神戸地方裁判所 平成8年(行ウ)38号 判決 1999年10月26日
原告
中谷和子
右訴訟代理人弁護士
山﨑省吾
被告
姫路労働基準監督署長
谷佑浩
右訴訟代理人弁護士
法常格
右指定代理人
関述之
外七名
主文
一 被告が平成四年三月三一日付けで原告に対してした労働者災害補償保険法に基づく療養補償給付及び休業補償給付を支給しない旨の各処分を取り消す。
二 被告が平成八年三月六日付けで原告に対してした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。
三 訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
主文同旨
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 被災者及び原告
中谷春雄(以下「春雄」という。)は、昭和六年六月一〇日生まれの男性であり、平成元年四月二〇日、自動販売機によるビデオテープの小売販売業及び飲食業等を目的とする姫路自販機株式会社(以下「姫路自販機」という。)に雇用され、同社が、「日本自動販売」の名称で運営しているビデオ部門の所属となり、同市町ノ坪<番地略>所在の店舗「くさつ店」(以下「町ノ坪店舗」という。)において稼動していた。
原告は、春雄の妻で、同人の死亡当時その収入によって生計を維持していた者である。
2 事故の発生
春雄は、平成二年七月一四日、姫路自販機代表者井上壽久(以下「井上」という。)方で開かれた日本自動販売の営業会議(以下「本件会議」という。)中、脳出血(以下「本件疾病」という。)を発症して兵庫県姫路市広畑区長町<番地略>所在の長久病院、次いで、同県高砂市荒井町紙町<番地略>所在の高砂市民病院でそれぞれ入院治療を受けていたが、呼吸不全により同年九月二六日死亡した。
3 本件各処分
(一) 原告は、被告に対し、本件疾病は業務上の事由によるとして労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づき平成二年一〇月一五日に療養補償給付の、平成三年三月一三日に休業補償給付の各支給請求をしたところ、被告は、平成四年三月三一日付けで右各給付を支給しない旨の各処分をした。原告は、右各処分を不服として、同年五月二〇日、兵庫県労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが、同審査官は、平成五年五月二五日付けで右審査請求を棄却する旨決定したので、原告は、さらに、同年八月二〇日、労働保険審査会に対し再審査請求をしたが、同審査会は、平成八年七月二四日付けで右再審査請求を棄却する旨裁決し、同裁決書は、同年八月一九日、原告に送達された。
(二) 原告は、また、平成七年九月二六日、被告に対し、春雄の死亡は業務上の事由によるとして労災保険法に基づき遺族補償給付の支給請求をしたが、被告は、平成八年三月六日付けで右給付を支給しない旨の処分をした。原告は、右処分を不服として、同年四月一二日、兵庫県労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが、同審査官は、同年一〇月一日付けで右審査請求を棄却する旨決定したので、原告は、さらに、同年一二月五日、労働保険審査会に対し再審査請求し、同月九日受理されたが、三か月を経過しても裁決はされなかった。
4 春雄の本件疾病及び死亡の業務起因性
(一) 脳血管疾患及び虚血性心疾患の業務起因性の判断基準
労働省労働基準局長通達(平成七年基発第三八号)の認定基準によれば、①発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る業務に関連する異常な出来事に遭遇した場合、又は、②日常業務に比較して、特に過重な業務に就労した場合に、業務による過重負荷を受けたものとされ、右①の「異常な出来事」には「極度の緊張、興奮、恐怖、驚がく等の強度の精神的負荷を引き起こす突発的又は予測困難な異常な事態」が含まれ、②の「特に過重な業務」とは「日常業務に比較して特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせたと客観的に認められる業務」をいうが、発症との時間的近接性を考慮して、業務起因性が判断されるべきであるとされている。
(二) 春雄の発症前の業務状況
