福岡地方裁判所 昭和49年(ワ)373号 判決 1993年3月26日
原告
亡宮嶋重信、同宮嶋富太郎、同宮嶋イシ訴訟承継人
宮嶋伸次
原告
清水正重
右法定代理人後見人
清水榮子
原告
塚本正勝
右法定代理人後見人
塚本ミスエ
原告
亡西田學訴訟承継人
西田政子
同
東口一男
同
永津忠行
同
亡橋口宏之助訴訟承継人
橋口アヤ子
同
同訴訟承継人
橋口義見
同
同訴訟承継人
吉田啓子
同
忠地義髙
同
亡齊藤巖訴訟承継人
齊藤アサエ
同
同訴訟承継人
齊藤芳德
同
猿渡三德
同
中山岩男
同
石原軍喜
同
山崎辰秀
同
亡坂井武義訴訟承継人
坂井リツ
同
同訴訟承継人
坂井護
同
同訴訟承継人
坂井利光
同
同訴訟承継人
美濃部知代子
同
野田嘉次郎
同
亡赤井章訴訟承継人
赤井市
同
同訴訟承継人
赤井広行
同
同訴訟承継人
赤井心平
同
同訴訟承継人
野田里和子
同
川口幸太郎
同
山田勝
同
中島好行
同
江口忠男
同
江崎治己
同
中尾進
同
勝永末人
同
沖克太郎
同
織田喬企
同
山本典之
同
井上文雄
同
西原隆寛
同
池畑重富
同
塚本清
同
永野八藏
同
亡小宮北勝訴訟承継人
小宮浩昭
同
同訴訟承継人
小宮正昭
右原告ら訴訟代理人弁護士
津留雅昭
同
大神周一
同
牟田哲朗
同
大谷辰雄
同
福田徹
同
加藤晋介
被告
三井鉱山株式会社
右代表者代表取締役
原田正
右訴訟代理人弁護士
橋本武人
同
小倉隆志
同
長谷部茂吉
同
青山義武
同
高島良一
同
田邊俊明
同
岩井国立
同
児玉公男
同
田多井啓州
主文
一 被告は、別表一の「原告・訴訟承継人」欄記載の各原告に対し、同表「認容額」欄記載の各金員及び同表の「認容額内訳」欄中慰謝料欄記載の各金員に対する同表の「遅延損害金起算日」欄記載の各日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを二分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、一項記載の金員のうち各二分の一の限度において仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、別表二「原告・被訴訟承継人」欄記載の各原告(但し、訴訟承継のある分は同表「訴訟承継人」欄記載の各原告)に対し、同表「請求金額」欄記載の各金員(但し、訴訟承継のある分は同表「各訴訟承継人の請求金額」欄記載の各金員)及び同表「請求金額内訳」欄中慰謝料欄記載の各金員(但し、訴訟承継のある分は各訴訟承継人の相続分に応じた金額)に対する同表「遅延損害金起算日」欄記載の各日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 一項につき仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
3 仮執行免脱宣言
第二 請求原因
一 当事者
被告は、石炭の採掘、販売を業とする会社であって、昭和三八年当時、大牟田市内に三川、四山、宮浦の各鉱からなる三池鉱業所と称する炭鉱を設けていた。被災原告ら(別表二の「原告・被訴訟承継人」欄記載の者のうち、宮嶋富太郎、イシを除くその余の原告、被訴訟承継人をいう。)は、いずれも、三池鉱業所に勤務し、昭和三八年一一月九日三川鉱において起きた後記炭じん爆発により発生した一酸化炭素ガスによりガス中毒に罹患した者である。
二 本件事故の発生状況及び原因
1 被告は、昭和三八年一一月九日午後三時一二分頃、その経営管理する三川鉱第一斜坑(以下「本件坑道」という。)において炭じん爆発を引き起こし、多量の一酸化炭素ガスを発生させた。
2 本件爆発の原因は次のとおりである。
(一) 本件爆発当時、本件坑道の坑底から硬積み鉱車(各約4.2トン)が一〇両編成で巻き上げられていたが、坑口より一一八六メートル附近で二両目と三両目の鉱車を連結するリンクが破断して後部の八両の鉱車が坑底へ向けて逸走した。右逸走鉱車は、その後傾斜約一一度五一分の軌道上を三三五メートル逸走して秒速四〇メートルの速度で三一〇メートル坑道分岐点ポイントにさしかかり、同所において全車両(八両)が脱線し、それより約三五メートル下方で第一一原動機座前のベルトコンベアフレームに激突して停止した。この間の逸走及び激突によって坑道内に堆積していた炭じんを舞上がらせ、坑道内に炭じん雲を猛烈な勢いで形成した。
(二) この間において、鉱車の車体と鉄枠、軌条、コンベアフレーム等との激突により発生した摩擦熱又は摩擦火花、脱線鉱車又はそれが引き倒した鉄枠の激突により坑道の特別高圧ケーブルの絶縁が破壊された結果発生した溶損火花、電球の破壊によるフィラメントの燃焼焔、以上のいずれか若しくはこれらの複合したものが火源となって右炭じん雲に着火し、爆発するに至った。
三 被告の責任
1 炭じん爆発とその原因
炭じん爆発は、坑道内にある炭じんが浮遊飛散して炭じん雲を形成し、これに何等かの火源が着火して発生するものである。爆発そのものはもとより、これによって発生する跡ガスによる被害の重大性に鑑み、炭じん爆発の危険性については本件大災害を遡る古い時代から指摘され、その防止策が研究され実施されてきた。炭じん爆発を防止する要は、原因となる炭じんそのものを発生、堆積させないということに尽きるのであり、だからこそ後述するような対策を講じることにより未然に防止し得るものとされてきた。
炭じん爆発を防止するためには、基本的には炭じんそのものの発生を極力抑えることが肝要とされるが、炭じん発生が避けられない場合には、これが飛散・浮遊しないように措置し、坑内に堆積した炭じんについてはこれを除去し、さらに堆積した炭じんがあっても、これを爆発性をもつものにならないようにするなど、幾段階もの対策が有効であり、かつ、可能である。具体的には、最低限度次の手段を講じることにより炭じん爆発は容易に防止し得る。
(一) 散水
適度の散水により石炭に水分を保たせることで、炭じんの発生そのものが制御され、また、発生した炭じんも十分な水分の補給をしていれば、浮遊飛散することはない。
(二) 清掃
所要の対策を講じてもやむなく発生し、堆積した炭じんについてはこれを除去する必要があり、そのためには定期的に坑道内を清掃することが求められる。
(三) 岩粉散布
仮に堆積した炭じんがあり、何らかの衝撃により炭じん雲を形成したとしても、これに相当量の岩粉が混入すれば、発生した炭じんも爆発性を有しないものとなるから、適宜坑内に岩粉を散布することも爆発防止に有効である。
2 炭じんの発生、堆積の放置
(一) 本件事故の起った本件坑道には、三川鉱はもとより他の宮浦鉱などから切出された原炭を坑外へ揚炭するためのベルトコンベア一二台が設置されており、右ベルトコンベアは毎分一五〇メートルの速度で原炭を坑外へ運搬する。このベルトコンベアの運転方向とは逆に、入気坑道である本件坑道の坑口からは毎分一六〇メートルの速さで入気が送られてきており、そのため運搬中の原炭は空気にさらされて乾燥し、その中に含まれている炭じんは飛散浮遊して坑道内に堆積して行く。さらにはベルトの振動やベルトコンベア段継の箇所での落下時の衝撃等によって原炭が破砕され、新たな炭じんが発生して、同様に坑道内に堆積していた。
(二) 右のとおり炭じんが発生し、堆積していたのに、被告はこれについて前述の如き炭じん爆発の防止対策をとろうとはしなかった。
① 散水について
ベルトコンベア上の原炭が十分な水分を保っていれば、これが飛散浮遊することは防ぎ得たのに、被告は、これに散水をほとんど行わなかった。そのために本件坑道に多量の炭じんを堆積させていくこととなった。
② 清掃について
飛散・浮遊して堆積した炭じんがあれば、これを定期的に水洗い又は箒によって清掃すべきであるのに被告はこれを怠った。三池争議前には、各ベルトコンベア原動機一台毎に合計一二名の当番が配置されていたが、本件事故当時には僅か一名に削減されていた。そのために堆積炭じんの清掃は、機械係・電気係・保安係の片手間仕事とされ、専任の清掃担当者や責任者を置くなどといった措置は放棄された。特に本件事故直前の昭和三八年五月一六日には、福岡鉱山保安監督局長からの通告により、週一回の清掃を実施するように改善を指示されていたのに、被告はこれを遵守せず、定期の炭じん清掃を行わなかった。
③ 岩粉散布
被告は、本件事故後になって、岩粉散布をするに至ったものの、本件事故以前には全く実施していなかった。
3 鉱車、坑道についての安全対策の不備
本件事故の原因は何よりも、多量の炭じんを坑道内に発生・堆積せしめたことに起因するものであるが、加えて以下の点についても被告が所要の対策を講じていたなら本件事故を回避し得たのに、被告はいずれについてもその義務を怠った。
(一) 鉱車の安全管理の懈怠
本件事故の発端は、連結リンクが破断したことにより、鉱車が逸走したことにある。破断したリンクは、本件事故当時既に一〇年余を経過した古いものであり、長年の使用によって相当摩耗・疲労していた。連結リンクの切断は、不良な材料の衝撃破断によるものと推定され、連結チェーンの内部には破断前に疲労による相当のひびが存在していたために比較的弱い衝撃力で破断したものと推察される。このような比較的弱い衝撃力で破断する程度に疲労していた連結リンクを漫然と使用していた被告の鉱車の安全管理の怠慢が本件事故を惹起した一因である。
(二) 鉱車逸走防止対策の不備
仮に鉱車が逸走したとしても、これを早期に停止させるための措置が講じられていたなら、逸走による炭じん雲の形成及び爆発の火源となった逸走鉱車による摩擦熱の発生、あるいは電気ケーブルの切断といった事態も生じていなかったところ、本件坑道には、僅かに坑口と七目貫下に逸走防止措置が講じられていたに過ぎず、その対策は極めて不十分であった。
(三) ベルトコンベアと車道の独立
宮浦鉱の斜坑にあっては、ベルトコンベア部分を煉瓦で覆ってトンネル状として、車道と独立させていた。これにより、炭じんの車道内への飛散・堆積が防止されるばかりか、鉱車が逸走してもベルトコンベアトンネル内の炭じんを舞上がらせることもなく、ベルトコンベアを直撃したりして火源を生ぜしめる危険も大いに減少する。しかるに本件坑道では、車道とベルトコンベアとの間に低い隔壁を設けたのみであって、その隔絶が不完全であった。
(四) 高圧電気ケーブルの保護の不備
過去の揚炭斜坑の炭じん爆発はその大部分が鉱車の逸走に基づく電気ケーブルの切断によって生じた火源が炭じん雲に着火して発生したものであった。本件炭じん爆発も、その着火源は、鉱車逸走によって坑道内の高圧ケーブルが破断されたために生じた溶損火花である可能性が大きい。炭じん爆発の原因の一つとして、電気ケーブルが逸走鉱車によって破断されて引き起こされることが多いことは被告も知り得たのであるから、主たるケーブルは、隣接している人車坑道たる第二斜坑に設置するなり、あるいは、地下埋込式としたり、鉱車から可能な限り離して設けるなりの措置を講ずべきであったにもかかわらず、被告は、いずれもこれらの措置を怠った。
4 跡ガス及び救援・避難対策の不備
(一) 跡ガスの伝播による被害の拡大
本件炭じん爆発により死亡した者の内、爆発の直撃により死亡したのは二〇名のみであり、他の死亡者は全て爆発のために発生した跡ガス(CO、CO2)を吸入して死亡したものであった。かように炭じん爆発では、爆発自体による被害もさることながら、爆発によって発生した跡ガスが坑内に充満して労働者を襲い、多数の労働者を死亡させ、あるいは、重篤な中毒症に罹災せしめる。本件事故の際には、爆発後二〇分ないし三〇分後には跡ガスが三川鉱内の主要部に到達しており、多くの労働者がこれを吸引して死亡した。さらに後述のとおり救援体制の大幅な遅れのため死者が増大したばかりか、被災原告ら重篤な中毒症患者多数が生じるに至ったのである。
(二) 跡ガス発生の際の対策
炭じん爆発により跡ガスが発生した場合、何よりも跡ガスから労働者を遮断するため、次のような措置を事前事後にとる必要がある。
(1) 緊急連絡と避難の指示
坑内労働者に対して直ちに事故の発生を通報して適切な避難誘導を指示すべきである。爆発によって坑内の電信・電気回路が不通となることが予想されるので、これに備えて非常用の電信・電気回路を設置するなどして緊急の際の坑内への連絡体制を保全すべきである。また、係員には事故時における避難誘導の経路・方法・安全対策等についての十分な教育・訓練を施し、災害時に適切な指示ができるようにしておくべきである。
(2) 緊急避難施設、自己救命器の備え付け
跡ガスが発生した場合、救出を待つ間の避難場所として非常集合所を設けて酸素ボンベや自己救命器・医薬品・食糧等を備え置く必要がある。さらに坑道内の主要箇所や避難所には各地点から坑外に至る安全な避難通路を図示するなどして、労働者が迷うことのないように措置しておくべきである。また、労働者全員につき、一酸化炭素用自己救命器(ガスマスク)を携帯させるべきである。
(3) 非常通気
発生した跡ガスを速やかに坑外へ排出し深部への充満を防止するために、目貫の風門を開いて通気を短絡させる一方、坑道内の通気を遮断するための施設を講じておく必要がある。
(4) 日常の教育と訓練
突発的に起きる爆発に備えて、平素から労働者に対して跡ガスに関しての安全教育、避難訓練を実施しておく必要がある。
(5) 救助及び緊急治療体制
十分な装備と訓練を受けた救護隊の平素からの編成と待機、さらに災害に即応できる緊急治療体制の確立が必要である。これらの組織を被告が事故発生と共に適切・迅速に運用し、被災者の救出に努めるようすべきである。
(三) 被告の義務懈怠
跡ガスの発生に対応すべき義務は前述のとおりであるが、被告はいずれもこれらの義務を怠った。
(1) 被告は、本件事故が炭じん爆発であり跡ガスにより坑内の多数の労働者に危険が生じていることを認識しながら、坑内労働者へ跡ガスの発生、その流れていく経路、避難すべき経路・方法について何ら適切な指示を与えなかった。また、係員への教育・訓練が不十分であったため、多くの係員が適切な指示・誘導をなしえず、責任を放棄した。そのために、被災原告らの多くは跡ガスの発生すらも知らされぬままに長時間にわたって暗い坑内に取り残され、ある者は作業現場において、また、ある者は脱出する途中において、多量の跡ガスを吸引して中毒症に罹患せしめられた。
(2) 被告は、本件事故当時、三川鉱内に酸素ボンベ等を備えつけた非常集合所を設けることもなく、個人用の一酸化炭素用自己救命器も被災原告らに携帯させなかった。
(3) 本件事故により、多量に発生した跡ガスが入気経路に沿って坑内に充満していったのに、坑内にはこれを防ぐ施設もなく、被告もこれを放置していた。そのため、跡ガスは坑内全体に充満し、被災原告らをガスに暴露させた。
(4) 被告は、跡ガスに関する教育を実施せず、特に緊急避難の経路・方法についての適切な指導・訓練を怠った。被災した労働者の中には、宮浦鉱連絡坑道や四山鉱ベルト卸坑道を経て自力で脱出した者もいたが、これらの者はたまたまこれらの坑道を知っていたか、知っていた者に付いて行ったために助かった者であった。したがって、坑内の各所において避難すべき経路が図示されるなどして労働者に周知されており、さらに日常の避難訓練が十分なされていれば、さらに多くの労働者が脱出し、救命された。
(5) 事故発生後、救護隊の先発隊がようやく坑内に入坑したのは、事故当日の午後五時近くになってからであり、三川鉱隊の本隊入坑は午後五時半近く、四山鉱・宮浦鉱の救護隊の入坑はさらにその後であった。救護隊はその人員も僅か一〇〇余名に過ぎず、その装備も不十分であったため、これにより事故当日の九日中に救出された者は、僅か数名に過ぎなかった。このように、被告は、平素の救護隊の装備・訓練を怠り、本件事故時の救出を遅延させ、多くの労働者の救出の機会を奪った。
5 救援隊への安全配慮の懈怠
被告は三川鉱や他の鉱の一般労働者を救援隊として三川鉱へ送り込んだが、それら労働者は作業着にヘルメットとキャップランプをつけた平常の作業姿のままで出動させられ、酸素ボンベやガスマスクといった跡ガスから身を守る装備は一切なく、担架や毛布といった救援器具も極めて不足していたため、救援作業は困難を極めた。このため、救援隊の労働者の中からも坑内に残っていた跡ガスを吸引し、一酸化炭素中毒に罹患した者が多く出た。
本件被災原告ら中では、塚本清が被告の指示で救援隊として入坑し、一酸化炭素中毒症になったが、これは前記のとおり被告が救援隊員の安全につき配慮を怠ったためである。
四 被告の責任の法的根拠
1 不法行為ないし工作物責任
(一) 事故発生に関する被告の責任について
(1) 被告は、前記三2、3記載の義務を怠って炭じんを堆積させ、本件炭じん爆発事故を惹起させたものであるから、民法七〇九条により損害を賠償すべき責任がある。
(2) 本件坑道を含む三川鉱全体が土地の工作物に該当し、被告はその占有者かつ所有者であるところ、前記三2、3記載のとおり、被告は、坑道に炭じんを堆積させたばかりか、鉱車・坑道の安全対策が不備で、その設置、保存に瑕疵があったものというべく、民法七一七条により原告らの損害を賠償すべき責任がある。
(二) 跡ガス対策等に関する被告の責任について
(1) 前記三4記載のとおり、被告は跡ガス対策としてとるべき義務を懈怠し、そのため被災原告らを跡ガス吸引による一酸化炭素中毒に罹患せしめて損害を被らせたものであるから、民法七〇九条により損害を賠償すべき義務がある。
(2) 跡ガス対策に関しても、土地の工作物たる本件坑道を含む三川鉱全体につき、十分なる安全対策が求められるところ、前記指摘のとおり被告は跡ガス対策を怠り、そのため被災原告らを一酸化炭素中毒に罹患せしめたものであるから、民法七一七条により損害を賠償すべき義務がある。
(三) 亡宮嶋富太郎、同イシに対する責任について
右両名については、亡宮嶋重信の罹災、そして死亡によりその両親たる富太郎、イシの被った苦痛は甚大であるから、被告は、民法七一一条により右両名に対し損害を賠償すべき義務がある。
2 雇用契約上の安全配慮義務の不履行
(一) 被告は、雇用契約に基づいて労働者を坑内労働に従事させるにあたっては、事故等によって労働者の身体・生命を損なうことがないように万全の防止策を講じるべき雇用契約上の安全配慮義務を負うものである。特に炭鉱は危険性の高い職場であることに鑑み、被告が配慮すべき義務内容は完全かつ高度なものであることが要求される。しかるに、被告は前記三2、3、4記載のとおり安全配慮義務を怠り、被災原告らを罹災させたものであるから、民法四一五条に基づく雇用契約上の安全配慮義務の不履行責任を負う。
(二) 被告は前記三5記載のとおり、救援隊に対する安全配慮を怠り、跡ガスの残る災害現場へ原告塚本清を救援隊として出動させ、同原告を被災せしめた。したがって、被告は雇用契約上の安全配慮義務の不履行として、同原告の損害を賠償すべき義務がある。
五 損害
1 一酸化炭素ガス中毒症の一般的病理
(一) 肺から吸入された一酸化炭素ガスが血中でヘモグロビンと結合し、そのため血液中の酸素欠乏を生じ、人体の各組織に無酸素あるいは低酸素状態をつくり、その結果人体の各組織(特に脳組織―中枢神経系)に非可逆的な破壊をもたらす。
(二) 血漿中に溶けた一酸化炭素そのものが体の各部分に運ばれ、呼吸酵素に対して直接的に作用し、身体の各器官の細胞に障害を与える。
(三) 一酸化炭素自身の作用以外に、一酸化炭素に暴露されたこと、中毒したことが、生体に自律神経系を中心として非特異的な生体反応を引き起こし、身体の様々の部位に障害を起こす。
(四) このような作用の結果、十分な酸素が供給されることを最も必要とする大脳や中枢神経系に影響を及ぼすことはもちろん、胃腸、膵臓などの消化器や心臓、肺、腎臓さらには眼、耳などの感覚器など、全身の器官に影響を及ぼし障害を与える。
その結果、一酸化炭素中毒症として様々な精神神経症、その他の機能障害を招来することになる。
2 一酸化炭素ガス中毒患者の症状
(一) 身体上の被害
(1) 症状の経過
一酸化炭素ガスを吸った初期の段階では、頭痛、眩暈、吐き気等を生じ、さらに足、関節がガクガクするなどの身体的症状を呈する。
次に意識の障害が起こり、酔っ払いの状態になり、ひどくなると昏睡状態になる。他方で精神運動性興奮状態になり、歩き回ったりするなどの譫妄状態を呈することもある。
このような時期がある程度続き、死を免れて快復期に入ると次第に症状が明確になってくる。初期、急性期には、無酸素ないしは低酸素状態及び一酸化炭素自身の作用により血管の細胞が崩れて行き、脳のみならず肺、肝臓、心臓、脾臓等全身に、いわゆる「浮腫」を招来する。
急性期を過ぎて快復期に入ると、「浮腫」が取れてきて修復されるが、壊れた細胞はその後も変性を残して行き障害として現れてくる。
(2) 重症者の臨床症状
① 精神症状
最も重篤なものにあっては原始反射(物を口のそばに置くと反射的に噛み、手のそばに置くと握るという新生児にみられる反射)を呈する失外套症侯群という全精神の解体した状態を呈し、軽いものでも痴呆状態を呈し、ほとんど無為、寡動の状態を示す。
この他、記憶、思考力減弱(失見当、記銘・記憶・計算・思考力の障害)、情意減弱(感情面における無欲・不関・暗さ・鈍さ、意志面における積極性減退・気力喪失・寡動)、鬱状態、心身故障の訴え(頭痛・不眠・性欲減退・物忘れ・いらいら・意欲減退などの自覚症状)がみられる。
また、人格変化として、行動や言動に関して過去において習得されたものの脱落、言動における小児的傾向、抑制の減弱、積極性減退、情動の軽薄化と多幸症などが目立ってみられる。
② 神経症状
原始反射については、開口反射、把握反射、部分的抵抗、巣症状としては、失認、失語、失行、錐体外路症状としては、筋硬直、手指の震え、錐体路症状として痙縮等による肘、手関節、指関節の屈曲、脳神経症状としては、発音障害、顔面神経麻痺、眼球振盪、末梢神経症状としては、神経痛、知覚鈍麻、運動障害、自律神経症状としては発汗過多、皮膚紋画症、四肢の寒冷など、その他の身体症状としては、心臓・循環器系の障害、肺・呼吸器系の障害、肝障害、糖尿病、難聴、眼疾患、貧血、高熱発作、突発性白血球増多、性欲減退ないしインポテンツ等々の多彩な症状を呈する。
(3) 軽症者の臨床症状
① 最も多く見られる臨床像は、心身故障の訴えに合併しての情意障害、記憶ないし思考力減弱、神経と身体症状の組合わせからなる症状である。
② 心身故障の訴えの主なものは、頭痛、頭重、眩暈、いらいら、疲れ易さ、性欲低下、物忘れ、全身倦怠、不眠、疼痛、耳鳴、集中困難などである。
③ 神経症状については、下肢腱反射の減弱ないし消失及び同腱反射の左右差、眼振などの脳神経、錐体路症状、振戦(眼瞼、手指、舌尖)、筋強剛などの錐体外路症状のほか、発汗過多、四肢の冷えなどの自律神経症状等がみられる。
④ 精神症状としては、不活発、無為、鈍い、茫乎、不関的といった人格水準低下を思わせるものを中心に、痴呆・記銘力・記憶力低下・回りくどい・しつこい・抑鬱的・暗い・易怒・爆発・易感・過敏・気分易変などの加わった症状がみられる。
⑤ 身体症状としては、赤色視野狭窄、神経性難聴、胃腸障害、糖尿病等の内分泌障害、肝機能障害、発熱、全身の諸関節について「ガクガクする」「痛みがある」などの関節症、浮腫、早老などの多彩な全身的疾患が認められる。
