福岡高等裁判所 平成18年(行コ)19号 判決 2007年5月07日
控訴人
八女労働基準監督署長
A
同指定代理人
植田浩行
外7名
被控訴人
X
同訴訟代理人弁護士
梶原恒夫
井下顕
平田かおり
松丸正
岩城穣
主文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は,控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,被控訴人の負担とする。
第2 事案の概要等
1 事案の概要
本件は,平成11年8月2日,a工業(略称は原判決に従う。)からカネライトに出向し,設備係として前任者から引継ぎを受けていたBが,12月15日(原判決に従い,平成11年は省略する。)深夜,カネライト内の倉庫において縊死したことが,業務に起因するうつ病による自殺であるとして,Bの妻である被控訴人が,控訴人に対し,労災保険法に基づく遺族補償年金給付及び葬祭料給付の各支給を請求したところ,控訴人が,平成13年9月11日,Bの自殺は業務に起因する疾病による死亡とは認められないとして,被控訴人の各請求について不支給処分をしたため,被控訴人が,同処分の取消しを求めた事案である。
原審は,Bの死亡は,業務に起因すると認めて被控訴人の請求を認容したところ,控訴人がこれを不服として控訴した。
2 争いのない事実と証拠により容易に認められる事実及び争点とこれに対する当事者の主張
原判決「事実及び理由」の第2,1,2(原判決2頁11行目から18頁7行目まで)のとおりであるから,これを引用する。ただし,第3,第4項に当審における当事者の主張を補足する。
第3 控訴人が当審で補足した主張
1 精神疾患の業務起因性判断の基準について
(1) 厚生労働省判断指針(以下,単に「判断指針」という場合がある。)の合理性について
ア 医師F(現代臨床精神医学改訂版の著者,以下「F医師」といい,医師らの医学的見解等は医師名を付して略称する。)は,素因,内因を外から測定することができないことから,ストレスの大きさを客観的に測定することを基礎として判断指針が組み立てられたものである旨の指摘をしている。また,同医師は,うつ病は特別な外的要因がなくても発症する精神疾患であるとともに,うつ病を起こしやすい人生上の出来事も,それだけで発症に至るわけではなく,個体側の生まれつきの遺伝素因,メランコリー型性格等に結びついたときに,初めて発症するもので,うつ病の発症においては,生まれつきの遺伝素因,メランコリー型性格等の個体側の脆弱性は,不可欠の要因であると指摘する。
ストレス―脆弱性理論において,ストレス強度は,「環境由来のストレスを,多くの人々が一般的にどう受け止めるか」という客観的な評価に基づくものとして理解されており,判断指針において採用されている具体的出来事による心理的負荷の強度も,そのような考え方を前提にしており,F医師らも,個人による幅の問題を克服するために平均的という概念を持ってきたのであるから,再度,幅の有無を持ち出すことは,議論の蒸し返しであると指摘しており,ストレスの強度を平均的な労働者を基準として認識しようとすることは,労災保険制度の客観性や公平性を担保するという意味で,十分な合理性を有するものである。
イ 判断指針のストレス評価表は,労働者のストレス度測定法に関する研究等の成果,被験者の調査結果等を取り入れて作成されたもので,合理性を有するものであって,制度設計上,判断者に広汎な裁量権を与える仕組みとなっていないことは明らかであり,「判断者の裁量の幅が広い」との批判は該当しない。また,判断指針は,被災労働者に加わった心理的負荷の総体が,「客観的に当該精神障害を発病させるおそれのある程度に強い心理的負荷が認められる」といえるか否かを検討しているのであり,「各出来事相互間の関係,相乗効果を評価する視点が十分でない」とする批判にも理由がない。
(2) 判断指針に基づいた具体的当てはめについて
ア 本件で問題になる出来事及び事情は,①出向,②業務の変化,③転居,④単身赴任,⑤左手の障害,⑥仕事上の失敗等であるが,まず「診断指針」別表1に当てはめ,具体的出来事としては「出向した」に該当し,その平均的な心理的負荷を「Ⅱ」と判定する。しかし,それに止まらず,他の出来事を考慮しないのではなく,心理的強度を修正する要素として,「転勤した」欄における「職種,職務の変化の程度,転居の有無,単身赴任の有無」について考慮し,さらに左手の障害や「出来事に伴う変化」についても検討し,時間外労働,会社の支援の具体的内容,仕事上の失敗の心理的負荷についても検討しているのであり,総合的な判断をしているものである。
イ ライフイベント法に基づいて算出されたBのストレス点数は114点であるが,ストレス関連疾患者群で312点であり,同点数が1年間の出来事である点を考慮しても,なお114点は著しく低く,Bが受けた業務による心理的負荷の程度は客観的にも軽微なものである。
(3) 精神障害発症後の出来事の評価について
うつ病発症後は,個体の脆弱性が顕現し,些細な出来事に対しても過剰な反応を示すため,この点の考慮も不可欠となる。被控訴人は,精神障害発症後において更に心理的負荷の過重な出来事があるときは精神障害が増悪し,その結果自殺に至るという因果関係を検討すべきであると指摘するが,ここでいう「過重な出来事」かどうかは,当該労働者を基準として評価されるべきではないし,ましてや,うつ病発症後の業務処理能力や環境因子に対する耐性が著しく低下した状況下にある者を基準として評価すべきではない。Bの遭遇した業務上の出来事は,適応障害ないしうつ病の発症の前後を通じて,およそ過重なものではない。
2 業務起因性の有無について
(1) 本件出向と引継体制について
b社では,引継期間としては,準備に1週間,赴任して1週間の併せて2週間であり,Bに予定された4か月というのは極めて長く,大阪工場での研修もしており,丁寧な手厚い対応であった。また,Bは,出向後,C係長からの引継ぎを終えた後は設備課長への昇進が予定されていた。このように,Bの出向は,その希望に適ったもので,会社側においても昇進のための一過程として通常のことと認識されていた。Bの出向は,未知の分野への職種変換を伴うものでもなく,宿舎の決定についても本人の希望が尊重されており,給与所得等の経済的事由を含めて考慮しても不利益等の取扱いとはいえない。なお,引継期間が,当初の4か月の計画が2か月に変更されているが,効果的に実施するために2か月の引継スケジュールを2回行うこととしたものであり,4か月の引継期間自体に変更はなかった。
(2) 出向後の業務内容の変更は十分に対応可能であったことについて
ア 設備係の業務について
同業務は,①官庁対応,②日常点検保守,③業者対応という3項目に分類することができる。
