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福岡高等裁判所 昭和51年(く)31号 決定 1979年9月27日

主文

原決定を取り消す。

本件について熊本地方裁判所八代支部の再審を開始する。

請求人に対する死刑の執行を停止する。

理由

本件抗告の理由は、記録に編綴の弁護人尾崎陞、同手代木進、同佐伯仁、同倉田哲治、同真部勉、同川坂二郎、同古原進、同荒木哲也連名の「即時抗告の申立」と題する書面及び「申立補充書」と題する書面記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官疋田慶隆名義の昭和五三年五月一二日付意見書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

第一本件抗告理由

本件抗告理由は要するに、(1)原決定は、熊本地方裁判所八代支部裁判官三名からなる合議体でなされるべきであるところ、裁判官牧弘二は関与せず、裁判官松村利教、同神吉正則の両名によりなされたものであるから、無効である。(2)原決定が、請求人の自白調書の信用性に関し、その逃走経路部分につき原審検証調書の、その犯行の態様につき矢田鑑定、矢田証言の、熊本県警の鑑定結果回答書の信用性に関し船尾鑑定の明白性をそれぞれ否定したのは失当であり、また人吉測候所長作成の気象照会回答書につき、刑事訴訟法四四七条二項を適用したのは誤りである、というのである。

第二原決定は無効であるとの論旨について。

所論は要するに、本件再審請求事件は法定合議事件であるところ、原決定は昭和五一年四月三〇日付でなされ、該決定書には裁判官として松村利教、神吉正則及び牧弘二の署名押印が存するが、牧裁判官は昭和五一年四月一日付で東京簡易裁判所判事兼東京地方裁判所判事補に転補され、熊本地方裁判所八代支部裁判官の地位を失つたものであつて、しかも同月三〇日には東京地方裁判所民事九部で執務していたものであるから、同日に右裁判をなしうる筈がなく、また裁判書に署名押印をすることもできなかつた筈である。したがつて、原決定は牧弘二を除く他の二名の裁判官によつてなされたものであり、合議体の員数を三人と定めた裁判所法の規定に違反し無効であるというのである。

しかし、右牧弘二は昭和五一年四月一日付で東京簡易裁判所判事兼東京地方裁判所判事補に転補されたものであるところ、最高裁判所事務総局人事局長より福岡高等裁判所長官あての同月八日付書面によれば、同月一日から同月三〇日まで熊本地方裁判所八代支部判事補の職務代行を命じられたものであることが認められる。

してみれば、同人は同月三〇日までは裁判事務に関して同支部裁判官としての職務権限を有し、右決定及び決定書の作成に関与できる地位にあつたことは明らかである。原決定書は同月三〇日付で作成されているが、同日までの間に牧弘二が右裁判及び裁判書の署名押印をなせば十分であつて、現実に同日同裁判所で執務することを要するものではなく、右決定書の署名押印も同日中になされる必要は毫も存しない。

以上の次第で、原決定の効力は否定できないので、所論は採用することができない。

第三本件再審請求に至るまでの経緯

本件再審請求事件記録及び従前の再審請求各記録、原第一、二審及び原上告審各記録並びに各判決書、決定書の謄本によると、以下のとおり認められる。

一原第一審判決(熊本地方裁判所八代支部昭和二五年三月二三日言い渡しの有罪判決。なお後記第三の事実のほかに、第一、第二各窃盗の事実がある。)に対して、請求人から控訴の申立がなされたが、昭和二六年三月一九日福岡高等裁判所において控訴棄却の判決があり、更に請求人から上告の申立がなされた結果、同年一二月二五日最高裁判所において上告棄却の判決があつて確定するに至つた。

二右確定有罪判決に関しては、これまで五回にわたり請求人から再審請求がなされたのであるが、

1  (第一次再審)昭和二七年六月一〇日福岡高等裁判所に再審請求がなされたが、昭和二八年一月二四日不適法であるとして棄却決定がなされて確定し、

2  (第二次再審)昭和二八年二月一一日熊本地方裁判所八代支部に再審請求がなされたが、同年七月二二日不適法であるとして棄却決定がなされ、即時抗告したが、同年八月七日福岡高等裁判所で棄却されて確定し、

3  (第三次再審)昭和二九年五月一八日熊本地方裁判所八代支部に対し、後記第三の事実に関して再審請求がなされ、同裁判所は昭和三一年八月一〇日再審開始決定をしたが、同月一六日検察官から即時抗告の申立があり、昭和三四年四月一五日福岡高等裁判所で右決定を取り消し、再審請求を棄却する旨の決定がなされ、請求人は特別抗告をしたが、昭和三六年一二月六日最高裁判所で棄却されて確定し、

4  (第四次再審)昭和三六年一二月一六日熊本地方裁判所八代支部に対し後記第三の事実に関して再審請求がなされたが、昭和三九年三月二六日右再審請求は理由がないとして棄却がなされ、即時抗告したが、同年五月四日福岡高等裁判所で棄却され、特別抗告したが、同年七月七日最高裁判所で棄却されて確定し、

5  (第五次再審)昭和三九年一〇月二八日熊本地方裁判所八代支部に対し後記第三の事実に関して再審請求がなされたが、熊本地方裁判所に回付され、昭和四一年一〇月一四日同裁判所で理由がないとして棄却決定がなされ、即時抗告したが、同年一二月一九日福岡高等裁判所で棄却され、特別抗告したが、昭和四二年一月二〇日最高裁判所で棄却されて確定し、

6  本件再審請求は、昭和四七年四月一七日熊本地方裁判所八代支部に対し後記第三の事実に関して刑事訴訟法四三五条六号にいわゆる有罪の言い渡しを受けた者に対して無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したときに該当するとしてなされたが、昭和五一年四月三〇日同裁判所で理由がないとして棄却決定がなされた。

第四証拠の明白性、新規性について。

一まず、所論にかんがみ証拠の明白性について述べれば、証拠の明白性とは、当の証拠が有罪の確定判決における事実認定につき合理的な疑いを抱かせ、その認定を覆すに足りる蓋然性を有することであり、換言すれば、もし当の証拠が有罪の確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたならば、合理的な疑いを生ぜしめることなくその確定判決における事実認定に到達したか否かの観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきであり、この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる意味において、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用されるものと解すべきである(最高裁判所第一小法廷昭和五〇年五月二〇日決定、刑集二九巻五号一七七頁以下参照)。したがつて、本件再審請求は熊本地方裁判所八代支部がなした原第一審判決に対するものであるから、まず、原第一審判決の有罪判断の基礎となつた認定事実と挙示の証拠を検討し、あわせて弁護人らによつて新証拠として提出された証拠のみならず、本件再審請求の理由の存否に関連して、原審及び当審に提出されたすべての証拠を検討しつつ、原決定の説示の当否を判断すべきである。

なお右証拠に関し、再審請求が数次に及ぶような場合において、新たに発見された証拠が数度に亘る場合とそうでない場合と対比して著しい不均衡を生ぜしめるようなことは相当でなく、刑事訴訟法四三五条六号の明白性の判断は総合的なものであるから、原確定裁判の全訴訟資料のほか、従前の再審請求において新証拠として提出された資料もその証拠価値の肯認されるようなものである限り、新証拠との関係で再度全体的心証形成の素材として右判断の資料となしうるものと解するのが相当であり、また、刑事訴訟法四四七条二項は再審請求に対する棄却決定があつたときは、同一の理由によつて再び再審請求できないと規定しているが、同法四三五条六号により原確定判決の有罪認定を攻撃しようとすれば、多くの場合、その問題とすべき争点(要証事実)は限られているから、新たに発見された証拠で明確にしようとする要証事実が従前主張された事実と同一のものであつても、その証拠の種別が、単に証拠方法を異にするにとどまらず、実質的にも別異のものと評価されるものであるかぎり、その発見の都度、別異の理由として再審請求しうるものと解すべきである(広島高等裁判所昭和五一年九月一八日決定参照)。

二1  次に、証拠の新規性について述べれば、証拠の新規性とは、証拠の発見があらたなことをいうのであつて、それが原判決以前に既に存在していたか、又はその後に存在するに至つたかを問わないが、あらたにと言いうるためには裁判所にとつてのみならず、再審請求権者にとつてもあらたに発見したものでなければならない。

また、「証拠」には証拠方法と証拠資料の両者を含むと解すべきであるから、証拠方法として同一であつても、証拠資料としてその内容に変化のある場合には、その新規性は肯定すべきであり、逆に証拠方法を異にしても、同一供述主体でその内容が同一趣旨のものであれば、新規性を欠くことになる。なお、鑑定についても、その鑑定内容が前の鑑定と結論を異にするか、又は結論が同旨であつても、鑑定の方法や鑑定に用いた基礎資料が異なるなど、証拠資料としての意義内容が異なるときは証拠の新規性を認めるべきである、

