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福岡高等裁判所 平成2年(く)68号 決定 1991年3月12日

主文

原決定を取り消す。

別紙記載の事件を福岡地方裁判所の審判に付する。

理由

本件抗告の趣意は、代理人弁護士木上勝征ほか一〇名共同作成名義の抗告申立書、抗告理由補充書(一)及び(二)に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一  所論の第一点は、要するに、原審が、請求人代理人らに対して、全証拠の閲覧謄写及び被疑者尋問への立会いを始めとする積極的な当事者関与を許さなかったのは、付審判請求事件の審理手続の趣旨に反し違法であるから、原決定は取消を免れない、というのである。

しかしながら、付審判請求事件の審理手続は、捜査に類似する性格をも有する公訴提起前における職権手続であり、本質的には対立当事者の存在を前提とする対審構造を有しないのであって、このような手続の基本的性格・構造に反しないかぎり、裁判所の適切な裁量により、必要とする審理方式を採りうるものと解すべきところ、関係記録によると、原審は、具体的事項に応じ個別的に吟味を加えたうえで、請求人代理人らに対し、捜査記録中の実況見分調書等の閲覧謄写を許可し、請求人代理人らが職権発動を促す趣旨で申請した証人二名の尋問に際して、請求人代理人らの立会と発問を許すなどしたことが認められるのであって、原審が所論のいう積極的な当事者関与を許さなかったとしても、これをもって原審の審理手続が適切な裁量を誤った違法なものということはできず、所論は採用できない。

第二  所論の第二点は、要するに、原決定が被疑者P(以下、被疑者という)のAに対する本件けん銃発射行為は正当な職務行為としてその違法性が阻却され、請求人の請求にかかる特別公務員暴行陵虐致死の被疑事実については罪とならないとしたのは、事実を誤認し、警察官職務執行法七条の解釈・適用を誤ったものであるから、原決定を取り消し、事件を裁判所の審判に付するとの裁判を求める、というのである。

一  そこで検討するに、原決定が、その理由中に「第三 本件請求の理由の有無」として認定する事実のうち、「一 本件当日までの経緯 1 Aの経歴等 2 本件前々日の暴行等 二 本件当日の本件発射に至る経緯 1 AのD子に対する暴行とD子の父の警察相談 2 警察の対応 3 N子方及びその付近における状況 4 旭タクシー車庫における状況」として認定する事実は関係証拠により概ねこれを肯認することができる。

原決定は、続いて「5 Aの逃走と被疑者の追跡の状況」のなかで、被疑者は、右手に特殊警棒を持って戊田春夫運転の車(以下、戊田車という)から飛び下りた旨認定したうえ、右「6 久留米中央病院前における状況(本件の発生)」のなかで、被疑者がAの乗車する車(以下、A車という)に駆け寄り、同人に対しけん銃を発射したときの状況について、次のとおり認定している。

被疑者がA車の運転席ドア近くに駆け寄ると、Aは運転席に座ったまま被疑者を睨みつけ、「貴様ぶっ殺すぞ。」と怒鳴りながら右手に持った切出しナイフを全開された窓越しに被疑者の胸部めがけて鋭く突き出したので、被疑者は危うく一歩飛び退いて所携の伸長した特殊警棒(鉄製三段式・伸長時の長さ四一センチメートル)でナイフを叩き落そうとしたが、Aが素早くナイフを引っ込めたので空を切った。被疑者は、このようにAの繰り出すナイフの動きに応じてドアに近づいたり離れたりの動きを何度か繰り返した後、危険を避けてドアのやや斜め後方に移動したところ、今度はAが左手でドアを押し開け、少し開いた隙間からナイフを繰り出すので、被疑者はそのドアを右足を上げて革靴底で押し返したり足膝で押したりしたが、靴底が滑りあるいはAの抵抗により結局は押さえつけることができなかった。この間、被疑者は大声で何度も、「抵抗するな、刃物を捨てろ。」と説得し、引き続き特殊警棒でナイフを叩き落そうと試みたが、Aはますますいきり立ってナイフを使って激しく抵抗し、全く聞きいれようとしなかった。

