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神戸地方裁判所 昭和56年(ワ)888号 判決 1985年11月27日

原告

原勝彦

原遵子

右両名訴訟代理人弁護士

相馬達雄

山本浩三

中嶋進治

豊蔵広倫

小田光紀

被告

妹尾カツエ

右訴訟代理人弁護士

佐々木静子

大沼順子

久岡眞佐代

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた判決

一  原告ら

1  被告は、原告らに対し、金一〇〇万円づつ及びこれらに対する昭和五五年八月四日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告

主文一、二項同旨

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

(一) 原告原勝彦は、訴外亡原敬行(昭和五〇年二月二二日生、死亡当時五才)の親権者父、原告原遵子は同母である。

(二) 被告妹尾カツエは、訴外妹尾好晃(昭和四八年二月一〇日生)の親権者母である。

2  本件事故の態様

(一) 原敬行は、原告原遵子に引率され、近所の親子等と共に四国観光ツアーに参加し、昭和五五年八月三日午前、神戸港から神戸―高松航路の関西汽船ジャンボフェリー「生駒丸」(二、八一〇トン)に乗船した。

(二) 原敬行は、同日午後〇時頃家族等と二等船室内で昼食を済ませ、しばらくトランプ遊びをした後、一緒に旅行に参加していた仲良し友達の大森良と共にデッキに出て前部上甲板左げん遊歩デッキで手すりに手を置いて海を見ていたところ、同日午後〇時二〇分頃、同デッキにいた妹尾好晃が、原敬行に対し突然「おい、落としたろか」と言つて、原敬行の両足を持ち上げてゆすつた。原敬行は、「お兄ちやん怖いよう、怖いよう」と叫んだが、妹尾好晃は止めようとせず、原敬行の両足を持ち上げて揺さぶり、悪ふざけを続けているうちに、同人をデッキから香川県小豆郡内海町、大角鼻灯台の東五・五キロメートルの海上に転落せしめた。

(三) 原敬行は、海に転落して溺死し、転落三日後の八月六日朝、転落場所より約二五キロメートル北の岡山県和気郡日生町大多府島の南東約一〇キロメートルの海上で水死体となつて見つかつた。

3  被告の責任

妹尾好晃の本件行為は、不法行為に該当するところ、妹尾好晃は、事故当時七年六か月の未成年であり、本件行為の責任を弁識するに足りる知能を具えないものであるところ、被告は、妹尾好晃の親権者として、同人を監督すべき法定の義務があるから民法七一四条一項により本件事故に基く損害を賠償する義務がある。

4  損害

(一) 原敬行の被つた被害

(1) 逸失利益

金一二、一二六、九九四円

一八歳から六七歳まで就労可能とし、昭和五二年度の賃金センサス第一巻第一表の産業計企業規模計学歴計における一八才ないし一九才の給与額に五%加算した金額(年額金一、三四五、五七五円)を基礎とし、生活費を収入の五割と認めて控除し、ホフマン式計算法により中間利息を控除して計算した。

1,345,575円(賃金センサスによる一八才の年収)×(1−0.5)(生活費控除)×18.025=12,126,994円

(2) 慰謝料

金三〇〇万円

(二) 葬儀費用

金五〇万円

原告原勝彦は、本件事故による原敬行の死亡にともない同人の葬式法要を営み、且つその費用として金五〇万円を支出した。

(三) 原告両名の慰謝料

各金一〇〇万円

5  相続

原告両名は、原敬行が死亡することにより、同人が被告に対して有していた金一五、一二六、九九四円の損害賠償請求権を相続により、それぞれ二分の一の割合で承継取得した。

6  よつて、原告原勝彦は、金九、〇六三、四九七円の内金一〇〇万円、原告原遵子は金八、五六三、四九七円の内金一〇〇万円及びこれらに対する本件事故の翌日である昭和五五年八月四日から支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを被告に対しそれぞれ求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因第1項は認める。

