福岡地方裁判所小倉支部 昭和44年(わ)530号 判決
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〔判決理由〕(殺人の点につき無罪とした理由)
第一、公訴事実
本件公訴事実中殺人の点は、
「被告人は友人岩田孝行とともに飲酒したうえ、昭和四四年一〇月四日午前四時三〇分頃、同人の知人である宇田俊子の居住する北九州市小倉区三郎丸三丁目足立荘一階二号室に赴き、おりから一人で在宅中の同宿者牧諒江(当時二四年)の了承をえて就寝することとなつたが、右岩田が就寝中の同日午前六時頃、同女から同室より出て行くよう口やかましく言われたりしたことに憤激し、とつさに同女を殺害することを決意し、所携のあいくちで同女の腹部、背部等五か所を突き刺し、よつて同女をして同日午前七時一五分頃、北九州市小倉区宝町五一番地小倉記念病院において、腹部背部刺創により失血死させて殺害したものである」というのである。
第二、認定した事実
一、被告人が右日時場所においてあいくち「刃渡り約13.8センチメートル昭和四五年押第三六号の一で牧諒江の腹部、背部等を数回にわたつて突き刺し、よつて同女を下大静脈、肝臓等の刺切にもとづく失血により死亡させたことは、医師山内晧作成の死亡診断書、医師掛札東雄作成の鑑定書、第二回公判調書中証人岩田孝行の供述部分(以下「岩田証言」という)、司法警察員作成の実況見分調書、被告人の司法警察員および検察官に対する供述調書各二通(以下「被告人調書」という)、第九回公判調書中被告人の供述部分(以下「被告人の公判供述」という)、押収してあるあいくち一本(昭和四五年押第三六号)の一の各証拠を総合して認めることができる。
第三、被告人の精神状態
一、弁護人は、被告人の右犯行(以下「本件犯行」という)は飲酒により病的酩酊に陥つた状態でなされたものであつて、被告人は犯行時自己の行為の是非を弁識し、かつこれに従つて行動する能力を欠いていたか、あるいは右能力が著しく減退していたものであるから、本件は心神喪失者あるいは心神耗弱者の行為にあたると主張するので、この点につき判断すべきところ、まず被告人の病歴、犯行前後の行動、犯行の動機についてそれぞれ検討する。
(一) 被告人の病歴
<証拠>によれば、被告人は二〇才前頃から多量に酒をたしなむようになり、昭和四二年一一月頃慢性肝炎の診断をうけて(後にアルコール幻覚症、慢性アルコール中毒等の診断もうける)病院に入院して以来、一たん退院後間もなく多量の飲酒をして入院するということのくりかえしで、犯行直前の昭和四四年九月頃までの間四回入院し、右期間の大部分を病院ですごし、その間無断外出しては飲酒して帰り、同室者に暴行を働いたり、刃物を振りまわしたりしたため、相当長期にわたつて保護室に隔離されたことも何回かあつたことが認められる。
(二) 被告人の犯行前後の行動
<証拠>を総合すると次の事実が認められる。
被告人は犯行の前日午後四時頃から同八時頃までの間、友人の岩田孝行ら四人とともに北九州市八幡区内の料理屋で酒を飲んだ後、岩田と二人で同市小倉区内のキャバレーに赴き、ビール、ハイボール等を飲んだが、午後一二時頃閉店になると、そこを出て、さらに二人でスナックバーに立寄り、そこで翌日(犯行当日)の午前三時すぎまでハイボールを飲んでから、午前三時三〇分頃岩田の知り合いの宇田俊子が住んでいる同市小倉区三郎丸三丁目の足立荘一階二号室に赴いた。ところが、右居室には宇田はおらず、同女と同居していた被害者の牧諒江が一人でいたが、牧は被告人ら男二人が女一人のいる部屋に明方近くなつてから訪れたのにも、「おにいさん、いつも遅く来るね。どうしたんね。」と言つたのみで、被告人らを拒む様子もなく部屋に入れ、部屋の中でも宗教関係の本を読んで聞かせたり、雑談を交したりしており、とげとげしい空気はなかつた。