福岡家庭裁判所田川支部 昭和60年(家)310号 審判 1986年5月08日
申立人 田丸明男
事件本人 田丸康徳
主文
福岡家庭裁判所が昭和38年2月2日事件本人に対してなした失踪宣告(戦時死亡宣告)はこれを取消す。
理由
第一申立の趣旨
主文と同旨
第二申立の実情
事件本人は申立人の実弟であるところ、事件本人に対し申立の趣旨記載のとおりの失踪宣告(戦時死亡宣告)がなされた。しかし、昭和59年11月29日来日した中国残留日本人孤児の中に申立人の実弟田丸勝久(以下勝久という。)に非常によく似た孤児がいたので、勝久がその孤児と東京で対面したところ、その孤児は髪がちぢれ毛で、耳たぶが大きい等勝久によく似た身体的特徴をもつており、また血液型による同胞鑑定の結果その孤児は申立人の実弟である事件本人と確認され、ここに事件本人は中国名王子智として生存していることが判明した。よつて事件本人に対する前記失踪宣告(戦時死亡宣告)の取消を求める。
第三当裁判所の判断
1 一件記録によれば、次の各事実が認められる。
(1) 申立人の父田丸辰夫(明治31年9月23日生、以下辰夫という。)は、その妻スマコ(明治41年2月1日生)との間に長女高子(昭和5年生)、申立人である長男明男(昭和8年3月26日生)、弐女圭子(昭和12年7月27日生)をもうけ、福岡県の筑豊地区で炭坑の保安技師として働いていたが、昭和14年11月妻子を伴つて渡満し、旧満州国錦州省阜新市○○○××号の×に居住して○○○○鉱業所の保安係として働くようになつた。そして昭和15年8月19日前記居住地で事件本人である弐男康徳が出生した。その後辰夫は○○○鉱業所へ転勤になり、阜新市○○○○○○○×番地××の×に転居したが、同所で昭和18年12月27日参男勝久が出生した。
(2) ところが終戦により、昭和20年9月頃阜新市にいた日本人は○○○鉱業所の独身寮に集団で生活するようになつた。その寮は三階建の建物であつたが、六帖一間に一家族ずつが住むことになり、申立人一家もその寮の三階の六帖一間に住み、他の家族とともにただ日本に引揚げる日を待ちわびていた。しかるところ、昭和21年1月12日午後7時頃、事件本人は「便所に行く」といつて屋外トイレに行つた(当時屋内トイレは故障していて使用できなかつた。)まま、その消息を絶つた。申立人一家は他の家族の協力のもとに寮の周辺をくまなく探したが、事件本人の行方は杳として知れなかつた。そのうち日本に引揚げる日が来たので、同年5月申立人一家は心を中国に残したまま福岡県田川市へ引揚げてきた。
(3) そして未帰還者に関する特別措置法に基づく福岡県知事の申立により福岡家庭裁判所が昭和38年2月2日事件本人に対してなした戦時死亡宣告が同月19日確定したことにより、事件本人は昭和28年1月12日死亡したものとみなされ、事件本人の戸籍は昭和38年2月27日除籍となった。一方、辰夫は昭和40年12月13日、高子は昭和42年3月、スマコは昭和54年10月15日、それぞれ死亡した。
(4) しかるところ、昭和59年11月29日来日した中国残留日本人孤児の第六次訪日団が京都見物をしている状況が同年12月7日テレビにより放映されたが、それを見ていた申立人と勝久は、その中の一人の姿形、言動が勝久によく似ているという印象を抱いた。そこで勝久がいとこ(スマコの兄の子)の大北美子、三田康三とともに上京してその一人すなわち王子智(以下王という。)に対面した結果、王は髪がちぢれ毛で、耳たぶが大きい等勝久によく似た身体的特徴をもっており、また言動も実によく勝久に似ていることが感じられた。そしてABO式血液型では、辰夫はB型、スマコはO型であるところ、王はO型であることから、王が辰夫とスマコとの間に出生した子と考えても矛盾がないことも判明した。
(5) そこで、勝久と王との間に両親を共通にする同胞関係が存在するか否かを決定づける確定的な資料を得るため、厚生省援護局業務第一課及び勝久は、帝京大学医学部法医学教室の○○○○に、血液型を検査して勝久と王との兄弟関係を鑑定するよう嘱託した。それを受けて鑑定人○○○○が、三十二種類の血液型を検査して勝久と王との同胞らしさの程度(同胞肯定確率、血縁係数)を各血液型別に求めたうえ、これらを甲、乙、丙、丁の四つの群に分けて甲群、甲群と乙群、甲群、乙群と丙群、甲群、乙群、丙群と丁群の各群毎に同胞肯定の総合確率を求めたところ、その値はそれぞれかなり異なるが、同鑑定人によりその中の甲群、乙群と丙群について求められた0.7963が最も妥当な総合肯定確率と判断され、結局勝久と王が実の兄弟である確率は79.63パーセントであることが確認された。
(6) かくして現在申立人及び勝久と王は互いに両親を共通にする兄弟であると信じ込んでおり、またスマコの兄の妻である三田美代子らもそのように思つている。