春雄は、町ノ坪店舗において、一人でビデオレンタル業務等に従事していたが、姫路自販機のビデオレンタル業務の廃止に伴い、平成二年六月一日から、町ノ坪店舗において、同僚の長友岩雄(以下「長友」という。)と二人でビデオテープの検品、伝票の整理、金銭管理、電話応対等の事務的業務に従事するようになった。しかし、春雄は、長友との仕事上の協力関係及び人間関係の円滑を欠き、精神的な軋轢を強く感じていた。
そこに同年七月一四日、本件会議が行われることになったが、春雄及び長友は、それまで一度も営業会議に招集されたようなことはなかった。右会議は、姫路自販機の販売員である早川義浩(以下「早川」という。)、北山晴一(以下「北山」という。)及び北村淳一(以下「北村」という。)も出席し、午前一一時前ころ始まった。本件会議の議題は、表面上は「業務の円滑な善処化」とされていたが、実際は、長友が事前に井上に提出した意見書に基づき、春雄に対して、ビデオテープ横領の嫌疑をかけ、その責任を追求することが予定されており、場合によっては、春雄が解雇されることもあり得た。しかし、春雄は、まじめでおとなしい性格で、ビデオテープの横領など全く身に覚えがなく、右会議の席上、全く予期していなかったビデオテープ横領の嫌疑を長友からかけられたため、あまりのことに興奮・緊張・驚がくし、「身に覚えがない。お前のいうことはみんな嘘だ。」等と大声で反論した結果、本件疾病発症に至ったものである。
(三) 認定基準の当てはめ
(1) 本件会議中における突然の横領嫌疑という出来事は、発症状態が時間的及び場所的に明確であり、業務に関連する極度の緊張、興奮、驚がく等の強度の精神的負荷を引き起こす予測困難な異常な事態であるから、本件疾病発症は、「異常な出来事」に遭遇した結果、業務による明らかな過重負荷を受けたために生じたものである。すなわち、右(一)①の事由に該当する。そして、春雄は右過重負荷を受けた直後、手の痺れを訴え、本件疾病を発症したのであり、過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過も医学上妥当である。したがって、春雄の本件疾病及びこれによる死亡は業務起因性がある。
(2) 仮に、本件会議の席上、長友の春雄に対する横領嫌疑発言がなかったとしても、春雄と長友の職場における人間関係は、良好ではなく、職場には春雄に対して横領の嫌疑をかけ、場合によっては春雄を解雇しようとの動きがあり、春雄はその雰囲気から精神的負荷を感じ続けてきた。そして、右精神的負荷は、会議当日の同年七月一四日には、春雄が出勤を躊躇するほどになり、また、本件会議で春雄と長友との関係が取り扱われるほど重大な問題となっていた。右長友との関係の悪化等は日常期待される業務に比較して十分に精神的に過重な業務であり、春雄が本件疾病を発症したのは、「特に過重な業務」を継続した結果、業務による明らかな過重負荷を受けたためである。すなわち、右(一)②の事由に該当する。そして、春雄は右過重負荷を受けている状態で本件疾病を発症したのであり、過重負荷を受けてから症状出現までの時間的経過も医学上妥当である。したがって、春雄の本件疾病及び死亡は業務起因性がある。
5 よって、これと異なる判断の上に立ってされた被告の本件各処分は違法であるから、原告は、被告に対し、本件各処分の取消しを求める。
二 請求原因に対する被告の認否及び主張
(認否)
1 請求原因1ないし3の各事実はいずれも認める。
2 同4(一)の認定基準の存在及び内容は認める。
同4(二)のうち、春雄は、町ノ坪店舗において、一人でビデオレンタル業務等に従事していたが、姫路自販機のビデオレンタル業務の廃止に伴い、平成二年六月一日から、町ノ坪店舗において、長友と二人でビデオテープの検品、伝票の整理、金銭管理、電話応対等の事務的業務に従事するようになったこと、同年七月一四日午前十一時前ころから、井上方において、井上、春雄、長友及び販売員の早川、北山、北村の計六名で本件会議が行われたこと、春雄が本件会議途中に長友に対し大声で反論したことは認める。長友と春雄との関係が良好でなかったこと、右会議の席上、春雄がビデオテープ横領の嫌疑を長友からかけられたこと、そのため、春雄が興奮・緊張・驚がくしたことは否認する。同(三)(1)の主張は争う。同(2)のうち、長友が春雄に対して横領の嫌疑をかけ、場合によっては春雄を解雇しようとの動きがあったこと、春雄がこれによって精神的負荷を受けていたことは否認する。春雄の本件疾病及び死亡に業務起因性があるとの主張は争う。
(主張)
1 「業務に関連する異常な出来事」について
