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神戸地方裁判所 昭和62年(モ)1578号 決定 1988年11月21日

申立人(破産者)

三井賢昭

右代理人弁護士

久保田寿一

主文

本件免責を許可しない。

理由

一破産法第三六六条ノ九第二号該当事由

1  破産原因の発生時期

一件記録によれば、申立人は、昭和五七年一〇月就職して収入月額手取り約一一万円を得ることとなったが、同年一二月同居していた実父が負債に追われて失踪したため、申立人の右収入のみで実母との生活を維持せざるをえないことになったが、当時の生活振りからしてこれでは通常の生活費にも足らないためカードローンを利用するようになり、昭和五九年四月にはその残額合計は約一〇〇万円であったこと、申立人は、特に資産を有することなく、また、遺産の取得などの自己の稼働による収入以外の臨時収入を有せず、そのため、それ以降はそれまでに発生した負債を自己の収入の中から返済することができないため、他からの借入金により右の返済に充てる(以下、「自転車操業」という。)しかなかったこと、その後は借金が増大する一方であったことが認められ、すると、申立人は、右の約一〇〇万円の負債を抱えた昭和五九年四月には、既に支払不能の状態にあったと認めることができる。もっとも、一件記録によれば、申立人は、昭和五九年四月以降も他から借金をし、これをもって、債権者に対し、現実に一部弁済をしていることが認められるけれども、以下一4項に述べるように、右借金は債権者が申立人の借入時における言動から申立人に返済能力があると誤信したためであり、「自己の有する信用によった」ものとは言えず、また、高利借金による無理算段で支払を継続しても申立人の客観的経済状態は前叙のとおりであり、前記支払不能の認定を何ら左右するものではない。

2  破産宣告前一年内の借入

本件破産事件記録中の債権者からの意見聴取書によれば、申立人は、破産宣告時である昭和六二年一一月一六日午前一〇時前一年内に多数回にわたって借金をしていることが認められる。すなわち、申立人は、別紙負債一覧表の債権者合計二一名中右意見聴取書に借入日の記載のあったもの一二名全部及び番号2の債権者(これは、申立人自ら提出の債権者一覧表で右時期の借入であることを認めている。)からは破産宣告前一年内に借入しており、その延べ借入回数は少なくとも四六回(番号5及び7についてはいずれも二回以上の借入が認められる。)に達しており、一三名の債権者からの総借入回数五〇回の約九二パーセントを占めており、また、右の破産宣告前一年内の期間は、前項で検討したとおり、支払不能の状態にあったのであるから、右の借入れは破産原因が発生した後のもの(以下、「当初支払不能借入金」という。)であり、これが負債の大部分を占めていることが認められる。なお、右の借入日は、申立人が提出した債権者一覧表によれば、破産宣告一年内のものは番号2のもの一件のみであるが、債権者が提出した意見聴取書は、自己が貸金回収のために必要であるから大切に保管している借用証の記載を見つつ作成したものであろうからその信用性は高く、右意見聴取書に借入日の記載のある限りこれにより借入日を認定した。

3  当初支払不能借入金の借入時における申立人の内心

申立人は、負債約一〇〇万円を抱えた昭和五九年四月の時点で既に自己の経済的破綻は火を見るより明らかとなっており、そのことの自明さからして、申立人としても十分それを知りつつ、単に自転車操業により右経済的破綻の顕在化を先送りし、何食わぬ顔をして、しかしやがて来るべき右経済的破綻の顕在化を内心では恐れつつ、刹那的平穏の日々を送っていたものと推察され、すると、申立人は、右の時点で自己の経済的破綻すなわち破産原因たる支払不能を知り、以降右経済的破綻はより一層深刻化することをも十分熟知しつつ、その過程で、前記の当初支払不能借入金を借り入れているというほかはない。

一件記録によれば、申立人は、自己の負債の詳細についてほとんど分からない状態であることが窺われ、それは、借金の発生・返済状況等についてのメモをしていないことに起因すると考えられる。一般に、借主は、その当然の責任としての返還約束を果すために、自己の収入の予定、借金の発生、支払期限、支払方法、利率、利息の金額、これまでの支払額及び支払残額等について、各債権者毎に区分して、かつ、毎月の収支の均衡が分かるように工夫したメモを記すであろう。なぜなら、もしこれを怠れば、毎月の収支の詳細が鳥瞰しにくくなり、少し気を許せば毎月の収支が赤字であることに気付いてそれまでの返済計画の甘さを反省して右返済計画を改善していく等の対応が遅れがちとなり、ひいては、自己の経済的破綻を招来するであろうことは、特別の学識を必要とせず、通常の社会生活を送っている人にとっては、極めて見やすい道理であるからである。それなのに、申立人は、多数の借金を抱えていながら、このようなメモを記していないのであるから、借金をした当初から、返済計画は念頭になかったことが推測され、そのことは、とりもなおさず、借金の返済の意思の欠如を着実に物語るものと言う他はない。また、本件破産記録中の債権者ジャルカード、同ダイエーファイナンス、同ライフの各意見聴取書によれば、申立人は、ギフト券及びビール券等のいわゆる金券をクレジットで購入していることが窺われ、しかも別紙負債目録中右債権者についての箇所を見ると同金額の借入が数多く見られることから右の金券を多数回にわたって購入したことが推察され、短期間のうちにこれほどまで多くの金券を必要とすることは通常考えられず、右意見聴取書の債権者の指摘をも考慮すると、右の金券は当初より換金目的でクレジットで購入し直ちに金券を売買している業者等へ持ち込んで換金していることが窺われ、その金券購入のすべてが前記のとおりの支払不能状態の下での行為であることを思えば申立人は、いわゆる取り込み詐欺と同様の批難は免れえないものである。以上見てきたように、客観的に明らかに支払不能状態の下での借金についてはそのこと自体申立人に支払意思が欠如していたことを強く推認させるうえに、返済計画の立案に不可欠な前記メモを申立人はつけていないこと、取り込み詐欺まがいの行為をしていることをも合せ考慮すると、申立人は、前項で述べた当初支払不能借入金を借入れする際には、返済の意思はなかったものと認めるほかはない。なお、免責事件の破産者審尋において、右と同様の状況の窺える破産者が、自転車操業のつもりであったので、返済の意思はあった旨弁解する例が多いので一言するに、自転車操業を続けていけば、少なくともその間の金利の分だけ負債は増大するので、それは、無限連鎖講と同じく終局において破綻すべき性質のものであり、これに資金を供与した者の相当部分の者に経済的損失を与えるに至るものであるから(無限連鎖講の防止に関する法律第一条参照)、すなわち構造的な詐欺であって、それを承知のうえでなお新たな借金をつくるのは、自己の不特定の負債につき支払不能となることの認識・認容があったことの証である以上、返済の意思のなかったこと(すなわち、詐欺の故意)は極めて明らかである。

4  当初支払不能借入金の借入時における申立人の言動

一件記録によれば、申立人は、前記の多数回に及ぶ当初支払不能借入金の借入申込から実際の金品の交付を受けるまでの間に、債権者に対し、自己が現に支払不能状態にある旨を告知しなかったことが窺われる。これを破産法第三六六条ノ九第二号にいう詐術ということができるであろうか。

右の詐術という用語が何やら怪しげな奇術、忍術の類を連想させがちであるが、申立人が支払不能状態にあるのにそうでないように相手方を錯誤に陥らせるような行為をすることをいい、その手段・方法には制限はなく、言語によると動作によると、作為によると不作為によるとを問わない。すなわち、詐欺罪における欺罔行為と同様に考えることができる。民法第二〇条の無能力者の取消権の排除の要件としても詐術という用語が用いられているが、民法の掲げる無能力者保護の原則の例外であるから、ある程度その認定を慎重にすべき必要性が認められるのに対し、免責申立人は能力の点では欠けるところがなく、債権者との間で対等な法律行為に及んでいるのであるから事情はおのずから異なり、免責事件における詐術の認定を慎重にすべき理由はない。

