、実に細かな点についての具体的供述があり、それが変遷を重ね、さらに不自然不合理な供述までもが存在するのである。例えば、いつその女の人が被告人であると分かったのか、なぜ便所に隠れたのか、Xがどこを向いて座り込んだのか、Xが四つん這いになって逃げたことがあったのか、Xは被告人のどこを蹴ったのか、非常口の扉を開けたのは一度だけかなど、多くの点で変遷をしている。

その内容をみると、聞き方が詳しくなったとかいう聞き方の工夫だけでは説明できない内容となっている。例えば、Bの右供述中、重要な点で変遷があるというべきものの一つとして、いつその女の人が被告人であると分かったのかという点があげられるが、これについては、次のような観点からその変遷の理由が説明できる。すなわち、5・7供述では、女子便所のところに隠れてよく見ると被告人であったというのであるが、三日後の52・5・10員面(弁一〇六)では、最初に見たときに、女の人をよく見ると体つきや服から被告人だと思い、その後様子を見るため便所に入ったとなっている。そして、その翌日の52・5・11検面(弁一一五)では、最初は誰か分からずよその人かと思い、怖い気持ちになって便所に入って見ていたが、Xが四つん這いになって逃げ、女の人が追いかけてきたときにその顔を見て被告人と分かったとなり、以後はこの趣旨で供述がなされている。いつ被告人と分かったのかとか、なぜ便所に隠れたのかとか、Xが四つん這いになって逃げるのを追いかけるとかについては、実際にその場面を体験したものであれば、その際の気持ちも含め、忘れがたく印象に残りやすいことであると思われる。それにもかかわらず、右のように大きく変遷するのである。いつ被告人であるのが分かったのかについては、最初の調書のように、便所に隠れてよく見たら分かったとすると、Xと女の人との位置関係から顔を見ていないのになぜ被告人と分かったのか説明ができず、考えられるのはその服装について詳しく述べているので服装で分かるのが自然である。そうすると、服装で分かるとすれば最初に見たときに分かるはずであり、そういう意味で、三日後の調書では、最初に見たときに体つきや服から被告人だと思ったとなり、ただ、そうすると、最初に見たとき被告人と分かったとなると、その二人の様子だけからではBが怖がる理由はなく、便所に隠れて見たことが不自然な行為となる。そこで、その翌日の調書では、最初は誰か分からず、よその人かと思って怖くなって便所に入り見ていると、Xが四つん這いになって逃げてそれを女の人が追いかけてBから顔が見えて被告人と分かったとなる。このように理解することによって、約五日の間に供述が二転三転していったことの説明ができる。

このことは、Bが真実目撃したとすれば短期間にこのように変遷することは極めて不自然であり、むしろ、いろいろ問われるうちにあるいはその不自然さを問われるうちに、自分なりに考えて理屈をたて、それに沿って供述したのではないかとの疑いを抱かせるものである。そして、例えば、Xが座り込んだ際にどちらを向いていたかについて、二人の位置関係やその態様からすれば進行方向である扉に向かって座り込むのが自然であるが、52・5・11検面(弁一一五)ではディルームの方を向いていたと供述していた。それを、一〇日後の52・5・21検面(弁一一七)で、Xが尻もちをついて非常口ドアの方を向いて座り込んだと供述して、この前はディルームの方を向いて座り込んだと説明したがそれは勘違いであったと供述していることも同様の理由で説明がつくのである。

また、「非常口ドアを右まわりにしてあけた」とか、「ドアの内側の鍵を中から押して外に出て閉めた」という、あまりにも詳細すぎて不自然な供述が5・7供述でなされている。一つ目は、おそらく見えない場面であり、仮に見えたとしてもそのことを記憶し続けていたというのは不自然な事柄であり、二つ目は、どういう状態を指して言つているのか不明な供述である。弁護人が主張するように、これはいわゆるプッシュ式のドアノブを想定しているとも思われるのであるが、この非常口ドアはマスターキーによる施錠のドアであり、そうだとすれば、Bは、他の知識、経験に基づいて供述していることになる。

キ <10>のその後のBの行動について

5・7供述では、すぐ非常口の近くの方に行ったが、外を見るのが怖くてディルームの方に帰ったと供述していた。そして、その三日後の52・5・10員面(弁一〇六)では、「それから、ディルームでテレビを見ている人のじゃまにならないように裏庭に近い方を通って部屋に帰って寝た」と供述しており、特に行動として供述されていない。しかしながら、その翌日の52・5・11検面(弁一一五)では、「僕は、Xが可愛想になり、奥の扉のところへ行き、外を見たが、Xや沢崎先生は見えなかった」と、どういう態様かの説明はないまま、外を見たとの供述が出てくる。その一〇日後の52・5・21検面(弁一一七)では、「非常口のドアのところへ行った。そして、廊下の窓から外を見た」と、どこから見たかを供述している。

Bが真に被告人によるX連れ出しを目撃したのだとすれば、その目撃内容はBにとっては極めて衝撃的なものであり、目撃後自分自身どのような行動をとったかは、体験したものであれば当然当初から説明するのが自然である。それなのに、Bの供述をみれば、右のように短期間に変遷している。そして、その内容が具体的になっており、それは順序を追って細かく聞いていったからともいえなくはないが、短期間のうちに次第に詳しくなっていくのは、その聞き方によるというより、聞かれるまま何とか答えようとして合理的になるように考えながら答えていったもののように思われる。このことは、証言においては、この供述にさらに洗面所の上に上がって青葉寮の裏を見たという供述まで加わっていることからもうかがわれる。

(二) 小括

以上のとおり、昭和五二年五月七日のBの供述内容は、その後種々に変遷し、その変遷はいわゆる目撃事実に関する部分も含め全体に及び、目撃事実については重要な部分においても変遷しているのであり、一貫した供述とは到底いえない。そして、前記のとおり、実際に目撃していて、何らかの事情によってそれを供述しないで、三年後になってはじめて供述したということになれば、Bの記憶の中に固定化しているはずのものであると考えるのが自然であるが、右のように種々変遷しているのは何としても不自然である。また、前記のBの供述の特徴であるところの、詳細すぎる供述、特定の人物に注目した不自然な供述、矛盾、不自然、不合理な供述がみられ、その信用性に大きな疑問を抱かせるものである。

検察官は、右変遷について、「目撃事実の核心となるべき事項についての変遷はなく、変遷があるのはその目撃事実のうちの情景の一部分を構成するにすぎないさ細な事実に限られている」旨主張する。

しかしながら、右でみたように、Bの供述にみられる変遷は、「目撃事実のうちの情景の一部分を構成するにすぎないさ細な事実に限られている」といえないことは明らかである。検察官の「目撃事実の核心となるべき事項」に関する主張については、前記二の3の(二)の(6)で説示したとおりであり、到底とり得ないものである。

(五) 他の証拠からの検討等

(1) 弁護人は、Bの目撃供述が信用できないとする一つの理由として、「Bの目撃供述を何らかの形で根拠付けている他の供述は、A子、C、D、E子らの園児の供述のみであり、しかも、それらの供述も、そのほとんどがBの供述の後になされたものである」旨を指摘する。

Bの目撃供述のとおりであれば、当時の青葉寮宿直勤務者である乙野及び乙原の供述の中に、右Bの目撃供述を何らかの形で裏付けるようなものがあるのが当然であるが、前記第五の四の4の(二)のとおり、乙野及び乙原の供述を検討してもそのような供述は一切出てこない。

そして、それ以外の供述でBの目撃供述を裏付けているものは、A子、C、D、E子らの供述しかない。しかし、右園児らの供述は後にそれぞれ検討するように、信用性の乏しいものといわざるを得ないのであるが、加えて、右園児らのBの目撃供述を裏付けるといえる供述はそのほとんどがBの供述の後にあらわれてきているといえる。

例えば、第一次捜査における「Xがさくらの部屋にいた」との供述については、A子、Cも供述しているが、これは、49・3・26捜復においてBが初めて供述したことがうかがわれ、それに引き続いて、A子に関する49・3・27捜復(弁七四)でA子が、Cに関する49・3・29捜復でCがそれぞれ供述したものである。そして、第二次捜査における目撃供述についても、Bの供述を裏付けるC、D、E子の供述があるが、Cについていえば、Bが52・5・7員面で目撃事実を供述しているのに、Cは、その同じ日の事情聴取(Cの52・5・7員面弁一七二)ではBの供述を裏付ける供述はしていなかった。しかるに、その四日後のCの52・5・11検面(弁一七九)ではBの供述を裏付けるXを「さくら」の部屋に連れて行ったこととXを「さくら」の部屋に呼びに行った帰りにBと出会ったことを供述している。また、Dについては、Bの供述を裏付ける事実であるBが女子棟とボイラーの間をうろうろしていたことを供述するのであるが、それはDの53・3・7員面(弁一五九)以降に出てくる。さらにE子についていえば、Bの供述を裏付ける事実であるBを女子トイレで見たという供述が出るのは53・3・13検面(弁一四六)である。なお、この点については、Bの52・6・17検面(弁一二一)に、KがVに言った言葉として、「X君が連れて行かれるのを、B君が便所から見ていたとE子さんが言っていた」との記載がある。

以上のとおりであり、弁護人の右指摘は正当であるといえる。

(2) また、弁護人は、Bの目撃供述は乙野供述と矛盾する旨指摘する。この点に関しては、前記第五の四の4の(二)でも検討したところであるが、若干付け加えておく。

乙野証言によれば、乙野は、男子棟において年少児の就寝介助をしていたが、午後七時三〇分からのテレビ番組が終了して小学生以下の園児らが部屋に帰るなどしたため、その子供たちが部屋に入ったかどうか確認しようと男子棟の非常口の方からディルームの方に順次部屋を見て回り、「まつ」の部屋で、本来戻っているべき園児であるXがいないのに気付いたというのである。「まつ」の部屋は非常口から六番目であり、Bの居室は非常口に一番近い「くす」の部屋であり、Bは午後八時に寝る園児であったのであるから、右乙野が部屋を見て回ったときには、Bは「くす」の部屋にいたということになる。そして、乙野は、52・5・25検面(弁二四)において、「問-X君がいないことを発見した際に男子棟のくすの部屋から順番にかし、もみ、すぎ、ひのきと見て来たということでしたが、これらの部屋には子供達は皆揃っていたのですか。答-それは、年少組が寝る午後八時ごろの時間帯ですから、大きな子はまだディルームでテレビを見ている子もある訳です、ですから八時に寝る小さい子は揃っていたということです。そうでなければ私がX君がおらんとX君のことだけを言い出す訳がありません」と明碓に供述しているのである。

ところが、Bの第二次捜査以降の供述によれば、Bは、イナズマンの予告編のころにディルームを出て、男子トイレの前でCと出会って女子棟の方に向かったというのであるから、乙野がBの居室である「くす」の部屋を見たころには、Bは自分の居室にはいなかったということになる。この点において、B供述は乙野供述と矛盾しているのであり、弁護人の指摘は正当である。

この点について、検察官は、乙野の52・5・25検面の記載内容は、「揃っていたということです」との答えになっていることから、「くす」から「まつ」の部屋に年少児がすべて在室していたという明確な記載がないのに、在室していたはずであるという趣旨で供述したと理解できる旨主張し、そのように思い込んでしまう可能性があるとして、トイレに行っている園児がいることもあり、在室していなくても特に問題意識を持つことはないとか、介助不要の園児については注意が向かないことがあるとか指摘する。

しかしながら、XもBも午後八時には就寝すべき年少児であり、乙野は、午後八時に就寝すべき年少児が各部屋に在室しているか否かを確かめるために「くす」の部屋から順次確認していき、「まつ」の部屋に至ってXがいないので捜したというのであって、右検面の記載を検察官主張の趣旨で理解することも、乙野が「まつ」の部屋に至るまでの部屋に年少児がすべて在室していたか明確でないのにすべて在室していたと思い込み「まつ」の部屋に至ったと考えることも、極めて無理があり、とり得ない主張といわざるを得ない。検察官は「介助を要する年少児」のことをいうが、乙野は早い時間から年少児の介助を行っており、午後八時というのは介助の要、不要とは関係なく年少児が就寝する時間であり、それを見回った乙野の頭に介助の要、不要の区別があったとは考えがたく、それはそのような趣旨の供述が乙野にないことからもうかがうことができる。

(3) 弁護人は、Bの目撃供述はA子供述と矛盾する旨主張する。

A子証言によると、A子は、「ぼたん」と「ばら」の部屋の境目付近を被告人とXが非常口の方に歩いて行くのを見たというのであるが、Bの目撃供述によれば、Bが被告人とXを見たときの二人の位置は、A子が見たのとほぼ同じ位置である。そうすると、Bは、「さくら」の部屋の入口から非常口の方を見ているA子を見るはずであるのに、Bの供述にはそのような場面は全く出てこず、逆に、Bの52・5・21検面(弁一一七)には「A子が『さくら』の入口からのぞいているのを見たことはない。女便所に入ったとき『さくら』の戸を見たが閉まっていた」との記載があり、この点においてA子供述と矛盾するといえるのであり、弁護人の右主張は正当である。

(六) まとめ

以上のとおり、Bの昭和五二年五月七日の供述内容、それ以降の供述内容に照らすと、供述の変遷、不自然。不合理な供述、他の証拠との矛盾など、多数の疑問点が指摘できるのであり、供述が一貫しているものとは到底いいがたく、その信用性には大きな疑問があり、検察官の右主張はとり得ない。

9  Bの目撃供述についての情報等による影響に関して

(一) 問題の所在

これまで検討したように、Bの目撃事実に関する供述は、その信用性に疑問があるといわざるを得ないのであるが、Bが、被告人のX連れ出しを目撃したとしてその状況を極めて具体的かつ詳細に供述していることも事実であり、全く何も目撃していないにも関わらずそのような供述をすることはあり得ないのではないかとの思いも一面では否定できないところである。

この点については、弁護人は、「Bの目撃供述は、すべてBの創作によるものではなく、事件直後から目撃供述の基本的な骨子について徐々にBに情報が提供されていた」旨主張し、これに対して、検察官は、「Bの目撃供述は非常に具体的なものであり、このような被告人のX連れ出し行為の態様についてBが情報を得ていたことはあり得ないのであり、また、同人は体験しえいないことを想像で組立てて作り上げる能力が極めて低いのであり、Bの証言及び供述する目撃事実及びその際の自己の行動内容が、極めて具体的、詳細であり、自然であることを考えれば、同人の本件目撃供述が、それまでに得ていた情報からの推測によるものであるとは考えられない」旨主張するので、以下、検討する。

(二) 検察官が主張するBの能力について

まず、検察官は、右主張の前提として、Bの能力について主張するのであるが、この点については、既に前記三の4で説示したとおりであり、とれないといわざるを得ない。

すなわち、Bの精神年齢は、事件当時で五歳半前後から六歳ころ、目撃供述を初めてしたころで六歳から七歳前後にすぎないのであるが、Bは、性格的には非常に人なつっこく、人との会話においては基本的には非常に饒舌であり、あらわれた証言、供述調書内容からも明らかなように極めて豊富な内容を供述しているのである。そして、岡本証言、丙本証言、B児童記録、B生活記録等からは、Bが物語を作ったり、虚偽の事実を述べることができることを十分うかがうことができるのであり、検察官の主張は前提を誤っているといわざるを得ない。

なお、付言するに、検察官の主張によれば、目撃供述以外のB供述も基本的には信用できるということにならざるを得ないと思われるのであるが、前記のような49・4・2員面、49・4・11検面の一七日、一九日の出来事に関する供述も真実であるということになり、また、例えば、目撃供述を始めた後の52・6・17検面(弁一二一)記載の「Xがいなくなって次の日から若葉寮に移った。(二つの部屋が並んでいて、僕は右側の部屋にMと若葉寮の子と一緒で、左側の部屋には、K、Vらがいたとして)若葉寮でXのことで話をしたことがある。夜寝てから、隣の部屋で、KがVに、『X君が連れて行かれるのを、B君が便所から見ていたとE子さんが言っていた』と言った。Vは、「E子さんはそんなとこ見てへんやろ』と言っていた。そのとき、しっこ起こしの電気がつき、先生が部屋に来て、自分で便所に行けない子を便所に連れて行った。それが済んで、また電気が消えた。僕は、それから間もなく父に連れられて家に帰った。家に帰るとき、若葉寮の玄関でE子に会った。E子に『僕がトイレに隠れてX君が連れて行かれるのを見ていたとこを見たんか』と尋ねた。E子は、『B君がトイレに隠れたとこを見た』と言った。それで僕は、『どこで見たんや』と尋ねると、E子は、『ディルームの畳のところから見ていた』と言った。それから、E子は、『便所に隠れて見ていたことを警察のおじちゃんに話したらあかん。先生やお父さんにも話したらあかん』と言った」という、いささか複雑で理解しがたい供述までも真実であるということになるのであり、右供述内容からみてもそれらが真実であるというにはちゅうちょせざるを得ないのである。

(三) 情報による影響等について

次に、Bが、目撃供述をするに至るまでに得たと思われる情報等の中に、その供述の骨子は含まれており、したがって、Bの目撃供述については、全くBが作り出したものではなく、事件直後からBに様々な形での情報が提供され、それが目撃供述に変容したものと理解することが十分可能なのであり、この点において、弁護人の右主張は否定できないものといえる。すなわち、

(1) Bの目撃供述が最初に出たのは前記のとおり昭和五二年五月七日であるが、その供述に関連する事実は昭和四九年当時にもみられる。

それは、XかA子の部屋にいたという点に関してである。すなわち、49・3・26捜復(弁九八)には、太郎からの事情聴取として、「三月一九日の午後七時から八時ころの間、A子の部屋で、A子、H子、G子、Xの四人が先生ごっこをしていた」旨のBの供述が記載されている。この内容は、青葉寮での日常生活のひとこまといえるものであり、それが三月一九日の出来事であるかなどその真実性は明らかではない。そして、翌二七日にA子に対する「事情聴取(A子に関する49・3・27捜復)において、A子が、右の四人の園児が自分の部屋でトランプをして遊んでいたと供述し、被告人がXを呼んで連れ出したとの供述が続く。A子の供述に関しては、別に検討するが、そもそも、証拠上、XがA子の部屋で遊んでいたと最初に供述したのはBであり、それがA子に引き継がれ(遊んでいた園児が全く同じことから一応の推測ができる)、その後A子の供述によって被告人が登場する。そして、Bの49・4・2員面では、A子の部屋で遊んでいた者が「A子、R子、G子、H子、Q、X」と多くなり、A子の49・4・4員面(弁八〇)では「X、G子が押し入れで遊んでいた」と変化し、さらに、CがXを呼びに来たがXは帰らず、その後被告人がXを呼び出したとのA子の供述になっていくのである。

(2) 四月七日被告人がX殺害の被疑者として逮捕されたが、それをBがテレビあるいは父親らとの会話により知っていたこと、Bは、50・8・8員面において、「沢崎先生が警察から帰って来たとき、食堂で、僕は沢崎先生に『先生X君Y子ちゃん殺したやろ』と言った」旨供述していることからすれば、Bにとって、X殺害の犯人は被告人であるとの知識があったことがうかがわれる。

(3) そして、その後の昭和五〇年五月一〇日乙沢四夫方において、Bが新供述の骨子となるべき情報に接する機会があったことがうかがわれる。

すなわち、50・5・10捜復(弁九九)によれば、右乙沢方に赴く前の昭和五〇年五月七日、高橋亨と勝忠明が姫路市内の丁原方で事情聴取した結果、Kが何らかの目撃をしているのではないかと思われたことから、Bと共にKから事情聴取を行うことになったこと、同月一〇日、乙沢四夫方において、右高橋と勝、B、K、L子、乙沢冬子が集まり、その際のKからの事情聴取(黙ったままであったので頭の前後左右による動作で返事をする形で)により、<1>一九日夜Xがいないと言ったのは乙野先生である。<2>Xが廊下を歩いていく後ろ姿をディルームから見て知っている。<3>誰かのあとについて歩いていた。<4>Xはよう一人で外に出ない。<5>CがG子の部屋にXを呼びに行ったが、「X君いやや言うた」とCが言ったとの点が判明したとされていることが認められる。

この際の状況については、右捜復によれば、当初、高橋らの事情聴取に対し、BがKに記憶を呼び戻すように積極的に促していたが、Kは知らないと答えるだけであったこと、乙沢冬子からKに対して積極的に話しかけていったこと、乙沢冬子証言によれば、警察官が席を外して乙沢冬子がKにいろいろ質問し、Bも話を聞いていたこと、被告人がXを連れて行ったのではないかと質問したり、BもKに見たのと違うかと言ったことがあったと思われること、というものであった。

このような乙沢方での経過に鑑みれば、事件についての様々な情報が、Kの認識を確かめるという形で、Bの前で何回となく警察官から語られ、また、警察官が席を外した際に、乙沢冬子が何とかKから聞き出そうとして、乙沢冬子の推測も含めた様々な事実をKに問いただし、それをBが聞いていたと推測される、しかも、この事情聴取によって得られた供述というのも、右のとおり、Kが言葉として発したものではなく、黙ったまま頭の前後左右による動作で返事をする形であったというのてある。

(4) これらを総合すれは、目撃供述の骨子となっている「一九日夜、A子の部屋で遊んでいたXを、まずCが呼びに来たがXは帰らず、次に被告人がXを呼んで連れ出し、廊下をXと歩いて非常口の方に行った」という流れは、Bの新供述以前に、同人に対して情報として入り、それに乙沢冬子あるいはB自身の推測により様々な事実が付加されていったと合理的に推測できる。

結局、Bの新供述は、Bが創作したものではなく、知識、情報として入っていた内容が、次第にBの認識の中で固定化し、あたかも自ら目撃したような錯覚に陥っていったことも十分に考えられるのである。

さらに、前記のとおり、昭和五二年五月七日の丙丘園における事情聴取を行った西村の影響も否定できないのである。

(5) このようにして考えると、Bの目撃供述のうち、Bが他から得た情報に基づく部分、すなわち目撃状況の骨子にあたる部分に関しては、ほとんど変化はなく、それに自ら付け加えたと思われる具体的、詳細な供述部分については、不自然に大きく変遷していることも十分説明ができる。

すなわち、「CがXを呼びに行ったのがどの時点であったか」、「沢崎とわかったのがどの場面であったか」、「沢崎はXをどのように外に連れ出したのか」、「廊下上を四つん這いになってXが逃げてくる場面があったのかなかったのか」、「非常口から二人が外に出た後、Bは非常口の所まで行ったのか否か」など、真の目撃者であれば脳裏に焼きついてしかるべき場面であり、その供述内容に本来変遷が生じることが考えられないような場面について、B供述が大きく変遷しているのは、右の観点からみると理解が可能なのである。

(四) まとめ

以上を総合すれば、「Bの目撃供述が、それまでに得ていた情報からの推測によるものであるとは考えられない」旨の検察官の主張はとることができず、むしろ、弁護人が主張するように、「Bの目撃供述は、すべてBの創作によるものではなく、事件直後から目撃供述の基本的な骨子について徐々にBに情報が提供されていた」と理解することが可能なのであり、したがって、全く何も目撃していないのに具体的かつ詳細な供述をすることも何ら不思議ではないというべきである。

四  Bの供述の評価

以上みてきたように、B証言には、客観的事実に反するもの、不自然、不可解なもの、矛盾したものが多くみられ、その信用性には大きな疑問があるうえ、B証言を含めたBの供述については、検察官がそれが信用できるとしてあげる諸点はいずれも疑問点が指摘できるとか理由がないといえるのであり、殊に、Bが、本件目撃事実を事件後三年以上経って供述するに至った経過、供述状況には多くの疑問点があって不自然である。結局、Bの供述は信用できないといわざるを得ない。

第七  A子の供述の信用性について

A子の供述の持つ意味と問題の所在

1  A子の供述の持つ意味

(一)  青葉寮収容児童A子は、昭和五五年一月一四日、同年二月四日、昭和五六年二月一九日、同年三月一九日、同年四月一六日の五回にわたり証人(期日外尋問)として証言した(A子証言)。

検察官は、A子証言について、控訴審判決を引用する形で次のように要約している。「本件当夜、ディルームでキャシャーンを全部見てからイナズマンの途中で『さくら』の部屋に戻ったところ、室内にXとG子がおり、青色セーター、茶色ズボン姿のXが押し入れの上にいて、G子が畳のところにいて二人で遊んでいた。パジャマに着替えて、先に自分が廊下側に敷いておいたふとんに入り、頭をディルーム側に、顔を廊下側に向けて横になっていたところ、この日より前にXを『さくら』の部屋に呼びに来たことのなかったCが廊下側入口の板のところまで入って来て、Xに『寝よう』と声をかけた。Cが室内に入って来たときには目をつぶっていたのでCの姿は見なかったが、声で分かった。Cの呼びかけに押し入れの上にいたXは応じなかったため、Cは帰り、Xは押し入れの上から下りた。その後、この日より前にXを『さくら』の部屋に呼びに来たことのなかった被告人がディルームの方から『さくら』の部屋に来て、部屋には入らなかったが、Xに『おいで』と声をかけたところ、Xは部屋から出て行った。このことは目をつぶっていたので見ていないが、足音や声で分かった。Xが出て行った後、廊下側入口の戸が開いたままになっていたので閉めようと思い、戸のところまて行ったときに女子棟廊下の非常口の方を見たところ、廊下に黒色オーバー、紺色ジーパン姿の被告人とXがいて、『ぼたん』の部屋と『ばら』の部屋の境目付近をXが前、被告人が後ろになって非常口の方に歩いて行くのが見えた。それ以上二人を見ることもなく戸を閉めてふとんに入った。その後、乙野先生と乙原先生が『さくら』の部屋に捜しに来た。このことも声で分かった」というのである。

(二)  そして、右証言内容は、検察官が主張する犯行態様のうち、Bが目撃したとされる状況の直前であるところの、「被告人は、女子棟の『さくら』の部屋の出入口付近から『Xおいで』と声をかけてXを同室から廊下に呼び出したうえ、同人とともに廊下を東方に歩き、女子棟東端の非常口付近に至った」という状況を裏付ける重要な意味を持っているものである。しかも、A子は、この証言内容を骨格とする供述を捜査段階においてもしており、検察官から二号書面として検察官面前調書一〇通が請求されている(検四五九ないし四六八)。

2  問題の所在

しかしながら、A子の右証言内容については、主尋問においてすべてが出たわけではなく、検察官の主張にもあるように、「A子が、自ら順序立てて説明したものではなく、その場面ごとに、検察官あるいは弁護人の質問に対して供述したものであり、供述する過程で、当初の質問に対し、返答せずに沈黙していたり、『忘れた』とか『分からへん』と言ったりした事項について、後になって供述したものも含まれている」のである。

また、A子の場合は、事件から八日後である三月二七日に、被告人によるXの連れ出しをうかがわせる供述をしたととれる捜査復命書(49・3・27捜復弁七四)が作成されており、この点において、第二次捜査段階において目撃供述等をするようになった他の園児とは異なった特徴があるが、右49・3・27捜復の記載内容をみると、果たしてその後になされた被告人のX連れ出しを目撃した旨の捜査段階での供述と同様にみてよいのか疑問が残るのであり、さらに、捜査段階での供述及びA子証言の内容には種々の変遷がみられるのである。

加えて、A子は、昭和三七年四月四日生まれで、事件当時は一一歳一一か月、証言当時は、第一回(昭和五五年一月一四日)で一七歳九か月、第五回(昭和五六年四月一六日)で一九歳であったものであるが、昭和四四年四月一一日甲山学園に入所した精神遅滞児であり、精神年齢はいずれもそれより低く年少児としてみるべきである。

以下、A子証言の信用性を検討するが、A子が精神年齢的には年少児であるのでそのことを念頭におきつつ、証言の内容を証言状況を加味して具体的に分析、検討し、さらに、その骨格となった捜査段階の供述についてもA子の置かれていた環境、状況等を考慮して供述内容を具体的に分析、検討し、これらを経験則に従って総合的に判断することにする。

3  検察官が主張するA子の記憶能力、供述能力について

検察官は、「A子の目撃供述は、A子の記憶能力、供述能力からみて信用性がある」旨主張するので、まず、この点について判断する。

(一)  検察官の主張

検察官は、まず、<1>「赤羽目証言、萩原証言、赤羽目・萩原鑑定書(当審職六)の鑑定結果に徴すれば、A子は、精神遅滞児童であるとはいえ、その程度は軽く、日常生活に必要な知能は正常にあって、被告人によるX連れ出し状況を知覚してそれを記憶し、供述する能力を有していたことは明らかである」旨主張し、次に、<2>「しかも、A子には、直接知覚しうるものを越えて連想を広げたり、架空のことを合理的に構成する能力が極めて乏しいところ、A子が供述する被告人のX連れ出し事実の内容は、非常に詳細かつ自然なものであって、自己が直接目撃していないのにかかわらず、さしたる矛盾を含まずに右のような詳細かつ自然な供述を行うことは、A子の能力からしても到底不可能であり、A子の証言及び供述内容が、自らの体験に基づいて述べられたものであることは明白であって、その供述の信用性は極めて高いというべきである」旨主張する。

(二)  検察官の主張の<1>に対する判断

(1) 赤羽目・萩原鑑定書によれば、昭和五二年四月一日実施の鈴木・ビネー式知能検査の結果、A子の知能指数は五八、精神年齢は八歳四か月であり、また、コース立方体組み合わせテストでは知能指数は六二であったこと、A子の精神状態は軽度の精神遅滞であること、事件当時の精神年齢を推定するとおおむね七歳から七歳半であることが認められる。そして、赤羽目証言によれば、赤羽目勉は、「A子については、お父さんが誰だとか、この人が先生だとか、日常的、具体的なことは正常者と変わらないと思う」旨供述し、萩原証言によれば、萩原禎子は、「A子については、目撃の内容を観察し、そして知覚してそれを記憶して、それをまた供述するという能力には別段異常も欠陥もないと判断した」旨供述する。

(2) ところで、A子が本件に関して目撃したとされる事項は、Xが「さくら」の部屋で遊んでいたこと、CがXを呼びに来たが帰らなかったこと、保母である被告人がXを呼んで連れて行ったこと、Xと被告人が廊下を歩いているのを見たことである。前記のとおり、Xは「さくら」の部屋のG子と仲が良く、「さくら」の部屋でG子と遊ぶことが多かったことが認められるのであって、A子は、Cや被告人がXを呼びに来たことはこれまでなかった旨証言するが、甲山学園が入所施設であることからすれば、園児や保母が「さくら」の部屋で遊んでいる園児を呼びに来たり、廊下を園児と保母が歩いているのを見ることは、いずれも、甲山学園における日常的な光景であって珍しい出来事とは考えられない。このことは、A子自身、この目撃事実が衝撃的であったとか、それにより何か異常を感じた趣旨の供述はしていないことや異常を感じた行動がみられないことからもうかがうことができる。

このようないわば日常的な出来事についてであれば、右各証言及び鑑定書によれば、A子には、それを見て記憶して供述する能力があると認められるのであり、この点において、検察官の「精神遅滞児童であるとはいえ、その程度は軽く、日常生活に必要な知能は正常にあって、被告人によるX連れ出し状況を知覚してそれを記憶し、供述する能力を有していた」旨の<1>の主張は正当である。

(三)  検察官の主張の<2>に対する判断

(1) はじめに

ところが、検察官は、さらに、A子の能力について、「A子には、直接知覚しうるものを越えて連想を広げたり架空のことを合理的に構成する能力が極めて乏しい」とし、「自己が直接目撃していないのにかかわらず、さしたる矛盾を含まずに非常に詳細かつ自然な供述を行なうことは、A子の能力からしても到底不可能である」旨<2>の主張をするのであるが、右A子の能力に関する根拠は、「赤羽目証言、萩原証言、赤羽目・萩原鑑定書によれば、A子については『具体的で直接知覚し得るものを越えて連想を広げる能力が乏しく、また、目前に存在しない事物を素材として、これを形容詞で修飾したり、副詞で結ぶなどの加工を施して新しい出来事を述べる能力は極めて乏しい。何らかの動機を持ってでたらめな供述を行う意図がある場合でも、架空のことを合理的に構成する能力は極めて乏しい。しかし、現実に体験したことについては相当細かいことまで記憶していて、間違いなく述べる力を持っている』旨が判定されている」というのである。

赤羽目・萩原鑑定書の鑑定主文中証拠調べをしたのは、「A子の精神状態は軽度の精神遅滞であり、供述をなした当時の精神年齢は概ね七歳から七歳半であったと推定される」旨の部分であり、これは、前記(二)の判断につきるものである。しかしながら、右鑑定書中の証拠調べをした部分には右に関すること以外に検察官主張のような事項が具体的に記載されており、各証言においても同様な供述があるので、以下において、右各証言及び鑑定書の内容について検討する。

(2) 検察官の主張する根拠

検察官が根拠としているのは、具体的には、右鑑定書中のA子の「記憶能力」、「空想癖、虚言癖及び想像力」及び「被暗示性」についての記載及び両証言殊に萩原証言である。

それによれば、「記憶能力」については、鈴木・ビネー式知能検査の問題(第二八問と第四三問)に基づくテストと病院で診察を受けた際の出来事に関する記憶テストの結果等を総合して、右鑑定書には、「聴きとらせあるいは読みとらせたいくつかの出来事を誤りなく再生する能力が極めて低いことを示した。このことは同時に、A子に、A子が直接体験しないいくつかの出来事、事実を供述させようとする場合の限界を示している」、「直接体験した事柄を記銘し把持し再生する能力は、特に優れているとはいえないが、異常は認められない」との評価が記載され、萩原は、萩原証言において、これらの検査の結果、「実際に体験したことについては相当細かいことまで記憶していて、間違いなく述べる力を持っていると思った。紙の上でとか人から聞いたことで覚えさせた事柄については、非常に記憶が悪いように思った」旨供述している。

また、「空想癖、虚言癖及び想像力」については、TAT検査と鈴木・ビネー式知能検査の問題(第五一問と第四七問)に基づくテストの結果を総合して、右鑑定書には、「何らかの動機をもってでたらめな供述を行う意図がある場合でも、架空の出来事を合理的に構成する能力が極めて乏しいために、その目標を達することはできない」旨の評価が記載されている。

さらに、「被暗示性」についても、TAT検査に使用される図版に基づくテスト結果を総合して、右鑑定書には、「特に被暗示性が強いとはいえない」旨の評価が記載されている。

(3) 右根拠となった「記憶能力」についての検討

ア そもそも、記憶能力を判断する際、記憶に影響する要因は種々あると考えるのが合理的であり、萩原証言のように、実際に体験した事柄と紙の上とか人から聞いたことで覚えさせた事柄とを明確に分けることができるのか疑問であるだけでなく、その両者を分けてその良し悪しについてだけ判断することには大きな問題があるといわざるを得ない。

イ しかも、右鑑定で用いられた知能検査中の数字の反唱とか逆唱の問題や第二八問の文章反唱問題について、記憶能力のテスト結果とその評価をみれば、萩原は、数字や文章の一字一句を原文どおり正確に反唱できることが、「紙の上でとか人から聞いたことで覚えさせた事柄」を記憶する能力としているのである。 しかしながら、例えば、文章の一字一句を正確に反唱できなくても、その内容を理解して誤りなく述べることができていれば、知能テストの文章反唱問題に対する解答としては誤りであるとしても、「紙の上でとか人から聞いたことで覚えさせた事柄」を記憶する能力があるというべきである。

そして、A子の鈴木・ビネー式知能検査第二八問のテスト結果をみると、三問のうち一問は正答であり、他の二問も、「昨日はお休みでございました。太郎さんは公園へ遊びに行きました」という文章の反唱については、「昨日は太郎さんはお休みでした。公園に遊びに行きました」と答えているなど、文章の意味としては全く同一か、あるいは一語のみ勘違いしたというものと評すべきであって、右鑑定書の「単に機械的に記憶するだけでなく、一連の文章の中に含まれているいくつかの事柄を記憶し再生する能力はより一層劣っている」という評価はできないといわざるを得ず、むしろ、A子については、少なくともその精神年齢に応じた文章、語句の記憶、再生は、それなりに出来ているものと評価すべきである。

ウ また、右鑑定書によれば、鈴木・ビネー式知能検査第四三問のテスト結果を記憶能力の判定に用いているが、右テストの問題は、一〇歳ないし一一歳の精神年齢の者に対応するものであり、A子の精神年齢(八歳四か月)に相応しいものとはいえない。

なお、弁護人は、「右テスト結果において、A子は部分的にせよ語句や文章の再生に成功している点もあり、また、右鑑定書において、原文で『消えた』とされていたのがA子の再生では『消えなかった』というように正反対の事実にかわったとの指摘については原文の『一時間ばかりで消えた』というのと、A子が再生した『一時間ばかり消えなかった』というのは、現象的には同義のことを指しているのであり、右指摘は誤りであり、むしろ、A子なりに文章を理解しこれを構成し直したと見る余地すらある」旨主張するが、この主張は一概に排斥できないところである。

エ したがって、右テスト結果によって、A子が「聴きとらせ、読みとらせたいくつかの出来事を誤りなく再生する能力が極めて低い」との結論を導き出すことには、多大の疑問があるといわなければならない。

オ さらに、神大病院の耳鼻科で診察を受けた際の出来事に関する記憶テストについては、そもそも、鑑定人と一緒に神大病院の耳鼻科で診察を受けるというのは、A子にとって極めて非日常的で珍しい体験であったのであり、発問事項も、比較的印象に残りやすいものであり、テストの結果から、「直接体験した事柄」に関する能力を判断し、それを前記「紙の上でとか人から聞いたことで覚えさせた事柄」と対比させることには大きな疑問があるといわざるを得ない。

カ 結局、右各証言及び鑑定書中の記憶能力に関する部分については、萩原が行なったテスト結果から導き出された一つの意見ではあるものの、それを一般化することはできないといわざるを得ない。

(4) 右根拠となった「空想癖、虚言癖及び想像力」についての検討

ア 右の根拠となっているのはTAT検査、鈴木・ビネー式知能検査第五一問、第四七問のテスト結果である。

イ まず、TAT検査をみると、そもそもこの検査は投影法に基づく性格診断テストの一種であるうえ、検査で使用された図版が大人用のものであって、「空想癖、虚言癖及び想像力」についての検査として適切であるのか疑問であり、その検査結果が「どの絵に対しても、画かれているものの列挙、主人公の動作の描写を行うだけで終わってしまった」とか「歪曲はほとんど行われていない」ものであったとしても、この結果から、「具体的で視覚によって把え得るものをほとんど主観的な加工を行なわず、見たままに述べることしかできない」(右鑑定書)と結論付けることには大きな飛躍があるといわざるを得ない。

ウ 次に、鈴木・ビネー式知能検査第五一問にみると、そもそも、このような知能検査が「空想癖、虚言癖及び想像力」についての検査として適切であるのか疑問であるうえ、この第五一問というのは、一一歳ないし一二歳の精神年齢の者に対応するものである。

したがって、右テスト結果が、三分間に六〇語以上の言葉を言うことができれば合格のところをA子が四五語言えたということは検査当時のA子の精神年齢(八歳四か月)からみて問題があるとは思われないとの考えも否定できないうえ、この検査結果が「語彙は極めて貧困であり、具体的な事物を示す言葉以外の言葉はほとんど知らないし、それも生活体験が貧困なために限られている」ということであったとしても、そのことから「今ここに見えるもの、聞こえるもの、あるいはごく最近の体験に含まれるもの以上に連想を広げていくことが困難である。更に、目前に存在しない事物を素材とし、それを形容詞で修飾したり、動詞で結ぶなどの加工をほどこして、新しい出来事を作り出して述べる能力は極めて乏しい」(右鑑定書)との評価を行なうのは飛躍があるといわざるを得ない。

エ さらに、鈴木・ビネー式知能検査第四七問をみると、第五一問と同様の問題点が指摘できるのであり、この検査の結果をもって、例えば、「常識ともいえるような簡単な論理すら理解できない」(右鑑定書)などと評価することには飛躍があるといわざるを得ない。

オ 以上を総合すると、右三種類のテスト結果を総合した結論として、右鑑定書が、A子について「架空の出来事を合理的に構成する能力が極めて乏しい」としていることには、大いに問題があるといわなければならない。

(5) 右根拠となった「被暗示性」についての検討

ア そもそも、一般に、年少者の場合、被暗示性や被誘導性が強いことが指摘されており、このことは、「一般論として、幼少時あるいは精神年齢が低い子供は、批判をするのに必要な知識とか、あるいはそういう批判をするとか、それを確かめるときに一回論理的に検討してみるというようなこととかは限られているし、あるいは言われたことを現実的な問題として吟味をしていくというような点では限られているから、そういう意味では、暗示といっていいかわからないが、人の言ったこと、特に大人から言われたことは非常に受け入れやすいということが出てくると思う」との岡本夏木証言によっても裏付けられている。

そして、A子の事件当時の精神年齢はおおむね七歳ないし七歳半であったと推定されるというのであるから、右のような一般的な意味ではA子は被暗示性や被誘導性が強い時期にあったといえる。

イ これに対して、前記鑑定書によれば、TAT検査に使用される図版に基づくテスト結果を総合して、「特に被暗示性が強いとはいえない」旨の評価がなされている。

しかしながら、この検査結果を子細に検討すると、萩原証言及び右鑑定書によれば、右テストの結果、「多少とも記憶が不確実と本人が感じているような様子をみせたときにすかさずうまくやれば、暗示によって答えを変えさせることも可能だと分かった」というのであり、また、「いったん見たと話を作らせて、非難の口調で本当は見てないと違うのかというと、見たとはっきり自分の言ったことに固執する」とか「あいまいな表現が出てこない。強く言うと、見なかったものでも見た方に言ってしまうというように変化する。暗示をかけて、さらに強くそれを主張させることに成功した」というのであり、この結果をみると、A子については、被暗示性があり、しかも暗示されたことに固執することが認められるのであり、右の一般論がA子にも当てはまることを示しているといえる。

ただ、右鑑定書によれば、暗示を与えて誤答を導き出した設問について、時をあらためて再テストし、その際に暗示を与えないでおくと正答にあらたまったとし、「一時的にせよ誤った供述を引き出すことが可能であるが、中立的で平静な状況で供述させれば、自らの持つ記憶像が優勢となり、誤った判断に導かれることなく供述しうるものと考えられる」と評価されている。

しかしながら、この評価というのも、例の少ないテストの結果にしかすぎず、しかも、設問自体がA子にとって極めて記憶のあいまいな事項に関するものなのである。したがって、右のような再テストの結果から、一般論と異なる右のような評価をするには飛躍があるといわざるを得ない。

ウ また、右鑑定書中には、「テストのような実験室内での知的作業でなく、日常性をもち、かつ運動性の優位な行動、体験を供述させる場合には、暗示問を用いても事実と相違した供述をさせることが不可能であった」との記載もあるが、この根拠は、神大病院耳鼻科での診察の際の記憶が十八日経過後に残っているか否かテストしたという記憶実験の結果であり、この実験は、前記のとおり、A子にとって非日常的で特異な出来事に関するものであり、しかも、鑑定人らが用いたという暗示問と比較的印象に残りやすい事項に関するものでしかなく、鑑定人の暗示問の発し方も単純なものであり、この結果から右のような評価をするにはやはり大きな飛躍があるといわざるを得ない。

エ したがって、右鑑定書において、右テスト結果から「特に被暗示性が強いとはいえない」旨の評価をしていることには疑問があるといわざるを得ない。

(6) 検察官の<2>の主張自体についての疑問

加えて、検察官の右<2>の主張は、それ自体に次のような疑問点が指摘できる。すなわち、

ア まず、検察官は、A子の目撃供述を「さしたる矛盾を含まず、詳細かつ自然なもの」ととらえている点である。

この点については、後に検討するように、A子の目撃供述には種々の変遷がみられ、また不自然な点もみられるのであり、検察官主張のようにとらえることはできないということである。

イ 次に、A子の目撃供述を「自己が直接目撃していないこと」ととらえている点である。

前記のとおり、A子の目撃供述というのは、Xが「さくら」の部屋で遊んでいたこと、CがXを呼びに来たが帰らなかったこと、保母である被告人がXを呼んで連れて行ったこと、Xと被告人が廊下を歩いているのを見たことである。これらはいずれも甲山学園における日常的な出来事であり、園児であれば日常体験しうるものである。問題は、そのような日常的な出来事を一九日に目撃したこととして供述していないかということであり、この点において、何ら複雑な出来事ではなく、特に意識して虚偽の事実を構成しなければ供述できないというものではないということである。

ウ さらに、「自己が直接目撃していないことを供述する能力がない」ということ自体不合理である。

年少児であってもA子の精神年齢程度であれば、自己が直接目撃していないことであっても供述できることはむしろ当然というべきであり、A子については、弁護人が指摘するように、A子児童記録(当審弁六七)の記載内容からも、「A子は架空の物語を読み、聞き、その内容を理解した上で、さらに連想を広げる力もあり、演劇のセリフを覚えることもできる一方で、相手の言うことをよく理解し、これに適切に応じていくだけの能力を十分に有していた」ことがうかがわれる。そして、前田が目撃事実を供述したのは、事情聴取をした捜査官に対してである。そこには、事情聴取という目的に沿ったやりとりが対話という形で行われるのであって、種々の力が働いているのであり、A子の能力という一面だけからでは判断できないということである。

(四)  小括

以上みてきたように、検察官の「自己が直接目撃していないのにかかわらず、さしたる矛盾を含まずに、詳細かつ自然な供述を行うことは、A子の能力からしても到底不可能である」旨の主張は、その主張自体に疑問点が指摘できるうえ、A子の能力に関するその根拠に疑問があり、とることができないといわざるを得ない。

二 A子証言の信用性について

1  問題の所在

(一)  A子に対する証人尋問(もっとも、A子は宣誓の趣旨を理解することができない者と認められ、宣誓はさせられなかった。)は、期日外尋問として、いずれも神戸地方裁判所尼崎支部会議室において、第一回は昭和五五年一月一四日(尋問に要した時間は不明であるが、期日指定が午前一〇時であることと、最後の方の尋問中に現在午後五時一五分であるとの言葉がある)に検察官の主尋問が、第二回は同年二月四日午前一一時三〇分から午後一時五分までの間検察官の主尋問と弁護人の反対尋問が、第三回は昭和五六年一二月一九日午前一〇時五分から午前一一時三五分までと午後一時一〇分から午後五時五分までの間弁護人の反対尋問が、第四回は同年三月一九日午前一〇時三分から午前一一時三〇分までと午後一時三分から午後四時二〇分までの間弁護人の反対尋問が、第五回は同年四月一六日午後一時一三分から午後六時八分までの間弁護人の反対尋問が、それぞれ行われ、各尋問には検察官が少ないときで三名、多いときで五名、弁護人が少ないときで一五名、多いときで二六名出席した。

(二)  A子証言を概観していえることは、第一回の主尋問の際には、被告人がXを呼び出した状況については沈黙が続き、何度か質問されたものの結局その状況については答えず、第二回の主尋問において供述するに至っていること、廊下上での被告人とXを目撃したことについても、第一回で供述は出たものの、沈黙が続き何度か質問されるうちに断片的な言葉で供述するに至ったものであること、弁護人の反対尋問において、沈黙や「忘れた」、「分からない」という趣旨の答が極めて多く、しかも、被告人がXを呼び出した状況についての尋問との関係で、特にこのような対応が顕著にあらわれ、また、主尋問で出た以上のことに対しても同様な対応をしていること、このような特徴が一応指摘できる。

一般に、このような証言時における対応は、証言を求められている事項についての証人の認識や記憶があいまいで、自信を持った答え方のできない事実を示唆するものといってよく、その証言の信用性を疑わしめるものといわざるを得ない。

この点について、検察官は、「A子の目撃証言はその証言状況から見て信用性がある」旨主張し、右のようなA子の証言時における対応については、「検察官の主尋問においては、弁護人から激しく執拗な異議が繰り返され、異常ともいえる法廷の状況下において、精神遅滞児であるA子が冷静な精神状態で証言することができなかったことは明らかであって、現実にも、同女自身、混乱状態になって泣き出してしまっているほどであるが、A子は、被告人によるXの連れ出し状況を証言した」旨、また、「弁護人の反対尋問においても、集中力を失い、あるいは質問の意味を理解し得ないときなどには、『忘れた』、『知らない』などと述べて、証言を回避する場面が多くみられるようになってはいるものの、検察官の主尋問時における証言内容を維持している」旨主張する。

(三)  そこで、以下において、右証言状況を具体的に検討し、右検察官の主張について判断する。

3  証人尋問時の状況とその評価

A子証言の全体を概観すると、前記のとおり、A子の対応の特徴が一応指摘できるのであるが、A子証言は五回にわたって行われたのであり、しかも第一回及び第二回の検察官の主尋問(第二回には弁護人の反対尋問も若干行われた)と第三回の弁護人の反対尋問との間には約一年以上の隔たりがあり、その各期日ごとに異なった状況がみられるのであるから、A証言を評価するにあたっては、各期日ごとにその状況を検討したうえで評価する必要がある。

(一)  第一回について

(1) この期日においては、検察官の主尋問が行われ、A子の身上、経歴、甲山学園での生活状況、Y子がいなくなった日の出来事、Xがいなくなった日の出来事について順次質問がされていったが、Xがいなくなった日の出来事のうちCが「さくら」の部屋に来て帰って行った後の状況に至るまでの質問に対しては、A子の供述には「忘れた」、「分からない」という趣旨の答はほとんどなく、また、沈黙した場合も一〇回ほどあるが、聞き直されたりして応答が得られており、さらに、この間にも異議や意見のやりとりなどはあったものの、そのことによる影響とみられるような対応はなく、順調に進んでいったといえる。

(2) ところが、右のCが帰って行った後の状況に関する質問に入ってからは、沈黙することが多くなり、泣き出したり、最後には退出するという事態になったのである。そのきっかけとなったやりとりは、以下のとおりである。

「問 C君が帰って行った後、まだだれかが部屋に来ましたか。

答 はい。

弁護人(麻田) 裁判長、異議がございます。誘導です。

裁判長 質問を変えていただきましょうか。

検察官(逢坂)

問 C君が帰って行った後、さくらの部屋ではどういうことがありましたか。

答 ……

問 部屋には、A子ちゃんとG子ちゃんとX君がいるわけですね。

答 はい。

問 じゃあ、X君はどうしましたか。

答 ……

問 さくらの部屋で寝たんですか。

答 ……

検察官(加納) 裁判長、ちょっと部屋の中が暑いようですので、上着を取らせていただきます。

裁判長 結構ですよ。暑かったら上着取りなさいよ。窓だけ開けてください。

(このとき裁判長は窓を開けるよう指示し、証人は上着を脱いだ)

(ここで一〇分間の休憩を宣した)

弁護人

(休憩を宣したことに対して異議の申立をした)

裁判長

(証人に対して尋問続行の可否を尋ねた)

(証人は続行希望の意異表示を示した)

検察官(逢坂)

問 混乱したのでちょっと前から聞きます。C君が帰って行ったんですね。

答 はい。

問 それから、さくらではどういうことがありましたか。

答 ……分からない。

問 X君の部屋は、さくらですか。

答 違います。

問 そしたら、その晩X君はずっとさくらの部屋にいたのですか。部屋から出ていったんですか。

答 出て行った。

問 どういうことから出て行ったんですか。

答 ……

問 なぜ出て行ったんですか。

弁護人(黒川) 異議。出て行くのに何か理由がいるんですか。そのときどういう状態で出て行ったか。

検察官(逢坂)

問 どういうことで出て行ったんですか。

答 ……

問 さくらの部屋にX君はいたんですね。

答 ……

問 X君はどのようにして部屋から出て行きましたか。

答 ……

弁護人(谷野) 先程から何回も答えられていないようですけど、まず覚えているかどうか確認してください。

弁護人(和島) 相当時間たって答えなけりや答えなしで前へ進まれるのが妥当じゃないんですか。

裁判長 そこの時間がどの程度かということもいろいろありますんで、十分心得ているつもりなんですが、今弁護士が言われたように裁判所が聞いて進行しようとすれば問題がありますんで。

弁護人(黒川) この証人は、その状況については覚えていないと一言言ったので、もう一度記憶にあるか確認したらいいんじゃないんですか。

検察官(逢坂)

問 X君は、さくらの部屋のどこから出て行きましたか。

答 戸のところから。

問 戸というのは、部屋のどちらのほうの戸ですか。

答 ……

問 戸はどこについていますか。

答 廊下のほう。

問 その戸のほうから出て行ったんですか。

答 はい。」

検察官は、右やりとりについて、「異議を認めた裁判長の訴訟指揮のため、検察官は事実の時間的な経過を追って質問を続けることができなくなったのであり、このような裁判長の不適切な訴訟指揮がA子を混乱に陥れた」旨主張する。

しかしながら、右やりとりをみると、ことさら異議の出し方に問題があったとか、裁判長の訴訟指揮に問題があったとはいえず、A子の応答には沈黙はみられるものの、右裁判長の訴訟指揮とその後の検察官の質問内容をみても、「検察官が事実の時間的な経過を追って質問を続けることができなくなった」とはいえないものであり、このやりとりのためA子が混乱したという状況はみられないといわざるを得ない。

(3) そして、このやりとりの後の尋問状況をみると、A子の応答に沈黙が多くなり、異議や意見の応酬が頻繁に行われ、A子が泣き出したり、退出したりするという状況までもがみられた。

この点について、検察官は、「検察官の質問に対して、弁護人が次々に激しい異議を執拗に繰り返し、A子に答えるひまさえ与えず、そのためA子を混乱に陥れた」とか「このような異常ともいえる法廷の状況下において精神遅滞児であるA子が冷静な精神状態で証言することができなかった」旨主張する。

そこで検討するに、右やりとりの後の尋問状況をみると、異議や意見の応酬が頻繁に行われたこと、弁護人の異議の出し方においても、裁判長から「異議をされるのは結構ですが、証人の精神に動揺を与えるような大きな声とかそういうことは避けていただきたい」とか、「もうちょっと異議は静かに言ってくれませんか。証人がびっくりしてしまいます」との注意がなされるような状況であったこと(もっとも、第二回の冒頭のやりとりにおいて、弁護人から、「右の注意について実際にそういう状況はないのにかかわらずそういう注意が具体的に出ている」との指摘がなされているが、第一回のやりとりにおいて裁判長から右のような注意がなされたのは事実であり、その際には弁護人から右のような指摘がなされていないのであって、弁護人の右指摘にかかわらず、注意をするような状況であったとの評価をせざるを得ない)、もともと証人として尋問されること自体が緊張をしいられるものであるのに加え、第一回では検察官が四名、弁護人が二六名出席して行われており、大人が三〇名以上いる中で尋問されることは、たとえ会議室という場所であったとしても、A子にとってはかなり緊張が高まるものであったといわざるを得ないこと、さらに、A子は、第一回の尋問当時、工員として勤務していた社会人であり、ある程度独力で社会生活を営むに足る程度の理解力、生活能力を有していたことがうかがわれるものの、いまだ一七歳と若く、また、精神遅滞児(当時の精神年齢は不明であるが)であることにより知的能力がその生活年齢より劣っていたことは否定できないのであって、そのようなA子に与えた影響は大きいことがうかがわれることに照らすと、A子が、右のような尋問状況において、緊張を余儀なくされ、ある程度混乱に陥っていたことは十分認められるところである。

しかしながら、A子が、沈黙することが多くなったり、泣き出したり、退出したことを、右のようなA子が混乱に陥ったことだけから説明することは、尋問内容とA子の応答からみて無理があるといわざるを得ない。すなわち、尋問の経過、内容をみると、必ずしもA子の沈黙が異議の後に出るというものではないこと(ただし、この点については、その場面だけをみるのではなく、全体としての流れをみるべきであるが、そうであっても右のことはいえる)、A子が沈黙するのは、被告人がXを呼び出した状況に関する質問の場合に頼著なのであって、その合間になされた前提事実に関する尋問等には答えていること、別の質問により普通の答えをした後に、幾たびか右被告人がXを呼び出した状況に関する尋問をしても、いずれも沈黙し、結局、第一回には右に関する供述は出なかったこと、また、廊下上での目撃状況についても、当初は沈黙していたものの、その後の何回かの尋問により断片的ではあるものの供述するに至っていることからすれば、検察官主張のように混乱したことだけでは説明できず、むしろ、A子は、緊張してある程度の混乱状態に陥ったことはあるものの、質問内容を十分理解したうえで、その内容によって答えることと沈黙することを分けていると評価せざるを得ない。

(4) また、次のとおり、A子が泣き出した状況をみると、弁護人がその理由としてあげる点について一概に否定できないところであり、A子が泣き出していることが、「A子が冷静な精神状態で証言することができなかった」ことをあらわしているとはいえない。

ア A子が泣き出したのは三回あるが、一回目はXの連れ出し状況に関する答えが出ず、検察官による部屋の戸に関する質問がなされ、弁護人の異議が出たりしたことから、裁判長が部屋の戸に関する質問をしていたとき、弁護人から「検察官、証人が検察官を見たときうなずくのはやめてください」との異議が出され、A子が泣き出したというものであり、「A子が、質問に対し何か答えなければならないと緊張しているところへ、Xの連れ出し状況という、A子にとって記憶が定かでなく自信の持てない事柄を聞かれ、答えられずに沈黙を続けているのに、さらに同じ事を何度も聞かれ、緊張感が高まる一方で、ますます自分の答に自信が無くなってきたとき、裁判長から比較的長く質問を受け、検察官の方に助けを求めようとした矢先に弁護人からそれを制止されたので、緊張感に耐え切れなくなり泣き出したと思われる」旨の弁護人の指摘(記憶が定かでなく自信が持てない事項であるかは別として)は、右経過に照らし一概に否定できないところである。しかも、泣き出した直後に休憩を取り、休憩後の尋問にA子は応答しているのであって、右泣き出したことがそれ以降の尋問には直接影響していないといえる。

イ 二回目は、Xが「さくら」の部屋を出ていくのは足音で分かった旨の供述が出たのに続いて、Xの足音以外に何か聞いたかとの尋問に対し、A子が沈黙し、検察官が様々尋問する中で、弁護人の異議が出されたことから、裁判長が尋問したが、A子が沈黙を続け、椅子から立ち上がり泣きながら退室していったというものである。

これも一回目とほぼ同じような状況であり、A子が、「何か答えなければならないと強く緊張はするものの、結局答えられず、さらに緊張の度合が高まってきているにもかかわらず、なおも沈黙という態度を許さず、裁判長が質問を続けようとしたため、いわば逃げ場を失ったA子がついにどうしようもなくなって、緊張感に耐え切れず泣き出し、あげくに退室行動にでたものと考えられる」旨の弁護人の指摘は一概に否定できないところである。しかも、その後いったん休廷した後尋問が続行され、再びA子が沈黙を続け泣き出したような状況がでたが、裁判長からの確認に対し、「やる」と言って尋問が続けられた。

ウ そして、三回目は、知っていることがあるのか尋問され、A子が「ない」と答え、それに対して検察官が「あるね」と尋問したことに対し、弁護人が「ないと」と指摘し、検察官が「はいと言いましたよ」と言ったため、裁判長が「どっち、今のない言うたの、はい言うたの」と尋問したところ、A子が、「どっち言うたらええかわからへん、もう」と叫ぶように言って泣き出したというものである。

ここでは、A子が尋問に対して答えたものの、「ない」といったのか「はい」と言ったのか確認され、どっちを言ってよいのか分からなくなり泣き出したものと考えられるのであり、この点は、その意味において混乱しているといわざるを得ないものであるが、これまで検察官が指摘してきた混乱とは異質なものというべきである。

(二)  第二回について

(1) 第二回は、昭和五五年二月四日午前一一時三〇分から午後一時五分までの間、検察官が三名、弁護人が二二名出席して、検察官の主尋問と最後の方に弁護人の反対尋問が若干行われた。

(2) 最初に、検察官の求めにより、A子は甲山学園青葉寮の図面を白紙上にほぼ正確に作成した。検察官の主尋問に対しては、第一回の初めのころのように問題なく応答しており、異議や意見のやりとり(異議のとき、「もっと穏やかに言っていただきたい」との裁判長の注意もあった)はかなりあったものの、ほとんど沈黙することもなく(沈黙があっても聞き直すことで)答えていた。

そして、第一回には沈黙するなどして答えなかった被告人がXを呼び出した状況に関しても、答えている。そのやりとりは、次のとおりである。

問 じゃあ、質問を撤回致しますが、X君がいなくなった日の夜、A子ちゃんがさくらの部屋へ帰りましたね。

答 はい。

問 そのときに、部屋にだれがいましたか。

答 X君とG子ちゃん。

問 そして、その後さくらにだれか来ましたか。

答 沢崎先生が来た。

問 その前にC君は来ていませんか。

弁護人 異議

(中略)

問 X君とG子ちゃんがさくらの部屋にいたんですね。そこへA子ちゃんがさくらの部屋へ帰って行ったんでしょう。もう一回順序を立てて言いますよ。A子ちゃんがディルームからさくらの部屋へ帰りましたね。そしたら、さくらの部屋にだれがいましたか。

答 G子ちゃんとX君。

問 そして、その後さくらの部屋にだれが来ましたか。

答 沢崎先生。

問 沢崎先生が来てどうしたんですか。

答 X君を連れて行った。

(3) 第二回目の主尋問においては、検察官主張のような原因によりA子が混乱に陥っているとみられる状況がないことは明らかである。それにもかかわらず、ここでは、Cが来た場面をとばし、いきなり被告人が来たと供述している。

第一回では、Cが来たことは答えながら、被告人が来たことについては度重なる尋問にもかかわらず沈黙したりして答えなかったのに、このような出方をすることは、第一回で答えなかったため今回は答えなければならないと考えてとっさに出たものと推測でき、右図面への書き入れに関するやりとりにも照らすと、検察官との事前の打ち合わせの影響を示唆するものということができる(なお、この点につき後記3の(二)を参照)。

このことは、A子証言が真にA子の記憶といえるのか、その供述の信用性に疑問を抱かせるものといわざるを得ない。

(三)  弁護人の反対尋問について

(1) 第二回の最後の方と第三回ないし第五回に弁護人の反対尋問が行われた。

第二回の反対尋問の際のA子の対応は、その前の検察官の主尋問が順調に進んでいたのに対し、「忘れた」との答や沈黙が多いのが特徴である。

また、第三回ないし第五回の弁護人の反対尋問の際のA子の対応は、第二回から約一年後であるが、やはり、沈黙したり、「忘れた、」「分からない」との趣旨の答が多く、何回か質問されて答えることや、泣き出したこともあった。

(2) この点について、検察官は、「集中力を失い、あるいは質問の意味を理解し得ない時などには『忘れた』、『知らない』などと述べて証言を回避する場合が多くみられるようになった」旨主張する。

しかしながら、A子が沈黙したり、「忘れた」、「知らない」などと答えていることを、検察官の右主張によってすべて説明することはできない。

すなわち、弁護人の尋問中には、抽象的であり意味が理解しにくい質問もあるといえるが、そのときに右のようなA子の対応が多いというわけではなく、その場合には言いかえたり聞き直したりもしているのであって、そのためにA子が答えを回避しているとはいえない。

また、検察官の「集中力を失った」旨の指摘部分として考えられるのは、第四回の終わりの方で、被告人が部屋に来たときの尋問のころに、「五分くらい前から、両手を前に出してうつ伏せになった。わき見したり指先で爪の逆むけを取るような態度をしていた」という状態になり、その後泣き出したりしている点であり、さらに、A子が泣き出したことはもう一度あり、それは第三回の初めの方で、「前の机を二、三度前面に押し出して、顔を紅潮させて、やや、いわゆるすすり泣くような状況が一分近く続いた」という状態になったことがあったという点である。

しかしながら、いずれの場合も、そのような状態になる前に異議の応酬とか意見のやりとりなどはなく、それまでの尋問に比べて特に執拗であるなどの異常さは認められないのであり、しかも、そのような状態になってからも、休憩を取ったり、質問を変えたりすることにより応答が得られる状態に回復しているのであり、このような状態が何度かみられたからといって、そのことから、A子が反対尋問においてそれ以外の場面でも沈黙等の対応をしていることを説明することはできない。

なお、A子が、弁護人に反感を示している場面もみられるが、その場合であっても、別の質問をすることによってA子から答えが得られている。

(3) したがって、A子が反対尋問において沈黙したり、「忘れた」、「知らない」などと答えていることについては、検察官主張のような理由だけによって説明することができないのであって、弁護人の反対尋問におけるA子の具体的対応、例えば、A子が答えたことについてさらに詳しく質問したり、主尋問で答えたことについてより具体的に質問したりしたときには、ほとんど沈黙や「忘れた」との趣旨の答えに終始し、また、部屋にCや被告人が来たことに関する質問に対しては、沈黙や「忘れた」との趣旨の答が多いことに照らすと、A子は、前記のような証人尋問ということにより緊張し、また、集中力を失ったと評価し得る状態になったことなどや弁護人に反感を示したことがあるものの、全体としては、むしろ、主尋問と同様に、尋問内容を十分理解したうえで、対応しているといい得るのである。

(四)  まとめ

以上、証人尋問時の状況を各期日ごとにみると、検察官の主張するところは、一部当てはまるところがあるとはいい得るものの、そのことだけから、A子の証言時の対応を説明することはできないといわざるを得ない。

3  検察官の主張に対する判断

(一)  検察官は、前記のとおり、「異常ともいえる法廷の状況下において、A子が冷静な精神状態で証言することができなかったが、検察官の主尋問において、被告人によるX連れ出し状況を証言し、また、弁護人の反対尋問においてもその証言内容を維持しているのであり、その証言内容には信用性がある」旨主張する。

しかしながら、A子の証人尋問が「異常ともいえる法廷の状況下であった」という右主張の前提自体に問題があるうえ、A子が主尋問において被告人によるX連れ出し状況を証言し、反対尋問においてもそれを維持したといえるのか疑問である。

すなわち、A子の証人尋問時の状況について、異常であったとか、冷静な精神状態で証言することができなかったと評価すること自体が、証人尋問の全体をとらえていないことは前記のとおりである。しかも、検察官の主張を前提にすれば、「冷静な精神状態で証言することができない」状況で証言したことであっても、検察官が主張する事実を証言しておれば、そこだけは信用できるということになりかねず、そのこと自体合理性を欠き経験則に反する判断といわざるを得ない。

さらに、A子は、被告人によるX連れ出しの事実を検察官の主尋問において証言し、弁護人の反対尋問においても維持したというが、第一回の主尋問の際には、被告人がXを呼びに来たことは、検察官の幾度かの尋問にもかかわらず、ついに出なかったこと、第二回の主尋問の際には、CがXを迎えに来たことを飛ばしてしまい、被告人がXを呼びに来たことを述べ、再度の質問でも同様に答え、廊下上での被告人とXの目撃状況についても、沈黙の後に何度か聞かれて断片的な言葉で答えたものであること、反対尋問において、第四回では、A子は本件当日の状況をほとんど述べることができなかったこと、第五回では、本件当日の状況を述べたものの、それは断片的でかつ多数回の沈黙を混じたうえでのものであったこと、目撃状況に付随するはずの事項についてはほとんど沈黙するか「分からない」との趣旨の答えに終始したことなどに照らすと、検察官の主尋問において被告人によるX連れ出し状況を証言したというその評価には問題があり、また、反対尋問において、その証言を維持したともいえないといわざるを得ない。

(二)  なお、検察官は、控訴審判決を引用する形で、「Xが『さくら』の部屋にいたことやCがXを迎えに来たこと、その後被告人が来たこと、Xと被告人が非常口の方へ歩いていくのを見たことを主尋問のみならず反対尋問においても供述しているが、これが検察官の事前テストの影響によるものとは断じられない」旨主張する。

しかしながら、A子は、検察官自身が第一回に「普通の成人でも白紙に書くのは無理がある」と主張してA子自らに書かせようとしなかった青葉寮の図面を、前記のとおり、第二回の冒頭において、白紙上に定規を使用してほぼ正確に書き、しかも、指示された場所についても漢字で正確に記入したのである。

そして、弁護人が指摘するように、A子は、図面の作成と場所の記入を終えた後の通常の検察官の尋問中に、戸を閉めるとき顔はゆりの方を向いていた旨答えた際、検察官が「ゆりというのは、何のこと」と尋問したところ、「ゆりの部屋のこと」と答えて、検察官が「ゆり」の部屋を右図面上特定するためにゆりと書き込んで欲しい旨要請する前から、自ら右手で鉛筆を持っている。

さらに、前記のとおり、検察官の二度にわたる質問にもかかわらず、A子が「Cが来た」場面をとばしていきなり被告人が来たことを供述したのは、第一回では答えなかった「被告人が来た」ことを言わなければいけないというA子の気持ちのあらわれと評価せざるを得ない。

A子が第一回から第二回までの間に検察官と一回か二回会ったことがあること、図面を書く練習をしたことがあることを証言していることに照らすと、右のような第二回の尋問状況は、検察官が意図したか否かは別として、検察官の事前テストの影響であるといわざるを得ない。

したがって、検察官の右主張は理由がない。

4  小括

以上を総合すると、A子証言にはその信用性を疑わしめる状況があり、この点に関する検察官の主張は理由がないといわざるを得ない。

しかしながら、検察官が主張するA子証言における供述内容は、その骨子が捜査段階においてなされているのであるから、その信用性を真に判断するためには、捜査段階における供述内容も含めて総合的に判断する必要がある。

そこで、以下においては、A子の捜査段階における供述内容を中心に、右証言内容も含めて、その信用性を検討する。

三 A子の捜査段階における供述の信用性

1  はじめに

(一)  A子については、昭和四九年当時において、三月二七日に司法警察員が事情聴取した際の捜査復命書一通(49・3・27捜復弁七四)が作成され、同年四月には、同月三日及び四日の司法警察員による事情聴取の際の供述調書二通(49・4・3員面弁七九、49・4・4員面弁八〇)及び捜査復命書一通(49・4・4捜復弁七五)が作成されたほか、その後、司法警察員により捜査復命書一通(49・4・5捜復弁七六)及び検察官により供述調書三通(49・4・8検面弁八七、49・4・14検面弁八八、49・4・20検面弁八九、いずれも二号書面として検四五九ないし四六一)が作成されている。そして、それ以降、昭和四九年には検察官により供述調書四通(49・5・21検面弁九〇、49・5・21検面弁九一、49・5・29検面弁九三、49・8・30検面弁九四、いずれも二号書面として検四六二ないし四六五)、司法警察員により供述調書三通(49・6・12員面弁八一、49・7・18員面弁八二、49・8・2員面弁八三)及び実況見分調書一通(五月二四日付弁九二)が、昭和五〇年には、司法警察員により捜査復命書二通(50・7・15捜復弁七七、50・9・5捜復弁七八)と供述調書一通(50・9・5員面弁八四)が、昭和五二年には検察官により供述調書三通(52・5・5検面弁九五、52・5・16検面弁九六、52・6・3検面弁九七、いずれも二号書面として検四六六ないし四六八)と司法警察員により供述調書一通(52・2・13員面弁八五)が、昭和五三年には司法警察員により供述調書一通(53・5・2員面弁八六)が作成されている。

(二)  A子は、他の園児と異なり、捜査の当初からいわゆる目撃状況を供述しているのであるが、検察官は、「A子の供述内容は、49・3・27捜復を除くと、その目撃内容の核心をなす基本的部分についてはA子証言に至るまで変遷はみられないのであって、その供述内容に信用性があることは明らかである」旨主張し、また、右49・3・27捜復についても、「A子は昭和四九年三月二七日当時、既に、被告人がXを『さくら』の部屋に呼びに来た旨を供述している」旨主張する。

(三)  そこで、以下においては、まず49・3・27捜復について検討し、次に最初に目撃事実を具体的に供述し供述調書が作成された昭和四九年四月三日及び同月四日の事情聴取の際の状況について検討し、さらに各供述調書及び証言の供述内容全体の検討をする。

2  49・3・27捜復(弁七四)について

(一)  記載内容

49・3・27捜復の記載内容のうち、三月一九日に関する部分は、「三月一九日夕方、さくらの六番の部屋つまり(A子ちゃん、Gちゃんの部屋)でHちゃん、Gちゃん、X君と私の四人でトランプをしていると、えつこ先生がX君ちょっとおいでと言って、X君の手をつないで部屋からでていった。そのあと、Hちゃんは自分の部屋へ戻り、私とGちゃんは布団の中へと入った」というものである。

この記載は、「被告人によるX連れ出し」をうかがわせる供述と一応いえるのであり、事件後八日経っているとはいえ、他に誰も供述していない被告人によるX連れ出しをうかがわせる供述をしている点において、重要な意味を持つものであり、供述調書と異なり、それ自体正碓性に欠ける面のあることは否定しがたいという捜査復命書としての限界はあるものの、この内容の検討は不可欠である。

(二)  記載内容の検討

49・3・27捜復の右記載内容を検討すると、次のとおり、「えつこ先生がX君ちょっとおいでと言って部屋からでていった」を除くその余のすべての点において、その後のA子の各供述調書の記載内容と食い違っていることが指摘できる。

(1) 「夕方、Hちゃん、Gちゃん、X君と私の四人でトランプをしていると」との記載について

ア 49・3・27捜復では時間帯が「夕方」となっている。検察官の主張するX連れ出しの時刻は午後八時ころ(七時五八分ころから八時三分ころまでの間)というのであり、また、A子のその後の供述でもいずれも午後七時三〇分以降のこととして供述しているのであって、夕方という時間帯とはやや異なっている。