2  右の見地からして、請求人提出の証拠のうち、原決定が証拠の新規性を有すると解したものについては、当審においてもこれを是認することができる。

第五原第一審判決

一原第一審認定の罪となるべき事実第三(以下白福事件という)の要旨は、

請求人は妻アキエと正式に離婚となつた後、山林伐採人夫として稼働しようと思い立ち、昭和二三年一二月二九日実父の馬代金四〇〇〇円を無断で取り立てて使用した残金二四〇〇円位及び衣類若干、鉈を携え、実父に無断で家出し、知人を頼つて熊本県球磨郡一勝地村方面に向う途次、同県人吉市に下車したが、途中列車内で旅館孔雀荘の女中溝部ウキエに出合い、同女から飲食代金一四〇〇円の請求を受けたので、止むなく右所持金の中から一〇〇〇円を支払つたため、残金が僅少となつたところから、辻強盗を思い立ち、右鉈を携え、同日午後一〇時ころから人通りの少い通称中学校通りに至り通行人を物色したが、適当な人に行き会わなかつたので、たまたま同市北泉田町二二五番地白福角藏(当時七六年)が祈祷師として流行つている旨かねて聞知していたのを思い起し、同人方から金員を窃取しようと決意し、同夜一一時三〇分ころ、右白福方住家の表雨戸を所携の鉈でこじ開けて不法に同家屋内に侵入し、家人就寝中を奇貨として金品を物色中、角藏の妻白福トギエ(当時五二年。原第一審判決中白福トキエとあるのは誤記と認める。以下同じ。第三次再審における取寄記録中の戸籍謄本参照)が物音にめざめ、「泥棒」と叫び、その声に角藏が起き上ろうとしたので、事発覚して逮捕されることをおそれ、これを免れるため、咄嗟に家人全部を殺害しようと決意し、右鉈を振つて、先ず角藏の頭部を滅多斬りに斬りつけ、続いて右トギエ及び同人等の長女白福イツ子(当時一四年)、次女白福ムツ子(当時一二年)の頭部を前同様滅多斬りに斬りつけたうえ、その場に有合せの刺身包丁をもつて角藏の咽喉部に止めを刺し、よつて右角藏に対しその頭部に一〇個の割創を、その頸部に刺創等を負わせ、その頭部割創に基く脳挫滅並びに失血のため、その場に即死させ、右トギエに対しその頭部に七個の割創等を負わせ、その頭部割創に基く脳挫滅並びに失血のため、翌三〇日午前八時三〇分ころ同市山口外科病院において死亡させたが、白福イツ子に対してはその頭頂部に入院治療一三日間の切創三個を、白福ムツ子に対しては入院治療二九日間、通院治療約一か月の割創二個を負わせたにとどまり、殺害を遂げなかつたものである。

というのである。

二原第一審判決挙示の第三の事実に関する証拠の標目は次のとおりである(なお、括弧内に証拠説明等を略記する)。

1  請求人の原第一審公判廷における供述、但し第三回公判期日における犯行否認部分を除く(殺意を否認し、傷害の部位程度は分らないというが、その余の部分は原第一審判示認定事実に副うものである)

2  請求人の司法警察員(昭和二四年一月一七日付、同月一八日付)及び検察官に対する各供述調書(原第一審判示認定事実の自白)

3  請求人の裁判官に対する陳述調書(右同)

4  証人世良完介(二回共。被害者角藏、トギエの成傷原因につき、本件鉈でも可能であること等を供述)、同山口宏(被害者イツ子、ムツ子の傷害状況を供述)、同益田美英(請求人を取り調べた経緯と状況を供述)、同馬場止(同上)、同多良木利次(同上)及び同上田勝治(本件鉈を埋めた場所を請求人が指示した状況等を供述)の原第一審公判廷における各供述

5  原第一審における福崎良夫(請求人を取り調べた経緯及び取り調べ状況を供述)、白福イツ子(本件犯行の状況、但し犯人の姿は見ていないと供述)、白福ムツ子(本件犯行の状況、とりわけ犯人は無帽、長髪、中背の若い男であると供述)、平川ハマエ(犯行日時前後の請求人の行動、服装等を供述)、山並政吉(犯行日後の請求人の行動、服装等を供述)、溝部ウキエ(犯行日の夕方ころの請求人の行動、服装等を供述)、免田榮作(請求人の性格及び犯行日前後の行動等を供述)及び段村アキエ(請求人との離婚状況を供述)に対する各証人尋問調書

6  司法警察員作成の検証調書、添付の図面及び写真共(犯行現場の状況を示すもの)

7  原第一審裁判所の検証調書、二回共(犯行現場の状況を示すもの。但し、昭和二四年三月四日付検証調書附録見取図入一葉二図在中とあるが、現時点では存在せず、同年六月二三日付検証調書附録見取図入三葉在中とあるうち、第一葉は現時点では存在しない)

8  現場写真一四葉(犯行現場の状況を示すものと思われるが、現時点では存在しない)

9  医師世良完介作成の昭和二四年一月二七日付鑑定書(以下、世良第一次鑑定という。被害者角藏は重量ある刃器により生じた割創一〇個と細長鋭利な刃器により生じた刺創一個等を負つていて、その死因は頭部割創に基づく脳挫滅並びに失血で、頸部刺創は死の止めをさしたものと思われ、同人の血液型はO型である。被害者トギエは重量ある刃器により生じた割創等を負つており、その死因は頭部割創に基づく脳挫滅並びに失血であつて、その血液型はO型であることを鑑定)

10  医師山口宏作成の白福トギエ、白福イツ子、白福ムツ子に対する各診断書(各被害者の受傷状況)及び鑑定書(被害者イツ子の血液型はB型、ムツ子の血液型はO型であることを鑑定)

11  国家地方警察熊本県本部警察隊長より人吉市警察署長あての鑑定結果回答書(本件鉈の柄部に付着している血痕の血液型はO型である旨鑑定。なお、請求人の絆天、上衣、チヨツキ、マフラー、ズボン、手袋、地下足袋については血痕付着が証明されず、また、請求人の唾液よりその血液型はA型であることを鑑定)

12  領置されている刺身包丁一本及び鉈一挺(現時点ではいずれも所在不明である)

三したがつて、原第一審判決の判示第三の事実認定、とりわけ請求人が犯人である旨の認定の基礎は、世良第一次鑑定や上田勝治の証言もさることながら、請求人の自白及び国家地方警察熊本本部警察隊長よりの鑑定結果回答書にあると思われる。

四そこで、本件事案においては、先ず右鉈の付着血痕の血液型判定について検討し、次いで請求人の自白調書について検討することとする。

第六本件鉈の付着血痕の血液型について。

一先ず、本件鉈に付着していた血痕の血液型が被害者白福角藏らの血液の血液型と同じO型であるとの国家地方警察熊本県本部警察隊長より人吉市警察署長あての鑑定結果回答書(以下、単に鑑定結果回答書という)の信用性について検討する。

原第一審判決挙示の世良第一次鑑定によれば、本件被害者中最も大きな打撃を受けた白福角藏及び白福トギエの各血液型はいずれもO型であり、医師山口宏作成の鑑定書によれば、白福イツ子の血液型はB型、白福ムツ子の血液型はO型であることが認められる。

ところで、前記鑑定結果回答書によれば、警察の鑑定結果として、本件鉈の柄部には血痕が付着し、その血液型はO型である旨判定されていることが認められる。

弁護人らは、右血痕の血液型がO型である旨の判定は信用できないと主張するものである。

二この点に関する新証拠の船尾忠孝外一名作成の昭和四七年七月二九日付鑑定書(以下船尾鑑定という)、東京高等裁判所の上田勝治に対する証人尋問調書謄本、原審における馬場止、多良木利次、福崎良夫及び矢田昭一の各証人尋問調書の明白性を否定した原決定の要旨は次のとおりである。すなわち、

1  右上田勝治の証人尋問調書謄本によれば、右鑑定結果回答に要した時間は昭和二四年一月一八日の午前九時ころから午後三時ないし四時ころまでの六〜七時間であることが認められる。

