大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福岡地方裁判所 昭和43年(行ウ)77号 判決 1981年7月29日

《1 住所省略》

原告 待鳥惠

<ほか五一名>

右原告ら全員訴訟代理人弁護士 立木豊地

同 新井章

同 清水恵一郎

同 谷川宮太郎

同 高橋清一

同 林健一郎

右1ないし41の原告ら訴訟代理人弁護士 斎藤鳩彦

同 小林芝興

右42ないし52の原告ら訴訟代理人兼右谷川訴訟復代理人弁護士 吉田雄策

《住所省略》

被告 福岡県教育委員会

右代表者委員長 田中耕介

右訴訟代理人弁護士 植田夏樹

同 国府敏男

同 堀家嘉郎

同 秋山昭八

同 石原輝

同 平井二郎

同 俵正市

右当事者間の行政処分取消請求事件について、当裁判所は、次のとおり判決する。

主文

一  被告が昭和四三年七月一三日付でした原告佐田正比古、同綱脇博幸、同佐々木清隆、同宮本芳雄、同相部開、同松濤勲、同緒方信正、同佐藤周三、同平塚文雄及び亡福田茂雄、同田村千鶴夫、同田中俊文に対する各懲戒免職処分並びに原告前田清美に対する停職一か月の懲戒処分をいずれも取り消す。

二  その余の原告らの請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用中、原告佐田正比古、同綱脇博幸、同佐々木清隆、同宮本芳雄、同相部開、同松濤勲、同緒方信正、同佐藤周三、同平塚文雄、同福田節、同福田秀正、同福田恵三、同田村美和子、同田村公恵、同田村佳乃、同田中辰代、同田中俊二、同田中スナホ、同前田清美と被告との間に生じたものは、被告の負担とし、その余の原告らと被告との間に生じたものは、その余の原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告が、別紙処分等一覧表番号11の亡田中俊文、同19の亡福田茂雄、同20の亡田村千鶴夫、同43の亡城戸大策及び同表番号1ないし10、同12ないし18、同21ないし42、同44、45記載の原告らに対し、昭和四三年七月一三日付でした同表「処分の種類及び程度」欄記載の各懲戒処分をいずれも取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決。

二  被告

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告らは(死亡による訴訟承継のあった者については、死亡前の被承継人を指す。以下同様の用語法による場合がある。)、昭和四三年七月当時別紙処分等一覧表「所属学校、職名」欄記載の各福岡県立高等学校及び福岡県立特殊学校(以下「高校等」という。)に勤務していた地方公務員たる教諭又は助手で、福岡県内の高校等教職員で組織する福岡県高等学校教職員組合(以下「高教組」という。)に所属し、別紙処分等一覧表「組合役職」欄記載の各地位にあったものである。被告は、福岡県下の教育行政事務を所管する教育行政機関で、原告らの任命権者である。

2  被告は、昭和四三年七月一三日付で原告らに対し、原告らが別紙処分等一覧表「処分の理由」欄記載の行為をしたとの理由で、同表「処分の種類及び程度」欄記載の各懲戒処分(以下「本件各処分」という。)をした。

3  しかし、本件各処分は、次にのべるとおり違法である。

(一) 地方公務員法(以下「地公法」という。)四九条一項は、「任命権者は、職員に対し懲戒その他その意に反すると認める不利益な処分を行う場合においては、その職員に対し処分の事由を記載した説明書を交付しなければならない。」と定めているのであるが、右規定が当該職員に処分の根拠となった具体的事実を知らせて処分に対する救済の手段を尽くさせるためのものであることは、同規定が地公法第三章第八節第四款「不利益処分に関する不服申立」の冒頭に置かれていることからも明らかである。しかるに、被告は、本件各処分に際して原告らに交付した各処分説明書において、処分の理由として別紙処分等一覧表「処分の理由」欄記載の極めて抽象的な理由を示したのみで何ら具体的事実を示していないから、本件各処分は、地公法四九条に著しく違反し違法である。

(二) また、原告らは、いずれも別表「処分の理由」欄記載の行為をしたことはない。

4  訴訟承継前の原告福田茂雄は、昭和五四年四月九日死亡し、その妻原告福田節、子同福田秀正、同福田恵三が相続によりその権利義務を承継し、訴訟承継前の原告田村千鶴夫は、昭和五四年四月一五日死亡し、その妻原告田村美和子、子同田村公恵、同田村佳乃が相続によりその権利義務を承継し、訴訟承継前の原告田中俊文は、昭和五〇年七月二一日死亡し、その妻原告田中辰代、子同田中俊二、同田中スナホが相続によりその権利義務を承継し、訴訟承継前の原告城戸大策は、昭和四三年一二月一五日死亡し、その父原告城戸喜多留、母同城戸トキワが相続によりその権利義務を承継した。

5  よって、原告らは、被告に対し、本件各処分が違法であるから、その取消を求める。

二  請求原因に対する被告の答弁

1  請求原因1の事実のうち、原告佐田、同福田、同田村が高教組に所属していたことは争うが、その余の事実は認める。

2  同2の事実は認める。

3  同3のうち、本件各処分説明書の処分事由の記載が別紙処分等一覧表「処分の理由」欄記載のとおりであることは認めるが、同記載が違法との主張は争う。地公法四九条所定の処分説明書の交付は、被処分者が不利益処分について不服申立をする場合の資料を与えることをその趣旨とするものであるところ、処分説明書は、被処分者本人に交付されるものであるから、被処分者が承知しているみずからの行為と処分説明書の記載を照合して不服申立をなし得る程度に処分事由を記載すればよいというべきである。地公法四九条一項は、処分説明書に記載すべき処分事由の具体性の程度については何ら規定していないから、処分説明書交付制度の目的を達する範囲内で、どの程度の具体的記載をするかは行政庁の裁量に委ねられているといわねばならない。したがって、処分事由の記載は本件各処分説明書の記載をもって十分というべきである。また、そもそも処分説明書交付についての地公法四九条の規定は訓示規定であるから、右規定違背により懲戒処分の効力が左右されることはない。

4  同4の事実は認める。

三  被告の主張

1  本件着任拒否闘争に至るまでの経過

(一) 被告は、昭和四三年二月下旬ころ(以下月日は特に記載しない限りすべて昭和四三年中のもの。)、高教組から昭和四二年度末教職員人事異動に関し交渉申入れを受け、三月五日、八日、九日、二八日に高教組幹部と面会し、その意見、要望を聞いた。その際、高教組からは、昭和四二年一〇月二六日に公務員共闘会議が行ったいわゆる一〇・二六休暇闘争に参加して懲戒処分(戒告)を受けた五四名の教頭、定時制主事を校長昇任人事の選考に当ってその対象とするかどうか、また、処分を受けなかった者と差別するかどうか等につき意見が述べられたが、これに対し最終的に被告は、広く人材を求め校長として真に適当な者であるかどうかについてその人物全体をみて人物本位に審議する旨、校長昇任人事に対する基本姿勢を示した。なお、高教組は、従前校長候補者推薦名簿を被告に提出していたが、昭和四二年度末にも同様の名簿を提出し、被告は、三月下旬ころこれを受け取った。

(二) 被告は、四月一日及び同月二日付で、次のとおり県立高校等新任校長一五名を発令した。

(学校名)

(校長名)

(前任所属)

(発令日付)

戸畑工業高校

中野弥壮

教育庁学校教育課長

四月一日付

宗像高校

中村喜代志

県立城南高校教頭

右同

水産高校

藤幸人

県立筑紫中央高校教頭

右同

八幡高校

松延一男

教育庁教職員課人事管理主事

右同

福岡中央高校

徳永務

教育庁教職員課長

右同

北九州盲学校

勝間田敏男

県立八幡中央高校教頭

右同

黒木高校

田中正利

県立鞍手高校教頭

右同

大牟田商業高校

中村正夫

県立宇美商業高校教頭

右同

鞍手農業高校

清水喜代人

県立久留米農芸高校教頭

右同

大川工業高校

柴田正寛

県立香椎工業高校教頭

四月二日付

久留米聾学校

宮尾和夫

県立山門高校教頭

右同

修猷館高校

石橋茂

県教育庁教育次長

四月一日付

三井高校

近藤久次

県立八女高校教頭

右同

筑豊工業高校

吉田無佐治

県立小倉工業高校教頭

右同

筑上東高校

加治景夫

県立西田川高校教頭

右同

右一五名のうち、高教組の推薦名簿に登載されていた者は、近藤久次、吉田無佐治及び加治景夫の三名であった。

(三) 高教組は、右校長人事が、(1)二〇年間の民主的慣行を否定したこと、(2)一〇・二六闘争の正当性を否定した教頭が中心となって昇任したこと、(3)教育庁職員の校長就任は権力支配の強化であること等を理由として反対闘争に突入することを決した。しかし、高教組は、新任校長のうち前記近藤、吉田、加治の三名は高教組が校長候補として推薦した者であったことから、右三校長に関しては四月八、九日の始業式、入学式のころから着任拒否闘争を解き、また、修猷館高校においては、当該分会独自の判断から石橋校長の着任を認めることとなったので、高教組は残る一一校の校長に対して着任拒否闘争を強化、継続することとなった。右闘争は、昭和四三年八月三〇日福岡県知事の斡旋により一応妥結収拾したが、その間、高教組は、右闘争により学校の最高責任者である校長の執務を不能ならしめ、校務の正常な運営を阻害した。

2  原告らの違法行為

(一) 執行部(本部)役員(原告待鳥惠、同林宏、同中西績介、同上村正則、同牧野正國、同露口勝雪、同平木時雄、同古賀要、同江口義一、同中村羔士)の違法行為

(1) 執行部役員全員の違法行為

高教組における原告待鳥惠、同林宏、同中西績介、同上村正則、同牧野正國、同露口勝雪、同平木時雄、同古賀要、同江口義一及び同中村羔士の地位は、別紙処分等一覧表「組合役職」欄記載のとおりであり、いずれも被告の許可を受けてもっぱら組合業務に従事するいわゆる在籍専従職員であった。

右原告ら一〇名は、前記新任校長人事の発令があったころ、福岡市内において共謀して校長着任拒否闘争を行うことを協議決定した。右決定に基づき原告待鳥は、四月一日付指示第一号の文書をもって各支部長、分会長に対し、「新任校長の出身分会は、当該新校長に校長昇任辞退届を作成せしめよ。」「新任校長の着任予定分会は、全員署名の着任反対の文書を作成し、新校長に手交し、着任拒否闘争の決意を通告せよ。」「各分会は、闘争委員会を設置し、強力な闘争体制を確立せよ。」「支部闘争委員会を設置し、分会闘争の指導にあたれ。」「入学式、始業式には、着任新校長を学校内に立ち入らせないための実力阻止体制を確立せよ。」などを指示し、さらに、同月三日、「指示第一号補強」をもって、「入学式、始業式以降連日して新任校長を学校内に立ち入らせないための実力阻止体制を継続せよ。」などを、同月九日付「指示第一号補強その二」をもって、「着任拒否闘争を継続、強化せよ。」などの指示を発した。これらの各指示は、そのころ各支部長、分会長を通じて各組合員に伝達され、組合員は、右指示に従って本件着任拒否闘争を行ったものである。

原告待鳥は、五月三〇日及び三一日の二日にわたり高教組第二五回定期大会を招集したが、これに先立ち右原告ら一〇名は、同定期大会に提出する議案として、右同様内容の闘争手段を提出することを協議決定のうえ同大会に提出した。同大会の席上、原告中西は、「校長問題は民主教育を破壊しようとする反動文教政策の先ぶれである。組織をあげて闘わなければならない。」旨の発言をして可決決定に至らしめたものである。

ところで、地公法三七条一項は、「職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおってはならない。」と規定し争議行為を禁止しているが、本件着任拒否闘争が右「怠業」若しくは「地方公共団体の機関の活動能率を低下させる怠業的行為」に該当することは明らかであって、右原告ら一〇名は、前述のとおり、共謀して右行為を企て、その遂行を共謀し、そそのかし、あおったものである。

(2) 原告待鳥惠の違法行為

(イ) 五月九日午前五時五〇分ころ水産高校に出向き、発令以来ピケにより着任を阻止されて入校できなかった藤幸人同校校長がその着任を援助するため県教委教育長の命令を受けて同行した県教育庁職員三名とともに入校せんとするのを、同校玄関前で阻止していた組合員数十名を指揮して同校長の入校を実力をもって阻止し、また、同日午前四時五五分ころ玄関付近で校長の着任を助けていた県教育庁職員四宮勇を組合員が玄関から押し出し無理やりに扉を閉じた際、同人に左小指骨折の傷害を負わしたことにつき同人が福岡県警警備課に通告したことに対し、同人に語気荒らく詰めより約四〇分にわたって同人をつるしあげた。

(ロ) 同月一〇日午前一〇時ころ右同校に出向き、同時刻ころ着任登校の職務命令を受けて県教育庁職員四名とともに登校せんとする藤校長の入校を、組合員約五〇名を指揮して実力をもって阻止した。

(ハ) 同月一一日、組合員約五〇名を動員して、前夜来福岡県庁職員労働組合及び福岡県教職員組合と徹夜で交渉を続けていた県教委教育長に交渉を要求し、その結果、午前七時から一時間三〇分の約定で県教委会議室において教育長との交渉に入ったが、約定の時間を過ぎても同会議室から退去せず、教育長が同九時二〇分ころ交渉打切りを明示するも教育長、教職員課長ら数名の事務局職員を監禁して放さず、さらに、同一〇時二〇分ころ教育長が退去命令を発するも退去せず、午後零時四〇分ころ警官隊により強制退去させられるまで要求を受けて同所を退去しなかった。

(ニ) 同月三〇日午前九時から同一一時ころまでの間、修猷館高校玄関付近において、同日同校創立八〇周年記念式典に出席するため登校しようとする同校石橋茂校長を阻止するため動員した執行部役員及び組合員約五〇人をみずから陣頭指揮してピケを張り同校長の入校を妨害した。

(3) 原告林宏の違法行為

(イ) 四月二〇日、鞍手農業高校において、同校事務長安永栄七郎が同校職員の四月分給与に関し支出命令書に校長の決裁を受けたことを難詰し、高教組同校分会役員らを指導し多数の威勢を示して同事務長をつるしあげるとともに、同人に対して、「違法ギリギリの線で組合に協力せよ。」と申し向けて脅迫した。

(ロ) 五月二三日福岡県議会文教委員会委員の県立学校視察が行われた際、その対象校となった宗像高校に出向き組合員約二五名を指揮し、同日午前一〇時三〇分ころ登校した中村喜代志同校校長を校門付近においてつかまえて付近の小路に引き込み、同委員会委員の来校時刻となるもこれを放さずに監禁し、校長の登校を阻止してその職務の遂行を阻害した。

(ハ) 同月三〇日、原告待鳥らとともにピケを張り、前記(2)の(ニ)に記載のとおり修猷館高校創立八〇周年記念式典に同校校長が出席するため入校するのを妨害した。

(4) 原告中西績介の違法行為

(イ) 四月一日午前一一時ころから前記新任校長人事につき教育長に抗議するため組合員とともに教育庁に押しかけて、同日午後一時から予定された辞令交付式に教育長が出席することを不能ならしめ、やむなく同日午後一時一五分から同庁教職員課長補佐森下雄が教育長に代わって新任校長に対して辞令を交付していたところ、さらに、同式場に押し入って同人に交付中止を強要し、これに応じないとみるや公文書である辞令を入れた盆を同人から奪取し、同人を暴力をもって式場から押し出して同人の公務の執行を妨害した。

(ロ) 五月八日午前八時三〇分ころから北九州盲学校において、発令以来ピケにより入校を阻止されて着任できなかった勝間田敏男同校校長がその着任を援助するため派遣された県教育庁職員三名とともに入校せんとするのを、同校校門付近で約五〇名の組合員を指揮してピケを張り実力をもって阻止した。

(ハ) その後、同日午後二時ころ八幡高校に出向き、約四〇名位の組合員を指揮してピケを張り、松延一男同校校長の入校を実力をもって阻止した。

(ニ) 同月九日午前一〇時ころ北九州盲学校に出向き、同日午前七時三〇分ころから県教育庁職員三名の応援を得て着任せんとする勝間田校長の入校を阻止していた約八〇名位の組合員を指揮して同校長の入校を実力をもって阻止した。

(ホ) 同月一一日、原告待鳥らとともに前記(2)の(ハ)に記載のとおり教育庁において要求を受けて退去せず、警官隊に強制退去させられた。

(ヘ) 同月三〇日、修猷館高校において、原告待鳥らとともに前記(2)の(ニ)に記載のとおり同校校長の入校を妨害した。

(5) 原告上村正則の違法行為

(イ) 五月二日午前一〇時三〇分ころ大牟田商業高校に出向き、同九時四五分ころ教育庁職員四名とともに登校し、玄関付近において一〇名程度のピケの妨害を受けながらも入校していた中村正夫同校校長に対し、組合員約三〇名を指揮して同一一時三〇分ころから約二〇分間、「私服警官の先導やPTA役員の支援を受けて着任するとは何事か。」(私服警官の行動については、校長、同行職員は全く関知していない。)「現状で着任すれば無言闘争、事務拒否をする。」などと着任反対の抗議をした。

(ロ) 同月九日、戸畑工業高校において、午前八時三〇分ころから中野弥壮同校校長が下校した同九時三〇分ころまでの間、組合員を指揮して着任反対の抗議をして同校長の校長室への入室を阻止した。

(ハ) 同月一〇日、久留米聾学校に出向き、午前一〇時三〇分ころ着任登校の職務命令を受けて同月八日以来引続き教育庁職員三名を同行して登校せんとする宮尾和夫同校校長に対し、組合員約八〇名を指揮して玄関前にピケを張り、同校長の入校を実力をもって阻止した。

(ニ) 同月一一日、水産高校に出向き、午前八時三〇分ころ着任登校の命令を受けて同月八日以来引続き教育庁職員四名を同行して登校せんとする藤幸人同校校長に対し、組合員約八〇名を指揮して同校正門付近にピケを張り同校長の入校を実力をもって阻止し、その後同校長が発した退去命令にも従わず、要請により出動した警官隊によって強制退去されるまで阻止行動を指導した。

(ホ) 同月二三日、右水産高校に出向き、午前一〇時三〇分ころ福岡県議会文教委員会委員視察に立会いのため登校せんとする藤校長を正門付近の路上においてとらえ、同所より約一〇〇メートル離れた公園に連行して同校長の入校を阻止し、さらに、原告松濤勲(高教組水産分会長)が運転する車に乗車せしめて宮地嶽神社前の飲食店まで連行し、右文教委員会の視察が終るまで軟禁して同校長の職務の執行を妨害した。

(6) 原告牧野正國の違法行為

五月八日、鞍手農業高校に出向き、着任登校の職務命令を受けて教育庁職員を同行して登校せんとする清水喜代人同校校長に対し、組合員約一二〇名を指揮して同校長の入校を阻止した。同日、牧野らが指揮する約一二〇名の組合員は、午前八時三〇分ころ教育庁職員三名とともに同校正門前に到着し再三にわたって入校せんと試みる同校長に対し、正門階段(同校は高台にあるため、道路から正門まで階段になっている。)から道路にかけてピケを張り、「入れるなら入ってみろ。」などと呼号して同校長の眼鏡をむしり取り、腹部、背腰部を拳で突きあげるなど暴行を加えてこれを押し返すとともに、同校長を学校付近の小路に連れ込み約一時間にわたってつるしあげた。その後、牧野は、原告牧文武(高教組直鞍支部副支部長)及び原告佐藤周三(高教組同校分会長)とともに同校長を組合本部へ連行するため付近の道路上に停車させてあった車に無理やりに同校長を押し込み、同校長の右席には牧が、左席にはみずからが、助手席には佐藤が座って校長を囲み、さらに、組合員の運転する自動車一台を後続させて同校長を監禁して福岡市に向けて発進し、途中約一時間の車中において前記暴行による激痛を訴える同校長に対し、同人らがこもごも「校長を辞任せよ。」と強要し、同校長が激痛のため黙っていると大声をあげて脅迫した。その後、同校長は、福岡市所在の馬場回生堂で治療を受けたが、同夜にいたり吐血した。

(7) 原告露口勝雪の違法行為

(イ) 四月一一日午前八時四〇分ころ福岡中央高校の玄関口において、原告城戸陽二郎ら約一〇名の組合員を指揮して、登校して来た徳永務校長の入校を実力をもって阻止した。

(ロ) 五月八日、戸畑工業高校正門付近において、約三〇名の組合員を指揮して中野弥壮同校校長の入校を妨害し、さらに、ピケをこえて入校した同校長に対し、午前八時二〇分ころから約三時間にわたり組合員を指導して着任反対の抗議をし、同校長の校長室への入室を阻止した。

(ハ) 同月九日、福岡中央高校において、午前九時ころ登校せんとする徳永校長を約二〇名位の組合員を指揮して正門付近にピケを張り同校長の入校を阻止した。

(8) 原告平木時雄の違法行為

(イ) 五月八日、宗像高校において午前八時二〇分ころ、県教育庁職員四名を伴って登校せんとする中村喜代志同校校長の入校を、約三〇名位の組合員を指揮しみずからスクラムの先頭に立って阻止した。

(ロ) 同月一〇日、福岡中央高校において、午前九時一〇分ころ登校せんとする徳永校長の入校を約二〇名位の組合員を指揮して阻止した。

(9) 原告古賀要の違法行為

(イ) 五月八日、水産高校における阻止行動において、ピケ要員約四〇名の先頭に立ち同校藤校長の入校を阻止した。

(ロ) 同月一一日、前記(2)の(ハ)に記載のとおり教育庁において要求を受けて退去せず、警官隊によって強制退去させられた。

(10) 原告江口義一の違法行為

(イ) 四月四日午後七時三〇分ころ、鞍手高校に出向き、同所に黒木高校長田中正利を呼び出して原告宮本芳雄(高教組直鞍支部長)とともに校長辞任願を提出するよう強要した。

(ロ) 五月八日、大川工業高校において、同日着任した柴田正寛同校校長に対し、同校長が教育庁職員三名を同行したことを難詰するとともに、着任反対の抗議をした。

(ハ) 同月九日、高教組三潴支部長原告中村義貞ら七名を指揮し、同日午前九時ころ大川バス停留所で下車して登校しようとする右柴田校長をとらえて大川小学校まで連行し、同人の前日の着任行為について抗議しその登校を阻止した。

(ニ) 同月一一日、前記(2)の(ハ)に記載のとおり教育庁において要求を受けて退去せず、警官隊によって強制退去させられた。

(11) 原告中村羔士の違法行為

五月一一日、前記(2)の(ハ)に記載のとおり教育庁において要求を受けて退去せず、警官隊によって強制退去させられた。

(二) 原告田村千鶴夫、同佐田正比古、同福田茂雄の違法行為

(1) 本件処分当時、原告田村千鶴夫は、北九州盲学校の、同佐田正比古は、久留米聾学校の、同福田茂雄は、水産高校の教頭の地位にあったものであるが、教頭は、学校教育法施行規則二二条の二(高校にあっては六五条、盲、聾学校にあっては七三条の一三により準用)及び福岡県立学校管理規則九条の規定に基づき置かれるものであって、その職務は、法令上「校長を助け、校務を整理する」(学校教育法施行規則二二条の二、三項)と規定されており、校長の職務権限について直接校長を補佐するとともに、校長の校務処理の直接的補助行為として校務を整理すべき立場のものである。また、福岡県立学校管理規則一〇条は、「校長に事故あるときは、教頭がその職務を代行する。」と規定し、校長職務の代行が教頭の職務であることを明らかにしている。教頭は、右のような職務の性格にかんがみ、管理職手当(給料月額の一〇パーセント)を支給されるとともに、地公法五二条四項の規定に基づき制定された昭和四一年福岡県人事委員会規則第一四号「管理職員等の範囲を定める規則」二条二項により管理職員に指定されているもので、地公法五二条三項により一般の職員と同一の職員団体を組織できないこととされている。このように、教頭は、学校管理上はもとより、教育公務員労働関係においても、管理者の地位に立つものである。

(2) しかるに、右原告ら三名は、次のとおりその職責を放棄したものである。

(イ) 右原告ら三名は、右に述べたような立場のものであるから、各校長が本件着任拒否闘争のため登校できない場合においては、積極的に校長に対し校務を報告、連絡し、その指示を仰いで校務を整理すべき職務上の義務があるのに、本件着任拒否闘争の期間中故意にその義務に反し、全くかかる職責を果たさなかった。このため、約三か月間にわたり、右原告らが所属する三校の学校運営は、事実上、被告の正常な管理下から離脱した。

(ロ) 右原告ら三名は、具体的阻止行動においても、本来、教頭としての立場から、組合員らの違法な行動を取りやめるよう説得するなど校長の着任を援助すべきであるにもかかわらず、かえって、各校の組合員らと共謀して阻止行動に参加した。その具体的行動は、原告田村については、「後記(三)の(3)の(ハ)、(ホ)、(ト)、(リ)、(ヌ)、(ル)、(ヲ)、(ワ)、(カ)、(ヨ)」、原告佐田については、「(三)の(1)の(リ)、(タ)、(レ)、(ソ)、(ツ)、(ネ)、(ナ)」、原告福田については、「(三)の(2)の(ハ)、(ニ)、(ヘ)、(ト)、(チ)、(リ)、(ワ)」のとおりである。

(三) その余の原告らの違法行為

その余の原告らの本件当時の勤務校等は、左記一覧表のとおりであった。

関係学校名

原告

勤務先

組合役職

備考

(1)久留米聾学校

佐々木清隆

久留米聾学校

久留米支部長

鞍手農にも関連「(4)の(ヨ)」参照

緒方信正

同右

久留米聾分会長

前田清美

(旧姓倉田)

同右

久留米聾分会員

志鶴久

同右

同右

福成

三井高校

久留米支部書記長

鞍手農にも関連「(4)の(ヨ)」参照

黒木高校にも関連「(10)の(ホ)」参照

(2)水産学校

綱脇博幸

水産高校

宗像支部長

松濤勲

同右

水産高校分会長

後藤彪

同右

水産高校分会員

岡松蒼生男

同右

同右

緒方紀生

同右

同右

力丸剛

同右

(実習助手)

同右

(3)北九州盲学校

相部開

北九州盲学校

北九州盲分会長

亡城戸大策

同右

北九州盲分会員

高城力

同右

同右

亡田中俊文

八幡南高校

八幡支部長

八幡高校にも関連「(6)の(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ヘ)、(ト)」参照

(4)鞍手農業高校

牧文武

鞍手農業高校

直鞍支部副支部長

佐藤周三

同右

鞍手農分会長

大塚和弘

同右

鞍手農分会員

宮本芳雄

直方高校

直鞍支部長

黒木高校にも関連「(10)の(ハ)、(チ)、(ヌ)」参照

平塚文雄

久留米農芸高校

久留米農分会長

(5)大川工業高校

鬼塚智成

大川高校

三潴支部副支部長

星野潜

大川工業高校

大川工分会長

中村義貞

三潴高校

三潴支部長

緒方昭一

同右

同支部書記長

(6)八幡高校

木原輝夫

八幡高校

八幡支部副支部長

古野政仁

同右

八幡高分会長

(7)宗像高校

久保誠一

宗像高校

宗像分会長

(8)大牟田商業高校

原昭夫

大牟田商業高校

大牟田支部長

(9)戸畑工業高校

高取三也

戸畑工業高校

戸畑工分会長

(10)黒木高校

末永博規

黒木高校

黒木高分会長

高倉正人

八女工業高校

八女支部長

(11)福岡中央高校

城戸陽二郎

福岡中央高校

福岡中央分会長

各校における着任拒否闘争の具体的事実は、次のとおりである。

(1) 久留米聾学校長宮尾和夫に対する着任拒否闘争について

久留米聾学校は、久留米市高良内町二九三五番地に所在する特殊学校で、本件当時の学校規模は児童生徒数約二四〇名、教職員数六〇名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として久留米支部久留米聾分会を組織していた。

(イ) 原告佐々木は、右支部長として、原告緒方信正(以下「緒方(信)」と表示する。)は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ所属組合員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月二日、原告緒方(信)は、久留米聾分会員約一〇名を引卒して山門高校に出向き、山門高校分会員から校長辞任要求を受けていた宮尾校長に対して、同日午前五時ころ久留米聾分会員の連署による着任拒否決議書を手交して着任を拒否する旨通告した。

(ハ) 同月一〇日午前九時一〇分ころ、入学式を行うため登校した宮尾校長を原告緒方(信)が玄関前で見つけるや、原告志鶴外分会員約三〇名を直ちに呼び集め、同人らは、右玄関前に立ち並んで同校長の入校を阻止し、同九時三〇分ころ同校長をして入校を断念せしめた。

(ニ) 同日午後一時ころ、原告佐々木は、久留米市内の宮尾校長自宅に原告志鶴外数名の分会員を伴って押しかけ、「明日から着任拒否阻止行動の支部動員態勢をとるので登校するな。」と約四〇分間にわたり不法な強要をした。

(ホ) 同月一九日午後八時ころから同一〇時ころまでの間、原告佐々木、同福成は、久留米聾分会員とともに計七名の多数で宮尾校長自宅に押しかけ、久留米聾学校職員の四月分給料支払命令の決裁につき事務長代決を認めるよう同校長に義務なきことを強要した。一方、同日午後六時ころから一〇時ころまでの間、同校において、原告緒方(信)は、分会員とともに事務長江崎三好を右給料支出命令に関し多数の威力を示してつるしあげた。

(ヘ) 同月二〇日午前一〇時ころ、登校せんとした宮尾校長に対し、同校正門前において組合員ら約二〇名がピケを張り、原告佐々木は、その先頭に立って同校長の入校を阻止し、同一〇時三〇分ころ同校長をして入校を断念せしめた。

(ト) 同月二四日午前一〇時ころ、登校せんとした宮尾校長に対し、同校玄関前において組合員ら約二〇名がピケを張り、原告緒方(信)は、先頭に立って同校長の入校を阻止し、同一〇時三〇分ころ同校長をして入校を断念せしめた。

(チ) 同月二七日午前一〇時ころ、登校せんとした宮尾校長に対し、玄関前において組合員ら約一五名がピケを張り、原告佐々木、同緒方(信)及び同福成は、その先頭に立ち口々に、「あんた元の学校に帰らんか。」「何回来ても同じだ。」などと呼号し前同様校長の入校を阻止し、同一〇時三〇分ころ同校長をして入校を断念せしめた。

(リ) 五月一日ころ、原告佐田は、久留米聾学校分会所属組合員と共謀して、「校長不在について」と題する同日付PR紙を久留米聾学校教職員一同の名で発行して全父兄に送付し、同校長の未着任に関連する新任校長人事について高教組の立場に立つ一方的な宣伝を行い、拒否闘争の推進を図った。

(ヌ) 同月二日午前一〇時ころ、登校せんとした宮尾校長に対し、同校正門前において、原告緒方(信)は、先頭に立って同校長の入校を阻止し、同一〇時二〇分ころ同校長に入校を断念せしめた。

(ル) 同月三日午後一時ころ、原告佐々木、同福成、同志鶴は、約五名で宮尾校長自宅に押しかけ、着任拒否の旨を申し向け、さらに、「着任について業務命令が出たら知らせよ。」などと約一時間にわたって義務なきことを強要した。

(ヲ) 同月七日午前九時ころ、原告緒方(信)、同福成は、宮尾校長自宅に押しかけ、同一〇時三〇分ころまでの間、同校長に対し、「着任拒否闘争に協力せよ。学校に出て来るな。」と強要した。

(ワ) 県教委教育長は、右のような宮尾校長に対する登校阻止行動にかんがみ、県教育庁職員森重政夫外二名に対し、同月八日久留米聾学校に出向き同校長がその職務を円滑に遂行しうるよう適切な措置を講ずるよう命令した。よって、同日午前八時三〇分ころ、同校長が右教育庁職員三名とともに登校せんとするのを、同校玄関前において原告前田(旧姓「倉田」)ら約三〇名がピケを張り、原告佐々木、同緒方(信)、同福成及び同志鶴が先頭に立ってスクラムを組ませ、実力をもって入校を阻止し、同日午後一時三〇分ころ、同校長及び右教育庁職員三名に入校を断念せめた。

(カ) 同月九日午前七時三〇分ころ、宮尾校長が前同様職務命令を受けた教育庁職員三名の応援を得て登校しようとするのを、同校玄関前において原告前田ら分会員及び支援の他支部組合員、他労組組合員約八〇名がピケを張り、原告佐々木、同緒方(信)、同福成及び同志鶴らは、ピケ隊の先頭に立ち、実力をもってその入校を阻止し、同一一時三〇分ころ同校長及び右教育庁職員三名に入校を断念せしめた。

(ヨ) 同月一〇日午前一〇時三〇分ころ、職務命令を受けて着任を強行せんとする宮尾校長及び教育庁職員三名に対して、原告前田ら組合員ら約八〇名が玄関前にピケを張り、原告佐々木、同緒方(信)、同福成、同志鶴のほか高教組本部から出向いた原告上村は、ピケ隊の先頭に立ち、前同様実力をもってその入校を阻止し、同日午後零時三〇分ころ同校長及び右教育庁職員三名に入校を断念せしめた。

(タ) 同月一一日午前八時三〇分ころ、宮尾校長が前同様職務命令を受けた教育庁職員四名の応援を得て登校しようとするのを、同校玄関前において原告前田ら分会員及び支援の他支部組合員、他労組組合員ら約八〇名がピケを張り、原告佐々木、同緒方(信)、同福成及び同志鶴らがその先頭に立ち実力をもって入校を阻止した。同校長は、同九時ころから繰り返しピケ隊に対して口頭で退去命令を発し、その後、退去命令を記載した文書を掲示して退去を求めたが、組合員らは同退去命令に従わずスクラムを組んで座り込みを続けるので、同校長は、やむなく久留米警察署に警官隊の出動を要請した。同校長の要請に基づき同日午前一一時ころ警察官約五〇名が現場に出動し、右の違法な実力阻止の状況を見て同一一時三〇分ころ警備課長よりマイクでさらに退去を命じたが応じないので、同警察官らにより座り込みを強制排除し、同校長及び教育庁職員四名が校舎内に入校した。その後、同校長が校長室に入るや、原告緒方(信)は、多数の分会員の先頭に立って校長室になだれ込み、分会員らとともに同校長の辞任を執拗に要求し、同校長が、午後零時四〇分ころ下校するまでの間、その執務を妨害した。

また、同校長は、その間、所属職員に対する着任の挨拶及び校務を処理するため同校事務職員を介して教頭である原告佐田に対し校長室に来るよう命じたが、原告佐田は、同校寄宿舎において右校長の命令を聞いたにもかかわらず、同校長が下校するまで出頭しなかった。

(レ) 同月一二日、原告佐田は、宮尾校長の自宅において、三潴高校教頭吉村薫とともに、「警官導入で分会は硬化しているから病気ということにして学校に来るな。」と同校長に申し向けて登校しないよう慫慂した。

(ソ) 同月一三日、原告佐田は、宮尾校長の自宅に新任校長一二名全員病気ということにして学校に行かぬよう記載した葉書を送付して、同校長に登校しないよう慫慂した。

(ツ) 同月一六日午前八時三〇分ころ、登校せんとした宮尾校長に対して、玄関前において原告佐田及び同前田ら組合員約二〇名余がピケを張り、原告佐々木、同緒方(信)、同福成及び同志鶴がその先頭に立ち前記警官の出動要請を非難して、「あなたの頭はどうかしている。」「精神病院へ行け。」などと口々に同校長に罵声を浴びせながら同校長の入校を実力をもって阻止し、同一〇時一〇分ころ同校長に入校を断念させた。

(ネ) 同月二九日、原告佐田は、高教組南筑高校分会の北村謙一に数回電話し、同分会が着任拒否闘争に批判的でピケ要員を派遣しなかったことを難詰するとともに、今後久留米聾学校にピケ要員を派遣することを強く要請して入校阻止行動を推進した。

