神戸地方裁判所 昭和56年(行ウ)18号 判決
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【判旨】
二そこで、亡仁三の死亡が補償法第一条所定の公務上の災害(死亡)に該当するかどうかについて、判断する。
1 亡仁三の職場歴と勤務内容
(一) 前記一の当事者間に争いのない事実と<証拠>を総合すれば、亡仁三は、昭和三年一月九日生れで、昭和二三年三月三一日兵庫県職員となり、昭和二四年三月五日農業改良助長法に基づいて制度化されている農業改良普及員の資格を取得し、同年三月三一日、農業改良普及員として、神戸普及所勤務となり、その後昭和二四年一一月三〇日兵庫県経済部(その後の処理規程の改正で農水産部となる。)勤務となつたこと、亡仁三は、その後昭和三二年一〇月一〇日、再度、農業改良普及員を命ぜられ、昭和三三年一〇月一日から神戸普及所玉津詰所(昭和四九年前の名称は玉津常駐所)に勤務し、主として、畜産部門を担当し、その間昭和四五年八月一日同普及所普及主査となつたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
(二) 農業改良普及員が能率的な農法の発達、農業生産の増大及び農民生活の改善に必要な知識を農家に指導していく役割を担い、地域計画、農業構造の改善、優れた経営の担い手の育成、農業生産についての各指導助言等極めて広範で多種多様の業務に従事していること、亡仁三が、右業務の遂行上、日常的に農家と直接接触して指導助言、相談を行うという業務に従事していたことは、当事者間に争いがない。
(三) 右(二)の当事者間に争いのない事実と<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。
(1) 農業改良普及員の日常の生活は、その担当農家と直接接しながら、農業技術、農業経営の改良、農家生活改善のための普及活動を行うもので、具体的には、主として、農業者の実態をあらかじめ把握したうえ、改善を要する事項を計画的に指導し、また、農業者や市、農業協同組合等からの時々の要請に応じて、援助指導を行い、あるいは、現地での試験、展示等の活動を行うものである。そして、右普及員は、右のような職務の性質上、その詰所等ではほとんど執務をせず、その職務時間の大部分を出張等により、管内の農家に直接出向き、各農業者からの相談に応じ、あるいは必要な事項を指導する等している。このような職務のため、早朝、夜間、休日、日曜等における時間外勤務も相当多く、また、日々、農業技術等の学習をすることが要請されている。
(2) 神戸普及所は、玉津、有野の両詰所を有し、玉津詰所は、神戸市須磨区、垂水区(現在の西区も含む。)の両区を管轄区域とし、昭和五一年当時農業改良普及員七名、生活改良普及員一名の合計八名で構成され、農業改良普及員一人あたりの農家戸数は、六一六戸であつた。王津詰所では、都市近郊の農家を指導対象とし、その管内は、専業農家の比率も比較的高く、特に畜産関係農家については、悪臭による公害問題の発生等困難な問題もあつたほか、共同経営方式や法人経営による大規模で技術水準の高い農業経営が営まれていたため、農業改良普及員としては、他の地域に比し、よりきめ細かな指導と日々の学習が要請されている地域である。
右のような事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
2 亡仁三の勤務状況及び私生活
(一) 勤務による疲労の程度
<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。
(1) 亡仁三は、前述のとおり昭和三三年一〇月一日から、農業改良普及員として、玉津詰所に勤務し、前述のような業務に従事し、昭和五〇年ころには、指導対象農家として数一〇〇戸を担当していた。
ところで、亡仁三は、平常、午前九時ころ自家用車で玉津詰所に出勤し、その日の出張準備をした後、管内の農家に出向き、昼食のために帰所する時間を除き、午後五時前ころまで現地での活動にあたり、そのころに帰所し、その日の整理と翌日の準備を済ませてから帰宅していたが、帰宅時間が午後七時から八時になることも多かつた。また、亡仁三は、右の通常の活動のほか、畜産関係農家の集会、青年クラブの畜産関係の集会にも度々出席していたが、これらの集会が農家の労働時間の関係で夜間に開催されることが多かつたため、右集会に出席した場合、帰宅も深夜となることが多かつた。更に、亡仁三は、その自宅が玉津詰所の管内にあることから、日曜、休日、夜間等にも、近隣の農家からの電話による問い合わせや自宅への直接の来訪等を受けることが度々あつたが、その際にも、懇切に指導助言、相談を行つていた。
