福岡高等裁判所 平成5年(う)314号 判決
所論は,要するに,原判決は,被告人がUと共謀のうえ,被告人が健康保険適用事業所であるD産業株式会社に使用された事実がなく,健康保険被保険者資格がないのに,同社に使用されて被保険者資格を取得した旨虚偽の記載をした被保険者資格取得届をK社会保険事務所係員に提出して被保険者証の交付を申請してこれを騙取した旨認定したが,詐欺罪の保護法益は,被害者の財産的保護につきるものであるところ,被告人の本件行為は,社会保険事業という国家の一定の政策ないし統制という国家的法益を侵害したものにすぎないから,詐欺罪には当たらず,単に健康保険法87条1号の「事業主故なくその使用する者の異動に関し虚偽の報告をなしたとき」に該当するに止まるものというべきであり,原判決には判決に影響を及ぼす法令の適用の誤りがあるというのである。
しかしながら,欺罔行為によって国家的法益を侵害する場合であっても,それが同時に,詐欺罪の保護法益である財産権を侵害するものである以上,当該行政刑罰法規が特別法として詐欺罪の適用を排除する趣旨のものと認められない限り,詐欺罪の成立を認めるべきである(最高裁判所昭和51年4月1日第一小法廷決定,刑集30巻3号425頁参照)。すなわち,三食者外食券,家庭用主食購入通帳,硝子配給割当証明書のように国家的法益のため公的機関が発付する証書類であっても,当該証書が何らかの財産的利益に結び付いており,取得者に財産上の利益をもたらすものについては,これを騙取した場合詐欺罪が成立するものと解されている(最高裁判所昭和24年5月7日第二小法廷判決,刑集3巻6号706頁,最高裁判所昭和24年11月17日第一小法廷判決,刑集3巻11号1808頁,最高裁判所昭和25年6月1日第一小法廷判決,刑集4巻6号909頁各参照)。
これを本件についてみるに,被保険者証は,被保険者が保険者(政府及び健康保険組合)から健康保険法に基づく療養の給付という経済的利益を受けるために,保険医療機関に提示する必要のあるものであり,これによって被保険者として医療費の負担を一部免じられるなどの経済的利益を享受することができるものであって,それ自体が社会生活上重要な経済的価値効用を有しているのであるから,単なる事実の証明文書とは異なり,詐欺罪の客体となる財物と評価すべきである。
そこで,前記健康保険法87条1号の「事業主が故なく,其の使用する者の異動又は報酬に関し…・虚偽の報告を為したるとき」という規定(以下,「本件規定」という。)が詐欺罪の適用を排除する特別法と評価できるかどうかにつき検討を加える。
本件規定の文言自体によっては,これが欺罔手段による被保険者証の受交付の所為をも処罰する趣旨にでたものとはにわかに解し難い。すなわち,例えば食糧緊急措置令10条が,その前段で「主要食糧の配給に関し不実の申告を為したる者」を処罰するほかに,後段で「不正の手段により主要食糧の配給を受けたる者」についても処罰する旨明記している如く,法は通常,処罰対象者の範囲に関し明確な規定を設けているのであるから(もっとも,同措置令10条には,「刑法に正条がある場合は刑法による」との規定があるため,「不正の手段」が詐欺罪の欺罔行為に当たる場合には詐欺罪で処罰されることとなる),健康保険法においても,「不正の手段により被保険者証の交付を受けたる者」を処罰対象者とする趣旨であれば,その旨明文の規定を設けて然るべきであるのに,そのような規定を一切設けていない。そうすると,同法は本件のように欺罔手段によって被保険者証の交付を受けた場合については,刑法246条1項によって処罰することを予定しているものというべきである。もっとも,刑法157条2項は,免状等の資格証明書が当該名義人において下付を受けて所持しなければ効用のないものであることに徴し,公務員に対し虚偽の申立をなし免状等に不実の記載をさせるだけで構成要件を充足すると同時に,その性質上不実記載された免状等の下付を受ける事実をも当然に包含するものと解されている(最高裁判所昭和27年12月25日第一小法廷判決,刑集6巻12号1387頁参照)。しかし,免状等の不正取得者の場合は,欺罔行為により一定の資格等につき官庁の証明を受けたに過ぎず,詐欺罪の客体となると評価しうる財産的利益は得ていないというべきであるから,それ自体が社会的に経済的利益を有する健康保険被保険者証と同一に考えるべきではない。また,本件規定の立法目的は,その文言に徴し,健康保険事業の円滑適正化を図るため事業主に課せられた報告義務(健康保険法8条)を実行あらしめるための処罰規定に過ぎないと解されるから,処罰の対象者が事業主に限られるのは勿論のこと,被保険者証の不正取得をも包含して処罰対象としたものとは解し難い。
加えて,欺罔手段を用いて市町村の係員から国民健康保険被保険者証の交付を受けた場合については,国民健康保険法に特段の罰則規定が存しないから,刑法の詐欺罪が適用され,懲役10年以下の刑で処断されるものと解するほかないのに対し,一方,社会保険については,欺罔手段を用いて不正に被保険者証を取得した場合であっても,本件規定が適用されて懲役6月以下又は罰金20万円以下の刑で処断されるに過ぎないものとすれば,違法性に実質上差異のない犯罪について,処罰に著しい差が生じることとなり,甚だしい不均衡を招く結果となる。
以上によれば,結局,健康保険法87条1号の規定は,本件のような場合,事業主が非従業員を従業員と偽る虚偽の届出をすることを処罰対象とするに止まるものであって,その者の名義の被保険者証を不正に取得する場合までも処罰対象に包含する趣旨の規定ではないと解するのが相当である。論旨は理由がない。