もっとも、検察官は、「夕方という言葉自体の示す時間帯の範囲が広く、しかも、Xが連れ出されたあとふとんに入ったとしている点から、同日夕食時以降のことであることは明らかであり、それ自体後の供述と矛盾するものではない」旨主張する。確かに、右の指摘は一理あるものの、ふとんに入って寝るころのことを夕方というのはやはり不自然であり、連れ出されたあとふとんに入ったというその「あと」というのがどのくらいの時間のことなのか、簡単な記載しかないので不明であり、食い違いがあることは否定できない。

イ また、部屋には、H(H子のことと思われる)、G(G子のことと思われる)、X、A子の四人がいる記載になっているが、その後の供述では、一貫して、G子、X、A子の三人となっていて、H(H子)の名前は出てこない。

G子とA子の居室は「さくら」であるが、H子の居室は「ゆり」であり、49・3・27捜復ではXが出て行ったあとH子が自分の部屋に戻った旨具体的に記載されていることに照らすと、この違いは一名だけの単なる勘違いとはいえず、無視できない違いであるといわざるを得ない。

ウ さらに、「四人でトランプをしている」と記載されているが、これに対し、49・4・3員面以降の供述では、A子自身については、部屋に帰ってすぐふとんに入った旨一貫していて、大きな違いがあるうえ、XとG子についても押し入れで遊んでいたなどと供述していて、トランプ遊びの話は右以降は全く出てこないことに加え、A子は、50・9・5員面で、Xはトランプ遊びができないとも供述しているのであり、食い違いが大きい。

エ このように、その時間帯、部屋にいた人数、それらの者の行動といった諸点でことごとく異なっているということは、同じ日の同一の出来事を語っていないのではないかという疑いを抱かせるものである。

もっとも、検察官は、「三月二七日の事情聴取の際には一七日のことも質問しており、一七日にD、H、A子の三人でトランプをした旨の記載があり、A子が一七日の状況と一九日の状況を混同して述べたか、事情聴取をした警察官が混同した可能性が濃厚である」旨主張する。

しかしながら、トランプ遊びをした者が異なっているので、混同したとは考えがたいが、右主張のような可能性があるとすれば、A子がそのように混同して供述すること自体がそもそも問題であり、ましてや、事情聴取した警察官が混同することは、事情聴取方法の違いとかの捜査復命書の限界ということがあるとしても、やはり問題である。

(2) 「X君の手をつないで」との記載について

49・3・27捜復では、被告人が「Xの手をつないで」部屋から出ていったとの記載になっているが、これに対し、それ以降の供述中には、手をつないでいた趣旨のものは全くなく、また、右の「手をつないで」というのは、目で見たことをあらわしていると考えるのが自然であるが、49・4・3員面、49・4・4員面では目で見たことを前提にしているようではあるが明確ではなく、49・4・8検面では目で見たと供述しているが手をつないでいたとは供述しておらず、49・4・14検面では目で見ておらず声で分かったと供述し、それ以後の49・5・21検面からは、一貫して目をつぶっていたと供述しており、A子証言でも同様である。

このように、「手をつないで」という点については、その趣旨の供述がその後は一切出ていないことや、その前提となると思われる目で見たというのが、その後の供述では目はつぶっていて耳で聞いたとほぼ一貫してなっていることに照らすと、この点の食い違いは大きいといわざるを得ず、同一の体験、状況を供述しているのか疑いを抱かせるものである。

(三)  右捜復についての判断

(1) 以上みたように、49・3・27捜復と49・4・3員面以降の供述とでは、その時間帯、部屋にいた人数、その行動、A子の行動、目撃状況といった点、つまり、右捜復記載の「えつこ先生がX君ちょっとおいでと言って部屋からでていった」を除くその余のすべての点において食い違っているのであって、同じように被告人によるX連れ出しについて供述しているとしても、同一の出来事を供述しているというには疑問がある。

すなわち、前記のとおり、A子が供述するいわゆる目撃状況というのは、いわば日常的出来事といえるのであって、そもそも記憶に残りにくいことであり、Y子の場合と違ってXを自ら捜していないA子にとって、三月二七日にその八日前の出来事として明確に記憶していたのか疑問であり、他の日の出来事を一九日に見聞きしたことと混同しているのではないかとの疑いを持たざるを得ない。

(2) 右のことは、49・3・27捜復には「Xのいなくなった日」を特定できる具体的事情が何ら記載されていないことからもうかがえるところである。

すなわち、A子は、右捜復では被告人がXを連れ出したことを供述しているのに、四月三日、四日の事情聴取においては、被告人がXを連れ出したことを供述することにかなり抵抗していたことが認められる。特に四月三日には、「女の先生」ということは供述したもののそれ以上の具体的なことは何ら供述していないのであり、Xを捜しに来た職員の一人に被告人をあげていることと対比すると、このようなA子の対応は極めて不可解である。これを説明するには、弁護人が主張するように、三月二七日の事情聴取においては、Xがいなくなった日の特定が不明確なまま、また、A子がその日を明確に意識しないで思い出すままに供述したが、四月三日、四日には、Xがいなくなったという特定の日の出来事を聞かれたため、供述することに抵抗を示したものと考えるのが合理的である。

検察官は、「右捜復の三月一七日の項には『この日の特定は右園児には困難のためY子ちゃんがいなくなった日ということで聴取している』旨の記載があることからしても、三月一九日の項には右のような記載はないものの、当然『Xがいなくなった日』ということで日を特定して聴取したことがうかがえる」旨主張する。

しかしながら、右の三月一七日の項の記載から、一九日のことも当然『Xがいなくなった日』ということで日を特定して聴取したことがうかがえるとの推論には飛躍があり、主張としてはとり得ない難点があるうえ、一七日のことについては、49・3・27捜復自体に「食事するときY子ちゃんが見えないと先生が言い始めた」と「Y子がいなくなった日」が特定できる具体的事実が記載されていて、その特定によって、A子が一七日のことを供述しているといい得るのであるが、一九日のことについてはそのような具体的事実(Xのいなくなった日を想起させることができる事実)の記載はなく、A子が一九日の出来事として答えたことをうかがわせる記載はない。むしろ、三月一七日の項については、「(この日の特定は右園児には困難のためY子ちゃんがいなくなった日ということで聴取している)」とわざわざ記載されているのに、三月一九日の項についてはその記載がないということは、そのような確認がなされていないことをうかがわせるといえるのであり、右検察官の主張はとれない。

(3) また、検察官は、「右捜復の作成時期においては、青葉寮園児からの事情聴取は関係者からの聞き込みの一環としてなされており、しかも事情聴取を行ったのは、初動捜査の応援に来ていた機動捜査隊員であり、捜査能力、取調べ能力が必ずしも十分でなかったことがうかがわれるのであり、その事情聴取方法も概略的な質問に終わっていた可能性が高く、そのような概略的質問であったがために、A子にとっては、被告人によるX連れ出し事実について供述をしたものの、その具体的な状況、経緯等についてまでは正確な供述をなし得ず、あるいは、取調官においてA子の供述内容を誤解するなどしたために、右のような記載になった可能性が極めて高いと思われる」旨主張する。

確かに、前記のように、捜査復命書であるという点でその信用性について限界があることは否定できないとか、後記のように、右事情聴取にあたったのが機動捜査隊員であることが認められるものの、右捜復の記載内容だけをみると、一七日、一九日の状況としてかなり具体的な記載がなされているのであり、機動捜査隊員であるから即捜査能力、取調べ能力が十分でないといい得るのか疑問であるが、なによりも、右捜復の記載内容とその後の供述調書の記載内容との間には、前記のとおり、「えつこ先生がX君ちょっとおいでと言って部屋からでていった」を除くその余のすべての点において食い違っているのであって、このことは、仮に、検察官主張のように「概略的であった」ことや「正確な供述をなし得なかった」とか「捜査官が誤解した」ということであっても、そのことによって説明できるものではない。

3  49・4・3員面(弁七九)及び49・4・4員面(弁八〇)について

(一)  記載内容

(1) 49・4・3員面及び49・4・4員面の関連部分の記載内容は、おおむね次のようなものである。

ア 49・4・3員面

「テレビのキャシャーンを見たがイナズマンは見なかった。『さくら』の部屋に行った。XとG子がいた。Cがきた。Xはウ、ウとおこって手を上げた。その後女の先生が来た。女の先生の顔は見ていない。声が廊下でした。電気は明るかった。それから寝た。乙原、被告人、乙谷、乙野、丙村が、Xを捜しに来た」

イ 49・4・4員面

「七時三〇分からのイナズマンを少し見て、ねむくなったので部屋に帰った。XとG子が二人で押し入れに入って遊んでいた。敷いてあったふとんに入り、目は開けていた。Cが来たがXは帰らなかった。女の先生が来た。それは被告人で、玄関の反対の方から来た。被告人は『X君おいで』と入り口に立っていた。Xは被告人の後からついていった。玄関の反対の方に行った。戸のところまで見に行った。被告人が外に出て行くのは寝たから見ていない」

(2) 右にみたように、49・4・3員面では「女の先生が来た」と供述しているが、それ以上の具体的な供述(先生の名前、何をしたのか、何か言ったのか、Xが部屋から出て行ったのかなど)はなされていない。また、Xを捜しに来た者として被告人の名前をあげている。ところが、49・4・4員面では、女の先生が被告人であったことが、来た方向、言った内容、出て行った状況、戸のところまで見に行ったことなど、その状況を具体的に供述するに至っている。

この49・4・4員面での供述内容は、それ以降のA子の供述に引き継がれていくのであるが、そのA子が、事情聴取をした捜査官、事情聴取をした場所、立会人等が後記のとおり同じであるのに、その前日に右のように異なる供述をしているのであって、その信用性を判断するにあたっては、この間の事情も含め、供述内容についての慎重な検討が必要である。

(二)  右両日の事情聴取状況の概略

大内控訴審証言、丙川ハルコ証言、49・4・4捜復によると、右両日の事情聴取の状況は、以下のとおりである。

(1) 右事情聴取は、四月三日(以下単に「三日」ともいう)。四月四日(以下単に「四日」ともいう)とも、西宮署刑事一課の警部補大内幸人(以下「大内」という)が、部下の刑事本村誠彦を補助者として、A子の父親二郎が伐木作業に来ていた神戸市兵庫区楠谷町六五の山林にある神戸市水道局奥平野浄化管理事務所北側付近において、丙川ハルコ(調書の署名は春子)を立会人として行った。

丙川ハルコは、丙川二郎の妹(A子の叔母)で、A子が五歳のころに約一年間引き取って養育したことがあって同人もなついていたことや、丙川二郎が責任者として仕事をしなければならないため、同人から言われて立会人となった。

(2) 四月三日の事情聴取は、午後一時ころから三時ころまでの約二時間(調書作成も含めて)行われたが、A子は口が重く、最初のころは黙っていて、しぶしぶ答える程度であった。時間が経つにつれ答えるようになったが、何回も同じ質問をして答が出る状態であり、前記49・4・3員面記載内容程度の供述しか得ることができなかった。

この間、丙川ハルコは、丙川二郎に呼ばれて作業をしたりしており、終始その場に立ち会ってはいなかった。大内は、何回も接触してA子の心を開かないと答えてくれないと考え、とりあえず供述調書を作成した。この供述調書を作成する間は、丙川ハルコが終始立ち会っていた。

(3) 四月四日の事情聴取は、午前一一時ころから昼食をはさんで午後四時ころまで(調書作成も含めて)行われた。

大内は、当初、A子から答が出ず非常に緊張した様子がうかがわれたので、心を開いてもらうためA子と一緒に遊ぶことにし、午前中は、右本村が絵本を読んだり草花を取ったりしてA子と遊び、また、大内、右本村、A子の三人でトラックの荷台を掃除したりし、昼食も一緒に(やや離れて)とった。

昼食後、右本村がA子と一緒に水汲みをし、その後、事情聴取に入った。そして、A子が被告人の名前を出したが、その際に丙川ハルコがその場にいなかったので、同人を呼び寄せ、供述調書を作成した。この供述調書を作成する間は、丙川ハルコが終始立ち会っていた。

(三)  検察官の主張

右事情聴取について、検察官は、「A子の取調べに不当な誘導等はなく、その供述内容は自然であって、信用性がある」として、「叔母である丙川ハルコが立会していただけではなく、父親丙川二郎やその兄丙川一郎らが作業していた現場で行われており、いわば同人らの監視の中で実施されたものであって、取調官がA子を誘導し、意図的に同女に記憶のないことを供述させ得るような状況のもとに行われたものではなく、取調官の大内の質問もA子に予断を与えることなく白紙の状態からA子の答えを求めるという方法によるものであって、誘導にわたると疑うような質問はなかったこと、答えはすべてA子の口から発せられたものであることなどが認められる」旨主張する。

(四)  検察官の主張に対する判断

しかしながら、大内控訴審証言、丙川ハルコ証言や各供述調書の記載内容を子細に検討すれば、次にみるような問題点が指摘できるのであり、殊に大内控訴審証言には信用できない部分もみられることから、検察官主張のようにいうことはできない。

(1) 丙川ハルコの立会状況等

ア 丙川ハルコ証言によれば、丙川二郎らの作業現場は取調べ場所から約五〇メートル離れており、その作業内容もチェーンソーで木を切ったり切った木を運搬したりするものであったということであるから、検察官主張のような「いわば丙川二郎らの監視の中で実施されたもの」とは到底いえないものである。

もっとも、大内控訴審証言によれば、丙川二郎は取調べ場所から四、五メートル離れたところで作業をしており、声をかければ聞こえるような位置にいた旨供述するが、仮にそのような近くで作業をしていたとしても、立会いを丙川ハルコに依頼していたことや丙川二郎らの作業内容に照らし、A子の事情聴取について監視するような状況になかったことは明らかであり、やはり、検察官の主張はとれない。

イ また、丙川ハルコ証言によれば、丙川ハルコは、三日、四日とも、取調べの開始時には取調べに立ち会っていたが、その後は作業があるからと丙川二郎に呼ばれ、その場から一番遠くて約五〇メートル離れて作業をしたりし、その後捜査官に呼ばれて取調べの場所まで赴き、主として供述調書の作成の際に立ち会ったこと、三日は、総合して立ち会った時間は約四〇分であったこと、四日は、午前中はもっぱら大内らはA子と遊んでおり、そばにいる必要がなかったこと、午後から再び取調べが始まるまで取調べには立ち会っておらず伐木作業に従事しており、供述調書を作成するので来てくれと言われて立ち会ったが、立ち会った時間は三日と同じくらいであったことを供述する。

これに対し、大内は、大内控訴審証言において、「三日は、丙川ハルコは、ちょっと離れたかもしれないが、離れてもすぐ近くにいた。話してもすぐ返事のできる範囲にいた。取調中に丙川二郎らから仕事を手伝ってくれと丙川ハルコが呼ばれたことはない。四日は、A子が本当のことを言うまでは、四、五メートル離れたところで作業をしていた」旨供述する。

丙川ハルコは作業のために来ていたのであり、取調べをするからといっても、突然来た捜査官のために長時間ずっと作業を中止して立ち会うことには無理があり、加えて、丙川ハルコには、捜査官である大内と異なり、立会い状況についてことさらに虚偽の証言をする動機、利益もないことをも考慮すると、丙川ハルコの立会状況に関しては、右丙川ハルコ証言内容の方が信用できるといえる。

ウ 以上を総合すると、丙川ハルコは、三日、四日とも、終始立ち会っていたわけではなく、三日は、当初は立ち会っていたが、その後は丙川二郎に呼ばれて作業をしたりしていて、供述調書作成時に立ち会い、四日は、大内らがA子と遊んでいるので立ち会わずに作業をし、午後からも同様に作業をしていたところ、大内に言われて供述調書作成時に立ち会ったというものであり、結局、丙川ハルコは、大内とA子との実質的なやりとりの際にはほとんど(殊に四日は)立ち会っておらず、いわば立会人としての役割を果たしていなかったと認めざるを得ない。

したがって、検察官主張のように、「丙川ハルコが立ち会っており、取調官がA子を誘導し、意図的に同女に記憶のないことを供述させ得るような状況のもとに行われたものではない」とはいえない。

(2) 大内の尋問方法等

ア 三日の事情聴取について、大内控訴審証言によれば、A子はぽつりぽつりと簡単な返事しか出ず、何回も同じ質問をして答えになる状態であったというのである。このような同じ質問を繰り返すことは、場合によれば、供述を一定の方向に誘導するという危険性があるのであって、明らかな誘導でなくても、誘導とか暗示の効果を生じることは前記のとおりであり、殊に年少児の場合被誘導性が強いのが一般的であるから、その危険性はより大きいといわざるを得ない。

大内控訴審証言によれば、大内は、これまで精神遅滞児や年少者を取り調べたことはなく、右事情聴取にあたって資料を調べたり人の話を聞いたりしたことはなく、そこまで気が回らなかったと供述し、また、どういう注意を払ったかとの尋問に、「はじめは意識はなかったが、園児と接触している間に、親しくならないと本当のことを言ってくれないとわかった」と供述するだけで、誘導の危険性等については触れていないのであり、そのような大内が誘導等のないように注意を払ってA子から事情聴取をしたとは思われない。

そのことは、各供述調書の記載からもうかがえるところである。すなわち、49・4・3員面は問答形式になっているが、その発問をみると、例えば、「その後誰が来ましたか」とか「何しにまた来たのか」との質問が記載されている。供述調書の記載は発問したそのままの言葉ではないとかいくつかの問いがまとめられたものであるなどの反論はあり得るものの、右記載の発問が誘導的意味を持つことは明らかであり、様々なやりとりの中でこのような問いは、殊に繰り返されることによって、誘導あるいは暗示の効果を生じさせるものであり、問題があるといわざるを得ない。

イ 四日の事情聴取について、大内控訴審証言によれば、まず最初に、「甲山の事件のX君がいなくなったとき女の先生が連れて行ったというけれども、誰ですか」という質問をして二、三回催促したが、A子は「知らん」と答えたというのである。

49・4・3員面の記載から明らかなとおり、三日の事情聴取では、A子は女の先生が来たことは供述しているが、Xを連れ出したことは供述しておらず、女の先生が何をしたか不明であった。それにもかかわらず、四日の事情聴取の最初に、女の先生がXを連れ出したという前提にたつ「甲山の事件のX君がいなくなったとき女の先生が連れて行ったというけれども、誰ですか」との質問をして、二、三回催促したというのであり、これは明らかに誘導と認められ、前記同様(繰り返しもあり)問題があるといえる。

ウ そして、大内控訴審証言によれば、大内は本村誠彦に、絵本を読ませたり草花を取ってこさせたりしてA子と遊ばせ、A子が水を汲みにいくのを手伝わせ、また、大内自らも右本村と一緒になってA子と遊んだり、トラックの荷台を掃除したりして、A子の心を開こうとしたというのである。この点については、丙川ハルコも、大内が、字がきれいだとか何でもよく知っているなどとA子をほめたりしていて、前日言わなかった先生の名前を聞き出すため「こだらかして(なだめすかしてという意味の方言)いる」と思った旨証言している。

そして、大内控訴審証言によれば、四日午後一時半ころ、水汲みのあと、敷いてあったゴザに座り、大内がA子に「学園の先生に言わんから、X君のいなくなったときのことを教えて」と聞くと、A子が、「ほんなら教えてやろうか。先生に言うたらあかんよ」と言って、座っていた腰を浮かして両膝をつき、大内の耳元に口を寄せて小さい声で「悦子先生や」と言うので、「悦子先生て誰や」と聞くと、「沢崎先生や」と言ったというのである。そして、右答えは、一回目の質問ではA子は黙っていたので、二、三回繰り返して出てきた(主尋問では一回の質問で出てきたと供述)というのである。

このように、一緒に遊んだりほめたり手伝ったりした行為は、検察官が主張するように「その緊張感を取り除きA子の心を開かせる」ためという面はあるものの、他方では、A子に捜査官の期待に応えてあげたいという気持ちをおこさせ、捜査官に迎合する態度を生じさせる危険性もあり、また、同じ質問を繰り返すことによりその危険性はより大きくなるのであって、いくらA子の心を開かせるといっても、不適切であったことは否定できない。この点からみると、A子の右態度はそのような捜査官に迎合した行為にもみえ、この態度をもって、検察官主張のように「徐々に緊張感や防衛姿勢が緩和されてきた過程における供述」というにはちゅうちょせざるを得ない。

エ 以上に照らすと、検察官主張のように「大内の質問がA子に予断を与えることなく白紙の状態からA子の答えを求めるという方法によるものであって、誘導にわたると疑うような質問はなかった」というには疑問があり、また、A子の答え方をみると、検察官主張のように「答えはすべてA子の口から発せられたものであること」は一応認められるが、その出方というのも、前記のとおり、ぽつりぽつりと簡単な返事しか出ず、何回も同じ質問をして答えになる状態であったというのであるから、答えがすべてA子の口から発せられたからといって、そのことだけからその信用性を判断することはできない。

(3) 供述調書の作成方法

大内控訴審証言、丙川ハルコ証言によれば、三日、四日とも、供述調書作成の際には丙川ハルコは立ち会っており、三日には、大内が補足してA子に尋ねたうえで供述調書が作成され、また、四日には、あらためて大内が聞き直したうえで供述調書が作成され、図面もA子が作成した(丙川ハルコは図面を作成しているのは見ていないと供述しているので、立ち会う前に作成されたのではないかとの疑問がある)ことが認められる。

この事実によれば、三日、四日とも、立会人がいて大内とA子とのやりとりによって各供述調書が作成されたということになるのであるが、右のような状況で各供述調書が作成されたからといっても、それに至るまではA子はなかなか答えなかったというのであり、各供述調書作成以前の段階において前記のような種々の問題点がある以上、その影響が残っているとみるべきであり、これを切り離して考えることは相当ではない。なかなか答えなかったことに答えた場合、それをくつがえすことは一般的にいっても困難であり、ましてや、そこに至るには前記のようなやりとり(遊びも含め)があったというのであって、殊に、四日の被告人の名前が出た際には、大内控訴審証言によれば、「何回も念を押すとA子が間違いないと言うので、それではおじちゃんと指切りげんまんするかと言うと、すると言って指切りげんまんをし、また、本村ともした」というのであり、このことは一面では言ったことを変更したりしないことを約束することにもなりかねず、これらの影響は、年少児であるA子にとっては大きな意味を持つと考えるのが自然である。

(4) 当時の捜査状況等

検察官は、「大内がそれまでに入手していた情報は、単にXがA子の部屋からいなくなったと思われるというだけのものであって、大内自身白紙の状態でA子の事情聴取に臨んでおり、その事情聴取に不当な誘導が存していなかった」旨主張するので、ここで、当時の捜査状況を概観したうえで、右主張について判断する。

ア 大内控訴審証言、高橋当審証言によれば、三月二〇日西宮署に捜査本部が設置され、県警本部刑事部捜査第一課の警部高橋亨(以下「高橋」という)が捜査主任官となったこと、捜査体制としては、班を構成して警部補を班長とし、それぞれの捜査を行ったこと、当初は、県警本部刑事部捜査第一課の警部補開田保章(四月からは勝忠明と交替)の班は保母、指導員らの職員からの事情聴取を、同所属の警部補小島直臣の班は用務員や園長らその余の職員からの事情聴取を、西宮署刑事一課の警部補大内の班は園児の保護者や外来者等からの事情聴取を担当したこと、高橋は、当初の検証等の捜査結果から、内部の者の犯行であると考え、まず用務員に疑いを持って捜査をしたが、三月二五、六日ころにはその疑いが薄くなり、保母、指導員らに捜査の重点が移ったこと、そのうち、学園からの情報により、園児にも知的能力の高い子供もいることがわかり、園児からも事情聴取をすることにしたこと、高橋は、園児の知的能力から犯行や供述能力に疑問を持っていたため、当時捜査の応援に来ていた機動捜査隊員にその捜査をさせたこと、四月に入るころには、大内の班が園児からの事情聴取をするようになったことが認められる。

イ 以上が当時の捜査状況の概要であるが、当時作成された捜査書類をみると、高橋ら捜査官は、大内が園児らの事情聴取に入るころには、<1>Xは「さくら」の部屋から何者かによって連れ出された可能性が高いと考えていたこと、<2>職員に対する捜査を進めるうち被告人に対する嫌疑を深めていたことが推測できる。

すなわち、Bに関する49・3・26捜復(弁九八)には「XはA子の部屋で先生ごっこをしていたが、午後八時ころA子の部屋にいくとXはいなかった」旨の記載が、A子に関する49・3・27捜復(弁七四)には、「『さくら』の部屋でH、G、Xと私の四人でトランプをしていると、えつこ先生がX君ちょっとおいでと言って、Xの手をつないで部屋からでていった」旨の記載が、Cに関する49・3・29捜復(弁一六六)には、「午後八時にXを見にいくと、Xは『さくら』の部屋でおっかけごっこをしているのを見た」旨の記載があり、これらの記載からは右<1>の事実が推測できる。そして、これに加えて、乙原の49・4・2員面(弁三〇)からうかがえるように、Y子発見時や三月二二日のY子の学園葬時の被告人の言動等の情報は早い時期に高橋らの耳に入っていて、被告人に関する49・3・28捜復(当審弁二四〇)には被告人の事情聴取の際の言動が特異動向として記載されており、また、同捜復には、被告人が管理棟事務室の外へ出ていないことを強調した旨の記載があるが、戊田に関する49・3・25捜復(当審弁五二)には、戊田からの事情聴取として「若葉寮から管理棟事務室に戻ってきたとき、多分被告人はいなかったと思う」旨の記載があり、また、戊田に関する49・3・29捜復(当審弁五四)にも「園長が出ていってから被告人が事務所を出ていった」旨の記載があり、これらの記載からは右<2>の事実が推測できる。

ウ 右の点について、高橋は、「右園児らに関する各捜査復命書についてはその当時見ていなかった。被告人の逮捕後大分経ってから見た」旨、また、「被告人に容疑を絞り込んでいった時期は、四月三日に被告人に出頭要請をしたが拒否され、また、大内のA子からの事情聴取により被告人のX連れ出し供述が出てからである」旨証言する。

しかしながら、次のとおり、右高橋の当時の地位、役割等に照らすと、右証言は到底信用できない。

(ア) 確かに、園児の能力には問題があること、右園児らに関する各捜査復命書については、その当時捜査を応援にきていた機動捜査隊員に事情聴取させ、その報告も捜査復命書の形でしかないことや種々の捜査資料が毎日のように作成されて高橋のもとに集っていたことなどの点が認められ、高橋においてそのすべてを詳細に検討しその証拠価値を的確に判断していくことには困難を伴うものと思われるが、高橋は捜査主任官の立場にあり、各種捜査結果を日々検討し、上司である捜査一課長らに報告したり(高橋当審証言によれば、捜査一課長は毎日のように捜査本部に来ており、高橋はその日の捜査結果を報告していたというのである)、部下に対する今後の捜査を指揮していたものであり、右各捜査復命書の検閲欄には高橋やその上司のサインや判が現実にあることにも照らすと、右各捜査復命書を見ていなかったとか、見たが重視しなかったということはあまりにも不自然であり、信用できない。

現に、Bに関する49・3・26捜復には、何か所にも傍線が引かれ、欄外には疑問点などが書かれており、十分に検討した後がうかがわれる。そして、「午後八時ころA子ちゃんの部屋に行ったらXちゃんはいなかった」との部分にも傍線が引かれ、欄外に「押入れにでも入っていたのか?」と記載されている。これがいつ記載されたのか不明であるものの、証拠によれば、Xは押し入れに上がることができないと思われるのであるが、A子の49・4・4員面には、「XとG子は押し入れに入って遊んでいた」との記載があり、右の疑問と呼応しているとみることも十分可能であり、かなり早い時期に右捜復の検討がなされていると推測できる。

(イ) また、高橋は、園児については重要視しておらず、応援にきていた機動捜査隊員に事情聴取させたものであり、捜査復命書は読まなかったととれる趣旨の証言をしている。

しかしながら、右各捜査復命書には、下命事項がそれぞれ具体的に記載され、記載内容も、概括的であるとはいえ、それなりに具体的、詳細であり、しかも、例えば、「誰はどの部屋へ寝たかという質問にも正確に答えている」との記載(A子に関する49・3・27捜復)があるように、機動捜査隊員であるからといって事情聴取がおざなりになされたものではなく、園児の居室などを頭に入れ、正確性を確認したりして事情聴取にあたっていることがうかがわれる。したがって、高橋の右証言をそのまま信用することはできない。

(ウ) なお、検察官は、「高橋が右A子に関する49・3・27捜復の記載を当時きちんと把握していたとすれば、直ちにA子に対する本格的な事情聴取を指示していたと考えられるところ、現実には一週間を経過した四月三日になってはじめて大内によるA子の事情聴取が行われており、このことは、まさに、高橋が、当時右捜復の内容に全く気が付いていなかったことを示しているとともに、右捜復から被告人に対する嫌疑を抱いた事実がなかったことをも裏付けている」旨主張する。

しかしながら、取調べ済みの証拠にあらわれた限りでは、右捜復後に作成された捜査復命書等からは、まず、園児、職員から右捜復におけるA子の供述の裏付けをとろうとしたという可能性が否定できないのであり、A子からの事情聴取が一週間を経過してからであっても不自然とはいえず、必ずしも検察官主張のようにはいえない。すなわち、右捜復の次に作成されたものは三月二九日のCとDに関するものであるが、CはXと同室の園児であり、DはA子に関する49・3・27捜復で一七日の出来事で名前が出てくる園児である。また、一九日の宿直勤務であった乙原から四月一日と四月二日に、乙野からは四月二日に詳細な供述調書が作成されているのである。

エ また、大内も、「園長らから比較的理解力があり会話能力がある園児を選び出してもらい、それらの園児からの事情聴取をしていた。たまたまXと同室であったCがいたので、とりあえずCを調べたところ、CからXが『さくら』の部屋にいて呼びに行ったが帰らなかった旨の供述を得たため、翌日にA子を調べることにした。園児らの各捜査復命書については指揮系統が違うので事情聴取をしていたことは知らなかったし、各捜査復命書も見ていない」旨証言している。

しかしながら、右証言をそのまま信用することはできない。大内は、前記のとおり、捜査主任官高橋の下に配属された警部補の三名のうちの一人であり、その直接指揮の下で班長として部下の捜査員を指揮して捜査を行う位置にいたこと、三月末ころには、園児全体の捜査については相応の責任を負っており、園長らの情報から理解力のある園児を選別し、どの捜査官にどの園児を取り調べさせるか指示する立場にあったこと、自らも、三月三一日にE子を、四月二月にはCを取り調べていること、大内は、自ら直接取り調べたCからXは「さくら」の部屋にいて帰らなかった旨の供述を得、高橋と相談して、Xを「さくら」の部屋から連れ出した人物を特定するためにA子の取調べを実施することになったことが認められるのである。このように、大内は捜査体制の中で重要な位置にあり、園児取調べについてもその責任者であり、A子の取調べにあたっても高橋と打合せの上で実施していることからすれば、当然、大内は、被告人に対する嫌疑や従前の園児らの事情聴取についても認識していたと推測できるのであり、前記証言は信用できないといわざるを得ない。

オ これら捜査状況を総合していえることは、A子の事情聴取については、Xを「さくら」の部屋から連れ出した人物を特定するためという捜査官としての目的や方針があったことは明らかであり、大内はその目的に沿ってA子から事情聴取を行ったのである。その結果として三日にA子から得られた供述内容は、いずれも大内が推測できた事実を越えていない。そして、三日には「女の先生」というだけであったが、それが被告人であるとの疑いを持って四日の事情聴取にあたったのであり、このことは、三日に大内から報告を受けた高橋は被告人であると確信したということからも推測しうるというべきである。

以上に照らすと、検察官主張のように「大内自身白紙の状態で臨んだ」とは到底いえず、右主張はとり得ないといわざるを得ない。

4  供述内容からの検討

(一)  検察官の「目撃状況の核心部分の供述には変化がない」との主張に対する判断

(1) 検察官は、前記のとおり、「A子の供述内容は、49・3・27捜復を除くと、その目撃状況の核心をなす部分は全く変化しないのみならず、証言内容とも完全に一致しており、変遷は認められない」旨主張する。

(2) しかしながら、これまでみたように、A子は、四月三日の事情聴取に際しては「被告人のX連れ出し」に関する供述はせず、また、CがXを呼びに来たことについても供述をしぶり、何回か聞くうちにようやく供述するに至っていること、四月四日の事情聴取に際しても、当初は「被告人のX連れ出し」については知らないと答え、間をおいてようやく「被告人のX連れ出し」に関する供述をするに至ったこと、翌五日の事情聴取に際しては、49・4・5捜復(弁七六)によれば、一九日の行動については「沢崎先生がX君を連れて行ったことは間違いない。このことは誰にも言っておらない(こわいから)」との記載があるのみであり、「情緒安定せず真偽の程判定できない」旨の記載があるところからすれば、A子から十分な供述が得られなかったことがうかがわれること(大内は、四月五日の事情聴取の重点は一七日のY子のことを聞くためであり、「情緒安定せず」との記載は一七日のことに関するものである旨証言するが、四月四日にも一七日のことは聴取され供述調書にも記載されているが、右捜復の一七日についての記載はそれよりも詳しくなっていて相互に大きな矛盾もないのであり、右記載内容に照らし右大内の証言は信用できない)、四月八日の検察官の事情聴取において、廊下上での被告人とXの目撃状況を明確に供述するに至っていることが認められるのであり、これを総合すれば、検察官主張のように、「49・3・27捜復を除くと、その目撃状況の核心をなす部分は全く変化しない」とは到底いえない。

確かに、大雑把に言えば、全体として、A子は「被告人のX連れ出し」を目撃した趣旨の供述を一貫してしているといい得る面はあるものの、そのことだけから右目撃状況が信用できるということには問題があることは既に述べたとおりであり、加えて、以下に検討するように、その供述内容には種々の点で変遷や疑問点があり、かつ、重要な点において不自然な変遷がみられるのであるから、結局、検察官の右主張はとれないといわざるを得ない。

(二)  A子の供述内容についての疑問点

(1) 目で見たことを変更した点について

ア 「被告人のX連れ出し」を目で見たのかどうかについて、A子は、49・4・4員面では「被告人はXおいでと入口に立っていた。Xは被告人の後からついていった」旨供述し、49・4・8検面では「Xや被告人が出て行ったのを見ている。玄関の反対の方へ行った」旨供述しており、被告人が来てXが部屋から出て行くのを目で見た趣旨の供述をしていた。

ところが、49・4・14検面では「被告人を見ていない。声でわかった」旨供述し(右49・4・8検面及び49・4・14検面を作成した検察官山科勢一は、49・4・8検面の意味について、A子は目を開けていたのでXが出て行ったのは見ていたが、A子の寝ている位置からは被告人が視野に入らなかったので被告人は見ていないということである旨証言している)、49・5・21検面(弁九〇)以降は、被告人が「さくら」の部屋に来てXが出て行くまで目をつぶっていたので見ておらず、声や足音で分かった旨一貫して供述し、証言においてと同様の供述をしている。

イ A子供述のうち、被告人によってXが「さくら」の部屋から連れ出されたという点は、本件犯行状況のうちの廊下上の出来事と並ぶ核心的部分であり、また、これを供述しているのはA子のみである点でも、重要な供述といえる。ところが、A子は、右にみたように、当初の供述を本件事件後約二か月も経って変更しているのである。しかも、その変更は、目を開けていて目で見たというのを、目をつぶっていて耳で聞いたことに変更したというものであり、目撃態様としては大きな違いがあり、果たして本当に見たのかあるいは聞いたのかとの根本的疑問を抱かせるものである。

(2) 耳で聞いたとの点について

しかも、A子の目をつぶっていて耳で聞いたとの供述によれば、次のような疑問が生じる。

ア まず、A子の供述によれば、A子は、テレビを見ている途中眠くなったので「さくら」の部屋に帰り、寝巻に着替えて廊下側に敷いてあったふとんに頭をディルームの方にして入り、顔を廊下側に向けて横になったというのである。右A子の寝ていた位置や顔の方向からすれば、目の前ともいってよい位置で、その声で被告人だと分かりながら、目を開けて見ようともせず目をつぶったままであったというのは、余りにも不自然である。

この点について、検察官は、控訴審判決を引用して「既に眠くてふとんに入っていた子供のA子が、当日の宿直の保母でなかったにしろ、部外者でなく、自分に用事で来たわけでもない被告人の声を聞いたからといってあえて目を開けて見なかったとしても、これをもって不自然であるとまではいえない」旨主張する。 しかしながら、目を開ける気にもなれなかったほど眠かったというのであれば、被告人の来た方向や行った方向が分かってそれを記憶していたということ自体が不自然であるということになり、また、その直後に戸が開いている(もともと開いていた)ことに気付き、眠るために戸を閉めに行き、戸は引き戸であるから廊下に顔を出す必要がないのに、顔を出して二人を見たというのであって、その行為は、検察官主張のように関心を示さなかったということとは異なった行動であり、いずれにしろ不自然さはぬぐえない。

イ 次に、A子は、耳で聞いたこととして、被告人の来た方向や、被告人とXが出て行った方向が足音で分かった旨供述するが、そのこと自体に疑問を抱かざるを得ない。

すなわち、そのころは、ディルームではテレビがつけられていたり、年少児が就寝準備で動いたりして、いろいろな音(足音も)が聞こえている時間帯であり、そのうえ、A子は眠くてふとんに入って目をつぶっていたというのであるから、廊下を歩く足音についてどちらから来たか一々関心を示さないのが通常であり、それをどちらから来たか聞き分け、それをずっと記憶していたというのは余りにも不自然であり、また、出て行った方向についても、来たときに目を開けないほど無関心であったというのであれば、その方向についても関心を持たず記憶していないというのが通常であり、それが分かったというのもやはり不自然である。

ウ そのうえ、被告人が来た方向については、捜査段階では玄関の反対の方から来たと供述していたのが、A子証言ではディルームの方から来たと供述して変遷がみられる。

この証言は第二回の検察官の主尋問で供述したものであるが、前記のとおり、第二回の検察官の主尋問においてA子は問題なく応答していたのであり、右供述が出た際もA子が混乱したり冷静な精神状態でなかったという状況ではなく、しかも検察官が確認しても同じ供述をしたのである。

そのうえ、第四回の弁護人の反対尋問の際にも同じ供述をし、非常口の方からと警察官に言ったことはないか確認されても「ない」と供述しているのであり、この際にも特に問題となる尋問状況はなかった。

エ このように、目撃事実に非常に密接に関係する事項について、大きく供述を変遷させており、しかもその変遷について合理的な理由がみいだせないのであり、耳で聞いた旨のA子の供述のあいまいさが指摘できる。

(3) 被告人とXの位置関係の変遷の点について

ア また、A子が目撃したという被告人とXの位置関係について、昭和四九年当時の供述(49・4・8検面、49・4・14検面、49・4・20検面、49・5・21検面(弁九〇)、49・5・29検面)では被告人が前でXが後となっていたのに、その三年後の52・5・5検面(弁九五)ではXが前で被告人が後と供述の変遷がみられ、A子証言でも右変更後の供述を維持している。

イ 廊下上の二人の姿を目撃したというA子の供述は、被告人が青葉寮からXを連れ出す直前の状況をあらわすもので、Bの目撃供述とも重なり、重要な意味を持っている。その目撃供述の一部がそれも二人の位置関係という通常では勘違いしないような事項について変遷していることは、その信用性を判断するうえで無視できないことである。しかも、その変遷は事件後三年経ってからのものであり、それを合理的に説明できる事情がないのに変遷している。

ウ この点について、検察官は、「供述に変遷はあるが、Bのいわゆる新供述は昭和五二年五月七日に得られたものであり、同月五日におけるA子に対する事情聴取の時点での証拠関係からすれば、被告人が後でXが前としなければならない事情は全くなかったものであり、しかも供述の変遷という指摘を受ける危険を犯してまであえてA子の供述を変更させる必要はなかったものであり、そのことはかえって同女の供述するままに録取したものと評価し得る」旨主張する。

しかしながら、検察官の右主張は、右の供述の変遷の合理性を説明するものではなく、ただ単に右変遷について捜査官が誘導したものではないことをいっているにすぎない。右で指摘したように、目撃したとすれば勘違いをしたりして変遷することは考えられないような二人の位置関係について、事件後三年経って理由もなく変遷していることは、やはりその信用性に疑いを抱かせるものであるといわざるを得ない。

ただ、被告人が前を歩きその後ろにXがいたとすれば、本件犯行状況とは異なった印象を与えるということと、変遷した時期が、まさに被告人によるXの連れ出しという新たな供述がBから出るその直前の時期であることを考えると、A子の記憶の変容ということではなく、そこには何らかの影響があったのではないかと考えられるのである。

(4) A子が乙野及び乙原に何も話さなかった点について

ア 第五の四の1で検討したように、Xがいなくなったことに気付いた宿直職員である乙野及び乙原が、園児らの居室を見て回ったり、園児らにXを知らないかと尋ねたりしながら、Xを捜していたが、園児らは誰も、Xや被告人のことを乙野や乙原らに話さなかったことが認められ、A子についても同様に何も話さなかったことが認められる。

イ この点に関するA子の供述をみると、「乙原、沢崎、乙谷、乙野先生、丙村さんがX君を捜しにきた」(49・4・3員面)、「X君がいないと言って乙原先生が部屋に入って来た」(49・4・8検面)、「(乙原先生や乙野先生や沢崎先生などは来ませんでしたかとの問いに対し)眠ってしまっていたので、私にはわかりません」(49・5・21検面(弁九〇))、「乙原先生と乙野先生が別々にさくらの部屋を探しに来た」(52・5・5検面)、「ふとんに入ってから、乙原先生と乙野先生がX君を捜しに来た。声で分かった」(A子証言)、「乙原先生がX君を捜しに来た。乙野先生、乙谷先生が来たか覚えていない。沢崎先生がXを捜しに来たことがある」(A子発言)というものである。

これに対して、乙原は、「『さくら』の部屋にも入った。A子は寝ていた。A子の肩をちょっとゆすったが起きなかったのでそのままにしておいた」旨証言している(なお、捜査段階の乙原の49・5・24検面では、「『さくら』の部屋ではA子が眠っておりゆすっても起きなかった」となっている)。

右A子の供述からすれば、A子は、乙原ら職員がXを捜しているのに何も話さなかったということになるのであるが、このことは、前述のとおり、Xが「さくら」の部屋にいて出て行ったことはごく少し前に見聞きしたことであり、怖かったとか口止め等の事情のない段階であって、A子の能力からしてもその意味は十分認識できる事柄であり、それにもかかわらず、乙原ら職員にXのことを何も話さなかったことは不可解というほかない。

ウ 検察官は、「乙原がA子に対して、Xのことに関して何ら具体的な質問をしていないのであり、A子は、ふとんの中に入って眠りにつこうとしており、Xのことについては何ら聞かれない状況において、Xの目撃した事実を積極的に乙原に話さなかったとしても特に不自然なことではない」旨主張する。

しかしながら、右にみたように、A子は、乙原ら職員がXを捜している旨供述しているのであり、そのことの意味は十分理解できていたと考えるのが自然であり、何ら具体的な質問をしていないということで説明のつくことではない。

エ また、検察官は、「A子は目をつむってふとんの中で横になっていたのであるから、乙原がそれを眠っていると思ったとしても不自然なことではなく、A子と乙原の証言内容にその信用性について疑問を抱かせるような矛盾点はない」旨主張する。

しかしながら、乙原はA子をゆすっても起きなかったというのであり、この点において齟齬がみられる。

この点を合理的に説明するとすれば、A子は乙原が捜しに来たときには眠っており、その後何らかの形で職員らがXを捜しているのを知ったということである。すなわち、A子はテレビのキャシャーンとかイナズマンのまんがが好きであること、その好きなまんがイナズマンを見るのを途中でやめて部屋に帰っていること、その理由については、おもしろくなかったとか眠たかったと証言していること、A子は部屋に帰ると寝巻に着替えてすぐふとんに入っていること、A子は寝付きがよくすぐ寝てしまうことに照らすと、A子は乙原が捜すころには既に眠っていたと考えるのが合理的である。ただ、ずっと眠っていたのではなく、その後の職員らの捜索により目を覚ますなどして職員がXを捜していることを知ったと考えられる。このことは、A子の供述中には「眠ってしまっていたので、私にはわかりません」との供述があること、それ以外の供述では職員がXを捜していた趣旨の供述をしているが、捜していた職員の名前が明確でなく一定せず、変遷していることからもうかがわれるところである。

もっとも、A子が、部屋に帰ってすぐふとんに入り、すぐ寝付いて乙原がXを捜しているころにも眠っていたとすると、その間に起こった出来事である目撃事実に関するA子の供述の信用性に影響するといわざるを得ない。

(5) 被告人であると分かった点について

A子は、被告人であると分かったのは声であり、その後廊下にいる被告人の後ろ姿を見た旨供述しているのであり、被告人であることを示すものはその声と後ろ姿ということになる。それ以外に服装とか髪型等に関するA子の供述があるが、その供述にも変遷や不自然さがみられる。

ア まず、服装については、49・5・21検面(弁九〇)では「ジーパンをはいていた」となっており、49・8・2員面においてようやく「帽子のついた黒いオーバー」という供述が出る。

その経過をみると、大内控訴審証言によれば、「四月四日に被告人の服装を聞いたと思うがA子は『分からん』と答えていた」というのであり、山科証言によれば、「四月に三回(八日、一四日、二〇日)にわたって取調べを行い廊下上の目撃供述が出たが、服装についてはA子に聞いていない」というのである。

また、事情聴取をした検察官である樋口禎志は、「五月二一日に服装について聞いたが、A子はジーパンだということははっきり答えた。上着については帽子付きのコートと言ったと思うが、色とかがはっきりしなかったので、調書には書かなかったと思う」旨証言(樋口証言)する。しかしながら、樋口証言によれば、供述調書の記載からみて証言時にそう考えたというにすぎないのであり、帽子付きのコートという供述が出ていれば記載されたはずであり、色とかがはっきりしなかったから記載しなかったという証言は、ジーパンについては色の記載もないことに照らしても、信用できない。

そして、八月二日の大内による事情聴取で、被告人の上着は「帽子のついた黒いオーバー」との49・8・2員面が作成されるのである。しかしながら、その後の八月三〇日に事情聴取をした樋口は、A子の服装についての記憶はあいまいであるとの理由から、被告人の服装については聞かなかった旨供述していることや、その後これに関する供述は一切ないことに照らすと、A子の服装に関する供述はあいまいであったと思われる、それにもかかわらず、大内作成の右49・8・2員面では被告人の当日の上着と同じ趣旨の「帽子のついた黒いオーバー」と記載されているのは、そこに何らかの誘導的なものがあったことをうかがわせるものといわざるを得ない。

イ 次に、被告人の髪型等については、52・6・3検面で初めて「Xと一緒に廊下を歩いていた女の人は、パーマをかけていなかった。髪の毛はえりのところまであった。背の高さは被告人と同じ位であった」との供述が出る。

それまで何度も事情聴取を受けているのに、それに関する供述は一切記載されていないにもかかわらず、事件後三年も経って初めてそのような供述が出ることは不自然としかいいようがない。

(6) CがXを呼びに来たことの変遷の点について

ア Cが「さくら」の部屋にXを呼びに来た旨の供述についても変遷がみられる。

すなわち、三月二七日にはCが来たことについては何も供述せず、四月三日にもなかなか供述しなかった。そして、同日以降Cが来たことについて、例えば、「Cが来た。Xはウ、ウとおこって手を上げた」(49・4・3員面)、「Xは、仮面ライダーのように手を上げて、『いや』というふうに言いCの言うことを聞かなかった」(52・5・5検面、52・5・16検面)と具体的にその際のXの態度を供述している。

ところが、A子証言の際には「Cが来たときは目をつぶっており、Cの行動は声や音で分かった。Xのことも見ていない」旨供述するに至っている。

イ 右証言は第一回の検察官の主尋問の際に出たものであるが、これは前記のA子の証言が沈黙等が多く出るきっかけとなったやりとりの前のことであり、尋問の際に問題となるような状況もなく、また、検察官が確認しても同じ供述をしている。

このように重要な点で変遷しており、しかも右変遷について何ら合理的な理由が見あたらないのであり、そのことは、Cが来たというA子の供述の信用性にも疑いを抱かせるものである。

(7) 三月一七日の出来事の変遷の点について

三月一七日の出来事についてもA子は供述しているが、この日はA子自身もY子を捜しに行ったというのであるから、非日常的体験をした日の出来事として記憶に残りやすいと思われる。しかしながら、Y子を捜す前の行動に関するA子の供述には大きな変遷が認められる、すなわち、

ア 49・3・27捜復では、「おやつのあと、Dと二人でブランコをしてから、二人で『さくら』の部屋に入ると、H子とY子がいた。Y子はトランプができないので、三人でトランプをした。トランプを終えてから、乙谷先生に言って倉庫から自転車を二台出してもらい、運動場でDと二人で乗り回した。夕食を知らせるチャイムがなったので、自転車を倉庫に入れた」、49・4・4員面では、「その日の夕食は早かった。そのときブランコをして遊んでいた」、49・4・5捜復では、「『さくら』の部屋で、B、H子と三人でトランプ遊びをした。G子、Y子、Xはそばで見ていた。CとVが入ってきて遊んだが、Y子とXは外の方に出ていった。トランプをやめてから、ブランコに乗ってE1子と遊んだ。青葉寮の裏側の干物場の前付近でY子とH子が砂遊びをしていた。シーソーではVとKが遊んでいた。食堂の前で沢崎先生が『ごはんですよ』と呼んだので、『さくら』の部屋にいきG子を連れて食堂に行った」、49・5・21検面(弁九一)では、「おやつのあと、Dとブランコをしてから、自分の部屋に帰った。Y子とH子がトランプをしていた。Y子がトランプをやめ、DとH子と三人で神経衰弱(トランプ)をした。Y子はそれを見ていた。トランプを終えてから、乙谷先生に倉庫から自転車を二台出してもらい、運動場でDと二人で乗って遊んだ。自転車に乗って遊んでいるとき、沢崎先生がごはんだと言ったので、食堂に入った」というのである。

右にみたとおり、四月四日、五日に供述した状況と、三月二七日、五月二一日に供述した状況とは、大きく異なっている。

イ そして、その後のA子供述では右三月二七日、五月二一日に供述した状況が基になっているのであるが、この状況を裏付けるものがないといってよい。

例えば、乙原の供述によれば、「三時二十分すぎころから洗濯仕分け室で仕分けの仕事をしたが、A子は最初から、DとKは途中から手伝ってくれた。四時五分ころ、『さくら』の部屋にふとんを敷きにいくと、A子はロッカーの整理をしていた。四時半になって帰るとき、玄関前にいたD、A子、F1子がついてきた。A子とF1子は途中から来なくなったが、Dは正門までついてきた」(乙原の49・5・24検面弁五三)というのであり、A子がDらとトランプ遊びをしていたとか夕食前ころ自転車遊びをしていたという状況はでてこない。

また、乙谷の49・4・1巡面(検三九七)によれば、「おやつを食べてから、三時四〇分前後までG1の失禁の始末をし、四時ころまでMの散髪をプレイルームでした。それが終わってからMらと甲山福祉センター入口前のロータリー付近で五時前まで作業をした」というのであり、A子とDに自転車を出した状況はでてこない。なお、Dの供述では、おやつの後夕食までF1子と遊んでいた(Dに関する49・3・29捜復弁一四九、Dの49・4・3員面弁一五二他)となっている。

なお、49・4・4捜復に添付されている図面をみると、「さくら」の部屋にいた者の名前のうちDと記載された部分が消されているのであるが、この点に関する理由などの記載はなく、前記Dの事情聴取の結果(弁一四九、弁一五二)との整合性をはかった疑いがある。

また、昭和五二年のA子の供述をみると、自転車の色(52・2・13員面弁八五)とか、自転車を出してもらったときにY子を見た(52・2・13員面、52・5・5検面)とする供述など、事件後相当時間が経過した後であるのに詳しくなった供述や不自然な供述がみられ、A子の記憶のあいまいさや被誘導的傾向、作話傾向がうかがわれる。

エ A子が一七日にY子がいなくなったことを知るまでの行動についての供述内容をみると、結局は、学園で生活するA子ら園児の日常生活のことであり、それ以上に何ら特別なことが出てこないうえ、他の証拠による裏付けもない。したがって、右供述内容が、実際に一七日の出来事であったのかは疑問であり、A子が一七日の出来事として記憶していたといえるのかも疑問である。

そうすると、Y子を捜した日という特定ができる一七日の出来事に関する供述が右にみたように疑問であるということは、自らXを捜すという非日常的体験をしていない一九日については、なおさら、一九日の出来事として記憶に残るのか、記憶していたのか疑問である。

(三)  右疑問点についての検察官の主張とそれに対する判断

(1) 検察官の主張

検察官は、右のA子の供述の変遷等について、「当初は不正確な表現であったものを正確に表現しなおしたとみることもできるし、逆に時間の経過によって記憶があいまいになったともみられる」とか、「目を開けていたかつむっていたか、被告人とXの前後関係についての変遷は、目撃供述の信用性に影響するような重要なものではない」とか、「被告人の服装等に関する供述は、大内がXや被告人の服装に焦点を合わせて事情聴取を行った結果出たものであり、A子の供述の信用性を疑わせるようなものではない」旨主張する。

(2) 検察官の主張に対する判断

しかしながら、右検察官の主張はいずれもとることができない。すなわち「当初は不正確な表現であったものを正確に表現しなおしたとみることもできるし、逆に時間の経過によって記憶があいまいになったともみられる」ということは供述の変遷の際によくみられるところであり、そのこと自体には異論がないが、そのことだけが供述の変遷を説明する合理的な理由というものではなく、他からの影響を受け記憶にないことを供述することにより変遷する場合もある。殊にA子の場合は精神年齢が低く暗示や誘導により影響を受ける危険性が高く、かつ、A子の目撃事実というのも甲山学園での日常的な出来事であるから、その影響の有無、混同の有無等を考慮に入れ、その供述内容を具体的に分析し、供述内容の自然さ、変遷の合理性などを検討して判断すべきである。その意味において、右にみたようにA子の供述の変遷等には問題点が指摘できるのであり、検察官の右主張によって説明することはできない。

また、「A子が目を開けていたかつむっていたか」、「被告人とXの前後関係」については、いずれもA子の目撃供述と密接に関係している事項であり、「目撃供述の信用性に影響を与えるような重要なものではない」とは到底いい得ないものである。さらに、被告人の服装等に関する供述については、前記のとおりの問題点が指摘できるのであり、「焦点を合わせて事情聴取を行った」ことによって説明できるものではない。

四 A子の供述の評価

以上みてきたように、A子証言は、主尋問において検察官が主張する目撃事実が出ているが、その供述の出方、反対尋問でのA子の供述状況に照らすと、右証言はその信用性を疑わしめる状況があるといわざるを得ず、また、捜査段階も含めたA子の目撃供述については、49・3・27捜復については、他の日の出来事を一九日の出来事として供述している疑いがあり、また、その後の供述内容には、捜査官の影響や看過できない変遷や疑問点がみられるのであって、信用できないといわざるを得ない。

第八  Cの供述の信用性について

一  Cの供述の持つ意味とその特徴

検察官は、青葉寮収容児童Cが、第一次捜査時から、一九日午後八時ころ「さくら」の部屋でXを目撃した事実を一貫して供述し、昭和五二年五月一一日の検察官加納駿亮(以下「加納」という)の事情聴取において、右事実に加え、「さくら」の部屋から自室に戻る途中でのBとの出会い事実を供述し、C証言の際も右供述を維持したとするが、その供述内容というのは、「本件事件当夜、ディルームでテレビのイナズマンを見てから『まつ』の部屋に戻ったところ、Xがいなかったので同人を迎えに『さくら』の部屋に行った。『さくら』の部屋にはA子、G子、Xがおり、Xに声をかけたが帰ろうとしなかったので、『まつ』の部屋に戻って寝た」、「戻る途中でBと会い、Xが帰らないことを話した」、「イナズマンのときに、Xを『さくら』の部屋に連れて行った」というのである。

このCの供述内容は、本件と直接結び付く目撃事実というものではないが、A子の供述(「さくら」の部屋にXがいたこと、「さくら」の部屋にいるXをCが呼びに来たが、Xは帰ろうとしなかったこと)及びBの供述(Cに言われて、「さくら」の部屋にいるXを呼びに行こうとしたこと)を裏付けるという意味を持っているものである。

しかしながら、後記のとおり、Cは精神遅滞児であり、また、右供述内容は、証言時においてはそのすべてが出ておらず、捜査段階においても、最初からそのすべてが出ていたわけではなく、第二次捜査段階になってすなわち事件から約三年以上経って新たに供述されたものもあり、その信用性については、これらの諸事情を踏まえて判断する必要がある。

二  Cの能力等

1  Cは昭和三三年三月二四日生まれで、小学校の特殊学級を終了後、昭和四六年四月二七日(一三歳)甲山学園に入所したものであり、事件当時は一五歳一一か月で、青葉寮の「まつ」の部屋で起居し、証言当時は二二歳一か月ないし二二歳八か月で、丙丘園に入所していた。

甲山学園入所前の昭和四五年八月(生活年齢は一二歳四か月)兵庫県摂丹児童相談所での田中・ビネー式知能検査の結果によると、Cの知能指数は四八で、知能発育障害が著しく、中度の精神遅滞と考えられること、また、性格等は、自分の能力の範囲内では指示に従い素直に行動することが可能であり、気が弱く、言語は幼稚であることが指摘されている。

2  Cは、小学絞の特殊学級を終えて甲山学園に入所したものであり、知的能力は低く、言語は幼稚であった。事件当時は、生活年齢が一五歳一一か月で甲山学園に入所して約三年経っているのであり、C児童記録(当審弁七一)及びC証言における供述状況からみても、単語あるいは短い文章での答えではあるものの、他人との間での会話はできており、しかも、検察官が主張するCの供述内容というのは、Xを「さくら」の部屋に連れて行ったとか、一緒の部屋で生活しているXがいないので「さくら」の部屋に迎えに行ったがXは帰らなかったとか、部屋に帰る途中Bに出会って同人にXが帰らないことを伝えたというもので、いわば甲山学園での日常生活のひとこまといえる事柄であるから、このような事項であれば、Cにおいてそれを記憶し供述する能力はあるといえるのであり、この点に関して精神遅滞児であるからといってことさらに問題とすべき点はなく、Cの知的能力の低さを考慮に入れながら、捜査段階での供述内容、証言内容等からCの記憶の程度、供述能力を具体的に検討したうえで、その信用性を判断すれば足りる。

三  C証言の信用性

1  証人尋問の概要

Cに対する証人尋問(C証言。もっとも、Cは宣誓の趣旨を理解することができない者と認められ、宣誓はさせられなかった)は、期日外尋問として、いずれも神戸地方裁判所尼崎支部会議室において、第一回は昭和五五年四月三〇日午後一時一〇分から午後三時一〇分までの間検察官の主尋問と弁護人の反対尋問等が、第二回は同年一二月一日午前一〇時五分から午前一一時四五分までと午後一時五分から午後三時二〇分までの間弁護人の反対尋問と検察官の再主尋問等が、それぞれ行われ、各尋問には検察官が第一回は三名、第二回は四名、弁護人が第一回は一四名、第二回は二〇名出席した。

2  証言状況と証言内容の検討

(一) 主尋問について

(1) 検察官は、C証言について、「Cは、検察官の主尋問に対し、『本件事件当夜、ディルームでイナズマンを見てからまつの部屋に戻ったが、Xがいなかったのでさくらの部屋に迎えに行った。しかし、Xが帰ろうとしなかったので戻る途中、Bに会い、同人にXが帰らないことを話した』旨ほぼ捜査時における供述内容どおりの証言をした」旨主張する。

(2) しかしながら、C証言における主尋問の内容を子細に検討すると、次のとおり、検察官主張のように「ほぼ捜査時における供述内容どおりの証言をした」といえない面がある。

ア Cは、主尋問において、当初、「Xがいなくなった日に、ディルームでキャシャーンとイナズマンを最後まで見て、乙原先生がテレビを消したあと『まつ』の部屋に戻って寝た」旨供述し、引き続き、検察官が「(『まつ』の部屋に戻ったとき)誰がおったの」、「X君はいましたか、いませんでしたか」との質問をし、Cが「NはいたがXはいなかった」旨答えたので、検察官が「X君がいなかったので、C君はどうしたの」と質問すると、Cは「すぐ布団の中、寝ました」と答えたのであり、この尋問の際には、「さくら」の部屋にXを迎えに行ったことやBとの出会いについての供述は出なかった。

イ そして、検察官は、その後数回にわたってこれに関連する尋問をし、その結果、Cは、「『さくら』の部屋でXに帰ろうと言ったが、Xはいやがって帰らなかった。『まつ』の部屋に戻る途中、Bに出会った。BにXを連れて帰るように言い、『まつ』の部屋に戻って寝た」旨の供述をするに至った。

右供述をするに至った際の検察官とCの具体的なやりとりをみると、<1>「それじゃね、X君がいなかったときは、C君はどうするの」との質問に対し、「寝ました」と答え、<2>Xと仲良しの友達を質問されて、A子とG子の名前をあげ、二人の部屋を質問されて「『さくら』の部屋」と答え、<3>「X君はこの晩『まつ』の部屋には帰って来ましたか、来ませんでしたか」との質問に対し、「帰って来ませんでした」と答え、「C君はどうしたか」との質問に対し、「『まつ』の部屋へもどりました」と答え、<4>「C君は、X君がどこにいるのを見ましたか、見ませんでしたか」との質問に対し、「見ませんでした」と答え、<5>「C君は、この晩、A子ちゃんやG子ちゃんのところには行きましたか」との質問に対し、「行きました」と答え、「部屋にはだれがおりましたか」との質問に対し、「A子ちゃんとG子ちゃんがおりました」と答え、<6>「(『さくら』の部屋には)ほかにはだれかいましたか」との質問に対し、「分かりません」と答え、<7>「G子ちゃんは何をしていましたか」との質問に対し、「遊んでいました」と答え、「だれと遊んでいましたか」の質問に対し、「X君と遊んでいました」と答え、引き続いての検察官の質問に対して、Xに帰ろうと言ったがXはいやがって帰らなかったことや、Bに出会って話したことを供述したというものである。

ウ 結局、右主尋問における証言内容をみると、「イナズマンが終わってから『まつ』の部屋に戻って寝た」という供述と、それと一見矛盾する「『さくら』の部屋でXに帰ろうと言ったがXはいやがって帰らなかった。『まつ』の部屋に戻る途中Bに出会い、Xを連れて帰るように言い、『まつ』の部屋に戻って寝た」という供述があるだけであり、検察官が主張するような、この二つの供述をつなげる「『まつ』の部屋にXがいなかったので『さくら』の部屋にXを迎えに行った」という供述は出なかった。しかも、「さくら」の部屋での出来事については、「さくら」の部屋にXがいたことさえもなかなか供述が出ず、G子が誰と遊んでいたかと質問されて初めてXと遊んでいたという供述が出て、それから供述するに至ったものである。また、捜査段階におけるもう一つの供述である「『イナズマン』のときに、Xを『さくら』の部屋に連れて行った」旨の証言は結局出なかった。このようなC証言での主尋問の供述をみると、検察官の主張するような「ほぼ捜査時における供述内容どおりの証言をした」という評価はできないといわざるを得ない。

(3) この点について、検察官は、「尋問者にとっては質問方法や時間的制約のある法廷という場所では、そもそも、穏やかな雰囲気で、その能力、特性に応じて細かいステップをたどるという状況を作ることが困難であって、法廷での尋問という方法自体が精神遅滞児童から正確な供述を得るには必ずしも相当な尋問方法ではない」旨主張し、「Cに対する尋問においても、検察官の質問中に弁護人から次々に異議が出されるなど、Cにとって非常な緊張感が伴うものであり、その異議の中で、検察官の質問も必ずしも細かなステップを踏んだ質問とはなっておらず、その質問方法も、単に『それからどうしたの』という抽象的な質問をせざるを得ない状況下でなされたものである」旨、また、「Cの『まつ』の部屋に戻って寝たとの供述についても、もっと具体的に質問して確かめなければならないのに、弁護人の異議によりその質問ができず、やむなく、事件当夜に『さくら』の部屋に行ったことがあるか否かから質問をはじめた結果、その後の行動等について供述したものであり、十分信用に値するものである」旨主張する。

しかしながら、Cをはじめ本件での各園児に対する証人尋問については、これを期日外尋問として尋問場所を会議室にするなど相当の配慮のもとで行われたものであり、質問方法や時間的制約があることは証人尋問の性格上やむを得ないものであって、そのような制約があることを念頭におきつつ、証人の能力、性格等を考慮してその証言内容の信用性を判断すれば足りるのであるから、検察官主張のようにこのような証人尋問の方法自体が「相当な尋問方法ではない」ということはできない。

また、C証言における尋問経過をみると、弁護人から多くの異議が出されたことは事実であるが、その異議自体が不当なものであったとまでは認められず、また、異議が認められて検察官が尋問方法を変えなければならないこともあったが、そのことにより検察官の尋問方法がことさらに制限されたり抽象的な質問しかできなくなったわけではないのであり、そのようなやりとりの中でもCはそれなりの答えをしているのであって、Cの応答には異議が出たり尋問方法が変わることによる影響が顕著に認められるわけではない。

これに以下で検討するCの反対尋問の結果をも考慮すると、Cの供述内容を検察官が主張するような理由をもって十分信用できると解釈することは相当ではないといわざるを得ない。

(二) 反対尋問について

(1) 問題の所在

ア そこで、次に、C証言における反対尋問の状況をみると、主尋問と異なり、Cが「分かりません」と答えることが多くなり、あるいは、その体験した場面を違えて答えたりしている状況が顕著にみられるのであり、Cの記憶能力や供述能力を判断するうえで問題とすべき点が明らかになっているといえる。

イ この反対尋問について、検察官は、「弁護人の尋問が必ずしも時間的順序にしたがってなされておらず、尋問途中で他の事柄を質問したり、また、具体的なCの行動内容を聞く中で、一般的、抽象的な事柄についての尋問を挟むなどしたため、同人が時間的前後関係等について混乱した結果にすぎないと思われる」旨主張する。

確かに、弁護人の反対尋問の中には右のような尋問があること、Cが時間的前後関係等について混乱しているのではないかとうかがわせる供述があることは一応認められるところである。

しかしながら、右のような尋問を受けて種々の供述をするCの供述態度こそが問題なのであり、その供述の信用性の評価を慎重にすべき事情の一つというべきであり、検察官主張のように、「右のような混乱状態になってはいるものの、各場面の具体的状況についてははっきりと供述している」として、「Cがその記憶に基づいて事件当夜の出来事を供述していることは明らかである」というには大きな疑問がある。しかも、Cの反対尋問での供述状況は、次にみるように、右の弁護人の質問の仕方だけで説明することはできない。

(2) Cの供述傾向

ア すなわち、右の点も含めて具体的にみると、例えば、Cは、<1>証人尋問当時に入所していた丙丘園での生活に関する具体的質問についても分からないと供述することが多く、直近の出来事でも分からないと供述し、また、丙丘園でのことを質問したうえで甲山学園のことを質問すると、客観的事実と異なることを供述することもあり、Cの記憶保持能力が弱いことをうかがわせる。

また、<2>甲山学園での生活状況に関しても、主尋問に出た以上のことを具体的に(例えば、園児のこと、遊びの内容、テレビの番組、Xの世話の内容など)質問すると「分からない」と答えることが多くなり、また、質問の趣旨を十分理解しないまま、捜査段階等で出てきた人物、出来事に固執して供述しているのではないかと思われる供述をするなど、証言時の記憶に基づいて証言しているのか疑問を抱かせるものになっている。

イ 右<2>について、さらに具体的に指摘すると、Cは、主尋問では甲山学園当時の園児の名前をいろいろあげているにもかかわらず、反対尋問においては、具体的な交友関係を質問されたり遊びの内容を質問されても答えることができず、好きな友達を質問されると、「NとX」をあげ、さらに女子については「A子とG子」をあげ、それ以外の友達については分からないと答えている。右の「NとX」というのはCの同室の園児であり、捜査段階でも繰り返し名前が出た園児であり、しかも、好きな女友達として、Cが遊んでいなかったことがうかがわれる「A子とG子」をあげていることを考えると、Cは質問の趣旨とは関係なくこれまで幾度となく聞かれてきた園児の名前を答えているのではないかとの疑いを持たざるを得ない。そして、このことは、主尋問においても、Xがよく遊ぶ友達を聞かれて、G子とH子であるはずのところを、「A子とG子」と答えており、ひとつの言葉として「A子とG子」をあげているのではないかと思われることからも推測できるところである。

そして、同様のことは、甲山学園にいるころに見たテレビ番組についても、ほとんど具体的に答えることができないのに、イナズマンとキャシャーンという答えを質問の趣旨が異なっていても答えていることからもいえるところである。

ウ これらを含めてC証言をみると、弁護人の「Cが供述する内容は、状況や場面と結び付いているというより、特定の言葉に強く結び付いているところがあり、繰り返しにより覚え込んだ事柄、日常生活で体験している事柄などが、状況や場面と無関係に供述にあらわれてくる」旨の指摘は一概に否定できないところである。

(3) 右供述傾向のあらわれとしてのBとの出会いに関する供述

ア そして、右の弁護人が指摘するCの供述傾向は、Cが、Bとの出会いについて、場面が異なるのに具体的な質問を受けることによって同一内容のBとの出会いを供述していることに顕著にあらわれている。

すなわち、検察官の主張するCの供述によれば、CがBと出会うのは、「ディルームでテレビのイナズマンを見てから『まつ』の部屋に戻ったところ、Xがいなかったので『さくら』の部屋に行き、『さくら』の部屋でXに声をかけたが帰ろうとしなかったので、『まつ』の部屋に戻ろうとした、その途中」ということになる。

ところが、弁護人の反対尋問の際には、<1>晩ご飯を食べてから「まつ」の部屋に戻り、それからテレビを見に行ったとの供述が出た際に、「スチームの前は通って行ったんですか」との質問に「スチーム通って行きました」と答え(通らずに行くのが自然なのだが)、「途中で誰かに会いましたか」との質問に、「B君に会いました」と答えている。そして、この出会いでもBとの会話は「X君連れてこい、言いました」というものであり、同一場面を供述していると思われる。

これに引き続いて<2>「それからC君はどうしたんですか」との質問に対し、「『さくら』の部屋、捜しに行きました」と答え、「さくら」の部屋でXに声をかけたこと、Xが帰らなかったので「まつ」の部屋に戻ったことを供述し、「『まつ』の部屋に廊下を通って帰る途中何かありましたか」との質問に対し、「B君、会いました」と答え、「今さっきもB君と会ったんでしょう」との質問に「はい」と答え、「また会ったんですか」との質問にも「わかりません」と答えている。

さらに、<3>テレビを見てから「まつ」の部屋に戻る場面で、「ディルームから『まつ』の部屋に帰る時、スチームの前は通りますか、通りませんでしたか」との質問に「通りました」と答え(通らずに帰るのが自然なのだが)、「『まつ』の部屋に行く時に、途中でどんなことがありましたか」との質問に「分かりません」と答え、「だれかに会いませんでしたか」との質問に対し、「B君に出会いました」と答え、この出会いでもBとの会話は「X君連れて帰れと言いました」というものであった。

イ このように、Cは、「スチームの前を通ったか」とか「『まつ』の部屋に行く途中」の質問をしたうえで、「誰かに会いませんでしたか」との質問をすれば、その場面が異なっていてもBとの出会いを供述するのであり、そのことに矛盾とか不自然さを感じていないことがうかがわれる。このことは、Cが証言時の記憶に基づいて供述しているというよりも、固定化された記憶に基づいて、ある言葉を引き金に供述しているのではないかとの疑いを払拭できない。

ウ この点について、検察官は、「Cの右供述は、明らかにその後のCが証言する自己の行動と矛盾するものであり、証言内容自体から、CがBと出会った事実の時間的前後関係を混同して供述していることが明らかであって、その時点において、きめ細かい、ステップを踏んだ質問を行うことによって、同人の記憶状態がどのようなものであるかを明らかにし、同人から正確な証言を求めることができた可能性も十分にあった。しかるに、弁護人は、単に『今さっきもB君と会ったんでしょう』、『また会ったんですか』と質問したのみで、Cが、『分かりません』と答えると、それ以上の質問を打ち切ってしまっているのであり、Cから正確な供述を得ようとする試みが何らなされていない。したがって、この弁護人の尋問に対するCの証言内容のみをとらえて、同人に供述能力、理解能力が欠落していると断定することはできない」旨主張する。

しかしながら、検察官の右主張はとることができない。すなわち、検察官は、Cの右証言を「Cが時間的前後関係を混同して供述していることが明らかである」としているが、そもそもBと出会った旨のCの供述が信用できるのか、そのような事実が一九日にあったのかを問題にしているのであり、右のような矛盾した証言をしていることをどう評価するのかということであるのに、その事実があったことを前提にしたうえ、Cが時間的前後関係を混同して供述していることが明らかであると主張することは、それ自体相当とはいえない。

しかも、検察官は、「きめ細かい、ステップを踏んだ質問」を行えば正確な証言を得ることができると主張するが、そもそも、Cが供述している出来事は、前記のとおり、甲山学園での日常生活のひとこまといえる事柄であり、何ら複雑なものではなく「きめ細かい、ステップを踏んだ質問」でなければ正確な供述ができないような事柄ではない。むしろ、「きめ細かい、ステップを踏んだ質問」を行うことは、尋問者の質問の組み立て方、質問内容により、ある一定の方向に供述を導く危険性が高い。

