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神戸地方裁判所尼崎支部 平成7年(ワ)539号 判決 1998年6月16日

原告

甲野春子

甲野夏子

右両名訴訟代理人弁護士

田中茂

奥村正策

被告

乙山太郎

右特別代理人

佐竹綾子

右訴訟代理人弁護士

長池勇

主文

一  被告は、原告甲野春子に対し、金三〇〇〇万円及びこれに対する平成六年一〇月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告甲野夏子に対し、金二五〇万円及びこれに対する平成六年一二月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告甲野夏子のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は、原告甲野春子と被告との間においては、全部被告の負担とし、原告甲野夏子と被告との間においては、これを二分し、その一を原告甲野夏子の負担とし、その余を被告の負担とする。

五  この判決は、原告ら勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  原告甲野春子

(一) 主文第一、第四項と同旨

(二) 仮執行宣言

2  原告甲野夏子

(一) 被告は、原告に対し、金五〇〇万円及びこれに対する平成六年一二月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 訴訟費用は被告の負担とする。

(三) 仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告甲野春子(以下「原告春子」という。)及び同甲野夏子(以下「原告夏子」という。)は、兵庫県尼崎市武庫町<番地略>(住居表示は<番地略>)において、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を共有し(持分は、原告春子が四分の一、同夏子が四分の三)、原告春子の長女である訴外甲野秋子(昭和四六年一二月二三日生。以下「訴外秋子」という。)とともに本件建物に居住していた。

(二) 被告は、本件建物と道路を隔てて隣接する同町<番地略>に居住していた。

2  被告の不法行為

(一) 被告は、平成六年一〇月一二日午前二時五五分ころ、原告らが居住していた本件建物に自ら火をつけた瓶を投げ込んで放火した(以下「本件放火」という。)。

(二) 本件放火により、原告ら及び訴外秋子が次のとおり負傷又は死亡したほか、本件建物一階約三〇平方メートルが焼失した。

(1) 原告夏子は、広範囲熱傷により、平成六年一〇月一二日から同年一一月一四日まで兵庫医科大学病院救急部集中治療室に入院し、同日、兵庫県立尼崎病院に転院し、同年一二月一二日に同病院を退院した(現在も通院中である。)。

(2) 原告春子は、顔面・両眼球熱傷により、平成六年一〇月一二日から同月一七日まで伊丹市立祐生病院に入院した。

(3) 訴外秋子は、一酸化炭素中毒により、平成六年一〇月一二日午前四時二一分、兵庫県立西宮病院において死亡した。

3  原告らの損害

原告らは、被告の右不法行為により、次のとおり損害を被った(なお、原告春子は、訴外秋子の母であり、その死亡により同人を相続した。)。

(一) 原告春子 三〇〇〇万円

(1) 訴外秋子の死亡に伴う原告春子の慰謝料 二三〇〇万円

(2) 訴外秋子の逸失利益

二八九七万八四三九円

訴外秋子は、当時二二歳の女子で、満六七歳までは就労が可能であり、その稼働余命は四五年間である。また、年間給与収入は二四九万四八〇〇円であった。そこで、生活費控除率を五割として、新ホフマン方式(ホフマン係数23.231)により中間利息を控除して計算するとその逸失利益は次のようになる。

249万4800円×(1−0.5)×23.231=2897万8439円

(3) 訴外秋子の葬儀費用一二〇万円

(4) 放火により毀損した本件建物(原告春子の持分は四分の一)及び動産の価額 一三〇万円

(5) 放火による負傷の治療のための入通院による損害 二〇万円

以上の合計五四六七万八四三九円のうち、三〇〇〇万円について請求する。

(二) 原告夏子合計 五〇〇万円

(1) 放火により毀損した本件建物(原告夏子の持分は四分の三)及び動産の価額 四〇〇万円

(2) 放火による負傷の治療のための入通院による損害 一〇〇万円

4  よって、原告甲野春子は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償として、金三〇〇〇万円及びこれに対する不法行為の後である平成六年一〇月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を、原告甲野夏子は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償として、金五〇〇万円及びこれに対する不法行為の後である平成六年一二月一二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1及び2の事実はいずれも認める。

2  同3については不知。

三  抗弁(責任無能力)

被告は、本件放火行為の当時、心神喪失状態であった。

四  抗弁に対する認否

認める。

五  再抗弁(原因において自由な行為)