この問題の検討のはじめに強調すべき点は、申立人が支払不能状態にあることを、債権者が知っていれば、申立人に金を貸すはずがないということである。借り替えすなわち準消費貸借や弁済期の猶予についても同様であろう。もっとも、本件の如きいわゆる消費者破産の事例においては、債権者である貸金業者は借主の返済能力を超えた過剰貸付を行ない、借主の返済能力のないことを承知のうえでなお貸付けているので借主が自己の返済能力について詐術を用いたとしてもその点につき錯誤に陥ることはない旨の主張が見受けられるが、過剰貸付の点は後述するとして、一般に、貸主は、借主と親兄弟等の親族関係または特別の恩義のある場合等のごく例外的場合を除けば、貸した金は返済してもらいたいと考え、そのため、貸す際に借主の返済能力についてぜひとも知りたいと考えるであろうところ、まして、貸金業者は営利のために借主に金員を貸し付けるのであるから右の点はなおさらであろうから、貸金業者が借主の返済能力のないことを承知のうえで貸付けていることは認めることはできない。なお、貸金業者も、銀行や一般企業と同様に、経験上一定の貸倒れが発生することを予定している(いわゆる貸金業者の高利息とは、このような貸倒れによる危険に耐えうるためという趣旨をも有していると考えられる。)としても、それは、企業が営業を永続していくために当然に必要な配慮であり、すなわち自己保存のためであって、決して借主の返済不履行を許容する趣旨とは考えられない。

さて、契約法を支配する信義則上、契約の締結にあたって相手に不当な損害を被らせることのないよう配慮するのは当然であり、すると、申立人は、前記借入時には支払不能状態でありそのまま借金をすれば返済できずに債権者に損害を与える蓋然性があり、しかも債権者の内心が前記のとおりであるのだから、申立人は、借入時に債権者に対し、自己の支払能力の欠如の事実を告知する義務を負っていたと言うべきであるから、不作為の詐術を用いたとも言いうる。しかし、消費貸借契約とは返還約束がその不可欠の要素であるから、申立人は、右契約の申し込みをした時点で返還約束の当然の前提である弁済期における返還能力がある旨を黙示で述べたものと認められ、ただあまりに当然すぎて口に出さなかっただけであること及び以下に述べる無銭飲食の事例との比較から推して、これは作為による詐術(詐欺)と構成することができ、むしろこの方が事案の真相を捕えた直截かつ常識的構成というべきである。すなわち、無銭飲食においては、注文者が、代金支払の意思も能力もないにもかかわらず、その事情を相手に告げず、人を欺く意思をもって注文をなすときは、その注文行為自体をもって詐欺罪における欺罔行為であるとされている。これと同様に、申立人が、支払期限における借入金元利を支払う意思も能力もないにもかかわらず、その事情を債権者に告げず、債権者を欺す意思をもって借金を申し込んだ行為自体をもって詐術の着手ということができる。

右のとおり、申立人による詐術の内容は、外見上は単なる借金の申し込みであり、極めて「良心的な詐術」のように見えるため、破産法第三六六条ノ九第二号にいう「詐術」と構成するにはいささか善良かつ平穏裡にすぎるのではないかとの疑問を抱く者もあるやもしれない。そこで念のため若干付加すると、第一に、一考すると、申立人の氏名詐術などは詐術として把握しやすいが、債権者にとってみれば、申立人の氏名の真偽自体はどうでもよく、それは借主が申立人であることを、詐称された氏名を記入した借用証では立証できずに、結局、その貸金を回収することができなくなる可能性がある点で黙過することができないのである。このことからも分かるように、申立人から借金の申し込みを受けた債権者がその承諾の是非について知恵を廻らすとき最も重点を置くのは申立人に返済能力があるや否やについてであろう。すると、返済能力がないのにあることを当然の前提とした借金の申し込みをすることは、債権者の最も重点を置く中核的事項について欺罔することであるから、右の氏名の詐称等の形式的部分の欺罔と比べて格段に悪質である。実際、申立人は、債権者に対し、単に借金の申し込みをしただけで、申立人の返済能力がないのにこれがあるかのように債権者を錯誤に陥れているのを見ても、申立人のした右の単なる借金の申し込み自体、債権者を錯誤に陥れるのに十分な威力を発揮していると言うことができ、それがいかに危険な陥穽であるかが分かるというものである。第二に、本件の詐術の積極的側面を看過してはならない。申立人が自宅にいるところを押し売りに無理に品物を買わされるのと同様に、貸金業者のセールスマンが来訪し無理に必要もない借金をさせられたというなら(「押し貸し」とでも言えようか。)なるほど受動的な態様であると言えようが、一件記録からは、申立人は自ら債権者の店舗等へわざわざ出向いて行って進んで借金の申し込みをしていることが窺われ、申立人の本件詐術に見る能動的、積極的側面を十分思い知ることができる。申立人が、債権者から信用貸付する旨言われたとしても、それはあくまで借金をする機会を与えられたというにすぎず、借りる義務を負っているわけではないのだから、借りるか否かは申立人の良心に委ねられているところ、借りようと決心する心理の動きにも、前記積極的な詐術の側面を裏打ちするものがある。いわゆる釣り銭詐欺すなわち相手が誤解から釣り銭を本来のものより多く出したことを知りつつ黙ってこれを受領することを、相手が既に陥っている錯誤状態をそのまま利用して財物を取得した点をとらえて不作為による詐欺と構成しうるが、これと比べても、申立人の単なる借金の申し込みが、実は、積極的行動を伴っていることが分かる。第三に、右の事情の中からも、申立人による詐術は、人の弱みにつけ込む傾向が十分に窺われる。すなわち、申立人は、貸金業者の顧客に対する信用調査が不十分であることを過去多数回に及ぶ右業者の利用を通じて十分知ったうえで、この点を逆手に取ってあるいは高を括って、右業者から多数回に及ぶ新たな当初支払不能借入金を借り入れており、これは右業者のまさに泣き所を巧みに突いた悪質な詐術である。なお、この種の消費者破産の事例では、債権者である貸金業者が借主の返済能力について十分調査せず、過剰貸付をしているとの主張が往々にしてなされる。なるほど、貸金業者は、貸金業の規制等に関する法律第一三条により、顧客となろうとする者の信用状況等について調査する義務を負い、過剰貸付を禁止されている。貸金業者としては、その営利のために金員を貸し付けるという本質上、法により命ぜられるまでもなく、また、人に言われるまでもなく、自ら進んで借主の返済能力を調査し過剰貸付を回避しようと試みるであろうが、それはなかなか困難なことと考えられる。業者間のいわゆるブラックリストへの登載の有無等を調べ、借主に各種申告を求める程度のことは経済的に引き合う程度の手間をかけるだけで実行可能であるが、それ以上に借主の懐ぐあいを調査することは借主のほとんどが一見の客であることからしても、借主が自らこの点につき正直に申告するのでなければほとんど不可能と言ってよい。それにもかかわらず、貸金業者に対し、右の実行の可能な程度を越えた行動を求めることは、不可能を強いることになる。翻って考えるに、借主の返済能力について一番良く知っている者は、他ならぬ借主自身であるのだから、借主に自己の返済能力を越えた借り入れを行なうことのないように求める方がより合理的である。また、貸金業者の組織内において、出資者が経営担当者に対し、経営担当者が貸付担当者に対し、顧客の信用調査の甘さを追及するのは道理であるが、債務不履行を続ける免責申立人にその資格はない。故に、貸金業者に対する前記批判は理由なく、本件では考慮しない。以上見たところによれば、申立人による詐術の内容は確かに一見極めて良心的に見えるが、その実、逆に十分な社会的批難を免れえない「堂々たる詐術」であることが分かるであろう。

さらに駄目押しをすると、申立人が支払不能状態にあることを黙秘したまま借金をしたことが詐術にあたるか否かについては、最終的には、一般人の常識的判断に従うべきところ、誰でも当然返済してもらえると思って人に金を貸したのに踏み倒され、しかも右貸付当初から借主が支払不能状態であったことを後に知ったとしたら、直ちに「騙された。」と思うであろうが、その感覚に反する結論つまり右借入を詐術ととらえない考えは、世人におよそ受け入れられないものである。

以上の諸点を総合考慮すると、申立人の前記当初支払不能借入金の借入れを、破産法第三六六条ノ九第二号にいう「詐術ヲ用ヒテ信用取引ニ因リ財産ヲ取得シタルコト」にあたると認める。

5  まとめ

以上によれば、申立人は、破産宣告前一年内に、破産原因たる支払不能の事実がありそれを承知しているにもかかわらず、あたかもその事実がないかの如く装って、債権者多数に借金の申し入れをし、そのため、申立人に返済能力があると誤信した債権者が貸し渡した金員をそのまま何食わぬ顔をして受領したことは明らかであり、これは、破産法第三六六条ノ九第二号に該当する事由と言わざるをえない。

