神戸地方裁判所 昭和51年(ワ)281号の2 判決 1988年7月14日
主文
原告らの請求を棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 申立
一 原告ら
1 被告日本赤十字社は
(一) 原告大塚優子及び同林貴幸に対し、各金五七五〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和五一年七月二四日から、内金七五〇万円に対する同六三年七月一五日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。
(二) 原告大塚晴弘、同大塚恵美子、同林暁及び同林幸子に対し、各金五七五万円及び内金五〇〇万円に対する同五一年七月二四日から、内金七五万円に対する同六三年七月一五日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告社会福祉法人聖母会は
(一) 原告竹谷強子に対し、金四〇二五万円及び内金三五〇〇万円に対する同五三年二月三日から、内金五二五万円に対する同六三年七月一五日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。
(二) 原告竹谷正純及び同竹谷トキヨに対し、各金五七五万円及び内金五〇〇万円に対する同五三年二月三日から、内金七五万円に対する同六三年七月一五日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は被告らの負担とする。
4 仮執行の宣言
二 被告ら
主文同旨
第二 主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告大塚優子(以下「優子」という。)は、同大塚晴弘と同大塚恵美子との間の長女として出生し、出生の翌日から被告日本赤十字社(以下「日赤」という。)が設営する神戸赤十字病院(以下「神戸日赤」という。)において保育診療を受けたもの、原告林貴幸(以下「貴幸」という。)は、同林暁と同林幸子との間の長男として出生し、出生当日から同被告の設営する姫路赤十字病院(以下「姫路日赤」という。)において保育診療を受けたものである。
(二) 原告竹谷強子(以下「強子」という。)は、同竹谷正純と同竹谷トキヨとの間の二女として、被告社会福祉法人聖母会(以下「聖母会」という。)の設営する神戸海星病院(以下「海星病院」という。)において出生し、保育診療を受けたものである。
2 右原告三児の視力障害の発生
(一) 原告優子は、昭和四五年八月三日、景山産婦人科医院において、在胎三一週、出生体重一五〇〇グラムの未熟児として出生し、翌四日神戸日赤小児科に転院し、新生児センター療育室の保育器に収容され、同年九月三日まで酸素の投与を受けて看護保育を受け、六一日後の同年一〇月三日に退院したが、同年一二月ころ眼に異常があることに両親が気づき、同四六年六月天理よろづ相談所病院(以下「天理病院」という。)で受診したところ、未熟児網膜症(以下「本症」という。)に罹患し、既に失明していると診断され、同五一年ころまでは右眼がわずかに光を感じていたが、その後全く光覚が無くなった。
(二) 原告強子は、昭和四六年四月一〇日、海星病院において、在胎三一週、出生体重九六〇グラムの未熟児として出生し、直ちに産婦人科内の保育器に収容されて同年五月一四日まで保育器内で酸素投与を受けつつ看護保育され、同年七月二一日、同病院眼科において受けた眼底検査により本症に罹患していることが判明し、同月二三日神戸大学の医師により再度の眼底検査を受けたのち、翌二四日兵庫県立こども病院(以下「こども病院」という。)に転医し、同月下旬同病院眼科医師により神戸大学付属病院で光凝固法の施術を受けたが、結局高度の視力障害を残し、同五九年四月二日の診断では、右眼裸眼視力〇・〇三(嬌正視力〇・〇四)、左眼裸眼視力〇・〇二(嬌正視力〇・〇二)しかないとされている。
(三) 原告貴幸は、昭和四九年一二月一一日、聖マリア病院において、在胎三一週、出生体重一五〇八グラムの未熟児として出生し、同日姫路日赤に転医し、小児科新生児センターの保育器に収容されて、同五〇年一月二三日まで四〇日間以上も酸素の投与を受けつつ保育器内で看護保育を受け、同四九年一二月二七日受けた眼底検査では異常なしとされ、同五〇年二月二一日退院し、同年三月二八日同病院眼科において受けた眼底検査でも本症罹患を否定されたが、勧められて同年四月一六日こども病院眼科で受診したところ、両眼本症瘢痕期Ⅲ度と診断され、現在、同原告の視力は、両眼とも〇・〇六である。
3 診療契約
原告優子、同大塚晴弘及び同大塚恵美子並びに原告貴幸、同林曉及び同林幸子は、被告日赤の設営する前記各病院に転医したとき同被告との間で、また、原告強子、同竹谷正純及び同竹谷トキヨは被告聖母会の設営する海星病院で出生したとき同被告との間で、それぞれ原告優子、同貴幸及び同強子の保育及び診断治療等を内容とする診療契約を締結した。
4 診療契約に基づく被告らの注意義務
本症は、保育器内の酸素投与による網膜血管の病変であることが、昭和三九年ころからつとに知られるようになっていたので、原告優子、同貴幸及び同強子(以下この三名を「原告三児」という。)の保育及び診断治療を担当した被告らないしこれを補助する医師らは、本症の発症を防ぐため、次の義務を負担していた。
(一) 全身管理義務
本症の発症を防止するためには、保育を担当する医師の徹底した全身管理、すなわち未熟児の状態を綿密に把握し、その微妙な変化も注意し、呼吸状態、循環状態、栄養及び体温の状態、眼の状態などにわたって適切な措置をとることが基本的に重要である。
全身管理を徹底して未熟児の全身状態を最善にし、速やかな成長を図れば、酸素の消費量は最低に押えられ、本症の発症は予防され、仮に発症しても自然治癒の可能性が高くなり、また、早期発見及び早期治療のための基礎が与えられる。
(二) 酸素管理義務
本症は酸素の過剰投与に帰因することが明らかであるから、その発症を防ぐには、未熟児の全身状態に応じた厳格な酸素管理が必要である。すなわち未熟児に酸素を投与するのは、呼吸障害やチアノーゼが強く、保育環境を調整しても症状が回復しない場合に限り、しかも投与を必要最少限度のものとすることが肝要で、それには環境酸素濃度を測定しつつ、少なくとも右濃度が四〇パーセントを超えないようにし、未熟児の状態を頻回に観察し、症状が好転したら直ちに酸素投与を中止し、できるだけ短期間の投与に止めるよう心掛けるべきである。
(三) 眼底検査義務
本症の発症の危険を予知し、また、早期に発見して適切な治療を施すため、眼科医の協力を仰ぎ、未熟児の全身状態に応じほぼ生後三週間目に最初の、そしてその後定期的に眼底検査を行わなければならない。
眼底検査は、その結果を全身管理及び酸素療法の参考資料とするためにも重要である。
(四) 本症の診断治療義務
本症の治療法としては、副腎皮質ホルモン等による薬物療法、光凝固法及び冷凍凝固法があるが、とりわけ光凝固法は、昭和四五年までには天理病院眼科部長の永田誠(以下「永田医師」という。)により理論的に完成され、その実施時期及び実施部位の基準が明示されており、その後昭和四九年度厚生省の本症研究班が同五〇年に発表した「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」と題する報告書において、更に本症の活動期及び瘢痕期病変の系統的な分類がされ、かつ、基本的に永田医師の提示した治療基準を追認し右新分類に従って具体的な診断治療基準が明確に示されるに至った。
したがって、未熟児の保育に当たる医師は、これらの基準に従い、本症の早期の診断治療に努める義務がある。
(五) 説明義務
医師は、医師法等により、患者又は保護者に対し療養上必要な事項について適切な注意及び指導をすることを義務づけられている。したがって、未熟児に対し酸素を投与した場合、担当医師は保護者に対し本症発症の危険性、発症の有無及び進行の程度等を説明する義務があり、更に退院の際には、眼底検査の必要性及び本症の治療法についても説明、教示すべきである。
(六) 転医させる義務
未熟児保育を担当する医師は、自らその専門家としての措置がとれない場合には、直ちに他の専門家に転医させ、適切な療養方法をとり、未熟児の生命と身体の安全を図るよう指導する義務がある。
5 被告らの責任
被告らは、前記各診療契約により、原告三児に対し、右4記載の診療行為等を行う注意義務を負担していたところ、被告らの履行補助者として原告三児に対する診療行為に携わった各医師には、次に述べるとおり右注意義務に違反した過失があり、そのため原告三児は失明し、あるいは高度の視力障害を引き起こし、その結果、原告らは後記損害を被ったのであるから、被告らは債務不履行によりこれを賠償する責任がある。