(2) 亡仁三は、昭和五一年度から神戸普及所において情報の業務を担当していたところ、同詰所においては、同年度から、各農家に必要な情報を伝えることを目的として、「普及所だより」を発刊することとしたが、亡仁三は、その編集責任者として、その発刊業務を担当することになつた。そこで、亡仁三は、「普及所だより」の編集上の構想を練り、各農業改良普及員からの原稿の収集、清書、印刷業者との交渉等の発刊準備をほとんど一人で行い、そのため、少なくとも一七時間の時間外勤務をしたほか、当初発刊予定日を同年八月一日としていたところ、右各普及員からの原稿の集まりが悪く、右の予定が遅延したこともあつて、夏期休暇をとつていた同年八月四日の午後にも出勤し、印刷業者との交渉等にあたつた(亡仁三が昭和五一年度から玉津詰所における情報担当者として「普及所だより」の編集にあたつていたこと、「普及所だより」の発刊が遅延したことは、当事者間に争いがない。)。
(3) 亡仁三は、昭和五一年七月ころ玉津詰所の車庫の建設を命じられたが、その予算が少額であることを考慮し、その担当農家である吉井農機等の協力を得て廃材を集め、同年七月末の日曜日に玉津詰所に出向き、吉井農機の従業員らとともに、車一台分の車庫を建設した(亡仁三が玉津詰所の車庫を建設したことは、当事者間に争いがない。)。
(4) また、従来生乳の価格は、含有脂肪量を基準として定められていたが、その後、生乳中の細菌数が右価格決定の重要な要素とされたため、畜産関係農家では、生乳の殺菌装置(バルツクーラー)を導入する必要が生じた。そのため、昭和五一年四月ころから、玉津詰所管内の畜産関係農家においては、右殺菌装置の取付を目的として、兵庫県から農業改良資金の融資を受けようと希望する者が二〇件出てきた。亡仁三は、同年四月から右融資希望者に対し、融資申請書類の書き方、機種の選定についての他事例の紹介、借受資金の償還計画、事業計画、貸付が決定された後における殺菌装置の導入状況、その稼働状況等について指導助言、相談を行つた。また、右の農業改良資金のほかに、同年三月一一日農業規模の拡大を目的として、主務大臣指定資金制度についての融資希望一件が提出され(融資決定は、同年四月末ころ)、亡仁三は、右融資希望者に対しても、前述の農業改良資金におけると同様の指導助言を行い、更に、そのころ、農業協同組合の融資制度である近代化資金についての融資希望三件に関しても、前同様の指導助言を行つた。
(5) 亡仁三は、昭和五一年七月から八月初めにかけて、同月六日からの一宮市への出張の準備として、多種の資料を作成し、あるいは右の準備を目的とした会合に出席した。
(6) 亡仁三についての昭和五一年四月から七月までの間の記録に表われた管内出張日数、時間外勤務日数、同時間数は、別表(一)記載のとおりであり、また同年八月二日から同月五日にかけての亡仁三の超過勤務時間数は、約一二時間に及び、同期間の他の農業改良普及員の超過勤務時間数に比べ、かなり多かつた(亡仁三が昭和五一年六月及び七月に右のような時間数の時間外勤務をしたことは、当事者間に争いがない。)。
(7) 亡仁三は、農業改良普及員として、相当の経歴を有し、前述のとおり昭和四五年八月一日からは神戸普及所普及主査であつたが、性格的には真面目、温和、几帳面であつて責任感が強く、前述のような業務を担当して、精神的疲労の度合は小さくなかつたと推測される。
右のような事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右認定の事実によれば、亡仁三は、農業改良普及員になつて以来、精神的肉体的疲労は小さくなかつたものであり、特に昭和五一年四月ころからは精神的肉体的疲労はかなり高かつたものと認めるのが相当である。
(二) 私生活による疲労の程度