2  請求原因第2項中(一)は認め、(二)は争い、(三)は認める。

3  請求原因第3項は争う。

4  請求原因第4項・第5項は不知。

5  請求原因第6項は争う。

第三  証拠<省略>

理由

一争いのない事実

請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二本件事故の発生

<証拠>を総合すれば、原敬行(死亡当時五歳)は、母原告遵子に引率されて、昭和五五年八月三日灘神戸生活協同組合が二泊三日の予定で企画、募集した香川県大川郡津田町での海水浴旅行に参加し、同日午前九時一〇分ごろ神戸港発高松港行きのジヤンボフェリー生駒丸に乗船した。そして、同船が同日午後〇時二〇分ごろ香川県小豆郡内海町大角鼻灯台真方位一〇〇度、約三、四浬の海上を航行中、同船の航海船橋甲板左舷側から海中に転落し(以下本件事故という)、同月六日岡山県沖において水死体となつて発見されたことが認められ、これに反する証拠がない。

三生駒丸及び事故現場の状況

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

1  汽船生駒丸は、総トン数が二八一〇・三六トン、船質が鋼、船体の大きさ、長さが七九・三九メートル、幅二五メートル、船舶所有者が関西汽船株式会社である。

同船の船体は双胴式の旅客フェリーであつて、各甲板は上から航海船橋甲板、旅客甲板、上甲板という順序の構造となつており、以下の状況説明は、すべて昭和五五年八月当時のものである(別紙見取図(一)参照)。

航海船橋甲板の船首中央に操舵室があり、その後部は船長室、機関長室、さらに空気調和室となつていて、その室の後側並びに左右の両側は客室である。旅客甲板は、船首側が旅客室、船尾側が乗用車の積載可能な甲板、上甲板は、船首部から船尾部まで大型車積載可能な甲板となつている。

2  敬行が転落したと推定される場所は、同船の航海船橋甲板左舷前部付近に設置してある四号シューター格納箱と、その前部の縄梯子との間の手すりであり、その状況は、別紙見取図(二)記載のとおりである。

3  右手すりは、外板から垂直方向に設けられた、高さ一・〇五メートル、幅の直径四九・五ミリの鉄製のものであり、手すりと甲板との間には三本の仕切り棒が通つていて、その仕切り棒の直径は三五ミリ、各間隔はいずれも一八・五センチ、下から一番目の仕切り棒と甲板との間隔は一五センチであり、また、手すり最上段から海面までは一二メートルある。

4  四号シューター格納箱の船首側から船首に向け二・〇五メートルの距離をおき、手すりにほぼ接着して縄梯子が円筒に固縛された状態で設置してあり、甲板から縄梯子の最高頂までの高さは八四センチである。

5  右付近の手すりには、手すりの上に腰をかけた場合、握りしめて体の支えとなるような垂直の棒が存在しない。

6  前5項記載のとおり、手すりの高さは一・〇五メートルであるところ、敬行の身長は本件事故当時約一・一〇メートルであつて、手すりの上端がほぼ同人の目の位置にあり、同人が下の仕切り棒に足をかけ、身体を乗り出さない限り、海中に転落しない状態にあつた。

四本件事故調査及び目撃少年らの供述

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

1  高松海上保安部は、昭和五五年八月三日午後〇時四〇分ごろ、瀬戸内海東部統制通信事務所から、「小豆島大角鼻一〇〇度約三、四浬の海上において、生駒丸から五歳位の男の子が海中に転落した。」旨の通報を受け、直ちに備讃瀬戸内海域を哨戒中の巡視船「しらみね」に救助を指示し、同日午後一時二五分ころ、現場海域に到着した「しらみね」が捜索を開始した。

2  同日午後二時一五分ころ生駒丸が現場海域を離脱し、高松港に向うに際し、転落者遺族の強い要望もあり、遺族、同伴家族等八名を「しらみね」に移乗させて捜索を続行中、転落状況の調査にあたつた海上保安官河野幸人が、転落者と一緒に遊んでいた五才の幼児から、転落者は航海船橋甲板左舷側縄梯子付近で、少し大きいおにいちやんが足を持つて落した旨を聴取し、第三者が介入した転落事故であるとの疑いを抱くに至つた。