また、原告強子、同竹谷正純及び同竹谷トキヨに関しては、被告聖母会の被用者である各医師らは、原告強子の保育に携わった者として、一般不法行為法上右と同内容の注意義務を負担していたところ、同義務に違反した過失があったため、同原告らが右と同内容の損害を被ったのであるから、同被告は右各医師の使用者として、後記損害を賠償する責任がある。
(一) 原告優子に関する注意義務違反
神戸日赤における原告優子の保育は、未熟児保育の経験の浅い同病院小児科部長吉田澄子(以下「吉田医師」という。)により、次のとおり不適切に行われた。
(1) 全身管理について
原告優子は、入院当初足底部に軽度のチアノーゼが認められ、その後数日間呼吸が不規則となったことがあったものの、入院時から四肢運動は活発で声をあげて泣くなど元気であったところ、
<1> 未熟児は、体温中枢の発達や皮下脂肪の発達が不十分で、体表面積が体重に比し大であるため熱の放散が大きい一方、熱産生が少ないため低体温に傾きやすく、そのため保温は未熟児の保育の中で最も重要な要素の一つとされている。
ところが原告優子は、昭和四五年八月三一日まで生後二九日間の長期にわたり低体温(三六度以下)のまま放置され、吉田医師は保育器内の温度を一度も測定せず、体温を上げるには保育器内に湯たんぽを入れるとか、あるいは身体をガーゼのようなもので覆う等、ごく簡単な措置で熱放散を防ぐことが可能であるのに、そのような努力を全くしなかった。
<2> 原告優子の体重は、入院後一二日経過した八月一五日になって初めて一回目の測定がされ、その時の体重は一一〇五グラムまで低下していたが、その後も体重測定は一週間に一度しか行われず、出生体重への回復が確認されたのが、生後二七日目の八月二九日であった。
このような体重測定のずさんさに加え、原告優子は低体温の点を除いては全身状態も良く、ミルクを吐くこともなかったのであるから、標準的なミルク投与が可能であったのに、標準量よりもはるかに下回った量しか投与されず、これらのことが出生体重への回復を著しく遅らせた原因である。
(2) 酸素管理について
原告優子は、神戸日赤に入院中、呼吸困難あるいは全身チアノーゼの症状を呈したことは一度もないから、酸素投与は全く必要でなかった。
したがって、仮に無酸素性の脳障害や脳出血の発症を予防するため生後暫くの間酸素を投与することが認められるとしても、同原告の場合には長くとも生後一、二週間投与すれば十分で、遅くとも昭和四五年八月一六日には酸素の投与を中止すべきであったのに、吉田医師は、同原告に対し、入院当初の同月四日午前一一時から毎分二リットル(以下「リットル」で示す量は毎分の量を指す。)、同月五日午後四時から一・五リットル、同月一〇日午前一一時から一リットル、同月二〇日午前一〇時から〇・五リットルの流量の酸素を投与し、同年九月三日午後二時二五分まで継続した。
(3) 眼底検査について
吉田医師は、前記のとおり全身状態の良い原告優子に長期間酸素投与を行ったにもかかわらず、酸素濃度四〇パーセント以下を守れば本症発症の危険はないという誤った認識のもとに、その予防に必要な眼底検査を一度も実施せず、同原告から適期に光凝固等の治療を受ける機会を奪った。
(4) 説明について
原告優子が神戸日赤に入院中、同病院医師から、本症罹患の危険等について何らの説明もなく、原告大塚恵美子の問いに対し、吉田医師から早産児の場合目が見えるのが普通より遅れる旨回答されただけであった。
(二) 原告強子に関する注意義務違反
本来、原告強子のような極小未熟児の保育は、通常の新生児の場合に比べ特段の困難を伴うことから画一的な措置になじまず、担当医師が時宜を得た適切な医療行為をまず行い、そのうえで看護婦が医師による具体的な指示監督の下に医師の医療行為を補助し未熟児を看護すべく、また、未熟児の看護に熟練した看護婦が常に一名は看護に当たるよう配置する医療看護体制がとられるべきである。
ところが海星病院産婦人科では、原告強子の保育を担当した医師狐塚重治(以下「狐塚医師」という。)ほか一名の医師しか在籍しておらず、右二名の医師が未熟児を含む新生児の保育以外に産科及び婦人科の外来と入院の患者を一手に引き受けており、一日当たり外来患者を七〇名から八〇名診察し、かつ、常時六〇名から七〇名の入院患者(内新生児三〇名位)の療養看護も行っていた。しかも、狐塚医師以外の医師は短期間に交替していた状況であったため、狐塚医師が右産婦人科担当の診療の多くを担当せざるをえず、一人一人の患者の診察に充てる時間が絶対的に不足していた。
そこで狐塚医師は、未熟児を含む新生児の保育につき、一般的な看護基準を書面化し、これに沿った療養看護を行う旨を担当看護婦らに予め申し渡しておき、未熟児保育上の療養看護の大部分を右看護基準による看護婦の画一的な措置に委ね、診療録(カルテ)、指示簿等医師記録を自らは一切作成せず、看護婦の作成する看護記録にそのすべてを代用させていた。
また、同病院産婦人科所属の看護婦は一五名であったが、産科、婦人科、新生児、未熟児別に各自の担当が区分けされておらず、それらの看護に機械的に配置されていた。
すなわち、海星病院においては、未熟児のためのあるべき看護体制づくりはされておらず、このような医療看護体制のもとで、狐塚医師らは原告強子に対し、次のとおり具体的に診療上の注意義務に違反したものである。
(1) 全身管理について
保温は、抵出生体重児の保育上最も基本的な事項の一つで、腹壁温三六度ないし三六・五度にすると酸素消費量が最も少ないいわゆる中性温度環境にあるものと判断できる。したがって狐塚医師は、極小未熟児である原告強子の全身状態に絶えず注意を払い、その状態の変化に即した保温に心掛ける注意義務を負っていたところ、直腸温により測定された同原告の体温は、昭和四六年五月七日(生後二八日)までは一度も三五度に達したことがなく、三五・五度に初めて達したのは同月九日(生後三〇日)で、同日以降も同年六月一一日(生後六三日)ころまでの間は三五・五度に達しない日が相当多数あり(ことに同年五月一五日から同月二二日までの間は再び三五度を割り込む日が大部分である。)、三六・五度に達したのは同年五月二九日(生後五〇日)が初めてであり、その後も三六・五度に達しない日が頻繁にある。
ところが狐塚医師は、原告強子の右長期間低体温の状態を改善するための処置として、保育器内の温度を三二度に保つことを指示したにすぎず、これ以外の努力を一切していない。
(2) 酸素管理について
昭和四六年四月当時、臨床医は酸素に関し前記厳格な投与上の管理の必要性を既に認識していた。
ところで、同月三〇日までの原告強子は、確かに全身チアノーゼ及び呼吸停止を頻回に起こして全身状態は不良であったが、同年五月一日から同月五日の間は全身チアノーゼどころか末梢性チアノーゼさえも全く発生しておらず、呼吸停止もなく、五月六日以降再び全身チアノーゼあるいは呼吸停止がみられたものの、その回数が少ないうえにすぐ回復しており、五月七日以降体動が激しいなど同原告に体力がついてきたことを示す徴候があり、五月に入ってからは全身チアノーゼ、呼吸停止といっても四月中のものとは質的に異なる軽度なもので、酸素を投与しなくとも自然に回復しうる程度のものとなっていた。
したがって、五月一日以降は原告強子に対し酸素を投与すべき適応はなく、その時点で酸素投与は打ち切るか、少なくとも一時中断して、同原告の様子をみるべきであった。
ところが狐塚医師は、同原告が出生した同四六年四月一〇日から同年五月一四日(生後三五日)までの間、継続して保育器内において酸素を投与し、同原告の全身状態が良好となった五月一日以降投与を打ち切った五月一四日までの間では、三四パーセント(同月三日、四日、九日、一一日、一二日)、三六パーセント(同月一日、五日)、三七パーセント(同月一二日)と不必要に高度な投与を続けた。
(3) 眼底検査について
原告強子が出生した昭和四六年四月当時、すでに光凝固法が存在しており、狐塚医師は、保育器内で同原告に対し長期間酸素を投与したのであるから、本症の発症の危険を予知し、前記のとおり、基本的には生後三週間から一か月の間に最初の眼底検査を行い、その後定期的にこれを実施する義務を負っていた。
ところで、原告強子は、昭和四六年五月一四日ころには時折軽度な全身チアノーゼ、呼吸停止がみられるだけといった程度に体力がついてきており、同月二九日ころには出生体重に戻り、同年六月一日(生後五三日)以降はチアノーゼ及び呼吸停止が発生したことは一切なくなったのであるから、以後全身状態上の理由で眼底検査の実施をためらう要因は全く見当たらないというべきである。わずかに六月一九日に一度だけ軽度の全身チアノーゼが出現したが、呼吸停止等は伴っておらず一過性のごく軽いものであった。
