福岡地方裁判所小倉支部 昭和49年(ワ)713号 判決
原告
郷原悟
原告兼右原告法定代理人親権者母
嶋田艶子
右両名訴訟代理人
谷川宮太郎
外三名
被告
国
右代表者法務大臣
倉石忠雄
右訴訟代理人
田中清
外七名
主文
一、原告らの請求を棄却する。
二、訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
原告ら
一、被告は原告郷原悟に対して二、六二六万六、五九一円、原告嶋田艶子に対して六五〇万円およびこれらに対する昭和四九年一〇月三一日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
二、訴訟費用は被告の負担とする。
三、仮執行の宣言
<以下、事実省略>
理由
第一<証拠>によると、本件事実関係はつぎのとおりである。
一原告郷原悟は原告嶋田艶子の第三子として昭和四九年三月九日被告国の開設する国立小倉病院で未熟児として出生し、同病院眼科の辰巳貞子医師の眼科的管理を受けていたものであるが、未熟児網膜症のため同年五月中に両眼とも失明状態になつた。
二(一) 未熟児網膜症とは未熟児の発育途上の網膜血管が酸素に敏感に反応して異常な増殖を来し、網膜剥離を起して失明ないし強度の視力障害に至る疾患であつて、その素因は網膜血管の未熟性にあり、未熟児保育に不可欠な酸素の投与が誘因となつて発生するものとされている。
(二) 網膜症は一九四二年アメリカにおいて始めて発生が報告された比較的新しい疾病で、未熟児保育の発達に伴いアメリカにおいて多発したものであつて、わが国でも昭和三九年ごろ慶応大学植村恭夫教授がその発症例を始めて報告し、未熟児保育の発達に伴い一般の注目をひくようになつた。
(三) 網膜症に対しては、当初薬物療法などが試みられたが治療効果ははかばかしくなかつたものの、昭和四三年三月天理病院の永田誠医師が光凝固療法(強い光で網膜の病変部分を破壊する方法)を試みた成功例を始めて発表し、その後も成功例を追加し、次第に右治療法の有効なことが一般に承認され、後記定期的眼底検査とともに臨床医の間にも普及して行つた。
(四) 網膜症は一旦症状が現れても自然に治癒する率が極めて高く、他方光凝固療法は前述のとおり未熟児の眼底を光で破壊する方法であつて、凝固斑という人工の瘢痕を残し、しかも試みられてから日が浅く、右療法は網膜症には効果はあつても、未熟児の成長後凝固斑が他の障害をひき起さない保証もないところから、右療法は網膜症が進行して自然治癒の望めない程度にまで至つたところを見計つて実施することが必要とされている。
そして右療法の適期の判断のためには未熟児に対して定期的に眼底検査を行い、病変の経時的変化を正確に把握することが必要であるが、そのためには病像の経時的変化を類型化することが便宜であり、それは光凝固療法が試みられる前から多くの研究者が分類法を発表して来たところである。
(1) 一九五四年アメリカのオーエンスが提唱した網膜症活動期の分類法は広くわが国でも採用され、使用されて来た。
(2) 前記永田医師は昭和四五年一一月オーエンスの分類を基礎としながら、より正確な活動期分類を提唱した。
それはつぎのようなものであつた。
Ⅰ期
耳側周辺部の無血管帯と網膜血管未梢との境界に近い部分における血管の拡張と蛇行および境界に沿う血管新生、血管吻合の発生であつて、この時期には後極部の血管はほとんど同じ太さであり、蛇行も見られないのが普通である。無血管帯およびその付近の網膜は強く灰色浮腫状に混濁している。
Ⅱ期
無血管帯と血管未梢の境界に灰白色の所々に突出、湾入の見られる滲出性の境界線が出現する。網膜静脈は後極部においても軽度に充血蛇行し始め、境界線近くでは特に著明となり、血管新生も著明となり、帯状の様相を呈する。進行する場合はこの境界線が次第に濃くなり、堤防状に隆起し始める。
Ⅲ期