(4) 特定の日の出来事として供述していないのではないかとの疑問

ア さらに、Cの反対尋問での供述内容をみると、CがXがいなくなった日の出来事として供述している事柄について、Cが、その特定の日を記憶していて、その日の出来事として供述しているのか疑問を抱かせるものとなっている。

すなわち、主尋問では、XがいなくなったのはCが中学三年生の三月であることをCが供述し、検察官が「X君のいなくなった日のことについて聞くよ」と質問し、Cが「はい」と答え、一連の質問が行われている。しかしながら、この「Xがいなくなった日」というのがどの程度Cに認識されているのかについて、例えば、反対尋問では、XとY子が今どこにいるのか、どうなったのかとの質問に対していずれも「分かりません」と答え、Xが夜「まつ」の部屋に帰ってこなかった日はあったかどうかも分からないと答え、職員がXを探していたことについても分からないと答え、また、Xがいなくなった日のことを聞いているときとかその後のことを聞いているときにも、Y子の名前が出てくるのであり、これらに照らすと、Cが「Xがいなくなった」ことをどの程度認識しているのか疑問であり、「Xがいなくなった日」ということで特定された日をCに認識させることができるのか疑問である。

このことは、「Xのいなくなった日のこと」として、例えば、各部屋での状況を具体的に聞いていっても具体的な供述が得られなかったとか、食堂にY子がいたとか、「さくら」の部屋にY子、B1、Dがいたとか事実とは考えられない供述をしたり、Xの服装について、「線が入った草色の服、半袖、チョコレート色の長ズボン」と事実と異なると思われる供述をしていることなどからもうかがえる。殊に一般的な質問をしたうえで、例えば「この晩はどうか」とか聞くことにより、Cが特定の日のことと一般の日のことを区別して供述することができるのかについては、右供述内容をみると疑問を感じざるを得ない。

イ この点については、検察官は、「証言が一部混乱していることをもって、同人に特定の日の出来事について供述をする能力がないとはいい得ない」旨主張し、右指摘の点については、「Xがいなくなった日の夜の夕食時にY子がいたと受け止められるような供述をしているが、それは、Xのいなくなった日の言葉の意味を理解出来なかったというよりも、弁護人の質問の意味が十分に分からないままに証言したものと思われる」旨主張する。

しかしながら、右に指摘したのは、「Xがいなくなった日」ということでCに特定の日を認識させることができるのか、Cが特定の日を認識しその日の出来事として供述しているのか、そのことについての疑問であり、「Cが特定の日の出来事について供述をする能力がない」ということをいっているのではない。また、右に指摘した証言内容からも明らかなように、「弁護人の質問の意味が十分に分からないままに証言した」ことでは説明できないものであり、検察官の右主張は理由がない。

(5) 被誘導性と被暗示性

また、Cには、被誘導性と被暗示性がみられる。このことは、これまでみてきたCの証言内容(例えば、ある質問を組み立てることにより、スチームの前を通らなくてもよいのに通ったり、Bとの出会いを供述した)からもいえることであるが、他にも、例えば、Cは、第二次捜査段階において「『まつ』の部屋に戻ってからディルームに行った」旨の供述をしており、この供述については主尋問では供述されなかったことであるが、反対尋問において、「今さっきからお話してくれている晩に、マーブルチョコレートを半分もらったことはないですか」との質問に「ありました」と答えるのであり、しかも、「乙野先生からもらった」と事実とは異なると思われる供述をし、再主尋問では、マーブルチョコレートがどういうものか分からないと答えたり、マーブルチョコレートは食べていないと答えたりしていることからもうかがえるところである。

3  C証言の評価

以上検討したように、C証言は、検察官の主尋問においても、検察官が主張する事実のすべてが出たわけではなく、また、その証言内容と一見矛盾したものとなっており、さらに、弁護人の反対尋問に対する証言からすると、Cが証言時の記憶に基づいて供述しているのか、特定の日を記憶していてその日の出来事として供述しているのか、いずれも疑問を抱かせるものとなっており、Cの被暗示性、被誘導性の強さをうかがわせる供述がみられることにも照らすと、極めて信用性に乏しいといわざるを得ない。

しかしながら、検察官が主張するCの供述内容は、捜査段階においてそのすべてが供述されており、検察官は、証言に出た事項も含め、いわゆる二号書面として52・5・11検面(検四五五)、52・5・21検面(検四五六)を請求し、その内容が信用できる旨主張しているのであるから、C証言の信用性を真に判断するためには、捜査段階における供述の信用性の検討が不可欠である。

そこで、以下においては、捜査段階におけるCの供述を中心に、右証言内容も含めてその信用性を検討する。

四  Cの捜査段階における供述の信用性

1  はじめに

Cについては、昭和四九年八月二九日に警察官から事情聴取されて捜査復命書一通(49・3・29捜復弁一六六)が作成され、また、同年中に検察官により供述調書四通(49・4・9検面弁一七四、49・4・21検面弁一七五、49・5・28検面弁一七六、49・9・11検面弁一七八)、司法警察員により供述調書四通(49・4・2員面弁一六八、49・5・31員面弁一六九、49・6・13員面弁一七〇、49・7・30員面弁一七一)、検察官により実況見分調書一通(五月二八日実施、六月七日付弁一七七)が作成され、第二次捜査段階の昭和五二年以降には、検察官により供述調書二通(52・5・11検面弁一七九、52・5・21検面弁一八〇、いずれも二号書面として検四五五、四五六)、司法警察員により供述調書二通(52・5・7員面弁一七二、53・3・31員面弁一七三)、警察官により捜査復命書一通(52・6・13捜復弁一六七)が作成されている。

そして、検察官が主張するCの供述内容は、大きく分けると、<1>ディルームでテレビのイナズマンを見てから「まつ」の部屋に戻った、<2>Xがいなかったので同人を迎えに「さくら」の部屋に行った、<3>「さくら」の部屋にはA子、G子、Xがおり、Xに声をかけたが帰ろうとしなかったので、「まつ」の部屋に戻って寝た、<4>戻る途中でBと会い、Xが帰らないことを話した、<5>イナズマンのときに、Xを「さくら」の部屋に連れて行ったというものであるが、右供述調書等においては、そのすべてが当初から出ていたものではなく、<1>ないし<3>については第一次捜査段階から出ているが、<4>及び<5>については事件から三年以上経った第二次捜査段階において出てきたものである。このような供述の出方に加え、それぞれの供述内容に変遷がみられたり、その他の部分に客観的事実と異なる供述や不自然な供述がみられるなど、その信用性については疑問点が多く、慎重な検討が必要である。

2  Cの供述における根本的な疑問

Cの捜査段階における供述をみると、その信用性を検討するうえでの根本的な疑問として、次の点を指摘することができる。

(一) 職員らに対してXに関する事実を何も話していないこと

一つは、Cは、事件当夜Xを捜している職員らに対してXに関する事実を何も話していないということである。

(1) すなわち、検察官が信用できると主張するCの供述内容によれば、Cは、Xを「さくら」の部屋に連れて行った人物であり、その後、Xを「さくら」の部屋に迎えに行ったが帰らなかったというのであり、Xが「さくら」の部屋にいたことは十分分かっているのであり、それもほんの少し前の出来事であるということになる。ところが、他方、Cは、そのXに関することをXを捜していた職員に何も話さなかったことが認められる。つまり、乙野は、乙野証言において、「子供が各部屋に入ったか確認していたが、『まつ』の部屋をみると、NとCはいたがXはいなかった。Cはパジャマに着替える就寝準備をしていた。Cに『X知らんか』と聞いた。Cは『知らん』と答えた」旨供述し、また、その後Xを捜した乙原は、乙原証言において、「男子棟で起きている子で記憶があるのは『まつ』の部屋のCとNで、Cはふとんの中に入っていた。Cに『Xは』と聞くと、『おらんで』と言ったと思う」旨供述している。

職員であった乙野や乙原が、Cの理解できない言葉で尋ねるとは考えられず、Cは、その程度は別としても、Xの世話を頼れているものであり、乙野らの問いかけがXの所在を聞いているということは十分理解できていたと考えるのが妥当である。それにもかかわらず、Cは、その問いかけに対して、「知らない」あるいは「いない」とXの所在を知らない趣旨の答えをしているのであり、このことは、前記第五の四の1でも検討したように、その後の捜査段階でのCの供述の信用性に疑いを抱かせるものであるといわざるを得ない。

(2) この点について、検察官は、「乙野はCに対して『X知らんか』と聞いたのであり、それ以上の問いかけを行っていないのであり、精神遅滞児童には、情緒両の発達が遅れているので自分以外の外界の事象に無関心な傾向が強く、自己防衛の姿勢が強く、知っていることでも『知らない』と答えたりすることがあることを考えれば、乙野の問いかけが十分なものでなかったために、同人からXについての答えが得られなかったことも考えられ、必ずしも不自然なものではない。むしろ、自己防衛の姿勢が強いという精神遅滞児童の特質を考えれば、非常に自然なものである。つまり、『まつ』の部屋における年少児童の就寝介助を任されていたCにとって、乙野に対してXが『さくら』の部屋にいることを述べることは、自己が年少児童の就寝介助を十分に行っていなかったことを自ら認めることになるものであり、乙野からの注意あるいは叱責を回避するため、Xについて『知らない』と述べることは、まさにCにとっては自然な言動と考えられる」旨主張する。

しかしながら、問いかけが十分なものではなかったとか精神遅滞児の特質の点については、前記のように、乙野や乙原がCの理解できない言葉で尋ねるとは考えられず、また、その事項もXの所在という理解の困難なものではなく、Cにおいてもその程度の言葉で聞かれていることは十分理解できるものであり、乙野らの尋ね方が十分なものとまではいえないにしても、このことが問題とはいえない。

また、Cは、乙野らの問いかけに対し「知らない」と答えていること、検察官の主張によれば、Cは、部屋にいないXをわざわざ「さくら」の部屋に迎えに行っているということに照らすと、Cが自分以外のことに無関心な傾向が強いといえるのか疑問であるうえ、日頃一緒にいる職員から、自分が世話をすることになっているXのことを尋ねられたのであり、検察官主張の特質が精神遅滞児に一般的にあることを前提にし、その一般論でそれを説明しようとすること自体妥当なものとはいえない。

さらに、乙野からの注意あるいは叱責を回避するための言動として自然である旨の主張については、そもそも、Cが行っていたXの就寝介助の内容が、検察官が主張するような関係(きちんとしていないと注意あるいは叱責されるという)にあったのかは、後記のとおり疑問があり、しかも、検察官の主張は精神遅滞児の特質という一般論からの単なる推測でしかなく、Cの言動を自然なものという理由としては弱いといわざるを得ない。

(3) 以上を総合すれば、Cが事件当夜職員らに対してXに関する事実を何も話していないということは、その後にXに関して供述した事柄については事件当夜の出来事ではないのではないかとの疑いを抱かせるものといわざるを得ない。

(二) 事件から約三年以上経って新たな供述をしていること

もう一つは、Cがいわゆる新供述をするに至った時期、つまり、事件から約三年以上経った第二次捜査段階において、それまで供述していなかった新たな事実を供述していることである。

(1) すなわち、Cは、52・5・11検面において、これまで供述していなかった<1>Xを「さくら」の部屋に連れて行ったこと、<2>「さくら」の部屋から戻る途中にBと出会ったこと、<3>「まつ」の部屋に戻り、その後ディルームに行きマーブルチョコレートを半分こしたことを供述している。

右<1>ないし<3>の出来事は、前記のとおり、甲山学園内での日常生活のひとこまといってよく、ことさら特異なものとはいえず、特に記憶に残りやすい出来事ともいえないものである。そして、Cは、第一次捜査段階においても少なくとも一〇回は事情聴取を受けていたものであるが、その段階では右<1>ないし<3>の出来事は一切供述していない。しかも、右<1>、<2>に関連する出来事である「まつ」の部屋にXがいなかったので「さくら」の部屋に迎えに行ったこと、Xが帰ろうとしなかったので「まつ」の部屋に戻ったことは、第一次捜査段階においても供述している。それにもかかわらず、事件から約三年以上経って初めて右<1>ないし<3>の出来事を供述しているのは、いかにも不自然であり、Cの供述に対して大きな疑問を抱かせるものといわざるを得ない。

(2) この点について、検察官は、「昭和五二年五月一一日の事情聴取をした検察官である加納のCに対する取調べは、その前に得られたBの供述の真偽を確かめるために行われたものであり、その点に焦点を合わせて質問をしていったことから、Cが右供述をなし得るに至ったのであり、それ以前において、Cが取調官に右供述をしなかったことは、適切な質問がなされなかったからと思われ、何ら不自然なものではなく、その供述時期が事件後約三年を経過しているとしても、同人の供述の信用性に影響を及ぼすようなものではない」旨主張する。

しかしながら、Cが新たに供述した右<1>ないし<3>の出来事というのは、何ら複雑であるとか特異なものではなく、捜査官が焦点を合わせて具体的に聞かないとその全部が出てこないような事柄であるのかそもそも疑問である。これらの出来事はそれぞれが独立したものではなく一連のものであり、その一連の出来事の流れの中にありその中心となる「さくら」の部屋にXを迎えに行ったがXは帰らなかったという事柄は既に第一次捜査段階において出ているのであり、新たに供述された出来事はそれに関連する前後の状況であって、その一部について、検察官が主張するような「部屋に戻る途中で誰かに会わなかったか」とかの具体的な質問をしない限りは出てこないというものとは考えがたい。

しかも、捜査官は、当然種々の角度から種々の形で質問をして事情聴取を行うのが通常であると考えるのが相当であり、供述調書にその旨の記載がないからといって、具体的な質問がなされなかったという評価は相当ではない。

すなわち、Cの証言内容をみると、Cの能力からして、「それでどうしましたか」というような質問ではCから十分な答えを得ることが難しく、もう少し具体的に質問すれば答えが得られる場面があることが認められるのであるが、Cの供述調書(問答形式の)中には、員面、検面双方ともに「それからどうしましたか」とか「それでどうしましたか」との質問がいくつもみられ(例えば、弁一六八、一七三、一七四、一七六など)、Cはその質問に即した答えをしているのであって、その答えに至るにはある程度具体的な質問をしているのではないかと考えざるを得ない。加えて、Cの供述調書中には、Xが帰るのをいやがったとの供述に続いて、「君はどうしたか」(49・4・2員面、49・4・9検面)、「部屋に帰るとき、どこを通って帰りましたか」、「ディルームの中を見ましたか」(49・6・13員面)、「帰るときディルームを通ったのですか、玄関の方ですか」(52・5・7員面)との具体的といえる質問が記載されており、また、やや場面は異なるものの、49・4・9検面ではより具体的に「君が、G子ちゃんの部屋にX君を探しに行った時、途中で誰かに会いましたか」との質問があり、「会っていない」と答えた記載がある。

これらを総合すれば、三年以上も供述しなかった理由を捜査官の質問の仕方に求めるのは、妥当ではない。

(3) なお、検察官が主張するような焦点を合わせた具体的な質問をすることは、一面では必要なことではあるが、前記のようなC証言から推測されるCの記憶能力、供述能力等(殊に記憶保持能力が低く、被誘導性や被暗示性が強いこと)に照らすと、事件後間もないころであればまだしも、時が経てば経つほど、そのような具体的質問をしていくことにより記憶に基づかない誤った供述を引き出す危険性が高くなるのであり、焦点を合わせた具体的な質問をすることがCの供述の信用性を担保するものでないことは明らかである。

殊に、検察官の主張によれば、加納の右事情聴取は、その前に得られたBの供述の真偽を確かめるために行われたというのであるから、焦点を合わせた具体的な質問というのが、具体的なBの供述を念頭においてなされるのであって、右の危険性はより大きいといわざるを得ない。

(4) また、検察官は、「昭和五二年五月一一日の加納の取調べ状況について、加納は、Cが精神遅滞者であることから、暗示、誘導にわたらないよう慎重に配慮し、丙丘園の職員を常時立ち会わせるなどして取り調べているものであって、加納が誘導したり、暗示したり、あるいは供述内容を教えたりして供述させたものではない」旨主張する。そして、加納が、右のように、暗示、誘導にわたらないよう慎重に配慮し、丙丘園の職員を常時立ち会わせるなどして取り調べたことは加納証言により一応認められるところである。

しかしながら、問題はそのような取調べ状況にだけあるのではなく、そのような慎重な取調べに加え、前記のようなCの記憶能力、供述能力等から、真にCが記憶に基づきあるいは記憶を喚起して特定の日の出来事として供述しているのかを検証しながら取り調べるべきであったのであり、加納証言によっても、この点に関して十分な配慮がなされたとはいい難いものがある。

また、質問の仕方による暗示、誘導という点について、検察官は、加納において暗示、誘導がなかった旨主張するが、弁護人の指摘する点、すなわち、「52・5・11検面では、場面を変えて同じ質問を繰り返し、その繰り返しの途中で特定の言葉、右取調べでは『男便所』、証人調べでは『さくらの部屋』、『X』、『スチーム』を、意識的に散りばめ、また、尋問の流れと関係なく、日常的な出来事を尋ねているかのような質問をはさみ、特定の言葉を引き出すなどしている」旨の指摘が、供述調書の記載内容及びC証言の際の加納の尋問状況からは一概に否定できないのであり、暗示、誘導の点において、意図したか否かは別として、このような意味において適切ではない尋問が行われたと評価せざるを得ない面がある。

したがって、検察官の右主張事実だけから、暗示、誘導がなかったということには疑問があり、検察官の右主張はとれない。

(5) さらに指摘しておかなければならないのは、Cが新たな供述をするに至ったのは昭和五二年五月一一日の検察官による事情聴取の際であるが、その四日前である同月七日にも警察官による事情聴取(52・5・7員面)が行われており、その際には右のような新たな供述は一切出ていないということである。しかも、その際の質問の中には、前記の「帰るときディルームを通ったのですか、玄関の方ですか」とのより具体的な質問もなされているのに、その際には供述せず、その四日後に新たな供述をするのは、捜査官の質問の仕方では説明できず、不自然としかいいようがない。

この点については、次のことが指摘できる。すなわち、この同じ昭和五二年五月七日には、同じ丙丘園においてBの事情聴取も行われており、その際、Bは、CがXを「さくら」の部屋に連れて行った事実、「さくら」の部屋に行くきっかけとしてのCとの出会い事実、被告人とXを目撃した後のこととしてディルームで園児らがマーブルチョコレートを食べていた事実を供述しているということである。Bは、昭和四九年六月に丙丘園に入所したものであり、B児童生活記録によれば、昭和五一年二月、やはり甲山学園にいて丙丘園に入所していたCと二人が一緒にいて甲山学園の話をしていた旨の記載があることからもうかがえるように、同じ甲山学園にいたことのあるCとよく話をし、それも、前記のBの多言的傾向からすれば、Bの方から積極的に話す形であったと思われる。そして、Bと同じ日にCも事情聴取を受けているのであり、BとCの間でそれに関する話が出た可能性は極めて高いと思われる。Cは、右五月七日の事情聴取の際には述べていなかった事柄を、それもその日にBが述べていた事柄を、その四日後の丙丘園での事情聴取の際に供述している。これに、前記のBの供述の真偽を確かめるためという加納の事情聴取の目的をあわせ考えれば、Cの供述についてはBの供述の影響があったと推測できるのであり、このことによって右四日後に供述したことが合理的に説明できる。

(6) 以上を総合すれば、Cが第二次捜査段階になってからそれまで供述していなかった新たな出来事を供述したということは、その出来事については自己の記憶に基づかないものではないかとの疑いを抱かせるものといわざるを得ない。

3  第一次捜査段階において出たCの供述の検討

(一) 供述の概要と問題の所在

Cの「さくら」の部屋におけるXの目撃状況及びその前後の自己の行動状況に関する第一次捜査段階における供述は、「イナズマンのテレビを見てから、『まつ』の部屋に戻ったが、Xがいなかったので『さくら』の部屋に迎えに行った。しかし、Xが帰ろうとしなかったので、『まつ』の部屋に戻った」というものであり、これは、A子の供述の裏付けとなる供述であるが、検察官は、「右供述内容については、本件事件後の昭和四九年三月二九日の供述からC証言まで一貫しており、信用性があることは明らかである」旨主張する。

Cに関しては、事件の一〇日後である昭和四九年三月二九日に事情聴取された際の捜査復命書(49・3・29捜復)が作成され、右捜復には、「X君が居らなくなったとき、僕はその日の午後八時頃までディルームでテレビを見て、テレビの上にある大きな時計が八時になったので、その時間が寝る時間であったので、X君を見に行ったら、X君は女の子の桜という部屋で、G子ちゃん、A子ちゃんと三人で部屋の中でおっかけごっこをしてるのを見たが、それから僕は部屋に帰って寝た」との記載がある。そして、最初の供述調書である49・4・2員面において前記供述がなされ、それ以降この点に関する供述は第一次捜査段階及び第二次捜査段階でも基本的には維持され、証言においても一応維持されている(もっとも、この点に関する供述内容の評価は前述のとおりである。)

このように供述が一貫して維持されているということは、一般的にはその供述内容の信用性を高めるものといえるのであるが、Cの供述については、以下に検討するような供述内容、Cの能力、捜査状況等から種々の問題点が指摘できるのであり、右のように基本的には右供述が一貫して維持されているからといって、直ちに信用性があるということはできない。

(二) 供述事項からの検討

まず、Cの供述する事柄というのは、前記のとおり、Xが「さくら」の部屋でG子、A子とおっかけごっこをしているのを見たというものであり、いわば甲山学園内における日常的な出来事であり、特定の日の出来事と混同しやすく、また、一般的には記憶に残りにくい出来事に関する供述である。

そのうえ、Cは、乙野らがXを捜していることを知りながら翌朝まで寝ており、Xの行方不明ということについて重大な出来事と感じていなかった(XやY子がどうなったのか分からないとのC証言からもうかがわれる)のではないかと思われるのであり、Xの捜索が始まる前の日常的な出来事について記憶に残すような事情は見あたらない。また、Cは、事件後の三月二〇日ころ甲山学園から自宅に帰り、その後丙丘園に入所したものであり、証拠上は、事件後、右捜復が作成されるまでの間に一九日のことについて事情聴取を受けるなどして記憶を喚起する機会がほとんどなかったと思われる。

以上に加え、前記で検討したように、Cは記憶保持能力が低いとみられることに照らすと、Cが、約一〇日経過した三月二九日に、一九日の出来事として右捜復に記載された事実を記憶していたのか疑問を抱かざるを得ないのであり、右捜復記載内容の信用性については慎重な検討が必要である。

(三) 49・3・29捜復の記載状況からの検討

49・3・29捜復の記載をみると、「話を断片的に聞いた」とあることや、捜査復命書であるという限界はあるものの、極めて概括的な記載しかなく、具体的内容に乏しいものとなっている。しかも、XはG子と仲が良く、「さくら」の部屋でよく遊んでいたこと、CはXの世話をしていたことからすれば、Xが「さくら」の部屋にいてそれをCが迎えに行くことは何ら特別な出来事ではなく、その中心となる供述である「さくら」の部屋にXがいたことについては、右捜復以前において、Bに関する49・3・26捜復及びA子に関する49・3・27捜復に記載がある事柄なのであり、捜査官が知り得た事実である。

もっとも、この点について、検察官は、「三月二九日の事情聴取にあったのは、初動捜査の応援に来ていた機動捜査隊員であり、本件事件についての情報をあまり持たず、一般的な事情聴取の指示しか与えられていない機動捜査隊員が、Cの事情聴取にあたって、特定の供述を同人に行わせるように誘導するということは到底考えられない」旨主張する。

しかしながら、右捜復を作成したのが機動捜査隊員であることは認められるが、前記のとおり、機動捜査隊員であるといって検察官主張のようにいうことはできず、殊にCの場合は兵庫県氷上郡氷上町の自宅にまで赴いて事情聴取がなされているのであり、情報を持たないでわざわざ赴いたとは考えられない。また、「特定の供述をCに行わせるように誘導する」という直接の誘導だけを問題にしているのでないことは、これまでも説示したとおりであり、一面では、応援であったということから、精神遅滞児である各園児の能力に応じた適切な事情聴取を行うという配慮が十分なされていなかった可能性も否定できず、明らかな誘導でなくても、質問の仕方、態度による種々の影響があった危険性が高いともいえる。

(四) 49・4・2員面の記載内容からの検討

最初の供述調書である49・4・2員面には、前記供述内容のほか、Y子のこと、Xのこと、Xがいなくなった日のことについての記載がある。しかしながら、その内容を見ると、弁護人が指摘するように、そのほとんどが捜査官が当時知り得た事実であり、わずかにそうでない事実として記載されている「Xの服は、入浴の時僕が着せた紺色セーター、青色ズボン」についてはむしろ客観的事実と異なっている。これに、次で検討するCの供述の変遷状況を照らし合わせると、49・4・2員面の記載内容についてはその信用性に疑問を抱かざるを得ない。

この点について、検察官は、「大内による園児の事情聴取は、対象園児を特定することなく、知的能力の高そうな園児を重点的に行ったもので、その中にたまたまXの同室園児Cがいたというものであり、Cに対する事情聴取経緯には何ら意図的なものはなく、また、大内が、それまでのCあるいはこれに関係する園児の供述につき、何ら情報を持たないまま事情聴取を行っている」旨主張する。しかしながら、大内の園児捜査については、前記A子の供述の検討の際に判断したとおり右の点に関する大内控訴審証言は信用できないのであり、検察官の右主張は理由がない。

(五) 供述内容の変遷等からの検討

そこで次に、49・3・29捜復及び49・4・2員面とその後作成された供述調書の内容をみてみると、次のとおり、供述内容は詳細になってはいくものの、変遷や矛盾、不自然な供述がみられるのであり、Cが記憶に基づいて事件当日のことを供述しているのか疑問を抱かざるを得ず、その信用性に乏しいものとなっている。

(1) 「さくら」の部屋でXらが何をしていたかについて、.49・3・29捜復、49・4・2員面では「おっかけごっこ」であったのが、49・4・9検面では「先生ごっこ」となり、49・5・28検面では「G子とXは向かい合って座っていた」、49・6・13員面では「Xはグランドの方の壁のところに立っていた」とあり遊びの内容は出てこず、52・5・21検面では「Xはふとんを入れる戸の中にいた」となっており、遊びの内容、Xの様子がいずれも変遷している。

遊びの内容が理由もなく変遷するのは不自然であるといわざるを得ないが、この遊びの内容については、Bに関する49・3・26捜復では「先生ごっこ」、A子に関する49・3・27捜復では「トランプ遊び」となっており、それぞれ異なる遊びを供述していたものであり、Bについては49・4・11検面まで変遷はなく(それ以降には記載がない)、A子については「トランプ遊び」というのは右捜復だけであることに照らすと、Bの右供述に影響されたと考えるのが自然である。

また、その後遊びの内容が出てこなくなり、Xの位置が変遷するのも不自然であるが、Xの状況について、A子は49・4・8検面以降Xが押し入れの中にいた旨供述し、49・5・21検面では、Cが帰ってからのことではあるが「XとG子は向き合って座っていた」とあることに照らすと、A子の供述に影響されながらも確定しがたい事項として残った可能性が否定できない。

(2) CがXに声をかけたことについて、49・3・29捜復では見たというだけで声をかけたかどうかは出てこず、49・4・2員面では「寝ようやと言った」、49・4・9検面では「帰ろうと言った」、49・5・28検面、49・6・13員面では「早く帰っておいでと言った」と変遷している。

この点については、ことさら指摘するほどの変遷ではないとの見方もできるが、CがXを迎えに行ったことを示す状況として無視することはできない。どのような言葉をかけたかは、C自身が一番知っていることであり、Cの供述によるところが大きいのであるが、それが一定していないことは、やはり不自然である。なお、A子の供述をみると、A子の49・4・8検面で「CがXに寝ようと言った」旨が出てくる。

(3) Xの衣服について、49・3・29捜復では何も記載がなく、49・4・2員面では「入浴の時僕が着せた紺色セーター、青色ズボン」とだけあり、49・4・9検面ではじめて迎えに行ったときのXの衣服として「青いシャツを着て、青いズボンをはいていた」ということが出たが、49・7・30員面では「茶色のズボン。スモックは着ていなかった」と変わり、49・9・11検面では「上は青い服。前に、青シャツとも青いセーターとも言っているが、同じこと」となっている。

ズボンの色について、当初はXが死亡したときにはいていた茶色とは異なる青色と供述していたのが、49・7・30員面に至って茶色と変遷しているが、これは七月三〇日に現実に茶色のズボンを示されて「X君がはいていたズボンはどのズボンですか」との質問に対して「今見せてもらった茶色のズボンです」と答え、しかも、その前には黒ズボン二着を示されて「X君が卒業式に行くとき着ていたズボンは、この黒ズボンです」と答えているのであり、その示し方、質問の仕方が適切であったとはいえず、Cの記憶能力から考ても、この段階で記憶がよみがえったとみることはできない。

また、49・4・2員面の「入浴の時」というのは、一九日は入浴日ではなかったのであり、客観的事実と異なった前提を述べていることからすれば、一九日とは別の日のことをCは述べているのではないかとの疑問を抱かざるを得ない。

(4) その他の出来事についても、例えば、次のような点が指摘できる。

「(ディルームから『まつ』の部屋に戻って)僕がふとんを敷いたら、Nが寝た」(49・4・9検面、49・5・28検面)とか「『さくら』の部屋にはふとんは敷いていなかった」(49・5・28検面)とあるので、「まつ」の部屋に戻ったときや「さくら」の部屋に行ったときにはそれぞれの部屋にはまだふとんが敷かれていなかったことになるが、これは、乙野証言(七時三〇分前には男子各居室をふとんが敷かれているかなどを確認するため見て回った、「まつ」の部屋もふとんは敷いてあった)や乙原証言(ふとんは夕食までには子供と職員が敷く)に照らし、客観的ともいってよい事実と異なる供述である。

また、「『さくら』の部屋から『まつ』の部屋に帰るとき、ディルームでテレビを見ていたのは大きい子と小さい子も少しいた。そのときテレビは映っていなかったように思う」(49・5・28検面)とあるが、その時間帯は小さい子は寝る時間であるのでそこに小さい子がいたというのは、客観的状況に合わない供述であり、テレビが消えていたというのも、Cの供述する行動からすればやはり客観的状況に合わない供述である。

(5) このように、Cの昭和四九年当時の供述内容をみると、49・3・29捜復の簡単な記載が、49・4・2員面で詳細になり、その後さらに具体的に詳細になっていってはいるものの、その内容には種々の変遷があり、不自然な供述もみられる。前記の、Cの供述している事項がいわば甲山学園での日常的な事柄であることやCの記憶能力等をもあわせ考えれば、Cは、一九日という特定の日のことを記憶していてそれを喚起しながら供述しているのではなく、その場で思い付いた日常生活の中で経験した出来事を供述しているのではないかとの疑いを払拭できず、また、ある程度の情報をもとに詳しく尋ねていく捜査官の質問の仕方やその内容による影響も否定できないところである。

(六) Cの通常の生活状況からの検討

さらに、「まつ」の部屋にXがいなかったので、Xを迎えに行ったとのCの供述は、同人の甲山学園の通常の生活状況から考えて、やや不自然な行動であることがうかがわれ、この日にこのような行動をとったことについての合理的な説明はなく、この点からもXを迎えに行ったとのCの供述には疑問を抱かざるを得ない。

すなわち、乙野証言及び乙原証言によれば、乙野は、一九日午後八時ころに、Cが「まつ」の部屋にいてパジャマに着替えていたのを見ており、その後Xを捜すため男子棟に来た乙原も「まつ」の部屋でふとんに入っているCを見ているのであるから、そのころCが「まつ」の部屋に戻っていたと認めることができる。 Cは、事件当時一五歳一一か月の中学生であり、午後九後までテレビを見ていてもよかった園児であること、Cの担当保母であった丁山は、丁山証言において、Cは体力がなかったので午後八時になると自分から寝るということがあり、また、Xは介助を要する子供で、同室の年長児であるCがXの面倒をみていて、職員から声をかけられなくてもCはXの就寝介助をしていた旨供述していること、乙野は、乙野証言において、Xは少しは介助を要する程度であり、寝る時間になると自分で常に部屋に帰り、Cが自分でXを部屋に連れて行くことはなかった旨供述していることに照らすと、このようなCが、いつもより早い午後八時になって「まつ」の部屋に戻ったのは、その理由自体明確に供述されていない(部屋に戻った理由について、49・3・29捜復では「寝る時間なので、Xを見に行くと」とあるが、その後の供述調書には「八時になったので部屋に帰った」趣旨の記載があるだけで、理由が記載されていない)ものの、自分自身が寝るためであったと考えるのが自然である。

また、丁山証言によると、Cの行っていた就寝介助は確実ではなかったというのであり、もともとXを部屋に連れて行って就寝介助をするというものではなく、ましてやC自身が寝るためにいつもより早い午後八時に部屋に帰った状況からすると、「まつ」の部屋にXがいないからといって、Xを捜す行為をするということは、いささか不自然な行為といわざるを得ない。

(七) 小括

以上みてきたように、Cが第一次捜査段階において供述した内容は、いずれも甲山学園での日常生活のひとこまといってよい出来事であり、記憶に残りにくく、また、特定の日の出来事と混同しやすいものであること、右Cの供述内容は、捜査官が知り得た事実と日常的な事実とで構成されており、しかも、そこには変遷、矛盾、不自然さがみられ、他の証拠の影響もうかがわれることなどに照らすと、Cが、一九日という特定の日の出来事として記憶を喚起して供述しているのか疑問であり、しかも、そのような供述が繰り返され一貫しているといっても、右のような変遷や不自然さが見られることからすれば、その供述の信用性を高めるほどに一貫しているといってよいのかも疑問である。

そして、右のようなCの供述についての疑問に加え、これまでみてきたように、Cの49・4・2員面とA子の49・4・3員面は、同一の捜査官大内が作成したものであること、CとA子の供述内容は、最初から符合していたものではなく、それぞれが変遷し徐々に符合していった点がみられること、それも、園児や職員らの供述の影響がうかがわれること、供述の一致は供述の一部分のみみられ、それも捜査官が他の者の供述などから知り得た事項との矛盾を解消させるという範囲内で行なわれ、供述内容からするとCとA子しか知り得ない事項については矛盾が解消できずに終っていることに照らすと、Cの供述はA子の供述を裏付けるようなものではないといわざるを得ない。

4  第二次捜査段階において出たCの供述の検討

(一) 供述の概要と問題の所在

前記のとおり、Cは、52・5・11検面(弁一七九)において、<1>Xを「さくら」の部屋に連れて行ったこと、<2>「さくら」の部屋から戻る途中にBと出会ったこと、<3>「まつ」の部屋に戻ってから、その後ディルームに行き友達のマーブルチョコレートを半分こしたことを新たに供述している。

この段階になって新たに供述したこと自体についての疑問点は既に検討したので、ここでは、その供述内容からみた信用性を検討し、これがBの供述の裏付けになるものか否かを判断する。

(二) 右<1>の供述についての検討

(1) 52・5・11検面の内容について

ア この点に関するCの最初の供述(52・5・11検面)は、テレビを見た場面のやりとりに続いて、「X君は『さくら』の部屋に一人で行ったの」との質問に対して、「僕が連れてった」と答え、「さくら」の部屋にはA子、G子、Kがいた旨答えたというものである。

その内容は極めて簡略であり、それ以前に事情聴取されたBの「イナズマンが変身して人間に変わった場面が出たころに、CがXを連れて『さくら』の部屋に入っていった。Kも『さくら』の部屋でXやCらと遊んでいたようだった」(Bの52・5・7員面弁一〇五)、「イナズマンを見ていたときに、CがXを連れて『さくら』の部屋に入れていたのを見た。Cはディルームの方に帰ってきていた。そのとき、Kが『さくら』の部屋から出てきて女子トイレに入っていたのを見た」(52・5・10員面弁一〇六)との供述内容からわかる事情以上のものは出ていないといえる。

イ また、52・5・11検面の右やりとりは、テレビを見た場面のやりとりに続いて唐突に「X君は『さくら』の部屋に一人で行ったの」との質問がなされているのであり、極めて不自然である。

加納証言によれば、「Bの供述でCがXを連れて行ったということなので、そうすれば二人になるのでその真偽の確認のために右の質問をした」ということであり、「調書記載以外のことについては、それ以上聞いていない部分もあれば、聞いても出てこなかったこともある」という状況であったというのである。しかも、加納は、Cに「どうしてほかの部屋を捜さずに女子棟の『さくら』の部屋に行ったの。X君は男の子の部屋におるかも知れんじゃないの」との質問を出すと、「X、『さくら』の部屋におるのを知っとった」という答えがかえってきて、それで、「どうして君はX君が『さくら』の部屋にいるのが分かったの」と質問すると、右供述が出てきた旨を証言するが、そのやりとり自体は調書に記載されていないのであり、加納証言をそのまま信用することはできない。

(2) 52・5・21検面の内容について

そして、一〇日後の52・5・21検面(弁一八〇)では、「ディルームのイナズマンを見ているとき、Kから、Xを連れてこいと言われた。Xは『まつ』の部屋で一人でふとんの上で遊んでいた。Xと手をつないで、『さくら』の部屋に連れて行った。Xを『さくら』の部屋に連れて行ったとき、G子、Kがいたが、A子はいなかった。僕は、『さくら』の部屋では遊ばないで、ディルームヘ行った。Xを『さくら』の部屋に連れて行ったのは、Bへの電話の前であった」旨詳しく供述している。

しかしながら、その供述内容をみてみると、Cとは直接関係のないことであり記憶に残っているのか疑問であるBへの電話と自分の行動との先後関係を述べたり、52・5・11検面では「さくら」の部屋にA子がいたと供述していたのに、その一〇日後に、理由の説明もなくA子はいなかったと明確に否定しているのは不自然であり、A子が、「さくら」の部屋に帰ったのはBへの電話の前であり、そのとき部屋にいたのはXとG子だけである旨供述していること、Bが、Xを連れて行くCを見たのはBへの電話の後と供述していたのが、Bの52・5・17員面(弁一〇九)において、勘違いだったとしてBへの電話の前であると供述を変えていることに照らすと、これらの園児供述間の相互の影響を無視することはできない。

(3) 第一次捜査段階の供述との矛盾について

ア また、Cのこの点に関する供述は、第一次捜査段階でのCの供述内容と矛盾する。

すなわち、検察官の主張によれば、この点に関する供述がこれまで出なかったのは、その点に焦点を合わせる適切な質問がなされなかったからというのであるから、Cの記憶の中には残っていた事実であるということになるが、Cは、Xがいないのに気付いてXを捜しに行く場面で、端的にXがいるはずである「さくら」の部屋に行ったとの供述をすれば足りるのに、「女の子の部屋に見に行った」(49・4・2員面)、「皆の部屋を探しに行った」(49・4・9検面)、「女の子の部屋の方を見に行ったら『さくら』の部屋にXくんがいました」(49・5・28検面)と、Xが「さくら」の部屋にいることを知らないかのごとき供述をしている。

イ この点に関して、検察官は、「精神遅滞児童が通常の知的能力を持つ者に比べて表現能力に乏しいことは明らかであって、Cにおいて、先に自己がXを『さくら』に連れて行った経験を有していた場合、Xを連れ戻しに行った際の表現が指摘のようになったとしても、同人の能力を考えれば不自然といえるようなものではない。そもそも、そのような表現の食い違いがCの供述にあったとしても、それが故に、『さくら』の部屋に行ってXを目撃した旨のCの一貫した供述の信用性に影響を与えるようなものではない」旨主張する。

しかしながら、C供述に右のような一応矛盾する供述があることは事実であり、この供述の出方に関する疑問点及び供述内容の変遷や、その他、これまで指摘したCの供述に関しての疑問点に照らせば、検察官主張のように表現の食い違いがあっても不自然ではないとは到底いえず、このような矛盾があることはCの供述の信用性に影響を与えるものといわざるを得ない。

(三) 右<2>の供述についての検討

(1) この点に関する供述内容は、「『さくら』の部屋から『まつ』の部屋に帰るときに、Bと男便所の前で会った。そのとき、Bに『X帰らん、さくらにいる』と言った。その後『まつ』の部屋に行った」(52・5・11検面)というものである。

(2) これも重要な供述であると思われるのに、簡単な記載しかなく、また、調書には「さくら』の部屋にXを呼びに行った場面をその前に二度供述し、二度目には「君はそれからどうしましたか」との質問があり「部屋に帰った」と答え、Bとの出会いについては供述していなかったのに、三度日の場面で、それも、同様に「まつ」の部屋に帰ったと答えたあと、誰に会ったかとの質問をされて供述するに至っているのであり、どのような理由でこれまで供述しなかったことを供述するようになったのか、記憶していたことなのかあるいは記憶を喚起するに至ったのか調書上では不明である。

加納証言によれば、「寝る前に便所に行った話が出たので、よく思い出してごらんと言って、『さくら』の部屋から『まつ』の部屋に帰る道順を聞き、そこで誰かと会わなかったかと質問して、Bに会ったということがはっきり出てきた」というのであるが、この出方については、前記のとおり、便所という言葉がきっかけになって出てきた供述ではないかとの疑いを払拭できない。

(3) しかも、この供述内容は、その一〇日後の52・5・21検面には記載されておらず、「君はそれからどうしたの」との質問に対して「『まつ』の部屋に帰った」との答えがあるだけである。

加納は「Bに会った状況も供述したが、前回と違った供述、録取しなかった補充事実を記載した」旨証言するが、52・5・21検面の内容をみると必ずしも加納証言のようにはなっておらず、不自然である。

(四) 右<3>の供述についての検討

(1) Cの供述内容は、「Bに出会った後、『まつ』の部屋に行き、ふとんに入った。乙野先生がXを捜しに来た。それから、ディルームに行き、テレビの歌番組を見た。そのとき、友達がもらったマーブルチョコを半分こした。九時に寝た」(52・5・11検面、52・5・21検面)というものである。

(2) この供述内容は、この二通の検面にだけある供述であり、その後の53・3・31員面では「マーブルチョコレートをもらったことは覚えていない。Xがいないと先生に聞いてからは、どこにも行かず朝までじっと寝ていた」と供述し、C証言では、主尋問の際にはこの供述は出ず、反対尋問で、「マーブルチョコレートを半分もらったことはないですか」との質問に対して、「ありました」と答え、さらに「誰からもらったの」との質問に「乙野先生にもらった」旨の誤った供述をし、その後の検察官の再主尋問では、「マーブルチョコレートがどのようなものか分からない」、「マーブルチョコレートを食べていない」と供述しているのであり、果たして、この昭和五二年に新たな供述をした当時、Cがこの点の記憶を維持していたあるいは記憶を喚起したといえるのか、極めて疑問である。

Cは、午後九時までテレビを見てもよい園児であり、午後八時以降の時間帯にディルームでテレビを見ているときにおやつをもらって食べ、午後九時になれば「まつ」の部屋に戻って寝るということは、日常的に繰り返し経験していることであったと考えられることからすれば、Cが、甲山学園での日常生活のひとこまを質問に応じて供述したのではないかとの疑いを抱かざるを得ないのであり、右証言内容(乙野先生という誤った答えや、食べていないという矛盾した答えが出ている)からもこのことがうかがえる。

(3) また、前記のとおり、乙野証言によれば、「『まつ』の部屋で、Cはパジャマに着替えていて就寝準備をしていた」、乙原証言によれば、「大きい子供のためのおやつとしてマーブルチョコを六個持ってきたが、Cがディルームにいなかった」、「男子棟を捜したとき、Cはふとんの中に入っていて、『Xは』と聞いたところ『おらんで』と言った」というのであり、しかも、証拠上午後八時以降にCがディルームにいたことをうかがわせるものはないのであって、Cのこの点に関する新供述を裏付けるものはない。

(4) 検察官は、この際のCの供述状況について、加納証言の「そのときにちょっとびっくりしたのは、自分はマーブルチョコをもらってなくて、ほかの子供がもらったのを半分ずつにしてもらって食べたんだと、ここまで供述が出たので、かえって私の方が非常にびっくりした。半分こしたという供述は私も非常にぴんとくるというか、そうなのかなというような非常な感銘を受けた供述であった」旨の供述をあげ、実際に体験したものでなければ語り得ない迫真性を持って供述したことが認められる旨主張する。

しかしながら、右にみたように、このCの供述の信用性には疑問があり、日常生活にありがちな光景であってこの日に特有な出来事であるとは言い難く、検察官の主張はとることができない。

(5) なお、検察官は、「右部分のCの供述内容には変遷があり、そのいずれの供述に信用性があるかは必ずしも明らかではない。しかし、同人の右供述部分は、『まつ』の部屋に戻った後の行動に関するものであり、Xを連れ戻しに『さくら』の部屋に行ったという行動とは何らの関連性のない、全く別個の行動なのであるから、その部分についての供述の信用性に疑問があるとしても、それ故に、『まつ』の部屋に戻る以前の行動に関するCの供述にも信用性がないとはいい得ず、その点は別個に判断すべきものである」旨主張する。

しかしながら、この事実というのも、「まつ」の部屋に帰ってから「さくら」の部屋に行き、それから「まつ』の部屋に戻り、その後ディルームに行ったという一連の出来事であり、いずれも関連性がある事実というべきであり、検察官の主張する「順を追って尋ねていくうちに供述が得られた」という意味では、その余の新たな供述と同様であり、その点においては、それぞれ異なった評価を与えるべきではなく、検察官の右主張は理由がない。

(五) その他の供述内容についての検討

(1) 第二次捜査段階のCの供述内容をみると、以下のような変遷や矛盾がみられるのであり、Cが記憶に基づいて供述しているのか疑問を抱かざる得ない。

ア ディルームの場面では、「テレビが色付きであった」、「テレビは先生が消した」(52・5・11検面)こととイナズマンの内容説明(52・5・21検面)が出ている。乙原の供述(49・5・24検面)によれば、右テレビを消したのはKであり、また、イナズマンの内容などをこの時点で記憶していたというのはやはり不自然である。

イ 「まつ」の部屋に戻った場面では、第一次捜査段階ではCがふとんを敷きNが寝たとの供述(49・4・9検面、49・5・28検面)が、第二次捜査段階では、右Nはふとんに入って寝ていたと変遷し、ふとんの並べ方について52・5・7員面と52・5・21検面とでは異なっている(乙野49・5・28検面〔弁一九〕に照らすと、52・5・7員面が事実と思われる)。

ウ 「さくら』の部屋の場面では、第一次捜査段階で出ていたX、A子、G子の位置、ふとんが敷かれていた事実、遊びの内容などが、第二次捜査段階ではなくなっている。そして、「『さくら』の部屋の板の所に立ち、すぐ眼の前のスチーム前にいたXに声をかけたところ、手をあげて(口で何か言わなかったかの問に、黙っていたと答えている)、帰ろうとしなかった」(49・5・28検面)という供述が、「『さくら』の部屋の板の所に立ち、アーンアーンというXの声が聞こえたのでのぞいて見たところ、Xは押し入れの中にいて、手を振って帰らなかった」(52・5・21検面)という供述に変遷している。

エ 「まつ」の部屋で寝ている場面では、第一次捜査段階で、乙原、乙野の順番で来た(49・4・9検面)、先生の名前は忘れた(49・5・28検面)となっていたのが、第二次捜査段階では、乙野、乙原の順番で来た(52・5・11検面)と事実と合った供述になっている。

オ ディルームから「まつ」の部屋に行った理由について、第一次捜査段階では明確な記載がなかったものが、第二次捜査段階では「眠たかったからや」(52・5・7員面)と供述しているものの、その後は出てこない。

(2) このように、第二次捜査段階での各場面の供述内容は、第一次捜査段階で供述されていた内容が消失したり、全く異なった状況としか考えられない供述があらわれており、Cが、具体的な記憶に基づいて供述しているのか疑問であるといわざるを得ない。捜査官から詳しく供述を求められ、Cがその場で思い浮かぶままを次々と供述したのではないかとの疑問を払拭できない。

(六) 小括

以上みてきたように、Cの第二次捜査段階での供述内容には疑問とすべき点が多く、これに、前記の第二次捜査段階に至って供述したことに関する疑問を総合すれば、Cの供述内容は信用性に乏しいといわざるを得ず、また、前記のとおり、Bの供述の影響が否定できないことにも照らしあわせると、Cの供述はBの供述を裏付けるものとは到底いえない。

五  Cの供述の評価

以上を総括すると、C証言については、検察官の主尋問においてさえも検察官主張の事実がすべて出たわけでなく、また、反対尋問の結果に照らすと、Cが特定の日の出来事を記憶喚起して証言しているのか疑問を抱かざるを得ないのであり、極めて信用性に乏しいものといわざるを得ない。また、捜査段階での供述も含めたCの供述は、他の園児や捜査官の影響を受け、具体的な記憶に基づかないでその場で思い浮かぶまま供述していた疑いがあり、信用できないといわざるを得ない。

第九  Dの供述の信用性

一  Dの供述の持つ意味とその特徴

1  検察官が主張するDの目撃状況に関する供述内容は、女子棟廊下で被告人とXを目撃した事実と、男子棟と女子棟の間を行き来するBを目撃した事実である。

このDの供述内容は、前者は、被告人が青葉寮からXを連れ出す前の状況を目撃したというものであり、B及びA子が目撃したのとほぼ同じころの廊下上での目撃事実を供述するもので、重要な意味を持っており、また、後者はB供述(Bが「さくら」の部屋にいるXを呼びに行こうとしたことなど)を裏付ける意味を持っているものである。

しかしながら、後記のとおり、Dは精神遅滞児であり、また、右Dの供述は、証言時においては、主尋問では出たものの、反対尋問では記憶にないとかあいまいになったりしており、また、右主尋問での供述内容が捜査段階で供述されるに至ったのは、第二次捜査段階のしかも事件から約四年経ってからであり、第一次捜査段階では出ていなかったのであるから、その信用性については、これらの諸事情を踏まえて慎重に判断する必要がある。

二  Dの能力等

1  Dは昭和三三年八月四日生まれで、昭和四四年四月一〇日(一〇歳八か月)甲山学園に入所したものであり、事件当時は一五歳七か月で、青葉寮の「いちよう」の部屋で起居し、証言当時は二一歳六か月ないし二二歳五か月で、定時制高校に通いながら、丙石食産株式会社に勤務していたものである。

2  甲山学園入所前の昭和四四年二月八日(生活年齢は一〇月六か月)兵庫県摂丹児童相談所での鈴木・ビネー式知能検査の結果によると、Dの知能指数は六七で、特に言語性の問題はある程度できるが訓練とか経験を必要とする問題は全くできない状態であり、精神年齢は七歳と判定され、軽度の精神遅滞であり、一応境界級の知能の持ち主で、知能面からみると特殊学級が妥当であるが、情緒面において年齢に比して幼稚すぎることが指摘され、性格等としては、素直で従順、明朗で人なつこく、言語了解はほぼ普通とされている(D児童記録当審弁六九)。

Dは、精神遅滞児ではあるがその程度は軽く、小学校も普通学級に在籍(適応は悪かったようである)していたが、父親の病気等で施設に入所するに至ったものである。そして、証言時は、定時制高校に通いながら、会社に勤務していたものであり、会社勤務も約五年になるなど、社会経験も積んでおり、証言時の応答をみると、長い文章で理由付けをしたうえで答えることができていて、他の園児に比べるとその供述能力は相当高いことがうかがわれる。また、Dが供述している出来事は、いわば甲山学園での日常生活のひとこまともいえるものであり、そのような出来事を目撃して記憶しそれを供述することについては、右のようなDの能力からしても、ことさらに問題とすべき点はなく、その知的能力の低さ(軽度でありそれほどの問題があるとはいえないが)は考慮に入れる必要があるものの、捜査段階での供述内容、証言内容等からDの記憶の程度、供述能力を具体的に検討したうえで、その信用性を判断すれば足りる。

三  D証言の信用性について

1  証人尋問の概要

Dに対する証人尋問(D証言。もっとも、Dは宣誓の趣旨を理解することができない者と認められ、宣誓はさせられなかった)は、期日外尋問として、いずれも神戸地方裁判所尼崎支部会議室において、第一回は昭和五五年三月一日午前一〇時三五分から午後零時三〇分までの間検察官の主尋問と弁護人の反対尋問が、第二回は昭和五六年一月一七日午前一〇時五分から午後零時一五分までと午後一時二〇分から午後二時三二分までの間弁護人の反対尋問と検察官の再主尋問等が、それぞれ行われ、各尋問には検察官が第一回は四名、第二回は三名、弁護人が第一回は二一名、第二回は一七名出席した。

2  証言状況と証言内容の検討

(一) 主尋問における証言内容

Dは、D証言において、検察官の主尋問に対し、<1>「こたつに入ってテレビを見ているとき、ディルーム付近でBがうろうろしているのを見た。ボイラー室の鏡のところから女子棟の方に行ったり、女子棟の方から鏡の方に戻ったりしていた。女子棟の方に行ったのが先になる。女子棟の方から戻ってきたとき、マーブルチョコは半分くらい残っていた。Bを見たときの姿勢は首を横にやって見た)、<2>「テレビを見ていたとき、Xを見た。Xは、女子棟の『うめ』と『さくら』の部屋の間の廊下にいて、被告人もいた。体を左後方に半分くらいねじって半分くらい倒して見た。Xと被告人は、前と後ろに並んで、歩いている感じであった。どちらが前であったかは分からない。Xと被告人を見たのは、Bが女子棟の方から戻ってきたのを見たときより前になる」旨供述し、また、<3>「甲山学園から伊丹市桜ケ丘の家に帰ったころに聞かれたときには、被告人とXを見たことは話していない。それは、乙谷先生から、甲山学園にいるときに、言うなと言われたから」、<4>被告人とXを見たことを最初に話したのは逢坂検事に対してで、年が経つにつれてXとY子のことがかわいそうになってきたから、話す気になった」旨供述する。

(二) 反対尋問における証言内容とその評価

(1) しかしながら、Dは、弁護人の反対尋問において、<1>に関しては「今、Bを見たということは頭のなかにない」旨供述し、<2>に関しては「Xと被告人を見たということは、頭の中でははっきりしていない。Xを捜してディルームに帰ってくるときに玄関で被告人を見たという記憶は、はっきりしている」旨供述し、<3>に関しては、主尋問においても「どんなことを言うなというのかはっきりわからない。ただ言うなと言われた。何を言うなということかはっきり覚えていない」旨供述していたが、反対尋問では、「Xがいなくなった日のことを警察官にはしゃべるなと誰かから言われたことはない」とか「乙谷先生から口止めされたことはあったと思う。乙谷先生からどういうことを口止めされたか忘れた。いつ口止めされたのか分からない。何と言われたのか覚えていない。どんなことを口止めされたのか分からない」旨供述し、さらに、「今は、乙谷先生から口止めされたということは、頭の中には残っていない。乙谷先生から口止めされたということは、桜ケ丘の家でしゃべったときには頭になかった。現在は、乙谷先生から口止めされたという記憶はない。主尋問のとき口止めされたと言ったが、それで警察官とか検事にしゃべることを隠したりしたことはない」旨をも供述し、<4>に関しては、「どうして逢坂検事に話すようになったのか自分でも分からない」、「主尋問で言った子供がかわいそうだというのは、別に意味はない」旨供述する。

(2) このように、Dは、主尋問で供述していたことを、反対尋問では否定したり極めてあいまいな供述をするなどしており、加えて、「警察官も検事も三年ほど全然来なくなって、三年ほど前から話を聞きに来るようになった。そのとき、Xのいなくなった日にどんなことがあったか忘れかけていた。忘れかけていたというのは覚かていないということ。なんとなく思い出して話した」、「ほかの園児がこういうふうに言っているという話を聞かせてもらったことがある。どんなことを言っていると聞かされたのか覚えていない。ほかの子が、廊下でXと被告人を見かけたということを聞かせてもらったことは、たぶんあると思う。ほかの子の名前は聞いていない。検事から聞いた。検事の名前は忘れた」、「その検事は逢坂検事であることを思い出した」、「ほかの子が、Bがディルームのまわりをうろうろしていたということを言ってるという話を聞かせてもらったような気がする」、「子供がかわいそうだということは、村上検事から証言(主尋問)する少し前に聞かしてもらった」旨供述する。

(3) この反対尋問での供述を総合すれば、Dは、新たな供述をした当時には、Xがいなくなった日の出来事については忘れかけていて、ほかの園児が言っていることを検事から聞かされるなどし、そのことが新たな供述に影響し、さらに証言(主尋問)に至ったのではないかとの疑いを抱かせるものである。

(三) 尋問方法等に関する検察官の主張及びそれに対する判断

(1) この点について、検察官は、「弁護人の反対尋問は、本件事件当夜の出来事に関する事実を直接Dに聞く方法ではなく、同人に捜査時における供述調書の内容に変遷がある点をとらえ、ほとんどその変遷事実について質問を行うという形で終始しているものであり、弁護人による意見の押し付けや不当な誘導などその尋問方法に問題があり、また、尋問内容も、ほとんど、抽象的、概念的な質問に終始しており、Dが、証言時において二〇歳を超えていたとはいえ、思考能力に乏しい精神遅滞者に対する尋問としては妥当ではない方法であり、そのため、同人が心理的に混乱したまま、証言を行っていることは明らかである。これに対し、検察官の主尋問は本件事件当夜の状況を順を追って、具体的に質問を行ったもので、検察官主尋問に対してなされたDの証言は信用性がある」旨主張する。

(2) 確かに、弁護人の反対尋問は、Dの捜査時における供述内容の確認とその変遷について質問を行う形で行われており、Dの知的能力からして理解の困難なものや混乱しやすいものがあること、弁護人の質問の中には、「警察官には覚えているとおりに言ったわけやね」と質問し、さらに「とくに見たことを隠したりしたことはなかったんですか」と質問して、Dが「はい」と答えるなど、Dが十分理解して答えたのか疑問なものがあること、また、例えば、「調書には、君がテレビのスイッチをつけたあとでX君を見たということが書いてないんですが、どうですか。よく思い出して下さい」と質問され、「見てないと思います」と答えるなど、供述調書作成当時にどのような供述をしたかどうかを聞かれているのに事件当時の出来事として答えている場合があること、前記反対尋問でのDの供述は、右のような尋問方法、内容の中で得られたものであることが一応認められるところである。

(3) しかしながら、弁護人の、右捜査時の供述内容の確認とその変遷について質問を行い、現在の供述内容の真実性を吟味するという手法は、反対尋問の手法としてそれ自体に問題があって妥当でないとはいえず、その一部にDの知的能力からして質問内容に理解の困難なものや混乱しやすいものがあるとしても、Dは、例えば、「分からない」とか「どんなことですか」、「もう一度」などとその質問を確認したりしており、またそれぞれの質問にそれなりに応答しているのであって、そのためにDが心理的に混乱したまま証言を行っているという状況ではない。

また、右の弁護人の質問やDの答えについて、検察官主張のように、Dが、「警察官調書に書かれていない事実については、見たとは証言できない」などとの意識を持つに至ったとの推測も成り立ちうるが、その質問を受けたことにより、Dなりに十分考えて記憶を喚起したりして事実に関しての答えをしたとの推測も十分可能であり、検察官主張のような、反対尋問の結果がすべて信用できないとまでいうことはできず、反対尋問の結果を考慮に入れてD証言の信用性を判断すべきである。

(四) 弁護人の事情聴取による影響に関する検察官の主張とそれに対する判断

(1) なお、検察官は、控訴審判決を引用する形で、「Dは、第一回目の証人尋問(主として検察官の主尋問が行われた)終了後、二度にわたり弁護人から面談の申し入れを受け、喫茶店において弁護人二名から立会人なくして供述証書の内容について事情聴取を受けている(一度はその様子を録音しながら)ことが認められることからすれば、Dの知的能力が精神遅滞児としてはかなり高く、また、検察官の証人尋問前のテストの際にも立会人を置いていなかったことがうかがわれること等を考慮にいれても、右の反対尋問に対する供述は右の弁護人の行った事情聴取の影響とも考えられ、単純に反対尋問によって供述が崩れたものと評価できない」旨主張する。

(2) しかしながら、右面談の事実は認められるものの、D証言には、反対尋問に対するDの供述が右弁護人との面談の影響であることをうかがわせるものはなく、根拠のない推測にすぎず、とれない主張であるといわざるを得ない。

(五) 小括

以上を総合すれば、Dは、検察官の主尋問に対して検察官主張の目撃事実を供述するが、弁護人の反対尋問の結果によれば、Dが証言時に記憶に従って供述しているのか疑問を抱かせるものとなっており、しかも、捜査時にそれらの供述をするようになったその時期に果たしてDにその記憶があったのか、捜査の過程で得られた情報に影響されているのではないかとの疑問も払拭できないのであり、結局、Dの証言の信用性については、証言内容、その状況等の検討だけでは判断することができず、あわせて、そのもととなった捜査段階での供述内容の検討をして判断する必要がある。

そこで、以下、捜査段階における供述調書の供述内容の信用性について検討する。

四  Dの捜査段階における供述の信用性について

1  供述状況の概要

Dについては、昭和四九年三月二九日に司法警察員に事情聴取されて捜査復命書一通(49・3・29捜復弁一四九)が作成され、また、同年中に検察官により供述調書一通(49・4・10検面弁一六〇)、司法警察員により供述調書五通(49・4・3員面弁一五二、49・4・5員面弁一五三、49・5・18員面弁一五四、49・5・28員面弁一五五、49・6・1員面弁一五六)が作成され、昭和五〇年には司法警察員により供述調書二通(50・7・3員面弁一五七、50・9・4員面弁一五八)が作成され、第二次捜査段階に入った昭和五二年には司法警察員により捜査報告書一通(52・5・19捜報弁一五〇)が作成され、昭和五三年には検察官により供述調書五通(53・3・11検面弁一六一、53・3・16検面弁一六二、53・3・17検面弁一六三、53・4・7検面弁一六四、53・4・17検面弁一六五、弁一六四、一六五についてはいずれも二号書面として検四五七、四五八)、司法警察員により供述調書一通(53・3・7員面弁一五九)、捜査復命書一通(53・4・5捜復弁一五一)が作成されている。

2  供述の内容

Dの供述の概要は、以下のとおりである。

(一) 第一次捜査段階での供述

第一次捜査段階である昭和四九年及び昭和五〇年当時のDの一九日に関する供述内容は、おおむね「午後七時からディルームでテレビのキャシャーンを見た。午後七時半に乙野先生がチャンネルをかえてイナズマンにした。イナズマンが始まって乙原先生が小さい女の子を寝かしに行ったので、僕は、同室のG1、H1ら小さい子を寝かしに行った。このとき、Xがテレビを見ているのを見た。小さい子の世話をしてからディルームに戻り、イナズマンを見たが、Xはいなかった。ディルームに戻るとき、男子保母室でBが電話をかけていて、乙野先生もいた。午後八時になり、乙原先生がテレビのスイッチを切った。乙原先生に言って僕がテレビのスイッチを入れ、歌謡ビッグマッチを見た。乙原先生が男子保母室からおやつを持ってきて、僕にマーブルチョコをもらった。そのあと、乙野先生がディルームに来て、Xがおらへんと言った。僕とKは、乙野先生と一緒に男子の各居室を捜した。捜しはじめたとき、ディルームの入口の方で被告人を見た」というものであり、Dが寝かせた小さい子にI1が加わったり、最初は男子保母室に乙原と乙野が日誌を書いていたと供述したり、乙野がXがいないと言ってきた時刻が変わったり、マーブルチョコのことやディルームの入口の方で被告人を見たことが出てきたのは49・5・18員面からであるというような若干の変遷はあるものの、その供述内容はほぼ一貫していると評価できるものであり、また、供述する各出来事については、乙野及び乙原の供述ともおおむね符合している。

(二) 第二次捜査段階での供述

(1) そして、第二次捜査段階に入ってからの昭和五二年に捜査報告書一通(52・5・19捜報)が作成されているが、特に新しい事実は得られなかったとの記載がある。

(2) ところが、Dは、昭和五三年三月七日の警察官西村末春による事情聴取の際、<1>「テレビのスイッチを入れてチャンネルをかえたとき、女子棟廊下の洗面所の辺り付近で、Xがしゃんとした姿で立っており、非常口の方か窓側の方を向いていた」、<2>「マーブルチョコを食べているとき、Bが女子棟の廊下の入口付近にいたのをチラッと見たが、どこへ行ったのかその後は知らない」とこれまで供述していなかった事実を供述(53・3・7員面)するに至った。

そして、その四日後からの検察官村上秀夫の事情聴取(同月一一日、一六日、一七日)では、<1>に関しては「テレビのスイッチを入れたとき、女子棟廊下の方を見ると、Xが見えた。Xは、『こすもす』の部屋の前あたりの廊下に、じっと立っていた」(53・3・11検面)、「テレビをつけたとき人が見えた。男の子みたいな気がするし、女の子だったかもしれない」(53・3・16検面)、「テレビのスイッチを引っ張ってつけたとき、人が見えた。子供だった。男の子か女の子か分からない」(53・3・17検面)旨供述し、また、<2>に関しては「テレビを見ていたとき、Bがボイラー室の後ろからパッと出てきて女子の廊下の方角に行った。Bはマーブルチョコを食べているとき戻ってきた。女子の廊下の方角から戻ってきてボイラー室の後ろに行った」(53・3・11検面)、「女子棟の方からBが来たのはマーブルチョコを大分食べてから。女子棟の方にBが行ったのはおやつを食べる前と思う」(53・3・16検面、53・3・17検面)旨供述した。そして、その後の同年四月五日に警察官西村末春の事情聴取を受けた際に、新しく、<3>「こたつに入ってテレビを見ているとき、Bがうろついていたのを最初に見た後、女子棟廊下にXが立っているのを見た。Xは、奥の窓例の方を向いて気をつけをさせられたような格好で立っていた。Xが立っている近くから人がすうっと消えたように思う。その人は大人だった。女だった」(53・4・5捜復)旨供述し、さらに、その二日後からの検察官逢坂貞夫の事情聴取(同月七日、一七日)では、<1>に関する供述がなくなり、<2>に関しては<3>に関する供述の先後関係で供述され、<3>に関しては、「マーブルチョコを食べているとき、女子棟に誰かいるかなあと思って体を後ろに倒すようにして女子棟廊下の方を見ると、『うめ』か『さくら』の部屋付近を歩いているXを見た。Xは女の人と歩いていた。被告人と思った。被告人が前、Xがそのすぐ後ろを歩いていた。二人は女子棟の非常口の方へ歩いて行った」(53・4・7検面、53・4・17検面)旨供述するに至っている。

3  供述内容の検討

以上が、Dの捜査段階の供述の概要であるが、第一次捜査段階ではその供述内容はほぼ一貫していたが、第二次捜査段階では、それまでの供述に付け加わる形で新たな供述がなされており、しかも、その新たな供述には種々の変遷が認められる。前記記載とやや重複するが、事項ごとにその変遷の経過を具体的にみると、次のようになる。

(一) Bを見たことについて

(1) Dは、第一次捜査段階においても、Bに関する供述をしている。それは、男子保母室で電話をかけているBを見たというものであり、テレビを見ていた園児とかこたつにいた園児を供述しているが、その中にBは入っていない。

(2) ところが、第二捜査段階において、Dは、「マーブルチョコを食べているとき、Bが女子棟の廊下の入口付近にいたのをチラッと見たが、どこへ行ったのかその後は知らない」(53・3・7員面)旨の供述をするに至った。

しかしながら、その後、この供述は、「テレビを見ていたとき、Bがボイラー室の後ろからパッと出てきて女子の廊下の方角に行った。Bはマーブルチョコを食べているとき戻ってきた。女子の廊下の方角から戻ってきてボイラー室の後ろに行った」(53・3・11検面)、「女子棟の方からBが来たのはマーブルチョコを大分食べてから。女子棟の方にBが行ったのはおやつを食べる前と思う」(53・3・16検面、53・3・17検面)とその内容が詳細になっているが、当初の「チラッと見たが、どこへ行ったのかその後は知らない」との供述とはかなり変遷した供述になっている。

(二) Xを見たことについて

(1) Dは、第一次捜査段階においても、Xに関する供述をしている。それは、「午後七時半に同室のG1、H1ら小さい子を寝かしに行ったとき、Xがテレビを見ているのを見た。小さい子の世話をしてからディルームに戻ったがXはいなかった」というものである。

(2) ところが、第二次捜査段階において、Dは、「テレビのスイッチを入れてチャンネルをかえたとき、女子棟廊下の洗面所の辺り付近で、Xがしゃんとした姿で立っており、非常口の方から窓側の方を向いていた。その場面を瞬間的に見て、おかしいと思った」(53・3・7員面)旨の供述をするに至った。

そして、「テレビのスイッチを入れたとき、女子棟廊下の方を見ると、Xが見えた。Xは、『こすもす』の部屋の前あたりの廊下に、じっと立っていた。Xのほっペたと耳が見えた」(53・3・11検面)旨具体的詳細に供述し、Xのいた場所を図示している。

しかるに、その後の供述調書では、「テレビをつけたとき人が見えた。男の子みたいな気がするし、女の子だったかもしれない」(53・3・16検面)、「テレビのスイッチを引っ張ってつけたとき、人が見えた。子供だった。男の子か女の子か分からない」(53・3・17検面)と供述し、Xであったと供述していたのがXであるのかあいまいになり、男の子か女の子かさえも分からない供述になっている。

(3) そして、この供述は、さらに大きく変化する。

すなわち、「こたつに入ってテレビを見ているとき、Bがうろついていたのを最初に見た後、女子棟廊下にXが立っているのを見た。後ろ姿を見た。左頬も少し見えた。Xは、奥の窓側の方を向いて気をつけをさせられたような格好で立っていた」(53・4・5捜復)というのである。Xが立っている状況はほとんど変化がないが、見た時刻が「テレビをつけているとき」から「こたつに入ってテレビを見ているとき」と大きく変わり、さらに「Xが立っている近くから人がすうっと消えたように思う。その人は大人だった。女だった」(53・4・5捜復)との供述が加わる。

この変遷した供述が、「マーブルチョコを食べているとき、女子棟の方に誰かいるかなあと思って体を後ろに倒すようにして女子棟廊下の方を見ると、『うめ』か『さくら』の部屋付近を歩いているXを見た。Xは女の人と歩いていた。被告人と思った。被告人が前、Xがそのすぐ後ろを歩いていた。二人は女子棟の非常口の方へ歩いて行った」(53・4・7検面、53・4・17検面)となり、Xの状況が、「Xが立っていた」のが「歩いていた」となり、「奥の窓側の方を向いていた」のが「非常口の方」となるなど大きく変遷し、最初のXを見た状況とは全く異なるといってよいほどの変遷をしている。

(三) 被告人を見たことについて

(1) Dは、第一次捜査段階においても、被告人に関する供述をしている。それは、被告人が青葉寮にXを捜しに来たのを見たことと、Xを捜し始めたときにディルーム入口の方で見たことである。しかも、49・5・18員面では「チョコレートを乙原先生からもらった当時、ディルーム付近で沢崎先生の姿を見ていないか」との質問に対し、「気がつかなかった」と明確に否定する供述をしている。

そして、第二次捜査段階においても、Dは、Xを捜してからディルーム入口の方で被告人を見たことを供述(53・3・17検面、53・4・5捜復、53・4・7検面、53・4・17検面)している(ただ、53・3・17検面では、「これまで被告人のことも話していない」との誤った供述もしている)。

(2) ところが、第二次捜査段階において、Dは、右以外のときに被告人を見たことを供述するに至っている。最初は、53・4・5捜復であり、Xを見たとの供述に続いて「Xが立っている近くから人がすうっと消えたように思う。その人は大人だった。女だった」というものであったが、その後、「マーブルチョコを食べているとき、女子棟の方に誰かいるかなあと思って体を後ろに倒すようにして女子棟廊下の方を見ると、『うめ』か『さくら』の部屋付近を歩いているXを見た。Xは女の人と歩いていた。被告人と思った。被告人が前、Xがそのすぐ後ろを歩いていた。二人は女子棟の非常口の方へ歩いて行った」(53・4・7検面)と供述し、53・4・17検面では被告人と思ったとの供述が「Xは被告人といた」と明確に供述するに至っている。

4  供述内容からみた問題点

(一) 右でみたように、Dの新たな供述は、それぞれ大きく変遷しており、しかも、右供述をするに至った経緯、それを変遷させた理由についてはほとんど供述しておらず、その供述の出方、その内容からして、Dが記憶に基づいて供述しているのか疑問を抱かざるを得ない。

(二) これに、前記D証言を検討した際に指摘したDの反対尋問での供述内容(三の2の(二)の(2))をあわせ考えると、Dは、新たな供述を始めたころには、Xのいなくなった日の出来事を忘れかけていて、なんとなく思い出して話していたが、捜査官から、ほかの子が話している内容を聞かされるうち、それを体験した事実と思い込み、それを捜査官に話していったとの疑いが強い。

このことは、新らたな供述を始めたのが事件から約四年後であり、その間記憶が薄れていくのは極めて自然であって、Dの「どんなことがあったか忘れかけていた。なんとなく思い出して話した」との供述はその意味で自然なものであること、第一次捜査段階から出ている供述には大きな矛盾、変遷は認められないのに、新たな供述については、大きな変遷、不自然、不合理な点がみられるが、それが経験したものではなく聞かされた事実であるからと考えるとその変遷等の説明が自然にできること、これらからもうかがえるところである。

