福岡高等裁判所 昭和27年(う)269号 判決 1952年12月25日
控訴人 被告人 佐々木義親
弁護人 山中大吉
検察官 宮井親造関与
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
弁護人山中大吉の控訴趣意は記録に編綴されている同弁護人提出の控訴趣意書記載のとおりであるからこれを引用する。
同控訴趣意について、
原判決によると、原審は起訴状記載の公訴事実を引用して「被告人は、熊本電気鉄道株式会社に雇われて、車掌監督兼助役竝びに車掌としての業務に従事中のものであるが、昭和二十五年七月五日第十列車(二輛連結)の後尾車掌として乗車し、同日午前六時三十二分隈府駅を発車し、熊本終点に向う途中、同日午前七時二分頃、菊池郡高江駅を発車したものであるが、その際、川口学(五十七才)が後尾車輛の後部乗車口から、同電車に乗車すべく、同乗降口の扉の側にある金棒に手をかけ、片足を乗降台に踏みかけて来たが、同駅は右電車の進行方向に向つて、順次に第二ホーム、第一ホームの設備があり、右第一ホームと電車側面との間隔は、約五寸位にして、乗客が完全に乗車しないまゝ電車が進行すれば、乗客は右第一ホームと電車側面とに挾まれる等の危険があるので、斯る場合は危険防止上完全に乗車しない乗客を車内に引上げて完全に乗車せしむるか、又は急停車の信号を為す等事故万全の防止を期せねばならない業務上の注意義務があるに拘らず、不注意にも之を怠つた為、右川口学をして、同駅第一ホームと電車側面とに身体を挾めしめて、同人を第一ホームと電車との間に転落させ、因つて同人に下腹部圧窄膀胱破裂傷害を与え、同月五日午後三時三十分頃菊池郡泗水村大字福之本一三四七番地において腸腔内出血により死亡するに至らしめたものである」との全く公訴事実と同一の事実を認定して、その証拠をあげ、しかもそのうち措信した証拠によつて距離関係につき「一、本件電車の停車していた位置からみて、後部車輛の後部昇降口は、第二ホームの西端から約十米、第一ホームの西端(本件被害発生地)から約十九米離れていた、二、被害者川口学が右昇降口に乗りかけた地点は、発車してから約三米位進行した地点であつて、同地点は、第二ホームの西端から、約七米、第一ホームの西端から約十六米離れていた、三、被告人が「ストツプ、ストツプ」と発声した地点は、第二ホームを通過した直後であり、従つて、発車後十四米位、被害者が乗りかけてから十一米位進行した地点である。四、前部車輛の車掌が急停車信号をしてから本件電車が停車するに要した距離は、約五米であつた」との趣旨の認定をなし更に、右のような距離関係と発車後第一ホーム迄の電車の速度が大人が歩行して追つく程度の速度であつた事情とを綜合して考えるときは「被害者が乗りかけてから第一ホーム西端に衝突する迄の約十六米の距離は、被害者が電車に乗りかけている姿を発見後、被告人において、直ちに本件電車を急停車させる為の連絡の努力をすれば、十分これを停車せしめ得る距離であつたというべきである」と説示し。川口学が本件電車に飛び乗ろうとした姿を発見した際、直ちに急停車させる為の信号をしなかつたことに過失を認めて、被告人を業務上過失致死罪に問擬処断して、有罪の言渡をしていることが明らかである。
案ずるに、郊外を専用軌道により高速度で運転される電車に乗務する車掌は、停車駅で発車の合図をなし、電車が発車して進行を始めた直後、電車の乗降台に足をかけて、飛びのろうとする乗客がある場合には、まずこれを制止して下車を命じ、その者の挙動に細心の注意を払い、到底これを肯んじないで下車しそうにもないことを一瞬見極めた上、初めて急停車の信号をして、車体外にぶら下つている乗客の生命身体に生ずることあるべき危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意業務があるものと解するのが相当である。この点に関して原判決が、発車後、車掌において進行中の電車に乗りかけている乗客の姿を発見したときは、直ちに電車を急停車させるための連絡の努力をなすべき業務上の注意義務があるものと認定しているのは、郊外電車が通常専用軌道により高速度で運転されており、しかも正確なダイヤにより、正時の発着を期して運行されている電車運転上の特質を看過した社会通念に反する解釈に基ずくもので明らかに経験則違背の違法があるものといわねばならない。
