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福岡地方裁判所 昭和52年(ヨ)220号 判決 1978年4月15日

申請人

高田貞子

有本年江

冷水博子

申請人ら訴訟代理人弁護士

井手豊継

右訴訟復代理人弁護士

辻本育子

申請人ら訴訟代理人弁護士

中村照美

(ほか九名)

被申請人

社会福祉法人五月会

右代表者理事

泉智恵子

右訴訟代理人弁護士

稲澤智多夫

主文

一  申請人らが被申請人に対し労働契約上の地位を有することを仮に定める。

二  被申請人は、昭和五二年四月から本案判決確定に至るまで毎月二五日限り、申請人高田貞子に対して月額金七万七、一二三円、同有本年江に対して月額金九万二、一九五円、同冷水博子に対して月額金八万九、九八九円の各割合による金員を仮に支払え。

三  訴訟費用は被申請人の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の申立

申請人らは主文同旨の仮処分の裁判を求め、被申請人は「本件各申請を却下する。申請費用は申請人らの負担とする。」との裁判を求めた。

第二当事者間に争いのない事実

一  被申請人は、社会福祉事業法二九条一項の規定により昭和五〇年八月一三日厚生大臣の認可を受けた社会福祉法人であり、同年九月一日より保育所いずみ保育園を設置、開園するものである。他方、申請人高田貞子、同有本年江は開園時より右保育園に勤務し始めた者である。

二  申請人冷水博子も昭和五一年四月一日より右保育園に勤務し始め、前項の申請人両名は右同日被申請人との間で労働契約を更新した。

三  申請人ら三名が加入している福岡県幼児教育労働組合(以下「幼労組」という)は、被申請人に対し、昭和五一年七月一三日付で組合結成通知書、団体交渉申入書を郵送し、これは翌一四日に被申請人に到達した。

四  被申請人の代表者でいずみ保育園の園長でもある泉智恵子は、昭和五二年二月二八日、申請人ら三名に対して、労働契約期間が終了する同年三月三一日限りで同園を辞めて欲しい旨通知した(以下、「本件更新拒絶」という)。

五  昭和五二年一月ないし三月における申請人らの平均賃金は申請人高田が月額金七万七、一二三円、同有本が月額金九万二、一九五円、同冷水が月額金八万九、九八九円であり、被申請人の給与支給日は毎月二五日であった。

第三争点

一  申請人らの主張

1  申請人高田は遅くとも昭和五〇年二月初頃に、同有本は同年六月半ば頃に、それぞれいずみ保育園の保母として勤務することを内容とする期間の定めなき労働契約を被申請人との間で締結した。申請人冷水も昭和五一年三月二六日頃に、右同様の労働契約を被申請人との間で締結した。

2  しかるに被申請人は、昭和五二年四月一日以降申請人らをいずみ保育園の保母として取扱わず、且つ賃金も支給しない。

3  昭和五二年一月から三月までの三ケ月間における申請人らの平均賃金月額及びその支給日は、前記第二の五に記載のとおりである。

4  よって申請人らは被申請人との間の地位確認並びに賃金支払請求の本案訴訟を提訴すべく準備中であるが、本案判決を待っていたのでは被申請人から支払われる賃金で生活している申請人らは回復し難い損害を蒙むる虞れがあるため、地位保全並びに賃金仮払の仮処分を求める。

二  被申請人の主張

1  申請人らと被申請人間の労働契約は、いずれも臨時として期間の定めのある契約であった。すなわち申請人高田については、被申請人との間で、昭和五〇年九月二九日に「同年一一月三〇日までの間臨時従業員として採用する」旨、同年一二月一日に「昭和五一年三月三一日までの間臨時従業員として採用する」旨、そして昭和五一年四月一〇日に「昭和五二年三月三一日までの間臨時従業員として採用する」旨の各労働契約を順次締結した。申請人有本についても右高田と同様、順次被申請人との間で臨時従業員として採用する旨の労働契約を締結したが、昭和五一年四月一〇日には「昭和五二年三月三一日までの間臨時従業員として採用する」旨の労働契約を締結した。申請人冷水については、被申請人との間で、昭和五一年四月一〇日に「昭和五二年三月三一日までの間臨時従業員として採用する」旨の労働契約を締結した。こうして被申請人は、申請人らを臨時保母として採用する旨の期間の定めのある労働契約を締結していた。そして右期間が満了し、申請人らと被申請人との労働契約関係は終了した。

2  申請人らの主張第2第3項は認める。

三  申請人らの反論

1  (「臨時」の無効)

仮に本件労働契約において、「臨時」保母であることの合意があったとしても、被申請人の就業規則上、「臨時」保母は存在しないから、右合意は無効である。

すなわち、右就業規則第三条は、いずみ保育園の従業員として「保母」(1号)、「臨時雇傭者」(3号)を掲げるが、申請人らは、「保母」であって「臨時雇傭者」ではない。これは、申請人らの従事する仕事の種類・内容・勤務時間等が他の保母と何ら変わりがなく、かつ申請人らは「臨時雇傭者」にはあり得ないはずの三ケ月間の試用期間を設定され、「保母」のみに支払われる特別業務手当の支給を受けていること等から明らかである。しかして労働基準法(労基法)九三条は「就業規則で定める基準に達しない労働条件を定めた労働契約は、その部分については無効」である旨規定するが、申請人らがそうであるといわれる右臨時保母と就業規則上の「保母」は賃金、解雇等の労働条件において差異がある。よって、申請人らを「臨時」保母とする旨の労働契約は就業規則に定める「保母」の基準に達しない労働条件を定めた部分、即ち臨時性に関する不利益な部分につき無効である。

2  (解雇権の濫用)

仮に本件労働契約に被申請人が主張するような期間の定めがあったとすれば、昭和五二年四月一日以降申請人らを雇傭しないという被申請人の処置は、いわゆる傭止め(更新拒絶)となるが、本件においては、申請人らに対する更新拒絶は実質的な解雇であり、実質上解雇権の濫用に相当する。

即ち、被申請人主張の如く本件労働契約が、期間の定めのあるもので保母の過員の生じた場合は更新しないという趣旨のものであるとすれば、本件更新拒絶は、余剰人員の整理を目的とするいわゆる実質的な整理解雇であるから、解雇の法理に服し、使用者の更新拒絶(実質上解雇)権も労働契約上の信義則から導かれる制約に服する。本件のばあい、以下のとおり、被申請人には昭和五二年二月二八日当時、申請人らの雇傭更新を拒絶しなければならない差し迫った必要性はなく、しかも、これを避けるための努力も全くなされなかった。

(一) (保母の自然減)

一般的に保育園に勤務する保母の勤務年数は非常に短かく、福岡市のばあいも平均二、三年位である。このことはいずみ保育園においても例外ではなく、園から申請人らの解雇(以下契約更新拒絶をふくめて解雇という)までの一年半の間に保母(被申請人の云う正規保母)三名が退職している。したがって被申請人としては、昭和五二年二月の時点で同年四月に保母の過員が生ずることが予想されたとしても、早晩保母の退職者がでることにより、それが解消されることが容易に予測できたはずである。現実に同年六月までに二名の正規保母が退職している。

しかるに被申請人は、十分な検討もせずに、保母三名分の人件費が不足すると単なる予想に基づいて申請人らを解雇した。

(二) (希望退職者の募集)

被申請人は、解雇を避けるために、まず希望退職者を募るべきであった。保母の自然減が見通せなかったというのであれば、尚更そうすべきであった。そうすれば先に述べた正規保母二名も当然退職を希望したはずで、それによって申請人らのうち、少なくとも一人か二人の保母の解雇は避け得たはずである。