被告は、平成六年八月ころから、幻覚を訴えるようになり、同月から同年一〇月にかけて、犯罪が発生したかのごとく幻覚して警察に通報するなどの異常行動に出ていたが、正気を取り戻す時期もあったところ、右正気の時期には自ら精神状態の異常に気付き、病院において診察治療を受ける必要性などを認識していた。被告は、このまま治療を受けずに自らを放置すれば、再び精神状態の異常を来たし、正常な判断能力を失うであろうことを認識予見できたにもかかわらず、正気を取り戻した時期において適切な治療を受けるなどしなかったため、平成六年一〇月一二日に一時的な心神喪失状態を招き、本件放火行為に及んだものであり、被告は、自らの過失により一時の心神喪失状態を招き、放火行為を行ったものであるから、民法七一三条但書により損害賠償責任を負う。

六  再抗弁に対する認否

否認ないしは争う。

被告は、本件放火行為当時、心神喪失状態にあったが、右心神喪失状態は一時的なものではなく、平成六年五月ころから本件放火行為に至るまで心神喪失の常況にあった。すなわち、被告は、平成六年五月ころから、幻覚や妄想に悩まされ、殺人事件が発生したとして警察に通報するなどの異常行動を繰り返していた。もちろん、本件放火行為に及ぶまで一応の日常生活を送っていたが、精神に障害がある者であっても、時として正常人に等しい言動をとっているかの外見を呈することがあり、その場合でも既に精神障害者であって、断続的に正常人と障害者との間を彷徨っているわけではない。つまり、精神障害者とて、外見上終始異常な言動を繰り返すというわけではかならずしもなく、時には正常人に近い行為をも示すこともあり、正常人に近い言動を示しても、事の善悪について全く判断力の欠如しているのが精神障害者の特長である。結局、被告も、原告らが主張するような正常時期においても、判断力が欠如していたのであり、心神喪失の常況下にあったものとして民法七一三条の定めにより責任を負わない。

第三  証拠

証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録のとおりであるから、これらの各記載を引用する

理由

一  請求原因事実のうち、不法行為の成立に関する事実(請求原因1及び2)はいずれも当事者間に争いがない。

二  抗弁については当事者間に争いがない。

三  再抗弁(原因において自由な行為)について

1  証拠(甲七ないし一四、乙一(いずれも枝番を含む。)証人丸山一美、被告本人、各調査嘱託の結果)によれば、以下の事実を認めることができる。

(一)  被告は、伊丹電機工業株式会社に勤務していたが、昭和六〇年六月に妻を交通事故で亡くし、昭和六三年一一月再婚したが平成二年八月に離婚七、以後、原告らが居住する本件建物と道路を隔てた隣接地で一人暮らしをしていた。そして、被告は、平成三年四月に同会社を退職したが、そのころ、居酒屋を経営していた訴外丸山一美(以下「訴外丸山」という。)と懇意となった。このころまでは、被告に特に異常な言動は見られなかった。

(二)  平成六年八月ころ、被告は、訴外丸山に対し、「甲野さん(原告ら)方に若いヤクザがいる。自分は狙われている」など、幻覚を訴えるようになった。そして、同月三一日午前二時ころ、被告は、訴外丸山が経営していた居酒屋にやってきて、「甲野さんの奥さん(原告春子)が殺されている。死体が動かない」などと述べたため、訴外丸山が警察署に連絡し、警察官が原告ら方に駆けつけるという騒動があった。

(三)  平成六年九月一七日、被告は、兵庫県宝塚市内の旅館に宿泊していたが、警察署に「だれかに狙われている」と電話で連絡し、駆けつけた警察官に保護されるということがあった。また、同月二五日、同市内の別の旅館に宿泊していた際にも、同様に警察署に電話し、警察官から事情聴取を受けたほか、同月二〇日には、同市内を徘徊していて警察官に保護され、自宅まで搬送されたこともあった。