3  高松海上保安部は、翌四日午前一〇時ごろ再度高松港に入つた生駒丸において、敬行の転落推定場所付近の実況見分を実施した。

同保安部海上保安官藤井京一は、同日高松に来た原告遵子、同女に同行した大森守、同陽子夫婦、その子の大森亮(当時五歳、以下大森少年という)から、次のとおり事情聴取をした。

(一)  敬行は、本件事故当時、身長約一・一〇メートル、体重約一八キログラム、やせ型、長髪スポーツ刈りで、黄色袖なしのシャツ(胸にVとヨットの絵模様入り)、黄色半ズボン(白紐ベルト付き、前ポケットにヨットの絵模様入り)を着用していた。

(二)  敬行と大森少年とは、同じ団地に住み、同じ幼稚園に通う大の仲良しであつて、右両名は、本件事故発生時約三分前に、旅客甲板で休憩していた親達から離れて、同甲板左舷通路から航海船橋甲板へ出ていた。

(三)  大森少年は、敬行が転落後直ちに原告遵子や自分の両親の許にかけ寄り、同人らに対し「タカちやんが海に落ちた。」と大声で叫び、その後同原告に敬行の転落場所を教えた。

大森少年が右当時同原告らに伝えたのは、それだけであつたが、本件事故当日午後二時一五分ごろ、前記のとおり巡視船「しらみね」に移乗した後、同原告が大森少年に「タカ君どうして落ちたの、タカ君と喧嘩でもしたの。」と聞いたとき、大森少年は「お兄ちやんが足をもち上げて落したの。」と言い出し、海上保安官の大森陽子を介しての質問に対し、大森少年は、「敬行と二人で四号シューターと縄梯子との間の手すりに行つたところ、自分達より大きい男の子が二人居て、そのうちの一人が敬行の足を持ちあげ(敬行は手すりの仕切り棒に足をかけていない)、敬行がこわいというと手を離し、敬行が海に落ちた。そのあとで落した子は逃げろと言つて逃げてしまつた。落した子の着衣の色は、緑か黄色かはつきりせず、顔は分らない。」と答えた。

4  高松海上保安部は、その後、大森少年の申立てる二名の児童を割出すため、関西汽船株式会社から、当時生駒丸に乗船していた全員の乗船申込書一冊を領置し、調査した結果、旅客総数五一八名(幼児を含む)、男児九四名、五〜一五歳の男児七二名(転落者を含む)、更に五〜一五の男児のうち、兄弟で乗船していた者は一二組二四名と判明した。

そして、同保安部は、右一二組二四名につき電話録取による調査を開始したが、予定どおりには進展せず、同年八月一九日当時八組一六名の調査を終えるも、目撃者等捜査の端緒となるような情報を得るに至らなかつた。

5  ところが、同月二〇日読売新聞夕刊(阪神地区版)は「タカ君は落とされた。五歳児が証言。兄ちやん2人が……小豆島沖服装まではつきりと」という見出しで本件事故を報道した。

6  高松海上保安部海上保安官は、右新聞報道の記事において加害少年の着衣等が具体的にされているのを重視し、同月二五日大森少年宅に赴き、大森陽子から、同少年が同月四日以後陽子に対し思い出すままに話して聞かせた、次のような事実を聴取した。

(1)  二人連れの男の子が居て、そのうち大きい方の子が海に落した。

(2)  身長は自分が知る小学校三年の子(一三五センチ)と同じ位。

(3)  着衣に英語とウルトラマンの絵があつたが、二人の子と着衣の関係は思い出せない。

7  同保安部は、その後調査の対象を当時乗船していた全男子児童に拡大し、乗船申込書から、前記兄弟一二組を含む五歳から一五歳までの男子七一名を抽出し、内六七名については、大阪、神戸等八か所の各海上保安部に調査を依頼した。