(7) ところで公証員○○○作成の公証書には、王は1946年(昭和21年)王大飛、張玉齢夫妻に引取られて養育されてきた日本人孤児であると記載され、また王の生年月日は1943年(昭和18年)4月20日であると記載されている。しかるところ、王の述べるところによれば、王は、1965年(昭和40年)5月頃養母の張玉齢から聞かされて初めて自分自身が日本人孤児であることを知つたというのであるが、自分自身が王大飛、張玉齢夫妻に引取られたいきさつは、養母から聞いたところによれば、日本人引揚の第一回乗船の日に大連市○○○の港に置き去りにされていたのを拾われたというのである。しかしながら、一方、王が孫(後記の孫立伯なのか、孫立波なのか、本件記録上明らかでない。)から聞いたところによると、王の実父は憲兵隊に勤務していたものであるが、その部下であつた孫立伯が自分の給料をもらいに王の実父のところへ行つたところ、給料がもらえなかつたので王を父から預かり、その後孫立伯はその弟の孫立波に王を預け、そして孫立波は王を王大飛、張玉齢夫妻に預け、爾後王大飛が養父、張玉齢が養母として王を養育してきたというのである。さらに王の述べるところによれば、王は日本人家庭からさらわれたという話もあるというのであり、結局、王大飛、張玉齢、孫立伯の三名とも死亡している現在においては、王が王大飛、張玉齢夫妻に引取られたころの状況を確認する方法はない。そして王自身、王大飛、張玉齢夫妻に引取られた当時、自分は2、3歳の幼児であったので、「パパ、ママ、ごはん、ねんね、りんご」などの片言の日本語しかしやべれなかつたとも述べており、また別れた家族の構成については全く記憶にないというのである。
2 上記認定の事実関係をもとに検討するに、申立人の記憶する康徳の行方不明時の状況と、王の述べる養家に引取られたころの状況は、その場所及び推定される年齢等大きく異なつていることが明らかである。しかしながら、王の述べる養家に引取られたころの状況は養母の張玉齢や孫から聞いたものであるところ、養母と孫の話には、王が引取られた場所及び状況について大きな差異があり、この事実に王は日本人家庭からさらわれたという話もあるという事実を併せ考えれば、養母や孫が述べたことはいずれもそのまま採用することはできないものというべきである。これらのことからしても終戦後の混乱時に日本人孤児を引取つたいきさつには、さまざまな事例があったであろうことが推認できるから、申立人の記憶する康徳の行方不明時の状況と王の述べる養家に引取られたころの状況が一致しないからといつて、王と康徳が別人であると断定することはできない。
次に王自身養家に引取られた当時2、3歳の幼児であつたと述べているので、この点について検討する。すでにみたとおり、公証員○○○作成の公証書には、王の生年月日は1943年(昭和18年)4月20日と記載されているが、これは公簿に基づいて記載されたものと思われるところ、王の述べるところによれば、王大飛、張玉齢夫妻が王の中国籍取得の登記を了したのは1953年(昭和28年)3月から4月までの間であるが、その際、王大飛、張玉齢夫妻は、張玉齢の生年月日が1923年(大正12年)10月30日であることから、それに合わせて王の生年月日を1943年(昭和18年)4月20日としたというのである。しかるところ、本件記録によれば、王はそういうことを知らないまま成長し、昭和54年8月頃在中国日本国大使館を通じて在日親族の所在調査を依頼した時点では、自分自身1943年生れと信じ込んでいたことがうかがえる。その故にこそ王大飛、張玉齢夫妻に引取られた当時は2、3歳の幼児であつたと述べたのであろう。以上の事実からすれば、王が1943年生れと断定することは到底できない。もっとも王が1943年生れではなく、事件本人の生年月日である昭和15年8月19日生れとすれば、王は昭和21年1月12日頃はすでに5歳4か月の幼児であり、従つて当時相当日本語を話せた筈であり、また別れた家族の構成についてもかなり鮮明な記憶があつた筈だといえないこともない。しかるに王の述べるところによれば、王は当時「ごはん、ねんね」等の片言しかしやべれず、また別れた家族の構成についても全く記憶がないというのであるから、王が昭和15年8月19日生れとみることには疑問があるという見解も無下に排斥し去ることはできない。しかしながら、日本人孤児の殆どは終戦後の混乱状態の中で養父母に引取られたこと、孤児が養父母とともに中国で生活してすでに約40年も経過していることを併せ考えれば、昭和21年当時4、5歳前後の幼児だつた日本人孤児につき、現在において、当時話せた日本語の内容や別れた家族の構成についての記憶の程度により、その当時の年齢を推認することは一般的には妥当ではないというべきである。そうすると、王自身、当時「ごはん、ねんね」等の片言しかしやべれなかつたとか、また別れた家族の構成について全く記憶がないとか述べているという一事のみをもつてしては、王が昭和21年当時2、3歳の幼児であつたと断定することはできない。
3 以上の諸事情を総合すると、王が事件本人と同一人物である蓋然性は極めて高く、かつ事件本人が現に生存しているものと認められるから、本件戦時死亡宣告はこれを取消すべきである。
よつて主文のとおり審判する。
(家事審判官 桑江好謙)