(三) (三才未満児措置への努力不足)

被申請人が、申請人らを解雇しなくて済むような児童の措置がなされるよう福岡市に対して要望し、右要望が実現されるよう努力しておれば、右要望は十分実現される見通しがあった。それにもかかわらず、被申請人は何らの方策もとらなかった。

すなわちいずみ保育園においては、昭和五〇年度(五〇・九・一~五一・三・三一)、五一年度(五一・四・一~五二・三・三一)、五二年度(五二・四・一~五三・三・三一)の三才未満児の入所希望者数が若干漸増気味であり、この申込状況に合致し且つ保母の過員を生じさせないために、被申請人から福岡市に対して前年度どおり三才未満児を多く措置してもらいたい旨希望すれば、その実現の可能性は強かったはずである。

(四) (定員増)

保育所施設の設備、運営については、児童福祉法四五条に基づき児童福祉施設最低基準(別紙一参照。以下、「最低基準」という)なる省令が定められており、同最低基準五三条によると、いずみ保育園の保育室の面積から計算した同園全体の収容能力は幼児一一一名となり、現在の定員数一〇〇名より一一名多く収容可能である。そして福岡市においては、保育所の新増設とは異なる定員増についても十分認可の見込みがあった。しかるに被申請人は、申請人らの右定員増の認可申請の要求に反して、右申請をなさなかった。仮に一一名の定員増がなされておれば、いずみ保育園においてそれに応じた保母が必要となったはずである。

(五) (自由児の入園)

被申請人は、前年度(昭和五一年度)なみの、また他の保育園なみの自由児を入園させておれば、事実上は措置児も自由児も同一水準で保育する関係で、それに見合う保母が必要となり申請人らを解雇する必要はなかったのに、自由児をほぼ零にして申請人らを解雇した。

以上の如く、本件では被申請人が右のような努力を少しでもしておれば、申請人らを解雇することなく保母三名の過員を解消することは容易にできたはずである。しかるに被申請人が右のような使用者としてなすべき努力をなさず、安易に申請人らを解雇したのは、解雇権の濫用として無効である。

3  (不当労働行為)

申請人高田は昭和五〇年九月、同有本は翌五一年五月、同冷水は同年六月にそれぞれ幼労組に加入したものであるところ、本件解雇は、次のとおり、申請人らが右組合員であること及び正当な組合活動をしたことを実質的な理由とする不利益取扱いであって、同時に組合潰しを図った支配介入であり、労組法七条一号、三号の不当労働行為に該当し無効である。

(一) 昭和五〇年四月、泉智恵子園長は申請人有本の採用面接の際、同人に対し組合などに入らないよう注意した。

(二) 昭和五一年六月、申請人らの所属する幼労組はいずみ保育園に勤務する全従業員に組合ニュースを配付したが、これを知った園長は、職員全員を集め、組合には入らないよう注意した。またその席上、池口主任は、白百合保育園の石田保母の例をあげ、同人が裁判には勝ったけれども、結局保育園に居られなくなったとか、何処にも就職できなくなったとか、組合に加入すると兄弟の結婚や就職にも差し支えるとかの話をした。

(三) 幼労組は昭和五一年七月一三日付書面を以って、被申請人に対し、団交申入書を郵送したが、右申入書が被申請人に到達したとみられる直後に、園長が全職員を集めて「園内のことは園内で解決し、外部に出さない」という趣旨の文書を全員に回し、同意の旨の署名捺印を求めた。申請人らが右文書に署名捺印を拒否したことを知った園長は、申請人高田に対し、「高田先生、あなたは臨時だということを覚えておきなさい。一八、一九の小娘じゃあるまいし、自分のしていることがどんなことか分かっているのか。」等と申し向け、また申請人冷水に対しては、「あなたまで(組合に)入っているとは思わなかった。」と述べた。

(四) 昭和五一年七月二〇日、申請人らと同じく幼労組に加入している芋生よしやの出身校(短大)の理事長が同人を尋ねて来た。同理事長は芋生らが園長に何を要求しているのか聞き出すことを頼まれて来たと芋生に打明けたが、同人は組合のことは何も話したくないと断ったところ、同理事長は芋生に対し、「どういうことをやっているのか分かっているのか。後輩のことは考えないのか。」と、暗に組合から脱退するよう誘った。

(五) 昭和五一年七月二二日、申請人高田は出勤後園長に呼ばれ、「園を創立して一年未満なのに、何故あなた達は文句を言ってくるのか。白鳩保育園の三人も組合に入っているが、今は園長の機嫌をとりにくるようになった。あなた方も長く勤めたいなら後で園長の機嫌をとるようなことはしない方がいい。」と言われた。

(六) 昭和五一年七月三〇日、泉知恵子園長は申請人有本の母親を大牟田から呼び出し、組合活動をしていると兄弟の就職に差し支えるとか、今後福岡市内の保育園に就職できないとかの話をし、母親をして右有本に組合を脱退させるよう仕向けた。

(七) 昭和五一年九月二五日、職員会議での席上、被申請人は昭和五二年三月末日限りで申請人らに辞めてもらう積りである旨意思表示したが、その時「あなた達が最低基準ということで問題を起した以上、来年はあなた達に辞めてもらう。」旨申し向けた。

(八) 昭和五一年一〇月二九日、泉園長は申請人有本に対し、「組合員が最低基準のことを言わなかったらずっと今の基準のままでやっていくつもりだった。」ことを話した。

(九) 昭和五一年九月八日、第二回団体交渉の席上、泉園長は、保母試験の結果をみたうえで申請人有本と松尾保子のいずれを正規保母にするか考えると言っておきながら、同年一〇月一日右有本が保母資格を取得したというのに、資格が取れなかった非組合員の右松尾を正規保母とした。

(一〇) 福岡市内の私立保育園の殆どが一割ないし五割の自由児を入れており、現に被申請人も昭和五〇年度、五一年度は三五人ないし四五人前後の自由児を入れていた。また、市当局としても、保育所入所を切望する父母の要求が強いため、自由児については黙認する態度を執っており、昭和五二年度においても被申請人としては、自由児を入れようと思えば容易にそれが出来る状況にあった。しかるに被申請人は、同年度にかぎり、若干の例外を除いて、ほぼ全面的に自由児の入所を拒否し、ことさら保母の需要を減少させた。

(一一) 昭和五二年三月一九日、いずみ保育園の父母の会の席上、園長は園内のゴタゴタが納ったら自由児を入園させる旨父兄に発言した。

(一二) いずみ保育園に勤務する保母のうち申請人らを含む四名が幼労組の組合員であるが、本件解雇によって右四名のうち三名までが解雇された。

以上の諸事実によると、被申請人が常日頃から組合を嫌悪していたことは明らかで、さらに申請人らに対して組合脱退の勧誘をしていたこと及び申請人らが幼労組に加入していることを知った昭和五一年七月一四日の直後ごろから、被申請人は申請人らを「臨時」であると強調するようになった事実もあり、本件解雇が前述の通り不当労働行為であって、無効となることは明らかである。

四  被申請人の反論

1  (「臨時」の無効について)