二破産法第三六六条ノ九第三号該当事由

1  先に一2項で認定したとおり、申立人の負債の大部分が破産宣告前一年内に発生しているにもかかわらず、申立人が当裁判所に提出した債権者一覧表によれば、破産宣告前一年内に発生した負債は番号2(借入日昭和六二年三月一日、残額一七万五二九〇円)のみであることになっている。右の破産宣告前一年内に発生した多数の負債が仮に他人の借金の保証債務というならばその発生日の記憶が元来大概にしても不明確であることも納得しうるが、右の負債は申立人自らの借入によるものであり、しかもその借入日が破産宣告日から遡ること一年内という相対的に新しいことであるから記憶の減退もさほど考慮する必要はないであろうことを思えば、申立人は、右債権者一覧表の借入日をことさら過去に遡らせその大部分が破産宣告より一年以上前のものであるかのように記載したもの、すなわち、借入日について虚偽の債権者一覧表を、その虚偽であることを知りつつ、当裁判所に提出したことが推認される。これは、破産法第三六六条ノ九第三号に該当する事由である。

2  ところで、破産法第三六六条ノ九第三号の「破産者ガ虚偽ノ債権者名簿ヲ提出シ」の解釈について、次のような考えがある。すなわち、右条項を、同法第三六六条ノ一二但書第五号が債権者名簿に記載されなかった請求権が非免責債権となると定めていることと対比してみると、ある事由が、免責不許可事由であり、同時に非免責債権を成立させる事由にもなるということは矛盾しているから、右両条項は異なった目的を持っていると考えるよりほかはなく、そうすると、債務者が、単純に債権者名の記載を怠った場合は、当該債権が非免責債権になるという結果をもたらすにすぎず、免責不許可事由とはならず、「虚偽ノ債権者名簿ヲ提出シ」とされるのは、債権者を害する目的で、債権者名を秘匿したり、架空の債権者名を記載する場合に限られる、というのである。しかしながら、ある事由が、免責不許可事由であり、同時に非免責債権を成立させる事由にもなるということが矛盾しているという前提が、既に採用の限りでない。なぜなら、ある事由が免責不許可事由であるが、裁量により免責が許可された場合、なお個別的事情から非免責債権を成立させることは十分意味があることであるからである。そうすると、破産法第三六六条ノ九第三号にいう「破産者ガ虚偽ノ債権者名簿ヲ提出シ」というのは、法文を素直に読んだとおりに解釈し、破産者が客観的に内容が虚偽の債権者名簿をそれと知りつつ提出することと理解すれば良いのである。前記の考えのように、「債権者を害する目的」という非常に証明困難な法文にない主観的要件をことさら付加することは、免責事件が対立当事者双方から主張・立証するという構造をとらないため、元来判断資料が少ないことを思えば、破産法第三六六条ノ九第三号にいう「破産者ガ虚偽ノ債権者名簿ヲ提出シ」の法文の適用をほとんど不可能にしてしまい、実務上およそ使いものにならない考えと言うほかはない。

三申立人の本件破産に関する誠実性

破産法第三六六条ノ九の各号の免責不許可事由に該当する場合は、裁判所は、免責を許可するか否かの裁量権を有するので、その裁量権の行使に必要な検討を、申立人の負債並びに本件破産及び免責手続に関する誠実性を中心にして行なう。

1  破産法第三六六条ノ九第二号該当事由に内在する事情

まず、申立人の当初支払不能借入金を借り入れたときの内心について見ると、申立人は、自己に返済能力があると誤信した債権者が貸してくれるという金員を黙ってそのまま受け取っているが、その瞬間、債権者は丸損となることがほぼ決定したことになるのであり、申立人は、自分さえ金員を手にすることができれば相手にいかなる損害を与えてもかまわないという自己中心的思考の実行に憂き身をやつしていたと言うことができる。換金する目的で金券を多数購入している申立人の姿を思い浮べると、そこには唯々目的のためには手段を選ばないという紛れのない悪徳が支配していて、良心のとがめはいささかも感じられない。もっとも、申立人は、破産者審尋において、当初支払不能借入金の借り入れは、それまでの借金を返済するためにやむなくしたかの如き口吻を漏らすが、返済目的のためという側面が一部に認められたとしても、目的のためには手段を選ばないという理屈は許容してはならない。返済目的ならば詐欺をしてもよいということにはならないのである。また、右の返済目的の新規借り入れとは、前叙のとおり、要するに、自転車操業そのものであり、それは、無限連鎖講と同じく反社会性が高いので、右返済目的の存在は決して申立人に有利な事情とは言えない。一件記録によれば、申立人は、当初支払不能借入金の一部は、自己の生活費及び遊興費等に消費したものの、他の一部は実際にそれまでの借金の返済に充当したことが窺われる。しかし、当初支払不能借入金は申立人の詐欺の敢行により獲得された賍物であり、仮に若干の要件を欠くため詐欺と構成されない場合でも賍物に準ずる性質を有すると言うことができ、賍物の使途は被害者たる債権者の全くあずかり知らないことであること、賍物の使途が仮に有益なものであってもそれを鼻にかけ自己をいわゆる義賊とみなして正義の一端は自己にあるなどと言うのならそれは断じて許すべからざる居直りであることに思いを至すと、右の返済への充当は、決して申立人に有利な事情ではなく、単に当初支払不能借入金の使途が浪費である場合よりはましであると言うにすぎない。また、申立人のいう返済のために「やむなく」借金をしたとの点についてみると、本件の如き消費者破産の事例において、同様に「債権者からの厳しい督促」を弁解の一つとして主張する場合が多い。しかし、右督促を受けること自体、申立人が、金銭債務は不可抗力をもって抗弁とすることができない(民法第四一九条二項)うえに、持参債務が原則となっている(民法第四八四条)にもかかわらず債務不履行を続けていることが原因であり、また督促の厳しさは違法にわたらない限り債務不履行の頑迷さと相関関係にあることを思えば、これを自己に有利に援用すること(免責を許可すべき一事由として主張することはまさにその典型である。)はおよそ許されることではない。仮にこの点を置くとしても、債権者が頑迷に債務不履行を続ける悪質な債務者に対し、やや強く支払の催促をするのは条理上当然であり、また権利の行使として適法であり、債務者がこの支払に充当すべき金員を獲得する一手段として、取り込み詐欺、当初から支払いの意思も能力もないのに借金をする形式の詐欺、その他窃盗、強盗を敢行したとしても、債権者の支払の催促と債務者の詐欺等の行為とは法律上相当因果関係がなく、常識的に見ても前者は後者を敢行する正当な理由であるとはとうてい言うことはできない。さらに、申立人が債権者からの督促により多少精神的に追い詰められていたとしても、その程度は、浮浪者が空腹に耐えかねての無銭飲食の事例と比べてそれほど緊迫した事情は窺えず、適法行為の期待可能性を欠くなどとは冗談にも言える状況はない。以上検討した如く、申立人の当初支払不能借入金の借り入れは、それまでの借金を返済するためにやむなくしたかの如き弁解は、全く理由がなく、申立人に有利な情状とは解されない。

次に、申立人による詐術の内容を見ると、一4項で述べたとおり、詐術が金銭消費貸借契約の中核たる申立人の支払能力についてなされており、非常な危険性を内包していること、一見不作為の詐術と考えられがちであるが、その実、積極的側面も多々見受けられること、人の弱みにつけ込んだものであること等を総合すると、右詐術の情状は悪質と言うほかはない。