8  大阪海上保安監部係官は、同年八月二七日、本件事故当時生駒丸に乗船していた野井大五郎(昭和四七年一二月三一日生、本件事故当時七歳、小学校二年生、以下野井少年という)から、次のとおりの状況を聴取した。

(1)  甲板に出て海を見ているとき、自分と同じ「二年四組」と言う男の子と知り合い一緒に遊んだ。

(2)  その男の子は祖母、母、姉とその友達と一緒に四国に行くと言つていた。

(3)  その子の背丈は、一三五センチある自分より低く顎位であつた。

(4)  黄色のシャツと半ズボンを着た小さい男の子と同じ位の男の子の二人が二人のところに出て来て、黄色のシャツの子は、縄梯子の上にあがり手すりにつかまつて海を見ていた。

(5)  友達になつた男の子が、小さい子の後ろから近づき左足膝を両手をつかみ持ちあげて落した。小さい子は頭を下にして海に落ちて行つた。

(6)  自分はその様子を見て「やめろ」と近寄つたが、間に合わなかつた。

その子はそのまま逃げて行つた。

(7)  なお、事故当時における野井少年の服装は袖のない青色シャツに、青色のGパンで胸のところからズボンになつているのを着用していた。

9  ついで、神戸海上保安部係官は、同月二八日佐川誠治(昭和四五年九月二五日生、本件事故当時九歳、小学校四年生)及び本件事故当時同少年に同行して生駒丸に乗船していたその母佐川寿子から、次のとおりの状況を聴取した。

(1)  佐川少年は、生駒丸航海船橋甲板左舷縄梯子に腰をかけていて敬行の海中転落状況を目撃しており、妹奈往美(五歳)が近くの床にしやがんでいた。

(2)  縄梯子の所に妹と行つたとき、自分(一二八センチ)より少し大きい男の子の二人連れが居たので、自分は縄梯子に腰をかけた。

(3)  その二人連れの男の子のうち大きい方の子は黄色いシヤツに英語が書いてあり、背中にも絵があつたみたいで小さい方の子は青色で肩から吊る型の服を着ていた。

(4)  二人連れの所に転落した敬行がやつて来て一緒に話をしていた。

(5)  「生意気な」と少し大きな声がしたのでふり向いて見ると敬行は、手すりの一番上に腰をかけ万歳をしたように両手を上げて落ちそうになつており、その前に大きな方の子が立つていて、助けようとしていた。

(6)  大きな子が突いたのは見ていないが、下に降りて船員室のような所の戸をたたいた相手に後をつけて行き、「お前人を落したやろ。」と質したら「押したことは押したけどわざと押したのではなく後から押されたみたいや」と言い訳みたいに答え、「どうするねん」と言うと「そんなこと知るか」と答えた。

(7)  落した子は、旅客甲板左端梯子席に居た子で、自分達の左斜前方にいて祖母、母、女の子二人の五人連れで乗船していた。

(8)  約三〇分後佐川少年は、母親佐川寿子に「あのおばあちやんの孫が突き落したんだ」と教えており、同母親はその事実を船側に伝えるべきだと思つたが、他に男の人の目撃者がいるような船内放送があつたので知らせなかつた。その後新聞でやはり落されたものであることを知り、誠治少年の言うことが正しかつたと再認識した。

10  高松海上保安部は、大森、野井、佐川各少年の各供述、殊に野井少年と一緒に遊んだ子で本件事故に直接関連あると思われる旅客甲板左端梯子席に占居していたグループを割出すため、乗船申込書を調査したところ、小学校二年に相当する男子児童(七―八歳)は、総計二一名(野井少年を含む)、であり、これらのうち、本件事故当時祖母、母、姉と同船し、小学校二年四組に属する少年としては、被告の子妹尾好晃(以下好晃という)の名が浮んだ。

11  そこで、同保安部は、同月二九日被告から入手した好晃の写真(撮影日時は以前のもので着衣も乗船時のものと異なる)をもとに同月三〇日佐川少年に対し写真による面割を実施したところ、無関係者を含めた児童六名の写真中からためらうことなく、前記好晃の写真を選び、敬行を海に落した男児に相違ないことを確認した。