今、原判決のあげている証拠によると、判示高江駅構内には長さ六米二十糎の第一ホームの西方に約五米を隔てて長さ約四米の第二ホームがあつて、本件熊本行きの二輛連結の電車が停車した場合、前車の前部及び後部の各乗降口は、右第一、第二の各ホームに接着していて容易に乗降できるが、後車の前部乗降口は、第二ホームを相離れるので、第二ホームの西端から斜に、空間をまたいて辛うして乗降し得るにすぎず、後車の後部乗降口は、全然ホームを利用し得られないし、しかも電車の床は地上から約一米五糎の高さにあるため強いて乗車しようとすればまず、両手で一米四十二糎の高さにある乗降口の「とり手」をつかみ、片足を、通常乗務員専用の乗降口の真下にある地上からの高さ六十糎の「足かけ」にかけて力を入れ、はずみをつけて腰をあげ、地上の足を車内に踏み入れなければならないので、その乗車は停車中通常人でも少々時間を要する状況に在つたこと、判示日時、判示高江駅で前認定のような状態で停車していた二輛連結の本件電車がその後尾車掌として乗務していた被告人の客の乗降の終つたのを見極めてした前車の本務車掌中島智博に対する発車オーライの合図によつて間もなく発車し、進行を始めたところ、発車後三米の地点で、急拠女学生の川口節子(被害者の娘)が被告人の立つていた後車の後部乗降口からカバンと傘を車内に投げ込み、乗降口の両端にある「とり手」を捕えてその電車に飛びのろうとしたので、発車後、六米三十五糎の地点で、被告人は同人を右手で車内に引上げて元いた車掌の位置に戻つたが、そのとき、更に、被害者の川口学(当時五十七年)が右「とり手」を捉えて電車の進行に合わせて走りながら足を前記「足かけ」にのせて、電車に飛びのろうとしてきたので、これを見た被告人は「危い、危い降りよ」と声をかけて下車を命じたが同人は制止をきかないで、下車しようともせず、又電車の速度も増してきたし、同人が未だすぐ車上に上れる状態になかつたことのために、(そのとき被告人において、川口学を車内に引き上げ得ない状況に在つた)更に続けて、下車を命ずるうち、車体外にぶらさがつている同人の身体の危険を感じて、第二ホームを通過する頃すなわち、第一ホームの西端から約六米三十糎前方の地点で、前車の本務車掌中島智博に大声で、急停車の合図をしたが、遂に及ばず、右川口学は第一ホームの西端附近に身体を衝突させて、手を「とり手」からはなして、地上に転落した事実を認めることができる。(原判決において、本件電車の発車後、約三米の地点において、被害者川口学がその電車に飛びのろうとして来た旨認定しているのは、事実を誤認していることが明らかである。)
ところで、当審における検証の結果によると、本件二輛連結の電車の事故発生当時の停車位置から当時の状況に従い、その電車を発車させ、後車の後部乗降口が、第二ホームの西端にかかつたとき、当時と同様に後車の後部にいる車掌から前車の後部にいる本務車掌に口頭連絡による急停車の合図をし、更に同車掌から運転手に信号によつて連絡する方法(後尾車掌から運転手には、この方法による外、直接に連絡する設備はない)によつて、電車を停車させたところ、同電車は、十米十三糎進行して後車の後部乗降口は、第一ホームの西端から、東方に一米十三糎の地点で停車し、若し右の場合、後車の後部乗降口の車体外に人体がぶら下つておれば、その身体はどうしても第一ホームの西端に衝突することが認められるので、尠くとも、右第一ホームの西端から十米十三糎前方すなわち、第二ホームの西端から西方一米十三糎の地点において、急停車の措置を講じない限り、本件事故の発生は、到底不可避の状態にあつたことが明らかであるから、本件事故の発生を未然に回避し得たであろうためには本件電車が、発車後被害者の川口学が飛びのろうとした約六米三十五糎前進した地点から、第二ホーム西端の西方一米十三糎の地点に差しかゝる迄の間、すなわち後車の後部乗降口から第二ホームの西端迄の距離約十米から、六米三十五糎に一米十三糎を加えた七米四十八糎を控除した約二米五十二糎位の距離を、しかも加速度的に進行する時間内に、前掲乗務車掌として、通常負担する注意義務の内容たる具体的措置を遂行しなければならなかつたものということができる。