次いで、借入の金額・回数・時期について見ると、別紙負債一覧表のとおりであって、申立人の当初支払不能借入金の借入れについて、いかに執拗、形振かまわず性懲りもない態度で一貫していたかが看取される。負債総額は、申立人の提出した債権者一覧表によれば、九七六万円余とのことである。これを大金と見るか否かはその人の経済力によるであろう。収入から生活費を控除した残額約一万円しか貯金できない者にとっては、無利息の一〇〇万円の借金もその返済に一〇〇か月もかかる大借金である。申立人の月収手取額は、昭和五七年一〇月の就職当初約一一万円であったことは一1項で認定したところであるが、免責事件の破産者審尋においても右の収入額は右金額とほとんど同程度であることが認められる。そして、一1項に見たように、申立人は、右の収入では生活費にも足らなかったので何の返済のあてもなく借金をして生活費の足しにしていたのであるから、借金が増える一方であったことは構造的、宿命的であって、昭和五九年四月の約一〇〇万円の負債を抱えた時点で金利の点を置くとしても、そのままの状況ではもはや未来永劫に負債を減らすことはできない事態に立ち至っていたと言え、右一〇〇万円でも申立人にとってはまことに巨額であったのである。それが九七六万円余の負債に増大した現在、形容することばもないくらいの巨額というほかはない。申立人は、免責事件記録中の上申書を通じて、「仮りに若干の免責不許可事由があるとしても軽微な事項にすぎず」と述べているのであるから、右金額を「小額」とでも考えているのであろうか。この申立人の態度は、いくら何でも虫が良すぎる。さらに、借入の時期について考える。本件の破産申立の日は昭和六二年九月一四日であり、債権者株式会社大信販からの意見聴取書によれば、同社は、同月四日付で弁護士より自己破産の申立てをする旨の通知を受けたことが認められ、すると、申立人は、代理人弁護士に対し、遅くとも同年八月下旬頃までには、自己破産の申立ての依頼ないし相談をしていることが推察される。そして、右に接近した時期の借入れを別紙負債一覧表から探すと、同年七月の借入れが一五回、同年八月上、中旬の借入れが一二回あり、申立人が、代理人弁護士に自己破産の申立ての依頼ないし相談を遅くともしているはずの同年八月下旬を見ると、同月二二日にはダイエーファイナンス(番号10)から一万九三二〇円を、同月二五日には大信販(大阪、番号4)から相当額を、同月三一日には日本信販(大阪、番号7)から相当額を借り、さらに、代理人弁護士が債権者に対し、申立人が自己破産の申立てをする旨通知した後の同年九月一〇日には大信販(神戸?、番号5)から相当額を借り、さらに驚きあきれるばかりであるが、右自己破産の申立てがなされた後の同月三〇日には日本信販(神戸)から一〇万円を借りていることを考慮すると、申立人は、どうせ破産してすべての借金を棒引きしてもらうのならば、この際行き掛けの駄賃だからもっと借りてしまえ、一人殺してしまえばあと何人殺しても同じだ、とばかりに遠慮なく借りまくったことが推察される。申立人の責任感と誠実性の欠如に唯々唖然とするばかりである。

以上検討してきたように、申立人の当初支払不能借入金を借り入れたときの内心における良心の欠如、申立人のした詐術の危険性、積極性、人の弱みにつけ込んでいる点、詐術の実行回数及びこれにより獲得した金額の多いこと、負債のほとんどが破産宣告前一年内の借金で占められており、しかも、破産申立ての直前さらにはその後にまで借りまくっていることを総合考慮すると、本件申立人についての第二号免責不許可事由は軽微であるとはとうてい言うことはできない。

2  破産法第三六六条ノ九第三号該当事由に内在する事情

申立人の提出した債権者一覧表の虚偽の点を別紙負債一覧表で逐一対照してみると、虚偽事項の多いことが分かる。

申立人が、右の如き虚偽の債権者一覧表を当裁判所に提出した理由は、破産宣告前一年内に借入れがあると免責が不許可になる旨、代理人弁護士からあるいは市井のこの種の情に通じている人から聞いて、右不許可を回避したいがため、あるいは、常識的に考えても、破産申立ての直前さらにはその後までも借りまくっていたことが裁判官に悪い心証を持たれるのではないかと危惧しての結果であると推察され、要するに免責許可により借金を棒引きにしてもらうためには、裁判所を騙すことも辞さないという態度であり、これは、当裁判所に対する限りない侮辱である。

その当裁判所を騙そうとする手段もずいぶんと念が入っている。申立人は、免責事件における破産者審尋に先立って当裁判所に提出された申立人代理人弁護士作成の上申書中の破産法第三六六条ノ九第二号関係の項目において、「本件破産債権額金九七六万九三七〇円の内金九五九万四〇八〇円は破産宣告日の以前一年内に生じたものではなく、内金一七万五二九〇円は右宣告日の以前一年内に生じたものである。」旨述べ、さらに、当裁判所の審尋に対し次のとおり答えて、白を切り通している。

問 申立人代理人からの上申書には、あなたも目を通しましたか。

答 はい。

問 上申書を見て内容に間違いはありませんでしたか。

答 はい。

問 上申書の免責不許可事由のところで、破産債権額金九七六万九三七〇円の内金九五九万四〇八〇円は破産宣告日の以前一年内に生じたものではなく、内金一七万五二九〇円は、宣告日より一年以内に生じたものであるが、返済可能であると思っていたと書かれていますが、間違いないのですか。

答 はい。

問 破産直前に借りたようなことはないのですか。

答 はい。

………

問 もう一度聞きますが、債権者一覧表は見ましたか。

答 はい。

問 あなたの言ったとおり書いたものですか。

答 はい。

問 発生の年月日も、これで大体間違いないのですか。

答 はい。

(問答以上)

以上検討してきたように、申立人の提出した債権者一覧表中にあまりに虚偽事項が多いこと、申立人が同一覧表を裁判所に提出する目的が、裁判所から免責許可を騙取しようという極めてよこしまなものであること、その裁判所を騙す手段が念入りであることを総合考慮すると、本件申立人についての第三号免責不許可事由もまた、軽微であるとはとうてい言うことはできない。

3  その余の事情

申立人が支払不能に陥った原因は、自己の生活費の不足を返済のあてのない借金で賄ったことによるものであるが、申立人の審尋の結果によれば、申立人は現在の月収手取り約一一万円ないし一二万円のうちから約四万円を負債の返済にあてているとのことである。すると、申立人は月額約七万円ないし八万円で何とか生活を維持することができることが窺われ、もし申立人が、昭和五七年一〇月の就職以来、この金額の範囲内で毎月の生活を維持していたならば、今日のような経済的破綻には至らずに済んだはずである。よって、申立人は、自己の心掛けが悪いばかりに、客観的に十分回避可能な経済的破綻を招いたことになり、申立人が支払不能に至った経緯に同情すべき点を見出すことはできない。