また同日野井少年及び同少年について遊んでいたその妹さくらに対し前記同様に面割を実施したところ、野井少年は、自分と船内で一緒に遊び小さい子を海に落した男児に似ているものとして好晃の写真を選び、さくら(五歳)は、兄と一緒に遊んでいた子としてためらうことなく好晃の写真を選んだ。

五好晃及び被告らの本件事故当時に関する供述内容その他

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

1  好晃は、被告と妹尾順好との間の長男として昭和四八年二月一〇日出生し、同五四年一〇月一六日、商社員であつた父順好を胃ガンのため亡くし、同五五年八月当時小学校二年生であつて、被告及び姉である妹尾美幸(当時九歳)とともに神戸市須磨区内に居住していた。

2  被告及び好晃、美幸、被告の母河田みつは、昭和五五年八月三日灘神戸生活協同組合が企画した前記津田町への海水浴旅行に参加し、本件事故当時生駒丸に乗船していた。

3  好晃は、本件事故当時、身長一・三五メートル、体重約二四キロ、服装は、白地に若草色の絵(男の人がサーフィンをしているもの)模様の入つたランニング、若草色の半ズボンであつた。

4  神戸海上保安部係官が同月二八日被告宅に赴き、被告、好晃、美幸を交えて、生駒丸乗船中の状況について質問したところ、同人らは、同係官に対し「乗船後、船内では、乗客甲板客室、椅子席左端前方を占拠し、乗船後、写真撮影のため、一時航海船橋甲板に上つたが、その後同甲板には上つておらず、好晃と美幸とは本件事故発生時、船内のゲームコーナーでゲームをしていた。」旨答えていた。

5  しかし、高松海上保安部係官がその後の同年九月四日被告宅に赴き、被告に対し再度状況を質問したところ、被告は、「自席で事故発生を知つた時、我が子が傍に居なかつたので心配になり、甲板に出て後部船橋甲板昇降階段を上り、上部の様子を見たが、子供は居なかつたので、下に降りたところ、我が子は車輌甲板右舷側の車が積んでなく空いていたところの後方から走つて来る我が子に会つたので船室に連れ帰つた。笑つているようで変つた様子は見えなかつた。」と答え、前4項の供述を一部訂正した。

6  もつとも、好晃は前同日高松海上保安部係官の質問に対し、野井、佐川各少年については全く記憶がなく、船内で口を聞いたり、友達になつて一緒に遊んだこともなく、航海船橋甲板の縄梯子周辺に行つたことがないと答えている。

被告立会のもとに同日同係官と好晃との間に取り交された問答は、好晃の年令、学校、学年組、先生のそれをなされた後の一部は、次のとおりである。

問 学校は面白い。

答 ううん面白くない。皆がいじめるから。

問 何と言つていじめるの。

答 セノ公とか言つていじめるの。

問 好晃君、四国に行つたよね。

答 うん

問 船の中でトランプ遊びをしたの。

答 うん、僕と姉ちやんと姉ちやんの友達三人でやつた。

問 好晃君、船の中で誰か同じ年位の子と友達にならなかつた。

答 「ううん」と答え、首を横に振つた。

問 友達と言うほどでなくても、船で口を聞いた子はいなかつた。

答 「ううん」と答え、首を振つた。

問 船の上の方に行かなかつた。

答 「ううん、行かなかつた、下にいた。」

7  しかし、好晃は、本件事故直後、子供が落ちたと騒ぎ出したとき、ふるえながら床にしやがんでいた。

右の点について被告は同日高松海上保安部係官に対し、「子供が海に落ちた事を知つてから、私とおばあちやんが、好晃をしかつたことがあり、特におばあちやんが強くしかつたので好晃はおびえたようになつた。好晃は気のやさしい子で、可愛がつてる虫が死んでも悲しがる子なので、事故で子供が死んだと知つて強いショックを受けたものと思う。」との供述をしている。