①官庁対応は,法令に従って各機械や設備の検査を行い,官庁に報告等をすることであるが,どの機械をいつ検査するかということは「関係法対応一覧表」や「環境安全衛生活動年間カレンダー」に示されている。定期的な検査も専門業者が実施するので,設備係は業者との検査日時の調整や検査時の立会いをすることとなる。月例検査は,基本的には製造現場の者がするもので,設備係がすることもあるが,日常点検はすべて現場が行う。いずれも,基本的に計画的なものであるので,日々追われる作業の範疇にはない。
②日常点検保守としては,日常点検,機械の保全業務,発注対応,5S活動,マイマシン活動,安全パトロール,教育の計画,中期事業計画,既存設備の能力向上や増設がある。日々の保全業務は,朝始業時に30分から1時間の実施であって,負担のかかる業務ではない。また,不具合の解消にあっても,計画的な保全業務にあっても,設備係で対応可能な軽易な修理は同係で行うが,修理の実施に当たるのは多くの場合メーカーや業者であって,設備係の主たる業務は,連絡調整,立会い,発注業務である。
③業者対応としては,休転作業に関連するもの,日常の保全業務により発覚した不具合に関連するもの,新規業務に関連するものがあるが,いずれにしても,設備係の業務は,連絡調整,立会い,発注業務である。
上記のとおり,設備係の業務は,自分一人で全てを行うなどというものではなく,製造と連携をとって内部で処置できる比較的軽易なものは内部で行い,できないものは修理すべき所を業者に依頼し,日程を調整し,書類を作成して発注をし,段取りや工事の監督を行うというものであり,現に,Bの後任者のときは,設備係の1日の半分以上は業者との対応や書類の作成など執務室で事務的な作業をしていた。
Bにとって,カネライトの機械のうち,スクリュー,ノズルのほかは珍しい機械ではなく,その他は,大なり小なり,何らかの似たような機械がb社高砂工業所にもあったから慣れていた。また,保全は,日常,図面を見て機械を把握し,その後,動いている機械を止めてメンテナンスをするという経験を少しずつ実際に積み重ねるしかないものであり,経験のない設備を導入し,あとから実地の経験を積むということは同工業所でもされていた。また,高圧ガスや消防法その他の法に基づく官庁への対応は,工事に伴って行われるが,Bは資格を有していた。
イ Bが担当した修理等について
Bが関与するなどした修理等は,別紙「作業内容一覧表」のとおりである。
9月中は,BがCから事務的な引継ぎを受けていた時期であり,同月20日の養生コンベアトラブル対応も,C係長が一人でした。10月に入ると,Bも保全業務に従事し,同月4日ころの二次加工用サイザーの搬入,同月20日ころの熱線カット機の設置により,残業も増えたが,10日程かかった二次加工用サイザーの搬入・調整作業を主として行ったのは同係長であり,同じく熱線カット機条件設定も,メインの作業をしたのは同係長であり,Bの作業は,材料の取り出し等に止まる。また,同月15日のエンコーダー修理もメインは同係長が行った。11月には,休転作業,熱線カット機条件設定,二次加工立上げ準備,二次加工生産応援等のメンテナンス以外の業務に主として従事しており,同月23日の再生押込み機トラブル対応についても,初期対応は運転係が行い,Bが現場に来た後の処理もD工場長が取り仕切った。また,当時はまだC係長とマンツーマンで仕事をし,仕事上の責任も同係長が負担していたもので,隣同士の机で一日の半分以上仕事をし,故障修理のための休日出勤も11月は1日もなかった。11月20日ころまでの間に休日出勤をしたのは10月16日の1日だけである。12月初旬には,C係長の引継ぎがひととおり終わり,そのころから,同係長は,Bを独り立ちさせるべく,先に現場に行かせるようになり,同月3日のベアリング交換業務を行ったが,事故は午前3時45分であるが,Bへの呼出しは午前7時以降であった。
ウ 保全業務と平行して行っていた業務について
原審主張のとおり,ISO認証取得に関する作業は,カネライト全社で取り組んでいたものであり,Bの負担になるものではなかった。また,Bは,ISO資料作成のためD工場長に2日間の休日出勤を申し出て,同工場長が休養を指示したのに,2日間とも出勤したが,遅れてはならないとのBの心理的な負荷が強いものであったとすれば,Bの個体側の脆弱性を示す過剰反応というべきものである。
エ 職務の分担体制が取られていたことについて
カネライトの保全業務係としての仕事は,製造係との連携が図られていたし,また,ラインを止めるなどの重要な判断は上司が担っており,十分な支援体制及び責任の分担体制が取られていた。Bの後任者らにおいても,設備係の日常業務としてのメンテナンスは,製造と連携をとり,メンテナンスをした方がよい箇所や修理すべき所を業者に依頼し,日程を調整し,書類を作成して発注をし,段取りや工事の監督を行うのを主要な業務としていた。
オ Bの左薬指,左小指の障害について
Bの握力は右手52.1kg,左手41.3kgであり,通常人に劣ることはなかった。また,竹刀等を握り締め,保持して行う剣道,居合い抜きの武道を好み,それらの有段者であったことからも,左薬指,左小指の支障がメンテナンス業務に負担になったとは認め難い。
カ 支援体制について
Bがカネライトに来てから1,2か月過ぎたころ,D工場長は,Bの習得具合が結果になかなか表れず,覇気,集中力がないことなどから,気持ちの切替えを勧め,将来のことを考え,しっかりこの土地に落ち着き,仕事をするように忠告した。また,11月下旬ころ,Bは,E社長に面会したが,E社長は,設備保全は性格の違いもあり,そのうち馴れる旨を述べて励ましたりした。
キ Bの会社滞在時間について
Bが適応障害ないしうつ病を発症したのは,10月中旬ないし下旬ころであるところ,勤務時間外における会社滞在時間は,9月から10月,11月,12月と急増し,適応障害ないしうつ病と時期を同じくして勤務時間外における会社滞在時間が長くなっているが,精神障害の自然経過は,予測し難く,かつ変動し得る幅が広いのが特徴であり,職業上,生活上当人が悩む出来事は,うつ病等の病状そのものであるから,心理的負荷が増悪の主な原因ではないと解されるのであり,10月下旬ないし11月以降における滞在時間が長くなっていることもうつ病等の症状とも解されるのであり,Bの出来事に対する反応の評価については,この点も考慮されるべきである。
(3) Bの適応障害と本件精神疾患について
ア 適応障害について
適応障害は「重大な生活の変化あるいは生活上のストレス(重い身体の病気など)の結果に対して,個人が順応していく時期に発生する障害で,苦悩と情緒障害の状態が起こり,その人の社会的機能や行為に支障をきたす。」(F医師著の現代臨床精神医学改訂版)とされ,発症には個人の脆弱性の果たす役割が無視できないとされている。また,アメリカ精神医学会の「精神疾患の診断・統計マニュアル」においても,いかなる程度のストレス因子でもきっかけとなり得ることが記載されている。そして,そのストレスに対する反応は,そのストレス因子の性質から期待されるものをはるかに超えた著しい苦痛,または社会的または職業上の著しい障害のいずれかであるとされており,適応障害においては,ストレスの強度とストレスに対する反応としての症状との間には,通常予想されるよりも大きな乖離が存在するのであり,その乖離の原因として,やはり個体の脆弱性の関与を想定せざるを得ないものであり,その発症には,客観的なストレス要因ではなく,個体側要因が大きく関与するものである。