(三) なお、弁護人は、前記3の(二)のXを見たことに関するDの供述の変遷について、53・3・11検面の「テレビのスイッチを入れたとき、女子棟廊下の方を見ると、Xが見えた。Xは、『こすもす』の部屋の前あたりの廊下に、じっと立っていた。Xのほっペたと耳が見えた」との供述が、「男の子みたいな気がするし、女の子だったかもしれない」(53・3・16検面)、「子供だった。男の子か女の子か分からない」(53・3・17検面)と変遷したのは、「53・3・11検面のようにテレビのスイッチをつけたとき女子棟廊下にいるXを見たという内容では、マーブルチョコレートを持って男子保母室からディルームに戻ってくる乙原にXが見えることになってしまい、乙原の供述との整合性が保てないうえ、何よりもDがテレビをつけた時刻にXが一人で廊下に立っていたということでは、捜査官の想定している『さくら』の部屋にいるXを被告人が廊下に呼んで連れ出したことと矛盾し、それを解消する方向への変遷である」旨を指摘し、また、53・3・11検面の「テレビのスイッチを入れたとき、Xが見えた」との供述が、53・4・5捜復において「こたつに入ってテレビを見ているとき」と変遷したのは、「捜査官の想定しているXを見た場所と合致する方向への変遷である」旨を指摘するが、この指摘はDの供述の変遷の理由として一概に否定できないところである。

5  Dの供述に対する根本的な疑問

以上のようにDの新たな供述には大きな変遷等がみられ、その信用性については問題があるが、加えて、Dの供述においては次のような根本的な疑問を指摘することができる。

(一) 職員に対してXを見たことに関する事実を何も話していないこと

一つは、Dは、事件当夜Xを捜している職員に対して、新たな供述であるXを見たことに関する事実を何も話していないということである。

(1) すなわち、Dの新たな供述によれば、Dは、女子棟の方に背中を向けて午後八時からのテレビを見ていたときに、体をねじるなどして女子棟の方を見て、被告人と一緒にいるXを見たというのである。そして、それからしばらくして、検察官の主張する事実関係であれば(乙野が乙原に知らせたのが午後八時二ないし三分ころ、乙野が外に出たのが午後八時六ないし七分ころ)、DがXと被告人を見てから数分後には、乙野が、ディルームにいる乙原にXがいなくなったことを知らせ、さらに(女子棟を捜す前。供述調書では外に出る前との供述あり)、乙野がDに「X知らんか」と聞き、Dが「七時半までいた」と答えたというのである。しかも、Dは、第一次捜査段階及び第二次捜査段階を通じほぼ一貫して(誰といつ捜したかについては若干の変遷があるが)男子棟の各居室を捜したことを供述している。

これらによれば、DがXを見たとすれば、それは乙野がXがいないと言ってきた数分前のことであり、その際に乙野に対して、あるいは、それを聞いてXを捜しに行った乙原に対して、さらには、乙野から「X知らんか」と聞かれた際に乙野に対して、Xが女子棟廊下に被告人と一緒にいるのを見たと話すのが自然である。それなのに、Dは、一切それを話さず、逆に、乙野に対して「七時半までいた」とそれ以前に見た状況を答えたり、その後、自ら、Xを見かけた女子棟ではなく、男子棟を捜したりしている。しかも、Dの供述によれば、男子棟の各居室を捜してからディルームの方に戻って来たとき、ディルーム入口付近で被告人を見たというのであるが、その際、Dは被告人と一緒にいたはずのXのことを被告人に聞かなかったというのである。

これらのDがXがいなくなったことを知ってからとった言動は、DがXと被告人を女子棟廊下上で見たという新たな供述とは明らかに矛盾するものであり、その不自然さ、不合理さは否定できず、Dのこの点に関する新たな供述の信用性に疑問を抱かせるものといわざるを得ない。

(2) この点について、検察官は、「乙野の園児に対する質問は『X知らんか』との一言だけであり、それも、特にDのみに対して尋ねたわけではなく、精神遅滞児の特質を考慮すれば、乙野のDに対する右質問内容を当時同人が十分に理解し、的確に応答したとは必ずしもいい得ないものであり、Dにとって格別特異な出来事とはいえない被告人とXの目撃事実よりも、Xについての印象度の強い『午後七時半ころまでディルームにいた』ということをとっさに返事してしまうことも、あながち不自然なものではなく、Dの乙野に対する右応答事実のみをもって、Dの女子棟廊下における被告人及びXの目撃供述の信用性を否定し得ないことは明らかである」旨主張する。

しかしながら、乙野の問いかけが誰に対してのものであったのかについては、乙野証言によっても必ずしも的確なものではないが(乙野は、Dに向かって聞いたことがあるとか、そこにいる子でぱっと目がいったということだと思うとか、特定して聞いた記憶はないなどと供述している)、乙野は一貫してDに聞いたととれる供述を捜査段階から証言においてもしているのであり、Dが甲山学園の中では比較的知的能力の高い園児であったことにも照らすと、検察官主張のように、特にDのみに対し尋ねたわけではないということを強調するのは相当ではない。

そして、検察官は精神遅滞児の特質をも指摘するが、この点については前記のとおりであり、Dの知的能力からしても、この程度の乙野からの問いかけで、Xがいなくなってその所在を尋ねているということは、Dにとっては十分理解が可能なことであり、実際にも、Dは「七時半までいた」(あるいは「知らない」)と聞かれた意味を理解してそれに応じた答えをしているのであり、そのうえ、D自らも男子棟に行ってXを捜すという行動をとっているのであって、精神遅滞児の特質をいう検察官の指摘は理由がない。

また、検察官は、印象度の強さの違いを指摘するが、午後七時半ころにXがテレビを見ていたのを見たということと、女子棟廊下にいるXと被告人を見たということのどちらが印象度が強いかということは、これだけでは一概にいえないことであり、わざわざ体をねじってまでして見ていることや、前記のとおり数分前の出来事という時間的に近いことを考えると、検察官の主張と異なって、後者の方が印象度が強いともいい得るのであり、検察官の指摘は理由とならない。

以上総合すれば、検察官の右主張は理由がないといわざるを得ない。

(3) また、Dが女子棟ではなく男子棟を捜した点について、検察官は、「Dは、被告人とXが、『うめ』と『さくら』の部屋の間の廊下付近を非常口の方に歩いているのを目撃しただけであり、その後の行動は見ていないのであるから、乙野がXを探しにディルームに来た際に、被告人やXが女子棟の方にいるはずであるとの意識がなかったとしても不自然なものではなく、男子児童であるXが男子棟の方に帰っている可能性があるとの感覚を有していたとしても、何ら不自然ではない。そして、乙野は女子棟の方にXを捜しに行っているのであり、Dとしては、Xを捜すのを手伝おうとして女子棟に行っても男子棟に行っても、いずれも不自然なものではなく、むしろ、男子棟の方へ行くのが合理的であると思われる。Dは、『Xかて男やから男の部屋にいよる思った』旨(53・3・17検面)、『女の部屋には女の子が寝ているもん。女の部屋へ行ったらはずかしいもん』旨(53・4・7検面)供述しており、右各供述内容は、Dが男子棟の方を見に行った理由として、極めて合理的なものであるといえる。したがって、DのX捜索行動に関しては、何ら不自然な点はない」旨主張する。

しかしながら、前記のとおり、Dの新たな供述のとおりであるとすると、数分前に見かけた女子棟の方を捜しに行くのが自然な行動と一応はいえるのであり、検察官主張のようにどちらを捜しても不自然といえるものではないとの考えもあり得るが、男子棟を捜しに行ったことについての検察官指摘のDの供述自体が必ずしも合理的とはいえず、女子棟に行かなかった理由についてこのような理由を供述していること自体が、その不自然さをうかがわせるといえる。

すなわち、Dは、女子棟ではなく男子棟を捜した理由について、「Xかて男やから男の部屋にいよる思ったから」(53・3・17検面)とか「女の部屋には女の子が寝ているもん。女の部屋へ行ったらはずかしいもん」(53・4・7検面)と供述しているのであるが、53・3・17検面というのは、Xを見たとの供述(53・3・11検面)が男の子か女の子か分からないとの供述に後退した際のものであり、しかも、53・3・11検面で見たというXはじっと立っていたというものであるから、53・3・17検面になぜ男子棟を捜しに行ったのかその理由が記載されること自体がいささか不自然である。

また、53・4・7検面記載の理由については、職員とか園児がXを捜しているという状況下において、D自らもXを捜そうとしたときに、そもそもそのような感覚を抱くのか疑問であり、数分前に見た女子棟の方ではなく男子棟の方を捜しに行った理由として、一見もっともらしく思えるものではあるが、それだけにそのような理由を供述すること自体いささか不自然である。

(二) 事件から約四年経った時期に新たな供述をするに至ったこと

もう一つは、Dが新たな供述をするに至った時期についての疑問である。

(1) すなわち、Dは、前記のとおり、第一次捜査段階においては供述していなかった事実を、第二次捜査段階に至ってそれも事件から約四年経った時期に供述している。

Dが新たに供述したという事項は、テレビを見ているときに、Bがうろうろしていたのを見たとか、女子棟廊下にいるXと被告人を見たという、いわば甲山学園内における日常生活のひとこまともいえるものであり、D自身も気にかけなかった趣旨の供述をしているように、特に印象に残るとか記憶に残りやすい出来事とは言い難く、しかも、Dは、第一次捜査段階において一〇回近く捜査官から事情聴取を受けているにもかわらず、その段階では供述しなかった事柄である。それなのに、事件から約四年経ってこれらの新たな事実を供述しているのは、いかにも不自然であり、D供述に対して大きな疑問を抱かせるものといわざるを得ない。

(2) この点について、検察官は、「Dが、乙谷から口止めされていたのであり、長期間、本件目撃事実を供述しなかったことが不自然でないことは明らかである」旨主張する。そして、その根拠として、D証言中の、検察官の主尋問における「それまで言わなかったのは、乙谷先生から言うなと言われていたからである。話したのはXやY子がかわいそうになってきたからである」旨の供述、第二次捜査段階の乙谷から口止めをされていた旨の供述(53・3・17検面、53・4・5捜復)、本件事件後、乙谷が被告人について虚偽のアリバイを主張し、また異常とも思える支援活動を行った状況、D以外にB、K、R子などの青葉寮園児も乙谷から口止めされた事実を供述している状況をあげている。

しかしながら、次のとおり、そもそも右口止めによって四年もの間供述しなかった疑問を説明することはできないといわざるを得ない。

ア まず、Dの第一次捜査段階での供述内容をみると、口止めされたためある事実を供述しなかったとは到底いえないような内容となっている。

すなわち、Dは、第一次捜査段階において右のとおり一〇回近く事情聴取を受けているが、その際に、Xの動向や被告人の動向、あるいはBの動向について、捜査官に対し相当程度詳細な供述を行なっており、またその供述内容相互には大きな矛盾はなく、全体としてほぼ一貫している。例えば、当夜Xをディルームで見たこと、そのときにXのいた位置、Xの捜索中に被告人と出会ったこと、Bが電話をかけていたことなどを具体的に供述し、また、Dの供述する行動はほぼ一貫していて大きな矛盾はなく、乙野や乙原の供述とも符合している。

検察官が主張する口止めについてはいつ行われたのか、何を口止めされたのかなどその内容は不明であるが、それにしても、Dがその口止めによって意識的に新たな供述に関しては話さなかったとすると、Dは、Xや被告人あるいはBに関することについて、話すことと話さないことを自ら選別して特定の事実だけを供述しなかったということになるが、果たしてこのような選別が可能であるのか、仮に選別できたとしても、多数回にわたる捜査官の事情聴取の際に、一切話さないのであればまだしも、特定の事実だけを供述せず、またそれをうかがわせる供述もしないで、ほぼ一貫した供述をすることができるのか、Dの能力からしてはなはだ疑問である。

イ また、口止めがあって特定の事実を約四年間も供述しないでいたとすると、その特定の事実はDにとって大きな意味をもち、事情聴取を受ける度にこの事実は言ってはいけないと考え、供述しないようにしてきたということになり、供述しなかった特定の事実に関してはむしろ記憶に残りやすいものであると考えられる。

ところが、Dの新たな供述が出てからの供述内容をみると、その供述はわずか一か月余りのうちに大きく変遷しているのであり、極めて不自然といわざるを得ない。

例えば、<1>Bを見たことに関しては、最初の53・3・7員面では「マーブルチョコを食べているとき、Bが女子棟廊下の入口付近にいたのをちらっと見たが、どこへ言ったのかその後は知らない」と供述したが、その四日後の53・3・11検面では「テレビを見ているときボイラー室の後ろからBがパッと出てきて、走っていくような感じで女子棟廊下の方角に行った。Bは、マーブルチョコを食べているとき、女子棟廊下の方角から戻ってきて、ボイラー室の後ろに行った」と供述し、<2>Xに関しては、最初のころ、「テレビのスイッチを入れてチャンネルをかえたとき、女子棟廊下の洗面所の辺り付近で、Xがしゃんとした姿で立っており、非常口の方か窓側の方を向いていた」(53・3・7員面)、「テレビのスイッチを入れたとき、女子棟廊下の方を見ると、Xが見えた。Xは、『こすもす』の部屋の前あたりの廊下に、じっと立っていた」(53・3・11検面)と供述していたのが、「テレビをつけたとき人が見えた。男の子みたいな気がするし、女の子だったかもしれない」(53・3・16検面)、「テレビのスイッチを引っ張ってつけたとき、人が見えた。子供だった。男の子か女の子か分からない」(53・3・17検面)旨供述し、最初の「テレビをつけたときXを見た」趣旨の供述を否定するような供述をするようになり、さらには、53・4・5捜復では、「(Xが立っているのを見たとの供述に続いて)Xが立っている近くから人がすうっと消えたように思う。その人は大人だった。女だった」とXを見た出来事に新たな事実を加えて供述し、さらに、53・4・7検面では「マーブルチョコを食べているとき、Xを見た。Xは女の人と歩いていた。被告人と思った。被告人が前、Xがそのすぐ後ろを歩いていた。二人は女子棟の非常口の方へ歩いて行った」と供述し、最初にXを見た場面の供述はなくなり、それとは異なる場面でのXを見たとの供述をし、それに加えてXと一緒にいる被告人も見た旨供述するに至っている。

このように、Dの新たな供述は、短期間のうちに大きく変遷しているのであり、極めて不自然であって、このことは、検察官主張の口止めによって合理的に説明することはできないといわざるを得ない。

ウ 次に、D自身が、長期間供述しなかった理由をどのように供述しているのかをみると、確かに、検察官主張のように、Dは、53・3・17検面及び53・4・5捜復において、「乙谷先生から甲山学園で絶対に言うなよと言われていた」旨供述し(53・4・5捜復においては「いらんことを言うな」)、証言(主尋問)においても、「乙谷先生から甲山学園にいるとき、言うなと言われた」旨供述している。

しかしながら、検察官主張のように、Dが口止めをされており、その事実をDが右のように供述したとすると、Dは口止めをされていたことを告白してそれまで言わなかった事実を供述したと考えるのが自然である。ところが、最初に口止めをされたと供述した53・3・17検面の内容をみると、Bがうろうろしていたことは出ているが、Xを見たことについては子供を見たが男か女か分からないとなっており、Xと被告人を見た趣旨の供述は出ていない。そうすると、Dが口止めされた事実は、Bがうろうろしていたことを目撃した事実であるということになるが、Bがうろうろしていた事実がどういう意味を持つのかDが理解していたのかは大いに疑問であり、また、そのような事実が口止めの対象になるのかさえも疑問であり、いかにも不自然といわざるを得ない。

また、Dは、長期間供述をしなかった理由として一貫して口止めの事実を供述しているのではなく、むしろ口止め事実を供述したのはこれだけにすぎず、他の場面では別のことを供述している。例えば、53・3・11検面では「(Bがうろうろしていたことを話さなかった理由を聞かれて)どうして言われても分からん」と供述し、53・4・7検面では「(Xと被告人を見たことを話さなかったことについて)勇気がなかったから」(弁護人はこの供述を「言う気がなかったから」の間違いであると指摘している)と供述し、53・4・17検面では「(同様に話さなかったことについて)別に理由はない」と供述し、さらに、「乙谷先生から口止めされたために話せなかったのではないか」との質問に対し「別に」と供述している。そして、証言においても、主尋問では「甲山学園にいるときに乙谷から口止めされた」旨の供述をしているが、「どんなことを言うなといわれたのか、はっきり分からない。何を言うなということかはっきり覚えていない」とも供述しており、反対尋問ではさらに、「Xがいなくなった日のことを警察官にはしゃべるなと誰かから言われたことはない」とか「乙谷先生から口止めされたことはあったと思う。乙谷先生からどういうことを口止めされたか忘れた。いつ口止めされたのか分からない。何と言われたのか覚えていない。どんなことを口止めされたのか分からない」旨供述し、「今は、乙谷先生から口止めされたということは、頭の中には残っていない。乙谷先生から口止めされたということは、桜ヶ丘の家でしゃべったときには頭になかった。現在は、乙谷先生から口止めされたという記憶はない。主尋問のとき口止めされたと言ったが、それで警察官とか検事にしゃべることを隠したりしたことはない」旨供述している。

このように、Dの口止めに関する供述をみると、口止めされたと供述しながら、それがいつどのような形でなされたのか、何を言うなということなのかなど、その口止めの具体的内容が何もない極めてあいまいなものとなっており、しかも、Dの証言によれば、Dには何を口止めされたのかとの認識がなく、また、Dがその口止めによって何かを隠そうとしたり供述を避けたりしたことはない旨を供述しているのであり、Dの知的能力、証言時の供述状況、内容からして、この口止めに関する事実に関してこのようなあいまいな供述をしていることは、不自然であり、事実を供述していないのではないかとの疑問を抱かざるを得ない。

エ さらに、仮にDが口止めされていて第一次捜査段階では供述していなかったとして、それでは、なぜ、第二次捜査段階に至って供述をするようになったのか、その説明ができるのかについて、検討する。

この点について、検察官は、「死亡したXのために供述してやりたいとの気持ちと被告人のことを述べてはいけないという気持ちの心の葛藤に揺れ動きながら、ついに供述するに至った」趣旨の主張をする。

しかしながら、Dの供述をみても検察官の右主張をうかがわせるようなものはなく、検察官の右主張は単なる推測にすぎず、理由がないといわざるを得ない。すなわち、この点について、Dは、捜査段階では、53・4・7検面で「(どうしてそのことを話す気になったのかとの質問に対し)なんとなく」と供述するにすぎず、他に何の説明もしておらず、証言では、主尋問で、「年が経つにつれてXとY子のことがかわいそうになってきたから、話す気になった」旨供述するが、反対尋問では、「どうして逢坂検事に話すようになったのか自分でも分からない」、「主尋問で言った子供がかわいそうだというのは、別に意味はない」旨供述し、さらには、「子供がかわいそうだということは、村上検事から証言(主尋問)する少し前に聞かしてもらった」とも供述している。

これらによれば、Dは、口止めされていたためこれまで供述しなかった出来事を第二次捜査段階になって供述するようになったことについて、首肯しうるような理由を供述していないのであって、口止めされ四年もの間供述していなかったのにそれを供述するようになった理由を説明できないということは、口止め自体の存在を疑わしめるものといってよい事実である。

オ なお、検察官が主張する乙谷の支援活動状況や他の園児の口止めに関する供述については、そのことが間接的にはDに対する口止め事実の根拠の一つにはなり得るものの、Dが供述する口止め事実の内容が前記程度のものであることに照らすと、検察官の主張する事実をもってDに対する口止め事実を推認するには疑問があり、右事実の存在を検討するまでもなく、検察官の主張は理由がない。

6  小括

以上みてきたように、Dの捜査段階における供述については、第一次捜査段階におけるDの供述は比較的安定していて信用性が高いが、第二次捜査で新たに出た供述は、大きく変遷しており、そこには合理的理由がなく不自然であって、信用性に乏しいといわざるを得ない。Dが、第二次捜査段階において新たな供述をしたこと自体、極めて不自然であって、それまで供述しなかったことに関する検察官の主張は理由がなく、また、新たに供述をするようになったことについて合理的に説明することはできない。したがって、Dの新たな供述は信用できないといわざるを得ない。

五  Dの供述の評価

以上を総括すると、Dの供述については、その証言はDが証言時の記憶に従って供述しているのかなどの疑問を抱かせるものであり、また、第二次捜査段階での新たな供述も不自然な変遷があるうえ、新たな供述をするに至ったことにつき合理的な説明ができないなどの問題点があることに照らすと、いずれも信用できないといわざるを得ない。

第十  E子の供述の信用性

一  E子の供述の持つ意味とその特徴

1  検察官は、「E子は、第一次捜査時においては、Xの行方不明を知らされる以前における青葉寮内女子保母室付近での被告人目撃事実を供述し、昭和五三年三月一三日の検察官による事情聴取において、女子棟廊下における被告人とXの目撃事実を供述した」とする。

右事情聴取の際に作成された検察官面前調書(53・3・13検面弁一四六、二号書面として検四五二)の内容は、「マーブルチョコレートを一箱もらい、ディルームのこたつに座ってマーブルチョコレートを口の中に入れていたとき、被告人を見た。被告人は、女子保母室の横の廊下にいて、私らの方を見ていた。それから、『ぼたん』の部屋に行こうとしたとき、『ぼたん』の部屋の前の廊下に被告人とXが一緒にいるのを見た。このあと女子便所に行ったとき、便所にはBがいた」というものである。

2  このE子の供述内容によれば、E子は、検察官の主張する被告人の犯行状況のうち、青葉寮に侵入してから女子棟廊下に出て殺害に適当な児童を物色するという、Xを連れ出す前の被告人を目撃し、その後Xを廊下に呼び出して非常口の方に向かって歩いている被告人を目撃したということになり、被告人の犯行状況の重要な部分を裏付けるものであるとともに、女子便所でBを見たとの点で、Bの目撃供述(女子便所から廊下上の被告人とXを見たという)を裏付けるものであり、検察官の立証のうえで大きな意味を持っているといえる。

3  しかしながら、E子の右供述は、事件から約四年後の、しかも、本件起訴後の昭和五三年三月一三日に至ってからなされたものであり、また、E子は、後記のとおり、E子証言においては、検察官の主尋問に対し、「ディルームでマーブルチョコレートを食べているとき、ディルームの近くで自分の知っている女の子を見た。名前は忘れた。その後女子便所に行ったが、廊下には誰もいなかった。女子便所の中で誰も見なかった」旨、あるいは、「見た女の人は子供」とも供述し、弁護人の反対尋問に対し、「この日の晩、ディルームから女子棟廊下に一人でいる被告人を見た。どこへ行ったか覚えていない。被告人を見たのは一回だけ。いつのことか覚えていない」旨供述し、右昭和五三年当時の目撃供述を否定しているのであるから、E子の供述の信用性については他の園児とは異なった角度からの検討が必要である。

二  E子の能力等

1  E子は昭和三二年三月二三日生まれで、昭和四四年四月一〇日甲山学園に入所し、事件当時は一六歳一一か月で、青葉寮の「ぼたん」の部屋で起居していたものであり、証言当時は二三歳一か月ないし二四歳一か月で、丙沼園(職業訓練所)に通っていた。

2  甲山学園入所前の昭和四四年三月二〇日兵庫県摂丹児童相談所での鈴木・ビネー式知能検査の結果によると、知能指数は三八で精神年齢は四歳七か月(生活年齢はほぼ一二歳)、知能程度は中度の精神遅滞と判定されている。言語障害を伴っており、「言語理解全く悪く記憶力も劣る」旨判定され、また、「態度、動作は遅いが的確である」と指摘されている。右言語理解の点については、49・4・5捜復(弁一二六)の「言語障害で、質問に対しては当分考えた後答えるが、父親でさえも聞き取りにくい程度である」との記載からもうかがえるところである。

三  E子証言の信用性

1  証言状況の概要

E子に対する証人尋問(E子証言。もっとも、E子は宣誓の趣旨を理解することができない者と認められ、宣誓はさせられなかった)は、期日外尋問として、いずれも神戸地方裁判所尼崎支部会議室において、第一回は昭和五五年五月二〇日午前一〇時五分から午後五時までの間検察官の主尋問が、第二回は同年一二月一六日午前一〇時二五分から午前一一時四〇分までの間弁護人の反対尋問が、第三回は昭和五六年五月一四日午前一一時一三分から午後零時一五分までと午後一時二二分から午後三時五五分までの間弁護人の反対尋問と検察官の再主尋問等が、それぞれ行われ、各尋問には検察官が少ないときで三名、多いときで四名、弁護人が少ないときで一七名、多いときで二〇名出席した。

2  証言状況と証言内容の検討

(一) 証言状況及び証言内容

E子証言において、E子は、質問に対してはしばらく沈黙することが多く、答えても断片的な言葉に終始し、聞き取りにくい答えも多かったが、これは、49・4・5捜復(弁一二六)の記載とも合致するところであり、E子の供述態度の特徴を示すものといえる。

そして、そのような供述状況の中で、E子は、主尋問においては、チョコレートを乙原にもらってからの出来事に関する質問に対して沈黙することが顕著になり、検察官主張の目撃状況に関する質問に対し、沈黙することが多かったものの、ディルームの近くで女の人を見たこと、その女の人は知っている人であること、その女の人の名前は忘れたこと、それは子供であること、そのあと女子便所に行ったこと、廊下には誰もいなかったこと、便所の中で誰も見なかったことを供述し、また、反対尋問においても、同様な状況のもとで、被告人を見たこと、それは一回であること、見たのはディルームからであること、被告人は女子棟廊下にいたこと、被告人は一人であったこと、見た時期が玄関に行ったりチョコレ-トを乙原からもらったりしたのとどちらが先かについては覚えていないことを供述し、結局、被告人とXの目撃事実及びBを見た事実を否定する供述をした。

(二) 検察官の主張

右の点について、検察官は、「E子は、検察官から甲山学園の職員についての質問を受けた際に、被告人以外の職員についてはその名前をあげたものの、被告人の名前は述べず、また、法廷内に被告人がいることは認めながら、その名前を聞かれても沈黙し、数回にわたる質問の結果ようやくその名前を供述するなど、被告人に対する極度のはばかりが見受けられるのであり、このような精神状態にあるE子が、Xを『さくら』の部屋から連れ出した前後の被告人の行動をその記憶どおりに証言し得ないことは明らかであって、その証言内容が全面的に信用し得るものではない」旨主張し、「逆に、そのような状況下においても、捜査時の供述内容を維持している部分があるとすれば、それは極めて信用性が高いというべきである。したがって、E子の証言中、『ディルームでマーブルチョコを食べているとき、自分の知っている女の人を見た』、『その後、ディルームを出て女子棟の便所に行った』という証言部分については、信用性が高いというべきである」旨主張する。

(三) 検察官の主張に対する判断

(1) 確かに、E子の証言時における供述態度をみると、<1>主尋問の冒頭において、当時の甲山学園青葉寮の先生の名前を尋ねられた際、青葉寮の保母と指導員はあわせて一〇名であったが、そのうちの九名について間違いなく名前をあげながら、被告人の名前だけはこれを答えなかったばかりか、さらに、尋問室内にいる人の中に先生がいるかと尋ねられた際にも、「いる」と答えながら、名前については何度も沈黙した後にようやく「沢崎悦子先生」と答えたのであり、被告人の名前を言うことを極端にちゅうちょするなどの態度がみられたこと、<2>弁護人の反対尋問が行われた第二回の尋問の際には、その開始時刻である午前一〇時までに出頭していながら、「家に帰りたい」と言って入室を拒否したため尋問開始が二五分遅れたほか、午後一時から再開を予定していたが入室を拒否し、一時間以上説得を受けてもこれに応じず、結局午後の尋問が断念される等の状態になるなど、E子は供述することを極度に嫌っていたことがうかがわれること、<3>殊に、Y子転落の際、その現場に被告人がいたか否かの点については、第一回の主尋問の際、度重なる尋問の末、裁判長のした「ほかに人がいたのか」との介入尋問によってはじめて一言「おらんかった」と答え、第二回の反対尋問の際には、「他に誰がいたか」と尋ねられて「おれへんかった」と答えたものの、「被告人はいなかったか」との度重なる尋問に対しては沈黙を続け、第三回の反対尋問に至ってようやく「おらんかった」と答えた状況にあったことが認められる。

(2) 右事実のうち、<1>については、被告人に対するはばかりを示すものといってよい事実であり、この限度においては検察官の主張は理由がある。

弁護人は、Y子がいなくなった日の泊まりの先生は誰かとの質問に対してE子が「沢崎先生」と即座に被告人の名前を答えていることをあげて、被告人に対するはばかりを理由とすることは妥当ではない旨主張するが、このような答えが一度あるからといっても、右<1>の供述状況、態度はやはり被告人に対するはばかりを示す事実といわざるを得ない。

(3) しかしながら、右<2>及び<3>については、それが被告人に対するはばかりを示す事実とはいいがたい。

すなわち、<2>については、E子が証言することを嫌がっていたことを示すものではあるが、それが被告人に対するはばかりからきているとは、この事実だけからではいえず、<3>については、他の場面でもE子が沈黙したり答えなかったことは多かったのであり、この場面について被告人がいたことを前提とすれば被告人に対するはばかりということができるが、そのこと自体がそもそも問題となっている本件では、右の事実をもって被告人に対するはばかりがあったということはできない。

(4) 以上のように、E子証言には、E子の被告人に対するはばかりをうかがわせる状況が一応認められるが、そうだからといって、検察官が主張するように、「その証言は信用できない」とか、「逆に、捜査時の供述内容を維持している部分があればそれは極めて信用性が高い」ということはできない。

すなわち、E子証言においては、沈黙や断片的な答えなどが多いが、これを右E子の被告人に対するはばかりでは説明することができない。例えば、E子が沈黙する場合は非常に多いが、それを右はばかりで説明しようとしてもできない場面が多く、E子がなぜ沈黙するのか理由が判然としない場面が多く見られる。これは、被告人に対するはばかりというよりも、むしろE子の供述の特徴というしかないものである。

検察官は、右沈黙や捜査段階の供述を否定したE子証言については、被告人に対するはばかりによるものであるとして、「信用できない」とか「捜査時の供述内容を維持している部分があれば極めて信用性が高い」と主張するのであるが、このような検察官の主張は、E子の捜査段階の供述が信用できること、つまり、E子が被告人を目撃していることを前提にしているものといわざるを得ず、本件ではその前提自体を問題としているのであって、とり得ない主張である。

3  小括

したがって、E子証言においては検察官が主張する目撃状況に関する供述は出なかったのであり、E子証言は検察官主張の事実を根拠付けるものでないことは明らかである。そして、右でみたように、それ以上に、E子証言が全般的に信用できないとか、捜査段階での供述が信用できるとまではいえないのであり、結局は、E子の供述の信用性を真に判断するためには、目撃状況を供述した捜査段階におけるE子の供述の信用性を検討する必要がある。なお、検察官は、捜査時における供述状況(口止め事実)からE子証言には信用性が存しないことは明らかである旨主張するが、この点については、捜査段階の供述の信用性を判断する際にあわせて検討する。

四  E子の捜査段階における供述の信用性

1  問題の所在

検察官は、E子の本件目撃状況に関して、いわゆる二号書面として、第二次捜査段階において作成された52・4・23検面(検四五〇)、52・5・14検面(検四五一)、53・3・13検面(検四五二)、53・3・15検面(検四五三)を請求し、その供述内容殊に53・3・13検面の内容はその取調べ状況からみて信用性がある旨主張する。

しかしながら、E子に関しては、右各検面を含め、昭和四九年三月三一日以降、一九日の出来事に関するもの以外もいれて、検察官により供述調書九通、司法警察員により供述調書一二運、捜査復命書二通及び実況見分調書一通が作成されているのであるが、E子が検察官主張の目撃事実の全体を供述するようになったのは53・3・13検面に至ってからであり、それは事件後約四年を経てからの供述であることや、E子の捜査段階での供述内容には当初明確でなかったことが次第に明確で詳細になったものとか、変遷がみられたものが多いことから、右53・3・13検面の供述内容の信用性を真に判断するためには、右取調べ状況だけではなく、右二号書面を含め各供述調書等の記載内容、捜査状況等をもふまえて総合的に検討する必要がある。

2  E子の供述における根本的疑問

そこで、以下においてE子の供述の信用性を検討するが、まず、E子の供述における根本的な疑問として、次の点を指摘することができる。

(一) 職員に対してその目撃状況等を何も話していないこと

一つは、E子は、事件当夜Xを捜している職員に対してその目撃状況あるいはXに関する事実を何も話していないということである。

(1) すなわち、検察官が信用できると主張するE子供述内容によれば、E子は、事件当夜、Xが「さくら」の部屋にいたことを見て知っており、その後、Xが被告人と一緒に女子棟廊下にいたのを見たということになる。ところが、他方、乙野証言によれば、乙野がディルームにいる乙原にXの行方不明を知らせたとき、ディルームにE子がいたが、E子は乙野に何も話さず、また、乙原証言によれば、乙原は、乙野からXの不明を聞いて女子棟、男子棟を捜した後、ディルームにいるE子ら年長児に「Xいたよね」と聞くと、E子がうなずき、さらに「七時半までいたよね」と言うと、E子がうなずいたというのであり、E子は、Xを見たことを含めその目撃状況に関連する事実を当夜Xを捜していた職員に何も話さなかったことが認められる。

E子は、49・3・31捜復(弁一二五)において、「こたつに入ってテレビの歌を聞いていたところ、乙野先生が『Xが居なくなった』と言ってきた」旨供述しており、また、Xの靴を見に行ったことも早くから供述し(49・4・5捜復)、E子証言でもその旨を供述しているのであり、職員がXを捜していることを知っていてその意味も十分理解していたと考えられるところ、Xを見たことを職員に話すことを妨げる事情が何もない段階であると思われるにもかかわらず、Xを見たことなどを一切職員に話していない(同捜復には先生が「X、知らへんか」と探しにきたので「知らん」と答えた旨の記載がある)のであり、このことは、第五の四の1で検討したように、E子の目撃供述の信用性について大きな疑問を抱かせる事実といわざるを得ない。

(2) 検察官は、「乙原は、ディルームにいた園児全員にXのことを確認したものであって、E子に対して直接尋ねたものではなく、しかも、その質問の内容は、ディルームにXが午後七時半までいたか否かというものであるうえ、乙原自身も急ぐ気持ちがあったために、右の程度の簡単に質問をした後、すぐに青葉寮から外に出ている」ことや前記のとおり「精神遅滞児の特質を考えれば、E子がその際乙原にXを目撃した事実を述べなかったとしても不自然なことではない」旨、また、「むしろ、E子は、被告人によるX連れ出し状況についてある程度の事実(例えば、非常口の方に歩いて行くなどの行動)を目撃し、被告人の行動に不自然さを感じていた可能性も十分うかがわれるのであり、甲山学園職員と青葉寮園児との関係が、対等ではなく、支配、服従の関係であったことを考えれば、E子が被告人に対するはばかりなどから被告人とXの目撃事実を述べなかったことは、自然ともいい得るものである」旨主張する。

しかしながら、乙原が尋ねたのは直接E子に対してではなく、また、「Xが七時半までいた」ことを訪ねたという点において乙原の尋ね方に問題があるとしても、前記のように、E子は、Xがいなくなって乙野がXを捜していることを知り、また、E子の供述によれば、先生に「知らん」と答えたとか、Xの靴を見に行ったりしたというのであるから、乙原の右問いかけが行方不明になったXのことを尋ねているということは、E子の能力によっても十分理解が可能なことであったというべきであり、この点に関する検察官の主張は理由に乏しい。

また、精神遅滞児の特質を主張する点については、第五の三で検討したように、精神遅滞児に一般的に検察官主張の特質があるとしてその特質をもって説明することは妥当ではないが、E子の能力、殊に言語能力の点において、例えば、言語障害がある趣旨の記載があることや、証言での応答が沈黙が多く答えても断片的な言葉や短い文章であることからすると、乙原から尋ねられた際Xを見たことを話さなかったとしても、不自然といえない面があることは否定できないところである。しかしながら、前記のとおり、E子が「知らん」と答えたり、Xの靴を見に行ったりしていることは、むしろ、検察官の主張するところとは逆であり、黙っているのではなく別のことを答えたり行動を起こしているのであるから、検察官の主張では説明できず、この点に関する検察官の主張は理由がないといわざるを得ない。

さらに、検察官は、甲山学園における職員と園児の関係や被告人に対するはばかりを主張するが、そもそもE子がXについて知っていることは、Xが「さくら」の部屋にいたこととその後廊下に被告人と一緒にいるXを見たということにすぎないのであり、その時点においては何ら特異な出来事でもなく、検察官主張のような被告人の行動に不自然さを感じていたことをうかがわせるものではない。したがって、被告人に対するはばかりはもちろん、検察官主張のような職員と園児との関係があるか否かによって左右されるようなことではなく、結局、この点に関する検察官の主張は理由がない。

(二) 本件から約四年経った時期に目撃状況を供述するに至つたこと

もう一つは、E子がその目撃状況を供述するに至った時期についての疑問である。

(1) すなわち、前記のとおり、検察官の主張する目撃状況の全体をE子が供述したのは、事件後約四年経ってからである。E子は、49・4・11員面(弁一二八)において、テレビを見ているときに被告人を目撃したことを供述していたが、それ以上の供述はしておらず、昭和五三年三月一三日の検察官仲内勉の事情聴取に至って、はじめて、ディルームから被告人を目撃したことに加えて、女子便所に行く際に被告人とXを目撃したことと女子便所にBがいたことを供述したのである。

このように事件後四年も経ってからしかも本件起訴は同月九日でありその起訴後の捜査においてこのような新たな供述がなされること自体、「何としても奇異な印象を与える」ものであり、E子の供述に対して大きな疑問を抱かせるものといわざるを得ない。

(2) この点について、検察官は、「E子が、本件事件後に口止めをされ、あるいは被告人に対するはばかりなどから、真実の供述を行うことができないでいた」旨主張する。そして、検察官は、右口止めの事実に関しては、<1>E子が、昭和五二年五月一日の警察官堀部篤敏の事情聴取において、「被告人を二回見たことを言ったら困る」、「Y子やXのことを今言ったらあかんと先生に言われた」旨(52・5・1員面弁一三七)供述していることが直接の証拠であり、また、<2>本件事件後、乙谷が、被告人について虚偽のアリバイを主張し、また異常とも思える支援活動を行った状況及びE子以外の青葉寮園児も乙谷から口止めをされた事実を供述している状況をみれば、E子に対しても当然口止めがなされていたと考えざるを得ない旨主張するので、以下、検討する。

ア まず、検察官の右主張によっても、そもそも右口止めというのがいつ誰から(乙谷が口止めした主張のようにも読めるが、そこまで特定はしていない)どのような形で何を口止めされたのかが一切明らかではなく、この点において、検察官の主張自体には何よりも問題があるといわざるを得ない。

イ そこで、次に、E子の右口止めに関連すると思われる供述をみてみる。

検察官が指摘する53・5・1員面では、「(被告人を)二回見たこと言ったら困るの」、「(なぜ困るのとの問いに対して)Y子ちゃんやX君のこと今言ったらあかんと言われた」、「(そんなこと誰に言われたのとの問いに対して)先生や」、「(何んと言う先生やとの問いに対して)黙して語らず」ということであり、言われた時期(「今」とあるのでこの調書作成のころとも読めるが、明確ではない)、場所についての供述がなく、誰から言われたかについても、先生からというだけである。

52・7・18員面(弁一三九)では、「(Y子が転落したことを誰に知らせたかとの問いに対して)乙谷先生」、「(このことを誰かに『言ったらあかん』と言われましたかとの問いに対して)言われた、それは…乙谷先生や」ということであり、これは言われたのは昭和四九年三月一七日のことで、その内容としてはY子のことに対する口止めということになる(もっとも、この員面の右内容はその後の供述調書には一切出てこないこと、この員面では、乙谷がいた場所としてE子は青葉寮表側の運動場を指示しているのであるが、乙谷の供述等により、その時間帯には乙谷は子供達を連れてロータリーの方へ木の根っ子掘りに出かけていて運動場にはいなかったことが認められ、それと矛盾していること、員面記載の「このことを誰かに『言ったらあかん』と言われましたか」との問いは、明らかな誘導であり、問いと答えをまとめたりその記載がそのままの問いではないとの供述調書の性格もあるが、この員面は問答体で記載されているのであって、問い自体が実際のものと大きく異なっていたとは考えられないのであり、やはり問題のある問いといわざるを得ないことに照らすと、この員面の記載は信用できない)。

52・12・6検面(弁一四五、二号書面として検四四九)では、Y子のことに関する部分で、「(これまでの調べのときに話してないのはどうしてかとの問いに対して)甲山学園の乙谷先生にそんなことをしゃべったらいかんと言われた」と答えているが、いつのことかは黙って答えていない。

53・3・16検面(弁一四八、二号書面として検四五四)では、Y子がいなくなったことについて乙谷と話したとして、「(乙谷先生はE子ちゃんにどう言いましたかとの問いに対して)言ったらあかんよと言った」ということであり、言われた場所については沈黙している。

このように、これらの供述調書の記載内容を検討しても、その記載が信用できない右52・7・18員面を除き、いずれも言われた時期、場所、その内容が不明であり、それが、検察官の主張する口止めといえるのか疑問があり、その根拠は薄弱といわざるを得ない。

ウ 加えて、E子のそれまでの供述内容をみてみると、例えば、49・4・5捜復において、Y子やXの行動をある程度供述しているうえ、Xが「さくら」の部屋で遊んでいたことも供述し、また、49・4・11員面では、テレビを見ているとき被告人を見た旨を供述している。

このように、E子はY子のこと、Xのこと、被告人のことについてある程度の供述をしているのであり、検察官の主張する口止めがいつあったかにもよるが、仮に、第一次捜査段階において口止めがあったとすれば、E子が右のようにある程度の供述をしていることの説明がつかず、仮に第二次捜査段階になってから口止めがあったとすれば、なぜ第二次捜査段階と同様の供述を第一次捜査段階にしなかったのかの説明がつかない。

検察官は、この点について、「E子にとって、被告人が一人でいた場面を述べることのほうがXと一緒にいた場面を述べることより心理的負担が軽いことは明らかであるから、前者については比較的早い時期から供述し得ても、後者については当初これを供述し得なかったことについては合理的理由があり自然なことであって、その供述が昭和五三年に至ってはじめて出たからといって何ら不自然なことではない」旨主張する。

しかしながら、検察官主張のように、被告人が一人でいた場面とXと一緒にいた場面とによって心理的負担が違うというのは、被告人が犯人であることを前提にした考え方であり、それをそのままE子の心理的負担にもってくることは前提としてとることはできず、また、前記のように、仮に口止めがあったとすると、E子がある程度のことを供述していることを説朋することは依然としてできないのであり、検察官の右主張は理由がないといわざるを得ない。

エ なお、検察官は、乙谷の支援状況や他の園児の口止めに関する供述をその根拠の一つにあげるが、そのことは間接的には根拠の一つにはなるとしても、E子の口止め供述が右の程度にとどまる以上、右のことを根拠にして口止めがあったとまではいうことはできず、右事実の存否を検討するまでもない。

オ さらに、検察官は、「E子が、捜査段階から、右主張の本件事件後に口止めをされたことと、被告人に対するはばかりがあったことなどから、真実の供述を行うことができないでいたことは明らかであり、このようなE子に、被告人の面前で真実の供述を行うことを期待することは到底できず、E子証言に信用性が存しないことは明らかである」旨主張するが、右のとおり、口止めに関する検察官の主張は理由がなく、被告人に対するはばかりによっても、右にみた疑問は説明できないのであり、検察官の右主張は理由がないといわざるを得ない。

3  供述内容からの検討

(一) 第一次捜査段階の供述の検討

(1) 供述状況

E子については、第一次捜査段階の昭和四九年において、三月三一日及び四月五日に各事情聴取した際の捜査復命書各一通(49・3・31捜復弁一二五、49・4・5捜復弁一二六)が作成され、その後、四月一〇日及び同月一一日に司法警察員により供述調書二通(49・4・10員面弁一二七、49・4・11員面弁一二八)が、同月一四日に検察官により供述調書一通(49・4・14検面弁一四〇)が作成されている。そして、同年五月には司法警察員により供述調書三通(49・5・14員面弁一二九、49・5・15員面弁一三〇、49・5・25員面弁一三二)、検察官により供述調書二通(49・5・18検面弁一四一、49・5・20検面弁一四二)、実況見分調書一通(五月一七日実施、同月一八日付弁一三一)が作成され、同年六月に司法警察員により供述調書一通(49・6・19員面弁一三三)が作成されている。

(2) 49・3・31捜復及び49・4・5捜復の内容

最初の捜査復命書(警察官大内幸人、鈴木和男作成)である49・3・31捜復には、「一九日は、乙野、乙原先生で、こたつに入って、テレビの歌を聞いていたところ、乙野先生が『Xがいなくなった』と言ってきた」旨の記載がある程度である。

そして、E子は、四月五日の警察官岩田及び芦田による事情聴取(49・4・5捜復)において、「午後七時半になってから乙野先生がテレビを切った。私がJ1子を、L子がK1子を『ばら』の部屋まで連れて行って寝かせた。(Xをどこかの部屋で見なかったかとの質問に対し、一度見ていないと否定してしばらく考えた後)見た。部屋にいた。『うめ』か『さくら』の部屋だったと思う。L1子、A子、M1子、H子、R子達と歌を歌ったりして遊んでいた。それから、マンガを見て六チャンネルの歌を見ていた。このとき、先生が『X、知らへんか』と探しに来たので、『知らん』と答えていた。(どこかに探しに行ったかとの質問に対して)L子と一緒に玄関までXの靴を見にいくと、靴があったので、Xは中にいると思った。Xを探しに来た先生は誰か覚えていない。男の先生か女の先生か覚えていない。『ぼたん』の部屋で寝ているとき、男と女の人が入ってきて、押し入れの中を探していた」旨を供述したことがうかがわれる。

(3) 49・4・5捜復の記載内容の検討

右が、E子が最初に具体的な供述をしたと思われる内容であるが、その後の供述調書の内容や他の証拠との関係でみていくと、次のことがいえる。

ア まず、就寝介助の点については、その後の供述調書でも開始時刻以外には変遷はなく一貫している。しかしながら、この点は、乙原の供述と矛盾しており、その裏付けがあるとはいえない供述である。

すなわち、乙原は、事件後間もない三月二〇日には既に、「G子、F1子、H子、J1子、E1子を順次それぞれの部屋に連れて行って寝かせ、午後七時四〇分にはディルームに戻った」(乙原の49・3・20員面弁二八)旨の供述をしており、J1子を連れて行った状況については、「ディルームのこたつの中に入っていたJ1子を起こし、居室の方に連れて行った」(同)旨を具体的に供述しているのであり、この供述はその後もほぼ一貫していて信用性が高いものである。もっとも、乙原の供述調書や乙原証言中には、E子がついてきたとか、日頃よく介助の手伝いをしてくれた旨の供述があり、乙原の供述によれば、乙原がJ1子に行った就寝介助は簡単なものであったことがうかがわれ、また、E子の供述によれば、E子はJ1子に長時間付き添っていたと供述していることを総合すると、検察官が主張するように「乙原が、J1子を『ばら』の部屋に連れて行き、その後他の園児の就寝介助を行っている間、E子はJ1子に添い寝をしてやっていたと考えられる」といえなくはないが、そうであっても、E子が供述する就寝介助に関する行動と乙原の供述との矛盾は解明されない。

また、J1子を寝かせるため連れて行った時刻については、「午後七時半になってテレビを切ってから」(49・4・5捜復)と供述し、49・4・11員面でも「午後七時半で、時計を見たので時間が分かった」と供述していたのが、その後「イナズマンを見ている途中のCMのとき」(49・5・15員面)、「イナズマンが始まってから」(49・5・20検面)、「ディルームの時計を見た。(時計で指示を求めたところ)七時四〇分に間違いない」(49・6・19員面)と変遷している。右供述内容からは、記憶を喚起したものということはできず、また、この変遷を説明する記載は全くない。

右のように就寝介助に関する供述は一貫していながら、乙原の供述と矛盾しており、開始時刻については、説明のないまま、断言する形で供述を変遷させているのであって、就寝介助が日常的な日課としての行動であることを考えると、E子が十分な記憶がないまま日頃の行動を供述したとの疑いを抱かざるを得ない。 イ 次に、Xを「うめ」か「さくら」の部屋で見た点については、この供述は、Xが「さくら」の部屋にいたというB、A子、Cの各供述と互いに裏付けあうものと一応いい得るものではあるが、この事実を最初に供述したと思われるBの供述する内容(Bに関する49・3・26捜復からうかがわれる)と遊びの内容、遊んでいた園児が一致しておらず、前記のとおり、この事実が甲山学園内での日常生活のひとこまといえるものであること、B、A子、Cの供述には他の証拠や相互の影響がうかがわれるなどの疑問点が指摘できることに照らすと、右園児らの供述があっても相互に裏付けあうものとはならないといわざるを得ない。

しかも、E子に関する49・4・5捜復をみると、「X君をどこかの部屋でみなかったかな」との誘導ともいえる質問がなされているのであり、その答えも「みてないよ」と一度否定しながら、「(しばらく考えた後)ああ、みたわ、部屋にいたわ、『うめ』か『さくら』の部屋だったと思う」と答えていることがうかがわれる。Xが「さくら」の部屋で遊んでいることは前記のとおり珍しい出来事ではないのであり、日常的な出来事とその日の出来事と区別をつけて供述しているのか疑問である。このことは、この供述が次のように変遷を重ねていることからもうかがうことができる。

すなわら、部屋の中の様子について、その後、「H子とL1子がいた。何をしていたか覚えていない」(49・4・10員面)、「G子、H子、L”1子といた。何をして遊んでいたかは見ていない」(49・4・11員面)、「H子やL”1子達と先生ごっこをして遊んでいた」(49・4・14検面)、「H子とL”1子がいた。G子は見ていない」(49・5・20検面)と供述する。遊びの内容が、「歌を歌ったりしていた」というのが、「何をしていたか覚えていない」となり、49・4・14検面では「先生ごっこ」と変遷し、その後は遊んでいたというだけである。この「先生ごっこ」というのは、Bに関する49・3・26捜復に出てきたものであり、Cが当初「追いかけごっこ」と供述していたのが「先生ごっこ」と変遷し(Cの49・4・9検面)その後は具体的に出ていないのと同様であり、その影響をうかがわせる。また、遊んでいた園児についても当初はXを入れて六名であったのが、三ないし四名と減り、その名前も大きく変遷し、一貫しているのはL1子(L’1子とかL1”子とあるが)とH子だけであり、「さくら」の部屋で起居しているA子は49・4・5捜復にだけ、G子は49・4・11員面にだけ出てくる(なお、E子は「『うめ』か『さくら』の部屋だったと思う」とあいまいな供述をしているのであるが、これは、本件事件後部屋の名前が「さくら」から「うめ」に変更されたことがうかがわれるところからすると、どちらの名前で言うのかを迷ったとの可能性も否定できないのであり、実況見分時には「さくら」の部屋を指示していることにも照らすと、部屋の特定自体があいまいであるとはいえない)。しかも、L1子については、乙原の供述によると、例えば、「L1子を寝かせようと思い、ディルームに行くと、L1子はテレビの前の舞台の降り口に腰をかけて一生懸命テレビを見ていた」(乙原の49・5・24検面弁五三)というのであり、E子がXと一緒のL1子を見た時期が明確ではないものの、矛盾していて裏付けがないと一応いえる。

このように、Xを見たという点については、その供述の出方にやや疑問があるうえ、その具体的な供述である部屋の中の様子などについて変遷や矛盾がみられることに照らすと、真に当日の出来事を記憶していてそれを喚起して供述しているのか疑問を抱かざるを得ない。

ウ また、Xを先生が捜しに来た点について、これは日常的な出来事ではなく、記憶に残りやすいものであるから、本件事件当日の出来事として供述しているといえる。

しかしながら、その記憶の程度はあいまいなものであり、それが明確となっていく点において不自然さがうかがえる。すなわち、Xを捜しに来た先生について、「誰か覚えていない。男の先生か女の先生か覚えていない」(49・4・5捜復)旨あいまいな供述をし、49・5・15員面でも「Xがいなくなったことを誰に聞いたか忘れた」旨供述していたのに、49・6・19員面に至って「乙野先生から聞いた」ことを前提として供述している。

エ 以上みてきたように、E子の当初の供述を子細に検討すると、日常生活での出来事との混同をうかがわせるもの、他の証拠からの影響をうかがわせるもの、事件当日の出来事でありながら記憶があいまいなものが混在しているのであって、その信用性には大きな疑問を抱かざるを得ない。

E子の供述内容はその後詳細かつ具体的になり、多くの事実が付け加わり、時間の先後関係も明確になっていくのであるが、右E子の当初の供述内容からうかがわれる特徴、その評価に鑑みると、その信用性については慎重な検討が必要である。

(4) 49・4・11員面の供述内容の検討

四月一一日に至って、初めて被告人の目撃供述が出てくる。その内容は、「テレビを見ているとき、被告人が来た。どこから来たか知らない。テレビを見ているとき顔を見せた。被告人は女子棟廊下の方に行った。(被告人はテレビを見てからすぐ来たかとの問いに対して)すぐ、ちょっとしてから。このとき乙原先生がテレビを見ていたか知らない。被告人はひとりだった。被告人が来たのがXがいなくなる前か後かは、忘れた。被告人が来たのはXの靴を見にいく前である」(49・4・11員面)というのである。

以下、右供述内容について検討する。

ア 右供述が出たのは、四月一一日の警察官岩田敬祐の事情聴取においてであるが、四月七日には被告人が逮捕されており、前記の捜査状況に照らすと、捜査官において、「うめ」か「さくら」の部屋でXを見た旨供述しているE子が被告人を目撃している可能性があると想定してE子の事情聴取にあたったと合理的に推測できるところである。

そして、四月一〇日には同じ岩田敬祐によってE子の事情聴取(49・4・10員面弁一二七)が行われているが、その際には、J1子を寝かせた後テレビを見ていたとの答えに続いて、「問--さくらの部屋かうめの部屋にX君はまだいましたか。答--覚えていない。問--この時先生は誰かきませんでしたか。答--覚えていない」とのやり取りがあるものの、被告人を見た旨の供述は出ていない。それなのに、翌日の同じ捜査官の事情聴取で被告人を見た旨の供述が出たのは、次に述べるような供述のあいまいさ、具体性のなさにも照らすと、不自然といわざるを得ず、真に記憶を喚起したものなのか慎重な検討が必要である。

イ 右49・4・11員面の供述内容を見ると、被告人を見たのがいつのことなのか極めてあいまいなまま、被告人を見たことだけが供述されており、具体性の乏しいものである。しかも、その後の供述内容を見ても、被告人を見た時期に関連させて種々の事項が加わり、また、被告人の服装に関する事項が加わるが、そのいずれにも不自然さ等が指摘できるのであり、真に記憶が喚起されたものなのか疑わしい。

また、ある出来事との先後関係を明確にして被告人を見た時期を特定する供述については、その供述の出方に加え、その出来事自体のあいまいさとE子の時間感覚のあいまいさから、信用性に乏しいといわざるを得ない。

ウ すなわち、被告人を見たのはいつのことなのかという重要な点について、「Xの靴を見にいく前である」との供述はあるが、「Xがいなくなる(先生が捜しに来る)前か後かは忘れた」とか、「テレビを見てからすぐ、ちょっとしてから」とどちらかわからないような供述をするなど、あいまいなものであったが、その三日後の49・4・14検面では、「先生が捜しに来る前に被告人を見た」旨の供述をしてその先後関係が明確になり、以後はその供述を維持し(49・5・15員面)、また、49・5・14員面では、「マーブルチョコレートをもらった前か後か分からない」と供述していたのが、翌49・5・15員面では「マーブルチョコレートを食べているときに見た」旨供述してその先後関係が明確になり、以後もほぼその供述を維持している(49・5・20検面<マーブルチョコレートをもらって間があいて被告人を見た>、49・6・19員面)。

このように、ある出来事との先後関係について「分からない」と供述していたのが、翌日あるいは数日後に明確になっていくのは不自然であるうえ、それが明確になった理由については何ら供述していない。そして、その先後関係を述べている出来事というのも、例えば、前記のとおり、「先生が捜しに来た」とはいうものの当初はその先生が誰かについてはあいまいであったのであり、そのようなあいまいであった出来事との先後関係を明確に述べること自体不自然である。また、マーブルチョコレートについての供述が出るのは事件後約二か月経った五月一四日になってからであり(49・5・14員面)、マーブルチョコレートをいつもらったのかについて、49・6・19員面では「J1子ちゃんを寝かせてテレビの前へ来てすぐや」と供述していることにも照らすと、E子が真に記憶を喚起して供述したのか疑わしいものであり、そのような出来事との先後関係を述べるのはやはり不自然といわざるを得ない。

エ さらにいえば、E子の供述を検討すると、時間感覚があいまいであることをうかがわせる供述がみられるのであって、その意味でも時間的先後関係に関する供述の信用性は乏しい。

すなわち、前記のとおり、E子は、49・4・11員面で、被告人が来たのはテレビを見てすぐかとの質問に対し、「すぐ、ちょっとしてから」といろいろ解釈のできる供述をしていること、49・6・19員面で、マーブルチョコレートをもらった時期について、「テレビの前へ来てすぐや」とE子の供述からではやや矛盾するような供述をしていること、同員面で、Xがいなくなったのをはじめて聞いたのはいつかとの質問に対し、「チョコレートをもらってからだいぶんあとで、歌のテレビがだいぶんすんだ時」と供述していることに照らすと、E子の時間感覚は厳密なものではなく、ややあいまいであることがうかがわれる。その意味においても、E子が時間的先後関係について当初「分からない」と供述していたのを明確にさせた供述は、その信用性に乏しいといわざるを得ない。

オ 右で述べたことは、次のようなE子の供述にもあらわれている。すなわち、49・4・14検面において初めてBへの電話に関する供述が出てくるが、その内容は、「その日Bに電話がかかってきたのを知っている。どの先生か分からないが『B君に電話だ』という声がしたので知った。私はその時廊下を歩いていた。それは、J1子を寝かすときだったか、私が便所に行くために廊下を歩いているときだったか、また、時間は何時だったかはよく覚えていないが、廊下を歩いているときに間違いない。その時、Xはテレビを見ていた」というものである。

昭和四九年当時にBへの電話に関する供述があるのはE子に関してはこの調書だけであり、真にE子がBへの電話について記憶を喚起して供述したのか疑問を抱かざるを得ないのであるが、それ以上に、何のために廊下を歩いていたのか、いつのことだったのか分からないまま、廊下を歩いていたことと関連させてこれまで供述していなかったBへの電話のことを供述し、それと関連させて、さらにXがテレビを見ていたことを供述しているのであり、しかも、廊下を歩いているときに間違いないとか、その時Xがテレビを見ていたと明確に供述しているのであって、いかにも不自然な供述である。

カ さらに、被告人の服装に関する供述が最初に出るのは、49・4・14検面である。その内容は、「Gパンをはいていたが色は忘れた。上着はなにを着ていたか忘れた」というものであり、そこには何らの特徴もみられず、その後の供述の変遷に照らすとE子が真に記憶を喚起して供述したのか疑問を抱かざるを得ない。

すなわち、その後の供述をみると、49・5・14員面において「黒い帽子のついた服。下は何を着ていたか忘れた」と大きく変遷し、翌日の49・5・15員面では「黒い帽子のついた服。(スカートをはいていたかとの問いに対して)ズボンみたいやった」となり、49・5・20検面では「黒い服で帽子がついていた」となっている。

このように、四月当時にはジーパンをはいていたというだけで、特徴的と思われる上着についての供述がなかったのに、五月になって「黒い帽子のついた服」と上着について供述し、「ジーパン」と供述していたのが「下は何を着ていたか忘れた」というのはいかにも不自然であり、四月当時の「ジーパン」というのも、「被告人がいつも着ていたのは、下がジーパンで、上着は分からない」(49・5・15員面)と供述していることに照らすと、いつもの被告人の服装の記憶から供述したものとの推測も可能であり、E子には、被告人を見たというものの、その服装についての記憶がなかったことをうかがわせる。

キ 以上みてきたように、被告人を見た旨のE子の供述には、真に記憶を喚起して供述したのか疑問を抱かざるを得ないが、E子は、第二次捜査段階においても右供述を維持し、被告人をもう一度見たことをも供述するに至っているので、これとあわせて、以下においてさらに検討する。

(二) 第二次捜査段階の供述の検討

(1) 供述内容

E子については、昭和五二年には、検察官により供述調書三通、司法警察員により供述調書六通が作成されているが、被告人の目撃状況を供述しているのは52・4・16員面(弁一三四)、52・4・18員面(弁一三五)、52・4・23検面(弁一四三、二号書面として検四五〇)、52・5・1員面(弁一三七)、52・5・14検面(弁一四四、二号書面として検四五一)、52・12・6検面(弁一四五、二号書面として検四四九)である。また、昭和五三年には検察官により供述調書三通が作成されているが、被告人の目撃状況を供述しているのは、53・3・13検面(弁一四六、二号書面として検四五二)、53・3・15検面(弁一四七、二号書面として検四五三)である。

(2) 昭和五二年当時の供述について

ア 昭和五二年当時の供述では、「マーブルチョコレートを食べているとき、被告人を見た。乙野先生がXがいないと言ってきた。被告人を見たのが先」(52・4・16員面、52・4・18員面弁一三五、53・4・23検面、52・5・14検面)ということを一貫して供述している。

この点については、昭和四九年当時の供述で検討したように、マーブルチョコレートに関する供述が出たのが事件後約二か月経ってからであること、それも最初は被告人を見たのがそのマーブルチョコレートをもらった前か後か分からないと供述していたのが、被告人を見たのが前であると明確化してきたという不自然さがあったのであるが、この昭和五二年当時では明確にその先後関係を供述し、それも一貫しているうえ、52・5・1員面ではさらに「マーブルチョコレートを二ケ食べたとき」と詳細になっているのであり、これが事件から約三年後の供述であることを考えると、不自然といわざるを得ない。

イ これに加えて、52・4・23検面、52・5・1員面では、被告人を二回見たことを供述している。すなわち、「被告人を二回見た。もう一回見たときのことを言うと私が困る。覚えているけど言えない」(52・4・23検面)、「被告人と二回会った。二回見たこと言ったら困る」(52・5・1員面)というのである。これが昭和五三年当時の供述に発展していくものであり、その検討は右供述を検討する際に行うが、弁護人が指摘する捜査官の尋問の方法について、ここで触れておく。

(ア) 弁護人は、「昭和五二年の各調書は、いずれも、一九日当日の午後八時前後のE子の行動についてはほとんど何も聞かず、被告人を何回見たかのみを追求したものである」、「また、第一次捜査におけるE子の被告人の目撃供述自体も、X行方不明を聞いたこと自体もあいまいで具体性に欠けており、被告人目撃とXの行方不明伝達の前後関係については、E子の供述は変遷していたのであるから、三年も前の一九日の午後八時前後の供述を求める場合、乙原からマーブルチョコレートをもらったこと、Xがいないことを知ったこと、被告人を廊下上で目撃したことの三つの事実の順序についても、E子の記憶を改めて確かめなければならないのに、昭和五二年の各調書は、いずれも、質問の順序そのものが、乙原からマーブルチョコレートをもらった、被告人を見た、乙野がXがいないと言ってきたという時間的順序を前提にしたものとなっており、それ自体が誘導尋問そのものといわねばならない」旨主張する。

(イ) 事情聴取の方法として、具体的にどのように聞いていくかは事件内容によって捜査官が判断するところであり、「本題にすぐ入る」(逢坂証言)とか、行動を具体的に詳しく聞かないとか、ある程度の順序で質問していくとかは、そのこと自体にことさら問題があるとはいえない。

しかしながら、弁護人主張のように、昭和五二年当時の各調書の記載内容をみてみると、例えば、

52・4・16員面では、

問--X君のいなくなった晩、何をしていましたか。

(テレビを見ていたとの答え)

問--その時、誰れかに何かもらったか。

(マーブルチョコをもらったとの答え)

問--マーブルチョコを食べていた時、誰れか先生を見ましたか。

(被告人を見たとの答え)

問--E子ちゃんはそれからどうしたの。

(テレビを見ていたとの答え)

問--X君がいないと言ってきたのは、誰れですか。

(乙野先生との答え)

問--それからE子ちゃんどうしたの。

(玄関へ靴を見に行ったとの答え)

問--それからどうしたの。

(忘れたとの答)

問--沢崎先生を見たのは一回だけですか。

(廊下で見た。それ以外忘れたとの答え)52・5・14検面では、

問--J1子ちゃんを寝かせてからどうしましたか。

(ディルームヘ行ってこたつに入ったとの答え)

問--それからどうしましたか。

(乙原先生にマーブルチョコをもらったとの答え)

問--この前の調べの時、沢崎先生を女の保母室の戸の前のあたりで見たと言いましたが、間違いありませんか。

(うんとの答え)

問--いつごろ沢崎先生を見たのですか。

(マーブルチョコを食べているときとの答え)

問--乙野先生が、X君がいないと言って来ましたか。

(言って来たとの答え)

問--それは、沢崎先生を保母室の前で見た前ですか、あとですか。

(あととの答え)

問--乙野先生がこのように言って来た時、乙原先生はディルームにいましたか。

(おったとの答え)

問--乙野先生が来てから、あなたはどうしましたか。

(Xの靴を見に行ったとの答え)

問--それからどうしましたか。

(ディルームでテレビを見たとの答え)

問--この前の調べの時、沢崎先生を二回見たと言いましたが、保母室前で見たほか、もう一回はどこで見たのですか。

(答えず)

とあるように、ほぼ同じような順序で質問が構成されていることは、弁護人指摘のとおりである。

このような順序で質問がなされ、それが繰り返されることにより誘導あるいは暗示の効果を与えることは否定できず、捜査官の側で誘導しないように留意していた(逢坂証言)としても、そのような質問がなされることによる影響は無視できない。しかも、その都度、「被告人を見たのは一回だけか」と質問をしている(52・4・16員面、52・4・18員面弁一三五、52・4・23検面、52・5・1員面<被告人と何回会ったのかと質問して二回という答えが出る>)のであって、その影響も否定できない。

(ウ) このような質問によって得られた供述について、弁護人は、「繰り返し被告人を何回見たと聞かれ、E子自身の記憶にも混乱が生じた可能性がある。すなわち、被告人はX行方不明後青葉寮に捜索のために入っているため、E子自身の記憶にはいつかわからないが被告人を見た記憶があったために、49・6・19員面以来マーブルチョコレートをもらってから乙野がXがいないと言ってくる前に被告人を見たということにされてしまっていた。それはE子の本来の記憶にあるものとは異なるもので、捜査官に設定されている被告人の目撃と、E子の記憶の中にある被告人の目撃とが別のものと意識されて、そのために被告人を見たのは二回だという記憶の混乱を招いた可能性がある」旨主張する。これまで検討してきたことを総合すれば、右弁護人の主張は一概には否定できず、このことは、次に検討するE子の見た被告人のいた場所、様子、行動等の供述内容からもうかがわれるところである。

ウ E子が見たという被告人のいた場所、様子、行動について昭和四九年当時の供述も含めて、検討しておく。

(ア) この点に関する供述をみると、昭和四九年当時では、「被告人が来た。被告人はどこから来たかしらない。顔をみせた」(49・4・11員面)、「被告人が一人で来て女の廊下の方へ行くのを見たが、どこに行ったのかまでは見ていない」(49・4・14検面)、「被告人が来た。被告人は女子棟廊下入口にいた。(図面で示した)」(49・5・14員面)、「被告人を見た。(そのときの被告人のいた位置を、ディルームに行ってE子にその位置を確かめて、E子が略図に記入)被告人は女子棟の方へ行った」(49・5・15員面)、「被告人を見た。被告人は女の保母室の横にいた」(49・5・20検面)というのである。

(イ) これらの簡単な供述内容からでは、被告人が何をしに来たのか明確ではない。しかしながら、49・4・11員面の「顔をみせた」との記載からは被告人がディルームに顔を見せた趣旨にとれる供述であり、被告人がディルームの様子をうかがっている状況とは異なった印象を受ける。

なお、49・4・14検面中には削除された部分があり、その記載は「沢崎先生は、テレビの所に一寸いただけで」というものであり、「テレビの所」すなわちディルームにいたという49・4・11員面と同趣旨の記載であり、それが削除されている。この記載は削除されている部分であり、それを評価の対象にすることには慎重であることが必要であるが、例えば右削除された記載と異なる供述などこれに関する記載が他にはなく、単に削除されているにすぎないこと、削除の理由については何らの記載もないことに照らすと、49・4・11員面と同趣旨の記載が理由のないまま削除されているという意味において無視できないと考える。

そして、E子が被告人がいた場所として図面で指示したところは、49・5・14員面では女子保母室前の女子棟廊下でディルームとの境あたりで、49・5・15員面では女子保母室横のディルームの中であり、ややその位置に違いはあるものの、いずれも、ディルームからは丸見えになる位置であり、やはり被告人が女子棟廊下からディルームの様子をうかがっているという状況をうかがわせるものではない。

(ウ) 次に、昭和五二年当時の供述をみると、「被告人は、一寸廊下でこちらを見て、女子棟の廊下を奥へ行った」(52・4・16員面、52・4・18員面)、「被告人は、女子棟の廊下のところにいた。女子保母室の戸の前あたりにいるように見えた。その廊下をディルームと反対の方へ歩いて行った」(52・4・23検面)、「女子棟廊下のところにいるのを見た」(52・5・1員面)、「被告人を女子保母室の戸の前のあたりで見たことは間違いない。被告人はあっちの方へ行った(女子棟廊下の東の方を指す)」(52・5・14検面)というのである。

ここでは、おおむね、被告人は女子棟廊下、それも女子保母室の前あたりにいたというものであり、図面による指示がないので明確ではないが、昭和四九年当時の供述よりやや女子棟廊下に入った位置であるように思える。

しかしながら、いずれにしても、E子の供述する被告人の位置は、ディルームからは丸見えになる位置であり、やはり被告人が女子棟廊下からディルームの様子をうかがっているという状況をうかがわせるものではない。

(3) 昭和五三年当時の供述について

ア E子は、昭和五三年当時において、検察官仲内勉の事情聴取の際、被告人をもう一度見たことと女子便所でBを見たことを新しく供述するに至っている(53・3・13検面、53・3・15検面)。

事件後約四年経ってから、しかも起訴後になってから新たな事実を供述したという点で、極めて特異であり、この点についての基本的な問題点については前記のとおりであるが、その供述内容についても、以下のとおり、種々の疑問点が指摘できるのであり、いずれにしても信用性に乏しい供述といわざるを得ない。

イ まず、その内容をみると、53・3・13検面では、右新たな供述以外にも、J1子を「ばら」に連れて行ってディルームに帰るまでの行動に関しての詳細な供述が記載されている。

その内容は、「J1子を便所に連れて行くときにXがH子、L1子と『うめ』の部屋の前の廊下にいた。ディルームに行く前に『さくら』の部屋に入るとX、G子、A子がいた。XとG子は歌っていて、A子はふとんの中にいた。『うめ』の部屋に入ると、H子、M1子、A1子が先生ごっこをしていた。『さくら』、『うめ』の部屋に入ったのはM1子を捜していたから」などと、これまで明確でなかったことが明確に述べられていたり、いわば新たな供述ともいい得る供述がある。

これまで明確でなかった点あるいはこれまで供述していなかった点について、どうして明確になったのか、思い出した理由やこれまでの供述との違いなどの説明もないまま、この時期になって供述していること自体いかにも不自然であり、これが、E子が記憶に基づいて供述した内容なのか疑問を感じざるを得ない。

ウ 次に、被告人の目撃供述についてみると、E子が供述する二回目の被告人を見たときの状況は、53・3・13検面では、「『ぼたん』の部屋に行こうと思って、ボイラー室のうしろを通って女の子の部屋の並んでいる廊下まで来た。ロッカールームと女子保母室の間の廊下で、『ぼたん』の部屋の前の廊下にいる被告人を見た。顔や髪の毛も見えた。被告人は、Xと一緒にいた」というものであり、53・3・16検面では、「おしっこに行きたくなり、立ち上がって畳の上を歩いて女の子の部屋が並んでいる廊下に行った。廊下に行った時、被告人とXを見た。Xと被告人は『ぼたん』の部屋の前の廊下にいた。被告人とわかったのは、被告人の顔や髪の毛が見えたから。服も同じだった。私が見たのは、女子保母室前の廊下から女子便所に歩いていく時」というものである。

いずれも、それ以上の供述はなく、検察官主張のような被告人のX連れ出し行為を目撃していたとすれば、E子の目撃したのは「ぼたん」の部屋の前の廊下でのことであるから、被告人の行動、Xの行動等に関する何らかの供述がなされてしかるべきであるのに、それが一切出てこないのであって、これまで何度となく質問されていて、約四年間も言わなかった事項を供述したにしては具体性、迫真性に欠けるものであり、信用性に乏しい供述といわざるを得ない。

また、53・3・13検面では「ぼたん」の部屋に行こうと思って廊下に出たとなっているだけで、「ぼたん」の部屋に行こうとした理由が不明であるうえ、被告人らを見た後「ぼたん」の部屋に行ったのかどうか不明のまま、なぜか便所に入ってBを見ることになるという不自然さがあり、さらに、それが、二日後には(53・3・15検面)、最初からおしっこをしたくなり廊下に行ったと変遷するのであるが、その変遷についての説明は何も記載されていない。

なお、E子は一回目に被告人を見たことも供述しているが、被告人のいた位置については、「女子保母室の横の廊下」ということであり、53・3・15検面添付の図面に記された位置は、49・5・14員面添付の図面の被告人がいたとされる位置とほとんど同じであり、したがって、ディルームからは丸見えになる位置であり、被告人が女子棟廊下からディルームの様子をうかがっているという状況をうかがわせるものではないことは、同様である。