(二) 精神的被害
本件事故による一酸化炭素中毒患者の精神的苦痛は、被災時暗黒の坑内に取り残され死に直面した、想像を遥かに超える恐怖と絶望から始まり、その後も一酸化炭素中毒に対する不安、葛藤、苦闘が延々と連続してきた。一酸化炭素中毒のために、精一杯働き、考え、活動することもままならず、平穏な家庭生活を送ることもできず、その後の人生を放棄することを余儀なくされた。
3 被災原告らの個別的被災状況及び療養経過等
(一) 亡宮嶋重信(被災当時二三歳)
本件事故当時、払採炭工として勤務。本件事故当日は、午後二時二〇分、三川鉱繰込場において係員から鉄柱回収作業の指示を受け、午後二時二二分第二斜坑人車にて入坑。三六昇西二片にて作業中にガスに襲われる。翌一〇日午後三時過ぎ意識不明になっているところを救援隊によって救出された。
意識不明のまま被告天領病院に収容され、昭和三八年一二月二〇日、熊本大学病院へ転院。以来、意識不明の状態で一〇年余の闘病生活を送った後、昭和四九年一月六日同病院にて死亡した。
労災保険法により昭和四一年一〇月三一日長期傷病給付認定。
宮嶋重信の死亡により、同人の父宮嶋富太郎、母宮嶋イシが重信の権利を承継取得し、さらに、富太郎は昭和六三年一一月二六日に、イシは平成二年三月二四日にそれぞれ死亡したため、富太郎及びイシの子たる原告宮嶋伸次が、被告に対する右重信の被災による損害賠償請求権を遺産分割により相続した。
(二) 原告清水正重(被災当時三九歳)
本件事故当時、仕繰工として勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場で二六昇5.5片掘進の指示を受け、午後二時五二分第二斜坑から人車にて入坑。三五〇メートル坑道零片手前、人車内でガスに襲われた。意識不明で倒れていたところを同僚らに助けられ、事故当日の九日午後一〇時頃救出された。
意識不明のまま被告天領病院へ入院したが、昏睡状態が続き昭和三八年一一月二五日意識不明のまま九大病院へ転院し、現在なお入院闘病中。
労災保険法により昭和四一年一〇月三一日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級一級認定。
(三) 原告塚本正勝(被災当時三六歳)
本件事故当時、払採炭工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場で係員から作業指示を受け、午後一時五二分第二斜坑から入坑。三五〇メートル坑道奥の二五昇で作業中事故発生を知り、退避途中ガスに襲われた。二五昇捲立内で意識不明で倒れているところを発見、救助され、翌一〇日午前三時頃、宮浦鉱から救出された。
一〇日午前五時前、荒尾市民病院に収容されたが、意識不明で危篤状態が続いた。昭和三九年三月大牟田労災療養所に転院、昭和五七年二月大牟田保養院に転院、昭和五七年四月蓮沢病院に転院、昭和五九年八月被告天領病院に転院して現在も同病院に入院中。
昭和四一年一〇月三一日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級一級認定。
(四) 亡西田學(被災当時四九歳)
本件事故当時、坑内仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六昇東三片での作業指示を受け、午後二時五二分第二斜坑人車にて入坑。途中、三五〇メートル坑道零片手前入坑人車内でガスに襲われ、意識不明のまま救出された。坑内滞在時間一二時間、意識喪失七二時間。
荒尾市民病院に収容され、入院五日目頃から昏睡状態となり、危篤状態が続いた。昭和三八年一二月二四日、熊本大学へ転院。平成元年一〇月三一日死亡。
昭和四一年一〇月三一日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級一級認定。
原告西田政子は學の妻であり、遺産分割により同人の被告に対する損害賠償請求権を相続した。
(五) 原告東口一男(被災当時三六歳)
本件事故当時、払採炭工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において、係員から三六昇での岩巻き作業の指示を受け、午後二時二二分、第二斜坑から入坑。三五〇メートル坑道奥の三六昇にて作業中、ガスに襲われた。意識を失って倒れ、落石により一旦目覚めて救助された。搬送中再び意識不明となり、翌一〇日早朝宮浦鉱から救出された。坑内滞在時間一二時間前後、昏睡一一時間、意識障害二四時間。
同日早朝、被告天領病院に収容され、昭和三八年一一月一四日同病院平井分院に転院、翌昭和三九年三月大牟田労災療養所に転院、現在も入院中。
昭和四一年一〇月三一日労災保険の給付につき経過観察の認定。昭和四七年二月二九日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級二級認定。
(六) 原告永津忠行(被災当時四一歳)
本件事故当時、仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、第二斜坑から午前七時に入坑。三川鉱繰込場で係員から作業指示を受けて二五昇坑道のレール敷設作業に従事し、午後三時過ぎ作業が終了して昇坑途中、三五〇メートル坑道でガスに襲われる。意識不明となって約六時間後に気づき午後一一時頃宮浦鉱から脱出。
自宅へ戻ったが、頭痛や上肢の激痛等が起り、突然「空襲警報」と叫び出すなどの異常行動が発生したため、昭和三八年一二月一八日被告天領病院平井分院に入院。昭和三九年三月一八日熊本大学病院に転院、昭和五八年一二月荒尾保養院に転院、昭和五九年七月市民病院に転院、昭和六一年六月退院し、現在通院治療中。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級二級認定。
(七) 亡橋口宏之助(被災当時四四歳)
本件事故当時、仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二六卸5.5片現場での作業指示を受け、午後二時五二分第二斜坑から入坑。途中、三五〇メートル坑道零片手前入坑人車付近でガスに襲われ、同坑道に意識不明で倒れていたところを救出された。坑内滞在時間は約一〇時間。
翌一〇日午前〇時過ぎに被告天領病院に収容された。昭和三八年一一月一五日同病院平井分院へ転院。同年一二月五日熊本大学病院へ転院、平成二年六月一六日死亡。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級二級認定。
原告橋口アヤ子は宏之助の妻、原告橋口義見、同吉田啓子は宏之助の子であり、右原告らはいずれも同人の被告に対する損害賠償請求権を法定相続分の割合で相続した。
(八) 原告忠地義髙(被災当時二八歳)
本件事故当時、仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場で三六昇一片炭積作業の指示を受け、午前八時二分、第二斜坑から入坑。作業終了後、昇坑途中三五〇メートル坑道人車坑道付近でガスに襲われた。同坑道一四目貫付近で意識不明で倒れているところを救出され、翌一〇日午前四時頃宮浦鉱から救出された。
一〇日午前四時三〇分頃被告天領病院に収容され、同日午後一〇時頃一旦自宅に戻ったが、異常行動があったため昭和三八年一一月二二日熊本大学病院に転院し、現在も入院中。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級二級認定。
(九) 亡齊藤巖(被災当時四一歳)
本件事故当時、仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において二六昇での作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑から入坑。作業現場に向かう途中でガスに襲われる。三五〇メートル坑道二六ループ入口付近で意識不明で倒れているところを発見、救出され、宮浦鉱から昇坑。
翌一〇日午前三時三〇分頃荒尾市民病院に収容され、翌昭和三九年三月二四日、大牟田労災療養所に転院、昭和四九年三月二六日、同病院で死亡。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日長期傷病給付認定。
原告齊藤アサエは巖の妻、原告齊藤芳徳は巖の子であり、いずれも巖の被告に対する損害賠償請求権を法定相続分の割合で相続した。
(一〇) 原告猿渡三德(被災当時四六歳)
本件事故当時、仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場で係員から二六卸東五片材料運搬の指示を受け、午後二時五二分第二斜坑から人車にて入坑。人車にて作業現場へ向かう途中三五〇メートル坑道零片手前人車内でガスに襲われ、翌一〇日午前一時頃宮浦鉱から救出された。
意識不明のまま、一〇日午前一時過ぎ被告天領病院に収容されたが、三日間意識不明であった。昭和四三年八月八日大牟田労災療養所に転院、現在も入院治療中。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級二級認定。
(一一) 原告中山岩男(被災当時五二歳)
本件事故当時、掘進工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場で係員から三六連昇の硬割の作業指示を受け、午後二時四二分、第二斜坑から入坑。上層三六連昇の作業現場に到着後、ガスに襲われ意識不明となった。同日午後一二時頃発見され一旦目を覚ましたが、再び意識不明となり宮浦鉱から救出された。
翌一〇日早朝被告天領病院に収容されたが、同日午前一一時頃自宅に戻った。以来、現在まで入退院を繰り返している。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級二級認定。
(一二) 原告石原軍喜(被災当時四九歳)
本件事故当時、運搬工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三五〇メートル坑道人車材料運搬等の作業指示を受け、午後二時三二分第二斜坑人車にて入坑。三五〇メートル坑道で運搬作業中にガスに襲われ、意識不明となった。翌一〇日午前三時頃宮浦鉱から救出された。
意識不明のまま一〇日午前五時頃被告天領病院に収容され、昭和三八年一二月六日、久留米大学病院へ転院し、現在も同病院で入院治療中。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級一級認定。
(一三) 原告山崎辰秀(被災当時五二歳)
本件事故当時、坑内機械工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六昇ベルトコンベアでの作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑。作業現場の三六昇に到着後停電し、様子を見に行った係員も戻って来ないので三五〇メートル坑道まで戻る途中、ガスに襲われ、意識不明となって倒れた。翌一〇日発見され、午前九時頃、宮浦鉱から担架で救出された。
一〇日午前九時過ぎ大牟田市内の永田整形外科に収容された。昭和三九年三月一六日、大牟田労災療養所へ転院。昭和四三年一月熊本大学病院精神科に転院。昭和四三年四月から再び大牟田労災療養所に転院し現在も入院治療中。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日長期傷病給付認定。昭和五二年四月一日障害等級二級認定。
(一四) 亡坂井武義(被災当時四三歳)
本件事故当時、仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、係員から二六卸での作業を指示され、第二斜坑人車にて入坑。現場で作業中に煙に巻かれ二一卸四片口に退避し、その後、三五〇メートル坑道零片材料線付近等で救助作業に従事、その間ガスに襲われた。救助作業終了後、翌一〇日午前二時頃、宮浦鉱から昇坑した。
昇坑後、帰宅したが、気分が悪く、手足に痙攣が起るなどしたため自宅近くの渡辺病院で受診し、その後通院を続けた。食事の際意識不明になる等で三、四回同病院に入院。昭和五七年五月二日胃癌のため死亡。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日治癒認定。昭和五三年一二月八日障害等級七級認定。
原告坂井リツは武義の妻、原告坂井利光、同美濃部知代子、同坂井護はいずれも武義の子であり、それぞれ武義の被告に対する損害賠償請求権を法定相続分の割合で相続した。
(一五) 原告野田嘉次郎(被災当時四五歳)
本件事故当時、掘進工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二一連卸掘進の作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車にて入坑。作業現場へ向かう途中、四五〇メートル坑道人車乗込中にガスに襲われた。ダイナマイト三人分を抱えて足がガクガクしていたものの、事故当日の九日午後六時頃、四山鉱から自力で昇坑した。
九日午後九時頃自宅に帰り、二日目位から興奮して突然襖二枚を破る等の異常行動があった。昭和三九年二月一日職場復帰のために入坑したが耐えられず、同年二月五日から大牟田地評曙病院に通院し、現在なお同病院にて通院治療中。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日治癒認定。昭和五三年一二月八日障害等級七級認定。
(一六) 亡赤井章(被災当時四六歳)
本件事故当時、電気工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から作業指示を受け、午前七時四二分頃第二斜坑から入坑。作業終了後昇坑中三五〇メートル坑道でガスに襲われ、意識不明となって倒れたが、途中で目覚め逃げ道を探していたところを救助され、翌一〇日午前〇時過ぎ宮浦鉱から救助された。
一〇日午前二時頃、被告天領病院に収容されたが、午前中のうちに「帰ってよい」と言われ帰宅した。しかし、数日後から頭痛、不整脈などのため大牟田地評曙病院に通院を続けた。昭和五九年七月二三日同病院に検査入院、七日後の七月三〇日心臓発作により死亡した。
昭和四一年一〇月三一日経過観察の認定。昭和四七年二月二九日治癒認定。昭和五三年一二月八日障害等級七級認定。
原告赤井市は章の妻、原告野田里和子、同赤井広行、同赤井心平はいずれも章の子であり、それぞれ章の被告に対する損害賠償請求権を法定相続分の割合で相続した。
(一七) 原告川口幸太郎(被災当時三八歳)
本件事故当時、掘進工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から四五〇メートル連延坑道の掘進作業の指示を受け、午後二時四二分、第二斜坑人車にて入坑。作業現場へ向かう途中、四五〇メートル坑道人車乗場でガスに襲われた。負傷した同僚を助けながら、五二〇メートル坑道を経て本件事故当日の九日午後七時頃四山鉱から自力で昇坑した。
昇坑後自宅へ帰ったが、頭痛、耳鳴りがあり右足に痙攣が来たため、翌一〇日被告天領病院で受診し、以後空室がないため通院した。昭和四〇年一〇月二日三池保養院(精神病院)入院。昭和四三年七月から強制退院のため組合の仮設病院に入院。昭和四五年七月から大牟田地評曙病院に転院。昭和四八年平の山病院に転院。その後通院。昭和五八年八月曙病院へ再入院。平成元年九月二九日動脈閉塞症のため右足切断手術。現在も大牟田記念病院で治療中。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級一二級認定。
(一八) 原告山田勝(被災当時二八歳)
本件事故当時、掘進工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三五〇メートル坑道二六卸での切上足場作業の指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑。二六卸で作業中にガスに襲われた。周囲の人が倒れたので三五〇メートル坑道に出て、さらに同坑道連延坑道奥の九目貫の風門を開こうとしたが出来ず、三五〇メートル坑道に戻ったところで意識不明となり倒れた。意識不明のまま倒れているところを救助され、宮浦鉱から救出された。
翌一〇日午前〇時頃被告天領病院に収容されたが、朦朧状態で病院を抜け出し、同日、大牟田市内の永田整形外科に入院。さらに昭和三八年一一月一二日中島整形外科へ転院。昭和三九年三月一六日大牟田労災療養所へ転院。昭和四三年三月仮設病院入院。
昭和四一年四月三〇日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級七級認定。
(一九) 原告中島好行(被災当時四七歳)
本件事故当時、掘進工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二六卸の掘進作業を指示され、午後二時四二分第二斜坑人車にて入坑。作業現場へ向かう途中停電となり、徒歩で三五〇メートル坑道九目貫人道階段下まで退避した際にガスに襲われ、意識不明となり倒れた。意識不明のまま救助され、宮浦鉱から救出された。
翌一〇日午前五時三〇分頃、被告天領病院に収容された。四、五日後意識が戻り帰宅した。しかし、頭痛や吐き気などのため、間もなくして荒尾市の高森病院に入院。昭和三九年三月一六日大牟田労災療養所へ転院。昭和四三年二月強制退院。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級七級認定。
(二〇) 原告江口忠男(被災当時四三歳)
本件事故当時、仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から四五〇メートル坑道二一卸向い連卸での材料運搬を指示され、午後二時四二分第二斜坑人車にて入坑。現場へ向う途中の四五〇メートル坑道人車乗場にてガスに襲われた。自力で五二〇メートル坑道を通って、事故当日の九日午後六時三〇分頃、四山鉱坑口から脱出した。
九日午後七時五〇分頃帰宅したが、二日位して頭痛、耳鳴りなどのため被告天領病院で受診し、以後通院した。昭和三九年一月二三日被告天領病院入院。昭和四三年一月強制退院。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級一二級認定。
(二一) 原告江崎治己(被災当時三〇歳)
本件事故当時、払採炭工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、係員から二六卸部内での作業指示を受けて入坑。二六卸部内に到着して作業にかかった直後、煙にまかれ、二一卸四片口に退避、その後、三五〇メートル坑道零片材料線排気坑道等で救助作業に従事、その間ガスに襲われた。救助作業終了後、事故当日の九日午後一一時過ぎ宮浦鉱から昇坑した。昇坑後も三川鉱で行方不明の人を捜す手伝いなどをし、翌一〇日午前八時頃帰宅した。翌日からも近所の葬儀の世話などをし、一週間後疲労感と頭痛のため被告天領病院平井分院で受診、その後、通院。その後大牟田地評曙病院へ通院。昭和三九年九月大牟田労災療養所にてリハビリ治療を受けた。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級一二級認定。
(二二) 原告中尾進(被災当時四〇歳)
本件事故当時、掘進工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から四五〇メートル連延坑道の枠張り作業の指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車にて入坑。作業現場へ向う途中、四五〇メートル坑道の人車乗場でガスに襲われた。同僚を助けながら、五二〇メートル坑道を経て自力で退避し、午後七時前後四山鉱から脱出。
事故当日の九日午後一〇時頃帰宅したが、一二日目に頭痛、眩暈などのため被告天領病院で受診し、通院した。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級一二級認定。
(二三) 原告勝永末人(被災当時三七歳)
本件事故当時、払採炭工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六昇東払立柱の作業指示を受け、午後二時二二分第二斜坑人車にて入坑。三六昇東一片にて作業中ガスに襲われた。他の被災者を助けながら宮浦連絡坑道まで退避し、再び救助のため三六昇に引き返したが、自分にも限界が来たので救助を要請しようとフラフラになりながら宮浦連絡坑道に引き返したところ、救助隊に助けられ、深夜宮浦鉱から昇坑した。
昇坑後も三川鉱に行き、死体の確認作業等を手伝つた。昭和三八年一一月一一日朝帰宅し、さらに葬儀の手伝い等を行ううち、四日目に人の名前が書けない等の異常に気づき、高森病院で受診。さらに熊本大学病院で受診し、昭和三九年一〇月、大牟田労災療養所に入院。昭和四三年一月強制退院。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級一四級認定
(二四) 原告沖克太郎(被災当時二三歳)
本件事故当時、坑内機械工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二六卸四片払のコンベア据え付け作業の指示を受け、午前八時二分、第二斜坑人車にて入坑。午後三時頃作業を終了し、三五〇メートル坑道人車乗場へ向かう途中ガスに襲われた。同坑道零片材料線付近まで来て意識を失い倒れた。意識不明となって倒れているところを救助され、事故当日の九日午後一一時頃宮浦鉱から救出された。
九日午後一一時過ぎ被告天領病院へ収容された。昭和三八年一一月二五日頃大牟田労災療養所へ転院。昭和四三年一月一九日強制退院。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級九級認定。
(二五)原告織田喬企(被災当時二三歳)
本件事故当時、仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から本延当り付の作業指示を受け、午後三時一〇分頃第二斜坑人車にて入坑。第二斜坑を入坑途中の入車の中で爆風共にガスに襲われた。しばらく人車内に伏せていたが、同乗していた四人と共に歩き、自力で第二斜坑坑口から午後三時五〇分頃脱出。
昇坑後死亡者の確認作業を行ったり同僚を見舞ったりしていたが、数日後から頭痛や耳鳴りがする等のため大牟田地評曙病院で受診し、その後も通院治療を続け、昭和三九年二月に現場に復帰した。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級一四級認定。
(二六) 原告山本典之(被災当時三五歳)