そのうち、Aは今までよりも大きくドアを押し開けて左手で支え、その右足を地面に下して車外に出る態勢を示したので、被疑者はドアの開口部前面に立ち塞がる形をとったところ、Aは被疑者の胸元近くまで何度も激しくナイフを突き出し、被疑者はその都度飛び退いたり前進したりを繰り返しながら特殊警棒でナイフを叩き落そうとしたが、Aのその動きが相変らず機敏なため奏功しなかった。被疑者は、いよいよAが逃走を図ったものと考えたが、同人のそれまでの行動や抵抗の現況等に照らし、特殊警棒のみをもってしては同人の逃走を防止し、制圧、逮捕することは不可能であり、しかも、Aは現にナイフを振るって反撃し、その勢いは一向に衰える様子もないのにいまだに応援の到着はなく、それまでに試みた応援の要請や現在地の通報が警察当局に到達したか否かの確認もできていない状況にあって、Aに対して一人で対処することは自分自身の生命の危険さえ危惧されたので、Aの逃走を防止し、制圧、逮捕するためにはもはやけん銃を使用する以外に方法はないと判断した。

そこで、被疑者は、右手の特殊警棒を左手に持ち替え、右手で左脇下のホルスターから所携のけん銃(スミスアンドウェッソン・回転式三八口径)を取り出し、最初は引き金に指をかけないままAに向けてこれを構えたが、同人は驚いた様子もなく、さらに、被疑者が大声で「抵抗すると撃つぞ、刃物を捨てろ。」と数回警告したが、Aはこれに全く応ずる気配がなく、依然としてナイフを繰り出して抵抗するので、被疑者は右けん銃を構えたままその動きに応じた後退、前進等の動作を何度か繰り返しながら、Aの生命に対する危害の発生を避け、かつ、逃走防止、制圧、逮捕の目的を達するため、身体の枢要部は避けてナイフを持つ同人の右腕を狙おうと考えていた。そのうち、Aは運転席から腰を浮かせ、路面に下ろした右足をさらに踏み出し、上半身を車外に乗り出すようにして右手に持ったナイフを被疑者の胸元近くに突き出したので、被疑者は咄嗟に突き出された右腕の肘関節部付近を狙い、銃口から同部付近までの距離三〇センチメートル位で、かつ、銃口の延長線は運転席床に達し、弾丸は肘関節部付近を貫通しても右床上方面に至るとの瞬時の判断のもとに、ダブルアクションで引き金を引き弾丸一発を発射した。ところが、その瞬間、Aはドアをさらに開け、上半身を乗り出しひねるようにしてナイフを持つ右手を突き出しながら被疑者の方にさらに接近したため、右上腕部が銃口に近接する状況となり、弾丸はAの右上腕部外側から貫通したうえ右脇下から胸部に貫入した。その結果、Aは尻を座席に落し、体を座席後部にもたれかかるようにして抵抗できない状態となったので、その手を小手返し状に掴んで同人を逮捕したが、Aは右銃弾の胸部貫通(胸部射創に基づく左肺、右肺及び肺動脈損傷による外傷性出血)により、救急車で病院に搬送される途中ころの午後六時二五分ころ死亡するに至った。

二  右のとおり、原決定は、被疑者はナイフを振るって抵抗するAに対し特殊警棒を用いて同人の逃走を防止し、同人を制圧、逮捕しようとした旨、また、Aは運転席側ドアを押し開けて車外の路面に右足を下ろし、被疑者のけん銃発射の直前には、路面に下ろした右足をさらに踏み出した旨それぞれ被疑者の供述に基づいて認定したけれども、関係証拠によると、右認定には、次のとおり重大な事実の誤認がある(なお、原決定が右5に認定する事実は、次に述べる特殊警棒に関する部分を除いて、関係証拠によりこれを肯認することができる)。