エ さらに、Bを見たとの供述に関してであるが、その内容は、53・3・13検面では「このあと、女便所に行くと、Bがいた。男のBが女便所にいるのはおかしいと思った」というものであり、53・3・15検面では「このあと、女の便所に入り、一番廊下に近くの所でおしっこをして、手を洗い拭いた。女の子の便所でBを見た。(便所に入る前か、出るときか問われて)(答えなし)」というものである。

前記のとおり、53・3・13検面では「ぼたん」の部屋に行くはずがそれがどうなったかの供述がないまま便所に入ったとの供述になり、それが53・3・15検面ではそもそも便所に行くためであったと供述が変遷していること、Bを見ておかしいと思ったとは述べるものの、それ以上にBの言動等についての供述が一切ないこと、Bが女子便所から被告人らを見ていたことは、既にBが供述している(Bの52・5・7員面)ところであり、しかもBの52・6・17検面(弁一二一)には、Bの供述の検討で指摘した「KがVに、『X君が連れて行かれるのを、B君が便所から見ていたとE子さんが言っていた』と言っていた」旨の記載があること、これらに照らすと、E子の供述するBを見たとの供述は信用性に疑問があるといわざるを得ない。

オ 検察官は、昭和五三年三月一三日の事情聴取にあたった検察官仲内勉の証言(E子には何でも語らせ、何でも聞いてやるというゆったりとした態度で臨み、相手がこちらに何でも話してくれるような雰囲気を作るようにした。また、暗示を与えるようなことは避けるようにした)に照らし、「仲内のE子に対する取調べは精神遅滞児童に対するものとしては極めて適切な方法でなされており、同女に対して安心感を与えるような取調べを行った結果、その心理的負担が和らぎ、被告人とXの目撃供述がなされたと考えられるのであって、このような取調べの結果、右供述が出たことは、何ら不自然なことではない」旨主張する。

仲内証言によれば、確かに検察官主張のように適切な方法によって事情聴取を行ったことがうかがわれるのであるが、前記のようなE子の供述内容、供述経緯に照らすと、その事情聴取方法が適切であったからといって、そのことは供述内容の信用性を高める一つの有力な事情ではあるものの、それだけからその供述の信用性も認められるとはいえないのであり、その信用性については、それまでの事情聴取状況や供述内容等をも総合して判断すべきであり、前記のとおり、E子の供述内容については、右事情聴取方法の適切さからだけでは説明できない不自然さがあり、その信用性の判断において検察官の主張のようにはいえない。

カ また、検察官は、「E子が、その後の被告人とXの行動を述べなかったのは、その段階においても、E子の被告人に対するはばかりないし心理的負担がすべては解除されていなかったからであると考えられる」とか、「E子が、被告人をはばかって女子棟廊下上での被告人の目撃事実を述べようとしない場合、女子棟便所に行った事実についても供述をしないことは不合理なことではない。また、E子のBを目撃した旨の供述内容が具体性に欠けてはいるが、それは、E子が、Bを便所で目撃したことの記憶はあるものの、具体的な目撃状況やその際の同人の行動状況などについては、事情聴取時においては記憶を失っていたからであり、E子のBを目撃した供述に具体的内容がないからといって、それが取調官の誘導の産物であるとはいえないことは当然である」旨主張する。

しかしながら、前記のとおり、E子証言においてはE子の被告人に対するはばかりがみられたことは認められるものの、それが事件後ずっと被告人に対するはばかりがあったことを示すものとはいえず、逆に、捜査段階においてはある程度被告人に対することも供述しているのであって、被告人に対するはばかりだけでは説明できないのであるから、検察官の主張は前提において理由に乏しいといわざるを得ない。

また、検察官は、E子が記憶を失っていたため具体的行動について供述しなくても不自然ではない旨主張するが、そのような記憶がないとすると、そもそもBを女子便所で見たとの記憶も確かなことであるのかとの疑問を抱かせるものであり、その供述の信用性については、やはり前記のような総合的判断が必要なのであり、捜査官の事情聴取の方法や被告人に対するはばかりということと直結してその供述内容の信用性を判断することは相当ではない。

五  E子の供述の評価

以上を総合すると、E子の供述については、E子証言では検察官の主張を根拠付ける証言は出なかったこと、E子の捜査段階の供述では、全体としてE子が真に記憶を喚起して供述しているのか疑問であること、被告人を二回見たとの供述は、具体性、迫真性に欠けるなど信用できないこと、被告人を見たとの供述は、同様に信用しがたいものではあるが、ある程度一貫していることや被告人の位置などからすると、本件事件当夜に青葉寮にXを捜しに来た被告人を見た記憶がE子にあり、その記憶が明確でないため、被告人を見た旨の右供述になった可能性があること、Bを見たとの供述は、不自然であって信用できないことが指摘できるのであり、結局、検察官が主張するE子の供述内容は信用できないといわざるを得ない。

第十一  自白調書の信用性

一  被告人の自白の概要

1  供述状況

(一) 被告人は、昭和四九年四月七日本件殺人の被疑事実によって逮捕され(四月一九日勾留、四月一三日勾留理由開示公判、四月一八日勾留延長)、四月二八日処分保留のまま釈放されるまでの間、検察官及び司法警察員の取調べを受け、次のとおり、検察官面前調書八通、司法警察員面前調書一八通が作成されている。

請求番号 作成日 作成者

(検察官) 月・日 ( )内は立会筆記者

二五九 四・八 司法警察員-勝忠明(三木兼三)

二六〇 四・一一 司法警察員-勝忠明(三木兼三)

二六一 四・一二 司法警察員-勝忠明

二六二 四・一三 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二六三 四・一四 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二六四 四・一四 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二六五 四・一四 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二六六 四・一五 司法警察員-勝忠明(三木兼三)

二六七 四・一五 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二六八 四・一六 司法警察員-勝忠明(三木兼三)

二七七 四・一六 検察官-佐藤惣一郎

二七八 四・一七 検察官-佐藤惣一郎

二六九 四・一七 司法警察員-山崎清磨(三木兼三)

二七〇 四・一八 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二七一 四・一九 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二七二 四・一九 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二七三 四・二〇 司法警察員-勝忠明(三木兼三)

二七四 四・二一 司法警察員-勝忠明(三木兼三)

二七九 四・二五 検察官-佐藤惣一郎

二八〇 四・二五 検察官-佐藤惣一郎

二七五 四・二六 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二七六 四・二六 司法警察員-山崎清磨(勝忠明)

二八一 四・二七 検察官-佐藤惣一郎

二八二 四・二七 検察官-佐藤惣一郎

二八三 四・二七 検察官-佐藤惣一郎

二八四 四・二八 検察官-佐藤惣一郎

(二) そして、被告人は、昭和五三年二月二七日本件殺人の被疑事実により再度逮捕されて検察官の取調べを受けたが、供述調書は一通も作成されなかった。

(三) 第一次捜査段階で作成された右二六通の供述調書のうち、検察官の立証趣旨に「自白」とあるのは、49・4・17員面(検二六九)、49・4・18員面(検二七〇)、49・4・19員面(検二七二)、49・4・20員面(検二七三)、49・4・21員面(検二七四)の計五通だけである。

いわゆる物的証拠のほとんどない本件においては、右各自白調書の持つ意味は大きく、また、検察官の主張する犯行動機は、右自白調書(49・4・19員面、49・4・20員面)によっているのであるから、この点でも大きい意味を持っている。したがって、これらの自白調書の信用性の判断が、前記園児供述の信用性の判断と共に、本件の帰趨を決するものというべきである。

2  自白調書の全文

そこで、その重要性に鑑み、右各自白調書について、その全文を原文のままあげておく。

<1> 49・4・17員面(検二六九)

一 今夜は本当のことを申し上げます。Y子ちゃんとX君をやったことは私に間違いありません。その理由については明日朝から申し上げます。

二 私が本当の気持をいう気持になったのはY子ちゃんとX君があのマンホールのつめたい中でどんなに苦しんだかこわかったかその苦しみを考えるときに私の苦しみなどはそれにくらべるとなんでもありません。ですから今夜は勇気を出して思い切って申し上げました。

三 私はこの本当のことをお父さん学園の人達に対して二通の手紙を書きました。私が全部しゃべったときにこの手紙を渡して下さい。

四 X君とY子ちゃんのめい福を祈っております。田中部長さんにY子ちゃんが死んでちょうど一ケ月になると教えてもらいました。忘れてはならないことを忘れていました。Y子ちゃんに悪いことをしたと思っております。

五 Y子ちゃんとX君をマンホールに落して殺したのは本当に私に間違いありません。どうぞ御両親の方々もお許を下さいますようお願い致します。

<2> 49・4・18員面(検二七〇)

一 私は、うすぼんやりと憶えていますが、青葉寮に入ったのは女子棟の子供の部屋から入りました。洗濯仕分け室の方から三つ目の部屋でした。靴を履いて上ったのか、脱いで上ったのか憶えておりません。子供は確かにおりましたが誰だったか、寝ていたか起きていたか、二、三人だったか憶えておりません。

二 私はそれから、いったん廊下へ出て、非常口(東)の方へ歩いて行きました。いま非常口ヘ歩いて行ったと言いましたが、私の思い違いで、デールームの方へ歩いて行きました。G子ちゃんの部屋まで来るとX君が鬼ごっこをしておりましたので、「X」と声をかけました。X君の鬼ごっこの相手は憶えておりません。ほかに誰かが居ったのか、それも判りません。私は確か部屋の中に足を一歩踏み入れて「X」と声をかけた感じがします。それから、もときた方ヘバックしました。はっきり断言出来ませんが、私の右手でX君の手をひき、真すぐ突当った東非常口から外へ出ました。非常口の扉はいつも鍵がかけてありますので、マスターキーで私が開けて外へ出たような気がします。

<3> 49・4・19員面(検二七二)

一 一七日の夜、X君とY子ちゃんを殺しました、と申しました。それは本当のことです。いろいろのことを思い出しましたので、お話をします。一七日Y子ちゃんのことについて、先に申します。一七日夕方、食堂で夕飯の配膳をしたとき、Y子ちゃんのいないことを気付き、青葉寮へ捜しにいきB君に声をかけたことまで、話しております。Y子ちゃんは、お腹のすいたときは、一人で食堂にやってきますが、ふだんは捜しに行かないと、なかなかやってきません。その日はY子ちゃんを捜すため行ったのです。ほかの子を呼ばなくてもきちんと来てくれます。Bに声をかけてから、女子棟の方を捜しましたが、Y子ちゃんの部屋にもおらないので、浄化槽の方を捜しに行きました。Y子ちゃんは浄化槽の付近でよく草むしりをする子であったので、多分浄化槽の付近だと思って捜しに行ったのです。私が東の用務員室の方から回って、青葉寮の裏の方に行きますと、Y子ちゃんが浄化槽の上で遊んでおりました。私が「Y子」と声をかけると、Y子が立ち上ったとたんよろけて突然姿が見えなくなりました。私はあわてて走って、行って見ますと、浄化槽の蓋が開いており、その中へY子ちゃんが落ちたということが判りました。覗き込んで、Y子ちゃんを捜しましたが、Y子ちゃんが見付からないので、「これは大変なことになった」、自分の当直のときの責任になる、と考えました。乙谷先生に連絡しようとも思いましたが、私が一人居ったときの当直中のことでしたから、責任を深く感じました。それでつい蓋をしてしまったのです。

二 私は悩みました。そして、私の責任をカモフラージューするために、ほかの当直中の人の時に事故が起きたら自分が助かると思いました。それで一九日の日にX君をマンホールに入れて、殺してしまったのです。私は一五分間の行動を思い出しませんと言っておりましたが、今日取調べを受けて、本当のことを話する決心がつきました。一九日午後八時前に事務室を出て、きのうお話したように青葉寮の女子棟の仕分室から三つ目の部屋に上り廊下に出て、ディルームの方へ歩いて行きました。G子ちゃんの部屋で目についたのがX君です。目についたX君を「Xくん」と呼び、非常口の扉から外に出て手をひいて行き、マンホールの蓋をあけX君をマンホールヘ入れたのです。X君の繊維はそのときに着いたものと思います。それは警察からついていることを聞いております。今日はX君の命日です。心からX君のめいふくを祈っております。

<4> 49・4・20員面(検二七三)

一 一九日午後八時ごろ、X君を青葉寮裏のマンホールに投げ込み殺したことについては昨晩も申しましたがそのとおりです。引続いてもう一度記憶を呼びさましそのときのことを申します。

二 一七日私の宿直中にY子ちゃんが行方不明になりそれが原因で多数の職員、警察官がその捜索に来て大騒ぎになり非常に責任を感じていたのと、Y子ちゃんを他の者に私が殺したと思われはしないかと思い、そのことから他の宿直のときでも事故があれば、いくらか私の責任は軽くなる、いわばカモフラージューするというあさはかな考えから、X君をひどい目に合わせてしまったのです。

三 一九日午後七時三〇分ごろY子ちゃんの捜索ビラ配りから帰り事務所に入りました。伊丹から買ってきたミカン、バン等のおやつを机上に出し、午後八時ごろミカンを持って当時Y子ちゃんの対策本部にしていた若葉寮へ行きました。若葉寮を出てから私の不注意でたくさんの人に迷惑をかけたという自責の念でいっぱいになり、そのことは終始脳裏から離れないまま、グランドを通って青葉寮へ行ったのです。

四 青葉寮には、何処から入ったかよく思い出せないのですが女子棟の仕分室から三つ目の部屋あたりから入ったと思います。そのとき、私は何を履ていたか、これもよく思い出せないのですが、たぶん靴(赤茶の底全体が高くなったもの)のままで入ったと思います。そして保母室側から女子室の、さくら、梅、こすもすの前を通っている時、たぶん平素から仲の良いG子ちゃんのさくらの部屋で遊んでいたと思うX君を見て、「X」と呼びました。Xを見た瞬間カモフラジユーするためにはこの子をマンホームに投げ込み殺そうと思ったのです。最初からX君を目的で来たのではありません。そのときのX君の服装については思い出せません。

問 このときおやつに買って来た食品をXにやったことはないか。

答 おやつは前にも申しあげたとおりミカン、パン、サンドイッチ等を買ってきて、そのうち、若葉寮にミカンを持って行きましたが、青葉寮に来るときは何も持っていなかったと思います。

そしてX君にも食べものを与えた記憶はありません。

五 出て来たXの手を引いて長い廊下を通ったことは憶えております。このことから考えて確かに女子棟の非常口ヘ行き持っていたマスターキーで戸を開けて外へ出たのです。

このとき本職は山内康雄弁護士から任意提出を受けたキーホルダー付キー四個を提示した。

今見せてもらいましたキー四個の内マスターキーと英語で書いてあるナンバー四三B二四Kがただ今申したマスターキーであります。

そしてそこからX君の前の方から両脇を抱えるようにして抱きあげて青葉寮の裏へ回り浄化槽のところへ行きました。なにしろ恐ろしいことをしたのですし、この辺の詳しい事情についてははっきり思い出すことは出来ません。ともかくX君を一度降ろしておいてマンホールの蓋を開け再び前から両脇を抱くように抱え上げX君の足から浄化槽の中え落しました。汚水の溜っている浄化槽内に落せば当然死ぬことは判っています。そして鉄蓋を閉めましたが鉄蓋がどんなものであったかも良く憶えません。

六 こうしてX君を連れ出しマンホールに投げ込んでからその後管理棟の方へ引き返しました。そうしたとき青葉寮から管理棟の方へ向って来る乙原先生に会い、Xがいなくなったことを聞いたのです。以上申し上げましたが今ではX君に対してすまない気持でおりますし、X君のご両親に何んといってお詫びしてよいものかその言葉もございません。

<5> 49・4・21員面(検二七四)

一 昨日に引続いて申します。三月一九日午後八時ごろX君をマンホールに投げ込み殺したということについては間違いないと思います。そのことについて、まだもう少し思い出さないところがありますので、検事さんに申しあげるのははっきり気持ちを整理してからにいたします。

二 昨日申しあげたうち、三月一九日私が阪急伊丹駅高架下のショッピングセンター内でおやつとして買ったミカン一袋(一〇個ぐらい入っていた)を午後七時三〇分ごろ管理棟の事務室に持って帰り、机の上に置きました。乙谷先生がミカン食べていたのは知っております。私も食べたように思いますが、おはぎははっきり食べた記憶はあります。午後八時前ごろ買って来たミカン三~四個ぐらいを若葉寮に持って行ってやりました。その際事務所で食べさしのミカンを持ってきておりそれを持って次に青葉寮へ行ったのです。このときの私の服装は外出着の黒フード付きオーバー、Gパンチャック付、赤茶色底全体が高くなった靴姿であります。食べさしのミカンはオーバーのポケットに入れた憶えはないので手に持っていたと思います。

三 グランドを通り、たぶんY子ちゃんの部屋のグランド側から土足のまま入りました。昨日も申しあげたとおり、女子室仕分け室にいたる、さくら、うめの部屋前廊下を歩いているとき、G子ちゃん、A子ちゃんの部屋にX君がいたのでXおいでと呼びました。たしかA子ちゃんが見ていたように思います。A子ちゃんは、寝ていたのかどうしておったのかは憶えておりません。ただX君はG子ちゃんと仲良しでよくその部屋にいるので、私がX君を連れ出したとき、見ているとすればA子ちゃんしかいないと思います。X君を呼んですぐ手に持っていたミカンをやったように思います。その後のことについては次回に申しあげます。

3  自白の前段階ともいえる供述及び自白と否認を繰り返していた状況

以上が、被告人の各自白調書の全文であるが、被告人は、右各自白調書が作成される以前にも「無意識のあいだにX君を殺ってしまったような気がする」旨の自白に至る前段階ともいえる供述をしており、また、最初の自白供述をした後も、一貫して自白を維持していたのではなく、短時日のうちに自白と否認を繰り返している。

(一) 自白の前段階ともいえる供述の内容

右最初の自白調書(49・4・17員面)が作成される三日前の昭和四九年四月一四日に次のような自白に至る前段階ともいえる供述(49・4・14員面検二六三)をしている。

「一 私は、いまいろいろ考えておりますが、気持ちが動揺して、正確なことはっきり思い出しません。一九日夜、園長先生が帰られてから、青葉寮のトイレを借りに行ったと申しておりましたが、この正面玄関から入るとすぐ子供達が気が付いて、沢崎先生や、悦子先生やという筈です。そういうことから考えてみると、私は青葉寮のトイレを借りに正面玄関から入っておらないことが判りました。ほかの場所から入ったことについては思い出そうといくらあせっても思い出しません。この一五分間ぐらいの間の記憶は、どうしても思い出せないのです。その時間ごろ、ちょうどX君が連れ出されたころになりますが、いろいろのことを考えると、私が無意識のあいだに、X君を殺ってしまったような気がいたします。

二 子供達は清純で天真爛漫です。嘘をいうとは思いません。私がX君を連れ出したのを見ている子供があれば、それは本当のことだと思います。そういうことから考えて、私が何時の間にか殺ってしまったと思うのです。私は意識がはっきりしておれば、若しXを殺っておれば、その事実をありのままにお話したいと思いますが、そのことがどうしても思い出しません。私は過去に物忘れをしたりして、または突飛な行動をしたりして、人に笑われたような記憶もありません。また病院に入院したこともありません。」

(二) 自白と否認の交錯状況の概要

そして、右供述後、四月一七日夜になってはじめて犯行を認める供述(検二六九)をしたが、翌四月一八日朝「殺していないので動機を話すことはできない」として犯行を否認し、同日夜には、動機については供述しなかったが、青葉寮に侵入した場所と犯行の粗筋を認める供述(検二七〇)をし、翌四月一九日には、またも犯行を否認(検二七一)し、その日の再度の取調べでは犯行を認め、動機についても供述(検二七二)するに至り、翌四月二〇日(検二七三)、四月二一日(検二七四)には自白を維持していたが、四月二二日以降は否認に転じ、その後は一貫して無実を主張している。

二 自白の概要からみた問題点

1  自白の出方、否認との交錯

以上みたように、被告人は、逮捕当初から自白していたものではなく、逮捕から一〇日を経て自白するに至ったものであり、しかも、最初の自白をしてからも、短時日のうちに自白と否認を繰り返し、最初の自白をしてから六日目には否認に転じ、以後は一貫して否認している。これらの事情は、そのこと自体が自白の信用性を否定するものとはいえないものの、自白の信用性の判断にあたって慎重さを要求するものといえる。

2  自白調書の内容からの疑問

(一) また、右自白調書の内容をみると、最初の自白調書である右<1>の49・4・17員面では、「Y子ちゃんとX君をマンホールに落して殺したのは本当に私に間違いありません」ということしか供述しておらず、それ以上の犯行の具体的内容や動機等に関する供述が一切ない概括的なものであり、さらに、その後の自白内容とは異なり、Y子殺害をも認める供述になっている。

次の自白調書である右<2>の49・4・18員面では、青葉寮に侵入した状況とXに声をかけて非常口から出た状況についての供述であり、しかも、その内容は粗筋だけのものであるうえに、「憶えておりません」との供述や、「うすぼんやりと憶えていますが」、「はっきり断言出来ませんが」とか、「感じがします」、「出たような気がします」というあいまいな表現での供述となっている。さらに、この四月一八日の朝には四月一七日の自白をくつがえして否認に転じ、それが再び自白するに至った際のものであるのに、それらの経緯やその理由等の供述が一切記載されていない。

その次の自白調書である右<3>の49・4・19員面(検二七二)では、犯行動機となる一七日のY子に関することを中心に供述し、X殺害に関する事実関係については、右49・4・18員面と同様に粗筋だけの供述にとどまっているが、右員面とは異なって、あいまいな表現はなくなり、すべてが断片的な供述になっている。また、この四月一九日にも前日の自白をくつがえして否認に転じ、それがまたも自白するに至り、しかも、それまで供述を拒んでいた動機についても供述するに至った際のものであるのに、「いろいろのことを思い出しましたので、お話をします」とあるだけで、それらの経緯やその理由等の供述が一切記載されていない。

そして、右<4>の49・4・20員面では、犯行の動機を供述し、一九日の午後七時三〇分以降の出来事についてやや詳しく供述するに至っているが、青葉寮へ行ってからの出来事については「思います」との表現が多くなり、あいまいな表現になっているうえ、浄化槽での場面については「なにしろ恐ろしいことをしたのですし、この辺の詳しい事情についてははっきり思い出すことは出来ません」と供述している。

最後の右<5>の49・4・21員面では、みかんに関連する事実と「さくら」の部屋のA子に関する事実について供述しているが、やはり「思います」とかのあいまいな表現になっている。

(二) このように、五通の自白調書の内容は概括的、断片的であり、しかも、あいまいな表現が多く、さらに、否認していた者が自白するに至った際に通常供述するであろうところの自白をするに至つた理由、犯行の動機や迫真性のある具体的事実に関する供述等がないのであり、これらの事情は自白の信用性を否定する方向に働くものであり、自白の信用性の判断にあたっては慎重な検討が必要である。

3  検察官の主張とそれに対する判断の概要

(一) これらの点について、検察官は、「被告人の自白内容は概括的、断片的であるが、被告人は、連日にわたる弁護人の接見及び支援者からの激励のシュプレヒコールがなされていた中で否認と自白を繰り返していたものであり、その自白が概括的、断片的になることは全く不自然なことではない。しかも、概括的であるとはいえ、その自白内容は、その犯行態様については相当具体的なものである」旨主張する。

(二) これらの点に関しては、後にさらに具体的に検討するが、要点をいうと、検察官の主張する弁護人の接見及び支援者からの激励のシュプレヒコールがなされていたことは認められるものの、被告人の場合には、そのことと自白が概括的、断片的であることとを結び付けていうには疑問があり、また、自白内容は具体的であるとの主張についても、前記自白内容をみると、供述する犯行態様を具体的と評価することも可能ではあるが、その具体的ということの持つ意味を考えると、それが自白の信用性を高めるというほどには具体的ということはできないのであり、検察官の主張はとることができない。

三 被告人の自白状況からみた自白の信用性

1  検察官の主張等

検察官は、右自白調書はその自白状況からみて信用性がある旨主張し、「弁護人の接見や支援者の声援等の支援状況の中での自白であること」及び「取調官による強制、利益誘導等の不当な取調べがないこと」を指摘する。

証拠によれば、<1>被告人には逮捕直後から弁護人が選任され、被告人に対する弁護人の接見は、被告人が逮捕された四月七日から釈放された四月二八日までの間のうち、一一日、一三日、一五日及び二八日を除き、毎日一回(一二日には二回)行われていたこと、<2>弁護人は、終始被告人に対して黙秘権があるので黙秘しなさいとの指示、助言をし、また、乙谷らに対して被告人との接見状況や被告人が自白していることを報告し、乙谷らは、弁護人を通じて被告人に対して自白を撤回するように働きかけていたこと、<3>被告人が逮捕されてからほぼ毎日のように、乙谷らを中心とした被告人の支援者が、被告人が勾留されていた県警本部前道路で被告人を激励するシュプレヒコールを繰り返しており、その声は取調べを受けている被告人にも聞こえていたことの各事実が認められ、検察官が主張するように、被告人の自白は、このような、連日にわたる弁護人の接見とその際の弁護人からの黙秘や自白の撤回の指示、助言及び支援者らによる激励の中でなされたと一応いうことができる。

しかしながら、そのような事実の存在から、直ちに検察官主張のように「被告人の自白はその信用性が極めて高い」ということはできない。すなわち、右事実の存在が自白の信用性を高めるようなものであったのかどうかについては、そのような接見状況及び支援者らの激励というものが被告人に対してどのような意味を持っていたのか、それが取調べ状況にどう影響していたのかを具体的に検討して判断する必要があるからである。以下、検討する。

2  弁護人の接見について

まず、右<1>及び<2>の弁護人の接見に関して、検討する。

(一) 接見状況からみた問題点

前記のように、被告人はほぼ毎日のように弁護人との接見を行っていたことが認められるものの、子細にみると、その接見は必ずしもスムースかつ十分に行われたものとはいえないといわざるを得ない。

すなわち、弁護人の接見の申し入れに対して、検察官がいわゆる一般指定を行い、それをめぐつて準抗告が申し立てられ、準抗告審で接見を許されるなどもしていたものであり、例えば、四月一〇日に検察官のなした一般指定を取り消す旨の決定(弁一九一)があり、また、四月一四日には接見拒否処分の取消しと接見の申し出があり次第直ちに接見を許さなければならない旨の決定(弁一九三)があり、四月一八日にも弁護人から接見拒否処分の取消しと接見を求める申立て(弁一九二)がされ、さらに、四月二五日にも具体的接見日時の指定の取消しと接見の申し出があり次第直ちに接見を許さなければならない旨の決定(弁二〇五)がなされたりした。

これらの結果もあって、被告人はほぼ毎日のように弁護人と接見をしているのであるが、その接見の時期、時間を見ると、逮捕された四月七日から一貫して否認するに至る前の四月二一日までの間では、一一日、一三日(ただし、この日は勾留理由開示公判があり、弁護人と被告人が出席している)、一五日には接見がなく、また一回あたりの接見の時間は短いもので約五分、長くて約四三分で、自白と否認を繰り返していたころは、おおむね一五分から三〇分程度であった。接見した時間だけでは判断できないものの、準抗告の申立内容、決定内容からしても、その接見はスムースかつ十分に行われたとはいいがたいものであったといえる。

(二) 被告人の弁護人に対する認識からみた問題点

また、このような短時間の接見であることは、「弁護人からその都度取調べに臨む態度や防御についての的確な指導や激励を受けていたはずである」といえるのかは大いに疑問であるうえ、次にみるように、被告人の公判供述、供述調書の記載内容、取調べにあたった捜査官の証言を総合すれば、被告人の弁護人に対する認識が、弁護人を信頼しその指示、助言に素直に従うようなものではなかったことがうかがわれるのである。

(1) すなわち、被告人は、公判延において、弁護人がつくことは予測していなかったこと、弁護人との接見においては、弁護人から黙秘権があるから黙秘をしなさいと勧められたこと、当初は激しく対応する捜査官と激しいやりとりをし、否認あるいは黙秘する態度をとっていたこと、しかしながら、四月九日ころから、捜査官が、被告人に対して激しい対応をしなくなり、呼び方も「悦ちゃん」と言うようになり、被告人の行動を詳細に明らかにするいわゆるアリバイの証明をするように働きかけるなど、被告人に対する対応を変化させたことに伴い、被告人もそれに応じて、黙秘することではなく、むしろ積極的に自己の行動を思い出して供述し、いわゆるアリバイを証明しようと考えるようになったこと、そのため、弁護人の黙秘を勧める指示、助言は被告人にとっては受け入れがたいものであり、そのことを接見に来た弁護人に伝えても、黙秘をしなさいとの助言をされ、なぜ調べに応じて供述するのかと責められる感じで言われたりしたことなどを供述している。

(2) 右の被告人の公判供述は、被告人の各供述調書の記載内容や取調べをした捜査官である山崎清磨、勝忠明及び田中勇郎の各証言からもうかがわれるところであり、基本的には信用に価するものといえる。

ア まず、被告人の各供述調書の記載内容をみると、弁護人の黙秘をするようにとの指示、助言とは異なり、一九日の出来事(後には一七日のも)に関する詳細な供述が記載されている。

そして、逮捕後一週間位までの供述調書中には、「ともかくもう一度よく考えて、はっきりお答えします」(49・4・12員面)、「私は弁護士さんから、いろいろ言われておりましたが、一日でも早く調べをしていただいて、私の無実をはらすために微々たることでも思い出して、お話をしたいと思います」(49・4・13員面)、「わからない一五分間のことについては、一生懸命考えますのでよろしくお願いします」(同)、「私は自分に不利なことは、喋らなくてもいいということは充分知っております。またそのような、権利があることも知っておりました。しかし私は、自分で悟ったこともあり、また刑事さんに諭されたこともあって、真実のことを喋らなくてはいけないということを知りました」(49・4・14員面検二六四)、「どうしても思い出さないあの一五分間ぐらいの時間について、疑われるのは無理もありません。私も一生懸命思い出すように努力しておりますので、よろしくお願いします」(同)、「いまから順序をたてて思い出します」(49・4・14員面検二六五)などの記載があり、また、四月一三日の勾留理由開示公判に出席しない旨の裁判官あての「お願い」と題する書面(弁二一二)にも、「犯人でないと確心を持っております。その為にも一日も早く無実であることを証明しなくてはなりません。ですから一九日とった自分の行動について微々たるものでも思い出さなければならない時であって、一分一秒でも無駄に出来ない時であります。ここに居てとにかく思い出して行くことです」との記載がある。

これらの記載からは、黙秘することよりも、積極的に自己の行動を思い出して供述し、説明できない点についても捜査官の求めに応じ懸命に思い出すようにしていた被告人の様子がうかがわれるのであり、また、自白と否認を繰り返していたころの四月一九日の調書にも、「私は昨日、一五分間の行動について、どうしても思い出せないことを、何回も申しあげました。そして私のこの胸の中にある判らないものを引きずり出して下さい。と何回もお願いしました」(49・4・19員面検二七一)との供述記載があるのであって、右のような被告人の態度が継続していたことをうかがわせる。

イ さらに、警察の取調べに関しても、「取調官から、警察は絶対に白を黒になんかしない、といわれ、それを信じたので、本当のことを申しあげる気持ちになったのです」(49・4・14員面検二六四)とか「私は警察に負けているのではありません。私が今まで考えていたような警察ではなく、心の暖い人達だということはよく判りました」(49・4・19員面検二七一)と警察を信頼している趣旨の供述をし、「一三日は、警察にお願いして報道機関から写真撮影されないように配慮していただき、大変嬉しく思っております」(49・4・14員面検二六四)とか、「私は警察の人達が真心のこもった捜査していただいたり、取調べをしていただいたことを大変嬉しく思います。全然恨んではおりません」(49・4・19員面検二七一)と、警察の配慮をうれしく思うとか、さらには、取調べに対してまでもうれしく思うと供述をし、それが調書に記載されている。

ウ 次に、取調べにあたった捜査官も、取調べに対する被告人の態度について、例えば、「被告人は質問にいろいろ答えるようになった。取調べに対して、よく考えていてくれたと思う」(山崎清磨証言)、「当初は黙秘するとか、やっていないと否定する態度をとっていた。だんだん捜査官との人間関係ができてきて、勾留後はだいたい素直に取調べに応ずる態度であった。逮捕当時は、互いに興奮して高い声で討論もしたが、翌日からは諄々と諭すような方法をとったので、その後はそういうことは全くない状態であった」(勝証言)、「空白の時間の詰めをしたが、被告人は一生懸命思い出そうという感じであった」(同証言)、「逮捕当時は、興奮してやっていないと言っていたが、二、三日してからは大分落ち着いて取調官との受け答えもしていた」(田中証言)旨、被告人の右公判供述を裏付ける供述をそれぞれがしている。

そして、右捜査官らは、その証言において、被告人のことを「悦ちゃん」と呼んでいたこと、田中がトイレに行って帰るときに、被告人が廊下のところに隠れていてわつと言って飛び出してきたり、被告人を房に連れて行くときに、被告人が後ろから飛びついてきたりしたこと、勾留理由開示公判とか検察庁への押送の際などに、その理由はそれぞれではあるが、捜査官と被告人が、店で食事をしたり、喫茶店に立ち寄ったり、捜査官の知人方に行ったことがあること、被告人が自白した際に、取調べ補助者の田中勇郎が泣いていたことなどを認める供述をしているのである。

(3) 右のことから、被告人と捜査官との関係をみると、取調べをするものと取調べを受けるものとの間に通常生ずるであろう対立関係や、取調べを受けるという緊張感、警戒心が被告人にはうかがわれず、例えば、自白をしている時期に取調官に飛びついたりしてふざけるということは、控訴審判決がいうような「良好な人間関係」というよりも、弁護人が主張するように「異様な人間関係」ともいうべきものであり、極めて特異な関係にあったといわざるを得ない。

それに反して、被告人と弁護人との関係をみると、弁護人の黙秘あるいは否認を勧める指示、助言については、被告人の考え方と異なり受け入れがたかったことから、弁護人の指示、助言に素直に従うことができず、そのことや弁護人に対する不満(捜査官に対して、勾留理由開示公判での弁護人のやり方について不満を述べたり、弁護人を替えたいとの申出をして父親あての手紙を書いたりしたことなどからうかがえる)などから、弁護人に対して十分な信頼感を抱くまでには至っておらず、通常生ずるであろう被告人と弁護人との間の信頼関係は被告人が一貫して否認するようになるまでは十分に成立していなかったことがうかがわれる。

(三) 小括

これらを総合すれば、弁護人の接見があったことが被告人に種々の影響を与えたことは間違いないものの、具体的にみると、それが被告人の供述内容あるいは供述態度に大きく影響を与えるようなものであったとは到底いえず、また、例えば、自白と否認の交錯がその影響であるともいえない。

なお、勝証言等によれば、弁護人の接見があれば被告人の態度が硬化したとか否認に転じた旨の供述があるが、自白と否認の交錯のいうのも、自白がその日にあったとすると、翌朝には否認するというパターンであり、それは、弁護人の接見に有無に関わらずそうなっているのであり、例えば、四月一七日夜自白して翌四月一八日朝否認に転じた際には、弁護人の接見は四月一八日は午前九時一五分から午前九時三〇分までであるが、被告人はその前に既に否認しており、また、四月二〇日は午前九時一〇分から午前九時二五分まで、四月二一日は午後五時一五分から午後九時四五分まで弁護人の接見があったが、両日とも被告人は自白をしているのであり、弁護人との接見状況と被告人の供述状況をみると必ずしも勝証言等にいうような対応関係になっているとはいえない。

結局、本件においては、弁護人の接見が毎日あったからといって、そのことが被告人の自白の信用性を高めるほどのものであるとはいえないといわざるを得ない。

(四) 取調べの客観的状況及び被告人の人となりからの検討

もっとも、右にみた捜査官と被告人の関係というのは、一般的には理解しがたく不自然さは否定できない面があるものの、本件における取調べの客観的状況、被告人の人となりをも総合すれば、十分理解可能なことであり、不自然、不合理なものではないことが看取できる。

(1) まず、被告人の取調べ状況をみると、被告人が引致され取調べを受けた部屋は、県警本部地下の調室で、広さは四畳から四畳半くらいであったこと、取調べにあたった捜査官は、当初、勝忠明が取調責任者となり、三木兼三、田中勇郎の三名で取調班を編成していたが、取調べが進展しないということで、四月一一日から当時の西宮署刑事官山崎清磨が自ら進んで申し入れて取調責任者として加わり、四名のうち三名が組となり取調べにあたったこと、取調べは、被告人を部屋の隅の椅子に座らせ、例えば、机をはさんで対面するようにして山崎が座り、被告人に近接した左横に田中が、その左の筆記用机に勝が座り、被告人を三方から取り囲む形で行われたこと、このような状況下で、取調べは一日の休みもなく行われ、午前九時前後ころから最も遅い時刻で午後一一時三〇分ころまで行われたこと、休憩時間及び食事時間を除いても、一〇時間を超える取調べが四月一一日、一四日、一五日、一八日の四日間あり、被告人が最初に自白した翌日の四月一八日には一一時間一五分の最長時間となっていること、食事については、捜査官が「自分たちも食べるから何か注文しないか」などと言って、調室内で食事をしたり、休憩も、取調べが一段落した時に、「お茶でも飲もうか」などと言って雑談に入る状態でとられたりして、取調室内で行われることが多かったことが認められる。

(2) 次に、被告人は、昭和二六年八月三一日富山県で出生し、六歳のころからは愛媛県新居浜市で生活するようになったが、中学生のころ、テレビ番組の「青年の主張」で精神遅滞児施設で働いている女の人の話を聞いて感動し、将来は同様の施設で勤務したいと考えるようになり、昭和四五年三月ころ高等学校を卒業後、徳島にある女子短期大学の保育科に進み、昭和四七年三月同短期大学を卒業後、甲山学園に保母として就職したものであり、事件当時は甲山学園に勤務して約二年で、年齢は二二歳であったことが認められるのであり、被告人には前科、前歴もなく、その家族関係は、父親の離婚、再婚などやや複雑なものではあったが、問題行動もなく生育したことがうかがわれる。

(3) 右のような被告人に対する取調べ状況からすれば、右(2)のような経歴を持ち、当時社会的経験の乏しい二二歳の女性である被告人に与えた精神的圧迫感はかなりのものであったといえる。

しかしながら、その反面、そのような被告人にとっては、他からの影響を受けることの少ない状況下で、食事や休憩も含め、長時間取調室に一緒にいる捜査官の影響は大きく、アリバイの証明をするため懸命に自己の行動を思い出そうとし、その間、いろいろなやりとりをしていくうちに、捜査官が対立する関係ではなく、むしろアリバイを説明すれば理解してくれ、場合によっては一緒に考えてくれるいわば協力者として頼るべきものとなっていったとしても、不自然、不合理とはいえず、むしろ自然な成り行きといえる。

3  支援状況について

次に、<3>の支援状況に関して、検討する。

右2で検討したことは、<3>の支援状況に関しても同様にいえることである。

すなわち、このシュプレヒコールについては、被告人は、公判廷において、当初及び一貫して否認するようになってからは別として、「警察に負けているわけではなく、とにかく警察に説明して分かってもらわないといけないから、とても苦痛になってきた」とか「自白中も、別に警察に負けたという感情は抱いてなかったのに、攻撃的なイメージでシュピレヒコールがやられていたので、警察官から取調べ妨害だと言われ、そうだなと思った」旨供述するが、このことは、「今朝も学園の人達が、シュピレヒコールに来てくれ、警察に負けるなと元気づけてくれましたが、私は警察に負けているのではありません。私が今まで考えていたような警察ではなく、心の暖い人達だということはよく判りました」(49・4・19員面検二七一)との供述調書の記載や前記の被告人と捜査官との関係、取調べに対する被告人の応対からもうかがわれるのであり、結局、シュピレヒコールがあったことが、被告人の自白の信用性を高めるほどのものとはいえないといわざるを得ない。

4  取調官による強制等の有無について

さらに、「取調官による強制、利益誘導等の不当な取調べ」の有無について検討する。

1及び2で認定した事実及び証拠を総合すれば、捜査官において、逮捕当初は、被告人に対し怒鳴るなどの厳しい対応をしたことが認められるものの、それ以降は、被告人に対する対応を変えたため、そのような状況はなくなったこと、被告人においても自己の行動を懸命に思い出そうとし、いわば積極的に自らの行動を供述していったことがうかがわれるのであり、取調べにおいて、捜査官による強制、威迫等がなかったことは明らかである。

しかしながら、右のように強制、威迫がなかったからといって、そのことから直ちに被告人の自白の信用性が高まるといえるものではなく、自白に至った経緯についての具体的検討を行ったうえで判断すべきであり、また、利益誘導等の点についても、一つ一つの事実についての検討というよりも総合的な検討が必要と思われるので、被告人の自白に至った経緯の判断の際に、併せて検討することとする。

ただ、2の(二)記載のとおり、勾留理由開示公判とか検察庁への押送の際などに、捜査官と被告人が、店で食事をしたり、喫茶店に立ち寄ったり、捜査官の知人方に行ったことが認められるので、この点について一言しておくと、捜査官がこのことを利用して被告人に自白を求めてはおらず、被告人もこのことにより自白したとは供述していないのであるから、このことをもって不当な利益誘導とはいえない。

四 被告人の自白内容からみた自白の信用性

1  検察官の主張の概要

検察官は、右自白調書はその自白内容からみて信用性がある旨主張し、<1>「自白内容は概括的とはいえ相当程度具体的であること」、<2>「動機、犯行態様は不自然なものではないこと」、<3>「自白内容には秘密の暴露に近いものがあること」を指摘するので、以下、検討する。

2  「自白内容は概括的とはいえ相当程度具体的である」との主張について

検察官が主張する「自白内容が相当程度具体的である」ということは、そのことにより自白の信用性を高める点で意味を持つのであり、そのような意味を持たせる程度に具体的であることが必要と考えるべきである。

その点から被告人の自白をみると、被告人の自白内容については、一の「被告人の自白の概要」でみたとおりであるが、以下に個別に指摘するように、ある程度の事実に関する供述をしていることは認められるものの、犯行を犯したものであれば供述してもおかしくないあるいは当然供述するであろう主観的事実あるいは周辺事実についての供述がなく、しかもあいまいな表現が多くみられ、迫真性に乏しい供述といわざるを得ず、犯行態様としてもその粗筋を述べる程度にとどまっているとの評価をせざるを得ない。この程度の供述をもって、相当程度具体的な供述をしているというのか、そこまで至っていないというのかは、見方の違いではあるが、自白の信用性を高めるほどに具体的であるかという観点からみると、被告人の自白については、相当程度具体的であるとまではいえないといわざるを得ない。

以下、検察官が相当具体的なものであると指摘する「食べさしのみかんを持って行ったこと」、「女子棟仕分け室から三つ目の部屋から青葉寮内に入ったこと」、「『さくら』の部屋でXを呼んで、出てきたXの手を引いて廊下を歩いて行き、マスターキーで非常口を開けて出たこと」、「Xを前の方から抱き上げて浄化槽の方に行き、一度降ろして蓋を開け再び前から両脇を抱くように抱え上げて浄化槽に落としたこと」の各点について、個別的に被告人の自白内容を検討する。

(一) みかんを持って行ったことについて

(1) この点に関する被告人の供述内容は、49・4・20員面の「問-このときおやつに買って来た食品をXにやったことはないか。答-おやつは前にも申しあげたとおりミカン、パン、サンドイッチ等を買ってきて、そのうち、若葉寮にミカンを持って行きましたが、青葉寮に来るときは何も持っていなかったと思います。そしてX君にも食べものを与えた記憶はありません」、49・4・21員面の「午後八時前ごろ買って来たミカン三~四個ぐらいを若葉寮に持って行ってやりました。その際事務所で食べさしのミカンを持ってきておりそれを持って次に青葉寮へ行ったのです。このときの私の服装は外出着の黒フード付きオーバー、Gパンチャック付、赤茶色底全体が高くなった靴姿であります。食べさしのミカンはオーバーのポケットに入れた憶えはないので手に持っていたと思います」、「X君を呼んですぐ手に持っていたミカンをやったように思います」というものである。

(2) 被告人が犯行の直前にXにみかんをやったとすれば、それは特異な行動であり、なぜ食べさしのみかんを持って青葉寮に行ったのか、なぜそのみかんをXにやったのか、Xはそのみかんをどうしたのかなど、それに関する状況事実についての供述があってしかるべきである。しかも、被告人は、当初はそもそもXに食べものを与えた記憶はないと否定していたのに、翌日には右のように供述しているのである。

ところが、右供述内容をみると、食べさしのみかんを青葉寮に持って行ったとの供述と、「ミカンはオーバーのポケットに入れた憶えはないので手に持っていたと思います」とか「ミカンをやったように思います」とのあいまいな供述しかなく、それ以上の状況事実、前日に否定していたのに供述するようになった理由などについての供述は一切ないのであり、被告人がみかんを買ってきたことやXの胃の中から未消化のみかんが検出されたことから単純に推測される事実の供述しかないといわざるを得ない。

(二) 女子棟仕分け室から三つ目の部屋から青葉寮内に入ったことについて

(1) この点に関する被告人の供述内容は、後記5の(四)の(4)記載のとおりであり、あいまいな表現が多く、侵入に伴う具体的な供述が一切ないこと、その供述内容はY子の部屋の状況と合致していないこと、不自然、不合理な点がみられること、捜査官の想定を越える供述がないことが指摘できる。

(2) なお、青葉寮に入ってから「さくら」の部屋に至るまでのことに関する被告人の供述は、49・4・18員面の「私はそれから、いったん廊下へ出て、非常口(東)の方へ歩いて行きました。いま非常口ヘ歩いて行ったと言いましたが、私の思い違いで、デールームの方へ歩いて行きました」、49・4・19員面(検二七二)の「青葉寮の女子棟の仕分室から三つ目の部屋に上り廊下に出て、デイルームの方へ歩いて行きました」、49・4・20員面の「そして保母室側から女子室の、さくら、梅、こすもすの前を通っている時」、49・4・21員面の「昨日も申しあげたとおり、女子室仕分け室にいたる、さくら、うめの部屋前廊下を歩いているとき」というのであり、歩いて行った方向の訂正があったり、歩いたとおりの部屋の順で供述していない。このようなことさら記憶が混乱したりあいまいにする理由がない事項においても、あいまいさや事実に反するともいえる供述になっている。

(三) 「さくら」の部屋でXを呼んだことについて

(1) この点に関する被告人の供述は、49・4・18員面の「G子ちゃんの部屋まで来るとX君が鬼ごっこをしておりましたので、『X』と声をかけました。X君の鬼ごっこの相手は憶えておりません。ほかに誰かが居ったのか、それも判りません。私は確か部屋の中に足を一歩踏み入れて『X』と声をかけた感じがします」、49・4・19員面(検二七二)の「G子ちゃんの部屋で目についたのがX君です。目についたX君を『Xくん』と呼び」、49・4・20員面の「たぶん平素から仲の良いG子ちゃんのさくらの部屋で遊んでいたと思うX君を見て、『X』と呼びました。Xを見た瞬間カモフラジューするためにはこの子をマンホールに投げ込み殺そうと思ったのです。最初からX君を目的で来たのではありません。そのときのX君の服装については思い出せません」、49・4・21員面の「G子ちゃん、A子ちゃんの部屋にX君がいたのでXおいでと呼びました。たしかA子ちゃんが見ていたように思います。A子ちゃんは、寝ていたのかどうしておったのかは憶えておりません。ただX君はG子ちゃんと仲良しでよくその部屋にいるので、私がX君を連れ出したとき、見ているとすればA子ちゃんしかいないと思います。X君を呼んですぐ手に持っていたミカンをやったように思います」というものである。

(2) この供述内容をみると、Xの様子について、49・4・18員面で鬼ごっこをしていたとあるだけで、他には何も出てこないのであり、鬼ごっこの相手も「憶えておりません」となっており、呼びかけた状況についても、49・4・18員面では「感じがします」、49・4・20員面では「遊んでいたと思うX君を見て」などとあいまいな表現もあり、また、「さくら」の部屋の状況に関する供述は、49・4・21員面で「A子ちゃんが見ていたように思います」とあるだけであり、A子の様子については「寝ていたのかどうしておったのかは憶えておりません」としかなく、Xはよくその部屋にいるので見ているとすれば「A子ちゃんしかいないと思います」との推測による供述であることを認める供述になっている。

結局、ここに一貫しているのは、具体的、現実的な状況に関する供述がないということである。

(四) 出てきたXの手を引いて廊下を歩いて行き、マスターキーで非常口を開けて出たことについて

(1) この点に関する被告人の供述は、49・4・18員面の「それから、もときた方ヘバックしました。はっきり断言出来ませんが、私の右手でX君の手をひき、真すぐ突当った東非常口から外へ出ました。非常口の扉はいつも鍵がかけてありますので、マスターキーで私が開けて外へ出たような気がします」、49・4・20員面の「出て来たXの手を引いて長い廊下を通ったことは憶えております。このことから考えて確かに女子棟の非常口ヘ行き持っていたマスターキーで戸を開けて外へ出たのです」、49・4・21員面の「X君を呼んですぐ手に持っていたミカンをやったように思います」というものである。

(2) 右の供述内容は、いずれもあいまいな表現となっており、また推測に基づく供述もあり、具体的、迫真性のある供述は一切ない。

(五) Xを前の方から抱き上げて浄化槽の方に行き、一度降ろして蓋を開け再び前から両脇を抱くように抱え上げて浄化槽に落としたことについて

(1) 浄化槽に行く点に関する被告人の供述は、49・4・19員面(検二七二)の「非常口の扉から外に出て手をひいて行き」、49・4・20員面の「そしてそこからX君の前の方から両脇を抱えるようにして抱きあげて青葉寮の裏へ回り浄化槽のところへ行きました。なにしろ恐ろしいことをしたのですし、この辺の詳しい事情についてははっきり思い出すことは出来ません」というものである。

この供述内容をみると、具体的な行動に関する供述がほとんどないのであり、また、49・4・20員面には「X君の前の方から両脇を抱えるようにして抱きあげて」とある程度具体的な供述があるが、49・4・19員面(検二七二)の「手をひいて行き」との供述とは異なっている。

(2) 浄化槽に落とした点に関しては、後記5の(五)記載のとおりであり、その内容は概括的であり、やや具体的記載もあるが、Xの様子、一般的にイメージしうる態様を越えるものではなく、また、心理状況等の周辺事実についての供述は一切ない。

(六) 小括

以上のように、検察官が、相当程度具体的であると指摘する点について個別にみていくと、その内容は検察官のいうようなものではないといわざるを得ない。

3  「動機は不自然なものではない」との主張について

(一) 検察官の主張

検察官が主張する本件の動機は、前記のとおりであるが、要するに、「Y子が消息を絶ったころ学園内で勤務していたのが自己のみであったことから、Y子を殺害したと他の職員らから疑われることになると深刻に思い悩み、他の青葉寮職員の当直勤務中にも、別の同寮収容児童が行方不明となれば、自己にY子殺害の嫌疑がかかるのを回避できるものと考えた」というものである。

(二) 動機に関する自白内容

そして、被告人の自白調書中の本件動機に関する部分は、「浄化槽の蓋が開いており、その中へY子ちゃんが落ちたということが判りました。覗き込んで、Y子ちゃんを捜しましたが、Y子ちゃんが見付からないので、『これは大変なことになった』、自分の当直のときの責任になる、と考えました。乙谷先生に連絡しようとも思いましたが、私が一人居ったときの当直中のことでしたから、責任を深く感じました。それでつい蓋をしてしまったのです。私は悩みました。そして、私の責任をカモフラージューするために、ほかの当直中の人の時に事故が起きたら自分が助かると思いました。それで一九日の日にX君をマンホールに入れて、殺してしまったのです」(49・4・19員面検二七二)、「一七日私の宿直中にY子ちゃんが行方不明になりそれが原因で多数の職員、警察官がその捜索に来て大騒ぎになり非常に責任を感じていたのと、Y子ちゃんを他の者に私が殺したと思われはしないかと思い、そのことから他の宿直のときでも事故があれば、いくらか私の責任は軽くなる、いわばカモフラジューするというあさはかな考えから、X君をひどい目に合わせてしまったのです」(49・4・20員面)というのであり、この被告人の自白部分が、検察官の動機の主張の主要な部分となっている。

(三) 本件における動機の重要性

本件のような殺人罪の場合、犯行の動機が重要な意味を持っていることは多言を要しないところである。そして、検察官の主張では、本件は、甲山学園の保母として園児の介護にあたっていた者が、同園の園児を殺害し、しかも、それ以前に行方不明になっていた園児Y子も同じ浄化槽から発見されたという、極めて特異な事案である。前記のとおり、被告人は、早い時期から精神遅滞児施設で働くことを考え、短期大学卒業後甲山学園に勤務し、事件当時で約二年間の勤務を経ていた二二歳の女性であり、園児に対する介護等についてことさら問題があったりした様子もうかがわれないのであって、そのような被告人が、自己の勤務先である甲山学園のしかも被告人が担当していた青葉寮に入所していた園児を殺害するということは、それ相応の動機があってしかるべきであり、それとともに、Xの殺害行為とY子の行方不明についても何らかの関連があると考えるのが自然である。

したがって、被告人の自白の信用性を判断するに際しては、その動機及びY子の行方不明との関連について合理的な説明がなされているかどうかが大きな意味を持つといわざるを得ず、ひいては、そのことが犯罪行為の存否の判断にも影響するといわざるを得ない。

(四) 被告人の述べる動機の検討

そこで、検討するに、動機に関連する被告人の供述は、<1>Y子が浄化槽に転落したが、自分が一人でいる当直のときの責任になると考え、それでつい浄化槽の蓋をしてしまったという点と、<2>自己の責任をカモフラージュするためにXを殺害したという点に分けることができる。

(1) まず、右<1>の点についてみると、被告人の供述するように、被告人がY子に声をかけたところY子が浄化槽に転落したというのであれば、被告人にことさら責任があるわけではなく、また、これを秘密にしておく理由もないのであるから、学園内にいる相当直者である乙谷や、用務員、若葉寮の当直職員等に助けを求めるのが普通であり、しかもそれが困難であるような事情は何もうかがえないのであって、自らY子を助けることや他人に助けを求めることをしないばかりか、自らの責任になると考えて浄化槽の蓋をしてしまった、それも「つい」してしまったというのは、これを素直にみれば、不自然、不合理、不可解といわざるを得ない。

(2) 次に、右<2>の点についてみると、その意味するところは、49・4・19員面(検二七二)では「ほかの当直中の人の時に事故が起きたら自分が助かると思い、殺してしまった」というものであり、49・4・20員面では、「非常に責任を感じていたのと、Y子ちゃんを他の者に私が殺したと思われはしないかと思い、他の宿直のときでも事故があれば、いくらか私の責任は軽くなると考えて、X君をひどい目に合わせてしまった」というのであるが、この記載からでは、園児を殺害するという重大な犯罪を犯す理由が釈然としない。「自分が助かる」ためとか「責任が軽くなる」ためというものの、その原因事実はあやまってY子が浄化槽に転落したという事故であり、つい蓋をして見殺しにしたとしても、右のような理由で他の園児を殺害するということは、あまりにも均衡を失しているといわざるを得ないうえ、園児を殺害すれば、なぜ「自分が助かる」のか、なぜ「いくらか私の責任は軽くなる」のか理解に苦しむところである。しかも、殺害の方法として、Y子が転落した浄化槽に園児を落とし込むということが、その目的に適うものか疑問であり、これを素直にみれば、やはり不自然、不合理、不可解といわざるを得ない。もっとも、これらについて、見方によってはいずれも不自然、不合理、不可解ではないという評価も可能ではあるが、そうであっても、それ以上に、積極的に、自然であるとか合理的であるとか十分理解できるとは到底いえないものである。

(五) 小括

以上のとおり、被告人の自白する本件犯行の動機は、Y子の行方不明との関連については説明できているものの、その動機自体は不自然、不合理、不可解といわざるを得ない。犯行の動機というのはあくまでも内心の問題であり、動機自体をみると不自然、不合理、不可解な場合があることは否定できないところであるが、自白した動機が不自然、不合理、不可解である場合には、その自白の信用性については慎重に考えるべきである。ただ、犯行の動機が基本的には内心の問題であるところから、常に真実の動機を供述するとは限らないのであって、供述された動機の不自然、不合理性等から直ちに自白の信用性が否定されるものではないことも念頭におくべきであり、自白の信用性の判断については、他の事項との関連においても検討すべきであって、本件においては、殊に、後に検討するところの検察官が秘密の暴露の関係で主張するE子供述との関係の検討が不可欠である。動機との関連で検討すべきE子供述との関係等については、項をあらためて判断する。

4  「犯行態様は不自然なものではない」との主張について

検察官が不自然なものではないと主張する犯行態様というのが何を指すのか必ずしも明確ではないが、主張として引用する差戻し前の論告及び控訴趣意書をみると、一審判決が判示する「犯行の態様が計画性をうかがわせる事情も見いだすことができず、発覚の危険が大きいことが優に予見される時期に、あえて殺害計画を実行に移そうとするなど、それなりの計算を踏んだうえでの計画的犯行というには無謀極まりなく、不自然のそしりは免れない」との点に関する検察官の反論として、「本件は、決して計画的犯行というものではなく、思い悩みながら青葉寮に入った後、つい絶好のチャンスを見つけて行動に出たのであり、発覚の危険が大きい時間帯であることは否定できないが、園児については、園児の能力、性格特性から他人に伝えることはあり得ないことをよく知っていたから安心して青葉寮に入っていったものと考えられるし、宿直職員については、Y子の捜索活動が行われていたことなどから、格別不審を抱かれるような状況になかったなどから、格別不自然なことではない」との主張があり、この主張を指しているものと思われる。

犯行態様といっても種々な面があるのであり、前記のとおり、浄化槽に落とし込むという犯行の方法についての動機からみた不自然さは指摘したところであるが、右の検察官主張の点に限っていえば、被告人の白白を前提とすれば、本件は計画的犯行とまではいえないのであり、発覚の危険が大きい時間帯であることも否定できないが、だからといって、犯行態様が不自然とまではいえないことは、検察官の主張するとおりである。しかしながら、これは、犯行態様のある部分が不自然ではないというにすぎないものであり、それ以上に、積極的に、その犯行態様全体が自然であるから自白の信用性があるとまでいえるようなものではない。

5  「自白内容には秘密の暴露に近いものがある」との主張について

(一) 検察官の主張の概要等

検察官は、自白内容には秘密の暴露に近いものがあると主張して、<1>「Y子の浄化槽転落事実」、<2>「青葉寮への侵入口」、<3>「Xの浄化槽への投げ込み状況」を指摘する。

ところで、供述の信用性を高度に保証する意味を持ついわゆる秘密の暴露というのは、「あらかじめ捜査官の知り得なかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたもの」をいうのであり、本件の場合は、検察官主張の右各事実はいずれも捜査の結果客観的事実であると確認されたものではないから、いわゆる秘密の暴露にあたらないことは明らかである。検察官も、その点を念頭においているからこそ、秘密の暴露があると主張しないで秘密の暴露に近いものがあると主張しているのであるが、その内容は「あらかじめ捜査官の知り得なかった事項」であるから秘密の暴露に準じてその信用性を認めるべきであるということにつきる。

そもそも、秘密の暴露に準じてその価値を認めることができる場合があることは否定できないものの、どういう場合がそれにあたるのか、それによって供述の信用性にどのように影響するのかなどについて、明確な基準というものはないのであるから、その準用にあたっては特に慎重な検討が必要である。しかも、このような供述は捜査の過程で得られるものであり、いわば密室での出来事のため捜査官の一方的な供述を偏重する危険性も大きいのであるから、取調べ状況を含めたその捜査の過程が明らかになり、加えて、あらかじめ捜査官が知り得なかった事実であることが確実に証明されなければ、秘密の暴露に近いものとしてそれに準じた価値を認めることはできないといわなければならない。

以下、具体的に検討する。

(二) 「Y子の浄化槽転落事実」について

(1) 検察官は、「被告人が自供したY子の浄化槽転落の目撃事実及びその後浄化槽の蓋を閉めた事実並びに右事実が本件犯行の動機となった原因事実であったことについては、当時、取調官の山崎清磨及び勝忠明においても全くその情報を把握しておらず、予想していなかった事実であり、その後の第二次捜査時において、E子の供述が出てきたことにより、その裏付けがなされたものであって、取調官において誘導することはできなかったものであり、その自白内容は秘密の暴露に近いものである」旨主張する。

しかしながら、証拠を検討すると、検察官が主張する被告人の右供述内容は、捜査官が「予想していなかった事実」とはいえず、また、第二次捜査時のE子供述がその裏付けになるものとはいえないのであって、検察官が主張するような秘密の暴露に近いものということはできないといわざるを得ない。

(2) まず、被告人が自白した当時、捜査官は、Y子とXが同じ浄化槽から発見されたことから、Xの事件はY子の行方不明と関連するものと考え、、同一犯人が関与していると想定していたこと、被告人の供述(49・3・28捜復当審弁二四〇、49・4・14員面検二六五)によって、Y子が、一人遊びが好きで、青葉寮西側の花壇や浄化槽付近で遊んでいたこと、食事やおやつのときに来ないことがよくあり、その都度青葉寮の裏側付近に行って連れてきたことが何回もあったこと、一七日も、青葉寮の東の方から裏手へ回り「Y子ちゃん」と何回も叫びながら捜したことが分かっていたことが認められる。

これらの事実からだけでも、捜査官としては、被告人の供述するY子転落に関する事実及び本件犯行の動機との関連は十分想定可能であったといえるが、次のとおり、実際にも、取調べにあたった捜査官の供述から、そのことをうかがい知ることができる。

ア 勝は、勝証言において、「一七日と一九日の当直と日直のことで、そのすり替えを考えたのではないかという感じを当初から持っていたので、カモフラージュと出たときには、ああなるほどなという感じがした。すり替えというのは、責任転嫁ができる、逃れるということである」、「Y子の事件とXの事件は同一犯人だと思っていた。乙谷と被告人が当直で、日勤の職員が帰った後に事件が発生した。被告人が青葉寮の裏に捜しに行ったと言うので、用務員が三回くらい汚物を捨てその都度浄化槽の蓋を閉めたと言っていたが、面倒くさがって浄化槽の蓋が開いていたかもしれない。それで、被告人が呼びに行ったときY子が遊んでいて何らかの事故で落ち込んだと推理したことがある」、「X殺害の動機についてはそれぞれの可能性があるという話は捜査官の間でも出ていた」旨供述し、被告人の供述するY子に関する事実及び動機との関連について、同じような想定をしていたこと、捜査官としていろいろな動機を想定していたことを認める供述をしている。

イ これに対して、山崎は、山崎清磨証言において、「カモフラージュの意味について少し解せぬものがあった。ただ、自分の責任を隠すためにそういうことをするものかとも考えた。これは違うかなと思ったりもした」旨、右を想定していなかった趣旨の供述をする。

しかしながら、山崎は、一方では、任意捜査段階で被告人が過失というのはどうなるのかという話をしたこと、四月一七日の自白の際に、被告人に対し、「あなたはY子ちゃんを浄化槽の蓋をはずしてトイレをさせておったのではないですか。思わず取り落としたことはないのですか」と聞いたことを証言しているのであり、このことはY子の浄化槽転落事実を想定したことがあることをうかがわせるものということができる。

また、山崎は、四月一九日の動機供述が出た際の状況について、「Y子についてはどういうことだったのかを聞いた。その際、少し心の話もした。すると、被告人が、急にのけぞらんばかりにして後ろに倒れ、それから前に泣き伏し、田中に頭を打ち伏せて、調書記載の供述をした」旨証言しているのであるが、四月一七日に自白をしたものの動機は供述せず、二日後の四月一九日に至ってようやく動機を供述し、しかも山崎が証言するような状況であったとすれば、供述調書(49・4・19員面検二七二)には、それまで動機を供述しなかった理由や動機を供述するようになった理由について何らかの記載があって当然と思われるのに、それらの記載は何もなく、「いろいろのことを思い出しましたので、お話をします」とあるだけである。そして、勝は、その際の状況について、「Y子がいなくなったときの当直と、Xがいなくなったときの当直が、夜勤と日直が裏腹になるという話があり、それを中心におかしいやないかということで調べていった」旨、山崎の証言と大きく異なった証言をしているうえ、被告人が泣いてY子の転落事実を述べたことは証言していない。

加えて、田中は、田中証言においては、時の経過により記憶が定かでなく、「被告人が泊まりの日に園児が死んだということでは責任が自分に来るとか言ったような気がするが、被告人が動機について何か供述をしたことはなかったと思う」と供述しているのであるが、仮に山崎の証言するような被告人の供述状況があったのであれば、極めて印象に残る出来事と思われ、現に最初に泣いて自供したときのことは記憶しているのであるが、右程度の証言しかしていない。これらに照らすと、右山崎の証言はこの点では信用できないといわざるを得ない。

ウ さらに、捜査主任官であった高橋も、高橋当審証言において、「一七日に起きた事件と同じような事件が一九日にもあれば、あるいはその犯人に対する責任負担がかわされると、そう思って一九日の事件に及んだのではないか、このような動機を考えていた」旨、被告人の自供と同じようなX殺害の動機を想定していた趣旨の供述をしている。

もっとも、高橋は、同証言において、右供述を間違いであるとして「被告人の自供を知ってから、こういう動機もあったかなということを言ったものである」旨供述し、検察官は、右訂正に関して、高橋の尋問状況から、高橋は右証言時どのような具体的な動機を捜査時に推定していたかについての明瞭な記憶がなかったことが推認できる旨主張するが、右尋問状況、内容をみると、高橋は質問の趣旨を十分理解して供述しているといえるのであり、検察官主張のような推認はできないといわざるを得ない。

エ そして、被告人が供述するY子転落前後の状況は、極めて簡単で、実際に体験したものの供述にあらわれる具体的な描写がなく、迫真性が全く認められない骨と筋だけの供述であり、捜査官の想定を一歩も出ていないといわざるを得ない。

(3) 次に、Y子の浄化槽転落事実に関する供述は、被告人の自白が最初であり、第一次捜査時には被告人以外に供述したものはなく、第二次捜査に至ってE子が供述(E子の52・7・18員面、52・12・6検面)するようになったものであるから、この事実自体からは、秘密の暴露に準じた価値を持つようにもみえる。

しかしながら、被告人の供述内容と右E子の供述内容とを子細にみてみると、次のとおり、それぞれの供述内容には相違点が多く、それも基本的といってよい部分で食い違いがみられるのであって、右E子の供述が被告人の供述の裏付けになっているとは到底いえず、この点においても、秘密の暴露に準じた価値を持たせることはできないといわざるを得ない。

ア 被告人の供述とE子の供述とを対比すると、<1>Y子が転落した時間帯、<2>Y子転落時に誰がいたのか、<3>Y子の転落原因、<4>転落後誰が浄化槽の蓋を閉めたのかについて、次のような大きな食い違いがみられる。

<1>のY子が転落した時間帯については、被告人の供述では、夕食の準備ができてから後ということであるから、夕食の時間帯ということになるが、E子の供述では、おやつの後で夕食の前ということであり、夕食の時間帯より前になる。

<2>のY子転落時に誰がいたのかについては、被告人の供述では、Y子以外に誰がいたのか不明であるが、E子の供述では、E子とY子以外に、S子、J、Xがいたことになっており、また、<1>の時間帯と密接に関係することであるが、被告人の供述では、Y子がいなくなったのに気付いたときほかに食堂にいなかった者として名前をあげている者の中には、E子、S子、J、Xは含まれていない。

<3>のY子の転落原因については、被告人の供述では、被告人がY子に声をかけるとY子が立ち上がったとたんよろけて落ちたということであるが、E子の供述では、S子がY子の手を引っ張ったため落ちたというのである。

<4>の転落後、誰が浄化槽の蓋を閉めたのかについて、被告人の供述では、被告人が閉めたということであるが、E子の供述では、誰が閉めたか知らないというのである。

イ このように、被告人の供述とE子の供述とでは、相違点が多く、それも基本的といってよい部分での食い違いがみられるのであって、被告人が供述した内容と、その後供述したE子の供述内容とが一致していれば、被告人の供述の信用性を高めるものであり、秘密の暴露に準じた価値を持たせることは可能であるが、そういう場合ではない本件においては、そのようなものとしての価値を持たせることはできないといわざるを得ない。

(三) 「Y子の浄化槽転落事実」に関するE子の供述について

右の(二)の(3)で検討したE子の供述というのは、その供述内容の信用性を別にして、被告人の供述との一致をみるうえに必要な範囲で記載したのであるが、被告人の供述とE子の供述とでは右のような大きな食い違いがみられ、また、E子の供述自体にもE子証言を含めその後の変遷がみられるのであるから、E子の供述の信用性が、本件犯行動機を含め被告人の供述の信用性に大きく影響すると思われる(例えば、E子の供述が信用できなければ、被告人の供述が信用性を帯びてくるなど)ので、この項においては、さらに、右E子の供述の信用性について検討しておく。

(1) この点に関するE子証言は、主尋問では、おおむね「おやつを食べてから、S子、J、Y子、Xとマンホールのところで遊んだ。遊んでいたときに、Y子がマンホールの汚い水の中に落ちた。鉄のふたは、わたしが開けた。ふたを両手でちょっとだけ持ち上げ、ふたを横によせて開けた。Y子の手を引っ張った。Y子が落ちたとき、青葉寮の裏に人はいなかった。Y子が落ちて、そこにずっといたのとは違う」というのであり、反対尋問では、おおむね「マンホールのところでS子、J、Y子、Xと遊んだ。マンホールのところの高いところには、XとJは上がらなかった。マンホールのふたは閉まっていた。そのふたを私一人が両手で開けた。Y子はマンホールに足から落ちた。マンホールの中を見た。水が見えた。Y子が勝手に落ちたのとは違う。Y子の手を触った。マンホールに落ちたとき、一緒に遊んでいたものの他には誰もいなかった。Y子が落ちて、運動場へ一人で行った。運動場へ行ってからもう一度マンホールのところに戻ったことがある。マンホールのふたは私が閉めた。ふたを閉めたときは一人」というのである。

そして、捜査段階でのE子の供述をみると、第一次捜査段階では、「Y子は、おやつの時はいた。おやつがすんでから、L子、Bと三人で『ぼたん』の部屋で話したり、歌ったりして遊んだ。おやつの後は、Y子を見ていない。晩ご飯の時、Y子はいなかった」(49・4・5捜復、49・4・10員面、49・4・14検面、49・5・18検面)というものであったが、第二次捜査段階に入って、「おやつを食べて大分してから、青葉寮の裏の洗濯干し場へ行った。この時、Y子、J、Xが一緒。浄化槽のコンクリートの上に乗って遊んでいた。S子が後からきて、四人で遊んでいた。マンホールのフタは開いていた。私は、遊んだらアカンと言いに行った。それからトイレヘ行った。他の子供はまだ遊んでいた」(52・6・20員面)とY子が浄化槽で遊んでいた事実を供述し、その後、「S子、J、X、Y子、沢崎先生がいた。浄化槽のところで、みんなでじゃんけん遊びをした。S子は幅約四〇センチの棒を振って歌っていた。浄化槽のフタは、最初見たとき閉まっていた。S子と後からきたもう一人の女の子(名前は忘れた)がそのフタをあけた。フタに手をかけて持ち上げて引っ張ってあけた。Y子がはまる前に、浄化槽の中を見た。だいぶ深かった。Y子は、浄化槽の中に足から落ちた。Y子の手を引っ張ってはめたのはS子。私は、助けようとして手を握ったけど、すぐ落ちた。髪だけが見えた。その近くにいたのは、S子、X、J。沢崎先生は、ディルームの裏側にいた。そのとき、沢崎先生がどうしていたか覚えていないが、落ちてからいなくなった。Y子が落ちてすぐ裏から歩いて運動場へ行き、乙谷先生に知らせた。乙谷先生にY子が落ちたと言った。乙谷先生がどこへ行ったか覚えていない。私は、また浄化槽のところへ行った。フタは誰が閉めたか見てないので知らない。このことを『言ったらあかん』と乙谷先生に言われた」(52・7・18員面)、「Y子はマンホールに落ちた。私が物干場の所へ行ったら、Y子がマンホールのコンクリートのまわりを走って遊んでいた。他に一緒に遊んでいたのは、S子、J、X。その時、青葉寮の裏には沢崎先生がいた。皆、コンクリートの上に上がった。私がマンホールの蓋を開けた。その方法は、ちょっと蓋を開け、それから横の方へ動かして全部開けた。Y子は、そこから中へ足から落ちた。穴から中をのぞいた。中にはしっこ、きたないものが入っていた。Y子の髪の毛と服がちょっと見えた。Y子はマンホールの中でちょっとバタバタしていた。コンクリートの上から降りて、グランドの方へ行った。マンホールの蓋は閉めなかった。沢崎先生は、マンホールの側へ来なかった。話さなかったのは、乙谷先生に、そんなことをしゃべったらいかんと言われた」(52・12・6検面)、「Y子がいなくなったことについて、乙谷先生と話した。Y子はXとマンホールでいた、Y子がはまったのを見た、おやつの時にはY子もXもいたということ。乙谷先生は、私に、言ったらあかんよと言った」(53・3・16検面)というのである。

