福岡高等裁判所 平成8年(ラ)82号 決定 1996年8月15日
抗告人(被告)
熊本整形外科病院こと
丸田意気夫
右訴訟代理人弁護士
川野次郎
被抗告人(原告)
立山孝司
同
立山ナツエ
被抗告人ら訴訟代理人弁護士
西清次郎
同
江越和信
同
奥村惠一郎
主文
原決定を取り消す。
被抗告人らの文書提出命令の申立てを却下する。
抗告費用は被抗告人らの負担とする。
理由
一 抗告の趣旨及び理由
抗告人は主文同旨の決定を求め、抗告の理由として別紙のとおり主張する。
二 判断
1 被抗告人らの本件文書提出命令の申立ての理由の要旨は、被抗告人立山孝司は、抗告人経営の熊本整形外科病院(以下「抗告人病院」という。)において、昭和六三年三月一一日、第六、第七頸椎の前方固定手術(以下「本件手術」という。)を受けたが、同手術前の同月八日に抗告人病院が被抗告人立山孝司に対して行った心電図検査で被抗告人立山孝司には異常が発見されており、抗告人病院は本件手術を行うべきでなかったという事実を立証するために、抗告人病院が被抗告人立山孝司について同日に実施した心電図検査記録(以下「本件文書」という。)が必要であるところ、同文書は民事訴訟法三一二条一号、三号に該当し、抗告人病院が提出義務を負う文書であるから、その提出命令を求めるというものであり、これに対し、抗告人病院は本件文書は紛失し、存在しない旨主張している。
2 ところで、文書提出命令は提出義務を負担する文書の所持者に対してその提出を命ずべきものとされていること(同法三一二条、三一四条一項)、それ故、文書提出命令の申立てにあたっても文書の所持者を明らかにすることを要するとされていること(同法三一三条三号)等に照らすと、相手方が当該文書の所持を争う場合においては、申立人においてこれを立証すべきであると解するのが相当である。そして、同法三一三条三号によって明らかにすることを要する「文書の所持者」としては、単に文書の所持者が誰かを示すことをもっては足りず、「その者の手に当該文書が存在することを推測すべき事情」「その所持の事情」をも含むものと解すべきである。もっとも、文書提出命令の申立人としては、文書が現在相手方の所持にあることを直接立証することは困難であるから、申立てにあたっては、相手方が文書を所持するに至った事情を立証すれば足り、そして、現在の所持を争う相手方は、その後における紛失について反証を挙げなければならないと解すべきである。反証がなければ一般的には現在の所持を推認されることになる。反証の程度は当該文書の種類、内容及び重要性等によって異なってくるであろうが、特に重要な文書であれば通常特段の事情がない限り保存しているものと考えられるから、紛失の事実について有力な反証が提出されない限り現在の所持を認められることになるであろう。しかし、このように考えることは、文書の不所持についての立証責任を相手方に負担させるという趣旨を意味するものではないから、文書の不所持を主張する者が真摯で高度な穿鑿、調査を尽くしてもなお文書の発見に至らず、その紛失の経過について合理的な説明がなされた場合には、結局文書の所持の立証が認められないとして、文書提出命令の申立は排斥を免れない。加えて、文書の所持の証明の程度も、提出命令不遵守の効果が極めて大きいこと(同法三一六条)にかんがみると、当該文書が相手方の占有に存することの心証(確信)を得る程度に至る必要があるというべきである。ひるがえって、考えてみるに、以上の判断は、本来文書提出命令は、文書の存在していることを前提として出されるものであり、その不存在の可能性を予定しての提出命令というものは考えられないことに照らしても、明らかであるというべきである。
3 本件文書は、昭和六三年三月八日、抗告人病院において作成、保管されていたことは、抗告人の自認するところである。抗告人は、被抗告人立山孝司の診療録一切は、同月一四日、同人が熊本リハビリテーション病院で治療を受けた際、抗告人病院から熊本リハビリテーション病院に送付され、同病院での治療が終わった後再び抗告人病院に返還されており、右送付又は返還の際に紛失したか、または、同月末頃、抗告人病院が旧病院から新病院に移転した際に紛失したか、いずれかの原因により、抗告人は本件文書を紛失し、現在所持していない旨主張し、これに沿う抗告人病院研究部部長本田五男作成の報告書も提出している。なるほど、原審が指摘するように、他病院への送付、抗告人病院への返還の際や新病院への移転の際に本件文書だけが離脱することは考え難いといえないこともなく、また、診療録は、病院の管理者に五年間の保存義務が課せられている重要な文書であるから、その取扱いは慎重になされており、殊に他病院から送付されてきた診療録については一層慎重な取扱いがなされるから、被抗告人立山孝司が熊本リハビリテーション病院で治療を受けた際に、同病院の医師が本件文書を閲覧したとしても、診療録中の封筒に戻し忘れるという事態も考え難いといえないこともないし、被抗告人らが本件文書をもって抗告人の過失の立証に関わる文書としてこれを重視していることも明らかである。
