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神戸地方裁判所尼崎支部 平成元年(わ)71号 判決 1990年9月03日

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、

「被告人は、

第一  平成元年二月一日午後九時三分ころ、兵庫県尼崎市<住所略>○○団地二棟エレベーター内において、帰宅中の乙(当三一年)に強いてわいせつ行為をしようと企て、同女に対し、その背後から手で口を塞ぎ引き倒し、その顔面等を手拳で数回殴打する暴行を加えたうえ、同女のスカートをめくり上げ、そのタイツを引っ張り脱がそうとしたが、同女が必死に抵抗したため、その目的を遂げず、その際右暴行により、加療約三日間を要する顔面打撲、腹部打撲及び約一か月間の経過観察を要する外傷性歯牙亜脱臼の各傷害を負わせ、

第二  前記日時場所において、同女所有の現金二万五六三〇円入り財布ほか一四点在中のショルダーバッグ(時価合計八万四八四〇円相当)を窃取したものである。」というのであり、被告人が右公訴事実記載の行為を行った外形的事実は、当公判廷で取調べた各証拠によりこれを認めることができる。

しかしながら、当公判廷における被告人の供述(公判手続更新前のそれを含む。)、鑑定人守田嘉男作成の鑑定書、同人の当公判廷における供述、司法巡査作成の捜査復命書等を総合すると、被告人は本件各犯行(以下、単に「本件犯行」ともいう。)当時、てんかんによる大発作の代理症としてのもうろう状態か、てんかんによる精神運動発作としてのもうろう状態にあったこと、そのもうろう状態の程度は、最重篤な状態ではないが、軽いものではないこと、てんかんによるもうろう状態では、意識混濁、特に意識野の狭縮が著しく、ある限られた意識内容が活動して、外界とは全く無関係な自動的な行動が現れること、しかし、そのようなもうろう状態にあっても、そのてんかん患者は外見的には合理的とみられる行動をとることができること、被告人には本件犯行時のようなもうろう状態に陥ったのは今回が初めてであるが、口をもぞもぞ動かす等のてんかんによる精神運動発作が以前からあったこと、被告人は、犯行直後においては、犯行状況の記憶は全くなく、犯行日から七日後ころになって、「エレベーターみたいな感じの物のドアが開いて中から光が出てきた」状況、「白いタイツをはいた女性がいた」こと、「痛いという声」及び「螺旋階段をぐるぐる回っているような」状況の夢を見て、初めて本件犯行状況のうち右のような状況を思い出し、その後徐々に本件犯行状況等を思い出したこと、しかし、結局思い出した本件犯行及びその前後の状況は、自動販売機の前で人とすれ違ったこと、その人の後に付いてエレベーターまで行ったこと、エレベーターの中で被告人が停止階のボタンをおしたこと、女性の後ろから口を塞いだこと、犯行現場から逃走したこと、その逃走の経路などだけであり、その記憶は断片的で漠然としていること、しかも、思い出した事実は客観的な外部的事実や行動であり、その行動の動機や目的はほとんど思いださないこと、被告人には、前科は全くなく、本件のような犯行を犯す傾向は全く見当らず、本件犯行前の行動についても、犯行当日午後八時すぎころ退社したが、てんかんの前駆症状と思われる頭痛で服用していた薬からきたものと思われる眠気のため、自動二輪車に乗った帰路の途中、眠気覚ましに三回停車してたばこを吸うなどの行動があったが、本件犯行を予想させるような行動は全くなく、犯行後も、被告人は正常な意識を回復した時点で、付近に自動二輪車がないことに気付き、自動二輪車の盗難届をするため、午後九時二五分ころ、急いで警察署に赴いたことが、それぞれ認められる。

以上の事実によれば、本件犯行はてんかんによるもうろう状態のもとでの行動で、そのもうろう状態は相当重度のものであり、本件犯行の前後の被告人の行動と本件犯行時の被告人の行動には全く脈絡はなく、本件犯行は被告人とは全く別個の人格に基づく犯行としか考えられないような行動であり、しかも、被告人が思い出した断片的な本件犯行当時の記憶も外形的状況だけであって、被告人自身、本件犯行の動機も目的も全く分らないと認められるから、本件犯行当時、被告人には、事理善悪を弁別する能力、あるいはその弁別にしたがって行動する能力が全く欠如していたのではないかという、合理的な疑問をもたざるを得ない。