新生血管が硝子体中に増殖し始める。そして新生血管領域より網膜出血が点々と起り始めると同時に硝子体中へ新生血管から桃色あるいは灰色の滲出物が遊出し始める。また無血管帯の幅が増大し、それにつれ灰白色の境界線は後極部に向つて移動し赤道部あたりまで進出して来る。
そして永田医師は光凝固治療の適期は右分類のⅢ期の初期とした。
(五) 網膜症の大部分は右分類による臨床経過を比較的緩慢な速度(文献によれば、Ⅰ期の発症は生後二三ないし四九日目、Ⅱ期に入るのが生後三四ないし六六日目、Ⅲ期に入るのが生後三四ないし一三二日目ということになつている。)で進行するものであるが、極めて少数ではあるが、右のような典型的な経過をたどらず、或る時期から突然網膜剥離を来す症例のあることが少数の研究者の注意をひくようになり、原告悟の出生時期である昭和四九年三月までにつぎのような記事が医学雑誌に掲載された。
(1) 昭和四七年三月発行の「臨床眼科」の前記永田医師の「網膜症の光凝固による治療」と題する論文の中に、「はじめから無血管帯の幅広い未熟眼底の症例では分類Ⅱ期の初めに現れる境界線における増殖性病変は余り著明に起らず、無血管帯の浮腫と血管の充血蛇行が強く、或る時期を過ぎると突然血管からの強い滲出や網膜剥離が急に進行して行く場合があるように思われ、このような場合には境界線における増殖性病変のみを指標にすると、治療の適期を失うおそれがあるので、血管の充血蛇行と無血管帯の浮腫の進行を指標として光凝固の適期を判断すべきである。」との部分がある。
(2) 同年四月発行の「小児科」の前記植村教授の「網膜症の予後」という論文中に、「網膜症の臨床経過はさまざまで一律にオーエンスの分類にあてはめることはできないところであり、予後と治療の面から①インシディアスタイプと②ラッシュタイプに分けるのも一方法である。①は発症してから血管の硝子体内発芽まで五ないし八週間、更に網膜剥離まで一ないし一五週間と経過が緩慢で光凝固の適期を正確に判定できるのに、②は発症から網膜剥離まで二ないし三日と極めて短期間で進行し、光凝固の効果も甚だ疑問である。」と述べている。
(3) 植村教授は同年六月発行の「小児科臨床」でも網膜症につき解説し、その中で、「発症してから二、三日で網膜剥離を起すラッシュタイプがある。」旨述べている。
(4) 同年六月発行の「眼科」において、福岡大学大島健司助教授は「網膜症の臨床上の諸問題」と題する論文を発表したが、オーエンスらの網膜症の活動Ⅰ期ないしⅢ期の説明で「当初から無血管帯の幅が広い眼底の場合には症状の進行が早く予後不良であるので注意を要する。」と述べている。
(5) 昭和四九年二月発行の「臨床眼科」において、大島助教授らは「急激に進行悪化する網膜症に対する光凝固療法」と題する報告を発表し、昭和四五年から網膜症の治療にあたり、通常と異る臨床経過をたどる症例を経験したとして、これを激症型と呼び、その臨床経験と予後の特徴として、
「イ 全身的状態では、生下時体重一、二〇〇ないし一、三〇〇グラム、在胎三〇週未満のことが多く、高濃度の酸素が長期にわたつて使用されている。
ロ 生後二ないし三週では硝子体血管や水晶体血管膜の遺残が顕著で、眼底が透見しにくく、網膜はやや黄白色に近く、その血管は狭細化してほとんど認めることができない。
ハ 透光体の混濁は次第に減少するが、乳頭面で血管の萎縮が目立つてくる。血管の狭細化は次第になくなるが、血管の走行はせいぜい赤道部より後極部附近まで認められる程度で、それより周辺部は無血管帯になつている。網膜は次第に赤味を増して来る。通常の網膜症では無血管部は蒼白であるが、激症型では蒼白ではなく、隣接網膜と同様の色調を呈している。
この時期までの症状は比較的緩慢である。
ニ 通常型では、徐々に進行して後極側網膜と無血管帯との境に薄い境界線が形成されてⅡ期に入り、さらに境界線附近の血管に桃色や灰色の滲出物がみられるに至り、硝子体へも毛細血管が新生されてⅢ期へ移行して行くのに、激症型では、進行とともに後極および未梢部の血管の強い怒張、蛇行が起こる。
そして数日のうちに全周の無血管帯網膜に強い滲出性の剥離が生ずる。