1  被疑者がAに対し特殊警棒で応戦したことがあるかどうかについて

原決定認定の経緯で被疑者を助手席に同乗させてA車を追跡したタクシーの運転手であり、右タクシー内から本件けん銃発射前後の状況を目撃した戊田春夫の本件特殊警棒に関する供述の要旨は、次のとおりである。

(1) 司法警察員に対する昭和五九年四月二〇日付供述調書 右調書は本件発生当日の調書であるが、戊田が被疑者を同乗させた後に本件特殊警棒を見たことがあるかどうかの供述はなく、要するに、特殊警棒に関連する供述は欠落している。

(2) 弁護士下田泰に対する昭和五九年七月二日付供述録取書 被疑者は、私の車から飛び下りてA車の運転席のドアに駆け寄り、Aともみあっていたが、被疑者は、そのとき手には何も持っていなかったようであり、警棒は、私の車の助手席に置き忘れていた、被疑者がけん銃を発砲した後、撃たれたAの様子を見たりして、帰ろうと思っていると、女の客が乗車してきたので、現場を離れた、被疑者の警棒は客を乗せた後、再び現場へ戻ったとき渡した。

(3) 検察官に対する昭和五九年一一月五日付供述調書 A車を追跡中の車内で被疑者は、折れた木のような棒を持っていたが、これは被疑者が下車する時そのまま車内に置いていたので、下車してからは被疑者がどのようなものを持ってA車のところへ行ったかということは分からなかった。

なお、右供述以外には、本件特殊警棒に関連する供述はない。

(4) 原審の戊田春夫に対する証人尋問調書 被疑者は、私の車に乗ってくる時には、こん棒、棒というか、何か釣り竿、五〇センチメートル位の長さのビニールテープで巻いたような握るところがあるのを持っていたが、下車時にこれを私の横に忘れて行った。被疑者は、A車に駆け寄って行ったときには、手には何も持っていなかった。

以上のとおり、戊田は、被疑者が車内に警棒ないし警棒らしき物を忘れていった旨供述しているところ、右供述は、その具体的な供述内容、更には殊更虚偽を述べる理由も必要も認められない戊田の第三者的立場からして、その信用性に疑問を差し挟み難い。そして、戊田のいう右警棒ないし警棒らしき物は、すなわち本件特殊警棒そのものにほかならないと認められる(被疑者も、けん銃は別とすると、本件特殊警棒のみを持って戊田車に乗り込んだ旨一貫して供述している。)から、被疑者が特殊警棒を右手に持ってA車に駆け寄り、Aに対し右特殊警棒で応戦した事実は疑わしいものといわなければならない。

これに対し、被疑者は、当審における取調べ時をも含めて、一貫して原決定の認定に添う供述をしているが、右供述は、前記戊田の供述のほか、次のような諸点に照らして、信用し難い(なお、戊田春夫の検察官に対する昭和五九年一一月五日付供述調書には、前記のとおり、被疑者が戊田車内に特殊警棒を置き忘れてきたのではないかと疑わせるに足りる供述があるのに、この点について、検察官が被疑者に質した形跡は記録上窺われない)。

すなわち、被疑者が本件特殊警棒を使用してAの所持するナイフを叩き落とすためには、特殊警棒をある程度振り回すのが自然であると考えられるところ、A車の左斜め前方約三〇メートルの地点から、被疑者がA車に駆け寄ってけん銃を発射するまでの状況を目撃した甲山四郎の後記各供述によると、同人は、被疑者がA車の運転席ドア付近でくっついたり離れたりの動作を繰り返すのを目撃し、更には、途中で被疑者が右手にけん銃を握っているのが分かったというのであるから、被疑者が特殊警棒を振り回す動作を繰り返したのであれば、これが甲山の目にとまらないはずはないと考えられるのに、同人の各供述を検討しても、被疑者のそのような動作を見たとする供述部分はない。この点は、戊田についても同様であって、被疑者の右斜め後方約二メートルの位置に自車を停止させて運転席から被疑者の様子を目撃していた戊田としては、被疑者が特殊警棒を何度も振り回したのであれば、被疑者のそのような右腕の動きや特殊警棒の少なくとも一部が目に入ったはずであるのに、戊田はそのような供述をしていない。

