福岡高等裁判所 昭和28年(う)1509号 判決
原判決挙示の(一)乃至(六)の証拠を綜合すると原判決認定の如く被告人が医師で佐賀県東松浦郡鬼塚村において医業に従事していた所昭和二十五年七月二十九日予ねて背髄カリエスの為治療をうけていた小野恵美子がぶどう糖カルシユウムと思われるアンプル五本(一本20cc入)入り一箱を持参し被告人に注射方を依頼した事実、右箱はぶどう糖カルシユウム注射液入れの箱であつたが古びており且右五本の中二本にはぶどう糖カルシユムのレツテルがはつてあつたが残三本にはそれがなかつた事実、被告人が右レツテルのはつていないもの一本を同月三十一日午前十時頃自宅で小野恵美子に注射したところ同女が呼吸まひにより約十分後死亡した事実、被告人が注射したものは点眼薬カルバノールヒヨリンクロツトであつたが被告人は之に気附かなかつた事実、被告人が前記一箱を受取つた際その入手先をただした所夫より受領してきたというのであつた事実及被告人が混濁、変色、沈澱物の有無を調査した所右注射に供した一本もぶどう糖カルシウム同様無色透明であつた事実を肯定できる。
然し原判決挙示の証拠ではその認定の如く小野恵美子が「ヤトコニン」を持参して注射を依頼した事実及同女が被告人の治療をうけていたのは二年位前からであるという事実は肯定できない。尤も被告人の検察官に対する供述調書、小野恵美子に対するカルテの訳文及原審証人波多サダ子の証言(第四回公判)を綜合すると小野恵美子が最初に被告人の診療をうけたのは昭和二十四年八月下旬であつた事実及び昭和二十五年七月十四日小野恵美子が同封した箱にはいつたミノフアゲンA2cc入九本を持参し被告人に対し夫にすすめられたからとて注射方を依頼したので同日より同月二十五日までに右九本全部を注射してやつたが何の異状も起らなかつた事実が認められる。前記調書竝証言及び波多サダ子の検察官に対する供述調書(弁護人は本調書は検察官の誘導尋問に因るものだから任意性も信憑性もない旨主張するが誘導尋問が行われた事実は記録上発見できないから該主張は採用しない)を綜合すると本件容器と前記ミノフアーゲンの容器は何れも古いもので開封されていた点は同一だが前者は後者より一層古びておりミノフアーゲンのアンプルは九本全部レツテルがはつてあつた事実が認められるからミノフアーゲン注射の場合何等異状が起きなかつた事実は本件の場合被告人が真正の注射液と誤信したことを正当とするものではない。小野恵美子は農家の主婦で正直者であることは原審証人小野スエ子、同原崎国枝の供述により窺えるし恵美子が約一年前より被告人の診療を受けていた事実は前記のとおりであるが、それだからとて恵美子が持参した品がその言の如く真正な注射液と信用して差支ないとは速断しがたい。原審証人波多サダ子の証言(第四回公判)によると恵美子方は被告人方より徒歩約一〇分の近距離に在る事実を認められる。本件事実関係は以上のとおりである。医師は患者が注射液の箱にはいつているがレツテルのはつていない薬液を持参し注射を乞う場合入手経路を十分調査するは勿論公の証明書その他そのものが真正な注射液たることを証する十分な資料に依り真正なものと確信を得た後でなければ注射してはならない業務上の注意義務があることは固より当然のことである。然るに被告人は前認定の情況に在つた本件薬液がぶどう糖カルシウム同様無色透明なることを確認した丈で公の証明書その他真正なぶどう糖カルシウム注射液たることを証する十分な資料を得る措置を講じなかつたのは勿論同女が夫から受取つてきたというのに被告人方の近所に住んでいるその夫につき入手経路を調査することさえもしないでたやすくぶどう糖カルシウムであると信じ注射したのは医師としての業務上の注意義務を怠つたものと云うべく記録上被告人の誤信を正当ずける事由を発見できない。
(後略)