(ナ) 宮尾校長の昇任発令後六月一五日ころまでの間、原告佐田は、同校長宛に同校に送付された九州地区聾学校長会、特殊学校PTA総会等の案内状をみずから保管して一切同校長に連絡せずに隠匿し、同校長をして右各会議への出席を不能ならしめて校務の運営を阻害した(四月二三日ころ開催された右九州地区聾学校長会にはみずから勝手に同校長に代わって出席したものである。)。

(ラ) 以上のほか、五月一七日、同月二〇日各午前九時ころには原告緒方(信)、同福成が、同月二三日午前九時ころには原告佐々木、同緒方(信)が、同月二九日午前九時ころには原告佐々木、同緒方(信)、同福成及び同志鶴が、六月一日午前八時四五分ころには原告緒方(信)が、同月五日午前八時五〇分ころには原告佐々木、同緒方(信)が、同月七日午前八時五〇分ころには原告佐々木が、いずれも約二〇名ないし四〇名の組合員からなるピケ隊の先頭に立って同校正門付近又は玄関前にピケを張り、登校せんとする宮尾校長の入校を実力で阻止し、校長に入校を断念せしめた。

(2) 水産高校長藤幸人に対する着任拒否闘争について

水産高校は、宗像郡津屋崎町に所在する職業課程高校で、本件当時の学校規模は生徒数約四五〇名、教職員数四六名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として宗像支部水産分会を組織していた。

(イ) 原告綱脇は、右支部長として、原告松濤は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ所属組合員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月四日午後二時ころ、原告松濤、同綱脇は、外一名とともに福岡市天神所在教育会館屋上の高教組福岡支部事務所において藤校長に対し、水産高校分会の校長着任拒否決議書を手交し、かつ、原告綱脇は、「徹底的に着任を拒否する。」「ベトコン作戦で行く。」「普通高校から赴任しても水産高校の校長はつとまらない。」などと申し向け、同校長に着任を思い止らせようとした。

(ハ) 同月二〇日午前七時三〇分ころ、藤校長が登校し、校長室において四月分給与支出命令書その他の案件について決裁をしていたところ、午前八時ころ、原告後藤外二名位のものが来て退去を要求した。同校長は、既に決裁事務も終了していたので下校しようとしたところ、これを学校正門付近内側の養魚池の傍に止め、午前八時三〇分ころ、原告福田、同松濤、同綱脇、同岡松、同力丸及び同緒方紀生(以下「緒方(紀)」と表示する。)らも加わって同校長を同校校外にある寄宿舎の食堂に連れて行き、テーブルをはさんで約四〇名の組合員とともに対座し、原告福田は、「こっそりやって来て印をつくとは何か。」「校長の資格はない。」「来年出直せ。」などと、原告後藤は、「泥棒猫」などと呼ばわり、こもごも同校長に対して登校したことを抗議し、午前一〇時ころ、原告綱脇は、前記支出命令書の破棄を要求した。同校長は、やむなく決裁ずみの支出命令書を破棄したが、その後もなお約一時間半にわたり、罵詈雑言をもって校長を辞任するよう抗議した。

(ニ) 同月二四日、藤校長が午前一一時ころ登校のため学校に赴いたところ、原告福田、同松濤、同綱脇、同岡松及び同力丸らは、約二〇名位の分会員の先頭に立ち、学校正門及び脇門を閉鎖してその内側にピケを張り、口々に「校長帰れ。」「何しに来たか帰れ。」などと呼号し、約二〇分間位にわたり同校長の入門を実力で阻止し、もって、同校長をして登校を断念するのやむなきに至らしめた。

(ホ) 同月二七日、藤校長が午前一一時ころ登校のため学校に赴いたところ、原告松濤、同綱脇らは、約三〇名位の組合員の先頭に立ち、前項と同様の方法により約二〇分間にわたり同校長の入校を実力で阻止し、もって、同校長をして登校を断念するのやむなきに至らしめた。

(ヘ) 県教委教育長は、県教育庁職員四宮勇外二名に対し、五月八日水産高校に出向き藤校長がその職務を円滑に遂行しうるよう適切な措置を講ずるように命令した。よって、同日、藤校長が右職員三名とともに午前八時三〇分ころ登校のため学校に赴いたところ、原告福田、同松濤、同綱脇、同後藤、同岡松、同力丸及び同緒方(紀)のほか、本部から出向いた原告古賀らは、約八〇名位の組合員の先頭に立ち、学校正門、脇門を閉鎖してその内側にピケを張り実力で同校長の入校を阻止した。同校長が学校周囲を移動して校門以外の箇所から校内に入ろうとする都度ピケ隊を同箇所に移動し、「話合いがつかない限り絶対に学校に入れない。」「帰れ。」「何しに来たか帰れ。」などと呼ばわりながらこれを阻止し、午後一時三〇分ころまでにわたり同校長が学校内に入ることを実力で阻止し、もって、同校長をして登校を断念するのやむなきに至らしめた。

(ト) 同月九日、藤校長が、前項と同様教育長の命を受けた県教育庁職員四宮勇外二名とともに午前四時四五分ころ登校のため学校に到着し、正門を通って校舎本館の玄関まで来たが、扉が内側から閉鎖されていたので校舎沿いに右側に廻ったところ、校舎内で「来たぞ。」という声がして数人の土足の足音が響いたので玄関に引き返すと、四宮外二名の職員と五、六名の組合員が玄関扉をはさんで互いに押しつ押されつしており、ついに、同職員らは外に押し出されて扉は内側から閉鎖された。その際、四宮は、扉にはさまれて左手小指骨折の傷害を負った。同校長は、この様な暴力沙汰を回避しようとして午前五時ころ、原告松濤、同綱脇を校舎本館と講堂をつなぐ渡り廊下付近に呼んで、阻止行動をやめるよう話合いをはじめたところ、間もなく右原告らに原告後藤、同福田、同岡松、同力丸及び同緒方(紀)もこれに加わり、右原告らが約三〇名位に増加した組合員の先頭に立ち、話をするなら学校を出て校外の校長住宅で行えと要求し、同校長を取り囲みながらついに午前六時ころ正門外に押し出し、門扉を閉鎖して再び同校長が入校することを阻止した。原告松濤は、そのころ、校門付近に到着して校長に対し何しに来たかなどと抗議していた高教組委員長である原告待鳥外三名位の組合員とともに同校長を校長住宅に連れて行き(その途中原告待鳥は組合員に呼ばれて引き返した。)、約二時間にわたり同校長が阻止行動をやめるように説得したのをきかず、校長を辞任するよう抗議した。

これよりさき前記四宮が自己の負傷につき警察に届け出ていたので、同日午後四時四五分ころ宗像警察署係官が右四宮の負傷事件について現場の検証をなすため同校長に立会いを求めたので、そのころ同校長は再び学校に赴き入校しようとしたところ、原告松濤、同後藤及び同緒方(紀)らは、数十名の組合員の先頭に立ち正門付近においてピケを張り、「校長と認めないものが何で立会いするか。」「教頭がいるので必要がない。無理して学校に入るなら三〇〇人のピケで阻止する。」などと叫んで同校長の入門を阻止し、さらに、原告松濤、同緒方(紀)及び同後藤は、正門から約一〇〇メートル離れた新海菓子店に同校長を連れて行き、約一時間半にわたって軟禁し、ついに、同校長をして検証に立ち会うことを断念するのやむなきにいたらしめたうえ、事実上立会いを不可能ならしめた。

(チ) 同月一〇日、藤校長が前項と同様教育長の命を受けた県教育庁職員野見山義保外三名とともに午前一〇時ころ登校のため学校に赴いたところ、原告福田、同松濤、同綱脇、同後藤、同岡松、同力丸及び同緒方(紀)らは、約五〇名位の組合員の先頭に立ち、学校正門、脇門を閉鎖してその内側にピケを張り、口々に「校長帰れ。」と叫び約一〇分間にわたり同校長の入校を実力で阻止し、もって、同校長をして登校を断念するのやむなきに至らしめた。

(リ) 同月一一日、藤校長が前項同様教育長の命を受けた県教育庁職員四名とともに午前八時三〇分ころ登校のため学校に赴いたところ、原告福田、同松濤、同綱脇、同後藤、同岡松、同力丸及び同緒方(紀)のほか本部から出向いた原告上村らは、約八〇名位の組合員の先頭に立ち、学校正門、脇門を閉鎖してその内外にピケを張り同校長の入校を実力で阻止した。同校長は、同四五分ころに至り、同五五分までに水産高校職員以外のものは校地外に退去するよう、正門から校長室までの通路にいるものは退去して通路をあけるようマイクを使用して口頭で退去命令を発し、さらに、同趣旨を記載した文書を掲げてピケ隊に対し退去を要求した。しかし、ピケ隊がこれに応じないので、同校長は、やむなく宗像警察署に警官隊の出動を要請した。同校長は、その後もなお数回正門又はそれ以外の箇所から学校内に入ることを試みたが、その都度ピケ隊により実力でこれを阻止された。

午後零時五〇分ころ、同校長は、正門より右手に廻り柵の切れた地点から漸く校内に入り、警官隊によってピケの排除を受けながら校舎本館の玄関に到着し、さらに、校舎内廊下に座り込んでいる組合員を警官隊によって排除し、午後一時一〇分ころ校長室に入った。その間、原告松濤らは、終始ピケ隊の先頭に立ち、警官隊のピケ排除に対しても執拗に抵抗し、しかも、生徒が校長帰れ、警官隊帰れ、バットで叩き殺すぞなどと叫んで騒ぐのを見て、原告松濤らは、一人もこれを制止せず、むしろ、これを黙認する態度であった。この様な状態のため、藤校長は約二〇分後に警官隊に保護されながら校長室を退去し下校せざるを得なかった。

(ヌ) 同月一六日、藤校長が午前九時二〇分ころ登校のため学校に赴いたところ、原告松濤、同綱脇、同岡松、同力丸及び同緒方(紀)らは、約二〇名位の組合員の先頭に立ち、学校正門、脇門を閉鎖してその内側にピケを張り、「警官を導入したものは教育者の資格はない。帰れ。」などと叫び、校長のまわりに終始つきまとってはなれず、約一〇分間にわたり同校長の入校を実力で阻止し、もって、同校長をして登校を断念するのやむなきに至らしめた。

(ル) 同月一七日、藤校長が午前九時四五分ころ登校のため学校に赴いたところ、原告松濤、同綱脇、同岡松、同力丸及び同緒方(紀)らは、約三〇名位の組合員の先頭に立ち、前項と同様約三〇分間にわたり同校長の入校を実力で阻止し、もって、同校長をして登校を断念するのやむなきに至らしめた。

(ヲ) 同月二三日は、午後零時四〇分ころから約三〇分間、福岡県議会文教委員会が同高校を視察することになっていたので、藤校長が、午後零時三〇分ころ右視察に立ち会うため学校に赴いたところ、原告松濤、同綱脇、本部から出向いた原告上村らは、学校正門より約一〇メートル手前の路上において同校長を待ち受け、そこから約一〇〇メートル離れた公園に同校長を連行して入校を阻止し、約一五分後に原告松濤が運転する自動車に同校長を乗車せしめ、原告綱脇、同上村もこれに同乗して宮地嶽神社前の食堂まで連れて行き、同食堂の一室に午後一時五〇分ころまで軟禁して校長を辞任するよう抗議し、よって、同校長をして右文教委員会の視察立会いは勿論登校をも不可能ならしめた。

(ワ) 同月三〇日、藤校長が午前一〇時ころ登校のため学校に赴いたところ、原告岡松、同力丸及び同緒方(紀)は、約三〇名位の組合員の先頭に立ち学校正門、脇門を閉鎖してその内側にピケを張り、約二五分間にわたって同校長の入校を実力で阻止し、もって、同校長をして登校を断念せしめたが、その間、原告福田は、ピケ隊の中にあって、「県教委と高教組の話合いがついても校長の着任は生徒が認めないぞ。」などと大呼してピケ隊の気勢をあげた。

(カ) なお、水産高校においては、五月二〇日午後二時三〇分ころ、同二七日午前一〇時ころにも、藤校長が登校のため学校に赴いたが、いずれも原告岡松、同力丸らがピケの先頭に立って同校長の入校を実力をもって阻止した。

(3) 北九州盲学校長勝間田敏男に対する着任拒否闘争について

北九州盲学校は、北九州市八幡区七条(当時)に所在する特殊学校で、本件当時の学校規模は児童生徒数約二〇〇名、教職員数五九名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として八幡支部北九州盲分会を組織していた。

(イ) 原告田中は、右支部長として、原告相部は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ所属組合員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月五日午後二時ころから同七時ころまでの間、北九州市八幡区八王寺松坂(当時)所在の勝間田校長自宅応接室において、原告相部、同田中及び同城戸大策(以下「城戸(大)」と表示する。)は、同校長に対し北九州盲学校の校長として着任することを拒否する旨通告するとともに校長辞令の返上を強要し、その結果、同校長をしてその意に反して辞令を原告田中に渡さざるを得なくさせた。

(ハ) 同月八日午前七時ころ、勝間田校長が原告田村に電話し、同日の始業式、翌日の入学式のため登校したい旨伝えたところ、同田村は、「校長着任を拒否しているので登校するな。入学式、始業式は学校行事として校長不在のまま行う。」旨返答して同校長の登校を強く拒絶し、校長不在のまま入学式、始業式を行った。

(ニ) 同月一一日早朝、原告田中は、勝間田校長の自宅に電話し、同校長が始業式に関し原告田村に連絡したことについて、「教頭に指示するとは何事か。必要があれば分会長や支部長である自分に言え。」と語気荒く申し入れて抗議した。

(ホ) 同月一五日午前八時三〇分ころ、勝間田校長が登校しようとした際、同校校門付近(門扉はないが公道により学校内へ入る通路付近)において、原告田村、同相部、同城戸(大)及び同高城らは、約四〇名のピケ隊の先頭に立って同校長の進路に立ちふさがり実力をもって入校を阻止した。同校長は、入校不可能と判断し約二〇分後これを断念した。

(ヘ) 同月一九日午後一〇時ころから翌二〇日午前三時ころまでの間、勝間田校長自宅応接室において、原告田中、同相部、同城戸(大)ら数名の組合員は、同校長に対し、同月一八日に右自宅でなした四月分給与支出命令書の決裁を強く難詰してその破棄を強要し、同校長をしてその意に反して右決裁を破棄させ事務長代決に変更せしめた。また、原告相部、同城戸(大)らは、同二〇日午前七時三〇分ころ同校事務長家永英昇に右校長の決済文書を破棄して代決文書を作成させ、さらに、同日午後三時ころから決済ずみであることを秘匿していたことで同事務長をつるしあげた。

(ト) 同月二〇日午前八時三〇分ころ、勝間田校長が登校しようとした際、原告田村、同相部、同城戸(大)らは、組合員約二〇名の先頭に立って同校長の進路に立ちふさがり実力をもって入校を阻止した。同校長は、約一〇分後入校を断念した。

(チ) 同月二四日午前八時三〇分ころ、勝間田校長が登校しようとした際、同校校門付近において、原告城戸(大)が、約四〇名のピケの先頭に立って同校長の進路に立ちふさがって入校を阻止した。同校長は、約三〇分後入校を断念した。

(リ) 県教委教育長は、右のような同校長に対する阻止行動にかんがみ、県教育庁職員山中茂雄外二名に対し、五月八日、北九州盲学校に出向き勝間田校長がその職務を円滑に遂行しうるよう適切な措置を講ずるよう命令した。よって、同日、同校長が右職員とともに午前八時三〇分ころ登校のため同校に赴き、正午ころまでの間繰り返し入校しようとしたが、その都度、原告田村、同相部及び本部から出向いた原告中西らは、組合員約五〇名のピケ隊の先頭に立って同校長及び右教育庁職員三名の進路に立ちふさがり、実力をもって入校を阻止した。

(ヌ) 同月九日、勝間田校長が前項同様教育長の命を受けた県教育庁職員三名とともに午前七時三〇分ころ登校しようとした際、同校校門付近において、原告中西、同田中、同田村、同相部、同高城らは、組合員約八〇名のピケ隊の先頭に立って同校長及び県教育庁職員三名の進路に立ちふさがり実力をもって入校を阻止した。同校長及び県教育庁職員三名は、同一〇時三〇分ころまでの間、繰り返し入校を試みたが、その都度強硬な阻止行動にあいこれを断念した。

(ル) 同月一〇日、勝間田校長が前項同様教育長の命を受けた県教育庁職員武末義正外三名とともに午前一〇時三〇分ころ登校しようとした際、同校校門付近において、原告田中、同田村、同相部、同高城及び同城戸(大)らは、組合員約八〇名のピケ隊の先頭に立って同校長及び県教育庁職員の進路に立ちふさがり実力をもって入校を阻止した。同校長及び県教育庁職員は、同一一時三〇分ころまでの間、繰り返し入校を試みたが、その都度強硬な阻止行動にあいこれを断念した。

(ヲ) 同月一一日、勝間田校長が前項同様教育長の命を受けた県教育庁職員武末外三名とともに午前八時五〇分ころ登校しようとした際、原告田中、同田村、同相部、同高城及び同城戸(大)らは、組合員八〇名のピケ隊の先頭に立って校門付近にピケを張り、同校長及び県教育庁職員の入校を実力をもって阻止した。そこで、同校長は、同九時五分ころ北九州盲学校職員以外のものは校地外に退去するよう記載した文書を掲示するとともに、マイクを使用して通路をあけるようピケ隊に要求したが、ピケ隊はこれに応じないので、同校長は、やむなく同九時五〇分ころ戸畑警察署に警官隊の出動を要請した。同校長は、その後もなお数回にわたり県教育庁職員四名とともに入校を試み、その都度ピケ隊の実力で阻止されたが、午後一時二〇分ころようやく警官隊の援助のもとに入校することができた。しかし、同校校長室は組合員により施錠され入室できなかったので、同校長は、同校事務室において出勤簿の押印等を行っていたところ、同一時二五分ころ原告田村を先頭に組合員約三〇名が押し入り、約一〇分間右着任行動を激しく抗議して気勢を挙げた。このため、同校長は、早々に事務室を退去し下校せざるを得なかった。

(ワ) 同日午後五時三〇分ころから約三〇分間、原告田中、同田村、同相部、同城戸(大)及び同高城など組合員十数名は、勝間田校長の自宅に押しかけ、同校長が不在のため、その妻カメ子に対し、同所玄関において同日の着任行動を強く難詰し、「勝間田を出せ。」「勝間田の腕をねじ折る。」などこもごも脅迫的言辞を浴びせ同女を畏怖せしめた。

(カ) 同月一三日午後五時三〇分ころから約四〇分間、原告田村、同相部、同高城及び同城戸(大)など組合員十数名は、勝間田校長自宅玄関において、同校長に対し五月一一日の着任行動を抗議し、「お前は校長を辞めろ。教員も辞めろ。」などとこもごも脅迫的言辞を弄し同校長を畏怖せしめた。

(ヨ) 同月一六日午前八時三〇分ころ、勝間田校長が同校に登校しようとした際、同校校門付近において、原告田村及び同高城らは、組合員約二〇名のピケ隊の先頭に立って同校長の進路に立ちふさがり、実力をもって入校を阻止した。同校長は、同九時ころまでの間繰り返し入校を試みたが、その都度強硬な阻止行動にあいこれを断念した。

(タ) 同月一八日午前八時五〇分ころ、原告高城及び同城戸(大)など組合員数名は、勝間田校長自宅に赴き、同所玄関において五月一一日の着任行動に対する抗議文を読みあげた。

(4) 鞍手農業高校長清水喜代人に対する着任拒否闘争について

鞍手農業高校は、鞍手郡宮田町百合野に所在する職業課程高校で、本件当時の学校規模は生徒数約六〇〇名、教職員数五〇名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として直鞍支部鞍手農分会を組織していた。

(イ) 原告宮本は、右支部長として、原告佐藤は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ所属組合員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月四日午後四時ころ、原告佐藤、同牧及び同大塚ら数名は、清水校長の前任校である久留米農芸高校に出向き、同校で残務整理をしていた同校長に対し、鞍手農分会員の連署による校長着任拒否決議書を手交して着任を拒否する旨通告した。その際、原告平塚は、同校長の出身校の分会長として同校分会員を指揮して約三〇分間にわたり同校長に対し校長辞任願の提出を強要した。

(ハ) 同月八日午前七時ころ、清水校長が入学式を行うため登校すべく鞍手農業高校に赴いたところ、同校玄関付近において、原告宮本、同佐藤ら八、九名の組合員は、同校長の進路に立ちふさがり、実力をもって入校を阻止し、同校長をして登校を断念せしめた。

(ニ) 同月一〇日から同月二〇日までの間、原告宮本、同佐藤、同牧及び同大塚らは、共謀して連日筑後市西牟田大和六三五七番地所在の清水校長自宅に電話をかけ、同校長に対し、執拗に着任しないよう強要した。

(ホ) 同月一三日午後二時ころ、原告平塚は、清水校長の自宅に押しかけ、同校長に対し約三〇分間にわたり辞令返上を強要した。その際、同校長が辞令が見当らないと言ったのに対し、「原本が見つかったら返上する。」旨の一札を同校長から強要してとりあげた。

(ヘ) 同月一五日、原告宮本は、組合員約四〇名を指揮して鞍手農業高校校門付近にピケを張って強硬な入校阻止態勢をとり、もって、登校のため鞍手郡脇田バス停留所にさしかかった清水校長をして登校を断念せしめ引き返させた。

(ト) 同月一八日、原告牧は、清水校長自宅に電話し、翌一九日開催される農業高校長会に出席しないよう要求した。

(チ) 同月一九日午後八時ころ、原告平塚は、久留米農芸分会員ら六名をして清水校長自宅に押しかけさせ、約一時間にわたって同校長に対し辞令返上を強要した。その際、辞令返上に代わるものとして辞令紛失届を強要して書かせた。

(リ) 同月二〇日、清水校長が登校のため午前一〇時ころ国鉄バス宮田停留所にさしかかった際、原告宮本、同佐藤は、組合員約三〇名を指揮して同校長をバスから強引に降ろし、同所付近の後藤石油スタンドにおいて、その後漸次集まってきた組合員も加わって約一時間三〇分にわたり同校長をつるしあげ、同校長をして登校を断念せしめた。

(ヌ) 同月二三日、原告平塚は、高教組久留米支部組織部長外二名を同行して清水校長の自宅に押しかけ、同校長が不在のため、同校長の家族に対し、「校長を辞任せよ。」「他の校長七名は現場に復帰している。」など虚言を弄して脅迫的言動をなした。

(ル) 同月二四日、清水校長が登校のため午前一〇時ころ国鉄バス宮田停留所にさしかかった際、原告牧が指揮する数十名の組合員は、バスの窓ガラスを叩き、さらに、車中に乗り込むなどして強引に同校長を引き降ろし、前記石油スタンド横の個人宅に引き入れ、約二時間四〇分にわたりつるしあげ、同校長をして登校を断念せしめた。

(ヲ) 同月二六日正午ころ、原告平塚は、分会員六名とともに久留米農芸高校農場管理室において、清水校長に対し約二時間にわたり、辞令返上及び前任校に戻り勤務することを強要した。

(ワ) 同月二七日、清水校長が登校のため午前一〇時ころ国鉄バス宮田停留所にさしかかった際、原告宮本、同牧及び同大塚は、約五〇名の組合員を指揮して同校長をバスから強引に引き降ろし、同所付近所在の花田(鞍手農業高校教諭)宅二階において、約三時間三〇分にわたり腹痛のため前夜来食事をしていなかった同校長を昼食抜きでつるしあげ、同校長をして登校を断念せしめるとともに、同校長がバスに乗車して帰路につくまで組合員をして監視せしめた。

(カ)第五月二日午前九時ころ、清水校長は、前各項の阻止行動にかんがみ、タクシーで登校せんとしたが、原告宮本は、学校付近の国鉄駅、国鉄及び西鉄バス停留所等に約一〇名の組合員を見張員として配置したほか、学校前に約三五名の組合員を座り込ませるなどして阻止態勢を強化し、同校長をして登校を断念せしめた。

(ヨ) 同月三日午前七時ころ、原告佐々木、同福成及び同平塚らは、清水校長自宅に押しかけ、同校長に対し、「校長の着任行動予定を明らかにせよ。」と強行着任の情報を強要するとともに、翌四日午前一〇時三〇分までに高教組本部に出頭すべき旨強要した。

(タ) 同月四日、原告平塚は、清水校長自宅に電話し、同校長の家族に対し、「清水は、なぜ本部に出頭しなかったか。」などと暴言、叱声を浴びせて同家族を畏怖せしめた。

(レ) 同月六日正午ころ、原告平塚は、分会員四名を伴い清水校長が十二指腸潰瘍の加療のため出向いていた久留米市肥川病院に押しかけ、同校長に対し、組合本部に出頭しなかった理由、翌七日の所在などをきびしく追及するとともに、「着任命令が出ても応じないことを確約せよ。」「私用で出かける場合もその所在を組合に知らせよ。」「支部交渉に応ぜよ。」などと難詰し強要した。

(ソ) 同月八日、県教委教育長は、右のような清水校長に対する阻止行動にかんがみ、県教育庁職員田中終始外二名に対し、鞍手農業高校に出向き、同校長がその職務を円滑に遂行しうるよう適切な措置を講ずるよう命令した。

よって、同日午前七時三〇分ころ、同校長が右教育庁職員三名とともに登校すべく同高校に赴いたところ、原告牧野、同宮本、同佐藤、同牧及び同大塚らは、他労組を含む組合員約一二〇名を指揮してスクラムを組み、同校長及び教育庁職員の入校を実力をもって阻止し、さらに、再三繰り返す同校長の入校行動に対し、同ピケ隊員は同校長の眼鏡をむしり取り、腹部、背部、腰部を強打するなどの暴行を加えてこれを阻止するとともに、同校長を学校付近の小路に連れ込み約一時間三〇分にわたりつるしあげ、さらに、原告牧野、同佐藤及び同牧は、同校長を高教組本部に連行するため、付近の国道上に停車させてあった車に無理やりに同校長を押し込み、校長の右座席には原告牧が、左座席には同牧野が、助手席には同佐藤が座して校長を囲み、さらに、組合員の運転する自動車一台を後続させて同校長を監禁して、福岡市に向けて進行し、途中約一時間の車中において、前記暴行による激痛を訴える同校長に対し、同乗中の右原告らがこもごも「校長を辞任せよ。」と強要し、同校長が激痛のため黙っていると大声をあげて脅迫した。その後、同校長は、福岡市所在の馬場回生堂で治療を受けたが、同夜に至り吐血して入院加療することとなった。

また、同夜午後九時ころから翌九日午前零時三〇分ころまでの間、原告宮本、同大塚らは、同校長の留守宅(校長は右事情により福岡市において加療中)に再三にわたり電話し、「警官でも導入してみろ、それこそ最後だ。ただでは済まんぞ。覚悟しろ。生徒達も黙ってはいないぞ。」などと同校長の家族を脅迫した。

(ツ) 同月一〇日、原告平塚は、清水校長宅に押しかけたところ、同校長が肥川病院に入院したことを知り、翌一一日、分会員二名を同病院に赴かせ、同校長に対し面会を申し込んだが同病院長に断られたため、分会員二名をして同校長を監視せしめた。

(ネ) 同月一六日、鞍手農業高校安永事務長が清水校長の決裁を受けるため久留米市肥川病院に入院中の同校長を訪ねたところ、原告佐藤、同大塚外一名の組合員は、これに同行し、校長の書類決裁を監視するとともに、原告佐藤は、同事務長をして「校長決裁を代決する。」旨の宣言を強要した。

(5) 大川工業高校長柴田正寛に対する着任拒否闘争について

大川工業高校は、大川市大字向島一三八二番地に所在する職業課程高校で、本件当時の学校規模は生徒数約五七〇名、教職員数(校長を除く)五一名であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として三潴支部大川工業分会を組織していた。

(イ) 原告中村は、右支部長として、原告星野は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ所属組合員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月三日午後二時ころ、原告鬼塚、同星野は、組合員二名とともに柴田校長の前任校である香椎工業高校の校長室において柴田校長に対し、大川工業高校の校長として着任することを拒否する旨の決議書を手交して着任しないよう強要した。

(ハ) 同月二〇日午前九時三〇分ころ、柴田校長が登校のため大川工業高校に赴いたところ、同校正門付近の路上において、原告中村、同鬼塚、同緒方昭一(以下「緒方(昭)」と表示する。)及び同星野らは、約三〇名のピケ隊の先頭に立って同校長の進路に立ちふさがり実力をもって入校を阻止するとともに、さらに、同所から約一キロメートル離れた大川高校作法室に連行し、約五〇名の組合員で取り囲み、午前一〇時ころから正午ころまでの間約二時間にわたり、同校長の登校行動について強く抗議した。

(ニ) 同月二四日午前一〇時ころ、柴田校長が登校しようとした際、同校正門付近の路上において、原告中村、同鬼塚及び同緒方(昭)らは、約五〇名のピケ隊の先頭に立って同校長の進路に立ちふさがり実力をもって入校を阻止するとともに、前項同様大川高校作法室に連行し、約五〇名の組合員で取り囲み、午前一〇時三〇分ころから午後零時三〇分ころまで約二時間にわたり、同校長の登校行動について強く抗議した。

(ホ) 県教委教育長は、県教育庁職員森下雄外二名に対し、五月八日大川工業高校に出向き柴田校長がその職務を円滑に遂行しうるよう適切な措置を講ずるよう命令した。よって、同日午前八時二〇分ころ、柴田校長が右教育庁職員とともに登校しようとしたところ、同校正門前で原告中村、同鬼塚、同緒方(昭)及び同星野らの指揮するピケ隊約二五名が同校長らの入校を妨害し、さらに、同校長を同校同窓会館に連行し、同八時三〇分ころから約二時間にわたり、本部から出向いた原告江口らも加わる約五〇名の組合員で取り囲み、同校長が教育庁職員三名を同行したことなどを難詰するとともに、着任反対の抗議をした。

(ヘ) 同月九日午前八時三〇分ころ、原告江口、同中村、同星野らは、登校途上の柴田校長を西鉄バス大川停留所付近においてとらえ、同校長を同所から大川小学校内にある福岡県教職員組合大川支部事務所まで連行し、約一時間半にわたり七、八名の組合員と同校長の登校行動につき抗議するとともに、登校しないよう強要した。

(ト) 同月一五日午前一〇時ころ、原告中村、同鬼塚、同緒方(昭)及び同星野らは、登校途上の柴田校長を前記大川停留所付近において阻止し、さらに、同校長を同所から前記大川高校会議室に連行し、約二〇名が「話し合うよう努力せよ。」「今後絶対に登校するな。」などと強く抗議してつるしあげた。

(チ) 同月二九日午前一〇時ころ、柴田校長が登校しようとした際、同校正門付近において、原告中村、同緒方(昭)及び同星野らは、ピケ隊約二〇名を指揮し同校長の入校を実力をもって阻止し、さらに、同校長を同校東側の材木置場の空地に連行して同一〇時過ぎから約一時間にわたり「赴任行動を止めよ。」などと強く要求してつるしあげた。

(リ) なお、六月一日午前一〇時過ぎころには原告中村、同緒方(昭)、同星野が、同月二四日午前一〇時ころには原告緒方(昭)、同星野が、ピケ隊の先頭に立って同校正門付近にピケを張り、同校長の入校を実力で阻止し、同校長に入校を断念せしめるなど、その後も阻止行動を継続した。

(6) 八幡高校長松延一男に対する着任拒否闘争について

八幡高校は、北九州市八幡区勝山町二丁目(当時)所在の定時制を併置する普通課程高校で、本件当時の学校規模は生徒数約一八〇〇名、教職員数八三名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として八幡支部八幡分会を組織していた。

(イ) 原告田中は、前記(3)の(イ)記載のとおり右支部長として、原告古野は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ、所属組合員に伝達してその実行を指令した。

(ロ) 四月四日午後四時三〇分ころ、原告木原、同古野、同田中は、松延校長の自宅に赴き、同校長に対し着任拒否通告書を手交し着任しないよう要求した。

(ハ) 同月八日午前八時ころ、原告古野、同田中は、組合員数名を指揮して八幡駅前に待ち受け、入学式を行うため八幡高校に向かう松延校長を駅前の旅館「帆柱荘」に連れ込み、午前九時ころまで同校長に登校しないよう強要し、同校長をして登校を断念せしめた。

(ニ) 同月一一日午前八時三〇分ころ、原告木原、同古野、同田中らは、組合員数名を指揮して八幡駅前に待ち受け、登校途上の松延校長に対し、前項同様駅前の「帆柱荘」旅館に連れ込み、午前九時ころまで登校しないよう強要して、ついに登校を断念せしめた。

(ホ) 同月一六日午前一一時ころ、原告古野は、分会員数名とともに登校しようとして八幡駅に下車した松延校長をとらえその登校を阻止した。

(ヘ) 同月一九日午後六時ころ、原告木原、同古野、同田中らは、数名の組合員を指揮して八幡駅前に待ち受け、事務決裁のため八幡高校田中事務長と連絡するため八幡駅に来た松延校長を前記同様駅前の旅館「帆柱荘」に連れ込み、約三時間にわたり四月分給与決裁に関して抗議し、同校長の意に反して事務長代決を承諾させた。

(ト) 五月八日午前八時四五分ころから約一時間にわたり、原告木原、同古野、同田中らは、組合員約四〇名を指揮して八幡高校正門前にピケを張り、松延校長が県教委教育長の命を受けて同行した県教育庁職員湊博文外一名とともに登校しようとするのを、「県教委が組合本部と交渉を再開し、話合いがつかなければ学校には入れない。」などと申し向け、同校長らの入校を阻止した。

(チ) 同月一一日午前一一時ころ、原告古野は、分会員数名を伴い八幡駅前で待ち受け、登校のため同駅に下車した松延校長をとらえ、同校長の登校を阻止した。

(リ) 同月二二日午前一〇時ころ、原告木原、同古野は、八幡駅前で待ち受け、登校のため同駅に下車した松延校長の登校を阻止した。

(ヌ) なお、同月二九日午前一〇時三〇分ころには、原告木原、同古野が、六月四日午前一〇時ころには、原告木原が、前項同様八幡駅前で待ち受け、松延校長に登校を断念せしめるなど、その後も阻止行動を継続した。

(7) 宗像高校長中村喜代志に対する着任拒否闘争について

宗像高校は、宗像郡宗像町東郷に所在する普通課程、職業課程を併置する高校で、本件当時の学校規模は生徒数約一五〇〇名、教職員数七一名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として宗像支部宗像分会を組織していた。

(イ) 原告久保は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ、所属組合員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月四日、原告久保は、外二名を伴い中村喜代志校長の前任校である城南高校に出向き、同校長室において、城南高校分会長立会いのもとに校長着任拒否決議書を同校長に手交した。

(ハ) 同月二〇日午前一〇時ころ、中村喜代志校長が前任校の校長である城南高校長大熊一雄を同道して登校しようとしたところ、原告久保は、組合員約三〇名の先頭に立って学校玄関前にピケを張り、同校長の入校を阻止した。

また、同日、原告久保は、同校吉田事務長に強要して前日同校長が決裁した四月分給与支出命令書を破棄させた。

(ニ) 同月二七日午前一〇時三〇分ころ、中村喜代志校長が登校のため同校に赴いたところ、原告久保は、約二〇名の組合員の先頭に立ち、学校正門を閉鎖してピケを張り、同校長の入校を阻止した。

(ホ) 五月八日午前八時二〇分ころ、中村喜代志校長が県教委教育長の命を受けて同行した県教育庁職員野見山義保外三名とともに登校しようとしたところ、高教組本部から出向いた原告平木のほか原告久保らは、組合員約三〇名を指揮して同校玄関前に椅子約二〇脚を並べてピケを張り、再三入校しようとする同校長に対し、生徒約二〇〇名が環視するなかスクラムを組んでこれを阻み、さらに、同一一時ころ、実力をもって同校長を校門外へ押し出し同校長をして入校を断念せしめた。