これに対し検察官は、被告人の各供述調書によれば、被告人は本件犯行状況及びその前後の行動につきかなり詳細な供述をしていること、犯行態様も、エレベーターに乗った際、一〇階のボタンを押したり、四階で被害者をエレベーター内に引っ張り込んだ後、「閉」のボタンを押すなど、犯行遂行のための合目的な行動をとっていること、犯行後、被告人は、本件窃取にかかるバッグ等を現場付近に捨てており、捨てた理由は明確ではないが、少なくともその行為は犯罪を犯したという意識の下に行っていることなどを理由に、被告人は本件犯行当時、事理弁別能力及びこれに従って行動する能力を全く欠いた状態ではなかったと主張する。

そこで、まず被告人の各供述調書の信用性について検討するに、司法警察員に対する平成元年二月七日付供述調書(以下、「同月七日付員面」の例による。)においては、犯行の概略の記載があるが、被告人の当公判廷における供述、及び弁護人が被告人との接見状況の録音を文章化した「テープ速記録」によれば、同日の朝、被告人は、前述のとおり、漠然とした犯行状況の幾つかの印象を夢に見たもので、右供述調書は、その印象を事後的に本件犯行に関連づけたにすぎないものと考えられ、その後、同月一三日までは本件犯行に関する供述調書はないから、被告人が二月七日に犯行の概略までをも思い出したとは認め難い。そして同月一四日付員面には、「後から引き寄せて倒しエレベーター内で殴る等の乱暴をして」(五丁裏一行目以降)と記載され、あたかも、被告人は被害者を殴った事実を思い出したかのような内容になっているが、その後の同月一五日付員面には、「女性を抱くような格好で自分の方に引き寄せたまでは、覚えているのですが、それ以後の事がはっきり思いだせません。」「女性に対して乱暴したように思います」(三丁表八行目以降)とか、同月一六日付員面には、「エレベーターの中で乱暴したと思いますが夢中でしたのでどのような事をしたのかわかりません」(三丁表七行目以降)と記載されているのであるから、同月一四日付員面では、被告人には被害者を殴った記憶はなかったにもかかわらず、被害者の供述や傷害の部位、程度等に合せて、そのような記憶があるような内容の記載をされたことが推認できる。また、同月一八日付員面には、同月一七日に犯行現場で犯行の再現をしたことにより、「乙さんを引き倒し顔や腹付近を二〜三回殴りつけ」「乙さんのはいていた白色のタイツの陰部の付近を引っ張って破い」(四丁表三行目以降)たことを思い出した旨記載されているが、同月二〇日付員面には、「乙さんの顔や腹をエレベーターの中で殴っていると思いますが」(三丁裏五行目以降)と曖昧な表現になっており、同月一七日の犯行の再現によって被告人が被害者を殴ったことや、タイツを破ったことを本当に思い出したのかどうか、疑問である。また、同月二一日付の検察官に対する供述調書(以下、「検面」の例による。)には、右の同月一八日付員面に記載されている客観的事実に加え、エレベーターに乗った際、被告人が一〇階のボタンを押したのは被害者にいたずらをしやすいからであるという意味の記載があり、あたかも被告人が本件犯行時の心理的状況を思い出したかのような内容があるが、その後に作成された同月二八日付員面には、被害者の後から付いていった理由として、「襲ってやろうと思ったのか、女の人の後を追うようにして女の人について歩いていた」(六丁表九行目以降)としか記載されておらず、その他に被告人の本件犯行時の心理的状況を記載した部分はみあたらない。さらに、右の同月二八日付員面には、「事件当日つまり二月一日の事が鮮明に思い出せるようになりました。」(二丁裏一〇行目以降)として、被害者を殴ったこと、タイツを破ったこと、さらには犯行現場に行った経緯、犯行後の行動について、かなり詳細に記載されているが、同員面には、その時まで犯行状況を供述できなかった理由として、「自分自身でこんな事をしていないと言い聞かせていたため」(二丁表九行目以降)であると記載されているが、前述のとおり、被告人が犯行状況を思い出せなかったのは、本件犯行当時、被告人がてんかんによるもうろう状態にあったためであり、前掲の「テープ速記録」によっても、被告人自身必死で犯行状況を思い出そうとしていたことがうかがわれるのであるから、右の記載は、取調官の一方的な記載としか考えられない。しかも、この供述調書においてさえ、本件犯行時の被告人の心理的状況については右の程度しか記載されていないのに、その後の同年三月二日付検面には、被害者の後をつけた理由として「襲ってやろうと決意し」(二丁裏一一行目以降)と明確に心理的状況について記載され、その他、犯行時や、犯行後にジャンパー等を捨てた際の心理的状況も相当詳細に記載されているが、二月二八日まで、ほとんど心理的状況について被告人の供述がないにもかかわらず、なぜ三月二日に、そのように心理的状況について詳細に被告人が供述するに至ったのか合理的な理由がみあたらず、この検面は検察官の誘導に基づくか、被告人の供述にしたがわない内容を記載した疑いをもたざるを得ない。