本件会議の目的は、会社の業務を向上させることにあり、長友が春雄に横領の嫌疑をかけた事実はない。本件会議の途中で、長友が、「従業員が五、六人しかいない会社で上下関係もないので皆で協力して会社の発展に努めるようにしていってはどうか。」といった旨の発言をしたところ、春雄がこれに反論して口論となり、日ごろの欝憤が高じて互いに相手を罵り合ったことによって、春雄の基礎疾患であった動脈硬化症、高血圧の増悪を引き起こし、春雄の本件疾病ないし死亡に至ったものである。したがって、右原因は、本件会議の目的を逸脱して春雄の個人的な動機からされた口論であって、業務とは関連性がない。また、仮に口論の原因となった長友の発言に春雄の職務態度を非難するような内容が含まれていたとしても、そのような発言は会議の目的から一般に予想できることであるから、極度の緊張・興奮・驚がく等の強度の精神的負荷を引き起こす突発的又は予測困難な異常な出来事とはいえない。
2 「特に過重な業務」について
春雄は、平成元年四月二〇日に姫路自販機に就職後、町ノ坪店舗でビデオレンタル業務や伝票等の整理を行っていたが、平成二年五月三一日にレンタル業務が廃止されるまでの期間、春雄が特に過重な業務に従事していた事実はない。また、平成二年六月一日以降においても、毎週月曜日から土曜日の午前一〇時から午後六時(うち休憩時間一時間)までビデオテープの検品等の業務を行っていたが、残業することも少なく、その職務内容や勤務時間は一般的なもので、同人の心身に過重な負担を与えるものではなかった。また、長友との関係は特に険悪なものではなく、春雄にビデオテープ横領の嫌疑をかけて解雇しようとの動きもないし、春雄がそれを認識していた事実もない。さらに、本件疾病発症前一週間についても、特に過重な業務はなく、長友との関係がこの間に急激に悪化した事実もない。したがって、春雄が「日常業務に比較して、特に過重な業務に就労した」とはいえない。
3 春雄の基礎疾患について
春雄は、動脈硬化症、高血圧症のため、昭和六一年九月一二日から毎月二ないし四回の通院治療を受けていたが、平成二年五月三〇日から治療を中断していた。そして、高血圧症にり患している患者が降圧剤の服用を怠っていた場合、血圧が急激に上昇する「リバウンド現象」が発生することは医学的知見として一般的なことであるから、春雄の本件発症当時の血圧は、相当高くなっていたと推定することができ、わずかな刺激で本件疾病を発症する危険があった。そのような状況下で、本件会議においてたまたま口論した結果、本件疾病を発症したものであって、基礎疾患の自然的憎悪の方が口論よりも相対的に有力な本件疾病ないし死亡の原因であるから、業務起因性はない。
第三 証拠
本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
一 請求原因1ないし3の各事実、同4のうち、春雄は、町ノ坪店舗において、一人でビデオレンタル業務等に従事していたが、姫路自販機のビデオレンタル業務の廃止に伴い、平成二年六月一日から、町ノ坪店舗において、長友と二人でビデオテープの検品、伝票の整理、金銭管理、電話応対等の事務的業務に従事するようになったこと、平成二年七月、一四日午前一一時前ころから、井上方において、井上、春雄、長友及び販売員の早川、北山、北村の計六名で本件会議が行われたこと、春雄が会議の途中に長友に対し大声で反論したことはいずれも当事者官に争いがない。
二 本件疾病発症に至る経緯等について
右争いのない事実及び証拠(甲一ないし四、五の1・7・8・9・12ないし45・47、七、八、九、乙二、七、証人北山晴一、同北村淳一、同長友岩雄、原告本人)並びに弁論の全趣旨によれば、本件疾病発症に至る経緯等について以下の事実を認めることができる。これに反する証人長友岩雄の供述ないし陳述(甲五の14・36)部分、同北山晴一の供述ないし陳述(甲五の39)部分、早川の陳述(甲五の15)部分はいずれも採用しない。
1 春雄の稼働状況及び職場の人間関係等について
(一) 春雄は、昭和六年六月一〇日生まれの男性であり、平成元年四月二〇日、妻である原告が約一年前から勤めていた姫路自販機に入社した。姫路自販機は、自動販売機によるビデオテープの小売販売及び飲食業を営む会社であり、そのビデオ部門は、「日本自動販売」という名称で運営され、従業員は内勤の春雄及び長友(大正八年五月二三日生)の二名と販売員である早川、北山、北村の三名であった。日本自動販売は、兵庫県姫路市飾磨区構五丁目にビデオテープの倉庫(以下「構の倉庫」という。)を有し、同市町ノ坪二五所在の町ノ坪店舗でビデオレンタル業務を行っていたが、町ノ坪店舗の責任者は早川であった。