2  一方、船尾鑑定によれば、血液型を検査するためには、血痕予備試験、血痕本試験、人血試験、血液型検査を実施することを要し、なかでも人血試験の浸出液を作成するのに最低二四時間、血液型検査として当時一般的に行われていた凝集素吸収法の吸収操作時間として最低二六〜七時間を必要とするので、右各試験ないし検査のうえ血痕の血液型を判定するためには、少くとも一〜二日を要するのであり、僅か六〜七時間の所要時間で鉈の付着血痕の血液型をO型であると判定している鑑定結果は、検体浸出操作時間、吸収操作時間が十分でないので、誤判の可能性が高く、信用性がかなり少いというのである。

3  しかし、右船尾鑑定を検討しても、人血試験の浸出時間は被検斑痕の性状によつて短縮もありうるとし、更に、人血と判定するには積極的な白濁輪反応によるのであるから、右反応があれば浸出時間は十分であつたことになることや、被検斑痕を直接採取する方法によると、間接的な採取方法による場合に比べて浸出液作成時間が省略できることから、人血の検査時間を短縮することは可能であり、本件では直接採取がなされた可能性が考えられることに徴し、人血試験が不完全に実施されたものとはいえず、また、血液型検査における吸収操作時間についても、血痕の状態によつてかなりの差があるというのであり、原審における矢田昭一の証人尋問調書(以下矢田証言という)を加えて検討しても、被検斑痕の量、その陳旧度、変質度合い等により短縮されることが窺知されるのであつて、血痕量については、証人馬場止は米粒大、同多良木利次は米粒の半分大で粟粒大とそれぞれ供述しているが、これらは要するに肉眼によつて血痕と判別できるものが鉈にこびりついていたというのであるから、それが四分の一平方センチメートル以下であつたとも認定しがたく、また、矢田証言によれば、鉈が土中に埋められた場合、水分、バクテリヤ等により変質されると思うというのであるが、本件当時は冬の厳寒期であり、請求人の自供によつても埋められた期間は約一二日間にすぎず、場所も畑の一隅で深さ五寸位のところというのであるから、被検血痕の保存状態も比較的良好であつたと推認されることに徴すると、吸収操作時間として船鑑尾定の指摘する時間が必要であつたとは直ちに断定し難い。なお、矢田証人も、右鑑定結果回答書の作成者が唾液の血液型を正確に判定しているとしてその技術を否定せず、右回答の判断について断定を避けているのである。したがつて、これらの証拠は、鑑定結果回答書の証明力を左右することはできないから、明白性を有しないというのである。

三そこで考察するに、

1  東京高等裁判所の上田勝治に対する証人尋問調書謄本によれば、同人は当時人吉署警察官で鑑識係をしていたものであるが、昭和二四年一月一八日鉈等を持つて汽車(午前六時すぎ人吉駅発、午前九時ころ熊本駅着)で熊本市へ行き、これをその日のうちに鑑定してくれるよう依頼して熊本県警の鑑識に渡したところ、同日午後三時ころに鑑識結果回答書を受け取つたので、これを同日夕方人吉署に持ち帰つたことが認められる。

右事実によれば、本鑑定結果回答(本件鉈に付着していた血痕の血液型の鑑定)に要した時間は約六時間ということになる。

2  船尾忠孝は主に血液の検査を研究してきた法医学教授であるところ、同人作成の前記鑑定書及び当審取り調べの船尾忠孝作成の昭和五二年二月四日付意見書(弁護人尾崎陞作成の昭和五一年一二月三日付意見嘱託書に対応するもの)によれば、血痕の血液型の鑑定方法としては、血痕予備試験、血痕本試験、人血試験、血液型検査を実施することが必要であるところ、人血試験においては、検体(被検斑痕)の採取はすべて直接法によるのであつて、間接法が用いられることはないから、直接法によつたからといつて試験時間を短縮できるということはありえないことであつて(因みに、直接法、間接法というのは検体の採取方法であつて、前者は検体をけずり取るなど直接採取する方法であり、後者は濾紙或いは脱脂綿などに検体を浸出させる方法である。なお原決定は、決定書六二丁表六行目から八行目にかけての括孤書きからも明らかなように、検体の採取方法としての間接法と浸出液の作成とを混同しているものと認められる。)、もとより船尾鑑定は検体の間接採取を前提とするものではないから、検体を直接採取する方法をとることにより浸出液作成時間が省略できる旨の原決定の説示部分は誤りであるうえ、右証拠によれば、浸出時間(採取した検体を浸出液に入れてからその内容が浸出液に溶解し終わるまでの時間)は、一般に二四時間位であるところ、検体の量や性状により短縮したり延長したりするけれども、短縮できるのは血痕が新しいとか量的に多い場合であつて、本件の場合にはきわめて微量であるうえ、新鮮血でもないので浸出液を作るには十分時間をかけなければならないから、最低二四時間位は必要であると認められるので(したがつて、浸出時間が七時間以下でも白濁輪反応があると仮定することは妥当であるとはいえない。)、右鑑定結果回答書においては、人血試験の浸出時間が不十分であることは否定しがたいところである。

尤も、当審証人福山武の供述中には人血試験の浸出時間はせいぜい一〇分位で足りる旨の供述部分が存するが、船尾鑑定に対比するとき科学的根拠に乏しい。

3  次に、船尾鑑定及び当審における船尾忠孝の証人尋問調書(以下船尾証言という)によれば、血液型検査として行われる凝集素吸収法において、当時警察では抗O抗体やアイスラー加賀谷抗体は使用されておらず、抗A抗体及び抗B抗体だけを使つて、いずれにも吸収がみられないときにO型と判定されるのであるから(当時熊本県警察本部においても、血液型検査として凝集素吸収法が用いられ、かつ抗O抗体やアイスラー加賀谷抗体は使用されていなかつたことは、当審における受命裁判官による下田亮一の証人尋問調書((以下、下田証言という))によつても明らかである)、検体の量及び吸収時間(吸収操作時間)が最も大切であつて、吸収時間は一般に三七度数時間、氷室一二ないし二四時間位であり、血痕量の多少及び陳旧度により異なるが、本件の場合血痕量が少ないことから最低二六〜七時間、できれば四八時間位必要であろうというのである。更に、矢田証言によつても、同人は法医学専攻の大学教授であるが、血痕の血液型がO型との判定にあたつては、吸収時間が一夜間以下であること、血痕量が四分の一平方センチメートル以下であること、血痕が古すぎて変質していることのどれかひとつにでも該当すれば、その検査結果であるO型との判定は信用できないというのである。これら専門学者の見解は信を措くに足るものというべきである。

そこで先ず、本件血痕の量についてみるに、馬場証人は米粒大、多良木証人は米粒大の半分位で粟粒大、福崎証人は鉛筆の芯大とそれぞれ供述していて一様でないばかりでなく、米粒大であつたとしても四分の一平方センチメートルにとうてい満たないことは明らかであるから、右各証言をもつて本件血痕の量が四分の一平方センチメートル以下であつたと断定しがたい旨の原決定の説示は相当でなく、更に、船尾証言によれば、血痕の血液型を鑑定するのに必要な諸試験を行なうためには最低二ないし三ミリグラムの血痕が必要であり、しかもそのうち半分にあたる1ないし1.5ミリグラムはいわゆる血液型検査だけに必要であるところ(検体の量が少いところから、一個の試験管に検体をとりこれにO型血清を入れ、その後検体を除いて残つた液が凝集能力を有するどうかか検査する場合においてである。元来凝集素吸収法においては、試験管二個を使うのが普通であり、これに抗A血清、抗B血清を別々に入れたものにそれぞれ検体を入れて吸収操作するので、このやり方に従えば前者の場合に比べて倍の量の検体が必要である。そして、下田証言によれば、昭和二四年当時熊本県警では後者のやり方がとられていたことが認められるので、必要量は前者の二倍ということになる。)、米粒大でもせいぜい0.8ないし1ミリグラムしかないので、いかに吸収時間をかけても正確な判定は不可能であるというのである。

次に、本件血痕の陳旧度や変質度合いについても、犯行後既に約二〇日間経過しており、しかもそのうち約一二日間は土中に埋められていたというのであるから、ある程度の汚染は避けられないばかりでなく(したがつて、汚染処理のために余分な時間が必要であり、かつこれにより検体量の減少も免れない)、矢田証言によれば、腐敗変質も十分考えられるところであつて、いずれの点からも吸収時間として一般に必要とされる最低一夜間を短縮しうる事由とはなりえないというべきである。