イ Bの精神障害と適応障害について
Bの疾病は,G意見書等のとおり,適応障害と診断されるものである。その原因は,出向,単身赴任,保全・メンテナンス作業への従事等であり,ストレス要因が明確であり,カネライトへの出向辞令が解除されて兵庫に戻れば,すぐに解消すると考えられることから,Bの症状であるうつ状態,不安,あるいはこれらの混合状態などの全体像をとらえれば,適応障害と診断されるべきものである。
一方,被控訴人らは,Bの疾病をうつ病と主張するが,うつ病は発症の原因とは無関係に,どのような状況でも診断基準さえ満たせばうつ病と診断することができ,ある時点だけで判断すれば,たとえ適応障害と診断された人であっても,うつ病と診断することは可能である。H意見書は,Bの病態を全体像としてとらえず,うつ症状だけを狭義にピックアップしてうつ病と診断しているものであり,さらに,反応性うつ病という同医師の診断自体,ストレスに対する反応の異常を想定しているものであり,適応障害と同じカテゴリーに入る診断であるとも考えられる。
ウ Bの個体側要因,脆弱性について
(ア) Bは,b社時代には,機械設計の担当者として業務自体について経験もあり,十分習熟していたが,情報について伝えた後の確認や進行状況の把握等のフォローがないため,失敗することがあり,100パーセント任せ切りにはできないことも散見された。工事予定等も一度決まったことを変えようとせず,融通が利かない頑固な面があった。自分より上の人に対してはおとなしく,下には厳しい面があり,上の人から言われると多少無理でも言うことを聞くが,自分より下と判断したもの,例えば,業者には激しく怒ることがあった。設計変更が出て,追加請求が業者からあったときにも絶対に認めないと言い張って,口調も荒く怒鳴ったりもした。他の人と協力して或いは他の人を動かして同時に複数の案件を進めるということが苦手なところがあった。孤立するタイプであり,短気なところもあり,自尊心が強く,勉強に関しては努力家で,資格マニアといっていい位であり,普段は物静かで穏和で,寡黙であるが,自分の思ったことは強く主張し,対話をするという感じではなかった。会社退社後の同僚との付き合いも少なかった。
(イ) Bが関与するなどしていた修理等は,前記作業内容一覧表のとおりであるが,9月も特に勤務状況,退社時間等も目立つものはなく,また,落ち込んでいる状況にあるものともみられなかったが,Bが「仕事が慣れないので忙しく,帰省するのも疲れる。」と被控訴人に発言していたのは,B個人の受け止め方が過剰であった結果というべきである。
また,10月中の修理等も主としてC係長が行っていたのに,Bは,作業中にC係長に対し,「メンテは俺の仕事じゃない。」,「何で俺がメンテなんだ。」などと激しい口調で発言しているが,これらの発言は,明らかに個人の主観によるものであり,業務起因性の判断に当たっては,個人的要因に含めて考えるべきものである。
Bの「私は高砂に帰りたいのです。」等のD工場長への発言や,被控訴人に対する「毎晩遅くまで仕事をし,土日も休めない。」等の発言は,客観的には過重とはいえない業務上の精神的負荷を主観的に過重に受け止めるというBの個体側の脆弱性を顕著に示すものである。
12月初旬に被控訴人と電話をした際には,「もうめちゃくちゃだ。毎日毎日残業で休みも取れない。休みでも夜中でも呼び出しの電話がある。会社からの電話も聞きたくない。」と発言しているが,同時期における業務上の責任はC係長ないしD工場長が負担するものであった上,その時点までの時間外労働は,9月1日から12月4日までの95日間中,33日間にすぎず,毎日毎日残業という状態ではないことや休日出勤も2日間だけであったことなどに照らすと,Bの被控訴人に対する発言等は,客観性のない,本人の過剰な受け止め方を反映した,事実を誇張した内容となっており,個体の脆弱性を顕著に表している。
エ Bの性格についての医学的見解
F意見書等は,上記のようなB本人の人格面について,うつ病者の病前性格としてよく見られる「執着性格」あるいは「メランコリー親和性性格」と考えられるというのであり,メランコリー親和型性格の人は,変化が少なく,安定した環境での仕事は有能にこなせるが,環境の変化があると,これに要領よく対応することができず,これが大きなストレスになると指摘しており,Bが受けた業務による心理的負荷は,客観的にみて精神障害を発症する程度に強度のものではなく,その程度のストレス要因に対し,Bは,過剰なストレス反応を示していたものであり,Bの「執着性格」等からすれば,自殺の原因は,その脆弱性にあったというべきである。
第4 被控訴人が当審で補足した主張
1 業務起因性の判断基準について
(1) 労災補償制度の趣旨等
労災が認められるためには,業務起因性が認められれば足り,使用者の故意・過失等の責任を基礎付ける要件は必要とされていない。労働時間管理さえ適正になされていない現在の労働現場において,使用者の支出金の範囲内に労災補償金を押さえ込もうとするかのような控訴人の主張は,補償制度の趣旨にも反する。カネライトにおいても,Bの労働時間管理は全くの自己申告に委ねられており,タイムカードさえ備えられていなかったのであり,控訴人は,たんに相当因果関係の判断を狭く解するとの意図からその主張をしているもので,極めて不当である。
(2) 誰を基準に判断するべきか
業務内容や出来事による心理的負荷は,同じ業務内容等であっても,人によって異なる。この点は脳・心臓疾患の業務起因性でも問題になるが,その認定基準は基礎疾病を有しつつも日常業務(所定業務,所定労働時間)を支障なく遂行できる者としている。また,判断指針は,「同種の労働者が一般的にどう受け止めるかという観点から検討されなければならない。ここで同種の労働者とは,職種,職場における立場や経験等が類似する者であるとしているが,同種労働者とは,性格やストレス反応性について多様な状況にある労働者のうち日常業務を支障なく遂行できる,同種労働者のなかで最も脆弱な者を基準とするものと解される。このことは,判断指針を定めるにあたっての専門検討会報告書をとりまとめた医師らも認めるところである。
(3) 控訴人主張の「個体側の脆弱性の位置づけ」の誤りについて