(二) 春雄は、姫路自販機に入社後、町ノ坪店舗において、一人で来客に対するビデオテープの貸出し及びその返却を受ける等のビデオレンタル業務を行い、長友は、春雄の入社前から、構の倉庫において、一人でビデオテープの検品・管理等の業務を行っていた。
春雄のレンタル業務従事中の勤務体制は、週休一日(日曜日)で週日は午前一〇時から午後六時までの勤務であり、そのうち午後一二時から午後一時まで一時間の休憩時間があった。
(三) 姫路自販機は、平成二年六月一日から、レンタル業務から撤退し、構の倉庫を廃止し、同日から町ノ坪店舗を事務所兼倉庫として使用するようになり、春雄は長友と二人で仕事を行うようになった。
春雄は町ノ坪店舗一階の事務所で販売員が集金してきた代金の管理、伝票の整理、電話の応対、ビデオテープの数量を日報に記入して毎日ファクシミリで本社事務所に報告するとの事務的業務を行うようになり、長友は、二階の倉庫でビデオテープの検品・整理・運搬等の管理業務を行っていた。春雄の勤務時間は、午前一〇時から午後六時までで、そのうち午後一二時から午後一時まで一時間の休憩時間があり、残業をすることはなかった。また、日曜日は休日であり、春雄が休日に出勤することはなかったが、週日に欠勤することもなかった。なお、長友の勤務時間は、春雄と異なり、午前八時から午後四時までであったが、休憩時間及び休日は、春雄と同じであった。
(四) ビデオテープの整理や管理についての春雄と長友の職務上の分担は明確に定められていなかったところ、春雄は、高血圧症のため、重い荷物を持つなどの身体に負担のかかる作業ができず、長友は、仕入れたビデオテープを二階の倉庫へ一人で運搬する等の肉体労働をしなければならないことが多かったため、長友は不満を抱いていた。春雄も、原告に対して、仕事の内容、分担がきちんと決まらないことで悩みがある旨を述べていた。そのため、春雄と長友の仕事上の関係は良好ではなく、そのことは、井上、早川、北山にも分かっており、早川及び北山から井上に対し、両者の業務を円滑化する要望が出されるほどであった。もっとも、春雄は、普段まじめでおとなしく、大きな声で怒るようなことはなかった。
(五) 春雄は、構の倉庫が廃止されたころ、早川から、従前本社の経理担当従業員が行っていた売上報告や売上金の管理を町ノ坪店舗独自で行うよう指示を受けた。そして、右事務を原告の協力を得て行ったものの、右従業員が春雄が作成した書類を了承しなかったため、井上は、同年七月一二日には右事務を再び本社に戻した。そして、早川は、同月一三日、原告に対し、井上と話をした上で、春雄の処遇について連絡すると伝えたが、結局、早川からは連絡がなかった。
(六) 春雄は、本件疾病発症の一週間前ないしそれ以前から、原告に対し、仕事を辞めたい旨を述べており、本件会議が開催された同年七月一四日の朝、春雄は、原告に対し、出勤しても何をすべきか分からないので、欠勤したいと述べた。しかし、原告は、前日に早川から春雄のことで井上と話をする旨聞いていたので、春雄に対し、とりあえず出勤して昼から早退することを勧め、春雄も出勤することとした。
(七) 早川は、本件会議の約一週間前、長友がバイクの荷台にビデオテープを積んで帰ろうとして、途中でそれを落としたのを発見し、北山や北村に対し、長友がビデオテープを横領しているのではないかと話していた。一方、早川自身に対しても、ビデオテープを横領しているのではないかという嫌疑があった。
(八) 長友は、本件会議前、井上に対し、便箋一五枚程度の意見書を提出しており、それには、販売員が自動販売機に商品を補充する際の見本商品の取扱いに関する事項なども記載されていたが、春雄に関する非難が大部分を占めていた(証人長友岩雄は、かかる意見書を提出したことはない旨供述するが、右認定に沿う井上及び早川の各陳述《甲五の13・15》、証人北村晴一の証言に照らして採用できない。)。
2 本件会議の経緯について
(一) 井上は、早川及び北山からの前記要望を受けて町ノ坪店舗における春雄と長友の業務につき従業員で意見を出し合い、業務の改善を図るために、本件会議を平成二年七月一四日午前一〇時過ぎに井上方で開くことにした。日本自動販売の営業会議は、従前、主に姫路自販機が経営する居酒屋「大吉」か近所の喫茶店で開かれており、井上の自宅で営業会議が開かれたのは、本件会議が初めてのことであり、また、春雄及び長友が営業会議に招集されたことも初めてであった。井上は、事前に長友から春雄を非難する意見書が提出されていたことから、会議において、春雄と長友の激しいやり取りが生じる可能性も予想していた。