なお、下田証言によれば、昭和二四年当時のやり方として、非常に急ぐ場合には三七度二時間、氷室二時間、室温二時間の計六時間の吸収時間でやつていたが(当時でも急がない場合や、現在では一夜間以上おいてやつている。)、これに基く鑑定結果回答書は中間結果であつて、その後継続的に反応状態を観察したうえ右中間結果と対比して不都合があれば訂正し、なければそのままにしておく取り扱いであり、かつ訂正の必要が生じたことはなかつた旨供述するけれども、船尾忠孝作成の昭和五三年一一月二七日付意見書及び船尾証言を加えて検討するに、右に継続観察というのは、試験管内での吸収操作が終了したとして、そのあとの血清をホールグラスに取り出したのち、血球を加えて反応をみるために二、三時間放置して観察することをいうものであるから、吸収時間とは無関係であること、また下田証言によれば、検査の正確を期するために対照試験を行なつたというのであるが、対照試験とは血液型の分つている血痕(既知血痕)を使つて検体(疑問血痕)と並行して検査を行なうものであるが、前記意見書によれば、対照試験は特別のものではなくて常に実施されるものであるところ、用いられた既知血痕が疑問血痕と陳旧度や量など類似(同等、もしくは既知血痕の方が疑問血痕よりも劣悪な条件であること)していなければあまり意味はなく、本鑑定結果回答において、この点につき考慮を払つた形跡は窺えないので、右継続観察や対照試験を実施したことを以て本鑑定結果回答書の信用性を高めるものとはいいがたい。

ところで、当審証人福山武は、吸収時間は法医学教科書等に記載されている三七度(フラン器)二時間、室温二時間、氷室一夜間が原則である(条件の悪い場合にはこれだけの時間が必要である)ことを認めながらも、警察実務の上ではほとんど三ないし五時間の吸収時間で足りる旨供述するのであるが、同人が血液型検査に従事したのは昭和二七年以降のことであつて、本鑑定時よりも後のことであるうえ、同人が昭和二七年に右作業に従事したころ、同人に対し、先輩(法輝雄)が一時間の吸収時間で血液型検査をしてみせながら、君はまだこういうことをしてはいけない、まず腕を磨きなさいと言つたというのであり、右福山自身それから三年位腕を磨いてようやく三ないし五時間の吸収時間で血液型検査ができるようになつたと述べており、右の時間は警察実務の上のことであつて学理上のことではないうえ、下田証言によつても、鑑定結果回答書の作成にあたつた伊藤一夫は、かつて医科大学で法医学を学んだことがあるとはいえ、警察に入つて血液型検査を担当したのは昭和二三年一〇月からであることが認められ、本鑑定結果回答書の作成は昭和二四年一月一八日であるから、その間僅か三か月あまりの実務経験しかなかつたものであることに照らすと、福山証人のいう技術的なものを右伊藤が会得していたとも考え難いこと、また福山証人は技術的なものがあることを強調して、凝集素吸収法は抗原抗体反応であるから、大切なことは抗原と抗体の状態を的確に把握することであり、まず抗原の状態が重要であるというのであるところ、本件血痕は新鮮なものでないばかりか、その量もきわめて少いうえに、請求人の自白調書によると、約一二日間も土中に埋められていたことになるので、腐敗変質汚染も考えられ、抗原の条件はきわめて劣悪であるというべきであることに徴すると、抗体としては凝集素価の高いものが低いものよりも同じ倍数に調整した場合でも吸収能力が高いということを考慮して、仮に凝集素価の高い抗体が使用されたとしても、本件血痕の血液型検査(凝集素吸収法)においては、原則とされている吸収時間を短縮できるものとは認めがたいところである。

なお、矢田証人は鑑定結果回答書の作成者が唾液の血液型を正確に判定していることを挙げて、同人には血液型の素養があることを認めていることは原決定の説示するとおりであるけれども、矢田証言によつても、唾液は水によく溶けるので、そうでない血液に比べて血液型の判定がきわめて容易であると認められることに徴し、これを以て矢田証人が右結果回答に信頼を寄せたものとは認められず、また、同人が右結果回答書の判断につき断定的な言い方を避けているとしても、右結果回答の信用性を否定していることは証言全体から明らかなところであつて、この点に関する原決定の説示は相当でない。

四そうしてみると、本件鉈に付着していた血痕が被害者白福角藏らの血液型と同じO型であるとの鑑定結果回答書は信用性のきわめて乏しいものであつて、右被害者らの血液が右鉈に付着したと認めることは困難であるから、船尾鑑定と東京高等裁判所の上田勝治に対する証人尋問調書謄本及び原審における馬場止、多良木利次、福崎良夫、矢田昭一の各証人尋問調書は、請求人と本件犯行との結びつきに疑問を投げかける新証拠としてその明白性は否定しがたいところである。

第七請求人の自白調書の信用性について

一犯行後の足どりについて。

1  原決定は、原審検証調書二通(昭和四八年一二月二五日実施の分及び同月二六日実施の分)、写真六五葉(第一〇四号証の一ないし六三、第一〇五号証、第一〇七号証)の明白性を否定しているが、右判断は是認することができない。

2  原決定の右判断の要旨は次のとおりである。

弁護人らは、犯行後三十数キロメートルに及ぶ周回行動をすること及びその所要時間に不合理な点が存するばかりでなく、当時の寒気、暗闇、疲労、空腹、孤独感からして、請求人が昭和二三年一二月二九日深夜の犯行後三四キロメートルの道程を踏破して、翌朝午前九時半ころに再び人吉城趾に回帰することは、物理的に不可能であるというのであるが、しかし三十数キロメートルの周回行動は犯行後の狼狽から出た逃走であることに徴し不合理とはいえず、更に右検証調書(昭和四八年一二月二六日実施の分)によれば、右検証において要した時間と請求人が自白する時間とは往路、帰路で若干の差があり、また仮装犯人として請求人の自白調書記載の道程を踏破した山本栄蔵は、人吉城趾到着後疲労や寒気を理由にこれ以上歩けない旨述べたことが認められるけれども、少くとも同人が請求人供述の時間内でその道程を踏破できたことは明らかであるうえ、逃走者としての心理状況、歩行状況、土地勘などの諸条件において原審検証時と異なるものがあるから、右検証結果を理由に、自白調書にある逃走経路を歩行することが不合理ないし物理的に不可能であるとはいえず、なお鉈を埋めた場所についても、上田勝治の証言や写真(原第一審証第一四号)によつて鉈を埋めた場所の存在を疑う余地はなく、また、右検証調書(同月二五日実施の分)によつても、免田、深田、木上の三村境付近において六江川なる河川の存在を確認するに至らなかつたが、原審における福崎良夫の証人尋問調書によれば、六江川は請求人の口から出た河川の名称であつて、格別これを確認しないまま調書に記載したにすぎないと認められるので、右河川の存在が確認できないからといつて自白調書に不合理性があるとはいえないというのである。

3  よつて按ずるに、右検証調書(昭和四八年一二月二六日実施の分)によれば、仮装犯人山本栄蔵を先頭にして、請求人の自白調書記載の逃走経路に従い、昭和四八年一二月二六日の午前零時二分熊本県人吉市消防団第五分団ガソリンポンプ格納庫(同月二五日実施の検証調書によると、犯行現場から道路伝いに約九〇メートルの地点である)を出発し、おおむね同市内を東進して柳瀬橋、旧県道、新県道を通り、午前三時七分古町橋に達したが、ここで一時間二三分休憩し、午前四時三〇分ころ南進して湯前線路に至り、これを西遙したうえ、人吉城趾、相良神社前を経て水の手橋に午前八時四〇分に到着したものであるところ、当夜は晴天無風、月はなく星あかりがある程度で、しばしば暗闇のため懐中電灯の使用を余儀なくされ、また非舗装道路も多く、砂利や路面の凹凸、氷の張つた水溜り等があり、特に線路上には砕石と霜の降りた枕木のため足許が不安定で歩行自体かなり困難であつたこと、折り返し地点である古町橋付近では午前四時ころ衣類に付着した血痕の識別は出来ないほど暗く、そのうえ寒気がきびしくて、気温は零下八度(午前三時三〇分)であつたこと、歩行の途中数回に亘つて休憩をとり、その際自動車内に入つて一時の暖をとり、また飲食をなしたこと、右山本栄蔵は全道程を歩行したものの、両足のくるぶし、踵、腰が痛く、寒さが身に泌みて、これ以上歩けない状態であつたことが認められる。