また、本件特殊警棒は、鉄製三段式で、その長さは伸長時においても約四一センチメートルに過ぎないが、これで相手の手首等を叩くことができれば、その所持する凶器を取り落とさせることもできるものと認められるところ、被疑者の供述によると、被疑者はAが当初は開いた運転席の窓から、次いでドアと車体の間から繰り出す切出しナイフ(刃体の長さが約一二・六センチメートル)を特殊警棒で多数回にわたり叩き落とそうと試みたが、成功しなかったというのであるが、Aは、従前の現場とは異なり、行動の自由の制約された車内から、主として右腕の屈伸だけによってナイフを車外に繰り出す状況にあったというのであるから、車外にあって行動の自由のきく被疑者としては、Aが右のようにして車外にナイフを繰り出す瞬間を狙って、特殊警棒でその手首等を叩くのは必ずしも至難の業であったとは思えない。しかるに、被疑者の振り下ろした特殊警棒はAの手首等に一度もまともに当たらず、何度も空を切ったというのはいささか納得し難いところである。

2  Aが運転席側ドアを開けて右足を路面に下ろし、被疑者のけん銃発射の直前に、さらに右足を踏み出したことがあるかどうかについて

右1に認定した如く、特殊警棒を持ってA車に駆け寄り、これでAの突き出すナイフを叩き落とそうとしたが、功を奏しなかったという被疑者の供述が信用し難いとすると、特殊警棒に関連する供述以外の被疑者の供述部分、すなわち、Aが運転席側ドアを開けて右足を路面に下ろし、被疑者のけん銃発射の直前には、さらに右足を踏み出したとする点についても、その信用性に問題があるといわなければならないが、関係証拠によると、次のとおり、被疑者がけん銃を発射するまでに、Aが車外に右足を路面に下ろしたり、これを更に踏み出したりしたことには疑問がある。

前記戊田春夫は、被疑者がけん銃を発射した直後のAの様子について、「ブスというにぶい音が一回して、ドアの側に来ていたAが助手席背当てに寄りかかるようにして静かになった」(司法警察員に対する昭和五九年四月二〇日付供述調書)、「銃声のあと、私は、すぐ車外に出て、A車に駆け寄り、被疑者の横まで行くと、Aは、運転席の中で助手席の背もたれと運転席のそれとの間の段差のあるところに頭をもたせかけ、仰向けにぐたっとなっていた」(弁護士下田泰に対する昭和五九年七月二日付供述録取書)、「バーンと音が一回し、Aの頭が運転席の背もたれの方に寄りかかるようになって、鎮まったように見えた、Aがぐったりした後、私は車を移動させてA車の前に着けた」(検察官に対する昭和五九年一一月五日付供述調書)、「私は、パトカーが到着する前にA車のところへ行って、二メートル位のところからAを見ると、Aは、おとなしく椅子にもたれたような感じになっていた、A車の運転席側ドアが開いていたかどうかははっきり覚えていない」(原審の戊田春夫に対する証人尋問調書)旨それぞれ供述している。