(2) これらのE子の供述内容をみると、浄化槽へのY子転落の事実は、第一次捜査段階では供述されず、第二次捜査段階に入って、それも事件から約三年以上経ってから供述されるに至ったものであり、しかも、浄化槽の蓋を開けたのは誰か、Y子が転落したのはなぜか、被告人がその場にいたのかなどについて大きな変遷がみられるのであり、このような供述の出方や供述内容に大きな変遷がみられることは、前記園児供述の信用性においてE子の目撃供述の信用性に関して検討したのと同様に、その供述の信用性に疑問を抱かせるものであるということができる。

しかしながら、前記の検討でE子の目撃供述の信用性に問題があると判断したのは、そのような供述の出方、変遷が不自然、不合理であり、その点に合理的な説明ができなかったことなどからであるので、ここでもその観点からの検討をしておく必要がある。

ア その点から、浄化槽へのY子転落の事実に関するE子の供述を右目撃供述と対比してみると、まず、E子が供述する内容は、自己が直接関与したものであり、しかも、自己に不利益な事実であって、記憶に深く刻み込まれる類の印象的、衝撃的な出来事であるということがいえる。

これに対して、前記のE子の目撃供述の内容というのは、甲山学園内での日常生活のひとこまといえるもので、特異な出来事ではなく、また、ことさら自己に不利益な事実でもなく、その関与の程度も大きいものではなかったものであり、この点において大きな違いがあることが指摘できる。

イ 次に、右供述の変遷状況をみてみると、第一次捜査段階では、Y子について、おやつの後は見ていないと供述していたのが、第二次捜査段階に入って、52・6・20員面において、初めて、浄化槽のコンクリートの上に乗ってY子、J、X、S子と遊んでいた事実を供述した。そして、浄化槽の蓋が開いていたこと、E子は遊んだらあかんと言いに行ったことを供述し、さらに、52・7・18員面においては、浄化槽の蓋は、S子と名前を忘れた後から来たもう一人の女の子が開けたこと、Y子の手を引っ張ってはめたのはS子であることを供述していたが、52・12・6検面では、E子が浄化槽の蓋を開けたこと、Y子が転落した後、浄化槽の蓋は閉めなかったことを供述し、E子証言では、E子が浄化槽の蓋を閉めたことを供述した。

このように、当初は、自己の関与が消極的なものであったのが、徐々に自己のした行為が加わる形で供述していっているのであり、その変遷は、いずれも自己が直接関与したことであって、しかも、自己に不利益な形で変遷していっている。さらに、その供述の出方も、例えば、52・12・6検面において、E子が浄化槽の蓋を開けたと供述したのは、「誰がマンホールの蓋を開けたのですか」との問いに対して約二〇分間考え込んだあと供述したというものであり、E子証言において、E子が浄化槽の蓋を閉めたことを供述したのは、反対尋問においてそれも長い時間をかけた尋問の末に供述するに至ったものであり、自己に不利益な事実をあえて供述する際のためらいの心理過程が如実にうかがわれるものであるといえる。

ウ さらに、その供述内容をみると、浄化槽の蓋の開け方、Y子転落の際の状況等について、具体的、迫真的といえる内容となっている。

すなわち、Y子が転落したことを最初に供述した52・7・18員面において、「Y子がはまる前に、浄化槽の中を見た。だいぶ深かった。Y子は、浄化槽の中に足から落ちた。Y子の手を引っ張ってはめたのはS子。私は、助けようとして手を握ったけど、すぐ落ちた。Y子は、S子に引っ張られたとき、ちょっといやがっていた。Y子が落ちたとき音がしたか覚えていない。中に水があり、上にちょっと飛んできた。Y子は中でどうしていたかわからなかった」と供述し、また、E子が浄化槽を開けたと最初に供述した52・12・6検面において、「私がマンホールの蓋を開けた。その方法は、ちょっと蓋を開け、それから横の方へ動かして全部開けた。Y子は、そこから中へ足から落ちた。穴から中をのぞいた。中にはしっこ、きたないものが入っていた。Y子の髪の毛と服がちょっと見えた。Y子はマンホールの中でちょっとバタバタしていた」と供述している。

エ 以上のように、供述が約三年以上経過してからのものであることや変遷がみられるという事情があるものの、浄化槽へのY子転落の事実に関するE子の供述は、その内容が、自己が直接関与したものであり、しかも、自己に不利益な事実であって、記憶に深く刻み込まれる類の印象的、衝撃的な出来事であること、供述の変遷も、自己が直接関与した事実を徐々に供述していったことによるものであり、しかも、自己に不利益な形で変遷していっていること、その供述の出方も、自己に不利益な事実をあえて供述するという心理過程がうかがわれるものであることに照らせば、そのような供述の出方、変遷は不自然、不合理なものとはいえず、その供述内容が具体的、迫真的であることもあわせ考慮すれば、この点に関するE子の供述は信用し得るものといわざるを得ない。

(3) 以上みてきたように、「Y子の浄化槽転落事実」に関するE子の供述は信用し得るものであるが、E子の右供述中には、Y子転落時に被告人がその場にいたことをうかがわせる供述があるので、この点についても検討を加えておく必要がある。

ア E子は、E子証言において、主尋問、反対尋問のいずれにも、Y子転落時に被告人はいなかった旨の供述をしているのであるが、第二次捜査段階においては、Y子の浄化槽転落事実を供述するとともに、その際に被告人がいた旨の供述をしている。

それは、52・12・6検面であり、その内容は、「物干場の所へ行ったら、Y子がマンホールのコンクリートのまわりを走って遊んでいた。他に一緒に遊んでいたのは、S子、J、X。その時、青葉寮の裏には沢崎先生がいた。Y子は、浄化槽の中へ足から落ちた。沢崎先生は、マンホールの側へ来なかった」というものである。

そして、その供述が最初に出たのは、西村作成の52・7・18員面であり、それに関連する供述内容は、「裏に行ってS子らと遊んだ。S子、J、X、Y子、沢崎先生がいた。Y子は、浄化槽の中に足から落ちた。その近くにいたのは、S子、X、J。沢崎先生は、図に印した(ディルームの裏側)にいた。そのとき、沢崎先生がどうしていたか覚えていないが、落ちてからいなくなった」というものである。

イ 前記のとおり、Y子の浄化槽転落に関するE子の供述が信用できるとすると、それと同時に供述されたこの被告人に関する供述部分も同様に信用できると一応考えられる。

しかしながら、この供述を子細に検討すると、Y子の浄化槽転落に関するE子の供述は具体的で迫真性があり、自己に不利益な事実を徐々に供述しているという状況が認められるのに対し、被告人の目撃状況に関する供述は簡単な供述しかなく、具体性に欠け、変遷も顕著であって、同様に考えることはできないといわざるを得ない。また、被告人が供述する状況がE子の供述する被告人の状況と一致していれば、この点においては被告人の自白を裏付けるものとなるのであるが、それが大きく異なっているのであって、被告人の供述の裏付けにもならないといわざるを得ない。

すなわち、E子が供述する被告人の目撃状況というのは、前記の内容につきるのであって、同じ調書に記載されている自己の行動、他の園児の行動、転落したY子の状況が具体的、詳細に供述されているのに比べ、被告人の具体的言動が何も供述されておらず、ただ単に被告人がいたという供述をしているにすぎないのであって、言ってみれば、Y子の浄化槽転落に関する事実に被告人の目撃事実が取って付けたように供述されているのであり、極めて具体性に欠けた供述である。

しかも、その事実が供述されたのは、この二通の供述調書だけであり、仲内証言によれば、検察官である仲内がその後の昭和五三年三月一八日にE子から事情聴取した際、E子に被告人を見たかどうか尋ねたがどちらとも答えが出なかったというのであり、また、前記のとおり、E子証言では、主尋問においても反対尋問においても、E子は被告人を見なかったと供述(被告人に対するはばかりでは説明できないことは前記のとおりである)している。

ウ また、被告人の供述内容は、前記のとおり、E子の供述内容と大きく食い違っており、しかも、次のとおり、E子の供述によって裏付けられるものがないといわざるをえない。

(ア) Y子が転落した時間帯について、被告人は、夕食の準備ができた後である旨供述するが、E子はおやつの後で夕食の前である旨供述している。この被告人とE子の供述にはそれほど違いがないようにみえ、検察官も、「E子は、Y子らと浄化槽で遊んだのがおやつの後であったということを述べているものにすぎず、それも、おやつの時間の終了直後ではなくそのかなり後のことであったものと認められるのであるから、被告人の右供述とは何ら矛盾するものではない」旨主張する。

しかしながら、被告人の供述では、夕食の準備ができてからY子がいないことに気付いてY子を捜しに行ったというのであり、食堂にはE子をはじめ、E子が一緒に遊んでいたと供述するS子、J、Xは既に来ていたことを前提にしている(49・4・14員面検二六五)のであり、その点を考慮すれば、Y子が転落した時間帯についての被告人とE子の供述は大きく食い違うことになり、一致していないといわざるを得ない。

なお、溝井当審証言及びY子第一鑑定書(当審弁五九)によれば、「Y子の胃の内容物は、食後約二ないし三時間前後を経ている位の消化程度である」と鑑定され、三時間以上を経過しても矛盾はしないが、五、六時間になると胃は空っぽになるというのである。右胃の内容物は昼食に出されたものであり、昼食は午後一二時から一二時三〇分であることからすれば、右鑑定等の内容は被告人の供述を裏付けるものではない。

この点について、検察官は、「午後五時ころであっても、それが法医学的にあり得ない出来事とはいえず、Y子の胃の内容物の消化状態が被告人の供述と矛盾しているものではない」旨主張する。確かに、胃の内容物からその消化の程度を正確に推定することは難しく、右の時間も一般的な目安にすぎないことがいえるのであり、右鑑定等が被告人の供述と矛盾すると断定することはできない。しかしながら、それは、あくまでも矛盾しないというにすぎないのであり、それが被告人の供述を裏付けるものではないことはもちろん、むしろ、E子の供述の方がより矛盾なく説明できることは明らかである。

(イ) 被告人がいた位置について、被告人は、東の用務員室の方から回って青葉寮の裏の方へ行くと、Y子が浄化槽の上で遊んでいた旨供述するが、E子は、被告人はディルームの裏側(52・7・18員面ではディルームの北側、52・12・6検面ではディルームの北西側)にいた旨供述している。

被告人の供述とE子の供述が同じ場面のことを述べているのだとすれば、被告人は、東の用務員室の方から回って青葉寮の裏の方へ行き、Y子、E子らが遊んでいる浄化槽を通りすぎてディルームの裏側まで行ったということになるのであるが、そうであれば、被告人はY子を捜しに行ったのであるから、浄化槽の上でY子らが遊んでいればその場で声をかけるはずであり、それをしないで浄化槽を通りすぎてディルームの裏側まで行ったというのは不自然といわざるを得ず、被告人の供述とE子の供述を同一場面のこととして説明するには無理がある。

この点について、検察官は、「被告人は、49・3・28捜復で、Y子がいないので青葉寮裏に東側から探しに行った旨供述しているが、その時点では、Y子の死亡事実についての自己の関与を隠していたものであり、具体的な行動内容については真実と異なる供述をするということは十分あり得ることであり、その供述する青葉寮裏へ行った際の経路が真実ではないとしても不自然なものではない。また、被告人は、49・4・19員面において、Y子の死亡事実についての自己の関与を認めたものであるが、それ以前に述べていた青葉寮東側からとの供述内容を維持してしまうことも十分に考えられる」旨主張する。

しかしながら、右いずれの場合にも、その基本的部分については供述しながら、青葉寮裏側に赴く経路という点に関しては虚偽の事実を供述するという理由が見あたらず、また、青葉寮の構造、位置関係からは、青葉寮の裏側に行く場合には東側から行くのが自然であって、それを虚偽の事実を供述したとして説明する検察官の主張は、合理的な理由のない推測であって、とることはできない。

(ウ) 被告人は、「Y子が浄化槽の上で遊んでいた」旨供述するが、他に園児がいたのかどうかについては供述していないのに対し、E子は、一貫して、Y子、E子、S子、J、Xの五人が浄化槽の上で遊んでいた旨供述している。

被告人が他の園児の名前をあげていればそれとE子の供述の一致をいうことはできるが、被告人の供述が概括的であるとはいえ、Y子以外の園児について一切触れていないのであるから、この点においてE子の供述と一致しているということはできない。

この点について、検察官は、「当時Y子以外の園児が浄化槽にいたことについて情報を得ていなかった捜査官が、Y子の行動状況のみについて焦点を合わせて質問を行ったため、被告人がY子のことのみについて供述した結果によると思われる」旨主張する。

しかしながら、捜査官がそのような質問を行ったことを認めるに足りる証拠はなく、右は検察官の単なる推測にすぎないうえ、仮に、捜査官がY子のことのみについて焦点を合わせて質問を行ったとしても、事実を供述しようとする被告人にとっては、その情景が記憶として思い浮かぶはずであり、Y子だけを取り上げて供述することは考えがたいところであり、とり得ない主張といわざるを得ない。

(エ) 被告人は、「私が『Y子』と声をかけるとY子が立ち上がったとたんよろけて突然姿が見えなくなった」旨供述するが、E子は、E子あるいはS子がY子の手を引っ張ったところY子が浄化槽に落ちた旨供述し、被告人が声をかけた趣旨の供述は一切していないのであり、この点においても一致していないといわざるを得ない。

この点について、検察官は、「被告人がY子に声をかけたところY子が浄化槽内に転落したという事実が存したとしても、それによって、Y子の転落原因が被告人のY子に対する呼びかけ行為であるといい得るものではなく、単に、被告人がY子に声をかけた時期とY子の転落時期が同じであったことを認め得るにすぎないものであるので、仮に、Y子の浄化槽転落原因が他の園児が手を引っ張るなどした行為にあったとしても、被告人の右供述とは何ら矛盾するものではない」旨主張する。

しかしながら、被告人の供述とE子の供述を対比してみると、その供述する状況は同一場面の状況とは到底いえないのであり、とり得ない主張といわざるを得ない。

(オ) 被告人は、「私があわてて走って行って見ますと、浄化槽の蓋が開いており、その中へY子が落ちたということが判った」旨供述するが、E子は、被告人がマンホールのところに走ってきた趣旨の供述はしていないのであり、この点においても一致していないといわざるを得ない。

(カ) 被告人は、「覗き込んでY子を捜したが見つからなかった」旨供述するが、E子は、被告人が浄化槽をのぞき込んだ趣旨の供述はしていないうえ、被告人の供述と異なり、自らが見た浄化槽の中のY子の状況を具体的に供述している。

(キ) 被告人は、「つい蓋をしてしまった」旨供述するが、E子は、証言において、自らが蓋を閉めた旨供述しており、この点においても一致していない。

この点について、検察官は、「E子が、被告人をはばかって、Y子転落後に浄化槽の蓋を閉めたのは被告人であるとの点を供述せず、自己が浄化槽の蓋を閉めた旨供述したということは、十分に考えられる」旨主張する。

しかしながら、E子の供述を被告人に対するはばかりで説明することができないことは前記のとおりであり、また、E子が、自分が蓋を開けたと供述する場合にも約二〇分間もかかったことに照らすと、同様に時間をかけて供述した蓋を閉めたことについても、被告人に対するはばかりでないことをうかがわせるものといえるのであって、右主張は理由がない。

エ 以上みてきたように、被告人の供述する内容については、E子の供述と一致しているといえるものはない。

なお、検察官は、「被告人の供述中、Y子転落を目撃した事実及びY子を救助せずに浄化槽の蓋を閉めてしまった事実については真実であると考えられるが、その余の供述内容についてもすべての事実をそのまま順序立てて供述しているとは必ずしもいい得ないものであり、E子についても、その知的能力の低さからその表現能力にはおのずと限界があり、Y子の浄化槽転落状況についての被告人の供述と整合しないような部分が出てくることはむしろ当然である」旨主張する。

しかしながら、右にみたように、被告人の供述とE子の供述との間には大きな食い違いがみられるのであり、被告人がそのまま供述していないとか、単にE子の供述能力の限界というようなもので説明が付くようなことではなく、また、検察官主張のように、供述の一部だけを取り上げ、不利益な事実だけが真実であるというのも不自然であり、とり得ない主張であるといわざるを得ない。

(4) 以上を総合すると、E子の供述のうち、Y子転落事実に関する供述は、被告人がその場にいたとの点を除き、信用性が高いのであり、それに反する被告人のこの点に関する供述は信用できず、また、被告人がその場にいた旨のE子の供述は信用できないのであり、E子のこの点に関する供述は、被告人の自白の裏付けにはならないというべきである。

したがって、Y子転落に関する事実を原因事実とする被告人の動機に関する自白供述の信用性には、大きな疑問があるといわざるを得ない。

(四) 「青葉寮への侵入口」について

(1) 被告人は、四月一八日の取調べにおいて、「私は、うすぼんやりと憶えていますが、青葉寮に入ったのは女子棟の子供の部屋から入りました。洗濯仕分け室の方から三つ目の部屋でした」と供述したが、この点について、検察官は、「被告人が四月一八日に自供した青葉寮への侵入口は、当時の取調官山崎清磨及び勝忠明において全く予想していなかった場所であり、取調官において誘導することはできなかったものであって、その自白内容は秘密の暴露に近いものである」旨主張するので検討する。

(2) 証拠上、当時捜査官が青葉寮女子棟居室しかもY子の部屋を侵入口として想定していたことを直接認めるものはない。

そして、山崎ら捜査官は、いずれも、右想定を否定している。すなわち、山崎ら捜査官は、「被告人が右供述をしたとき、居室には園児が誰かいるはずと考えていたので意外に思い、それがどんな部屋であるか分からず、その部屋から入ることができるのか疑問をもち、直ちに捜査本部に照会し、その結果、右部屋がY子の部屋である『こすもす』であり、本件当時は空室で、Y子が帰ってきたときに入れるように運動場に面した出入り口の戸の施錠をしていなかったことが判明した」旨証言する(山崎清磨証言、勝証言、田中証言、高橋当審証言)。

(3) しかしながら、以下検討するように、当時、捜査官としては右の侵入口を想定することは十分可能であり、実際にも想定していたのではないかということがうかがえること、捜査官が右侵入口を想定していなかったというには捜査官において不自然な供述、対応がみられることからして、右捜査官の供述をそのまま信用するには疑問がある。

ア 証拠によれば、青葉寮に入るとすれば、玄関、男子棟及び女子棟の各非常口(通常施錠されていて、開閉は職員がマスターキーで行っていた)、ディルームの北側出入り口(東側と西側の二か所あり、東側の出入口は付近に机が置かれていて出入りしにくい)が通常であれば考えられること、そのうち、誰の目にも付きやすい玄関及び女子棟に行くためにはディルームの前を通過しなければならない男子棟非常口、ディルームを通らなければならないディルームの北側出入り口(西側の方)は侵入口としては考え難いこと、また、各居室には運動場側に面してガラス戸と雨戸があり出入りが可能であるが、男子棟の居室からでは女子棟に行くためにはディルームの前を通過しなければならないので、男子棟居室は侵入口としては想定し難いこと、Y子の部屋は一人部屋でY子の行方不明により当時は空室になっていたことが認められる。

内部犯行であると早い時期から考えていた捜査官にとって、犯人の青葉寮への侵入口がどこであるかは極めて重要な意味を持つのであり、それに関する必要な捜査を当初から行い、その可能性については十分に検討していたと考えるのが相当であり、そのような捜査官にとって、侵入口として女子棟非常口及び女子棟居室を想定することは十分可能であったと考えられるところである。

イ そして、捜査官は、前記のとおり、当時Y子の部屋の状況は知らず、洗濯仕分け室から三つ目の部屋から入ったとの供述は意外だった旨供述するが、そうだとすれば、被告人の供述があった直後に、直ちに被告人に対しその部屋が誰の部屋であり、侵入は可能であったのかどうか、さらには侵入の態様等を聞くのが当然であるのに、49・4・18員面の記載内容及び捜査官の証言からは、これらの尋問をした形跡がうかがわれず、部屋に入れたことを前提として直ちに部屋の状況を尋問していることがうかがわれる。

このことは、取調官にとって洗濯仕分け室から三つ目の部屋がY子の部屋であり、当時施錠されておらず侵入が可能であり被告人がその部屋の運動場側からガラス戸を開けて入ったことを想定していたことを推測させる一つの事情ということも可能である。

ウ さらに、捜査官の供述のとおりであるとすれば、被告人の供述があったその直後にそれを裏付けるための捜査がなされその結果が証拠化されるのが当然と思われ、捜査官も裏付け捜査をした旨供述するのであるが、証拠上は、そのような裏付け捜査がなされた形跡がうかがわれないのであり、このことも、捜査官が右侵入口を想定していたことを推測させるものといえる。

この点について、検察官は、「被告人から『こすもす』の部屋から入ったとの自供を得たあと、昭和四九年五月一七日に至ってこの女子棟各室の運動場側の出入口がどうなっていたか、犯行当日の状況を乙原から聴取している(乙原の49・5・17員面弁三二)」旨主張するが、そもそも、侵入口という重要な点についてしかも捜査官も想定していなかった供述が出たのに、その裏付け捜査が約一か月経った被告人釈放後の五月一七日になされたというのは不可解であること、右員面では、「各部屋の廊下側出入口の木製の引き戸の開閉の状況」についての供述が記載されているにすぎないものであり、運動場側の出入口については何の記載もないことからして、検察官の右主張は理由がない。

エ また、検察官は、「被告人の右供述が出る以前に、高橋が大内に命じて、管理棟から青葉寮を経由して浄化槽まで行った場合の時間測定を行わせているが、その際大内が作成した捜復には青葉寮女子棟居室のグランド側から青葉寮内に入って浄化槽に行くというコースは記載されておらず、この事実は、被告人が青葉寮への侵入口を自供した四月一八日の二日前の時点においても、捜査官が被告人の青葉寮内への侵入口として女子棟居室を全く想定していなかったことを示すものである」旨主張する。

確かに、49・4・17捜復(当審検三二)及び大内当審証言によれば、四月一六日高橋の指示により測定がなされているその経路の中には女子棟居室を経由したものはなく、青葉寮に入るところとしては玄関と女子棟非常口の二か所しかなく、また、大内は、この測定は犯人の経路を測定したものである旨証言している

しかしながら、右証言内容及び右捜復記載状況に照らすと、右測定は、むしろその当時出ていた被告人の供述についてその裏付けをしようとして、被告人の供述に即してなされたものであることがうかがわれる。このことは、青葉寮内についてはすべて女子保母室内のトイレを経由しており、被告人のトイレに関する供述を前提にしていること、Xがいたとされる「さくら」の部屋を経由したものはないこと、青葉寮に入らない経路、サービス棟に行く経路もあることなどからいえるところである。

もっとも、そうはいっても、運動場側から女子棟居室を経由するものの記載がないことは明らかであり、捜査官がそのことを念頭においていなかったことはうかがえるのであるが、右の目的や右捜復の記載状況からして、本件において推測できる犯行経路のすべてにわたって測定したものとはいえず、しかも、侵入口について特に検討して経路を設定したものとはいえないのであり、結局は、右捜復及び大内当審証言は検察官の主張を裏付けるものとは言い難い。

(4) さらに、指摘しておかなければならないのは、被告人のこの点に関する自白内容は、Y子の部屋を明確に特定して供述したものではなく、あいまいな供述に終始していること、その供述内容はY子の部屋の状況と合致しておらず、また、不自然、不合理な点がみられること、図面を示されて供述した可能性がうかがわれ、捜査官による誘導の可能性があることであり、結局、被告人の右供述には、秘密の暴露に準じた価値を認めることはできないといわざるを得ない。

ア 具体的に指摘すると、この点に関する被告人の自白内容は、前記のとおり、「私は、うすぼんやりと憶えていますが、青葉寮に入ったのは女子棟の子供の部屋から入りました。洗濯仕分け室の方から三つ目の部屋でした。靴を履いて上ったのか、脱いで上ったか憶えておりません。子供は確かにおりましたが誰だったか、寝ていたか起きていたか、二、三人だったか憶えておりません」(49・4・18員面)というものであるが、この記載内容は、あいまいな表現となっており、しかも、部屋から入ったという抽象的な供述だけであり、侵入態様等それに伴う具体的な状況が何一つ供述されていない。

そして、このことはその後の供述でも同様であり、「一九日午後八時前に事務室を出て、きのうお話したように青葉寮の女子棟の仕分室から三つ目の部屋に上り廊下に出て、ディルームの方へ歩いて行きました」(49・4・19員面検二七二)、「青葉寮には、何処から入ったかよく思い出せないのですが女子棟の仕分室から三つ目の部屋あたりから入ったと思います。そのとき、私は何を履いていたか、これもよく思い出せないのですが、たぶん靴(赤茶の底全体が高くなったもの)のままで入ったと思います」(49・4・20員面)、「グランドを通り、たぶんY子ちゃんの部屋のグランド側から土足のまま入りました」(49・4・21員面)とあるように、具体的な状況は何一つ供述されていない。

イ また、部屋の特定に関する表現が、49・4・18員面では「洗濯仕分け室の方から三つ目の部屋」、49・4・19員面(検二七二)では「女子棟の仕分室から三つ目の部屋」、49・4・20員面では「女子棟の仕分室から三つ目の部屋あたり」となっており、49・4・21員面に至ってようやく「たぶんY子ちゃんの部屋」となっている。

甲山学園に約二年間勤務して青葉寮を担当していた保母が、しかも、運動場側から入った部屋の特定として、「こすもす」とかの具体的な部屋の名前をあげないで、洗濯仕分け室を基準として三つ目の部屋という表現をとることは、いかにも不自然である。

そのうえ、49・4・18員面では「洗濯仕分け室の方から」となっており読み方によっては「うめ」の部屋である可能性もある表現となっていることや、49・4・20員面では「三つ目の部屋あたり」となっていること、さらには、49・4・21員面でY子の部屋と供述しているが、その表現も「たぶん」となっている。これらの表現のあいまいさ不自然さをみると、捜査官が図面を示して尋問した結果によるものではないかと思われる。

この点について、被告人は、学園の図面を示された旨供述するのであるが、捜査官の各証言内容からも、そのことがうかがわれる。すなわち、山崎は、図面とかを見ながら尋問したか忘れたと供述しながら、他方では「わら半紙を出さして書かしたんでしょうかね、何かそれに近い記憶があります」と証言している。前記のとおり、侵入口という重要な点についてしかも捜査官が知り得なかった事実を供述しそれをわら半紙に書かしたというのであれば、それを調書末尾に添付するのが普通であると思われるのに、その図面が添付された調書はないのであり、この点に関する右山崎清磨証言は信用できないといわざるを得ない。また、田中は、被告人の最初の供述は仕分け室から二つ目か三つ目というもので特定されておらず、調書作成後あるいはその翌日に図面を示して三つ目の部屋と特定した旨証言するが、田中自体の記憶があいまいであり、図面を示した経緯もあいまいであり、調書記載内容とも異なるので全面的には信用できないものの、取調べ状況において被告人に図面を見せて示させたと証言している。

ウ そのうえ、被告人の供述する部屋の様子は「こすもす」の部屋のそれとは異なる状況であることが指摘できるのであり、これが一致している状況であればまだしも、大きく異なる状況のもとでは、やはり、秘密の暴露に近いということはできないといわざるを得ない。

すなわち、被告人は、侵入した部屋の状況について、「子供は確かにおりましたが誰だったか、寝ていたか起きていたか、二、三人だったか憶えておりません」と供述している。前記のように、当時Y子の部屋である「こすもす」は、Y子一人が生活していた部屋であり、Y子が行方不明になったため空室の状態であったのであるから、この点は大きな違いである。被告人が、あいまいにしろ指摘した部屋の様子が、他の部屋と異なり無人であったとか、Y子のためにふとんが敷かれていて電気はつけていた(乙原証言)ということであるから、そのことをうかがわせるような何らかの供述があればまだしも、そのような供述が何もなく、それとは異なる供述があるということは、むしろそれとは異なる部屋であったのではないかとの疑いも出てくる。

この点については、弁護人の、「供述すべき犯行体験のない被告人が、取調官の誘導を受けながら、日常の生活体験からのイメージに基づき供述したことを端的に示すものであり、そのために、洗濯仕分け室の方から三つ目の部屋と供述したものの、その部屋をY子の部屋であるとか特定の園児の居室であるとイメージしたうえで供述したのではないことから、日常の生活体験に照らし園児がいたことをイメージして供述をしたが、園児の名前や人数までイメージできなかったものと推察される」との主張を一概に否定できない。

(五) Xの浄化槽への投げ込み状況について

(1) 検察官は、「被告人が供述したXの浄化槽への投げ込み状況は、その後行われた溝井泰彦による落下時のXの体位についての鑑定結果と一致するものであって、その信用性は極めて高い」旨主張する。

被告人は、Xを浄化槽に落とした状況について、「X君の前の方から両脇を抱えるようにして抱きあげて青葉寮の裏へ回り浄化槽のところへ行きました。なにしろ恐ろしいことをしたのですし、この辺の詳しい事情についてははっきり思い出すことは出来ません。ともかくX君を一度降ろしておいてマンホールの蓋を開け再び前から両脇を抱くように抱え上げX君の足から浄化槽の中え落しました」(49・4・20員面)と供述しており、検察官が主張する被告人が供述したXの浄化槽への投げ込み状況というのは、「(X君)の前から両脇を抱くように抱え上げX君の足から浄化槽の中に落しました」という部分である。

そして、X第二鑑定書(検二一)によれば、鑑定人である溝井は、「被害者の頭皮下の三か所の出血は、死亡の少し前に鈍体によって殴打されたり、あるいはその部を鈍体に打ちつけて生じたものと思う。被害者のその他の部位には全く損傷を認めないことから考えて、浄化槽に落ちた際に上下肢を広げない体位をとり、体を大きく横振れさせたり、強く抵抗したりせずに浄化槽内に落込んだと考える。従って穴の側に立たせておいて手で突き落したとは考え難い。恐らく両手を体幹の前または後、あるいは頭の上方で近づけたり、接して、両下肢は閉じたまま足の方から落したと考えるのが最も妥当であろう」と鑑定しているのであって、検察官は、被告人の右供述がこの鑑定の「両手を体幹の前または後、あるいは頭の上方で近づけたり、接して、両下肢は閉じたまま足の方から落したと考えるのが最も妥当であろう」との結論と一致していると主張する。

(2) そこで、検討するに、被告人が供述するXを浄化槽に落とした態様は、浄化槽の大きさ、繊維の付着状況(捜査官に判明していた事実であり被告人にも伝えられていた)から通常容易に推測できるものであり、特異な態様といえるものではない。しかも、この供述は、被告人が言葉で説明したものではなく、被告人が立っている田中をXとみなして実演した結果によることが認められるのであるが、その際の田中の動作による影響は否定できないところであり、また、簡単な記載であって実演の域を一歩も出るものではなく、その態様に関連する事実、例えば、Xの状況等についての説明が一切なく、それ以上に捜査官が知り得なかった事実があるとはいえないものである。そして、鑑定人である溝井は、このような鑑定は初めてであること、この鑑定は落ちるときの姿勢についてその可能性の大きいものを記載したもので、それ以外のことについては触れていないこと、これが医学的といえるかどうか疑問に思うこと、鑑定嘱託を受けたのでやむを得ず書いたこと、その前に捜査官が行った落下実験に立ち会っていることを供述している。

これらを総合すれば、被告人の供述が溝井の鑑定結果と矛盾しないということはいい得ても、検察官が主張するように、それが秘密の暴露に近い価値を持たせる程度に一致しているとは到底いえない。

五 自白するに至った経緯等に関する被告人の弁解とそれに対する判断

1  問題点の指摘

以上みてきたように、検察官が被告人の自白が信用性があると主張する自白状況及び自白内容に関する点については、いずれもそのことをもって被告人の自白が信用性があるというには疑問があり、右検察官の主張はとれないといわざるを得ない。

しかしながら、右自白状況検討の際に指摘したように、その持つ意味は大きくないとしても一応弁護人の接見や支援者の激励のシュプレヒコールがある状況の中で被告人が捜査段階の一時期において自白をしたことは事実であり、その取調べにおいて強制や威迫等がなかったことも認められ、また、被告人の行動に関する供述には不自然な点や大きな変遷がみられる。

検察官が主張するように、被告人が供述を求められた事実というのは、「Xの行方不明を聞かされたその直前のわずか一時間にも満たない間の自分自身の極めて単純な行動事実」であり、任意捜査段階を含め自己の行動について記憶を喚起する機会も十分あり、逮捕後の否認段階においては公判廷で供述するような自己の行動を供述できたはずであると一応いうことができる。それにもかかわらず、被告人の供述には大きな変遷がみられ、さらには自白までしているのであるから、この間の事情について、取調べ状況を中心にさらに具体的に検討しておく必要がある。

ただ、捜査段階での取調べ状況、自白の経過については、いわば密室内での出来事であり、それを客観的に証明するものは少なく、結局は、この点に関する被告人の弁解及び取調べにあたった捜査官の証言にその多くを依拠せざるを得ず、しかも、その場合、多くは被告人の弁解と捜査官の証言間に鋭い対立がみられ、その認定が非常に困難であるのが実情であり、本件においても、被告人の弁解と捜査官の証言間には大きな食い違いがあり、それを確定することが困難な状況にある。本件においては、被告人の自白内容が概括的、断片的であり、前記のように、自白の信用性に関する検察官の主張はとれないのであるから、捜査官の証言については、被告人の弁解と対応させて注意深く検証する必要があり、被告人の弁解を排斥するためには、捜査官の証言の信用性について、例えば、本件では数名が被告人の取調べにあたっているのであるから、その捜査官の間で供述の一致があるかどうか、その証言が自然で合理的であるかなど、慎重に検討すべきである。加えて、本件においては、被告人の捜査段階での供述調書のほとんどが捜査復命書を含め証拠として提出されているので、被告人の捜査段階での供述内容がほぼ明らかになっており、また、その記載内容からは取調べ状況をもある程度うかがうことができるのであり、この点において、右供述調書等は客観的証拠としての意味をある程度持つといってもよく、被告人の弁解と捜査官の証言の比較検討をする際には、右供述調書等との整合性、記載内容による裏付けの有無等をも考慮し、それらを総合して取調べ状況、自白の経過を判断するのが相当である。

2  無意識殺人供述に至った経緯

(一) 無意識殺人供述に至るまでの概要

被告人は、一九日の自己の行動について、逮捕当初は、「午後七時三〇分ころ、ビラ配りから帰り、管理棟事務室にいたが、午後八時ころ、青葉寮にいる乙原におやつがいるか尋ねようと考えて管理棟裏口の戸を開けたとき、乙原からXがいなくなったことを聞いた。この間、管理棟事務室からは出ていない」(49・4・8員面)旨供述し、任意捜査段階での供述(49・3・24捜復当審弁二三九、49・3・28捜復当審弁二四〇)も大筋では同様であった。

ところが、49・4・11員面において、「午後八時前ころ、青葉寮女子保母室のトイレに行った。用便に要した時間は分からない。乙原からXの行方不明を聞いたのは青葉寮から出てきた後か、その後かは分からない」旨の供述をし、その後も、49・4・12員面では「用便を済ませて青葉寮の玄関からグランドに出たが、その後のことは思い出せない。乙原からXの行方不明を聞いたのは、私が管理棟とサービス棟の間をグランドに向かって歩いているとき、青葉寮の方からやってきた乙原からXの行方不明を聞いた」旨、49・4・13員面では「青葉寮の玄関から出て、管理棟の裏側のグランドのところで乙原と会ったときに、乙原と向かい合って乙原からXの行方不明を聞いた。乙原から聞いたのは午後八時一〇分か一五分と思う」旨を供述している。

このように、管理棟から出たことがあるのかどうかという単純な自己の行動について、大きな供述の変遷がみられ、また、その後の行動について十分に説明することができず、さらに、乙原からXがいないことを聞いたといういわば衝撃的な出来事についても、その際の状況について供述の変遷がみられ、あいまいな内容となっている。

そして、49・4・14員面(検二六三)において、「無意識のあいだに、X君を殺ってしまったような気がいたします」との供述をするに至っている。

(二) 被告人の弁解

この間の事情について、被告人は、公判廷において、おおむね、次のような弁解をする。すなわち、「田中から、ほかの職員はアリバイがきちんと説明できてるのに、被告人だけがあやふやだったので逮捕された、アリバイさえ証明できれば釈放されると言われた。取調べは、被告人が甲山学園に帰ってきた午後七時半から犯行時間帯である午後八時までの間のアリバイに関することが中心であった。田中から、七時四〇分がB電話がかかってきた時間で、それが最後の電話であると教えられ、その最後の電話の七時四〇分から八時ころまでの時間帯のアリバイの証明をしろと言われた。いろいろ電話があるが、一〇分間でできるのか尋ねると、そんなものは一〇分間もあったらちょいちょいとできると言われた。警察がうそを言うとは全然考えてなかったので、それをそのまま信じて、乙原からXの行方不明を聞くまでの管理棟事務室での出来事を思い出し、八時ころまでの行動を考えていった。人間が三歩歩く間にまわりの様子が変わっていく、空には鳥が飛びかい、道ばたには石ころがころがる、そういう状況すらも説明しないといけない、一分一秒のことを証明するのがアリバイの証明だと言われ、管理棟から出てないというのであれば、一分一秒刻みのアリバイを証明しろと言われた。記憶喚起ができないので、どうしたんだろうと、一生懸命考えた。そして、田中から、出てないと言っているが、戊田の被告人が出たという調書があると言われた。乙原が運動場で被告人と会ったと言っている調書もあると言われた。そう言われて、乙原と出会うまで何をしてたか全然思いあたらないし、戊田はうそを言うような人ではないから、本当のことを言ってると思い、それをそのまま信用した。それで、今度は、管理棟を出て何をしたんだろうと思うようになった。そして、当時生理中だったことと普段便秘気味だったので、トイレに行ったのかなと思った。それで、普段よく利用している青葉寮のトイレに行ったと思い、そのことを捜査官に話した。それで時間は埋まったが、乙原との出会いで、記憶としては、乙原が青葉寮玄関を背にして、私が管理棟を背にして、対面して出会ったという記憶があったが、青葉寮のトイレに行って出てきて乙原に出会うと、その記憶と逆になるという状況になった。それで、どういう経路をたどって、その記憶にあった状況で乙原と会うのかを考えなければならなくなった。そういう中で、乙原はサービス棟と管理棟の水銀灯のあたりで被告人を見ていると言っていると言われた。また、乙原と出会った時刻について、山崎から、乙原はXの行方不明を知ってすぐ飛び出してこない、一所懸命探すと時間がかかる、それで八時一五分ぐらいだと言われた。また、青葉寮トイレに行ったことについて、子供たちがあっ沢崎先生やなどと言って寄って来たかと山崎から言われ、そういう状況が全く記憶になかったので、青葉寮のトイレに行ったのは間違いだと思うようになった。じゃあどこへ行ったんだろうと思って、普段もう一つ使っているサービス棟の厨房のトイレに行ったんだろうと思うようになった。山崎は、厨房のトイレは普段使われてない、クモの巣が張っていると言って、認めてくれなかった。そういう経過で、自分のアリバイの証明が依然できず、不安になってきて、どうしたんだろう、何をしてたんだろうと思うようになっていた。四月一四日山崎の取調べを受けたが、山崎から、ちゃんと言わないと逮捕を阻止したときの職員とか父兄を逮捕する、職員も父兄も逮捕されたら学園はどうなるのか、子供のことが可愛くないのかと言われたり、山崎の子供の話や心の話をされたりした。山崎が、乙谷がBへの電話を知らせに行ったとき子供達が乙谷先生やと駆け寄ってきた、そういうことがあなたにはありましたかと言われ、考えるとそういうことがなかったので、どうしたんだろうと思うようになった。また、Xを連れて行ったのを見ている子供がいると言われ、それはおかしいと言うと、子供がうそをつくのか、そのような教育をしたのかなどと言われるやりとりがあった。そういう中で山崎が、悦ちゃん、ひょっとして無意識のうちにやったと思いませんかと言ってきた。それで、私は無意識なんかやってませんと言うと、無意識なのに、無意識のうちにやったかどうか分かるんですかと言われ、無意識のうちは分かりませんと答えた」というのである。

(三) 被告人の右弁解を裏付けるもの

(1) 以上が被告人の弁解の概要であるが、捜査官の各証言(山崎清磨証言、勝証言、田中証言)によっても、被告人の右弁解に一部沿う部分がある。

ア 例えば、捜査官は、乙原からXがいなくなったということを聞くまでずっと管理棟事務室にいたとして犯行を否認する被告人に対し、当初は、何とか管理棟事務室から出たという供述を被告人から得なければならないとの方針で取調べにあたり、次は青葉寮に入ったという供述を、その次はXを連れ出したという供述を得ようとして取調べにあたったこと(勝証言)、その方針のもとに、被告人に対し、午後八時すぎころまでの間にどういう出来事があったのか詳細にその説明を求めたこと、思い出さないという被告人に対し、「その前後の状況を整理していこう、そうすると何か思い出すのではないか」などと言い、その中で、Bへの電話が午後七時四〇分であったこと、乙原が被告人に午後八時ころ会ったと供述していること、戊田が午後八時前ころに被告人が管理棟事務室から出たと供述していることを被告人に告げ、被告人の行動の説明を求めたこと、その結果、被告人が説明できない空白の時間帯ができた(捜査官が意図したかどうかは別として)こと、逮捕時に父兄や職員らが警察官にとった態度は公務執行妨害罪にあたる行為であり、逮捕することもできると説明していること(山崎清磨証言、最後の点については49・4・14員面検二六四にも「みんなが公務執行妨害罪にならないようよろしくお願いします」との記載がある)などである。

イ もっとも、勝は、Bへの電話が午後七時四〇分であったことを告げた趣旨の証言はするものの、それが最後の電話であるとは告げていない趣旨の証言をする(山崎も同趣旨)が、被告人の供述調書(49・4・11員面、49・4・13員面)にはBへの電話が最後の電話として記載されており、被告人自身はBへの電話を最後の電話として自己の行動を考えていたことがうかがわれる。

ウ また、山崎は、戊田の供述については被告人に告げておらず、乙原の供述を告げてこれはどういうことかと被告人に尋ね、青葉寮トイレについての供述が出た旨証言する。

しかしながら、被告人はもともと午後八時ころに乙原と出会ったことを供述していたのであり、その乙原の供述だけを被告人に告げても意味がなく、むしろ、被告人が管理棟事務室を出たという戊田の供述を告げることの方が、管理棟事務室を出たとの供述を引き出したいと考えていた捜査官の方針にもあうのであり、それを被告人に告げなかったという山崎清磨証言は不自然であり、山崎自身、戊田の右供述に対して強烈な印象を持っていたことは認めている(山崎清磨証言)ことや、勝は、被告人に対し管理棟から出たのを目撃した証人がいると言って追及した旨証言している(勝証言)ことにも照らし、右山崎清磨証言は信用できない。

エ さらに、空白の時間帯について、被告人の弁解によれば、まず乙原と出会った午後八時ころまでの間に空白の時間帯ができ、次に右の乙原と出会った時刻が午後八時一五分ころとなったためそこにまた空白の時間帯ができたというのであるが、山崎は空白の時間帯ができたこと自体は認めるものの、それは後者のことである旨証言する。

しかしながら、山崎自身、被告人が乙原と出会った時刻について当初午後八時ころとして被告人を追及していたことを認めているのであり、被告人の供述調書の記載も、乙原との出会いの時刻について、当初は午後八時ころとなっていた(49・4・8員面)のが、その後午後八時一〇分か一五分となっている(49・4・13員面)ことに照らすと、山崎の右証言をそのまま信用することはできない。

オ 以上のような捜査官の各証言から認められる事実は、被告人の右弁解の一部ではあるが、それを裏付けるものということができる。

(2) そして、右のような捜査官に対する被告人の対応については、前記三2の(二)のとおりであり、いわゆるアリバイを証明しようと考え、積極的に自己の行動を思い出そうとして供述していたことが、捜査官の各証言及び被告人の供述調書の記載からうかがえるのであり、加えて、警察は白を黒になんかしないと言われたことを信じ、捜査官の言うことを前提にして考え、例えば、戊田の供述を告げられて、戊田はうそをつくような人ではないと考えてその供述を前提にして自己の行動を思い出そうとし、自己の記憶をさぐりながら捜査官に説明しようと懸命になり、その結果、記憶の混乱が生じていることが被告人の供述調書の記載からうかがわれる。

(四) 弁護人と検察官の主張に対する判断

これらの点について、弁護人は、「被告人は、固有の記憶が分断され、自己の記憶が動揺、混乱するようになる。そのうえ、空白の時間帯を埋めようとして記憶喚起をし、管理棟を出たことを供述したことにより、乙原と出会った位置関係の記憶が混乱し、記憶の連続性も喪失し、自己の行動につき前後の脈絡がつかず、全く記憶は支離滅裂となった」旨主張するが、被告人の供述調書の記載をみると、その程度は別として、右の弁護人の主張を一概に否定することができない。

他方、検察官は、被告人のこのような供述(自己の行動につき説明できず、変遷があり、不自然である)は不自然であることを指摘するにとどまるので、その主張は明確ではないものの、「被告人は捜査官から追及されて弁解するも、他の証拠(供述)や矛盾等を指摘されて自己の行動を説明することができなくなった、あるいは、自己の刑責を免れたいとの意図と警察の真情のこもった取調べにより、否認するか自白するかという心理的な葛藤状態にあった」ことを主張しているものと理解できるが、例えば次にみるように、検察官の右主張よりは、弁護人の主張による方が、被告人の供述調書の記載を自然かつ合理的に説明できる。

(1) 被告人は、49・4・11員面で、青葉寮の女子保母室のトイレに行ったことを認める供述をしたが、それは、「たしかその後、時間的なことははっきり判らないが、午後八時前ころだった」としていわば唐突な形で供述がなされ、「その後、Xがいなくなったことを乙原から青葉寮の玄関と管理棟を結んだ線のグランド上で聞いた。しかし、これは用便を済ませて青葉寮から出てきた後か、その後であったかよく思い出せない。乙原とは対面して聞いているが、位置関係はどうであったか記憶していない」と供述し、青葉寮トイレのことと乙原との出会いがつながらないまま供述され、乙原との出会いに関する供述もいつのことなのかとかその位置関係などあいまいになってきている。

そして、49・4・12員面では、「グランドに出てから、その後どこをどう歩いたか、どこへ寄ったか、学園内をY子を捜していたのか、若葉寮へ行ったのか、すべてはっきり思い出すことができません」と極めてあいまいな供述となっており、また、「乙原から聞いたのは、私が管理棟とサービス棟の間をグランドに向かって歩いているとき、青葉寮の方から乙原先生がやってくるのと会って聞いたのです」と、乙原の供述を前提に供述していることがうかがわれる。

(2) そして、新たな空白の時間帯が生じたことは、49・4・13員面の記載や山崎清磨証言によって明らかであるが、この空白の時間帯についても、被告人は真実として受け入れたうえ、その間の自己の行動を説明しようとしていることが供述調書の記載(「青葉寮便所に行ったのは午後七時四五分から五〇分くらいまでの間と思う。便所では一〇分くらいはがんばったと思う。乙原がXがいないと言ってきたのは午後八時一〇分か一五分くらいと思う」)からうかがわれる。

(3) また、同員面の「用便を済まして青葉寮の玄関を出てきたのが午後八時ごろなので、この乙原と会う一五分間ぐらい、私はどうしていたのか思い出さない。とにかく乙原から声をかけられたときは乙原と向い会っており、後ろから声をかけられたものでないことは確か。青葉寮の玄関から出て何処へ歩いて行ったのかわからない。若葉寮の方へ行ったような気がするし、事務所の方へ帰ったような気もするが、どうしても思い出さない。自分でも不思議な気がするが、何とか思い出して話が出来るようにする」との記載からは、時間的に整理されないまま自己の行動を思い出そうとする中で、記憶の混乱を生じ、記憶の回復というより、論理的な思考の結果として、自己の記憶の中にある出来事(ここでは「若葉寮の方」ということであるが、これは前記のとおり49・4・12員面でも出てきている)を脈絡なくつなごうとしている様子がうかがわれる。

(4) そして、これらあいまいになった記憶と、断片的な記憶が、空白の時間帯を埋めるようにして入り込み、乙原との出会いと脈絡を持つようになり、若葉寮、厨房トイレ供述となっていく様子がうかがわれるのであって、結局、当時の思い込みを前提として、便秘、生理という身体的条件から日常想起される生活パターンや場面場面として記憶にある当日の出来事を思い浮かべるようにし、それを相互に脈絡のあるものとして、つなぎあわせるようにし、記憶を組み立てていったとの説明が自然に思える。

(5) なお、これらのことは、その後に自白するに至っても、自白内容が概括的、断片的になっていることや、若葉寮に行ったことを供述していることからもうかがわれ、さらには、その後一貫して否認するに至っても、自己の行動を説明するのに、厨房トイレや乙原との出会いを供述しているように、空白の時間帯があることを前提に供述していることからもうかがわれる。これらのことは、被告人の記憶が分断されあいまいになり、自らが記憶の操作をして供述していることをうかがわせるのであり、それも相当強度のものであったと推測される。

(6) 右のような被告人の供述調書の内容をみると、ことさら作為的なものはみられず、検察官の主張のように、否認と自白との葛藤状況とか、犯行体験のあるものがあえて虚偽の供述をしたということでは説明できないといわざるを得ない。

この点に関して、検察官は、自己の行動を十分説明できず、あるいは、管理棟事務室を出ていないのであればそこを出たと供述するのは不自然である旨主張する。確かに、被告人の対応は不自然ではあるが、一方では、乙原からXの行方不明を聞くまでの行動については、記憶に残っていなかったとしても必ずしも不自然ではないということもいえ、このことは、いわゆる丙谷お礼電話について、被告人は失念していて、釈放後に丙谷から言われてはじめて思い出したということからもうかがわれるのであり、加えて、前記のような取調べ状況、被告人の捜査官に対する考え方、対応に照らすと、身柄を拘束されての取調べという特異な場面において被告人が前記のような心理状態に陥ることは、一概に不自然であるといって否定しさることはできない。

(五) 49・4・14員面(検二六三)の内容の検討

次に、49・4・14員面(検二六三)の無意識殺人供述であるが、この供述は極めて特異な内容となっており、その全文は前記のとおりである。

その記載内容をみると、「正面玄関から入るとすぐ子供達が気が付いて、沢崎先生や、悦子先生やという筈です。そういうことから考えてみると、私は青葉寮のトイレを借りに正面玄関から入っておらないことが判りました」とか、「私がX君を連れ出したのを見ている子供があれば、それは本当のことだと思います。そういうことから考えて、私が何時の間にか殺ってしまったと思うのです」とあり、捜査官から、正面玄関から入ると子供達が気が付くとか、園児が目撃していることを指摘され、それを前提として受け入れている様子がうかがわれる。

この点に関しては、山崎及び勝も、園児が目撃している事実に基づいて取調べをしたこと、被告人に対し、般若心経の一部を取り上げて精神的な気持ちの話などもして、子供は非常に純真であり絶対うそをつかないと話したこと、正面玄関から入れば子供達が気付くとの話をしたことを認めている(山崎清磨証言、勝証言)。

そして、被告人は、無意識殺人供述は、山崎から教えられた旨弁解する。被告人のこの点に関する弁解をうかがわせる証拠、被告人の供述調書の記載はないものの、次の点が指摘できる。すなわち、山崎及び勝は、被告人の方から無意識にやったのではないかと供述した旨証言するが、供述調書の記載をみると、捜査官から指摘、追及されたことを前提として受け入れたため、これまで供述していたことでは説明できなくなり、ほかの場所から入ったのではないかと考えるも思い出せず、「この一五分間ぐらいの間の記憶はどうしても思い出せない」状態となり、無意識殺人供述が出てきているのであり、いわば理詰めで追及され、論理的に考えた結果として出た供述であることがうかがわれる。また、山崎は、この供述に対して、その供述を聞いてびっくりし、最悪の場合を予想して無意識の中へ逃げ込んでしまうと判断した旨証言するが、勝は、山崎とはやや異なり、いろいろ追及して困って逃げた供述であって、苦し紛れの表現であるととらえている(勝証言)のであり、その記載からは、いわば論理的に考えた結果として供述していることがうかがわれ、心神喪失の主張を考えたうえでの供述とは思えず、右山崎清磨証言をそのまま受け入れることには疑問がある。

(六) 小括

以上を総合すると、被告人が無意識殺人供述をするに至った経緯は、おおむね、次のように理解することができる。

すなわち、被告人は、捜査官を信頼し、黙秘することではなく、むしろ積極的に自己の行動を思い出し、いわゆるアリバイを証明しようと考え、捜査官の求めに応じて自己の行動を詳細に思い出すことに努め、捜査官から聞かされた他の職員らの供述を無批判に受け入れ、それを前提にして自己の行動を説明していったが、その中で被告人が説明できない空白の時間帯が生じるなどして記憶が混乱していき、記憶にある出来事をつなぎあわせるなどしたが結局説明することができず、園児が目撃していることを聞かされるなどして追及される中で、論理的に考えた結果として右無意識殺人供述をするに至ったものと合理的に推測される。

3  四月一七日の自白経緯

(一) 自白に至った経緯と被告人の弁解

被告人は、前記のとおり、四月一四日には無意識殺人供述をしたものの、翌一五日には、右供述を撤回し、その旨の供述調書が作成されたが、その後の四月一七日に最初の自白調書が作成されている。なお、この四月一七日には検察官の取調べがあり、また、被告人は、接見禁止の状態にあり、父親との面会を希望して接見禁止の一部解除を求める手紙(弁二二〇、山崎清磨証言)を書いたりしていたが、同日午後四時四〇分ころから午後五時一〇分ころまでの間父親と接見している。

自白に至った経緯について、被告人は、公判廷において、「夕食後、山崎の取調べがあり、一九日のアリバイを追及された。厨房トイレに行ったと言ったが、信じてくれず、心の話をされ、悦ちゃんは本当はやっているんですとずっと言われた。Xを連れ出したのを子供が見ている、これだけ黒い証拠が上がっている、この証拠を見れば、裁判官一〇〇人が一〇〇人悦ちゃんのことを有罪と思う、今はもう学園の職員や父兄なども信じていない、乙谷さんも今は女の犯行やという調書を取ってある、これはうそではない、悦ちゃんが言わないと、学園の職員を逮捕することになる、それでもいいんですかなどと言われた。また、捜査官がお父さんを車で送って行った、お父さんは車の中でためいきをついた、悦ちゃんこのためいきはなんなんでしょうねと言われ、わかりませんと言うと、このためいきはひょっとしてうちの悦ちゃんがやったんじゃないかという、そういうためいきだ、僕達捜査官は、人間の一挙一動を見逃さない完璧な訓練をされている、だからあのためいきは疑りのためいきに間違いない、実の親だったら、やってても本当はうちの子はやっていないと言うのが親なのに悦ちゃんのお父さんはそうじやない、僕達に疑るような態度を示した、これは絶対間違いないと言われた。学園の職員も父兄も疑って、肉親で頼れる最後の父まで疑っていると言われて、すごいショックだった。もう誰もこの世で信じてくれるものは私にはないと、激しく泣いた。泣いているときに、山崎が、悦ちゃんはやっているんだ、ほらもう一息だ、悦ちゃん言いなさい、やったんだろう、ほら悦ちゃん喉まで出かかっているじゃないか、悦ちゃんは、X君とY子ちゃんを殺したんだねと言った。それで、私は泣きながら、一言、はいと言った。山崎は、悦ちゃんは、X君とY子ちゃんを殺していません、苦し紛れに言っているとすぐ言った。私はそんなことはありませんと言うと、それじゃ調書を取りましょうと言われた。山崎が、勇さん(田中のこと)は悦ちゃんのことを信じていたんだよ、この男は親の死んだときも泣かなかった、それを悦ちゃんのことを心配して、こんなに泣いていると言った。見ると、田中は下を向いて膝の上に涙をぽとぽとこぼしていた。それで、田中に、ごめんねと一言言った。山崎は、更に動機のことを聞いてきたが、私はやってないから動機も思い付かないし言えないので、明日言いますと山崎に言った。死んで身の潔白を明かすしかない、やっていないという遺書だけを残して死のうと思った。手紙を書きたいと言い、便箋と封筒が用意され、部屋の中で、私はやっていないということなどを学園あてと父あてに手紙を書いた。房に帰ってから、ハイソックスで思い切り首を絞めて、自殺しようとしたが、死ねなかった」旨弁解する。

(二) 被告人の弁解に関する捜査官の証言内容

この点に関して、山崎は、右被告人の弁解に一部沿うものとして、被告人に対して父親が深いため息をついた話をし、「何のため息だろう、お父さんのいたい気持ちがわかるような気がする」との話をしたこと、黙ってじっと聞いていなさいと言って心の話(禅僧と高僧の話)をしたこと、被告人がXを連れ出したという園児供述のことや被告人が食堂で深く考え込んでいたとの園児供述について話したこと、学園の職員も被告人を信じていないこと(いつ言ったのか不明確ではあるが)や乙谷が女の仕業であると言っていることを話したこと、これだけの証拠がそろっているので、誰がみたって黒だという趣旨のことを言ったこと(いつ言ったのか不明確ではあるが)、被告人が泣きながら自白をしたとき、いやそれは違うということを言ったこと、被告人は動機については答えず、明日言うということだったこと、被告人が手紙を書いたこと、翌一八日に三木から被告人が自殺を図ったと言っているとの報告を受けたことを証言する。

しかしながら、一方で、山崎は、被告人が自白するに至った経緯について、おおむね「被告人に対して父親が深いため息をついた話をして、被告人の気持ちを落ち着かせた後、黙ってじっと聞いていなさいと言って心の話(禅僧と高僧の話)をし、被告人がXを連れ出したという園児供述のことや被告人が食堂で深く考え込んでいたとの園児供述について話をした。被告人が手紙を書かせてくれ、手紙を書き終わったら必ずしゃべると言うので、手紙を書かせた。その後、よく決心してくれたね、さあ勇気を出して話してごらんと言って、心の話もした。横にいた田中が、『ああ今日はY子ちゃんの命日だな』と独り言を言ったとき、被告人が大きい声を出して泣きながら自白した」旨証言し、また、田中は、証言時において、時の経過により記憶があいまいである点は否めず被告人が自白した際の山崎と被告人のやりとりについて分からないと供述する点が多いが、おおむね「下を向いて顔が硬直するような感じを受け、自供するのではないかという感じを持った。Y子のことを話せば良心があれば自供するのではないかと感じ、ちょうど、その日がY子がなくなって一か月目だったので、それが頭に浮かんで、『今日はY子ちゃんが死んで一か月目やな』と言ったと思う。そのとき、被告人は、突然黙り込んで、自分の膝に倒れかかるようにして泣いて自供した。自分もかわいそうだなという感情になり、涙を流した。山崎が、被告人に、Y子ちゃんは殺してないのではないかと言ったように思うが、それに対して、被告人が、私がやったと言った。山崎が被告人に対して威迫的な言動をしたり、甲山学園職員の逮捕をちらつかせたようなことはなかったと思う」旨証言しており、捜査官らは、被告人が捜査官の説得とY子の命日であることを聞いて悔悟の念を抱いたことから、自白するに至った趣旨を証言する。

(三) 被告人の弁解に対する検討

検討するに、被告人は、Y子の命日の話が出たのは父親との接見のときである旨弁解するが、この点については山崎、田中とも取調べのときである旨証言しており、供述調書にも、「田中部長さんにY子ちゃんが死んでちょうど一ケ月になると教えてもらいました」との記載があり、四月二三日の裁判所の事実調べ調書及び49・4・25検面(検二八〇)にも、四月一七日の調べのときに言われた趣旨の記載があることに照らすと、被告人のこの点に関する供述は信用できない。

しかしながら、山崎の証言をみると、父親のため息の話をして被告人を落ち着かせたというのであるが、その内容からして、父親のため息の話が被告人を落ち着かせることになるというのはあまりにも不自然であり、また、手紙を書いた後に自白したというのであれば、その経過が調書に記載されるのが自然と思われるのに、その記載がなく、逆に、被告人の49・4・27検面(検二八三)には、自白した後に手紙を書いた趣旨の記載がある。そして、山崎及び田中の証言によれば、被告人は、捜査官の説得とY子とXを殺害したという悔悟の念から泣きながら自白したということになるのであるが、供述調書の記載をみると、「Y子ちゃんとX君をマンホールに落して殺したのは本当に間違いありません」との概括的な記載だけであり、具体的な犯行態様や動機の供述は一切なく、かつ、山崎自身が疑問を持ったようにY子についても殺害を認める供述をしているのであり、この点でも不自然である。これらの点については、被告人の弁解による方が合理的に説明できるといわざるを得ない。

(四) 小括

以上を総合すると、結局、被告人の四月一七日の自白は、捜査官の説得と悔悟の念からというよりも、被告人が49・4・25検面(検二八〇)、49・4・26員面(検二七六)で説明しているように、捜査官から、黒い証拠があり裁判官は有罪だと思うとか、学園職員、乙谷、父親も被告人を信じていない趣旨のことを言われて追及され、絶望的な気持ちになり、Y子が死んで一か月になると言われたことをきっかけに供述したものとの疑いを抱かざるを得ない。

4  四月一八日の自白経緯

(一) 自白経緯と被告人の弁解

四月一八日は午前八時三〇分から勝、田中らによって取調べが開始され、被告人は、やっていない旨主張し、また、自殺しようとしたことを話したが、その後、山崎らの夜の取調べで、再び自白をするに至っている。

被告人は、自白した経緯について、公判廷において、「田中に、あんたはやっているんだけど忘れているんやと言われた。お母さんが、昔健忘症という病気にかかって、入院したことがある、そのときに、あんたのおやじさんの顔も忘れてしまった、そういう血があんたの体の中に流れている、だから、あんたはやってても忘れてしまっている、父親がそういう病気にかかったというならともかく、あんたを産んだ母親がかかったんだから、すごい血が流れている、XとY子が見つかったとき激しく泣き、注射も射たれたのもわからんような状態があるやないかと言われ、梅津に注射をうってもらって世話になってるのに、後日梅津に会って知らん顔していたという供述調書がある、だから、あんたはそういうのさえ忘れていると言われた。母親のことを聞かされてすごいショックだった。そう聞かされて、私は、あの子達を殺してしまって、それを忘れてしまったんだろうかと思った。山崎に、悦ちゃんは忘れてしまっている、僕が思い出させてあげようと言われ、悦ちゃん、静かに目をつむって考えてごらんなさい、長い廊下が浮かんでくるでしょうと言われた。そして、悦ちゃんはその長い廊下を連れて行ったんだと言われ、その長い廊下の先には何がありますかと尋ねられ、非常口があると言うと、そう悦ちゃんはその非常口からX君を連れ出したんですよと言って、だんだん思い出していける、心配しなくてもいい、僕に任しておきなさいと言われた。山崎に、どこから入ったかと聞かれたが、思い出せないでいると、山崎が、学園の地図を示して女子棟の方を押さえて、悦ちゃんはここから入ったんだと言い、このどこかから入ったんだと言うので、私は、わからないから、真ん中の方をここかなという感じで押さえた」旨弁解する。

(二) 被告人の弁解に関する捜査官の証言内容

捜査官らの供述では、この一八日に否認していたのが再び自白するに至った経緯は明らかではない。勝、田中は、この点について何ら説明する証言をしておらず、山崎は、勝らの取調べでどういうやりとりがきっかけとなったと聞いたのか覚えていない旨証言する。そして、山崎は、その夜の自分の取調べについて、「前日の供述はうそだったのかと言うと、被告人はそれは本当です、私がやりましたと、本当に真撃な態度に戻ってくれた。しかし、動機について何回聞いても答えてくれないので、思いあぐねて、それ以上取調べが進展しなかった。それで、ひょっとXを連れ出したのはどこからかと聞くと、洗濯仕分け室の三つ目の部屋から入ったと本当に自然に本人の口から出た」旨(山崎清磨証言)証言し、勝は、「山崎が入って調べが始まると、なぜか動機については出なくて、どうして入ったんだと侵入口の調べにはいると、三つ目の部屋ということが出た」旨証言し、田中は、「侵入口の供述が出るまで被告人は否認していて、突如として自白にかわった。その経緯については分からない」旨証言する。

前記のとおり、午前中には犯行を否認し、自殺を図ったことまで話していて、それが再び自白するようになり、それも、捜査官も知らなかった侵入口の話が被告人からあったというのに、その経過として、山崎らの供述するところは具体性迫真性に乏しいものといわざるを得ない。

(三) 被告人の弁解に対する検討

これに対して、被告人の弁解するところは、具体的、特異な内容であり、迫真性さえあるといえる。そして、被告人の弁解する母親の話とか梅津の話については、そのことを被告人自身が自分の方から供述するとは考えられず、また、勝は、前日である四月一七日に被告人の父親から事情聴取した際に母親の話(被告人の言うとおりではないが)が出て、調書(乙本松夫の49・4・17員面検四九一)を作成したことと、四月一八日の取調べの際にもその話が出ていた(被告人の方から言っていたと思うということではあるが)ことを証言していることや、田中も、いつのことか分からないとしながらも、雑談のときに母親の健忘症の話を被告人が言った旨証言していること、梅津に関する出来事が梅津の調書にあることを知っていたことに照らせば、被告人の弁解するような言葉ではないとしても、そのような経過があったのではないかと推測される。

さらに、侵入口に関する供述をするに至ったやりとりについて、被告人の弁解する内容を裏付ける証拠はない。しかしながら、侵入口に関する山崎ら捜査官の証言が信用できず、図面を示した可能性があると認めるのが相当であることは前記のとおりであり、これに加え、山崎の、いつの時点でかは分からないが、思い出させてあげようというのに似通ったことは言っているとして、あなたが思い出さないということであれば、その前後の状況をずっと整理していこう、そうすると何かで思い出すのではないかと言った旨の証言からすると、被告人の弁解するようなやりとりがなかったとはいいきれない。

(四) 小括

以上を総合すると、四月一八日の自白は、言葉のやりとりなどがそのままであるとまではいえないものの、被告人の弁解するような経過によってなされたものと推測できる。

5  四月一九日の自白経緯

(一) 四月一九日の供述経緯

被告人は、四月一九日朝の取調べにおいて、再び否認するに至っている。

その事情について、被告人は、「前日の忘れているのではないかということで、思い出そうと努めたが、いくら努力しても全く記憶がよみがえらないので、やっていないから思い出してこないのではないかという気持ちになってきた」旨弁解する。

勝は、弁護人の接見によって態度が変わった旨証言するが、この日の接見は午後三時五分からであるので、この点は理由にならず、また、山崎は、弁護人の接見があった次の日は必ずといっていいほど否認になった旨証言するが、前日の接見は午前中であり、その後一九日の午後三時五分まで弁護人の接見はないのであるから、やはり理由とならないといわざるを得ない。

49・4・19員面(検二七一)には「私は昨日、一五分間の行動について、どうしても思い出せないことを、何回も申しあげました。そして私のこの胸の中にある判らないものを引きずり出して下さい。と何回もお願いしました。今日からは、動機などについて聞かれることと思いますが、私はやったことはありませんので、そのような動機などについて喋れる筈はありません。判りません。思い出せません」との記載があり、これは、被告人の右弁解を裏付けるものといえる。

また、右調書には、「昨晩作成してもらった調書、その前の晩に作成してもらいました調書について別に取消そうとは思っておりません」とか、「警察で調べられて揃っていった証拠は全部私に不利です。ですからもういいです。私の真心は誰にも判っていただけません」との記載があり、被告人が、自己に不利益な証拠を告げられ、また、誰にも信じてもらえず、絶望的な心理状況に陥っていることがうかがわれる。

(二) 再び自白に至った経緯と被告人の弁解

そして、被告人は再び自白をするようになるのであるが、この間の事情について、被告人は、公判廷において、「田中に、このままでゆくとあんたは裁判で有罪になってしまう、どんな裁判官が一〇〇人が一〇〇人見ても、あんたのことを有罪だと思う、裁判官は情を憎む、そうなった場合に、ものすごい重い刑を科せられると言われた。あなたは、葬式のときに本当に責任を感じて泣くいい人です、その人が重い刑で犯人にされてしまうのはしのびない、少しでも軽くなるような調書を警察で取っておいたほうがいいと言われ、動機を田中が考えてくれた。今の証拠で行くと二人とも殺したことになる、それよりか一人殺したことにして、軽く裁判がすむようにしたほうがいいと言われた。動機について、田中は、学園に古いタイヤが埋め込んである、その真ん中に穴があって、タイヤの状況とマンホールの状況が一緒や、あの日、用務員が肥汲みのために、そのマンホールを開けて捨てたけど、その用務員は一回、一回きっちり閉めたと言っているが、あんな精神病のあほの言うことやから、閉め忘れたかもしれへん、そこへY子ちゃんが遊んでて落ちて、それをあんたが助けようとして助けられなくて、思い悩んで何日か過ぎた、そういうふうな調書にしとくと言われた。私が青葉寮の裏にY子を捜しに行った時間帯が、ちょうどY子が死んだ時間帯だと言い、それで、捜しに行って落ちたことにしておけば、その時間も合うと言われた。このままでいったら絶対に有罪になると山崎も田中も言うので、二人より一人殺したことにしといたほうがいいと、それで助かるならというずるい気持ちがわいてきた。田中が、とにかく自分の当直のときにY子ちゃんが落ちてなくなった、何日か過ぎて、誰かの当直のときにも同じようなことが起これば、自分の責任が少しでも軽くなる、そういうふうに考えてX君を連れ出して殺した、そういうことにしとこうと動機を言った。そして、その責任を覆い隠すようなうまい表現はないかと聞かれ、カモフラージュという言葉を山崎に言った。山崎は、うんこれはいい言葉だ、悦ちゃんはなかなか表現がうまいねと言った。田中が、あんたは若いんだから、長い間、やってないて裁判で言ってたら、裁判も延々と続く、それよりか早く刑を終えて出てきて、やり直したらいい、出てきた場合、世間の目も冷たいから、僕のところへきて養女になったらいいと言った。田中は、何日か経って梅津と会ったとき注射をうってもらったお礼も言わず失礼なやつやという調書がある、これは、病気のことで執行猶予というのにいい証拠に使えるから、これも使ったらいいと言った。執行猶予を取るためには今の弁護士ではあかん、自民党の弁護士じゃないと執行猶予は取れない、被告人の父は自民党なので、自民党系の弁護士に変えてもらうように手紙を書けと田中に言われ、手紙を書いた」旨供述する。

これに対し、山崎は、否認の態度がなくなった経緯については分からない旨証言し、自白状況については、「Xを連れ出したのは分かったが、Y子はどういうことでやったのかと聞き、食堂で深く考え込んでいる被告人を見た園児の話をしたり、心の話をしたりしていると、被告人が急にわっとのけぞらんばかりに泣き、田中のところに頭を打ちふせて一七日の状況を説明した。そして、カモフラージュのためにやったという話が出た。カモフラージュの意味について少し解せぬものがあったが、自分の責任を隠すためにそういうことをするのかとも考えた。これは違うかなと思ったり、ひょっとするとやったのかとも思い、そのときには判断できなかった。Xを連れ出した状況も出たが、簡単な供述であった。非常にむごい形のことにもなるので、少し差し控えて取調べをした」旨証言し、勝は、「否認調書を取ると、本人も落ち着き、だんだんに事情を聞いていくと、動機の点が出てきた。Y子がいなくなったときの当直とXがいなくなったときの当直が、夜勤と日直が裏腹になるという話があり、それを中心におかしいのではないかということで調べていって、動機の点が出てきた」旨証言している。

動機供述をするに至った経緯等について、捜査官らの証言には齟齬があり、またその不自然さがあることなどについては、前記のとおりである。山崎ら捜査官は、被告人が再び自白するに至った事情について具体的に説明できていないことに加え、右のような食い違いがある点において、山崎らの証言の信用性には疑問を抱かざるを得ない。

被告人の右弁解については、それらのやりとりがこのときにあったと認めるに足りる証拠はないが、動機に関しては前記のとおり捜査官も想定していたものであること、弁護人解任の話については、父親あてのその趣旨の手紙が存在しており一応の裏付けがあること、梅津について供述調書が作成されていたことにより一応の裏付けがあることなど、被告人供述の一部については、それをうかがわせるものがあると一応いい得るところである。

6  四月二〇日以降の供述経緯

(一) 四月二〇日、二一日の供述概要等

被告人は、四月一九日に自白してから、四月二〇日、二一日とその状況が続いているが、その供述内容についての疑問点は前記のとおりである。

(二) 四月二二日の否認の経緯

そして、被告人は、四月二二日に否認に転じてからは、一貫して否認している。

この事情について、被告人は、公判廷において、「いくら考えてもやったということが思い出さないばかりか、乙原からXの行方不明を知らされて本当にびっくりし、真剣に甲山周辺を捜しまわった時の自分の気持ちを考えるにつけて、自分がやっていないからあんなに真剣に捜せたんだ、自分はやっていないという確信を取り戻すに至った。また、四月二一日の弁護人の接見の際に、警察は六法全書なんかを見せて、本当は殺人でも死刑にならないんだよと、うその自白をさせるために説明すると言われ、ちょうどその日の晩に、山崎が、悦ちゃんは本当はやっているんだけど、死刑になるのが恐くてやったと言わないんだろうと言って、六法全書を見せて死刑にはならないことを説明した。これらのやりとりから、捜査官はやっていない私を犯人にしていくということがわかった」旨弁解する。