(二) 早川は、平成二年七月一三日の夜ないしは同月一四日の朝に、各従業員に対して、本件会議開催を告げたが、本件会議の目的は伝えていなかった。
早川、北山、北村、春雄及び長友は、平成二年七月一四日午前一〇時三〇分ころ、井上方に集まり、しばらく雑談等をしていたが、その時の春雄の様子は特に普段と変わらなかった。同日午前一一時前ころから、大広間に並べた座敷机の中央に井上が座り、その左に春雄、北山、その右に早川、北村、その向かいに長友が座って、本件会議が開催された。井上は喉の手術により声が出なかったことから、始めに、早川が井上に代わって会議開催の挨拶をし、他の従業員らに対し、会社の業務がうまくいくためにはどうしたらよいかについて意見を聞かせて欲しいと発言した。すると、長友が、発言を求め、便箋に書いた意見書を読み上げる形で、春雄が会社のビデオテープを横領している旨述べた。これに対し、春雄は、大声で「身に覚えがない。お前の言うことはみんな嘘だ。」と興奮して反論し、両者の間で言い争いとなった。その時間は一分程度であったが、春雄は大声を出した時から顔が青ざめ、ガタガタと震えており、その直後、手が痺れたので横になりたいと申し出て横臥し、同日午前一一時二五分ころ姫路消防局に救急車の出動が要請された。
(被告は、長友が本件会議において春雄に横領の嫌疑をかけたことはなく、長友が「従業員が五、六人しかいない会社で上下関係もないので皆で協力して会社の発展に努めるようにしていってはどうか。」と述べたところ、春雄がこれに反論して口論となった旨主張し、証人長友岩雄の供述ないし陳述《甲五の14・36》、早川の陳述《甲五の15》中にはこれに沿う部分がある。しかし、被告主張にかかる長友の右発言内容は、春雄が興奮して反論した契機としては不自然であるといわざるを得ないし、春雄の右反論内容とも整合しないから、直ちに採用することはできない。また、北山の陳述《甲五の39》中には、長友が、このような話合いは時間の無駄である旨の発言をしたところ、春雄がこれに大声で反論したとする部分があるが、それ自体曖昧で、長友のいう「このような話合い」の内容も明らかでなく、これも直ちに採用することはできない。)
(三) 本件会議開催のころの気温は、摂氏28.3度であるが、その時刻の気温及び一日の平均気温は、その一週間前から大きな変化はなかった。
3 本件疾病発症後の経緯
(一) 出動要請を受けた姫路市網干消防署救急隊員は、平成二年七月一四日午前一一時三〇分ころ、井上方に到着し、その際、春雄は、井上方和室のテーブルの横で仰臥していたが、救急隊員との間で若干の会話ができた。しかし、春雄は、既に歩行不能であり、救急隊員により担架で救急車まで運ばれ、同日午前一一時四八分、長久病院に収容された。
(二) 原告は、春雄が長久病院に収容された直後ころ、同病院に赴いたが、その際の春雄は、意識があり、舌がもつれる感じではあるが言葉を聞き取ることができる程度に話すことができた。春雄は、その際、泣く原告に対し、「泣かなくてもいい。日ごろの欝憤が爆発したんや。」と述べた。
(三) 春雄は、右同日から長久病院で入院治療を受けたが、同病院の長久雅博医師の初診時の自訴ないし症状所見は、頭痛、意識障害(傾眠)、左片麻痺、失語症で外傷はなく、同医師は、神経学的検査及び頭部CT画像診断により、「脳出血・左片麻痺・失語症・高血圧症」と診断した。春雄の頭部CT所見では、右視床出血があって脳室を穿破しており、両側基殻部、放線冠に以前からあったと判断される多発生のラクナ梗塞が見られた。同医師は、右出血が少量であったことから、保存的治療を併用し、脳室ドレナージを施行するなどの治療を行った。
(四) 春雄は、平成二年八月八日、高砂市民病院に転院し、同病院の白瀧邦雄医師は、診察の結果、春雄の傷病名は「右視床部脳出血・肺炎」であり、その主たる傷病である右視床部脳出血は、長久病院で診断された疾病と同一であり、肺炎症状は、脳出血が重篤なため、その後の運動麻痺、自発性の欠如、燕下障害、不十分な体位変換、誤燕等に全身の衰弱が加わって発症、増悪したものであると診断した。右転院時の春雄は、発語が余りなく、簡単な問いかけにはゆっくり反応することができるが、全般に自発性の欠如があり、発症状況について述べることができるような状態ではなくなっていた。また、右転院時に撮った春雄の胸部正面X線写真によれば、大動脈弓が延長、突出していた。