右の如く、寒気、暗闇、悪路の中を三十数キロメートル(昭和四八年一二月二五日実施の検証調書によれば、折り返し点を古町橋より先の明甘橋とした場合約36.5キロメートルであり、古町橋が折り返し点の場合にはそれより若干短くなるが、それでも三〇キロメートル以上であることは明らかである。)もの距離を歩行することはきわめて容易ならざることであるうえ、犯行当時は、人吉測候所作成の気象記録及び同測候所長作成の気象照会回答書に徴し気温こそ検証時より若干高いことが推認されるものの、一人きりで暗闇の中を懐中電灯もなく(請求人が懐中電灯を携帯したとの証拠は存しない。)、途中暖をとつたり飲食をするすべもなく、そのうえ被害者四名を殺傷する兇行で体力を使つたあとの歩行であり、途中の河川では自己着用のハツピやズボンに付着していた血を洗い落したというのであるから、右道程を踏破するに当つては、その肉体的精神的な苦痛は著しいものが存し、右検証時における仮想犯人の場合と比較しても、より一層困難であつたことが推認できるのである。

したがつて、右道程を踏破したとすれば、請求人が人吉城趾に到着した昭和二三年一二月三〇日午前九時三〇分ころには、極度の疲労により半病人の状態となり、肉体的精神的な憔悴、衣類の汚れ、言動の鈍麻など通常とは異なる顕著な様子が現われる筈である(原決定は、この点について何ら言及していない)。しかるに、原第一審における平川ハマエの証人尋問調書によれば、請求人は同日午前一〇時には平川食堂に姿を現わしたが、平川ハマエが見たところ、請求人には何ら変つたところはなかつたというのであつて、前日会つたばかりの請求人の服装や態度に別段の変化を認めていないのであり、このことは請求人が右道程を踏破したことと矛盾するというべきである。のみならず、その所要時間についても、右検証時においては往路約三時間、帰路約四時間であつて(ほかに折り返し地点での休憩約一時間半)、往復で若干の差がみられるが、これは帰路が距離的にやや長く、また歩行者にとつて距離が長くなるにしたがい疲労がたまることを考慮すると、帰路の時間の長いのは当然と考えられる。ところで原第一審判決は、犯人が被害者方に侵入したのが昭和二三年一二月二九日午後一一時三〇分ころと認定しているので、これに従えば逃走開始時刻は早くても同月三〇日午前零時ころとみられるところ、請求人は自白調書の中で、「免田と深田、木上の境の六江川でハツピについていた血を洗い落した。そのときの時間は朝方五時ころと思う。それから湯前線の線路伝いに西村方向に出た。人吉城趾に九時半ころ着いた。」旨供述しているのである。しかし、右検証調書(昭和四八年一二月二六日実施の分)によれば、周囲が明るくなつたのは午前六時四五分ころであり、それ以前には衣類の付着血痕を識別することが困難であつたと認められるので、請求人が付着血痕を洗い落とすために衣類を洗つたとすれば、その時刻は早くとも午前六時四五分ころでなければならず、衣類を洗つた時刻、場所が午前六時四五分ころ折り返し地点であつたとすると、請求人は往路に約六時間四五分、帰路に約二時間四五分かかつたということになる(原第一審における白福三男の証人尋問調書によれば、昭和二三年一二月三〇日午前三時には騒ぎが起つたことが認められるので、本件犯行がその以前に敢行されたことは明らかなところであり、逃走開始時刻を仮に午前二時半ころとしても、往路は約四時間一五分、帰路は約二時間四五分となる。)。してみれば、往路と帰路の差があまりに大きいばかりでなく、帰路の方が往路よりも所要時間が短いうえに、帰路時間が二時間四五分というのは、検証の結果(帰路約四時間)と比較して短時間にすぎ、きわめて不自然である。

なお、三村境付近の六江川については、当審における受命裁判官による検証調書(昭和五三年九月八日施行)によつても、古町橋付近にぬつごう(のづごう)という河川が存在することは認められるけれども、六江川という名称の河川の存在は確認することができなかつた。尤も、弁護人らは、仮に右ぬつごうが六江川に当るとしても、右河川には冬期に水がなく、したがつて右河川で衣類に付着した血を洗うことは不可能であつたことを立証しようとして、昭和五四年五月一日付証拠提出書にかかる空中写真四枚及びその鑑定書(西尾元充作成)を新証拠として提出するが、右証拠によつては所論の如き状況であつたことを確認することはできないので、これらは明白性を有するとはいえない。

4  以上のとおり、原審における検証の結果により明らかになつた諸点に照らすと、請求人が前記道程を踏破したことには凝念を抱かざるをえないところであるから、右検証調書及び写真六五葉(第一〇四号証の一ないし六三、第一〇五号証、第一〇七号証)は、請求人の自白調書中犯行後の足どりに関する供述部分の信用性に疑問を投ずる新証拠として、その明白性を否定することができない。

二犯行の態様について。

1  この点に関する鑑定人矢田昭一作成の昭和四九年八月二三日付及び昭和五〇年六月一一日付各鑑定書並びに原審における矢田昭一の証人尋問調書(これらを総称して矢田鑑定という)の明白性を否定した原決定の要旨は次のとおりである。

2  矢田鑑定によれば、被害者白福角藏の頸部刺創は、その頭部割創後に止めとして加えられたものとは考えられず、むしろ最初に加えられたものと推定されるというのである。

なるほど、頸部刺創は上肢防禦創の存在から同人の意識のあるときに受けたものと考えられるところ、頭部割創の多くは著明に頭骨を切創し、脳震盪や脳の意識中枢の一次障害を惹起させる程度のものと認められるので、最後に加えられたと推定される後頭部割創により意識を消失した後において、手を用いて刺身包丁の刃を握るという合目的行動はとれなかつたとみるのが合理的であり、かつ後頭部にある流下痕の形状からみて、最後に角藏を抱き起して右包丁でその頸部を突き刺したと推察できる余地は少いというべきであつて、これらによれば、角藏の受けた頸部刺創は、請求人が自白調書で供述しているように、最後に止めとして加えられた創傷であるとする可能性は少いものといわなければならない。次に、矢田鑑定は、右刺創が最初に加えられたと推定する理由として、(1)頸部刺創の創洞の向き、(2)頸部付近の畳の血痕の浸潤の工合、(3)頭部割創は重大なものが多く、これにより被害者の意識を早期に失わせることが推察されること、(4)攻撃中に鉈を一時刺身包丁に持ち替えるとは考えにくいことを挙げている。しかし、右(1)の点については、被害者が寝ていたところに限らず、上半身起き上つたところを刺された場合にも生ずるとしていること、(2)の点については、頭部割創による多量の出血もあつたこと、(3)の点については、現実に角藏が意識を失つた時期には幅をもたせていること、(4)の点については、刺身包丁から鉈の持ち替えにも同様の問題があり、犯罪者の異常心理からくる非合理的行動に注目すると、これらはいずれも頸部刺創が最初に加えられたと断ずる根拠に乏しい。

したがつて、矢田鑑定は、請求人の自白調書中止めとして刺身包丁で刺した旨の供述部分の信用性に影響を与えることは否定できないが、請求人は鉈による攻撃中に角藏が苦しまぎれに起き上ろうとするのを見て咄嗟に目についた刺身包丁で止めのつもりでその咽喉部を刺し、そう信じて捜査官に供述したことも考えられるので、請求人の角藏に対する第一打が頸部刺創であるとされるのならともかく、矢田鑑定はそこまで結論づけてはいないというべきであつて、第一打が鉈による斬りつけであるとしても、矢田鑑定に矛盾するとはいえず、したがつて、矢田鑑定により頸部刺創が止めでないことが証明されたとしても、それだけでは請求人の自白調書全体の信用性を否定するに足りないので、明白性を欠くというのである。

3  よつて検討するに、矢田鑑定(犯行の態様については、既に矢田鑑定と結論を同じくする世良完介作成の昭和三一年八月七日付鑑定書((以下世良第二次鑑定という))が第三次再審において取り調べられ、第四次再審においても同鑑定書に基いて本件と同様の主張がなされたが、新証拠にあたらないとして右再審申立は棄却されている。しかし、右世良鑑定書は防禦創の存在と兇器の点からのみ頸部刺創が止めであることを否定するのに対し、矢田鑑定はこれに加えて被害者の体位や後頭部流下痕の形状等多岐の点から検討を加えて結論を下したものであるから、矢田鑑定に基づいて犯行の態様についての主張をすることは、刑事訴訟法四四七条二項にいう同一の理由に該当しない旨及び矢田鑑定は証拠としての新規性を有する旨の原決定の判断は相当である。)によれば、角藏の上肢切創は頸部刺創を生じた際の防禦創と認められるので、刺身包丁により刺創を受ける際には角藏はいまだ意識があつたとみるべきであり、一方、頭部割創は重大なものが多く、脳震盪等により被害者の意識を早期に失わせるものであること、及び最後に角藏を抱き起して包丁でその頸部を刺したとすれば、同人の後頭部にみられるきれいな流下痕がつく筈はないことから、鉈による全部の頭部割創を受けた後に、刺身包丁による頸部刺創を受けたとは考えられず、したがつて、請求人の自白調書中、止めとして頸部を刺した旨の供述部分は客観的事実に適合しないものである。