甲山四郎は、前記のとおり、A車の左斜め前方約三〇メートルの地点から被疑者のけん銃発射の状況を目撃したものであるが、発射後のAの様子について、「バーンという大きな音がして、今まで激しく抵抗していたAは急にぐったりした様子になった、私は、けん銃の発射音を聞いて、その現場に近づいたが、しばらくして、パトカー、次いで救急車が来て、タクシーの中でぐったりしているAを車外に出した」(司法巡査に対する昭和五九年四月二二日付供述調書)、「けん銃発射後、私はA車の運転席のドア付近まで行って、車内を見ると、Aは、助手席側に寄りかかるような感じでぐったりとした状態であった」(司法警察員に対する昭和五九年五月八日付供述調書)、「けん銃発射後、私がA車のすぐ側まで近づくと、Aは、運転席シートに座って助手席の方へ傾いた状態であった。その両足は普通にシートに座った状態であり、片足が車の外に出ている状態ではなかった。パトカー、次いで救急車が到着し、Aは救急車の中に運び込まれた」(弁護士古賀康紀に対する昭和五九年七月六日付供述録取書)、「けん銃発射後、私のいた位置からはA車の運転席ドアが開いたかどうかまでは見えない」(昭和五九年一一月六日付検察官に対する供述調書 なお、同調書にはけん銃発射後、甲山はA車の側まで行った旨の供述はあるが、撃たれた後のAの様子、殊にAの右足が車外に出ていたかどうかに関しては供述がない)、「撃たれたAの足はドアの方に近かったが、足は出ていなかったと思う」(原審の証人尋問調書)旨それぞれ供述している。

更に、本件当日の午後六時二四分(けん銃発射は午後六時一五分)に現場に到着した三名の救急隊員のうちの一名である丁川五郎は、「現場に到着後、すぐタクシーの運転席側に行き、車内を見ると、頭を血だらけにした男(A)がぐったりした様子で頭を助手席側に傾けるようにしてもたれかかっているのが見えた、これは重傷だなと思いながら運転席のドアを開けて脈拍を見た、このときの運転席のドアは閉まっていたが、ガラスの窓は開いていた」(司法巡査に対する昭和五九年四月二四日付供述調書)旨供述し、当裁判所の証人尋問では、右丁川は、「現時点の記憶によると、A車に近づいたとき、運転席側のドアは開いていたと思う、Aは、上半身が助手席側に倒れており、下半身は両足とも運転席の方に入っていた」旨供述している。

右救急隊員のうちの一名である丙原六郎は、「刑事(被疑者)が立っているタクシーの運転席側を見ると、男(A)が運転席に乗っており、頭部を助手席の方に横たえたような状態で座席に座っていた」(司法巡査に対する昭和五九年四月二四日付供述調書)旨供述し、当裁判所の証人尋問では、右丙原は、「私が運転席に近づいた時点で既にドアは開いており、ドアがいつ開けられたかは分からない、Aは、助手席に倒れるような形になっていた、Aの下半身がどうなっていたかはっきり記憶にない」旨供述している。

右救急隊員のうちの一名である乙田七郎は、「車内の運転席には、顔面が血だらけになっている男の人(A)がぐったりともたれかかるようにして座り込んでいた」(司法巡査に対する昭和五九年四月二四日付供述調書)旨供述し、当裁判所の証人尋問では、右乙田は、「はっきりと覚えていないが、Aは助手席の方に倒れかかるようにしていたと思う、腰から下は運転席にあったと思う、Aの右足が車外に出ていたというような記憶は特にない」旨供述している。

以上によって明らかな如く、甲山、丁川、乙田は、けん銃で撃たれた直後のAの右足は、車内にあった旨それぞれ供述しているのであって、Aは、けん銃発射当時、車外に右足を踏み出すには至っていなかったものと認められる。