以上のとおり、原告強子の全身状態からみて、同原告に対する眼底検査は同年五月末あるいは同年六月上旬ころまでに実施することができたのに、同原告が海星病院眼科の医師山中昭夫(以下「山中医師」という。)の眼底検査を受けたのは、昭和四六年七月一六日(生後九八日)が初めてであり、しかも散瞳が不十分であったため同月二一日(生後一〇三日)に眼底検査を受け直し、その結果ようやくオーエンス活動期Ⅳ期に入りかけの本症の罹患事実が判明したもので、検査の適期を著しく失したことが明らかである。
なお、産科、小児科、眼科を有する総合病院たる海星病院は、未熟児に対する迅速かつ適切な看護及び治療を行うため、右各科の緊密な協力体制による未熟児の全体的有機的管理を徹底する義務を負っており、その中にあって狐塚医師は、原告強子の出生直後、あるいはそうでなくとも生後三週間ないし一か月ころまでの間に、眼科の山中医師に同原告の診療経過及び全身状態を伝えて同医師と眼底検査の可否及びその実施時期につき協議すべきであった。
ところが、狐塚医師は、右眼底検査をすべきか否か迷っていたにもかかわらず、右協議を怠り、その結果、同原告は時期を失し本症を早期に発見する機会を奪われたものである。
(4) 説明について
狐塚医師は、未熟児診療に豊富な経験を有していたのであるから、原告強子を保育器に入れ酸素療法を開始した際、前記説明義務の履行として、具体的にはできるだけ速やかに保護者である原告竹谷正純、同竹谷トキヨに対し、原告強子が本症に罹患するおそれがあること、これを防止するためには定期的に眼底検査を実施し、不幸にして本症に罹患した場合には、光凝固法の治療が必要なことを説明すべきであったのに、右説明を全く行わなかった。
同原告らが適期に説明を受けていれば、同原告らの判断で転医させる可能性があったものであり、海星病院は同原告らの転医による診療を受ける権利を奪ったものである。
(5) 転医させることについて
昭和四六年四月当時には、すでに神戸市内に存するこども病院において未熟児に対し定期的な眼底検査及び光凝固法が実施されていたところ、狐塚医師は原告強子の出生当時から、眼底検査を受けさせるべきか否かを迷っていたのであり、山中医師も同原告の眼底検査につき自信を持たなかったのであるから、同医師らは、同原告をできるだけ速やかに同病院に転医させて定期的な眼底検査や光凝固法の施術を受けさせるべきであったのに、これを怠ったため、前記のとおり時期を失した。
(三) 原告貴幸に関する注意義務違反
(1) 全身管理について
原告貴幸は、出生時からアップガールスコア(〇から一〇点までの段階があり、八点以上は全身状態が良好とされる。)が八点であったが、姫路日赤で同原告保育の担当医であった松永剛典(以下「松永医師」という。)は、体温の管理等に関し、湯たんぽ、ガーゼなどを使用して保温の努力をしておらず、全身管理につき万全であったとは言えない。
(2) 酸素管理について
前記のとおり、原告貴幸の全身状態は極めて良好で、チアノーゼも生後一〇日の間、口囲四肢末端チアノーゼが現れているのみで、いわゆる中心性チアノーゼは発生しておらず、体重の増加についてもほぼ平均的な増加曲線を示しており、前記基準からみて酸素療法の必要はほとんどなかったのに、漫然酸素を生後四〇日以上も投与しており、そのため同原告を本症にかからせたものであることは明らかである。
(3) 眼底検査及び治療について
松永医師は、昭和四九年一二月原告貴幸を姫路日赤で受け入れるころには本症の治療法として光凝固法があり、また、その発見のため眼底検査が必要なことも認識していたのであるから、当然定期的かつ正確な眼底検査をする措置をとるべきであり、また同病院眼科医師に若干自信がないようであれば頻繁に検査し、早期にこども病院などに転医させるべき義務があったのに、姫路日赤では眼科の医師中山和之(以下「中山医師」という。)が生後一六日に眼底検査を行ったのみで、その後同検査をするのを全く怠り、同原告が退院した後母親の原告林幸子が気になって同五〇年三月二八日中山医師の診断を受けた際及び同年四月九日の受診の際にも同医師は正確な判断ができず、同日同医師がこども病院での検査を原告林幸子に指示しているのに、紹介状のことで事務が遅滞し、こども病院で検査を受けたのは、やっと同月一六日で、既に時期を失していた。
6 損害
(一) 原告三児の慰謝料
原告三児は、本症に罹患したことにより、前記のとおり一生涯全盲者又は高度の視力障害者として生活することを余儀なくされたものであり、これによる精神的苦痛を慰謝するに足りる金員は、原告優子及び同貴幸に関しそれぞれ五〇〇〇万円、同強子に対し三五〇〇万円を下らない。
(二) その余の原告らの慰謝料
その余の原告らは、それぞれ愛児が失明したことにより、その将来を思い筆舌に尽くし難い精神的苦痛を受けたものであり、これに対する慰謝料としては、少なくとも各五〇〇万円が相当である。
(三) 弁護士費用
原告らはその訴訟代理人らに対し、本訴に関する弁護士費用として、各自右慰謝料額の一割五分に相当する金員を支払うことを約した。
7 結論
よって、原告優子、同大塚晴弘、同大塚恵美子、同貴幸、同林曉及び同林幸子は被告日赤に対し、その余の原告らは被告聖母会に対し、債務不履行による損害賠償として(但し、原告強子、同竹谷正純及び同竹谷トキヨは不法行為に基づく損害賠償としても)、原告優子及び同貴幸において各金五七五〇万円及び各内金五〇〇〇万円(慰謝料)に対する訴状送達の日の翌日である同五一年七月二四日から、各内金七五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日である同六三年七月一五日から各完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の、原告強子において金四〇二五万円及びこれに対する内金三五〇〇万円(慰謝料)に対する訴状送達の日の翌日である同五三年二月三日から、内金五二五万円に対する本判決言渡の日の翌日である同六三年七月一五日から各完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の、その余の原告らにおいて各金五七五万円及び内金五〇〇万円(慰謝料)に対する訴状送達の日の翌日である原告竹谷正純及び同竹谷トキヨについては同五三年二月三日から、その余の原告らについては同五一年七月二四日から、各内金七五万円に対する本判決言渡の日の翌日である同六三年七月一五日から各完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1は認める。
2 同2のうち、原告優子が神戸日赤を退院して以後の事実経過は知らないが、その余は認める。
3 同3は認める。
4 同4は争う。
5 同5冒頭の主張は争う。
(一) 同5(一)のうち、吉田医師ほか一名の医師が原告優子の保育を担当したこと、同原告の体温が昭和四五年八月三〇日まで三六度に達しなかったこと、同原告の同月一五日及び同月二九日の体重が原告ら主張どおりであること、チアノーゼ、呼吸状況、酸素投与量が原告ら主張どおりであったことは認めるが、その余は争う。
(二) 同(二)のうち、狐塚医師ほか一名の医師が原告強子の保育を担当したこと、海星病院の産婦人科所属の医師、看護婦の数及び担当が原告ら主張どおりであること、狐塚医師が保育器内の温度を三二度に保つよう指示したこと、原告強子が少なくとも原告ら主張の期間全身チアノーゼ、呼吸停止を起こし、全身状態が極めて悪かったこと、同四六年五月一四日まで酸素の投与を受けたこと、同年五月二九日ころ出生体重に回復したこと、原告強子が原告ら主張どおりの時期に山中医師の眼底検査を受けたことは認めるが、その余は争う。
(三) 同(三)のうち、松永医師が原告貴幸の保育を担当したこと、同原告が生後四〇日以上酸素投与を受けたこと、原告ら主張どおりに中山医師及びこども病院の医師の眼底検査を受けたことは認めるが、その余は争う。
6 請求原因6の(一)(二)は争い、(三)は知らない。
第三 証拠(省略)
理由
一 争いのない事実
請求原因1(当事者)の事実、同2(原告三児の視力障害の発生)のうち原告優子の神戸日赤退院後の事実経過を除くその余の事実及び同3(診療契約)の事実は、当事者間に争いがない。
二 医療従事者の注意義務
医療に従事する者は、その業務の性質に照らし、最善を尽くして患者の生命及び健康を管理する注意義務を負っているが、その注意義務の基準となるべきものは、一般的には診療当時の臨床医学の実践における医療水準(以下単に「医療水準」という。)である。医療従事者がこの義務に違反して患者の生命、身体を害する結果をもたらしたときは、診療契約上の不完全履行ないしは不法行為法上の責任を問われることになるが、当該医療行為が医療水準に照らして相当と認められる限りは、義務違反はなくその責任を負うことはない。