ところが、本件記録を調べても、右のとおり本件電車が発車後六米三十五糎前進した地点から、更に約二米五十二糎位の距離を加速度的に進行する時間内に、被告人において業務上注意義務の履行として、急停車の措置を講ずべき前提たる川口学が同電車に飛びのろうとするのを制止し、その下車を肯んじないことを見極めたという事実、若しくは、それを見極め得たであろうという事実を認めるに足りる証拠は、毫もこれを発見することができないので、本件事故の発生について被告人に業務上注意義務の懈怠があつたものということはできない。
してみれば原判決が、被告人は被害者川口学が進行中の本件電車に飛びのろうとした姿を発見したとき直ちに、急停車の措置を講ずべき業務上の注意義務があるのに、これを怠つたために、本件事故の発生を見るに至つたもので、川口学の死亡は被告人の業務上の過失に基因するものと認定したのは、経験則に違背して、被告人が本件電車の車掌として遵守すべき業務上の注意義務の解釈を誤つた結果、事実を誤認するに至つたものでその誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は、刑事訴訟法第三百九十七条、第三百八十二条に則り破棄を免がれない。論旨は理由がある。
そして、当裁判所は本件記録及び原審竝びに当審において取り調べた証拠によつて、直ちに判決をすることができるものと認めるので、原判決を破棄した上刑事訴訟法第四百条但書に従い。更に判決をすることとする。
本件公訴事実は、冒頭摘示のとおりであるが、本件事故が被告人の業務上の注意義務の懈怠に起因するものと断ずべき証拠が存しないため、結局本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法第三百三十六条第四百四条に則り、被告人に対して、無罪の言渡をなすこととする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 西岡稔 裁判官 後藤師郎 裁判官 大曲壮次郎)
弁護人山中大吉の控訴趣意
死亡者川口学殿の災厄に対しては同情の念禁じ能はず被告人に過失ありとせば原審判決罰金三千円は寛大にしてこれをお請すべきなれ共被告人の職業上過失致死の罪は生涯の黒星となり且つ此の種一般職業者に及ぼす処も大にして左記事由あるものなれば無罪の御判決賜り度く控訴致した次第であります。
一、原審判決の事実摘示は起訴状を援用し起訴状には被告人が引上げて完全乗車か急停車信号をすべきを、しなかつた責任を問ふていることになる。而してその証拠として、一、被告人の公判廷供述 一、被告人の検察事務官に対する一、二回供述調書 一、証人川口節子の証人訊問調書 一、前田政則、中島智博公判供述調書 一、前田政則の検察事務官に対する供述調書 一、中島智博の司法警察官に対する供述調書 一、検証調書 一、医師甲斐隆作変傷届と題する書面 を採つて以て有罪判決の証拠として居る。然れ共其の何れの(医師変傷届以外)証拠によるも被告人が車掌として機宜の措置を構じたこととなつて居るに拘らずこれを有罪の資にしたことは最適の措置を無視した社会通念に反する非妥当性がある。
二、亡川口学は電気鉄道規則に違反して電車発車後改札口を通過せず外部から構内に入り電車は発車信号を終り進行中に乗車せんとしたことは司法警察官作成実況検分書(一九丁)に「七米進行して無理に乗車せんとした」(二四丁)川口節子第一回供述調書中亡川口学が「ラヂオ屋の前でもう間に合はんから次の電車に乗ろう」(二八丁)と称した事実川口ヨシ子の供述調書中亡川口学が「節子があんまりぐずぐずするので乗れなかつた。右の拇指をけがしてゐるのと靴がすべるのでどうしてもいけなかつた俺が不注意で皆んなに色々手数をかけて済まない」(二三丁)と言つてその後死亡した事実被告人の公判廷における供述と綜合して明かである。即ち亡川口学の乗車そのものに違法があり過失がある。