被申請人の就業規則第三条は、従業員として、「保母」(1号)、「調理・用務・事務」(2号)、「臨時雇傭者」(3号)を列記している。ところで被申請人の経営するいずみ保育園においては、昭和五〇年九月一日の開園時に措置された一〇〇名(最低基準にもとづいていずみ保育園に認可された園児の定員数は一〇〇名である)の園児の年令構成をみると、右認可された園児の年令構成(別表一の(一)A欄参照)と比較して、現実には三才未満児が多く措置される(同表一の(二)A欄参照)という極めて変則的な内容のものであった。この結果、当初園児一〇〇名に対する保母の定数を同表一の(一)B欄のとおり、最低基準(同五三条によると、乳児又は満三才に満たない幼児の場合は、六人につき一人以上。満三才以上満四才に満たない幼児の場合は、二〇人につき一人以上。満四才以上の幼児の場合は、三〇人につき一人以上となっている)から計算した八名と、零才児については三名以上の乳児につき保母一名の加配補助があるのでこれを加えた合計九名になると見込んでいた被申請人は、同表一の(二)B欄のとおり更に三名の保母を必要とすることを知った。しかも次年度(昭和五一年度)以降園児が繰上ってくる関係で、早晩措置される園児の年令構成は本来のものに近くなり、右保母三名はいずれ剰員になることが見込まれた。そこで被申請人は、保母のうち九名を正規保母(幼児教育専門の学校出身者かあるいは既に保母や幼稚園の経験のある者を指し、採用の初年度においては保母の適否を見るために期間付きの労働契約を締結するも、次年度以降においては期間の定めのない労働契約を締結している)、三名を臨時保母(右以外の者で、採用の初年度のみならず次年度以降においても期間の定めのある労働契約を締結している)として採用した。このように「正規保母」、「臨時保母」はいずみ保育園の内部的な区別にすぎず、被申請人の就業規則上には明確な名称区分はなかったけれども、臨時保母として採用された申請人らはこのことを十分承知のうえであったものである。以上のとおり、前記就業規則条項にいう「保母」の中には、右にいわゆる正規保母を含むもので、「臨時」の合意が就業規則上の根拠を欠くという申請人らの主張は失当である。

2  (解雇権の濫用について)

本件は労働契約期間満了による退職であって解雇ではない。従って、解雇権の濫用など問題にならないが、一応申請人らのこの主張に対する反論を示せば、次のとおりである。

(一) (保母の自然減、希望退職者の募集について)

申請人らに退職を通告した昭和五二年二月二八日当時及び同人らが退職した同年三月末当時においては、被申請人には、はっきりした退職者が判っていた訳ではなく、その見込みも判然としなかった。しかも被申請人は社会福祉法人としていずみ保育園の建物資本しかなく、申請人ら三名を引き続き雇傭していけるような余裕は全くなかった。そのため被申請人は、申請人らに対し、事業団関係の保母募集に応募するよう勧めたり、労働契約期間経過後は保母が休んだりした場合の代替要員の希望はないかと勧めたりした訳であるが、申請人らはこれをいずれも拒否した。

また申請人らと被申請人間の労働契約は期間付きのものであったから、希望退職者を募集する必要はなかった。

(二) (三才未満児措置への努力不足について)

措置児の毎年の措置状況は、福祉事務所が希望者の要措置度、希望者数、距離関係等を配慮のうえなされるものであって、被申請人が要望すれば前年度と同じように措置されるといったものではない。

(三) (定員増について)

申請人らの援用する最低基準はあくまで最低の基準であって、いずみ保育園の建設に当っても市の指導を受けて部屋の配置、大きさを決めたものである。従って、各部屋の面積を最低基準面積に応じて割出し、この部屋には一名増員が可能、次の部屋は二名増員が可能として全部屋合計して一一名は増員可能であるから定員増の認可申請をする、といったところで認可される筈はない。よって一一名の園児に対応する保母数名の解雇は当然回避され得たとする申請人らの主張は、失当である。

また仮に右定員増が可能としても、いずみ保育園の経費は国庫(八〇パーセント)、市(二〇パーセント)より受け取る措置費によって賄われており、一一名の定員増が保母の雇傭増につながるものではない。

(四) (自由児の入園について)

申請人らの所属する幼労組は、被申請人に対し、団交の都度、自由児を入れるな、最低基準を守れと要求していた。昭和五一年一二月一四日両者間に締結された協定(証拠略)にも、その旨確約るす条項が記載された。そのため被申請人は、右協約の趣旨に沿って、昭和五二年度における自由児の採用を自粛したものである。申請人らの主張するように、被申請人が故意に自由児の採用を控えるに至ったわけではない。

以上のように、申請人らの主張はいずれも理由がない。更に被申請人は労働契約期間の満了前に、申請人らに対し、昭和五二年度から他の保育所の保母として勤めるようその具体的な園名をあげて勧めたり、いずみ保育園に代替保母として残る意思はないかと勧めたに拘らず、申請人らはいずれもこれを拒否した。被申請人には財源的な余裕は全くない。以上述べたとおりであって、被申請人が申請人らに対する期間の定めある労働契約の更新をしなかったことについては、十分合理的な理由がある。

3  (不当労働行為について)

被申請人と申請人らとの労働契約関係は、期間の満了によって終了したものである。再契約しなかったことが実質上解雇の法理に服する関係にあるとしても本件は、申請人らが組合員であることや組合活動をしたことないし組合破壊を狙って行なった解雇ではない。幼労組からの団交申入を受けた昭和五一年七月一四日の直後ごろから、被申請人が申請人らに「臨時」である旨強調したことも勿論ない。

申請人らの退職した時点では、組合員の一人である芋生よしやも労働契約期間が満了しているのであるが、同人は大垣女子短期大学幼児教育科卒業で保育専門学校を出ており、正規保母として採用したうえ、現に保母として勤務している。この一事でも申請人らの主張は理由がない。

第四疎明関係(略)

第五争点に関する判断

一  本件労働契約の内容(「臨時」の意味)

1  本件労働契約の内容のうち労働契約期間について、申請人らは期間の定めはなかった旨主張し、これに対して、被申請人は期間の定めはあり、かつ、三才未満児が一時的に多く措置された特段の事情のためもあって、その間の需要に応ずるため、臨時保母として申請人らを採用したものであって、このことは申請人らも合意していた旨主張する。

よってこの点から判断するに、(証拠略)を総合すると、一応以下の事実を認めることができる。

(一) 申請人高田について

(1) 同申請人は、夫が緑内障で療養しながら働いており、また自分もかつて勤務先の会社が倒産した経験があって、生活の安定のため、一定の資格をとっておきたいと考え昭和四六年一月頃から同五〇年一月末頃までの間、福岡市内の黒瀬病院で医療事務に携わる傍ら、昭和四九年一〇月頃に保母資格を取得した。そうして同申請人は福岡市民生局社会部保育課に保母としての就職あっせんを依頼し、翌年(昭和五〇年)夏頃に開園予定であったいずみ保育園の紹介を受けた。

その後同申請人は、昭和四九年一一月頃同園開設後の園長泉智恵子の夫で開園後事務長となる泉徳昭より保母として勤務しないかという勧誘を電話で受け、同人及びその後における泉智恵子との交渉から、保母として同園で採用されるとの見通しを得て昭和五〇年一月末限り黒瀬病院を退職することにした。その際、同申請人は、宮田町診療所から受付事務への就職勧誘をうけたが同人はいずみ保育園への就職を理由に一旦これを断った。しかし結局右園への就職に支障のない同年二月一日から同年四月末までの三ケ月間という約束で臨時として働くことを承諾した。