<証拠>によれば、亡仁三は、妻である原告と三人の子の家族を有し、一応健康な生活を送つてきており、昭和五〇年ころからは原告の肩書住所である自宅の近隣の神戸市西区平野町内において、勤務時間終了後の毎週月、土の各曜日の夜間、約二時間にわたつて書道の教授をしてきたほか、昭和五一年四月からは毎週水曜日の夜間にも、約二時間にわたつて書道の教授をするようになつたこと、しかし、亡仁三は、右書道の教授により、特に疲労した様子が見受けられなかつたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右認定の事実によれば、亡仁三の私生活においては、右のような書道の教授をしていたために精神的疲労が生じ、また、大きな肉体的疲労が生じたものではなかつたと認めるのが相当である。
3 亡仁三の死亡当日の勤務状況
(一) 次の事実は、当事者間に争いがない。
亡仁三は、昭和五一年八月二日神戸普及所所長から、同僚の北田豪とともに、同年八月六日青年クラブ員一七名を引率して、一宮市の四Hクラブ員との交歓会の指導及び視察研修に一泊二日の予定で参加する旨の出張命令を受けた。
そこで、亡仁三は、同年八月六日午前九時二七分国鉄西明石駅発の新幹線に乗車して一宮市に向かつた。その後、亡仁三は、冷房された乗用車に乗車して同市内の六か所を視察見学して回り、右視察見学終了後の同日午後四時五〇分から現地の四Hクラブ員らとの交歓会に出席した。
次いで、亡仁三は、右交歓会終了後の同日午後六時三〇分ころ前記鵜沼荘に到着し、同所で夕食をとつたが、その後、倒れて昏睡状態に陥り、翌七日午前八時ころ松浦病院において、脳出血により、死亡した。
(二) 右(一)の当事者間に争いのない事実と<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。
(1) 神戸普及所においては、昭和五一年七月ころ、農業後継者育成の目的でこれまで実施してきた先進的農業地域への視察研修の一環として、青年クラブ員一七名を一宮市に送ることとし、神戸普及所所長は、前述のとおり、亡仁三及び北田の両名に対し、引率者として右視察研修に参加することを命じた。そして、右視察研修の日程等の立案、受入の相手方である一宮市農業委員会(以下「一宮市農委」という。)との連絡調整等には、玉津詰所の青少年担当であつた北田があたり、亡仁三は、右視察研修における資料の準備を分担したところ、北田が若く、かつ、亡仁三が前年度の青少年担当であつたことから、北田は、右の日程等の立案、連絡調整の事務について亡仁三と相談をしながら、これを進めた。ところで、右視察研修立案の当初、神戸普及所においては、野菜、花の栽培、酪農について各一か所合計三か所を視察見学する予定でいたところ、一宮市農委は、好意により、視察場所を五か所とする受入計画を立て、その旨を玉津詰所に連絡してきたため、結局右五か所を視察見学することとなり、別表(二)記載のとおり当日の予定が確定された。なお、右視察研修には、神戸西農業協同組合から訴外今村良紀が引率者として参加することになつた。
(2) 亡仁三は、同年八月六日一緒に出張した同僚の北田豪(昭和二六年八月二八日生)よりも、かなり年長であつて先輩であり、同日の視察研修行事の最高責任者という立場にあつた。
(3) 亡仁三は、同年八月六日他の二名の引率者とともに、青年クラブ員一七名を引率して、前述のとおり国鉄西明石駅から新幹線に乗車し、同日午前一一時一五分名古屋駅に到着した。ところで、右視察研修参加者の中には、新幹線の車内で、一泊旅行の解放感から、飲酒をする者も出たため亡仁三は、受入側に配慮し、これらの者に注意する等の気配りをした。また、当日は、一宮市の最高気温が摂氏32.8度、最高湿度が七九パーセントという蒸し暑い日であつたが、亡仁三らは、名古屋到着後、一宮市への乗継列車を変更したため、暑いさ中、名古屋駅のホームで約四六分間乗継列車を待たなければならず、一宮市への到着も、約三〇分予定より遅延することとなつたため、亡仁三は、北田にその旨を一宮市側へ連絡させた。
(4) 亡仁三らは、同日午後零時二〇分、一宮市に到着した後、昼食をとり、一宮市の農業の概要の説明を受けたが、到着時刻の遅延を取りもどすため、昼食時間等を削減し、同日午後一時三〇分同市役所を予定の時間どおりに出発した。なお、その際、亡仁三らは、一宮市農委から、前述のとおり予定された視察見学の五か所のほかに、更に「ハウスナス」の見学のため、一か所を追加する旨を知らされた。
(5) 亡仁三らは、右出発に際し、一宮市の公用車二台、同市の四Hクラブ員の乗用車六台、合計八台に分乗して、次のような視察見学等をした。① 午後一時五〇分から二時五分まで一宮市萩原町の朝宮方の水耕みつばの水耕施設