この点について、山崎は、「二一日以降はもう大丈夫だと思って勝に任せていた。二二日には、二一日から弁護人の数が急激に増え、やっていないと供述が戻ったと勝から報告を受けた」旨証言し、また、勝は、「二一日午前中に弁護士が急遽四人来て接見し、態度が急変したが、まだ取調べに応ずる態度であった。その晩は、供述を極端に拒否しなかったが、思うとか推測のようなあいまいな供述に変わった。二二日以降は完全な否認に戻ってしまった」旨証言する。

被告人の供述を裏付ける証拠はなく、二一日に取調べをした捜査官を山崎であると間違って供述している点でも疑問があるが、他方、捜査官らの供述するように、弁護人の接見が意味を持つというのであれば、それまでも弁護人の接見はあったのであり、四人という人数をいうのであれば、それ以前にも三人の弁護人の接見もあるのであって、それだけの説明では十分とはいえないことに照らせば、具体的、迫真的な被告人の供述を一概に否定することもできないところである。

7  まとめ

以上みてきたように、被告人の自白に至った経緯をみてみると、被告人の弁解するような捜査官とのやりとり等について、それをそのまま認めるに足りる証拠はないものの、その全部ではないにしてもそれを裏付けるあるいはうかがわせるものがあるのであって、反面、検察官が主張するような、捜査官の説得と悔悟の念から自白をしたり、弁護人の指示や職員ら支援者の激励によって否認したりするような、心の葛藤では説明できない点もあり、加えて、捜査官の証言には信用できない点もみられることなどを総合すると、被告人の弁解は以上でみてきたように一概に排斥できないものもあり、この点からも、被告人の自白の信用性については、疑問を抱かざるを得ない。

六 総括

以上を総合すると、被告人には自白調書があるが、それは逮捕当初からのものではなく、しかも、最初の自白をしてからも、短時日のうちに自白と否認を繰り返し、最初の自白をしてから六日目には否認に転じ、以後は一貫して否認している状況であり、その自白内容も、概括的、断片的で、あいまいな表現が多く、さらに、否認していた者が自白するに至った際に通常供述するであろうところの自白をするに至った理由、犯行の動機や迫真性のある具体的事実に関する供述等がないのであり、自白調書といっても極めて信用性の乏しいものである。検察官は、自白内容及び自白状況から被告人の自白に信用性がある旨主張するが、それは積極的に被告人の自白に信用性を与えるものとはいえなかったり、理由がないものであり、被告人が弁解する自白するに至った経緯については一概に否定できないものがあることにも照らすと、被告人の自白に信用性を認めることはできないといわざるを得ない。

第十二  検察官のその余の主張に対する判断

一  いわゆる繊維の相互付着に関して

1  検察官の主張と情況証拠として持つ意味

(一) 検察官の主張

検察官は、被告人の自白の信用性を裏付け、また、被告人が犯人であることを強く推認させるもののひとつとして、被告人とXの各着衣の繊維片の相互付着事実をあげる。

すなわち、検察官は、「被告人が本件事件当夜学園内において着用していたダッフルコートと浄化槽内で発見されたXが着用していたセーター及びズボンの各着衣から、その付着繊維及び構成繊維が摘出され、これを鑑定資料とした鑑定の結果によれば、右鑑定資料の一部が互いに『非常に酷似する』ないし『類似する』というものであって、Xが浄化槽内で死亡するまでの間に、被告人のダッフルコートとXの着衣が接触した事実のあることが認められる。そして、証拠によれば、本件事件前において、被告人のダッフルコートとXのセーター及びズボンが接触した可能性は極めて低く、本件犯行時に互いの着衣の繊維片が相互に付着し合った蓋然性が非常に高い」旨主張する。

(二) 情況証拠として持つ意味

右のような繊維の相互付着事実というものは、そのこと自体が直ちに被告人の犯行を裏付けるというものではないことは証拠上明らかであり、検察官も被告人の自白の信用性を裏付けるとか被告人が犯人であることを推認させるという情況証拠の一つとしてあげているものである。

そこで、その情況証拠として持つ意味を検討するに、繊維の相互付着事実とはいうものの、そもそも、着衣に他の着衣の繊維がどのような場合にどのような形で付着するのかについては、証拠上何ら明確になっていないのであり、繊維が付着している事実から直接接触した可能性を推測するというにすぎず、しかも、後記のとおり、付着していたという繊維は、Xのセーターに付着していた一本、Xのズボンに付着していた一本、被告人のダッフルコートに付着していた二本という僅かな繊維片であり、鑑定内容も、鑑定資料を破壊しないという制約から、分光学的分析あるいは顕微鏡検査により色相ないし繊維質の点で「非常に酷似する」ないし「類似する」というものであり、情況証拠としてもその証明力には限界があるといわざるを得ない。

したがって、これまで検討したように、園児供述及び被告人の自白の信用性には大きな疑問がある本件においては、繊維の相互付着の事実が認められたとしても、そのことによって右の疑問をくつがえし、例えば自白の信用性を高めるというほどの証明力があるものではなく、ましてや被告人が犯人であることを強く推認させるようなものでもない。そうすると、本件においては、この繊維の相互付着に関する証拠の信用性については、右判断に必要な限度で検討すれば足りるのであるが、念のため、検察官の主張に沿って一応の判断を示しておくこととする。

2  繊維の採取、鑑定の経過等

証拠によれば、Xが遺体で発見されたときの着衣は、上がセーター(青色横縞模様)で下がズボン(焦茶色)であること、被告人が三月一九日夜にダッフルコート(黒色)を着用していたことが認められる。

そして、証拠によれば、次の事実が認められる。

(1) 浄化槽内で発見されたXの遺体は、三月一九日午後一一時五〇分ころまでに浄化槽から引き上げられ、死体覆いをかぶせた戸板の上に置かれ、捜査員により、ホースで水をかけられて汚物等が洗い流され、その後、西宮署車庫内に安置され、その場で着衣が脱がされた。その着衣は、同署の二階から屋上に通じる階段の踊り場に、ビニールのロープを張って陰干しにされ、その後、一点ずつビニール袋に入れられ、段ボール箱に入れられて同署で保管された。

(2) 右Xの着衣は、三月二四日ころ、県警本部刑事部科学検査所において、兵庫県警察技術吏員信西清人によって、ビニオテープを圧着する方法でXの着衣の付着物が採取され、その後、Xの着衣は、再び一点ずつビニール袋に入れられ、段ボール箱で保管された。

(3) 被告人の着衣は、昭和四九年四月七日の被告人方捜索差押時にダッフルコート一着及び紺色ジーンズ二本が押収され、捜査官により、一点ずつビニール袋に入れられ、紙製買物袋に入れられて西宮署で保管された。

(4) 被告人の着衣は、四月九日ころ、右信西によって、(2)記載と同様の方法で被告人の着衣の付着物が採取され、その後、被告人の着衣は、再び一点ずつビニール袋に入れられ、段ボール箱で保管された。

(5) Xと被告人の着衣は、前記のとおり、それぞれ別個に段ボール箱に入れられて保管されていたが、四月末ころ、捜査官によって科学検査所から西宮署に持ち帰られ、段ボール箱に入れられたまま保管された。

(6) 信西は、四月九日着手の鑑定(検八〇)に際し、右(4)記載のビニオテープから、Xの着衣から採取した構成繊維片と類似のものなどを顕微鏡で検査し、被告人の着衣(ダッフルコート)の付着繊維片八本を摘出した。

(7) 信西は、五月一六日着手の鑑定(検五九)に際し、右(2)記載のビニオテープから、被告人の着衣から採取した構成繊維片と類似のものを顕微鏡で検査し、Xの着衣(セーターとズボン)の付着繊維片三本を摘出した。

(8) 信西は、七月八日着手の鑑定(検四四五)に際し、右(2)記載のビニオテープから、赤系と黒系の化繊(被告人の着衣と同系)を顕微鏡で検査し、Xの着衣(セーターとズボン)の付着繊維片五本を摘出した。

(9) 大阪市立工業研究所研究員の浦畑俊博は、(6)記載の被告人の着衣(ダッフルコート)の付着繊維片八本のうちの五本と(7)記載のXの着衣(セーターとズボン)の付着繊維片三本について、分光学的分析の結果、右被告人の着衣(ダッフルコート)の付着繊維片のうち二本がXのセーターの構成繊維片と「非常に酷似する」、Xの着衣(セーターとズボン)の付着繊維片のうちセーターの付着繊維片一本が被告人のダッフルコートの構成繊維片と「非常に酷似する」、Xの着衣(セーターとズボン)の付着繊維片のうちズボンの付着繊維片一本が被告人のダッフルコートの構成繊維片と「類似する」旨鑑定した(検五一、以下「浦畑鑑定」という)。

(10) 大阪市立工業研究所技術吏員の脇本繁は、(6)記載の被告人の着衣(ダッフルコート)の付着繊維片八本のうちの五本とXのセーターの構成繊維を、光学顕微鏡で表面状態を調べて比較した結果、そのうち付着繊維片二本と構成繊維片とが「とくに類似している」旨鑑定した(検五五、以下「脇本鑑定」という)。

(11) 東レ株式会社繊維研究所商品研究室長西海四郎は、(8)記載のXの着衣(セーターとズボン)の付着繊維片五本と被告人のダッフルコートの構成(裏生地)繊維片を顕微鏡で観察した結果、「それぞれは同種であると推定される」旨鑑定した(検五七、以下「西海鑑定」という)。

(12) 信西は、一〇月二五日着手の鑑定(検六一)の際、Xの着衣(セーター)の表面をエチケットブラシで掃き落とし、そのブラシにビニオテープを圧着する方法でXの着衣(セーター)の付着物を採取し、被告人の着衣(ダッフルコート)から採取した構成繊維片と類似のものを顕微鏡で検査し、付着繊維片八本を摘出した。同じく、その際、同様の方法により、被告人の着衣(ダッフルコート)の付着物を採取して付着繊維片四本を摘出した。

(13) 前記浦畑俊博は、(12)記載のXの着衣(セーター)の付着繊維片八本と被告人の着衣(ダッフルコート)の付着繊維片四本について、分光学的分析の結果、Xの着衣(セーター)の付着繊維片八本のうちの二本が被告人の着衣(ダッフルコート)の構成(表生地)繊維片と「非常に酷似する」、同じくXの着衣(セーター)の付着繊維片八本のうちの一本が被告人の着衣(ダッフルコート)の構成(裏生地)繊維片と「非常に酷似する」旨鑑定した(検五三、以下「浦畑第二鑑定」という)。

3  浦畑鑑定及び脇本鑑定の鑑定資料の収集、保管について

(一) 検察官の主張等

(1) 検察官の主張

検察官は、右各鑑定資料について、「これを鑑定資料とした経緯、方法に問題はなく、押収、保管過程において、被告人のダッフルコートとXの着衣が直接、間接に接触する機会もなく、その鑑定資料としての価値に疑いを入れる余地はない」旨主張し、右2の(9)記載の浦畑鑑定及び2の(10)記載の脇本鑑定について、その信用性は高い旨主張する。

(2) 西海鑑定及び浦畑第二鑑定についての概括的判断

なお、右検察官の主張によれば、検察官が信用性が高いと主張しているのは、前記各鑑定のうち、右2の(9)記載の浦畑鑑定及び2の(10)記載の脇本鑑定についてであるので、当裁判所も、この両鑑定の信用性について以下判断することとするが、念のため、2の(11)記載の西海鑑定及び2の(13)記載の浦畑第二鑑定の信用性についての結論的判断を示しておく。

まず、2の(11)記載の西海鑑定については、その鑑定方法は、顕微鏡により外表を観察するというものであり、繊維の種類の鑑定としては最適のものとはいいがたくその限界があること、鑑定書の添付写真には比較品の写真があるが、この比較品については鑑定書及び鑑定嘱託書に何も記載がなく、西海証言によっても、その比較品がどのようなものであったのか、鑑定においてどのような役割を果たしたのかなど必ずしも明確とはいえないこと、鑑定資料のうちの構成繊維片の黒、白、赤についていずれも旭化成のカシミロンと推定した部分については、勝繊維証言に照らし、誤りである疑いが強いこと、これらの事情を総合すれば、その信用性には問題があるといわざるを得ない。

次に、2の(13)記載の浦畑第二鑑定については、被告人及びXの着衣の保管状況は、2の(5)記載のとおり、それぞれ別個に段ボール箱に入れられて保管されていたことが認められるものの、勝繊維証言等によれば、これらの着衣が捜査官によって持ち出される機会がかなりあったことがうかがわれるのであり、2の(12)記載のとおり、これらの着衣からその鑑定資料が摘出されたのは事件から約七か月後であることも考慮すると、この間これらの着衣が何らかの形で接触した可能性が否定できず、鑑定資料としての価値に疑問を抱かざるを得ないのであり、これを鑑定資料とした浦畑第二鑑定の証拠価値には疑問があるといわざるを得ない。

(二) 検察官の主張に対する判断

右2の(1)ないし(8)記載の事実によれば、Xの着衣から付着物を採取した際には、未だ被告人のダッフルコートは押収されていなかったものであり、また、被告人の着衣を押収してから付着物を採取する間に、被告人の着衣とXの着衣が直接接触する機会はなかったといえるのであり、その他右鑑定資料の収集、保管、繊維片採取について問題とすべき点はなく、鑑定資料としての価値に疑問はないと認められる。

弁護人は、間接接触の可能性や捜査官が繊維片の相互付着について正しい認識を持って捜査にあたっていたわけではないことを指摘する。確かに、捜査当初において、捜査官が繊維の相互付着に関して明確な問題意識を持ちその点に十分留意して捜査にあたっていたとまでは認められない(例えば、西宮署鑑識係員の榎廣は、榎証言において、この点について捜査上配慮をした旨供述するが、同証言内容の全体に照らし信用できない)ものの、前記収集過程に照らすと、被告人の着衣とXの着衣が直接接触する機会はなかったと認められるのであり、また、弁護人主張のように間接接触の可能性については完全には否定できないものの、その可能性というのも具体性はなく抽象的なものであり、しかもその可能性は直接接触との比較でいえば極めて低いものと常識的に考えられるから、間接接触の可能性が完全に否定できないと鑑定資料としての価値が認められないというものではなく、弁護人の主張は理由がない。

4  浦畑鑑定の持つ意味について

(一) 検察官の主張

検察官は、「鑑定資料となった被告人のダッフルコートの構成繊維とXのセーター及びズボンの付着繊維との同一性、それにXのセーターの構成繊維と被告人のダッフルコートの付着繊維との同一性についてなされた浦畑の鑑定結果の信用性は高く、鑑定資料の一部が互いに『非常に酷似する』ないし『類似する』という右鑑定結果によれば、被告人のダッフルコートとXの着衣が接触した事実が認められる」旨主張する。

(二) 鑑定経過等

証拠によれば、浦畑は、大阪市立工業研究所の研究員であり、測色学の専門家として、本件において捜査官から繊維片の異同(繊維片が同一の繊維といえるのか、繊維片の色素が一致するのか)についての鑑定を依頼されたこと、色素の化学的分析は繊維片が小さくて困難であり、かつ、その資料を破壊してはいけないことから、分光学的分析によって色を解析する方法をとったこと、繊維片が小さいことから、まず、島津製作所の前田富之が、島津製マルチパーパス自記分光光度計MPS-五〇〇〇にダブルビーム顕微分光付属装置をつけて分光曲線図を作成し、次に、それを浦畑が解析して浦畑鑑定書を作成したことが認められる。

(三) 浦畑鑑定についての検討

右認定事実及び証拠(浦畑鑑定書、浦畑証言、前田富之証言等)を総合すれば、浦畑は、測色学の専門家であり、分光曲線図の読み取りについては専門家的地位にあったことが認められるものの、このような顕微分光装置による測定はこれまでしたことがないのであり、前田富之証言に照らすとこの器械の構造について十分な理解ができていなかったことがうかがわれる。

そして、右に関連することであるが、鑑定結果には直接影響しないとしても、このような顕微分光によって測定された分光曲線図の分析においても、必ずしも十分な分析ができなかったのではないかとの疑いを抱かざるを得ない。すなわち、検察官は、浦畑に顕微分光装置を直接扱った経験がなかったことと顕微分光装置を使用して得られた分光曲線図の読み取り能力の有無とは全く無関係の事柄である旨主張するが、前田富之証言と浦畑証言を対比すると、浦畑証言においては、分光曲線図に描かれた吸光度ゼロの部分についての理解の誤り、分光曲線の上下のずれ及びノイズに関する理解についての不十分さがうかがわれるのであり、このことに照らすと、器械に関することと分光曲線図の読み取り能力の有無とは全く無関係の事柄であるとはいえない。そして、浦畑は、分光曲線の山(最大吸収値)と谷(極小値)の位置及び全体的形状から、全体として似ているものを「酷似」、山とか谷が非常に似ているが他のところが一致しないものを「類似」とした旨供述するが、その区別は浦畑証言によっても必ずしも明確になっているとはいいがたく、しかも、「非常に酷似する」とされた分光曲線の中には可視領域において交差しているものがあり、一般的には可視領域において分光曲線が交差していることは分光学的にいえば色相として「違う」というべきであることを浦畑自身も認めているのであり、浦畑が反対尋問において、「普通の測定と異なり、非常に小さなところで測定しているから、我々が通常測っているような精度というものは顕微分光では非常に難しい」とか「酷似、類似というのも、曲線の結果が似ているとか似ていないとか、そういうことしか私は答えていない」旨証言していることもあわせ考慮すれば、浦畑の「酷似」ないしは「類似」との判断はその精密さにおいて疑問を指摘せざるを得ない。

さらに、浦畑の鑑定結果は、色相の分光学的分析により、分光曲線が酷似あるいは類似していたことをいうにすぎず、それ以上に染料であるとか色素の異同を判別しているものでないことは、浦畑鑑定書の記載及び浦畑証言から明らかである。

(四) 小括

以上を総合すれば、浦畑鑑定において、鑑定資料である繊維片の一部が互いに「非常に酷似する」ないしは「類似する」と鑑定されているが、その内容には右のような限界があり、情況証拠としての価値にもその限界があるのであって、繊維の相互付着といっても、色相の「非常に酷似する」ないしは「類似する」繊維が相互に付着していたことをいうにすぎず、それ以上に繊維の同一性までいっているのではなく、したがって、検察官主張のように「被告人のダッフルコートとXの着衣が接触した事実が認められる」とまではいえない。

5  脇本鑑定の持つ意味について

(一) 検察官の主張

検察官は、「鑑定資料となったXのセーターの構成繊維と被告人のダッフルコートの付着繊維との同一性についてなされた脇本の鑑定結果は信用性が高く、被告人のダッフルコートとXの着衣が接触したことによるものと解すべきである」旨主張する。そして、脇本鑑定書によると、脇本は、光学顕微鏡(四〇〇倍)で鑑定資料である繊維片の表面状態を調べた結果、被告人の着衣(ダッフルコート)の付着繊維片二本とXの着衣(セーター)の構成繊維片が「とくに類似している」との鑑定をしている。

(二) 脇本鑑定についての検討

右鑑定結果を検討するに、脇本鑑定書では、「とくに類似している」と鑑定した理由について、これらの繊維片がモヘヤーであることと、この種衣料(セーター)としてモヘヤー毛の使用製品は最近は非常に少ないこと、繊維表面の摩損程度からして使用頻度及び染色状態がとくに類似している点をあげ、右モヘヤーであることについては、繊維表面の鱗形状(スケール)及び鱗先端部(セレーション)が羊毛の同部分とは形状を全く異にすることと、モヘヤー毛は毛髄(メジュラー)を有する毛類であるが、羊毛は通常の場合ほとんど認められないことをあげている。

ところが、脇本は、証言において、類似しているか否かの基準について、非常に要素が多く、それが多いほど正確になるとして、本件では約七つの要素を総合している(脇本鑑定書及び脇本証言を総合すると、この中にはモヘヤーと羊毛の区別の基準も入っていると思われる)旨供述し、セレーションの形、セレーションの摩耗度、セレーションの先端(エピキューティクル)のめくれ具合(形)、色相、メジュラーの有無、メジュラーの内孔の形、セルの形などをあげ、一番大事なのは色相であると供述したり、反対尋問では、それに加えてスケールの数をあげ、これが一番大事な項目であるとしたり、さらに加えて繊度をあげたりもしている。

このように、脇本証言においては、脇本鑑定書では具体的にあげていない基準となる要素をあげ、それも変遷しているのであり、それらの総合評価であるとはいうものの、その基準はいささかあいまいであるといわざるを得ず、また、その基準についても、弁護人の反対尋問により、そもそも基準になるのかあるいはその内容についての疑問が指摘され、脇本自身明確に説明できない点とか誤りではないかとの疑いのある点がみられるのであり、結局は、これらの基準によることが記載されていない脇本鑑定書の理由付けについては、その精密さに疑問を抱かざるをえない。

加えて、脇本鑑定書記載の類似性の根拠をみると、<1>モヘヤー毛の使用製品(セーター)は最近は非常に少ないこと、<2>繊維表面の摩損程度からして使用頻度及び染色状態がとくに類似しているということになるのであるが、<1>はそもそも、類似性の根拠にはならないといわざるを得ず、また<2>については、それ自体は根拠になりうるものではあるが、結局は、その繊維表面の摩損程度というのも、光学顕微鏡(四〇〇倍)で繊維片の表面状態を見た結果にすぎないものであり、脇本証言でも「新しいものに値するものではないということをいっている。新しいものと比較して大分使われているという程度のもの」と供述していることにも照らすと、その精密さには限界があるといわざるを得ない。また、染色状態というのも、同様に光学顕微鏡(四〇〇倍)で見た結果にすぎないのであり、それ以上に染料とか色相について検査したものでないことは脇本証言からも明らかであり、やはり、その精密さには限界があるといわざるを得ない。 (三) 小括

以上を総合すれば、脇本鑑定において、鑑定資料である繊維片の一部が「とくに類似している」と鑑定されているが、その内容には右のような限界があり、情況証拠としての価値にもその限界があるのであって、繊維の相互付着といっても、光学顕微鏡(四〇〇倍)で繊維表面を見た結果「とくに類似している」とみられる繊維が相互に付着していたことをいうにすぎず、それ以上に繊維の同一性までいっているものではなく、したがって、検察官主張のように「被告人のダッフルコートとXの着衣が接触したことによるものと解すべきである」とまではいえない。

6  繊維片の相互付着の時期

(一) 検察官の主張

検察官は、「被告人の本件ダッフルコートの着用状況、Xの園内での服装及びXの行動傾向を見れば、本件事件当夜を除き、被告人とXの着衣が互いに接触する可能性は極めて低い」旨主張し、その具体的内容については、「<1>被告人は、通常、甲山学園外の女子寮で制服に着替えたうえで園内に入っていたものであり、本件事件当日までの間、被告人がダッフルコートを着用して甲山学園内で勤務したことがないこと、<2>Xは、通常、着衣の上にスモックを着ており、本件事件当日は卒業式の予行演習のため、たまたま、セーター姿になっていたものであること、<3>X自身が職員に抱きついていくような性格の園児ではないこと」をあげる。

(二) 検察官の主張に対する判断

検討するに、被告人の49・4・13員面、戊山証言、丁野五江証言、丁山証言、同人の49・8・6検面(当審検一七七)、同52・4・27検面(当審検一七八)、乙林の49・8・9検面(当審検一八五)、丙田の49・9・11検面(当審検一八八)を総合すれば、検察官主張の<1>の事実(なお、被告人は、公判廷では、ダッフルコートを着用して甲山学園に行き、園児と接触したことがある旨供述するが、信用できない)が認められ、乙沢冬子証言、丙村六夫証言、丁山の右49・8・6検面、同52・4・27検面、戊山の49・8・2検面(当審検二〇〇)、乙林の右49・8・9検面を総合すれば、検察官主張の<2>の事実が認められ、戊山証言、丙村六夫証言、丁山証言、同人の右49・8・6検面、丙田の右49・9・11検面を総合すれば、検察官主張の<3>の事実が認められる。そして、これらの事実を総合すれば、検察官が主張するように、被告人のダッフルコートとXの着衣が互いに接触する可能性は極めて低かったということができる。

しかしながら、このような事実によって認められるのは、検察官も主張するように、被告人のダッフルコートとXの着衣が互いに接触する可能性が極めて低かったというにすぎず、それ以上に、本件犯行時以外に接触した事実がないことをいうものではないのであり、その限度での意味を持つにすぎない。そして、前記のように、繊維の相互付着に関する鑑定結果についても、情況証拠としてその証明力には限界があることを考慮すれば、その持つ意味は極めて小さいといわざるを得ない。

7  繊維の相互付着の仕組みについて

以上に加えて、本件においては、被告人の着衣及びXの着衣に付着していた繊維のことを問題にしながら、その前提となると思われる繊維の相互付着に関する仕組みが何ら明らかにされていないことも指摘せざるを得ず、このことは前記各証拠の証明力に大きな意味を持たせることができない一つの事情ということができる。

すなわち、着衣が接触した場合、相互にその構成繊維が付着するであろうことは常識的には判断できるが、それが証拠としての意味を持つためには、着衣が接触した場合、どのような種類の繊維がどのような場合にどのような部分にどのような形で付着するのかについて、その仕組みが何らかの形で明らかにされるべきである。本件の場合、検察官主張の被告人の犯行態様によれば、「被告人は、Xを前から抱き上げて浄化槽まで赴き、いったん同人を降ろしてマンホールの蓋を開けたうえ、再度同人を前から抱き上げ、マンホールから同槽内に足から投げ込んだ」というものであるが、そうであれば、常識的に考えれば、Xの着衣、ことにセーターの前面に被告人の着衣の構成繊維が、また、被告人の着衣の前面にXの着衣の構成繊維が多量に付着すると考えられる。しかしながら、前記のとおり、本件では僅かな付着繊維についてしか鑑定されていないのであり、しかも、浦畑鑑定によれば、被告人のダッフルコートの構成繊維片と「非常に酷似する」ないしは「類似する」と鑑定された付着繊維片は、Xの前面からはセーターの付着繊維一本だけであり、もう一本はズボンのそれも尻の部分(すなわち後面)からというのである。右のような態様の場合、どのような種類の繊維がどのような部分にどのような形で付着するのかについてその仕組みが明らかにされるべきであるが、そうでなくても、汚物が洗い流された際に多くの付着繊維は流されたと一応考えられるものの、本件においても信西が採取したビニオテープには多くの繊維が付着しているのであるから、これらについてどのような繊維がどのような分布でどのような形で付着しているのかを明らかにしないと、やはり、証拠としての意味は小さいといわざるを得ない。

8  まとめ

以上を総合すると、検察官の主張する繊維の相互付着事実に関しては、情況証拠としての意味は極めて小さいといわざるを得ない。

二  Xの胃の中にあったみかん片に関して

1  検察官の主張

検察官は、被告人の自白の信用性を裏付け、また、被告人が犯人であることを推認させるものの一つとして、Xの胃の中にあったみかん片が、被告人が一九日に購入したみかんのものであり、被告人がXの死の直前にXに食させたものであるとの事実をあげる。

すなわち、検察官は、「Xの胃内には解剖の結果、三房分の未消化のみかん片が発見されたものであるが、Xが右みかんを食した時期は死亡前の約一時間以内であって、死の直前に食したとしても不自然ではないところ、Xは、行方不明になる前の右時間帯には青葉寮内に在寮していたのであり、Xの胃内で発見されたみかんが一個分ではなく三房分しかないこと、Xが自ら好んでみかんを食べる子供でないこと、Xを含め青葉寮園児はみかんを独自に入手できる立場にはなく、青葉寮当直者乙野及び乙原がXにみかんを与えていないことを見れば、Xの胃内で発見されたみかん片は、青葉寮在寮者でない者が死の直前にXに与えたものと思われ、みかん片がほとんどかみ砕かれていない状態であったことは、みかん片を与えた者が、何らかの理由でみかんを食するのをXに急がせ、飲み込ませた可能性が高く、また、このようにXの死に近接した時期に青葉寮在寮者以外の者がXにみかんを食させたという事実は、その者がXの死に関係している可能性が極めて高いと考えられる。一方、被告人は事件当日、みかんを購入して甲山学園に帰園しており、Xにみかんを食させ得る立場にあり、被告人が購入したみかんは、LないしLLサイズのみかんと思われるところ、Xの胃内で発見されたみかん片から推定されるみかんもLサイズのみかんの可能性が高く、サイズ的に矛盾することなく一致しており、これらの事実は、被告人の自白の信用性を裏付け、また、被告人が犯人であることを推認させる」旨主張する。

2  検察官の主張の持つ意味

検察官の主張の意味するところは、その主張事実から明らかなように、Xの胃の中にあったみかん片と被告人が購入したみかんとが同一のものであることを直接いうものではなく、例えば、胃の中のみかんの状態等から「死の直前に食したとしても不自然ではない」とか「Xにみかんを食させた者がXの死に関係している可能性が極めて高いと考えられる」とし、みかんの大きさの推定等から「サイズ的に矛盾することなく一致する」というものであって、それは、Xの胃の中にあったみかん片が被告人が購入したみかんであっても矛盾せず、それを被告人が犯行直前にXに与えたとしても矛盾しないということをいっているにすぎないものである。

したがって、検察官の右主張事実によって、被告人の自白の信用性が裏付けられるとか被告人が犯人であることを推認させるといっても、そこには自ずから限界があるのであって、これまで検討したように、園児供述及び被告人の自白の信用性には大きな疑問がある本件においては、その持つ意味は小さいといわざるを得ない。

3  検察官の主張の問題点

しかも、検察官の主張については、次のような問題点が指摘できる。

(一) みかんを食べさせた態様

まず、検察官は、被告人がいつどのようにしてXにみかんを食べさせたのかという態様については、何ら明らかにしていないという点である。

右態様は、検察官の主張の前提となるものであり、これを明確にしないでおいて、被告人の自白の信用性が裏付けられるとか被告人が犯人であることを推認させると主張しても、説得力に欠けるといわざるを得ない。もっとも、検察官は、みかんに関する被告人の自白内容が具体的で信用できる旨主張しているので、被告人の自白に沿った内容を前提にしているものと理解できる。しかしながら、右自白の内容は、前記のとおりであり、その要旨は、「食べさしのみかんを持って青葉寮へ行った。みかんは手に持っていたと思う。Xを呼んですぐ手に持っていたみかんをやったように思う」というものであって、Xを呼び出した後Xを浄化槽に落とすまでの間とはいえても、いつどのようにしてXがみかんを食べたのかについては不明なままである。

なお、被告人の右自白内容については、前記のとおり、「みかんは手に持っていたと思う」、「みかんをやったように思う」とのあいまいな表現になっており、他に具体的状況に関する供述もなく、迫真性に乏しいものであり、信用できないといわざるを得ない。検察官は、右主張事実によって被告人の自白の信用性が裏付けられると主張するが、被告人の右自白内容、前記の右主張事実の持つ意味に照らすと、右主張事実が被告人の右自白の裏付けになるものというには疑問がある。

(二) みかんを食べさせた時期

検察官は、Xの胃の中のみかんの状態から、「死の直前に食したとしても不自然ではない」旨主張するが、その根拠としてあげる溝井当審証言及びX第二鑑定書からそのようにいえるのか疑問がある。

Xの胃の中には未消化のみかん片があり、「ほとんど未消化であることから考えておそらく死亡前一時間以内に飲食したと思われる」旨鑑定されている(X第二鑑定書)のであるが、鑑定人である溝井は、溝井当審証言において、「死亡に近い時期と考える。死の直前に食したとしても別に矛盾はないと思う」旨供述し、その根拠としては、みかんの位置とみかんがあまり崩れていないことをあげている。

しかしながら、溝井は、同証言において、「一〇分でもいいと思うが、それ以上縮められるかは言えない」と供述しているのであり、検察官の主張する犯行態様であれば、Xを呼び出して浄化槽に落とすのに数分程度の時間しかかかっていないのであって、それをもって、「死の直前に食した」というのであれば、溝井当審証言によっても「言えない」範囲内のことであるというべきである。しかも、溝井が、「死の直前に食したとしても別に矛盾はないと思う」と証言したのは、鑑定時から既に二〇年を経過してからのものであるうえ、X第二鑑定書には「死亡前一時間以内」とあり、その記載からは「死亡の直前」というのとはニュアンスを異にしているとみるのが自然である。さらに、その根拠としてあげているみかんの位置とみかんの消化程度(あまり崩れていない)についても、胃の入口側にあったというみかんの位置が根拠として大きいと証言するものの、X第二鑑定書には「胃内部における位置的関係は明らかではない」との明確な記載があるうえ、溝井当審証言と写真(当審弁一一一)に照らし、胃の内容物の上部にあったとはいえても、胃の入口側にあったといえるのか疑問であり、また、溝井は、「みかんの消化程度だけでは個人差があって一概にいえず、幅を持った判断しかできない」趣旨の証言もしているのであって、結局、溝井が「死の直前に食したとしても別に矛盾はない」とする根拠にも問題がある。

(三) サイズの推定

検察官は、Xの胃の中にあったみかん片からそのみかんがLサイズの可能性が高い旨主張するが、果たして胃の中にあったみかん片からみかんのサイズが推定できるのか疑問である。

検察官が、その根拠の一つとしてあげる小沢良和の鑑定(小沢鑑定書及び小沢証言)は、みかん片の写真をもとに、表皮と隙間部分の合計約一〇ミリから一二ミリを足してみかんの縦径を算出し、それに統計的数値である果形指数一・三ないし一・三五を乗じて横径を算出し、農林省全国規格であるサイズのS(横径五五ミリ以上六一ミリ未満)、M(同六一ミリ以上六七ミリ未満)、L(同六七ミリ以上七三ミリ未満)、LL(同七三ミリ以上)にあてはめて推定したものである。

しかしながら、そもそもみかんの房の大きさが常にみかんのサイズと対応しているものでないことは小沢証言において小沢自身が認めているところであり、本件のような少数の例から推定するという方法(推計学による厳密な方法でない方法で)自体にも問題があるところである。そして、右鑑定のもとになったみかん片というのは、広口ガラス瓶に入れ蒸留水に浮游させて保存されていたものであり、その大きさが変化している可能性が否定できないのであり、この点は、X第二鑑定書に「大きさについては解剖後の検査などにより変化しているので解剖時胃内に存在していた状態とはかなり異なっている」との記載があることからもうかがわれるところである。小沢の鑑定では、そのようなみかん片の写真によってその長さを測り、それに幅のある数値で算出したというものであり、その正確性には大きな疑問があり、また、田中長三郎の鑑定(田中長三郎鑑定書)では、右のようなみかん片を観察してみかん一個の重量を一二〇から一五〇グラムのものと推定したというものであり、その根拠及び正確性には大きな疑問があるといわなければならない。

したがって、検察官がその根拠とする点については、いずれも問題があるといわざるを得ない。なお、一九日の昼食時には四五人の青葉寮園児に対して四七個のみかんが与えられていること、被告人が購入したと思われる山茶花果物店において一九日に販売されていたみかんは、M、L、LLサイズであることは証拠上認められるところであるが、それ以上に、Xの胃の中のみかん片との結び付きを、認めるに足りる証拠はない。

(四) 小括

以上のように、検察官のみかんに関する主張には根本的といってもよい問題点を指摘せざるを得ないのであり、その余の事実について判断するまでもなくとり得ない主張であるというべきである。

三  被告人に関するアリバイの虚偽性等に関して

1  はじめに

検察官は、被告人及び乙谷らが主張する被告人のアリバイは客観的事実に反する虚偽のものであり、また、乙谷らによるアリバイ工作が存在する旨主張し、それに関連して、Xが行方不明となった時間帯の行動が不明な者は乙谷を除いては被告人のみであること、被告人の供述するX不明を知った経緯、状況は不自然であること、乙谷らが行った被告人の支援活動は異常であること、被告人らのアリバイ供述には不自然な変遷があることなどを主張する。

しかしながら、そもそも被告人において自己のアリバイを証明しなければならないというものではなく、その供述に不自然なところがあったり自己の行動を十分説明できなかったからといって、そのことによって被告人の犯人性が推認されるものではない。殊に、本件においては、これまで検討したように、核心的証拠というべき園児供述及び被告人の自白についてはいずれもその信用性に問題があるのであるから、これ以上、被告人のアリバイやアリバイ工作に関する検察官の主張について判断する必要はないと考える。ただ、これらに関する判断が右の園児供述や被告人の自白の信用性に影響する面があることも否定できないので、その判断に必要と思われる限度で検討を加えておく。

2  被告人のアリバイに関連して-検察官が主張する被告人の本件犯行前後の行動及びその時刻について

検察官は、被告人のアリバイは虚偽である旨主張するが、それと表裏の関係にある検察官が主張する本件犯行前後の被告人の行動及びその時刻を検討すると、犯行を行うこと自体は時間的に可能であるが、ごくわずかの時間内に、しかも当直職員に目撃されないで行われた点で、弁護人が主張するように「偶然性が大きく作用したいわば奇跡的な犯行」といえるものであるうえ、犯行時刻とされる前後の被告人の行動からみても現実性に乏しく不自然であること、また、右被告人の行動及びその時刻に関する証拠は、いずれも供述証拠であり、しかも、その重要な部分において拭いがたい疑問があることを指摘せざるを得ないのであり、検察官が被告人の犯人性を立証しようとする右主張自体に大きな問題があるといわざるを得ない。

(一) 検察官が主張する本件犯行前後の被告人の行動及びその時刻からみた疑問

(1) 検察官が主張する本件犯行前後の被告人の行動及びその時刻は、おおむね「<1>午後八時前ころ(以下において時刻のみで記載したものについてはことわりのない限り昭和四九年三月一九日である)、乙山が甲山学園を出発し、<2>午後八時ころ、被告人が青葉寮内に侵入して本件犯行を行い、<3>午後八時二、三分ころ、宿直勤務の乙野がXが行方不明となったことに気付いて相勤務者の乙原にその旨を告げ、<4>午後八時七分ころ、乙野及び乙原が管理棟裏の運動場にいる被告人に出会い、<5>午後八時二〇分ころ、戊田、乙原は若葉寮職員室においてXの行方不明を聞いた」というものである。

このように、被告人の犯行は、午後八時前ころに乙山が出発してから、ほぼすぐの午後八時ころには本件犯行を行うべく管理棟事務室を出て青葉寮に侵入し、午後八時二、三分ころ乙野がXの行方不明に気付くまでの数分のうちに検察官主張の犯行態様によってXを青葉寮から連れ出して犯行に及び、その数分後の午後八時七分ころには乙野、乙原と出会っているということになるのである。ごくわずかの時間内に犯行に着手してその犯行を終えていること、犯行時間帯とされる午後八時ころというのは、前記第四のとおり、青葉寮における年少児の就寝時間帯であり、宿直勤務者である乙野及び乙原が青葉寮内にいて就寝準備をしているのであって、右両名に目撃される危険性が極めて高かったことなどに照らせば、本件は、弁護人が主張するように「偶然性が大きく作用したいわば奇跡的な犯行」というしかないものである。しかも、検察官の主張からしても用意周到な犯行とはいえないものであるが、それにもかかわらず、侵入場所とされる「こすもす」の部屋や廊下、青葉寮からの連れ出し場所とされる非常口あるいは犯行場所の浄化槽付近において、例えば、足跡、指紋、抵抗した痕跡等のいわば客観的証拠が何ら発見されていないことは、極めて不思議である。

(2) また、証拠によれば、一九日午後七時三〇分ころ、ビラ配りに従事して帰園した被告人は、乙谷及び先に帰園していた戊田と一緒に管理棟事務室に入ったこと、管理棟事務室において、乙谷が、その場にいた乙山に当日のY子捜索活動の状況等を報告したり、被告人が夜食用として買ってきたパンなどを出して皆で食べたりお茶を飲んだりしたこと、乙谷らが管理棟事務室に入ってから乙山が同事務室を出るまでの間に、同事務室内で学園の外部との電話のやりとりがあったが、それは、Bの父親太郎がBの様子を心配してかけてきたもの(以下「B電話」という)、被告人が丙谷松子にかけたもの(以下「丙谷電話」という)、被告人が丁沢六江にかけたもの(以下「丁沢電話」という)、乙谷が大阪放送にかけたもの(以下「丁岡電話」という)、ボランティア団体「お誕生日ありがとう運動」(以下「ありがとう運動」という)の会員である丙林七江(以下「丙林」という)からかかってきたもの(以下「丙林電話」という)であること、丙谷電話、丁沢電話、丁岡電話については、被告人が、ラジオ大阪にY子捜索の協力を依頼してラジオで放送してもらうことを提案してなされた一連の電話であったこと、丙林電話については、その電話で、乙谷が、以前から園児らの写真を撮影していた丙林に対してY子捜索に使用するY子の写真の焼き増しを依頼し、乙山が丙林にY子の写真を届けることになり、午後八時四五分に神戸新聞会館で待ち合わせることを決め、右電話終了後乙山が甲山学園を出ていること、また、若葉寮指導員戊海八江(旧姓戊川。以下「戊川」という)は、若葉寮保母乙石九江(旧姓乙木。以下「乙木」という)との間で、外出先からY子捜索の進展状況を聞くため、午後八時に若葉寮職員室に電話をする約束をし、午後八時、若葉寮職員室において戊川からかかってきた電話を乙木がとり会話した(以下「戊川電話」という)ことが認められる。

この事実によれば、午後七時三〇分ころから、管理棟事務室内において、乙谷が乙山に捜索状況を報告したり、買って帰ったパンを食べたりお茶を飲んだりし、乙山が出発するまでの間に全部で五本の電話があったという状況であり、管理棟事務室内の様子はかなりあわただしいものであったといえる。しかも、その電話のうち三本については、被告人が、ラジオ大阪にY子捜索の協力を依頼してラジオで放送してもらうことを提案してなした一連の電話であり、また、乙山が甲山学園を出発するようになったのは、丙林電話の際に急きょ決まったことである。そのような中で、被告人が、乙山が管理棟事務室を出てから直ちに犯行を決意したとか、それを待つように既に計画していた犯行に及んだと考えることは、いかにも不自然、不合理といわざるを得ない。

(3) さらに、丙谷証言によれば、被告人は、午後八時二〇分か二五分ころ丙谷に対し謝礼の電話をしている(以下「丙谷謝礼電話」という)ことが認められる。この電話は、右被告人がラジオ放送を提案してなした電話の最初の相手方である丙谷に対し、放送してもらえることの報告をして謝礼をしたものであり、右一連の電話の流れの最後にあたるものとみるのが自然であって、乙山が甲山学園を出発した後に、被告人が管理棟事務室から丙谷にかけたものと推認することができる。これを、乙山が甲山学園を出発した後、被告人が本件犯行によってXを殺害し、その後に丙谷に謝礼の電話をかけたとみることは、あまりにも不自然であるといわざるを得ない。

この点について、検察官は、「被告人は、本件犯行及び犯行後に乙野らから目撃されたことなどから、精神的に混乱した異常な心理状態におかれていたものであり、謝礼電話をかける行為が特に不自然なものであるとはいえない」旨主張する。しかしながら、丙谷の供述中には、被告人が精神的に混乱した異常な心理状態であったことをうかがわせるものは何もなく、また、殺害行為を行うということと、謝礼の電話という自然な行為を行うということの間には大きな隔たりがあり、右不自然さは免れないのである。検察官の主張自体も、それが自然であるといっているわけではなく、特に不自然とはいえないというにすぎないものである。なお、検察官は、被告人が、釈放後まで丙谷謝礼電話を思い出していなかったことを指摘し、「丙谷謝礼電話をした際に被告人が精神的に混乱した状態にあったことをうかがわせる」旨主張するが、このことは、死体の発見という被告人にとって衝撃的な出来事が起こったために失念したということによって説明することが可能なのであり、右のとおり、丙谷の供述中には混乱状態をうかがわせるものは何もないことにも照らすと、とれない主張といわざるを得ない。

(二) 検察官がその主張の根拠とする証拠についての疑問

検察官は、検察官が主張する事実に関する主要な証拠として、前記の<1>の午後八時前ころ乙山が甲山学園を出発したとの事実に関しては丙林証言を、<4>の午後八時七分ころ乙野及び乙原が管理棟裏の運動場にいる被告人に出会った事実に関しては乙野証言、乙原証言を、<5>の午後八時二〇分ころ戊田、乙原は若葉寮職員室においてXの行方不明を聞いた事実に関しては乙木証言、乙原証言をそれぞれあげる(<2>については既に検討したところであり、<3>については、その旨の乙野証言、乙原証言は信用できるので、ここではその余についての検討である)。

しかしながら、次のとおり、これらの各証言の信用性には拭いがたい疑問がそれぞれ指摘できるのであり、これらの証言によって右各事実を認めるには疑問があるといわざるを得ない。

(1) 前記<1>の事実に関する丙林証言について

ア 検察官が主張する<1>の「午後八時前ころ乙山が甲山学園を出発した」との事実に関する主要な証拠は、その直前にあった丙林電話についての丙林証言である。

すなわち、丙林は、「甲山学園に電話をした時刻は、午後七時四〇分から五〇分ぐらいの間で、通話時間は五分間ぐらいだったと思う。少なくとも午後八時までに電話をしたのは間違いない」旨証言し、その根拠として、<ア>電話の前に腕時計で午後七時三〇分であったのを確認しているが、電話をしたのはそれから一〇分ぐらいたってからという記憶があること、<イ>ありがとう運動事務所がある国際会館では保安係員が午後八時になるとシャッターを閉めるなどで見回りに来るが、まだいるのかという態度で回るので、自分も気を遣い、午後八時ころにはもう帰らなければならないという気持ちがあり、この時も午後八時ころまでには電話しようという気持ちで電話を入れており、また、電話を終わってからもまだ一〇分ぐらい作業をするという余裕のある時間帯に電話を入れた記憶があること、<ウ>電話で午後八時四五分の待ち合わせの時刻を決めた際に腕時計を見たが、その時の感じでは、一時間程度あるんだなという感じを持ったことを記憶していることの三点をあげている。

イ 丙林は、甲山学園及び被告人や乙山らとの間で格別の利害関係を有する立場になく、その証言内容は、総じて詳細かつ具体的であり、それ自体には一応不自然、不合理な部分も見あたらず、丙林電話の時刻に関する証言内容も、それなりの具体的な根拠をあげるなど、一般的に信頼性のある形で供述されている。

しかも、丙林は、甲山学園へ電話をかけるまでの間時間を気にしていたというのであり、実際には午後八時以降に電話を入れたのに、午後八時以前の時刻に電話をしたと勘違いするような特段の事情があったとも考えにくいところである。

さらに、「電話で話した際、待ち合わせ時刻までにまだ一時間ほど時間的な余裕があるという感じを持ったことを今でも記憶している」旨強調しているところ、待ち合わせまでの時間が実際は三〇分程度でしかなかったのに、その倍にもあたる一時間ほどあると思い違いをすることはまずあり得ないことである。

そのうえ、事務所を出てからの行動についての丙林証言をみると、「神戸新聞会館には五分ぐらいで行ったが、待ち合わせ時刻まで時間があったので、時間つぶしをするために同会館九階のKCCギャラリーに行った。待ち合わせ時刻を気にしていたので、展示品を見ながら数回腕時計を確認していたが、腕時計が八時四〇分になったので、エレベーターで下に降りて乙山を待ったところ、二、三分ぐらいしてからではないかと思うが乙山が車でやってきた」というものであり、その経過は自然かつ合理的なものである。

これらに照らすと、丙林証言は一応信用するに足りる状況があるということができる。

ウ しかしながら、丙林が証言する右根拠のすべてについて、次にみるような疑問点が指摘できるのであり、右信用するに足りる状況を考慮しても、丙林証言をそのまま信用するには問題があるといわざるを得ない。

(ア) 丙林証言による根拠の<ア>に関して

丙林は、午後五時四〇分から五〇分ころにありがとう運動事務所に行き、そこから甲山学園に電話をしたこと、相手方である乙谷が不在であったため、乙谷から電話がかかってくるのを作業をしながら待ち、その際腕時計を何回か見たこと、午後七時三〇分を確認してから大体一〇分くらい経って電話をした記憶があること、午後七時半に時計を見たという特別の根拠はないが、半という区切りのいい時間であったことは覚えていることを証言しており、一見したところ不自然さはみられない。

しかしながら、戊野五郎の49・4・14検面(当審検一二八)によれば、ありがとう運動の責任者である戊野五郎は、気をもんで電話を待っている丙林に対しこちらから電話をしてみたらと勧めた旨供述しており、丙林も戊野五郎かどうかはっきりしないが、電話をしてみたらどうかと言われて電話をかけたことを認める証言をしているのであって、「一応自分たちが帰る時間帯までは乙谷から電話がかかってくるのを待ってみようという気持ちであった」旨の丙林証言に照らし合わせると、丙林は乙谷からの電話を待っていたが、戊野らが帰る時間になり、戊野五郎から勧められて丙林電話をかけたと考えるのが自然である。そうすると、丙林は、自分の時間感覚から電話をしなければならないと思ってかけたのではなく、また、丙林電話をかけた際は腕時計を見るなどして確認していないのであり、右の大体一〇分くらい経ってからというのも感覚的なものにすぎず、その間作業をしていたというのであるから、その時間感覚の正確性には疑問があるといわざるを得ず、結局、右<ア>については右主張の根拠とするには疑問がある。

(イ) 丙林証言による根拠の<イ>に関して

丙林は、「保安係が午後八時になるとシャッターを閉めるなどで見回りに来るが、まだいるのかという態度で回るので、自分も気を遣い、午後八時ころにはもう帰らなければならないという気持ちがあった」旨証言する。

しかしながら、丙林証言によれば、丙林が右証言のように午後八時ころに帰る理由として保安係員の巡回のことを供述しだしたのは、昭和五二年当時の事情聴取が最初であり、昭和四九年当時は、午後八時に国際会館の表シャッターが閉まるのでそれまでに帰らなければならないと思っており、当日も表シャッターが閉まるまでに戊野五郎と連れだって帰った旨の供述をしていたことがうかがわれるのであり、この点について丙林の供述には変遷がみられる。

そして、丁沼六郎証言、戊野五郎証言等によれば、保安係員は、表出入口のシャッターを午後八時に閉めていたが、南側出入口のシャッターを閉めるのは午後九時であり、表出入口のシャッターが閉められても南側出入口を通って地下街に出ることができたこと、ありがとう運動事務所のある通路のシャッター(北側シャッター)は午後八時ころに閉めるが、人が残っている場合には閉めないでおき、その後の見回りや南側シャッターを閉める際に閉めていたこと、南側シャッターが閉められる午後九時以降であっても、東側出入口から外に出られることが認められるのであって、これらの事実によれば、表シャッターが閉められてもありがとう運動事務所から外に出ることには支障はないのであり、丙林が昭和四九年当時において午後八時に表シャッターが閉まるので帰らなければならないという理由からそれまでに電話をしたことや表シャッターが閉まるまでに帰った旨の供述をしたことがうかがわれるということは、誤った前提によって誤った記憶を持った可能性があるといわざるを得ず、また、その後午後八時までに帰らなくてもよいという事実が判明したため保安係員の巡回という別個の理由付けをした可能性を否定できないのである。

この点について、検察官は、「シャッターの閉鎖も保安係員の巡回に際して行われる旨丙林が理解していたと認められることに照らすと、シャッター閉鎖への配慮と保安係員巡回への気遣いとは、異質の事柄ではなく、むしろ相通じるものであり、さして大きな変遷とはいえない」旨主張する。

確かに、表シャッターの閉鎖も保安係員の巡回も内容として異質とはいえず、いずれも午後八時ころのことであり、右変遷はさして大きなものとはいえない面があることは否定できない。しかしながら、表シャッターが閉まるので午後八時には帰らなければならないというのと保安係員に対する気遣いとはその意味するところが異なっていることは明らかであって、しかも、それが、電話をするという行動の理由付けとなり、また、昭和四九年当時においては表シャッターの閉まるまでに帰った旨の供述をしていることがうかがわれるのであり、後に検討する保安係員の巡回に対する気遣いに関する判断にも照らすと、この変遷はやはり看過できないといわざるを得ない。

国際会館保安係員の丁沼六郎は、「ありがとう運動事務所前のシャッターは午後八時に閉めに行くが、この時事務所の人が残っていれば、閉めないで、早く帰ってもらうように一応声をかけていた。シャッターを閉めると国際会館北側は、建築工事中の時は工事現場になっていて事実上帰る道がなくなってしまう。ありがとう運動事務所の人は外で仕事をしていることが多く、その場合は声をかけていた。事務所の人が事務所内にいる場合は、事務所のドアを開けることはしなかったが、声をかけないことには来たことにならないので、ほとんど声をかけている。そして、その後、午後九時に、あるいは時間があれば適宜にまた閉めに行っていた」旨証言(丁沼六郎証言)し、また、同保安係員の丙島七郎は、「昭和四九年三月当時、国際会館北側はビル工事をしており、工事関係者以外は通れない状態になっていたので、ありがとう運動事務所の前のシャッターを閉めてしまうと、ありがとう運動事務所の人は外に出られなくなる。右シャッターは午後八時に閉めるのを原則としている。シャッターを閉めに行った時、店舗に客がいる時や仕事をしている時にはテナントに『あとどのくらいかかりますか』、『まだですか』とか尋ねることにしていた」旨供述(同人の52・3・30検面当審検一三九、53・3・12検面当審検一四〇)している。これを総合すれば、国際会館保安係員がありがとう運動事務所の前のシャッターを午後八時に閉めることを日課としていたこと、保安係員が右シャッターを閉める場合はありがとう運動事務所について人が残っていないかを確認していたこと、人が残っている場合には声をかけていたことが認められる。

これに対して、戊野五郎は、「午後八時に事務所を閉めなければならないとは思っていなかった。その日の仕事の分量によって帰る時刻が違っており、午後八時を過ぎることも往々にあった。保安係員がありがとう運動事務所の前のシャッターを早い時期に閉めに来ていたことは分かるが、あまり気にしていなかった。遅くなる時に保安係員が事務所の方に声をかけてきたようなこともなかったと思う。家賃を払って入っているのであるから保安係員はそんなことは言わないと思う」旨証言(戊野五郎証言)する。このように、戊野五郎が、保安係員がシャッターを閉める午後八時をあまり気にしていなかったことは、丁沼六郎証言でもありがとう運動の人が残っていたことが三分の一位あった旨証言していること、丙林も、「帰る段取りは仕事の分量で決まり、普通は戊野五郎に言われて帰ることになる。戊野五郎から午後八時までに仕事を終えて帰るように言われてはいない。帰る時間帯が多いのは午後八時前後であるが、午後八時以降に帰ることも一〇回のうち三、四回あった」旨証言していることからもうかがわれるところである。

この点について、検察官は、「戊野五郎は、国賠訴訟においては、早く帰らなければいけないという意識はしていないが守衛さんにあまり迷惑をかけたらいかんとは思っている旨証言しているのであり、このことは、同人自身保安係員にとって迷惑であるとの認識を有していたことを示すものである」旨主張する。しかしながら、戊野五郎国賠証言によれば、その意味するところは、そのことによって午後八時までに帰るようにしていたということではなく、遅くなれば挨拶をして帰るとかシャッターをきちんと閉めるという程度のものにしかすぎないのであって、検察官の右主張のようにはいえない。また、検察官は、丁沼六郎証言の「何か事故があったら保安係の責任になってくるので追い立てていた」旨の部分を指摘するが、丁沼六郎は、一方では「世間話をするようなつもりで声をかけていた。あまり追い立てるような言い方はしていない」とも証言しているのであり、右検察官の指摘は正確とはいえない。さらに、戊野五郎は、49・4・14検面においては「事務所は毎晩午後八時になれば閉めることになっているので、自分が、丙林に電話をしてみたらと言った」旨供述しているのであるが、右検面については後述のとおりそのまま信用することはできない。

以上みてきたように、ありがとう運動の責任者である戊野五郎は、午後八時という時間をあまり気にせず、そのときの仕事の分量に応じて帰る時刻を決めていたのであり、単なるボランティアの一員であった丙林が右戊野以上に保安係員のことを気にかけていたというのは不自然であり、ましてや、そのことを電話をかける理由の一つとしてあげていることは、前記供述が変遷していることにも照らすと、不自然といわざるを得ない。

戊野五郎は、捜査時においては、「丙林は自分らと一緒に仕事を手伝いながら乙谷からの電話を待っていたが、一向に電話はかかって来ず、事務所は毎晩午後八時になれば閉めることになっているので、自分が、丙林に電話をしてみたらと言ったところ、丙林もその気になって、甲山学園に電話を入れた。その時刻は、自分らが午後八時ころに事務所を出る一〇分か一五分位前であったから、午後七時四五分前後ごろと思う。前後ごろといっても、五分位の時間の前後位のように思う。このあと、丙林らと事務所を整理し、午後八時前後に事務所を閉め、国際会館の地下からさんちかへ降りた。丙林とは、途中のUCCコーヒー店の西側で別れたが、別れた時間は午後八時五分から一〇分までの間である。別れる時、私は丙林の待ち合わせ時刻である午後八時四五分まではかなり時間があるなあと感じたことを覚えている。丙林が甲山学園に電話をしたのが、午後八時一五分位ということは絶対にない。丙林が甲山学園に電話をして、その後自分が丙林と別れるまでに要している時間は二〇分から二五分はかかっているので、もし丙林が午後八時一五分ごろに電話をしたとすれば、丙林と別れた時間は午後八時三五分か四〇分ぐらいになるはずで、待ち合わせ時刻まで五分か一〇分しか余裕がないことになり、それなら、おそらく丙林も急がれたでしょうし、私もずいぶん時間があるというような感じは持たなかったはずである」旨、当日の状況について具体的行動をまじえながら供述(49・4・14検面)している。

右検面について、戊野五郎は、「丙林が甲山学園に電話した時刻、事務所を丙林らと出た時刻、丙林と別れた時刻などについては、警察の取調べの際には覚えていなかったと思う。電話の時刻が何時であったかは当時記憶があったわけではない。当時、時刻の点が重要な問題になっているという認識はなかった。おおざっぱな性格なので、正確に書かれていなくても一々言わないし、早くサインして捜査官に帰ってもらったらいいと思うくらいであった」旨証言(戊野五郎証言)し、また、「昭和四九年四月三日の調べの時点で、電話の時刻が何時何分ころと言えるはずがない。それが重大で何時何分を争うものとは思わないし、これでいいかと言われれば、忙しいし、大きな間違いがなければサインする」旨証言(戊野五郎国賠証言)している。

検討するに、右検面は事件後一か月も経たない時期の供述であり、内容もある程度具体的であることに照らすと、右戊野五郎証言及び戊野五郎国賠証言をそのまま信用することはできないものの、そもそも戊野五郎が事情聴取を受けた事項は、自分自身の行動というよりも丙林の行動に関するものが中心であり、それも丙林が電話をかけた時刻や事務所を出た時刻という記憶に残って当然とはいえないものであって、その出来事から約一か月後に事情聴取を受けたものであり、その当時覚えていなかった旨の戊野五郎の証言はむしろ自然であるというべきである。そして、右検面においては、「午後八時になれば事務所を閉めることになっている」という戊野五郎の認識と異なる事実を前提にして供述がなされているのであり、この点からも戊野五郎の証言を一概に排斥できないのである。

したがって、右戊野の検面に従って時刻を特定することには疑問があるといわざるを得ない。

さらに、丙林は、「電話を終わってからもまだ一〇分ぐらい作業をするという余裕のある時間帯に電話を入れた」旨証言するが、丙林証言によれば、丙林は、昭和四九年四月当時には丙林電話終了後何分ぐらいして事務所を出発したか詳しく覚えていない旨供述していたことがうかがわれるのであり、丙林が当日行った作業の内容を明らかにできないでいることにも照らすと、電話を終わってからもまだ一〇分ぐらい作業をするという余裕のある時間帯に電話を入れた旨の右証言については、その正確性に疑問があるといわざるを得ない。

検察官は、「丙林証言は要するに電話後少し作業をしてから退出した、今思うと作業時間は一〇分ぐらいであったというものであり、同人が昭和四九年四月当時でも電話をしてから事務をちょっとした旨供述していたとうかがわれることとも矛盾はなく、電話後すぐには帰らずしばらく作業をしたという点では供述は一貫しているといえる」旨主張する。確かに、丙林は電話後も作業をしたことは一貫して供述していることがうかがわれる。しかしながら、作業時間は一〇分ぐらいであったというその時間が問題になっているのであり、その正確性に疑問があることには変わりはない。

(ウ) 丙林証言による根拠の<ウ>に関して

丙林は、「電話で待ち合わせの時刻を決めた際、ちらっと自分の腕時計を見た」旨証言する。

しかしながら、丙林証言によれば、丙林は、昭和四九年当時において、「八時四五分ごろになるという時間を知らせてくれた。私はこのとき、待ち時間が何分あるか時計でも見ていれば時間が詳しくわかるが、そのとき時計を見ていない」という趣旨の供述をしていたことがうかがわれるのであり、右丙林証言と異なっている。そして、この点について、丙林は、「なぜそういうふうなことを言ったのかは分からない」というだけで、食い違いの理由の説明ができないのである。

この点について、検察官は、「証言内容の時計を見たというのも、ちらっと見ただけで、結局は、時刻あるいは時間を特定できないものであり、この食い違いはさほど大きなものではない」旨主張するが、丙林はちらっとではあるが時計を見たことでまだ一時間程度時間があるという感じをもったことを証言しているのであり、この食い違いは看過できるようなものではない。

そして、丙林は、その際、「まだ一時間程度あるんだなという感じを持った」旨証言するが、一方では「早く来るんだなと思った」旨も証言しており、また、丙林証言によれば、丙林は、昭和四九年当時においては、「ずいぶん早く三宮へ来るんやなと思っただけ」と供述したことがうかがわれるのであり、そこには食い違いがみられるのである。すなわち、丙林は、丙林証言によれば、三宮から学園までの所要時間を電車やバスを利用して一時間位と思っていたというのであるから、「まだ一時間程度ある」との感じと「早く来る」(昭和四九年当時においては「ずいぶん早く来る」)と思ったというのは矛盾した感覚といわざるを得ない。

この点について、丙林は、「(所要時間が)一時間というのは一時間ちょっと超えるという意味も入っている」旨証言し、検察官は、「丙林は、待ち合わせの時間を設定したとき、まだ一時間程度時間があるなという感じをもった旨証言しているのであり、これは丙林自身が待ち合わせ時間までまだ余裕があるという感じを証言しているとみるのが素直であり、もう一つの早く来るんだなという感じを証言しているのは、乙山が待ち合わせ場所に来ることについての感覚を証言しているものであり、一時間以上かかると思われるのに乙山がそれより早く来れるとの感じを抱いたとの理解が一応できる。したがって、これをもって看過しがたい矛盾があるということはできない」旨主張する。

しかしながら、所要時間を一時間「位」と思っていたことを一時間「ちょっと超える」という意味も入っているとしたうえ、まだ一時間「程度」の時間があるとの感覚を持ちながら、元々一時間「以上」かかるのに乙山がそれより「早く来る(来れる)」と思ったというのはあまりにも技巧的説明といわざるを得ず、加えて、捜査段階に供述していることがうかがわれる「ずいぶん」早く来るとの思いとの矛盾は解消できないのである。

さらに、丙林は、「電話のやりとりの中で乙山が車で来るという話があった」旨証言する。乙山が車で来るとすれば「一時間位」あるというのと「ずいぶん早く来る」ということの間の矛盾は一層大きくなる。

この点について、丙林は、「右の(ずいぶん早く来るとの)感覚を持ったのは(電話の中で車で来るという話をする前の)瞬間的なことであり、そのときは、乙山が電車やバスを利用してくるという感覚を一瞬持った」旨証言するのであるが、そうであれば、昭和四九年当時において供述したのは、電話の際の「一瞬持った」感覚だけということになり、それ以外の感覚、例えば電話をかけ終った後とかに持った感覚などが供述されていない点において不自然さは免れないというべきである。しかも、右丙林の「電話のやりとりの中で乙山が車で来るという話があった」旨の証言については、丙林証言によれば、丙林は、昭和四九年四月当時においては「ところが、乙山は来てみれば乗用車であった」旨の供述をしていることがうかがわれ、食い違いがみられるのである。

この点について、検察官は、「右記載からは乙山が車で来ることを事前に知らなかった趣旨にはみえるものの、それ以上に、具体的に乙山が車で来ることを事前に知っていたのかどうかについてふれた記載はないことがうかがわれるのであるから、右の点をもって供述に変遷があるとしてその供述の信用性を否定することにはちゅうちょせざるを得ない」旨主張するのであるが、捜査段階にしたとうかがわれる右供述が乙山が車で来ることを知らなかったことを示すものであることは明らかである。

したがって、自分の時計を見て一時間程度あるという感じを持ったという理由付けは、当初からの記憶に基づくものというには疑問があり、時刻確定の根拠としての価値は存しないといわざるを得ない。

(エ) 丙林証言にあらわれた丙林の捜査段階での供述内容あるいはその間の齟齬に照らすと、丙林証言をそのまま信用することにはちゅうちょせざるを得ない。

すなわち、例えば、丙林は、第一回目の電話をかけた時刻について、「午後五時四〇分から五〇分ごろ」と証言しているが、昭和四九年当時では「午後六時半ごろ」とか「警察官に午後五時半から六時の間に電話をしたといったが、あとで電話の内容など、いろいろ考えて思い違いであることがわかった」と供述していたことがうかがわれるのである。

この点について、丙林は、昭和四九年当時そのような供述をした記憶もないし、現在の記憶と異なる供述をした理由もわからないと証言するだけである。

また、待ち合せの時間と場所の取り決めをしたのが誰かとかについて、丙林は、「記憶がない」旨証言するが、昭和四九年当時には乙山が電話口に出たという供述はなかったのが、昭和五〇年になって乙山とも取り決めの話をしたように思うと述べ、それ以降は乙山とのやりとりについて詳しく供述していることがうかがわれるのである。

昭和四九年当時に供述しなかったことをその後詳細に供述するようになり、それが証言では記憶がなくなっているという経過は、不自然であり、丙林の記憶についての疑問を抱かせるものである。

さらに、前記のとおり、「時計を見た」のかどうかについての食い違い、「乙山が車で来るという話があった」のかどうかの食い違いがみられるのであり、時計を見たのではないかという推測からの記憶の固定化、実際に乙山が車で来たことの影響による記憶の変容の疑いが払拭できないのである。

このような点についても、丙林証言では何ら説明ができていないのであり、丙林の記憶の正確さには疑問を抱かざるを得ず、丙林証言の信用性にも疑問があるといわざるを得ない。

エ 神戸新聞会館までの走行実験結果について

(ア) 49・3・26捜復(当審弁三五)、49・6・12捜報(当審弁三七)によれば、捜査段階において、三回にわたり、乙山所有車両を乙山が運転して甲山学園から神戸新聞会館までの走行実験が行われ、その所要時間が測定されている。その結果は、甲山学園正門前から神戸新聞会館までの所要時間について、一回目(三月二六日実施)は四〇分、二回目(六月七日実施)は三三分、三回目(同月一一日実施)は三三分というものであった。

一回目の走行実験は、捜査官である小島直臣の一存で急きょ行われたものであり、その時間帯も午後一時すぎから二時すぎという昼間であったこと、当日は午前中に交通ストライキがあったこと、わずかの区間ではあるが一部道路が工事中であったため実際とは異なる経路で走行したことなど、事件当日とは異なる状況にあったのであり、右49・3・26捜復に乙山が事件当日と交通量はあまりかわらないと供述したこと、一部実際とは異なる経路で走行したが時間的にはかわりがない旨の記載があることやその際同乗した小島直臣が実験時には右ストライキが解除されて車の通行量は通常の場合と変わらない状態であった旨証言していることを考慮に入れても、その正確性には問題がある。これに対して、二、三回目の走行実験は、検察官が所要時間を測定する目的で行ったものであり、その時問帯も事件当夜と同じころの午後八時ころからであって、しかも、日をかえて二回にわたって行われたが、その所要時間は全く同じであったのであり、その信用性は高いといわざるを得ない。

確かに、右走行実験は、実験とはいうものの、通常とは異なり諸条件を全く同一にして行われたものではなく、また、その時の運転方法、交通量、道路状況等により所要時間には相当程度の差異が生じることは当然のことといわなければならないのであり、その実験によって得られた時間というのは、一応の目安にはなるものの、それが客観的に正確なものとはいい得ない面があることは否定できない。しかしながら、そのような面が否定できないとしても、検察官が同乗して行った走行実験の結果が二回ともそれも三日の間をおいて行っても同一結果であったということは、事件当夜も右結果とほとんど同じような走行時間であったとみるのが自然である。

(イ) そうすると、乙山の神戸新聞会館への到着時刻が分かれば乙山の甲山学園出発の時刻がおおよそではあるが推測できることになる。

乙山は、「神戸新聞会館に到着したときに時計を見ると八時五〇分であり、約束の八時四五分より五分遅れですんだとの思いをもった」旨供述する。これに対し、丙林は、「神戸新聞会館九階にあるKCCギャラリーで時間をつぶし、自分の腕時計で午後八時四〇分を確認してエレベーターで一階に降りて正面玄関に行った。ギャラリーから正面玄関までは一分少々かかった。玄関に行って二、三分して乙山が来た。乙山が遅れてきたという感じは持ったことはない」旨証言し、右丙林証言によれば、乙山が神戸新聞会館に到着したのは午後八時四三、四分ころということになり、乙山の供述と食い違っている。

乙山は、既に三月二二日ころに「丙林と会ったのは約束より二、三分遅れたとの記憶があり、八時五〇分ころであったと思う」旨供述(49・6・17捜復当審弁四九)しており、また、時計を見て確認したとも供述しているのであるから、信用性が高いといえる面があるが、乙山の右供述を直接裏付けるものはなく、また、右捜復によれば午後八時四七分ないし四八分の可能性もあり右の時計を確認して見たというのと捜復の内容とは必ずしも一致しない面があるのであって、「乙山が遅れてきたという感じは持ったことはない」旨の丙林証言と食い違っていることに照らすと、乙山の供述によって乙山の神戸新聞会館到着時刻を認定することにはちゅうちょせざるを得ない。

一方、丙林は、時間を確認したのは午後八時四〇分が最後であり、それ以降の時間については感覚的なものにすぎないのであり、しかも、乙山が来た際に時計で確認していないのであるから、丙林証言によって乙山の神戸新聞会館到着時刻を認定することにもちゅうちょせざるを得ない。

右のように、乙山の神戸新聞会館到着時刻を画一的に特定することはできないのであり、午後八時四三ないし四四分あるいは午後八時五〇分ころの可能性があるというしかないのである。

そして、乙山の甲山学園(正門)出発時刻は、丙林証言の時刻によれば午後八時一〇分ないし一一分ころであり、乙山の供述する時刻によれば午後八時一七分ころになる。

乙山は、国賠訴訟において、「丙林電話の終了後、着替えをしたか否かの記憶はないが、それまでは作業服を着ていたようなので、着替えをしたのかなという気持ちはあるが、どちらにしてもすぐ出て行った」旨を証言し、乙谷も、国賠訴訟において、「丙林電話の後、乙山は、かなりすぐ出て行った」旨証言しているのであって、丙林電話終了後さほど時間をおかずに乙山が出発したということができる。

(ウ) したがって、乙山の神戸新聞会館への到着時刻からみると、丙林証言の「丙林電話は午後七時四〇分から五〇分くらいにかけた。通話時間は五分程度と思う」旨の丙林電話の時刻との間に齟齬があるのであって、このことは、丙林証言についての疑問を抱かせるものである。

オ 以上を総合すると、丙林証言については、それをそのまま信用するには問題があるといわざるを得ない。

(2) 前記<4>の事実に関する乙野証言、乙原証言について

ア 検察官が主張する<4>の「午後八時七分ころ、乙野及び乙原が管理棟裏の運動場にいる被告人に出会った」との事実に関する主要な証拠は、当直者である乙野及び乙原の各証言である。すなわち、検察官は、「乙野証言及び乙原証言によれば、乙野は午後八時七分ころ青葉寮の玄関から外に出た際に被告人に出会っていること、乙原は、外に出た乙野にXが午後七時半までいたことを伝えた後、被告人に出会っていることが認められるのであり、被告人は、午後八時七分ころには、管理棟事務室には在室していなかったことが明らかである」旨主張する。

そして、検察官は、乙野証言について、「午後八時に、『まつ』の部屋にXがいないことに気付き、トイレや男子棟の各部屋を見て回ったがXは見付からなかった。それでディルームに行き、午後八時二、三分ころ、乙原に対してXがいないことを告げた。そして、手分けして青葉寮内を捜したが、Xを見付けることができなかったため、午後八時七分ころ、Xを捜しに青葉寮の玄関から外へ出た。青葉寮の玄関を出たとき、管理棟とサービス棟の問に設けられていた水銀灯の前のグランド上に、佇立している被告人を見かけたので、同人に対し、Xが行方不明になったことを告げ、そのあと運動場の東の方にある市電や遊具の方に捜しに行った。そして、Xを捜していると、乙谷が青葉寮の方に小走りに走って行くのが見えた。その後、青葉寮玄関の方向から、『Xは七時半までいた』という乙原の声が聞こえた」旨要約し、乙原証言について、「ディルームでこたつに入っていたとき、午後八時二、三分ころ、乙野がやってきてXがいないことを知らされた。青葉寮内を捜したがXの姿は見あたらなかった。そこで、ディルームにいた園児に確かめたところ、午後七時半までXがいたとのことであったので、既に寮外に出ていた乙野にこの事実を知らせようと、青葉寮の玄関から外に出て、運動場の市電の裏側あたりにいた乙野に大声で『七時半までXがいたと言っているよ』と教えた。そして、青葉寮に戻ろうとしたところ、背後から、『どうしたの』と声をかけられ、振り向くと、被告人が管理棟とサービス棟の間の水銀灯の前あたりに立っているのが見えた。それで、同人にXがいなくなったことを伝え、そのまま青葉寮に走って戻ると、そのあとを追うように、被告人が青葉寮の玄関に入って来て、靴のまま女子棟の方に走って行った。そして、玄関に戻って来て、『先生はここにおらんとあかん』と言って玄関から出ていった」旨要約する。