被疑者の一貫した供述によると、Aが運転席側ドアを開けて右足を車外の路面に下ろしたうえ、さらにこの右足を被疑者に向かって踏み出し上半身を車外に乗り出すようにして右手に持ったナイフを被疑者に対して突き出したので、被疑者がAの右肘関節部を狙ってけん銃を発射したところ、その瞬間、Aはドアをさらに開け、上半身を乗り出しひねるようにしてナイフを持つ右手を突き出しながら被疑者の方に更に接近したというのであるが、右のようなAの態勢及びけん銃発射によって受けた傷害の程度からすると、Aは、車外に崩れ落ちるのが通常の事態ではないかと思われる。しかるに、けん銃で撃たれた直後のAは、前記のとおり、助手席の方に倒れるか、もたれかかった状態であったという点で前記戊田らの右各供述は一致しているところであって、この点からしても、被疑者の右供述は信用し難いし、仮にAがけん銃で撃たれた衝撃で運転席に腰を落とすことがありうるとしても、踏み出していた右足までも車内に戻すということはおよそ考え難い。

なお、被疑者がけん銃を発射してAを逮捕した五分後の午後六時二〇分に現場に駆けつけた警察官であるOは、検察官に対する昭和六〇年一月二四日付供述調書において、「私がA車に近づいたとき、運転席側ドアが直角に近い位完全に開いており、被疑者が、運転席に座っている男(A)の右手首付近をしっかり握ったような状態で車外に立っていた、Aの右足については、私が被疑者とAの間に入り込むようにしてAの脈をみたりしていたとき、私の右足にAの体が触れていたので、車外に出ていたと考えます」旨供述しているが、Aの右足についてのOの右供述は、前記認定を左右するものではないと考える。

3  本件けん銃発射当時の状況について

右にみたところにより明らかな如く、被疑者は、特殊警棒を用いてAに応戦したことはないし、その過程でAが運転席側右足を車外の路面に下ろしたうえ、さらにこの右足を被疑者に向かって踏み出し上半身を車外に乗り出すようにして右手に持ったナイフを被疑者に対して突き出したということもないと認めるのが相当と思われる。

ところで、被疑者は、A車の運転席側ドアが閉じているか、ごく僅かしか開いていないという状況下で、運転席の窓越しにけん銃を発射したものであるのか、それとも、前記のとおり、Aが右足を車外の路面に下ろしたことはないとしても、被疑者のいうように、ドアはAによってある程度開かれていて、ドアと車体の間からAがナイフを繰り出す状況にあり、そのような状況下でけん銃を発射したものであるのかという点であるが、他に当時ドアがある程度開かれていたことを裏付けるに足りる証拠もないことからすると、ドアは開いていたとしてもごく僅かであったのではないかとの疑いもないではないが、他方、この点に関する戊田の前記各調書及び原審の昭和六三年七月一八日付検証調書によると、被疑者の右斜め後方に位置していた戊田からは、被疑者の身体によって視界が遮られてる形となり、ドアが大きく開かれた場合はともかく、その開き具合によっては、これを視認することが困難な状況にあったことが窺われ、警棒等を持たない警察官を相手に、Aが、ドアと車体の間から少なくともナイフを繰り出すことができる程度に、ドアを押し開けることは、容易に可能であったと思われる。

そこで、以上の諸点と関係証拠によって認められる事実を総合すると、本件けん銃発射当時の状況は、概略次のとおりであったと認められる。

被疑者は、その特殊警棒を助手席に置いたまま、停止直前の戊田車から飛び下りた。被疑者がA車の運転席ドア近くに駆け寄ると、Aは「貴様ぶっ殺すぞ。」と怒鳴りながら、右手に持った切出しナイフを、全開した窓越しに被疑者の胸部めがけて突き出したので、被疑者は少し退いてこれを避けた。被疑者は、交通頻繁な本件現場の状況、それまでの経緯及びAの行動等からして、Aが車外に逃走すると、一般市民にまで危害を加える危険性が高いと考え、Aのナイフを避けるようにしてドアのやや斜め後方に移動し、Aが開けかけたドアを右足で押し返したりした。これに対し、Aが相変わらず車内からドアを開けようとして押しながら、窓越しにナイフを繰り出すので、被疑者は、その都度、飛びのいたり前進したりを繰り返しながら、右足でドアを押さえつけたりしていた。未だに応援の到着もなく、このままでは、Aの逃走を防ぐことは困難と考えた被疑者は、右手で左脇下のホルスターから所携のけん銃を取り出し、Aに向けてこれを構え、大声で「抵抗するな。抵抗すると撃つぞ。刃物を捨てろ。」と数回にわたり警告した。しかし、Aはこれに応じる気配がなく、車外への逃亡を図ろうとして、押し開けたドアと車体の間からナイフを繰り出して抵抗するので、被疑者は右手にけん銃を構えたままAの動きに応じて後退、前進を何度か繰り返した後、運転席のAの右上腕部を狙って弾丸を一回発射した。右弾丸はAの右上腕部外側から貫通したうえ右脇下から胸部に貫入した。Aは右銃弾の左側胸部に達する盲管射創(胸部射創に基づく左肺、右肺及び肺動脈損傷による外傷性出血)により、救急車で病院に搬送される途中死亡した。