三 本症について
成立に争いのない甲第五号証、第一八ないし第二〇号証、第二五ないし第二八号証、第三一、三二号証、第三八、三九号証、第五二号証、第八三、八四号証、第九七号証、第一〇三号証、第一五〇、一五一号証、第一五二号証の一ないし三、第一五六号証、第一六三ないし第一六八号証、第一八一、一八二号証、乙第二、三号証、第三一、三二号証、第三四号証、第三八号証、第四六号証、第六八号証、第七〇ないし第七二号証、第七五号証、第七九号証、第八二、八三号証、第一〇〇号証、第一〇二号証、第一〇五号証、第一一九号証、第一三三号証、第一四〇、一四一号証、第一四八号証、第一五三号証、第一六三号証、第一七三号証、第一九〇ないし第一九三号証、第二二六号証、第二四一号証、第二四五、二四六号証、第二四八号証、第二五〇号証、原本の存在と成立に争いのない乙第一八三号証の一ないし三、第一八六号証、第一八八号証、第一九四号証、第二〇五号証の一、二、証人小川次郎、同大島健司の各証言及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。
1 本症の発生要因とその機序
本症は、発達途上の未熟な網膜に起こる非炎症性の血管病変で、網膜血管の増殖性変化をその本態とするものであり、最悪の場合には、高度の視力障害あるいは失明を引き起こすが、自然に治癒する例が多い。
本症の発生要因については、未だ十分に解明されておらず、特に在胎三二週未満、出生体重一六〇〇グラム以下の未熟児に多く発症し、その重症例は反復性無呼吸発作等に対して酸素療法が行われた例に最も多いことからして、患児の未熟性を基盤とし、酸素投与が引き金となって本症が発症することがあることは否定できないものとされている。
本症の発症機序についても未だ不明の点が多いが、酸素投与との関連で発症する機序は、次のようなものと考えられている。
未熟な網膜血管は動脈血酸素分圧の変動に極めて敏感で、その上昇により容易に強い収縮ないし閉塞を起こす。これを起こした動脈の流域は血流が減少ないし停止して低酸素状態となり、代謝障害を起こし、これを克服する生体反応として網膜静脈の怒張及び血管新生が出現する。この新生血管は透過性が強く、血しょう成分の漏出、滲出を起こし、また網膜内だけにとどまらず硝子体内へも増殖し、ついには瘢痕収縮を生じて網膜に破壊的変化を起こすに至る。
2 本症の臨床経過
本症の臨床経過は極めて多様であるが、わが国では、従来オーエンスが昭和三〇年までに確立した分類法(本症の臨床経過を活動期〔Ⅰ期ないしⅤ期〕、寛解期及び瘢痕期〔Ⅰ度ないしⅤ度〕の三期に分ける。)に準拠して研究や診断が行われてきた。しかし、昭和五〇年三月に厚生省特別研究費補助金による昭和四九年度研究班が、本症の活動期をⅠ型(その臨床経過を一期ないし四期に分類)とⅡ型に大別し、両者の混合型もあるとし、瘢痕期を一度から四度に分ける分類法(その後同五七年度研究班によりⅠ型の臨床経過が一期から五期までに修正され、混合型が中間型と改称された。)を発表してからは、この分類に従って研究及び診断がされている。
3 本症の予防と治療に関する歴史的展開
本症は、昭和一七年アメリカにおいて最初の症例が報告され、当時は先天性異常によるものと考えられたが、やがて、幼児の眼の組織病理学的検査と動物実験を通じ、本症の発症には高濃度の酸素投与が関わっていることが明らかにされ、さらに、網膜血管の未熟性との関連も注目され、オーエンスらによって前記臨床分類が発表され、また、同三一年には広汎な未熟児調査の結果に基づき、酸素はできるだけ低濃度で、最低必要量を最低必要時間投与するに止めるべき旨の勧告が出されるなどの経過を経て、酸素投与量の制限と未熟児眼の厳重な管理によって本症の発生は激減した。
ところが同三五年になって、酸素投与を制限して以来未熟児の死亡率が上昇していることが明らかとなり、酸素濃度の制限に対し反省がされ、低出生体重児の酸素療法に重大な変化がみられるようになり、同四二年ころには呼吸窮迫症候群を示す未熟児に対してはむしろ積極的に高濃度酸素療法を行うべきだとされるに至った。
わが国においては、欧米諸国と比べて保育設備が貧弱で酸素を使用することも少なかったため、本症の発生は少なかったが、昭和三九年慶応大学医学部講師植村恭夫が、眼科医の立場から、本症は過去の疾患ではないとして、その予防、早期発見及び早期治療の必要性を指摘し、特に眼科、小児科及び産科の協力のもと、本症発生の頻度の多い生後三週間までとその後半年に一回くらいの眼底検査をするのが望ましい旨強調した。
そして、昭和四三年ころ当時、本症は高濃度酸素の投与が原因とされるほか、酸素療法の急激な中断も重要な原因と考えられ、また、酸素療法と無関係に本症が出現する症例も報告され、治療法としては、酸素の供給を適切に管理すること以外に、副腎皮質ホルモン等の薬剤の使用も効力があるとされたが、その後この薬物療法の有効性は否定され、本症については有効な治療法を見出すことは困難とされていた。
昭和四三年ころの産科、小児科の領域では、未熟児の肺機能の未発達に起因して酸素の摂取不良から生ずる無酸素性脳障害や脳出血を防ぐため、出生後暫くは常例的に酸素を供給すべきことが有力に唱えられ、その際、本症の予防のため、酸素濃度は四〇パーセント程度にとどめることとされ、四〇パーセント以上の酸素の投与は過剰であるが、三〇パーセント以下では本症の発症の危険性はないとの風潮があり、右投与を停止する際には、数日間にわたって徐々に減量することが推奨されていた。
昭和四四年から四五年にかけて、酸素濃度四〇パーセントというのは決して安全圏ではないとする警告も見受けられるようになった。
そして同四六年ころから、本症は環境酸素濃度よりも、未熱児の動脈血酸素分圧と相関することが指摘され、本症の予防のためには保育器内の酸素濃度を指標として酸素管理をしても意味がなく、むしろ未熟児の動脈血酸素分圧を測定し、これと関連させて酸素を管理すべきであるとの意見が出され、一部の医療機関で未熟児から採血してその値を測定し始めたが、この方法は児に対する侵襲が極めて大きく、しかも検査回数に限度があったため、昭和四〇年代にはその目的を十分に果たすことができなかった。
昭和四三年に天理病院の永田医師が本症二例に対し光凝固術を施行して病勢の進行を停止させえたことを報告し、その治療の可能性を示して注目され、同四五年五月、さらに四例の光凝固施行結果を発表した。
その後昭和四〇年代の終りにかけて、光凝固法は、各地の先駆的研究者によって追試が行われ始め、同法が本症の進行を阻止する効果があるとの報告が相次いだが、その過程で、本症は自然治癒するものが多い反面、急激に症状が悪化する症例があることが明らかとなり、光凝固の適応と手術の適期の判断が難しいこと及び光凝固によって後極部に一見障害を残さずに治癒させた症例の実際の視機能に関しては、将来の課題であることが指摘された。
なお、同四七年には、東北大学医学部の山下由美子が、本症に対し光凝固と同様の作用機序を持つ冷凍凝固法の施行を行った旨の発表をした。
同四七年ころには、本症について、その大部分は酸素によって引き起こされるが、他の種々の原因によっても起こりえ、乳児の網膜血管の未熟性が関係していること、本症の発症率は約一〇パーセントで、自然治癒例が七〇パーセント内外あること、本症の原発性変化は検眼鏡的には確実に診断できないので、検眼鏡的な監視は酸素療法の安全基準とはならないこと、本症の臨床経過は、個々の症例により著しく相違があり、オーエンスの分類ではとらえきれない実状にあり、臨床経過が緩徐であるもののほか、少数だが発症から網膜剥離まで急激に症状が進行するものがあることが明らかにされ、また、治療法としての光凝固及び冷凍凝固については、自然治癒が高率にあることと臨床経過が多様であることにより、右施術の適応をめぐって論議が出され、これらの方法が病理組織学的にみて網膜組織に障害を与えるため、同治療法の適応、適期、凝固部位、乳児網膜に与える影響等についてはなお研究段階にあること等が指摘された。
その後、わが国の先駆的医療機関において、前記研究課題の解明、克服のための努力が続けられたが、治験例を積重ねるに従い、その臨床経過の驚くべき多様性が明らかになり、従来の分類法が見直され、新分類法が発表されて論議を呼び、それに伴い、光凝固法の適期の点についても、手術による網膜損傷の程度が少なくてすむことを理由とする早期の施行論や、自然寛解を見極めることを重視する慎重論など、さまざまな提案が行われ、また、発症から急速に症状が進行して網膜剥離に至る症例に対する光凝固法の無力が報告されたりした。