約三、四十分そのように雑談した後、被告人は服を着たまま牧と岩田の間に寝ころんで眠つた。このようにして被告人は本件犯行の前日午後四時頃から当日の午前三時すぎ頃までの間に、酒六合位、ハイボール四、五杯、ビール少量を飲んだが、眠るまでの間足元が乱れる等動作に障害はなく、その言動は特に異常と見られるところはなかつた。ところが、三人が眠つた午前六時五分頃、ウーン、ウーンとうめく声に眼をさました岩田が、「どうしたのか。」と被告人に声をかけたところ、被告人は、「お前は関係ないから寝とけ。」と答えたが、なおうめき声は止まないので、岩田は電灯をつけて見ると、あおむけに倒れた牧の上に手にあいくちを握つた被告人が馬乗りになつており、びつくりして被告人を払いのけてみると、牧の腹部には傷があり、そこから血が流れていた。被告人は、顔色も悪く落着きのない様子で、「俺は何もしていない。」とか、「大したことはない」などと口走つていた。岩田は、あわてて牧をタクシーに乗せて病院にかつぎこんだが、被告人は、しばらくして別のタクシーに乗つて行きつけの酒屋に行き、ウイスキーを飲んだ後、おじの家に立寄つて人を殺してきたことを話し、自首を勧められるやその気になつていつたん自宅に帰つて母親にわけを話し、自首しようとして母親とともに警察署に向う途中、友人宅に立寄つたところを逮捕された。
(三) 犯行の動機
1 被告人の警察官、検察官に対する供述のうちで、犯行の動機について概ね一貫しているところは、およそ次のとおりである。
岩田とともに足立荘に着いた時、牧が岩田に対しいつも遅く来ることを非難し、いつたん部屋に入つた後も二人の間で口げんかが続いた。被告人は帰ろうとしたが、岩田が靴を隠してしまつたため帰ることができず、その部屋で寝ることになつた。しばらく眠つた後何となく眼がさめたが、牧は被告人らが夜遅く来て困る、こんなことがないよう男を呼んで二人を殺してもらうと言つて立上つたので、逃げても顔を覚えられているので後になつてやられると思い、それより先に殺してしまおうと思つて、あいくちをつかんで同女めがけて突き刺した。
2 被告人は、公判廷では右趣旨を否定し、右供述は任意にしたものではないと言つているが、岩田孝行の司法巡査および検察官に対する各供述調書・証人吉松幹高の当公判廷における供述等にてらすと、被告人は警察官、検察官に対して誘導によることもなく真実右趣旨の供述をしていたものと認められる。ところが実際には前記認定のように、足立荘では被告人らは牧と穏やかにすごしており、「おにいさんいつも遅く来るね」云々の言葉も被告人らを強く非難したものとはみられず、岩田と牧の間で口げんかが行なわれた事実も認められない。また岩田証言によれば、同人が被告人の靴を隠したこともない。そのような状況であるから、いつたん被告人らが眠つた後、牧が男を呼んで被告人らを殺してもらうと言つて立上つたなどという異常な事態が真実起つたとはとうてい解しがたい。もつとも、男女が隣り合つて寝たことではあり、その間被告人が牧に肉体関係をせまるとか、或いは両名の身体がふれるなどしたため、同女が立腹してそのようなことを口走つたことも想像されなくはないが、右はあくまで想像に止まり、これに副う証拠は全くない。(ちなみに、被告人は検察官調書において、本件の前三年間位は女性と肉体関係をもつたことがない、と述べている。)結局、右のような非現実のできごとが本件犯行の動機となつたと解するほかはない。