本件事故当時、運搬工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から四五〇メートル坑道二六卸の電車操作の作業指示を受け、午後二時三二分第二斜坑人車にて入坑。途中四五〇メートル人車乗場に到着した直後ガスに襲われた。負傷者を救助しながら五二〇メートル坑道を経て事故当日の九日午後七時過ぎ、四山鉱から脱出した。
脱出後、自宅に帰り酒を飲んだら黒い物を吐いた。しかし、数日間は葬儀の手伝い等に忙殺されたが、その頃から関節痛や頭痛が発生し、昭和三八年一一月一九日被告天領病院で受診し、その後、通院治療を続けた。昭和三九年二月一三日現場に復帰したが、同年八月と一一月に発作があり、休職して被告天領病院で治療を受け、昭和四三年一月再度現場に復帰した。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級一四級認定。
(二七) 原告井上文雄(被災当時二四歳)
本件事故当時、仕繰工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六昇での機材運搬作業の指示を受け、午前八時二分第二斜坑人車にて入坑。午後二時三〇分頃作業を終了し、午後三時一〇分頃、昇坑の途中、三五〇メートル坑道人車乗場から宮浦連絡坑道の近くまで来た時にガスに襲われ、脱出途中に意識を失った。翌一〇日午前三時頃、宮浦鉱から意識不明のまま救出された。
一〇日早朝、中島外科に収容され、しばらくして意識が戻った。昭和三九年春大牟田労災療養所へ転院。昭和四三年二月強制退院。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級九級認定。
(二八) 原告西原隆寛(被災当時二七歳)
本件事故当時、坑内機械工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三五〇メートル坑道二五昇二片払の配管その他の作業指示を受け、午前八時二分、第二斜坑人車にて入坑。午後三時過ぎ、作業終了後、昇坑のため三五〇メートル坑道零片人車乗場へ向かう途中、ガスに襲われ意識不明となった。午後八時頃意識が戻ったが、待たされて事故当日の九日午後一一時頃宮浦鉱から同僚の肩を借りて昇坑した。
帰宅して二日間は知人の葬儀を手伝ったりしたが、三日目に行動の異常に気付いた人から受診を勧められ、被告天領病院で受診し、その後通院した。昭和三八年一二月三日荒尾市民病院へ入院。昭和三九年四月一六日大牟田労災療養所へ転院。昭和四三年二月強制退院し、坑外職場復帰。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級一二級認定。
(二九) 原告池畑重富(被災当時二四歳)
本件事故当時、坑内機械工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二五昇二片払の作業指示を受け、午前八時二分、第二斜坑人車にて入坑。作業終了後、休憩所で坑外に電話していたところ停電となり、坑口へ退避するため二五昇から三五〇メートル坑道に出る途中ガスに襲われた。同僚を助けながら宮浦連絡坑道風門近くまでたどり着いた時に意識不明となった。事故当日の九日午後一一時頃、意識不明で倒れているところを発見され、宮浦鉱から救出された。
九日午後一一時過ぎ被告天領病院に収容され、翌日帰宅した。しかし、距離感が掴めない等の異常があったため一週間後から同病院に通院した。その後、腰痛、口内炎、神経症などのため入退院を繰り返す。昭和四三年三月坑内復帰。昭和四六年一〇月一〇日坑外特務工。昭和四九年六月新港造成職場。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級九級認定。
(三〇) 原告塚本清(被災当時五四歳)
本件事故当時、払採炭工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、午後六時頃社宅事務所の内野庶務係から救助に行くように指示を受け、事故当日の九日午後七時頃三川鉱坑口に集合。救援隊の一員として第二斜坑から入坑。三五〇メートル坑道人車乗場、同坑道材料線、宮浦連絡坑道付近で遺体の搬出などを行った。その間、酸素マスク、一酸化炭素マスクはもちろん、妨じんマスクすら貸与されないまま右現場と坑外とを数回往復し、滞留していた一酸化炭素ガスを吸った。救助終了後、翌一〇日午前一〇時頃三川鉱第二斜坑から昇坑した。
一〇日午前一一時三〇分頃帰宅し、近所の葬儀の手伝い等に走り回ったが、その間頭痛が続き、昭和三八年一一月一二日から寝込んだ。同月一三日に被告天領病院で受診。同年一二月一九日病状が悪化したため高森病院に入院。昭和三九年三月一六日大牟田労災療養所に転院。昭和四〇年七月一日強制退院。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級一四級認定。
(三一) 原告永野八藏(被災当時五三歳)
本件事故当時、掘進工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三五〇メートル坑道三六卸での作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車にて入坑。作業準備中に停電したので三五〇メートル坑道に出ようとしてガスに襲われ、意識不明となった。意識不明のまま、翌一〇日午前四時前、宮浦鉱から救出された。
一〇日午前四時頃荒尾市民病院に収容されたが、数日間傾眠状態が続いた。昭和三九年三月大牟田労災療養所へ転院。昭和四三年二月組合仮設病院に入院し、同年三月大牟田地評曙病院に転院。
昭和四一年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級七級認定。昭和五〇年九月一日障害等級五級に変更。
(三二) 亡小宮北勝(被災当時二六歳)
本件事故当時、掘進工として三川鉱に勤務。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六卸での作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車にて入坑。現場到着後停電となり、三五〇メートル坑道に様子を見に行ったところガスに襲われ意識不明となった。翌一〇日午前五時頃、宮浦鉱から救出された。
意識不明のまま被告天領病院へ収容されたが同日帰宅した。しかし、夜中に起き上がり暴れ出したので再び同病院に入院した。昭和四三年一月強制退院。昭和四三年三月坑外特務工。昭和四六年一月被告退職。昭和六三年三月二一日死亡。
昭和四三年一〇月三一日治癒認定。昭和四六年七月三日障害等級七級認定。
原告小宮浩昭、同小宮正昭はいずれも北勝の子であり、それぞれ北勝の被告に対する損害賠償請求権を法定相続分の割合で相続した。
4 亡宮嶋富太郎及び亡宮嶋イシの損害について
(一) 宮嶋富太郎、宮嶋イシは、本件事故の罹災者宮嶋重信の両親であり、重信は富太郎、イシ夫婦の三男にあたる。
重信は、中学を卒業後、鉱山学校に入学し、その後三川鉱に勤務しながら福岡県立大牟田高校の定時制を卒業した。同人は体格もよく、スポーツをするとともに学業にも秀で、しかも家族思いの優しい青年だったため、富太郎、イシ夫婦は同人の将来を期待していた。
ところが、同人は本件事故により、苦しそうに呼吸をし、全身を痙攣させ、手足の関節を異様に屈曲させて、じわじわと日々朽ち果てて行くばかりの姿になり、しかもこの状態は罹災後一〇年という長い期間継続した。同人は、最後には痩せ衰え、体中を皮膚病に冒され、肉が腐り骨まで見えるような状態で死んでいった。
(二) 富太郎、イシ夫婦による看護は、昭和三八年一一月一〇日午前三時過ぎ、被告天領病院にかけつけた時から始まり、四〇日間、同人らは同病院に泊り込みで看病した。
熊本大学病院に移ってからは、点滴、チューブによる呼吸管理と詰った痰の吸引、経鼻挿管による流動食の補給、排尿・排便の世話、褥創のためのマッサージ等により二四時間休みなく誰かが付き添っていなければならず、イシは当初から、富太郎は三年目から看病にあたり、イシは以来重信が死亡するまで一〇年二か月の間、一度も家に帰って泊ることがなかった。
このような看病のため、重信の死亡後、富太郎は目を悪くし、長年の過労のため寝たり起きたりの生活を送るようになり、昭和六三年一一月二六日死亡した。また、イシも長年の無理な生活のため手足の痺れや右足の関節痛に苦しみながら平成二年三月二四日死亡した。
(三) 原告宮嶋伸次の富太郎、イシの被告に対する損害賠償請求権の相続については、3(一)に同じ。
5 損害賠償額
(一) 被災原告らの慰謝料
以上のような本件事故の本質、被災原告らが本件事故によって受けた諸々の損害、被告の不誠実さなどを総合考慮すれば、原告らの慰謝料は、労働者災害補償保険法により業務災害としての補償給付のために認定を受けた障害等級にしたがい、①一級該当者につき三〇〇〇万円(長期療養中のまま死亡した亡宮嶋重信も同様。但し一級認定者のうち原告石原軍喜については二〇〇〇万円)、②二級該当者につき二〇〇〇万円(長期療養中のまま死亡した齊藤巖も同様)、③五級以下の該当者につき一〇〇〇万円をそれぞれ下らないというべきである。
(二) 亡宮嶋富太郎、同宮嶋イシの慰謝料
亡宮嶋重信の被害により両親である亡宮嶋富太郎、同イシが受けた精神的肉体的苦痛に対する慰謝料は、各一五〇〇万円を下らない。
(三) 弁護士費用
被災原告ら及び亡宮嶋富太郎、イシは、被告に対し本訴を提起するに当たり、その訴訟代理人弁護士に対し弁護士費用として損害賠償額の一割五分に相当する金員を支払うことを約定したので、同費用を請求する。
六 結語
よって、原告らは、被告に対し、それぞ別表二請求金額欄(訴訟承継のある場合は各訴訟承継人の請求金額欄)記載の各金員及びそのうち請求金額内訳欄中慰謝料欄記載の各金員に対する本件訴状送達の日の翌日である昭和四八年一〇月四日(但し、原告宮嶋伸次の請求のうち亡宮嶋富太郎、亡宮嶋イシら自身の慰謝料分として承継した三〇〇〇万円については宮嶋重信死亡の日の翌日である昭和四九年一月七日)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
第三 請求原因に対する被告の認否及び反論
一 請求原因一の事実中、原告塚本清、同江崎治己、亡坂井武義が一酸化炭素中毒に罹患したことは否認し、その余の事実は認める。
二 請求原因二の事実中、本件坑道内に堆積していた炭じんが浮遊して炭じん雲を形成し、これが本件爆発の原因になったこと及び爆発の火源が鉱車の摩擦熱以外のものであることは否認し、その余の事実は認める。本件事故は、以下に述べるとおり不可抗力による炭じん爆発であった。
1 堆積炭じんについて
(一) 炭じんの発生、飛散、堆積の防止
本件坑道は、主として砂質岩層を掘削して構築された岩盤坑道であるから、坑道の天井、側壁及び床面自体から炭じんが発生することはない。また、本件坑道は入気坑道であるから、坑内の他の箇所で発生した炭じんが入気に逆らって本件坑道内に飛来することも考えられない。さらに、本件坑道左側半分の車道部分を鉱車による硬及び器材類の巻上げ巻下ろしに使用していたが、これらの作業は炭じんの発生とは無関係であるし、右の硬には通常相当な水分が付着しており、その水分が鉱車の巻上げ中に水滴となって坑道床面に滴り落ち、床面を湿潤にしていた。ところが、本件坑道右側半分にはベルトコンベア一二台が接続して敷設され、常時巻上げが行われているので、その送炭ベルト上の原炭から炭じんが発生、飛散して、坑道内に堆積する可能性があるから、被告は、左記のような各種の対策を講じ、右原炭からの炭じんの発生、飛散、堆積の防止に万全を期していた。
(1) 適度の付着水分の付与
被告は、本件事故当時坑内各所における採炭及び運搬の過程での積み替えの際等に十分な散水を実施していたので、本件坑道の坑底においてベルトコンベアに積載され、これにより坑外選炭場まで揚炭された時点での原炭には、炭じんの飛散防止の目的上十分な水分が付着していた。
(2) 段継箇所等についての対策
原炭はベルトコンベアの段継箇所にシュートと称する鉄板製の装置を取り付け、また、ベルト下のローラーには衝撃緩和のための特殊のクッションローラーを、コンベアの必要箇所にはベルト上からの落炭を防止する目的の円ブラシやシュートスイッチを装着するなど、炭じんの発生、飛散を防止する諸設備を備え付けていた。
(3) 隔壁・流水路の設置
本件坑道の中央部には、高さ約一メートル(場所により若干の高低がある)、厚さ約三〇センチメートルの煉瓦又はコンクリートで造られた隔壁が設置され、送炭ベルト上の原炭及び炭じんが左側半分の車道上に散逸、飛散、堆積するのを防止する機能をも営んでいたし、また、右側半分のベルトコンベア下の床面には、コンクリート舗装を施し、その上に常時水を流下させる流水路を設けていたが、これは、ベルト上から原炭や炭じんが落下してもこれを流下させて堆積を防ぎ、又は原炭が乾燥・粉化して炭じんとなるのを防止する機能を果たしていた。
(4) 炭じんの清掃
本件坑道内の炭じん清掃は、坑道内施設の種別に応じ、保線係、電気係及び機械係が分担実施していたが、各係の担当範囲は、保線係が車道、側壁(散水管を含む)、天井(枠上を含む)、隔壁等、電気係がケーブル、原動機座のモーターその他の電気機器等、機械係がベルト下(粉炭上げ)、フレームその他のベルト回り、原動機座の電気係担当部分以外の箇所等と定められており、いずれも当該係長、主席係員らの指導監督の下に、現場担当係員が現場の状況をみて、随時部下鉱員に実施させ、炭じんが多量に堆積することを防止していた。
(二) 本件事故当時の堆積炭じん量
三川鉱はもともと炭じん発生の少ない乙種炭鉱であるうえ、被告において前記のような炭じんの堆積防止対策を講じていたから、本件事故当時、本件坑道内に堆積していた炭じんは、極めて微量であった。ちなみに、被告は昭和三六年四月一三日から一九日にかけて、本件坑道の大掃除を実施した。それは、昭和一四年の三川鉱開鉱以来初めての試みであったが、本件坑道の側壁、天井までくまなく水洗いするなど大掛かりなもので、これにより本件坑道内の炭粉、炭じんはほとんど完全に除去された。その後被告が昭和三八年五月六日に行った本件坑道内の堆積炭じん量の測定結果によれば、当時の本件坑道内全体の堆積炭じんの総量は461.2キログラムを多く出なかったものと推定され、この炭じん総量が本件坑道内の全空間に均一に飛散して炭じん雲を形成したものと仮定して計算すると、その濃度は一立方メートル当たり約9.5グラム(最低爆発限界濃度は約一五〇グラム)に過ぎない。このように、右大掃除の実施後二か年余を経過した時点における本件坑道内の測定炭じん量が右の程度であったから、右測定後僅か六か月を経過したに過ぎない本件事故当時の堆積量は、右測定炭じんを多少上回るに過ぎなかったと推定される。
2 堆積炭じんの非爆性について
(一) 水分の付与
前記のような炭じんの発生、飛散、堆積の防止対策をとっていた上、後記風化岩石粉の混在等の理由から、本件坑道内においては特に炭じん雲の形成を防止し、ないしは炭じんを非爆性にすることを目的とする散水や岩粉散布は行っていなかったが(ちなみに、本件事故当時の石炭鉱山保安規則一三六条、一三九条、一四〇条によれば、乙種炭鉱である三川鉱ではかかる散水等を義務づけられていなかった)、本件坑道の右半分には流水路を設け、左半分は鉱車からの落下水滴と付近からの湧水とにより、いずれも常に湿潤に保たれていたから、仮にそこに炭じんが堆積しても、それが舞上がって炭じん雲を形成し、爆発の原因となるおそれはなかった。
(二) 風化岩粉の混在
本件坑道は、砂質岩盤を掘削して構築した坑道であるところ、右岩盤は極めて風化しやすい特質をもつものであるため、坑道の天井、側壁等の表面から風化した岩石粉が僅かずつながら四六時中坑道内に剥離降下し、それが坑道内の随所に飛散して堆積炭じんと混在堆積し、かくして炭じんを非爆性のものとしていた。
3 本件事故の経緯と原因について
(一) 初期爆発
本件事故当時、本件坑道内において、一〇両編成の鉱車が巻上げられていたところ、第八原動機座付近にさしかかった際、その二両目と三両目の連絡リンクが原因不明の荷重を受けて破断し、三両目以下八両の鉱車が傾斜約一一度五〇分のレール上を坑底に向かって逆走した。そして、三一〇メートル坑道分岐点に至って右八両全部が脱線し、そのまま猛烈な勢いで逸走を続けたが、その際、右鉱車群は、坑口の外側二七メートルの地点(以下「基点」という。)から約一六〇三メートルないし一六一〇メートルの間の保坑用のアーチ枠に激突してこれを引き倒し、そのうち五本を鉱車で押し、又は鉱車に載せて二、三〇メートル坑底側へ引き摺り、これを同所に散乱させた。やがて右鉱車群は、基点から約一六六五メートルの第一一原動機座前でベルトコンベアフレームに激突するなどしたため、同地点を先頭に基点から約一六四五メートルの地点まで約二〇メートルの間に一部が折り重なるようにして散乱停止した。
右時間帯は、たまたま勤務者の交代時間に当たっており、送炭ベルトは約一時間三八分停止していたため、その間ベルト上の原炭は入気にさらされ、その表面部分はかなり乾燥していた。ところが、前記のように鉱車群がアーチ枠を引き倒してこれを引き摺った際、右枠の脚が基点から約一六二三メートルないし一六二八メートルの間の送炭ベルト上の原炭を幅約一メートル、高さ約五センチメートルにわたり猛烈な勢いで掻きさらい、原炭約二四〇キログラムを坑底側に向かって飛散させたので、右原炭中に含まれていた炭じんが坑底側に吹き飛ばされて炭じん雲を形成し、さらに逸走鉱車の後方に生じた後流にも巻き込まれ、鉱車の後を追って坑底側に流動し、特に鉱車群が停止した付近に濃縮された。
そして、逸走鉱車が右のようにして停止するまでの間に、その車輪の一部が摩擦熱により炭じん雲の着火温度以上となったところ、右車輪に触れた右炭じん雲は、たまたま最低爆発限界濃度以上の濃度であったためこれに着火して爆発した。これが初期爆発であり、その爆源地は逸走鉱車群最後尾停止位置(基点から一六四五メートル)付近であった。
(二) 二次爆発以後の爆発
初期爆発によって発生した衝撃波及び爆風は、爆源から坑底側及び坑口側に向かって激しい勢いで進行し、送炭ベルト上の原炭中の炭じんを次々と浮揚させ、特に原動機座前で濃厚な炭じん雲を形成し、その炭じん雲は爆風の後を追って進行してきた爆炎によって着火し、かくて爆発は坑口側と坑底側に伝播していったのである。
4 結論
以上のとおり、本件爆発は、専ら、送炭ベルト上の原炭中の炭じんが最低爆発限界濃度を超える炭じん雲を形成し、これに着火したものであって、原告ら主張のごとく本件坑道に多量の堆積炭じんがあり、それが鉱車の逸走等により舞上がって炭じん雲を形成し、その炭じん雲に着火して発生したものではない。
しかるところ、送炭ベルト上の原炭が飛散した場合、その原炭中の炭じんが爆発の原因となる炭じん雲を形成するということは、本件事故当時の最高水準の科学的知識等をもってしても、予見不可能な事実であったから、本件事故は不可抗力による炭じん爆発であったといわなければならない。
ちなみに、本件事故当時の石炭鉱山保安規則は、炭じん爆発防止のための対策として、多量の堆積炭じんを坑道に堆積させないようにすること(炭じんの発生を防止し、堆積した炭じんを除去すること)と、堆積した炭じんを非爆性にすること(散水、岩粉散布)を定めているだけで、送炭ベルト上の原炭を非爆性にすることについては全く規定を欠き、現行の同規則もまた同様である。こうしてみると、現在の最高水準の科学的知識をもってしても送炭ベルト上の原炭中に含まれている炭じんが爆発することは予見されていないといわなければならない。
三 請求原因三について
1 請求原因三1の主張は、一般論としては認める。
2 同三2について
(一) 同三2(一)の事実中、本件坑道の送炭ベルト上の原炭に含まれている炭じんが、同ベルトの運転中入気によって飛散、堆積すること、ベルトコンベアによる送炭時に炭じんが発生、堆積することは否認し、その余の事実は認める。送炭ベルト上の原炭に含まれている炭じんは、それが乾燥している場合でも、毎秒六ないし七メートルの速度で風が作用しない限り、それが飛散することはない。
(二) 同三2(二)の事実中、本件坑道において、ベルト上の原炭に特に散水を行っていなかったこと、ベルト当番を減員したこと、原告ら主張の各係が炭じん清掃を行っていたこと及び本件坑道において岩粉散布をしていなかったことは認めるが、その余は否認する。被告が本件坑道で炭じんの堆積を防止するため万全の措置、対策を講じていたことは、前記二1に記載のとおりであり、その結果、本件事故当時本件坑道に堆積していた炭じんは極めて微量で爆発限界濃度の炭じん雲を形成させるに足るものではなく、しかもその炭じんが非爆性のものであったことは、前記二1、2で主張したとおりである。また、被告が本件事故当時、本件坑道に配役していたベルト当番は二名であったが、これは、争議中の昭和三五年八月以降逐次ベルトコンベアを駆動する原動機の減速機やプーリーの軸受けを毎日注油する必要がないような構造に変え、運転保護装置を整備し、運転監視系統を整えて監視所で監視を管理するなどして、原動機当番の作業が著しく軽減されるにいたったので、右作業量の軽減の程度に応じ、漸次その配置を減じたものである。
3 同三3の事実中、冒頭の事実は争う。
(一) 同3(一)の事実中、鉱車の連結リンクが破断して鉱車が逸走し、これに起因して本件事故が発生したことは認めるが、その余の事実は否認する。被告は、鉱車の逸走を防止するため鉱車の連結器を脱ピン防止の構造のものとし、安全性の高い連結リンクを使用し、かつ、鉱車について厳格な各種の点検、検査を実施していた。
(二) 同3(二)の事実中、本件坑道の坑口と七目貫下の二箇所に逸走防止装置を設置していたことは認めるが、その余の主張は争う。
(三) 同3(三)の事実は認めるが、本件坑道においてベルトコンベアと車道との隔絶が不完全であったとの主張は争う。なお、宮浦鉱で送炭ベルトの架設部分を煉瓦でトンネル状に覆って車道を独立させていたのは極めて短い区間であった。
(四) 同3(四)の事実中、本件坑道の左右の側壁に各種配電線が懸架されていたことは認めるが、その正確な位置は、以下のとおりである。すなわち、左側側壁には、高さ約三メートルの最上位に特別高圧ケーブル二条(鋼帯鎧装、一一〇〇〇ボルト)を配し、以下順に高圧ケーブル(二二〇〇ボルト)、電話線、電灯線、信号用ケーブルを配置し、右側側壁には高圧ケーブル(二二〇〇ボルト)、ベルトコンベア操作用ケーブル(二二〇ボルト及び一〇〇ボルトの二種類)及び電話線を配置しており、右各ケーブルは、それぞれ約三メートル間隔で坑枠にケーブルハンガーで懸架している。特別高圧ケーブルを鋼帯鎧装としたのは、外部からの衝撃に対し保護するためであり、坑道より三メートルの高位置に懸架したのは、鉱車が脱線しても、ケーブルに接触することがないようにするためである。
また、同事実中、本件爆発の火源が特別高圧ケーブルの溶損火花であることは否認し、その余の事実は争う。特別高圧ケーブルのケーブル吹きが発見されたのは、坑口から約一六〇七メートルの地点で、爆源地から坑口方向へ優に三〇数メートル以上も離れているから右ケーブルの溶損火花が火源となったものとは考えられず、火源は逸走鉱車の車輪の摩擦熱以外にはない。
