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福岡簡易裁判所 昭和61年(ろ)315号 決定 1988年4月26日

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は、「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和六一年四月四日午前八時五五分ころ、普通貨物自動車を運転し、福岡県春日市大谷一丁目一〇三番地先道路上において、一の谷方面から光町方面に向け、A(当三九年)運転の普通乗用自動車に続いて一時停止した後発進するにあたり、自車前方約一・七メートルの地点に停止中の同車に続いて発進するのであるから、同車の動静に注意し、これに追突しないよう十分な注意を払って発進すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、右方道路に気を取られて前方不注視のまま発進進行した過失により、進路前方で再度停止した同車を前方約一メートルに発見し急制動したが及ばず、同車に自車右前部を衝突させ、よって、同人に加療約五日間を要する頸部捻挫等の傷害を負わせたものである」というのである。

二  そこで先づ衝突事故の発生について検討するに、被告人の当公判廷における供述・被告人の検察官事務取扱検察事務官及び司法巡査に対する各供述調書・証人Aの当公判廷における供述・証人Aに対する当裁判所の尋問調書及び司法巡査作成の実況見分調書(二通)を綜合すると、公訴事実記載の日時場所において、被告人が普通貨物自動車(以下被告人車という)を運転し、A運転の普通乗用自動車(以下A車という)に追従進行中、見通しの悪い交差点である前記場所にさしかかり、一時停止線附近に停止したA車に続いてその後方一・七メートルの地点に停止した後、発進したA車に続いて発進し、一時停止線附近で再度停止し、同交差点で左折するため右方道路の方向を見ながら左転把しつつ発進して再び前方を見たところ、A車が約一メートル前方に停止しているのを発見、急制動したが間に合わず、自車右前部をA車後部中央バンパー附近に追突せしめるに至ったことが認められ、被告人は、見通しの悪い交差点に進入するにあたり、僅か一・七メートル前方のA車に追従して発進したのであるから、自動車運転に従事する者としては、同車が停止することは充分予測しうるところであり、絶えず前方に注意して進行すべき業務上の注意義務があるというべく、被告人が右方道路に気を取られて前方注視を欠いたまま発進進行し、右追突事故を発生せしめたことは、専ら被告人が右注意義務を怠った過失によるものと認めるのが相当である。

三  次に、本件の追突により、被害者Aに公訴事実記載の傷害が生じたかについて検討する。

証人Bの当公判廷における供述・証人Aに対する当裁判所の尋問調書及びB作成の診断書によれば、Aは本件事故の翌日である四月五日、はじめてB医師の診察を受け、愁訴として背中から腰にかけてだるい感じがすると訴え、四月一〇日には生あくびが出て吐気がする下肢がだるいと訴え、更に四月一六日には頭痛がし吐気があると訴え、爾後五月一二日まで安定剤・鎮痛消炎剤の投与・頸部への温熱療法等の治療を受け続けたこと、B医師は、五月中旬頃には症状がなくなっていると認めたが七月にもう一度Aを診察し、これは症状がないことを確認しただけであったこと並びに初診日である同年四月五日付で加療五日間を要する頸部捻挫・腰部捻挫の疾患がある旨の診断書を作成したことが認められる。右事実によれば、Aは、本件追突により、少くとも加療三九日を要した頸部捻挫等の傷害を受けたかの如くである。

四  ところで、右傷害は、いわゆる「むちうち症」と言われるものであるが、前掲B証人の供述、日本賠償医学会雑誌「賠償医学」No.4の髙浜桂一他の論文・同前田均他の論文及び最高裁判所事務局編交通事件執務提要三六五頁「3むちうち損傷」によれば、追突による「むちうち症」発生のメカニズムは、追突により急激な衝撃加速度が人体に加わり、躯幹部は座席に強く押しつけられてそれ以上動かないが、頭頸部は後方に無理な動きを強いられ(過伸展)、その直後に前屈を強制され(過屈曲)、その結果頸部組織に損傷を生ずるというものである。そして、この場合、被追突車が停止位置から全く動かなかったときは、右加速度はゼロとなるから、「むちうち症」は生じ得ない。又、「むちうち症」が起るためには、類似した重量の二車間で、一方が停止している場合他方が毎時一六キロメートル以上の速度で追突することが必要とされ、毎時一一・一キロメートルの速度で追突した場合には頸部に関しては先ず傷害を起すには至らない。メカニズムが右のとおりであるから、被追突車の運転者がヘッドレストによって過伸展を保護されているときや、ブレーキをかけて停止しているときは傷害は軽くてすむと思われる。更に、追突による車両の破損程度と「むちうち症」発生の可能性に関し、後部バンパーの一部の凹損程度以下即ち車体変形約二センチメートル以下の場合むちうち症発生の可能性は全くないし、変形約五センチメートルでも受傷の可能性は殆んどないとされる。

五  そこで、二項掲記の各証拠に、証人Cの当公判廷における供述・D作成の交換部品および工賃明細書(二通)・司法巡査E作成の捜査報告書・司法巡査C作成の物件事故報告書謄本及び被告人撮影の写真二葉を綜合して、本件追突時の詳細な状況・被告人車とA車の損傷の程度につき検討し、「むちうち機転」を生じ得たかについて考察するに、

1  Aは、本件交差点において停止後発進しようとしたところ、左方向から車が来たので発進をやめ、クラッチを踏み、ギァーはローに入れ、ブレーキを踏んでいる状態で追突されたこと、その現場はAの進行方向へ軽い上り坂となっており、Aはバックしない程度にブレーキを強く踏んでいたことが認められ、被告人がA車を前方約一メートルの地点に再度発見した時の被告人車の速度は、検察官の主張によれば時速五ないし六キロメートルであったこと、被告人はA車発見と同時に急制動したこと、被告人の進行方向についても上り坂であったこと、現場の道路はアスファルト舗装をされており当時乾燥していたことが認められる。ところで、安西温の所説(日沖憲郎博士還暦祝賀論文集所収「自動車事故における過失認定の実際」参照)によって被告人車の停止距離を計算すると次のようになる。