ところで、未熟児の眼底検査については、眼科医なら誰でも可能というものではなく、まして本症を的確に診断できるようになるためには、適当な指導者につき相当期間未熟児の眼底を観察するなどして修練と経験を積む必要があるところ、昭和四九年に至っても、本症を正しく診断できる眼科の専門医が少ないこと、同専門医を教育する施設、システムも、治療に必要な器具、機材も乏しいことが強調されるとともに、一般に本症に対する知識、関心が低く、産科医は特にその傾向が甚しいことが指摘されていた。
右に述べてきたように、本症の臨床経過に関する新しい知見が得られ、また、光凝固法及び冷凍凝固法の本症への応用は、治療面に新しい局面を開いたが、その結果、各研究者の間で本症の病態、臨床経過のとらえ方及び治療時期等に関してかなり区々の報告がされるきらいがあったので、同四九年に診断及び治療に関する統一的基準を定めることを主たる目的として、植村恭夫医師を主任とする本症の指導的研究者らにより、厚生省の研究費補助金による特別研究班が組織され、同五〇年三月にその成果が発表された。
その内容の主たる特徴は、臨床経過に関し、当時における研究成果を整理し、最大公約数的な診断基準を作成したもので、あくまでも右の時点での診断基準であり、将来修正する余地の残ったものであると断ったうえで、活動期を比較的緩徐な経過をとるⅠ型と、初発症状から急速に網膜剥離に進むⅡ型に大別し、そのほかに両者の混合型もあるとしたうえ、瘢痕期を瘢痕の程度と視覚障害の程度に基づき分類したこと、治療基準に関しては、本症の治療には未解決な問題がなお多く残されているが、光凝固、冷凍凝固が本症の治療法として有効であることが経験上認められることをふまえ、その一応の治療基準を示すとしながら、Ⅰ型については、三期に入って、しかも更に進行の徴候があることを見極めたうえで凝固治療をすべきこと、Ⅱ型については、時期を失しないよう眼底検査をできるだけ早期に行い、血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の紆曲怒張が増殖する徴候が見えたら直ちに行うことを提言し、凝固すべき部位、態様について大まかに触れ、さらに、Ⅰ型についての光凝固治療例の視力予後等に問題が残っており、Ⅱ型については、治療適期の判定、治療方法等に検討の余地があると付記していること、混合型についても明確な治療基準が示されていないことなどである。
そして、昭和五〇年以降Ⅱ型の初期臨床像に対する研究成果や、片眼凝固のいわゆる比較対照試験(コントロールスタディ)をした例(但し、光凝固の効果を確認するに至らなかった。)、統計的処理に基づく本症発生要因の究明の結果本症が網膜の未熟性を基本的原因とし、酸素の投与等その他のものは、単一因子としては本症の発生、進行に有意な影響はないとする研究などが発表され、また、前記厚生省研究班の報告につき同五七年度の研究班においてⅡ型の臨床経過がより明確にされるなど本症克服の努力が続けられたが、本症の発生機序は現在も十分には解明されていない。そして、未熟児の全身管理法の進歩によりⅠ型重症化に対する予防及び治療には一応の見通しが立つようになったものの、Ⅱ型への有効な治療法は、その症例が減少してきたこともあって今なお模索の段階にある。光凝固法については、その作用機序及び有効性の証明がなく、Ⅱ型治療にも限界を示したままであり、また、前記長期予後に対する懸念が解消されていない反面、従前の治験例は本来自然治癒したもので、凝固の必要はなかったのではないかとの疑問も出されるなどして、ただこれ以外には治療法はないところから、緊急避難的にのみ使用されるべきだとされる方向にある。
なお、欧米においては、新生児集中管理施設の完備により、本症は予防すべきもので治療すべきものでないという考え方が根強く、光凝固法及び冷凍凝固法は、一部の研究者により実験的研究がされている段階で、未だ確立した治療法として認知されていない。
四 未熟児の保育について
成立に争いのない甲第四号証、第一三四、一三五号証、第一三九号証、第一四三号証、第一六二号証、第一六七号証、乙第六〇ないし第六二号証、第六五号証、第一一三号証、第一四〇号証、第一四二号証、第一四八号証、第一五七号証、第二一九号証、第二二〇号証、原本の存在と成立に争いのない乙第二一四号証の一ないし五及び証人小川次郎の証言を総合すれば、昭和四五年ころから同四九年ころまでのわが国の未熟児保育の医療水準について次の事実を認めることができる。
1 未熟児の位置づけ
未熟児、特に出生体重一五〇〇グラム以下の極小未熟児は、身体各部の機能が満期出産児に比して極端に未熟であり、特発性呼吸窮迫や無呼吸発作の症状を起こしやすく、そのため酸素欠乏による脳性麻痺などの脳障害を生じやすいうえに死亡率が高いから、未熟児としての出生自体を重症患者としてとらえ、救命を第一義とすべきである。
2 保育の原則
未熟児に加える検温、沐浴、おしめ交換等の処置操作は、児の疲労、体温の喪失及び障害の発生等を防ぐため、必要最小限に止めるべきである。
3 保温と保湿
未熟児の体温は概ね三六度に保持するのが理想的であり、これに近づけるために児の体重に応じて、保育器内の温度を三〇ないし三四度、湿度を六〇ないし七〇パーセントにするが、これは大体の目安であって、個別的には児の状態に応じ医師の臨床的判断によって決定する。なお、出生体重一五〇〇グラム以下の児は初期の体温が三六度に達しないことがしばしばあるが、環境温度を上げすぎることはよくない。
もっとも、昭和四七年ころから、より高温で保育することが望ましい旨の見解が出されてきたが、現実に一部の病院で高温度下の保育を実施するようになったのは、昭和五〇年代に入ってからである。
4 栄養
未熟児にとっては過剰栄養の方が栄養不足より危険性が高いから、特に低出生体重児に対しては、比較的長期にわたる飢餓期間(一〇〇〇グラム以下は三ないし四日、一五〇〇グラム以下は二ないし三日)を置いて授乳を開始し、その後の増量も慎重に徐々に行うことが原則である。概ね、一〇〇〇グラム以下の児に対しては、初回量二cc、翌日四cc、一五〇〇グラム以下の児に対しては初回量三cc、翌日六cc(いずれも一回の量、授乳回数は一日八回)、その後徐々に増量する等、一応の目安が示されているが、これも児の状態に応じて医師の裁量で増減する。
5 酸素の投与
脳障害、頭蓋内出血等を予防するために、チアノーゼや呼吸困難を示す児に対しては酸素を投与するが、本症の発症を防ぐためその濃度は四〇パーセントを超えないようにする(但し、右の症状が改善されないときは、四〇パーセントを超える高濃度の酸素を投与してもよい。)。投与を中止するときは濃度を徐々に下げるようにする。また、チアノーゼ等の症状が認められなくても、未熟児は酸素の摂取が不良であるから、常例的に酸素を投与することもある。この場合濃度は三〇パーセント以下に止め、投与期間はなるべく短い方がよい。この期間については確立した基準はなく、児の状態に応じ医師の臨床的判断によって決定する。
なお、明らかな呼吸障害や強度のチアノーゼを示すとき以外は酸素を投与すべきではない旨の見解も発表されてはいたが、この見解は昭和四〇年代には少数説であった。
五 被告らの責任
1 原告優子関係
(一) 原告優子の失明に至るまでの経緯
成立に争いのない戊C第一号証、証人吉田澄子の証言によって成立を認める戊C第二号証、同証人の証言、原告大塚恵美子本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。
(1) 原告優子は、昭和四五年八月三日景山産婦人科医院において、在胎三一週、体重一五〇〇グラムの未熟児として出生し、翌四日午前一一時神戸日赤に転医した。
神戸日赤での担当医は吉田医師ほか一名であった。同医師は、昭和三九年四月三〇日医師免許を取得し、同四五年四月一五日神戸日赤の小児科部長に就任したものであり、それまでに未熟児の保育については、神戸大学医学部助手として同大学付属病院で一か月の間、四、五〇例の未熟児を主治医として担当したことがあった。
同医師は、出生体重二〇〇〇グラム以下の未熟児は保育器に収容し、救命を第一義として、酸素を常例的に投与し、本症罹患を防ぐため、体温及び呼吸等を観察しながら、全身の状況に応じできるだけ早くこれを中止するという方針を持っていた。そして、本症は網膜の発育未熟のために起こり、特に高度の酸素を投与した場合に網膜の血管が収縮して生ずるもので、酸素濃度は四〇パーセント以上に上げてはならず、三〇パーセント以下なら酸素投与が本症発症の引き金にはならないという認識を持っていたが、治療法としての光凝固法の存在は知らなかった。
(2) 原告優子の入院時所見は、体温三三・一度、呼吸数毎分四五、足底部に軽度のチアノーゼがあり、褐色物の嘔吐があった。入院後直ちに保育器(アトムⅤ五五)に収容し、温度三〇度、湿度九〇パーセントに保ち、酸素二リットルの投与を開始した。