4 同三4について
(一) 同4(一)の事実中、救援体制の遅れのため死者が増大し、重篤な一酸化炭素ガス中毒症患者が多数生じたとの点は否認し、その余の事実は認める。
(二) 同4(二)の事実は一般論としては認める。
(三) 同4(三)冒頭の事実は否認する。
(1) 同4(三)(1)の事実中、被告が本件爆発が炭じん爆発であり、これにより発生した一酸化炭素ガスが坑内に流れるのを認識したこと(但し、三池鉱業所の保安管理責任者らが本件炭じん爆発の発生を知った時刻は一五時四〇分頃であった)、被災原告ら(但し、原告塚本清、同江崎治己、亡坂井武義を除く)が作業現場または脱出途中などで一酸化炭素ガスを吸引して中毒症に罹患したことは認めるが、その余の事実は争う。
三川鉱の坑内外の連絡施設は、当時において予測された災害発生の蓋然性及び技術水準に照し、十分なものであった。ところが、本件事故により三川鉱の坑内と坑外とを結ぶ電話が全部不通となって、坑内との連絡が全く断ち切られてしまった。また、事故後直ちに坑内の探検に着手したが、爆発により坑道が損壊した上、全坑にわたり停電し、かつ、坑内は幾多の危険が予測されたので、探検にも限度があり、従業員を直ちに入坑させることはできなかった。このため被告は坑内状況を把握できず、坑外から坑内へ適切な情報や指示を与えたくとも与えられないまま推移したのである。それでも、係員は日頃から十分な教育・訓練を受けていたので、各現場の位置、環境、通気系統その他諸般の状況に即し、鉱員らの救出と自らの脱出のため最善を尽くした。
(2) 同4(三)(2)の事実は認める。
① 個人用の一酸化炭素ガス用自己救命器を被災原告らに携帯させていなかったのは、次の理由による。
右救命器については、被告は、かねて安全対策の一環としてその配備方を考慮していたが、昭和三六年七月一日石炭鉱山保安規則の改正により、同三七年一月以降これを配備すべきことが法律上も義務付けられるに至った(同規則七〇条の二、昭和三六年通産省令第五八号付則二項)。ところが、当時右器具は開発後未だ日が浅く、重松製作所の製品しかなく、しかもその生産能力は微々たるものであったため、被告が鋭意調達に努めていたにもかかわらず、容易に同社製品を入手できずに経過するうち、本件事故の突発に遭遇した。なお、前記改正規則によれば、監督官庁の許可があるときは、右器具の配備を一定期間猶予され得るところ(同付則四、五項)、被告は、前記事情に鑑み、暫定的措置として官庁に申請し、昭和三九年一二月末日まで右器具の配備を延期することの許可を得ていた。
② 当時石炭鉱山保安規則は原告ら主張のごとき非常集合所(避難所)の設置を義務付けていなかったし、当時避難所を設けていた炭鉱はなかった。また、各坑道間に掘削されている目貫や掘進切羽の詰のうちには避難所として利用できたものがあった。
(3) 同4(三)(3)の事実中、多量に発生した一酸化炭素ガスが入気経路にしたがって坑内に流れ、これによって被災原告ら(但し、原告塚本清、同江崎治己、亡坂井武義を除く)が被災したことは認めるが、その余の事実は争う。なお、炭じん爆発によって発生した一酸化炭素ガスの流れは一過性のものであるから、坑内に停滞して坑内全体に充満することはありえない。
(4) 同4(三)(4)の事実中、被災者の中に宮浦連絡坑道又は四山鉱ベルト卸坑道を経て脱出した者がいたことは認めるが、その余の事実は争う。被告は日頃から係員らに対し、坑内における異常事態発生の場合に備えての教育、訓練を十分施しており、鉱員についても必要な教育を行っていた。
(5) 同4(三)(5)の事実中、救護隊が原告ら主張の時刻に入坑したことは認めるが、その余の事実は争う。被告の救護隊の隊員数及び装備は適法・適正であり、被告は救護隊に関する規定を設けて、各種救護活動の訓練を実施して来たし、本件事故に際しては、その任務遂行に最善を尽くした。救急治療の体制及び活動についても、被告は適切な緊急医療措置をとった。なお、被告は坑内からの負傷者の救出、遺体の搬出等のため、救護隊のほか救援隊を編成し、随時可能な限り動員し、本件事故当日の九日だけで坑内二〇七一名、坑外四九〇名の多数の者がその活動に従事した。
5 同5の事実中、被告が救援隊を三川鉱坑内に入坑させたこと、その中に原告塚本清がいたこと及び救援隊の隊員が原告ら主張のごとき装備をしていなかったことは認めるが、その余の事実は争う。
救援隊は、酸素ボンベや防毒マスクなどの特別の装備を装着しなくとも、平常の作業中の服装で活動しうる安全な箇所で負傷者の救出、遺体の搬出その他の作業をさせるため、入坑させたものである。被告は救援隊を入坑させ右作業を指示するに際しては、その場所に一酸化炭素ガスが存在しないことを確認して隊員の安全を図った。
四 請求原因四について
1 同四1の主張はいずれも争う。なお、昭和四八年五月一一日の提起にかかる昭和四八年(ワ)第四二八号事件のうち、亡宮嶋重信名義による訴えの提起は、提訴当時重信には意思能力がなく重信本人の委任に基づき提起されたものではないから、同人の訴訟を受継した原告宮嶋伸次の訴えは、不適法として却下されるべきである。
2 同四2の主張中、被告がその雇用する労働者を労務に従事させるに当たり、その安全を配慮すべき雇用契約上の義務を負担していたことは争わないが、被災原告らに対して右義務の履行を怠ったこと及びその結果被災原告らが罹災したとの主張はいずれも争う。
五 請求原因五について
1 同五1の主張中、肺から吸入された一酸化炭素ガスが血液中のヘモグロビンと結合して血液中の酸素が欠乏を生じ、脳組織に障害を与えることがあること、一酸化炭素中毒症として様々な精神神経症状を招来することがありうることは認め、その余の主張は争う。
2 同五2について
(一)(1) 同2(一)(1)の主張のうち、一酸化炭素ガスを吸った初期の段階では、頭痛、眩暈、吐き気等を生じ、さらに足、関節がガクガクするなどの身体的症状を呈し、次に意識の障害が起こり、酔っ払いの状態になり、ひどくなると昏睡状態になること、他方で精神運動性興奮状態になり、歩き回ったりするなどの譫妄状態を呈することもあること、このような時期がある程度続き、死を免れて快復期に入ると次第に症状が明確になってくることは認め、その余は争う。
(2) 同2(一)(2)の主張のうち、心臓・循環器系の障害、肺・呼吸器系の障害、肝障害、糖尿病、難聴、眼疾患、貧血、高熱発作、突発性白血球増多、性欲減退ないしインポテンツ等々の多彩な症状を呈することは否認し、その余の事実は認める。
(3) 同2(一)(3)の主張は争う。
(二) 同2(二)の事実は争う。
3 同五3について
(一) 被災原告らの被災状況及び療養経過等が、原告塚本清、同江崎治己、亡坂井武義に関する分を除き、概要原告らの主張のとおりであったことは認める。相続関係は不知。
(二) 原告塚本清について
同原告主張の事実中、同原告が被告の指示により、本件事故発生後三川鉱三五〇メートル坑道において本件事故による被災者の救援作業に従事したことは認めるが、その作業中に同原告が一酸化炭素による中毒症に罹患したとの事実は否認する。
(1) 同原告は、昭和三八年一一月九日午後八時二〇分、係員から救援作業についての具体的な指示を受け、その後六人で編成された救援隊の一員として、係員の指揮のもとに、三川鉱第二斜坑から入坑し、三五〇メートル坑道において翌一〇日午前九時まで救援作業に従事した後、宮浦鉱坑口から昇坑した。
(2) ところで、本件事故によって発生した一酸化炭素ガスは、通気の流れにしたがって坑道内を進行し、新港排気竪坑坑口から坑外に排出されたのであるが、三五〇メートル坑道を流れた一酸化炭素ガスがその途中で坑内各部内に流れ込み、それぞれの部内で排気坑道に排出され終わるまでに要した時間は、いずれも爆発時から起算し一時間を超えていなかった。のみならず、第二斜坑からは絶えず大量の新鮮な空気が三川鉱坑内に流れ込み、坑内を洗って流れて行ったのであるから、同原告が入坑した午後八時二〇分頃には、すでに同坑内には、一酸化炭素ガス(少なくとも人体に障害をもたらす濃度の一酸化炭素ガス)が存在していなかったことは明らかである。
(3) しかも、係員は随時一酸化炭素検知器により、一酸化炭素ガスの存否を検知し、一酸化炭素が存在しないことを確認してから、同原告に救援作業を行わせた。
(4) そうしてみれば、同原告が係員から指示された救援作業中に一酸化炭素ガスによる中毒に罹患するということはありえなかった。
(三) 亡坂井武義、原告江崎治己について
(1) 昭和三八年一一月九日亡坂井、原告江崎は、いずれも上層二六卸にある各自の作業現場に着いたが、間もなく本件事故が発生し、そのために同部内も停電した。その後右両名は、それぞれ係員の指示により、同部内の片盤坑道からこれに続く上層二一卸部内の片盤坑道を通り、同部内本線四片口付近に至り、同所に集ってきた者とともに、係員の指示により同所に退避していた。上層二六卸の作業現場から、四片口に至るまでの右経路には、本件事故によって発生した一酸化炭素ガスは流れていなかった。
(2) その後しばらくして、係員は、一酸化炭素ガス検知器を使用して、部内本線坑道の昇側を探検し、同部内、零片材料線坑道及び同所から三五〇メートル坑道を経て宮浦鉱連絡坑道にいたるまでの間に一酸化炭素ガスが存在しなくなっていることを順次確認したので、右両名を含む四片口に退避中の者に、被災者の救援を求めた。右両名はこれに応じて、一酸化炭素ガスが存在しない右各坑道で救援作業に従事したもので、右両名が一酸化炭素ガスを吸ったということはありえない(仮に吸ったとしてもその量は極めて僅かであったとしか考えられない)。
4 同五4の事実中、亡宮嶋富太郎、イシが亡重信の両親であり、重信の看病に従事したことは認めるが、その余の事実は不知ないし争う。
5 同五5の事実中、慰謝料額は争う。
仮に、被災原告らが一酸化炭素中毒に罹患し、その損害につき被告が責任を免れないとしても、右損害は労災保険法及び厚生年金保険法などに基づく法的措置並びに被告が三池炭鉱労働組合との協定に基づき多年にわたり実施してきた多岐広汎な援護措置によってすでに補償され、また今後引続き補償されることが確実であるから、原告らの本訴請求は理由がない。
第四 被告の抗弁
一 消滅時効の援用
1 不法行為ないし工作物責任を責任原因とする請求についての消滅時効
仮に、原告らが被告に対しその主張する損害賠償請求権を取得したとしても、右請求権はいずれも昭和四八年五月一一日(昭和四八年(ワ)第四二八号事件)、及び昭和四九年四月九日(昭和四九年(ワ)第三七三号事件)の本訴提起前に三年の時効によって消滅したので、被告はこれを援用する。右時効の起算点は昭和四一年一一月一日である。
(一) 損害を知った時
福岡労働基準局長は、昭和四一年一〇月末日をもって被災原告らに対し左記のとおり治癒認定等の決定を行い、同月二五日その旨同人らに通知したので、同原告らは遅くとも同月末日までにはこれを了知した。
右決定の内容は、次のとおりである。
(1) 別表二番号1ないし4(但し1の(1)、(2)を除く)の被災原告らは「長期にわたってなお療養継続の必要が認められる者」に該当するので、同人らに対し長期傷病補償給付を行う(以下この被災原告らを「長期療養者」という)。
(2) 番号5ないし16の被災原告らは「さし当たり療養を必要とし、さらに観察の結果によって職場復帰の可能性のある者」に該当するので、同人らに対しては当分の間療養補償給付を行う(以下この被災原告らを「経過観察者」という)。
(3) 番号17ないし32の被災原告らは「労働能力が回復して職場復帰することについて支障がないと認められる者」に該当するので、同人らに対する療養補償給付を打ち切る(以下この原告らを「治癒認定者」という)。
右の治癒認定者は、たとえ何らかの障害を残していても、その症状が固定したと認められた者であり、同人らは、遅くとも前記昭和四一年一〇月末日には右事実を了知したのであるから、遅くとも同月末日までにはその損害を知ったものというべきである。また、長期療養者は、将来にわたり療養の必要がある旨、経過観察者は、差し当たり療養を必要とするが将来職場復帰の可能性がある旨認定された者であり、同被災原告らは、いずれも遅くとも昭和四一年一〇月末日には右事実を了知したのであるから、遅くとも同日までには本件事故により発生した損害及び将来発生が予想される損害を知ったものというべきである。もっとも、長期療養者は罹患後三年の右時点でなお療養継続の必要が認められたものではあるが、しかし、療養を必要とする症状自体は固定していたのであり、また、経過観察者も右時点では差し当たり療養を必要としたものの、将来は治癒し職場復帰が可能となるか、そうならないとしても、療養を必要とする症状は固定していたのであるから、本件事故による損害を知ったものである。
(二) 加害者を知った時
昭和三八年一一月九日本件事故が発生するや、いち早くその翌一〇日現地大牟田市に総評、日本炭鉱労働組合、関係県評及び三池炭鉱労働組合(以下「三池労組」と略称)を中核とする「三池大変災現地対策委員会」(以下「現地委員会」という。)が設置されたが、同日の第一回委員会確認事項の一つとして、本件事故により多数の死亡者・重軽傷者を出したことにつき、三池労組は被告に対する責任追及を進めていくべきことを議決した。同時に、本件事故は被告の保安軽視・生産第一主義の強行の結果により起るべくして起ったものである旨を各方面へ訴える趣旨の同日付け声明文が、右現地委員会、総評、日本炭鉱労働組合、三池労組等の名義をもって発表された。
そして、現地委員会調査班の名義による昭和三八年一一月一六日付け「三池大変災調査報告書」と題するパンフレット中には、本件事故の直接原因と問題点とが報告され、その中で、本件事故前、本件坑道には炭じんが堆積しており、しかもこれに水・岩粉散布等の処理がなされていなかったこと、着火の直接原因と想定される鉱車の逸走も被告の管理不十分の結果であること、本件事故発生後における救援・救護措置が極めて杜撰で、そのために被災者の数を増大させたこと等々、原告らが本訴の請求原因として主張するところとほとんど同様の事実が記載されている。また、現地委員会、三池労組その他の名義による同年一一月二五日付け「三池大変災の原因はこれだ」と題するパンフレット及び同年一二月一日付け「現地三池からの報告と訴え」と題するパンフレットにも、本件事故の原因として、右調査報告書と同工異曲の記事が載せられている。右各事実からも窺われるように、三池労組は、本件事故発生の直後から本件事故の責任は専ら被告にありとし、右主張を組合の内外特に所属組合員及びその遺族ら(被災原告らは組合員である。)に対し、宣伝パンフレットの配付その他あらゆる手段方法により熱心に啓蒙宣伝してやまなかったのであるから、被災原告ら及び宮嶋富太郎、イシは遅くとも昭和四一年一〇月末日までには、加害者は被告であると信ずるに至ったことは疑いの余地がない。
2 安全配慮義務の不履行を責任原因とする請求についての消滅時効
被告が安全配慮義務の履行を怠ったため、被災原告らが被告に対し右義務の不履行による損害賠償債権を取得したとしても、同債権は、左記の理由により時効によって既に消滅した。
(一) 時効の起算点について
被災原告らの一酸化炭素中毒症の症状は、主として事故の際の一酸化炭素ガスの吸引によって生じたもので、その大部分は事故後若干の日時を経過し漸次発現したものであるところ、右原告らの一酸化炭素中毒症の症状の発現及びこれによる損害の発生は、各人ごとに一様ではなかったが、同原告らは、前記1(一)のように遅くとも昭和四一年一〇月三一日までには各自の損害の全部を知った。したがって、被災原告らは、遅くとも右の日までには損害の全部につき賠償債権の行使が可能になったものと認めるべきである。
以上の理由により、右損害賠償債権の消滅時効の起算日は、昭和四一年一一月一日である。
(二) 時効期間について
被災原告らは、昭和六一年一〇月一五日付準備書面(同月二〇日被告に送達)により、初めて安全配慮義務の不履行による損害賠償請求をなすに至ったものであるところ、雇用契約に基づく安全配慮義務の不履行による損害賠償債権の消滅時効の期間は五年と解すべきものであり、仮にこれが認められないとしてもその時効期間は一〇年であるから、右原告らの損害賠償債権は昭和四六年一〇月三一日ないし昭和五一年一〇月三一日の経過により時効消滅した。
二 解決方法等に関する合意の成立
仮に、原告らが本件事故に起因して被告に対し損害賠償請求権を取得したとしても、原告らと被告との間には、遅くとも昭和四三年一月一二日までに左記趣旨の合意が成立したので、原告らの本訴請求は、同合意に反し失当である。
1 原告らは、被告が昭和四三年一月一二日及びそれ以前に三池労組(以下新労組と区別する必要がある場合のほか、単に「組合」ともいう。)との間で締結した本件事故に伴う原告らの援護等に関する諸協定を誠実に実施する時は、被告に対し右協定に定めるもの以外の金銭賠償等の請求は行わない。
2 将来経済事情その他の変更等により、原告らが被告に対し前項の諸協定の内容の補正等を要求しようとする場合でも、原告らは、組合を代理人とし、組合と被告との協議によってのみ右要求の実現を図るべく、原告ら各自が直接被告に対し金銭その他の給付を請求したり、そのための訴えを提起したりする等の手段に出ることはしない。
三 信義則違反
右二の合意が成立した事実が認められないとしても、本件事故の発生後一〇年にもなろうとする時期になされた本訴請求は、左記の事実に照し、著しく信義則に反するものであるから、許されない。
1 災害補償に関する労働慣行
従来炭鉱業界においては、労働災害を生じた場合、罹災者に対する労災保険法の補償を超える援護措置は、会社に不法行為等の責任があると否とに関わらず、会社と労組間の協議により処理されるのが一般であって、罹災者らが個々に会社に対して損害賠償その他の措置を請求し、会社がこれに応じて、労組の関与なしに当事者間だけで問題を解決するという事例はほとんどなく、少なくとも被告の場合、罹災者らは労組に交渉を委託し、労組はこれを受託して罹災者らの代理人として被告と交渉し、問題の解決に当たるのがほとんど慣行となっていた。
本件事故により原告らと同様に被害を受け、しかもその数が原告らよりもはるかに多い新労組員及びその遺族らは、後記2の諸協定と同一内容の諸協定がほぼ同時に新労組・被告間に成立したことにより、被告との間に前記二1、2と同旨の合意が成立した事実を認めた。そして被告に対し別個に損害賠償を請求する者が一人もないことはもちろん、被告の右諸協定の実施及びそのための会社経営の維持に協力しつつある。
2 罹災者らの援護等に関する諸協定の成立
昭和三八年一一月九日本件事故が発生するや、三池労組は、同月一四日被告に対し罹災者らの援護等に関する団交を求めてきた。そこで、被告は、右団交要求に応じ、同月二一日以降、当初は山元(三池鉱業所)において組合と団交を行ったが、事柄の重大性に鑑み、三池労組の上部団体たる日本炭鉱労働組合の参加も得て、中央(本店)において交渉を重ねた結果、同年一二月二一日ようやく原告らを含む罹災者らの援護等に関する第一次の協定等の成立をみるに至り、その後、事態の推移等に従い幾度か改定補足されてきた。
3 被告の措置の合理性
右諸協定(補正協定を含む)に定める被告の原告らに対する諸般の措置は、いずれも実質的に原告らの損害を填補するものとして合理的な内容をもち、かつ、原告らは、右措置による利益をすべて異議なく享受してきた。
したがって、被告に仮に不法行為等の責任があるとしても、現行法の認める金銭賠償よりもむしろはるかに実質的かつ合理的な賠償が行われてきたといって差し支えない。試みに第一次協定に定められた援護措置の項目だけを列挙してみても、次のとおりである。
(一) 死亡者の遺家族に関するもの
ア 弔慰金の支給
イ 仮葬儀費等諸雑費の支給
ウ 遺家族の被告若しくはその子会社の従業員への採用又は誘致企業その他の職場への就職等の斡旋
エ 遺家族の就職までの一定期間内の待機手当の支給
オ 遺家族の就職斡旋のための労使による救済委員会の設置
カ 遺家族の社宅使用の便宜の供与
キ 託児所の設置
ク 遺家族の帰郷旅費等の被告負担
ケ 死亡者の退職金の最低額の保障
(二) 一酸化炭素中毒患者に関するもの
コ 労災保険によるもの以外に二〇パーセントの休業補償の上積み支給
サ 入院者・通院者に対する見舞金の支給
シ 入院者の家族たる付添者に対する給食
ス 入院者の家族たる見舞者に対する手当の支給
4 原告らの態度と被告の信頼
(一) 原告らがもし第一次ないし第四次協定に不満で損害賠償請求訴訟を提起する意思があれば、少なくとも右各協定の成立後遅からぬ時期に訴えを提起することができた。
(二) 本件事故の発生後一年もたたない昭和三九年九月中、罹災者の遺族中数名が従来三池労組と密接な関係にあった佐伯静治弁護士らを代理人とし、元被告代表取締役社長栗木幹ら四名の会社幹部を殺人罪及び鉱山保安法違反の罪名で福岡地方検察庁に告訴した。原告らがもし被告に対し民事上の損害賠償請求権を行使する意思があれば、右時点で既に訴えを提起することも十分可能であった。
(三) 本件事故の発生後まさに三年の短期消滅時効期間を経過しようとしていた昭和四一年一〇月二五日、大部分の一酸化炭素中毒患者に対して治癒認定の通告がなされ、これに対し多数の原告らを含む三池労組員たる被認定者は、未だ治癒していない旨を主張し、間もなく不服申立ての手続きをとった。したがって、右原告らがもし損害賠償請求訴訟を提起するのなら、右時効期間との関係もあり、この時点において提起するはずだとみるのが常識的である。
(四) 被告は、前記1の事情並びに2、3及び右4(一)ないし(三)の経緯から、第四次協定の成立により、原告らが被告に対し訴えを提起することはもはやないものと確信し、その信頼に基づき前記協定に定められた援護措置の実施に営々として努力してきた。そして、その後も原告らの要求を容れて右協定の補正を行い、かつ、それを実施しつつ今日に至った。
第五 抗弁に対する原告らの認否及び反論
一 抗弁一の原告らの被告に対する損害賠償請求権が時効により消滅したとの被告の主張は争う。
1 民法七二四条にいう「損害を知る」とは、漠然と当の不法行為に起因する何等かの損害を知れば足りるものではなく、損害賠償請求権の行使が可能な程度に損害の内容・程度を認識できることが必要と解されるところ、被災原告らが罹災した一酸化炭素ガス中毒症による具体的症状は個人によって多彩・多種であり、精神神経症状を軸として全器官に機能障害がもたらされており、多彩・多種な症状が広範な全人格的損害を被災原告らに与えてきた。現在なお治療を続けている患者も多くあって、一酸化炭素中毒に起因する損害の実体は今なお深まるばかりであるとすらいえる。
昭和四一年の治癒認定で症状が固定したとされても、右治癒とされた症状により自己の被るであろう労働能力の喪失の程度や内容、さらには人格・生活破壊の内容程度をも認識し得るに至るのは、早くとも労災保険法に基づく障害等級の認定のあった昭和四六年七月のことである。もとより右認定すら被災原告らの身体の外形的症状をみるだけで全症状を正確に把握しうるものではないのであるから、被災原告らが自己の症状の程度・内容とこれに伴う損害を一応認識し、具体的資料に基づいて権利を実行することが可能となったのは、右認定の日以降のことである。