停止距離=空走距離+狭義の制動距離

反応時間=通常〇・六秒ないし〇・八秒。

(被告人は事故当時三〇才・運転歴一〇年であるから通常の反応時間内で制動できると思われる)

制動開始時の速度V=時速五ないし六キロメートル。

摩擦係数f=現場はアスファルト舗装道路で乾燥していたのであるから〇・五五。

平坦道路における狭義の制動距離SはS=V2/259×fによって求められる。

よって、停止距離は別表のとおりであることが認められる。即ち、被告人車は、被告人がA車を発見した位置から一・〇一メートルないし一・五八メートルで停止することになる。右の数値は平坦道路における停止距離であるから、上り坂であった本件追突現場では停止距離は更に短縮される筈である。そうすると、被告人車がA車に追突したのは、被告人車が殆んど停止せんとする直前であったと認められ、時速五ないし六キロメートルよりも低い速度であったと推認することができる。そしてA車の車両重量は九五〇キログラム、被告人車のそれは八九〇キログラム(この事実は登録事項証明書(二通)によって認める)であり、両名の体重を考慮してもその差はおよそ五〇キログラムであって、類似した車両総重量であると認められる。追突時の状況は以上のとおり認められるところ、追突による「むちうち症」発生のメカニズムは先に検討したとおりであるから、右の様な状況での追突により、果して「むちうち症」発生に必要とされる衝撃加速度をAに与え得たか疑問とせざるを得ない。

2  更に、本件追突時、「A車が前方に押し出されたか」を検討するに、Aのこの点に関する供述は変転しており、始め押し出されたことはないかの如く述べ、当公判廷における供述においては五ないし一〇センチメートル位押し出されたかも知れないがはっきりとは覚えていないと述べているのであって、被追突者の受ける感じとしては無理からぬ供述であるとしても、押し出されたとの明確な供述はなく、又押し出されたことを示す客観的な証拠もない。一方被告人は、A車は停止位置から動いていないと一貫して述べていること、被告人は約一メートル前方にA車を認めて急制動しているのであるから、追突者として追突時までA車を見ていた筈であり、その認識は被追突者であるAのそれより措信し得ると思われること、Aは上り坂であったので自車の後退を防ぐため強くブレーキを踏んで停止していたこと、両車両の重量は前記のとおり類似の重量であること、追突時の被告人車の速度は先に認定したとおり極めて低速であったこと、及び後に検討する両車両の損傷程度等を綜合すると、A車は殆んど前方に押し出されていないと認めるのが相当である。前記「むちうち症」発生のメカニズムに照し、この点においても「むちうち機転」は起り得なかったのではないかとの疑が残る。

3  次に、両車両の損傷程度を検討するに、被告人車は右前照灯が破損し、リムにひびがはいった程度であり、A車は後部バンパー中央部附近に写真では殆んど見わけられない程度の傷痕があり、ナンバープレートに塗料の剥落と見られる痕跡がある。事故当日両車両を実況見分した証人Cは、その被害程度を、A車につき後部バンパー一部軽微凹損、被告人車につき前照灯破損右前部バンパー凹損と認め、人身事故に発展するおそれがなく後日紛争のおそれがないとして物件事故として報告しており、同証人のいう「凹損」とは、バンパーが損壊に至らず、そのままの形状で衝突個所が中にへこんだ感じの損傷を指称していることが認められる。Aは、自車の損傷について、後部バンパーが車体に食い込んだと述べているけれども、前掲各証拠によってもその損傷は認められず、その供述は、前記C証言及び同人作成の物件事故報告書の記載と対比し、措信しがたい。そうすると、前記メカニズムの検討の結果によれば、A車の車体変形は二センチメートル以下であると認められ、この点においては「むちうち症」発生の可能性は全くないと認めざるを得ない。

六  ところで、Aが、少くとも三九日間B医師の診療を受け、同医師が頸部捻挫・腰部捻挫により五日間の加療を要する旨の診断書を作成したことは先に認定したとおりである。そこで同医師の証言を更に検討するに、同医師は、Aの愁訴を聞き、腰椎と胸椎のレントゲン撮影をしたところ、腰椎の四番目と五番目の間が狭く、多少湾曲していることを認めたが、これは事故によるものではなく、その他にレントゲン所見の異常は認められず、又、神経学的検査等も行ったが客観的な異常は認められなかった。後頸部圧痛・背部圧痛があったが、これは同医師が指で押えたときにAが痛みを訴えたものであり、その他の症状もAの愁訴とその移り変りによって判断したのであり、Aが頸部捻挫をしているという医学的証明があったわけではなく、Aの愁訴を信用すれば捻挫が起っていることになるというのであり、初診時に診断書記載の疾患があると判断したのも圧痛と運動障害があったからであるというのである。Aの愁訴自体は否定しうべくもなく、医師が患者の信頼に応え、その愁訴を重視することも何ら批判しうべきことではないけれども、右の様に客観的な或は医学的な根拠を欠く判断は、先に説示した如く、「むちうち症」の発生について、そのメカニズム上疑問がある本件においては、採用の限りではないと言うべきである。

七  以上のとおりであるから、傷害の発生につき、合理的な疑を超えた確信をいだかせるに足る証拠はなく、本件公訴事実は結局犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条により主文のとおり判決する。

(裁判官 大迫勉)

<以下省略>

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