(ヘ) 同月九日午前五時一五分ころ、中村喜代志校長が登校し校長室に入ったところ、原告久保は、外数名の分会員とともに、約一時間にわたって同校長の早朝登校に対する抗議を続けた。この間、原告久保は、同校長に同行した教育庁職員野見山義保に対し、片腕をつかみ身体を押すなどの暴行を加え、室外に押し出そうとした。

(ト) 同月二三日午前一〇時三〇分ころ、中村喜代志校長が福岡県議会文教委員会委員の宗像高校視察に立ち会うため登校しようとしたところ、本部から出向いていた原告林のほか原告久保らは、約二五名の組合員の先頭に立って同校正門付近にピケを張り、同校長の入校を阻止し、さらに、同校長を付近の小路に引き込み、同委員会の来校時刻になるもこれを放さず、その職務の遂行を阻害した。

(チ) 以上のほか、原告久保は、分会員の先頭に立って、四月二四日午前一〇時三〇分ころ、五月一五日午前一〇時ころ、同一六日午前一〇時ころ、同一八日午前一一時ころ、同二九日午前一〇時ころ、六月一日午前一〇時二〇分ころ、及び同七日午前一〇時ころにも前同様正門付近にピケを張ったり、門扉を閉じて中村喜代志校長の登校を阻止した。

(8) 大牟田商業高校長中村正夫に対する着任拒否闘争について

大牟田商業高校は、大牟田市大字吉野に所在する職業課程高校で、本件当時の学校規模は生徒数約九〇〇名、教職員数四八名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として大牟田支部大牟田商分会を組織していた。

(イ) 原告原は、右支部長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ所属組合員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月四日午後二時ころ、原告原は、組合員四名を伴って中村正夫校長の前任校である宇美商業高校に出向き、同校において残務整理をしていた同校長に対し、着任反対要望書を手交した。

(ハ) 同月二〇日午前九時三〇分ころ、中村正夫校長が登校しようとしたところ、原告原は、組合員約一五名を指揮して大牟田商業高校正門手前約二〇〇メートルの路上にピケを張り、同校長の入校を阻止した。

(ニ) 五月二日午前九時四五分ころ、原告原は、組合員約一〇名を指揮して、中村正夫校長が県教委教育長の命を受けて同行した教育庁職員森重政夫外三名とともに入校しようとするのを、同校玄関付近で妨害したほか、本部から出向いた原告上村の応援を得て同一〇時三〇分ころから正午ころまでの間、同校長に対し着任反対の抗議をした。

(ホ) 同月八日午前八時五〇分ころ、中村正夫校長が登校しようとしたところ、原告原は、他労組からの動員者を含む約三〇名の組合員とともに同校玄関前にピケを張り、同校長の入校を阻止した。

(ヘ) 以上のほか原告原は、五月二三日午前八時五〇分ころ、組合員数名を指揮して西鉄倉永駅に待ち受けて中村正夫校長の登校を阻止し、また、六月一日午前一〇時一〇分ころ、同月一〇日午前九時五分ころには、組合員を指揮して正門前付近において中村正夫校長の登校を阻止した。

(9) 戸畑工業高校長中野弥壮に対する着任拒否闘争について

戸畑工業高校は、北九州市戸畑区牧山に所在する職業課程高校で、本件当時の学校規模は生徒数約一〇〇〇名、教職員数七三名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として戸畑支部戸畑工業分会を組織していた。

(イ) 原告高取は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ所属組合員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月四日夜、原告高取は、支部長外分会員一名を伴い中野校長自宅に出向き、同校長が不在のため、家族に対し校長の着任を拒否する旨通告した。

(ハ) 同月八日午前九時ころ、中野校長が入学式を行うべく登校しようとしたところ、原告高取は、組合員約三〇名を指揮して正門付近にピケを張り、同校長の入校を阻止した。

(ニ) 同月九日午前九時ころ、中野校長が登校しようとしたところ、原告高取は、前項同様組合員約三〇名を指揮して正門付近にピケを張り、同校長の入校を阻止した。

(ホ) 同月一三日午前一〇時ころ、中野校長が登校しようとしたところ、原告高取は、前項同様組合員約三〇名を指揮して正門付近にピケを張り、同校長の入校を阻止した。

(ヘ) 同月一五日午前一〇時ころ、中野校長が登校しようとしたところ、原告高取は、前項同様組合員約二〇名を指揮して正門付近にピケを張り、同校長の入校を阻止した。

(ト) 五月八日午前八時一五分ころ、中野校長が県教委教育長の命を受けて同行した県教育庁職員とともに登校しようとしたところ、原告高取及び本部から出向いた原告露口は、組合員約三〇名を指揮して正門前にピケを張り、同校長の入校を妨害し、その後河田同校PTA会長に説得されて同校長の入校を認めたものの、校長室への入室を拒否し、午前一一時三〇分ころまで同校応接室、会議室等において、「校長は県教委と組合代表と話合いをするよう努力せよ。」などと執拗に強要した。

(チ) 同月九日午前八時一五分ころから同九時三〇分ころまでの間、原告高取及び本部から出向いた原告上村は、前項同様教育庁職員を同行して登校した中野校長に対し、校長室への入室を拒否し、同校応接室において、「県教委が組合代表と話し合うよう努力せよ。」と強要した。

(10) 黒木高校長田中正利に対する着任拒否闘争について

黒木高校は、八女郡黒木町桑原に所在する普通課程、職業課程を併置する高校で、本件当時の学校規模は生徒数約七七〇名、教職員数四〇名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として八女支部黒木分会を組織していた。

(イ) 原告高倉は、右支部長として、原告末永は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ所属組合員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月三日午前一一時ころ、原告高倉、同末永は、二名の組合員とともに田中校長の前任校である鞍手高校に出向き、残務整理をしていた同校長に対し、黒木高校分会の全員署名による着任拒否決議書を手交し、着任を拒否する旨通告した。

(ハ) 同月四日午後七時三〇分ころ、原告宮本は、本部執行委員である原告江口とともに、右鞍手高校事務室において、田中校長に対し校長辞任願の提出を強要してやむなく提出せしめた。

(ニ) 同月六日、原告高倉、同末永は、鞍手高校に電話し、鞍手高校分会長を通じて田中校長に対し辞令返上を強要した。

(ホ) 同月八日午前一一時四〇分ころ、田中校長が入学式を行うため鞍手高校水良事務長を伴って登校しようとしたところ、原告高倉、同末永が指揮する約六〇名の組合員と支援にかけつけた原告福成が指揮する約二〇名の久留米支部組合員が合流してピケを張り、同校長を黒木高校付近の路上で阻止し、さらに、原告高倉、同末永、同福成ら一〇名の組合員は、同校正門前の太田旅館において約三時間にわたり同校長に対し着任を断念するよう迫った。この間、同校長は、入学式の代行を命ずべく教頭を呼ぶよう要求したが、原告高倉、同末永は、これに応じなかった。

(ヘ) 同月二〇日午前一一時ころ、田中校長が登校のため堀川バス黒木停留所で下車したところ、原告高倉、同末永は、久留米支部からの応援を含む数十名の組合員を指揮して同校長を取り囲み、約五〇分にわたり着任しないよう迫り、同校長をして登校を断念せしめた。

(ト) 同月二七日午前一〇時五〇分ころ、前項同様田中校長が登校のため堀川バス黒木停留所で下車したところ、原告高倉、同末永は、久留米支部からの応援を含む約三〇名の組合員を指揮して同校長の登校を阻止し、さらに、同校長を久留米支部の貸切バスの中に引き込み、約一時間にわたってつるしあげ、同バスで久留米駅まで送り返した。

(チ) 五月一日午後四時三〇分ころ、原告宮本は、直鞍支部三役を伴い田中校長自宅に押しかけ、二階八畳座敷において、同六時三〇分ころまでの間、翌二日に着任を強行しないよう強要した。

(リ) 同月二日午前一〇時ころ、田中校長が県教委教育長の命を受けて同行した教育庁職員野見山義保外三名とともに登校しようとした際、原告高倉、同末永は、約三〇名の組合員を指揮してこれを妨害し、さらに、校長室に入った同校長に対し、同一一時五〇分から午後一時二〇分までの間、同校長の着任について激しく抗議した。

(ヌ) 同月三日午前九時ころ及び正午ころの二回にわたって、原告宮本は、直鞍支部組合員約一〇名を率いて田中校長自宅玄関に赴き、同校長不在のため家族に対し、前日の着任行動を難詰し、さらに、辞任を強要した。

(ル) 同月四日午前九時ころ、田中校長が教育庁職員を同行して登校した際、原告末永は、同校玄関において組合員約三〇名を指揮して同校長の入校を妨害し、さらに、同校会議室において組合員約三〇名とともに五月二日の着任行動等について激しく抗議した。

(ヲ) 同年六月一二日午後零時三〇分ころ、原告高倉、同末永は、組合員三名を伴って田中校長が入院中の筑豊病院に出向き、同病室において、「生徒処分は職員会議の決定であるのに、入院中のお前がなぜ勝手な指示をするか。」「PTA予算を組まないのは不都合だ。」「黒木には絶対来るな。来たら徹夜交渉で大いにやるぞ。」などと抗議した。

(11) 福岡中央高校長徳永務に対する着任拒否闘争について

福岡中央高校は、福岡市平丘町四ノ一(当時)に所在する普通課程高校で、本件当時の学校規模は生徒数約一四〇〇人、教職員数六五名(校長を除く)であって、教職員のほとんどが高教組に加入し、同教組の下部組織として福岡南支部福岡中央分会を組織していた。

(イ) 原告城戸陽二郎(以下「城戸(陽)」と表示する。)は、右分会長として、前記(一)の(1)記載の原告待鳥名の各指令を受けるや、いずれもそのころ所属分会員に伝達して、その実行を指令した。

(ロ) 四月四日午前一一時ころ、原告城戸(陽)は、組合員四名とともに徳永校長自宅において、同校長に対し、着任を拒否する旨の通知書を手交して着任しないよう強要した。

(ハ) 同月一一日午前八時四〇分ころ、徳永校長が登校し玄関口に達したところ、原告城戸(陽)は、本部から出向いた原告露口ら一〇名とともに同所に駈けつけ、実力をもって同校長の入校を阻止した。

また、同日午後三時ころ、原告城戸(陽)は、六名の分会員を伴って徳永校長自宅に押しかけ、事前の通告なしに登校しないよう強要した。

(ニ) 同月一五日午後一時三〇分ころ、徳永校長が登校しようとしたところ、原告城戸(陽)は、約一〇名の組合員を指揮して同校長の入校を実力で阻止した。

(ホ) 五月九日午前九時ころ、徳永校長が登校しようとしたところ、原告城戸(陽)は、本部から出向いた原告露口らとともに約二〇名の組合員の先頭に立って正門付近にピケを張り、同校長の入校を実力をもって阻止するとともに、前日の早朝登校を激しく抗議した。

(ヘ) 同月一〇日午前九時二〇分ころ、徳永校長が登校しようとしたところ、原告城戸(陽)は、本部から出向いた原告平木とともに約二〇名の組合員の先頭に立って正門付近にピケを張り、実力をもって同校長の入校を阻止した。

(ト) 同月一五日午前九時四五分ころ、徳永校長が登校しようとしたところ、原告城戸(陽)は、約二〇名の組合員を指揮して正門付近にピケを張り、実力をもって同校長の入校を阻止した。

(チ) また、原告城戸(陽)は、同月一六日には約二〇名の、同月一八日、同二四日には各約一五名の組合員を指揮して正門付近にピケを張り、いずれも午前九時ころ登校しようとした徳永校長の入校を実力をもって阻止した。

3  本件処分の根拠法規

右原告らの行為は、いずれも地公法三〇条、三二条(但し、本条は執行部役員及び勤務時間外の行為については除く)、三三条、三七条一項に違反するほか、2の(三)の違法行為のうち、(1)の(ハ)、同(ニ)、同(ヘ)、同(ト)、同(チ)、同(ヌ)、同(ヲ)、同(ワ)(但し、休暇の申請のある原告福成を除く)、同(カ)(原告福成を除く)、同(ヨ)(原告福成を除く)、同(タ)(原告福成、同佐田を除く)、同(ツ)、同(ラ)、(2)の(ロ)、同(ハ)(原告後藤を除く)、同(ニ)、同(ホ)、同(ヘ)(原告岡松を除く)、同(チ)、同(リ)(原告後藤を除く)、同(ヌ)(原告松濤、同力丸を除く)、同(ル)、同(ヲ)、同(ワ)(原告力丸を除く)、同(カ)、(3)の(ロ)(原告相部を除く)、同(ホ)、同(ト)、同(チ)、同(リ)、同(ヌ)(原告田中を除く)、同(ル)(原告田中を除く)、同(ヲ)(原告田中を除く)、同(ヨ)(原告高城を除く)、同(タ)、(4)の(ロ)(原告牧を除く)、同(ヘ)、同(リ)、同(ル)、同(ヲ)、同(ワ)(原告大塚を除く)、同(カ)、同(レ)、同(ソ)(原告宮本を除く)、同(ネ)、(5)の(ロ)(原告鬼塚を除く)、同(ハ)、同(ニ)(原告中村、同鬼塚を除く)、同(ホ)(原告中村、同鬼塚、同緒方(昭)を除く)、同(ヘ)(原告中村を除く)、同(ト)(原告中村、同鬼塚、同緒方(昭)を除く)、同(チ)(原告緒方(昭)を除く)、同(リ)(六月一日及び同月二四日の両日とも原告緒方(昭)を除く)、(6)の(ロ)(原告田中を除く)、同(ハ)、同(ニ)、同(ホ)、同(ト)(原告田中を除く)、同(チ)、同(リ)、同(ヌ)、(7)の(ロ)、同(ハ)、同(ホ)、同(ト)、(8)の(ロ)、同(ヘ)(六月一日を除く)、(9)の(ハ)、同(ニ)、同(ホ)、同(ヘ)、同(ト)、同(チ)、(10)の(ロ)、同(ホ)(原告高倉を除く)、同(ヘ)、同(ト)、同(リ)(原告高倉を除く)、同(ル)、同(ヲ)(原告高倉を除く)、(11)の(ロ)、同(ハ)、同(ニ)、同(ホ)、同(ヘ)、同(ト)、同(チ)の原告らの各行為は地公法三五条に違反し(右括弧内の休暇申請者のほか、組合専従の執行部役員を除く。本件当時原告らが勤務していた学校の勤務時間は、八幡高校午前八時二五分から午後四時五五分まで、水産高校午前八時五〇分から午後五時三〇分まで、三井高校午前八時五五分から午後五時二五分まで、三潴高校午前八時三五分から午後五時まで、大川工業高校午前八時五〇分から午後五時二〇分まで、黒木高校午前八時一〇分から午後四時四〇分まで、直方高校午前八時一〇分から午後四時四〇分まで、北九州盲学校午前八時三五分から午後五時まで、その他の学校は午前八時三〇分から午後五時までであり、土曜日はいずれの学校においても午後零時三〇分以降は勤務を要しないこととなっていた。)、同法二九条一項一号ないし三号(但し、執行部役員及び勤務時間外の行為については、一号及び三号のみ)に該当するので、被告は原告らに対し、本件各処分をした。

四  被告の主張に対する原告らの答弁

1  被告の主張1(本件闘争に至るまでの経過)の事実について

(一) 同(一)の事実は認める。但し、人事に関する被告との交渉は、高教組単独で行ったものではなく、高教組のほか福岡県教職員組合等によって構成される福岡県教職員組合協議会(以下「福教協」という。)と被告との間で行われたものである。

(二) 同(二)の事実は認める。

(三) 同(三)の事実のうち、高教組の闘争が校務の正常な運営を阻害したとの点は争うが、その余の事実は認める。

2(一)  被告の主張2の(一)(執行部役員の違法行為)の事実について

(1) 同(1)の執行部役員全員の関係

同事実中、冒頭から「……定期大会を招集した」までの事実は認めるが、その余の事実は否認する。

(2) 同(2)の原告待鳥恵関係

(イ) 同(イ)の事実中、被告主張の日の早朝原告待鳥が水産高校に行ったこと、藤が県教育庁職員三名とともに校門付近に来たこと、同原告がそのころ西鉄津屋崎駅付近道路上で四宮勇と話をしたことは認めるが、教育庁の命令、四宮の負傷の状況については不知、その余の事実は否認する。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日(但し、午前一〇時半ころ)、藤が県教育庁職員四名とともに同校校門前に来たこと、組合員約三〇名が校門内にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日午前七時から高教組が県教委会議室で教育長と交渉に入ったこと、右交渉が午後零時四〇分ころまで続いたこと、警官隊が原告待鳥ら交渉参加者を会議室から追い出したことは認めるが、その余の事実は否認する。

右交渉は、福教組、福岡県職労に引続き行うことが前から約束されていたものである。また、教育長の退去命令は、交渉中高教組が「慣行の有無につき争いがあるならば双方証人を出し合って事実を確認しよう。」と提案したのに対し、教育長が「検討したい。」といったん教育長室へ引っ込み、約二〇分経って再び交渉の席に着くや否や、「提案は受け入れられません。退去して下さい。」と言って出したものであり、これに対し高教組はさらに交渉を継続するよう要求していたものである。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の日時ころ原告待鳥が他の執行部役員及び組合員約五〇人とともに修猷館高校前にいたこと、石橋が午前一〇時ころ同校創立八〇周年記念式典に出席するため同校に来たことは認めるが、その余の事実は否認する。同人は、同校校門付近にいた原告待鳥ら組合員の気づかぬ間にタクシーで玄関に乗りつけて校内に入ったものである。

(3) 同(3)の原告林宏関係

(イ) 同(イ)の事実中、原告林が鞍手農業高校において安永事務長と同校職員の給与の支払手続について話をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。同原告は、他の職員が執務中の事務室の事務長机のところで、組合の立場を説明したまでのことである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日に宗像高校が被告主張の視察の対象校となったこと、同日午前一〇時三〇分ころ中村が校門付近まで来たこと、原告林が校門付近で中村と会ったことは認めるが、その余の事実は否認する。視察委員らは、同人が帰ってかなり経ってから来校した。

(ハ) 同(ハ)の事実については原告待鳥関係(ニ)に同じ。

(4) 同(4)の原告中西績介関係

(イ) 同(イ)の事実中、被告主張の日時ころ原告中西が組合員とともに被告主張の抗議のため教育庁に行ったこと、教育長は、同日正午まで右抗議交渉を受けていたこと、被告主張のような辞令交付式があったこと、原告中西が右式場において森下教職員課長補佐に対し辞令交付を中止するよう要求したことは認めるが、その余の事実は否認する。同課長補佐は、原告中西の右要求を受けるとすぐこれに応じ、新任者らをそのまま帰らせる旨約束したので、同原告も新任者らが帰ったことを確認しないまま右式場を出て教育長との交渉の席に戻ったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日時ころ、勝間田が教育庁職員三名とともに北九州盲学校の校門付近に来たこと、原告中西が約五〇名の組合員とともにその付近にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ハ) 同(ハ)の事実中、原告中西が被告主張の日時ころ八幡高校に行ったことは認めるが、その余の事実は否認する。同原告が八幡高校に着いた時、松延は、同校付近の校長官舎内で同校分会員らと話し合っていたもので、同原告は、松延に会ってもいない。

(ニ) 同(ニ)の事実中、原告中西が被告主張の日時ころ北九州盲学校に行ったことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ホ) 同(ホ)の事実については、原告待鳥関係(ハ)に同じ。

(ヘ) 同(ヘ)の事実については、原告待鳥関係(ニ)に同じ。

(5) 同(5)の原告上村正則関係

(イ) 同(イ)の事実中、被告主張の日時ころ原告上村が大牟田商業高校に行ったこと、中村正夫が外四名とともに同校に来て入校したこと、原告上村が組合員約三〇名位とともに午前一一時三〇分ころから約二〇分間中村と話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日時ころ原告上村らが戸畑工業高校において話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日時ころ宮尾が教育庁職員三名とともに久留米聾学校玄関付近に来たこと、原告上村らがそこで宮尾らを説得したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の日時ころ藤が教育庁職員四名とともに水産高校校門付近に来たこと、約四〇名の組合員が同所にいたこと、原告上村もそこにいたこと、藤が「退去命令」なるものを出したこと、警官隊が出動したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日に福岡県議会議員が水産高校を視察することになっていたこと、被告主張の時刻ころ藤が学校の近くまで来たこと、原告上村らが宮地嶽神社の食堂で話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(6) 同(6)の原告牧野正國関係

同事実中、被告主張の日に原告牧野が鞍手農業高校にいたこと、清水が教育庁職員三名とともに同校校門付近に来たこと、校門前には約八〇名の組合員がいたこと、清水が校門前県道向い側の空地に行って原告牧野らと話合いをしたこと、清水が教育庁予約のハイヤーに乗り、その後、原告牧野、同牧、同佐藤が順次これに便乗したこと、組合員の運転する車一台がこれに後続したこと、清水が馬場回生堂へ持病である十二指腸潰瘍の治療に行ったことは認めるが、その余の事実は否認する。

(7) 同(7)の原告露口勝雪関係

(イ) 同(イ)の事実中、被告主張の日時ころ徳永が玄関から校舎内に入り原告露口らと廊下で約五分間話をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日に中野が戸畑工業高校に来たこと、そのころ原告露口が同校校門付近にいたこと、中野がこの日に入校したものの校長室に入らなかったことは認めるが、その余の事実は否認する。中野が校長室に入ることを要求したことはない。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日時ころ徳永が福岡中央高校校門付近に来たこと、及びそのころ原告露口が校門付近にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。徳永は、原告露口らと話合いをした後みずからの意思で帰ったし、帰るまでの間入校の意思はみせなかった。

(8) 同(8)の原告平木時雄関係

(イ) 同(イ)の事実中、被告主張の日ころ中村喜代志が宗像高校に来たこと、同日原告平木が同校にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日時ころ徳永が福岡中央高校に来たこと、及び原告平木らが徳永と話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(9) 同(9)の原告古賀要関係

(イ) 同(イ)の事実中、被告主張の日に藤が水産高校に来たこと、及び原告古賀も同日同校にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ロ) 同(ロ)の事実については、原告待鳥関係(ハ)に同じ。

(10) 同(10)の原告江口義一関係

(イ) 同(イ)の事実中、被告主張の日(但し、午後六時ころ)原告江口が同宮本とともに鞍手高校事務室で田中と顔を合せたことは認めるが、その余の事実は否認する。原告江口は、田中が校長辞任願を書くまでの交渉には加わっていない。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日に柴田が大川工業高校に来たことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ハ) 同(ハ)の事実中、原告江口らが大川小学校で柴田と話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。原告江口は、大川バス停留所には行っていない。

(ニ) 同(ニ)の事実については、原告待鳥関係(ハ)に同じ。

(11) 同(11)の原告中村羔士関係

否認する。

(二) 被告の主張2の(二)(原告田村、同佐田、同福田の違法行為)の事実について

(1) 同(1)のうち、原告田村、同佐田、同福田が本件当時被告主張の各学校の教頭の地位にあったことは認めるが、その余の主張は争う。

(2)(イ) 同(2)の(イ)の事実は否認する。

(ロ) 同(ロ)の事実については、後記(三)に記載のとおり。

(三) 被告の主張2の(三)(その余の原告らの違法行為)の事実について

同(三)の冒頭に記載の事実は認める。

(1) 同(1)の久留米聾学校関係

同(1)の冒頭に主張の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告佐々木、同緒方(信)の役職、同人らが被告主張の各指示を受けたこと、及びそのころ各指示を所属組合員に伝達したことは認めるが、その余の事実は争う。支部長、分会長に指示、指令権はない。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日時ころ原告緒方(信)が久留米聾分会員など約一〇名とともに山門高校に行ったこと、及び被告主張の時刻ころ宮尾に対し着任に反対する旨の久留米聾分会員の連署した書面を渡したことは認めるが、その余の事実は争う。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日時ころ宮尾が登校して来たことは認めるが、その余の事実は争う。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の日時ころ原告佐々木が分会員など数名とともに宮尾宅に行ったことは認めるが、その余の事実は争う。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日時ころ原告佐々木、同福成が分会員など約七名とともに宮尾宅に行って、久留米聾学校職員の四月分給料支払命令の決裁の件について話をしたこと、及び被告主張の時刻ころ同校において、原告緒方(信)が分会員とともに事務長江崎三好と右給料支出命令について話合いをしたことは認めるが、その余の事実は争う。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、被告主張の日時ころ宮尾が久留米聾学校付近に来たことは認めるが、その余の事実は争う。

(ト) 同(ト)の事実中、被告主張の日時ころ宮尾が久留米聾学校付近に来たことは認めるが、その余の事実は争う。

(チ) 同(チ)の事実中、被告主張の日時ころ宮尾が同校付近に来たことは認めるが、その余の事実は争う。

(リ) 同(リ)の事実中、被告主張の日ころ「校長不在について」と題する同日付文書が久留米聾学校教職員一同の名で同校生徒の父母らに配布されたことは認めるが、その余の事実は争う。右文書は、父兄らの要望に応えて作成、配布されたものである。

(ヌ) 同(ヌ)の事実は、全部否認する。五月二日に宮尾が同校付近に来た事実は全くない。

(ル) 同(ル)の事実中、被告主張の日時ころ原告佐々木、同福成、同志鶴らが宮尾宅に行って、同人と着任問題について話合いをしたことは認めるが、その余の事実は争う。

(ヲ) 同(ヲ)の事実中、被告主張の日時ころ原告緒方(信)が同福成とともに宮尾宅に行ったことは認めるが、その余の事実は争う。

(ワ) 同(ワ)の事実中、教育長が被告主張のような命令をしたことは不知、被告主張の日時ころ宮尾が教育庁職員三名とともに同校玄関付近に来たこと、及び原告佐々木、同緒方(信)、同福成らが宮尾らを説得したことは認めるが、その余の事実は争う。

(カ) 同(カ)の事実中、被告主張の日時ころ宮尾が教育庁職員三名とともに同校玄関付近に来たこと、及び原告佐々木、同緒方(信)、同福成、同志鶴らが宮尾らを説得したことは認めるが、その余の事実は争う。

(ヨ) 同(ヨ)の事実中、被告主張の日時ころ宮尾が教育庁職員三名とともに同校玄関付近に来たこと、原告佐々木、同緒方(信)、同福成、同志鶴、同上村らが宮尾らを説得したことは認めるが、その余の事実は争う。

(タ) 同(タ)の前段の事実中、被告主張の日時ころ宮尾が教育庁職員四名とともに同校玄関付近に来たこと、原告佐々木、同緒方(信)、同福成、同志鶴らが宮尾らを説得したこと、被告主張の時刻ころ警察官約五〇名が現場に出動したこと、警察官らが組合員らを強制的に排除したこと、宮尾が右警察官等の力を借りて校舎内に入校し校長室に入ったことは認めるが、その余の事実は争う。

後段の事実は否認する。同校事務職員下村が当日原告佐田がいた寄宿舎に来たことはあるが、それは原告佐田とともに寄宿舎で仕事をしていた江崎三好事務長を呼びに来たのであって、原告佐田を呼びに来たのではない。

(レ) 同(レ)の事実中、被告主張の日に原告佐田が吉村とともに宮尾宅において宮尾と話し合ったことは認めるが、その余の事実は争う。この日、原告佐田は、前日の警察官導入により、久留米聾学校の教職員が宮尾に対して憤りを強めており、このままの状態で宮尾がさらに登校を強行すると、教職員との対立はさらに激化し教育上好ましくないので、吉村と相談のうえ、三人とも国学院大学出身であるというよしみもあって、この場は慎重に行動したほうがいいのではないか、ということについて話合いをしに行ったのであって、意図的に登校を阻止するために行ったものではない。

(ソ) 同(ソ)の事実中、被告主張の日ころ原告佐田が宮尾宅に葉書を送ったことは認めるが、その余の事実は争う。右葉書は前項と同趣旨で記載し送付したものである。

(ツ) 同(ツ)の事実中、被告主張の日時ころ宮尾が同校玄関前に来たことは認めるが、その余の事実は争う。

(ネ) 同(ネ)の事実は、すべて否認する。

(ナ) 同(ナ)の事実中、被告主張の日ころ被告主張の文書が学校宛に送付されたこと、及び九州地区聾学校長会が開催され、原告佐田がそれに出席した事実は認めるが、その余の事実は否認する。被告主張の文書等は、平常どおり担当職員によって処理され、公文書綴りに綴り込まれていたのであって、原告佐田がこれを隠匿したことはない。また、原告佐田が九州地区聾学校長会に出席したのは、木村俊夫九州地区聾学校長会長兼九州地区聾学校教育研究会長が、同原告に対して四月一二日に開催された九州地区聾学校教育研究会推進委員会の経過について、右委員会の当番校の理事として校長会に出席して報告するよう要請したので、その要請に応えたものであって、校長に代わって出席したのではない。

(ラ) 同(ラ)の事実中、被告主張の日に被告主張の原告らが同校正門付近又は玄関前付近で宮尾と話し合ったことは認めるが、その余の事実は争う。

(2) 同(2)の水産高校関係

同(2)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告綱脇が支部長、同松濤が分会長であったこと、同原告両名が被告主張の各指示を受け、原告松濤が所属分会員に伝達したことは認めるが、右両名が右各指示の実行を指令した事実は否認する。各指示の具体化は、支部評議員会、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日時、場所において、被告主張の原告らが藤幸人に被告主張の文書を手交して、同人に着任を思いとどまるよう話したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日時ころ校長室で、原告後藤らが藤に帰るように話したこと、藤が養魚池のところでしばらく立ち止っていたこと、及び被告主張の原告らが寄宿舎食堂で藤と交渉したこと、同人がみずから支出命令書を破棄したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の日時ころ藤が校門の前まで来たこと、校門の内側に数名の組合員がいたことは認めるが、その余の事実は否認する。藤は、校門のところに来て事務長から四月分給与を受け取るとすぐに帰り、入校しようとはしなかった。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日時ころ藤が校門付近に来たこと、及びそのころ校門付近に数名の組合員がいたことは認めるが、その余の事実は否認する。この日も藤は、校門のところには二〇秒程度いただけですぐに帰り、入校しようとはしなかった。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、被告主張の日時ころ藤が県教育庁職員三名とともに校門付近に来たこと、そのころ校門内側に四名位の組合員らがいたこと、及び被告主張の時刻ころ藤が引きあげたことは認めるが、教育長の命令については不知、その余の事実は否認する。原告福田が校門付近に行ったのは、午前九時過ぎころから本館図書室で行っていたPTA会員に対する説明会に教育庁職員が出席してほしい旨の同役員の意向を伝えに行ったときだけである。

(ト) 同(ト)の事実中、前段については、被告主張の日時ころ藤が教育庁職員三名とともに水産高校に来たこと、四宮が負傷をしたこと、藤が渡り廊下で原告綱脇、同松濤と話をしたこと、午前六時ころ藤が正門外に出て行ったこと、原告待鳥、同松濤ら組合員が校長住宅で藤と話合いをしたことは認めるが、教育長の命令については不知、その余の事実は否認する。

後段について、宗像警察署員が四宮の負傷事件について現場検証をするために来校し、検証を実施したこと、及び新海菓子店で原告松濤らが藤と話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。藤は、原告綱脇らを通じて、「私は入りたくない。福田先生におねがいします。」と原告福田に立会いを依頼した。

(チ) 同(チ)の事実中、藤が教育庁職員野見山ら四名とともに午前一〇時半ころ校門付近に来たこと、そのころ約三〇名の組合員らが校門内側にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。藤は来てすぐに校門付近から去った。なお、同日原告福田は、教育庁に出張していて同校にはいなかった。

(リ) 同(リ)の事実中、前段については、被告主張の日時ころ藤が教育庁職員四名とともに校門付近に来たこと、そのころ約四〇名の組合員が校門付近にいたこと、藤が被告主張のような警告を口頭及び文書でしたこと、及び同人が宗像警察署に警官隊の出動を要請したことは認めるが(但し、藤が警官出動を要請したのは、校門付近に来る前である。)、その余の事実は否認する。

後段については、被告主張の日時ころ藤が被告主張の場所から校内に入り、警官隊に守られて校長室に入ったことは認めるが、その余の事実は否認する。原告松濤らは、生徒がこの日の騒ぎに巻き込まれないように一生懸命に制止したりしていた。

(ヌ) 同(ヌ)の事実中、被告主張の日時ころ藤が校門付近に来たこと、そのころ一〇名位の組合員が校門内側にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。藤は、入校しようともせず、まっすぐに帰った。

(ル) 同(ル)の事実中、被告主張の日時ころ藤が校門付近に来たこと、そのころ十数名の組合員が校門付近にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ヲ) 同(ヲ)の事実中、被告主張の日に福岡県議会文教委員会が水産高校を視察することになっていたこと、被告主張の時刻ころ藤が学校の近くまで来たこと、被告主張の原告らが藤と一緒に宮地嶽神社前の食堂に行き、午後一時五〇分ころまで話をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。宮地嶽神社前の食堂に行って話をすることは、藤も納得していたし、話合いは穏かに行われた。

(ワ) 同(ワ)の事実中、被告主張の日時ころ藤が校門付近に来たこと、そのころ一〇名位の組合員が校門内側にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。原告力丸、同緒方(信)は、この日福岡高校で行われていた高教組大会に代議員として出席していたため、そのころ学校にはいなかった。

(カ) 同(カ)の事実中、被告主張の日に藤が校門付近に来たことは認めるが、その余の事実は否認する。原告綱脇は、五月二〇日、同月二七日両日とも高教組本部で行われた支部長会に出席していて、学校にはいなかった。

(3) 同(3)の北九州盲学校関係

同(3)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告田中が支部長、同相部が分会長であったこと、及び同原告両名が被告主張の各指示(指令ではない)を受け、それをそのころ原告相部が所属分会員に伝達したことは認めるが、同原告両名が実行を指令したことは否認する。右各指示の具体化は、支部評議員会、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日時ころ原告相部、同田中が勝間田敏男宅応接室において、校長辞令返上の件について話合いをしたこと、及び同人が辞令を原告田中に手渡したことは認めるが、その余の事実は否認する。話合いは静かに行われ、話がすんだあと、勝間田が酒を出して、それを飲んで歓談するなど、強要的な雰囲気はなかった。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日に校長不在で入学式、始業式が行われたことは認めるが、その余の事実は否認する。原告田村は、被告主張の時間には登校していないし、また、同原告宅にも近所にも電話はないので、被告主張のような話合いが電話でなされるはずがない。

(ニ) 同(ニ)の事実中、午前七時ころ原告田中が勝間田に電話したことは認めるが、その内容及びその余の事実は否認する。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日時ころ勝間田が北九州盲学校校門付近まで来て帰ったこと、原告田村、同相部、同城戸(大)、同高城が他の約四〇名の組合員とともに校門付近にいたことは認めるが、その余の事実は否認する。原告相部、同城戸(大)、同高城らは、勝間田と話合いをしたが、勝間田は、入校しようともせずに帰った。原告田村は、玄関のところからしばらくその状況を見ていたが、当時の労使関係が緊迫しているその段階で勝間田が無理に入校しようとすれば、組合員と勝間田と双方がエキサイトして、今後の学校運営上支障を来たし生徒にもよい影響は与えないだろうと総務部長(教頭)として考え、校門付近に行って勝間田にその旨話したことはあるが、それもわずか一、二分間位である。また、同原告は職員朝礼の始まる午前八時四〇分位までは、勝間田を説得中の他の組合員らとは別に、校門付近を通る盲目の生徒の誘導にあたっていたことはある。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、被告主張の日時ころ原告田中、同相部ら数名の組合員が、被告主張の場所で、四月分給与支出命令書の決裁の件について勝間田と話合いをして、勝間田が、右決裁の破棄と事務長代決を約束し、その旨事務長に電話で指示したこと(但し、話合いが終ったのは、午後一一時ころである。)、翌朝(二〇日の朝)右指示に基づいて事務長家永英昇が、右決裁文書を破棄し、事務長代決に変更したこと及び二〇日の午後、原告相部、同城戸(大)らが決裁の件に関して事務長と交渉したことは認めるが、その余の事実は否認する。原告城戸(大)は、一九日の夜は勝間田宅には行っていない。