また同申請人は同年二月頃右泉智恵子と直接面談する機会を持ったが、そこでは右宮田町診療所との間におけるような労働契約期間に関する説明ないし合意は何らなされなかった。その後同申請人は、右園での保母としての勤務に備えて同年五月頃よりいずみ保育園に就職するまでの間との約束で市立那珂保育所に非常勤代替保母として勤務した。なおその間にも数回泉智恵子と電話連絡をとったが、同年五月頃には同人より正式採用の電話連絡があった。しかしそこでも同人からは労働契約期間に関する具体的な説明は何もなかった。

同申請人は昭和四四年頃から福岡市博多区博多駅南三丁目の公団住宅に夫と子供一人の家族三人で居住していたが、昭和五〇年四月に近所の東領にある県営住宅の入居募集に当選したため、入居先変更を希望していずみ保育園への通勤が便利な南区野間旭ケ丘にある県営住宅に入居した。

(2) 昭和五〇年七月下旬から八月初め頃にかけていずみ保育園の具体的な園児の措置状況(三才未満児が異常に多いこと)が被申請人にも判明したが、その頃泉智恵子園長は同申請人に対して同年八月二〇日より開園準備のため出勤を求め、同申請人は那珂保育所を同月一九日限りで退職し、翌二〇日よりいずみ保育園に出勤し始めた。この二〇日の初出勤の際、出勤してきた保母ら(伊香賀、池口、竹本、松尾、浜田、木林(旧姓川崎)、申請人高田、同有本の各保母及び他に調理員の中村)に対し、泉園長は、同月上旬に措置児の措置状況が判明しその結果三才未満児が定数をはるかに超えることとなったために当初予定していた九名(右八名の保母の他に白石)の保母では不足する(即ち最低基準を下回る)ことになり、新たに三名位の保母を雇う必要がでてきたので、心当りがあれば皆さんも紹介して貰いたいという話をした。

こうして同年九月一日より、その後採用の決った三名の保母(厚地、保坂、藤木)を含む合計一二名の保母と右中村及び調理員兼代替保母の久田によっていずみ保育園は開園することになった。

(3) 開園後の昭和五〇年九月二五日(給料支給日)、泉園長は右申請人高田に身分を「臨時保母」と表示した辞令を交付した。一二名の保母のうちかかる表示になっていた者は同申請人のほか申請人有本と松尾(もっとも松尾はその後昭和五一年度―「一年度」は毎年四月一日から習年三月三一日まで。以下同じ―中において後述の正規保母とされた)の二名で、他はみな「正規保母」とされていた。そこで、これまでこのようなことをきいていなかった申請人高田はこの意味を同園長に問い質した。これに対して同園長は、園の採算上雇傭量を調整する必要がある場合にそなえて臨時保母を設ける旨の説明はなさず、「臨時」というのは同申請人が幼児教育専門学校の出身者ではなく、これまでに保母の経験もなかったので付けたものであること、他の二名(申請人有本、松尾)も保母資格を持っていないので「臨時」としたこと、最初の三ケ月は保母としての適性をみるために区切るがこれは他の正規保母もみな同じであること等を返答し、更に臨時保母として労働契約する旨の記載がある労働契約書に署名を求めた(この点、<人証略>によると、右労働契約書は右辞令より前の同年九月上旬頃に作成された旨述べる部分がある。しかしこの点は、右認定の資料に供した前掲各疎明資料にてらして措信し難い。なおまた、右労働契約書をはじめ、<証拠略>の各労働契約書中における「臨時保母」、「臨時」等の字句や労働契約期間の捜入部分等が当該申請人らの意思に基くことなく被申請人によって後日一方的に記入されたものであるとの趣旨にそう<証拠略>は、<人証略>等に徴してにわかに措信し難く、後記の通りその成立はいずれも認めることができるものである。)。

その結果申請人高田はいわゆる雇止めとなるおそれなどを抱くことなく「臨時保母」、「臨時」の記載のほか労働契約期間として「昭和五〇年九月一日より同年一一月三〇日まで」という記載のある右労働契約書(<証拠略>)に署名捺印し、同年九月二九日被申請人に提出した。

正規保母は最初の一年(昭和五〇年度は九月一日開園のため翌昭和五一年三月三一日までの期間)は期間を定めた労働契約を被申請人との間に結んでいたほか、被申請人の就業規則には同二五条一項で「新規採用者には三ケ月間の試用期間を設ける」と規定がおかれていた。また被申請人においては、当時正規保母と臨時保母の区別を、給料(臨時保母が一号俸下)、職務分担(臨時保母は一人では責任をもったクラス担任にはさせない)の面で行っていたが、労働契約期間については正規保母も臨時保母も開園当時は半年(昭五〇・九・一~昭五一・三・三一。もっとも臨時保母は更に最初の三ケ月で更新している)とし、昭和五一年度は後述のとおり正規については期間の定めを撤廃し(同年度に新規採用された正規保母のみは一年間の期間つきであること従前どおり)、臨時保母は今までどおり一年間(昭五一・四・一〇~昭五二・三・三一)の期間を設けていた。

以上の事実関係からみると、被申請人としては、保母採用にあたり、これを契約内容に明示したか否かは別として、後日の三才未満児の減少による保母定数の変動が予想されたことから契約期限を一年とする「臨時保母」を数名置き、契約を年度毎に更新すると共に、必要に応じていわゆる傭止めをして雇傭量を調整しようとする意図はあったことが認められる。

(4) その後被申請人は同申請人に対して昭和五〇年一二月一日に「臨時保母」、「臨時」の記載のほか労働契約期間として「昭和五〇年一二月一日より昭和五一年三月三一日まで」と記載のある労働契約書(<証拠略>)に署名捺印させ、次いで昭和五一年度分については翌五一年四月一〇日に「臨時保母」、「臨時」の記載のほか労働契約期間として「昭和五一年四月一〇日より昭和五二年三月三一日まで」と記載のある労働契約書(<証拠略>)に署名捺印させ、さらに同年四月二五日の給料日には「臨時保母」と記載のある辞令書を交付した。

(5) そして昭和五〇年九月の前記辞令交付、契約書作成以降いずれの場合も、被申請人は同申請人に対して「臨時」の意味として単に期間が満了したというだけで傭止めとなる旨の説明をしたことがないのは勿論、前記の如き臨時保母設定の趣旨も明らかには説明をしたことはなく、むしろ開園当時は、一年契約は一年間はやめないでほしいという意味で、期限が来たらやめさせるとかいう性質のものではない旨の説明が泉園長の方よりなされたこともあった。従って同申請人は泉園長とのそれまでのやりとりや前記更新の事実から、期間が満了すれば契約は更新され、いずれはいずみ保育園で正規保母となることができると期待、信頼し、そのような状況のもとに労働関係が存続、維持されて来た。

(二) 申請人有本について

(1) 同申請人は昭和五〇年三月に尾道短大を卒業したが保母資格はなかった。そうして一旦郷里の大牟田市に帰省していたが、同年四月初め頃に泉園長や事務長の面接を受け、同年六月頃臨時として採用の連絡があった。そこで同申請人は、同年四月頃から六月頃までの間大牟田市内のみどり保育園で自主的に保母として働き経験を積むこととした。

なおこのような採用の交渉を通じて、泉園長は同申請人に保母資格もなく保育の経験もなかったことから、同人に対して、有資格者より給料が低いが臨時でもよいかと説明をしており、同申請人もこれを了承していた。