控訴人主張のように,「内因」を殊更に重視し,個体側の脆弱性を強調して労災補償対象とすることを否定する考え方は,精神障害を,器質性,内因性,心因性の3つに区分し,基本的に心因性の精神障害に限って労災補償の対象とするという,従前の労災補償のあり方に逆戻りすることにも等しく,行政自身が定めた判断指針の前提となっている専門検討会報告書の基本的な考え方にも大きく反する。同報告書は,精神障害の成因については,疾患により程度の差はあっても,素因と環境因の両方が関係するとの理解に立ち,すなわち,同報告書は,精神障害の成因の内,内因のみを殊更に重視する立場には立っていないのに,控訴人は,殊更に内因としての個体の脆弱性を重視しようとするので,判断指針の前提となっている専門検討報告書の基本的な立場に反する。
(4) ライフイベント法の過大評価による個体側の脆弱性強調の誤り
ライフイベント法によれば,そのあてはめにより形式的に点数をつけて必要点数に満たない事案は全て個人の脆弱性が原因で発症したものと考えることになってしまうが,これは,業務起因性のストレスの影響をオールオアナッシングで評価するもので,不当である。そもそも,専門検討会報告書のとおり,「今日の精神医学においては精神障害の成因は疾患により程度の差はあっても,素因と環境因の両方が関係すると理解されている。」のであり,別の観点からは,精神障害の成因は,生物学的―心理的―社会的な要因による多次元的なものであるという理解の仕方が今日広く受け入れられているのに,ライフイベント法の点数が満たないものは全て個人の脆弱性が原因で発症したものであるという考え方は,この今日の精神医学の知見に反する。そして,専門検討会報告書も,精神障害の成因を考えるときには,ストレスの侵襲性と個体側の脆弱性の両方が偏りなく,総合的に検討されなければならないとの立場に立っているのであり,控訴人のようにライフイベント法による点数が足りなければ,個体側の脆弱性があるなどという択一的な発想には立っていない。
Bのストレス点数は114点であり,極めて低いと控訴人は主張するが,この方法は,複数の出来事があっても個々の出来事別の強度を算術的に累計して全体の強度を判断するものではないとする本来の控訴人の立場,並びに判断指針の考え方に反するストレス強度の判定方法である。最も不当な点は,Bの発症前の出来事につき,「仕事の内容が変化」「単身赴任」の2つのみにしか認めていない点である。他の出来事はすべて切り捨てて発症後の出来事については全く無視している。項目自体,職場の出来事を網羅していない不充分なものである。
2 業務起因性(本件出向,業務等の精神的圧迫等)について
(1) 出向,単身赴任について
Bは,突然カネライトへの出向を命じられ,躊躇したものの,家族のことを考えて不本意ながら出向に応じたというのが事実である。命令があった以上,断れないし,前向きに頑張るしかないと覚悟を決めたのである。子会社への出向,しかも,Bにとって何の地縁血縁も存在しない九州の片田舎への出向は,それだけで左遷されたとBが感じたであろうことは全く想像に難くない。出向後,設備課長への昇進が予定されていたといっても,実態は,部下はなく,基本給は変わらないものであった。Bは,やむを得ず本件出向に応じたのであり,そのような心境のまま,慣れない業務に従事することを余儀なくされた心理的負荷は過大なものであった。
(2) 業務内容の大きな変化
出向前,Bは,直近5年間は設備計画や設備設計の職に従事していたが,これはプラント装置についてのものであり,樹脂加工分野の設備メンテナンスへの従事は初めてであった。Bの経験不足は,D工場長らの言からも容易に窺える。Bは,引継指導者であるC係長とマンツーマン体制になってからも,同係長が帰宅した後も居残って引継資料を作り,復習をしていた。しかし,2,3か月経過しても,熟練度は上がらず,C係長が修理作業をしている時に,Bは,ただ後ろで見ているという状態であり,業務の段取りさえ分からなかった。Bにとって,新しい保全業務は習得出来ない業務であって,それ程までに経験がなく,困難な業務であった。
(3) 業務内容が質量ともに過大であったことについて
ア カネライトは,生産ラインが一つで,しかも24時間連続操業であった。従って,ラインのどこかで故障が生じた場合,生産が止まってしまう可能性があり,実際,Bが出向した後,生産ラインが完全にストップしたこともあった。このようなことから,保全の職責は重大であり,機械の故障があると,生産目標が達成出来なくなるものであった。
少なくとも,Bが出向してからは,機械の故障トラブル(機械の調整を含む)が頻発していた。このようなトラブルの発生は,解消された後にもBの不安を残し,むしろ助長させていたというべきである。トラブルは,C係長が中心となって対応していたことから,同人の退職後に自分1人で対応できるかといつも考えさせられていた。Bは,トラブルが解消した後でもむしろ不安にさいなまれることとなり,精神的緊張は持続していたものである。トラブル多発の結果,もともと詰め込みだった引継計画が更に詰め込まれることになり,疲労困憊し,C係長退職後にトラブルに対処できるだろうかとの不安を強く抱いていった。
イ 工場には,10月4日にトリプルサイザーが,また,同月20日には熱線カット機がそれぞれ新たに導入されたが,これらの条件出しのために,Bは連日残業を強いられた。Bは,引継ぎを受けて習得しなければならない事項が数多くあったのに,それと並行して新規機械の操作技術トラブル対応を習得しなければならない状況に置かれ,新規機械の調整に1,2週間かかったことから,Bの引継ぎもさらにずれ込んだもので,この初期トラブルは,C係長らも予期していなかったものであった。
ウ また,ISO認証取得は,会社の「顔」ともいえる極めて重要な任務で,しかも,翌年3月の審査に間に合うよう申請しなければならなかったため,想像を絶するほどBが切羽詰まった状況に置かれたものである。ノルマやペナルティが具体的に課されなくとも,ISO認証取得を目指してグループ会社が総力を結集していたのであるから,自分の担当部分が遅れてしまったら全体に影響するのであって,かなりのプレッシャーを感じざるを得ない状況であったことは容易に推認される。Bは12月10,11日に休日出勤しているが,これはD工場長から出勤しないように強く指示されたにも関わらず,出社したものであり,このことは,休日出勤をしなければISO認証取得の資料作成を終わることができなかったことを示している。
(4) 長時間労働について
Bの本件発症前後の週40週間を超える時間外労働時間を1週間ごとに統計にとると,12月は22時間から34時間程度,11月は11時間から24時間,10月は16時間から20時間程度の時間外労働時間となるから,Bが長時間の労働に従事していたことは明らかというべきである。
(5) 業務の引継ぎによる心理的負荷
C係長は,引継期間を本来4か月として引継計画を立案したところ,E社長の指示によって2か月に短縮させられたが,同係長も危惧していたが,結局,Bは,技術が自分のものになっていないという不安があり,実務経験がまだ乏しいということで,1人でこなしていける自信がなく,あと3か月残ってもらえないかとC係長に頼んだのである。なお,Bの後任者は,現場の経験があったが,b社大阪工場から6か月の指導を受けている。このように,Bの引継期間が余りに短期間だったため,Bは完全に引継ぎが受けられないままC係長が退職してしまう事態に追いつめられていったのである。