(ト) 同(ト)の事実はすべて否認する。この日に勝間田が学校付近に来たことはない。

(チ) 同(チ)の事実中、被告主張の日時ころ勝間田が校門付近まできて暫くして帰ったこと、そのころその付近に原告城戸(大)ら四〇名位がいたことは認めるが、その余の事実は否認する。勝間田は、学校に来る前に、分会に「校門まで来る。」旨わざわざ電話してくるなど、入校の意思はなかった。

(リ) 同(リ)の事実中、被告主張の日時ころ勝間田が教育庁職員三名とともに校門付近に来たこと、原告田村、同相部、同中西が五〇名位の者とともにその付近にいたことは認めるが、教育長が山中茂雄外二名に命令したことは不知、その余の事実は否認する。同日、勝間田は、午前九時二〇分ころから一一時ころまで校門付近にはいなかったし、午前一一時三〇分ころに帰った。原告田村は、前記(ホ)と同様の行動をとっていた。

(ヌ) 同(ヌ)の事実中、被告主張の日時ころ勝間田が外三名とともに校門付近に来たこと、原告田中、同田村、同相部、同高城ら六〇名位(八〇名ではない)が校門付近にいたこと、及び勝間田らが午前一〇時三〇分ころ帰ったことは認めるが、その余の事実は否認する。原告田村は、前記(ホ)と同様の行動をとっており、説得活動に参加していない。

(ル) 同(ル)の事実中、被告主張の日時ころ勝間田が県教育庁職員武末義正ら四名とともに校門付近に来たこと、原告田中、同田村、同相部、同高城、同城戸(大)ら六〇名位(八〇名位ではない)が校門付近にいたこと、勝間田らが午前一一時三〇分ころ帰ったことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ヲ) 同(ヲ)の事実中、被告主張の日時ころ勝間田らが校門付近に来たこと、同人が、北九州盲学校の教諭以外の人は校外に退去するよう記載した文書を掲示し、マイクで通路をあけるよう要求したこと、警官隊の援助のもとに入校し、北九州盲学校事務室で出勤簿の押印をしたこと、及び原告田中、同相部、同高城、同城戸(大)ら約八〇名位の組合員が校門付近で勝間田の説得にあたったことは認めるが、その余の事実は否認する。原告田村は、説得に参加したこともなければ、勝間田に対する抗議等に参加したこともない。

(ワ) 同(ワ)の事実中、被告主張の日の午後四時ころ(五時半ではない)原告田中、同相部、同高城など十数名の組合員らが勝間田の家に行ったことは認めるが、その余の事実は否認する。組合員らが勝間田の妻に脅迫的言辞を浴びせたことはない。また、原告田村、同城戸(大)は、この行動には参加していない。

(カ) 同(カ)の事実中、被告主張の日に午後五時ころから三〇分間位、原告田村、同相部、同高城など組合員が勝間田宅玄関で五月一一日の着任行動について勝間田と話をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。同原告らが勝間田に脅迫的言辞を浴びせたことはない。また、原告田村は、分会執行委員から「総務部長だから一緒に行こう。」と誘われて行ったものである。原告城戸(大)は、勝間田宅に行っていない。

(ヨ) 同(ヨ)の事実中、被告主張の日時ころ勝間田が校門付近に来たこと、そのころ校門付近に数名の組合員がいたことは認めるが、その余の事実は否認する。原告田村は、この日は早朝から教育庁に出張のため、また、原告高城は、年次有給休暇をとって学校を休んでいたので、被告主張の日時ころいずれも学校にはいなかった。

(タ) 同(タ)の事実は認める。

(4) 同(4)の鞍手農業高校関係

同(4)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告宮本及び同佐藤が被告主張の各指示(指令ではない)を受けたこと、原告佐藤がそのころ所属分会員にその内容を伝達したことは認めるが、その余の事実は否認する。右各指示の具体化は、支部評議員会、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日時ころ原告佐藤、同牧、同大塚ら数名が清水の前任校である久留米農芸高校に出向いて同人に会い、鞍手農業高校全分会員が連署した校長着任反対の文書を手交したこと、その際、原告平塚が久留米農芸高校分会長として分会役員三、四名とともに校長辞退届を提出するよう説得したことはいずれも認めるが、その余の事実は否認する。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日に清水が鞍手農業高校に来たことは認めるが、その余の事実は否認する。同人が来た時刻は午前七時五五分であり、その時鞍手高校全日制分会の金本儀市外一名だけがいた事務室に一度入った後、再び玄関前に出たのであり、そこへ来合わせた原告宮本らと約五分間立話をした後、待たせていたハイヤーで帰ったものである。なお、この日清水は、以後その所在を明確にするとともに来る時には必ず連絡する旨確約し、以後これを実行した。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の時期に被告主張の原告らが清水宅にそれぞれ電話をして登校の意思の有無を確かめ、来ないように要望したことはあるが、その余の事実は否認する。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日時ころ(土曜日放課後)、原告平塚が清水宅に行ったこと、その際辞令返上についても話をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。「原本が見つかったら返上する。」旨の一札は、四月二〇日に他の分会員が同人宅を訪問した際手交されたものである。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、原告宮本が被告主張のようなピケを張り強硬な入校阻止態勢をとったことは否認し、その余の事実は不知。

(ト) 同(ト)の事実中、原告牧が被告主張の日に清水宅に電話し、同人に翌日の農業高校長会に出席しないように要請したことは認める。

(チ) 同(チ)の事実はすべて否認する。

(リ) 同(リ)の事実中、被告主張の日に清水が事前連絡をしたうえ国鉄バスで宮田町停留所まで来て下車し、原告宮本及び同佐藤が組合員一五、六名とともに同所付近の後藤石油スタンドにおいて約二〇分間同人に対し学校に来ないように説得したことはあるが、その余の事実は否認する。清水が宮田町停留所に着いたのは午前一〇時六分で、下車の際から後藤石油スタンドに着くまでの間居合わせた組合員は四名であり、午前一〇時四五分ころには同スタンドを出発して午前一一時二〇分西鉄直方バス発着所発の西鉄福岡行急行バスで帰ったものである。

(ヌ) 同(ヌ)の事実はすべて否認する。

(ル) 同(ル)の事実中、被告主張の日に清水が事前連絡をしたうえ国鉄バスで宮田町停留所まで来て下車し、前記石油スタンド裏空地まで来たので、その旨連絡を受けてその場に赴いた原告牧が清水に同スタンド内建物の一室に来てもらい、約一〇名の組合員とともに同人に対し、被告及び教育長が組合と早急に交渉を開くよう働きかけること等を要求して約一時間半話し合ったことはあるが、その余の事実は否認する。清水が宮田町バス停に着いたのは午前一〇時六分であるが、下車の際から右スタンドまでの間居合わせた組合員は四名であり、話合いが終ったのは正午少し前であった。

(ヲ) 同(ヲ)の事実中、清水が被告主張の日午前一〇時ころから正午ころまで久留米農芸高校農場管理室に来ていたこと、原告平塚が分会員五名とともに午前一一時半から約三〇分間同人と話をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。同人は、その日、数日前の約束に従って、高教組久留米支部に預けてあった同人の異動通知書(辞令)の写しに捺印するため来ていたものである。

(ワ) 同(ワ)の事実中、被告主張の日に清水が事前連絡をしたうえで国鉄バスで宮田町停留所まで来て下車し、同停留所横にある花田宅に来たので、その旨連絡を受けた原告宮本、同牧、同大塚は、その場に赴き同宅二階において約二時間半にわたり、同月二四日に話し合われた事項について引続き話合いをしたことはあるが、その余の事実は否認する。

(カ) 同(カ)の事実はすべて否認する。

(ヨ) 同(ヨ)の事実中、被告主張の日(但し、午前八時過ぎ)原告佐々木、同福成及び同平塚が清水宅を訪問し、翌朝午前一〇時半までに高教組本部に行くよう要請したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(タ) 同(タ)の事実中、被告主張の日に原告平塚が清水宅に電話したことは認めるが、その余の事実は否認する。前日訪問の際、清水は、高教組本部に行くことを承諾し、もし行けない時は支部長か分会長に電話連絡する旨約束していたが、履行しなかったので確認のため電話したものである。清水の妻は、「主人から電話連絡を依頼されたが、家事のため失念した。」旨釈明した。

(レ) 同(レ)の事実中、原告平塚が被告主張の日(但し、午前一一時ころ)久留米肥川病院に行って待合室で清水に会ったことは認めるが、その余の事実は否認する。

この時原告平塚は、山本支部執行委員やほかの支部役員と同道し、待合室でも同執行委員だけが同室していた五、六名の通院患者をはばかって小声で話したに過ぎないので、同原告にはよく聞こえない位であった。

(ソ) 同(ソ)の事実中、被告主張の日(但し、午前八時三〇分ころ)清水が教育庁職員三名とともに鞍手農業高校校門前に来たこと、校門前には約八〇名の組合員が着任反対の説得活動のため動員されていたこと、清水が校門前県道向い側の空地に行って原告牧野、同宮本、同佐藤、同牧、同大塚らと話合いをしたこと、清水が教育庁予約の福岡のハイヤーに乗り、その後原告牧野、同牧、同佐藤が順次これに便乗したこと、組合員の運転する車一台が後続したこと、清水の求めにより持病である十二指腸潰瘍治療のため馬場回生堂まで連れて行ったことは認めるが、被告主張の教育長命令は不知、その余の事実は否認する。

(ツ) 同(ツ)の事実中、被告主張の日に原告平塚が清水宅に行ってどこかの病院に入院したことを知ったことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ネ) 同(ネ)の事実中、被告主張の日に安永事務長が肥川医院に入院中の清水を訪ねた際、原告佐藤が同行したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(5) 同(5)の大川工業高校関係

同(5)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告中村が支部長、同星野が分会長であったこと、右両名が被告主張の指示(指令ではない)を受け、原告星野がそれを所属組合員に伝達したことは認めるが、右両名が実行を指令したことは否認する。右各指示の具体化は、支部評議員会、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、原告鬼塚、同星野が組合員二名とともに香椎工業高校の校長室で、柴田正寛に被告主張のような文書を手交したことは認めるが(但し、これは、昭和四三年四月四日のことであって、四月三日ではない。)、その余の事実は否認する。右行動は穏やかな雰囲気の中で行われており、強要したことはない。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日時ころ柴田が大川工業高校付近まで来たこと、原告中村、同鬼塚、同緒方、同星野らが、学校付近の路上で柴田と話をしたこと、及びその話合いの結果、柴田とともに大川高校に行って、同校作法室で話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。大川高校に行ったのは、柴田と話し合い、双方納得のうえで行ったものであり、また、同校作法室での話合いも平穏に行われた。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の日時ころ柴田が西鉄大川営業所バス停付近に来たこと(学校付近までは来ていない。)、被告主張の原告らが大川高校作法室で柴田と話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。被告主張の原告らは、大川高校作法室で初めて柴田と会ったものであり、同校作法室での話合いは、このときも平穏に行われた。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日時ころ柴田が外三名とともに校門付近に来たこと、被告主張の原告らが、校門付近にいたこと、及び通称記念館で、原告江口らとともに柴田と二時間程度話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。記念館へは、柴田らも納得のうえで一緒に行ったものであり、また、記念館での話合いも穏やかに行われた。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、被告主張の日時ころ被告主張の原告らが福岡県教職員組合大川支部事務所で柴田と話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。被告主張の原告らは、西鉄バス大川停留所付近には行っていない。

(ト) 同(ト)の事実中、被告主張の日に被告主張の原告らが柴田と大川高校会議室で話し合ったことは認めるが、その余の事実は否認する。被告主張の原告らは、当日の朝に柴田から香椎工業分会長を通じて大川高校に行きたい旨電話で連絡があったので、同校に行ったものである。

(チ) 同(チ)の事実中、被告主張の日時ころ被告主張の原告らが大川工業高校付近の土手で二、三〇分間柴田と話したことは認めるが、その余の事実は否認する。被告主張の原告らは、登校途上の柴田と話合いをするために学校付近の土手に一緒に行って、六月一日にまた会うことを約束するなど穏やかに話合いをした。

(リ) 同(リ)の事実はすべて否認する。六月一日は、前記の約束に基づいて来たのであり、その他、柴田が入校しようとしたことはなかった。

(6) 同(6)の八幡高校関係

同(6)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告田中が支部長、同古野が分会長であったこと、及び同原告両名が被告主張の各指示(指令ではない)を受けて、それを原告古野がそのころ所属分会員に伝達したことは認めるが、その実行を指令した事実は否認する。右各指示の具体化は、支部評議員会、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実は認める。但し、松延一男に手交したのは、着任拒否通知書ではなく、八幡高校長着任反対署名簿である。なお、この日の話合いは、松延が原告らにビール、すしなどで接待するなど穏やかな雰囲気の中で行われた。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日時ころ原告田中が、組合員数名とともに八幡駅前に行って、松延と会ったこと、「帆柱荘」で話合いをしたこと、及び同人が登校せずに帰ったことはいずれも認めるが、その余の事実は否認する。原告田中らが八幡駅前に行ったのは、松延が八幡駅から分会に「誰かきてほしい。」旨の電話をかけてきたので、それに応じたものである。また、「帆柱荘」に行ったのは、原告田中らと松延と話合いのうえである。そして、そこでの話合いの中で、同人は、「今日は赴任のために来たのではない。」などと言って、登校する意思のないことを明らかにしていた。なお、この日原告古野は、八幡駅前及び帆柱荘に行っていない。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の日時ころ原告田中が組合員数名とともに八幡駅前に行って松延と会ったこと、「帆柱荘」に行ったこと、同人が登校しなかったことは認めるが、その余の事実は否認する。この日も、前日同様松延が八幡駅から分会に「来てほしい。」旨の電話をしてきたのでそれに応じて行ったのである。そして、同人は、原告田中らに対して、「教育長から指示があったので、家にいるのも具合がわるいので駅まで来た。」旨発言するなど、もともと登校の意思は全くなかった。なお、原告木原、同古野は同日八幡駅には行っていないし、帆柱荘にも行っていない。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日に原告古野が分会員数名とともに八幡駅に行って松延と会ったことは認めるが(但し、行ったのは午後一時ころであって、午前一一時ころでない。)、その余の事実は否認する。この日も、松延が誰か来てほしい旨の電話をしてきたので、それに応じて行ったのである。そして、同人は、原告古野らに登校する意思はない旨言うなど、もともと登校の意思は全くなかった。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、被告主張の日に原告木原、同古野、同田中が他の数名の組合員とともに、事務決済の件で来た松延と「帆柱荘」で会ったこと、及び同人が事務長代決を承諾したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ト) 同(ト)の事実中、被告主張の日時ころ原告木原、同古野らが他の組合員とともに八幡高校正門前にいたこと(但し、正門前にいた組合員は約四〇名ではなく二〇名程度である。)、及び松延が県教育庁職員湊博文外一名とともに右正門前付近に来たことは認めるが、その余の事実は否認する。

(チ) 同(チ)の事実中、被告主張の日時ころ原告古野が他の分会員一名とともに八幡駅前に行って松延に会ったことは認めるが、その余の事実は否認する。この日も松延が八幡駅から会いたい旨の電話をしてきたのでそれに応じて行ったのである。同人は、そのとき登校の意思は全くなかった。

(リ) 同(リ)の事実中、被告主張の日に原告木原、同古野が八幡駅前に行って松延に会ったことは認めるが、その余の事実は否認する。この日、松延から分会に福岡を午前一〇時一〇分発の汽車で行くから誰か来てくれという趣旨の電話があったので、原告木原らが午前一一時過ぎころ八幡駅に行った。この日松延には登校の意思はなかった。

(ヌ) 同(ヌ)の事実中、五月二九日に原告木原、同古野が八幡駅前に行って松延に会ったことは認めるが、その余の事実は否認する。同日も松延からの電話での要請に応じて行ったものであり、この日も同人に登校の意思は全くなかった。六月四日も松延から是非会いたいという電話があったが、分会では、そんなに毎日呼出しに応じなくてもいいではないか、ということで、誰も呼出しには応じなかった。その他、松延の登校を阻止したことはない。

(7) 同(7)の宗像高校関係

同(7)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告久保が分会長であったこと、同原告が被告主張の各指示(いずれも指示であって指令ではない。)を受け、所属分会員に伝達したことは認めるが、その実行を指令したことは否認する。右各指示の具体化は、支部評議員会、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日に原告久保が、外二名の組合員とともに城南高校に行って、同校長室において同校分会長とともに校長着任拒否決意書(決議書ではない)を中村喜代志に手交したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ハ) 同(ハ)の前段の事実中、中村喜代志が大熊一雄を同道して宗像高校正門付近に来たことは認めるが、その余の事実は否認する。

同(ハ)の後段の事実中、吉田事務長が中村喜代志の決裁印のある四月分給与支出命令書を破棄した事実は認めるが、その余の事実は否認する。吉田事務長に右文書の破棄を強要したことはない。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の日に中村喜代志が宗像高校正門付近に来たことは認めるが(但し、その時間は、午前一〇時三〇分ころではなく、午前一〇時五〇分ころである。)、その余の事実は否認する。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日時ころ中村喜代志が県教育庁職員四名とともに宗像高校玄関付近に来たことは認めるが、その余の事実は否認する。原告らが、ピケを張ったり、実力を行使したりしたことはない。中村喜代志が教育長の命を受けたことは不知。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、被告主張の日時ころ中村喜代志が登校し同校校長室に入校したこと、原告久保らがこれに抗議したことは認めるが、その余の事実は否認する。同原告ら分会員が、この日に暴行をしたり、つるしあげたりしたことはない。

(ト) 同(ト)の事実中、被告主張の日時ころ中村喜代志が同校の正門付近に来たこと、及び同日福岡県議会文教委員会委員が同校に視察に来たことは認めるが、その余の事実は否認する。

(チ) 同(チ)の事実中、被告主張の日に中村喜代志が同校校門付近に来たことは認めるが、その余の事実は否認する。

(8) 同(8)の大牟田商業高校関係

同(8)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告原が被告主張の各指示(指令ではない)を受けたこと、磯浜分会長がそのころ所属分会員にその内容を伝達したことは認めるが、その余の事実は否認する。右各指示の具体化は、支部評議員会、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日時ころ原告原が組合員四名とともに宇美商業高校を訪問し、大牟田商高分会全員が署名した着任反対の文書を中村正夫に手交したことは認める。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日時ころ中村正夫が国立療養所銀水園前まで来たことは認めるが、その余の事実は否認する。当日午前九時ころ中村正夫は大牟田駅から大牟田商業高校にいた同校分会長に電話し、どこか然るべきところで話し合いたいと申し入れ、同分会長が銀水園前を指定したので、ハイヤーで同所へ向けて来たのであって、来校したのではない。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の日時ころ、中村正夫が事前の電話連絡をしたうえで教育庁職員森重外三名に連行されてハイヤーで大牟田商高玄関前に乗りつけ、そのまま右森重に抱きかかえられるようにして校長室に入ったこと、原告原が玄関内で話合いに応ずるよう二言三言森重らと問答したことは認めるが、その余の事実は否認する。なお、午後一時ころ一PTA役員が机を叩いて中村正夫に「生徒へ着任の挨拶をせよ。」と迫ったが、同人がこれを拒否すると、右役員は、「先生達と一緒に私達もあの校長拒否をやります。」と言った。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日(但し、午前一〇時一〇分ころ)中村正夫が、玄関前まで来たこと、原告原らから無理に校舎内に入らないよう説得され、午前一〇時四〇分ころ引き上げたことは認めるが、その余の事実は否認する。その後原告原は、大牟田駅食堂で右中村とコーヒーを飲みながら話し合い、今後話合いは学校前を避けて西鉄倉永駅で行うことを確約してもらった。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、中村正夫が、六月一〇日体育館前まで事前の電話連絡をしたうえで来たこと、その際、原告原が一〇名内外の組合員とともに中村正夫と落ち合って学校近くまで来たことの確認をし合ったことはあるが、その余の事実は否認する。

(9) 同(9)の戸畑工業高校関係

同(9)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告高取が被告主張の各指示(指令ではない)を受けたこと、同原告がそのころ所属分会員にその内容を伝達したことは認めるが、その余の事実は否認する。右各指示の具体化は、支部評議員会、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実は否認する。この日は誰も中野宅に行っていない。

(ハ) 同(ハ)の事実は否認する。中野は、その前日、守田総務部長、佐々木支部執行委員、原告高取の訪問を受け、過労のため入学式には参加できないので代行を右守田に依頼する旨述べ、当日は戸畑工業高校に来なかった。

(ニ) 同(ニ)の事実も否認する。同日中野は、同校に来ていない。

(ホ) 同(ホ)の事実も否認する。同日中野が校門前にハイヤーで乗りつけたのは午前一〇時ころであり、直ちに中野がどこかほかの場所で話し合いたいと言うので、支部三役、原告高取らが一緒に戸畑会館内喫茶店に案内しそこで話し合ったものである。中野は、校門前にものの三〇秒もいなかった。

(ヘ) 同(ヘ)の事実も否認する。同日中野が校門前に来たのは放課後の午後三時半ころであり、二、三分間説得を受けて帰った。

(ト) 同(ト)の事実中、被告主張の日時ころ中野が教育庁職員二名とともに校門前に来たこと、原告露口、同高取が、そこで数分間押し問答の末、河田PTA会長の意見も参酌して中野を応接室に案内したこと、職員朝礼後さらに会議室に案内したうえで同人からも県教委が高教組と話し合うよう努力することを要請することなどの話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。中野が校長室に入ることを要求したことはなく、PTA役員らが校長室に入れたらどうかとの意見を述べただけである。

(チ) 同(チ)の事実中、被告主張の日時ころ中野が同校応接室に入ったこと、そこで原告上村、同高取のほか梶谷副支部長、川口支部書記長らも交えて約三〇分間前日同様の話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(10) 同(10)の黒木高校関係

同(10)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告高倉及び同末永が被告主張の各指示(指令ではない)を受けたこと、原告末永がそのころ所属分会員に対しその内容を伝達したことは認めるが、その余の事実は否認する。右各指示の具体化は、支部評議員会、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日(但し、午後零時三〇分ころ)原告高倉、同末永が二名の組合員とともに鞍手高校に行き、田中に対し黒木高校分会全員の署名による着任反対の決議書を手交し、その趣旨を説明したことは認めるが、その余の事実は否認する。その際、田中は、高教組と被告との間の話合いで解決するまで黒木高校に登校しないよう努力することを約した。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日(但し、午後六時ころ)原告宮本と原告江口が鞍手高校事務室において田中に会ったこと、その日田中が校長辞退届を書いたことは認めるが、その余の事実は否認する。田中は、その時までに分会役員との話合いで右辞退届を提出する意思を決めていたものである。

(ニ) 同(ニ)の事実は否認する。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日(但し、正午ころ)田中が事前に連絡のうえ鞍手高校事務長を同伴して黒木高校付近まで来て原告高倉に対し「校内に立ち入るつもりはないから、太田旅館で支部長、分会長に会いたい。」旨申し入れたこと、校門前の太田旅館で八女支部三役、支部内各分会長、久留米支部関係者二名が田中に対し高教組と被告の間で話合いがつくまで着任しないで出身分会に帰るよう約二時間半にわたり説得したことは認めるが、その余の事実は否認する。右説得に対し、田中は、(1)黒木高校の校務にはタッチしない、(2)業務命令が出た場合は判らないが、県教委と組合との話合いがつくまで来校しない、(3)来校するときは分会長に連絡することを確約した。但し、田中は、同旅館に一泊させてほしいとの申入れが認められなかったので、最終的には右(1)を撤回するに至った。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、被告主張の日(但し、午前一一時五〇分)田中が事前の電話連絡をしたうえで堀川バス黒木停留所に来たので、原告高倉、同末永が同停留所において田中に会い、事務長を呼んで同人の給与支払事務を済ませたこと、田中が「業務命令が出たので来たが、校内には入れなかったことにしてほしい。」と申し出たので同原告らも了承し、分会員宮川の車に原告高倉が同乗して国鉄久留米駅まで送ったことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ト) 同(ト)の事実中、被告主張の日時ころ田中が堀川バス黒木停留所まで来たこと、原告高倉が分会員古賀を同伴して久留米支部の貸切バスで田中を国鉄久留米駅まで送ったことは認めるが、その余の事実は否認する。この日も田中からは事前の電話連絡があり、田中と会ったのは原告高倉と同末永の二人だけであり、田中は同原告らに「他の校長より多く登校しようとは思わないが、時々登校させてほしい。私は阻止されたことにして校内に入らないから。」と言ってそのまま帰ることにしたのである。

(チ) 同(チ)の事実中、被告主張の日時ころ原告宮本が直鞍支部三役とともに田中宅を訪問し、翌二日に着任を強行しないよう懇談したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(リ) 同(リ)の事実中、被告主張の日時ころ田中が教育庁職員野見山外三名を伴って来校し校長室に入ったこと、原告高倉、同末永が校長室において同人に対し抗議したことは認めるが、その余の事実は否認する。この日田中らは、前記停留所及び校外四つ角で見張っていた組合員が気がつかないうちに校庭バックネット付近から校長室まで入ったのであるが、その時原告高倉は、右停留所におり、原告末永は、体育館で開かれていた父兄会臨時総会で経過報告をしていた。

(ヌ) 同(ヌ)の事実中、被告主張の日時ころ原告宮本が田中宅が訪問し、同人不在のため、妻に対し同人の前日の強行着任行動は遺憾である旨の伝言を頼んだことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ル) 同(ル)の事実中、被告主張の日時ころ田中が教育庁職員に連行されて来校し、玄関から二階会議室に上ったこと、原告末永も交えて組合員約二〇名が会議室に集まり、主として教育庁職員野見山に対し五月二日の着任行動について抗議したことは認めるが、その余の事実は否認する。当日田中らが玄関に入った時、そこには組合員は誰もおらず、事務室に入る何の妨げもなかったのにそのまま玄関たたきに立ち止っていたので、その場に出て来た原告末永ら組合員がそのまま引きとるよう若干の説得を試みたものである。しかも、原告末永らは、五分足らず後には会議室で話し合うように申し出で、田中らもそれに同意したのである。

(ヲ) 同(ヲ)の事実中、被告主張の日時ころ原告高倉、同末永が組合員三名とともに筑豊病院に行き、病室で田中に会って生徒処分についての新聞の誤報、PTA予算の不執行の動き等の問題で事実の確認をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。右原告らは、生徒処分についての職員会議の決定は、鶴総務部長が田中に報告して了承を得ていたのに、新聞紙上には職員会議が越権的に処分したかのように報道されていることを問題とし、田中が新聞記者に誤った情報を提供したかどうかを確かめたのであり、また、PTA理事者らの間には着任拒否中のPTA予算の執行を見合わせるとの動きがあるがそれを知っているか、またそれについてどういう意見であるかを確かめたのである。

(11) 同(11)の福岡中央高校関係

同(11)の冒頭の事実は認める。

(イ) 同(イ)の事実中、原告城戸(陽)が被告主張の指示(指令ではない)を受けてそのころ所属分会員にその内容を伝達したことは認めるが、その余の事実は否認する。右各指示の具体化は、分会会議の議によったものである。

(ロ) 同(ロ)の事実中、被告主張の日時ころ原告城戸(陽)が組合員四名とともに約四、五分徳永宅に同席したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ハ) 同(ハ)の事実中、被告主張の日時ころ徳永が玄関から校舎内に入り、原告露口、同城戸(陽)と廊下で約五分間立話をしたこと、同原告らが同日午後三時ころ分会員六名とともに徳永宅に行ったことはいずれも認めるが、その余の事実は否認する。この日徳永は、原告城戸(陽)に対して、今後とも無理な登校をせず、登校の有無、時刻を予め連絡して無駄や混乱を避ける旨の約束をし、以後これを実行した。

(ニ) 同(ニ)の事実中、被告主張の日時ころ徳永が校門前まで来たので、原告城戸(陽)が他の分会員らとともに約一〇分間徳永と立話をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。なお、この日同人は、午前九時登校せぬ旨電話連絡し、さらに昼過ぎころ今から行く旨電話連絡した。

(ホ) 同(ホ)の事実中、被告主張の日時ころ徳永が校門前に来たので、原告城戸(陽)が同露口らとともに徳永と約一五分間話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ヘ) 同(ヘ)の事実中、被告主張の日時ころ徳永が校門前に来たので、原告城戸(陽)が同平木らとともに約一五分間徳永と話合いをしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(ト) 同(ト)の事実中、被告主張の日時ころ徳永が校門前まで来たので、同人と約一〇分間立話をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(チ) 同(チ)の事実中、被告主張の日時ころ徳永が校門前まで来たので、原告城戸(陽)が、分会員らとともに徳永と話し合ったことは認めるが、その余の事実は否認する。但し、五月一六日徳永が校門前に来た時刻は午前一〇時二〇分ころで、原告城戸(陽)は、その話合いに参加しなかった。

3  被告の主張3のうち、原告らの勤務校の勤務時間が被告主張のとおりであることは認めるが、その余の主張は争う。

五  原告らの主張

1  懲戒権の濫用等

(一) 新任校長人事に関する慣行の存在と本件闘争に至る事情

(1) 校長推薦制の慣行の確立

福岡県においては、本件当時より約二〇年ほど前から高校等校長の人事に関し、現場の教員が新たに校長に任命される場合、被告は、高教組から被告に対し毎年提出される相当数の校長候補推薦名簿の中から任命し、教育行政関係者が校長に任命される場合は、被告から高教組に対しその承認が求められていたものであり、本件の前年度までの校長人事においても、高教組から被告に提出される校長候補推薦名簿以外から校長に任命された者は皆無に近く、右は高教組と被告との間で確立された慣行となっていた(以下「本件慣行」という。)。高教組が校長候補を推薦するに当っては、分会人事対策委員会の決定に基づき支部人事対策委員会が検討し、さらに、それを本部人事対策委員会が多方面から検討を加えて最終候補を決定し被告に提示していたもので、全教職員の総意に基づくきわめて民主的な方法で決定されていたのである。教師達の自発的、自主的教育活動を保障するためには、学校運営が民主的に行われる必要があるが、民主的運営が行われるか否かは、学校の長である校長の姿勢にかかるところが大きい。校長人事に関する右慣行は、教育の本質に不可欠な教師の自主性、自発性、及び教育現場の自由にして民主的勤務関係という教育条件の保障の一つとして、福岡県高校教育において重要な役割を果してきた。

校長の任命権については、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下「地教行法」という。)三四条に、「教育長の推薦により教育委員会が任命する。」と規定されている。しかし、右規定は、任命権の帰属とその行使の手続を定めたものであり、任命権行使の際の裁量に属する問題について、任命権者が、他の必要な手続や準拠すべき基準を自ら設定し、あるいは職員団体と協定することを禁止する趣旨ではなく、校長の任命に関して有する任命権者の裁量権の行使が、憲法、教育基本法、その他の関係法令の基本精神により適合してなされるよう規則制定、その他の客観的自己規制をなすこと、あるいはその自己規制を職員団体との間の協定若しくは労使慣行によって対外的にも義務づけることは、任命権の自己否定や侵害に当らないというべきである。校長人事に関する本件慣行は、被告による校長の人選の範囲を高教組の推薦によって枠づけることとなるが、しかし、右慣行が、校長人事に関する被告の裁量権行使に対して与える制約は、被告が高教組の推薦を意識しないで人選した結果がほとんど右推薦の範囲内にあったと言い逃れすることもできる程度のものであったことから考えて、裁量権の自己規制としての相当な程度を超えているとは到底考えられない。また、教育庁職員からの校長任命についても、特に反組合的事跡がない限り、高教組は不承認としないとの条理上の制約が存していたものである。

(2) 昭和四三年度新任校長候補被推薦者の決定

(イ) 高教組は、昭和四二年一〇月二六日日教組の人事院勧告完全実施等を要求する全国統一行動の一環として、始業時から早朝一時間の休暇闘争を行ったが(以下「一〇・二六闘争」という。)、右闘争には、ほぼ一〇〇パーセント近い組合員が参加した。被告は、昭和四三年二月七日「右闘争に参加した教頭及び主事(以下「教頭等」という。)は戒告処分とする。但し、集会に参加したことを反省し、管理職であることを自覚して今後かかる闘争に参加しない決意を反省書にして提出するならば、戒告処分については再検討する。」旨の処分方針を発表した。しかし、右組合員らの行為(教頭等が組合員であることは後記(二)に記載のとおり。)は、憲法二八条によって保障された正当な団体行動であるから、右闘争への参加を理由として戒告処分を行う旨申し向けて反省書の提出を求めることは、明らかに違法な支配介入行為であり、また、反省書の提出のない者を提出した者より重く懲戒することは、明らかに違法な不利益差別取扱である。また、権力者によるかかる違法な支配介入及び不利益差別取扱に屈服して、みずからなした正当な行為の反省を誓うことは、教育者にとって必要な志操においても、また、組合に対する民主的姿勢においても大きな欠陥を露呈したものと評価されるのは当然というべきである。

(ロ) 高教組本部人事対策委員会は、三月二二日の深夜まで被告に対し推薦すべき昭和四三年度校長候補につき慎重に審議した結果、一〇・二六闘争について一部の教頭等が反省書を提出したことは、高教組の連帯的統一行動の正当性を否定するものとして容認できないものであること、反省書の提出は、連帯的統一行動をとった同僚教師を裏切りみずから権力の言うがままになる人物として名乗り出ることであり、また、仲間の教師を不当弾圧の照準の前にさらすことにもなるものと判断し、反省書を提出し最後まで撤回しなかった教頭等については、校長候補として推薦することはできないとの結論に達した。そして、同日の右人事対策委員会において、一〇・二六闘争につき戒告処分を受けた教頭一七名を含む三八名を校長候補として推薦することを決定し、高教組は、同月二五日被告に対し、右推薦名簿を提出した。

(ハ) 右より以前三月五日の福教協と被告との間で行われた人事一般に関する交渉において、校長選考についての人事慣行を確認する趣旨で当時の河辺福岡県教育委員会委員長が、「昇任人事については広く人材を求めて選考したい。しかし、最終的には組合の了解のいくものでなければならない。したがって、選考は従来どおりにやりたい。」と明言していた。さらに、高教組としては昇任人事についての混乱を避けるためには、なお被告から十分の保証をとっておいた方がよいと考え、三月二八日の福教協と被告との交渉において、福教協議長の原告待鳥が、河辺委員長に対し、「本年の高校等の昇任人事に関する選考、その手続などについては従来どおりにするか。」と質問したところ、同委員長は、当時の吉久福岡県教育委員会教育長(以下「教育長」という。)に対し、「教育長いいね。その点はよろしいですね。」と十分念を押し、同教育長もこれに対しはっきり、「はい。」と応諾確認したのである。

(3) 被告による本件慣行の破棄

(イ) 被告は、四月一日高校等の校長人事を発表したが、それによると、新たに校長に任命される一五名のうち教頭から昇任するものは一一名であるが、そのうち八名が高教組から推薦されていない者であり、また、福岡県教育庁職員からの転出者四名のうち一名(中野弥壮)は、高教組が承認していない者であり、被告は、校長人事に関する長年の本件慣行を一方的に破棄するに至った。