(2) その後同申請人は開園準備のため昭和五〇年八月二〇日にいずみ保育園に初出勤したが、保母三名の増員の必要に関する園長の話をきいたのは申請人高田と同様であった。開園(昭和五〇年九月一日)後の同年九月二五日、同申請人は被申請人より「臨時保母見習」と記載のある辞令を受け取ると同時に、「臨時見習」及び「昭和五〇年九月一日より昭和五〇年一一月三〇日までの間臨時従業員として採用する」旨の記載のある労働契約書(<証拠略>)に捺印して被申請人に提出した。その際右三ケ月の期間については、被申請人より資格・経験がないので三ケ月間は様子をみるという趣旨の説明があった。

同年一二月、泉園長から同申請人に対して正規保母(正職)にしてもよい等の話もあったが、そのときは同申請人は当時まだ保母としての経験に浅く将来保母として一人前にやれるのかどうかはっきりした自信がなかったので、とにかく保母資格を取った後にすっきりした形で正職になりたいとの気持ちから同園長の話も辞退し、「臨時保母」、「昭和五〇年一二月一日より昭和五一年三月三一日までの間臨時従業員として採用する」旨の記載のある労働契約書(<証拠略>)に署名捺印した。

さらに昭和五一年四月一〇日には同申請人は、被申請人より交付された「臨時」、「昭和五一年四月一〇日より昭和五二年三月三一日までの間臨時従業員として採用する」旨の記載のある労働契約書(<証拠略>)に自ら署名捺印して被申請人に提出し、同月二五日の給料日には「臨時保母見習」と記載のある辞令書を被申請人より受け取った。

なお被申請人はその後昭和五一年七月に至って同申請人に対し、「臨時保母」のほかに労働契約期間として「昭和五一年七月一日より昭和五二年三月三一日まで」と記載のある辞令書を交付した。

(3) 同申請人の採用時から昭和五一年四月の右労働契約締結時に至るまでのどの間においても、被申請人の方から同申請人に対して、労働契約書に記載の契約期間についてそれが満了と同時に当然労働契約も終了し、いわゆる傭止めができるようになる旨の明確な説明がなされたことはなく、一年契約は一年間はやめないでほしいという趣旨である旨の泉園長の話をきいたことも申請人高田と同様であった。同申請人は泉園長とのそれまでのやりとりや前記更新の事実から、期間が満了しても契約は更新され、また保母資格を取りさえすればいずれは同園で正規保母として勤務することもできるようになると期待信頼し、そのような状況のもとに労働関係が存続、維持されて来た。

なお、申請人有本は、昭和五一年一〇月、保母資格を取得した。

(三) 申請人冷水について

(1) 同申請人は兵庫女子短大に在学中の昭和四九年一〇月一日に保母資格を取得した。昭和五一年三月頃、同申請人の姉(山中みや子。いずみ保育園の近くに在住)の紹介で同園の泉園長や泉事務長の採用面接を受けた。なおその頃、同園では同年の六、七月頃に正規保母の保坂が退職する予定になっていた。同申請人と泉園長とのその際及びその後の面接で、同園長は「臨時」として採用したい旨同申請人に申し出、同申請人も泉園長の説明によれば、同園では新規採用者は誰でも最初の三ケ月間は臨時というので、これを了承した。かくて同申請人は同年四月一日より同園で勤務することになり、同月一〇日に「臨時」及び「昭和五一年四月一〇日より昭和五二年三月三一日までの間臨時従業員として採用する」旨の記載のある労働契約書(<証拠略>)に署名捺印したうえ被申請人に提出した。しかし、同月二五日の給料日に被申請人より受け取った辞令書には同申請人の身分を「臨時保母」と記載してあったのに、同申請人と同時にいずみ保育園に保母として採用された芋生、石村の両者の辞令書にはいずれも正規保母と記載してあったことから、自分だけが区別されているものとは考えもしなかった同申請人は強いショックを受けた。

その後昭和五一年度に新規採用となった右申請人冷水、芋生、石村の三名は同年七月一四日頃泉園長との間で就職後三ケ月を経過したということで労働契約書を再締結した。被申請人はその後の同月二五日に同申請人に対して、「臨時保母」及び労働契約期間として「昭和五一年七月一日より昭和五二年三月三一日まで」と記載のある(証拠略)の辞令書を交付した。

(2) 同申請人の採用面接から右労働契約書提出時に至るまでのどの間においても、また契約更新時においても、被申請人が右「臨時」の意味を当該労働契約期間が満了すれば労働契約も終了し、いわゆる傭止めとなる趣旨のものとして同申請人に明確に説明したことはなく、申請人高田、同有本らと同様申請人冷水も期間が満了すれば契約が更新され、いずれは正規保母として勤務するようになれるものと期待していた。

おおむね以上の事実を認めることができ、他に右認定を覆えすに足る疎明資料はない。

もともと労基法第一四条によると労働契約につき期間を定める場合は原則として一年を超えてはならない。従って、我国における労働契約は、通常期間を定めず締結される場合が多いことは公知の事実であるが、期間を定める場合は原則として一年を超えることができない。そうして、その労働契約に期間の定めがある場合にその期間が満了することにより当然労働契約関係が終了しいわゆる傭止めとなるのか、あるいは特段の意思表示がない限り更新される関係にあるのかは、当該労働契約締結時の当事者の合意内容(その前後の情況から推察される内容を含む)によって決定される。そうして後者の場合、単に期間が満了したというだけでは傭止めとならないことについて労働者がこれを期待、信頼し、そのような相互関係のもとに労働契約関係が存続、維持されてきた場合は、使用者としては単に期間が満了したことの一事をもって傭止めを行うことは信義則上許されず、傭止めを行うについては経営上傭止めを行ってもやむを得ないと認められる特段の事情が存在することを要する。

次に、申請人らが夫々臨時保母としての契約書を差入れ、あるいは辞令を受領していることは、前記認定のとおりである。そうして、被申請人が臨時保母を設けるにいたった具体的理由は前記の如く、昭和五〇年七月下旬頃、いずみ保育園に措置される園児のうち、三才未満児が異常に多いことが判明し、当初予定の保母九名では足らず、更に三名を増員しなければならないが、次年度、更に次々年度に三才未満児が減少した場合これが剰員となることが予測されるので、これを契約期間一年の「臨時保母」をもってまかない、三才未満児の減少に伴い傭止めを行って雇傭量を減縮調整しようと考えた点にあると認められる。しかし、そうだとすれば、労働契約締結にあたって、その旨を明示し、申請人らに誤解や疑問の余地がないようにし、かつ現実にそのとおり実施すべきであるのに、被申請人側(園長及び事務長)は、申請人らの資格がないことあるいは経験がないことなど、申請人らを「臨時保母」としていわば選定した理由は告げたが、同人らを三才未満児の一時的過剰対策上「臨時」に雇傭するものであって、その過剰状態が解消した場合は傭止めとなるのであること即ち臨時保母を設けた趣旨を説明しなかった。

ちなみに、申請人高田は、前記の措置児の具体的状況が判明する前である昭和五〇年五月頃、特に期間の点についても何ら触れることなく保母として採用する旨の通知をうけている。また申請人有本の場合は、前記の措置児の具体的状況が判明する前から「臨時」で採用されることを了承していたのであるが、この場合の「臨時」とは前記認定の如き雇傭契約時の情況にてらして「試用」と同義に用いられたと解すべく、三才未満児の一時的過剰状態が解消した場合は傭止めとなる旨の説明がされていないことは前記の通りである。

その結果、前記認定の如く、申請人らは自分達「臨時保母」が被申請人主張の如き三才未満児の一時的過剰対策として「臨時に」雇傭されるものであることを認識することなく前記の如き労働契約書を夫々差入れ、また辞令を受領し、期間が満了しても契約が更新され、いずれは正規保母になれるものと考えていた。