(3) 原告優子は、その翌五日足底部に、同年八月八日に左下肢に各軽度のチアノーゼが生じ、呼吸数は、同月四日から同月七日まで毎分四〇から五〇の間を上下し、以後同月一三日まで毎分四〇前後となったが、このころまで不規則呼吸があり、同月一四日から同年九月一日まで毎分三五から四〇の間をほぼ安定的に推移し、同月一日から同月三日まで毎分四〇と五〇の間を不規則に上下した。
以上のような状況下で、八月五日以後、次のとおり酸素が投与された。
八月五日午後四時 一・五リットル
無呼吸等大きな呼吸障害を示さなかったので一・五リットルに減量
八月一〇日午後一一時 一リットル
呼吸数が安定してきたので一リットルに減量
八月二〇日午前一〇時 〇・五リットル
体重も上向きになり、呼吸数も安定を保っているので〇・五リットルに減量
九月三日午後二時二五分 酸素投与中止
体重が出生時を超え、体温も三六度を超えて救命の見込みが立ったので中止
当時神戸日赤の保育器には、酸素濃度計はなかったが、保育器についている換算表によると、環境酸素濃度は三〇パーセントを超えることはなかったものと判断される。
なお、九月三日以後の呼吸数は、毎分三五ないし五〇の間をやや不規則に上下し、九月一〇日保育器から出した後九月一五日までの間には毎分五〇に達したこともあったが、同日以後大体毎分四〇前後で安定した。
(4) 体温は、同年八月二〇日までは、同月一〇日と同月一二日に三五・四度に上昇したほかは三三・一度から三四・八度の間で推移し、八月二一日から三五・二度に達し、翌二二日は三四・八度に下ったものの、翌二三日以後は三五度と三六度の間を上下し、八月三一日三六・二度に達し、それ以降は保育器から出した直後の九月一三日に一時三五度台となったが、それ以外は三六度以上を保った。
吉田医師は、原告優子の体温からみて、環境温度は三〇度が適当と考え、保育器の温度を三〇度、湿度を九〇パーセントにする以外に、体温を上げるための特別の措置をとらなかった。
(5) 体重は、同年八月一五日一一〇五グラム、同月一九日一四〇〇グラム、同月二三日一四五〇グラム、生後二六日目の同月二九日に一五八〇グラムとなって初めて出生時を上回り、出生体重一五〇〇グラムの未熟児が元の体重を回復するのに通常要する期間(二週間)に比べると約一〇日程遅れているが、以後増加を続け、同年一〇月三日退院時には二八〇〇グラムであった。
吉田医師は、同年八月二九日までの間に原告優子の体重を測定したのは右記載のとおりの時点だけであるが、これを頻回に測定しなかったのは、未熟児に対する保育は最少の操作をすべきで、児に触れて余分なストレスを与えないのが良いし、感染の防止にもなるという考えに基づくものであった。
栄養は、体重二〇〇〇グラムを超えないと哺乳運動及び嚥下運動がないところから鼻腔に挿入したカテーテルから強制的に補給することとし、二日間飢餓期間をおいて、同年八月六日に二回に分けて五パーセントのブドウ糖液計四ccを与え、翌七日からミルクの補給を開始し、以後生後一八日目に体重一キログラム当たり一〇〇cc、二四日目から同一五〇ccの割合で増量した。
(6) 神戸日赤には眼科はなかったし、当時一般に産科医又は小児科医が眼科医と提携して未熟児の眼底検査を実施する態勢はとられていなかったので、原告優子は退院まで眼底検査を受けることはなかった。
(7) 吉田医師は、原告優子に酸素を投与したものの、その濃度の点からして酸素が原因となって本症が発症することはないと考えていたので、同原告の両親である原告大塚晴弘及び同大塚恵美子に対して、本症の危険性について何ら説明をしなかった。
(8) 原告優子の両親は、原告優子の退院後の同四五年一二月初めころ、同原告の眼が透き通って見えることに気づき、近くの眼科医二か所で受診したが確定的な診断を得られず、同四六年六月天理病院において初めて、本症に罹患し既に失明していると診断された。同原告は同五一年ころまでは左眼にわずかに光覚を残していたが、現在はそれも全く無くなった。
(二) 被告日赤の責任
(1) 全身管理及び酸素管理上の義務違反について
吉田医師が、入院当時体温三三・一度の原告優子を温度三〇度、湿度九〇パーセントの保育器に収容し、それ以外に体温を上げる措置をとらなかったこと、また、同原告の出生体重及び在胎週数を考慮し、酸素を三〇パーセント以下に抑えて投与し、その後前記認定の同原告の状態に応じて酸素を減量しながら九月三日まで酸素投与を継続したこと、同原告の体重を八月二九日までに四回しか測定しなかったこと、同原告の状態に応じ前記認定の食餌量を決定したことは、前記四の未熟児保育の医療水準に照らして不相当ではなく、同医師に義務違反があるとはいえない。
(2) 眼底検査の義務違反について
未熟児に対する眼底検査が本症発症の予防の役割を果たしえないことは前記三3で認定したとおりであるから、結局眼底検査は本症の有効な治療方法と結びついてのみその存在意義を有するものというべきところ、前記三3で認定したとおり昭和四五年当時においては光凝固法は先駆的研究者により追試が行われている段階で、有効な治療方法として確立されておらず、他に有効な治療方法もなかったのであるから、吉田医師が原告優子の入院中その眼底検査を実施しなかったからといって、これを義務違反とすることはできない。
(3) 説明義務違反について
医師は自己の専門分野以外の疾患の発症を予見できるときは、専門医に転医させるか、又はそれが実現できないときは患者ないしその家族に説明して専門医による診療を受ける機会を与える義務があるが、これらの義務は予見される疾患の発症、拡大を防止するためのものであるから、その疾患に対する治療法が当該専門分野において有効な治療方法として確立していることが要件とされる。
本症については、原告優子の出生当時未だ有効な治療法が確立していなかったことは前記のとおりであるから、吉田医師には本症の発症の危険性等について説明義務はないものというべきである。
2 原告強子関係
(一) 原告強子の視力障害に至るまでの経緯
成立に争いのない庚G第一ないし第三号証、第七号証、甲G第五号証、原告強子の生後二週間目及び同四二日目の写真であることに争いのない庚G第八号証の一、二、弁論の全趣旨によって成立を認める甲G第一、二号証、証人狐塚重治、同山中昭夫の各証言、原告竹谷トキヨ、同竹谷正純各本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。
(1) 原告強子は、昭和四六年四月一〇日午後一〇時四六分海星病院産婦人科において在胎三一週、体重九六〇グラムのいわゆる超未熟児として出生した。出生直後は余り呼吸せず、皮膚の刺激により不規則呼吸を開始したので、体重を測定しただけで同日午後一〇時五〇分保育器に収容し、その温度三一度(但し、同月一二日から三二度)、湿度六〇パーセント位として、毎分三リットルの酸素投与(濃度四〇パーセント程度)を開始した。
保育に携わったのは狐塚医師で、同医師は原告強子のように体重九〇〇グラム台の超未熟児の保育を担当するのは初めてであったので、その救命に全力を注いだ。
海星病院産婦人科には、狐塚医師のほか一名の医師と一五名の看護婦が所属していたが、外来及び入院患者も多く、極めて多忙であったので、狐塚医師は未熟児を含む新生児の保育について一般的な看護基準を定め、看護婦は医師の特別な指示がない限り、同基準に従って看護する体制をとり、一日三交替制で、未熟児を担当する看護婦はその勤務時間中は未熟児の看護のみに専念していた。
(2) 原告強子の保育器収容直後の所見は、体動はあったが、強く呻吟し、脈拍一四〇、呼吸数一分間五二で、口周にチアノーゼを認めた。
同年四月一一日午前一時、全身の皮膚の色はやや良好となったが、啼泣と呻吟があり、午前四時には脈拍一二三、呼吸数毎分六〇になったので酸素の濃度を四三パーセントに上げ、経過を観察した後、午後七時酸素の濃度を三七パーセントに落した。
その後も、同原告は未熟性が強く、しばしば全身にチアノーゼが発生し、シーソー型呼吸、鼻翼呼吸、陥没呼吸を繰り返し、呼吸停止も起こしたので、その状況を観察しながら、次のとおり酸素の投与を続行した。
四月一一日午前九時 三リットル
シーソー型呼吸があったので三リットルを続ける。
四月一二日午前八時三〇分 二・五リットル
一般全身状態改善の兆しがあったので減量
同日午前一〇時 二リットル
全身チアノーゼ、呼吸停止は残ったが、良化の傾向にあったので減量して経過をみる。
四月一五日午前四時五分 三リットル
呼吸停止し、全身に強度のチアノーゼが現われ、回復しなかったので増量
同日午後三時 二リットル
チアノーゼが消え、呼吸状態が落ち着いてきたので減量
四月一六日午前四時 三リットル
呼吸停止を繰り返し、全身チアノーゼが発生したので増量
同日午前七時 二リットル
体色良好になったので減量
四月一八日午前一時 三リットル
全身にチアノーゼが生じ、四〇分間にわたって呼吸停止を継続し、時々呼吸をするという状態になったので増量