精神障害を発症したと思われる10月下旬から11月ころ以降は,Bのメンテナンス業務は客観的により過重なものとなっていた。トラブル発生の際の作業の実施者としても,Bの関与の度合いが高くなっており,Bの業務が客観的に過重なものとなっていたことは明らかである。また,業務の過重性が増した結果は,時間外労働時間数の右肩上がりの結果となって表れている。
(6) 左薬指,左小指の支障について
Bが有していた左手指の障害は,出向後,機械の整備メンテナンスという直接手指を使う保全作業,つまり両手指の繊細な動きを必要とする作業すなわち「巧緻性」を必要とする作業に従事させられた結果,顕在化し,Bの業務遂行を困難にしていた。作業が精緻であればあるほど心理的負荷は過大となっていくと考えられる。
(7) 控訴人主張の支援体制について
Bは,慣れない業務に自分自身に対する自信を失い,強い不安を覚えたため,工場長や社長に悩みを打ち明けていたが,D工場長らは,「みんなでやれば何とかなる」といった趣旨の話をBにしただけで,具体的に改善策を提案したり,改善策を考えるなどの行動をとることは何らしなかった。D工場長もメンテナンスの技能を持っているわけではなく,E社長も,頑張ってくれというだけであった。うつ症状のある者に対して頑張ろうと励ます行為は,むしろ窮地に追いやる行為にほかならない。
3 控訴人主張のBの個体側要因について
(1) Bの性格等は,同種労働者の該当性で考慮すべきものであること
控訴人主張の「几帳面,真面目で責任感が強く,仕事第一主義で,うつ病親和的な性格」や「完全主義者的性格,執着的気質」等は,極めて主観的なものであり,人によって評価が異なるものばかりであり,あくまでも人格の特徴,人間の存在様式の一つであり,個性の多様さとして通常想定される範囲内のものにすぎず,それ自体がうつ病発症に直結するほどの強い関連性をもつとはいえない。いずれも同種労働者の範囲の問題として考慮し,業務による心理的負荷との相関関係の中で,具体的かつ総合的に判断がされるべきものである。
Bは,「真面目で内向的であり,仕事は自分で抱え込む性格であった」が,a工業及びb社では一般的な速さで昇進し,約29年間,特に問題なく仕事をしてきたことに照らしても,同種労働者の範囲に属するものというべきである。
(2) 適応障害の捉え方に関する控訴人の誤り
控訴人は,Bには顕在化していなかった隠れた脆弱性があり,その脆弱性があたかも大きかったため,適応障害という精神疾患を発症したものであるかのごとく主張するが,極めて意図的かつ恣意的である。Bの初期の症状が適応障害と診断される可能性があったとしても,個体側の脆弱性が大きいために発症する疾病ではないし,また,適応障害が増悪発展し,うつ病になったことも考えられるのであるから,適応障害をことさらに強調することには何らの意味もないというべきである。また,発症後の増悪の経過を評価することで,業務起因性はより明らかというべきである。
4 まとめ
(1) Bは,「明らかな個体的脆弱性をこれまで示さず,普通に社会生活,職業生活を過ごしてきた人」であり,「性格面でも取り上げるべき問題をもっていない人」である。平均的労働者基準説によっても精神障害を発症させる危険のある心理的負荷が認められるべきである。
(2) Bの業務負担は,客観的にみて相当重度のものであり,一個人で処理しきれぬ内容であった。C係長退職後,単身で職務にあたる事態に対して,ほとんど絶望的な不安をもったとしても不思議ではなく,会社の組織人として希望は述べても,上司の指示は絶対的な重みを持つものであり,指示に従って職務を果たせぬことは,プライドが高く,責任感が強く,ひたむきなBにとっては耐え難いことであった。うつ病の状態であったBにとって,12月の社長との会食や激励はかえって逆効果であっただろうし,看板塔の見積りミスも自信喪失のひとつの刺激となったと考えられる。ISO認証取得の資料作成による設備課長の業務内容の再確認は1月以降の業務状況について重い不安を与えたといえる。要するに,出向に伴う職務の負担は,Bの予想以上に過重なものであり,本来ならば,別に1名の設備の保全,保守専任の人員配置が常識であったというべきである。
(3) 仮に,精神障害発症の時期が10月下旬ころであったとしても,発症後において,さらに心理的負荷の過重な業務や出来事があるときは精神障害が増悪し,その結果自殺にいたるという因果関係を検討すべきである。自殺と業務との因果関係を考えるにあたっては,業務により精神障害を発症するまでの業務による心理的負荷に加えて,発症したうつ病を増悪させる業務による心理的負荷を総合的に判断すべきであり,Bにあっては,発症以降も出向という出来事に加えて,それに引き続いて生じた長時間労働という仕事の量の変化が発症後において更に過重なものとなっており,また自殺直前の看板塔設置工事の見積額の誤りという出来事が生じたものであり,これら精神障害発症後の増悪にかかわる業務上の出来事がBの精神障害を増悪させた結果,本件自殺に至ったものであるから,業務の起因性は認められるべきである。
第5 当裁判所の判断
当裁判所も,Bの自殺は,業務に起因するものであり,本件処分の取消しを求める被控訴人の請求は理由があり,認容すべきものと判断する。その理由は,次に加除,訂正し,当審における補足した主張等への判断を加えるほかは,原判決18頁8行目から41頁18行目までのとおりであるから,これを引用する。
1 認定事実の付加等について
(1) 原判決18頁11行目「乙4,」の後に「14,17,25,26,29ないし37,40,」を加える。
(2) 同21頁19行目「午後5時00分」を「午後5時10分」と改め,同23行目の末尾に続けて「なお,b社においては,残業は申告制度が採用されていたが,Bは,残業の申告をすることはなかった。また,Bは,いつもは午後6時30分から同7時ころに退勤していた。」を加える。
(3) 同22頁11行目「設備係長」の後に「ないし整備課長」を,同24行目の後に改行して「カネライトは,隔週週休2日制であり,出勤退勤管理は,本人の申告によることとされていた。」と各加える。
(4) 同23頁9行目から18行目までを次のとおり改める。