つまり、通常型と違つて、無血管帯の色調が蒼白とならず、境界線の形成もなく、血管終末部の滲出物もなく、突如高度の滲出性剥離を来して失明する」。
と説明する。
そしてこのような激症型に対する光凝固の適期は、「未熟児の全身状態からくる制約を勘案し、末梢部血管にはすでに怒張、蛇行の初徴がみられるが、後極の網膜血管には未だ僅かの変化しかない時期である。」としている。
また前記一八例(三六眼)中二八眼の視力保存に成功した。と報告した。
右報告は前年である昭和四八年秋行われた学会でも発表された。
(六) 従来ややもすれば混乱ぎみであつた網膜症の診断および治療基準の統一をはかる目的で、斯界の権威者を集めて組織された厚生省研究班の昭和四九年度報告(発表は昭和五〇年)では、臨床経過がオーエンスや永田分類のⅠ期からⅢ期と段階的に比較的緩慢な速度で進行する通常の型をⅠ型に、右のような典型的経過をたどらず、従来ラッシュタイプないし激症型といわれていた型をⅡ型およびⅠ、Ⅱ型の混合型に分類され、後者についての報告部分は大島助教授が担当し、その診断や治療基準に関する部分は、(五)(5)の大島論文にほぼ副つたものであり、また同型は自然治癒傾向が少なく予後不良を特長とされている。
(七) そして前記論文発表後も激症型の治療にあたつている同助教授の経験によれば、通常型は適期を誤ることなく光凝固を行えばほとんど例外なく治癒するのと異り、激症型では前記論文に示された適期に光凝固を行つても必ずしも効果があるとは限らないものである。
三国立小倉病院の辰巳貞子医師は昭和四二年三月九州大学医学部を卒業、翌四三年六月医師免許を取得したが、その後眼科を専攻し、昭和四四年八月から翌四五年三月まで北九州市の九州厚生年金病院に、同年五月から同年一一月まで小倉記念病院に眼科医として勤務し、小児の眼疾につき経験を積むため同年一二月から翌四六年三月まで東京都にある国立小児病院で研修し、同病院で眼底検査による網膜症の臨床経過の観察についても修練を積んだ。
そして同年五月から国家公務員共済組合連合会新小倉病院に眼科医として勤務し、北九州市内の病院では早い時期に、未熟児の眼科的管理のため、小児科医の協力を得て定期的眼底検査体制を樹立し、昭和四八年六月までの間に四六人の眼底検査を行い、うち網膜症の発症は二三名、自然治癒せず、光凝固の必要を認めて他病院に転送したもの一二名(新小倉病院には光凝固装置がなく、また同医師は右療法に習熟していなかつたので、右治療の必要のある場合は九州大学附属病院、九州厚生年金病院等に転送していた。)、うち六名が光凝固を受け全員治癒した。
同医師は昭和四八年六月から国立小倉病院に眼科医として勤務することとなつたが、同病院でも充分でなかつた定期的眼底検査制度を確立し、原告悟の出生した昭和四九年三月までに七八名の眼底検査を行い、一九名の発症があり、光凝固の必要を認めて前記九州厚生年金病院や(右治療が可能になつた)市立小倉病院に転送したもの六名、光凝固を受けた者五名で、うち一名の一眼を除きすべて視力を保存することに成功した。
右眼底検査において辰巳医師はすべて前記永田分類にしたがつて臨床経過を観察し、同分類のⅡ期の特長とされる境界線が現れてなお症状が進行し、Ⅲ期の特長とされる網膜血管が硝子体に向けて増殖し始める時期を光凝固の適期と判定していた。
なお、同医師が国立小倉病院で経験した症例の症状の進行に要した期間は、Ⅰ期の発症まで生後二七ないし五九日目、Ⅱ期に入るのは生後三一ないし五四日目、Ⅲ期に入るのは生後三四ないし五五日目であつた。
四(一) 原告悟は昭和四九年三月九日出生したが、在胎二八週、生下時体重一、三三〇グムラのいわゆる極小未熟児であつたので、直ちに同病院小児科未熟児室の保育器に入れられた。
そして出生時から呼吸障害が認められたので、同日から同月三〇日までの間二三ないし四〇パーセントの酸素の投与が行われた結果、呼吸障害は次第になくなり、一般状態も良好で体重も順調に増えて行つた。