(ロ) 同日高教組は、教育長交渉を行い、右人事に関する被告との交渉を要求し、教育長は、一旦被告との交渉の設定を約束したが、翌二日にはひそかに教育委員会々議を開いて高教組との交渉には応じないことを決し、高教組にその旨通告してきた。高教組は、被告との交渉によって解決への糸口をつかむためには、被告のねらう不当人事の既成事実化を阻止するほかはないと判断し、四月二日午前零時開かれた支部長会において、被告の行った校長昇任人事の背信性、不当性についての抗議、及び右人事により校長に発令された教頭に対する校長昇任辞退の説得等の活動を展開すべき旨の指示第一号を確認し、右指示を発した。その後も高教組は、同月三日から六日早朝まで被告との交渉を要求して教育長交渉を重ねたが、教育委員は行方をくらまして連絡がつかず、教育長は、この期間をひたすら堪えぬけば足りると決めこみ、教育委員とは会わせないの一点張りに終始し、被告は、その後も交渉拒否を続けた。このように、高教組の話合いによる解決のための努力も、被告の不誠実な交渉拒否によりとざされ、被告の右のような不誠実な交渉拒否が本件闘争を長期化させる主要な原因となった。高教組は、同月九日の本部人事対策委員会において、高教組が校長候補として承認していた教育庁から新任校長に転出の三名につき、同人らが被告の本件慣行の破棄に加担したものと評価されるべきであるとして、同人らにつき一旦なされていた承認を取り消した。

(二) 教頭の地位

(1) 福岡県下の県立高校等においては、昭和二二年ころ以降本件当時まで、すべての校務分掌は、各学校における全教職員の選挙によって決定されていた。校務の分掌は、多くは五部制となっていて、総務部長、生徒部長、厚生部長、図書部長、教務部長の各部長が各学校の全教職員の無記名投票により選出されており、昭和三二年一二月四日学校教育法施行規則の一部改正により教頭制が設置されるまでは、いずれの学校においても教頭なるものは存在しなかった。昭和三二年一二月学校教育法施行規則二二条の二が新設され(高校の場合は同規則六五条によって、盲学校及び学聾校の場合は同規則七三条の九によって準用されている。)、「学校においては教頭を置くものとする。教頭は、校長を助け校務を整理する。」旨規定され、それに伴って、福岡県においても同月福岡県立学校管理規則が改正され、九条一項に新たに、「学校には教頭を置く。」との規定が設けられた。しかし、右管理規則の改正は、形式上の対応をはかったに過ぎないもので、県下の学校における教頭の実態には変化がなく、被告は、校長の報告に基づき、各学校の教職員の選挙によって選ばれた総務部長に対し、「教頭に充てる」との通知をなすのが慣行となっていた。したがって、右管理規則改正後も教頭は、学校における各部門の連絡調整を任務とし、管理者的立場にはなかった。教頭の右のような地位から、高教組は、教頭を正規の組合員としており、高教組の下部組織である分会がつくられているすべての学校で、教頭は、高教組に加入していた。

(2) 昭和三七年教頭に対する管理職手当の支給をめぐって、高教組と被告との間で交渉が行われたが、その際、被告は、同年七月一三日付文書で、「高校の教頭、主事の諸問題については、諸般の情勢上早急に結論を出して実施に移したいと考えていたが、その後慎重に検討を進めるにつれ色々問題があることがわかったので、教頭、主事の取扱は従前のとおりとする。」旨回答した。また、地公法五二条四項に基づき制定された昭和四一年九月一三日公布の福岡県人事委員会規則により、教頭、主事は、管理職に指定する旨定められたが、高教組の反対闘争により同規則の発効は、昭和四二年三月一五日まで延期された。そして、同年六月二八日行われた被告と高教組との交渉において、「県人事委員会規則の発効は好ましいものではない。規則には越えられない壁があるが、三月一五日以前の状態で処理する。」との合意に達し、従前どおり教頭等が管理職でないことが確認された。

(三) 本件闘争に関するその他分事情

(1) 本件闘争の際、支部や分会においては、校長不在の学校運営を支障ならしめるため、教頭を闘争の第一線から退けたほか、授業のある教員は校長に対する説得活動からはずす等、校務運営、教育活動に具体的支障を生ぜしめないよう万全の配慮がなされたため、校務運営、教育活動に対する具体的支障は、ほとんど生じなかった。被告は、本裁判において、本件闘争によりどのような校務運営上、教育活動上の支障をきたしたのかについて全く主張、立証していないが、これは、右点につき具体的支障がなかったことを示している。

(2) 本件闘争が行われた一一校のうち、支部長、分会長については、久留米聾学校、水産高校、北九州盲学校、鞍手農業高校関係の支部長、分会長だけが免職という重い処分を受けており、被告は、右四校における闘争が他の七校に比べて悪質であり、かつ、その責任が支部長、分会長にあるととらえているものと解される。しかし、各学校における闘争のあり方の違いは、基本的には着任して来る校長の対応の仕方に左右されたものであり、校長が、柔軟な姿勢で、かつ、高教組に対しても被告に対しても巧妙に立ち回った学校では、警官導入等の事態に立ち至ることなくすんだのである。各支部、分会の闘争は、本部からの指示及び現地に派遣された本部執行委員の指示に基づきなされたものであり、支部、分会段階の裁量の余地はほとんどなかった。したがって、前記四校における闘争とその他の学校の闘争に違いがあったとしても、それは支部、分会の主体的な取組み、行動の違いに起因するものではなく、支部長、分会長の責任に帰することはできない。

(3) 前記(二)に記載のように、教頭は、少なくとも本件当時、法制上も学校運営の実際のうえでも、一般の教諭の上に立つ管理職としての地位は明確にされていなかった。本件当時教頭は、高教組々合員として組織に参加し行動していたものであり、本件闘争に際し、これに積極的に反対する行動を期待することはできなかったものというべきである。

教頭であった原告佐田、同福田、同田村が、本件闘争において、被告が主張するような「先頭に立って行動した」というようなことはなく、むしろ所属分会等の配慮によって、本件闘争からは一歩退いた立場、言動に終始していたのである。本件闘争の行われた他の八校の教頭が、闘争を止めるよう説得したことはなく、積極的に校長に対し校務を報告し、連絡し、その指示を仰いで校務を整理したということも考えられない。右原告ら三名と他の八校の教頭が基本的に違うところは、右原告ら三名の学校には警官が導入されたが、他の学校には警官導入がなかったということだけであり、それが全く処分を受けないか、免職になるかの違いを生んでいるのである。しかし、本件闘争から一歩退いた立場にいて積極的に参加することのなかった右原告ら三名に、警官導入の責任を問うことができないことは明白である。

(4) 本件闘争が長期化し、交渉による解決という姿勢をとらない被告の姿勢に対して県民の批判が高まる中で、県当局も事態打開のため重い腰をあげざるを得なくなり、被告を代表して三宅副知事が、高教組側を代表して日政連の県議会議員が話合いを斡旋することになった。その最終的な詰めの話合いが六月二三、四日ころ行われ、斡旋の最終案が被告、高教組の双方に提示されたが、その中に、人事の問題について人事権が被告にあることを前提に、「人事については組合の意見を誠意をもって考慮する。」との案が示されていた。高教組は、事態打開のため、右条項を含めて最終案について了承したが、被告は、右条項の「意見」につき、「適正な」という文言を挿入しない限り了承できないとの態度をとったため、右斡旋は、六月二七日不調となった。本件各処分後亀井知事の斡旋が行われ、八月二五日に合意に達したが、その内容は、「①人事権は県教委にあるが、その実施に当っては高教組の意見を誠意をもって考慮する。②第一次処分問題については、幹旋者及び三宅副知事、中村、浦川、花田三県議の間で引続き検討する。③県教委は第二次処分を行わない。④高教組は今次校長着任拒否闘争を収拾する。⑤校長着任拒否闘争の終結後において双方懸案事項について交渉を再開する。」というものであった。第一次斡旋案と第二次斡旋案との間には違いはなく、特に、被告が第一次斡旋で問題とした人事権の行使についての条項は、全く同一である。このことからして、第一次斡旋で被告が、「適正な」という文言にあれほど執着し、その結果斡旋自体を不調に終らせてしまう合理的理由は全くなかったというほかはない。

(四) 不利益取扱及び懲戒権の濫用

原告らの本件行為は、校長人事に関する民主的な本件慣行を被告により破壊されるのを防ぐためになされた正当な組合活動であり、それを理由としてなされた本件各処分は、職員団体のために正当な行為をしたことの故をもって不利益な取扱をするもので、地公法五六条に違反し違法である。

仮に、原告らにいくばくかの違法な行為があったとしても、前項(一)、(三)及び後記2の(三)の事情のほか、本件当時教頭であった原告佐田、同福田、同田村については、さらに、前記(二)の事情をも考慮すると、本件各処分は、甚だしく苛酷であって、懲戒権を濫用したものとして違法である。

2  地公法三七条一項の違憲性等

(一) 原告らの行為の地公法三七条一項の非該当性

地公法三七条一項で禁止されている「争議行為」及び「怠業的行為」とは、地方公共団体の職員若しくはその職員団体が自己の主張を貫徹する目的でその手段として行った行為に限られる、即ち、業務の正常な運営の阻害や活動能率の低下が企図された場合にのみ右条項で禁止される行為に該当するものと解すべきところ、本件闘争は、新任非推薦校長に対する説得こそが目的であって、学校運営における業務の正常な運営を阻害することや活動能率の低下を企図して行われたものではなく、校務運営上いささかの阻害があったとしても、それは本件闘争の偶然的結果に過ぎない。したがって、原告らの本件行為は、地公法三七条一項所定の争議行為及び怠業的行為に該当しないというべきである。

(二) 地公法三七条一項の違憲性

地公法三七条一項は、原告ら教職員を含むすべての地方公務員のあらゆる争議行為を全面かつ一律に禁止している。同条項の禁止の範囲は、公共性の必ずしも強くない職務に従事する職員についても、また、国民生活全体の利益を害し国民生活に重大な支障をもたらすおそれのない争議行為についても及ぶことになり、しかも、同条項は、禁止に至らない色々な規制方法で右のおそれを避けることができる職務の種類や争議行為の態様があるにもかかわらず、最大限の制限である絶対的な禁止をしており、右規定の文言、立法目的、運用の実際等から考えると、右条項を合憲的に限定解釈することも適切でない。したがって、地公法三七条一項は、合理的な必要最小限度をこえて地方公務員の争議行為を禁止しているものとして、憲法二八条に違反し無効であるから、地公法の右条項を適用することは許されない。

(三) 本件闘争の正当性

(1) 仮に、地公法三七条一項が直ちに違憲といえないとしても、その場合、同条項の合憲性を肯定できるのは、同条項が禁止する争議行為とは、国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な支障をもたらすおそれのある争議行為だけであり、右のようなおそれのないものは、同条項の禁止する争議行為に該当しないとの限定解釈をとる場合に限られるというべきである。しかるに、原告らの本件闘争の全部又は一部に争議行為といえるものがあったとしても、次に述べるとおり何ら国民生活全体の利益を害し、国民生括に重大な障害をもたらすおそれがなかったものであるから、原告らの行為は、地公法三七条一項に該当する違法な争議行為とはいえない。

(2) 教育行政のあり方が教育そのものに及ぼす影響と、教育労働及び労働者の団結に及ぼす影響とは、実際上切り離し難い関連があるから、教職員で構成される労働組合が教育行政上の諸問題を取り上げて活動できることは否定し難いことである。本件闘争は、校長人事に関する民主的慣行を維持すること、及び被告が企図した高教組の組織分断、弱体化からみずからを防衛することを目的としたもので、正当な目的をもったものというべきである。

また、本件闘争、とりわけその中でも問題となる各学校の校門、玄関付近における組合員の校長に対する着任阻止行動は、水産高校、北九州盲学校及び久留米聾学校において警官導入が行われた五月一一日の行動、並びに鞍手農業高校における五月八日の行動を除けば、いずれも静止的、受動的阻止にも当らない若干の団結の威力を背景とした平和的説得の範囲を超えるものではなかった。また、右四校における右各日の組合員の行動も、暴力的な行為もない受動的なスクラム、座込みの範囲にとどまっている。したがって、本件闘争における組合員らの行動は、民主的な本件慣行の破壊と高教組の団結権に対する侵害を防ぐため、緊急かつ必要な手段として相当な範囲内のものというべきである。

さらに、教育業務の性格上、争議行為により国民生活全体の利益を害するおそれが生ぜしめられることは通常あり得ないのであるが、そもそも本件闘争は、組合員がみずからの職務を放棄し職務を停廃せしめたものではなく、授業は十全に行われ、教育計画は所定のとおり達成されており、生徒の管理上も何ら問題はなく、校務運営上何ら実質的支障は生じなかった。本件闘争期間中の授業及び単位の認定並びに教師の勤務についての被告の取扱をみても、本件闘争による障害を何ら問題とせず通常の場合と同一に処理している。仮に、本件闘争により学校管理上ある程度の障害があったとしても、その障害の程度は、本件当時の校務運営の実態に即して考えると、とるに足りない軽微のものであったというべきである。

以上のような事情に照らし、本件闘争は、地公法三七条一項で禁止された争議行為に該当せず、本件集団行動は、全体としてその目的、手段において正当で、緊急性あるいは必要不可欠性を有し、結果においても妥当性を有する正当な集団行動であったというべきである。

六  原告らの主張に対する被告の反論

1  本件慣行の存否とその効力

(一) 従来高教組から被告に対し校長候補者の推薦があったが、しかし、被告は、右推薦のいかんにかかわらず人材本位に任命していたものであり、高教組の推薦者の中だけから校長を任命するということはなかった。本件以前の高教組の推薦は、教頭等経験者の中から毎年七〇ないし一〇〇名程度の候補者を挙げており、昭和四二年度発令者の場合、一三名の校長欠員数に対して約七〇名の者が推薦されるというように、欠員数に比し相当多数の推薦がなされていた。被告は、高教組の推薦者であるかどうかを意識することなく、校長として適格であるかどうかを人物本位で検討し任命していたのであるが、高教組が教頭等の中から相当多人数を推薦してきていたので、結果的にみると、任命した校長は多くの場合高教組の推薦者の中に含まれていたというのが実情であり、高教組は、このような実情を目して慣行と称しているに過ぎない。しかし、事実は、右のとおりであり、過去においても、高教組推薦者以外から校長が任命された例もある。

昭和四二年度末にも高教組から被告に対し、原告ら主張のような校長候補者推薦名簿が提出されたが、しかし、推薦者の数は、一五名の校長欠員に対し僅か三八名であった。しかも、推薦者のうち一七名は、昭和四三年二月二七日に戒告処分を受けた者、七名は、教頭等の経験のない者であった。また、昭和四一年度末には推薦をしておきながら、その後何ら情勢変化もないのに、昭和四二年度末には推薦されなかった者が二十数名もあった。三月五日の福教協と被告との話合いの際、河辺委員長が原告ら主張のような「昇任人事については、最終的には組合の了解のいくものでなければならない。」等の発言をしたことはない。

(二) 一般に労使慣行とは、当該慣行が労働関係を律する規範的な事実として明確に承認され、あるいは労使ともに当然のこととして異議をとどめず、それが事実上の制度として確立しているものであることを要するところ、被告は、原告らの主張するような高教組の推薦者名簿の中から校長を任命するということを規範として承諾した事実はなく、右推薦名簿自体網羅的に多数の候補者を記載し規準となし得ないのであり、また、過去において右名簿に記載された以外の者を校長に任命してきたこともあって、制度として確立されているわけでもないから、原告ら主張のような校長人事に関する慣行が存在していたということはできない。

さらに、労使慣行は、法令の規定なき事項に限り、かつ、公の秩序、善良の風俗に反しない限りにおいて認められるものであるところ、職員団体の権能は法律で定められており、その構成員に関する人事はもとより構成員以外の管理職の人事について当局と交渉できないのであり、また、人事権は、任命権者に専属する最も重大な権限であり、任命権者の裁量権を制約することは法令上の根拠を必要とし、右はいずれも公の秩序に関する事項である。したがって、仮に、原告ら主張のような慣行が存在したとしても無効であり、校長の人事に関しそのような慣行が存在する余地はない。

2  原告らの本件行為の違法性

(一) 職員団体は、給与、勤務時間その他の勤務条件に関し当該地方公共団体の当局と交渉することを主たる目的とする団体である(地公法五二条一項、五五条一項)。勿論職員団体も、憲法所定の基本的人権を享有行使することができるが、その場合の活動は、一般国民としての立場において、一般国民と同様の権限を行使することができるにとどまる。教員の人事権は、教育委員会に専属し(地教行法二三条)、行政上の施策、個々の具体的人事異動等のいわゆる地方公共団体の事務の管理及び運営に関する事項は、職員団体と当局との交渉の対象とすることはできないものである(地公法五五条三項)。しかも、本件闘争の目的は、一般教員の人事とは異なる管理職員たる校長の昇任人事に対し、高教組が、これを不満としてその撤回を求めるものであったから、とうてい職員団体本来の目的となし得ないものである。また、交渉については、その手段、方式が法定されているものであって(地公法五五条)、これに違背した交渉は、いわゆる不正常交渉であり、当局は、右規定に違背した交渉に応ずる義務はない。地公法五六条によって保障される職員団体のための行為は、適法にして正当なものに限られるのであり、前記のように本件闘争が適法にして正当な組合活動の範囲を著しく逸脱していることは明らかであるから、本件処分は地公法五六条に違反するものではない。

(二) 「すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、かつ、職務の遂行に当っては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。」(地公法三〇条)。服務上の義務に違反する組合活動は許されず、組合活動であることの故をもって服務上の義務違反の責任を免れることはできない。

高校の生徒は、一六歳から一八歳の年令層の少年であって、社会的事象に関心を抱きはじめるものの、判断力、思考力が未だ未熟な段階にある一方、いわゆる反抗期に入っており、指導者、特に教師の感化影響をきわめて受けやすい心理状態にある。原告らの行為は、生徒の面前における現行法律制度に対する公然たる反対運動であるから、原告らの言動が生徒に対して遵法精神の破壊、紀律遵守の軽視という由々しき影響を与えたことは推認するに難くない。この点において原告らの行為は、単に「生徒の教育を掌る。」という服務上の義務(学校教育法五一条、二八条四項、七六条)に違反するにとどまらず、教育効果を損うという積極的な違反であったと評価されるべきものであるから、組合専従の本部役員を除くその余の原告らの勤務時間内の行為が地公法三二条に違反することは明らかである。

また、地公法三五条は、職員が、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、当該地方公共団体のなすべき責を有する職務にのみ従事すべきいわゆる職務専念義務を規定しており、職員法、法律又は条例に特別の定めがある場合を除いては、右義務を履行しなければならないのであり、勤務時間中の違法な組合活動は、すべて右職務専念義務に違反するものである。したがって、原告らの行為のうち勤務時間中に行われたもの(但し、組合専従者及び休暇をとって参加した者を除く。)は、地公法三五条に違反する。

さらに、本件闘争は、生徒が勉学中の学校で行われ、PTA役員をはじめ父兄のあまねく知るところとなり、しばしば新聞、テレビで全国的に報道され、県議会においても鋭い非難を受けた。このような点からみて、原告らの行為は、県立高校等の教職員の信用を傷つけ、その職全体の不名誉となる行為に該当することは明らかであるから、地公法三三条に違反する。

(三) 地公法三七条の合憲性については、すべての最高裁判所判例の一致するところである。職務専念義務違反行為が高教組の指令によって集団的に反覆実行されたこと、及び校長の校内立入りを組織的、計画的に阻止したことは、地公法三七条によって禁止された「怠業」若しくは「地方公共団体の機関の活動能率を低下させる怠業的行為」に該当する。学校は、校長を管理者とする教育機関である。校長は、所属教職員を監督し、校務を処理する職責を有するものであり、校長がかかる職責を十分に果すことが、現行法の規定する学校運営の正常な姿である。したがって、実力をもって校長の職責遂行を不可能ならしめることによって、学校が正常に機能しないことは自明のことであり、かかる校長登校阻止によって、学校の活動能率を低下させることは明らかである。

学校教育法二八条三項は、「校長は、校務を掌り、所属職員を監督する。」と規定しているが、校務とは、通常学校がその目的である教育活動を達成するための一切の仕事を指し、監督とは、所属職員の行為が職務上若しくは身分上法令に違反したり、適正を欠くことがないかどうかを監視し、必要に応じ指示命令を発することをいうものである。このように校長は、学校運営上必要な一切の仕事をみずからの責任と意思に基づいて処理するものであり、校長がこれらの責任を果すためには、学校内にあって職務を遂行しなければ、およそ校務の正常な運営は期し難いものである。本件闘争は、四月一日から始まり八月三〇日知事の斡旋によって終結するまでの間、約五か月という長期間にわたって継続され、その間学校の正常な運営が阻害されたものであり、きわめて違法性の強いものである。

高教組の本件闘争に関する指令は、要するに校長の登校を絶対に阻止せよということであり、その手段としては、組合員を集合させてピケを張り実力をもってしても登校させないということであった。その結果、校長は何とかして登校しようとする意思をもって学校に赴いたものの、多数組合員による実力阻止行為によって心理的に抑圧され、若しくは物理的に登校不能の状態に追い込まれて、やむなく登校を断念せざるを得なかったものであって、原告らの行為を平和的説得とみる余地は全くない。民間の場合にも、ピケはスト参加を平和的に説得する限度においてのみ適法とされるのであるが、公務員の場合は、目的、態様、時間の長短を問わず全面一律にストが禁止されているものであるから、民間では適法とされる態様のピケであっても、公務員にあっては違法である。まして、集団の威力をもって校長の登校を阻止する行為は、きわめて違法性の強いものというべきである。

(四) 教頭は、校長を助け、校務を整理するという職責を負うものであり、福岡県においては、昭和四一年福岡県人事委員会規則第一四号管理職員等の範囲を定める規則二条二項の規定により、教頭は管理職に指定されているのであるから、高教組に加入することはできなかったものである(地公法五二条三項)。したがって、原告佐田、同福田、同田村は、本来教頭としての立場から組合員らの違法な行動を取り止めるよう説得する等校長の着任を援助すべきであったにもかかわらず、かえって、高教組の指令に従って本件着任拒否闘争に参加したものであるから、その責任は一般の組合員に比して格段に重いものである。

3  本件各処分の適法性

公務員に対する懲戒処分については、当該懲戒処分が全く事実上の根拠に基づかないと認められる場合、及び社会観念上著しく妥当を欠き懲戒権者に任された裁量権の範囲を超えるものと認められる場合を除いて、懲戒処分を発動するかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべきかの決定は、懲戒権者の裁量に任されているものであり、懲戒権者には、広い裁量権が与えられているのである。したがって、懲戒処分に対する司法審査においては、当該処分が甚だしく妥当を欠くものと明らかに認められる場合でない限り、当該公務員の実態を把握している懲戒権者の裁量を尊重すべきであり、その裁量権の行使に多少の逸脱なり不適切な点があったとしても、懲戒権の濫用として違法となるものではない。最高裁判所判例も、公務員に対する懲戒処分に関する裁量権の行使につき、懲戒権者にきわめて広い裁量権の行使を認めているのである。

第三証拠関係《省略》

理由

第一当事者等

請求原因1、2及び4の事実は、原告佐田、同福田、同田村が高教組に所属していたとの点を除き、当事者間に争いがない。そして、後記第五の二で判示するとおり、右原告らは、本件闘争当時高教組に加入していたものである。

第二本件紛争の概要

一  昭和四三年度以前における福岡県下における県立高校等校長人事について

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  高教組は、昭和二七年ころから毎年、翌年度に発令される県立高校等の推薦校長候補者を決め、これを記載した名簿を被告に提出していた。右推薦の決定手続は、毎年高教組評議員会(評議員会は、組合員二五名につき一名の割合で選出される評議員によって構成され、大会につぐ議決機関である。)で推薦の条件、その他の推薦要項が定められ、これに基づき、まず、各分会で被推薦者が決められることとなっていた。本件当時、分会で校長候補として推薦を受けるためには、まず、全分会員の無記名投票により過半数の賛成を得ることを要し、右賛成を得た者は、高教組人事対策委員長宛の「組合推薦により校長に任命された場合は、次の条件を守ります。①学校運営並びに教育行政を民主的に行います。②教職員組合の機関決定を尊重し協力します。③校長評価により不適の判定がなされた場合は自ら降任いたします。」と記載した誓約書に署名したうえ、再度分会全員の投票を行い、同投票により七割以上の賛成を得た場合に、はじめて分会推薦の校長候補となることができた。右分会の推薦候補は、各支部に設置された支部人事対策委員会に集約され、同委員会で分会推薦候補決定の手続について点検、確認をした後、さらに本部人事対策委員会に図られることとなっていた。本部人事対策委員会は、各支部代表一名と執行委員長とにより構成され(但し、執行委員長には表決権はない。)、同委員会で最終的に高教組の推薦する校長候補が決定され、その名簿を作成したうえ県教育委員会事務局に提出し、同名簿は、被告委員会事務局の人事担当職員が校長任命の原案を作成する際の参考資料の一つとなっていた。被推薦者の数は、本件の昭和四三年を除き毎年校長欠員一〇ないし一五名に対し、七〇ないし一〇〇名が校長候補として推薦されていた。また、いつから始められたのかその時期は明らかでないが、教育行政関係者が校長に任命される場合は、発令の事前又は事後に、被告委員会事務局(教育庁)職員が、高教組にその承認を求めるのが通例となっており、高教組では右承認を求められた場合、本部人事対策委員会に図ってその諾否を決めていた。

2  昭和四三年以前に、高教組が推薦若しくは承認していない者で県立高校等の校長に任命された者が何人あったかは、原、被告双方の主張、証拠が相反し、具体的にその数を確定することは難かしいが、少なくとも二、三の例があったことは明らかであり、また、高教組から校長候補推薦名簿が提出されるようになって以降昭和四二年までの一六年間に、高教組の推薦、承認なくして校長に任命された者は、多くても十数例を数えるのみであった。その中に、昭和三七年一一月高教組の推薦のない小倉高校定時制主事中村隆が築上東高校長に任命された例があった。高教組は、右任命に抗議して同校長の着任拒否闘争を行ったが、同校長から職場の民主的運営に協力し、高教組の諸決定に協力していく旨の申入れがなされ、被告からも今後は高教組の意向を尊重するとの表明がなされたため、右紛争は収束した。また、昭和三八年一一月には、県教育庁学校教育課長荻島達太郎が、新設の城南高校長に発令されたが、同発令については、高教組の承認を求めずなされたため、高教組は、被告に抗議し交渉した結果、被告が荻島の校長職を解くことでその解決が図られた。

二  昭和四三年度新任校長発令に至るまでの経緯

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

高教組は、日教組の人事院勧告完全実施等を要求する全国統一行動の一環として、昭和四二年一〇月二六日に始業時から早朝一時間の休暇闘争を行ったが、右闘争には、一般組合員のほか県立高校等の教頭、主事一三〇数名のうち一一六名が参加した。被告は、昭和四三年二月七日開催された県立高校等校長会において、右一〇・二六闘争に参加した者についての処分方針を明らかにしたが、それによると、「単純参加者のうち二九分以内の参加者は口頭訓告とし、三〇分以上の参加者は文書訓告とする。教頭、主事は戒告処分とするが、闘争に参加したことを反省し管理職であることを自覚して今後かかる闘争に参加しない決意を反省書にして提出するならば、処分につき再検討する。」というものであった。これに対して高教組は、昭和四一年一〇月二一日に高教組が行った一〇・二六闘争と同様の闘争については、何らの処分もなされたことがなかったこともあって、被告の右処分方針の表明は、組合の分裂、管理体制の強化を意図するものであるとして、右処分の阻止、撤回闘争を行うこととし、各支部、分会において教頭等に対し反省書を提出しないようにとの説得活動が行われた。そして、最終的には一〇・二六闘争に参加した教頭、主事のうち、反省書を提出しなかった者若しくは一旦提出した後これを撤回した者は、合計五四名であり、右五四名につき二月二七日戒告処分がなされ、その余の右闘争に参加した教頭、主事に対しては、文書訓告がなされた。

一方、昭和四三年度新任の高教組の推薦する県立高校等校長候補者は、同年一月には各支部から本部へ提出されていたが、その被推薦者の中にはその後一〇・二六闘争につき被告に反省書を提出した教頭等も含まれていたため、三月上旬に開催された評議員会等で反省書を提出した教頭等を校長候補の被推薦者から除外すべきか否かにつき議論がなされた。そして、同月二二日開催された本部人事対策委員会で、被告に反省書を提出しかつその後その撤回もしていない教頭等は校長適格を欠く者として推薦の対象から除外することとし、最終的に三八名を校長候補として推薦することを決め、同月二五日右被推薦者を記載した名簿を被告に提出した。右被推薦者の数は例年の半数ほどであり、かつ、右三八名の中には、一〇・二六闘争につき戒告処分を受けた教頭等一七名、反省書を提出し文書訓告を受けたが、その後「県教委から校長昇任の発令を受けても辞退する。」旨の届書を提出した教頭等九名、教頭等経験のない者七名が含まれていた。また、高教組から被告への右推薦名簿提出後間もなくして、県教育庁教職員課人事管理主事松延一男(昭和四三年四月に八幡高校長に発令)が高教組本部に教育庁から転出の高校等校長候補六名を記載した県教育庁教職員課長徳永務(昭和四三年四月に福岡中央高校長に発令)名義の文書を持参したので、高教組本部人事対策委員会では、右六名のうち五名につき校長候補として承認することを決めた。

県教育庁では、教育次長、教職員課長、人事管理主事らが、教育長と相談しながら昭和四三年四月発令予定の県立高校等校長の選考手続をすすめ、最終的に二〇名位に候補者をしぼったうえ、三月三一日夜から翌一日早朝にかけて開催された被告委員会々議で、被告の主張1の(二)に記載の一五名の校長昇任者が決定され、同日朝公表された。右一五名のうち一一名は、学校現場の教頭であったが、そのうち、三井高校長に発令された近藤久次、筑豊工業高校長吉田無佐治、築上東高校長加治景夫の三名を除く八名は、高教組の推薦名簿に登載されていない者であり、また、教育庁からの転出者四名のうち、戸畑工業高校長に発令された中野弥壮は、高教組の承認のない者であった。

三  本件闘争の経緯

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  高教組は、前記昭和四三年四月の校長の任命が従来の慣行に反するとして、四月一日午前中原告中西書記長外多数の組合員が、県教育庁に押しかけて教育長に抗議し、右校長人事の撤回及び教育委員との交渉を求めた。同月二日教育委員が集まり相談の結果、既に発令された校長人事につき高教組と話し合う必要はないとして同問題につき高教組との話合いには応じないことが決められた。同月三日から五日まで(五日の交渉は六日早朝まで徹夜交渉となった。)高教組と教育長との間で交渉が行われたが、慣行の存否等をめぐり平行線のままで決裂し、その後被告と高教組との間では、五月一一日教育長との交渉が行われたのみで(同日の交渉も最終的には警官隊の導入により組合員が排除される事態となった。)、八月末に知事斡旋による紛争解決が図られるまで交渉が行われたことはなかった。

2  高教組は、四月一日支部長を招集し、同日午後一一時から翌日午前三時まで支部長会を開催し(支部長会は執行委員会の諮問機関)、同会議には、新しく校長が発令された高校等の分会長も出席した。右支部長会開催に先立って執行委員会は闘争方針を決め、支部長会で説明してその意見を聞いたうえ、支部長、分会長宛に高教組執行委員長原告待鳥名の四月一日付の指示第一号が発せられた。その骨子は、①新しく任命された校長が発令前に所属していた分会(以下「出身分会」という。)においては、校長昇任を辞退するよう説得すること、②新しく校長が任命された分会(以下「着任分会」という。)においては、校長に対し着任反対の意思を表明すること、着任分会の所属する支部に闘争委員会を設置し、分会の闘争を指導すること、着任分会には全分会員の二割以上の員数をもって構成する闘争委員会を設置して、闘争体制を確立すること、入学式、始業式には校長を学校内に立ち入らせないための実力阻止体制を確立すること、等であった。同月三日にも夕刻から支部長会が開催され、他分会や支部からの動員体制等につき討議がなされた。その席上で、出席した支部長から指示第一号で指示された校長着任を阻止するための実力阻止体制の具体的実施方法についての質問があり、執行委員から、あくまで平和的集団的説得の方法によるとの回答がなされた。そして、同日執行委員会の決定に基づき、動員体制等に関する指示第一号補強(甲第七七号証。但し、同号証記載の動員計画のうち、一部は支部長会の意見により修正)が発せられた。

その後、高教組は、四月九日の本部人事対策委員会で、県教育庁からの校長転出者三名に対する承認を取り消し、また、そのころ、高教組の校長候補推薦名簿に登載されていた三名の校長に対する着任拒否闘争を解いた。そして、四月九日付で指示第一号補強その二が発せられ、新任校長一二名(教頭からの昇任者のうち高教組の推薦のない者八名及び数育庁からの転出者四名)に対する着任拒否闘争を継続強化し、校長を校門内、玄関内、校長室内に入らせないようにとの指示がなされた。なお、修猷館高校においては、四月中旬ころから同分会の自主的判断により校長着任を受け入れたため、以後残る一一校において校長着任拒否闘争が行われた。

3  着任支部及び分会では、四月二日から同月六日にかけて支部執行委員会や分会々議が開催され、支部長や分会長から所属の組合員に対し、高教組の前記指示に基づく闘争方針の説明がなされその末端への徹底が図られるとともに、支部闘争委員会(主に支部役員で構成)、及び分会闘争委員会(前記本部の指示により、全分会員の二割以上となるよう分会役員のほか、分会々議で選任された闘争委員により構成)が設置された。以後支部及び分会闘争委員会は、高教組本部の闘争指示に基づき、各着任分会における校長着任拒否闘争の具体的実施方法を決定しかつ実行した。

着任分会において行われた組合員らの校長に対する入校阻止行動の通常の形態は、後記第三の三に認定のとおり、組合員が校門付近で待機し、校長が登校するとその前に立ちふさがり、「校長と認めるわけにはいかないから登校しないよう」に言って入校を阻止するのが通例であり、分会によっては、国鉄駅やバス停に待機して校長の登校途中において同様の阻止行動がとられたところもあった。

4  新しく任命された校長らは、着任後の校務運営を円滑にすすめるため、当該学校の教職員との間で決定的対立を生ずることを避けようとの配慮から、始業式前は登校を見合せ、四月中は組合員らの抵抗を強引に押しのけてまで入校しようとの姿勢は示さず、予め電話等により学校に連絡したうえ登校する校長も多かった。

五月に入って教育長は、校長の早期着任を図るため、福岡中央高校を除くその余の一〇校の校長の登校につき、三、四名の県教育庁職員を同行させて校長の着任を援助させた。その結果、大牟田商業高校長中村正夫及び黒木高校長田中正利は、いずれも五月二日午前一〇時前後に入校阻止のために配置された組合員の間隙をぬって校長室に入室した。また、福岡中央高校長徳永務は五月八日午前六時四〇分ころに、宗像高校長中村喜代志は同月九日午前五時一五分ころに、八幡高校長松延一男は同日午前六時五〇分ころに、いずれも早朝で組合員の阻止体制の手薄な時期をねらって校内に入り校長室に入室した。さらに、大川工業高校長柴田正寛は五月八日午前八時三〇分ころ入校して同校敷地内にある同窓会館で、戸畑工業高校長中野弥壮は同日同時刻ころ入校して同校事務室でそれぞれ組合員と話合いをした。被告は、右七校については、右をもっていずれも一応着任できたものとした。

高教組は、校長の強行着任が予想されるようになった五月上旬、スクラムを組み座込みをする等して校長の入校を阻止するよう支部、分会に指示した。そして、久留米聾学校及び北九州盲学校では、五月一一日警官隊の導入により、スクラムを組んだり座り込んだりして校長の入校を阻止しようとする組合員を排除し、各学校長は校長室に入室した(水産高校長藤は、右以前の四月二〇日午前七時三〇分ころ単独で登校して校長室に入り書類の決裁をしたことがあったが、被告は、同日の同校長の入校を着任と解していなかった。)。なお、鞍手農業高校長清水喜代人は、五月八日同行した県教育庁職員とともに校内に入ろうとして組合員と激しくもみ合い結局入校することができなかったが、同校長は、その翌々日の同月一〇日から十二指腸潰瘍により入院したため、その後数か月間登校することができなかった。