「Bは,前任者であるC係長の業務を引き継ぐことが予定されていたので,事前に下記(ア)ないし(ウ)のとおり,担当する業務についての実践等の項目を立て,9月1日から同年12月末までの引継ぎスケジュールを作成した。C係長は,E社長の意向もあり,同スケジュールに基づき,さらに4か月を前提に,9月に『現在進行中の設備取得(BKバイザーの据付け・稼働,二次加工設備の購入・据付け・稼働),技術課題(仕上げ工程のSP,生産能力向上について・検討のポイント),第19回中間計画での設備取得(設備計画と実施状況・今後の進め方,仕様書・提案書の進め方,修繕費・消耗品費の予算計画の立て方)等』を,10月に『設備保全について(機器管理表に基づく日常・定期点検の仕方,外注業者に依頼する設備の手配の仕方,休転作業の計画・実施・確認),高圧ガス設備について(保全検査,自主検査の実務作業と手順,今後の検査予定と計画の立て方),消防法・危険物設備について(設備内容・許可内容・日常点検),第一種圧力容器について(定期検査・自主検査の実務作業と手順),保全作業の実践(押出機冷却機廻りの保全方法,再処理設備廻りの保全方法,仕上げ設備廻りの保全方法,ユーテイリテイー廻りの保全方法)等』を,11月には,さらに9月,10月分の全般をし,12月は残りの保全作業を実施する旨のスケジュール案を立案した。ほぼ,その後,同案に基づいてBへの引継ぎが実施されたが,最終的には,現在進行中の設備取得,技術課題等や新規導入機械作業等が優先され,二次加工サイザーの導入に伴う機械の調整作業が予定よりも長くかかったことから,本来の機械メンテナンス業務の引継ぎは遅れ,十分ではないままであった。」
(5) 同24頁8行目末尾に続けて「なお,着任後,Bは,技術室でD工場長の前にC係長と机を並べる形で執務していた。また,b社では,現場製造を主として担当するD工場長が最も遅くまで残ることが多く,連日,午後11時ころに帰宅していた。」を,同10行目「夕食の時間」の後に「(午後5時から午後7時ころまでの間)」を加える。
(6) 同25頁17行目末尾に続けて「なお,Bの赴任後から12月10日までの間の機械修理等のトラブルの対応状況等は,別紙「作業内容一覧表」のとおりである。」を加える。
(7) 同26頁13行目「到着し,」を「到着したが,D工場長やB,現場の4,5人が総出で機械を分解していたので,同係長は,」に改め,同16行目「故障し,」の後に「現場で復旧作業が試みられたものの,対応し切れず,」を加える。
(8) 同27頁6行目末尾に続けて「なお,Bは,材料の取込みなどのほか,作業内容の記録を取り,10月初めから二次加工作業の作業標準書の作成に携わっていたが,その後,最終的には同標準書は,未完成のままであった。」を加え,同25,26行目「報告していたが,その直後,」を「報告した。これに対し,E社長は,Bに対し,『コストダウンができるなら,業者と詰めたらどうだ。君も勉強になるだろう。』と前向きの検討を指示した。しかし,その直後,Bは,」に改める。
(9) 同29頁21行目「遅くなった。」の後に「なお,同月16日の健康診断の結果では,Bは,b社高砂事業所時代に比べ,体重が3ないし5キログラム減少していた。」を加える。
(10) 同30頁16行目末尾に続けて「また,被控訴人もBが疲れており,以前に比較してやせてきていると感じた。」を加える。
2 争点(1)(精神障害の業務起因性判断の基準)について
(1) 判断基準と平均的労働者概念について
精神障害の発症が労災給付の対象となるには,その発症が業務に内在する又は通常随伴する危険の現実化であると評価されること,すなわち,発症と業務との間に相当因果関係が存在することが必要であり,業務内容等の心理的負荷の強度等の検討に当たっては,同種労働者を基準とすべきであり,その場合,通常想定される労働者の範囲に幅があることを前提として考慮すべきであることは,原判決説示のとおりである。
(2) 平均的労働者概念と個体側要因について
ア 控訴人は,うつ病の主因とされるのは,内因としての個体側の脆弱性であり,現在の精神医学のレベルにおいて個体側の脆弱性を抽出し,客観的に測定するのは困難であり,平均的な労働者の受止め方を基準として,出来事自体の有する精神障害を招く危険性を判断すべきで,ライフイベント法等に基づいた判断指針は合理性があり,裁量の幅が狭いことによって客観性は保たれる旨の主張をし,G意見書(乙3,23),F意見書等(乙9,16,24),医師Iの意見書(乙10),医師Jの意見書等(乙19,20,21,39),医師Kの意見書(乙38)は,その主張に副うものである。
イ しかしながら,業務起因性の判定,選別は,多数の労働災害をめぐる事案においてされるのであるから,その判断の基準としては,恣意的な運用を避けるべく,この観点からも客観的,画一的な処理が要求されているといえるもので,負担している業務の客観的な軽重をもって起因性を判定することには一応の合理性があるともいえるが,K意見書が「通常想定される範囲の同種労働者の中で脆弱な者を含んでの基準」が正確である旨を指摘するとおり,平均的労働者の範囲にも幅があり,当該労働者の個体側要因も多様で,その脆弱性も雇用関係のもとで築かれる場合もあるから,相対的な比較によりその軽重あるいは因果関係の存在が判断されるのが相当な場合もあるというべきである。特に,心理的負荷の要因となる業務上の出来事が複数存在する場合には,各要因が相互に関連して一体となって精神障害の発症に寄与すると考えられるから,これらの出来事を総合的に判断し,精神障害を発症させるおそれのある強度のものであるかを具体的かつ総合的に判断するのが相当である。
Bは,長年にわたってa工業ないしb社においても稼働してきたのであり,それまでの処遇状況等も併せて検討するのが相当というべきところ,これをB担当の業務等の評価の観点からみても,J意見書等は,Bのストレス強度は「仕事の内容が変化」と「単身赴任」の2項目で,合計のストレス点数は114点というのであるが,Bの発症と自殺は,後記のとおり,単に上記のような仕事内容の変化だけではなく,その引継ぎが円滑ではなかったことや新規導入機械の条件設定や故障等のトラブルの発生,看板塔の見積りミス等が重複したことによって生じたと認められるものであり,設備課長昇進への途も閉ざされつつあるとの自己評価の低下の自覚,認識が発症等をさせたといえるのであるから,上記J意見書等は,これらの項目の評価がないか,複合,増幅したとの評価は極めて低いとの疑問を払拭できないというべきである。
ウ 従って,Bの自殺についての業務起因性の判断に当たっては,単に業務の内容の評価のみではなく,仕事量(労働時間)や責任,物的・人的環境等の変化の有無や程度,さらには個体側要因の有無と程度,その影響等も考慮してなされることが必要というべきであり,これを単に当該業務の内容等において考慮すべきものであるとの控訴人の主張は採用することができない。
3 争点(2)(本件精神障害が業務に起因したものであるか。)について
(1) Bの新たな業務内容による心理的負荷の程度等について
ア 引継ぎスケジュールについて
原判決第3,3,(2)アで説示のとおり,Bは,出向後は慣れない保全業務に従事することになったもので,同業務は,予測外トラブルの発生とその対応を主とするから,引継事項も限定され,時間をかけての習熟がまずは求められるというべきであり,証人Cや同Dもこれらを強調した証言をする。しかしながら,早期の習熟には,それまでに発生したトラブルの原因や適切な対応方法等の引継ぎも欠かせないものというべきである。