(二) 辰巳医師は三月二〇日を原告悟の第一回眼底検査の予定日と定めていたが、全身状態が良好でなかつたので、小児科医の意見によりこれをとりやめた。
(三) 三月二七日に第一回目の検査を行つたが、眼底の未熟性が高く、透見不良で、血管も細いためどこまで伸びているか確認できない状態であつた。
そしてこのような場合には網膜症発症の可能性が極めて高いことが判つていたので「網膜症の前触れ」と判断した。
(四) 四月三日の第二回目検査では、硝子体の混濁はやや改善されていたものの、血管が黄斑部のやや先の方まで伸びており、黄斑部あたりから拡張蛇行して赤い塊のように見え、無血管帯が幅広く見えた。
右状態は永田分類Ⅰ期の「耳側周辺部で血管が拡張蛇行し、血管が新生吻合しあつている。」症状に合致するものと判断し、Ⅰ期に入つたと診断した。
(五) 四月八日第三回目の検査をしたが、散瞳状態(眼底検査は薬品によつて散瞳した上行う。)が不良で、眼底を充分観察することはできなかつたものの、乳頭、黄斑部付近の血管の拡張、蛇行は認められなかつた。
(六) 四月一〇日の第四回目の検査では、眼底がかなり易見くなつており、血管が乳頭過ぎて間もなくの個所から拡張し始め、黄斑部付近の耳側血管は細かく分枝して血管の塊のように見え、血管領域と無血管領域との境界は入り組んで見えたが、未だ永田分類のⅡ期の特長である境界線は現れていなかつた。
辰巳医師は未熟性が高く発症の早い症例では症状の進行が非常に早い例があることを学会出席の折などに耳にしていたし、前記二の(五)の(1)、(2)の植村教授や永田医師の論文は読んでいたものの、同(5)の大島助教授の論文を読んでいなかつたので、前者の論文は未熟性の高い眼底では早い速度で永田分類の各期を経過する症例のあることを指摘したものと解釈し、激症型という通常型とは全く異る臨床経過をたどる網膜症があることは知らなかつた。
そして原告悟の場合眼底の未熟性が高く、永田分類のⅠ期の発症は生後二五日目で、同医師のこれまでの経験に照して早いので、今後も早い速度で症状が進行する上、自然治療の可能性も少ないのではないかと考えた。
そこで未だ永田分類のⅡ期にも入つておらず、これまでの転送の例からみれば早過ぎるとは思つたが、光凝固の必要性は高く、光凝固を行う医師が臨床症状の進行を観察する期間をおくのが得策であるので、この段階で転送した方がよいとの考えから、先づ市立小倉病院に問合わせたところ、保育器は空いているが、眼科の栗本晋二、野村弥生両医師とも学会出席のため同月一五日まで出張中であるとの返事であり、九州厚生年金病院に問合わせたところ、眼科の加納正昭医師に支障はないが、保育器が空いていないので入院を受入れることはできないとのことであり、福岡大学付属病院でも大島助教授が学会出席のため留守であることが判明した。
そこで辰巳医師は九州厚生年金病院の加納医師に原告悟のこれまでの経過を説明して光凝固の適期に至つているかどうかにつき意見をきいたところ、網膜症につき大島助教授と共同研究をしたこともあり、二症例の激症型についての経験もある同医師は「血管の硝子体への立上りがないのであるから未だ適期に至つていないと思う。」との意見を述べたので、辰巳医師としてはこのまま国立小倉病院で原告悟の経過の観察を続け、栗本医師らが帰任するまでに適期が到来したならば、九州厚生年金病院の外来で光凝固を受けさせることにした。
(七) 四月一二日第五回目の検査では「ほぼ全周に無血管帯を認め、血管の増殖怒張は認められるが、無血管帯が盛り上つておらず、境界線は見えない。」として未だ永田分類のⅡ期に達していないと考えた。
(八) 四月一三日第六回検査では、血管が拡張し、塊様に見えるが、境界線は明らかではなく、血管の硝子体への立上り(永田分類Ⅲ期の特長)もないことは何れも前回と同じであつたが、左眼の血管の先端に二、三個の小出血斑が認められたので、念のためステロイドを投与した。
(九) 四月一五日第七回の検査では、全般的には前回と変らないが、後極部の血管の拡張蛇行がやや増強して来たように見え、且つ左眼の血管の先端が硝子体に立上りかけているように見えた。