8  好晃は、本件事故直後、右のとおりショック状態にあつたが、しばらくして元気となり、生駒丸が高松港に着いた当時疲れた様子はなかつた。そしてその後は、京王プラザホテルで連れの子らと快活に遊んだり、バス観光、海水浴などをして前記二泊三日の旅行を終え、帰宅後は、普段と変りない生活をしていた。

六好晃が、本件事故当時事故現場付近にいたかどうかについて

前記のとおり、好晃は、本件事故当時事故現場に居たことがないと供述しているものであるが、(一) 前四の10認定のとおり、生駒丸航海船橋甲板で二年四組の少年と一緒に遊んだ野井少年、及びそれを見ていた野井少年の妹さくらが、好晃の写真を見て、右二年四組の少年であると指摘し、また、事故現場付近から逃げ出した少年を追い、旅客甲板旅客室まで尾行した佐川少年も、好晃の写真を見て、右逃げ出した少年が好晃があると指摘している点、(二) 前五の5認定のとおり、被告は、本件事故直後、旅客甲板右舷の車両積載場所で好晃と出会つたと述べている点、(三) 前五の7認定のとおり好晃は、本件事故直後ショックを受けた様子であつた点等を鑑みれば、好晃は本件事故当時事故現場付近に居たものと認めるのが相当である。

しかし、好晃が本件事故当時現場付近に居たからといつて、大森、野井、佐川各少年の供述に沿い、好晃が敬行を海中に転落させたものとするのは早計である。けだし、好晃は、敬行のそばに居たが、敬行が身を誤つて手すりから海中に転落したのを目撃して驚愕し、恐怖の念にかられて、その場を立去り、客室に戻つたものの、乗客の騒ぎで虚脱状態に陥つてしまい、その後、新聞で落した子がいると、報道されて、海上保安部から、調査の対象にされ、精神的、社会的に、はるかに未熟な好晃は、早い段階から加害者扱いされてきたことに対する過剰な防衛反能として、自分が甲板に上つていた事実や野井少年と友達になつた事実まで否定する態度に出た可能性が存在するからである。

七三少年の目撃供述の信用性

そこで、大森、野井、佐川三少年の右各供述が客観的真実性を具備しているかどうか、検討する。

1  三少年の各供述の差異

前四の389の各事実から明らかなとおり、敬行が落とされたときの様子について、大森少年は「お兄ちやんが敬行の足を持ち上げ、手を離したら、敬行が海に落ちた」といい、野井少年は「敬行が縄梯子の上に上がり、手すりにつかまつて海を見ていた。友達となつた子供(好晃)がうしろに近づき、左足を両手でつかみ、持ち上げて落した」といい、佐川少年は「敬行は手すりの一番上に腰をかけ、万歳をするような格好で落ちた」といい、そのほか好晃もしくは加害少年の事故前後の発言、行動等について右三少年の目撃状況がそれぞれ異なつている。なお、<証拠>によれば、不動産業前田忠裕(本件事故当時三五歳)は、本件事故当時生駒丸の旅客甲板において、黄色いかたまりが海中に落ち、その後それが子供と分つたが、瞬時の出来事であり、落ちた子供の顔がどちらに向いていたか分らなかつたことが認められ、したがつて、前記三少年の供述以外、敬行が手すりからうつむけに落ちたのか、あおむけに落ちたのかは不明ということになる。

しかるところ、敬行が手すりのところでどのような姿勢をしていたとき、どのようにして好晃から落されたのか、本件事故の態様に関する前三少年の供述は、上記のように著しく相違していて、相互に供述内容を補強し合わない。それゆえ、前記三少年の供述を単純に総合して、好晃が敬行を海中に落したものとすることはできない。

2  個別的観察

(一)  大森少年(五歳児)の供述について

(1) 前記四の36認定のように大森少年は、敬行と手すりのところに居つたとき、二人連れのうち大きい兄ちやんから、敬行が足を持ち上げられ、海中に落された旨の供述をしている。