2 亡宮嶋富太郎、イシの損害賠償請求権の消滅時効期間は、亡重信が死亡した昭和四九年一月六日から進行するものと解すべきである。
3 安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償請求権は、契約上の損害賠償請求権であるから、民法一六六条、一六七条の適用を受け、権利行使の可能な時、すなわち権利行使をするにつき、法律上の障害がなくなった時をもって時効の起算点とすべきである。そして、本件において損害が発生したことを債権者において認識し、又はその可能性があると解されるのは、前記1で主張したと同様、早くとも障害等級認定の時である。
二 抗弁二の原告らと被告との間で被告主張のような合意が成立した事実は否認する。
三 抗弁三の事実中、被告主張の協定が成立したことは認めるが、その余は争う。協定の内容は被災者の救済として極めて不十分なものであった。
第六 原告らの再抗弁
一 債務の承認による時効中断
仮に、原告らの本件損害賠償請求権の消滅時効の起算点が被告の主張のとおりであるとしても、原告らは、本件事故の直後から、三池労組に委任して、被告に対し本件事故による損害の補償を要求して交渉を続けてきたが、その結果、第一ないし第四次の協定等が成立し、被告は、右協定等の成立及びこれに基づく金員の支払の都度、右損害賠償債務を承認し、右時効は中断された。
二 時効援用権の濫用ないし信義則違反
被災原告らが一酸化炭素中毒に罹患したのは、被告の従業員として被告の指示、命令に従って三川鉱坑内において業務に従事したことによるものである。本件事故により被災原告らが受けた被害は筆舌に尽くせないものであったが、原告らは、本件事故の原因や一酸化炭素中毒症等についての専門的知識も具体的資料も持ち合せていなかったので、早期に損害賠償請求訴訟を提起することは極めて困難であった。
一方被告は、利益に結び付かない保安対策には資金も労働力も投資しようとせず、その結果本件事故を惹起した。また、被告は、巨大企業で本件事故の原因解明のための資金も能力も十分に備えているのに、原告らに専門的な知識と資料のないことを利用して、本件事故の責任を回避しようとし続けた。
右のような事情に照らすと、被告が本件訴訟において時効を援用することは、信義則に反し権利の濫用にあたるというべきである。
三 安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償請求権の時効中断
原告らは、不法行為を理由として訴えを提起したものであるが、原告らが右不法行為を基礎づけるものとして主張した事実は、原告らが債務不履行として主張している事実と共通であって、不法行為や債務不履行は単なる法的構成の問題にすぎない。したがって、安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効は、本件各訴訟提起時に中断されている。
第七 再抗弁に対する被告の認否
一 再抗弁一の事実は否認する。
二 再抗弁二の主張は争う。
三 再抗弁三の主張は争う。不法行為に基づく損害賠償債権と債務不履行に基づくそれとは実体法上の成立要件を異にする別個の権利であり、不法行為に基づく損害賠償債権の訴えの提起により、安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償債権の時効中断の効力は生じない。
第八 証拠関係<省略>
理由
第一本件炭鉱の事故当時の概況
<書証番号略>、証人呉比長司の証言、昭和五〇年一一月七日及び平成二年一〇月四日実施の各坑内検証の結果並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
一三池鉱業所の概況
被告三池鉱業所が統轄管理する炭鉱は、宮浦鉱、三川鉱、四山鉱の三鉱があり、大牟田市と荒尾市にまたがって所在する。右炭鉱の炭層は、右両市の市街地から南西に向けて約五度の下り勾配で傾斜し、有明海海底部の地下に延びており、三池鉱業所は、有明海の地下で石炭を採掘している。採掘されている炭層は二層あり、上の炭層が上層と、下の炭層が本層と呼ばれている。右三鉱は、それぞれ地表に坑口を持ち、斜坑又は竪坑をもって上層と本層の間にある坑底部に達し、そこから水平に基幹坑道が設けられている。基幹坑道は、宮浦鉱が海面下一八〇メートルの地点に、三川鉱が海面下三五〇メートルの地点に、四山鉱が海面下六〇〇メートルの地点にそれぞれあり、同基幹坑道を中心として、その上方又は下方にある上層又は本層の中まで坑道を掘って採炭現場を設け、そこで石炭を採掘している。
三川鉱は、宮浦連絡坑道をもって宮浦鉱と、ベルト卸坑道及び零号卸坑道をもって四山鉱と、それぞれ連絡している。宮浦鉱の採掘炭の一部は宮浦連絡坑道を経て鉱車で、四山鉱の採掘炭の全部はベルト卸坑道に設置したベルトコンベアで、いずれも三川鉱坑底部まで運ばれ、三川鉱で採掘された石炭とともに、同坑底部にある貯炭槽に一時貯炭されたうえ、三川鉱第一斜坑(本件坑道)に設置されたベルトコンベアによって、坑外に揚炭される。
二本件坑道の状況
1 本件坑道(第一斜坑)及びこれと約四〇メートルの間隔で平行して設けられた第二斜坑は、いずれも三川鉱の坑外と坑内を連絡する坑道であり、三川鉱構内に坑口を設け、傾斜角度約一一度五〇分で地中を掘削し、それぞれ全長約二〇〇〇メートル、幅約6.4メートル、高さ約4.5メートルのアーチ型坑道である。本件坑道は、坑口から約一七〇〇メートルの地点で坑底部に達し、そこで基幹坑道である三五〇メートル坑道と連絡しており、その主要な用途は、ベルトコンベアによる揚炭、鉱車による硬・材料の運搬、ケーブルによる坑内への送電、入気等であり、第二斜坑は、人車による人員輸送、揚水管による坑内水の揚水、入気等に使用される。本件坑道内には、中央部分に高さ約一メートル、厚さ約三〇センチメートルの煉瓦又はコンクリート造りの隔壁が設けられ、坑口より坑底に向かって(以下この方向で坑道の左右をいう。)、隔壁の右側にベルトコンベアとその原動機室があり、左側に車道がある。ベルトコンベアの下の床面は、コンクリート舗装がなされ、その上を常時水が流れている。
2 右ベルトコンベアは、三川鉱坑底貯炭槽に集められた原炭を三川鉱選炭工場まで運搬するため設置されているもので、合計一二台のベルトコンベアがあり、運搬される原炭は、各ベルトコンベアの末端で次のベルト上に落下して順次引き継がれて行く。各ベルトの幅は約1.2メートル、原炭を運搬する部分の長さは各約一六五メートルである(但し、坑底に最も近い第一二ベルトコンベアは、斜坑部分から水平坑道部分にわたって設置されており、その長さは約二九八メートルである。)。各ベルトコンベアを駆動させるため、本件坑道内に合計一一台、坑外に一台の原動機が設置されているが、本件坑道内の原動機は、本件坑道右側の側壁に構築された原動機室にある。ベルトコンベアは、毎分約一五〇メートルの速度で運転されており、毎時約一〇〇〇トンの原炭を運搬することができ、毎月平均約三二万余トンを揚炭している。
3 本件坑道左側に設置された車道は、鉱車による硬及び材料の運搬を主たる目的とする軌道であり、予備的に第二斜坑が使用できない場合の人車による人員輸送に使用される。鉱車は、積載容量二立法メートルで、坑外にある巻揚機運転室に設置された巻揚機により、直径三四ミリメートルの鋼を用いて運行がなされている。
4 本件坑道の左側壁には、高さ約三メートルの最上位に一万一〇〇〇ボルトの特別高圧ケーブル二条が配線され、以下順に下方へ高圧ケーブル(二二〇〇ボルト)、電話ケーブル、電灯ケーブル、信号用ケーブルが配置されている。また、右側壁には、高圧ケーブル(二二〇〇ボルト)、ベルトコンベア操作用ケーブル(二二〇ボルト及び一〇〇ボルトの二種類)及び電話ケーブルがそれぞれ配置されている。
第二本件事故の発生状況
昭和三八年一一月九日午後三時一二分頃本件坑道内で鉱車が逸走して炭じん爆発事故が発生したことは当事者間に争いがなく、同事実に<書証番号略>及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。
一本件爆発当時、本件坑道の車道上を硬積鉱車(各約4.2トン)が一〇両編成で巻き上げられていたところ、坑口から一一八六メートル付近で二両目と三両目の間の鉱車の連結リンクが切断し、三両目以下八両の鉱車が軌道上を坑底に向けて逸走し、約三四〇メートル走って全車脱線し、脱線後も鉱車は約九五メートル走行し、その間坑道枠を引き倒しあるいはベルトコンベアのフレームに衝突するなどして、坑口から一六二〇ないし一六三八メートルの間に折り重なるようにして停止した。右逸走及び衝突等によって、坑内に多量の炭じんが舞い上がり爆発濃度範囲の炭じん雲が形成され、これに着火して初期爆発を起こし、その爆風によってさらに坑内の炭じんを浮揚させ、次々と爆発を引き起こした。
二本件爆発の爆源地点は、坑道その他の破壊状況、爆発後の堆積炭じんの分布状態、その性状などから、前記鉱車の脱線地点から停止地点までの間にあると推定されるが、その間のいずれかに明確に特定し得る証拠はない。また、着火原因となった火源は、逸走鉱車に起因する車輪の摩擦熱又は特別高圧ケーブルの溶損火花で、この両者が単独若しくは競合して着火源となったものと推定され、火源についてもそれ以上に特定できる証拠はない。
三本件事故当時の被災状況は、入坑者一四〇三名のうち、爆発自体の火傷や外傷により死亡したと推定される者二〇名、一酸化炭素中毒により死亡したと推定される者四三八名(うち八名は入院後死亡)、一酸化炭素中毒に罹患した者八三九名であった。
第三本件爆発の原因となった炭じんの所在
一三川鉱炭じんの爆発性について
1 <書証番号略>及び証人坂井茂德の証言によれば、三池鉱業所保安部保安課係員の坂井茂德らは、昭和三八年五月六日、本件坑道内において坑口から一〇〇メートル毎に幅約一メートル宛、二〇箇所にわたって炭じんを採取したうえ、二〇メッシュ(メッシュは一平方インチの中にある網目の数を基にその一個当たりの直径の大きさを単位とするもので、二〇メッシュは約0.83ないし0.84ミリメートルに相当する。)以下の炭じんを分析した結果、炭じんの平均成分は、水分2.8パーセント、不燃質物40.7パーセント、可燃質物56.5パーセントであったことが認められる(以下この調査を「被告保安課調査」という。)。
2 <書証番号略>によれば、(1)通商産業大臣から本件爆発の原因等の調査委嘱を受けた三池災害技術調査団(団長山田譲九州大学名誉教授の他に、各地の大学教授・研究所々長ら八名を団員として構成される。以下「政府技術調査団」という。)、及び福岡県警察本部は、本件事故後間もなく、本件坑道の内外で炭じんを採取したこと、(2)九州工業大学教授荒木忍(同教授は政府技術調査団の一員でもある。)は、福岡鉱山保安監督局から依頼を受け、右採取された炭じんのうち本件事故によって変質を受けなかったと認められる一九の試料について工業分析をした結果、その平均成分は、水分1.96パーセント、灰分24.84パーセント、揮発分36.18パーセント、固定炭素37.02パーセント、燃料比(揮発分に対する固定炭素の割合)1.02、揮発分比0.494であったこと、が認められる。
3 <書証番号略>及び証人荒木忍の証言によれば、炭じんの爆発性の基準は、爆発抑制に必要な不燃性物質率及び最低爆発限界濃度(爆発に最低限必要な一立法メートルの炭じん雲中の炭じんの量。)で表すことができるところ、荒木教授は、右2の炭じんの爆発抑制に必要な不燃性物質率を74.4パーセント、最低爆発限界濃度を一立法メートル当たり一二三グラムと、右1の分析結果に基づく炭じんの最低爆発限界濃度を一立法メートル当たり一五〇グラムとそれぞれ算出し、いずれも比較的爆発しやすい炭じんであると結論づけていることが認められる。
また、<書証番号略>によれば、(1)政府技術調査団は、本件事故後本件坑道の内外で採取した炭じん一〇試料を分析したこと、(2)その分析結果によると、平均成分は水分2.1パーセント、灰分24.4パーセント、揮発分36.8パーセント、燃料比1.0であり、爆発抑制に必要な不燃性物質率は六九ないし七三パーセント、最低爆発限界濃度は一立法メートルあたり四〇ないし一二〇グラムと算定されたこと、(3)同分析結果から、政府技術調査団は、右炭じんはかなり強い爆発性を持ち、少なくとも四五ないし五〇パーセント以上の混入天然岩石分あるいは付着水分が存在したことが立証できない限り、爆発性を有したと判断できるとの見解を示したこと、が認められる。
もっとも、<書証番号略>によれば、本件坑道の表面岩石からは風化岩じんが発生しやすいことが認められるのであるが、しかし、<書証番号略>(検察官から委嘱を受けて工業技術院資源技術試験所が作成した鑑定書)によれば、本件坑道内の炭じんに右風化砂岩石粉が混合されていたとしても、その混合率が八三パーセントに充たない場合には、その混合炭じんは爆発性を有することが認められる。
4 以上1ないし3に判示の事情を総合すると、本件事故当時本件坑道内には極めて爆発性の高い炭じんが存在したものと認められる。右認定に反する<書証番号略>記載の論文は右掲記の証拠に照らしたやすく採用できない。
二本件坑道内の炭じんの堆積量について
1 前記第一の二の2に判示のとおり、本件坑道には全長二〇〇〇メートル余にわたって一二台のベルトコンベアが設置され、毎分約一五〇メートルの速度で、月間三二万トン余の原炭を、各ベルトコンベアから次のベルトコンベアに原炭を落下させて引き継ぐ方法により運搬していたのであるから、右運搬の過程で炭じんが発生しこれが本件坑道に堆積することは、十分推認できるところである。
2 <書証番号略>によれば、次の事実が認められる。
(一) 本件事故後の昭和三八年一一月一四日から同月一八日までの間に荒木教授らは、爆発前は炭じんの堆積がなかったと考えられるベルトコンベア縁部において、各長さ約一メートル、幅一五センチメートルの範囲で二二箇所にわたり、爆発によって変質した炭じんの採取をした。
(二) 政府技術調査団は、本件爆発前の本件坑道内の炭じんの発生量や堆積量についての信頼すべき数値がなかったため、右採取された炭じんのうち二一試料を用いて、本件事故前の本件坑道内の炭じん堆積量を求めることとしたが、それによると、次のような見解を示している。即ち、
右試料の測定値は一平方メートル当たり平均三一九グラムであり、同数量を基に本件坑道全体の変質炭じんの量を求めると約四三〇〇キログラムとなる。そして、被告保安課調査により得られた本件炭鉱の未変質炭じんの灰分は平均40.1パーセントであり、これを基に算出すると、本件炭鉱における炭じんの燃焼残率は66.2パーセントとなるから、右変質炭じんの総量及び燃焼残率を基礎に本件爆発に関与した本件坑道内の炭じんの堆積量を推計すると、約六五〇〇キログラムとなる。また、炭じんの濃度は、一立法メートル当たり、平均一二四グラム、坑口から一一〇〇メートルから一三八〇メートルの間では一四〇ないし二四四グラム、一五七〇メートルから二〇〇〇メートルの間では一四八ないし二五七グラムと算定される。右推計の基礎となった変質炭じんの量には、側壁・ベルトコンベアキャリア脚等に付着したもの、坑口から外気中に放出されたもの等は含まれていないから、これらを考慮すると、本件坑道内の炭じんの量はもっと増えることとなる。以上のような推計結果から、本件事故前本件坑道内には、最低爆発限界濃度以上の炭じん雲が発生するに足る炭じんが堆積していたものと判断できる。
3 <書証番号略>によれば、昭和三八年五月六日実施された被告保安課調査では、本件坑道内における堆積炭じんの推定総量を、461.2キログラムと算定していること、同堆積量を前提とすると、その全量が浮揚したとしても、最低爆発限界濃度に達しないこと、が認められる。
しかし、(1)右被告保安課調査から本件事故まで約六か月を経過していること、(2)<書証番号略>、証人清水繁春、同野口幸光の各証言によれば、昭和三八年四月下旬、二年に一度の福岡鉱山保安監督局鉱務監督官による本件坑道の人車(通常は鉱車として使用)巻き上げ装置の性能検査が行われたため、これに備えて本件坑道ではその頃入念な車道整備及びこれに伴う炭じんの清掃等がなされたことが認められるから、その直後に行われた被告保安課調査の時点における本件坑道内の炭じんは、通常の場合に比較して相当減少していたものと推定されること、などに照らして考えると、前記被告保安課調査結果は、前記2の政府技術調査団の調査結果を左右するものではない。
4 被告は、本件爆発の原因となった炭じんは、逸走した鉱車がアーチ枠を引き摺った際、揚炭ベルト上の原炭を掻きさらって飛散させたため、原炭中に含まれていた炭じんにより炭じん雲が形成されたものである旨主張するので、同主張につき検討する。
(一) <書証番号略>、証人霜出邦藏の証言によれば、本件事故当時三池鉱業所保安部長であった霜出邦藏は、「本件事故発生後間もなくの昭和三八年一一月一一日夜本件坑道に入り、ベルト上の原炭が倒枠により掻きさらわれたと思われる痕跡を現認しており、その状況等から本件爆発の原因となった炭じんは、ベルト上の原炭が飛散したことによるものである。」旨証言する。
しかし、右霜出証人が現認したという掻きさらわれたベルト上の原炭の痕跡を裏付ける的確な証拠はない。そればかりでなく、<書証番号略>によれば、本件事故に関する刑事事件についての捜査の過程において、被疑者とされた霜出を含む被告会社において管理者的立場にある者らは、本件爆発の原因につきダイナマイト等による人為的爆発を主張したのみで、ベルト上の原炭が原因であるとの主張はしていなかったことが認められる。現に<書証番号略>によれば、霜出は、本件事故に基づく別件の損害賠償請求事件の証人尋問において、警察、福岡鉱山保安監督局及び政府技術調査団による捜査や調査がなされた際に、ベルト上の原炭が原因との主張や説明をしたことがないことを認める証言をしているところである。したがって、前記霜出証言はたやすく信用できない。
(二) もっとも、前記第二の一に判示の本件事故の発生状況からすると、引き倒された坑道枠に引き摺られるなどしてベルト上の原炭が飛散したことは十分考えられるところである。
しかし、<書証番号略>によれば、原炭は、本件坑道のベルトコンベアに載せられて運搬されるまでに、採炭現場及び貯炭槽等で数次にわたり散水がなされ、十分付着水分を与えられることが認められる。そして、<書証番号略>及び証人房村信雄の証言によれば、(1)ベルト上の原炭に含まれる炭じんは、原炭が乾燥した状態であっても、乾燥して堆積した炭じんより飛散し難いこと、(2)ベルト上の原炭が五パーセントの水分を含む場合には、強大な衝撃が作用しない限り、原炭中の炭じんは飛散し難いこと、(3)右程度の水分を含むベルト上の原炭が飛散したとしても、その原炭中の炭じんが原炭から分離して第一次爆発の原因となるほどの炭じん雲を形成することは通常あり得ないこと、が認められる。
さらに、<書証番号略>によれば、(1)工業技術院資源技術試験所が昭和四一年検察官の委嘱を受けて、本件坑道と近似した条件下において、揚炭ベルト上の原炭が飛散した場合にスパーク又は加熱源により引火爆発するかどうかにつき実験をしたこと、(2)その実験結果によると、スパークを火源とする場合は、水分4.8パーセントを含む湿潤原炭では一〇回の実験の全部が引火しなかったこと、(3)加熱源による場合は、水分二パーセントの原炭では五回の実験全部が引火しなかったこと、(4)同試験所は、右実験結果や大型坑道における内外の実験結果から、本件爆発がベルト上の原炭によって発生した確率は甚だ小さいとの見解を示していること、が認められる。
(三) 以上判示のような事情に照らして考えると、飛散したベルト上の原炭に含まれる炭じんが本件初期爆発の原因となった可能性はないものといえよう。
5 <書証番号略>によれば、政府技術調査団や荒木教授も、本件坑道のベルト上の原炭に含まれる炭じんも一部本件爆発に関与したことを認めているものであり、また、爆発後本件坑道内に存した変質炭じんの中には、爆発前の炭じん中に含まれていた灰分のほか、爆発による坑内の破壊により発生した外来灰分が含まれていた可能性もある。これらの事情はいずれも、前記2に判示の本件坑道内に堆積していた炭じん量の推計の合理性に疑念を生じさせるものであるので、以下これらの各点につき若干検討しておくこととする。
(一) <書証番号略>及び証人房村信雄の証言によれば、(1)荒木教授は、堆積炭じん量を調査するに際し、本件坑道で採取した変質炭じんを顕微鏡で観察したが、外来灰分と認められるものはごく僅かであり、爆発前の本件坑道内の炭じんの量を計算するに当たっては無視できる程度と判断したこと、(2)政府技術調査団の一員である房村早稲田大学教授も、本件爆発後の炭じんに含まれる外来灰分は少ないとの見解を示していること、(3)前記4に判示のように、ベルト上の湿潤な原炭中に含まれる炭じんは極めて飛散し難いことから、本件爆発に関与したベルト上の原炭に含まれる炭じんも僅かなものと判断されるうえに、前記2に判示した炭じん量の推計に当たっては、側壁等の変質炭じんは含まれていないから、ベルト上の原炭に含まれる炭じんの一部が本件爆発に関与しているからといって、前記堆積炭じんの推計の正確性に根本的な影響を与えるものとはいえないこと、が認められる。
(二) ところで、<書証番号略>によれば、本件事故に関する刑事事件の捜査に当たった検察官は、荒木教授の炭じん量の推計の正確性に疑念を抱き、同教授が採取した変質炭じんの中にはベルト上の原炭も相当含まれているとの疑いを払拭できないとして、不起訴処分をしたことが認められる。
しかし、右検察官の判断は、右<書証番号略>中にある検察官作成の不起訴理由書に検察官自ら記載しているように、刑事責任の追及という性質上、推定等であってはならず、厳格な証拠により炭じんが多量に堆積していたことが証明されなければならないとの立場から検討されたものであって、民事上の責任の存否の確定を目的とする本訴における判断とは、自ずと異なるものがあるといわねばならない。
6 以上1ないし5に判示の事情を総合して判断すると、本件事故当時本件坑道内には、爆発を引き起こす可能性のある程度の炭じんの堆積があり、同炭じんが鉱車の逸走により浮揚して脱線地点から停止地点までの間に最低爆発限界濃度を超える炭じん雲が形成され、これに着火して初期爆発が起きたものと認めるのが相当である。
第四被告の責任
前記第一に認定の事実から、本件坑道が、民法七一七条一項にいう土地の工作物に該当し、かつ、本件事故当時被告がこれを占有していたことは明らかである。
ところで、坑道内に炭じんが多量に堆積すると、各種の衝撃・振動により炭じん雲が形成され、火源となるものの存在により爆発を引き起こす危険性が極めて高いから、坑道内は常に多量の炭じんが堆積しないよう維持・管理される必要があるものといわねばならない。しかるに、前記第三に判示のとおり、本件事故当時本件坑道内には爆発を引き起こすに足る量の炭じんが堆積していたものと認められるから、本件坑道の保存には瑕疵があったものというべく、本件坑道の占有者たる被告は、民法七一七条一項本文により、本件事故に基づく損害を賠償すべき責任がある。