(一〇) 四月一六日には市立小倉病院の栗本医師らが帰任していることが判つたので、原告悟は同日朝同病院に転送されたが、辰巳医師としては原告悟は未だ光凝固の適期には達していないものと判断していた。
市立小倉病院では栗本医師や野村医師が原告悟を診察したが、通常に比し無血管帯が幅広く、血管の増殖が強い上その一部が硝子体内に立上りかけているので永田分類のⅢ期に達し、しかも重症と判断した。(栗本医師は前記二、(五)、(5)の大島論文を読んでおり、原告悟を診察した外辰巳医師の添書でこれまでの臨床経過も読んだが、これを激症型とは思い至らなかつた。)
そこで同日夕刻から右眼の光凝固を行つたが、原告悟の全身状態が悪化したので、小児科医の意見で右眼のみで中止し、翌四月一七日左眼の光凝固を行つたが、何れの場合も凝固斑が思うように出ず治療効果が上つていないように思われた。
そこで大島助教授の治療を受けさせるため翌四月一八日福岡大学付属病院に転送したが、同助教授は一応光凝固は行つたものの、原告悟の網膜症は激症型と思われ、時期を失つているので治療効果は上らないとの意見を述べた。
(一一) 原告悟は右治療後も網膜剥離が進み、同年五月ごろには両眼とも完全な失明状態に立ち至つた。
第二 一叙上のとおりであつて、原告悟が失明するに至つたのは、同原告が激症型であつたのに眼底検査にあたつた辰巳医師が、典型的な病像とはやや異なるものとは気付きながら、これを激症型と診断できず、光凝固の適期は永田分類のⅢ期の初期と信じていたため、その適期を徒過するまで右治療を受けさせなかつたことに原因するものと認めるべきである。
二通常型と異り、激症型においては光凝固治療が必ずしも適確な効果を現わすとは限らないことは前認定のとおりではあるが、しかしながらその適期を誤らなければ治癒することも多いのであるから、このことだけから被告国の債務不履行ないし不法行為責任が前提を欠くものとすることはできない。
三(一) およそ医療紛争につき債務不履行ないし不法行為責任の有無を考慮するにあたり、その要件である医師に注意義務違反があつたかどうかは、医療水準がどのようなものであつたかを探究し、これを基準として決定さるべきであると解されるが、右にいう医療水準といつてもそれは一義的なものではなく、当該医師の属する医療施設の規模、その地域的特性、医学的知見の普及の程度等を具体的に検討して定めらるべきである。
(二) これを本件についてみれば、先ず、さきに認定したとおり、辰巳医師は医師免許取得後原告悟の出生当時まで約六年間眼科専門医師として北九州市内の総合病院において診療にあたつて来たものであり、且つ当時勤務していた国立小倉病院が網膜症の治療につき常時連携をとつていた病院は大島助教授(福岡大学附属病院)、加納医師(九州厚生年金病院)、栗本医師(市立小倉病院)等勝れた知識経験を有する研究者ないし臨床医を擁していたものであるから、少なくとも眼科専門医としての一般水準の医学上の知識、経験が要求されるものといつて差支えない。
(三) そして本件において問題とされる網膜症が未熟児保育の発達に伴つて比較的新しく知られた疾病であつて、有効な治療法が試みられてからさして日時を経過しておらず、しかも網膜症の中でも特に新しく注目され始めた激症型に関するものであるから、右に関する医学的知見がどこまで到達し、医療界にどの程度普及していたかが慎重に検討さるべきである。
前認定のとおり網膜症一般についてはわが国で発生が知られ、有効な治療法が発表されたのは昭和四三年以降であり、本件である昭和四九年三月ごろには網膜症の病変の経過の観察と治療の適期の判断に関する医学知識は共に相当程度普及していたものである。
