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福岡高等裁判所 昭和38年(う)286号 判決 1963年7月05日

被告人 李錠起

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中七十日を原判決の刑に算入する。

理由

同控訴趣意第一点について、

所論は、原判決が被告人は昭和三十八年二月一日午後十一時頃永徳号(二、五屯)に乗船して本邦に向け韓国慶尚南道釜山市影島区第二松島海岸を出航し、翌二日午前五時三十分頃長崎県下県郡美津島町大字大船越海岸に上陸し、もつて本邦に不法に入つたものである旨認定しているのは事実の誤認である。被告人は右二月一日午前十一時三十分頃正規の手続をとり、それまで入港滞在していた厳原港を出港し、釜山市に帰ることなく、対島周辺の日本領海内を航行し、翌二日午前五時三十分頃前示大船越海岸に上陸したものであると主張するものである。

よつて按ずるに、被告人は当審公判廷において始めて所論主張にそう旨の供述をするにいたつたが、それまでは捜査段階においても原審公判廷においても、悉く原判示に符合する供述をしており、これ等を殊更虚偽を述べたものと認むべき何等の証跡も存しないし、その他記録によつて窺われる諸般の情況に照らして考えると、むしろ措信するに足り、当審公判廷における前示供述は却つて信用できない。而して被告人の司法警察員(二通)及び検察官に対する各供述調書、原審公判廷における供述と、原判決挙示の爾余の証拠を綜合すると、同判示どおりの事実を肯認するに十分であり、記録を精査するもこれに疑を差しはさむべき証拠は発見できない。従つて原判決が挙示の証拠により同判示のとおり認定したのは相当であり、所論のような事実の誤認は存しないので、論旨は理由がない。

なお所論は、原判決は被告人の本件不法入国の事実を何等補強証拠のないまま被告人の自白だけで認定している旨非難するので、この点につき考察するに、原判決は、同判示事実認定の証拠として、被告人の原審公判廷における自白、司法警察員(二通)及び検察官に対する各供述調書の外、司法警察員作成の実況見分調書と福井光枝の司法警察員に対する供述調書とを挙示しており、右実況見分調書と福井光枝の供述調書とは、被告人が原判示釜山市影島区第二松島海岸を同判示日時出航したとする事実には何等触れておらず、この点に関する被告人の自白を補強する証拠とはなり得ないことは所論のとおりであるけれども、実況見分調書は、被告人が本件密入国に使用したと自供する永徳号及びその積載品並びに上陸地点などの上陸直後における状況等を見分した結果を記載したものであり、福井光枝の供述調書は、被告人が原判示日時、場所に上陸後密入国したとして若松節子を介し福岡入国管理事務所厳原港出張所にその旨電話にて届出で、同所係員に連行されるまでの状況等につき供述するもので、いずれも被告人が永徳号を使用して原判示日時、場所にいたり、同所に上陸したとする本件密入国の事実について、被告人の自白の真実性を保障するに足るものであり、その補強証拠となり得ること勿論である。従つて原判決には、被告人の自白のみによつて事実を認定したとする違法あるものではないので、論旨も理由がない。

同控訴趣意第二点について、

所論は要するに、被告人は韓国官憲において、被告人が昭和三十一年から同三十六年五月までの間韓国から日本にスクラツプや米ドルを輸出した行為、及び日本から韓国に化粧品や雑貨を輸入した行為に対し、右行為後制定された死刑を含む特別立法を遡及適用せんとしており、その結果は死刑であることが殆んど推測され、更に被告人を逮捕するため韓国貨百万円の懸賞金をかけ、毎日被告人方に刑事が逮捕に来ていることを知り、これを避けるためやむを得ず対島に密入国する方法をとつたものであり、右逮捕及び死刑の判決を受くべき事情は正しく被告人の生命に対する刑法第三十七条の現在の危難に当り、これを避けるためには対島に密入国する以外に方法なく、従つて本件密入国は真にやむを得ない行為である。而して被告人が密入国して日本の国家の法益を侵したとしても、侵された日本の法益は被告人の侵さるべき生命の法益に比べれば、比較にならない程の小法益である。従つて被告人の本件所為は正しく緊急避難行為に該当し、これを看過した原判決は、右刑法第三十七条の適用を誤つた違法あるものである、と主張する。