② 午後二時一五分から三〇分まで「ハウスナス」のビニールハウス
③ 午後二時三五分から五五分まで同町高木方のシクラメン鉢物の温室とビニールハウス
④ 午後三時二〇分から五〇分 同市葉栗の高田方の酪農施設
⑤ 午後四時から四時二〇分まで 同市西成の時之島方の人参、大根等の露地野菜の栽培畑
⑥ 午後四時三〇分から五〇分まで同市浮野養鶏協同組合の養鶏場
(6) 右視察見学の日程は、限られた時間内に六か所の見学場所を回らなければならなかつたうえ、同日における交通渋滞により、後続車が約一〇分遅延したこと等もあつて、亡仁三は、時間の遅延やその配分に相当配慮しなければならなかつた。また、亡仁三は、一宮市役所から今村らとともに、冷房された同市の公用車に乗車して見学場所を回り、高温の車外との乗降を繰り返した。特に、水耕みつば、シクラメンの鉢物は、温室内で栽培されているところ、右温室内は摂氏四〇度を超え、かつ、薬剤が散布されていたが、亡仁三らは、右各温室内にも、それぞれ五分から一〇分間位、立ち入つて説明を聞く等した。
そして、右視察見学の間、青年クラブ員のうちには、自己の専門とする業種に関係するもの以外の場所では、相手方の説明を聞かず、その統制を離れがちになる者もいたため、亡仁三ら引率者は、受入側に対する配慮もあり、再三、それらの者に注意しなければならなかつた。
(7) 次いで、亡仁三は、右視察見学を終了した後、休憩をとることなく、同日午後四時五〇分から五時三〇分ころまでの間、右浮野養鶏協同組合事務所における交歓会に出席して挨拶したほか、青年クラブ員の発言が少なかつたため、自分も意見交換等に加わつた。ところで、右交歓会には、予定外に、一宮市側から全国農業協同組合中央会副会長(一宮市農委会長を兼ねる。)加藤照千代も出席し、挨拶をした。
(8) 次いで、亡仁三らは、右交歓会終了後、乗用車に乗車して前記鵜沼荘に向い、約一時間後の同日午後六時三〇分ころ同所に到着し、直ちに部屋割りを決めた。そして、亡仁三、北田、今村らは、同日午後七時三〇分ころまでの間、当日の反省、翌日の予定等について話し合い、休憩をとる暇はあまりなかつた。
次いで、亡仁三らは、同日午後七時三〇分ころから夕食をとり、夕食後の同日午後八時ころから、夕食をとつたままの席で、右視察見学について討議することとし、亡仁三は、まず、挨拶をしたが、その直後の同日午後八時三〇分ころ、突然、倒れて昏睡状態に陥り、前述のとおり翌七日午前八時ころ、脳出血により、死亡するに至つた。
右のような事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右認定の事実によれば、亡仁三の死亡当日の勤務状況は、特に同日午後一時三〇分以降の視察見学、交歓会の日程に移行してからは、亡仁三の前述のような立場、性格を合わせ考えれば、同人に高度の精神的肉体的疲労を生じさせたものと認めるのが相当である。
4 亡仁三の健康状態
(一) 亡仁三が昭和四七年から本態性高血圧症に罹患していたことは、当事者間に争いがない。
(二) 右(一)の当事者間に争いのない事実と<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。
(1) 亡仁三は、昭和四七年二月の定期健康診断において一五四〜一〇〇の血圧が測定され、要精密の判定を受けた。亡仁三は、その後、おおむね月に一回訴外池医師の診察を受けていたが、池医師は、亡仁三について原因のわからない高血圧症の総称である本態性高血圧症の診断を下し、降圧剤であるフルイトランを投与していた。ところで、亡仁三の同医師による右診察における血圧値は、死亡に至るまで年に一回か二回最高血圧で一六〇を超えることがあるほか、おおむね一四〇〜一五〇台であり、最低血圧でおおむね八〇〜九〇台で、一〇〇を超えたのは昭和四九年一月だけであつた。また、年に一回の定期健康診断における亡仁三の血圧値は、昭和四八年一五〇〜一一〇、昭和四九年一五八〜九二、昭和五〇年一四六〜九六、昭和五一年一四六〜九〇であつた。なお、世界保健機構(WHO)の高血圧判定の基準値は、最大血圧で一六〇以上、最小血圧で九五以上である。