(2) しかし、大森少年の右供述は、次の点を考えると客観的真実性に乏しい。

(イ) 前認定のとおり、本件事故当時、敬行の身長は約一・一〇メートル、体重約一八キロであるのに対し、好晃の身長は、一・三五メートル、体重約二四キロであつて、好晃は、敬行よりも少しく身長、体重が勝さつているに過ぎない。

このような両者において、もし原告主張のように二人が向い合い、好晃が敬行に対し、突然「おい、落してやろうか」と言つて敬行の両足を持ち上げても、同人が甲板に座り込んでしまうだけであつて、高さ一・〇五メートルもある手すりごしに敬行を海中に転落させることはおよそ不可能である。

また、敬行が手すりに手をかけ海を眺めているとき、好晃が突然敬行の後ろから足を持ち上げ海中に落そうとしても、手すりの高さは一・〇五メートルもあり、敬行がちよつと足を曲げさえすれば、腰の重みで好晃一人の力では、敬行を海中に転落させることがはなはだ難しい。

(ロ) およそ、七歳の児童が、海面から一二メートルも高いところにある甲板上の手すりから、見ず知らずの二つ年下の子供を海に転落させるという所為は、いたずらの度をこえ、正気の沙汰でない。

ところが、好晃は、前五の6に記載のとおり、学校では友達にいじめられているが、それは受け身であり、大森、野井、佐川少年の目撃供述を除いては、好晃において、衝撃的に粗暴な振る舞いをする性格、あるいは精神的障害のある少年であつたことを確認する証拠はない。

(ハ) 大森少年は、本件事故直後、両親らに対し、敬行が転落したことを告げただけであつたが、巡視船「しらみね」に移乗後、原告遵子から「タカ君どうして落ちたの、タカ君と喧嘩でもしたの」と聞かれて、前記1の供述をするに至つたことは、前四の3(三)記載のとおりである。

原告遵子の右質問は、大森少年か、それとも誰かが喧嘩して敬行を転落させたのではないかという疑いを暗示するものであり、暗示性に影響されやすい五歳児である大森少年が、本能的な防衛反応から本件事故前、敬行のそばに年上の少年二人が居たことを思い出し、そのうちの少年一人に対する不正確な印象と敬行の転落とを結びつけて、前記1の供述をしたものと考えられる余地がある。

(ニ) 大森少年が記憶している落した子の服装(英語とウルトラマンの絵があつたもの)は、本件事故当時における好晃の上着(男の人がサーフィンしている絵模様の入つたランニング)は勿論、野井少年のそれ(袖のない青色シャツ)とも近似していないし、大森少年の言うとおり二人連れの少年のうち大きい方の少年が敬行を落したとするならば、本件事故直前一緒であつた好晃、野井少年のうち、野井少年の方が好晃より背が高かつたから(前記四の8(3)参照)、落した子は野井少年ということになる。

このように大森少年の本件事故当時の状況に関する記憶のあいまいさは歴然としている。

(3) 前三記載のとおり、本件事故現場における手すりの高さは一・〇五メートル、その上端が敬行の目の位置にあり、同人が下の仕切り棒に足をかけ、身体を乗り出さない限り海中に転落しない状態にあるところ、敬行のような五歳位の男児が手すりの仕切り棒に足をかけ、手すりから身を乗り出すのはよくありがちなことであり、真夏の太陽の下、たのしい船旅に出た敬行が、手すりに寄つて海を眺めているうち、波頭の面白さに興味を奪われ、自然手すりをつかみ、仕切り棒の二段目辺りまで片足をかけて海を眺めようとしたため、手すりから身を乗り出し過ぎ、バランスを失つて海面に転落してしまつたという可能性は、大森少年の供述するような他の子供から落されたという場合よりもはるかに確率が高い。