第五消滅時効
一<書証番号略>、証人金子嗣郎(第一、二回)、同上野幸男、同原田正純の各証言及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
1 昭和四一年一〇月末、福岡労働基準局長は、労災保険の給付に関し、本件事故による一酸化炭素中毒患者のうち、引き続き長期の療養を要する者及び当面経過観察の必要がある者を除く、患者の大多数である七四四名に対し、症状が固定して治療の必要がなくなったとして療養補償打切りの決定をした(以下この決定を「治癒認定」ともいう。被災原告らのうち右決定を受けた者は後記第八の判示の中に示すとおり)。右認定を受けた被災原告らの大部分は、当時未だ入院若しくは通院中(各人の治療経過の詳細は後記第八に判示のとおり)であったため、三池炭鉱労働組合は右措置に反発し、右決定を受けた被災原告らを含む被災者三五六名は、同決定を不服として審査請求をした。三池炭鉱労働組合を中心とする右反発の医学的根拠とされたのは、総評調査団によって昭和三九年八月から昭和四一年七月までの間に六回にわたり実施された医療検診の結果であった。
2 右のように被災者から、激しく治癒の有無が争われたため、審査官が右審査請求を審査するに当たっては、医学的判断につき実質的な三審制をとることが関係者の間で合意され、第一及び第二段階では労働組合及び労働省がそれぞれ推薦した医師各二名宛が関与し、それでも決着がつかなければ三浦岱栄慶応大学名誉教授に判定してもらうという形で審査がなされた。その結果、昭和四二年一一月二五日、五名につき治癒認定が取り消され要経過観察となった。審査請求が棄却された者のうち六三名からは、さらに労働保険審査会に対する再審査請求がなされたが、これも昭和四五年五月にはすべて棄却された。そして、治癒認定を受けた被災原告らを含む被災者らは、労災保険の障害補償給付の請求をし、福岡労働基準局長は、昭和四六年七月三日、治癒認定を受けた被災原告らを含む三池炭鉱労働組合所属の被災者の大部分について障害等級の認定をした。
3 一酸化炭素中毒発生の機序やその症状の概要は、後記第七に判示するとおりであるが、その発生の仕組みや症状については本件事故当時未だ十分に解明されていない部分もあった。その症状は必ずしも固定したものではなく、本件事故による中毒患者の中には軽症から重症へと次第に症状が重く変化していった者も僅かながらあり、後遺症も後記第七に判示するとおり多種多様である。また、昭和四八年五月には福岡労働基準局長は、治癒認定を受けていた者のうち一四名について、再発を認めて療養補償等の給付決定をした。
二ところで、民法七二四条には、不法行為に基づく損害賠償請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から起算して三年で時効消滅するものと定められているが、消滅時効は、権利を行使し得る時から進行を開始するのを原則とするものであるから(民法一六六条一項)、右損害を知った時とは、損害が客観的に現実化、顕在化し、被害者において損害賠償請求権の行使を期待できる程度に達することを要するものと解すべきである。
三そこで、前項の見地から検討する。
1 亡宮嶋富太郎、同イシ以外の者を原告とする本件訴訟(昭和四八年(ワ)第四二八号)が昭和四八年五月一一日に、宮嶋富太郎、イシを原告とする本件訴訟(昭和四九年(ワ)第三七三号)が昭和四九年四月九日に、それぞれ提訴されたことは当裁判所に明らかである。
ところで、後記第八に判示のとおり、亡宮嶋重信、原告清水正重、同塚本正勝、亡西田學、原告東口一男、同永津忠行、亡橋口宏之助、原告忠地義髙、亡齊藤巖、原告猿渡三德、同中山岩男、同石原軍喜、同山崎辰秀、亡坂井武義、原告野田嘉次郎、亡赤井章は、同人らの訴え提起の三年前である昭和四五年五月当時、未だ長期療養若しくは経過観察中であり、行政上の治癒認定も受けていなかったものであるから、同人らは右時点において未だ損害を知り得る状況になかったというべく、同人らの損害賠償請求権につき消滅時効が完成したものとはいえない。
また、宮嶋富太郎、イシの訴えは宮嶋重信の受傷ないし死亡を理由とするものであるところ、富太郎、イシの訴え提起三年前の昭和四六年四月当時も重信は前記同様の状況にあったから、同人らの損害賠償請求権も時効消滅したものとはいえない。
2 ところで、後記第八に判示のとおり、その余の被災原告らについては、昭和四一年一〇月末行政上の治癒認定がなされているところである。しかし、前記一に判示のように、右被災原告らを含む大多数の被災者らは、右認定に反発して行政上の不服を申立て、かつ、その不服申立てにはその正当性を根拠付けるべき医師団の所見もあり、当時一酸化炭素中毒の症状等が必ずしも十分解明されていなかったこともあって、右不服の審査に当たっては事実上の三審制という特例的措置まで講じられたこと、不服を申立てた者の一部については治癒認定が取り消され、また、認定後数年を経て行政上再発が認められた例もあったこと、などを総合して判断すると、右被災原告らが損害賠償請求権の行使を期待できる程度に損害を知った時期は、右被災原告らにつき行政上の障害等級の認定がなされた昭和四六年七月三日と認めるのが相当であり、同時点から消滅時効が進行するものというべきである。したがって、同時期から三年以内に同被災原告らは本訴を提起しているものであるから、同原告らの損害賠償請求権も未だ消滅時効は完成していない。
第六その余の被告の抗弁(解決方法等に関する合意の成立及び信義則違反)
一法的紛争の当事者が、当該紛争の終局的解決を裁判所に求めうることは、法治国家の根幹にかかわる重要な事柄であるから、裁判を受ける権利は最大限尊重されなければならず、訴え提起に関する当事者間の合意の効力や信義則の適用による提訴の制限の許否を検討するに当たっても、裁判制度の利用を不当に制限する結果とならないよう慎重な配慮を必要とするものといわねばならない。
二そこで、右見地から検討するに、<書証番号略>及び証人上野幸男の証言によれば、本件事故後、被災原告らの所属する三池炭鉱労働組合と被告との間で、被災者の救済に関する種々の協定が締結されたことが認められるのであるが、しかし、同協定を含む本件全証拠によっても、同組合若しくは被災原告らと被告との間で、右協定による以外の金銭賠償の不行使ないし不提訴の合意がなされたと認めるに足りる証拠はない。
また、前記第五に判示のような被災原告らについて障害等級の認定がなされるまでの経緯を考えると、三池炭鉱労働組合と被告との間で諸協定が成立しかつ本訴が事故発生後一〇年近く経過して提訴されたものであるからといって、本件訴えの提起が信義則に反するものと解することはできない。
第七一酸化炭素中毒の症状
後記第八に判示のとおり、被災原告らは本件事故により急性一酸化炭素中毒に罹患したと認められるのであるが、ここで一酸化炭素中毒の一般的な症状(本件事故による被災者の治療の過程で明らかとなったものを含む)等について概観しておくこととするに、<書証番号略>、証人金子嗣郎(第一、二回)、同雪竹朗、同原田正純の各証言によれば、次の事実が認められる。
一発生機序
一酸化炭素中毒症は、呼吸とともに吸入された一酸化炭素が血液中のヘモグロビンと結合し、その結果血液中の酸素が欠乏状態になることによって起こる中毒症である(但し、一酸化炭素中毒症の中には稀に、意識障害から一旦回復し数日内に全く正常な状態に復した後、時の経過により再び意識障害を引き起こす、間歇型と呼ばれるものがあり、間歇型については酸素欠乏だけでは説明ができない。)。血液中の酸素が欠乏状態に陥ると、生体内の組織の代謝が阻害され、特に中枢神経系は最も敏感に影響を受け、酸素欠乏が強い時は神経細胞が死滅する。症状の程度は、吸入された一酸化炭素の濃度・量・吸入時間によって異なるが、重症の場合は、死亡したり、中枢神経が侵されたり、大脳の器質的変化を生じたりする。
二症状の経過
1 前駆期
軽い頭痛・めまい・悪心・嘔吐で始まり、軽度の感覚の鈍麻・運動の遅滞(動作の緩慢)がみられる。この状態が続けば次第に意識の障害が加わって次の極期に移行するが、それ以前に新鮮な空気中に移せば、重篤な状態に陥ることなく、早晩すべての症状が殆ど完全に回復し得る。
2 極期
前駆期の間に解放されず、血液中の一酸化炭素及びヘモグロビンの濃度が四〇ないし五〇パーセントになると意識障害が始まり、五〇ないし六〇パーセントになると昏睡に陥り、この状態が長く続き八〇パーセントに達すると呼吸が停止し死に至る。呼吸停止にまでは至らなかったとしても、新鮮な空気中に解放されないまま死戦期が長く続いたような場合には、救出されて一命を取り留めても、後遺症を残す可能性が大きい。
3 回復期
意識障害が回復するにつれて、それまで意識の障害に覆われていた精神症状が次第に表面に現れてくるが、これらの症状は千差万別といってよいほど多種多様である。これらの症状の中には時間の経過とともにその程度を減ずるものもあるが、完全には消失せず後遺症として固定するものもある。
4 後遺症
(一) 失外套症候群
一見したところ発語も体動もなくただじっと臥床しているだけで、殆ど精神的反応がないが、患者をのぞき込むと眼球が後追いするように動き、唇に「らく呑み」を当てると口をすぼめて吸うような動きを示し、口中に水を入れると嚥下する。このような症状が長く続いて死亡するものもある。
(二) 失見当識(健忘症候群)
意識障害の強かった症例では、意識回復後話ができるようになっても、自分のいる場所、家族、日時等がわからず、家族、知人の名前や物品の名称もいえない。また、食事の仕方、タバコの喫い方、衣服の着脱ができず、数分前のこともすぐ忘れてしまう。これらは、回復期の初期の症状で、まだ固定したものではないものが多いが、重症例ではこれが長期間続き固定するものもある。
(三) 知的障害
右(一)、(二)を経過し、検査によって症状を分類することができるようになった段階で、次のような形で現れる。
(1) 痴呆
病前にあった知的能力が全般的に低下したもの。高度なものから軽度なものまであり、高度なものは性格変化を伴う。
(2) 巣症状
失語、失行、失認に大別される。全般的知的機能の低下と性格変化を伴うものが多い。
(3) 記憶障害
最近のビッグニュースや一〇年、二〇年前の大事件で通常人なら記憶しているような事を忘れているか、不正確に記憶している。
(4) 記銘力障害
数分前ないし昨日のことをすぐ忘れてしまい、憶え込む能力が落ちている。比較的軽症群にこれだけを示すものが多い。
(四) 性格変化
大別すると、(2)積極性欠如、消極的、受動的、暗い感じ、(2)幼児化、軽佻浮薄、(3)易刺激性亢進(怒りっぽい)、不機嫌になり易い、に分けられる。(1)、(2)のものが多く、(3)は少ない。
(五) 神経学的症状又は神経症状
(1) 錐体外路症状
筋肉運動を不随意的に調節している神経機能の障害で、表情の動きがなく瞬きしない、顔面にあぶら汗がいつも出ている、小股でチョコチョコ歩く、上肢あるいは下肢の動きが硬い、手指が大きく震える、書く字が小さい、などの症状の一つか二つを現すものが多い。
(2) 錐体路症状
随意運動を司る神経機能の障害で、最も多いのは深部反射(手・脚の腱反射)の亢進である。
(六) 自律神経症状
多くは発汗異常として現れる。
(七) 自覚症状
自覚症状は多種多様であるが、中でも物忘れ、頭痛を訴える者が多い。
第八原告らの損害
一被災原告らの被災状況及びその後の経過等について
1 亡宮嶋重信について
<書証番号略>及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 亡宮嶋重信(昭和一五年六月一六日生)は、昭和三八年の本件事故当時、払採炭工として被告に勤務していた。本件事故当日は午後二時二〇分、三川鉱繰込場において係員から鉄柱回収作業の指示を受け、午後二時二二分第二斜坑人車で入坑し、三六昇西二片にて作業中にガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患した。翌一〇日午後三時過ぎ意識不明のところを救援隊によって救出された。
(二) 意識不明のまま被告天領病院に収容され、同年一二月一三日熊本大学病院へ転院し、以来意識不明の状態で一〇年余の闘病生活を送った後、昭和四九年一月六日同病院で死亡した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日労災保険法に基づく長期傷病補償給付の決定を受けた。
(四) 重信の死亡により両親である宮嶋富太郎、宮嶋イシが重信の本件損害賠償請求権を相続により承継し、さらに、富太郎は、昭和六三年一一月二六日に、同イシは平成二年三月二四日にいずれも死亡したため、同人らの被告に対する損害賠償請求権は原告宮嶋伸次が相続した。
(五) 亡重信名義で本訴が提起された当時、同人に意思能力、訴訟能力がなかったことは右療養経過から明らかである。しかし、訴訟係属中同人が死亡し、亡宮嶋富太郎、イシによって訴訟承継がなされたことが記録上明らかであるから、これによって重信の代理人によってなされた従前の訴訟行為が追認され、遡って提訴自体も有効となったものというべきである。
2 原告清水正重について
<書証番号略>、原告清水正重法定代理人清水榮子尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告清水正重(大正一三年一一月二日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告に勤務していた。本件事故当日は三川鉱繰込場で二六昇5.5片掘進の指示を受け、午後二時五二分第二斜坑から人車で入坑し、三五〇メートル坑道零片手前人車内でガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患した。意識不明で倒れていたところを同僚らに助けられ、事故当日の九日午後一〇時頃救出された。
(二) 意識不明のまま被告天領病院へ入院したが、昏睡状態が続き、同年一一月二五日意識不明のまま九大病院へ転院し、現在も入院中である。昭和五一年一二月二〇日同病院の医師により、高度の知能障害があり、単純な計算ができず、語彙が少ないため日常会話ができず、視覚失認のため独力では全く身の回りのこと(排尿、排便その他)ができない状態であるが、身体には理学的異常所見を認めない旨の診断を受けた。昭和五四年一一月一日職場復帰することなく定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級一級の認定を受けた。
3 原告塚本正勝について
<書証番号略>、証人塚本ミスエの証言(第一、二回)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告塚本正勝(昭和二年四月三〇日生)は、昭和三八年の本件事故当時、払採炭工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は三川鉱繰込場で係員から作業指示を受け、午後一時五二分第二斜坑から入坑し、三五〇メートル坑道奥の二五昇で作業中本件事故発生を知り、退避途中ガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患した。二五昇捲立内で意識不明で倒れているところを発見、救助され、翌一〇日午前三時頃、宮浦鉱から救出された。
(二) 一〇日午前五時前、荒尾市民病院に収容されたが、意識不明で危篤状態が続いた。昭和三九年三月大牟田労災療養所に、昭和五七年二月大牟田保養院に、昭和五七年四月蓮沢病院に、昭和五九年八月被告天領病院にそれぞれ転院して現在も同病院に入院中である。昭和五二年一月一七日、大牟田労災療養所の医師から、小音症、寡動症、筋トーマス亢進、小刻み歩行、パーキンソニズム、失見当、記銘力低下、強い意欲障害、性格変化等の診断を受けた。昭和五七年五月二一日職場復帰することなく定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級一級の認定を受けた。
4 亡西田學について
<書証番号略>、訴訟承継前の原告西田學法定代理人西田政子尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認めれる。
(一) 亡西田學(大正三年一一月一三日生)は、昭和三八年の本件事故当時、坑内仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六昇東三片での作業指示を受け、午後二時五二分第二斜坑人車で入坑し、作業現場に行く途中、三五〇メートル坑道零片手前入坑人車内でガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識不明のまま救出された。
(二) 翌一〇日荒尾市民病院に収容され、入院五日目頃から昏睡状態となり、危篤状態が続いた。同年一二月二四日、熊本大学病院へ転院し、昭和四三年一月二五日、同病院神経精神科の医師から、精神機能全般の重篤な障害、知的機能に関する高度の障害等がある旨の診断を受けた。昭和四四年一一月二六日職場復帰することなく定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級一級の認定を受け、平成元年一〇月三一日死亡した。。
(四) 亡學の妻である原告西田政子が學の被告に対する損害賠償請求権を相続した。
5 原告東口一男について
<書証番号略>、証人東口五月の証言及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告東口一男(昭和二年四月一〇日生)は、昭和三八年の本件事故当時、払採炭工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において、係員から三六昇下段払の岩巻作業の指示を受け、午後二時二二分第二斜坑から入坑し、三五〇メートル坑道奥の三六昇で作業中ガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識を失って倒れ、落石により一旦目覚めて救助された。搬送中再び意識不明となり、翌一〇日早朝宮浦鉱から救出された。
(二) 同日早朝、被告天領病院に収容され、同年一一月一四日同病院平井分院に、翌昭和三九年三月一六日大牟田労災療養所に転院し、現在も入院中である。昭和五二年一月一三日、大牟田労災療養所の医師から、失見当識、記銘力障害、知能低下、意欲障害、性格変化等の診断を受けた。昭和五七年四月九日職場復帰することなく定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級二級の認定を受けた。
6 原告永津忠行について
<書証番号略>、証人永津京子の証言及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認めれる。
(一) 原告永津忠行(大正一一年八月二九日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は三川鉱繰込場において係員から二五昇坑道のレール敷設作業の作業指示を受け、午前七時第二斜坑から入坑し、午後三時過ぎ作業が終了して昇坑途中、三五〇メートル水平坑道でガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患した。意識不明となって約六時間後に気づき、午後一一時頃宮浦鉱から昇坑した。
(二) 昇坑後自宅へ戻ったが、事故の三、四日後から頭痛や上肢の激痛等が起り、突然「空襲警報」と叫び出すなどの異常行動が発生したため、間もなくして被告天領病院に通院して治療を受け、同年一二月一八日頃被告天領病院平井分院に入院し、昭和三九年三月一八日熊本大学病院に転院した。昭和五二年一月一二日、同病院の医師から、抑鬱、易怒、焦燥状態、記銘、記憶、思考障害、右上肢完全麻痺等の診断を受け、昭和五八年一二月荒尾保養院に、昭和五九年七月頃荒尾中央病院にそれぞれ転院し、昭和六一年六月同病院を退院し、現在も通院治療中である。昭和五二年八月職場復帰することなく定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級二級の認定を受けた。
7 亡橋口宏之助について
<書証番号略>、訴訟承継前の証人橋口アヤ子の証言及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 亡橋口宏之助(大正八年九月一七日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は三川鉱繰込場において係員から二六卸5.5片現場での作業指示を受け、午後二時五二分第二斜坑から入坑し、途中三五〇メートル水平坑道零片手前入坑人車付近でガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患した。同坑道に意識不明で倒れていたところを救出された。
(二) 翌一〇日午前〇時過ぎに被告天領病院に収容され、同年一一月一五日同病院平井分院へ、同年一二月五日熊本大学病院へ転院した。昭和五二年一月一三日、熊本大学病院の医師から、知能障害、記銘・記憶障害、性格障害、膀胱神経症等と診断された。昭和四九年九月一六日職場復帰することなく定年退職し、平成二年六月一六日死亡した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級二級の認定を受けた。
(四) 原告橋口アヤ子は亡宏之助の妻、原告橋口義見及び同吉田啓子はいずれも亡宏之助の子であり、同原告らは、亡宏之助の被告に対する本件損害賠償請求権につき、その法定相続分の割合にしたがって相続した。
8 原告忠地義髙について
<書証番号略>、証人忠地カツエの証言及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認めれらる。
(一) 原告忠地義髙(昭和一〇年八月一八日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は三川鉱繰込場で三六昇一片炭積作業の指示を受け、午前八時二分第二斜坑から入坑し、作業終了後昇坑途中に三五〇メートル坑道人車坑道付近でガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患した。同坑道一四目貫付近で意識不明で倒れているところを救出され、翌一〇日午前四時頃宮浦鉱から救出された。
(二) 一〇日午前四時三〇分頃被告天領病院に収容され、同日午後一〇時頃一旦自宅に戻ったが、異常行動があったため同月二二日熊本大学病院に転院し、現在も入院中である。昭和五二年一月二五日、同病院の医師から、性格面での障害が目立ち、多幸的、幼稚、弛緩、軽率、浅薄、積極性減退、無気力、知的機能の面では記銘、記憶、思考障害が軽度に認められると診断された。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級二級の認定を受けた。
9 亡齊藤巖について
