福岡高等裁判所 平成3年(う)138号 判決 1991年12月12日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役五月に処する。
この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
原審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人髙屋藤雄提出の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官中倉章良提出の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。
第一 事実誤認の主張について
弁護人はこの点の所論は、要するに、本件業務上過失傷害の事実につき、右は専ら被害者の高速かつ危険な運転行為により発生した事故であり、被告人には過失がなく、また、右事故にかかる被害者の救護義務違反については、被告人は当時被害者が負傷したということを未必的にも認識していなかったのであるから、いずれの事実についても無罪であるのに、これを有罪とした原判決は事実を誤認したものである、というのである。
そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調結果をも参酌して順次検討する。
一 業務上過失傷害について
関係各証拠によれば、本件事故の状況は概ね次のようなものである。
1 本件事故現場の道路状況は、東西に通じる通称「ミルク・ロード」とよばれる幅員6.2メートルのアスファルト舗装の町道と、南側に立ち並ぶ雑木林の間に設けられた幅員2.2メートルの未舗装の農道から熊本県菊池郡大津町平川に至る幅員四メートルの北側道路とが交わる交通整理がなされていない変形交差点であるところ、東西道路は路面にも交差点内にも黄色実線で中央線の表示がある優先道路で、最高速度四〇キロメートル毎時、追越しのための右側はみ出し禁止の各交通規制がなされ、現場付近は西方の大津町引水方面から、東方の同県阿蘇郡阿蘇町方面に向け一〇〇分の四の上り勾配となり右方へカーブしている。多くの立ち木や道路脇の雑草に妨げられ、いずれの道路を進行する車両からも交差道路左右に対する見通しはよくない。
2 被告人は、排気量五五〇ccの軽四輪貨物自動車(以下、「被告人車両」という。)を運転して、右交差点の南側の農道を北進し、東西道路を北側に向けて横断すべく、右農道出口付近に一時停止した。
3 被害者は排気量七五〇ccの自動二輪車(以下、「被害車両」という。)を運転し、東西道路上を西方から阿蘇方向に向け、自車線のほぼ中央よりの部分を時速約六五キロメートルの速度で走行直進してきた。
4 被告人は、農道の出口付近で一時停車後、まず左方の道路の状況を、次いで右方の道路の状況を見て、進行してくる車両のないことを確認した後、改めてもう一度左方から来る車両の有無を確認することなく直ちに発進し、およそ時速一〇ないし一五キロメートルの速度で東西道路を北側に向けて横断進行したが、5.1メートル進行した地点に至った際、左方6.7メートルの地点に直進してくる被害車両を初めて認め、衝突の危険を感じて制動したが間に合わず、一メートル先の地点で、同車の右ハンドル部と被害者の右手指及び右足部に自車の左前角部を衝突させ、更に4.8メートル進行した北側道路内で停車した。
5 他方、被害者は、前記のとおりミルクロードを阿蘇方面に向けて進行中自車進路前方に車道内に進出してきた被告人車両を進路右斜め前方38.9メートルの地点に認めたが、自車が優先道路を進行中であるため、被告人車両が途中一時停止し進路を譲ってくれるものと判断して、進路を左寄りに変えただけでそのままの速度で進行を続け、被告人車両との距離が13.5メートルまで近接したにもかかわらず被告人車両が一時停止する様子がなかったので、危険を感じ制動措置を採り、かつ車体を左方に傾けて被告人車両の前方を擦り抜けようとしたが及ばず前記のとおり衝突した。
以上認定した各事実によれば、被告人は、道路交通法三六条二・三項により、自車に優先する交差道路を進行してくる被害車両の進行を妨げてはならない義務があり、農道出口付近で一時停止後発進し、同交差点を進行するに際しては、左右道路上を進行してくる車両の有無並びにその運転状況等を十分に確認したうえで発進進行すべきであり、特に被害車両が進行してきた左方道路は、被告人車両の一時停止地点より見ると左方にカーブしやや下り勾配の形状になっているため、見通しが約44.3メートルとより悪い状況になっていたのであるから、このような交差点に進入する場合には、交差点の手前で一時停止し、左方の道路の状況を、次いで右方の道路の状況をそれぞれ見て進行してくる車両のないことを確認しても、右方を確認している間に、左方から交差点に接近してくる車両が見通し可能の範囲内に現れるとともに、その車の速度いかんによっては同車が交差点間近に近接していて、漫然自車を交差道路に進出させれば、これと衝突する危険が十分予測できるのであるから、事故の発生を回避するためには、一時停車後、左方、次いで右方の道路の状況を確認するだけでは足りず、改めてもう一度左方から接近してくる車両の有無を確認して進行を開始するとともに、左方から接近してくる車両があるときは、その動向に応じ、いつでも停止できるような速度と方法で運転すべき業務上の注意義務があるというべきである。しかるところ、被告人は、前記のとおり、一時停車後、左方、次いで右方の道路の状況を確認したのみで、接近して来る車両はないものと考え、改めてもう一度左方の道路の状況を確認せず、かつ発進後も左方への注意を怠ったがため、被害車両の接近を見落とし、本件事故が生じたのであって、この点に被告人の過失があったといわなければならない。