ところが極めて稀ではあるが、網膜症の中にはそれまで知られていたものと異なる臨床経過をたどるもののあることが先進的研究者によつて気付かれるところとなり、始めてそれらしい症例にふれた論文が医学雑誌に掲載されたのが昭和四七年三月であり、その後同種の記事が掲載された雑誌はあつたものの、後記大島論文を除けば、網膜症一般につき解説した中での簡単な記述にすぎなかつたものであり、ただ昭和四九年二月発表の大島論文のみが専ら激症型についてのみ記述し、通常型と異る臨床経過や治療の時期などにつき詳細な内容を有する唯一のものであり、後に発表された網膜症に関する厚生省研究班の報告を経て右論文の内容が激症型についての診断および治療基準として承認され、医療界に定着しつつあるものと認められるところである。
(四) ところで<証拠>によれば、医学上の新知識は先づ先進的研究者が自らの試みや考えを学会の発表や医学雑誌への掲載等によつて世に問い、多くの批判にさらされ、右批判に耐えられたものが新知識として承認され、これが徐々に臨床医の間に普及して行くものであつて、この間に相当の日時を要するものであること、日夜診療に従事している臨床医が夥しく発行される医学雑誌のすべてをその都度読み、その内容が診療に役立てるに価するものかどうかを正しく判断して行くことは、時間的余裕の点からも能力の点からも容易にできることではないことが認められる。
(五) 前認定の辰巳医師の経歴、新小倉病院や国立小倉病院での実績に鑑みれば、昭和四九年三月当時医療水準に達していたと認められる通常型網膜症に関する診断および治療適期の判定に関する限り、同医師の医学知識は優に総合病院に勤務する眼科専門医としての一般水準に達していたことは明らかなところである。
しかしながら当時激症型網膜症の臨床経過や治療適期については先進的研究者の唯一の研究論文というに価する大島論文が医学雑誌に掲載された直後のことであつて、これが医療水準に達していたとは到底認め難いところでもあり、辰巳医師が右論文を読んでおらず、激症型に対する正しい知識を有していなかつたからといつて、同医師の眼科専門医としての前記のような経験、地位を考慮しても、なお、これを非難することはできないものというべきである。
(六) なお、原告らは、辰巳医師が前記大島助教授を始め、加納医師、栗本医師等激症型についても高水準の知識を有する医師と常時連携している特別の地位にあつたことを強調するが、辰巳医師が前記医師らの助言、教示を受けて正しい処置をするためには、少なくとも辰巳医師が原告の網膜症が自己の医学知識では対処することができないものであるとの認識を持つことを前提とするところ、前記と同じ理由によりそのような認識(医学知識)を要求することも酷といわねばならない。
四つぎに原告らは辰巳医師が原告悟を四月一〇日に市立小倉病院に転送しようとして中止した事実があるが、これを実行すべきであつたと主張する。
右のような事実のあつたことは前記のとおりであるが、しかし辰巳医師がそのように考えたのは、もともと原告悟の眼底は未熟性が高く、網膜症の発症が早かつたので、症状の進行が早く、自然治癒の可能性が低い症例であることを雑誌で読んだことがあり、(激症型とはこのようなものを指称するものと誤解していた。)原告悟はこの症例に該当し、何れ光凝固を受ける必要性が高いので、未だⅡ期にも入つておらず、普通より早いけれども、万一の症状の急変に対処するためであつたが、市立小倉病院の栗本医師が出張中であつたので、同医師帰任の前に光凝固の必要な事態が起れば九州厚生年金病院の外来でこれを受けさせる措置をとつた上で、市立小倉病院への転送を思い止まつたことは前記のとおりである。
ところで辰巳医師が激症型についての正しい知識がなかつたことを非難することができないことは前記のとおりであるから、四月一〇日の段階で直ちに原告悟に光凝固を受けさせる必要があるとは考えず、転送を思い止まり、栗本医師に連絡の方法をとらなかつたとしてもこの点も非難に値しないことは理の当然であるといわなければならない。
第三よつて、その余の点につき判断するまでもなく、原告らの本訴請求は失当であるから、これを棄却することとし、民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(諸江田鶴雄 青柳馨 竹中邦夫)