一一校における校長着任拒否闘争は、各学校における右のような校長らの着任行動後も継続され、校長が校内に入って執務できない状態が続いた。

5  その後六月ころ三宅副知事及び日政連県議会議員らにより、事態解決のための斡旋がなされたが、不調に終わり、七月一三日には、被告により本件各処分が発せられた。八月に入って亀井知事及び社会党県議会議員により再び斡旋がなされ、知事の指示した「①人事権は県教委にあるが、その実施に当っては、高教組の意見は誠意をもって考慮する。②第一次処分問題については、斡旋者及び三宅副知事、高村、浦川、花田三県議の五者の間で引続き検討を続ける。③県教委は、第二次処分を行わない。④高教組は、今次校長着任拒否闘争を収拾する。⑤今次校長着任拒否闘争の終結後において、双方懸案事項について、交渉を再開する。」との斡旋案を、同年八月二五日高教組及び被告双方が受諾し、これにより本件闘争は一応終息した。

第三原告らの違法行為

一  執行部役員の違法行為

1  執行部役員全員の違法行為(被告の主張2の(一)の(1)の事実について)

原告待鳥、同林、同中西、同上村、同牧野、同露口、同平木、同古賀、同江口、同中村が本件当時別紙処分等一覧表「組合役職」欄記載の高教組役職にあり、組合業務に専従していたこと、右原告らが本件校長着任拒否闘争を行うことを決定したこと、同決定に基づき原告待鳥は、各支部長、分会長に対し被告主張の各指示を発し、右指示に従って本件着任拒否闘争が行われたこと、原告待鳥が被告主張の高教組定期大会を招集したこと、以上の事実は、当事者間に争いがない。

そして、《証拠省略》によれば、五月三〇日及び三一日の両日にわたり開催された高教組第二五回定期大会において、執行部から校長着任拒否闘争を維持強化し校長昇任人事の撤回を闘かいとる旨の議案が提案され可決されたことが認められ、また、前記原告ら一〇名の組合役職に照らして考えると、同原告らは、右議案の作成に関与したものと推認され、右認定に反する証拠はない。なお、右大会において、原告中西が被告主張の発言をしたことを認めるに足りる証拠はない。

2  原告待鳥の違法行為

(1) 被告の主張2の(一)の(2)の(イ)の事実について

五月九日早朝水産高校で行われた校長入校阻止行動の際の原告待鳥の行為については、後記三の2の(7)に認定のとおりである。

なお、被告は、同日原告待鳥が、右阻止行動によって負傷した県教育庁職員訴外四宮勇を、同人が負傷の事実を警察に通報したことでつるしあげた旨主張する。しかし、《証拠省略》によれば、右同日四宮が西鉄津屋崎駅前付近にいたところ、原告待鳥が、外二名の組合員とともに来て、四宮に対し警察に通報した理由を尋ねるとともに話合いで穏便に解釈したい旨話したことは認められるものの、その際、右原告らが四宮をつるしあげる等違法な行為をしたことを認めるに足りる証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

被告の主張に副う乙第四〇号証の三が存する。しかし、《証拠省略》には、いずれも五月一〇日の水産高校における校長入校阻止行動に原告待鳥が参加していた旨の証言及び記載はないことに照らして考えると、被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、吉久教育長は、五月一〇日夜から翌一一日明け方まで福岡県庁職員労働組合及び福岡県教職員組合と徹夜で交渉した後、高教組の交渉申入れにより、交渉時間を同日午前七時から一時間半とするとの約で、県教育委員会会議室で原告待鳥、同中西、同古賀、同江口ら高教組組合員と交渉に入ったこと、その交渉の席上で高教組から、校長人事に関する慣行の存否を確認するため双方から証人を出して慣行の存否を調査したらどうかとの提案がなされ、教育長は、同提案を検討するため午前九時半ころ一旦休憩したこと、教育長は、教育庁職員と相談した結果高教組の右提案に応ずる必要なしと判断し、午前九時五〇分ころ右原告らにその旨を伝え交渉の打切りを告げたが、右原告ら組合員は、教育長の右措置に抗議するとともに交渉の継続を主張して退去しようとせず、午前一〇時二〇分ころ退去命令が発せられたが、これにも応じなかったため、警官隊の導入により退去させられたことが認められ、右認定を覆するに足りる証拠はない。

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告待鳥は、四月三〇日、同日行われる予定の修猷館高校創立八〇周年記念式典への同校々長石橋茂の出席を阻止するため、同日午前九時から同一一時ころまでの間、原告林、同中西ら組合員約五〇名とともにその先頭に立って同校前付近に待機していたが、石橋が組合員の気づかいない間にタクシーで校内に入ったため、右出席を阻止することができなかったことが認められ、右認定に反する証拠はない。

以上のとおりであるから、被告が原告待鳥の違法行為として主張する事実中、(イ)のうち四宮に対するつるしあげ、及び(ロ)の事実は認められず、右事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

3  原告林の違法行為

(1) 被告の主張2の(一)の(3)の(イ)の事実について

被告主張の事実を認めるに足りる証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

後記三の7の(7)に認定のとおり。

(3) 同(ハ)の事実について

前記一の2の(4)に認定のとおり。

以上のとおりであるから、被告が原告林の違法行為として主張する事実中、(イ)の事実は認められず、同事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

4  原告中西の違法行為

(1) 被告の主張2の(一)の(4)の(イ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告中西は、四月一日午前一一時ころから組合員とともに教育庁に押しかけ、吉久教育長に対し同日発表された県立高校等新任校長人事につき抗議したこと、そのため同教育長は、同日午後一時から予定されていた辞令交付式に出席できず、同庁教職員課長補佐森下雄が同庁会議室で教育長に代わって新任校長に対し辞令を交付していたところ、原告中西は、右会議室に入り込み、森下に対し辞令交付を中止するよう要求するとともに、同人から辞令を入れた盆を取り上げ、さらに、同人を室外に押し出したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

後記三の3の(9)に認定のとおり。

(3) 同(ハ)の事実について

被告主張の事実を認めるに足りる証拠はない。

(4) 同(ニ)の事実について

後記三の3の(10)に認定のとおり。

(5) 同(ホ)の事実について

前記一の2の(3)に認定のとおり。

(6) 同(ヘ)の事実について

前記一の2の(4)に認定のとおり。

以上のとおりであるから、被告が原告中西の違法行為として主張する事実中、(ハ)の事実は認められず、同事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

5  原告上村の違法行為

(1) 被告の主張2の(一)の(5)の(イ)の事実について

後記三の8の(4)に認定のとおり。

(2) 同(ロ)の事実について

後記三の9の(8)に認定のとおり。

(3) 同(ハ)の事実について

後記三の1の(15)に認定のとおり。

(4) 同(ニ)の事実について

後記三の2の(9)に認定のとおり。

(5) 同(ホ)の事実について

後記三の2の(12)に認定のとおり。

6  原告牧野の違法行為(被告の主張2の(一)の(6)の事実について)

後記三の4の(18)に認定のとおり。

7  原告露口の違法行為

(1) 被告の主張2の(一)の(7)の(イ)の事実について

後記三の11の(3)に認定のとおり。

(2) 同(ロ)の事実について

後記三の9の(7)に認定のとおり。

(3) 同(ハ)の事実について

後記三の11の(5)に認定のとおり。

8  原告平木の違法行為

(1) 被告の主張2の(一)の(8)の(イ)の事実について

後記三の7の(5)に認定のとおり。

(2) 同(ロ)の事実について

後記三の11の(6)に認定のとおり。

9  原告古賀の違法行為

(1) 被告の主張2の(一)の(9)の(イ)の事実について

後記三の2の(6)に認定のとおり。

(2) 同(ロ)の事実について

前記一の2の(3)に認定のとおり。

10  原告江口の違法行為

(1) 被告の主張2の(一)の(10)の(イ)の事実について

後記三の10の(3)に認定とおり。

(2) 同(ロ)の事実について

後記三の5の(5)に認定のとおり。

(3) 同(ハ)の事実について

後記三の5の(6)に認定のとおり。

(4) 同(ニ)の事実について

前記一の2の(3)に認定のとおり。

11  原告中村の違法行為(被告の主張2の(一)の(11)の事実について)

原告中村が、五月一一日の教育庁における被告主張の行動に参加していたことを認めるに足りる証拠はない。したがって、右事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

二  原告田村、同佐田、同福田の違法行為

1  被告の主張2の(二)の(1)について

(1) 原告田村、同佐田、同福田が本件当時被告主張の各学校の教頭の地位にあったことは、当事者間に争いがない。

(2) 昭和二二年三月三一日制定公布された学校教育法には、教頭職の規定がなかったが、昭和三二年一二月改正の同法施行規則により、「小学校においては、教頭を置くものとする。教頭は、校長を助け、校務を整理する。」との規定が設けられ(二二条の二)、高校等においても右規定が準用されることとなり(六五条、七三条の九)、これを受けて福岡県立学校管理規則にも、「学校には、教頭を置く。校長に事故があるときは、教頭がその職務を代行する。」との規定が設けられた(九条、一〇条)。(なお、その後昭和四九年六月学校教育法が改正され、教頭職は同法に規定されることとなった〔五〇条、七六条、二八条〕。)

そして、《証拠省略》によれば、福岡県においては昭和三六年度から教頭等に管理職手当が支給されるようになったことが認められ、さらに、ILO八七号条約の批准のため昭和四〇年五月地公法が改正され、「管理職員等と管理職員等以外の職員とは、同一の職員団体を組織することができない(五二条三項但書)。管理職員等の範囲は、人事委員会規則又は公平委員会規則で定める(同条四項)。」との規定が設けられ(なお、地公法の右条項を公立学校職員に適用するについては、教育公務員特例法二一条の四、三項により、国立学校の職員の例に準じ、人事委員会規則又は公平委員会規則で定めることとされている。)、右各規定に基づき昭和四一年九月一三日制定された福岡県人事委員会規則第一四号管理職員等の範囲を定める規則二条二項により、県立高校等の教頭、定時制主事、通信制主事はいずれも管理職員に指定され、右教頭、主事については、翌昭和四二年三月一五日から右規則が施行された。

以上のような本件当時の法の定め等に照らして考えると、教頭の法制上の地位は、管理者たる校長(校長については学校教育法制定当初から、「校長は、校務を掌り、所属職員を監督する。」との規定が設けられていた〔二八条三項、五一条、七六条〕。)の補助機関として管理事務に携わり、校長を補佐すべき地位にあったというべきである(福岡県における教頭職の実情等については後記第五の二で検討する。)。

2(1)  被告の主張2の(二)の(2)の(イ)の事実について

《証拠省略》、後記(2)に記載の本件闘争期間中に原告田村、同佐田、同福田の三名が本件闘争に関してなした各行為及び弁論の全趣旨によれば、右原告ら三名は、本件闘争期間中前記のような教頭の地位にあるものとしてなすべき自己の所属する各学校長に対する校務の報告や連絡等を全くなさなかったことが認められ、これに反する証拠はない。

(2) 被告の主張2の(二)の(2)の(ロ)の事実について

原告田村については、後記三の3の(3)、(5)、(7)、(9)、(10)、(11)、(12)、(13)、(14)、(15)に、原告佐田については、同1の(9)、(16)、(17)、(18)、(19)、(20)、(21)に、原告福田については、同2の(3)、(4)、(6)、(7)、(8)、(9)、(13)にそれぞれ判示のとおりである。

三  その余の原告らの違法行為

被告の主張2の(三)の冒頭に記載の事実は、当事者間に争いがない。

1  久留米聾学校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(1)の(イ)の事実について

原告佐々木、同緒方(信)が被告主張の高教組役職にあったこと、同原告らが被告主張の各指示を受け、そのころ各指示を所属組合員に伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、前記第二の三の2、3で認定の本件闘争における支部、分会の役割及び同原告らの組合役職に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき久留米聾学校長宮尾和夫に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告佐々木、同緒方(信)は、指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

《証拠省略》によれば、被告主張の事実が認められ(原告緒方(信)が分会員とともに被告主張のころ山門高校に行き、宮尾に対し分会員の連署した書面を渡したことは、当事者間に争いがない。)、これに反する証拠はない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月一〇日午前九時一〇分ころ、宮尾は、同日行われることになっていた入学式に出席するため久留米聾学校玄関前までタクシーで乗りつけ下車したところ、原告緒方(信)、同志鶴及び久留米支部執行委員山本義久が直ちに玄関前に駆けつけ、その後他の分会員や動員組合員も玄関付近に出て来て約二〇名位の組合員が玄関前廊下に立ち並び(以下このような形態の阻止行動を「ピケ」という。)、主に原告志鶴や前記山本が中心となって宮尾に対し、「登校してもらっては困る。宮尾の前任校の山門高校に帰ってくれ。」等と発言し、宮尾の入校を阻止する姿勢を示したこと、原告緒方(信)は、前記のように玄関前まで駆けつけた後一旦職員室まで引き返して分会員に宮尾が登校したことを知らせ再び玄関前に赴いたこと、宮尾は、右のような状況から入校を断念し、「佐田教頭に今日の入学式をお願いすると伝えてほしい。」旨言って午前九時三〇分ころ帰ったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告佐々木は、四月一〇日午後一時ころ外四名の分会員を伴って久留米市内の宮尾校長宅を訪れ、同一時四〇分ころまでの間同人に対し、問題解決まで登校しないよう要求したことが認められ、これに反する証拠はない。

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、高教組は、着任拒否の対象となっている校長名を原則として職務上使用させないとの方針をとっていたことから、四月二〇日に支払われる四月分給料についても、各学校の事務長代決で支給手続がなされるよう支部、分会に指示し、これに基づき原告緒方(信)ら外数十名の分会員は、四月一九日午後六時ころから久留米聾学校において同校の江崎事務長に対し事務長代決で給料を支給するよう要求したが、同人がこれに応じなかったため、原告緒方(信)らは、なお事務長との折衝を続けながら、他方、明善高校での集会に出席中の支部役員である原告佐々木、同福成に連絡して右件で宮尾と折衝するよう要請し、同原告らは、外四名の分会員を伴って同日午後八時ころ宮尾方を訪れ、同人に対し事務長の代決を認めるよう要求したこと、宮尾は、右原告らの要求を受けている最中に、久留米聾学校の女性事務員から「事務長がつるしあげられて困っている。」旨の連絡を受けたこともあって、同日午後九時過ぎころやむなく事務長代決を認めることとし、その旨原告佐々木らに告げるとともに、事務長に電話で事務長代決で給料を支給するよう伝えたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、宮尾は、四月二〇日予め分会長に登校する旨の連絡をした後同日午前一〇時ころタクシーで同校正門前まで乗りつけ下車したこと、そのころ正門前には宮尾の入校を阻止するため原告佐々木を先頭に動員組合員も含め約二〇名位の組合員がピケを張り、同原告が宮尾に対し、「入校は駄目です。」と言ったため、宮尾は、入校を断念してほどなく再び乗って来たタクシーに乗車して帰ったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(7) 同(ト)の事実について

《証拠省略》によれば、前記(6)と同様宮尾は、四月二四日午前一〇時ころ登校したが、原告緒方(信)を先頭にした組合員に右同様に入校を阻止されたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、宮尾は、四月二七日午前一〇時ころ登校したが、同校玄関前に原告佐々木、同福成を先頭に組合員約一五名がピケを張り、宮尾に対し、「学校に来るな。もとの学校に帰って授業しろ。県教委と高教組との話合いが実現するよう努力せよ。」等と言って入校を阻止したため、ほどなく宮尾は、入校をあきらめて帰ったことが認められ、右認定に反する証拠はない。

ところで、被告は、右の入校阻止行動に原告緒方(信)も参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、四月二七日には大分県杵築市で原告緒方(信)の義妹の結婚式が行われ、同原告は、同日は年休をとって午前五時ころ自宅を出て杵築市に赴き右義妹の結婚式に出席した後、同夜は別府市内に宿泊したことがうかがえる。したがって、原告緒方(信)が同日の校長入校阻止行動に参加していたとの被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に被告の右主張を認めるに足りる証拠はない。

(9) 同(リ)の事実について

《証拠省略》によれば、五月一日ころ久留米聾学校教職員一同の名義で、「校長の不在について」と題する書面が同校の父兄に配布されたこと(この事実については当事者間に争いがない。)、右書面には、主として高教組が校長着任阻止行動を行っている理由及び闘争により授業その他の校務運営には支障を生じていないことが記載され、同書面が高教組の立場から本件闘争の正当性を主張する色彩の強いものとなっていること、右書面の作成、配布については、原告佐田も右文案の原稿に手を入れる等して関与したことが認められる。《証拠判断省略》

(10) 同(ヌ)の事実について

被告の主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、五月一日原告佐々木らが宮尾方を訪れた際、翌二日は久留米聾学校では小学部及び中学部のスケッチ会が行われる旨話したところ、宮尾は同原告らに二日は登校しない旨述べ、現に二日には宮尾が登校していないことがうかがえるから、被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に五月二日に宮尾が登校したことを認めるに足りる証拠はない。

(11) 同(ル)の事実について

《証拠省略》によれば、五月三日午後一時ころ、原告佐々木、同福成、同志鶴は、外二名の分会員を伴って宮尾校長宅を訪れ、同人に対し、「強行着任の業務命令は出ていないか。」と尋ねるとともに、登校しないよう約一時間にわたって要求したことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(12) 同(ヲ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告緒方(信)、同福成は、五月七日午前九時ころ宮尾校長宅を訪れ、同一〇時三〇分ころまでの間同校長に対し、「強行着任の業務命令は出ていないか。」と尋ねるとともに、事態の変化があったら連絡するよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(13) 同(ワ)の事実について

《証拠省略》によれば、五月八日午前八時三〇分ころ、宮尾は、同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員森重政夫外二名とともに登校し玄関内に入ったこと、宮尾らの姿を認めた組合員が直ちに玄関に駆けつけて宮尾を玄関外に押し出すとともに、原告佐々木、同緒方(信)、同福成、同志鶴らが先頭に立ってピケを張り、さらに、スクラムを組んで宮尾の入校を阻止したこと、その後も宮尾や同行の教育庁職員が入校させるよう要請したが、組合員らがこれに応じなかったため、宮尾らは、午後一時三〇分ころ入校を断念して帰ったこと、原告前田(旧姓「倉田」)は、宮尾が登校したころから約一時間玄関近くの廊下に立ち並んで同日の入校阻止行動に参加したが、その後は担当の幼稚部の幼児に母の日のため作らせるカーネイションの造花造りの準備に従事し、阻止行動には参加しなかったことが認められる。《証拠判断省略》

(14) 同(カ)の事実について

《証拠省略》によれば、宮尾は、五月九日午前七時三〇分ころ前日と同様教育庁職員三名を同行して登校したが、前日と同様原告佐々木、同緒方(信)、同福成、同志鶴が先頭になって組合員二、三〇名が玄関前にピケを張って宮尾らの入校を阻止し、その後もピケ人員は漸次増加したこと、そのため宮尾らは、午前一一時三〇分ころ入校を断念して帰ったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、被告は、原告前田が右五月九日の阻止行動に参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、原告前田は、四月一日から久留米聾学校幼稚部三歳児学級の担任となり、その促育日が月、火、木、金曜日となっていたため、右保育日には担当学級の幼児から手を放せず、かつ、同原告は、その当時分会役員でも分会闘争委員でもなかったため、五月九日(当日は木曜日)の阻止行動には参加しなかったことがうかがえる。したがって、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に被告の主張を認めるに足りる証拠はない。

(15) 同(ヨ)の事実について

《証拠省略》によれば、宮尾は、五月一〇日午前一〇時三〇分ころ教育庁職員四名を同行して登校したが、原告佐々木、同緒方(信)、同福成、同志鶴及び高教組本部役員の原告上村らが先頭に立ち、組合員約八〇名がピケを張って宮尾らの入校を阻止したため、同人らは、同日午後一二時三〇分ころ入校を断念して帰ったことが認められる。《証拠判断省略》

ところで、被告は、五月一〇日の右阻止行動に原告前田が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、五月一〇日は金曜日で保育日であったため、前記(14)に判示と同様の事情により原告前田は、同日の阻止行動に参加しなかったことがうかがえるから、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に被告の右主張を認めるに足りる証拠はない。

(16) 同(タ)の事実について

《証拠省略》によれば、宮尾は、五月一一日午前八時三〇分ころ教育庁職員四名とともに登校して入校しようとしたが、原告佐々木、同緒方(信)、同福成、同志鶴らが先頭に立って組合員ら約八〇名が玄関前でピケを張り、スクラムを組んで座り込む等して宮尾の入校を阻止したこと、その際、原告前田も右ピケの後部に位置してスクラムを組み座り込む等して右阻止行動に参加していたこと、宮尾は、ピケ隊に対し退去を命じたが、組合員らがこれに応じようとしないため、警察官の出動を要請し、警官隊が右ピケを排除して宮尾らは、午前一一時四〇分ころ校長室に入ったこと、校長室には原告緒方(信)をはじめとする多数の組合員が押しかけ、宮尾の当日の着任行動に対し抗議するとともに交渉を要求したが、宮尾らは、午後零時三〇分ころ下校したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、被告は、宮尾が校長室に入った後、事務職員を介して原告佐田に対し校長室に来るよう命じたが、同原告は、宮尾が下校するまで出頭しなかった旨主張する。しかし、《証拠省略》によれば、原告佐田は、久留米聾学校寄宿舎の修理見積報告書を作成するため、同日午前九時ころから江崎事務長と寄宿舎に行き右作業に従事していたこと、宮尾は、校長室に入室した後同校の下村事務官に原告佐田及び江崎事務長を呼んで来るよう命じたので、下村が寄宿舎に赴いて右両名にその旨伝えたこと、下村の連絡を受けて同原告及び江崎は、一緒に校長室に赴いたが、校長室と寄宿舎との間は徒歩で四、五分を要する距離にあることもあって、原告佐田及び江崎が校長室に着いた時には、既に宮尾は下校していたことがうかがえて、原告佐田が宮尾の指示を無視して故意に校長室に出頭しなかったことを認めるに足りる証拠はない。

(17) 同(レ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告佐田は、五月一二日午前一〇時ころ吉村薫(当時三潴高校教頭)とともに宮尾宅を訪れ、同人に対し、「警官導入で分会は硬化しているから、病気ということにでもして暫く学校に来ない方がよい。」と言って登校しないよう勧めたことが認められる。しかし、《証拠省略》によれば、原告佐田は、国学院大学の出身であり、宮尾も同大学の出身者であることから、警官導入後の事態解決のため、大学の同窓生としての個人的立場から同大学の先輩である吉村薫に相談のうえ、宮尾方を訪れたものであり、原告佐田の同日の行動は、分会の指示を受けたり、本件闘争を支援する目的でなされたものではないことがうかがえる。したがって、原告佐田の右行為が非違行為に該当するものということはできない。

(18) 同(ソ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告佐田は、五月一三日宮尾の自宅に、「強行着任に抗議するとともに新任校長一二名同時に病気入院ということにしてでも問題解決への糸口を作り、今後の強行着任は見合わせるよう」記載した葉書を送付したことが認められ、右認定に反する証拠はない。もっとも、右葉書を送付するに至った事情として、同原告本人尋問の結果によれば、宮尾の強行着任に抗議するため、分会において各分会員が宮尾に対し抗議の葉書を出すことが決められ、これに基づいて原告佐田も前記抗議の葉書を書いたものであることがうかがえる。

(19) 同(ツ)の事実について

《証拠省略》によれば、宮尾は、五月一六日午前八時三〇分ころ登校したが、原告佐々木、同緒方(信)、同志鶴らが先頭に立ち組合員約二〇名がピケを張って、同一〇時一〇分ころまでの間宮尾に対し、「警官を導入したような校長は、教育者たる資格なし。学校に来るな。」等と言って強行着任に抗議するとともに、「校内で話合いに応ぜよ。」と要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、被告は、右阻止行動に原告佐田、同福成、同前田が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。

しかし、原告佐田については、《証拠省略》によれば、原告佐田は、本件闘争期間中ピケに参加したことは一度もなかったこと、五月一六日宮尾が登校して前記認定のように組合員らと対峙していた際、原告佐田も暫く玄関付近に立って宮尾と組合員とのやりとりを眺めていたが、同原告は、原告緒方(信)に他の用件で話をしようとして玄関付近にいたもので前記ピケに参加する意思はなく、かつ、原告佐田のいた位置も宮尾や組合員らが話していた場所から五、六メートル離れていたことがうかがえる。また、原告福成については、《証拠省略》によれば、五月一六日には原告福成は、勤務校である三井高校で一時限目(午前九時一〇分開始)から三時限目まで授業があり、そのため同日午前中は久留米聾学校には行っていないことがうかがえる。さらに、原告前田については、《証拠省略》によれば、原告前田は、久留米聾学校小学部の修学旅行の引率者として、五月一六日午前七時半過ぎに西海橋、長崎、雲仙めぐりの旅行に出発したこと、したがって、同日の阻止行動に参加する可能性はなかったことがうかがえる。

右判示の事情に照らし、原告佐田、同福成及び同前田が五月一六日の宮尾に対する入校阻止行動に参加したとの被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に被告の右主張を認めるに足りる証拠はない。

(20) 同(ネ)の事実について

被告の主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、(イ)右書証記載の事実及び右証言内容は訴外渕上晶一から宮尾が伝聞した事実であること、(ロ)《証拠省略》によれば、五月二九日には北村謙一は南筑高校に登校したことはなく、同人の自宅には当時電話が設置されていなかったこと、及び北村と原告佐田とは全く面識がないことがうかがえること、以上判示の事情に《証拠省略》を考え合わせると、被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に被告の主張を認めるに足りる証拠はない。

(21) 同(ナ)の事実について

被告主張のころその主張の各文書が学校宛に送付され、原告佐田が四月二三日開催の九州地区聾学校長会に出席したことは、当事者間に争いがない。そして、その余の被告の主張事実に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、昭和四三年度は久留米聾学校が九州地区聾教育研究会の当番校に予定されており、原告佐田は、当時の九州地区聾学校研究会々長であった佐賀聾学校の木村校長から、九州地区聾学校長会において右研究会の開催が可能かどうかを検討したいので同校長会に出席して事情を説明するよう求められたため、同原告は、四月二三日右校長会の会場に行き、正規の校長会が始まる前に同校長会のメンバーに久留米聾学校の事情を説明し、説明終了後直ちに引き上げたものであり、同原告が右校長会に出席したことをもって問責されるべき筋合いにはないこと、本件闘争期間中の久留米聾学校長宛の公文書はすべて事務長が取り扱っており、原告佐田が右文書をことさら隠匿、保管したことはないことがうかがえる。したがって、被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に被告の主張を認めるに足りる証拠はない。

(22) 同(ラ)の事実について

《証拠省略》によれば、宮尾は、五月二〇日午前九時過ぎ、同月二三日午前九時ころ、五月二九日午前九時ころ、六月一日午前八時四五分ころ、同月五日午前八時五〇分ころ、同月七日午前九時ころそれぞれ登校したが、五月二〇日には原告緒方(信)、同福成が、同月二三日には原告佐々木、同緒方(信)が、同月二九日には原告佐々木、同緒方(信)、同福成及び同志鶴が、六月一日には原告緒方(信)が、同月五日には原告佐々木、同緒方(信)が、同月七日には原告佐々木が、いずれも約二〇名前後の組合員からなるピケ隊の先頭に立って同校正門付近又は玄関前にピケを張って宮尾の入校を阻止する姿勢を示したため、宮尾は短い時で一〇分位、長い時で三〇分位同所にいた後帰ったことが認められ、右認定に反する証拠はない。

被告は、右のほか五月一七日にも原告緒方(信)、同福成がピケ隊の先頭に立って宮尾の入校を阻止した旨主張するが、右被告の主張を認めるに足りる証拠はない。かえって、《証拠省略》によれば、宮尾は、五月一七日午前九時ころ登校したが、原告緒方(信)が宮尾登校の連絡を受けて玄関に出た時には既に宮尾は帰ってしまっていたこと、また、原告福成は、同日には勤務校である三井高校で一時限目及び三時限目に授業があってこれに従事していたため、宮尾が登校したころ久留米聾学校には行っていないことがうかがえる。

以上のとおりであるから、被告が久留米聾学校関係の処分事由として主張する事実中、(チ)のうち原告緒方(信)、(カ)及び(ヨ)のうち原告前田、(タ)のうち原告佐田、(ツ)のうち原告佐田、同福成、同前田、(ネ)及び(ナ)のうち原告佐田、(ラ)のうち五月一七日の原告緒方(信)、同福成の各行為については、被告主張の各事実が認められず、右事実及び(レ)の原告佐田の行為は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ないものであを。

2  水産高校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(2)の(イ)の事実について

原告綱脇、同松濤が被告主張の高教組役職にあったこと、同原告らが被告主張の各指示を受け、原告松濤が、そのころ各指示を所属分会員に伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、《証拠省略》によれば、原告綱脇は、四月一日高教組本部に招集された支部長会議には他の所用のため出席できなかったが、翌二日右会議に出席した原告松濤からその報告を受け、以後本件闘争期間中支部長として本件闘争に関与したことが認められ、これに反する証拠はない。以上の事実及び本件闘争における支部、分会の役割に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき水産高校長藤幸人に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告綱脇、同松濤は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告綱濤、同松濤は、被告主張の日時、場所において、藤に対し水産高校分会員の署名した校長着任拒否決議書を手交し、原告綱脇が、「アメリカがベトナムで強行してもうまくいかないのと同様、水産高校には専門的なものがあるから、先生方の協力を得られないと校長は勤まらない。」と述べる等して、右原告ら両名において、着任拒否闘争が終るまで登校しないよう申し入れたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、同人の前任校である筑紫中央高校の黒岩校長に伴われて四月二〇日午前七時三〇分ころ登校し、校長室において四月分給与支出命令書、その他の案件について決裁をしていたところ、原告後藤外二名の分会員が、右事実を知って校長室に赴き、藤に対し早朝の登校に抗議するとともに退去を要求したこと、藤が校長室を退去して帰ろうとしていたところ、組合員から話合いをしたいので待つように言われ、藤は、暫く同校正門付近内側の養魚池の傍で待たされ、午前八時三〇分過ぎ原告綱脇から校外の同校寄宿舎食堂で話合いをするよう求められ同寄宿舎に赴いたこと、同寄宿舎には原告綱脇のほか、原告松濤、同岡松、同力丸、同緒方(紀)ら組合員約四〇名が詰めかけ、同日午前一一時三〇分ころまでの間右原告らが中心となって藤に対し、同人が事前の連絡なしに早朝に登校したこと及び四月分給与の支出命令書に押印したことに抗議し、このため藤は、やむなく同人の押印した給与支出命令書を破棄したこと、右抗議の場には原告福田も出席し、同原告は、「今まで学校に寄りつきもせずに早朝こっそりやって来て印をつくとは何事か。校長の資格はない。毎日でも登校して誠意を示せ。」と発言したことが認められる。《証拠判断省略》

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、四月二四日午前一一時ころ登校したこと、分会では筑紫中央高校の外戸口分会長から藤が登校する旨の連絡を受けていたため、藤が登校した際、原告松濤、同力丸、同岡松、同福田ら組合員約二〇名が正門の内側にピケを張って藤の入校を阻止する態度を示したこと、このため藤は、入校を断念し、正門前で事務長から給料を受け取って間もなくして帰ったことが認められる。《証拠判断省略》

ところで、被告は、右阻止行動に原告綱脇が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、四月二四日には午前一〇時四〇分から福岡市内の教育会館で高教組評議員会が開かれ、原告綱脇は同評議員会に出席したため、同日は登校しなかったことがうかがえる。したがって、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、四月二七日午前一一時ころ登校したが、前記(4)と同様の方法により原告綱脇、同松濤を先頭にした組合員に入校を阻止されたことが認められ、これに反する証拠はない。

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、五月八日午前八時三〇分ころ、同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員四宮勇外二名とともに登校したが、原告綱脇、同松濤、同後藤、同岡松、同力丸、同緒方(紀)、同福田及び高教組本部役員の原告古賀ら組合員約八〇名がピケを張り、藤らに対し、「県教委と組合との話合いにより解決するまでは中に入れるわけにはいかない。帰れ。」等と言って入校を阻止し、そのため藤らは、同日午後一時三〇分ころ入校を断念して帰ったこと、同校では同日午前中PTA役員会が開かれ、原告福田は、同役員会にも出席したため、校内付近に出て来たり校舎内に入ったりしていたことが認められる。《証拠判断省略》

(7) 同(ト)の事実について

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

藤は、県教育庁職員三名を同行して五月九日午前四時四五分ころ登校し、正門を通って校舎本館玄関付近まで赴いた。同所で藤に同行していた教育庁職員四宮外一名が待機していたところ、中にいた組合員が玄関の扉の錠を開けたので、四宮らが中に入ろうとしてこれを阻止しようとする組合員五、六名と玄関の扉をはさんで押し合いとなり、その際、四宮は、扉にはさまれて左手小指骨折の傷害を負った。その後原告綱脇、同松濤は、藤とともに校舎本館と講堂をつなぐ渡り廊下付近に行き、同所で藤に対し早朝の登校に抗議するとともに、問題が解決するまで登校しないよう要求したが、右抗議の場には原告力丸、同後藤、同岡松ら組合員三〇名位が次々に集まって藤を取り囲み、右原告らが中心となって同人に対し校外に退去して校長住宅で話合いをするよう要求し、藤は、組合員に取り囲まれながら次第に後退し、午前六時ころ正門外に出された。藤が門外に出た後、さらに、原告福田及びそのころ来校した高教組執行委員長原告待鳥も加わって正門付近にピケを張って藤の入校を阻止した。その後間もなく原告松濤、同緒方(紀)、同待鳥は、藤を伴って同校から約一キロメートル離れた校長住宅に赴き(その途中原告待鳥は他の組合員に呼ばれて引き返した。)、午前八時ころまで同住宅で原告松濤、同緒方(紀)は、藤に対し着任行動に抗議するとともに、高教組と被告との話合いにより早く事態を解決するため被告に働きかけるよう要求した。

同日午後四時四五分ころ前記四宮の負傷事件に関する現場検証を行うため、宗像警察署警察官が同校に赴き、藤に対し立会いを求めたが、原告松濤、同後藤、同緒方(紀)ら数十名の組合員が、正門付近にピケを張って藤が検証の立会いのため入校することに反対し、そのため藤は、検証に立ち会うことを断念し、正門付近にいた原告福田に対し校長に代わって立ち会うよう求めた。検証が終わるまでの間、原告松濤、同緒方(紀)、及び後藤は、同校正門から約一〇〇メートル離れた新海菓子店に藤を連れて行き、同所で待機していた。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、五月一〇日午前一〇時ころ教育庁職員四名を同行して登校したが、原告松濤、同綱脇、同後藤、同岡松、同力丸らが先頭になって組合員約五〇名が正門内側にピケを張り、「校長帰れ。県教委が組合と話し合うよう言って来い。」等と言って藤の入校を阻止したため、同人は、二〇分ほど経って入校を断念したこと、原告福田も右ピケに加わっていたことが認められる。《証拠判断省略》