さらに、被告は、自宅においても、何者かに襲われることを心配し、ゴルフクラブや包丁、さらには火炎瓶を準備するなどしていた。

(四)  こうした出来事があったことから、訴外丸山は、いつか被告が刑事事件を起こすかもしれないと心配し、平成六年九月初旬ころから、被告に対し、精神科を受診するように何度も勧めていた。被告は、自分が何者かに狙われていると考え、また、原告ら方から聞こえてくる「嫌な声」(被告本人)のために不眠に悩まされており、徐々に頭がおかしくなってきたと思うようになり、良く眠るためにも医師の診察治療を受ける必要があることは認識していたが、精神科を受診する気にはなれず、訴外丸山の右の勧めを断った。しかし、訴外丸山は、なおも心配し、民生委員や保健所、精神科の医師等に相談し、被告が本件放火行為をした平成六年一〇月一二日に兵庫県尼崎市内の精神科の医師の受診を予約し、その前日には、被告も受診することを了解していた。

(五)  なお、被告は、平成六年三月二六日から同年一〇月一一日まで、兵庫県尼崎市内にある井星外科において訴外井星實医師(以下「訴外井星医師」という。)による腰痛、肝炎等の治療を受けていたが、訴外井星医師に対し、同年九月末ころから不眠を訴え、同医師は、被告について、やや神経質であるように感じていたものの、受診態度は特に変わったところはないと認識していた。

また、被告は、万一の場合に備えて、自己名義の預金通帳や不動産の権利書等を訴外丸山に預けていた。さらに、被告は、本件放火行為の当日まで、買物や炊事等の日常生活は自分で行っていた。

(六)  被告は、原告ら方から「嫌な声」が聞こえたため、平成六年一〇月一二日、その声を排除するために火炎瓶を本件建物に投げ込んで本件放火行為に及んだ。そして、被告は、本件放火行為後、逮捕勾留されたが、不起訴処分となり、その後現在まで、肩書住所地の医療法人財団幸生会・神出病院に入院している。同病院の医師の診断では、入院当初は、幻覚等が見られ、被害妄想を繰り返していたが、現在(平成八年一一月時点)では被告から幻覚症状の訴えはされていない。

2  右認定の事実関係を前提として、以下検討する。

(一)  被告の心神喪失は一時的なものであったか。

(1)  被告は、平成六年八月以降、幻覚、幻聴に悩まされるなど、明らかに正常ではない行動が多数見受けられるところであり、本件放火行為当日の同年一〇月一二日も、原告ら方から聞こえないはずの「嫌な声」を聞き、これを排除するために、火炎瓶を投げ込んだというのであって、本件放火行為当時、心神喪失の状態にあったことは明らかである(この点は、前記のとおり、当事者間に争いがない。)。

(2)  しかし、他方、被告は、平成六年八月以降も、一人で日常生活を送っていたほか、二回にわたり旅館に宿泊するなどしたが、その際、旅館側が被告の精神状態等について特段の異常性を認めて投宿を拒否したなどの事情はなく、また、訴外丸山に対し、自己名義の預金通帳や不動産の権利書等を預託するなどしていること、被告は、徐々に頭がおかしくなってきたことから、医師の診察を受ける必要性があることを認識し、本件放火行為の前日に至っては、訴外丸山の勧めに従って、精神科の医師の診察を受けることを了解していたこと、かなりの期間被告の腰痛等の治療をしていた訴外井星医師は、被告の受診態度に特に変わったところはなかった旨述べていること、被告が入院している神出病院では、入院当初出現していた幻覚症状について現在では被告からその訴えがなされていないことなどからすると、被告の精神状態が継続的に異常であった、あるいは継続的に心神喪失の状態であったとは認めることができず、本件放火行為は、一時的な心神喪失状態に陥った状態でなされたものということができる。

(二) 心神喪失を招くについて被告に過失があったか。

被告において、本件放火行為直前の時期(被告が旅館で警察を呼ぶ騒ぎを起こした九月中旬又は下旬ころ)には、幻聴(被告のいう原告ら方から聞こえてきた「嫌な声」)により、徐々に頭がおかしくなってきており、幻聴を改善しよく眠れるようにするために医師の診察を受ける必要性があることを認識していたことは、前述のとおりである。そうすると、右幻聴が原因で、正常な判断力を失う可能性があることを右の時期において充分に認識予見できたというべきであり、この時期を無為に過ごして医師の治療を受けず、心神喪失状態を招来して本件放火行為に及んだことについて、被告には過失があったというべきである。