次に、前示矢田鑑定が、角藏の頸部刺創が最初に加えられたと推定する理由として挙げる(1)の点につき、頸部刺創は創洞の向きが上向きであることから、被害者は寝ていたところか、上半身起き上つていたところを刺されたものと考えられるというのであるから、仮に前者とすれば最初に包丁で頸部刺創を受けたというべきであるが、後者だとすれば、先にいくつかの比較的軽い割創を受けながら、まだ意識を喪失する前に右刺創を受けたとも考えられるのである。そして、矢田鑑定が右理由として挙げる(2)の点については、原決定も説示する如く、頭部割創による多量の出血もあつたこと、また(3)の点については、当審における受命裁判官による矢田昭一の証人尋問調書を加えて検討するに、頭部割創のうち重大なものは脳震盪や意識中枢の障害を生じるが、比較的軽いものについては、意識喪失を生じないこともあることが認められることに徴し、頸部刺創が最初であるとは断じ難い。右(4)の点につき、矢田鑑定は、兇器を鉈から刺身包丁に一時持ち替えることは考えにくく、鉈による頭部割創はすべて引き続き生起したものとみるべきであるから、頸部刺創はそれより前すなわち最初に加えられたものであるとし、更に、世良第一次、第二次鑑定や司法警察員作成の昭和二三年一二月三一日付検証調書等によつて推認できる現場の状況、被害者の損傷の部位、形状をもとに加害者と被害者の体位等を想定したうえで最も可能性が高いものとして導き出した結論であつて、もとより傾聴すべき見解であるが、被害者白福イツ子は原第一審及び原第二審の各証人尋問調書及び司法巡査に対する昭和二三年一二月三〇日付供述調書において、母トギエが泥棒と叫び、まず父、次いで母がそれぞれ叩かれ、父が苦しんでいるのをまた叩かれた旨供述していること、世良第一次鑑定や医師山口宏作成の診断書、原第一審における証人山口宏の供述から明らかな如く、角藏以外の被害者はすべて鉈による損傷のみを受けていること、鉈は犯人が外部より持ち込んだものであること等を併せ考えると、犯人において先ず所携の鉈で角藏はじめ被害者を次々に殴打し、その後一たん倒れた角藏が苦悶の中に起き上るのをみて、その場にあつた刺身包丁を手に取つて同人の頸部を刺したが絶命させるに至らず、再び鉈を振つてその頭部を強打して死亡させたということも十分考えうるところである。

尤も当審における受命裁判官による矢田昭一の証人尋問調書によれば、創洞の向きから、犯人が被害者よりも高い位置だと上半身起き上つた被害者の頸部を刺すことは困難であるというのであるが、刺身包丁を取るためには犯人もかがみこまなければならないから、必ずしも犯人の方が被害者よりも高い位置にあつたとは限らないので、被害者が上半身起き上つたところを刺すことも決して困難とはいえない。

そうしてみれば、角藏に対する第一打が鉈による頭部割創であることを肯認した原決定の判断は必ずしも首肯ではないものではない。

しかしながら、刺身包丁による頸部刺創が止めでないことは動かしがたい事実であり(この点につき、世良第一次鑑定が誤りであることは、世良第二次鑑定及び矢田鑑定に徴し、明らかである)、請求人の自白はこれと相容れないものであつて、犯人が犯行時周章狼狽のあまり異常な心理状態にあつたことを考慮しても、軽視しがたいところであつて、右矢田鑑定は請求人の自白調書の信用性に疑問を投げかける新証拠として明白性を否定しがたい。

三思うに、原第一審判決及びこれを支持した原第二審判決は、関係記録から認められる当時の証拠資料を前提として、請求人の自白につきその信用性を肯定していることは明らかである。

しかし、その後前記新証拠が提出された本件において、請求人の自白の信用性を検討した結果、その信用性に動揺がみられたことは前示のとおりである。

第八結論

一以上のとおり、原第一審判決が請求人を有罪とした最も主要な証拠は、請求人の自白と鑑定結果回答書であり、船尾鑑定は、東京高等裁判所の上田勝治に対する証人尋問調書謄本、原審における馬場止、多良木利次、福崎良夫及び矢田昭一の各証人尋問調書と相俟つて、右鑑定結果回答書中、本件鉈に付着していた血痕の血液型がO型であるとする点につき、その信用性に多大の疑念のあることを明らかにしたものであり、それ自体、請求人の自白調書の信用性に影響を与えるほか、右自白調書には犯行の態様や犯行後の足どりの点につき疑問が存し、白調書の信用性、ひいては原第一審判決の第三の事実の有罪認定に重大な影響を有するものであることは否定しがたいというべきであり、右判決当時、かりに右新証拠として船尾鑑定や矢田鑑定、原審における検証調書等が提出されたとした場合、後記二の4のとおり、請求人が鉈を高原の土中に埋めたとの請求人の供述部分が信用し難いことと相俟つて、請求人の着衣に付着血痕がみられないことや、逃走口に関する請求人の自白調書の信用性についての疑念等を加味するまでもなく、原第一審判決の請求人に対する有罪認定には多大の合理的な疑いを生じ、遂にこれを払拭しがたく、有罪の言い渡しにはとうてい到達しえなかつたものと断ぜざるをえない。

しからば、請求人があらたな証拠として提出援用する証拠のうち、船尾鑑定、矢田鑑定、原審検証調書等は刑事訴訟法四三五条六号所定の無罪を言い渡すべき明白かつ新たに発見した証拠にあたるというべきである。したがつて、本件再審請求を認容するのが相当と認められるから、これら証拠の明白性を否定し、右請求を排斥した原決定は、その余の点について判断するまでもなく取り消しを免れない。論旨は理由がある。