また仮りに被申請人が前記の具体的措置児状況に関係なく一般的な経営対策として、期間一年の「臨時保母」を設け、将来生ずるかも知れぬ雇傭量の減縮調整に備えていたとすれば、それは前記の期間一年の労働契約の理に従うべきものと解するのが相当である。

2  前記(一)~(三)の認定事実及び右申請人らに関する諸事情に徴すと、以下の如く判断される。

(一) 申請人高田と被申請人間の労働契約は、遅くとも同申請人が初出勤してきた昭和五〇年八月二〇日には成立したものと認められ、その際労働契約期間については何らの合意もなされていなかったが、同年九月二五日以降の各労働契約書により、夫々労働契約期間についての合意はなされた。しかし、被申請人主張の如き「臨時」性に関する合意は成立していない。そうして、同申請人は前記認定の如く単に期間が満了したというだけでは傭止めとならないことについて期待、信頼し、そのような相互関係のもとに労働契約関係が存続、維持されて来た。

(二) 申請人有本と被申請人間の労働契約は、申請人高田同様遅くとも昭和五〇年八月二〇日には成立したものと認められるが、その際には同申請人の身分に関して両者間に「臨時保母」として採用する旨の合意が成立していた。しかしその「臨時」の意味、内容については、泉園長の同申請人に対する説明が前述のとおりであって、被申請人主張の如き「臨時」性に関する合意は成立していない。そうして、昭和五〇年九月二五日以降の各労働契約書により、夫々労働契約期間についての合意がなされたが、期間満了と更新に関する関係は申請人高田と同様であった。

(三) 最後に申請人冷水と被申請人間の労働契約は、遅くとも同申請人がいずみ保育園に勤務し始めた昭和五一年四月初めには成立したものと認められるが、その際には同申請人の身分に関して両者間に「臨時保母」として採用する旨の合意が成立していた。しかし被申請人の主張する如き「臨時」性に関する合意は成立していない。そうして、全疎明資料によっても、申請人冷水の労働契約関係を他の申請人らと区別すべき合理的事情は認められず期間の満了と更新に関する関係は、申請人高田、同有本と同じであったと認められる。

3  以上認定の事実並びに(証拠略)(就業規則)にてらすと、被申請人が、特段の必要に基き被申請人主張の如き趣旨の「臨時」保母を雇入れることが就業規則に違反し、雇入れられた「臨時」保母の労働契約関係から臨時性は否定されるとまで解する根拠は乏しい。しかしこれが有効であるためには、あらかじめその趣旨を明示し、明確に合意を成立させる必要があるのに被申請人はこれを為さず、前記の如く試用ともまぎらわしい説明をして申請人らと労働契約を行った。

従って本件においては、この点に関する被申請人の主張は採用できない。但し、期間の点は、夫々前記認定の如き合意があったと認められる。そうして、以上認定の事実にてらすと、本件は、単に期間が満了したというだけでは傭止めとならないことについて申請人らがこれを期待、信頼し、そのような相互関係のもとに労働契約関係が存続、維持されてきた場合にあたるから、使用者としては、単に期間が満了したことの一事をもって傭止めを行うことは信義則上許されないと解する。従って、被申請人が、本件で申請人らに対して為した「更新拒絶」は、実質解雇に等しく、それが信義則上許されない場合、あるいは不当労働行為にあたる場合は、無効と解される。

二  本件更新拒絶(解雇)の効力

1  申請人らは、本件更新拒絶(解雇)は整理解雇にも相当するもので解雇権の濫用である旨又は不当労働行為である旨主張し、被申請人はこれらを争っているので、以下検討するに、(証拠略)を総合すると、一応以下の各事実を認めることができる。

(一) 被申請人は社会福祉事業法二九条一項の規定により昭和五〇年八月一三日頃に厚生大臣の認可を受けて社会福祉法人となり、さらに福岡市長の認可(児童福祉法三五条三項、同五九条の四、一項参照)を得て同年九月一日より肩書地(略)で保育所いずみ保育園を開園するに至った。認可された同園の園児(乳幼児)の定員数は福岡市の樹てた保育所整備計画に依拠し、児福法四五条に基づく最低基準(別紙一参照)に従って一〇〇名とされ、その年令別定員数は別表一の(一)〔A〕のとおりとなった。そして同園の措置児の入所に要する費用及び入所後の保護につき最低基準を維持するために要する費用、即ち施設の管理費、事業費、職員の人件費等の費用(以下「措置費」という)については、国庫より八〇%(児福法五三条)、福岡市より二〇%(同五一条)の費用が右年令別定員数(昭和四五年九月一日児企第四三号各都道府県民生主管部局長、各指定都市民生局長あて厚生省児童家庭局企画課長通達―以下「通達」という―によると、措置費を支弁する場合の定員とは零才児から五才児までの合算人員を指すのであって、たとえ現実の乳幼児の措置状況が認可された年令別定員数とくい違いがあっても措置総数において右合算人員と一致する限り、措置費は現実の措置状況に従って支弁されることになる)に応じて交付されることとなった(人件費の交付の対象となる職員定数は同園のばあい、後記の保母のほか調理士、用務員、園長各一名とされていた)。

なお被申請人はいずみ保育園を唯一の経営客体とし、主な財源は右措置費であって、他には市保育教会(ママ)よりの補助金、園舎の建物資本及び後述する自由児の保育料しかなかったが、被申請人の自由にできる資金はほぼ最後のものしかなかった。

(二) 被申請人は当初いずみ保育園に必要な保母の定数(通達によると、保母定数の計算方法は「(三才未満児数×1/6)+(三才児数×1/20)+(四才以上児数×1/30)=所要保母定数(一人未満の端数が生じたときは四捨五入とする)」とされている)を、市からの加配保母一名を含めて、合計九名と見込んでいた(別表一の(一)〔B〕参照)。

しかし実際に措置されることとなった園児は、年度途中の開園ということもあって三才未満児の措置数五七人と、はるかにその認可定数(三六人)をこえた。

そこで被申請人は市の指導もあっていずれ措置児の年令別構成も右別表一の(一)〔A〕のとおりに正常化されるものと見込み、前記の如く伊香賀・池田・竹本・浜田・木林(旧姓川崎)・白石・厚地・保坂・藤木の九名の正規保母と松尾・申請人高田・同有本の三名の臨時保母を採用した。

ところで同園の組構成は、年令別によって分かれ、各クラスには主任と助手の保母がついていた。保母の勤務時間は各人によって始業・終業時刻に差異はあったものの、全員一時間の休憩時間を含む合計九時間ということであったが、実際上右一時間の休憩はとりにくい状態であった。

(三) 福岡市の場合、保育所の不足により、たとえば未措置児数が昭和四九年度で約二、〇〇〇名、同五〇年度で約二、二〇〇名、同五一年度で約三、〇〇〇名、同五二年度で約三、七〇〇名という具合に漸増傾向にあり、保育を希望する児童の全てが措置児として認可保育所に措置される状態ではなかった。そのため、とくに私立の保育所においては保護者からの強い要請に基づいて、あるいは経済的理由から、措置児以外の児童を定数をこえて自由契約児(いわゆる自由児)として入所させる例が多く、これによって最低基準を下回る保育環境の現出される虞れがあってもそれが極端でないかぎり監督官庁としても概ね黙認するという風潮が存在していた。