控訴人は,4か月の引継期間が極めて長い旨の主張をし,乙25,26,29によれば,b社等においても,引継期間は,最大1,2週間以内であることが認められ,確かに一般事務の引継ぎが長期にわたることはないと思われるものの,設備係長の業務は,部下もなく,一人での機械のメンテナンス業務であり,代替性のある業務とは言えない面があり,C係長退職後のトラブルとその対応のためには,それまでのトラブルの原因究明や採られた解決策等の伝達が必須というべきである。前記認定のとおり,前任者のC係長は,Bの引継期間を本来4か月として引継計画を立案したが,E社長の意向もあり,2か月に短縮し,これを復習する形に変更したもので,短期に一応の業務に当たらせ,再度,重点的に復習することも考えられ,その立案も一応の合理性があるとはいえるものの(2か月への変更について,E社長も内容的に1度ラフに回し,早めに終わり,繰り返した方がよく身につくと思った旨の陳述をする。乙35),2か月への短縮も期待された立案ともいえるものである。同案による引継ぎは,最初の2か月間での綿密な引継ぎが前提となるというべきところ,実際には新規機械導入に伴う調整等に手を取られ,本来のメンテナンス業務の引継ぎは,後手に回る結果となったものである。結局,Bは,メンテナンス技術の未習得とその不安から,C係長に退職の延伸を求めた(原判決第3,1,(4),オ,(ア))と推認されるのであって,その心理的な負荷は,業務引継ぎについての上記のような経過から生じたものであり,これを不自然ないしBの過剰な反応ということはできない。
イ 出向後の業務内容等の心理的負荷について
(ア) Bがメンテナンス業務に従事していた間に発生していた別紙「作業内容一覧表」を検討しても,機械の故障等により設備係が対応したものは,8月だけでも23日,25日,26日,30日に生じた4件があり,他に業者が対応した2件を含めると,極めて多く,その後も連日のように数多く発生していたと評価するのが相当である。これらのトラブルには,螢光管取替え等の日常の軽微なメンテナンス分も含まれているが,10月27日のプレーナー故障や11月23日の再生押込み機トラブル,12月3日の微粉砕器ベアリング故障(原判決第3,1,(3),イ,(ウ),d,e,f)のように対応が困難で,専門的な修理に属する分も含まれるものもある。もとより,ほとんどは,直接にはC係長が処理したものであり,Bが関与した分は少なく,同人はC係長から引継ぎを受けるため,補助的役割を果たしていたものであるが,補助的役割にとどまっていたことも,未だその業務自体に直接関与できない未熟な程度であったといえる上,Bは,C係長退職後は一人でこれらのトラブルに対処しなければならなかったのであり,その心理的な負荷が軽いものであったとは到底いうことができない。
(イ) さらに,カネライトの工場には,二次加工関連機械として,10月4日ころにトリプルサイザーが,また,同月20日ころには熱線カット機がそれぞれ新たに導入されたものであるが,甲3,4,乙32,証人Cによれば,導入された二次加工サイザーは大阪工場から譲り受けた中古の機械であり,稼動のためには機械の具合を調整して綿密な条件設定をしなければならなかったが,それらの作業は,カネライトの従業員らで行わねばならなかったこと,経験豊富なC係長においても,これらの条件出し作業等について苦労する程であり,運転中に出るトラブルについてラインを止めずにするにはどうするかを考えて判断しなければならず,作業は困難を極め,トラブル項目も多く,この調整に1週間から2週間程度を要したこと,作業途中にC係長もBと慰労し合う程であったこと,もともと,導入機械の初期トラブルは,経験上,大体5年位で落ち着くが,二次加工サイザー等は,初期トラブルが多かったことが認められ,これらの予想外の手間等から,Bへの本来のメンテナンス業務の引継ぎ,習熟の遅れが余儀なくされたと認められる。
新規導入機械への習熟は,Bが当初から関与するのであるから,その点の早期習熟の利点があるにしても,作業標準書の作成も不十分なままとなっていることは前記認定のとおりであり,未だ本来のメンテナンス業務の引継ぎが十分ではなかったBとしては,さらに将来の不安が増幅されたといわねばならない。
(ウ) 上記のような状況から,Bは適応障害ないしうつ病を発症したといえるところ,控訴人は,Bの業務はC係長の補助的なものにとどまり,また,製造係も分担し,支援体制もとられていた旨の主張をするが,前記のとおり,カネライトは小規模の製造工場で,設備係長には部下もなく,製造係も本来のメンテナンス業務を担当するものではない。D工場長らにおいても,それまでの間も保全業務の補助的役割を担ったことを認めるに足りる資料はない。
また,甲3,乙30,31によれば,Bの死亡後,従前からカネライトの製造現場に携わり,設備関連の経験もあるLが設備係に配属され,保全業務を担当することになったが,C係長が退職を翌年の3月20日ころまで延期して指導したこと,それ以降もb社大阪工場の設備保全係が来訪して6か月間の指導をしたこと,C係長の担当していた業務のうちのいくつかは,引継ぎもされないまま,現場担当等になったものもあることが認められるが,Lについて長期の引継ぎとなったことは,出向してきたBの引継ぎが十分ではなかったことを推認させるものである。さらにLの後任としては,製造係の職長であったMが平成15年8月1日からそのカネライトの機械メンテナンス業務を引き継いだが,その際には,異動内示については1,2週間前であったことが認められるが,本来の保全業務への習熟の程度や導入機械の有無等の状況はBの場合とは異なっているのであり,別紙作業内容一覧表の「実施者(現在)」をみても,さらに分担して従前の設備係の業務分を軽減したともいえるのであるから,LやMらの業務負担状況をもってBに予定されていた業務ないしその心理的な負荷が軽いものであったことの裏付けとはいえないというべきである。
したがって,前記控訴人の主張は,いずれも採用することができない。
(エ) また,ISO認証取得資料の作成作業も,本来のメンテナンス業務に付加して生じたものである上,その作業のためには,カネライト工場の生産ラインの機械の構成から技術上のシステム等の全てを把握していることが前提となるところ,Bは,未だ引継ぎの途中であり,これらの仕事の流れを的確に把握していたとはいえないのであるから,Bにとっては,神経を使う作業であったというべきである。そして,その認証取得については,翌年3月の審査に間に合うよう申請しなければならなかったのであるから,C係長の退職を控えたBが切羽詰まった状況に置かれたであろうことは,D工場長の指示に反しても休日出勤したことからも容易に想像できるところである。
(オ) 残業時間の増加と看板塔の見積りのミスについて