次に、債権者の本件免責についての異議について検討する。本件免責事件では債権者から異議の申立ては一件もない。これは一体何を意味するのであろうか。一般に、借主が返すというからこれを信じて貸したにもかかわらず踏み倒されてしまった債権者の痛みは常識でも分かることである。すなわち、免責が許可されればたとえ将来申立人の返済能力が十分回復することがあったとしても、法律上は申立人は返済しなくてよいということになるのであるから(当初支払不能借入金の借入れを詐欺と見ると、債権者は、貸金の元本及び法定利息程度は不法行為に基づく損害賠償として債務者に請求することができ、これに対する免責許可の抗弁は破産法第三六六条ノ一二但書第二号により主張自体失当となるが、事情に疎い債権者にとって、右詐欺の立証は困難であろう。)、右免責の許可について最も痛みを感じるのは債権者であり、国家も裁判所も申立人代理人も自分の痛みでないからと言って、右の債権者の痛みを等閑視してはならない。誰でも債権者の立場に立てば、踏み倒された金額の多少にかかわらずそのこと自体長期間あるいは生涯忘れることはできないであろう。従って、本件では、申立人が返済を約束し黙示で返済能力のあることを示したのを信じて申立人に貸したのにもかかわらず、申立人は不履行を繰り返し、しかもそれは借入当初から承知のうえでのことであるのだから、今に至っては免責許可により法律上も返済しなくてよいようにしようとしている申立人に対し、条理上何ら異議のない債権者がいるはずはなく、潜在的にはすべての債権者に異議があると考えるべきである。ところが、債権者がいざ異議申立てをするとなると予想外の手間と出費を覚悟しなければならない。すなわち、真摯な異議申立てをしようと考えたならば、まず、当庁破産係へ出頭し、本件破産及び免責の各記録を閲覧したうえ、できる限りの事実調査及び文献調査をすることが必要である。次の難問が異議申立書の作成であるが、この種の作成に慣れていない者にとっては大変面倒であり、法律的素養に乏しい一般人にはほとんど作成困難というほかなく、やむをえず法律的素養のある者に依頼せざるをえなくなろうが、その費用も馬鹿にならないであろう。前叙の債権者の痛みは、この新たな出費により倍化するであろう。しかも、依頼先を探すのも大変困難である。法律的に意味のあるような異議申立書を作成するとなれば、免責不許可事由に該当する事実を述べ、裁量により免責を許可すべきでない所以を、論理的かつ説得的に、その程度は少なくとも本決定の内容と同程度あるいはこれを凌駕するくらいを要し、すると、かような異議申立書の作成を依頼するとなれば、破産事件に疎い人はもとより、破産管財人の経験は豊富でも免責事件に疎い人、さらには、免責事件を多数扱っていても免責許可は自動的に発せられるものと思い込み高を括って免責不許可事由や裁量免責の限界について理論的検討を疎そかにしている人では心もとないと思うのは、無理からぬところであろう。異議申立書の作成が終ったら、自ら当庁へ出向いて、あるいは郵送で裁判所へ提出すれば足りるが、さらに、本件免責事件の破産者審尋期日通知書を受け取った債権者が、そこに「なお、免責手続にとくにご意見のない方は出席される必要はありません。」と記載があるのを見て、実は自分は申立人に言ってやりたいことや裁判官に聞いてもらいたいことは山ほどあると思ったとしても、実際に右審尋の法廷へ出頭するとなれば、仕事を休んで足代をかけることは覚悟しなければならない。これは、前記の記録閲覧等のための来庁についても言えることである。当裁判所は、免責申立人の保証人となったばかりに数十万円の弁済を余儀なくされた東京在住の債権者が、当庁の破産者審尋の法廷に出頭し、善意から免責申立人の保証人となってあげたのにこのような事態になってしまった苦悩を涙ながらに訴えた例に接したことがあるが、債権者一般にこのような行動を期待しうるものではない。以上一瞥した債権者が異議申立てをするについての困難を思えば、債権者が、申立人の長期に及ぶ債務不履行の果てに破産宣告があったことを知って、自己の債権回収につきすっかり諦めきって泣き寝入りをするしか道はないと思って、異議を述べる気にならないのも無理からぬことであり、ましてや異議を述べても裁判所がほとんどこれを入れない傾向の下ではなおさらであって、仮に免責事件において債権者に異議がない場合でもこれを債権者が申立人を宥恕しているとみなして申立人に有利に斟酌し、さらにはそれだけで直ちに免責を許可することは許されない。それは、財産犯(たとえば詐欺罪)の刑事裁判において、単に被害者が処罰感情を積極的に表明していないというだけでは被告人に有利な事情とは言えず、被害者が被告人を宥恕し減刑を嘆願する旨まで述べて初めて被告人に有利に斟酌するのが一般であるというのと同様のことである。また、もし債権者が、本気で申立人を宥恕しているならば、とうの昔に債務免除をしているであろうところ、一件記録からはそのような事情は窺えず、この点からも債権者は申立人を宥恕していないことが裏付けられる。それに加えて、本件では、免責手続上の正式の異議申立ではないが、本件破産記録中の意見聴取書において、別紙負債一覧表番号3の債権者株式会社ジャルカードは、「本件は、最初から返済の目途がないにもかかわらず、無計画なカード利用により、多額の負債を負うに至ったもので、詐欺的行為と推察される。カード利用代金の内容からみて、デパートでの換金性の高いギフト券の購入であり、突然、破産申立ての通知書が送付されたことは、納得しがたい。」旨、同番号4の債権者株式会社大信販(大阪)は、「昭和六二年九月四日付けで弁護士より自己破産の申立てをする旨通知があったが、その通知日の間際まで(八月二五日)カードの利用があった。」旨、同番号10の債権者株式会社ダイエーファイナンスは、「破産は債務者の勝手行為(による)。債務者は、ビール券を換金目的で購入し、破産の申立てをした。常非に悪質につき、破産による救済は認めがたい。」旨、同番号14の債権者株式会社西武クレジットは、「借入(買物)をしてから一年以内に破産の申立てをしたので免責にしないでください。」旨、同番号18の債権者株式会社ライフは、「カードで百貨店にてギフト券を購入して一回も支払いがなく、換金している。明らかに詐欺的行為である。」旨、同番号20の債権者扇商事有限会社は、「債務者は、昭和六二年四月六日既に五件合計一二六万円の借金を有し、同年八月二五日には六件合計二五五万円に借金が増額している。その内容から債務者は、短期間に返済能力を上回る金額を借り入れ、なおかつ増額を申し込んでおり、明らかに債務者の計画的な破産申立てと思われる。」旨、同番号21の債権者ナショナル信販こと佐藤実は、「支払能力、支払意思がないのに借金をしたのは債務者の詐欺及び勝手行為であり、破産は認められない。」旨述べて、本件免責に異議がある態度を示している点に注目すべきである。

次に、申立人は、破産を招いたことにつき現在反省しているのであろうか。前叙のとおり、申立人は、現在では、一応真面目に稼働し、負債総額から見れば全くの焼け石に水ではあるが、月額約四万円を返済していることが認められるが、しかしそれはあたりまえのことであって、特段申立人の反省心の発露とみなして申立人に有利に斟酌することはできない。もし、申立人に、自転車操業当時と比べて現在はずいぶんと誠実な生活振りである点を多少でも人に自慢したい気持ちがあるとしたら、それは物差し自体が狂っていることを深く自覚しなければならない。申立人の本件審理に臨む態度についてみると、まず、三2項で見たとおり、申立人は、当裁判所に対し、借入日が虚偽の債権者一覧表を提出し、免責許可を騙取しようとしたことは、申立人には右の反省心はなく、借金を棒引きするためには裁判所を騙すことぐらい何とも思わないという悪徳が現在もなお支配している何よりの証である。次に、申立人は、破産者審尋において、当初支払不能借入金を借り入れるに際し、あくまで自己が働いて返そうと思っていた旨述べているが、それが客観的におよそ不可能であることは前叙のとおりであり、申立人自身もそのことを百も承知のうえでなお聞くに耐えない空しい弁解を繰り返しているとしか考えられず、申立人の反省心の欠如が推察される。さらに、申立人は、申立人代理人作成の前記上申書を通じて、破産宣告前一年内に発生した負債は一七万五二九〇円(金額からして、負債一覧表の番号2を指すのであろう。)のみであり、これは借入時において返済可能と思っていた旨、虚偽の債権者名簿を提出した事実はない旨述べていて、相変らず白を切り通しており、反省心は見られない。この上申書の末尾には申立人の反省心の欠如が余すところなく集約されている。すなわち、「以上の通りであるから、破産者はこれまで誠実に生活してきており更生に努力し免責不許可事由もないので、免責相当と思料する。また、仮りに若干の免責不許可事由があるとしても軽微な事項にすぎず著しい違背行為とは認めがたく、更生意欲をくみ裁量をもって免責されるのが相当であると思料する。」旨の記載があるが、これまで見てきたように、当初支払不能借入金を詐術を用いて獲得したこと、裁判所から免責許可を騙取しようと種々の小細工を弄したことを中心とする幾多の違法行為、反社会的行為、そして何よりも、これらの申立人の行為により丸損した債権者の痛みを考慮すると、申立人は、自己のこれまでの生活態度全般の無責任さ、非について何も理解していないと言うほかなく、この状態では、申立人は、右の自己の行為につき真摯な反省をし、道義的にも心底反省悔悟したうえ、更生していくことは望むべくもない。右の上申書にある申立人のこれまでの生活を誠実と評価する根拠はどこにあろうか。むろん、誠実という用語は抽象的であり人により多少意味も異なるとは思うが(岩波書店刊広辞苑では、「(他人や仕事に対して)まじめで真心がこもっていること」とある。)、右に見たような申立人の所業を総合して考慮しても、なお「誠実」と評価することはおよそ不可能であろう。それにもかかわらず、自己は誠実であったと主張して憚らない申立人に対し、当裁判所は、ことばもない。

四免責許否の基準及びその本件への適用

1  免責制度の運用の現状

近時、消費者の自己破産の事例が増加して以来、右事例のほとんどが免責を許可されるため、現在ではそれを至極当然とする考えが市井に流布し、その理論的根拠や運用上の問題についての検討が動もすると疎かにされがちであるが、当裁判所は、本件の処理にあたり、右の風潮に安易に従って事足れりとはせず、若干ではあるが右の諸点についても目を向けたうえで結論に至ることとする。

右の免責を許可すべしとの考えの最たるものは、「債務者(あるいは弱者)救済」を呪文の如く唱え、免責は自動的に許可すべきであるという(以下、「呪文説」という。)。次いで、そこまで徹底しないとしても、免責をめぐる諸論点の議論において複数の説がありうるときは、論者は「債務者救済」を自説の根拠として諸説のうちで最も「債務者救済」に都合のよい、端的に言えば債務者に有利な説を常に選択し、反対論はすべて「債務者救済」を錦旗として恰も朝敵の汚名を着せて誅滅するが如く押し潰し、議論の分岐点ごとにこれを繰り返すと、実務上ほとんど出合わないであろうような奇想天外な超不誠実な者以外は皆許可すべしということになり、結論は呪文説と同一となる(以下、「錦旗説」という。)。その意図が呪文説と同一であることは丸見えであるが、何だかんだと議論していく過程で反対論も織り込み済みであるという外形を繕うため、もはや反論を許さない叡慮の結果の如く、世人も受け入れやすい。