たしかに、弁護人指摘のとおり、被害車両も指定最高速度を約二五キロメートル超過した時速約六五キロメートルで進行していたことが認められ、この点が本件事故の一因をなしていることは否定できない。しかし、被害車両は、大型の自動二輪車で、六五キロメートルくらいのスピードでは車体の安定性を失うものではないことや、優先道路を走行する車両が法定速度を毎時二〇ないし三〇キロメートル程度超過した速度で進行してくる場合のあることは、現今の交通の実情に照らし、予測可能の範囲にあるというべきであり、被害車両の速度超過が直ちに被告人の過失を否定するものではない。
また、被害車両が道路中央寄りを進行していたことや前照灯を点火していなかったことは弁護人指摘のとおりであるが、これらの点も被告人の前記過失の存否に影響を与えるものではない。
してみれば、業務上過失傷害の成立を認めた原判決の判断に誤りはなく、論旨は理由がない。
二 救護義務違反の点について
関係各証拠によれば、本件事故の状況は次のようなものである。
1 本件において、被告人車両が被害車両に衝突した際の状況については、前記のとおりであるが、衝突の衝撃により、被害車両は右ハンドル部が曲がった上、同部に取り付けられていた金属製のブレーキ・レバーが根本から折損脱落し、被告人車両は、右被害車両のハンドル部に衝突した車体の左前角部が擦過凹損し、被害者は、被告人車両の車体に衝突した衝撃で、右足部に右脛骨骨折等の、右手部に右第五指末節骨開放骨折等の、加療約七か月余を要する重傷を負った。衝突後、被害車両は車体を左方に大きく突き出されたが、被害者はハンドル操作で車体を立て直し、辛うじて転倒するのを免れたものの、前記のとおり右ハンドルのブレーキ・レバーが折損し、かつ右足骨折のため制動停止できず、クラッチ操作で減速しつつ進行方向に走り、衝突地点から四二メートル東進した道路左側でようやく停止した。
2 被告人は右衝突地点から4.8メートル前方の交差点北側の道路内で一時停止し、運転席内から被害車両の進行方向を一瞥したが、同車が見えなかったことから、そのまま立ち去ったものと即断して、直ちに発進左折して大津町平川方向に向け約六〇メートル西進したホテル裏口辺りの路上で再度停止して自車の損傷状況を改めた後、そのまま被害車両の状況を再確認するでもなく立ち去った。
以上の事実によれば、被害者は、本件事故により、自分一人では歩行不能の傷害を負ったのであるから、被告人には道路交通法七二条一項により、被害者を救護する義務があるところ、弁護人は、被告人には当時未必的にも被害者が負傷したとの認識がなかったのだから、右義務は発生しない旨主張する。
しかしながら、関係各証拠によれば、被告人は、かなりの速度で進行してきた被害車両と自車が現に接触し、被害車両が左方に大きく突き出されたことを認識していること、被害車両の破損状況や被害者の負傷の程度からすると衝突時の衝撃は相当強かったと推認されること、被害車両は自動二輪車で身体が外部に出ているのだから、身体が直接被告人車両と接触した場合、負傷する蓋然性が極めて高いこと、被告人は帰宅後に妻に対し、被害者が負傷しているかもしれない旨話していることなどを総合すると被告人には、被害者が負傷したことにつき、少なくとも未必的には認識していたものと認められる。そして、負傷の認識については可能性の認識で足りるから、被告人には被害者を救護する義務が発生したというべきであり、この点の論旨は理由がない。
次に、弁護人は、被害者が衝突後も現場に転倒することなく、そのまま進行したことから、被告人としては、むしろ被害車両に当て逃げされたもの、すなわち救護の対象者が現場を離れたものと考え救護しなかった旨主張する。
道路交通法七二条一項前段は車両の交通による人の死傷又は物の損壊があった場合、被害者の救護並びに道路における危険を防止する等の必要な措置を採ることを義務付けているが、およそ、車両の交通によって人の死傷又は物の損壊を生じた場合、単に運転中の車両内から望見したのみでは被害者の救護の要否、及び道路における危険防止措置の要否を確認することは困難であり、一旦停車して子細にこれを調査しなければその要否の判明しない場合が極めて多いことに鑑みると、同条は、事故を起こし、未必的にしろ人に死傷を与えあるいは物の損壊があったことを認識した運転者に被害者の救護及び道路における危険防止の義務を尽くさせる前提として、必ず一旦停止して負傷者の有無、その救護の要否、或は道路における危険の存否を確認すべき義務を負わせたものと解するのが相当である。