なお、被告は、このまま医師の治療を受けないでいた場合には人に迷惑をかけるような行為をするのではないかと考えたことはない旨供述しているが、被告は、「嫌な声」から自分の身を守るべく、刃物や火炎瓶などを準備していたことが認められ、ともすれば、右「嫌な声」に対して、いわば自己防衛として攻撃を加える可能性が客観的にも認められるのであり、しかもこの可能性を自ら予見していたということができるのであって、自らを医師の治療を受けない状態で放置することの危険性は認識し得たというべきである。

3 したがって、被告は、本件放火行為当時心神喪失状態であったが、右心神喪失状態は一時的なもので、かつ右心神喪失状態を招くについては被告に過失が認められるから、民法七一三条但書により、同法七〇九条の不法行為に基く損害賠償責任を負うことになる。

四  原告らの損害について

以下のとおり、原告春子の損害の総額は合計五四五三万一〇〇二円、原告夏子の損害の総額は合計二五〇万円と認めるのが相当であるが、原告春子の本件請求金額は、三〇〇〇万円であるので、原告春子については、右金額を限度として損害賠償請求権を認める。

1  原告春子 合計三〇〇〇万円

(一)  訴外秋子の死亡による原告春子の慰謝料 二〇〇〇万円

訴外秋子は、原告春子の長女であり、被告による本件放火行為によって、突然その長女の生命を奪われた原告春子の悲しみその他の精神的苦痛に照らすと、その精神的損害を填補するための慰謝料としては二〇〇〇万円が相当であると認める。

(二)  訴外秋子の逸失利益

二八九七万八四三九円

証拠(甲一、一三、原告春子)及び弁論の全趣旨によれば、訴外秋子は死亡当時二二歳の女子で、満六七歳までは就労が可能であること(稼働可能期間は四五年間)が認められるところ、平成六年度の賃金センサス(産業計・企業規模計・学歴計)によると、二〇歳から二四歳までの女子労働者の平均賃金は年間二八〇万九三〇〇円であるから、これを基礎として、生活費を五〇パーセント控除、稼働可能期間四五年に対応する新ホフマン係数23.2307を用いて中間利息を控除して算出すると、訴外秋子の逸失利益は次のとおりとなる。

280万9300円×(1−0.5)×23.2307=3263万1002円

そして、弁論の全趣旨によれば、右損害賠償請求権を原告春子が相続したと認められるところ、このうち原告春子が請求しているのは、二八九七万八四三九円であるので、訴外秋子の逸失利益は右金額を限度として認める。

(三)  毀損した本件建物(原告春子の持分は、四分の一)及び動産の価額 五〇万円

証拠(甲二、原告春子)及び弁論の全趣旨によれば、本件建物及び動産の価額は少なくとも合計二〇〇万円と認めるのが相当であり、原告春子の持分に応じた損害額は五〇万円となる。

(四)  訴外秋子の葬儀費用

一二〇万円

弁論の全趣旨によると、葬儀費用として、一二〇万円が相当であると認める。

(五)  放火による熱傷の治療のための入通院による慰謝料 二〇万円

原告春子は、被告の放火行為によって自らも負傷し、その治療のために入通院を余儀なくされ、それによる精神的苦痛その他の精神的損害を填補するための慰謝料は二〇万円が相当であると認める。

2  原告夏子 合計 二五〇万円

(一)  毀損した本件建物(原告夏子の持分は、四分の三)及び動産の価額 一五〇万円

前記のとおり、本件建物及び動産の価額は少なくとも合計二〇〇万円と認めるのが相当であるので、原告夏子の持分に応じた損害額は一五〇万円となる。

(二)  入通院による慰謝料

一〇〇万円

原告夏子は、本件放火行為により重傷を負い、事件後三年余を経過した現時点においても、通常の社会人としての生活能力を回復するに至っていないこと等の諸般の事情に照らし、入通院によって負った精神的損害を填補する慰謝料は一〇〇万円が相当である。

3  なお、原告らが請求する原告らの治療費等を内容とする入通院したことによる損害は、証拠がない。

五  結論

以上のとおりであり、原告らの本訴請求は、原告春子については理由があるのでこれを認容し、原告夏子については二五〇万円及びこれに対する不法行為の後であることが記録上明らかな平成六年一二月一二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるのでこれを認容し、その余は理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法六一条、六四条、仮執行の宣言について同法二五九条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官白井博文 裁判官大島眞一 裁判官金子大作)

別紙物件目録<省略>

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