さて、そう考えて免責を許可した場合について見ると、利するのは申立人であり債権者は丸損する(申立人に対する債権の経済的価値は既にほとんど皆無となっているのを法律上の効果にまで高めるという趣旨である。なお、申立人は、右債権の無価値化を招来した張本人であるから、免責前に既に右債権の無価値化していることを理由に、免責は債権者に対して経済的損失を与えるものではない等と言う立場にはないことは言うまでもない。)。しかし許可の影響はそれのみには止まらない。この程度の悪質な当初支払不能借入金をつくっても結局何らの対価を求められることもなくつまりただですべて棒引きにすることができるという前例として社会に知られ、人々の行動の予想の一資料となるであろう。この結果、債務者は生活費を節約してまで借金の返済で苦労するのが馬鹿らしくなり、債務者の責任感を低下させ、ひいては与信の発達した現在の経済的秩序を蝕む危険を増大させると言わなければならない。すなわち、免責に寛容な姿勢は、信用取引が発達したためその利用者は与信を受ける自由を享受するのと引換えにそれに応じた責任を自覚することが不可欠となっている現在の時代の要請に真っ向から反するのである。債権者が、債権回収のため司法府や強制執行制度を利用しようとしても、債務者の提出する免責の抗弁のためにその利用を阻止されてしまうのだから、債権者の目には、債務不履行を続ける悪人を国家が庇い、たとえどこへ訴え出ても取り上げてくれない、国家は我を債権者と呼ぶけれども単なるリップサービスにすぎないではないかという怒りを交えた悲愴な無力感がうっ積し、ひいては、法の威信、国家への信頼と尊敬を損なう結果となろう。また、金融の閉塞により、善良なるも銀行に縁なき人々がかえって経済的に困窮する事態にもなろう。ここに巷間敵役とされがちの貸金業者の社会的存在意義を確認することができる。すなわち、不意の出費のため一時的手許不如意となり将来返済のあてがある範囲内で誰からか借金したいと思うことは、多くの人にとって、長い人生の間には十分ありうることである。ところが、そのうち銀行で融資に応じてくれる人は少数派であり、その余の大多数の人は、まず、親族、知人、友人、同僚等に借金を申し込むことにならざるを得ないが、言うは容易いものの実行はずいぶんと敷居が高いであろう。借用申込した金員が少額のときは、相手に何だそのくらいの金もないのかと蔑まれはしないか、高額のときは使途を追及されたうえ右申込を拒絶されるのではないだろうか等と考えると切りがない。その際通常挨拶代りの手土産を持参するであろうが、少額の借金の場合は案外その出費も馬鹿にならない。首尾よく借用することができ、約束通り返済したとして、後々まで貸主に「あいつは今でこそ羽振りがよいが、あいつがああしていられるのも、その昔俺が金を貸してやったことがあるお陰だ。」と陰口を叩かれるのは覚悟しなければならない。もし踏み倒しでもすれば、それまでの懇意な間柄もそれで終るどころか、幾多の人間関係の破綻を連鎖的に招来しかねない禍根を将来に残すことになる。ところが、貸金業者から借金をすればこのような心配はない反面、金利は信用の値段であり(故に、金利は単にその数字の比較のみでは高低を計ることはできない。)銀行から融資を受けられないことはそれだけ信用の乏しいことの証であるから、銀行と比べて高金利であるのはやむをえない。従って両者は一長一短を有する。故に、借主が、返済能力の範囲内で貸金業者から借りるときは、右の長所をうまく享受することができる。このことからも分かるように、貸金業者は利用の仕方によっては庶民には大変便利な存在であり、これを前記のように敵役に仕立てたのは自己の返済能力の範囲を越えて借りまくり経済的破綻を自招した債務者たちである。すなわち、前記金融の閉塞とは、大多数の善良な債務者が、一部責任感のない不良債務者のために、必要な金融の途を閉されるというのが実体である。このように、免責の許可は、遵法精神の低下、経済の混乱にとどまらず、広く道徳的、倫理的、教育的、社会的、政治的に好ましくない影響を各方面に与えかねない。いわゆる徳政令の発付により時の経済が混乱し、時の権力が人心を失なったことを例に引くまでもあるまい。

この傾向を少し具体的に見ると、まず、他人の危険負担の下に無謀な経済活動をし、免責手続になると、破産の原因が企業経営の失敗にあるのだから消費者破産の事例より寛大に許可されてしかるべきである旨主張する例がある。消費者破産の事例では、放縦な消費生活を満喫し、その尻拭いを自分でせずに免責制度に持ち込む例が多い。男の債務者では遊興費、女では毛皮のコート、指輪、何十万円もする鍋等の買物等の浪費を伴う収入に不相応な生活をしている者が多い。クレジットで買った趣味の品多数を処分して少しでも返済に充てる努力もなく、そのまま自宅に置いたままにし、借金のみ棒引きにしてもらい、本当の丸得を企図する例もある。情状まことに悪質な者でも、免責事件の審理になると皆自己を「誠実」であると自称し、許可を得るに不都合なことは明白でもそれを常に「軽微」と称して憚らない。これに見るように、心底からの反省心は見られない。破産及び免責の申立てにおける申立人の提出物も内容は粗雑で投げやりのものが多く、裁判所の指摘を受けても満足に補充しようとしない。たとえば、免責事件の審理に不可欠の負債の発生日の記載が資料中に全く欠落している場合が多く、巨額の借金を棒引きにしてもらいたいと言うのだから、当然右の欠落の補充くらいするだろうと思って申立人にその旨伝えると、案に相違して調査する熱意が全くないことはしばしば接する事例である。免責申立人がこのようなずぼらな態度を示すのは、それでも裁判所は結局免責を許可してくれるからという考えがあるからであろう。裁判所もずいぶんと見縊られたものである。

債務者の右の態度は、むろん怪しからんことではあるが、それでも、債務者が破産を恐れなくなり、厚顔、無反省のまま従来の不誠実で横着な態度に終始しているだけで、全体として消極的、怠業的傾向が窺われる。ところが免責許可の影響はこの程度では納らず、債務者をより積極的、能動的な反社会的行為へと駆り立てる。まさに、債務者の逆襲と言うに相応しい。すなわち、第一に指摘されるのは、借り得、踏み倒し得の悪質化である。破産申立ての直前さらにはその後にも借りまくる債務者が増えている。恰も一人殺せば百人殺しても同じだと言わんばかりの振舞いである。彼にとっては、与信制度はまさに金の成る木、打出の小槌であろう。第二に、免責を許可されても、それまでの無責任な生活態度全般に対する真摯な反省がない限り、破産法第三六六条ノ九第四号を逆手に取って、一〇年に一度免責をもらわなければ損だという考えに立ち至るであろう。一度しかない人生だから、太く短く生きた方が得だという人生感の持ち主にとっては、自己の思想の具体化であり、何の抵抗もなく受け入れられるであろう。第三に、近時、交通事故の加害者が、被害者に対して分割支払による賠償をする誠意も示さず、直ちに多額な損害賠償債務を支払うことが不能であるとして、自己破産、同時廃止の申立ての道を選ぶ事例、あるいは、その申立てをすることをほのめかして損害賠償金を値切る交渉をする事例が登場し(法曹会刊「破産事件の処理に関する実務上の諸問題」二五七頁)、ここまで来ると、裁判所あるいは免責制度が脅しの道具と化しているとさえ言えよう。第四に、債務者の前記裁判所に対する見縊りの態度が高じ、情状極めて悪質な債務者が、裁判所を頭から馬鹿にしてどうせ実のある審理をせずに許可してくれるであろうと高を括って、自己に不都合な事項はどれ程重大なことでも申告せず、それまで多くの債権者から金を借りると称し騙し取っていた如く、免責許可の裁判を騙取しようとする傾向が見受けられるようになった。この種の債務者は、裁判所を騙すぐらい屁とも思っていないのであろう。これら債務者に共通の考えは、自己をサラ金被害者などと称し(青林書院刊裁判実務大系6破産訴訟法四六七頁)、債権者を加害者と見る考えであり、右の債務者はこれを前記逆襲の精神的支柱とし、元来、「ない袖は振れない。貧乏人が一番強い。」と言われるのに加えて、免責制度という金棒(鬼に金棒というときの)を入手したのだから、今や怖いものなしというところであろう。今後、右の債務者の逆襲がどこまで進展するか、予断を許さない。