春雄は、同年八月中旬から連日摂氏三八度を超える高熱が続いた上、全身の皮疹、高血糖、肝機能障害、低血圧症等にり患し、この間、同年九月七日には同病院内科に転科した。右白瀧医師は、春雄に対し、抗生物質の投与、気管切開等の処置を施行したが、春雄は、肺炎症状が増悪して肺カンジダ症を併発し、同年九月二六日、呼吸不全により死亡した。
4 春雄の基礎疾患について
(一) 春雄は、三〇歳代のとき、右手が痺れ、言葉が少しもつれる等の発語障害があり、高砂市民病院で入院治療を受けたことがあった。
(二) 春雄は、昭和六一年九月一八日から上月医院を受診し、同医院の上月与四郎医師により「動脈硬化症、高血圧」と診断された。その後、平成二年五月三〇日まで毎月二回ないし四回の頻度で同医院に通院し、降圧剤であるアドクロリン・ヘルベッサーの内服投与を受けていた。春雄は、右通院中には、時に眩暈症状があるほかは自覚症状はなかった。また、右通院中における最高血圧及び最低血圧の各血圧値(単位・水銀柱ミリメートル、以下血圧については単位を省略し、数値のみを示す。)の推移は、最高・最低の順に、150.100(初診時)、150.85、160.85、155.85、160.80、145.80、170.90、180.90、150.85(最終受診時)であった。右上月医師は、春雄に対する日常生活上の指導として、酒・煙草の中止、動物性脂肪を少なくして野菜を多くし、塩分を少なくするよう指示を与え、春雄は、右指導に従ってかなり摂生していた様子であった。
(三) 春雄は、平成二年五月三〇日以降上月医院に通院しなくなったが、同年六月ころから、原告に対し、「朝が起きにくい。足がだるい。足を切ってくれ。」等と述べ、犬の散歩が辛いとも言って下肢の不調を訴えることもあったが、そのために欠勤したことはない。
三 高血圧症と脳出血についての医学的知見(乙一ないし六)
1 脳血管は、分岐しながら次第に細くなり、脳深部を栄養する動脈は、脳表面の大きな血管から直接細い動脈として分岐し、穿通動脈と呼ばれる。この血管は、高血圧による傷害を受けやすく、破綻すると脳出血を、閉塞すると径一五ミリメートル以下の小さな梗塞(ラクナ梗塞)を生じる。
2 高血圧の薬物療法は、降圧薬(血圧降下薬)を用いて血圧を下げるという方法を行うが、降圧薬は原則として生涯続けなければならず、服用を止めるとすぐに血圧は元に戻るばかりか、かえって予後が悪くなる場合もある。降圧薬の服用を止めたために、「リバウンド現象」といって、血圧が急激に上昇することもあり、そのとき脳血管障害等の合併症を発症するケースが多く、非常に危険な状態となる。一般に、降圧薬の中断後、一週間でリバウンド現象が出現し、血圧値は治療中より高くなり、四週間までは変動するが、それ以後は一定の血圧レベルに達する。
四 因果関係に関する各医師の意見の要旨
1 上月与四郎医師の意見(甲五の17)
春雄は、高血圧の状態が長期間続いていたので脳内出血の可能性は十分に考えられ、著しく興奮したことから血圧が急に上昇し、脳出血を誘発したと考えられる。
2 長久雅久医師の意見(甲五の21)
興奮時に血圧が上昇し、脳出血を起こした可能性がある。
3 白瀧邦雄医師の意見(甲五の19)
潜在的に高血圧のある人に著しい精神的興奮等によって急激な血圧上昇をきたし、脳出血に至る可能性は医学的に十分にあり得る。
4 小西博行医師(兵庫県労働基準局地方労災医員)の意見(甲五の23)
春雄は、昭和六一年九月一二日から、動脈硬化症、高血圧のため、上月医院において、毎月二回ないし四回の外来治療を受け、平成二年五月三〇日まで治療を続けていたが、その後、治療を中断したため、コントロールされていた血圧が上昇していたであろうことが十分推測できるところであり、このことが脳出血の準備状態をつくっていたと考える。また、同年八月八日の高砂市民病院転院時の胸部正面X線写真によれば、大動脈弓が延長、突出して相当の動脈硬化があることを示唆している。以上のことからすれば、本件発症当時、春雄は既に発症の状態であったと判断され、たまたま業務上で口論したことによって血圧が更に上昇し、発症したものであるから、業務との因果関係は認められない。
5 山口三千夫医師(兵庫県労働基準局地方労災医員)の意見(甲五の45)