いずみ保育園においても、措置児定員一〇〇名のほかに自由児として、昭和五〇年度は三〇名前後、同五一年度は五〇名前後を入園させ(別表二参照)、その保育料として例えば昭和五一年度においては、三才未満児国の保育単価の半額(具体的には零才児二万五、〇〇〇円、一・二才児二万円位)、三才児一万二、〇〇〇円、四才以上児一万一、〇〇〇円を毎月徴収していた。そのため措置児数に見合う右一二名の保母数に追加がない限り、保母一人あたりの労働量が加重となり、最低基準をも下回ることとなるため被申請人は一二名の保母のほか自由児分として交替保母若干名をパート採用してこれに対処していたが、それでも未だ最低基準を下回る保育状況でしかなかった。

申請人高田は開園当時一才児を三名の保母で担任していたが、右のような事情から保母一名当りの受持園児数が加重負担となり同クラス及び同園全体の保育内容が最低基準を下回っていたほか、給食内容も悪いなど園児一人ひとりに十分な保育が行届かないと考え、さらに臨時保母という身分や労働契約期間が一年とされたことに強い不満を抱いて昭和五〇年一〇月頃幼労組(以下「組合」ともいう)に加入した。

(四) 昭和五〇年一二月頃正規保母の伊香賀が、翌五一年三月頃正規保母の厚地がそれぞれいずみ保育園を退職し、さらに同五一年夏頃には正規保母の保坂が退職する予定であったため(同人は七月三一日付をもって退職した)、被申請人は同年四月より芋生、石村を右伊香賀、厚地の代わりの正規保母として、申請人冷水を右保坂の代わりに臨時保母として(なおこの当時既に被申請人としては保坂の代わりに臨時保母の松尾を正規保母に昇格させる考えでいたことも一応は推測できる)それぞれ採用した。昭和五一年度の措置状況は別表一の(三)〔A〕のとおりであった。

ところで被申請人は昭和五一年度も自由児を大量に入園させることにし、申請人高田・同有本らの臨時保母についてもその頃一年契約を更新した。同園においては、前にも触れたように、同年度中概ね三〇名から五〇名位の自由児を常時入園させていた。

申請人有本は同年四月頃申請人高田から組合を紹介され、前述の申請人高田とほぼ同じ理由で同年五月一九日頃組合に加入した。申請人冷水も右と同様な理由から同年六月二九日頃組合に加入した。また更に芋生が同年六月頃、松尾が同年七月頃それぞれ組合に加入した。

なお申請人らが臨時保母という自らの身分に不安を抱きつつも、反面、いずれは正規保母にもなれると期待していたことは前記一に認定したところである。

(五) こうして組合に入った右五名は、以後臨時保母の身分の不安定さや園内の保育環境の問題点、特に自由児の大量入園に伴って最低基準を下回る保母の数しかいなかったことや保母の労働加重等について討論を重ね、これらの改善を求めて被申請人に団体交渉を申し入れる用意をした。そして幼労組は昭和五一年六月頃、いずみ保育園の園長や職員に対して保育の実態や組合加入を呼びかけたプリントを郵送したが、更に同年七月一三日には「幼労組保育所分会いずみ班」の記名入りで泉園長に対して組合結成通知書、同月二一日開催希望と記載した団交申入書及び団交内容に関する要求書(別紙二のとおり)を郵送するに及んだ。同園長は翌一四日にこれを受け取りはじめていずみ保育園にも労働組合ができていることを知るに至った。

同園長は組合のこのような動きに対して、右プリントの配布直後には職員一人ひとりについて組合に加入しているかどうか確かめたうえ(なおその際申請人有本や竹本に対しては、同人らが当時「子供劇場」の人形劇研究会に参加していたことから同園長は過激な活動をしているのではないかと同人らに注意を行なった。また保母の池口主任も組合に入ると保育園にはいられなくなり、他への就職も出来ず、兄弟の結婚・就職にも支障が出るなど皆に向って発言した)、組合結成通知書・団交申入書を受け取り同園内にも組合員がいることを知るに及んでは早速同月一五日に池口主任を通じて職員全員を集め、「園内のことは園内で解決し団体交渉など必要でないと考える者は著名捺印するように」と言ってその場で職員間に用紙を回す等の処置にでた。

これに対して幼労組の組合員となっていた前記五名の者とそれまで組合に関心を持っていた竹本の計六名の保母が署名捺印を拒否したため、同園の泉徳昭事務長(措置費の関係では「用務員」である)は申請人高田に対して、「あなた達は自分が臨時であることをよく覚えておくように」と言った。そして翌日(七月一六日)には松尾、竹本が右用紙に署名、捺印するに至り、松尾はその頃組合をも脱退した。こうして同園長にも組合員の具体的な氏名が判明するに至ったが、申請人高田・同有本は右同日それまでの担任クラスの組替を同園長より言い渡されたほか、申請人高田は同園長より個人的に組合に加入した理由を問い質された。

同月二五日、申請人らはいずれも被申請人より前記の如く「昭和五一年七月一日より昭和五二年三月三一日まで臨時保母として勤務を命ずる」との辞令書の交付を受けたが、辞令書に雇用期間を明示されたのはこれが始めてだった。

同月二七日、第一回目の団交が開かれたが、その際の組合側の要求は別紙二のとおりのものであった。この要求に対して被申請人は、保母増員のためパートや代替保母を採用する、勤務時間の厳守は検討する旨の回答をしたが、団交は継続されることになった。被申請人は実際に自由児分の保母として代替保母二名(人見、山内)とパート一名(落合)をそれぞれ同年八月一日頃に採用した。

同月三〇日、泉園長と泉事務長は申請人有本の母親有本嘉子を大牟田市より呼び寄せ、同人に対し、暗に同申請人の組合脱退ないし組合活動の停止の説得方を依頼した。有本嘉子は同申請人に組合をやめるよう説得したが同申請人はこれを断った。

その後も申請人らの組替えは頻繁に行なわれたが、同年九月二日には申請人冷水と正規保母の白石との間で同申請人の言動(白石が「ぞう組にでも行きなさい」と指示したのに対し、同申請人が「ぞうにでもですか」と言い返した言葉が、先輩に楯突くものであったということ)に関して同申請人が泉園長や泉事務長らから注意を受けるということがあった。同申請人はこのことで興奮し、気分が悪いという理由で早退したが、翌日早退の問題で始末書を書くよう求められた。しかし同申請人がこれは組合攻撃だからといって拒否すると、同園長は始末書を書かなければ契約は来年三月までなのでそれで辞めて貰う旨言われ、更に同申請人の姉が呼び出され泉園長より同申請人を組合から脱退させるようその説得方を依頼された。その後も同園長は、鹿児島にある同申請人の実家に電話を入れ、同申請人の母親に対し本人を引き取りに来るよう依頼をしたこともあった。

以上のような経過をたどるうち、被申請人側は、申請人らが臨時保母であることを折にふれて言及するようになったが、その間に幼労組と被申請人との団体交渉は行われ、昭和五一年一二月一四日、第三回目の団交において、組合と被申請人との間で協定書(別紙三参照)が取り交わされた。その際団交要求書(別紙二参照)の中の「措置児がやめた時点で自由児を措置児にしてその後自由児を入れないようにして下さい」という一項目については、それまでの団交における被申請人の態度から自由児の入園拒否を理由にして申請人らの契約更新が拒絶されかねないことをおそれた組合は、これを撤回した。

昭和五二年二月五日、第四回目の団交が開かれた席上泉園長は、来年度(昭和五二年度)は一〇〇名の定数に合わせる(自由児はとらない趣旨)ので三名の保母が余る、申請人ら三名は三月限りで辞めて貰う旨言明した。