2  免責許否の判断の基準

しかし、一般人は、この事態を何かおかしい、何かが間違っていると感ずるであろう。その理由はよく分からないが、法、道徳、倫理等の仮りものの理屈ないし入れ知恵を用いるまでもなく、従って特別の学識を知らずとも、幼いころより生来的に獲得された常識に反する。借金を踏み倒したら、恥ずかしくて、お天道様の下を大手を振って歩けないはずなのに、逆に被害者を自称するとはどういうことなのか。しかも、裁判所という国家機関が関与していながらこのような事態になったのは理解できない。何か基本的視点が欠落しているのではないか。うまく説明できないが……。右の「おかしい」という感じを強いて敷衍すると、借金を踏み倒したままでよいとすると、借主は「儲り過ぎ」ではないか。そんなうまい手があるなら誰だってやりたいが……。では皆そうするかと言えばそうでもない。やはり何か人倫に反するような、良心のとがめを感じるような気がする。一般人の思いはこのようなところであろう。

この「儲り過ぎ」とは、公平と思しき状態からのずれすなわち偏差が黙過しえない程度に立ち至っていることを意味する。金銭的消費貸借を例にとると、借りてそのまま踏み倒すことを許すと、貸主は丸損し、借主は丸得するが、これがすなわち偏差が過大な状態なのであるから、右の偏差をなくすためには、「儲り過ぎ」の状態が解消するまで借主から貸主へ金員が移動することを要する。ここまで考えると、「借りた物は返すべきである。」という命題の実行が、「儲り過ぎ」の是正そのものであることが分かる。

一般人が、「おかしい」と感じたのは、この「借りた物は返すべきである。」という命題に反するからなのである。右命題は、これを聞いた者が発言者にその証明を求めることはないであろう。また、説明を求められても誰もうまく説明できないであろう。右命題は一般人にとってそのくらい自明なのである。この状況は、学識の程度、人生感、老若男女、古今東西、国家体制、その他多様な価値感の違いを越えてもなお変らない。よって、右命題は、数学でいう公理に相当する「根本命題」であり、人倫の大木と言っても過言ではあるまい。右根本命題がそれほどまでに自明かつ強固であるため、前叙のとおり、一般人が「おかしい」と思いつつも「うまく説明できない。」のも道理であったことが今なら十分納得することができる。従って、この極めて自明かつ強固な根本命題を忘れた議論たとえば呪文説は、それだけで一般人の支持は受けられないのである。

免責制度の理論的根拠について、自然人の債務は無限責任が原則であることとの矛盾を回避する説明に成功したとしても、それは免責制度の意義の積極的説明としては不十分であり、やはり債務者救済という政策的配慮を持ち出さざるをえないが、国家の政策といえども民主主義の下にあっては国民の支持を受けることを要することを思えば、免責制度の設営全般にわたって前記根本命題を忘れあるいは軽視することはおよそ許されることではない。そうすると、免責制度を設け破産者に免責申立権を与えたとしても、免責を許可しうる範囲は、右の国民感情からして、自ずから一定限度に制限せざるをえない宿命にあることになる(「呪文説」、「錦旗説」に対し、「内在的制約説」といえよう。)。こう考えて始めて、破産者の審尋期日への不出頭による却下(破産法第三六六条ノ一〇第一項)、免責不許可事由(同法第三六六条ノ九)及び免責の効果の制限(同法第三六六条ノ一二但書)の各規定の趣旨も心底から納得することができる(右各規定の趣旨の説明は、呪文説からは不可能であろうし、錦旗説からも困難であろう。)。従って、たとえ右各規定がなくとも、その各要件に相当する事情があるときは、国民感情からして、法技術的には免責申立権に対する権利濫用の法理の適用としてその各効果と同一の判断をすることが可能であるところを、立法者が右判断の客観性を担保するため、右各規定を設けたと考えられる。そうすると、免責不許可事由は、立法者が国民感情を付度し、常識で判断して免責を許可することは相当でないと思しき典型例を列挙したものであり、事情によってはなお許可しうる場合もあろうが、それは健全な裁判所の裁量に委ねる趣旨と解するのが相当である。たとえば、免責不許可事由のうち二号について見ると、このような詐欺人にまで免責を許可するのは盗人に追い銭(本号に即して言えば、「詐人に追い銭」であろうが。)であり常識に反すると、また同三号について見ると、相当の嘘つきでもこの時ばかりは正直に対応することが期待されている裁判所の審理において、まるで神仏に加護を求めつつ内心では赤舌を出すように、なお嘘をついて免責の許可を騙取しようとするやからは許せないという国民感情の具体化であるといえよう。従って、免責不許可事由が認められる場合は、原則として不許可とすべきだが、なお念のため裁量で許可することが国民感情に合致するか否かを吟味すれば足りる。換言すれば、破産免責は、誠実な債務者に対する特典として、破産手続において破産財団から弁済できなかった債権につき、特定のものを除いて債務者の責任を免除するものである(最決昭三六年一二月一三日民集一五巻一一号二八〇三頁)ということになる。この考えは、「俗にお金は命の次に大事と言われるのに、人様のお金を借りたままにして、踏み倒しておきながら、許してほしいと言うのだから、それ相応の誠実さが必要である。」という一般人の常識に見事に一致している。さらに裁判所が右の裁量権を行使するにあたっては、四1項の事態を「何かおかしい。」と直感したような、国民の素朴な正義感・公平感に立脚した健全な社会通念を基準とすべきである(裁量の基準)。なお、破産事件を多く担当する法曹関係者等は、不誠実な破産者を少なからず日々目の当りにしているために慣れてしまって、「この位のことはよくあること。」、「この程度の事案で不許可とするなら免責事件の大部分は不許可となってしまう。」、「破産者の中にはより悪質な者もいる。」等と主に多数の免責申立人の中での相対的比較から免責を寛大に認める考えもあるやもしれないが、それは不誠実な者を基準としたものであり、そもそも物差し自体が狂っていると言うほかなく、この狂った物差しを使って、「悪者仲間の悪比べ」をしてみたところで、いよいよ国民感情から遊離した結論を得るばかりであろう。近時消費者破産の事例が増加してきてはいるが、右破産者は所詮国民全体から見ればほんの一握りの不誠実債務者というにすぎず、これら破産者の増大をもって、前記の健全な社会通念はいささかも揺らぐものではない。小学校教育において、子供の「借金が多くなり過ぎたらどうするの?」という質問を受けて、先生が「その場合は、裁判所という所へ駆け込めば返さないでよいようにしてくれますから大丈夫ですよ。」と答える日が将来訪れるとしたら、まことに背筋が寒くなるが、そういう事態を許してはならない。

免責不許可事由が存在する場合、免責は原則として許可されないとすると、そのとき、債務者救済の理念はどうなってしまうのであろうか。破産宣告の時点で債務者の経済的破綻は明らかであり、そのままでは経済的更生は困難であるのに、それにもかかわらず免責を不許可にするということは、国民は、債務者を突き離して、「更生するにしても借金の踏み倒し以外の方法を取りなさい。それは、苦難の道ではあろうが、それも自業自得と諦めるがよい。」と告げていることを意味する。このような、国民の厳しい目は、「(債務者は、)法的に解放されても、一度失った社会的信用を現実社会で回復するには想像以上の労力を要」(前掲裁判実務大系四四六頁)することからも窺える。呪文説は、「債務者(弱者)救済」の理念を絶対化するけれども、弱者であっても不誠実なものは応分の制裁を受けるのが公平であり、実際、相手に与える財産的損害は本件の借金の踏み倒しによる場合よりはるかに小さいであろう無銭飲食も度重なれば懲役刑の実刑が科せられていることに国民の意思は表明されている。弱者救済を絶対化すれば、弱い浮浪者で無銭飲食の犯人を強大な国家権力が監獄に拘禁することなど許されるはずはないが、そのように考えれば監獄制度は廃止するしかなくなる。弱者救済の理念も自ずと制約があることを知らなければならない。そして、このように不誠実な債務者に対し厳しく接することは、真の更生に不可欠の前提である従来の無責任な生活態度についての真摯な反省の機会を与えることとなり、結局、債務者本人のためになる側面もある。ここまで述べてくると、「では国民は、債務者に死ねと言うのか。」と反駁されそうであるが、そうではない。すなわち、免責を不許可にされた債務者は、別段いわれなき新債務を負担させられるわけではなく、自らつくった負債を今後も返済していくことになるだけであり、この間債務者の生存権の確保については、民事執行法の差押の禁止された動産・債権の規定、生活保護法等の社会政策的立法に見るとおり、遺漏のないことが知られる。すなわち、免責を不許可にされた債務者の一番恐れるであろう債権者の取り立てのうち最も強烈な形態である強制執行についても、右のとおり、民事執行法内に債務者の生存権の確保のための規定が設けられているのである。従って、免責は不許可にされても、債務者に対する人間に値する生活を営む(前掲最決)ための最低限必要な救済は既になされていると見るべきであり、すると、免責の許可はそれ以上の救済であり、債務者にとって必要不可欠とは言えない。前記の「国民は、債務者に死ねと言うのか。」という論は、要するに、尊い人の死を、国民を恫喝する道具として使用しているだけで、理由はない。もちろん、人の欲望をそそる消費財が市井に氾濫している現今、免責を不許可とされた債務者の主観的満足を得るにはなお不十分ではあろうが、国民は、多くの債権者の痛みを思えば、債務者はこの程度の生活で満足すべきであるとし、免責の許可により、何の借金もない者と同一の生活まで与えるのは誠実な債務者に限るとして、債務者救済に格差を設けたが、いずれの場合もそれ相応の救済をしていることに注目すべきである。