春雄は、昭和六一年九月から上月医院を受診し、高血圧の治療を続けており、糖尿や腎疾患の合併は報告されていない。既往症として三〇歳代に構語障害と右手の痺れがあり、これは一過性脳虚血発作と思われるが、その後にみるべき脳卒中様症状はなく、脳動脈硬化症があったと考えられる。平成二年五月ころから下肢のだるさを訴えていたようであるが、今回の脳出血との関連は不明である。春雄の血圧は、薬剤によりコントロールされていたと推測されるが、本件会議当日、激しく精神的に興奮し、右興奮により血圧が急上昇し、もともと動脈硬化もあったので、脳出血に至ったと考えられる。CT所見では、右視床部出血があり、その大きさは重篤ではないが、脳室内に穿破しており、肺炎併発の上、死亡に至ったものである。医学的には、本件会議での感情的な状況が、もとからあった高血圧を脳出血が起こるまでに増悪させ、そのため出血が発生したと考えることは可能である。動脈硬化等の存在はあったとしても、当時、自然発症したと考えるほど、血圧・動脈硬化が悪化していた証拠はない。
6 峰松一夫医師(国立循環器センター内科脳血管部門部長)の意見(乙二)
春雄は、脳室穿破を伴う典型的な右視床出血で、その大きさは中等大からやや大きめである。その他、両側基底殻部、放射冠に多発性の低吸収域が散在している。高血圧性の脳細動脈病変とそれに基づくラクナ梗塞が以前からあったと思われる。これらのことからすれば、春雄には、長期にわたる高血圧を原因とした心・大血管の変化、脳の細動脈病変が既にあったと判断される。高血圧の治療は行われていたようであるが、上月医院への最終診療日は平成二年五月三〇日と記載され、発症までの1.5か月間は降圧薬が正しく服用されていなかった可能性がある(処方日数は最長三〇日)。そうだとすると、服薬中止あるいは不定期の服薬で血圧が上昇あるいは動揺し、これに精神的興奮が重なって著しくかつ急な血圧上昇が起こり、脳出血発症の引き金になったかもしれない。「長期間の高血圧→高血圧管理不良・中断→精神的興奮、重労働による血圧急上昇→脳出血発症」というパターンはよく経験されるところであり、この場合の精神的興奮、重労働は、原因というより「発症の引き金」と考えられている。なぜなら、もともと正常だった人が、精神的興奮だけで脳出血を起こすことはまずないからである。なお、過度の肉体労働、精神的緊張の持続、興奮、不眠、その他の心的トラウマと脳卒中発症との関係についての信頼し得る報告は見あたらない。特に各個人レベルで、こうしたストレスがどの程度発症に関与していたかを正確に推定することは不可能である。春雄のCT所見によれば、以前からあったと判断される多発性のラクナ梗塞がみられ、長期の高血圧の結果として脳出血を発症しやすい状況にあったといえる。本件の場合、春雄の発症時の精神的興奮が発症までの時間を短縮させた可能性はあるが、春雄がいずれ脳卒中(脳出血とは限らない)や他の循環器疾患を起こす可能性は高かった。
五 右認定した事実関係等に照らして、本件疾病及び死亡についての業務起因性の有無を検討する。
1 労災保険法による保険給付を受けるには、当該疾病等の災害が業務によるものであること(業務起因性)を要するところ(労災法一条、七条一項一号)、業務起因性が肯定されるためには、業務と災害との間に条件関係があることを前提としつつ、両者の間に法的に見て労災補償を認めるのを相当とする関係、すなわち相当因果関係が存在することが必要である。
そして、脳血管疾患を発症した者が高血圧症等の基礎疾患を有する場合は、右基礎疾患がその自然的経過によって、疾病を発症する寸前まで進行していたとみることが困難な場合に、業務に関連して相当に強い恐怖、驚がく等をもたらす突発的で異常な事態に遭遇した後、又は、日常業務に比較して特に過重な業務に従事した後、短期間のうちに疾病を発症したときは、他に確たる発症因子がうかがえない以上、右相当因果関係が肯定されるというべきである(最高裁平成六年(行ツ)第二〇〇号同九年四月二五日第三小法廷判決・最集民一八三号二九三頁参照)。
2(一) 前記認定事実によれば、春雄は、三〇歳代に言語障害と右手の痺れがあり、昭和六一年九月一二日から高血圧症、動脈硬化症で平成二年五月三〇日まで継続的に通院して降圧剤の内服治療を受けていたものであり、本件疾病発症後の頭部CT所見では以前からあったと思われる多発性のラクナ梗塞が認められたのであるから、非外傷性の脳血管疾患発症の基礎となり得る疾患を有していたものといえる。
