福岡地方裁判所久留米支部 昭和33年(そ)1号 判決 1958年5月31日
請求人 溝田定次
決 定
(請求人氏名略)
右の者から刑事補償の請求があつたので、当裁判所は検察官及び請求人の意見をきいた上、次の通り決定する。
主文
請求人に対し金五、四〇〇円を交付する。
理由
請求人に対する当庁昭和三〇年(わ)第六号、詐欺、職業安定法並びに婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令各違反被告事件及び当庁昭和三〇年(わ)第一九五号詐欺被告事件(後者の記録は共同被告人の関係から前者の記録に連続して編綴され、形式上一件とみゆる)の刑事訴訟記録を調査すると、請求人は伊藤房江他二名と共謀の上前借金詐欺を企て、昭和二八年一一月二五日、広島県府中市府中町二五八番地の七、特飲店「マルハ」こと豊仁一方に赴き、同人に対し右伊藤房江を板橋静子であると申し偽つて引合せ、同女が右豊仁一方の従業婦として就労する意思がないのに拘らず、恰もこれあるものの如く装つて雇傭方を懇請し、その旨同人を誤信せしめ即時同所に於て同人から従業婦の前借金名義で金一〇万円の交付を受けてこれを騙取した、との嫌疑のもとに、昭和二九年三月一日、八女簡易裁判所裁判官の発した逮捕状によつて司法警察員から逮捕されて福岡県八女警察署に抑留され、同警察署から身柄を八女区検察庁に送られ、同月五日、福岡地方裁判所八女支部裁判官の発した勾留状によつて引続き右八女警察署に拘禁され、同月一二日前記被疑事実に基き、第一詐欺(前借金名義による一〇万円騙取)の事実第二職業安定法並びに婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令各違反(伊藤房江を特飲店「マルハ」に就職の斡旋)の事実を訴因とし、第一の事実は刑法第二四六条第一項に、第二の事実は職業安定法第六二条第二号並びに婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令第二条に各該当するものとして同裁判所に起訴されたが、同月十七日保釈許可決定により、翌一八日右八女警察署から釈放され、その間一八日間に亘つて刑事訴訟法による未決の拘禁を受けていた者であること並びに右被告事件がその後福岡地方裁判所久留米支部に移送されて同裁判所に於て審理中昭和三〇年六月一日、その起訴状の公訴事実冒頭に余事記載がなされていたとの理由により刑事訴訟法第二五六条第六項に違反するものとして、同裁判所によつて公訴棄却の判決が言渡され、該判決は上訴期間の経過と共に確定したものであることついで請求人は、その後昭和三〇年六月二四日、前記公訴棄却前の公訴事実中冒頭の余事記載部分を除外し、第一の詐欺(前借金名義による一〇万円騙取)の事実と全く同一の事実についてだけ、詐欺罪として再度同裁判所に起訴せられ、身柄不拘束のまま同裁判所の審理を受けた結果、昭和三三年三月二四日、右被告事件について無罪の判決を言渡され、該判決は上訴期間の経過と共に確定したものであることが認められる。
ところで、ある事件につき、公訴棄却の裁判がなされた場合、その事件につき未決の抑留、拘禁を受けた者に対する刑事補償をなすべきかどうかは、刑事補償法第二五条第一項の規定に則り、同規定の内容を基準として判断すべきものであることは、もとより言を俟たないところであるが、ある事件につき公訴棄却の裁判がなされた後、さらに、該事件の公訴事実と全く同一の公訴事実が再度起訴され、その事実につき、実体的審理がなされた結果、無罪の判決が言渡されて確定したような場合には右公訴棄却の裁判は中間的な性質を有するものとして、たとい再起訴後には抑留、拘禁をされておらず前の公訴棄却になつた事件につき、抑留、拘禁されていたにしても訴訟の前後を包括的に一体とみて抑留、拘禁の原由となつた事実につき、無罪の裁判を受けたものとして同法第一条の規定に基いて刑事補償をなすべきものと解するのが相当である。蓋し、公訴棄却の裁判前の訴訟手続と、再起訴後のそれとでは訴訟法上全く別個の手続に属すること、改めて言う迄もないところであるが、前記の通り、両訴訟手続に於て審判の対象とされた各訴因を、訴因として法律的に構成される以前の各事実に還元したとき、結局彼我同一の事実に帰着する本件の様な場合に於ては、少くとも、右事実に重点を置き、その事実の側に立つて訴訟進行の経過を考察する限り、その途中に於ける公訴棄却という形式的裁判の存在、従つて、その前後に於ける訴訟手続の非同一性には拘りなく、右異つた訴訟手続の全体を以つて、包括的に、該事実に対する審理並びに判決に至る過程と見ることが出来るものと解するのが相当であるからである。
そうしてみると、本件は右刑事補償法第二五条第一項に該当する事案ではなく、同法第一条第一項所定の「刑事訴訟法による未決の抑留又は拘禁を受けた者が、同法による通常手続に於て無罪の裁判を受けた場合」に該るものとして、国は同条項の規定に従つて、請求人に対し拘禁による補償をすべきものといわねばならない。
尤も公訴棄却の裁判前の手続に於ては、詐欺の外、第二の事実として職業安定法並びに婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令各違反の事実も訴因とされて、その罰条と共に掲げられ、審判の対象となつていたのに反し(但し第一、第二の各訴因間の関係、罪数等は明らかではない)、その後の再起訴にあたつては、単に詐欺の訴因及び罰条のみが掲げられていたに過ぎないこと、前述の通りであるので、或は、仮に公訴棄却の裁判がなく、該被告事件がそのまま実体的審理を続行されていたならば、少くとも右第二の事実については犯罪の成立が認められたのではないか、言い換えれば、本件を刑事補償法第二五第一項を適用すべき一場合と考え、同条項所定の要件を充足しないものとして補償を拒否すべきではないか、との疑もあり得るかも知れないが、前述の通り、公訴棄却の裁判の前後に於ける各訴訟手続を統一された全体として包括的に考察すれば、検察官が再起訴するに当つて右第二の事実についての訴因及び罰条を掲げず、これを不問に付したということは、実質的には同一の訴訟手続内に於て検察官が該事実につき公訴の取消乃至は訴因の一部撤回をした場合と同一視されるべきものであつて、右公訴棄却の裁判の前後に於ける訴因、罰条の相違を以つて本件請求人の補償請求を拒否すべき理由とすることは出来ないし、その他また本件記録を調べても特に補償の一部又は全部を拒否すべき何等の事由も見出すことができない。
そこで、当裁判所は刑事補償法第四条第二項所定の諸般の事情を請求人に対する冒頭所掲の刑事訴訟記録に基づき慎重に考慮して、請求人に対し、前記拘禁日数に応じた一日金三〇〇円の割合による額の補償金五、四〇〇円を交付するのを相当と認め、同法第一六条に従い、主文の通り決定した次第である。
(裁判官 大曲壮次郎 長利正巳 武藤泰丸)