以上のとおり、被告人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書は、不自然な変遷や、被告人の記憶に反すると思慮される記載など、多くの疑問が認められるから、被告人の各供述調書のうち本件犯行及びその前後の状況に関する供述部分は、被告人の当公判廷における供述に合致する部分を除き、その信用性は極めて疑わしいと言わざるを得ない。一方、被告人の当公判廷における供述は、その供述態度、前掲の「テープ速記録」からうかがわれる捜査段階での被告人の状況、鑑定人との応答内容等に照らせば、虚偽の供述をしているとは認められず、その信用性を認めることができる。そして、その供述によれば、被告人が記憶している本件犯行及びその前後の状況は、前述のとおり断片的で漠然としたものにすぎない。したがって、検察官が主張するような、被告人が本件犯行状況及びその前後の行動につきかなり詳細な供述をしているという事実は、認めることはできない。

次に、検察官は、前述のとおり、被告人はエレベーター中で一〇階のボタンを押すなどの、犯行遂行のために合目的的な行動をしていると主張しているが、被告人の各供述調書においても、被告人が一〇階のボタンであることを認識して押したかどうかについて供述が変遷しており、真実、被告人が一〇階のボタンであることを認識していたか疑問であるうえ、前述のとおり、てんかんによるもうろう状態にあっても、その患者は合目的的な行動をとることができるから、検察官の右主張は、被告人が事理弁別能力及びこれに従って行動する能力を全く欠いた状態ではなかったとすることの根拠とはなりえない。

さらに、検察官は、被告人は、犯行後は、犯罪を犯したという意識の下に行動していると主張しているところ、確かに、被告人は、第三回公判におて、奪ったショルダーバッグ等を証拠を発見してもらうために捨てたと供述し、犯行直後、犯罪を犯したという意識があったかのような供述をしているが、第七回公判における被告人の供述及び「テープ速記録」によれば、被告人の右供述は、事後的に辻褄を合せて自分を納得させるために考え出した疑いが強く、被告人の右供述からは犯罪を犯したという意識があったと認めることは困難である。しかも、鑑定人守田嘉男の当公判廷における供述によれば、もうろう状態などの意識障害は、電気がついたり消えたりするようにして終息するものと認められること、及び、被告人は、当公判廷における供述によっても、逃走経路は思い出していると認められるにもかかわらず、司法警察員作成の平成元年二月一日付捜査復命書によれば、被告人は犯行後間もない午後九時一〇分ころ警察署へ電話をしている事実がうかがわれるのに、このことは全く記憶にないこと等を併せ考えれば、被告人は、犯行後間もないころから、もうろう状態から回復し掛けたり、再びもうろう状態に陥ったりしていたものと推認でき、被告人が犯罪を犯した意識の下にあるかのように見える行動は、もうろう状態から回復し掛け、事理弁別能力が回復し掛けた時期の行動であると考えることができる。しかし、本件犯行中に被告人がもうろう状態から回復し掛けていたことを認めるに足りる証拠はないから、仮に被告人が犯行直後、犯罪を犯した意識の下に行動していたとしても、それは本件犯行時に被告人が事理弁別能力及びこれに従って行動する能力を有していたという根拠とはなり得ない。

以上により、検察官の所論は、被告人が本件犯行当時、事理善悪を弁別する能力、あるいはその弁別にしたがって行動する能力が全く欠如していたのではないかという、合理的な疑問を払拭するものとはいえない。

もっとも、鑑定人守田嘉男作成の鑑定書及び同人の当公判廷における供述によれば、同鑑定人は、被告人の犯行時の意識の混濁の深さ、持続時間、範囲から考えれば、被告人は本件犯行当時、事理善悪を弁別する能力、あるいはその弁別にしたがって行動する能力が著しく障害されてはいたが、全く欠如していたのではないと判断している。しかしながら、前述のとおり、同鑑定人が鑑定の資料とした被告人の各供述調書の信用性には疑問があるから、同鑑定人が信用性に疑問のある各供述調書を資料としなければ、右と同様の判断に至ったかどうか疑わしいこと、及び、同鑑定人の当公判廷における供述によれば、てんかんによるもうろう状態の場合の心神喪失を同鑑定人よりもっと広く認める説も多く存することが認められることに照らせば、同鑑定人の鑑定も前記の合理的疑問を覆すものとはいえない。

以上により、被告人の本件各犯行はいずれも、刑法三九条一項にいう心神喪失の状況のもとになされたと認めるのを相当とすべきであるから、刑事訴訟法三三六条前段により被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐々木條吉 裁判官武部吉昭 裁判官岡文夫)

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