<書証番号略>、原告藤アサエ本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 亡齊藤巖(大正一〇年一月一七日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において二六昇での作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑から入坑し、作業現場に向かう途中でガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患した。三五〇メートル坑道ループ入口付近で意識不明で倒れているところを発見され、宮浦鉱から救出された。
(二) 翌一〇日午前三時三〇分頃荒尾市民病院に収容されたが、頻尿や足許がふらつくなどの症状の改善がないため、翌三九年三月二四日、大牟田労災療養所に転院し、昭和四九年二月六日、同病院の医師から、記銘障害、性格変化、頻尿、下肢の強直性攣縮がある外、脳室拡大著明と診断された。同病院の日常生活においては、家族との会話が全くなくなり、植木鉢の代わりにする薬の空き缶を必要以上に貯め込む、意味不明の内容の日記を記す等の奇異な行動が死亡まで続いた。昭和四八年ころから病状が悪化し、昭和四九年三月二六日、一酸化炭素中毒後遺症としての呼吸器系の耐性脆弱を原因とする急性肺炎のため同病院で死亡した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日長期傷病補償給付の決定を受けた。
(四) 原告藤アサエは、亡巖の妻、原告齊藤芳德は亡齊の子であり、同原告らは、亡巖の被告に対する本件損害賠償請求権につき、その法定相続分の割合にしたがって相続した。
10 原告猿渡三德について
<書証番号略>、証人猿渡マコの証言及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告猿渡三德(大正六年六月二三日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は三川鉱繰込場で係員から二六卸東五片材料運搬の指示を受け、午後二時五二分第二斜坑から人車で作業現場へ向かう途中、三五〇メートル坑道零片手前人車内でガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し、翌一〇日午前一時ころ宮浦鉱から救出された。
(二) 意識不明のまま、一〇日午前一時過ぎ被告天領病院に収容されたが、三日間意識不明であった。昭和四三年八月八日大牟田労災療養所に転院し、現在も入院治療中である。昭和五二年一月一二日、同病院の医師から、性格変化、失見当識、知能低下、意欲低下、記銘力障害等と診断された。昭和四七年六月二二日職場復帰することなく定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級二級の認定を受けた。
11 原告中山岩男について
<書証番号略>、証人中山りゅう子の証言(第一、二回)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告中山岩男(明治四四年一〇月一八日生)は、昭和三八年の本件事故当時、掘進工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は三川鉱繰込場で係員から三六連昇の硬割の作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑から入坑し、上層三六連昇の作業現場に到着後ガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識不明となった。翌一〇日午前〇時頃発見されて一旦目を覚ましたが、再び意識を失い宮浦鉱から救出された。
(二) 一〇日早朝被告天領病院に収容されたが、同日午前一一時頃自宅に戻った。以来現在まで入退院を繰り返している。昭和五二年一月三一日、大牟田地評曙病院の医師から、人格変化、不活発、自発性の欠如、記銘・記憶・計算力低下、思考困難、発汗過多等と診断された。昭和四七年二月二九日職場復帰することなく定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級二級の認定を受けた。
12 原告石原軍喜について
<書証番号略>、証人石原マサ子の証言(第一、二回)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告石原軍喜(大正三年九月二五日生)は、昭和三八年の本件事故当時、運搬工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は三川鉱繰込場において係員から三五〇メートル坑道人車材料運搬等の作業指示を受け、午後二時三二分第二斜坑人車で入坑し、三五〇メートル坑道二六卸にて運搬作業中にガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識不明となり、翌一〇日午前三時頃宮浦鉱から救出された。
(二) 意識不明のまま一〇日午前五時頃被告天領病院に収容された(同年一一月一二日頃一旦同病院平井分院に転院したが、一週間ほどで天領病院に転院)。同年一二月六日、久留米大学病院へ転院し、現在も同病院で入院治療中である。昭和五二年一月二五日、同病院の医師から、記銘力障害、見当識障害など知能障害、意欲の低下、強迫行為ありと診断された。昭和四七年二月二九日職場復帰することなく定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となる。昭和四七年二月二九日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級一級の認定を受けた。
13 原告山崎辰秀について
<書証番号略>、証人山崎秀則の証言及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告山崎辰秀(明治四四年一月三〇日生)は、昭和三八年の本件事故当時、坑内機械工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六昇ベルトコンベアでの作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑し、作業現場の三六昇に到着したが、間もなく停電し、様子を見に行った係員も戻って来ないので三五〇メートル坑道まで戻る途中、ガスに襲われて急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識不明となって倒れた。翌一〇日発見され、午前九時頃宮浦鉱から担架で救出された。
(二) 同日午前九時過ぎ大牟田市内の永田整形外科に収容された。昭和三九年三月一六日、大牟田労災療養所へ、昭和四三年一月熊本大学病院精神科にそれぞれ転院し、昭和四三年四月から再び大牟田労災療養所に転院し現在も入院治療中である。昭和五二年一月一二日、同病院の医師から、失立、失歩、振戦、記銘力低下あり等と診断された。昭和四七年二月二九日職場復帰することなく定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日長期傷病補償給付の決定を受け、昭和五二年四月一日障害等級二級の認定を受けた。
14 亡坂井武義について
<書証番号略>、原告坂井リツ本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 亡坂井武義(大正九年三月三〇日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、係員から二六卸での作業を指示され、第二斜坑人車で入坑し、現場で作業中に煙に巻かれ二一卸四片口に退避し、その後、三五〇メートル坑道零片材料線付近等で救助作業に従事し、その際、ガスに襲われた。救助作業終了後、翌一〇日午前二時頃、宮浦鉱から昇坑したが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患した。
(この点、被告は、亡武義が退避した経路、退避場所及び救助作業現場には一酸化炭素ガスは存在せず、仮に存在したとしてもその量は極めて僅かであったから、亡武義が一酸化炭素中毒に罹患したことはない旨主張する。
確かに、<書証番号略>によれば、亡武義の退避経路である二六卸及び二一卸部内には四山鉱あるいは宮浦連絡坑道からの入気があったため、三五〇メートル坑道からの一酸化炭素ガスの濃度が低くなったことは十分推測されるところである。しかし、このような事情が存在するからといって、一酸化炭素ガスが岩盤二六卸坑道や二一卸本線坑道を経由し、あるいはベルト卸坑道、零号卸坑道を経て四五〇メートル坑道からの入気に混入して〔四五〇メートル坑道口付近まで一酸化炭素ガスが侵入していたことについては被告も認めるところである[平成四年一〇月九日付被告第四準備書面第二項]。〕、二六卸及び二一卸部内に流入した可能性まで否定するものではなく、これは亡武義が一時退避した二一卸四片口付近も同様である。さらに、前記認定のとおり、亡武義は、その後、三五〇メートル坑道零片材料線付近等で救助作業に従事しているのであって、後述のとおり〔塚本清の罹災状況参照〕、その時間帯、その付近に一酸化炭素が一部滞留していた可能性は否定できない。そして、前記(一)冒頭記載の証拠及び<書証番号略>によれば、亡武義は、一酸化炭素マスク等一酸化炭素ガスの吸入を予防する器具を装着しない状態で作業に従事していること、同人が従事した作業は、かなり重労働の部類に属するもので、比較的低濃度の一酸化炭素であっても急性一酸化炭素中毒に罹患しやすい状態にあったといえることが認められるほか、亡武義は、後記のとおり、昇坑後直ちに体の異常を訴え病院で受診して一酸化炭素中毒と診断され、その後本件事故に基づき一酸化炭素中毒に罹患したとして労災保険法上の経過観察、治癒認定、障害等級認定を受けてきたことからすれば、亡武義は本件事故によって一酸化炭素中毒に罹患したと認めるのが相当であり、他に右認定を覆すに足る的確な証拠は存しない。)
(二) 亡武義は昇坑後、帰宅したが、気分が悪く、手足に痙攣が起るなどしたため自宅近くの渡辺病院で受診し、その後通院を続けた。食事の際、意識不明になる等のため、三、四回同病院に入院した。昭和五一年七月二九日、大牟田地評曙病院の医師から、精神神経症状がある旨の診断を受けた。昭和四七年社会復帰訓練を受けた後、万田作業所に職場復帰し、昭和五〇年三月二九日定年退職した。昭和五七年五月二日胃癌のため死亡した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日治癒認定を受け、昭和五三年一二月八日障害等級七級の認定を受けた。
(四) 原告坂井リツは亡武義の妻であり、原告坂井利光、同美濃部知代子及び同坂井護はいずれも亡武義の子であって、右原告らは亡武義の被告に対する本件損害賠償請求権につき、その法定相続分の割合にしたがって相続した。
15 原告野田嘉次郎について
<書証番号略>、証人野田ヒツエの証言、原告野田嘉次郎本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告野田嘉次郎(大正七年六月一〇日生)は、昭和三八年の本件事故当時、掘進工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二一連卸掘進の作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑し、作業現場へ向かう途中、四五〇メートル坑道人車乗込中にガスに襲われ、ダイナマイトを抱えて、本件事故当日の九日午後六時頃、四山鉱から自力で昇坑したが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患した。
(二) 九日午後九時頃自宅に帰ったが、罹災後二日目位から興奮して突然襖二枚を破る等の異常行動があった。昭和三九年二月一日職場復帰のために入坑したが耐えられず、同年二月五日から大牟田地評曙病院に通院し、現在なお同院にて通院治療中である。昭和五一年七月二九日同病院の医師から、精神神経症状がある旨の診断を受けた。昭和三九年以後職場復帰することなく、昭和四八年六月九日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日治癒認定を受け、昭和五三年一二月八日障害等級七級の認定を受けた。
16 亡赤井章について
<書証番号略>、原告赤井市本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 亡赤井章(大正六年一月六日生)は、昭和三八年の本件事故当時、電気工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から作業指示を受け、午前七時四二分頃第二斜坑から入坑し、作業終了後昇坑中三五〇メートル坑道でガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し意識不明となって倒れたが、途中で目覚め逃げ道を探していたところ発見され、宮浦鉱から救助された。
(二) 翌一〇日午前二時頃、被告天領病院に収容されたが、午前中のうちに「帰ってよい」と言われ帰宅した。しかし、一〇日後くらいから頭痛、不整脈などのため大牟田地評曙病院に通院を始めた。昭和五一年七月二九日大牟田地評曙病院の医師から、精神神経症状がある旨の診断を受けた。昭和四七年二月二九日定年退職し、昭和五九年七月三〇日、肺炎、心不全のため死亡した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日経過観察となり、昭和四七年二月二九日治癒認定を受け、昭和五三年一二月八日障害等級七級の認定を受けた。
(四) 原告赤井市は亡章の妻、原告野田里和子、同赤井広行及び同赤井心平はいずれも亡章の子であり、右原告らは亡章の被告に対する本件損害賠償請求権につき、それぞれその法定相続分の割合にしたがって相続した。
17 原告川口幸太郎について
<書証番号略>、証人川口ナヘの証言及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告川口幸太郎(大正一三年一一月一九日生)は、昭和三八年の本件事故当時、掘進工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から四五〇メートル連延坑道の掘進作業の指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑し、作業現場へ向かう途中、四五〇メートル坑道人車乗場でガスに襲われた。負傷した同僚を助けながら、五二〇メートル坑道を経て事故当日の九日午後七時頃四山鉱から自力で昇坑したが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患した。
(二) 昇坑後自宅へ帰ったものの、頭痛、耳鳴りを訴え右足に痙攣が来たため、翌一〇日被告天領病院で受診し、以後空室がないため通院した。昭和四〇年一〇月二日三池保養院(精神病院)に入院したが、同病院入院時には、神経学的病的所見は認められず、精神衰弱状態(一酸化炭素中毒性精神障害)と診断された。昭和四三年七月から組合の仮設病院に入院し、昭和四五年七月から大牟田地評曙病院に、昭和四八年平の山病院に転院し、その後通院していたが、昭和五八年八月大牟田地評曙病院(南大牟田病院)へ再入院し、平成元年九月二九日動脈閉塞症のため右足切断手術を受け、現在も大牟田記念病院で治療中である。昭和四七年四月頃から万田作業所に、その後新港作業所に通勤したが、昭和五四年一一月一八日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級一二級の認定を受けた。
18 原告山田勝について
<書証番号略>、証人山田サナエの証言(第一、二回)、原告山田勝本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告山田勝(昭和一〇年一月二日生)は、昭和三八年の本件事故当時、掘進工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三五〇メートル坑道二六卸での切上足場作業の指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑し、作業現場に到着する直前、ガスが侵入して来たため退避しようとしたが、その途中急性一酸化炭素中毒に罹患した。三五〇メートル坑道で意識不明となり、倒れているところを救助され、宮浦鉱から救出された。
(二) 翌一〇日午前〇時頃被告天領病院に収容されたが、朦朧状態で病院を抜け出し、同日、大牟田市内の永田整形外科に入院し、さらに同年一一月一二日中島整形外科へ、昭和三九年三月一六日大牟田労災療養所へ転院した。昭和四六年三月一一日大牟田労災療養所の医師から、精神症状として抑制欠如があり、病前に比べると知的水準の低下が見られる、脳室の軽度拡大を認める、身体的には、やや深部反射の亢進を認めるが、病的反射はないとして、総合的に見て後遺症のため軽易な労務の他服することはできない旨の診断を受けた。昭和四三年七月万田訓練所に入所し、翌四四年七月坑外特務工として職場復帰し、昭和六三年六月二九日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級七級の認定を受けた。
19 原告中島好行について
<書証番号略>、証人中島文子の証言、原告中島好行本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告中島好行(大正三年一〇月三〇日生)は、昭和三八年の本件事故当時、掘進工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二六卸の掘進作業を指示され、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑し、作業現場へ向かう途中停電となり、徒歩で三五〇メートル坑道九目貫人道階段下まで退避した際にガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識不明となって倒れた。意識不明のまま救助され、宮浦鉱から救出された。
(二) 翌一〇日午前五時三〇分頃、被告天領病院に収容された。四、五日後意識が戻り帰宅した。しかし、頭痛や吐き気などのため、間もなくして荒尾市の高森病院に入院し、昭和三九年三月一六日大牟田労災療養所へ転院した。昭和四六年三月一六日大牟田労災療養所の医師から、精神症状は特になく、神経症的であって、神経性難聴があり、就労可能な職種に制限がある旨の診断を受けた。昭和四三年二月労災療養所強制退院後、万田訓練所に入所し、昭和四四年一〇月二九日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級七級の認定を受けた。
20 原告江口忠男について
<書証番号略>、証人江口キヨノの証言(第一、二回)、原告江口忠男本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告江口忠男(大正九年二月六日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から四五〇メートル坑道二一卸向い連卸での材料運搬を指示され、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑し、現場へ向う途中の四五〇メートル坑道の人車乗場でガスに襲われた。五二〇メートル坑道を通って、事故当日の九日午後六時三〇分頃、自力で四山鉱坑口から脱出したが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患した。
(二) 九日午後七時五〇分頃帰宅したが、二日位して頭痛、耳鳴りなどのため被告天領病院で受診し、以後通院した。昭和三九年一月二三日同病院に入院し、昭和四三年九月四日同病院の医師から、神経精神障害がある旨の診断を受けた。昭和四三年四月坑外特務工として造成職場(万田作業所)に職場復帰し、昭和五〇年二月五日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級一二級の認定を受けた。
21 原告江崎治己について
<書証番号略>、証人江崎美恵子の証言、原告江崎治己本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告江崎治己(昭和八年四月二二日生)は、昭和三八年の本件事故当時、払採炭工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二六卸部内での作業指示を受けて入坑し、二六卸部内に到着して作業にかかった直後煙にまかれ、二一卸四片口に退避した。その後、三五〇メートル坑道零片材料線排気坑道等で救助作業に従事し、救助作業終了後、事故当日の九日午後一一時過ぎ宮浦鉱から昇坑したが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患した。
(この点、被告は、原告江崎が退避した経路、退避場所及び救助作業現場には一酸化炭素ガスは存在せず、仮に存在したとしてもその量は極めて僅かであったから、原告江崎が一酸化炭素中毒に罹患したことはない旨主張する。
しかし、前記のとおり〔亡坂井武義の罹災状況参照〕一酸化炭素ガスが、二六卸及び二一卸部内付近まで流入した可能性を完全に否定することはできず、さらに、前記認定のとおり、原告江崎は、その後三五〇メートル坑道零片材料線排気坑道等で救助作業に従事しているのであって、後述のとおり〔塚本清の罹災状況参照〕、その時間帯、その付近に一酸化炭素が一部滞留していた可能性は否定できない。そして、前記(一)冒頭記載の証拠及び<書証番号略>によれば、同原告は、一酸化炭素マスク等一酸化炭素ガスの吸入を防止する器具を装着しない状態で作業に従事していること、同人が従事した作業は、かなり重労働の部類に属するもので、比較的低濃度の一酸化炭素によっても、急性一酸化炭素中毒に罹患しやすい状態にあったといえることが認められるほか、後記のとおり、同原告は本件事故後一週間ほどして頭痛や疲労感を訴え病院で受診し、その後、本件事故に基づき一酸化炭素中毒に罹患したとして労災保険法上の治癒認定、障害等級認定を受けてきたことからすれば、同原告は本件事故によって一酸化炭素中毒に罹患したと認めるのが相当であり、他に右認定を覆すに足る的確な証拠は存しない。)
(二) 原告江崎は、昇坑後も三川鉱で行方不明の人を捜す手伝いなどをし、翌一〇日午前八時頃帰宅した。翌日からも近所の葬儀の世話などをし、一週間後、疲労感と頭痛のため被告天領病院平井分院で受診し、その後、通院した。その後大牟田地評曙病院へ通院し、昭和三九年九月大牟田労災療養所にてリハビリ治療を受け、昭和四三年九月二七日同病院荒尾回復指導所の医師から、中枢神経系に障害がある旨の診断を受けた。昭和四三年環境作業等の仕事に従事した後、新港作業所に職場復帰し、昭和六三年四月二一日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級一二級の認定を受けた。