三  本件発射行為の正当性の有無について

1  Aが犯した罪は「凶悪な」罪に該当するか

警察官職務執行法七条但書一号によると、危害発生を伴う武器使用が許容されるためには、犯人が「死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁錮にあたる凶悪な罪を現に犯し、若しくは既に犯したと疑うに足りる充分な理由のある者」であることを要するが、Aが犯した罪は同号にいう凶悪な罪に該当するとした原決定の認定判断は、関係証拠によると、正当として肯認することができる。

2  けん銃使用の必要性の有無について

同号によると、危害発生を伴う武器使用が許容されるためには、犯人が「その者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し、若しくは逃亡しようとするとき……これを防ぎ、又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合」であることを要するが、被疑者の本件発射行為が警察官として犯人であるAの抵抗及び逃走を防ぎ同人を逮捕するためになした職務行為であったことは明らかであるから、本件において、けん銃を発射する以外に他に手段がないと被疑者において信ずるに足りる相当な理由があったといえるかどうかについて検討する。

原決定は、被疑者は、所携の特殊警棒を使用してAを制圧・逮捕しようとしたが功を奏せず、そのうちAがドアを押し開け、右足を車外の路面に下ろしたうえ、さらにこの右足を被疑者に向かって踏み出し上半身を車外に乗り出すようにして右手に持ったナイフを被疑者に対して突き出したという状況を前提として、本件発射行為の正当性を肯認したが、右前提事実自体が認められないことは前記のとおりである。

そこで、前記認定事実に基づいて検討するに、本件けん銃発射の直前、Aは車外への逃走を図ろうとしてドアと車体の間からナイフを被疑者に対して繰り出す状況にあったものの、その両足は依然として車内にあって、原決定のいうように車外に足を踏み出す態勢をとるなど差し迫った事態に立ち至ったというわけではないのであるから、被疑者としては、応援の速やかな到着については原決定説示のとおり悲観的に考えていたとしても、最早一刻も来援を待つことはできず、今直ちにけん銃を発射しなければAの制圧、逮捕が不可能もしくは著しく困難になるという緊迫した状況に立ち至ったということはできない。

しかも、被疑者は、前記のとおり、Aに対し、数回「抵抗すると撃つぞ」と警告をしたものの、威嚇射撃をしないまま、前記状況下で、けん銃を発射したものであるが、危害発生を伴う武器の使用を厳しく制限した法の趣旨及びけん銃の武器としての威力の程度からすると、相手の対応次第では、その身体に向けてのけん銃の発射という最後の手段を取ることを相手に予め感得させることによって、相手に危害を加えることなく、その抵抗、逃走を防ぐことを目的とする威嚇射撃は、それが時間的あるいは物理的な理由等によって不可能な場合はともかくとして、それが可能な場合には、必ず試みられるべきものであって、たとえ相手のそれまでの抵抗が激しく、かつ相手が口頭の警告を無視する態度を取ったとしても、現実に威嚇射撃を試みてみないことには、これに対して相手がどのような反応を示すか分からないわけであるから、威嚇射撃をしても相手がひるんだり抵抗をやめることはないと安易に推測して、これを省略することは許されないものといわなければならない。