三、勿論斯る違反者と雖も人命に関する重大な場合最善の注意義務があることは否定しないが先づ最善にして自然の方法はこれを制止すべきことであつてこれに応じない場合急停車信号すべきで引上げること或は急停車すべきことが常に最善の措置とは言へない。その状況によるべきである。川口節子が飛乗りしたときは被告人は引上げてゐる。これは原審判決が指示するが如く発車直後の第一ホームの電車の速度は大人が歩行して追つく程度であつたから可能であつたが加速度の電車に亡川口学の場合節子の場合と同様可能とは断定できない。如何となれば、運動神経の鋭敏な学生の節子は引上げても乗車可能な状態の重心で乗つたが故に引上げ可能で亡川口学の場合は前述靴がすべつたこと拇指の怪我等にて未だステツプに完全に乗りきらず重心は引上げ不可能な状態にあつたと判断しなければならない。此の場合被告人を支える何物かがあれば或は可能なるべきもスピードは出て居る場合被告人の身体を外部にのり出させて引上ぐれば被告人自身車外に投げ出される危険があることは(六一丁)理の当然といわなければならない。而して其の引上げの可能なりや否やは経験を通じ或は経験なくても状況の目撃により判断し得らるるものである。被告人は被疑者第二回供述調書に於て「注意が足らず不親切であつた」との供述をして居るが現実を無視した非任意の供述であり第一回公判に於て不同意した証拠である。
四、然らば斯る場合最善の措置は亡川口学自らに可能の措置を採らしむべきであり之れが実行は可能であり最も安全な措置と言はねばならぬ。さればこそ被告人は手振りをして手を車体から放さしむべく「危い危い」と制止したことは最善の措置と言ねばならぬ。これに応じなかつたことは気の毒ながら死亡者自ら招いた災難と言はねばならぬ。被告人がこの措置を採つたことは第一回被疑者供述調書(四六丁)及び検証調書中「最善の策として被害者に対して車の取手より手を放すように大声で何べんも命じた(六一丁)とあり並びに第二回公判調書(九五丁)により明かである。
五、然るに亡川口学は通勤の時間の関係か被告人の制止に応ぜず依て危機を前に被告人は遂に第二の手段である「ストツプ」信号を為し急停車の措置を採つたが信号が口頭信号の伝達であり而かも二輛連結の後部の出来事故事故発生に至つたことは遺憾千万であるが此の事が時機に遅れた不適法な措置とは決して言ひ得ないのである。亡川口学が俺が不注意であつたとの述懐は恐らく発車後の無理な乗車を試みたことと此の被告人の制止に応じなかつたことに外ならない。
六、原審は被告人が引上げなかつたことは過失として採らず直ちに停車すれば充分これを停車せしめ得る距離にあつたことを強張して被告人の採つた最適の措置である制止の措置を無視して居るがこれは不自然であり妥当性を欠く。多数一般乗客の為め定時発着を重んずる職責と前述の事情からして急停車信号は第二次的であるべきが当然であり而かも第二次的の措置を採つて居るものである。其の第二次的措置を採つた時間的にも被告人に過失あることを認め難いものである。即ち原審指示のストツプと発声した地点は第二ホームを通過した直後であると認定して居るがこのことは制止して応じないと見て直ちに採つた機宜の措置であることを認定するに足る。何となれば事故直後に作成された実況検分書によれば亡川口が乗車せんとしたのは七米進行してからとなつている(二四丁)。然るに原審は被告人の第二回検察事務官に対する供述を採つて約三米進行してからと認定した。然るに川口節子の実況検分調書及び検証の際の供述によれば進行し出して乗車し道具其他を投入れて引上げて道具を片付けて亡川口学の乗車を見たと言ひ此の間相当に進行七米進行した際同人が乗車したと見るべきが相当であり第二ホーム迄の距離が約十米であるから七米引けば三米して急停車信号したこととなる。仮りに原審認定の如く三米して乗車せんとして後急停車信号したとしても七米となり検証の節の停留信号して九秒乃至十一秒にして十五、三米乃至二十二、四米の距離を走つたことを綜合し七米の速度の時間は数秒の時間となり若し三米とすれば瞬間の時間となり被告人は最善の措置を採つて居り何等の過失ないことを認定するに充分と言はなければならぬ。検証調書によれば亡川口が乗車しかけてから一米進行した地点となつてゐる。
七、況んや亡川口学は通勤者であり現場の状況を熟知し第二ホームは通過し第一ホームの危険を知り第二ホーム通過後と雖も急停車信号を俟つ迄もなく、自ら無理な飛乗を断念して手を放し自ら難を避け得らるる状態にありながら敢てこれをしなかつたことが最大の危禍の原因と言はなければならないのに不拘原審が被告人に過失ありとして有罪としたことは交通の安全性を極度に重視するの余り実情を無視して過当な責任を負はせたことは社会通念に反する妥当性を欠ぐ判決と言はなければならぬ。