22 原告中尾進について
<書証番号略>、原告中尾進本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告中尾進(大正一二年一〇月二三日生)は、昭和三八年の本件事故当時、掘進工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は三川鉱繰込場において係員から四五〇メートル連延坑道の枠張り作業の指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑し、作業現場へ向う途中、四五〇メートル坑道の人車乗場でガスに襲われた。同僚を助けながら、五二〇メートル坑道を経て自力で退避し、四山鉱から昇坑したが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患した。
(二) 事故当日の九日午後一〇時頃帰宅したが、被災後、一二日目頃頭痛、眩暈などのため被告天領病院で受診し、以後同病院及び同病院の分院に通院した。昭和四三年九月二七日大牟田労災療養所荒尾回復指導所の医師から、中枢神経系に障害がある旨の診断を受けた。昭和四〇年頃から労災回復指導所に通った後、昭和四三年三月頃から、四山鉱の坑外雑作業に従事し、昭和五三年一〇月二二日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級一二級の認定を受けた。
23 原告勝永末人について
<書証番号略>、原告勝永末人本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告勝永末人(大正一五年一一月一〇日生)は、昭和三八年の本件事故当時、払採炭工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六昇東払立柱の作業指示を受け、午後二時二二分第二斜坑人車で入坑し、三六昇東一片で作業中にガスに襲われた。他の罹災者の救助作業に従事した後、宮浦連絡坑道を経て、翌一〇日午前二時頃宮浦鉱から昇坑したが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患した。
(二) 昇坑後も、そのまま死体の確認作業等を手伝い、同年一一月一一日朝帰宅した。その後も葬儀の手伝い等を行ううち、罹災後四日目に人の名前が書けない等の異常に気づき、高森病院で受診し、さらに熊本大学病院で受診した。昭和三九年一〇月大牟田労災療養所に入院し、昭和四三年九月九日同病院の医師から、中枢神経系に障害がある旨の診断を受けた。昭和四三年七月頃坑外工として造成職場に復帰し、昭和五六年一一月九日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級一四級の認定を受けた。
24 原告沖克太郎について
<書証番号略>、原告沖克太郎本人尋問の結果(第一、二回)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告沖克太郎(昭和一五年四月二九日生)は、昭和三八年の本件事故当時、坑内機械工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二六卸四片払のコンベア据え付け作業の指示を受け、午前八時二分第二斜坑人車で入坑し、午後三時頃作業を終了して岩盤二六卸坑道から三五〇メートル坑道人車乗場へ向かう途中ガスに襲われ、同坑道零片材料線付近まで退避して来るまでの間に急性一酸化炭素中毒に罹患し、同所で意識を失い倒れた。倒れているところを救助され、宮浦鉱から救出された。
(二) 事故当日の九日午後一一時過ぎ被告天領病院へ収容された。同年一一月二五日頃結核療養所「弥生寮」(後の大牟田労災療養所、大牟田労災病院)へ転院し、昭和四三年一月二〇日頃同病院を退院した。昭和四三年九月九日同病院の医師から、中枢神経系に障害がある旨の診断を受けた。同年一月下旬頃から職場復帰訓練を受けた後、坑外作業に従事したが、昭和四六年頃から約六年間三池労組の組合専従となり、また、昭和五五年から一年間右労組の組合長を務めた。現在新港作業所で勤務している。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級九級の認定を受けた。
25 原告織田喬企について
<書証番号略>、原告織田喬企本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告織田喬企(昭和一四年一一月一八日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場で係員から作業指示を受け、午後三時一〇分頃第二斜坑人車で入坑途中爆風と共にガスに襲われ、しばらく人車内に伏せた後、午後三時五〇分頃同乗していた四人と共に、徒歩で第二斜坑坑口から昇坑したが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患した。
(二) 昇坑後死亡者の確認作業を行ったり同僚を見舞ったりしていたが、数日後から頭痛や耳鳴りがする等のため大牟田地評曙病院で受診し、その後も通院治療を続けた。昭和四三年九月三〇日、同病院の医師から、中枢神経及び精神に障害がある旨の診断を受けた。昭和三九年二月原職に復帰し、現在まで坑内仕繰工として勤務している。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級一四級の認定を受けた。
26 原告山本典之について
<書証番号略>、原告山本典之本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告山本典之(昭和三年九月一一日生)は、昭和三八年の本件事故当時、運搬工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場で係員から四五〇メートル坑道二六卸の電車操作の作業指示を受け、午後二時三二分第二斜坑人車で入坑し、途中四五〇メートル坑道人車乗場に到着した直後ガスに襲われた。負傷者を救助しながら、事故当日の九日午後七時過ぎ四山鉱から脱出したが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患した。
(二) 罹災後数日間は葬儀の手伝い等に忙殺されたが、その頃から関節痛や頭痛が発生し、同年一一月一九日一斉検診を機会に被告天領病院で通院治療を受けるようになった。昭和三九年二月一三日現場に復帰したが、同年、坑内作業中に発作を起こし、休職して被告天領病院で治療を受けた。昭和四三年九月四日同病院の医師から、神経精神障害がある旨の診断を受けた。昭和四三年再度現場復帰し、昭和五八年九月一〇日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級一四級の認定を受けた。
27 原告井上文雄について
<書証番号略>、原告井上文雄本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告井上文雄(昭和一四年四月三日生)は、昭和三八年の本件事故当時、仕繰工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六昇での機材運搬作業の指示を受け、午前八時二分第二斜坑人車で入坑し、午後二時三〇分頃作業を終了して徒歩で昇坑中、三五〇メートル坑道人車乗場から宮浦連絡坑道の近くまで来た時にガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患して意識を失った。翌一〇日午前三時頃、宮浦鉱から意識不明のまま救出された。
(二) 一〇日早朝、中島外科医院に収容され、しばらくして意識が戻った。昭和三九年三月一六日頃大牟田労災療養所へ転院し、昭和四三年一〇月二日同病院の医師から、中枢神経系に障害がある旨の診断を受けた。昭和四三年三月坑内仕繰工として原職復帰し、昭和四九年三月以降は新港作業所で作業に従事している。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級九級の認定を受けた。
28 原告西原隆寛について
<書証番号略>、原告西原隆寛本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告西原隆寛(昭和一一年二月五日生)は、昭和三八年の本件事故当時、坑内機械工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場で係員から三五〇メートル坑道二五昇での作業指示を受け、午前八時二分第二斜坑人車で入坑し、午後三時過ぎ作業終了後、昇坑しようと三五〇メートル坑道を同坑道零片人車乗場へ向かう途中ガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識不明となった。事故当日の午後八時頃意識が戻り、午後一一時頃宮浦鉱から同僚の肩を借りて昇坑した。
(二) 帰宅して二日間は知人の葬儀を手伝ったりしたが、罹災後三日目、行動の異常に気付いた人から受診を勧められ、被告天領病院で受診し、同病院に通院した後、同年一二月三日荒尾市民病院へ入院し、昭和三九年四月一六日大牟田労災療養所へ転院した。昭和四三年九月九日同病院の医師から、中枢神経系に障害がある旨の診断を受けた。昭和四三年二月坑外職場に復帰し、作業訓練を受けた後、昭和四六年頃から坑外選炭職場での作業(坑外機械工)や雑作業(坑外特務工)に従事し、平成三年二月四日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級一二級の認定を受けた。
29 原告池畑重富について
<書証番号略>、証人池畑小夜子の証言、原告池畑重富本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告池畑重富(昭和一四年二月一六日生)は、昭和三八年の本件事故当時、坑内機械工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から二五昇二片払の水管延長等の作業指示を受け、午前八時第二斜坑人車で入坑し、作業終了後休憩所で坑外に電話していたところ停電となり、坑口へ退避するため二五昇から三五〇メートル坑道に出る途中ガスに襲われ、同僚を助けながら宮浦連絡坑道風門近くまでたどり着いたが、その間に急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識不明となった。事故当日の九日午後一一時頃、意識不明で倒れているところを発見され、宮浦鉱から救出された。
(二) 九日午後一一時過ぎ被告天領病院に収容され、翌日帰宅した。しかし、異常を自覚し一週間後から同病院に通院した。昭和四三年九月二七日同病院荒尾回復指導所の医師から、中枢神経系に障害がある旨の診断を受けた。昭和四三年三月から坑内仕繰工として復職し、昭和四六年一〇月坑外特務工に変わり、昭和四九年六月以降は新港作業所で作業に従事している。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級九級の認定を受けた。
30 原告塚本清について
<書証番号略>、証人塚本栄子の証言(第一、二回)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告塚本清(明治四二年一月一四日生)は、昭和三八年の本件事故当時、払採炭工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、午後六時頃社宅事務所の内野庶務係から救助に行くように指示を受け、事故当日の九日午後七時頃三川鉱坑口に集合し、午後八時二〇分救援隊の一員として第二斜坑から入坑し、三五〇メートル坑道人車乗場、同坑道材料線、宮浦連絡坑道付近で遺体の搬出などを行い、その間に滞留していた一酸化炭素ガスを吸い急性一酸化炭素中毒に罹患した。救助終了後、翌一〇日午前一〇時頃三川鉱第二斜坑から昇坑した。
(この点、被告は、三五〇メートル坑道に流れた一酸化炭素ガスは、原告塚本清が入坑した午後八時二〇分頃には、すでに存在していなかったのであるから、同原告が一酸化炭素中毒に罹患することはありえない旨主張する〔<書証番号略>添付第四図参照〕。
しかし、右<書証番号略>の基礎となったと推認される<書証番号略>の一酸化炭素到達、滞留時間は事故当時の実測に基づくものではなく、あくまでも通気試験結果を実験公式にあてはめて計算したものであり、しかも<書証番号略>によれば、滞留時間〔露呈時間〕の記載は「少なくともこれ以上の時間は一酸化炭素がその地点を流れたであろうという最小値」〔四、五頁〕というのであって、必ずしもそれ以上の時間一酸化炭素が滞留していた可能性を否定するものではない。また、前記(一)冒頭記載の証拠及び<書証番号略>によれば、原告塚本清が救助作業に従事している時間帯においても、二五昇部内では相当高濃度の一酸化炭素ガスが検出されていること、同原告は、一酸化炭素マスク等一酸化炭素ガスの吸入を防止する器具を装着しない状態で作業に従事していること、同原告が従事した作業は、遺体のため右現場と坑外とを数回往復するという、かなり重労働の部類に属するものであって、比較的低濃度であっても急性一酸化炭素中毒に罹患しやすい状態にあったこと、同原告は作業中に頭痛、眩暈や吐き気を覚え、以後も体調が回復しないため被告天領病院で受診し、一酸化炭素中毒と診断されたことが認められるほか、後記のとおり、同原告は、本件事故に罹災し一酸化炭素中毒に罹患したとして労災保険法上障害等級一四級の認定を受け、これに関する審査、再審査の過程における、主治医を始めとする各専門医師らの意見、鑑定でも同原告が一酸化炭素中毒後遺症であることについて疑義が呈された形跡はないことからすれば、同原告は、救助作業従事中に現場付近に滞留していた一酸化炭素ガスを吸入して急性一酸化炭素中毒に罹患したと推認するのが相当であり、他に右認定を覆すに足りる的確な証拠は存しない。)
(二) 原告塚本清は、事故翌日の一〇日午前一一時三〇分頃帰宅し、近所の葬儀の手伝い等に走り回ったが、その間頭痛が続き、同年一一月一二日から寝込んだ。同月一三日に被告天領病院で受診し、同年一二月一九日病状が悪化したため高森病院に入院し、昭和三九年三月一六日大牟田労災療養所に転院した。昭和四三年九月九日同病院の医師から、中枢神経系に障害がある旨の診断を受けた。昭和四一年七月同病院を退院し、同年秋頃から万田回復訓練所に通っていたが、昭和四二年一二月三一日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級一四級の認定を受けた。
31 原告永野八藏について
<書証番号略>、証人永野トシの証言及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告永野八藏(明治四三年三月二九日生)は、昭和三八年の本件事故当時、掘進工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三五〇メートル坑道三六卸部内での作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑し、作業準備中に停電したので三五〇メートル坑道に出ようとしてガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識不明となった。意識不明のまま、翌一〇日午前四時頃宮浦鉱から救出された。
(二) 一〇日午前四時頃荒尾市民病院に収容されたが、数日間傾眠状態が続いた。昭和三九年三月大牟田労災療養所へ転院し、昭和四三年組合の仮設病院を経て、同年三月大牟田地評曙病院に転院した。同年七月四日から万田回復訓練所に通って訓練を受けたが、退所後は再び大牟田地評曙病院に入院した。昭和四六年三月一六日大牟田労災療養所の医師から、精神症状としては心気的で神経症的、情動失禁をあらわすことがあり、身体的には自律神経系の失調状態が疑われ、総合的には職種に制限を受ける旨の診断を受けた。昭和四二年一二月三一日定年退職した。
(三) 昭和四一年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級七級の認定を受けたが、昭和五〇年九月一日障害等級が五級に変更された。
32 亡小宮北勝について
<書証番号略>、原告小宮浩昭本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 亡小宮北勝(昭和一二年八月一九日生)は、昭和三八年の本件事故当時、掘進工として被告三川鉱に勤務していた。本件事故当日は、三川鉱繰込場において係員から三六卸部内での作業指示を受け、午後二時四二分第二斜坑人車で入坑したが、現場到着後停電となり、三五〇メートル坑道に様子を見に行ったところガスに襲われ、急性一酸化炭素中毒に罹患し、意識不明となった。翌一〇日午前五時頃、宮浦鉱から救出された。
(二) 意識不明のまま被告天領病院へ収容されたが、同日帰宅した。しかし、夜中に起上がり暴れ出したので再び同病院に入院した。昭和四三年九月四日同病院の医師から、神経精神障害がある旨の診断を受けた。昭和四三年三月から坑外特務工として勤務し、昭和四六年一月退職した。昭和六三年三月二一日悪性リンパ腫のため死亡した。
(三) 昭和四三年一〇月三一日治癒認定を受け、昭和四六年七月三日障害等級七級の認定を受けた。
(四) 原告小宮浩昭及び同小宮正昭は、いずれも亡北勝の子であり、右原告らは、亡北勝の被告に対する本件損害賠償請求権につき、それぞれその法定相続分の割合にしたがって相続した。
二亡宮嶋富太郎、同宮嶋イシの損害について
1 <書証番号略>、録音テープの検証の結果、原告宮嶋伸次本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
亡宮嶋富太郎、亡宮嶋イシは、本件事故の罹災者亡宮嶋重信の両親であり、重信は富太郎、イシ夫婦の三男である。
重信は、中学を卒業後、鉱山学校に入学し、その後被告三川鉱に勤務しながら福岡県立大牟田高校の定時制を卒業した。昭和三四年に重信が三川鉱で働き始めた頃には富太郎は既に定年退職していたので、同人の二男と重信が富太郎ら家族の生活の柱であった。
前記一1に判示のように、重信は本件事故によって急性一酸化炭素中毒に罹患し、救助後、被告天領病院に収容されて治療を受けたが、容態が改善しないまま昭和三八年一二月一三日熊本大学病院に転院した。昭和三九年一月頃から全身の痙攣、硬直により手足の関節が異様に屈曲し、骨と皮のように痩せ衰えていった。同年六月頃からは全身が赤斑状の皮膚病に冒され、肉が腐り骨まで見えるような状態となった。このような経過を辿り、被災から一〇年後の昭和四九年一月六日死亡した。
2 富太郎、イシの被告に対する損害賠償請求権の相続については一1(四)に同じ。
三被災原告らに対する被告等の援護措置
<書証番号略>、証人西山信太郎、同上野幸男の各証言及び弁論の全趣旨によれば以下の事実が認められる。
1 国の援護措置
(一) 罹災から治癒認定までの期間、被災原告らの療養は、労災保険法に基づく療養補償給付や特別看護料などによって行われ、また、療養のために休業していた被災原告らに対しては、労災保険法により休業補償給付や長期傷病補償給付(傷病補償給付)等が支給されている。
(二) 治癒認定者に対しては、労災保険法による障害補償年金(障害等級一級から七級の者に対して)または障害補償一時金(障害等級九級以下の者に対して)及び厚生年金保険法上の障害年金が支給されている。右年金は退職した後も継続され、さらに、鉱山労働者のうち、坑内経験が一五年以上ある者に対しては満五五歳から厚生年金保険法による老齢厚生年金が支給されている(厚生年金法附則八条二項。)。
これらの各種社会保険制度に基づく国の援護措置は、当該社会保険制度の理念とする相互連帯、相互救済の精神に基づいて給付されるものであり、特に労災補償は、労働能力の一時的又は長期的喪失という事態に応じ、療養補償、休業補償、障害補償に関する給付等を行うことによって労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に対する迅速かつ公正な保護を図り、あわせて、労働者の社会復帰の促進、労働者及びその家族の援護、適正な労働条件の確保等を図り、もって労働者の福祉の増進に寄与することを目的とするものであり(同法一条)、直ちに第三者の行為による慰謝料の代替給付を含むものではない。しかし、かかる国の諸制度によって労働者及びその家族の福祉が増進されることにより、結果的に労働者らの精神的苦痛が慰謝されることまで否定されるものではなく、原告らの慰謝料の算定に当たり、諸般の事情の一つとして国の援護措置を勘案するのが相当である。
2 被告による援護措置
三池労組と被告は、昭和三八年一一月二一日以降、当初は三池鉱業所において、その後、三池労組の上部団体たる日本炭鉱労働組合の参加も得て被告本店において、団体交渉を重ね、同年一二月二一日原告らを含む罹災者らの援護等に関する第一次の協定等が、昭和四三年一月一二日には要旨以下のような内容の協定(死者に関するものを除く)が成立し、その後、事態の推移等に従い幾度か改定補足されてきた。
そして、右諸協定(補正協定を含む)に定める被告の負傷者に対する諸般の措置による利益を原告らは享受してきた。
イ 平均賃金の二〇パーセント相当額の休業補償費の支給
ロ 入院者・通院者に対する見舞金の支給
ハ 入院者の家族たる付添者に対する給食費補助
ニ 入院者の家族たる見舞者に対する手当の支給
ホ 長期傷病者の解雇延期
ヘ 治癒認定者に対する軽作業の職場の造成並びに原職復帰料(祝儀金)・配置転換料の支給
ト 退職餞別金の支給
四慰謝料
以上一ないし三に判示した事情に本件事故当時の一般的損害賠償の水準などを総合的に考慮すれば、被災原告ら及び亡宮嶋富太郎、同宮嶋イシが本件事故により被った精神的苦痛を慰謝するための慰謝料としては、被災原告らの障害の度合いに応じて、別表一の「認容額内訳」欄記載の慰謝料欄のとおり(亡宮嶋富太郎、イシの分については同表欄外に注記)と認めるのが相当である。
五弁護士費用
本件訴訟の難易度、その他諸般の事情を勘案すると、被告の不法行為と相当因果関係のある損害額と認められる弁護士費用の額は、前項の慰謝料の一割と認めるのが相当である。
第九結び
よって、原告らの本訴請求は、別表一の「認容額」欄記載の各金員及び同表の「認容額内訳」欄中慰謝料欄記載の各金員に対する同表の「遅延損害金起算日」欄記載の各日から各支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。なお、仮執行免脱宣言の申立は相当でないからこれを却下する。
(裁判長裁判官湯地紘一郎 裁判官西川知一郎 裁判官中牟田博章)