二なお所論にかんがみ、以下数点につき付加して判断を示す。

1  自白調書の証拠能力、任意性について。

(一) (捜査の経過)原決定挙示の関係証拠によれば、次の事実が認められる。

昭和二四年一月四日〜五日ころ八代署巡査部長木村善次は、熊本県八代郡宮地村の駐在巡査島崎恵吉より、同月一日午前九時ころ宮地村に一人の男が現われて近所の者に対し、「人吉で殺人事件があり犯人が宮地村に盗品を売りに来たことを聞知したので捜査に来た。人吉の丸駒に働く女の家を訪ねに行く。」と申し向けた旨連絡を受けたので、署長に報告のうえ聞き込み捜査にあたつたところ、その男は人吉署の刑事と名乗つたことが分り、特殊食飲店「丸駒」で働く女の母親である村上キクエ方を訪れたところ、同女から、その男が、自分は刑事だが、丸駒に一泊してあなたの娘に事情を聞いたところ、かわいそうな境遇なので請け出したい等と語つたことを聞き、かつ、その男は白福事件についての手配犯人に服装、人相、体格、年齢等がよく似ており、右事件当時人吉市内に居たことが窺われたので、同事件の犯人が自己の不安な心理を隠し切れずに刑事と名乗つたのではないかとの疑いを抱き、更に村上の話を手掛りに宮地村の大石組で尋ねたところ、村上方を訪れたのは請求人であることが判明した。そこで、木村巡査部長は同月一二日ころ人吉方面に赴き、免田町の請求人方、免田町警察署、人吉市内等で請求人の素行等を捜査したところ、請求人は昭和二三年一二月二七日ころから家を出ており、人吉市内の旅館「孔雀荘」で稼働している溝辺ウキエが白福事件の犯行当日である同月二九日の夕方、国鉄免田駅から人吉駅まで請求人と汽車で同道しており、しかも請求人は昭和二四年一月六〜七日ころから夜具を持つて同県球磨郡一勝地村那良口の山奥に行つていることなどを聞き込み、前記情報と合わせて、請求人に対し白福事件の犯人との疑いを深め、同月一二日ころ人吉署に赴いて同署の警察官に捜査状況を通報した。人吉署では請求人の白福事件前後の動向等を捜査し、請求人が同事件の犯人であるとの嫌疑を抱き、同月一三日の夕刻、右本村巡査部長及び人吉署の警察官四名が拳銃や手錠を携帯して自動車で同署を出発し、午後七時ころ前記那良口に到着後、歩いて山道を登り、午後九時すぎころ一勝地村俣口の伊藤イチ方に至つたが、その時請求人は寝床に入つて右伊藤の子供と雑談していたので、警察官二人が室内に入り、昭和二三年一二月末ころ人吉を訪れたことはないかと尋ねたところ、請求人は同月二六日ころ山に登つて来て以来一度も人吉方面に下りたことはないと答え、溝辺らの供述と全くくい違つていることから、警察官は請求人に対する謙疑を深め、請求人に対し人吉署まで同行を求め、請求人を取り囲むようにして約二時間かかつて山道を下り、那良口からは人吉署まで自動車に乗り昭和二四年一月一四日午前二時三〇分ころ同署に到着した。そして、同署警察官が請求人に対し昭和二三年末の動向について尋問したところ、請求人は右警察官の予期しなかつた免田町の酒井喜代方の玄米窃盗事件(以下別件窃盗事件という)及び同町の犬童清作方での籾窃盗事件を自白したので、別件窃盗事件についての盗難届を確認のうえ、同事件で請求人を緊急逮捕し、逮捕状請求書には同月一三日午後九時三〇分に伊藤イチ方で逮捕した旨記載し、同月一四日午前三時に人吉簡易裁判所に逮捕状を請求し、同裁判所裁判官より逮捕状が発付されたが、警察官は同日午後三時三〇分に別件窃盗事件について請求人の弁解録取書を作成し、次いで翌一五日、酒井喜代治の盗難届の送付を受け、犬童清作に盗難始末書を作成させてこれを受理し、右各窃盗事件についての請求人の自白調書を作成したうえ、起訴猶予相当の意見を付して同日午前一一時三〇分人吉区検察庁検察官に事件送致の手続をとり、同検察庁はこれを受理した。更に、人吉署警察官は同月一四日から請求人に対し、昭和二三年一二月二九日孔雀荘を出た後の請求人の行動について尋問したが、請求人は同日夜は山並政吉方に泊つたなどと弁解したので、裏付捜査をしたところ、同人方には同月三一日に来たことが判明した。昭和二四年一月一五日になつて請求人は白福事件についての犯行を一部認め、兇器は斧で高原の滑走路付近に捨てた(又は埋めた)旨自白したので、二度に亘つて捜索したが発見できなかつたところ、請求人は右自白を翻した そして、警察では同月一六日正午ころ請求人を別件窃盗事件について釈放したが、白福事件については請求人の犯行と断定し、同日午後二時ころ白福事件の嫌疑により請求人を緊急逮捕し、同日午後五時逮捕状を請求して発付された。右再逮捕後、同日夕刻から司法巡査馬場止が請求人を取り調べたところ、請求人は白福事件について全面的に自白し、兇器は鉈で伊藤方に置いてあること、犯行状況、逃走経路について供述したので、司法警察員福崎良夫において弁解録取書を作成するとともに、同月一六日付の自白調書を作成し、同月一七日捜索差押状の発付を受けて鉈、マフラー等を押収し、同日付及び同月一八日付の自白調書がそれぞれ作成された。同月一九日には検察官において請求人の自白調書を作成し、勾留請求をしたが、請求人は勾留尋問の際白福事件についての犯行をすべて認め、勾留状が発付された。

(二) 右に明らかな如く、警察官は白福事件について取り調べる意図の下に、令状はもとよりこれといつた証拠もないのに、請求人を一勝地村俣口の伊藤イチ方から人吉警察署まで同行したものであつて、日も暮れたあと、既に床に就いていた請求人に同行を求め、深夜きびしい寒気の中を警察官五名の看視下に約二時間ばかり山道を歩行させた後、自動車に乗せて人吉警察署に連行したものであることを考えると、右同行は、任意同行として許される範囲を超え、逮捕と同視すべきものというべきである。したがつて、右は違法拘束といわざるを得ず、かかる違法拘束の許されないことは勿論である。

次に、別件窃盗事件の逮捕につき、事案の内容は深夜免田町で敢行された酒井喜代治方の玄米一俵の窃盗事件であるが、被害は軽微とはいえず、同じく免田町で深夜犯した犬童清作方の籾七俵の窃盗事件もあつて、請求人の犯罪性向はたやすく看過しがたいものであり、しかも請求人は当時家出して定まつた住居も有していなかつたものであることから、身柄確保の必要性も存したことが認められるので、請求人を別件窃盗事件で緊急逮捕したことは違法不当であるとはいえない。もつとも、警察官としては白福事件についての取り調べの意図を有していたもので、別件逮捕中に白福事件についても請求人を取り認べたこと(請求人は犯行の一部を自白した後これを翻した)は認められるけれども、この間に別件窃盗事件につき請求人を取り調べてその自白調書を徴し、自白の翌々日には請求人を釈放していること、右窃盗事件については逮捕だけで勾留には至つておらず、しかも白福事件については請求人の供述調書が作成されていないことなど取り調べ状況をみても、主として白福事件のために取り調べが行われたものとは認められず、熊本地方検察庁八代支部の最高検察庁公判事務課あての電信文を参酌しても、別件窃盗事件の逮捕が不適法であるとは断じがたい。

そして、請求人は右別件窃盗事件で釈放後に本件白福事件で逮捕勾留され、初めて同事件に対する請求人の自白調書が作成されたのであるが、請求人に対する前記取り調べの経過に徴し、かつ、請求人に対し捜査官による無理な取り調べがなされたとして弁護人らによつて提出された証拠を参酌しても、請求人の右自白調書の証拠能力ないし任意性については、もとより一抹の疑念がないわけではないが、再審理由の有無を決すべき段階においては、いまだこれを否定すべきものと断定することはできないので、結局、これらの点に関して提出された各証拠の新規性ないし明白性を否定した原決定の判断は誤りなきに帰する。

次に、白福事件の逮捕につき、その昭和二四年一月一六日付緊急逮捕手続書には、証拠資料として鉈や絆天等が記載され、引致の日として昭和二四年一月一七日午後一時と記載されているけれども、右鉈等は同月一七日に捜索差押されたものであることに徴し、同月一六日には証拠資料として記載できる筈はないので、この部分に限り証拠物押収後に記載されたとみるべきであり、なお、引致の日時についても、逮捕状記載のとおり同月一六日午後二時三〇分ころであるのを、同月一七日午後一時と誤記したものと認められ、また、右事件の送致手続の日時も右逮捕状記載のとおり同月一八日午前一一時であつて、白福事件の送致書に同月一九日とあるのは誤記と認められ、更に、別件窃盗事件の逮捕についても、請求人の弁解録取書が逮捕直後ではなく、同月一四日午後三時三〇分に作成されたことが認められるが、右の違法ないし瑕疵はいずれも重大とはいいがたいから、右逮捕後の勾留中に作成された請求人の自白調書の証拠能力を否定すべき事由とはいえないので、これらに関して提出された各証拠はいずれも明白性を有するものではない。

2  犯行の動機について。

この点に関し、弁護人らが新証拠として提出する第五九ないし第六二号証(航空写真及び地図)第八四号証(写真)、原審検証調書、第一一二号証(白福イツ子の司法巡査に対する供述調書)、第一〇六号証(鑑定人矢田昭一作成の昭和四九年八月二三日付鑑定書)、第一一三号証(同鑑定人作成の昭和五〇年六月一一日付鑑定書)及び原審における矢田昭一の証人尋問調書については、白福家の位置及び付近の地理的状況につき既に原第一審で検証が行われていること、被害者白福イツ子は原第一審で証人として犯行時の状況を供述していること、矢田昭一作成の鑑定書や同人の証人尋問調書は、本件犯行が計画的犯行であることまで立証する趣旨のものとはいえないことに徴し、これらの証拠の新規性ないし明白性を否定した原決定の判断は肯認しうるところである。