上記のとおり,Bは,複数の業務が重なり,これらの対応に苦慮し,原判決第3,3,(2),アで説示のとおり,b社における就業時に比較し,残業を余儀なくされ,その時間も次第に増加し,さらには,自ら社長に進言した看板塔のコストダウンについては,構造計算のミスがあることが判明したため,その責任を感じ,これが直接の原因となり,自殺に至ったものと認められる。
(2) Bの発病と個体側要因の有無について
ア 控訴人は,Bに発症したのは適応障害であり,客観的に強度なストレス要因よりも過剰な反応という個体側要因及び発症によるものである旨の主張をし,G意見書等(乙5,6,23),F意見書(乙9),I意見書(乙10),医師Nの意見書(乙17),同Oの意見書(乙27),同Pの意見書(乙28)は,ストレス要因が明確であるとして,Bの発症を適応障害とし,性格が真面目で温和,几帳面である一方,柔軟性に欠け,依存性がみられ,融通が効かず,他人との連携がとれないなどの性格傾向があり,その性格のためにメンテナンス等の業務に適応できなかったというのである。そして,孤立してしまう性格や短気な面,強い自尊心,融通が利かない頑固な面等がBに存在したことについては,原判決第3,1,(1),カのほか,乙25,26によれば,b社勤務時にも,Bは,計画された工事日程を変えようとしないことがあり,また,同時に複数の案件を進めるのが苦手であったことなどの事実からも認められるところである。
イ しかし,上記のような性格傾向をもって直ちにうつ病の親和的な性格傾向であり,精神障害発症の要因となる脆弱性,個体側要因が存在したというには躊躇するものがある。Bは,資格マニアと言われる程に真面目で,勉強家でもあり,a工業及びb社において約29年間稼働してきたもので,この間,雇用関係で特段の問題を生じさせたこともなく,一方,酒は嗜まず,b社時代は禁煙に努め,剣道等も有段者であり,家庭的で,禁欲的とも評価できる程の嗜好や趣味,生活状況であったのであり,Bの性格傾向の一面のみを捉えて隠れた脆弱性があると認めるのは相当ではないというべきである。また,甲12によれば,適応障害は,1980年に成立したアメリカ精神医学界の診断基準の直訳として日本に導入されたもので,十分に理解整理されていない疾病であること,ストレスの強度と脆弱性の程度の相互作用により発生するとの考えに基づいても,個体の脆弱性は著しくないが,幅は広く,ストレスも極度ではないが,範囲は広いもので,症状としては,抑うつを伴うものや行為障害を伴うものなどがあり得ること,他の精神障害の診断がされるのであれば,これが優先されるものであることが認められる。
しかして,H意見書(原判決第3,3,(1),ア,(イ))は,Bには,抑うつ気分や興味と喜びの喪失,活力の減退による易疲労感の増大があり,うつ病のエピソード基準の3要件を満たすというのであるが,前記認定のBの10月から11月末ころまでの稼働状況や家族らとの対応,体重減少等を考え併せると,うつ病発症との見解には,その裏付けがあるといえるのであり,Bは,発症した適応障害が増悪し,その後,うつ病になったと考えることもできるといわねばならない(なお,前掲N意見書は,心理的負荷の程度の評価は異にするものの,Bは不適応障害に近い精神状態となった後,10月中旬から下旬にうつ病を発症したとする。)。
結局,適応障害の捉え方には様々な考え方がある上,仮に,Bの初期の症状が適応障害と診断される可能性があったとしても,Bの性格傾向をもってその発生要因であるとまで認めることはできないというべきである。
ウ さらに,Bの残業の増加や発言等は発症後の過剰な反応であるとの主張についてみても,前記のとおり,C係長の退職が迫る中で,懸案事項の解決が迫られ,その対応として休日出勤等を余儀なくされたのであり,また,Bは,もともとC係長の退職後にはこれを引き継ぐこととされていたのであるから,同係長と同様の残業や技能の習熟を要求されているものとして,これを負荷と受け取るのは当然ともいわねばならないところである。また,看板塔の見積りミスについてみても,自ら経費削減ができるとの進言をした後にその点検漏れ,看過が明らかになったのであるから,予定額への影響の有無等にかかわらず,設備課長としての処遇(カネライトには同職はなく,新設する予定であったと推認される。)も予定されていたBにおいて,責任を感じたことは容易に推認されるところである。原判決第3,1,(4),エ,(イ)のとおり,未習熟の状況等について,Bは,離職も視野に入れねばならない状況と認識していたと解されるから,上記見積りミスは,社長らの信頼を失うものとして極めて重い心理的な負荷となったというべきである。
エ 以上のとおりであって,Bの性格等に過剰な反応という個体側要因があったと認めることはできず,また,特に,Bのカネライト異動前の労務の提供等に問題がなかったことに照らすと,控訴人主張のような平均的労働者の受けるストレス度の平均値との偏差として認識されるべき程度の隠れた脆弱性があったと認めることはできないというべきである。
Bは,適応障害ないしうつ病に罹患したと認めるのが相当であり,その発症の時期等は10月下旬から11月ころにかけてであり,その正確な罹病名をいずれかに確定する必要のないことは,原判決説示のとおりというべく,発症後の稼働状況も含めて自殺に至るまでの経過も考慮し,業務の起因性を判断すれば足りるというべきであるから,これを適応障害のみに限定し,自殺の業務起因性を否定する控訴人の主張は,採用しない。
(3) 総合評価
上記(1)の出来事は,主に9月から12月初めの短期間に生じたもので,単身赴任等は,個々的には強度の心理的な負荷を伴うものとはいえないものの,本来の保全の業務に習熟する間もなく,新規導入機械への対応に追われ,ISO認証取得の業務も重なり,長時間残業等を迫られることになったものである。Bには,出向に伴う遠距離の単身赴任と,従前はほとんど経験がなかったメンテナンス業務への従事という遠因があり,一人で24時間稼働の機器のメンテナンスをしなければならないという心理的な負担感があり,これが前任者のC係長が退職する予定の中での短期間における引継ぎの不十分なままの終了が近くなったこと,これらをカバーするため,長時間労働を余儀なくされたことなどの要因が重なり,また,予定された設備係長ないし同課長としてのより上回る適応が期待されていたのに,これに見合う能力を身につけることが困難となり,自信を喪失し,看板塔の見積りミスもあり,相乗的に影響し合って発症し,自殺に及んだと推認されるのであって,上記の要因等を総合的に検討し,業務以外の出来事による心理的負荷の存在は認められないことも考慮すれば,本件自殺の業務起因性を認めることができるといわねばならない。
第6 結論
以上のとおりであって,本件処分を取り消した原判決は相当であり,控訴人の本件控訴は理由がないから,これを棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 牧弘二 裁判官 永松健幹 裁判官 野島香苗は,退官につき署名押印することができない。裁判長裁判官 牧弘二)
別紙作業内容一覧表<省略>