ところで、被告は、右の入校阻止行動に原告緒方(紀)も参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、原告緒方(紀)は五月一〇日には県教育庁で行われた高教組の教育長に対する交渉要求に動員され、同日午前中から教育庁に行っていたことがうかがえる。したがって、被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(9) 同(リ)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、五月一一日午前八時三〇分ころ県教育庁職員四名とともに登校したが、原告綱脇、同松濤、同後藤、同岡松、同力丸、同福田及び高教組本部役員原告上村らが先頭に立って組合員約八〇名が正門の内外にピケを張って藤の入校を阻止したこと、藤は、ピケ隊に対し退去を命じたが、組合員らがこれに応じようとしないため、警察官の出動を要請したこと、藤は、その後も数回校内に入ろうと試み、同日午後一二時五〇分ころ柵の切れ目から校内に入り、警官隊がピケ隊や玄関から校長室に通ずる廊下に座り込んでいる組合員を排除し、藤らは、午後一時一〇分ころ校長室に入り、出勤簿に捺印する等して同一時一五分に校長室を退去したこと、右紛争の最中の休み時間等に生徒が「校長帰れ。」等と言って騒いだが、多くの分会員らはこれを放任する態度をとっていたことが認められる。《証拠判断省略》

ところで、被告は、右阻止行動に原告緒方(紀)も参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、原告緒方(紀)は教育長に対する交渉要求のため前日の五月一〇日から高教組本部に動員され、右要求行動が徹夜となったため五月一一日は登校せず自宅で休んでいたことがうかがえる。したがって、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(10) 同(ヌ)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、五月一六日午前九時二〇分ころ登校したが、原告綱脇、同松濤、同岡松、同力丸及び同緒方(紀)らが先頭になって約二〇名位の組合員が、正門の内側にピケを張って藤の入校を阻止し、そのため藤は、一〇分ほどして入校を断念して引き上げたことが認められ、これに反する証拠はない。

(11) 同(ル)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、五月一七日午前九時四五分ころ登校したが、前記(10)と同様原告綱脇、松濤、同岡松が先頭になって約三〇名位の組合員が、正門の内側にピケを張って藤の入校を阻止したため、藤は、入校を断念して引き上げたことが認められ、これに反する証拠はない。

ところで、被告は、右阻止行動に原告岡松、同緒方(紀)が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、五月一七日午前一〇時から福岡高校で、高教組定期大会の議案説明会が開かれ、原告岡松及び同緒方(紀)は、右説明会に出席したため同日は登校しなかったことがうかがえる。したがって、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(12) 同(ヲ)の事実について

《証拠省略》によれば、五月二三日午後に県議会文教委員会が水産高校を視察することになっていたので、藤は、右視察に立ち会うため同日午後零時三〇分ころ登校したところ、原告上村、同綱脇、同松濤が、正門近くで藤を待ち受け、同人に同行を求めて学校正門から約一〇〇メートル離れた公園に行き、藤に対し警官導入につき抗議するとともに校長として受け入れられないので帰るよう求めたこと、さらに、同原告らは、原告松濤の運転する乗用車に藤を乗せて宮地嶽神社前の食堂に赴き、同所で藤に対し右と同旨の話をしたこと、午後一時五〇分ころ原告松濤が電話で文教委員の視察が終ったことを確かめ、同原告らは、藤との話を打ち切ったこと、右のような原告らの行為により結局藤は、同日の県議会文教委員会の視察に立ち会うことができなかったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(13) 同(ワ)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、五月三〇日午前一〇時ころ登校したが、前記(10)と同様原告岡松らが先頭になって組合員約二〇名が正門内側にピケを張って藤の入校を阻止したため、藤は、入校を断念して引き上げたこと、原告福田は、右ピケに参加し藤に対し、「県教委と高教組の話合いがついても校長の着任は生徒が認めないぞ。」等と叫んでいたことが認められる。《証拠判断省略》

ところで、被告は、右阻止行動に原告力丸及び同緒方(紀)が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、五月三〇日及び三一日は午前一〇時から福岡高校で高教組の定期大会が開かれ、右原告らは、同大会に出席したため登校しなかったことがうかがえる。したがって、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(14) 同(カ)の事実について

《証拠省略》によれば、藤は、五月二〇日午後二時三〇分ころ及び同月二七日午前一〇時ころそれぞれ登校したが、いずれも原告岡松、同力丸らがピケの先頭に立って、藤の入校を阻止したことが認められる。《証拠判断省略》

以上のとおりであるから、被告が水産高校関係の処分事由として主張する事実中、(ニ)のうち原告綱脇、(チ)及び(リ)のうち原告緒方(紀)、(ル)のうち原告岡松、同緒方(紀)、(ワ)のうち原告力丸、同緒方(紀)の各行為については、被告主張の各事実が認められず、右事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

3  北九州盲学校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(3)の(イ)の事実について

原告田中、同相部が、被告主張の高教組役職にあったこと、同原告らが被告主張の各指示を受け、原告相部がそのころ各指示を所属分会員に伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、本件闘争における支部、分会の役割及び右原告らの組合役職に原告相部開本人尋問の結果を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき北九州盲学校長勝間田敏男に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告田中、同相部は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告田中、同相部、同城戸(大)は、外五名の組合員を伴って四月五日午後二時ころ勝間田宅を訪れ、同人に対し着任を拒否する旨述べるとともに、高教組が被告との交渉を有利にするための材料として校長任命の辞令を右原告らに預けるよう要求したこと、勝間田は、当初同原告らの右要求を拒んでいたが、右原告らの要求に心理的に抗しきれず、午後六時ころ原告田中に右辞令を渡したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、被告主張の事実が認められる。《証拠判断省略》

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、被告主張の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、勝間田は、四月一五日午前八時三〇分ころ登校したが、同校々門付近において、原告相部、同城戸(大)、同高城らが先頭になって組合員約四〇名が三々五々立ち並び、「着任を拒否しているから帰って下さい。」等と言って勝間田の入校を阻止したこと、右阻止行動には原告田村も参加していたこと、勝間田は、二〇分ほどして入校を断念し帰ったことが認められる。《証拠判断省略》

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月一九日午後一〇時ころ原告田中、同相部、同城戸(大)外三名の分会員が勝間田宅を訪れ、同人に対し四月分の給料を事務長代決で支給するよう要求したが、同人は、これに応じようとしなかったこと、右原告らが勝間田に対し右要求を続けているうち、翌二〇日午前一時ころ木原八幡副支部長が右折衝の場に来て、松延八幡高校長が事務長代決で支給することを了承した旨伝えたため、勝間田もやむなく代決によることを認め、午前二時ころ電話で同校事務長家永英昇に対し、代決にするので明朝その書類を作成するように伝えたこと、同日朝原告相部、同城戸(大)は、登校後間もなく分会員一名とともに校内で家永に会い、前夜の勝間田との折衝による約束の履行を求め、家永は、右原告ら立会いのもとに既に四月一八日に勝間田が決裁して押印していた四月分給料の支払命令書を破棄したこと、さらに、同日午後五時ころ右原告両名及び分会員五名は、校内で家永に対し同人が右原告らに対して勝間田の右決裁を受けていたことに抗議したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(7) 同(ト)の事実について

被告の主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、右各証拠とも勝間田の入校を阻止した者の氏名については全く触れるところがないばかりでなく、《証拠省略》によれば、四月二〇日は同校では遠足が行われ、被告の主張する午前八時三〇分ころには多くの分会員や動員者が校内や校庭にいたにもかかわらず、誰も勝間田の姿を見たものはなく、同人は、四月二〇日には登校していないことがうかがえる。したがって、被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、被告主張の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(9) 同(リ)の事実について

《証拠省略》によれば、勝間田は、五月八日午前八時三〇分ころ、同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員山中茂雄外二名とともに登校したが、高教組書記長原告中西、原告相部らが先頭に立って、組合員約五〇名が校門付近にピケを張って勝間田らの入校を阻止したため、同人らは、正午ころ入校を断念して引き上げたこと、原告田村も右阻止行動に加わっていたことが認められる。《証拠判断省略》

(10) 同(ヌ)の事実について

《証拠省略》によれば、勝間田は、五月九日午前七時三〇分ころ前日と同様教育庁職員三名を同行して登校したが、校門付近において原告田中、同相部、同高城らが先頭に立って組合員約八〇名がピケを張って勝間田らの入校を阻止したこと、午前一〇時ころには原告中西も来校して右阻止行動を指導したこと、原告田村も同日の右阻止行動に参加していたこと、勝間田らは、午前一〇時三〇分ころ入校を断念して引き上げたこと、が認められる。《証拠判断省略》

(11) 同(ル)の事実について

《証拠省略》によれば、勝間田は、五月一〇日午前一〇時三〇分ころ教育庁職員四名を同行して登校したが、原告田中、同相部、同高城、同城戸(大)らが先頭に立って組合員約八〇名がピケを張ったり、スクラムを組んだりして勝間田らの入校を阻止したこと、原告田村も右阻止行動に参加しており、午前一一時ころ勝間田が話合いをするためピケの後方にいた同原告に対し、「田村先生、話があるので列外に出て下さい。」と呼びかけたが、同原告は、これに応じなかったこと、勝間田らは、午前一一時三〇分ころ入校を断念して引き上げたことが認められる。《証拠判断省略》

(12) 同(ヲ)の事実について

《証拠省略》によれば、勝間田は、五月一一日午前八時五〇分ころ教育庁職員四名とともに登校して入校しようとしたが、原告田中、同相部、同高城、同城戸(大)らが先頭に立って組合員約八〇名が校門付近においてピケを張り、スクラムを組んで勝間田の入校を阻止したこと、勝間田は、ピケ隊に対し退去し通路をあけるよう命じたが、組合員らがこれに応じようとしないため警察官の出動を要請し、警官隊が右ピケを排除して、勝間田らは、同日午後一時二〇分ころ、入校したこと、入校した勝間田らは、校長室に赴いたが施錠されていて入室できなかったため、事務室において出勤簿の押印等を行ったこと、入室後間もなくして原告田中、同相部、同城戸(大)ら組合員三〇名位が右事務室に押しかけ勝間田の同日の着任行動に対し強く抗議したこと、勝間田らは、午後一時三五分ころ引き上げたこと、同日の右校門付近におけるピケ、及び事務室での抗議行動には原告田村も参加していたこと、以上の事実が認められる。《証拠判断省略》

(13) 同(ワ)の事実について

《証拠省略》によれば、五月一一日午後五時三〇分ころ原告田中、同相部、同城戸(大)、同高城ら組合員十数名が勝間田宅に押しかけ、同人が不在であったため同人の妻に対し約三〇分間、「勝間田はどこに行ったか。今日の警官導入で腕をねじ折られるような思いをした。勝間田の腕をねじ折ってやる。」等と言って、同日の勝間田の着任行動に対し激しく抗議したことが認められる。《証拠判断省略》

ところで、被告は、右抗議行動に原告田村、同城戸(大)が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、被告の主張に副う右各証拠はいずれも勝間田が同人の妻から聞いた伝聞に基づくものであり、かつ、《証拠省略》によれば、本件当時勝間田の妻は原告田村と全く面識のなかったことがうかがえること、《証拠省略》によれば、原告城戸(大)は、同日昼間の勝間田の着任行動の際、事務室での抗議行動に参加中倒れ以後数日間入院していたことがうかがえること、以上の事情に《証拠省略》を合わせ考えると、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(14) 同(カ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告相部、同高城、同田村ら組合員十数名が、五月一三日午後五時三〇分ころ勝間田宅に押しかけ、約四〇分間同人に対し、「警官導入して着任するような人間は、校長も教員もやめろ。」等と言って、五月一一日の勝間田の着任行動に対し抗議したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、被告は、同日の右抗議行動に原告城戸(大)が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、前記(13)に判示のとおり原告城戸(大)は、五月一一日入院し、同月一三日もなお入院中で同日の右抗議行動には参加しなかったことがうかがえる。したがって、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(15) 同(ヨ)の事実について

《証拠省略》によれば、勝間田は、五月一六日午前八時三〇分ころ登校したが、校門付近において原告高城、同田村ら組合員約二〇名がピケを張って勝間田の入校を阻止したため、同人は、一〇分ほどして入校を断念して引き上げたことが認められる。《証拠判断省略》

(16) 同(タ)の事実について

被告主張の事実については、当事者間に争いがない。

以上のとおりであるから、被告が北九州盲学校関係の処分事由として主張する事実中、(ト)の原告田村、同相部、同城戸(大)、(ワ)のうち原告田村、同城戸(大)、(カ)のうち原告城戸(大)の各行為については、被告主張の各事実が認められず、右事実は本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

4  鞍手農業高校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(4)の(イ)の事実について

原告宮本、同佐藤が被告主張の各高教組役職にあったこと、同原告らが被告主張の各指示を受け、原告佐藤が右各指示を所属分会員に伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、本件闘争における支部、分会の役割及び右原告らの組合役職に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき鞍手農業高校長清水喜代人に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告宮本、同佐藤は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月四日午後四時ころ、原告佐藤、同牧、同大塚ら鞍手農業高校分会員数名は、清水の前任校である久留米農芸高校に赴き、同人に対し鞍手農業高校分会員の連署した校長着任拒否決議書を手渡すとともに着任を拒否する旨告げて帰ったこと、その後引続き原告平塚ら久留米農芸高校分会員らは、清水に対し約三〇分間にわたり校長辞任願を提出するよう強く求めたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、清水は、入学式を行うため四月八日午前八時ころ登校し一旦事務室に入ったが、これを見つけた分会員二、三名から退室するよう要求されたこと、そのころ登校した原告宮本、同佐藤は、数名の組合員とともに同校玄関付近において清水に対し、「非推薦の校長だから受け入れるわけにいかない。直ぐに帰ってもらいたい。」等と述べて、清水が校内に入って業務を行うことを阻止する姿勢を示したため、同人は、間もなく同日の入学式をみずから行うことを断念して引き上げたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告宮本、同佐藤、同牧、同大塚は、四月一〇日から同月二〇日までの間連日清水宅に電話をかけ、同人に対し登校しないよう要求したことが認められる。《証拠判断省略》

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告平塚は、久留米農芸高校分会員五名とともに四月一三日午後二時ころ清水宅を訪れ、同人に対し、校長任命の辞令を返上するよう要求したこと、その際、清水が辞令を紛失した旨述べたところ、原告平塚及び右分会員らは、清水に対し一筆書くよう要求し、清水は、「辞令を紛失いたしましたので、原本が見つかり次第返上いたします。」と書いた書面を右原告らに渡したことが認められる。《証拠判断省略》

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月一五日は清水の入校を阻止するため原告宮本外組合員約四〇名位が、鞍手農業高校に待機していたこと、清水は、登校するため同日午前一一時ころ若宮町脇田バス停まで赴いたが、同所から同校付近に住む田中黒木高校長及び小森鞍手農業高校教頭らに電話して鞍手農業高校における右のような阻止体制を聞き、入校は困難と判断して引き返したことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(7) 同(ト)の事実について

被告主張の事実は、当事者間に争いがない。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月二〇日午後八時ころ久留米農芸高校分会員六名が、清水宅を訪れ同人に対し、久留米農芸高校に帰って授業すること、及び校長任命の辞令を返上すること等を要求するとともに、辞令紛失届を書かせたことが認められる。しかし、右行動に原告平塚が参加していたこと、及び右分会員らの行動が原告平塚の指示によるものであることを認めるに足りる証拠はない。

(9) 同(リ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月二〇日朝清水の妻から原告佐藤に、「今日主人が登校する。」旨の電話連絡があったため、清水の登校を阻止すべく、バス停や国鉄の駅等にそれぞれ数名の組合員が待機していたこと、清水が乗ったバスが、午前一〇時過ぎ鞍手農業高校に最も近いバス停より手前の国鉄宮田バス停に着いたところ、同バス停に待機していた組合員四名が外からバスの窓をたたく等して清水に降りるよう求め、下車した同人を同行して同バス停近くの後藤石油スタンド裏の空地へ行ったこと、同所には右組合員からの連絡により原告宮本、同佐藤ら十数名も駆けつけ、同所で約一時間にわたり清水に対し、「なぜ登校したのか。学校では皆が校長の着任に反対しており、登校すると混乱するからこの場から帰ってほしい。」等と言って登校しないよう要求したため、やむなく同人は、登校を断念して帰ったことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(10) 同(ヌ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月二三日、原告平塚は、三名の組合員とともに清水宅を訪れ、同人が不在であったため同人の家族に対し、「もとの職場に帰り授業をするよう伝えてほしい。万一実行されない場合は、組合員の中には相当いきりたっている者もいるので、そのあたりのことを十分考えてほしい。」等と言ったことが認められる。《証拠判断省略》

(11) 同(ル)の事実について

《証拠省略》によれば、清水は、登校のためバスに乗車して四月二四日午前一〇時過ぎ国鉄宮田バス停まで来たところ、同バス停で待機していた組合員五名がバスの窓をたたく等して清水に降りるよう求めたが、清水は、これを拒否する態度を示したこと、清水に下車を求めるべく組合員が停車中のバスに乗り込んで来たため、やむなく清水も同バス停で下車したこと、組合員らは前記後藤石油スタンド横の空家に清水を同行し、同所に原告牧をはじめ三〇名位の組合員が集まり、同所で清水に対し約二時間半にわたり登校しないよう要求し、そのため清水は、登校を断念して帰ったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(12) 同(ヲ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告平塚は、分会員五名とともに四月二六日正午ころ久留米農芸高校農場管理室において清水に対し、辞令を返上すること及び前任校である久留米農芸高校に出勤して授業をするよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(13) 同(ワ)の事実について

《証拠省略》によれば、前記(9)及び(11)と同様四月二七日午前一〇時過ぎ清水の乗車したバスが国鉄宮田バス停に着いたところ、同バス停で待機していた組合員らが清水に降りるよう合図し、下車した清水を同所付近にある花田鞍手農業高校教諭宅二階に同行したこと、同所に原告宮本、同牧、同大塚ら組合員十数名が集まり、前夜来体調が悪く食事も満足にとることができない状態にあった清水に対し、約三時間三〇分にわたって登校しないよう要求し、そのため同人は、登校を断念して帰ったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(14) 同(カ)の事実について

《証拠省略》によれば、清水は、五月二日午前九時過ぎ、タクシーで直方駅を経由して登校したこと、同日は清水の登校を阻止すべく原告宮本らの指揮により、国鉄直方駅やバス停に見張員として組合員が配置され、さらに校内には玄関付近を中心に約三〇名の組合員が待機していたこと、清水は、右のような状況を見て入校は困難と判断し、タクシーを下車することなくそのまま入校を断念して帰ったことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(15) 同(ヨ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告佐々木、同福成、同平塚は、組合員二名とともに五月三日午前七時ころ清水宅を訪れ、同人に対し、「県教委から強行着任せよとの指示はないか。強行着任が行われる場合は連絡せよ。」と言って強行着任に関する情報の提供を要求するとともに、翌四日午前一〇時三〇分までに高教組本部に出頭するよう求めたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(16) 同(タ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告平塚は、五月四日清水宅に電話し、同人不在のため電話に出た同人の妻に対し、「清水はなぜ本日高教組本部に出頭しなかったのか。」と追及したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(17) 同(レ)の事実について

《証拠省略》によれば、五月六日正午ころ、原告平塚は、組合員五、六名とともに清水が十二指腸潰瘍の治療のため出向いていた久留米市内の肥川病院に赴き、同人に対し五月四日に高教組本部に出頭しなかった理由を問い質すとともに、着任命令が出ても登校しないよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(18) 同(ソ)の事実について

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

清水は、五月八日午前八時三〇分ころ、同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員田中終治外二名とともに登校したが、正門付近には原告牧野、同宮本、同佐藤、同牧、同大塚らが先頭に立って他労組を含む組合員約一二〇名がピケを張っていた。清水は、同行の教育庁職員やその場に来合わせていた同校PTA役員らの援助を受けて入校しようとしたが、右原告ら及び組合員は、スクラムを組む等してこれを阻止し、その際、清水は、双方のもみ合いにより眼鏡を失ったり、清水と教育庁職員やPTA役員とを切り離そうとする組合員らの行動により身体各部を強打された。約三〇分ほどして右原告ら及び組合員数十名は、清水を付近の路地へ連れ込んで同人を取り囲み、同人に対し、「なぜ登校したのか。来るなら一人で来い。」等と言って約一時間三〇分にわたり同人の同日の着任行動に激しく抗議した。その後清水は組合員から同付近の路上に停車中のタクシーに押し込まれ、清水を帰すため原告牧野、同佐藤、同牧が右タクシーに同乗して福岡市まで赴き、同市内で清水を下車させたが、途中車内で同乗の右原告らは、清水に対し校長を辞任して久留米農芸高校に帰って教壇に立つよう要求した。そして、同夜原告大塚は、二回にわたり清水宅に電話し、同人が不在であったため同人の妻に対し、「明日警官導入という話を聞いたが、警官導入したら最後だと覚悟しておいてもらいたい。生徒も皆自分達についているから、そういうことになれば黙ってはいない。」等と述べて、清水が強行着任しないよう要求した。

《証拠判断省略》

ところで、被告は、五月八日夜に原告宮本も清水宅に脅迫的内容の電話をした旨主張するが、これを認めるに足りる証拠はなく、かえって、《証拠省略》によれば、原告宮本は、同夜清水宅に電話したことはなく、かつ、誰かに電話するよう指示したこともないことがうかがえる。

(19) 同(ツ)の事実について

被告の主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、原告平塚は、鞍手農業高校分会から清水が入院したとの情報が入ったから確かめてほしいとの連絡を受け、五月一〇日清水宅に行き家人に入院の有無を確かめたことはあるものの、翌一一日に分会員をして清水に面会を申し込ませたり監視させたりしたことはないことがうかがえるから、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(20) 同(ネ)の事実について

《証拠省略》によれば、五月一六日鞍手農業高校の安永事務長が、清水の決裁を受けるため同人の入院先の久留米市内の肥川病院に赴いた際、原告佐藤、同大塚が同行したことは認められるが、しかし、その際、右原告らに被告主張のような非違行為があったことを認めるに足りる証拠はない。

以上のとおりであるから、被告が鞍手農業高校関係の処分事由として主張する事実中、(チ)の原告平塚、(ソ)のうち原告宮本(但し後段の電話の件のみ)、(ツ)の原告平塚、(ネ)の原告佐藤、同大塚の各行為については、被告主張の各事実が認められず、右事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

5  大川工業高校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(5)の(イ)の事実について

原告中村、同星野が被告主張の高教組役職にあったこと、同原告らが被告主張の各指示を受け、原告星野がそのころ各指示を所属組合員に伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、本件闘争における支部、分会の役割及び《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき大川工業高校長紫田正寛に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告中村、同星野は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告鬼塚、同星野は、組合員二名とともに四月四日午後二時ころ、柴田の前任校である香椎工業高校々長室において、柴田に対し被告主張の文書を手渡すとともに、着任しないよう要求したことが認められる。《証拠判断省略》

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、柴田は、四月二〇日午前九時三〇分ころ登校したが、原告中村、同鬼塚、同緒方(昭)、同星野らが先頭に立って組合員約三〇名が、大川工業高校正門付近にピケを張って柴田の入校を阻止し、さらに、同所から約一キロメートル離れた大川高校作法室へ行って話合いに応ずるよう求め、右作法室に右原告らを含む組合員三〇名位が集まって、正午ころまでの間柴田に対し、同日の着任行動につき抗議したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、柴田は、四月二四日午前一〇時ころ登校するため大川工業高校正門手前約三〇メートルの地点にあるガソリンスタンド付近まで赴いたが、正門付近でピケを張っていた組合員が登校して来る右柴田の姿を認め数名が右ガソリンスタンド付近で柴田を押し止め、同人に対し大川高校作法室で話し合うよう要求したので、同人もやむなくこれを了承し右作法室に行ったこと、同所では原告中村、同鬼塚、同緒方(昭)らが主となって組合員約三〇名が、午後零時三〇分ころまで約二時間にわたり、柴田に対し同人の着任行動につき抗議したことが認められ。右認定を覆すに足りる証拠はない。

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、柴田は、五月八日午前八時二〇分ころ、同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員森下雄外二名とともに登校したが、そのころ大川工業高校正門付近には原告中村、同鬼塚、同緒方(昭)、同星野らが先頭に立って組合員約二五名がピケを張っていたこと、約五分間ほど正門前で押問答した後、柴田は、右組合員らから同校敷地内にある同窓会館に誘導されたこと、同所に組合員約五〇名が集まり、前記原告らのほかそのころ来校した高教組本部執行委員の原告江口らが主となって、約二時間にわたり柴田に対し、同日の着任行動につき抗議したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、柴田は、五月九日午前八時三〇分ころ登校のため西鉄大川バス停で下車したこと、同付近で待機していた組合員二名が柴田に話合いをするよう要求し、大川小学校敷地内にある福岡県教職員組合大川支部事務所に同行し、原告江口、同中村、同星野らも加わり、柴田に対し約一時間半にわたり、同人の着任行動に抗議するとともに登校しないよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(7) 同(ト)の事実について

《証拠省略》によれば、柴田は、五月一五日午前一〇時ころ登校のため西鉄大川バス停で下車したところ、同バス停付近で待機していた原告星野外二名の組合員に話合いをするよう要求され、大川高校会議室に赴いたこと、同所には右原告星野のほか、原告中村、同鬼塚、同緒方(昭)ら組合員約二〇名が集まり、柴田に対し約二時間にわたり、「県教委と高教組との話合いが実現するよう努力せよ。その話合いが実現するまでは登校するな。」等と要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、柴田は、五月二九日午前一〇時ころ登校のため大川工業高校正門近くまで赴いたところ、同校正門付近で待機していた原告中村、同緒方(昭)、同星野らを先頭に組合員約一〇名が、登校して来る柴田の方へ歩み寄って、大川小学校に行って話合いをするよう要求したが、柴田は、これを拒否したこと、その後右原告ら及び組合員は、柴田を大川工業高校の近くにある材木置場に同行し、柴田に対し約一時間にわたり、着任行動を止めるよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(九) 同(リ)の事実について

《証拠省略》によれば、柴田は、六月一日午前一〇時過ぎ登校のため大川工業高校正門近くまで赴いたところ、正門付近でピケを張っていた原告中村、同星野らが、柴田に対し前記福岡県教職員組合大川支部事務所で話合いをするよう要求し、同事務所で右原告らのほか原告緒方(昭)外数名の組合員も加わり、柴田に対し同人の着任行動につき抗議したこと、また、柴田は、同月二四日午前一〇時ころにも登校したが、同校正門付近でピケを張っていた原告緒方(昭)、同星野らに話合いをするよう要求されたため、これを拒否するとともに入校を断念してそのまま引き返したことが認められ、これに反する証拠はない。

6  八幡高校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(6)の(イ)の事実について

原告田中、同古野が、被告主張の高教組役職にあったこと、同原告らが、被告主張の各指示を受け、原告古野がそのころ各指示を所属組合員に伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、本件闘争における支部、分会の役割及び同原告らの組合役職に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき八幡高校長松延一男に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告田中、同古野は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

被告主張のころ被告主張の原告らが、松延宅に行き同人に対し文書を手渡すとともに、着任しないよう要求したことは、当事者間に争いがない。そして、《証拠省略》によれば、右原告らから松延に対して渡された右文書は、八幡高校分会員の署名した「八幡高等学校長着任反対署名簿」と題する書面であることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月七日夜松延から分会に翌朝八時一〇分国鉄八幡駅着の電車で行く旨の電話連絡があったため、翌八日午前八時過ぎ原告田中外四名の組合員が八幡駅で松延を待ち受けていたこと、右原告及び組合員らは、間もなく到着した松延を同行して話合いのため同駅前の旅館「帆柱荘」に赴き、約一時間にわたり同旅館で松延に対し、登校しないよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、被告は、右着任阻止行動に原告古野が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、右阻止行動の行われた四月八日早朝分会闘争委員会が開かれ、同委員会において、同日は入学式が行われることになっており、参列する父兄から校長着任拒否闘争につき質問が出た場合には原告古野が事情の説明に当ることと決められたため、同原告は、同日は在校し、前記阻止行動には参加しなかったことがうかがえる。したがって、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月一〇日夜松延から分会に翌朝行く旨の電話があり、翌一一日午前八時三〇分ころ原告田中外四、五名の組合員が八幡駅で待ち受けていたこと、右原告田中及び組合員らは、前記(3)と同様到着した松延を同行して帆柱荘に赴き、約一時間にわたり松延に対し登校しないよう求めたことが認められ、これに反する証拠はない。

ところで、被告は、右阻止行動に原告木原、同古野が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、原告木原は、他分会からの動員者の世話をするため、また、原告古野は、同日同校で行われた生徒の身体検査の業務で忙しかったため、いずれも同日の右阻止行動に参加していなかったことがうかがえる。したがって、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、松延は、四月一六日午前一一時ころ八幡駅に到着し、同駅から八幡高校に到着した旨電話連絡したこと、原告古野は、そのころ北九州盲学校で開かれた支部評議員会に出席していたが、松延が来ている旨の連絡を受けて同日午後一時ころ分会員二名とともに八幡駅に赴き、松延と同駅前の喫茶店で話し合ったこと、その際、原告古野は松延に対し、「どうしても学校に入ってもらっては困る。」等と述べて、松延の着任をあくまで拒否する意向を示したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、松延は、野上前八幡高校長及び田中同校事務長と事務引継ぎを行うため四月一九日午後六時ころ八幡駅で下車したところ、同駅に待ち受けていた原告木原、同古野、同田中ら外数名の組合員が松延を帆柱荘に同行し、同旅館において右原告らが中心となって組合員十数名が松延に対し、四月分の給与を事務長代決で支払うよう強く要求したこと、午後九時ころからは田中事務長も右席に加わり、右原告ら及び組合員らは、同事務長に対しても代決で支給するよう要求したこと、松延は、午後一〇時ころやむなく事務長代決によることを了承したことが認められる。《証拠判断省略》

(7) 同(ト)の事実について

《証拠省略》によれば、松延は、五月八日午前八時四五分ころ、同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員湊博文外一名とともに登校したが、原告田中、同木原、同古野が先頭に立って組合員約四〇名が、ピケを張り、同所において約一時間にわたって松延らに対し、「県教委が高教組本部と交渉を再開し、話合いがつかなければ学校に入れることはできない。」等と言って松延らの入校を阻止したことが認められ、これに反する証拠はない。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、松延は、五月一一日午前一一時ころ八幡駅に到着し、同駅から分会にその旨電話連絡したこと、原告古野外数名の分会員が八幡駅に行き同駅前の喫茶店で松延と話をしたこと、その際、右原告及び分会員は、松延に対し、「北九州盲学校に警官導入がなされ混乱しているので、直ぐ引き上げてほしい。」旨述べたため、松延は、登校は困難と判断してそのまま帰ったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(9) 同(リ)の事実について

《証拠省略》によれば、松延は、五月二二日午前一〇時ころ八幡駅に着き、同駅から分会にその旨電話連絡したこと、右連絡を受けて原告木原、同古野が八幡駅に行き同駅前の喫茶店で松延と話をしたこと、その際、右原告らは、松延に対し同人の着任を認めることはできない旨を述べたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(10) 同(ヌ)の事実について

《証拠省略》によれば、松延は、五月二九日午前一〇時三〇分ころ八幡駅に到着し、前記同様分会に電話連絡したこと、原告木原、同古野外分会員一名が八幡駅に赴き、同駅前の喫茶店で話をしたが、右原告らは、前記同様松延の着任を認めることはできない旨述べていたので、松延は、登校は困難と判断して帰ったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、被告は、六月四日にも原告木原が八幡駅前で待ち受けて松延に登校を断念させた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、六月四日午前一一時ころ松延から同校にいた原告木原に八幡駅に到着している旨の電話があったが、同校では丁度そのころ支部執行委員会が開催中であったため、同委員の間で相談した結果、その日は誰も駅には行かないこととしたことがうかがえる。したがって、被告の右主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

以上のとおりであるから、被告が八幡高校関係の処分事由として主張する事実中、(ハ)のうち原告古野、(ニ)のうち原告木原、同古野、(ヌ)のうち六月四日の原告木原の各行為については、被告主張の各事実が認められず、右事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

7  宗像高校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(7)の(イ)の事実について

原告久保が分会長であったこと、同原告が被告主張の各指示を受け、所属分会員に伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、本件闘争における分会の役割及び右原告の組合役職に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき宗像高校長中村喜代志(以下大牟田商業高校長中村正夫と区別するため、「中村(喜)」と表示する。)に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告久保は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

被告主張の日に原告久保が二名の組合員とともに城南高校に赴き、中村(喜)に対し校長着任を拒否する旨の文書を手渡したことは、当事者間に争いがない。そして、《証拠省略》によれば、原告久保らが中村(喜)に渡した右文書は、分会員の署名した「着任拒否決意書」と題するものであったこと、原告久保らが城南高校に赴いた時間は午後二時ころであったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告久保は宗像高校内において、四月二〇日午前九時ころから約二〇分間にわたり吉田同校事務長に対し、四月分給与を事務長代決で支給するよう要求して、既に中村(喜)が決裁ずみの四月分給与支出命令書を破棄させたこと、同日午前一〇時ころ中村(喜)が登校したが、組合員約三〇名が同校玄関前にピケを張って中村(喜)の入校を阻止し、その際、原告久保も右ピケに加わり、中村(喜)に対し登校しないよう言ったことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、中村(喜)は、四月二七日午前一〇時三〇分ころ登校したが、同校正門付近において、原告久保が先頭になって約二〇名の組合員がピケを張って中村(喜)の入校を阻止したことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、中村(喜)は、五月八日午前八時二〇分ころ、同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員野見山義保外三名とともにタクシーで登校し、玄関前付近で下車したが、玄関前において原告久保、高教組本部執行委員原告平木らが先頭になって組合員約三〇名が、ピケを張ったりスクラムを組んだりして中村(喜)らの入校を阻止したこと、その後右原告ら及び組合員のほか同校生徒らが、中村(喜)の周囲を取り囲み、中村(喜)に対し門外へ退去するよう要求し、同人は、次第に後退を余儀なくさせられ、午前一一時ころ校門外へ出たことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、中村(喜)は、五月九日午前五時一五分ころ教育庁職員野見山義保外三名を同行して登校し校長室に入ったこと、間もなく原告久保外数名の分会員が校長室に来て約一時間にわたり中村(喜)の早朝登校に対し抗議したこと、その際、原告久保は、中村(喜)に同行していた右野見山の腕を両手でつかみ退去するよう求めたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(7) 同(ト)の事実について

《証拠省略》によれば、中村(喜)は、県議会文教委員会の視察に立ち会うため五月二三日午前一〇時三〇分ころ登校したところ、原告久保、高教組副委員長原告林らが先頭に立って組合員約二五名が同校正門付近にピケを張って中村(喜)の入校を阻止し、同人を正門横の小路に誘い込み、同人に対し、「文教委員会の視察に立ち会う必要はないから帰ってくれ。」等と要求し、同原告らの右のような行動により中村(喜)は、同日の文教委員会の視察に立ち会うことができなかったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、中村(喜)は、五月一六日及び同月二九日の各午前一〇時ころ登校したが、いずれも原告久保を先頭に組合員が同校正門付近にピケを張って中村(喜)の入校を阻止したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、被告は、右のほかにも原告久保は、四月二四日、五月一五日、同月一八日、六月一日、同月七日に正門付近で中村(喜)の登校を阻止した旨主張するが、しかし、右事実を認めるに足りる証拠はない。かえって、《証拠省略》によれば、原告久保は、四月二四日及び五月一五日は高教組評議員会に、同月一八日は地区労関係集会にそれぞれ出席し、また、六月一日及び同月七日は病休のためいずれも在校していなかったことがうかがえる。

以上のとおりであるから、被告が宗像高校関係の処分事由として主張する事実中、(チ)のうち四月二四日、五月一五日、同月一八日、六月一日、同月七日の原告久保の行為については、被告主張の各事実が認められず、同事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

8  大牟田商業高校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(8)の(イ)の事実について

原告原が被告主張の高教組役職にあったこと、同原告が被告主張の各指示を受けたことは、当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、原告原は、右各指示を大牟田商業分会長磯浜潮を通じて同分会員に伝達させたことが認められ、これに反する証拠はない。そして、本件闘争における支部の役割及び右原告の組合役職に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき大牟田商業高校長中村正夫(以下「中村(正)」と表示する。)に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告原は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