これを本件についてみるに、関係証拠によると、被疑者がA車に駆け寄ってからけん銃を発射するまでの時間は約一分半から二分弱であり、被疑者がけん銃を取り出してから発射するまでの時間は、約三〇秒から一分前後であったと認められるから、被疑者としては、威嚇射撃をする時間的余裕は十分にあったし、上空、あるいは場合によっては車内後部に向けて威嚇射撃をすることは可能であったといわなければならないから、Aが本件現場に至るまで激しい抵抗を示し、本件現場においても、Aが被疑者の警告に応じようとする気配がなく、依然としてナイフを突き出していたという経緯があったにしても、そのことから、原決定がいうようにAがけん銃の威嚇射撃によってひるんだり被疑者の説得に応じるに至る状況にあったとは認められないとして、本件現場における威嚇射撃を省略することが許されるということはできない。

しかるに、被疑者は、威嚇射撃を一度も試みることなく、しかも、前記のように、最早一刻も来援を待つことはできず、今直ちにけん銃を発射しなければAの制圧、逮捕が不可能もしくは著しく困難になるという緊迫した状況に立ち至ったわけではないのに、いきなりAの右上腕部めがけてけん銃を発射しているものであって、これによると、けん銃を発射する以外に他に手段がないと被疑者において信ずるに足りる相当な理由があったということはできない。

のみならず、Aが所持していたのはナイフであり、被疑者が所持していたのはけん銃という武器の相違及び本件けん銃発射直前のAの抵抗の状況等に照らすと、本件発射時点よりも後の時点の発射によってAの制圧、逮捕が十分に可能であったのであり、しかも、そうすることの方がAの右上腕部を狙うことによって起こりうる身体枢要部への傷害を避けるうえで一層有効であったと考えられる。

すなわち、Aが狭い運転席から車外に下り立って抵抗ないし逃走の態勢を取るためには、まずAにおいて、車外の路面に足を下ろす動作が必要であって、そのことは被疑者としても容易に予測できたといわなければならない。従ってその場合、けん銃の腕前が上級の被疑者としては、一歩後退を余儀なくされることがあるとしても、至近距離にあるAの足を狙ってこれに弾丸を命中させ、同人を制圧、逮捕することは、ナイフを繰り出して絶えず動くAの右上腕部のみを狙う場合より一層容易であったはずであるし、Aの身体枢要部への起こりうる傷害を避けるうえでも一層有効であったと考えられる。この意味においても、本件けん銃発射当時、Aの右上腕部に向けてけん銃を発射する以外に他に手段がないと被疑者において信ずるに足りる相当な理由があったということはできない。

以上によると、本件発射行為は違法であり、特別公務員暴行陵虐致死の構成要件に該当する被疑者の本件所為は、その違法性を阻却されないといわなければならない。

第三  結論

以上の次第で、本件発射行為は正当な職務行為として罪とならないとした原決定には事実の誤認ひいては法令の適用の誤りがあり、被疑者は、特別公務員暴行陵虐致死罪の罪責を免れないといわなければならない。

そして、本件の罪質、態様及び被害者の死亡という被害結果、付審判制度の目的、その他諸般の事情を考慮すると、本件が凶悪な罪を犯した被害者を逮捕するに当たり敢行されたものであることを斟酌しても、本件は、裁判所の審判に付するのを相当とする事案と認められるから、原決定は取消を免れない(なお、本件請求が適法なものであることは原決定の説示するとおりである)。

よって、刑事訴訟法四二六条二項前段を適用して原決定を取り消し、同法四二六条二項後段、二六六条二号を適用して別紙記載の事件を福岡地方裁判所の審判に付することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 雑賀飛龍 裁判官 近江清勝 濱﨑裕)

<以下省略>

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