(2) また、亡仁三は、昭和四九年一〇月二五日から同月二六日にかけて兵庫県立舞子台病院の短期ドック検査を受けたが、その結果、心臓動脈硬化性変化、高血圧(血圧値一四八〜九〇、一五八〜九〇)、胃炎と診断され、十二指腸潰瘍の疑いがあるとされたが、右十二指腸潰瘍の疑いについては、昭和五〇年一一月一九日の兵庫県立がんセンターの検査により、胃潰瘍の瘢痕を認めるが、治療の必要はないものと診断された。また、池医師は、亡仁三について前記本態性高血圧症の診断のほか、腰痛症の診断をしているが、心臓動脈硬化性変化については何らの所見もなく、池医師、舞子台病院でそれぞれ実施された眼底カメラの所見によつても、いずれも異常がなかつた。
(3) 亡仁三には、右のような病歴があるが、そのために勤務を休むということはなく、通常人と変わらない生活を営みうる状態にあつた。
右のような事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右認定の事実によれば、亡仁三は、死亡当時に至るまでは、日常的な健康管理の下において、一応健康な生活を営みうる状態にあり、その高血圧症の進展状況は、緩慢であり、さして変動はなかつたものと認めるのが相当である。
5 亡仁三の死因
(一) 公務上の死亡の意義
補償法第一条及び第三一条所定の公務上の死亡とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、右負傷又は疾病と公務との間には相当因果関係のあることが必要であり、その負傷又は疾病が原因となつて死亡事故が発生した場合でなければならないと解すべきである(最高裁判所昭和五一年一一月一二日第二小法廷判決・判例時報八三七号三四頁参照)。ところで、右の相当因果関係があるというためには、負傷又は疾病が公務を唯一の原因とする必要はなく、被災職員が疾病等の原因となりうる基礎疾患に罹患している場合であつても、公務が基礎疾患を誘発あるいは増悪させて傷病を発症させる等、それが疾病発生の相対的に有力な原因となり、基礎疾患と共働して疾病を発生させたと認められる場合は、被災職員がかかる結果を予知しながらあえて公務に従事する等災害補償の趣旨に反する特段の事情のない限り、右疾病は、公務に起因するものと解するのが相当である。
(二) 脳出血の発症原因
<証拠>を総合すれば、現在の医学では脳出血の病理機序については必ずしも明白に解明されているわけではないが、その原因については脳小動脈壁の病変(血管壁の壊死、間隙形成、内膜肥厚)と血圧の亢進が考えられていること、脳小動脈壁の病変のうち、特に重要なのは血管壁の壊死(動脈瘤を含む。)であり、加齢がその最も重要な原因とされ、特に五〇歳を過ぎると脳小動脈壁に壊死部分の存在する可能性が高いこと、他方血圧の亢進を伴う疾患としては赤血球増加性本態性高血圧症等が存在し、その他血圧の亢進を促す要因として疲労、精神的ストレス、筋肉労働負担、気候・気温の変化、日間変動、憤怒のような精神感動、飽食、飲酒、上厠、温冷浴、性交等があげられていること(脳出血の原因として血管の変性が考えられ、その重要な副因として血圧の亢進が考えられること、血圧値を変動させる要因として精神的情緒的変化、食事があげられることは、当事者間に争いがない。)が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
(三) 亡仁三の死亡と公務起因性
以上述べたところを本件について見るのに、前記各認定の事実を総合すれば、亡仁三は、本態性高血圧症という基礎疾病を有するが、その進展状況は緩慢であつて、これが急激な自然増悪の過程にあつたものではなく、亡仁三の死亡が、その有する高血圧症の自然経過的な進展の結果、生じたものではないところ、他方、亡仁三は、昭和五一年四月ころから、農業改良普及員としての時間外勤務、休日勤務の反復により、精神的肉体的疲労が徐々に蓄積されていたうえ、死亡当日の夏期の高温な天候のもとで、青年クラブ員らの引率の最高責任者として、視察見学をし、交歓会に出席する等したことにより、肉体的負担と高度の精神的緊張が加わり、高血圧症を急激に増悪させて脳出血を発症させて死亡したものと認めるのが相当である。
以上述べたところによれば、亡仁三の死亡は、基礎疾病である高血圧症が同人の従事していた公務によつて増悪され、基礎疾病と公務との共働原因に基づいて発生したものであるから、公務に起因するものというべきである。。
三以上の次第であるから、亡仁三の死亡を公務外のものであるとした被告の本件処分は、違法であるから、取消を免れず、原告の本訴請求は、正当として、認容すべきである。
(佐藤栄一 山﨑杲 田川直之)