(二) 一方、春雄は、家庭においては下肢の不調を訴えるなどしたことはあっても、そのために欠勤したことはなく、本件会議前の様子も特に普段と異なることはなかったというのであり、また、本件疾病発症直前の春雄の右基礎疾患の進行程度、状況を客観的に明らかにするに足りる証拠はないのである。そうすると、本件疾病発症前に右基礎疾患がその自然的経過により血管が破綻する寸前にまで進行していたとみることは困難であるというべきである。
これに対し、被告は、春雄が平成二年五月三〇日から治療を中断し、降圧剤の服用を怠っていたから、リバウンド現象により血圧が高くなっており、脳出血発症の状態にあった旨を主張し、小西博行医師も、これに沿う意見を述べ、さらに、高砂市民病院転院時の胸部正面X線写真によれば、大動脈弓が延長、突出して相当の動脈硬化があることを示唆しているとして、本件発症当時、春雄は既に発症の状態であり、口論がなかったとしても発症していたと考えられる旨を述べる。また、峰松一夫医師も、春雄には、長期にわたる高血圧を原因とした心・大血管の変化、脳の細動脈病変が既にあり、服薬中止による血圧上昇から脳出血を発症しやすい状況にあったといえ、春雄の発症時の精神的興奮が発症までの時間を短縮させた可能性はあるが、春雄がいずれ脳出血や他の循環器疾患を起こす可能性は高かった旨の意見を述べる。確かに、降圧剤服用中止による血圧上昇(リバウンド現象)の可能性は医学的知見として認められていることは前記のとおりである。しかし、右現象による血圧上昇の程度及びその上昇期間は必ずしも明らかでない上、平成二年六月一日以降の春雄の降圧剤の服用状況及び血圧状況は証拠上明らかではない。また、仮に右転院当時の胸部X線写真から胸部に相当の動脈硬化があることが示唆されるとしてもそのことから直ちに本件疾病発症当時、春雄が既に脳血管破綻寸前の状態であったことを結論付ける根拠は明らかではない(山口三千夫医師もその旨の意見を述べる。)。したがって、被告の右主張を採用することはできない。
(三) 前記認定事実によれば、春雄は、目的も知らされずに初めて出席した本件会議の席上で、長友から突然、ビデオテープ横領の嫌疑をかけられ、これに対して大声で反駁して長友と口論となったところ、その発言中に本件疾病を発症して顔が青ざめろれつが回らなくなり、手の痺れを訴えて横臥したというのである。
そして、同僚従業員である長友との従来からの良好を欠く人間関係や勤務に嫌気がさしていた状況の下で、代表者も出席した営業会議の席上、長友から、突如、犯罪の嫌疑をかけられて告発され、これに対して反論して口論するような事態は突発的で予測困難な異常な出来事であったといえ、その際、春雄が極めて強い緊張、興奮、驚がくを感じたことは想像に難くないところである。そして、これによる精神的負荷は、春雄の基礎疾患等をその自然の経過を超えて急激に悪化させる要因となり得るものであったというべきである。
(四) 長友が春雄に対してビデオテープ横領の嫌疑をかける発言をし、春雄がこれに反論したのは、町ノ坪店舗の業務改善を目的とした姫路自販機の会議においてであり、右横領自体春雄の業務に関わることであるから、春雄は、業務に関連して、右異常な出来事に遭遇したものといえる。なお、前記認定事実によれば、春雄が長友に対して憤激したことには、同人に対する従前からの欝憤の影響もあったことがうかがわれるが、そのことから直ちに春雄の長友との口論が専ら個人的動機によるとまでいうことはできず、業務との関連性を失わせるものではない。
(五) 以上によれば、春雄は、その基礎疾患が、未だその自然的経過によって脳血管疾患を発症する寸前まで進行していたものとみることはできない状況で、業務として行われた本件会議で長友から突然横領嫌疑をかけられ口論するという、強い緊張、興奮、驚がく等をもたらす異常事態に遭遇し、その直後に本件疾病を発症し、これが原因となって死亡したというべきである。そして、本件疾病及び死亡の原因となった非外傷性の脳血管疾患について、他に確たる発症因子のあったことはうかがえない。そうすると、同人の有していた基礎疾患が右異常事態によりその自然の経過を超えて急激に悪化して発症したものとみるのが相当であり、その間に相当因果関係を認めることができるというべきである。
3 したがって、その余を判断するまでもなく春雄の本件疾病及び死亡は、業務上の事由により生じたものと認めることができるのであって、これと異なる判断の上に立つ本件各処分は違法といわざるを得ない。
六 結論
よって、原告の本訴請求はいずれも理由があるから認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官赤西芳文 裁判官甲斐野正行 裁判官大山徹)