しかし、本件文書の管理方法は開封した状態の封筒に入れて、封筒ののりしろの部分の左右二箇所を診療録にホッチキスで止めていただけというのであるから、診療の際等の取扱い次第によっては、封筒のホッチキスがはずれてしまうことも考えられないことではなく、或いは、抗告人病院が昭和六三年三月末頃旧病院から新病院に移転する際の混乱でホッチキスがはずれて紛失したことも考えられないではない。また、抗告人病院が本件手術後の同月一四日に実施した心電図検査記録には、被抗告人立山孝司の心臓の異常を疑わせる記載があり、抗告人病院作成の手術前チェックリストには、抗告人病院が同月八日に被抗告人立山孝司に対して心電図検査を実施したことが記載されており、抗告人はこれらを含む一切の医療関係資料を証拠として提出しているのであるから、抗告人が本件文書だけを敢えて隠匿していると疑うべき事情も見出し難いというべきである。更に、抗告人は丹念に捜索したが本件文書を発見するに至らなかったとも述べている。これらを総合すると、本件文書は紛失し、現在これを所持していない旨の抗告人の反証も、たやすくこれを否定し去ることはできないというべきであり、結局、抗告人が現在本件文書を所持しているとの心証(確信)を得るには至らない。
そうすると、被抗告人らの文書提出命令の申立ては失当として却下を免れない。原審は、文書提出命令の申立てにおける文書所持の立証責任の所在についての認識において、当審といささか理解を異にしたために、これと異なる判断をするに至ったというほかない。
4 よって、原決定は不当であるからこれを取り消し、被抗告人らの本件文書提出命令の申立てを却下し、抗告費用の負担につき民事訴訟法四一四条、九五条、九三条、八九条を適用して、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官田中貞和 裁判官宮良允通 裁判官西謙二)
(別紙)
抗告の理由
一 熊本地方裁判所は、右決定の理由において
しかしながら、本件文書は診療録にホッチキスで止められた封筒に挿入されて保管されていることが認められているところ(乙第二号証の一)、その編綴状態に照らせば、他病院への送付や新病院への移転の際にことさら本件文書だけが診療録の封筒から離脱することは考え難い。また、診療録は、診療をした医師の勤務する病院の管理者に五年間保存すべき義務が課せられている上に(医師法二四条二項)、医師あるいは医療に従事する者にとっては極めて重要なものであるから、その取扱いは慎重になされており、殊に他病院から送付されてきた診療録についてはその取扱いは一層慎重になされるとみるのが相当である。
原告が熊本リハビリセンター病院で治療を受けた際に、同病院の医師が本件文書を閲覧したとしても、診療録中の封筒に戻し忘れるという事態も考えがたいことである。加えて、被告が本件手術後の昭和六三年三月一四日に原告孝司に対して実施した心電図検査の結果(乙第二号証の一の52〜55丁)には、「洞性徐脈」「左室肥大の疑い」「不整脈誘導」「医師の確認を要す」と原告孝司の心臓の異常を疑わせる内容の記載があり、同月八日に行われた心電図検査の結果が記載された本件文書は、被告の過失の立証に極めて重要な文書であることに照らすと、被告においてこれを隠匿している可能性も否定し得ない。してみると、いまだ本件文書が紛失したと認めるに足りないといわざるを得ない
としている(原審認定の「不整脈誘導」は、心電図所見には当たらない)。
二 しかし、右認定理由は、全く事実を誤認している。
1 本件心電図記録紙は、原審が認定したとおり、封筒に入れて、それを診療録にホッチキスで止めてあるものであるが
その編綴方法は、右「報告書」の写真にあるとおり、心電図を入れた封筒を開封した状態で、封筒ののりしろのところ左右二ケ所をホッチキスで止めているのである(熊本整形外科病院研究部部長本田五男が平成六年六月七日に作成した作成「報告書」の写真)。
これは、封筒から心電図を取り出す際に、取り出しやすいように、このような止め方をしているのである。
2 本件心電図記録紙を封筒に入れた場合、その重さはかなりのものになり、診療録に封筒ののりしろの部分二ケ所で単にホッチキスで止めていれば、診療等の際に、その封筒から何度も心電図を取り出している筈であるから、その取扱い次第では、封筒のホッチキスが外れてしまうことがあることは、当然考えられることである。
或いは、熊本整形外科病院が昭和六三年三月末頃、旧病院から新病院へ移転した際の移転の混乱で、ホッチキスが外れて紛失したとも考えられる。
3 原審認定のとおり、本件訴訟において、被告は、書証として、本件手術後の昭和六三年三月一四日に原告孝司に対して実施した心電図検査の結果を提出しているが(乙第二号証の一の52〜55丁)、この心電図は、原告孝司が本件手術後に脳梗塞を起こした後の心電図の結果であり、その心電図の状態は最も悪い状態のものであることが明らかである。
逆に言えば、本件手術前の三月八日に行われた心電図の結果は、本件手術後の同月一四日の心電図の結果より良好な状態になったと言えるから、被告が三月一四日の心電図を出しながら、それより、良い心電図所見の三月八日の心電図記録紙を隠さねばならないメリットは全く無い。
4 本件心電図記録紙が紛失したことは、一九九四年二月一七日付「釈明書」で述べたように
本件心電図記録紙は、熊本整形外科病院で丹念に捜索したが、見当たらないから
熊本整形外科病院が昭和六三年三月末頃、旧病院から新病院へ移転した際の移転の混乱で紛失したものか、或いは、原告立山孝司の「診療録」一切は、原告立山孝司が熊本リハビリテーション病院での治療を受けた時に同病院へ送付され、原告の同病院での治療が終わってから、再び熊本整形外科病院へ返還されているから、その送付又は返還の際に紛失したものと考えられる。
5 このように、被告は、真実、本件心電図記録紙を紛失しているのであるから、被告が本件心電図記録紙を紛失したと認めるには足りないとする原審の認定は、事実を誤認しており、本決定は不当であって、取り消されるべきである。