被告主張の事実は、当事者間に争いがない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、中村(正)は、登校のため四月二〇日午前九時ころ西鉄大牟田駅に着き、同所から磯浜分会長に電話して、生徒の目に触れない場所で分会員と話合いのうえ入校したい旨告げたこと、磯浜は、同校の正門から約二〇〇メートル駅寄りの銀水園前を話合いの場所と指定し、同所に原告原ら約一五名の組合員が待機していたこと、午前九時三〇分ころ右銀水園に来た中村(正)に対し、原告原を先頭に右組合員らが「何のために来たのか。給料の支払は事務長代決ですんでいるから帰ってくれ。」等と要求し、そのため中村(正)は、入校を断念して同所から引き返したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(4)因同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、中村(正)は、五月二日午前九時四五分ころ、同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員森重政夫外三名とともにタクシーで登校し、玄関前で下車したこと、同所で原告原が中村(正)らの前に立ちふさがり、「話合いをしたので待ってほしい。」と言って中村(正)らが校舎内に入るのを阻止しようとしたが、同人らは、原告原の横を通り抜けて校長室に入ったこと、午前一〇時三〇分ころから正午ころまでの間同校会議室において、原告原、高教組本部執行委員原告上村らが主となって組合員約三〇名が中村(正)に対しその着任行動につき抗議したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、中村(正)は、五月八日午前八時五〇分ころ登校したところ、原告原らが先頭に立って組合員約三〇名が、同校玄関前でピケを張り、中村(正)に対し、「県教委と高教組との間で話合いがつくまでは受け入れるわけにはいかない。」等と言って同人の入校を阻止したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、中村(正)は、五月二三日午前八時三〇分ころ西鉄倉永駅で下車したが、同駅に待ち受けていた原告原外数名の組合員に登校を阻止されたこと、また、中村(正)は、六月一日午前一〇時一〇分ころ及び同月一〇日午前九時五分ころにそれぞれ同校付近まで赴いたが、原告原を先頭とする組合員に入校を阻止されたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

9  戸畑工業高校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(9)の(イ)の事実について

原告高取が被告主張の高教組役職にあったこと、同原告が被告主張の各指示を受け、所属分会員に右各指示を伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、本件闘争における分会の役割及び原告高取の組合役職に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき戸畑工業高校長中野弥壮に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告高取は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告高取は、四月四日夜戸畑支部長藤嶋源之助外分会員一名とともに中野宅を訪れ、同人が不在であったため同人の家族に対し、中野の着任を拒否する旨同人に伝えるよう述べたことが認められる。《証拠判断省略》

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月八日は同校の入学式が行われることになっていたため、中野は、同日午前九時ころ正門近くまで登校したこと、同日は中野の入校を阻止するため原告高取外約二〇名の組合員が待機していたこと、中野は、正門近くから校内に待機している組合員の姿を見て、同日は入学式で生徒の父兄も多数来校していたため混乱を生じてはまずいと考え、同校付近の公衆電話から同校事務長に電話して校内の状況を確認した後、組合員らに中野の登校を知られることもなく入校を断念して帰ったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(4) 同(ニ)の事実について

被告の主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、右証拠によるも、中野が登校したという四月九日の同人の行動及び同校における組合員らの状況は極めてあいまいであり、この事情に《証拠省略》を合わせ考えると、被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に被告の右主張を認めるに足りる証拠はない。

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、中野は、四月一三日午前一〇時ころ登校したが、原告高取及び藤嶋支部長らが先頭に立って組合員約二〇名が同校正門付近にピケを張って中野の入校を阻止したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、中野は、四月一五日午後三時三〇分ころ登校したが、同校正門付近で原告高取外数名の分会員に入校を阻止されたことが認められる。《証拠判断省略》

(7) 同(ト)の事実について

《証拠省略》によれば、中野は、五月八日午前八時一五分ころ、同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員深野政利外二名とともに登校したが、そのころ同校正門前には原告高取及び高教組本部執行委員原告露口らが先頭に立って組合員約三〇名がピケを張っていたこと、正門前で約一五分間ほど押問答した後、中野は、右組合員らから同校応接室に誘導されたこと、その後午前一一時三〇分ころまで同校応接室及び会議室において、右原告ら及び組合員らが中野に対し、「県教委と高教組とが話合いできるよう努力せよ。」等と要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、中野は、五月九日午前八時一五分ころ教育庁職員三名を同行して登校したが、原告高取、高教組本部執行委員原告上村が先頭に立って組合員約一〇名が、同校正門付近に待ち受け、前日同様中野が校長室に入るのを拒否して同人を応接室に誘導し、同所において午前九時二〇分ころまで同人に対し、「県教委と高教組との話合いができるよう努力せよ。話合いが実現するまでは登校するな。」等と要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

以上のとおりであるから、被告が戸畑工業高校関係の処分事由として主張する事実中、(ニ)の原告高取の行為については被告主張の事実が認められず、右事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

10  黒木高校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(10)の(イ)の事実について

原告高倉、同末永が被告主張の各高教組役職にあったこと、同原告らが被告主張の各指示を受け、原告末永が右指示を所属分会員に伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、本件闘争における支部、分会の役割及び右原告らの組合役職に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき黒木高校長田中正利に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告高倉、同末永は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

《証拠省略》によれば、被告主張の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告宮本及び高教組本部執行委員原告江口は、四月四日田中を同人の前任校である鞍手高校に呼び出し、同日午後七時三〇分ころ同校事務室において田中に対し、校長辞任願を書くよう強く要求し、田中は、やむなくその場で辞任願を書いて右原告らに渡したことが認められる。《証拠判断省略》

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告高倉、同末永は、四月六日田中の前任校である鞍手高校の花田分会長に電話し、同分会長を通じて田中に対し、校長任命の辞令を返上するよう求めたことが認められる。《証拠判断省略》

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、四月八日午後から黒木高校の入学式が行われることになっていたため、田中は、同日鞍手高校事務長を伴って正午前に黒木町に着き、黒木高校から約三〇〇メートル離れた食堂で昼食をとっていたこと、同日組合では田中の登校を阻止するため校内に多数の組合員を待機させていたほか、生徒の前での混乱を避けるため学校付近の各所に組合員を配置して田中の登校を監視していたこと、右監視中の組合員が前記食堂にいる田中を見つけ、同人から登校前に一旦同校前の太田旅館に立ち寄る予定であることを聞き、右組合員の連絡により原告高倉、同末永ら十数名の組合員が太田旅館に集まり、同旅館において約三時間にわたり右原告らが主となって田中に対し、「組合の推薦ではないので校長とは認められない。県教委と高教組との間で話がつくまでは校長として受け入れない。」等と述べて着任を断念するよう求めたこと、また、その際、田中が入学式の代行を命ずるため教頭を呼ぶよう言ったが、右原告らは、これに応じなかったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、被告は、右阻止行動に原告福成が参加していた旨主張し、その主張に副う《証拠省略》が存する。しかし、《証拠省略》によれば、原告福成は、四月八日には他の用件で午前一一時三〇分ころから午後二時ころまでの間久留米聾学校に行っており、同日黒木町には行かなかったことがうかがえる。したがって、被告の主張に副う前記証拠はたやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、田中は、登校のため四月二〇日午前一一時ころ堀川バス黒木停留所で下車したところ、同バス停に原告高倉、同末永が待ち受け、その後数十名の組合員も加わり、右原告らが主となって田中に対し約五〇分間にわたり、「校長と認めていない。早く帰れ。」等と言って同人の登校を阻止したことが認められる。《証拠判断省略》

(7) 同(ト)の事実について

《証拠省略》によれば、田中は、四月二七日午前一〇時五〇分ころ登校のため堀川バス黒木停留所で下車したところ、同バス停に待ち受けていた原告高倉、同末永を先頭に組合員約三〇名が同所において田中に対し約三〇分間にわたり、「黒木には来るな。辞令を返上せよ。県教委と高教組とが話合いできるようにせよ。」等と言って同人の登校を阻止したこと、さらに、田中に対し久留米支部からの動員者用貸切バスに乗って帰るよう勧め、同バスで西鉄久留米駅まで田中を送る間、同バスに同乗していた原告高倉及び組合員らは、田中に対し登校しないよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告宮本は、五月一日午後四時三〇分ころ直鞍支部三役を伴って田中宅を訪れ、同六時三〇分ころまでの間同人に対し、翌二日に着任を強行しないよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(9) 同(リ)の事実について

《証拠省略》によれば、田中は、五月二日同人の着任行動を援助するため教育長から同行を命ぜられた県教育庁職員野見山義保外三名とともに同校に赴いたこと原告高倉、同末永は、同日田中の入校を阻止するため、バス停及び正門付近に多数の組合員を配置していたこと、田中らは、学校到着前に組合員の右のような配置状況を知り、同日午前一〇時ころ同校裏手の運動場を通って校長室に入ったこと、午前一一時五〇分ころから午後一時二〇分ころまでの間校長室において、原告高倉、同末永が主となって組合員約一〇名が、田中に対し同日の着任行動について抗議したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(10) 同(ヌ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告宮本は、五月三日午前九時ころ及び正午ころの二回にわたって、直鞍支部組合員約一〇名を伴って田中宅を訪れ、同人が不在であったため同人の妻に対し、田中の前日の着任行動に抗議するとともに校長を辞任するよう要求したことが認められる。《証拠判断省略》

(11) 同(ル)の事実について

《証拠省略》によれば、田中は、五月四日午前九時ころ教育庁職員四名を同行して登校したが、同校玄関で原告末永が先頭になって組合員約三〇名が、ピケを張って田中らの入校を阻止したこと、同所で約一〇分間押問答した後、同校会議室及び校長室において、原告末永及び組合員らが田中に対し五月二日の同人の着任行動につき抗議したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(12) 同(ヲ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告高倉、同末永は、六月一二日午後一二時三〇分ころ、組合員三名を伴って田中が入院中の筑豊病院を訪れ、田中に対し、同人が生徒の非行に関し同校職員会議が決定した処分と異なる指示を教頭にしたこと、及び校長が着任するまでPTA予算を組まないとの動きがあること等に抗議したことが認められる。

《証拠判断省略》

以上のとおりであるから、被告が黒木高校関係の処分事由として主張する事実中、(ホ)のうち原告福成の行為については被告主張の事実が認められず、右事実は、本件処分の正当性を基礎づける事由とはなり得ない。

11  福岡中央高校関係

(1) 被告の主張2の(三)の(11)の(イ)の事実について

原告城戸(陽)が被告主張の高教組役職にあったこと、同原告が被告主張の各指示を受け、所属分会員に伝達したことは、当事者間に争いがない。そして、本件闘争における分会の役割、及び右原告の組合役職に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組本部の指示に基づき福岡中央高校長徳永務に対する着任拒否闘争を実行するにつき、原告城戸(陽)は指導的役割を果したと認められ、これに反する証拠はない。

(2) 同(ロ)の事実について

《証拠省略》によれば、原告城戸(陽)は、四月四日午前一一時ころ、福岡合同支部長ら組合員四名とともに徳永宅を訪れ、同人に対し分会員の署名した着任拒否通告書を手渡し、着任しないよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(3) 同(ハ)の事実について

《証拠省略》によれば、徳永は、四月一一日午前八時四〇分ころ登校し玄関まで入ったが、分会員に発見されその連絡により、原告城戸(陽)、高教組本部執行委員原告露口ら十数名の組合員が玄関にかけつけて徳永の前に立ちふさがり、同人に対し帰るよう求めたため、同人は、間もなく入校を断念して引き上げたこと、また、同日午後三時ころ原告城戸(陽)は、六名の分会員とともに徳永宅を訪れ、同人に対し、登校する際は事前に連絡するよう要求したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(4) 同(ニ)の事実について

《証拠省略》によれば、徳永は、四月一五日午後一時三〇分ころ登校したが、原告城戸(陽)を先頭に約一〇名の組合員が正門付近にピケを張って徳永の入校を阻止したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(5) 同(ホ)の事実について

《証拠省略》によれば、徳永は、五月九日午前九時ころ登校したが、原告露口、同城戸(陽)らが先頭に立って約二〇名の組合員が、正門付近にピケを張って同人の入校を阻止するとともに、同人が前日早朝に登校して着任したことに抗議したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(6) 同(ヘ)の事実について

《証拠省略》によれば、徳永は、五月一〇日午前九時過ぎ登校したが、高教組本部執行委員原告平木及び原告城戸(陽)が先頭に立って組合員約二〇名とともに正門付近にピケを張り、徳永に対し、「県教委が高教組と話し合うよう努力せよ。その話し合いによって解決するまでは登校するな。」等と言って同人の入校を阻止したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(7) 同(ト)の事実について

《証拠省略》によれば、徳永は、五月一五日午前九時四五分ころ登校したが、原告城戸(陽)を先頭に約二〇名の組合員がピケを張って徳永の入校を阻止したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(8) 同(チ)の事実について

《証拠省略》によれば、徳永は、五月一六日、同月一八日、及び同月二四日の各午前九時ころ登校したが、いずれも原告城戸(陽)を先頭に約一五名ないし二〇名の組合員が正門付近にピケを張って徳永の入校を阻止したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

第四法的問題

本件において、原、被告の主張する憲法上、法律上の問題について検討する。

一  処分説明書の理由記載が違法との主張について

被告から原告らに交付された本件処分説明書の処分事由の記載が、別紙処分等一覧表「処分の理由」欄記載のとおりであることは、当事者間に争いがない。

ところで、地公法四九条一項は、「任命権者は、職員に対し、懲戒その他その意に反すると認める不利益な処分を行う場合においては、その際、その職員に対し処分の事由を記載した説明書を交付しなければならない。」旨定めているが、同規定は、懲戒権者の判断の慎重、合理性を担保してその恣意を抑制するとともに、処分の理由を相手方に知らせて不服申立の便宜を与える趣旨に出たものと解せられる。そこで、右趣旨に照らして本件処分説明書の処分事由の記載をみるに、同説明書には、別紙処分等一覧表「処分の理由」欄のとおり、「原告らは、高教組役員若しくは分会員として、あるいは教頭の立場にありながら、昭和四三年四月以降校長の着任の阻止等を行った。」旨が記載されており、同記載により、原告らは、概括的ではあるが自己のいかなる行為を理由として本件処分がなされたのかを知り、かつ、これに対して不服申立をすべきかどうかの判断をすることができるものと解せられるから、本件程度の処分事由の記載をもって、処分説明書交付制度の目的を達するものというべきである。したがって、本件処分説明書の処分事由の記載に、理由不備の違法があるものということはできない。

二  本件慣行の存否とその効力

1  現場の教員が県立高校等の校長に任命される場合は、高教組が被告に対し提出した校長候補推薦名簿の中から任命し、教育行政関係者が校長に任命される場合は、高教組の承認を要するとの慣行が存在したか否かについては、原、被告の主張に争いのあるところである。

前記第二の一の1で認定のように、昭和四三年度以前における高教組の校長候補推薦名簿には、毎年一〇ないし一五名の校長欠員数に対し、その五ないし一〇倍に相当する七〇ないし一〇〇名という多数の候補が登載されていたのであり、右推薦がよほど恣意的に行われない限り、被告が校長として任命したいと考える人物のほとんどが、高教組の推薦名簿に含まれているのが通例だったであろうと推測される。したがって、従前任命された校長のほとんどが高教組の推薦名簿の中に含まれていた事実をもって、直ちに被告が現場の教員を校長に登用する場合には高教組の推薦名簿に登載されている者に限定して選考していたとは言い難いといわねばならない。《証拠省略》によれば、本件闘争の翌年の昭和四四年度における現場教員からの校長昇任者は、ほぼ全員が高教組の推薦名簿の中に含まれていたことが認められるが、右事実は、前記判示を裏付けるものというべきであり、また、前記第二の一の2で認定のように、昭和四三年以前にも数例の高教組の推薦若しくは承認していない校長の発令があったとの事実は、被告においても高教組の推薦若しくは承認のあった者のみを校長に任命するとの意識がなかったことをうかがわせるものである。

高教組の校長候補推薦名簿が被告に提出されるようになった当初の経緯は明らかでないが、本件全証拠によるも、高教組が、右推薦名簿の提出を始めるに当り若しくはその後において、その取扱方につき被告との間で協議したり、何らかの合意をした形跡はうかがえず、教育行政関係者からの校長転出につき、高教組の承認を求めるようになった経緯も明らかでない。また、《証拠省略》によれば、県立高校等の校長候補の推薦は、高教組のほか昭和二〇年代から公立高校長会も行っていたことが認められ、これに反する証拠はない。

さらに、前記第二の一の1で認定のように、高教組から校長候補としての推薦を受けるためには、分会段階において、「教職員組合の機関決定を尊重し協力します。」等を記載した誓約書を差し入れることを要するとされていたこと等に照らして考えると、校長候補推薦についての高教組の主眼は、校長人事に高教組の意向を反映させ、高教組と協調し得る校長の実現にあり、必ずしも教育的見地から適任の校長を実現することを第一義とするものではなかったといえよう。そして、高教組の推薦が右のようなものである以上、被告の校長の選考が右推薦に全面的に拘束されるものとすると、高教組に批判的見解をもつ者は、校長として登用される道を閉ざされざるを得ない点で、問題を孕むものといえる。

以上判示の事情に《証拠省略》を合わせ考えると、高教組の提出する校長候補推薦名簿は、被告が校長を選考するに当って一参考資料とされていたことは認められるものの、被告の校長の任命を高教組の推薦若しくは承認のある者に限定するとの慣行があったと認めることはできない。

2  次に、校長人事に関する法制の観点から、原告らの主張する本件慣行の効力につき検討しておくこととする。

県立高校等の校長の任命については、地教行法三四条に「教育長の推薦により、教育委員会が任命する。」と規定され、また、教育公務員特例法一三条に「校長の採用は、選考によるものとし、その選考は、教育長が行う。」旨定められている。また、校長の職務については、学校教育法が一般的に、「校務を掌り、所属職員を監督する。」と規定している(五一条、七六条、二八条三項)ほか、その所属職員の任免その他の進退に関する意見を任命権者に申し出ることができる等(地教行法三六条)、法制上校長は、学校における管理者としての立場にあるものというべきである(昭和四一年九月一三日制定の福岡県人事委員会規則第一四号管理職員等の範囲を定める規則も、県立高校等の校長を管理職員に指定している。)。そして、右のような職務の性格をもつ校長の人事が地公法五五条三項の管理運営事項に該当することは明らかであるから、校長人事は、高教組と被告との間における正規の交渉の議題となり得る事項でもないといわねばならない。

以上のような校長の任命及び職務並びに職員団体の交渉事項等に関する法制に照らして考えると、仮に、校長の任命に関し原告ら主張のような慣行が存在したとしても、それは、被告の校長任命権を拘束しその効力を左右するというような法的効力を有しないものというべきである。

三  地公法三七条一項が違憲との主張について

地公法三七条一項が合憲であることは、最高裁判所昭和四四年(あ)第一二七五号昭和五一年五月二一日大法廷判決・刑集三〇巻五号一一七八頁の判示するところであり、当裁判所も右と同様に解するものである。

四  原告らの行為の該当法条

本件闘争は、前記判示のように、被告が任命した昭和四三年度校長人事に抗議して、高教組の指示、指導により、非推薦校長が入校してその業務を遂行することを妨害したものであり、それによって学校の正常な校務運営が阻害されたことは明らかであるから、右闘争の一環として行われた前記第三に認定の原告らの各行為は、地公法三七条一項に違反するというべきである。そのほか原告らの行為は、同法三〇条、三二条、三三条にも違反するものというべく、さらに、勤務時間中の原告らの行為(原告らが本件当時勤務していた高校等の勤務時間は、当事者間に争いがない。)は、同法三五条に違反し(但し、本部執行部役員及び休暇をとって参加した者を除く。休暇申請の有無は、弁論の全趣旨により、被告の主張3の三五条違反に関する括弧内に表示のとおりと認められる。)、同法二九条一項一号ないし三号(但し、執行部役員及び勤務時間外の行為については二号を除く。)に該当する。

以上のとおりであるから、本件闘争は、正当な組合活動ということはできず、したがって、本件各処分が、原告らが職員団体のために正当な行為をしたことの故をもって不利益な取扱をするものと認めることはできない。

第五懲戒権濫用の主張について

一  執行部役員について

1  懲戒権者は、懲戒事由に該当すると認められる行為の原因、動機、性質、態様、結果、影響等のほか、当該公務員の右行為の前後における態度、懲戒処分等の処分歴、選択する処分が他の公務員及び社会に与える影響等諸般の事情を考慮して、懲戒処分をすべきかどうか、また、懲戒処分をする場合にいかなる処分を選択すべきか、を決定することができるものと解せられる。懲戒権者の判断は、右のような広範な事情を総合的に考慮してなされるものであるから、公務員につき法に定められた懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、原則として懲戒権者の裁量に任されており、懲戒権者の右裁量権の行使に基づく処分が社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権を濫用したと認められる場合に限り、当該懲戒処分が違法となるものというべきである(最高裁判所昭和四七年(行ツ)第五二号昭和五二年一二月二〇日判決・民集三一巻七号一一〇一頁参照)。

2  右見地に立って、高教組執行部役員一〇名に対する本件各懲戒処分が、懲戒権を濫用したものと認められるかどうかについて検討するに、本件闘争は、前記のとおり、違法であることを免れず、かつ、その闘争は長期間に及び生徒や社会に与えた影響も大きかったと認められること、本件闘争の大綱は、すべて高教組執行委員会で決定され、その指示に基づき実行されたものであることに照らして考えると、免職処分の重大性を考慮しても、なお本件当時執行部役員であった原告待鳥惠、同林宏、同中西績介、同上村正則、同牧野正國、同露口勝雪、同平木時雄、同古賀要、同江口義一に対する本件各懲戒免職処分、及び原告中村羔士に対する停職六か月の懲戒処分が、懲戒権を濫用したものと認めることはできない。

二  教頭(原告田村、同佐田、同福田)について

1  《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(一) 前記第三の二の1の(2)で判示のように、昭和三二年一二月の学校教育法施行規則の改正により、法制上高校等にも教頭が置かれることとなった。そのころ、福岡県下のほとんどの高校等においては、校務分掌として教員の選挙により、総務部長、生徒部長、教務部長等が選任されていたが、学校教育法施行規則により教頭が法制化された際、被告と高教組との間の交渉により、教頭の任命については、各学校長が被告宛に各学校の総務部長が教頭として適任であるとの意見を具申し、これに対し被告は、「右推薦された総務部長を教頭にあてたので通知する。」旨の通知書を学校宛に送付して任命することで合意し、以後右のような運用がなされていた。

その後、前記第三の二の1の(2)で判示のように、昭和三六年度から教頭に管理職手当が支給されるようになったが、右手当の支給をめぐって被告と高教組との間で交渉がなされた結果、昭和三七年七月一七日付で当時の福岡県教育委員会教育長溝江三治名義で高教組執行委員長宛に、「色々問題があることがわかったので、教頭の取扱は従前のとおりとする。教頭は、法律に規定された職制ではない。」旨が記載された書面が交付された。

(二) 福岡県下においては、従前ほとんどの教頭が、高教組に加入しており、右状況は、前記学校教育法施行規則の改正による教頭の法制化及び教頭への管理職手当の支給がなされるようになった後も変らなかった。前記第三の二の1の(2)で判示のように、昭和四〇年五月の地公法改正及びこれに基づく昭和四一年九月の管理職員等の範囲を定める福岡県人事委員会規則の制定により、法制上はじめて教頭は管理職に指定され一般教職員と同一の職員団体を組織することができないことが明規されたが、教頭に右人事委員会規則の適用がなされるようになったのは、本件闘争の約一年前の昭和四二年三月一五日からであった。教頭に対する右規則の実施後も、被告と高教組との間で交渉がなされ、同年七月双方の間で、「右規則には越えられない壁があるが、三月一五日以前の状態で処理する。」との確認がなされた。高教組は、教頭を組合員として残存させるため、同年教頭全員を組合役員として地公法五二条に基づく職員団体の登録を受けようとしたが、同年一〇月二八日福岡県人事委員会から右登録申請を却下され、結局同年末に教頭を組合員から外して登録した。しかし、高教組は、右登録後も組合員資格の有無の問題は当該組合みずからが判断すべき事柄であるとして、教頭を高教組にとどめる方針をとったため、本件闘争時まで大部分の教頭が、高教組に所属し高教組の一員としての意識をもっていた。また、被告においても、一〇・二六闘争に関する処分問題が発生した昭和四三年二月以前の段階で、教頭に対し、教頭が地公法上の職員団体である高教組に加入できないことや、教頭の管理者としての立場についての指導をした形跡はない。そして、前記第二の二で判示のように、多数の教頭が組合員として参加した一〇・二六闘争に関する処分問題が、そもそも本件闘争の発端となっているものである。

2  《証拠省略》によれば、被告は、本件各処分をするに際し、教頭については、「闘争に積極的に参加し、管理監督にあるものとして遺憾な行為をしたと認められる者」を処分の対象としたものであることが認められる。

ところで、本件闘争に関し認定できる原告佐田、同福田、同田村の具体的非違行為としては、原告佐田につき、前記第三の三の1の(9)、(18)、原告福田につき、同2の(3)、(4)、(6)、(7)、(8)、(9)、(13)、原告田村につき、同3の(3)、(5)、(9)、(10)、(11)、(12)、(14)、(15)の各事実である。右事実は、右原告ら三名が本件闘争に参加していたことを示すものではあるが、しかし、同事実によっても、同原告らが本件闘争において指導的役割を果していたこと、あるいは一般組合員以上に積極的に本件闘争に参加していたものとは認め難く、他に同原告らが本件闘争につき右のような積極的関与をしていたことを認めるに足りる証拠もない。

また、《証拠省略》によれば、原告佐田は、四月二日の分会々議で分会闘争委員に選任されたが、教頭(総務部長)としての立場から校務運営上支障があってはならないと考え選任直後辞退の申入れをして分会闘争委員としての仕事は全くしなかったこと、右原告ら三名は、本件闘争期間中、校長との連絡はとらなかったものの、教頭としての立場から、PTA、県教育庁等との対外的事務折衝など学校運営のため必要な統括的事務を遂行していたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

本件闘争が行われた他の高校等において、本件闘争時に教頭がどのような動きをし、かつ、どのような役割を果したのかを明らかにする証拠はないので、右原告ら三名の本件闘争に関する責任を、他校の教頭と比較して論ずることは難しいが、しかし、少なくとも本件全証拠によるも、他校においても本件闘争の際に教頭が校長の登校行動を援助したり組合員の校長に対する入校阻止行動を制止したりした形跡はなく、また、被告も、本件闘争期間中県教育庁職員に対し校長の登校行動の援助を命じたものの、各高校等の教頭に対し右のような職責の遂行を命じた形跡はない。これは、前記1で判示のような本件当時の福岡県下における教頭の実態からして、教頭が一般組合員と完全に対立する形で管理者の立場に立ってその職務を遂行することが、きわめて困難な状況にあったことによるものと解せられる。

3  右1及び2で判示のような本件当時の教頭の実態及び右原告ら三名の本件闘争への関与の程度のほか、免職処分が被処分者の公務員たる地位自体を喪失させるという懲戒処分の中でもとりわけ苛酷な結果を生ずるものであることを総合して判断すると、懲戒に関する被告の裁量権を考慮しても、なお、原告福田、同佐田、同田村に対する本件各懲戒免職処分は、社会観念上著しく妥当性を欠き裁量権を濫用したものとして違法というべきである。

三  原告前田(旧姓倉田)について

《証拠省略》によれば、被告は、本件各処分をなすに際し、執行部役員及び教頭を除くその余の本件闘争参加者については、支部長及び分会長のほか、積極的行動をしてその責任が重いと認められる者を処分の対象としたものであることが認められ、これに反する証拠はない。

ところで、前記第三の三の1の(13)ないし(16)及び(19)で判示のように、被告が、原告前田に関する処分事由として主張する事実のうち、同原告の本件闘争への参加行為として認定できるのは、右(13)(五月八日宮尾校長が登校した際、約一時間ほどピケに参加)、及び(16)(同月一一日の入校阻止行動のピケに参加)に認定の事実のみであり、他の組合員に比べ特に積極的行動をしたものとは認め難い。そして、《証拠省略》によれば、原告前田は、本件当時支部及び分会役員の地位になく、かつ、分会闘争委員でもなかったことが認められる(ちなみに、教頭を除く原告らが、本件当時別紙処分等一覧表「組合役職」欄記載の地位にあったことは争いがなく、右事実に《証拠省略》を合わせると、本件各処分を受けた教頭を除く原告らのうち、本件当時本部・支部及び分会役員並びに分会闘争委員のいずれの地位にもなかったのは、原告前田のみであることが認められ、これに反する証拠はない。)。

右判示の事情に照らして考えると、被告の前田に対する停職一か月の本件懲戒処分は、処分の基礎たる事実に誤認があり、社会観念上著しく妥当性を欠き、裁量権を濫用したものとして違法というべきである。

四  その余の原告らについて

1  前記第三の三で認定のように、その余の原告らには、本件闘争に関し懲戒処分事由に該当する行為があったことが認められ、かつ、前記判示のように、本件闘争は長期間に及び生徒や社会に与えた影響も大きく、支部、分会段階で本件闘争を指導し、あるいは闘争に積極的に関与した原告らの責任も軽いとはいえない。

2  しかし、前記第二の一で判示のような福岡県における従来の県立高校等の校長人事の実情から考えると、本件当時の高教組組合員の意識として、県立高校等の校長は、原則として高教組の推薦を受けた者の中から任命されるものとの強い期待を持っていたと認められ、かつ、組合員がそのような意識を持つに至ったのもあながち責められるべきものでもないと解せられる(被告が、校長人事を行うにつき、教員組合の校長候補推薦等により組合の意向を知ってこれを斟酌することは、それが任命権者の最終的判断権を奪うようなものでない限り、その存在価値が否定されるべきものではないと考えられる。)。しかるに、前記第二の二で判示のように、昭和四三年四月に発令された校長は、その多数が高教組の推薦及び承認のない者であった。もっとも、前記判示のように、一〇・二六闘争に関する処分をめぐる紛争のため、高教組が被告に提出した昭和四三年度校長候補推薦名簿には、従前の半数程度の者しか登載されず、また、登載者の中にも、校長昇任の発令を受けても辞退するとの届書を提出した者や、教頭等の未経験者等が多数含まれており、昭和四三年四月の校長発令者が前記のように従前に比し特異なものとなったについては、右のように高教組の校長候補の推薦自体が例年に比べ異常なものとなっていたことにも主要な原因があるといわねばならない。しかし、被告も、事態収拾のため、現場の教員に対し従来の校長人事に関する慣行の実態や昭和四三年度の高教組の推薦の特殊性につき被告の立場からその事情を積極的に説明しようとした形跡はなく、支部、分会段階の組合員の大部分は、高教組本部からの一方的情報により、昭和四三年度の校長人事が不当なものとの認識をもつに至ったと推測される。

3  本件当時支部長、分会長の地位にあった原告らは(原告らのうち懲戒免職処分を受けた者は、執行部役員及び教頭を除くとすべて本件当時支部長、分会長の地位にあった者である。もっとも、原告平塚は、清水校長の出身分会の分会長である。)、たまたま昭和四三年度に支部や分会において支部長あるいは分会長に選任されたため、本件闘争においても支部や分会の責任者としての役割を果さざるを得なかったものであるが、前記第二の三で判示のように、支部、分会で行われた本件闘争の大綱は、高教組本部からの指示に基づくものであった。本件においては、同じく支部長、分会長の地位にあった者でも懲戒処分の程度を異にしているが、これは、《証拠省略》によれば、各学校によって闘争の態様、程度等に差があり、被告は、右闘争の態様等の差異を各支部長、分会長等の行動の仕方の違いによって生じたものと判断したためであることが認められる。ところで、懲戒免職処分を受けた支部長、分会長は、いずれも久留米聾学校、水産高校、北九州盲学校及び鞍手農業高校の闘争関係者であり、前記第二の三の4で判示のように、右のうち久留米聾学校、水産高校及び北九州盲学校では、警官隊導入により校長着任がなされ、鞍手農業高校では、県教育庁職員の援助を受けて校内に入ろうとした清水校長を組合員が実力で阻止したものである。そして、前記第三の三で認定の事実から明らかなように、各学校における阻止行動の強弱等には差がみられ、その差異が、高教組本部からの闘争指示を実行するに当っての支部、分会における決定や指導に左右された一面のあることは否定できないと解せられる。しかし、他方、前記第二の三の4で判示のように、校長が明け方に登校する等組合員の阻止体制の間隙をぬって首尾よく校長室に入校することに成功した学校では、結果的に警官隊の導入等による着任という事態を回避できたのであり、右のような着任の形態が教育者としてふさわしいものかどうかはともかく、実力による衝突の有無が、校長の着任行動の仕方いかんによって左右されている一面のあることも否定し得ない(このことは、北九州盲学校及び八幡高校の両校とも、高教組八幡支部に属するが、右両校における本件闘争の態様はかなり異なっていることからも、ある程度推測できよう。)。

4  《証拠省略》によれば、被告は、本件闘争に関与した原告ら以外の組合員につき第二次処分を行うことを予定していたが、前記第二の三の5で判示のように、知事斡旋による双方の合意事項の中に、「被告は、第二次処分を行わない。」との条項があったため、結局本件闘争については、原告ら以外の組合員は、全く処分を受けなかったことが認められ、これに反する証拠はない。この結果、支部、分会段階において本件闘争に積極的に関与していたと思われる者、例えば支部や分会の書記長その他の役員らは、何らの処分も受けず、支部、分会段階における闘争関与者として第一次処分の対象とされた原告らとその他の闘争参加者との間には、処分の有無により、本件闘争において実際に各人がなした行動や果した役割以上の不均衡が生じているものといわねばならない。特に、免職処分が、原告らの教員たる地位自体をも喪失させてしまうものであることを考慮すると、懲戒免職処分を受けた現場の教員たる原告らと、前記知事斡旋により処分を免れた者との間には、著しい不均衡を生じているものといわねばならない。前記判示のように、双方が合意した知事斡旋条項の中に、「第一次処分問題については、引続き検討を続ける。」との一項があるが、同条項は、おそらく、右判示のような点をも考慮して設けられたものと推測される。

5  以上判示の事情を総合して判断すると、その余の原告らに対する本件各処分のうち、原告佐々木清隆、同緒方信正、同綱脇博幸、同松濤勲、同相部開、同田中俊文、同佐藤周三、同宮本芳雄、同平塚文雄に対する本件各懲戒免職処分は、社会観念上著しく妥当性を欠き裁量権を濫用したものとして違法と認めるのが相当であるが、原告高倉正人、同中村義貞、同福成、同久保誠一、同星野潜、同末永博規に対する各停職六か月、原告原昭夫、同牧文武、同鬼塚智成、同緒方昭一、同木原輝夫、同古野政仁に対する各停職三か月、原告城戸陽二郎、同高取三也、同後藤彪、同力丸剛、同岡松蒼生男、同緒方紀生、同志鶴久、同高城力、同城戸大策、同大塚和弘に対する各停職一か月の各懲戒処分は、いずれも懲戒権を濫用したものと認めることはできない。

第六結論

よって、原告らの本訴請求のうち、被告が、原告佐田正比古、同綱脇博幸、同佐々木清隆、同宮本芳雄、同相部開、同松濤勲、同緒方信正、同佐藤周三、同平塚文雄及び亡福田茂雄、同田村千鶴夫、同田中俊文に対しなした各懲戒免職処分並びに原告前田清美に対する停職一か月の懲戒処分の取消を求める各請求は いずれも理由があるからこれを認容し、その余の原告らの請求は、いずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 辻忠雄 裁判官 湯地紘一郎 裁判官 林田宗一)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例