3  前記基準の運用上の留意点

前記根本命題の強固さを忘れてはならない(留意点1)。従って、これは原則であるにすぎないからと言ってすぐ例外について目を走らせるように、根本命題を例外の単なる枕詞と化す扱いは許されない。例外を考えるとしたら、それ相応の債務者の誠実性が認められない限り、国民の納得は得られない。

判断は、常に社会的影響等の公益への配慮を必要とする(留意点2)。裁判所は、具体的な免責事件の処理を通じて、債権者を理不尽な借金の踏み倒しから守り、債務者には過去の無責任な生活態度を諭し、心底からの更生の機会を与え、誠実な債務者を不誠実な者と区別して厚い更生の手を差し伸べ、もって、世に健全な社会通念の何たるかを示し、人々の行動の指針を提供することを求められており、これにより、ひいては、経済秩序を守り、四1項に見たように今日若干動揺した法の威信、国家への信頼と尊敬を回復することにもつながるのである。債務者(弱者)救済あるいは更生の美名に隠れ、国家制度たる免責手続を債務者の誠実さを問わない単なる借金棒引きの道具とみなすが如き風潮は許してはならない。すなわち、信賞必罰の実行により、正直者が馬鹿をみることなく、また、自ずと健全な社会通念上救済されるべき者に限り免責を許可されるようになり、ここに免責制度の面目を施すことになる。

判断は、責任感をもってなすべし(留意点3)。消費者破産の事例で特に、右判断の無責任化が著しい。たとえば、第一に、免責不許可事由がある場合、それをやたらと軽微と言う。多いのは、踏み倒した金額が僅少であるとの主張であるが、論者は、債権者の痛みは思い至らないのであろうか。それに、僅少な金額ならば、耳を揃えて直ちに返済すればよい。それができずに破産しておきながら、免責手続になると僅少だと言うのは日和見主義にすぎる。第二に、破産者はこれまで誠実であったと主張することが多い。破産者は皆長期の債務不履行を続けているのであるから、彼がもし、自己の親兄弟、配偶者などの身近の者であるとしたら、誰もこれを誠実な者とは呼ばないであろう。ひとごとと思って安易な評価は慎むべきである。第三に、債権者のあずかり知らない債務者の泣き事をやたらと斟酌する。刑事事件で、多数の詐欺の併合罪を審理中にはおよそ弁論にも登場しないような事情が免責事件では債務者を免責すべき事情として主張される。芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」ではないが、どんな極悪人でも一度の善行ぐらいはあろうが、これを一々取り上げて免責を許可した揚句の果てに、四1項に見るような弊害を招いてはならない。第四に、多数の免責申立人中ある一定の割合以上免責を許可しなければいけないかの如き錯覚に陥る。「この程度の事案で不許可とするなら免責事件の大部分が不許可になってしまう。」(ので基準をより緩和せよ。)という主張であるが、問題なのは、基準からの偏差であり、その偏差が大きすぎて健全な社会通念から免責を不許可とされる割合がどうであるかは、議論に値しない。

免責の許可は慎重にすべきである(留意点4)。その理由の第一は、免責の許可の効果はまさに劇的であり、濫用の危険が常に付きまとうからである。その濫用の結果が四1項の事態なのである。これを思うと、「(同時破産廃止の)ような簡易・迅速な債務処理は、債務者の社会教育上よくないのではないかと心配する向きもあるが、(中略)杞憂であろうと思う。」(前掲裁判実務大系四四六頁)などと事態を楽観視して放置しておくわけにはいかない。右のことは、麻薬や劇薬を医療上人体に施用する際には常に問題になることであり、考えてみれば、あたりまえのことである。理由の第二は、判断に必要な資料が少なすぎるからである。実際、その資料は、破産者の提出したものがほとんどであり、これに債権者からの意見聴取書が加わる程度である。免責事件が、対立当事者双方から主張・立証する構造をとらず、そのためもあって、裁判所は職権調査(破産法第三六六条ノ二〇、第一一〇条第二項)をしうるとしても、そのための独自の調査機構を有するわけではないこと等から、右調査は必ずしも十分とは言えず、申立人自らの一方的主張・立証に裁判所も相当程度依拠せざるをえないことに加えて、申立人が自己に不利なことを進んで主張立証することはあまり期待できないことを思えば、右調査の機能には自ら限界がある。それに加えて、債権者からの意見聴取書から免責不許可事由の存在が発見される例を見るたびに、破産者の主張や提出物を鵜呑にすることの危険性を思わざるをえない。

当事者の声の大きさに左右されてはならない(留意点5)。免責を許可したとしても、債権者は、前叙のとおり、通常、異議申立てさえしないのであるから、抗告することは極めて稀である。これに対し、免責を不許可にした場合は、申立人から抗告する可能性は高い。なぜなら、呪文説や錦旗説の流布の下、申立人が、自己の非を一切棚上げにし、原決定をありうべからざる誤判と確信する場合が多いからである。従って、免責を許可した方が抗告は少なく、一見妥当な裁判の外形を保つが、その実、四1項のとおりの弊害を拱手傍観する結果を招く。故に、判断は、不服申立の多少を予想して、これに惑わされたものではならない。判断で大切にすべきは、声なき国民の支持を失なうことのないように、ということである。

4  前記基準の本件への適用

以上の検討により、免責許否の判断の基準を得たので、前記各留意点を念頭に置きつつ、これを本件へ適用する。本件では、破産法第三六六条ノ九第二号及び第三号に該当する事由が認められるので、右基準によれば、裁判所は、免責許否の裁量権行使のため、国民の素朴な正義感・公平感に立脚した健全な社会通念を物差しとすべきであり、これを、本件に即して若干具体化すると、「借りたものは返すべきである。」という命題を公理として行動の指針とし、もしこの命題に従うことができなくなる可能性があるときは、与信の申し込み自体を控えるか、申し込むとしてもその際に正直に相手にその旨告知し、相手に将来迷惑をかけることのないよう十分注意し、それでもなおやむをえない事情で結果的に右命題に従うことができなくなった場合でも、相手の被る損害を可能な限り少なくするため真摯な努力をすること、裁判所に対しては正直に申告することが債務者として最低のあるべき姿として想定することができる。申立人がもしこの立場に立って行動していたとすれば、支払不能になってからは良心にとがめを感じて新たな借金はできず、仮に、一度右の新たな借金をしたとしても、あまり度重ねることはいくら何でも良心の重みに耐えきれず途中で中止し、結局多数回には至らないであろうし、破産申立の直前、さらにはその後にも借金することなど論外であり、それまでの債務不履行という違法行為の連続であったことを思えば、本件免責事件での審理に臨んで、自己は誠実であった等と居直ることなど思いもよらず、一応生存権が確保されているのであれば、債権者に対し、まさに恩を仇で返す、また、踏んだり蹴ったりの仕打ちとなる免責の申立てをするのは良心に阻まれて長らく躊躇するであろうし、裁判所に対し、虚偽の債権者一覧表を提出し、これが虚偽ではないとあくまで白を切ることまでさすがにしないであろうことが予想されるが、実際の申立人の態度は、三項までに見たとおり、悉くこの予想とまるで逆を示しており、申立人の誠実性はほとんど見る影もない有様であり、免責を許可すべき事案でないことを明示している。

五結論

よって、本件申立には、破産法第三六六条ノ九第二号及び第三号に該当する事由があり、その各事由がいずれも軽微とはとうてい言えないこと、その他の事情を見ても申立人の誠実さはほとんど見られないこと等を総合考慮すると、裁量により免責を許可するのは不相当であると認め、主文のとおり決定する。

(裁判官井上薫)

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