よつて記録を調査するに、被告人は、司法警察員に対する昭和三十八年二月五日附供述調書において、従来から厳原港と韓国との貿易は、日本政府では認めていても、韓国では密輸出入として取締まられていたが、昭和三十六年五月韓国に軍事政権が成立した後は従来以上に取締りが強化され、被告人の仲間も大部分の者が処罰され被告人も韓国官憲から密貿易の首謀者として同年七、八月頃指名手配を受け、韓国に帰れば生命も保障されないような状態になつてしまい、また被告人と日光号には韓国貨で百万円の懸賞金がかけられていると聞いた。その為人目を憚ることなく韓国に帰るということも出来なくなり、昭和三十六年末頃以来、一寸韓国に帰つてはすぐ厳原港に舞戻り、同所に滞在するという変則的な生活を続けていたが、本件密入国の前日たる二月一日滞在期間が切れ、午前十一時三十分頃厳原港を出港し、同日午後八時半過ぎ頃釜山市影島区第二松島海岸に着き、予ての連絡場所の同区太平洞水昌方に行つて見ると、韓国官憲の取締りは予想以上に厳しくなつており、全く身動きもできないような悪い情勢であると聞かされ、次で自宅に帰つて妻李英子に会つたら、警戒が厳重になり、留守中も毎日のように刑事が様子を見に来るということであつたので、色々考えた末日本に密入国する以外に逃げ場はないと考え、妻とも相談して密入国することに決心し、同日午後十時過ぎ自宅を出て直接永徳号を繋いでいた前記第二松島海岸に戻り、対島へ向け出航した旨供述し、また原審公判廷においてもこれと殆んど同旨の供述をなし、結局被告人は多額の懸賞金付で指名手配されており、韓国に帰れば密貿易の廉で直ちに逮捕され、死刑の判決を受くべきことは殆んど確実で、これを逃れる方途は日本に密入国する以外になく、これが本件密入国の一大原因であるとするのであるが、以上の供述は、被告人の爾余の供述部分をも併せ全体として考察すると、要するに、被告人としてはこれを本件密入国の主たる動機原因として述べたに止まり、緊急避難の主張をしているものではないことが明らかである。原審弁護人もこれを捕えて緊急避難の主張をするようなことはしていないのである。従つて原判決がこの点につき判断を示さなかつたのは失当ではない。のみならず、これを以つて緊急避難の主張をしているもので、その趣旨は所論主張のとおりであるとしても、前示被告人の供述をおいてこれを証すべき資料がないので、果してその逐一につき十分の信をおき得べきものとは俄かに断じ難い。若し仮にこれを措信し得べきものとするも、所論の前提とするところは結局、韓国の国法上、密貿易の罪により合法的に逮捕された上、正規の裁判にかけられ、その判決の結果は殆んど死刑が推測されるというに過ぎないものと解されるから、特殊立法の遡及適用を受ける点で異常とすべきものはあるが、とも角、韓国の裁判機関が同国法に従い下すべき制裁中生命刑の蓋然性あること、及びその前提として先ず逮捕の危険が差し迫つていることをもつて「現在の危難」とするものであるところ、刑法第三十七条にいわゆる「現在の危難」とは、かゝる合法的逮捕の危険がさしせまつていること及び法律に基づく刑罰権の発動としての裁判権の行使を原因とする制裁は、内国のものたると外国のものたるとは問わず、且つその結果がたとえ生命に関するものであつても、これを含まないものと解すべきものと考える。仮りに然らずとするも、本件密入国行為をもつて、これを避けるためやむを得ざるに出でた行為とも認め難い。而して叙上のとおり既に「現在の危難」が存せず、仮に然らずとするも本件密入国行為をもつてやむを得ざるに出でた行為とは認め難い以上、本件につき緊急避難行為の成立すべき余地は存しないので、所論は、爾余の点につき判断をなすまでもなく、理由がないこと明らかであるから、採用の限りでない。

同控訴趣意第三点について、

論旨は、原判決の刑の量定は重すぎて不当である、刑執行猶予の言渡しありたい、というのであるが、記録によつて窺われる本件違反行為の動機、態様、被告人の年齢、経歴その他諸般の情状に鑑みると、原判決の刑の量定はなお相当であり、所論の諸事情を十分参酌しても、これを重すぎるとし、その執行を猶予すべきものとは到底考えられない。論旨も理由がない。

よつて刑事訴訟法第三百九十六条及び刑法第二十一条(当審未決勾留日数の算入につき)を各適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 青木亮忠 木下春雄 内田八朔)

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