そうして同月二八日、泉園長は申請人ら三名に対して三月三一日限りで契約終了となる旨の通知書(<証拠略>)を交付した(本件更新拒絶)。

以上の各事実を認めることができ、他に右認定を覆すに足る疎明資料はない。

右事実によると、被申請人はいずみ保育園に幼労組の組合員がいることを知るに及んでその存在を嫌い、組合員の具体的氏名が判明した後は陰に陽に組合員に対して組合からの脱退を勧めたこと、また被申請人は当初は申請人らに正規保母の期待を抱かせるような言動を行ないながらも、申請人ら(組合員)が公然と被申請人に対して団交を申し入れるなどの活動をし始めた頃から急に申請人らの一年契約を強調し始めたこと、他方申請人らの組合加入の動機や組合活動の目的及び活動状況をみても何らの不当性も窺えなかったこと、被申請人は昭和五〇年度、同五一年度には自由児を大量に入園させていたのに対し、昭和五二年度は自由児をいれない方針をうち出し、申請人らに剰員を理由に労働契約の更新拒絶を通告していること等の諸事情が明らかである。

この点被申請人代表者本人尋問の結果によると、本件更新拒絶は組合が最低基準を守れと強く被申請人に要求してきたので、被申請人としても右要求の趣旨に沿って措置児の年令別構成を認可定数のそれに近づけ、自由児も入園を断ったものである旨供述する部分がある。しかし組合側の要求がたとえ最低基準の厳守ということにあったとしても、そのことのために組合員が被申請人によって一方的に辞めさせられることまでをも予め了承して右要求を行なったということは、通常考えられない事態である。換言すると、申請人らの最低基準を守れとの右要求もその真意を辿れば、要は保母一人当りの受持園児数の最低基準を守れという点にこそあったものと認められ、自由児の入園拒否とか措置児の年令別構成に関する認可定数のそれへの接近等の要求は、あくまでも申請人らの身分と引換えにしてでも達成させなければならないものとして組合側が強く要求していたとまでは到底考えられないのである。このことは被申請人としても、数回に亘る団交及び協定書(別紙三)の締結を通じて十分に察しがついたものと考えられるところである。

また自由児の入園拒否問題についても、被申請人代表者は申請人らの配布したチラシ(<証拠略>)に「そうして52年度も自由児は入れるというのです」という字句があるのを見て、組合は自由児を全く入れるなと被申請人に要求しているものと受け取った旨供述する部分(<証拠略>)があるけれども、右チラシの内容を通読すると、組合側は申請人らの継続雇用を強く願って一一名の措置児の定員増の要求をし、それとの関連で右字句を挿入しているのは明らかであり、必ずしも自由児の入園拒否の要求が申請人らの身分喪失を伴っても止むなしというほどに強いものでなかったことは明白である。

2  このようにみて来ると、被申請人のなした申請人らに対する本件労働契約更新拒絶は、従前通りの園経営方針を維持しておれば、昭和五二年度においても申請人らが事実上剰員となることはなく、それができない特段の経営上の事情もなかったし、契約更新拒否をしなければならない必要も生じないのに、別紙三の協定第一項の趣旨を正当に解釈せず、昭和五二年度の自由児の受入れをことさら中止し、よって保母に剰員が生じたことを理由に行われたもので、労使間の信義則に反して無効であると共に、被申請人がかかる行為に及んだ動機は、申請人らが労働組合に加入し、正当な組合活動を行ったことを嫌った点にあり、労組法七条一号に反する不当労働行為として無効というほかない。

三  賃金債権と保全の必要性

そうだとすれば、その余の点は判断するまでもなく申請人らと被申請人間には未だ雇用関係が存続するものと認められるところ、本件更新拒絶(実態は解雇)前三ケ月間における申請人らの平均賃金額は、申請人高田が月額金七万七、一二三円、同有本が同九万二、一九五円、同冷水が同八万九、九八九円であって、被申請人の給料日が毎月二五日であること及び申請人らは昭和五一年四月分の給与よりその支給を受けていないことは、いずれも当事者間に争いのないところである。よって申請人らは右金額の賃金債権を有し、被申請人はその支払を為すべき義務がある。

また申請人らは給与所得者であって、保全の必要性のあることは本件弁護の全趣旨からも明らかなところである。

四  結論

よって申請人らの本件仮処分申請は、いずれも理由があるのでこれを認容することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡野重信 裁判官中根与志博、同榎下義康は転勤のため署名押印することができない。裁判長裁判官 岡野重信)

別紙一

児童福祉施設最低基準

保育所(基準四九条~五八条)

一 処遇特徴と設備

別表一 いずみ保育園における園児の年令別認可定数と年度毎の措置児数及びこれに対する保母定数の推移表 (無単位の数字は全て人数)

<省略>

別表二 いずみ保育園における自由児の推移表(概数)

<省略>

○ 乳児、幼児の保育に必要な設備

○ 保育時間……一日八時間。但し事情により保育所の長が決定できる。

○ 保育内容……健康状態の観察、個別検査、自由遊び、午睦。

○ 乳幼児三〇人以上入所の保育所

1 乳児、満二才未満の幼児の保育所乳児室又はほふく室、医務室、調理室、便所。

乳児室は一人につき一・六五m2以上、ほふく室は一人につき三・三m2以上

2 満二才以上の幼児の保育所

保育室又は遊戯室、屋外遊戯場、調理室、便所。

保育室は一人につき一・九八m2以上、屋外遊戯場は一人につき三・三m2以上。

二 職員と定数

○ 保母、嘱託医、調理員

○ 保母の定数

1 乳児又は満三才未満児六人につき一人

2 三才児二〇人につき一人

3 四才児以上三〇人につき一人

○ なお乳児は通達で保母及び看護婦又は保健婦をふくめて三人につき一人とする(福岡市は乳児三人につき保母一人の加配補助をしている)。

※ 乳児……満一才に満たない者(児福法四条一号)

幼児……満一才から、小学校就学の始期に達するまでの者(同二号)

別紙二 要求書

一 受け持ち人数の最低基準を守って下さい。

一 就業規則の一年契約を撤廃して下さい。

一 現在臨時採用の者を本採用にして下さい。

一 八時間勤務(八時間拘束)にして下さい。

一 雇用人を一人入れて下さい。

一 年次有給休暇を初年度より20日間下さい。

一 給与を是正して下さい。

一 措置児がやめた時点で自由児を措置児にしてその後自由児を入れないようにして下さい。

一 年度途中でクラス担任をかえないで下さい。

昭和五十一年七月二十七日

いずみ保育園園長 泉智恵子殿

福岡県幼児教育労働組合

委員長 藤野登志子

保育所分会 いずみ班

(以上、原文のまま)

別紙三 協定書

昭和51年12月14日の団体交渉に於いて、いずみ保育園と福岡県幼児教育労働組合は、下記のとおり協定しました。

一 受け持ち人数の最低基準は守ります。

一 就業規則の一年契約は撤廃します。

一 現在臨時採用の者を本採用にして下さいという件については継続審議します。

一 八時間勤務(八時間拘束)は現状では無理ということですが再度考慮ということで継続審議します。

一 雇用人は現在一人入っています。

一 年次有給休暇は、請求があれば認めます(二十日間については)。

一 給与是正については、短大卒初任給を八等級五号俸の基準とする。

昭和五十一年十二月十四日

いずみ保育園長 泉智恵子

福岡県幼児教育労働組合委員長 藤野登志子

(以上、原文のまま)

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