そうすると、被告人は、衝突後、交差点を通過した地点で一時停止したが、自車内から被害車両の進路方向を一瞥しただけで、自車から降りて事故現場を確認しないまま現場を離れ、更に約六〇メートル西進した先のホテルの前の路上で停車して下車したものの、被告人車両の損傷状態を確認したのみであって、右義務を尽くしていないことは明らかである。
一方、被害者は、停止した自車から降り、3.4メートルほど衝突地点の方に後戻った左側道路脇辺りで、被告人車両がホテル前の路上に停止している状況を現認したが、その後路上に転倒し、一分足らずで再び立ち上がり、被告人車両の停止地点を再確認したところ、すでに同車の姿は視界内に見当たらなかったことが認められ、右被害者の現認地点から被告人車両の停止地点までの直線距離は、証拠によれば、約一〇〇メートルであり、被告人の右停止地点の側からも前記地点で路上に佇立している被害者の姿を容易に認め得た筈であるし、また、被告人が一旦停車後に降車して、事故地点まで戻り、被害者が進行していった方向を確認すれば、被害者を容易に発見し得たのであるから、被告人は救護に必要な措置を講じたということはできない。論旨は理由がない。
第二 量刑不当の主張について
弁護人のこの点の主張は要するに、被告人を懲役八月、二年間刑の執行猶予に処した原判決の量刑は不当に重いというのである。
そこで検討するに、本件は、被告人が軽四輪貨物自動車を運転して、狭い農道から優先道路を横断するにあたり、左方道路の安全確認を怠った過失により、左方道路から進行してきた自動二輪車に自車を接触させて、その運転車に加療約八か月を要する傷害を負わせたうえ、被害車両が立ち去ったものと軽信して、被害者を救護する等の必要な措置を講ぜず、かつ、事故を警察官に報告しなかったという事案であるところ、被告人は、運転者として基本的な注意義務に違反して本件事故を起こし、その結果も比較的大きいことを考慮すれば、被告人の刑責を軽視することはできない。
しかしながら、本件事故の発生については、被害者の法定速度違反という落ち度もその原因となっていることが認められるところ、救護義務違反及び報告義務違反については、前記のとおり、被告人が被害車両がそのまま走り去ったものと誤解し、救護及び報告を不要と考えた側面があり、いわゆる轢き逃げ事犯のような悪質な事案ということはできないうえ、被告人は、本件事故後、警察官から被害者が受傷していることを知らされるや直ちに病院に見舞いに行き、被害の弁償に努め、治療費や被害車両の修理代をはじめ自賠責保険の他に七〇万円を負担するなどしたため、公訴提起前に被害者と示談が成立し、被害者も宥恕していること、被告人は、前科がなく、十分反省していることなどの情状に照らすと、被告人を懲役八月、二年間刑の執行猶予に処した原判決の量刑は、重すぎるといわざるをえない。論旨は理由がある。
よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八一条により、原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所で更に判決する。
原審の認定した罪となるべき事実に法令を適用すると、被告人の原判示第一の所為は、行為時においては、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判決時においては、刑法二一一条前段に、原判示第二の所為中、救護義務違反の点は道路交通法一一七条、七二条一項前段に、報告義務違反の点は平成二年法律第七三号による改正前の道路交通法一一九条一項一〇号、七二条一項後段にそれぞれ該当するところ、原判示第一の罪については犯罪後の法令により刑の変更があったときにあたるから、刑法六条、一〇条により、軽い行為時法の刑で処断し、原判示第二の罪は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い救護義務違反罪の刑で処断することとし、各所定刑中、原判示第一の罪については禁錮刑を、原判示第二の罪については懲役刑をそれぞれ選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、重い判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で、被告人を懲役五月に処し、情状により、同法二五条一項を適用して、この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予し、原審における訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により、被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官前田一昭 裁判官川﨑貞夫 裁判官長谷川憲一)