同日午前八時 二リットル
同日午前一〇時 二・五リットル
四月一九日午後四時三〇分 二リットル
四月二二日午後九時三五分 五リットル
無呼吸、全身チアノーゼを示したので、蘇生器を使用し、かつ、酸素を増量
四月二三日午前一時 三リットル
同日午前四時 二リットル
酸素濃度が四〇パーセントに達したので減量
同日午前八時三〇分 三リットル
呼吸停止があり、全身チアノーゼが生じたので増量
同日午後一時 二リットル
四月二四日午後八時 二・五リットル
呼吸停止あり、チアノーゼが生じ、なかなか回復しないので増量
四月二五日午前七時 二リットル
呼吸停止してもすぐ自発呼吸するようになったので減量
四月二六日午前零時 三リットル
呼吸停止と強度の全身チアノーゼが生じたので増量
同日午前二時 二リットル
五月八日午後一二時三〇分 三リットル
全身に強度のチアノーゼが生じたので増量
同日午後一時一〇分 二リットル
全身状態が回復したので減量
五月一三日午前九時 一リットル
チアノーゼを示してもその状態が軽くなってきたので試験的に減量
五月一四日午前九時一〇分 酸素投与中止
狐塚医師は、酸素の投与が本症の発生の引き金になることを知っており、酸素の投与は強度のチアノーゼや無呼吸などの緊急事態には、四〇パーセント前後の濃度にするのもやむをえないが、できるだけ三〇パーセント以下に抑えるという一般的基準を念頭におき、具体的には、未熟児の全身状態に応じ、不規則呼吸や努力呼吸、全身チアノーゼの有無を主たる判断の材料にして、呼吸困難の徴候が生じない程度に濃度を低く抑えるよう努め、また、投与を停止する場合には、数日間にわたって環境濃度を徐々に低下させなければならないという認識をもっていた。
ところで、実際には、前記酸素投与期間中、保育器内の酸素濃度は一日三回(但し、必要があればその都度)測定する体制がとられていたが、その数値は二六パーセントから四三パーセントの間で変動があり、概ね三〇パーセントないし三四パーセントの間を示していた。
原告強子は、同年四月二六日に呼吸停止、全身チアノーゼの症状を呈して以後、その全身状態は従前と比べて相当に改善されたが、前記のとおり同年五月一三日午前九時まで二リットルの酸素投与が継続された(酸素濃度は三三、四パーセント前後)のは、同原告がなお時々呼吸を止めたり、体動により体位が変ると全身チアノーゼを起こしたりし、五月一日から五日までは異常所見はなかったが、同月六日からまた酸素投与を中止するまで、同月一一日を除き呼吸停止ないし全身チアノーゼを起こしており、右体調が安定した時期もその継続に確信が持てなかったからであった。
そして、原告強子の全身状態が次第に改善され、全身チアノーゼも刺激等により短時間で回復する状態になってきたので、狐塚医師は、五月一三日試みに酸素投与を一リットルに減量して観察したところ、特に異常がなかったので、同月一四日午後九時一〇分までそのままの濃度を維持したうえで、酸素投与を中止したものである。
(3) 原告強子の体温は、出生直後は前記のとおり全身状態が悪かったので、刺激を避け測定しなかったが、同年四月一二日に直腸温で三四・八度を示し、以後同様の方法で測り、四月一六日三三・六度となり、四月二一日三四・八度になって以後同年五月二日まで三五度以上を示すことはなかったが、五月七日三五度に達し、同月一一日まで三五度台を保ち、五月一二日に三四・六度になり、五月一五日には三五度に回復し、五月二〇日まで三四・六度ないし三五度の間で推移し、同日から五月二二日までは三五・六度と三四・四度の間を極端に上下し、同日午後以降は五月二七日午前まで三五・三度から三六度を示し、同日午後一旦三四・八度になったが翌二八日には三五・四度となり、以後同年六月七日まで概ね三五度から三六・五度の間を上下し、六月八日以降は同月二二日までほぼ三六度を中心に上下し、この間六月一四日初めて三七度に達し、六月一七、八日にも三七度を示し、六月二三日から同年七月六日まではほぼ三六度と三七度の間を上下し(同年六月二六日と七月三日に三七・四度を示す。)、七月六日以後は一時的に三六度を示すこともあったが、概ね三七度前後の体温を維持するようになった。
狐塚医師は、原告強子の体温を三七度に近づけるための努力として、保育器内の温度を三一度から三二度に保つ措置をとったが、それ以外の方策は特にとらなかった。
(4) 原告強子の体重は、前記のとおり出生時九六〇グラムで、昭和四六年四月一四日七九〇グラム、同月三〇日七二〇グラムとなり、以後徐々に増量して、出生体重に回復したのが生後約五〇日後の同年五月末であり、通常は生後約一七日で回復するのに比べると大幅に遅れた。
出生直後から同年四月一四日までの間及び同日から同月末ころまでの間ひんぱんに体重を測定しなかったのは、原告強子の全身状態が悪く、できるだけ刺激を避けるためであった。
栄養補給については、原告強子の場合、生後七二時間後に鼻腔から胃へカテーテルを挿入し、呼吸への影響を観察しながら、五パーセントのぶどう糖液を四月一三日午後六時三〇分〇・五cc、同日午後一〇時一ccを注入したが、その直後にチアノーゼと呼吸停止を引き起こした。その後同月一四日午前一時から三時間毎に同液一ccを注入し、同日午前一〇時からミルクとし、同日午後四時二ccを与え、四月一五日午前一〇時にはミルクを三cc、ぶどう糖液を〇・五cc与えるというふうに順次増量したが、同日午前一一時脱水症状を呈したため、五パーセントのぶどう糖液四ccを皮下に注射し、同日午後三時ミルク二ccとぶどう糖液一ccを与え、注入間隔を二時間おきとし、全身状態をみて適宜増減し、注入間隔も変えたりしたが、原則として時間はほぼ二時間おきとし、量も全体としては増大させていった。右のような強制栄養補給の状態は相当長期間続き、経口哺乳を開始したのは、六月二三日であった。
そのほか、原告強子に対しては同年四月一七日から約一〇日間脱水状態を防ぐため、臍部の静脈から点滴により輸液(水分)を一日に一〇〇cc補給する方法をとって体力の回復を図った。
(5) 狐塚医師が原告強子の両親である原告竹谷正純及び同竹谷トキヨに対し、原告強子の全身状態について説明したのは、同原告が出生体重の極めて低い超未熟児であり、救命のためできるだけのことをするといった程度のことで、本症発生の危険については説明をしなかった。
(6) 原告強子に対しては酸素を長期間投与したこともあって、狐塚医師も眼科受診の必要性を感じてはいたが、他面当時同医師は本症の治療法としての光凝固法の存在を知らず、むしろ、本症には有効な治療法はないと観念していたので、児の生命の危険をおかしてまで眼底検査をする必要性はないという気持もあって、同検査を受けさせる時期については、前記のとおり原告強子の全身状態が長期間極めて悪く、同年五月一四日に酸素投与を止めた後もチアノーゼ、呼吸停止を時々起こし、体重も同月末に出生体重に回復したもののその回復は極めて遅く、しかもなお一〇〇〇グラム程度しかなく、その後もわずかの刺激ですぐチアノーゼを起こし、同年七月四日まで保育器内での保育を必要とする有様であったので、無用な刺激によるショックを与えて生命を危険にさらすことのないよう慎重を期し、保育器から出して普通の環境で生活できるようになった同月一六日になって初めて、海星病院眼科に週一回出勤してくる山中医師に受診させた。ところが、その日は原告強子の散瞳措置をしていなかったため右検査ができず(同医師も本症の発生経過に関する知識が余りなく、緊急性を感じていなかった。)、同月二一日再度同医師が検査したところ、本症罹患の疑いが濃く、念のため更に同月二三日神戸大学の諫山助教授の診断を受けさせたところ、オーエンス活動期四期に入りかけていることが判明した。そこで、同月二四日右治療のため、同助教授の紹介するこども病院に転医させた。
(7) 原告強子はその後同月下旬こども病院眼科医師により、神戸大学付属病院内で光凝固を受けたが、高度の視力障害を残し、現在の視力は右眼〇・〇三(矯正視力〇・〇四)、左眼〇・〇二(矯正視力〇・〇二)である。
(二) 被告聖母会の責任
(1) 全身管理上の義務違反について
原告強子の体温が五月七日(生後二八日)ころまで概ね三四度台に留まり三五度以上に上昇せず、三六度以上を概ね保持できるようになったのは六月中句以降であったことは前記認定のとおりであるが、これは同原告の未熟性の強さの表われと解されるから、狐塚医師が同原告を温度三一度ないし三二度、湿度約六〇パーセントの保育器に収容する以外に体温を上げる特別の措置をとらなかったからといって、前記四の未熟児保育の医療水準に照らせば、これを義務違反と評価することはできない。
(2) 酸素管理上の義務違反について