イ 検察官は、「乙野証言は、Xの行方不明を知った前後の状況につき、乙原にXの不明事実を知らせた場所等その細部には変遷があるものの、青葉寮内でXを捜索し、その後、寮外を捜すために玄関から外に出たところ、同所で被告人を目撃した点については、本件事件発生後から証言に至るまで終始一貫しており、また、乙原証言は、乙野からXの不明を知らされて被告人と出会うまでの状況すべてについて、本件事件発生後から証言に至るまでの間、終始一貫している。しかも、乙野及び乙原の証言内容は、互いに矛盾はなく、青葉寮園児らの前記供述及び証言内容とも符合しているもので、乙野及び乙原の証言に信用性があることは明らかである」旨主張する。

確かに、乙野証言及び乙原証言によれば、乙野及び乙原がおおむね検察官が要約したような供述をしていることが認められ、また、検察官が主張する点については、捜査段階からほぼ一貫した供述をしていることがうかがわれる。

しかしながら、本件で問題となる被告人と出会った時刻に関しては乙野及び乙原について、捜査段階からの供述には大きな変遷があることが認められる。すなわち、乙野は、被告人と出会った時刻について、昭和四九年当時には午後八時二〇分ころと供述していた(49・4・2員面弁五)のであり、また、乙原も、青葉寮の玄関を出た時刻について、昭和四九年当時には午後八時二〇分ころと供述していた(49・4・2員面弁三〇)のである。ところが、昭和五〇年五月一七日に両名立会いのうえ、各自の行動を再現して時間を計測するという実況見分が行われ、それ以降、被告人との出会いの時刻を、乙野は午後八時六、七分ころと供述し(50・5・17員面弁一二)、乙原は午後八時八、九分ころと供述し(50・5・17員面弁三六)、それぞれ各証言に至っているのである。この変遷をみると、結局、乙野及び乙原が右時刻を変遷させたのは、昭和五〇年五月一七日に実況見分を実施し、その際に行動を再現して時間を計測した結果に基づいているのであり、この点については、乙野が、「本日乙原と一緒の見分で、乙原が私から『Xがおらへん』と聞いた時間は午後八時のテレビが始まって二、三分のことということなので、それから四分一五秒か二〇秒を加えて計算すると、午後八時六、七分には私はグランドに出て被告人を見たということができる」旨(50・5・17員面)供述し、乙原が、「きょうの実況見分で私が実際にやって見て午後八時八分から九分であることが判りました」(50・5・17員面)と供述していることからもうかがえるように、乙野、乙原も認めるところである。

ところで、記憶があいまいな場合とか時刻がはっきりしない場合に、自己の行動を再現するなどして記憶を喚起したり、時間感覚を呼び起こすことは何ら不自然なことではない。しかしながら、乙野にしろ乙原にしろ、それぞれの時間感覚として、ほぼ一貫した時刻を供述し、それもほぼ一致していたのである。それにもかかわらず、右のような約一年後の実況見分の際に再現して計測した時間から、以前の供述を変遷させることには合理性はないといわざるを得ないのであり、その信用性には大きな疑問があるというべきである。すなわち、事後的に自己の行動を忠実に再現することは一般的にいって困難なことであり、ことに本件では、実況見分をしたのが約一年後であることから、日時の経過により行動の細部についての記憶が欠落し大まかな行動しか記憶に残っていない可能性があり、また、実況見分の際には、現場の状況にも変化があり、園児がいなかったりふとんも敷いていなかったのであって、その動作の確認も忠実ではなかった可能性があるのであって、その計測結果が事件当日のものとして正確にあらわされているというには疑問がある。それも、乙野については、乙原の行動を再現して計測した時間に、自己の行動を再現して計測した時間を加えているのであり、それが、記憶の喚起とか時間感覚を呼び起こしたものといえないことは明らかである。

加えて、乙野の供述には、被告人と出会った場所、状況、その後の行動等について、捜査段階から種々の変遷がある。すなわち、被告人との出会について、右49・4・2員面では「管理棟裏側付近から出てきた」と供述していたのが、「裏出入口から出てきたと思う五、六メートルの位置にいた」(49・4・11巡面弁七)、「管理棟とサービス棟間の水銀灯のやや北側附近にいた」(49・5・28検面弁一九)となり、乙野証言の主尋問では「管理棟とサービス棟間の水銀灯から居室へ向かいアンツーカーの内側」となっている。また、右49・4・2員面では「声をかけられてびっくりした表情」と供述していたのが、「水銀灯の灯りのみで詳しい表情は見なかった」(49・4・16巡面弁八)、「水銀灯に対しやや逆光であったが、びっくりしたような感じ」(49・5・28検面)と供述し、乙野証言の反対尋問では、乙野自身、「子供がいないと聞かされたらびっくりすると思うので、被告人もびっくりしたと感じ取った」旨、その表情が見えなかったことを認める趣旨の供述をしている。さらに、被告人の服装について、右49・4・2員面では「紺色系統の私服姿」であったのが、「紺か黒っぽい服」(49・4・14検面弁一七)、「紺か黒系統の服」(49・5・28検面)となっている。被告人の行動について、右49・4・2員面では、「管理棟の方へ走っていった」と供述していたのが、「食堂に行っていたときに右側に立っていたような気がする」(49・8・21検面弁二一)、「食堂へ行ったとき、左手後方にいた感じがする」(50・5・11員面弁一一)、「食堂へ行ったとき、右手にいた感じがする」(50・7・23検面弁二二)、その後は、「食堂に行ったときそばにいた感じがするがはっきり覚えていない」旨供述している。これらの供述の変遷をみると、被告人の位置が、乙野に近い場所、灯りに近い場所に変化していき、被告人の表情も、より不審感を強調する表現に変わり、また、服装については、当初供述していた服の色が違っていることに気付き、第三者の影響を受けながら供述を変化させているのではないかとの疑問がある。被告人と出会ってから後の自己の行動、被告人の行動についてもあいまいな供述であり、被告人の行動には具体性がなく、乙野の供述は不自然である。また、乙原が乙野に声をかけてきたことについて、乙原の声を聞いたとの供述は、右49・4・2員面にはなく、49・4・11巡面で初めて出るのであり、しかも、市電から顔を出して乙原の姿を見たという供述は昭和四九年当時にはなく、「青葉寮玄関から乙原の声があった」とか「乙野は懐中電灯を持っていなかった」(49・4・16巡面、49・5・28検面)と供述しているのであり、この点において、乙原の供述と矛盾している。さらに、乙原がかけた言葉からすれば、Xを捜していた乙野が何かを答えて当然と思われるが、乙野にははっきりした記憶がないということにも照らすと、乙原が声をかけたときに、乙野が市電付近にいたことに疑問を抱かせるのであり、乙野がそこにいなかった可能性も否定できないのである。

さらに加えて、乙原の供述には、被告人の位置について供述の変遷がある。すなわち、49・4・2員面(弁三〇)では「サービス棟と管理棟の間の通路をグランドの方へ向かって走ってきておりました」と、49・4・11検面(弁五一)では「管理棟とサービス棟との間から、青葉寮の玄関の方に向かって歩いて来ている」と供述していたのが、49・4・26検面(弁五二)では、「サービス棟と管理棟の間のサービス棟の東北の街灯のあるところで立っており」と供述し、そこには変遷がみられるのであり、乙原には、被告人の位置についての明確な記憶がなかったのではないかとの疑いを抱かざるを得ない。

ウ 以上を総合すると、乙野証言及び乙原証言については、それぞれ被告人と出会った時刻に関しては右のような大きな疑問があり、また、乙野が被告人と出会った状況に関する疑問等に加え、前記の乙原の供述の変遷にも照らし合わせると、前記乙野証言及び乙原証言の内容どおりの事実を認めるには疑問があるといわざるを得ない。

(3) 前記<5>の事実に関する乙木証言、乙原証言について

ア 検察官が主張する<5>の「午後八時二〇分ころ、戊田、乙谷は若葉寮職員室においてXの行方不明を聞いた」との事実に関する主要な証拠は、乙木証言及び乙原証言である。

検察官が要約する乙木の証言は、「戊川電話の後、行動記録の記帳が途中であったため、机に戻って引き続き行動記録をつけ始め、戊田も机に座って一緒に仕事をしていた。一五分か二〇分ほどして、乙谷がやってきて戊田と何か話を始めた。その後、しばらくして乙原がやってきて、若葉寮職員室の窓を開け、深刻な顔をしてXが来ていないか否かを聞いてきたので、Xがいなくなったことが分かり、自分は、Xを探すため、若葉寮の当直保母にXのことを聞きに行った」というものであり、同じく乙原の証言は、「午後八時二〇分ころ、若葉寮にXの所在を聞きに行き、玄関を入って職員室の窓を開けて中をのぞいた。中には戊田と乙木が座っており、乙谷と思われる男の人が戊田に向かって立っていた。自分は、Xが来ていないかを聞き、それから若葉寮の廊下ドアを開けて、廊下にいた職員に、同様のことを聞いて、すぐ青葉寮に引き返した。廊下にいた職員は、多分乙坂と丁谷だったと思う。自分は上はピンクの制服を着ていた」というのである。

乙木証言及び乙原証言によれば、乙木及び乙原がおおむね検察官が要約したように証言していることが認められるところである。

イ 乙木証言の信用性

(ア) 検察官は、「乙木は、本件事件の発生当時、既に甲山学園を退職する予定であり、実際にも、昭和四九年三月末に同学園を退職し、以後甲山学園とは無関係となった者であり、被告人らとの利害関係はなく、捜査官に対して供述を行い、あるいは公判廷で証言を行うにつき、乙木が被告人らにとって不利な虚構の事実を作り上げて供述しているとは考えられない」旨主張する。

確かに、証拠によれば、乙木は、事件発生当時、既に甲山学園を退職する予定であり、三月末には同学園を退職し、それ以降は同学園とは無関係になった者であり、被告人らとの利害関係はなく、ことさらに被告人らにとって不利な虚構の事実を作り上げて供述するとは考えられないと一応いうことができる。

そして、乙木の午後七時五〇分ころに若葉寮職員室に行ってからの出来事に関する証言内容は、乙木が午後七時五〇分ころに若葉寮職員室に赴き、その後午後八時二〇分ころまで同職員室に在室しており、同所でXの行方不明を知ったことについては、乙木の供述は事件後から一貫していることに照らすと信用でき、また、乙木が若葉寮職員室に行った理由、午後八時に戊川電話があったことについては、戊川証言及び戊川の49・4・18検面(当審検一九三)とも合致していることに照らすと信用でき、乙木が、右電話後も若葉寮職員室に在室していたことについては、担当園児の行動記録をつけ終えるためというのであって、不自然な点はないことに照らすと信用できるといえる。

しかしながら、乙木証言の信用性が問題となるのは、乙木が、捜査段階から証言内容のすべてを一貫して供述してきたものではなく、昭和四九年四月当時の供述を重要な部分においてその後変遷させて乙木証言に至っているからであり、検察官の主張する乙木が被告人らとの利害関係がないなどの事実が認められるとしても、それは、乙木の供述が信用できる状況にあると一般的にいうことができるにすぎず、右変遷の結果としての乙木証言が昭和四九年四月当時の供述に比して信用できることを理由付けるものということはできないのであって、その信用性については、供述変遷の経緯、合理的理由の有無等の検討によって判断すべきである。

加えて、乙木の証言状況からは次の点が指摘できるのであり、その信用性についてはより慎重な検討が必要である。すなわち、乙木は、供述変遷の理由に関して、「警察官から言われて、それじゃそうしといた方がいいかなと思って、そうしたと思う」、「しつこく言われたりすると、無難なようにはっきりしないと答えた」、「食い違いがあってもいけないし、ぼかした方が無難だと思った」、「乙原に聞いて、食い違っていたらまたいろいろ聞かれるのもいやなので、乙原の名前は出していない」などと証言しているのであり、それが真実であるかどうかは別としても、右供述を前提にすれば、迎合的であったり自己の勝手な憶測に基づいて供述する傾向がうかがわれる。また、証言自体についても、検察官からの質問と弁護人からの質問とで証言内容が変わったり、答えの内容を確認されると「あの、結構です」とか「いいです、そういうのは」などと、投げ遣りともいえる証言態度がみられることが指摘できる。さらに、昭和四九年六月ころに弁護士が被告人と一緒に乙木方に来たことについて、事件についてかかわりたくないという気持ちが強かったのでいい気持ちではなかったと証言しているように、乙木は、事件についてかかわりたくないという気持ちを強く持っていることがうかがわれるのである。これらのことは、乙木は、供述をする際には、その場の尋問方法や雰囲気、憶測などで、ことさらに虚偽の供述をすることではなくても、真実をありのままに供述するという姿勢にやや欠けているのではないかということを推測させるものであり、乙木証言の信用性についてはより慎重な検討を要するところである。

(イ) 乙木は、「戊川電話の後、一五分か二〇分ほどして、乙谷がやってきて戊田と何か話を始めた。その後、しばらくして乙原がやってきて、Xが来ていないか否かを聞いてきた」旨証言するが、この点についても、捜査段階から一貫して右証言内容を供述してきたものではなく、昭和四九年四月当時の供述を重要な部分においてその後変遷させて右証言に至っているのである。

すなわち、49・4・15員面(当審弁三九、四月一六日付であるが聴取したのが四月一五日なので49・4・15員面という)では、「カルテの記入をしはじめてから少し時間がたったころ、はっきりした場所は判らないが、たしか若葉寮の入口のあたりで、『Xきていない』という女の先生の声が聞こえた。このときにはまだ戊田もいた。そして間もなく乙谷が職員室に来て『Xきていないか』と言ってXを探している様子だったので、私も寮の中を探してみようと思い職員室を出た」旨供述し、49・4・15検面(当審弁四〇)では、「電話をかけ終ってから一〇分か一五分位たった午後八時一五分か二〇分ころであったと思うが、職員室の入口付近の方から、姿は見えなかったが、女の声で『X来ていない』という大きな声がした。私は乙原の声だと思っていたが、後で乙原に聞いたところ乙原はそのころ青葉寮の方にいて若葉寮の方には来ていないということだった。そのすぐ後だと思うが、乙谷が『Xは来ていないか』と言って職員室に入ってきた。私はその時初めてXがいなくなった事を知ったので、職員室を出て若葉寮の各部屋を探してまわった」旨供述しており、右証言とは、誰がXがいないと言ってきたのかとか、乙谷と乙原の来た時間的前後関係について大きく変遷している。そして、右証言と同趣旨の供述がでるのは52・3・16員面二通(当審検一六五、一六六)からである。

乙木は、「乙原からXがいないと聞いたことははっきり覚えている。乙原に確認すると、乙原が若葉寮に伝えに行ったかどうかはっきり覚えていないと言ったので、そこで食い違うといやなので、それ以降は、乙原の名前を出さなかったときもある。ぼかして供述した」などと証言する。

しかしながら、乙原が来たというはっきりした自己の記憶があるのであれば、それを乙原に確認する必要はなく、しかも、乙原ははっきり覚えていないと言ったともいうのであるから、あえて自己の記憶に反してまで乙原の名前を出さないとすることは不自然であり、乙木は当日の出来事について、他の職員が関係している場合にそのすべての職員にまではその確認をしていないことにも照らすと、むしろ、自己の記憶があいまいであったからこそ、乙原に確認したと考えるのが自然である。そして、乙木は、乙原に確認したというものの、その時期については一定せず、断定的であったり、あいまいであったり、変遷させたりしているのであって、この点においても、前記指摘の乙木の供述傾向がうかがわれる。

また、乙木は、乙原の名前を出さなかったとかぼかして供述したとか証言するが、乙木の昭和四九年当時の供述では、女の先生がXが来ていないか聞きに来たことに加えて、その後に乙谷もその旨を聞きに来たことを述べているのである。乙原に確認して乙原の名前を出さないようにしてぼかすのであれば、乙木の記憶からすれば、「乙谷が来て戊田と話をし、その後、女の先生の声が聞こえた」と供述すれば足りるのであり、それ以上に、「乙谷が来て戊田と話をした。その後、乙原が来て、Xがきていないか聞いてきた」という自己のはっきりした記憶に反して、「乙原が来た後に、乙谷が来て、Xが来ていないかと言った」などと供述することは、極めて不自然といわざるを得ない。しかも、49・4・15検面では、女の声でXが来ていないかと言ってきたことと、その後乙谷が同じように言ってきたことを供述したうえ、女の声について、「私は乙原の声だと思っていたが、後で乙原に聞いたところ乙原はそのころ青葉寮の方にいて若葉寮の方には来ていないということだった」旨供述し、前記の経過を捜査官に明らかにしているのであり、この点は、食い違うといやだとかぼかすなどしたという乙木の証言では説明できないのである。

そして、乙木は、乙谷から聞いた旨の供述をしたことについて、「じゃあ誰から聞いたかと警察官から聞かれたんだと思う」旨証言し、さらに、その順序について、「はっきりした記憶はあったが、警察から女の人の声の後で乙谷が入ってきたのではないかと言われ、それじゃもうぼかしといた方が無難かなと思って、多少ぼかしたように思う」旨証言するのである。前者については、右証言自体「思う」とあるように単なる推測を述べたにすぎないというべきであり、前記の乙木の供述傾向がうかがわれるのであるが、右証言のとおりであるとすれば、単純に乙谷から聞いたことだけを供述すれば足りるのであり、あわせて女の声についても供述しているのであり、不自然である。後者については、供述調書をみても、それがぼかしたことになるのか理解し難いところである。

(ウ) 乙木の右の点に関する証言をみると、その内容にあいまいな点があり、その証言の信用性に疑問を抱かざるをえない。

すなわち、乙原の位置について、乙木は、主尋問において、「職員室の入口の横の窓で、位置については記憶にない。若干ずれるかも分からない」と証言し、乙木から向かって「電話機の右側」を図示している。一方、反対尋問では、「右か左かはっきり分からない」と答えながら、「主尋問で述べたのは推測ではない、記憶があった、今でも右の方という記憶」と答えたり、52・3・28検面(当審検一六八)では電話機の右側を図示しているのであるが、その違いを指摘されると、「短い範囲なので、あの辺という感じ」と答えるなど、記憶があるのか、推測なのか、記憶がないのか、極めてあいまいな証言をしている。

また、乙木は、主尋問において、乙原に対して何か答えたかについて、「この職員室には来てないよと言ったような気もする」と証言し、この証言自体あいまいなものであり、推測にすぎないといえるものであるが、さらに、反対尋問では、「どう返事をしたか覚えていない」とか「返答しない可能性もある」と答えているのであり、結局は、この点については記憶があいまいであるといえる。

乙木証言によれば、乙原が窓を開けて「Xきてない」と言ったときに、乙原の顔をはっきり見ているというのであり、そうであれば、乙木が乙原に返答をするのが自然であり、そのような会話の内容とか乙原の位置については印象に残っていて当然と思われるが、右のとおり、乙木証言ではあいまいなままである。このようなあいまいな供述しかできないということは、乙木の乙原をはっきり見たとする証言の信用性に重大な疑問を抱かせるものといわざるを得ない。

(エ) 乙谷が職員室に入ってきてからの状況について、乙木証言によると、「乙谷は戊田と話をしていたが、どんな話か記憶にない」、「乙谷と話したのか覚えていない。挨拶ぐらいはしたと思うが、どういう挨拶か覚えていない」、「乙谷と戊田の話の中身は分からない。推測では捜索の話だと思う」、「乙谷が何をしに来たのか知らない」と供述し、その話しに参加しようとは思わなかったのかとの質問に対して「思わなかったんでしょうね」と答える程度である。乙木証言によれば、戊田と乙谷は乙木の直近にいることになるのであるから、このように何もわからない、覚えていないというのは、不自然である。

また、Xの行方不明を聞いた際の乙谷、戊田の反応やその後の行動についても、極めてあいまいな供述をしている。すなわち、乙木証言によると、「乙谷、戊田が返事をしたかも知れないが、覚えていない」、「乙谷、戊田、乙木の三人の間で、乙原が伝えたことをめぐっての話は、なかったと思う」というのであり、その後乙木は職員室を出て行ったが、「乙谷や戊田も一緒にXを捜しに行ったと思う」とか「戊田と一緒に子供の部屋の方に探しに行ったような気もするが、戊田についてははっきり覚えていない。乙谷はどうしたか覚えていない、職員室を出て行ったのか、残っていたのかも分からない。乙木、乙谷、戊田がどういう順番で職員室から出て行ったのか、覚えていない」というのである。

Xが来てないか聞かれれば、戊田あるいは乙谷にしても何らかの反応があって当然であり、また、三人の間で何らかの話がされるのが自然である。何らの会話もなく、いきなり職員室を飛び出すのはいかにも不自然である。しかも、右にみたような乙木証言からは、弁護人が指摘するように「まるで立ったままの乙谷と座ったままの戊田が向かい合っているというだけの動かない人形を見ているかのようであり、迫真性が感じられない」のである。このような証言は、その信用性を否定する方向に作用する事情といわざるを得ない。

(オ) 以上みてきたように、この点に関する乙木証言の信用性には疑問があるといわざるを得ない。

なお、検察官は、「乙木は、若葉寮職員室においてXの行方不明を知らされたこと、その際、戊田が同職員室に在室していたことについては、一貫して供述しているのであり、乙谷の入室時期、及びXの行方不明を知らせてきた相手方について供述の変遷が存在するからといって、右一貫した供述の信用性が直ちに減殺されるものではない。しかも、乙谷が同職員室に入ってきて戊田と話をしていた点については、乙木の供述は一貫しているのであり、信用性がある」旨主張する。

しかしながら、一連の事実がありそれに具体的な周辺事実が加わっている場合に、供述が一貫していることがその供述の信用性を高めるというためには、単にその部分部分の事実が一貫していれば足りるというものではなく、その部分部分の事実に加わる周辺事実も含め、また、一連の事実としても、それが一貫していなければならないというべきであり、検察官主張のように個別の事実がそれも骨子だけが一貫していても、それは供述の信用性を高めることにはならない。例えば、乙木証言では、戊田が在室していた印象とそのとき乙谷が在室していたという印象は、明確に結びついており、むしろ一つの情景として語られているものということができるのであり、したがって、乙原が来たとき乙谷が在室していたという乙木の供述が、合理的理由もなく変遷しており、信用できないとなると、そのとき戊田が在室して乙谷と話をしていたとの供述も、信用できないことになるといわざるを得ない。

ウ 乙原証言の信用性

(ア) 前記のとおり、乙原は、「若葉寮に行ってXの所在を尋ねた際、職員室に乙木の他に乙谷と戊田がいた」旨証言しているのであるが、証拠によれば、乙原が、右証言と同旨の供述をするようになったのは、昭和五二年三月に至ってであり(52・3・1員面弁四〇)、それまでは若葉寮に行ったことは供述していなかったのである。

乙原がこの供述をするようになった時期は、昭和五二年三月であって、これは、乙木が昭和四九年当時の供述の重要な部分を変遷させて、乙木証言と同旨の供述をするようになった時期と重なっているのである。事件後間もないころの供述を変遷させ、それも事件から約三年後であることをもあわせ考えると、それ自体極めて不自然といわざるを得ないのである。したがって、乙原証言の信用性については、極めて慎重に検討する必要がある。

(イ) 乙原は、昭和四九年当時若葉寮に行った旨の供述をしていないことについて、「若葉寮に行ったことを忘れていたが、昭和五〇年五月一七日に実況見分をした際、正門に行ったときに思い出した」旨証言する。そして、その前提として、「四つの出来事を度忘れしていた。それは、被告人が青葉寮玄関から出て行ったあと乙原は玄関にいたことと、グランドを走っている乙谷と副園長への電話のことなどを話したときも乙原は玄関にいたことがあり、同じ玄関の出来事同士が短絡したためである。その四つの出来事というのは、<1>青葉寮の各部屋の戸締りの状態を確認したこと、<2>若葉寮に行ったこと、<3>丁谷、戊田が青葉寮にきたこと、<4>正門に行ったことである」旨証言する。

そこで、検討するに、右の<1>の戸締りを確認したとの点については、49・4・11検面(弁五一)に「子供の部屋を回って鍵をしめた」旨の、49・4・26検面(弁五二)に「乙谷と話をした後に各部屋の鍵をかけて回った」旨の、49・5・24検面(弁五三)に「被告人が出ていったあと戸締りをした」旨の記載がある。右の<3>の丁谷、戊田が青葉寮に来たとの点については、49・4・2員面(弁三〇)に「丁谷、丙内などが青葉寮に探しに来た」旨の、49・5・30検面(弁五四)に「被告人が出ていったあと、ガラス戸の鍵をかけて回った頃、丁谷、戊田他にもう一人位保母が青葉に入ってきた」旨の記載がある。右の<4>の正門に行ったとの点については、52・3・1員面で初めて出るが、乙原証言によると、前記実況見分の際に思い出した旨証言したり、右実況見分より前に思い出していた旨証言したりしており、一貫していない。なお、乙原国賠証言によれば、昭和四九年四月末には<1>、<3>、<4>の出来事を思い出していたが、<2>の出来事は思い出さなかった旨証言している。

これらを総合すると、四つの出来事のうち<1>、<3>、<4>については昭和四九年四月ころには思い出していたということになり、<2>の若葉寮へ行ったことだけ昭和五〇年五月一七日の実況見分に至るまで忘れていたということになる。しかしながら、<1>及び<3>の出来事を思い出しながら、なぜその問の出来事である<2>の出来事を思い出さなかったのか、疑問であり、これについて納得し得る説明はない。この点に関して、乙原は、52・12・20検面(弁六六)において、<1>の戸締りをしたあと玄関付近で見張っていたため、これと、乙谷が副園長への電話の件でやって来たときに玄関で見張っていたこととを混同したため、その間の出来事である<2>の事実を忘れた旨弁解するに至っているが、<3>の出来事は早くから思い出しているのであり、この説明でも疑問は解消できないことには変わりがなく、若葉寮職員が来たことを思い出すことによって、誰が若葉寮の職員にXの行方不明を知らせたのかを考え、<2>の出来事を思い出すのが自然であって、それを思い出さなかったというのは、いかにも不自然な弁解である。

次に、「昭和五〇年五月一七日に実況見分をした際、正門に行ったときに思い出した」旨の弁解について検討する。

右実況見分終了後に録取された50・5・17員面(弁三六)及びその後の50・7・18員面二通(弁三八、三九)、50・7・19検面(弁五九)にも、一切右の記載はなく、しかも、乙原は、実況見分の際に正門へ行ったときに思い出したというものの、パッと思いあたったのか順序を考えて思い出したのかとの問いにすら答えられず、その思い出したときの心境や心理状態、思考状態についてほとんど明らかにできないのであって、右弁解は信用し難いものがある。

(ウ) そこで、乙原の供述内容をみると、52・3・1員面で、初めて「午後八時二〇分ころ若葉寮を覗きに行った。職員室の中にいた乙木や戊田に知らせ、続いて廊下の方にいた人にも知らせた。そして、すぐ青葉寮に引き返した」旨の供述をしたが、その理由については、「事件直後のころは記憶が混乱していた」というだけで、何ら合理的な説明はしていない。

そして、52・3・13員面(弁四二)において、「職員室の中には三人いた。乙木と戊田は腰掛けていた。そして、背中を向けて男の人が一人立っていた」として、職員室に三人いたことを供述したが、「男の人」として名前を特定できず、そのことは、52・6・1検面(弁六〇)でも同様であった。

その後、52・11・21員面(弁四五)において、「職員室の中には、乙木と戊田と背中を向けて立っていた乙谷がいた」旨の供述をするに至っている。

このように、乙原証言のもとになる供述は、一貫していたものではないのである。

(エ) そして、乙原は、名前を言えなかったことについて、52・12・20検面(弁六五)において、「男の人は背を向けて立っていたため顔が見えなかった。しかし体つきなどから乙谷と思った。ただ、そんな時間帯に乙谷が若葉寮職員室にいたということになると、乙谷らが主張している被告人のアリバイの関係で重要な意味を持っていると思い、はっきりと乙谷の顔を見たのならともかく、体つきなどから乙谷だと思ったので慎重を期して、あえて乙谷の名前を出すのを差し控えた」などと弁解する。

しかしながら、前記のとおり、乙原が最初に若葉寮に行ったことを供述した際には、男の人がいたこと自体を供述していなかったのであり、右乙原の弁解ではこの点の説明ができないことになる。また、乙原は、証拠を総合すれば、被告人と乙谷が犯人ではないかとの疑いを持ち、乙谷らのアリバイ主張に対してパンフレットを出すなどしていたものであり、そのような乙原の立場からすれば、右のような弁解はむしろ不自然であるといわざるを得ない。

(オ) 乙原証言の内容には、若葉寮職員室へ行ったいきさつ、若葉寮職員室内の目撃状況等に関し、次のような疑問点が指摘できる。

乙原の証言によれば、若葉寮に行ったのは、Xが来ていないか尋ねるため、Xがいなくなったことを知らせるため、捜す手伝いをしてもらうためであったというのであるが、乙原自身、Xが若葉寮に行っていないことは大体予測がついていたことや、各部屋の戸締りをしたり、また、被告人から青葉寮にいないといけない趣旨のことを言われていたことを証言しているのであり、この時点において、電話で確かめるなどしないで、あえて青葉寮を離れてまで若葉寮に行く必要性は薄いといわざるを得ない。

また、乙原は、若葉寮に行く際に管理棟事務室の明かりが見えたというのであるが、右事務室に立ち寄って誰かいないかを確認したりすることはしていないのであるが、乙原証言による若葉寮に行った目的からしても、そのことは不自然である。

これらのことは、果たして乙原が若葉寮へ行ったのかについて、疑問を抱かせるものである。

さらに、乙原は、若葉寮職員室の窓を開けて、乙木、戊田、乙谷を見たというのであるが、そのときの心境について、「乙木らがXの行方不明を知らなかったので、不思議に思った」と証言したが、「おかしいなと思った。不思議に思ったというのは取り消す。そのときは不思議には思っていないと思う」と証言する。この違いが決定的とはいえないが、職員室内の乙木らの様子についての自己の心境を変遷させることは、その心境のもととなった目撃事実自体の存在を疑わせるものということができる。

また、乙原は、若葉寮職員室にいる乙木らの反応について、「乙木が、来ていないと答えた。乙谷や戊田が返事をしたか覚えていない」と証言するだけであり、乙谷や戊田の様子についても、向かい合って何か話をしている感じであったというだけで、極めて具体性のない臨場感のないものである。この点は、前記の乙木の迫真性のない証言と同じであって、不自然であり、目撃事実自体についての証言の信用性を疑わせるものである。

さらに、かけた言葉について、「Xきていない」としか供述していなかったのが、52・11・21員面で「七時半までいたんだけど」という言葉が加わっており、時間が経過して詳細になる方向での変遷がみられる。また、乙木の返答については、52・3・13員面では、「乙木らが何か返事をしてくれたのは確か」というだけで、その内容については供述しておらず、乙原国賠証言では、「乙木がどういうふうに答えたかは記憶にない」というのであり、変遷がみられる。これらのことは、やはり乙原証言の信用性に疑問を抱かせるものである。

(カ) 乙原は、X行方不明当時の青葉寮の宿直勤務者であったことから、事件発生直後から連日長時間の取調べを受けて、これを見かねた同人の夫から、捜査官に対し何も喋るなと言われたことや、園長の乙山に対しても警察への対応が手緩いのではないかと抗議がなされたこともあった。そして、乙原は、被告人と乙谷が犯人であると疑い、被告人や乙谷に強い反感を持ち、乙谷らのアリバイ主張に対し、パンフレットを作成して保護者らに配付したりしていたものである。したがって、乙原の供述については、そのような思い込み等からの影響は避けられないのであり、その信用性を判断するためには、その点を念頭におく必要がある。

また、乙原の供述傾向として、客観的な事実に反すると思われることでも、それを真実と思い込みやすく、いったん思い込むと容易に疑問を抱かず、断定的に供述する傾向があることがうかがわれる。その典型的な例が、乙山が神戸へ写真を取りに行ったことに関する乙原の供述である。すなわち、乙原は、乙山が乙原に聞かれて腹話術をする人のことを確認したことについて乙原に話すため青葉寮に来た際、乙山が「今から神戸に写真を取りに行く」と述べたと供述し、また、Xの行方不明後、乙谷がグランドから青葉寮の玄関にいる乙原と話をした際、乙谷が「園長はどこに行った」と尋ね、乙原が「神戸へ写真を取りに行った」と答え、乙谷が「そんなこと園長がしなくてもいいのに」と述べたことを供述するのである。しかしながら、乙山が乙原と話をした後もずっと学園にいたこと、丙林電話で乙山が丙林に写真を届けに行くことになったこと、乙谷はそのことを十分に認識していたことからすれば、乙原の供述内容は事実に反することが明らかである。乙原が右事実を供述しだしたのは、49・5・30検面からであるが、その際の供述は、「乙山が神戸に写真を取りに行ったことを何故知っていたかについて思い出さないが、乙山が青葉寮に来たときに聞いて知っていたのかもしれない」という程度であった。それが、50・7・19検面では断定的に供述するようになり、証言時においてもこの供述に固執しているのである。

このような乙原の供述傾向からすれば、乙原の証言の信用性については、より慎重な検討と吟味が必要である。

(キ) 検察官は、乙木証言と乙原証言が、若葉寮職員室にXの行方不明を知らせたのは乙原であり、その時同職員室に戊田がいたとする点で符合していることを、これらの証言の信用性の根拠として主張している。

しかしながら、右の点に関する乙木の供述は、その真偽は別として、昭和四九年当時に出てきているのであるが、乙原の供述は、昭和五二年三月になって初めて出てくるのである。したがって、その間に、乙原が乙木供述の内容を知り、その影響を受けた可能性は否定できず、殊に、前記のとおり、乙原が昭和五〇年の実況見分の際に思い出したということが信用できないことに照らすと、乙原が乙木からの情報をもとにして、それを自己の記憶として思い込んでいった可能性があるといわざるを得ない。そうすると、乙原証言と乙木証言が符合していることこそ、問題であり、特に、乙原がXの行方不明を知らせた時の戊田、乙谷の反応について全く覚えていないという点まで、乙木と乙原の証言が符合していることに照らすと、その不自然さを一層強く感じざるを得ない。

(ク) 以上のように、乙原証言には、極めて数多くの疑問や、その信用性に対する根本的な問題点が存するのであって、これを信用することはできない。

3  Xが行方不明になった時間帯における被告人の行動が不明であることに関して

(一) 検察官は、「本件事件は、甲山学園内部職員による犯行と考えられるところ、Xが行方不明となった時間帯の行動が不明な者は乙谷を除いては被告人のみである」旨主張するが、これは、そのことによって本件が被告人による犯行であることを間接的に立証できるとの主張と理解できる。

(二) ところで、検察官が主張するような方法での立証が意味を持つのは、このような主張自体から明らかなように本件に即していえば、<1>甲山学園内部の、それも職員による犯行であること、<2>Xが行方不明となった時間帯が特定できること、<3>その特定された時間帯における被告人以外の者の行動が明らかになっていること、この<1>ないし<3>のいずれもが証拠上ほぼ確実にいえる場合に限られるべきである。

そして、本件においては、<1>については、前記のとおり、本件犯行が外部の者の犯行ではないことはほぼ確実にいえるところであるが、それ以上に内部の職員による犯行と確実にいえるのかは検討を要するところであること、<2>については、検察官は、Xが行方不明となった時間帯を午後八時ころとするが、その特定が不十分であり、さらに特定する必要があること、<3>については、検察官の主張によっても、行動が不明な者は被告人だけではなく、乙谷もそうであり、この点において問題があるうえ、その余の者の行動が検察官の主張によってそれぞれ明らかになっているといえるのか検討すべきであること、これらの点がそれぞれ指摘できる。

(三) そこで、右<1>ないし<3>のいずれにも関係すると思われる<2>のXが行方不明になった時間帯の特定について検討する。

(1) 検察官が主張する午後八時ころという根拠は、一九日午後八時ころまではXが「さくら」の部屋にいたという園児ら(殊にA子、B、C)の供述である。

しかしながら、これまで検討したように、右園児らの供述はいずれも信用できないものであり、右根拠にはならないといわざるを得ない。

(2) 園児供述を除く他の証拠によって、Xが最後に確認されたのは一九日午後七時ころと認められる。

すなわち、乙原証言によれば、「倉庫からXの服の入ったふろしき包みを持って男子保母室に入ろうとしたところ、廊下のところでXが来てふろしき包みを引っ張った」というのであり、その証言内容は具体的で、乙原は当初から一貫して右供述をしていることに照らすと、右証言は信用でき、そして、右時間については確実にはいえないものの、大体午後七時ころと認めることができるのである。

なお、乙原証言によれば、乙原は、午後七時三〇分ころディルームのベンチにXがいたような記憶があるとか、Xを捜すとき園児らにXが七時半までいたことを尋ねた趣旨の供述をしているのであるが、右の記憶は確かなものとはいえないことを乙原自身が認めているのであるから、確実なものとして認定することはできない。また、乙野証言によれば、乙野がXを捜しているとき、DがXが七時半までいたと答えた旨の供述をしているのであるが、前記のDの供述の信用性についての疑問に照らすと、やはり確実なものとして認定することはできない。

(3) したがって、右<2>のXが行方不明になった時間帯は午後七時ころから乙野がXの行方不明に気付いた午後八時ころまでというのが、証拠上ほぼ確実にいえるところである。

(四) 右(三)で検討したところによれば、右<1>及び<3>についても、右時間帯を前提にして検討すべきことになる。

検察官は、右<1>について、「甲山学園の立地場所及び本件浄化槽の位置等から本件犯行が甲山学園関係者以外の者の犯行であるとは到底考えられない」とし、また、「Xの性格、一九日午後八時ころの青葉寮内の状況から、本件は、事件当夜の甲山学園に在園していた職員(実習生を含む)による犯行としか考えられない」旨主張するが、前者はともかく、後者については、午後八時ころの青葉寮内の状況からの主張であり、この点においては午後七時ころから午後八時ころまでの時間帯で考えるべきであるから、前提を異にせざるを得ず、また、証拠上、右時間帯の園児の行動を確定することはできない。

右<3>については、前記のとおり、検察官の主張する時間帯において、行動が不明な者が被告人だけではないとか、検察官が主張する各職員の行動については、果たしてそれで客観的な裏付けや補強があって行動が明らかになっているといえるのかという疑問を指摘せざるを得ないのであるが、その前提となる時間帯について、検察官が主張しているのは午後八時ころであり、それが午後七時ころから午後八時ころまでとなると、その前提自体が異なってくる。

(五) 結局、以上を総合すると、検察官のこの点に関する主張は理由がないといわざるを得ない。

4  アリバイ工作に関して

検察官は、乙谷らの「アリバイ工作」を主張するが、その具体的な内容については「乙谷の被告人に対する異常な支援活動」に関する主張が中心であるので、以下、この点について検討する。

(一) 検察官の主張

検察官は、乙谷の支援活動について、<1>「乙谷は、被告人の逮捕前に警察捜査及びこれに協力的な職員を批判し、甲山学園職員に対して警察への抗議行動を訴え、その賛同が得られないとみるや、取調べ拒否を被告人と連名で通告するなど、その行動は極めて異常である」、<2>「乙谷は、被告人の逮捕時及び逮捕後においても、被告人に事実を警察に述べないように指示するなど、その行動は、単なる支援活動というにはあまりにも異常である」、<3>「乙谷は、被告人が逮捕されるや直ちに被告人のアリバイを主張したパンフレットを学園職員等に配布し、また、被告人の自白を阻止するため、被告人の勾留されている県警本部前でシュプレヒコールを繰り返すなど、その支援活動を極めて熱心に行っている」、<4>「乙谷は、被告人に対する支援活動方法について、弁護人から注意、批判を受けるや、弁護人の解任を被告人に働きかけるなどしており、乙谷の行っていた被告人の支援活動の異常さがうかがわれる」、<5>「乙谷は、被告人の釈放後も、被告人のアリバイ作出に向けて戊田、乙山ら支援者らとの会合を開き、被告人のアリバイを主張し合うことを確認し合っているものであり、乙谷らの主張するアリバイ内容は信用し得ない」、<6>「乙谷は、被告人のアリバイを主張する一方で、四月八日夜に開かれた職員会議では、乙谷のアリバイ主張内容に疑問を抱いた乙原が乙谷の主張と異なる発言をするや、その発言を制止して乙原の反論を押さえ込むなどしたほか、被告人釈放後の五月五日には、乙谷のアリバイ主張に疑問を抱いていた青葉寮保母戊山一江らが、これを文書にして配付するや、脅迫的言辞を弄して同女を威嚇するなどし、自己のアリバイ主張に対する異論を封殺しているもので、その行動は異常である」旨指摘する。

(二) 検察官の主張に対する判断

(1) 右<1>に関して

ア 右<1>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、乙谷が、四月二日の職員会議の席上において、警察の取調べ方法が話題となった際、警察が職員のプライベートなことを聞くことをとらえてこれを批判し、乙原が「事件を考えれば聞かれても仕方がない」旨の発言をしたところ、これに対して「仲間を売るのか」などと述べて批判したこと(なお、その際、被告人において、「私はかばっているのに壊す人がいる」旨述べて乙谷を擁護している)、四月三日には、警察に事情聴取拒否通告を行って捜査協力拒否の姿勢を明らかにしていることである。

イ 右事実があったことについては、関係各証拠によっておおむね認められるところである(なお、乙谷証言によれば、乙谷は、職員会議での右発言について記憶がない旨供述するが、被告人がその際に自分が発言したことを認める趣旨の供述をしていることや乙原証言等に照らすと、右事実を認めることができる)。しかしながら、右事実に関する評価については、検察官が主張するような「その行動は異常である」とまでいうことはできない。

ウ すなわち、四月二日の職員会議の席上で右のような話題が出るに至った経緯をみると、証拠によれば、事件後、捜査官によって甲山学園職員に対する事情聴取が連日行われていたが、乙谷も含め職員らは当初から捜査に対してはおおむね協力的であったこと、しかしながら、捜査がすすむにつれて職員らから捜査に対する不満が出るようになってきたこと、その不満の内容は、事情聴取の時間が非常に長く、また、女性の生理日や思想的なことを聞かれるなどであったこと、そして、四月二日の職員会議でその点が話題になり、右のような警察の捜査に関しては、園長が口頭で警察に抗議することになったこと、その際、乙谷は書面で抗議することを主張したが、多くの者の賛同を得ることができなかったこと、また、右職員会議の場で、乙原から、職員の男女関係についてはっきりさせてほしい旨の発言があったり、前記のやりとりがあったりしたこと、乙山は、右話合いの結果を踏まえ、西宮署長に対し口頭で職員らの希望を伝え、しばらく職員の事情聴取を中止してもらいたい旨の申し入れを行ったこと、乙谷は、口頭での抗議では不十分と考え、乙谷の考えに賛同するであろう被告人、乙島五男に働きかけ、三名連名で一切の捜査を拒否する旨の抗議文を西宮署あてに提出したことが認められる。

そして、右経緯に照らすと、右のような捜査の方法について疑問や不満を持つようになり、警察に抗議をしようとすることは何ら不自然なことではなく、右抗議を口頭で行うのか文書で行うのかについて意見が分かれ、結局文書で行うことができなかった乙谷が、その趣旨に賛同する者だけで抗議文を作成して提出し、その内容として一切の捜査に協力しないということも、その心情として理解できないことではなく、このことをもって、「異常」とまでいうには疑問がある。

また、職員の男女関係については、そのことを職員会議の席上で話題にすること自体がいたずらに職員間に男女関係が事件の動機であるとか職員が犯人であるとの疑念を抱かせるおそれのあるものであり、乙原の発言に対し、その話題の当事者となった乙谷が右のような発言をしたとしても、ことさらそれを取り上げて「異常な言動」というにはいささか疑問がある。

エ この点について、検察官は、「右のような捜査のやり方については、いずれも一切の捜査を拒否するような問題ではなく、また、取調べ時間についても園長等学園を通じて警察に申し入れるなどの方法があるのであり、学園の一職員にすぎない乙谷が主導して、他の職員に事情聴取拒否の態度をとらせようとした乙谷の言動は不自然であり、やや行き過ぎの感が否めない。また、職員の間では文書で警察に抗議文を出すことを賛成する者はほとんどいなかったのであり、結局、自己ないし被告人への事情聴取を中止させようとしての抗議文であったことをうかがわせる」旨主張する。

しかしながら、右でみたように、事件後連日のように捜査官から事情聴取を受け、職員の間で右のような種々の不満が高じていたのであって、それを解決するためにどのような手段を講じるかという点において違いが生じているにすぎないものであり、それが抗議文であるとか内容が一切の捜査を拒否するということであるからといって、そのことを不自然であるとか異常であると強調するのは適切ではない。

また、乙谷については、その前日の四月一日に事情聴取をされて詳細な供述調書が既に作成されているのであり、そのころ被告人に絞って嫌疑がかけられているとか事情聴取の予定が明らかになっているという状況にもなかったのであって、抗議文提出には乙島五男も賛成しており、提出のいきさつも、乙谷証言によれば、「抗議文の名義人になるように青葉寮の職員には働きかけてはいない。連名で出せるのは気の合う三人だと思ったから」というのであり、必ずしも不自然なものではないことからすれば、右乙谷の言動をもって、「自己ないし被告人への事情聴取を中止させようとしたことをうかがわせる」ということはできない。

(2) 右<2>に関して

ア 右<2>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、一つは、被告人の逮捕時において、乙谷が、被告人の逮捕の阻止を計り、逮捕される被告人に対して「死んでもしゃべるな」と叫んだことであり、もう一つは、同日、県警本部に逮捕拘束されている被告人に対して「何もしゃべるな、ぜったいに」などと記載したメモを密かに差し入れ品の中に忍ばせて渡そうとしたことである。

イ まず、被告人逮捕時(四月七日)のことについてみると、証拠によれば、当日は保護者会が開かれており、そのさなかでの出来事であったこと、被告人が逮捕されることについては突然の出来事であったうえ、逮捕状の緊急執行として逮捕状の提示がないまま行われたため、職員らが警察官に抗議したりしたこと、被告人が乗せられた警察の車に多くの職員や園児の父兄らが詰め寄り、車の進行を妨げたり、乗車している被告人に対して種々の言葉がかけられ、いわば騒然とした状況になっていたことが認められる。そして、このような状況の中で、乙谷が被告人に対して「死んでもしゃべるな」と叫んだことが認められるのである。

乙谷は、乙谷証言において、「死んでもしゃべるなと言ったことはない。警察にうその自白をさせられるというおそれを抱いていたので、警察に聞かれてもしゃべるなという意味のことを言ったと思う」旨供述するが、その場で乙谷が「死んでもしゃべるな」と叫んでいたことを聞いた旨の戊山証言及び乙原証言や被告人の供述、その後五月五日の保護者会において乙谷の右発言が問題になったがその発言をしたこと自体は誰も否定していないことに照らすと、右乙谷の供述は信用できず、乙谷が被告人に対して「死んでもしゃべるな」と叫んだと認めることができる。

検察官は、被告人逮捕時の乙谷の行動について、乙谷が「被告人の逮捕の阻止を計った」として極めて異常である旨主張するが、被告人の逮捕を阻止する行動をとったのは、乙谷だけではなく、その場にいた多数の職員や園児の父兄らも同様であったのであり、それがもっぱら乙谷の主導によるものであったということを認めるに足りる証拠はなく、乙谷の行動だけをことさらに取り上げて「極めて異常」ということは相当ではない。

乙谷が被告人に対して「死んでもしゃべるな」と叫んだことについてであるが、弁護人が主張するように、その言葉は、警察に聞かれても何もしゃべるなという意味であり、「死んでも」というのは「絶対に」ということであるととらえることもできなくはなく、その背景として、昭和四九年三月当時は、ベトナム反戦運動や種々の市民運動、学生運動などがいまだ盛んな時期であり、それらの活動で警察に逮捕された場合には黙秘をするという風潮がみられ、乙谷も、ベトナム反戦運動の市民グループである「ベトナムに平和を市民連合」(べ平連)の一員であったことでもあり、乙谷が、逮捕された被告人に黙秘を勧めることは、それが反戦運動や学生運動でなくても不自然なことではないと一応いうことができ、そのことは、右逮捕後に被告人の弁護人となった弁護士ら(以下単に「弁護士」という場合はこの弁護人らをさす)も当初から被告人に黙秘することを指示していたことからもうかがわれるところである。しかしながら、右の「死んでもしゃべるな」という言葉を右のように解釈することは可能であるとしても、後日職員からその言葉の意味が問題にされたように、やはり突出した言葉であったということは否定できないところであり、そのような言葉を乙谷が叫んだことについては、「異常」と評価されてもやむを得ないところである。

ウ つぎに、メモについてみると、証拠によれば、被告人が逮捕された四月七日に、県警本部に逮捕拘束されている被告人に対する差し入れ品の中に、「なにもしゃべるなぜったいに」とか「ガンバレ」などと職員が記載したメモが隠されていたこと、右メモの差し入れ品への混入状態は、裏側に黙秘の指示等を記載した右メモ紙でティッシュ数個を巻き、それをさらに包装紙で包むというものであったこと、乙谷は、右メモのうち「たくさんの仲間が玄関のまえにいる、がんばれ、なにもしゃべるなぜったいに」との記載の字が乙谷のものであることや、差し入れに赴いた弁護士にもその事実を隠して内緒でメモを入れたことを認める証言をしていること、右メモが隠されていることについては、差し入れに赴いた弁護士は知らなかったこと、右事実が発覚したことによって乙谷が弁護士から注意を受けていることが認められる。

弁護人は、「右メモは、被告人に直接面会できない職員らが、自分達は被告人の無実を信じて支援していることを直接伝えたいとの思いから作成したものであり、逮捕という突発的な異常事態の中で行なってしまったものである」旨主張するが、いくら突発的な出来事があったとしても、差し入れ品の中にメモを隠す行為は行き過ぎであるといわざるを得ない。そして、右事実によれば、右行為については、乙谷も深く関与していたことがうかがわれるのである。ただ、右メモには、乙谷のほかに、「戊田花子、戊村、乙島、乙原、丙塚」の署名があるのであり、行き過ぎた行為ではあるが、それは他の職員にもいえることであり、乙谷だけを特別視することはできない。

(3) 右<3>に関して

ア 右<3>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、乙谷が、被告人逮捕の翌日には、「被告人については午後八時一五分まで乙山、乙谷、戊田と管理棟事務室でいた。その後、午後八時三〇分までは乙谷、戊田といたのでアリバイがある」とのアリバイ主張を記載したパンフレットを被告人の支援者である戊村十江らと作成し、学園職員等に配付したこと、学園職員に対して警察への抗議及び被告人を激励するためのシュプレヒコールを実施することを呼び掛け、以後、被告人の釈放まで幾度となく県警本部前においてシュプレヒコールを繰り返すなどしてその支援活動を行ったことである。

イ 右事実については、関係各証拠によっておおむね認められるところであり、これらの事実は、検察官が主張するように、「被告人の支援活動を極めて熱心に行っている」と評価できるものである。そして、その他の乙谷の言動をみても、乙谷が行った被告人の支援活動が極めて熱心なものであったことは疑いがないところであり、そのことは、乙谷自身が手帳に「沢崎さんを救うために、どんな努力もする、どんなガマンもする、どんな屈辱にも耐える」と記載していることとも符合するのである。

ウ 問題は、なぜ乙谷がそこまで熱心に被告人の支援活動を行うようになったのかということであるが、それについては次の(三)で検討することにして、ここでは以下の点を指摘しておく。

すなわち、乙谷が当初行った支援活動というのは、弁護士や職員らとの話し合いに基づくものが中心であったということである。

証拠によれば、被告人が逮捕された四月七日には、労働組合を通じて弁護人(弁護士)が選任されたこと、乙谷は、弁護士から、「全員が一致して継続して支援を続けること。捜査に非協力。面会の申し出をする(毎日)。弁護士への資料作り。釈放申し入れ書の作成。西宮署への抗議文。不当逮捕の記録(個人で暴行など)」という指示を受けていたことがうかがわれること、四月八日、乙谷は職員らに弁護士からの右指示を伝え、職員ら全員で被告人支援の方法を話し合ったこと、乙谷は、弁護士に対して差し入れ、抗議文の提出、資料作りのことなどを報告し、弁護士から「申し入れ書は結構です。行動方針正しいです」と言われていること、同日夜、弁護士が加わって会議が行われ、その後の職員会議で、被告人を支援するため乙山、副園長の戊海三夫、戊丘八郎、丁月一子、乙谷が対策委員となるなどの役割分担が決められ、乙谷は、被告人の支援活動の中心として、弁護士との連絡窓口となり、弁護士からの指示等を職員側に伝えたりしていたこと、被告人の支援活動の一環として、被告人を激励するためのシュプレヒコールを西宮署の前で毎日行っていたが、そのことは弁護士も了解していたことが認められる。

これらの事実によれば、乙谷が当初行っていた被告人の支援活動は、ほとんど弁護士の指示あるいは了解、さらには職員らとの話し合いのもとで行われていたというべきである。

(4) 右<4>に関して

ア 右<4>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、弁護士は、乙谷の前記メモの差し入れについて注意をしていたほか、一連の乙谷が行っていた被告人の支援活動の方法が、互いの供述内容を統一させるようなものであったことを問題視して、乙谷及びその同調者に対し、四月中旬、「職員間に食い違いがあってもよい。意思統一をしてはいけない」旨の注意を与えるなどしたこと、これに対し、乙谷は、被告人の勾留期間中に弁護士の解任を考えて被告人に働きかけ始め、被告人の釈放後、同人に対して弁護士の解任と新しい弁護人の選任をするよう求めたこと、その結果、乙谷の求めに応じて被告人が弁護士を解任して新しい弁護人を選任したことである。

イ 関係各証拠によれば、弁護士から乙谷に対して、前記メモの差し入れについて注意がなされたほか、乙谷らの被告人の支援方法等についても、ビラの内容が無責任であること、アリバイに固執するのはおかしいこと、職員間で供述の統一をしてはいけないこと、強引にしないことなどの注意がなされたことが認められる。

右の具体的な内容は、乙谷の手帳に、「ビラに書いてあることが沢崎さんの言っていることと違っていたらどうするか。警察と敵対するビラ。職員がまとめ上げたということになる。園の中でのことでアリバイを固執するのが逆におかしい。ひとりひとりの供述が大切。統一することはかえって不利」、「乙山、絶対にいたと意志統一をしたということは危険」、「警察に言ったことばをひるがえすのはおかしい。ただし、まちがっていたことはかえてもよい。みんなが変ってくるのはおかしい」、「乙谷も強引にしないように」、「本人さえがんばればよい」旨の記載があることからうかがわれるところであるが、右記載について、乙谷は、「それは弁護士からの注意ではなく、単なる弁護士の発言と思う」旨証言する。しかしながら、乙谷の右手帳等の記載内容からみても、それが、弁護士の乙谷に対する注意であり指示であって、乙谷がその内容を書き留めたものであると認めることができる。

なお、この点に関して、検察官は、「当時、弁護士からみても、乙谷の行っていた被告人についてのアリバイ作出のための活動が妥当性を欠いたものとして目に余ったことがうかがえるのであり、その支援活動の異常性を示すものである」旨主張するが、弁護士が乙谷に注意、指示したのは、四月一一日、一二日ころのことであり、それも被告人逮捕後の当初に乙谷がビラを配付したことが中心であり、その注意というのも、職員間で供述の統一をしたとみられる危険性を指摘したものといえるのであり、検察官の右主張のようにまでいえるのか疑問のあるところである。

ウ 検察官は、「弁護士から注意を受けた乙谷が、そのことに反発して被告人に働きかけ、弁護士を解任させて新しい弁護人を選任させたのであって、乙谷の行っていた被告人の支援活動の異常さがうかがわれる」旨主張する。

確かに、乙谷が、弁護士に対して不満を持ち、四月一九日ころには別の弁護士と会って相談したり、被告人の釈放後、弁護士の解任及び新しい弁護人の選任がなされ、乙谷がそれに関与していることが認められる。

しかしながら、前記のとおり、乙谷が当初行った支援活動は、弁護士や職員らの話合いに基づくものが中心であったのであり、弁護士から右ビラについて直ちに注意を受けることなく「行動方針正しい」とまで言われていたのに、その後右のような注意を受けたことから、弁護士に対して腑に落ちない感じを受けて不満を持つようになったことがうかがわれること、四月一九日ころに会った別の弁護士とは知り合いであり、被告人の無実を明らかにするいろいろな方法を知るためであったこと、当初と異なり、被告人の支援活動について、乙谷の考えと組合や弁護士あるいは他の職員との考えの間に大きな相違が出てきたため、被告人の無実を信じる職員だけで被告人の無実を明らかにするための活動を始めるようになったこと、被告人が釈放されてから、積極的にその無実を明らかにするため、同僚ら七名で「沢崎悦子さんの自由をとりもどす会」(以下「とりもどす会」という)を結成し、国賠訴訟を提起することにし、その方針を持たない弁護士を解任して新たに弁護人を選任することにしたことが認められるのであり、右経緯に照らすと、乙谷が弁護士に不満を持ったことやその解任等に関与したとしても、それは乙谷の考え方や立場からすれば自然なことであり、異常とまでいうことはできない。

(5) 右<5>に関して

ア 右<5>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、乙谷が、被告人の釈放後も釈放理由が処分保留であったため、被告人のアリバイ主張を継続してその検討会を開くなどし、五月一五日には、被告人の潔白を明らかにするためとして「とりもどす会」を結成し、七月には、国賠訴訟を被告人らとともに提起し、同訴訟においても被告人のアリバイを主張するに至ったというものであり、特に、四月二六日に青年の家で乙谷、戊田を含む被告人の支援者の合宿が行われ、その際の発言として、日録(検二三七)には「これからする事。園児犯行説に通じるような情報を集める」、「供述書とのちがいは修正をする。警察にこのように言われたからこう言ったのだ」、「お互いが合理性のあるアリバイを証明しよう」という記載が存しており、その活動の異常性がうかがえるというのである。

イ 証拠によれば、右事実についてはおおむね認めることができる。

しかしながら、被告人の釈放理由が処分保留であったのであり、その無実を明らかにするために会を結成して種々検討し、国賠訴訟を提起しようとすること自体を「異常である」ということはできない。

また、その検討の中で、情報の収集、整理を行うことも同様であり、このことをもって、アリバイの作出をするためであるというには、飛躍があるといわざるを得ない。例えば、四月二六日の会議には弁護士も出席しているのであり、右日録の記載も、もともと園児による犯行の可能性は職員も想定していたものであり、警察がその捜査をしないことから、事実を解明するために情報を収集することは不自然なことではなく、また、記憶と供述書の違いがあればその違いについての原因を考え、合理的なアリバイであるかを検討することは、許されないことではないのであって、右日録の記載から、直ちに、園児犯行説を作り上げ、供述書は警察に言われたものであるとして、アリバイを作出しようとしたものとまでいうことはできない。

(6) 右<6>に関して

ア 右<6>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、一つは、四月八日の夜の職員会議において、弁護士に対して職員各自が事件当夜の行動を発表した際、乙原が「被告人を午後八時二〇分ころ管理棟とサービス棟の間付近のグランドで見た」旨の発言をしたところ、乙谷が、「それは違う」と言って乙原の発言を制止したというものであり、証拠によれば右事実を認めることができる。

しかしながら、乙谷が、自己の活動方法及びその主張する被告人のアリバイ内容を批判され、それに立腹することは、それほど不自然なものではなく、また、その場で乙原の発言を制止してもそのことによってすべて発言を封じることができるものではないのであり、検察官主張のような「自己のアリバイ主張に対する異論を封殺しているもので異常である」とまでいうには疑問がある。

イ もう一つは、戊山証言である。すなわち、戊山は、「五月五日に、戊山らが、乙谷らが被告人の支援活動ばかりを行っているが園児死亡の真相究明を行う方が大事であることや被告人ないし戊田に供述変遷があることなどを指摘したパンフレットを出し、それを父兄らに配付したことについて、乙谷から、『うそばっかり書きやがって』、『逃げるな。徹底的にしたる』などと言われ、すごい顔つきでにらみつけられた。そのため、恐怖を感じて父親に相談し、警察官に事情を説明した」旨を証言する。

戊山は、被告人が犯人であるとの思いから乙谷らに対して批判的な立場をとっていた者であり、その証言における発言内容等をそのまま認めることには慎重にならざるを得ないが、そのような事実があったことは認めてよいと思われる。その事実は、行き過ぎであることは否めないところである。

(三) 乙谷が行った支援活動の意味

(1) 前記のとおり、乙谷が行った被告人の支援活動は極めて熱心なものであったと認められるのであり、その一部において、検察官が主張するように異常であるとか行き過ぎであるとの評価をせざるを得ないものがある。

そこで、乙谷がなぜこのような支援活動を行ったのかが問題となるが、検察官は、乙谷の支援活動の異常さを指摘するものの、その意味については明確な主張をしていない。その主張の全体から推察すると、「乙谷がアリバイを作出しようとしていた」ことを主張しているものと理解できるが、乙谷がそのようなことをした理由について推測しうる主張はなく、右の<2>の主張に関して「異常な言動を乙谷が行う理由として考えられるのは、乙谷及び被告人の両名が本件犯行を犯している場合、あるいは乙谷が被告人が本件犯行を行っていることを知っているかあるいはその可能性が大きいと考えている場合である」と述べる程度である。

乙谷証言によれば、乙谷は、「被告人が無実であるという確信を有していたので、被告人の支援活動を積極的に行い、また、積極的に国賠訴訟においてその無実をはっきりさせたいと思った」旨供述し、「被告人が無実であるという確信を持った理由は、被告人と一緒に甲山学園に帰って管理棟に入り、Xが行方不明になったことを聞くまで一緒にいたからである」旨供述するのである。この乙谷証言によれば、乙谷が支援活動を行ったのは自己の体験からくる被告人の無実の確信に基づくものであったというのであり、その支援活動において異常といえるものがあったり行き過ぎがあったとしても、それが被告人の無実の確信からのものであればそのことはことさらに不自然とはいえないのである。

そして、乙谷が供述する被告人のアリバイ(Xの行方不明を聞くまでは乙谷が被告人と一緒にいたこと)については、以下に検討するとおり、乙谷の供述する内容は、捜査段階の当初からほぼ一貫していると評価できるものであること、そこにはアリバイの作出をうかがわせるものはなく、他にも捜査段階当初において乙谷がアリバイを作出しようとしたことをうかがわせるものはないこと、乙谷がアリバイを作出したとすると、その理由が判然としないこと、その理由を乙谷が被告人の犯行であることを何らかの形でまた何らかの理由で知っていることに求めると、それでは説明できない点がうかがわれることに照らすと、乙谷証言を排斥することは一概にできないのであり、この点において、検察官主張のような、乙谷の支援活動の異常さをアリバイの作出をしようとしていたことの間接事実とすることには、疑問があるといわざるを得ない。以下、順に説明する。

(2) 乙谷は、Xの行方不明を知るまで被告人と一緒にいたことについては、一九日の夜の事情聴取時から一貫して捜査官に供述している旨証言する。

乙谷の事情聴取に関する書類として取り調べたものは、49・3・19員面二通(検三九五、三九六)、49・3・23捜復(当審弁二三五)、49・3・28捜復(当審弁二三六)、49・4・1巡面(検三九七)であり、この点に関する記載内容をみると、事件直後の供述調書である49・3・19員面(検三九六)には、Y子の死体発見状況の供述が中心ではあるものの、「学園に帰り、私は、戊田や被告人と一緒に表事務室(管理棟事務室)にいたが、午後八時三〇分ころ当直の乙野、乙原がXがいなくなったと言って騒ぎ出したので私ら三人も表グランドに出た」旨の供述記載があり、いまだアリバイ等が問題にならない時期において、乙谷は既にXの行方不明を知るまで被告人と一緒にいたことについて供述しているのである。

そして、その後においても、供述内容が詳細になり細部において若干食い違いはみられるものの、Xの行方不明を知るまで被告人と一緒にいたことについては一貫して供述していることがうかがわれるのであり、乙谷証言を裏付けているということができる。

すなわち、その後の49・3・23捜復によれば、捜査官の乙谷からの聞き込み結果としてではあるが、「午後八時ころ丙林に電話をし、午後八時一五分ころ乙山がY子の写真の焼き増しで神戸に行った。午後八時一五分ころ、戊田、被告人の三人で事務室で捜索活動の記録作成にかかった。それから間もなくして、Xがいなくなったと言って乙野、乙原が運動場を走っているのを被告人が聞き、被告人が管理棟裏側の扉を開けて走っていく乙野、乙原に『どうしたの』と聞くと『Xがいない』ということであった。その時私は便所にいたので、その話を聞いた」旨を供述し、また、49・3・28捜復には、午後七時三〇分ころ管理棟事務室に入ってからの出来事について、捜索活動の記録を作成する話をしたり、パンなどを食べたこと、被告人がY子捜索依頼をラジオ放送してもらったらと言い出し、丁沢電話をしたこと、丙林電話をして午後八時四五分に乙山がY子の写真をもっていくことになったこと、そのころJ電話(園児Jの父丁石九郎が甲山学園にかけた電話のこと)があったこと、午後八時前にB電話があったこと、その後午後八時一五分に園長が出たことを供述し、「捜査記録を作ることになってから、便所へ行ったとき、管理棟のすぐ北側のグランド付近で被告人が『Xがおらへん』と言っている声が聞こえ、すぐ事務室へ行き、戊田と一緒に管理棟玄関から出て青葉寮の方へ出て行った」旨を供述したことがうかがわれる。

また、詳細な事情聴取が行われたことがうかがわれる49・4・1巡面においては、管理棟事務室で捜索活動の記録を作成する話をしたりパンなどを食べたこと、午後七時四五分ころB電話があったこと、被告人が言い出して、丁沢電話、丁岡電話をしたこと、午後八時一〇分ころ丙林電話をして、午後八時一五分だったのでその三〇分後の午後八時四五分に神戸新聞会館前で待ち合わせることを決め、乙山はすぐ出発したことを詳細に供述し、「捜索活動記録を作成している途中、便所に行った。小便をしていたとき、被告人が廊下を歩いてトイレの入口まで来て、管理棟の出入口の戸を開けて『どうしたの』と大声でどなっていた。午後八時三〇分ころだったと思う。青葉寮の方から誰の声か男か女か分からないが、何か返事をしていたのを覚えている。小便をしながら『何んや』と聞くと、被告人は『Xがおらんようになったんやて』とごく普通の調子で答えた。えらいことになったと思い、青葉寮に管理棟の正面入口から走っていった」旨供述しているのである。

(3) 前記のとおり、検察官は、「乙谷が被告人のアリバイを作出しようとした」旨を主張していると理解できるのであるが、乙谷がいつ、どのような形で右アリバイを作出しようとしたのかについての明確な主張はない。

前記の乙谷の事件当初からの事情聴取内容に照らすと、乙谷は事件直後から一貫して、Xの行方不明を聞くまでは被告人と一緒にいた旨を供述していることがうかがわれ、また、Xの行方不明を知った状況について具体的に供述し、さらに、その前の管理棟事務室内での出来事について、丁沢電話、丁岡電話があったこと、B電話があったこと、丙林電話があり、時計で午後八時一五分を確認して乙山と丙林の神戸新聞会館での待ち合わせ時刻を午後八時四五分と決めたことなどをかなり早期の段階から供述していることがうかがわれるのであるから、そのアリバイ作出は事件直後からということにならざるをえない。

しかしながら、そのように考えると、次のような疑問点が指摘できるのであって、いかにも不自然といわざるを得ない。

ア すなわち、乙谷が主張する被告人のアリバイ内容の中心的なものは、「丙林電話の際に時計で午後八時一五分を確認して待ち合わせ時刻を午後八時四五分と決め、園長が出発してから捜索活動記録の作成にかかり、午後八時三〇分ころXの行方不明を聞くまでは、被告人と一緒に管理棟事務室にいた」というものである。そして、乙谷がアリバイを作出するためには、自分だけがアリバイ内容を捜査官に供述したり、職員や父兄に主張したとしても意味がないのであり、控訴審判決あるいは検察官自身が「アリバイ工作」というように、この事実に関係する者らに働きかけてその協力を得るのでなければ、その効果がないのである。

しかるに、この事実に直接関係している者は、乙山、被告人、戊田のほか、第三者である丙林がおり、また、検察官がXの行方不明を聞く前に戊田と乙谷は乙木とともに若葉寮職員室にいたと主張しているのでその乙木もいるのであって、事件直後から連日にわたって事情聴取が行われていることを考えると、これらの者全員に事件直後からアリバイ作出の協力を求めることは極めて困難であるといわざるを得ない。

イ しかも、これらの者の供述内容等をみると、乙谷からアリバイ作出に向けての働きかけがあったことをうかがわせるものは何もなく、むしろそれを否定するものであるといわざるを得ない。

例えば、検察官の主張によれば、被告人はX殺害の犯人であり、しかも、乙谷と被告人が共犯であるとか、乙谷が被告人が犯人であることを知っているかその可能性が大きいと考えていることを想定しているかのごとくであるから、被告人は、乙谷がアリバイの作出をすることと密接に関係しているといわざるを得ないのであり、乙谷のアリバイ主張に即した形での供述があって当然である。しかしながら、被告人の事件直後の供述内容をみると、丙林電話が午後八時一五分ころであるとか、乙山が学園を出発したのが午後八時一五分であるとか、Xの行方不明を知ったのが午後八時三〇分ころであるとかの供述はなく、むしろそれと異なって、丙林電話の時刻は午後八時近くである(49・3・28捜復当審弁二四〇)とか、Xの行方不明を知ったのは午後八時少し前である(49・3・20捜復当審弁三六〇)との供述をしているのである。

また、戊田は、49・3・20捜復(当審弁五〇)において、乙山は午後八時四五分に神戸で待ち合わせることになっていたこと、Xの行方不明を管理棟事務室で聞いたことを供述している。検察官の主張によれば、戊田は午後七時五〇分ころから若葉寮職員室にいたのが真実であるというのであるから、この戊田の供述は虚偽であり、その点において乙谷のアリバイ作出に協力しているということになる。しかしながら、そうだとすると、午後七時五〇分ころから若葉寮職員室にいた戊田が、なぜ乙谷のアリバイ作出に協力したのか合理的に説明することは困難であるうえ、Xの行方不明を管理棟事務室で聞いたことに関する右供述は、午後八時過ぎの乙山がいてお茶を飲んでいたときのこととして供述されていて、その後変遷しているのであり、また、丙林電話の時刻とか乙山の出発時刻に関しての乙谷の供述に符合する供述はなく、さらに、若葉寮から戻ったときに被告人はいなかったと思う(49・3・25捜復当審弁五二)とか、被告人はおはぎの箱を持って出た(49・3・27捜復当審弁五三)などと、被告人が管理棟事務室にいなかった趣旨の供述をしているのであり、アリバイの作出に協力している供述とは到底みられないのである。

さらに、検察官の主張によれば、Xの行方不明を聞く前に戊田と乙谷は乙木とともに若葉寮職員室にいたというのであり、その旨を乙木は供述しているのであるが、乙木の供述をみると、乙木は当初はそのような供述をしていなかったのであるが、その後供述を変遷させて検察官主張の事実を供述するに至ったのである。しかるに、乙木は、乙谷からアリバイの作出に関する働きかけがあったことは供述していないのである。

(4) そもそも、事件直後においてはXの行方不明の時刻などは明らかになっていない段階であって、事件直後からアリバイの主張をしなければならないような事情はうかがえないのである。考えられるとすれば、乙谷が、被告人の共犯者であるとか被告人が犯人であることを知っている場合であるが、例えば、被告人が犯人であることをいつどのようにして知ったのかなど、それをうかがわせる具体的な主張もなければ、証拠もないのである。

5  小括

以上みてきたように、検察官が主張する被告人の本件犯行前後の行動及びその時刻についての証拠には、その重要な部分において拭いがたい疑問をそれぞれ指摘せざるを得ないのであり、検察官が被告人の犯人性を指摘する右主張自体に大きな問題があるといわざるを得ない。検察官は、右検察官の主張を前提として、被告人及び乙谷らが主張する被告人に関するアリバイは客観的事実に反する虚偽のものであるとか、被告人の供述するX不明を知った経緯、状況は不自然であるなどと主張しているのであり、その前提に大きな問題がある以上、さらに検討する必要はないといわざるを得ない。また、検察官が主張するアリバイ工作に関しては、その主張の基本となる「乙谷が行った被告人の支援活動は異常である」との事実については、それをアリバイ工作のものとして認めることはできないのであり、この点に関する検察官の主張は理由がないといわざるを得ない。

第十三  結語

以上検討してきたように、被告人の犯行を裏付ける主要な証拠である各園児の供述及び被名人の自白については、いずれも信用できないものといわざるを得ず、また、その余の検察官主張の証拠については本件について被告人の犯人性を認めるに足りるものではなく、結局、本件については被告人が犯人であることを認めるに足りる証拠はないことに帰着する。

したがって、被告人に対する本件公訴事実については、その証明が不十分であって、犯罪の証明がないので、刑訴法三三六条により無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉田昭)

裁判官 小川育央及び同 渡辺美弥子はいずれも転補のため署名押印することができない。

(裁判長裁判官 吉田昭)

別紙 証拠一覧表<省略>

青葉寮収容児一覧<省略>

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