大森少年は、本件事故直前、そばに居た年上の子が敬行の足を持つていたと言うが、もしそうであるとしても、右年上の子(好晃)が、手すりから身を乗り出し過ぎて落ちそうになつた敬行を助けるため同人の足を持つたのか、あるいは、敬行を故意に落すためその足を持つたのかの状況判断は、髪一重であつて、落すため敬行の足を持つたという大森少年の供述部分は、同少年の供述において、前記(2)の(一)ないし(三)の不合理性、不正確性がある以上、信用できない。

(二)  野井少年(七歳児)の供述について

(1) 同少年は、前記のとおり、敬行において本件事故直前、縄梯子の上に上がり、手すりにつかまつて海を眺めていたと供述している。

(2) しかし、手すりの高さは一・〇五メートル、縄梯子の最高頂が八四センチ(前記三の4参照)、敬行の身長は約一・一〇メートルであるから、野井少年の供述するような姿勢で敬行が海を眺めているとすれば、腰高で実に不安定な姿勢となり、縄梯子から降りようとしたとき、バランスをくずして手すりから海面に転落してしまう危険性がある。その危険性と怖さは、五歳児でも容易に事前感知できるものであり、敬行が右のような危険性をおかしてまで海を眺めていたとは思われない。前記四の9(1)のとおり、佐川少年は本件事故直前、縄梯子に腰をかけていたものであつて、敬行が縄梯子に上り、手すりに手をかける姿勢にいたなら、それに気がつき、保安部係官にその旨供述しているはずであるのに、右供述がないのは、敬行が右姿勢をとつていなかつた証左である。

(3) さらに野井少年は、好晃が敬行の足を持ち上げたと供述するが、敬行が縄梯子に上り、手すりに手をかける姿勢でいたとき、敬行の足を持ち上げたとするならば、右供述は、前記のとおりその前提事実の不存在からして措信することができない。

また、野井少年の前記供述中、敬行が縄梯子に上つていたというのは錯覚であつて、敬行が手すりをつかみ、仕切り棒の二段目辺りで足をかけ、腰を曲げた姿勢で海を眺めていたとき、好晃が敬行の足を持つたのを見ていたとしても、その場合、大森少年における前記(一)の(3)に説示したところと同様のことがいえるのであつて、野井少年の右錯覚や前記供述が本件事故発生から二四日経過後なされたものであり(その間に敬行は落されたと新聞報道されている)、それに伴う記憶の不鮮明、不正確性に鑑みて、野井少年の前記供述中、好晃が敬行を落すため、その足を持つたとの部分は措信できない。

(三)  佐川少年(九歳児)の供述について

(1) 同少年は、敬行が本件事故直前、手すりの一番上に腰をかけていたと供述する。

しかし、前記のとおり、事故現場の手すりは、高さが一・〇五メートル、直径が五センチ足らずの鉄製のもの、右手すり付近には握れる垂直棒もなく、かつ、手すりの上から海面まで一二メートルの距離があるところ、身長約一・〇一メートル、体重約一八キロの敬行が、常日頃いかに勇気のある少年であつても、生駒丸航海中、サーカスもどきに右手すりの上で腰をかけていたものとは考えられない。

もし、敬行が手すりの上に腰をかけていたとするならば、自らのちよつとした動作によつて体のバランスを失い、手すりから海面へあおむけになつて転落してしまつたとの可能性が多大である。

(2) しかも、佐川少年は、係官に対し、落した子(好晃)を追尾し「お前人を落したやろ」と質したと供述するが、その一方で、前記甲第二一号証によれば、同少年は、好晃が敬行を突いたり、落したりしているところを目撃していないと供述しており、その供述に首尾一貫しない不合理性がある。

(3) 右(1)(2)の事実からして、佐川少年の、好晃が作為して敬行を転落させたとの供述部分は措信できない。

以上検討した結果、結局、大森、野井、佐川三少年の、好晃が敬行を転落させたという目撃供述は、いずれも措信できないことに帰着する。

八まとめ

そして、そのほかに、好晃が敬行を転落させたことを確認するに足る証拠はないから、原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

よつて、原告らの請求を棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九三条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官広岡 保)

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