二、以上のように犯行の前後を通じて外見上被告人の言動に特に異常な点は見られないが、被告人は慢性アルコール中毒で、過去飲酒のうえしばしば問題行動を起しており、本件犯行前も相当量飲酒していたものであり、犯行の動機は幻覚、妄想にもとづいて本件を犯したのではないかとの疑いがあるので、以下医師池田暉親、同宮川太平作成の各鑑定書(以下前者を単に「池田鑑定」という)に基きさらに立入つて検討することとする。池田鑑定によれば、被告人が前記のように動機として述べるところは、いずれも酩酊状態によつて生じた幻覚、妄想であつて、被告人が覚醒後記憶していたのは、その幻覚、妄想を現実と錯誤した錯誤性記憶であり、犯行前後の状況をみると、比較的意識の清明な時期と右のように意識が混濁し、錯覚、幻覚、妄想等をきたして不安興奮を示す時期とが交代的に出現しており、本件犯行は右のような幻覚妄想と不安興奮の状態(せん妄状態)で、何らかのきつかけ(例えば物音や寝ていた被害者が動いた)ことなどを錯覚し、極度の不安から被害的な幻覚妄想を招来し、とつさのうちに行なつたものであり、この場合被告人の行為はほとんど妄想に支配され、意識野は病的にせまく、是非善悪の判断はほとんど不可能であつたであろうと推定している。そして、右鑑定によれば、犯行前外見上異常な言動が見られないことから、ただちに犯行時の精神状態の異常を否定することはできず、また自首に至る犯行後の行動ももうろう状態と覚醒をくり返しながら、次第に覚醒を高めていく過程ということになる。また、宮川鑑定及及び同人の受命裁判官に対する尋問調書(以下合わせて「宮川鑑定」というによれば、被告人はもともと類てんかん性性格であり、感情面における易怒易変刺激性が著しく、また慢性アルコール中毒性に罹つており、これらは病的酩酊を起す原因となりうるものであつて、本件犯行当時も飲酒酩酊して病的酩酊に陥り、事物の是非善悪を弁識する能力を欠いていたものと推定し、犯行時の精神状態について池田鑑定と同様の結論に達している。
池田鑑定における飲酒試験では、被告人は錯覚あるいは幻覚にもとづいて視覚に入るものや音のする方向に向つて殴りかかつたり、灰皿や尿器を口にして飲もうとしたり、急に壁に向つて殴りかかつたり、幻聴にもとづいて突如として縊死を企てたりする等、きわめて異常なせん妄状態があらわれるかと思うと、平静になつて周囲の状況を正しく認識できる状態があらわれ、それが周期的にくり返され、覚醒後は幻覚妄想にもとづいた記憶が断片的に残ることが観察されている。右飲酒試験は犯行時と比較して飲酒の場所、周囲の雰囲気の点で全く同一条件ではないが、アルコール摂取量、摂取時間等できるかぎり犯行時の状態に類似させて行われたものであつて、その状態できわめて顕著な病的酩酊の症状が見られることは、本件犯行時の被告人の精神状態を前記のように推定する有力な根拠となるものと思われる。一方、宮川鑑定においてはあまりに多量に飲酒させたためか、一時睡眠に陥るなどして、酩酊中の異常行動は池田鑑定におけるほど顕著ではないが、それでも突如として著しく刺激的となり、幻聴があらわれ、意識障害記憶障害が生じることが観察されている。池田鑑定は本件審理にあらわれた各証拠を仔細に検討するほか、被告人を取調べた警察官や被告人の家族等と面接し、各種検査や前記のような周到な飲酒試験を施し、宮川鑑定を参酌するなどして得られた周密なものであり、結論の前提となる事実の認定や結論に至る論理の過程に不自然不合理な点はみうけられず、その結論のように解することが前記認定の事実と最もよく合致するのであつて、宮川鑑定の結果をも合わせ考えると十分信用するにたりるものと認められる。前記の事実にこれらの鑑定を総合して考えると、被告人は本件犯行当時飲酒して病的酩酊に陥り、幻覚せん妄状態にあつて行為の是非を弁識し、かつこれに従つて行動する能力を全く欠いていたものと認めるのが相当である。
第四、結論
上記のとおり、被告人の殺人の所為は刑法三九条一項の心神喪失者の行為に該当し、罪とならないから、刑事訴訟法三三六条前段により、本件公訴事実中殺人の点については無罪の言渡をする。
(砂山一郎 田川雄三 安木健)