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神戸地方裁判所 昭和36年(わ)1683号 判決 1962年1月10日

被告人 出口武次

昭一二・五・一〇生 沖仲士

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は、

被告人は、昭和三六年一〇月一五日午後一一時五〇分頃、神戸市生田区北長狭通六丁目四三番地大興運輸株式会社高浜班所属高浜寮内被告人の居室において、山崎光雄(当時二五年)と些細なことから口論の末、いきなり同人より頭髪を引張られ首を絞められたことに憤慨し、同室炊事道具置場にあつた刺身庖丁(刃渡約二三・四糎)で同人の左大腿部内側を突き刺し、左大腿動脈刺切創の傷害を負わし、因つて翌一六日午前零時四五分頃、同市同区加納町六丁目一番地、金沢三宮病院において失血死に至らしめたものである。

というのである。

被告人に、動機の点を除いて右公訴事実記載のような所為があつたことは、被告人も当公判廷において自認するところであり、梶原町江の当公判廷における供述並びに検察官に対する供述調書(第五項を除く)、当裁判所の検証調書及び医師石戸力作成の解剖結果中間報告書を右自供と綜合してこれを認めることができる。

そこで本件における争点である正当防衛の成否について検討する。被告人の当公判廷における供述並びに検察官に対する一一月二日付供述調書二通及び梶原町江の当公判廷における供述並びに検察官に対する供述調書(第五項を除く)を綜合すると、被告人は当日佐藤某と称する友人と酒を飲み、午後一一時半頃前記自宅へ帰つてきたが、悪酔して嘔吐し内妻の梶原町江から介抱されていたところへ、やはり酩酊した同僚の山崎光雄がやつてきて、戸口から「そこにいるのは誰か」ときいたので、被告人が「俺や」と答えると、山崎は更に「俺とは誰か」と執拗にきいてきたところから、被告人は悪酔して気分が悪いことも手伝つて「武次じや、俺がおつたら悪いのか」と答えるや、山崎はいきなり、部屋の上り口に腰掛けていた梶原町江の膝をまたぐようにして、左足で土足のまま部屋の中に敷いてある布団のうえに踏み込み、右膝は上り口のところについた姿勢で、右手で被告人の頭髪をつかんで引張り、左手で被告人の首をのどわに押して部屋の北際にある階段に押しつけていつたこと、被告人は右手で山崎の左手首をおさえ、左手で山崎の背広の襟をもつて突張りながら、「お前、俺になんの恨みがあるのか」といつて山崎の手をふりほどこうとしたけれども、山崎は手をゆるめようとせず力を加えて首をしめつけてきたので、被告人は息苦しくなりこのままだと死ぬかもしれないと思つて、なにかないかと左手で辺りを探つたところ、部屋の東際に、平素炊事道具をいれておく木箱が置いてあつてその中に刃渡約二三・四糎の刺身庖丁(証第一号)の刃を紙で包んで輪ゴムでとめたのを入れてあつたのが手に触れたので、これで足でも突けば相手が手を離すだろうと考えて、これを左手で握るとそのまま左から右へ山崎の足をめがけて突き刺したことが認められる。更に右被告人及び梶原町江の当公判廷における各供述並びに検察官に対する各供述調書(梶原町江の検察官に対する供述調書については、第五項を除く)、当裁判所の検証調書及び司法警察員作成の実況見分調書(図面二枚、写真一七葉添付)を綜合するに、山崎は被告人に比して体格もすぐれ力に勝つていること、被告人は悪酔して気分がすぐれなかつたうえ、山崎の体に押さえられて足の自由を奪われ、のどわで階段に押しつけられて身動きができなかつたこと、傍の梶原町江も山崎に膝のうえに乗られて動きがとれなかつたこと、被告人の居室は間口一・九米(その半分は障子が立つていて入口は約〇・九米)、奥行一・七米という極めて狭いものであつて、三方は板張りで入口は右の如く〇・九米の幅のものが一方にあるのみであるうえその入口は山崎が上りこんでいて塞がれていたこと、及び山崎は酒に酔つていて、被告人が「なんの恨みがあるのか」といつても手をゆるめず却つて被告人の首をしめにきたことなどが認められ、これらの諸点を考えると右山崎の被告人に対する暴行は、被告人の生命身体に対する現在の危険であり被告人の山崎を刺した所為は右危険を排除するために出たものであり、その際被告人に右刺突の所為をなさざるべきことを期待することは酷であつて被告人には右山崎を刺すに至つたことについてなお宥恕すべき事情があつたといわなければならない。

次に右認定のごとく山崎光雄は被告人及び梶原町江の意に反しその承諾を得ないで、ほしいまゝに被告人方居室にひいてある布団のうえに土足のまゝ踏みこみ被告人に対して暴行に及んだものであつて、山崎は、盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律第一条第一項第三号にいわゆる「故ナク人ノ住居ニ侵入シタル者」に該る。しかして被告人の生命身体に対する現在の危険を排除するために山崎を刺した所為は、同時に不法侵入者たる同人を排斥せんとする行為に相当するから同条第一項によつて本件被告人の所為は刑法第三六条第一項の正当防衛行為に該る。

よつて刑事訴訟法第三三六条により無罪の言渡をすべきものであるから主文のとおり判決する。

(裁判官 江上芳雄 菊地博 東条敬)

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