前記認定の原告の呼吸障害ないし全身症状に応じ、狐塚医師が酸素を四〇パーセント以下(概ね三五パーセント以下)に抑えて、その量を調節しながら五月一四日(生後三五日)まで酸素投与を継続したことは、前記未熟児保育の医療水準に照らしその裁量の範囲を逸脱したものとすることはできず、この点につき義務違反はない。
(3) 眼底検査の義務違反について
眼底検査の存在意義については前記五(二)(2)記載のとおりであるところ、前記三3の認定によれば、原告強子の出生した昭和四七年当時においても光凝固法は追試の段階にあって有効な治療法として確立されていなかったのであるから、狐塚医師に対し同原告の出生後の一定時期に眼底検査を実施させる法的義務を負わせることはできず、同医師が眼科の山中医師と眼底検査の時期につき協議せず、結果的に同原告が生後一〇三日目に初めて眼底検査を受けたからといって、狐塚医師に義務違反があるとはいえない。
(4) 説明及び転医に関する義務違反について
説明義務及び転医させる義務の要件については前記五(二)(3)に記載のとおりであるところ、本症について原告強子の出生当時光凝固法は未だ有効な治療方法として確立していなかったのであるから、狐塚医師及び山中医師に原告ら主張のような説明及び転医に関する法的義務を課すことはできず、したがって同医師らには義務違反はない。
(5) その他
なお、原告らは右両医師には一般不法行為上の注意義務違反もある旨主張するが、右(1)ないし(4)と同じ理由によって両医師に不法行為上の義務違反を認めることはできない。
また、原告らは被告聖母会自身の義務違反、すなわち海星病院においては未熟児のためのあるべき医療看護体制づくりがされていない旨主張するが、原告強子の保育に携わった医師らに具体的な注意義務違反が認められない以上、一般的な医療看護体制の不備は具体的な結果発生との間に相当因果関係があるとはいえないから、右主張は採用しない。
3 原告貴幸関係
(一) 原告貴幸の視力障害に至るまでの経緯
成立に争いのない戊F第一ないし第三号証、甲F第六号証、証人松永剛典の証言によって成立を認める戊F第八号証、同証言、原告林幸子本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。
(1) 原告貴幸は、昭和四九年一二月一一日姫路市内の聖マリア病院において帝王切開により午後二時八分在胎三一週、体重一五〇八グラムの未熟児として出生し、その際アブガールスコアは外界適応性が良好であることを示す八点であったが、同日午後四時一〇分、姫路日赤小児科新生児センターに転医した。同病院における担当医は小児科松永医師ほか一名であった。
(2) 原告貴幸の入院時所見としては、体重一四九〇グラムで全身運動は活発であったが、体温三四・〇度、脈拍数一分間一四四で整調、呼吸数一分間四八で規則的であり、全身ややチアノーゼ様で、冷感あり、四肢末端及び口周囲にチアノーゼを認め、また四肢には全身未熟の兆しである浮腫を認めた。
松永医師は、同原告を保育器に収容し、温度三三度、湿度七〇パーセントとするとともに、酸素濃度が三〇パーセント以下となるよう酸素の投与を開始した。
同医師は、当時、生まれて間もなく全身チアノーゼや呼吸障害がある場合、間欠的に呼吸停止、チアノーゼが起きる場合、頭蓋内出血が疑われる場合には、濃度を考えながら四〇パーセントを超えないよう酸素を投与し、投与を中止するときは徐々に減量するという一般的方針を持っており、以後の保育器内の酸素濃度は、同年一二月二一日までは、チアノーゼ発作(突然呼吸停止し、全身にチアノーゼを生じた状態、同月一二日から一四日まで)や異常運動(同月一二日、一五日)、口周四肢末端にチアノーゼ(同月一三日)、左半身ハーレキン変色(同月一五日)、陥没呼吸(同日)等を認める場合に三四パーセントから三七パーセントに上げたが、他は二八パーセント前後に抑えられた。そして一二月二一日午後八時以降は顕著なチアノーゼはほとんど生じなかったものの、全身色が優れない状況で、酸素投与を中止した同五〇年一月一六日まで二一パーセントから二八パーセントの間で推移した。
一月一六日に酸素投与を中止したのは、原告貴幸の体重が二〇〇〇グラムを超えたこと、体温が三六度を超え、呼吸及び脈拍が安定してきたこと、チアノーゼも呼吸停止もしばらくみられなくなっていたことによる。
ところが、同五〇年一月一六日、原告貴幸を保育器から出してコットに移したところ、呼吸停止及びチアノーゼの症状を呈したので、再び保育器に収容して一月二三日まで二四パーセント前後の酸素を投与した。そして同日酸素投与を中止すると同時に保育器からも出した。
原告貴幸は、その後も一月二七日と同年二月一三日に呼吸停止及び全身チアノーゼを生じたので、酸素ボックスによる酸素吸入を施行している。
なお、同原告の呼吸数は、同四九年一二月二九日まで毎分四〇から七〇程度で安定せず、以後は、前記のとおり、保育器から一回目に出したとき、その後も呼吸停止を二回起こしたあとなどに毎分六〇前後まで多くなったが、それ以外は、大体毎分四〇から五〇程度で比較的安定していた。
(3) 原告貴幸の体温は、同四九年一二月二七日まで三四度から三六度の間を上下し、同日から三六度に達し、その後同五〇年一月一三日までほぼ三五・五度前後で推移し、以後は三六度よりやや低い程度、同年二月三日から同月二〇日まで三六度前後を維持した。
松永医師は、当時原告貴幸の皮膚温を三六度にするため環境温度をできるだけ高くしたいと考え、前記保育器の限度一杯の三三度を保ち、かつ、輻射熱を奪われないようアクリル樹脂製のフードをかける措置をとった。
(4) 原告貴幸の体重は、いわゆるホルトの体重曲線と比べやや回復が遅れぎみであるが、これとほぼ一致した推移を示し、生後一五日で大体出生体重を回復している。
(5) 姫路日赤では、昭和四八年一〇月ころから、松永医師が中心となり本症の発見と治療を意識して(但し、同医師は、本症と酸素との関連、治療法としての光凝固の存在も知っていたが、本症の臨床経過等の認識はなかった。)、眼底検査は、小児科医が児の全身状態から眼科の検診に耐えられると判断した時期に同病院眼科の中山医師に依頼し、次回の検診時期は同医師が指示することにし、本症の発症が疑われる場合には、こども病院に転医させる体制をとっていたところ、原告貴幸の場合は、同四九年一二月二七日(生後一六日)に眼底検査を行ったが、格別の変化はなく、中山医師の所見で次回検診は必要なしとされ、その後は同五〇年二月二一日の退院時まで眼底検査は実施されなかった。
なお、中山医師は未熟児の眼底検査及び本症の診断について余り経験がなく、そのための特別の修練も受けてはいなかった。
(6)退院後貴幸は、姫路日赤で外来受診し、同年三月二八日には眼底に異常所見があることは疑われなかったのに、同年四月九日には異常を疑われ、松永医師の紹介により、同月一六日こども病院で診察を受けた結果、両眼本症瘢痕期三度、両遠視である旨の診断を受けた。同原告の現在の視力は、両眼とも〇・〇六である。
(二) 被告日赤の責任
(1)全身管理及び酸素管理上の義務違反について
松永医師が、入院当時体温三四度の原告貴幸を温度三三度、湿度七〇パーセントの保育器に収容し、更にアクリル樹脂製のフードをかけるほか他に体温を上げるための特別の措置をとらなかったこと、また、同原告の体重、在胎週数及び低体温等を考慮して酸素を濃度四〇パーセント(その多くは三〇パーセント)を超えないようにして投与し、同原告の全身状態及び発育状況に応じて一月二三日まで酸素投与を継続(但し、一月一六日に一時中断)したことは、前記四の未熟児保育の医療水準に照らして不相当ではなく、同医師に義務違反があるとはいえない。
(2) 眼底検査及び治療上の義務違反について
眼底検査の存在意義については前記五(二)(2)に記載したとおりであるところ、前記三3の認定によれば、原告貴幸の出生した昭和四九年当時においても、なお光凝固法は追試の段階にあってその診断及び治療基準も確定されておらず、有効な治療法として確立されていなかったことが認められるのであるから、担当医師に対し未熟児に対する定期的眼底検査及び光凝固法の実施、あるいはこれらのための転医を法的義務として強制することはできないものというべきである。
したがって、松永医師及び中山医師が生後一六日に原告貴幸の眼底検査を実施しただけで、その後退院まで同検査を実施せず、そのための転医をさせなかったからといって、同医師らに義務違反があるとはいえない。
また、本症の臨床経過は極めて多様であり、これを的確に診断することは特別の修練と経験を積まなければ困難であることは前記三3で認定したとおりであるから、その経験のない中山医師が仮にその診断時に本症の発症を確認することができなかったとしても、やむをえないことであってこれを非難することは相当でない。
六 結論
以上の次第で、原告らの請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。