3  請求人のアリバイについて。

この点に関し、請求人が昭和二三年一二月二九日免田町より人吉市に出て来たこと(原第一審における溝辺ウキエ、平川ハマエの各証人尋問調書)、同月三一日には山並政吉方に宿泊したこと(同じく山並政吉の証人尋問調書)、及び同月二九日か三〇日に丸駒に登楼したこと(同じく佐伯栄一郎の証人尋問調書)は、いずれも証拠上動かすことのできない事実であるところから、焦点は、(イ)同月二九日夜犯行、同月三〇日夜丸駒宿泊であるか(アリバイ不成立)、(ロ)同月二九日夜丸駒宿泊、同月三〇日夜兼田又市方宿泊であるか(アリバイ成立)であるところ、全証拠を検討しても、右(イ)(ロ)各事実にそれぞれ副ういくつかの証拠が散見されるものの、殆どが供述証拠であつて決定的なものは見出せず、そのいずれとも確定することは困難というべきであるから、請求人にアリバイが成立するとの所論はたやすく採用しがたく、この点に関する各証拠の新規性ないし明白性を肯認することはできない。もつとも、弁護人らは原審における検証調書によつて、請求人の犯行後の足どりが否定されたので、右検証調書は請求人のアリバイにつき新規性を有すると主張するところ、先に犯行後の足どり(第七の一)について判示したとおり、右検証の結果により、請求人の逃走経路については所要時間その他につき数々の疑点が生じたことから、請求人が果して右道程を踏破したかどうかに疑問が存し、ひいては同月二九日夜丸駒宿泊という可能性も考えられうる事情にあることから、右検証調書の新規性を否定するのは相当でなく、この点に関する限り原決定の判断は是認し難いものである。

4  本件において留意すべきその他の点

(一) 犯人の決め手となるべき指紋の有無については、請求人の自白調書によると、請求人は白福家の雨戸より屋内に侵入して、タンスの引出しを開けて金品を物色し、その場にあつた刺身包丁を振つて角藏の頸部を刺したというのであるが、全記録を精査しても、請求人において手袋を使用したり指紋を残さないように配慮した形跡は全く窺われないのに拘らず、原審における福崎良夫の証人尋問調書、当審取り調べにかかる熊本地方検察庁検事麻生興太郎作成の報告書によると、指紋採取作業の結果は、白福家のタンスや雨戸からはもとより、現場に遺留されていた刺身包丁からも、重複したり紋様形状が不鮮明な指紋ばかりで、請求人の指紋を検出することはできなかつたことが認められる。

(二) 次に血痕について、犯人は被害者四名を次々に殺傷し、与えた傷害もきわめて重いものであり、司法警察員作成の検証調書によれば、現場の畳には多量の血液が浸潤し、屏風にも飛沫血痕が付着していたことが認められ、更に、請求人の自白調書によると、請求人は逃走の途中河川でハツピ(絆天)やズボンに付着した血液を洗い落したと供述しているのであつて、犯人も返り血を浴びてその着衣にはかなりの血液が付着したと考えられるのに、鑑定結果回答書によると、押収された請求人の衣類等(絆天、上衣、チヨツキ、マフラー、地下足袋、軍手、ズボン)には何ら血痕の付着を証明できないというのであり(鑑定人船尾忠孝作成の昭和三八年五月二五日付鑑定書によれば、着衣に微量でない人血痕が付着した場合にはかなり綿密な洗濯を行なつても血痕予備試験成績が陰性化することはないと認められる。)、不自然であるといわなければならない。

(三) 更に、犯人の逃走口につき、請求人の自白調書によると、請求人は白福家の裏口の戸を押し開いて外に出た旨供述するのであるところ、原第二審検証調書によると、犯行現場となつた家屋には裏の出入口はなく、右裏口とは、炊事場横の窓以外には考えられないが、その大きさは縦1.9尺、横3.2尺であり、下辺(地面より1.9尺の高さである)には幅2.1尺の棚が取り付けられ、棚の上には摺鉢、茶碗、丼、鍋等が置かれていたことが認められるので、右窓から外へ脱出すること自体は可能であるけれども、あらかじめ摺鉢等を取り除けておかない限り脱出の際身体が当つて落したり割つたりする筈であるのに、犯行直後の現場にはそのような形跡は少しも認められないこと、犯人脱出に関する原第一審証人白福イツ子及び同白福ムツ子の「犯人は床下の方に音をさせて出て行つたと思う」旨の各供述部分と相容れないこと等に照らすと、請求人の自白調書中逃走口に関する部分も疑問なきを得ないところである。

(四) なお、請求人の自白調書中には、請求人が、犯行後間もなく本件鉈を高原の土中に埋めたあと、後日これを取り出した旨の供述部分が存するが、本件鉈は土中から発見されたわけではなく、原第一審における証人上田勝治の供述によつても、凹凸のある畑地から鉈を埋めたような痕跡が請求人の指示によつて発見されたにすぎないのであつて、鉈を埋めた場所の存在を疑う余地はない旨の原決定の説示は相当でない。また、原審検証調書(昭和四八年一二月二五日実施の分)によると、鉈を埋めたとされる地点は、原野で畑、雑草地がひろがり、広漠として別段特定できるような目印もない地形であることが認められるうえ、請求人の自白調書によれば、鉈を埋めたという時間も、深夜で周囲が暗く、請求人が後日再びこれを探し出すことは地形上至難の業と考えられる。

更に、請求人は、その自白調書において、本件犯行を自白するとともに、請求人は昭和二三年一二月二九日免田町の家を出るときに本件鉈を持ち出し、汽車の中でも人吉市に着いてから平川食堂でもずつと腰にさして携帯し(孔雀荘に入るときだけ、筋向いの木炭倉庫の隅に隠した)、なお、右車内や人吉市孔雀荘で溝辺ウキエと、同市平川食堂で平川ハマエと会つた後、白福家に押し入り、右鉈を使つて本件兇行に及んだ旨、及び犯行後間もなく鉈を高原の土中に埋め、昭和二四年一月一〇日ころこれを堀り出して免田町の家に帰り、鉈は家に入る前に近くの山中に隠し、同月一一日ころ家を出るときに義母(免田とめの)からふとんや毛布を貰い、免田駅から那良口駅へ送り、鉈はゴザに包んで携帯し、那良口へ出かけた旨供述しているが、原第一審第三回公判期日において、右自白を翻し、請求人は、昭和二三年一二月二九日家を出るときには、黒い風呂敷包み(作業服、絆天、米在中)を所持していただけで、鉈は持たず、車内や人吉市内で鉈を持ち歩いたこともない旨、及び昭和二四年一月九日ころ免田町の家に帰り、ふとんと鉈を持つて出たが、井川政喜方でふとんの中に米を入れてゴザで包み、鉈もゴザで包んで二個の荷物にし、翌一〇日ころ一勝地へ出かけた旨供述している。そこで按ずるに、前記溝辺ウキエは、司法巡査に対する昭和二四年一月一六日付供述調書において、昭和二三年一二月二九日汽車内と孔雀荘で請求人に出会つたが、同車内では請求人は黒色の布で包んだ角ばつた物を所持していた旨供述し、検察官に対する昭和二四年付供述調書において、昭和二三年一二月二九日請求人は同車内では黒い布で包んだ物を所持していたが、孔雀荘で会つたときには所持品はなかつた旨供述し、更に、原第一審における証人尋問調書においては、右司法巡査に対する供述調書と同旨の供述をし、前記平川ハマエは、司法巡査に対する昭和二四年一月一七日付供述調書において、請求人は昭和二三年一二月二九日午後七時すぎころ、平川食堂に立ち寄り、黒の風呂敷包みを預けたが、他に所持品があつたかどうか記憶しない旨供述し、司法巡査に対する昭和二四年六月二一日付供述調書において、請求人は昭和二三年一二月二九日午後七時ころ平川食堂に黒い風呂敷に包んだ物を預けたが、他には何も持つていなかつたようで、鉈を持つていたようにも思われず、腰にさしていたようにも思われない旨供述し、検察官に対する昭和二四年一月二四日付供述調書において、請求人は昭和二三年一二月二九日平川食堂に黒い布で包んだ物を預けたが、鉈を持つていることは全然気づかなかつた旨供述し、原第一審における証人尋問調書において、請求人は同日の夕方、平山食堂に立ち寄り、黒い布で包んだ物等を預けたが、別に変つた様子は見受けなかつた旨供述し、更に、第三次再審における証人尋問調書においては、司法巡査に対する昭和二四年六月二一日付供述調書と同旨の供述をしているのである。一方、前記免田とめのは、原第一審における証人尋問調書において、請求人が昭和二三年一二月二九日に家を出た際、鉈を持つて出たかどうかは知らないが、昭和二四年一月八、九日ころ家に戻り夜具と米を持つて出た旨供述し、第三次再審における証人尋問調書において、請求人は同月七、八日以前に鉈を持ち出したことはなく、同日ころ鉈と夜具を取りに来た旨供述している。右各供述は、請求人の自白を翻した後の供述に適合することが明らかである。

以上の諸点に照らすと、請求人の自白調書中、本件鉈を高原の土中に埋めた旨の供述部分もたやすく措信できないところである。

5  請求人に不利な事実

もつとも、請求人にとつて不利と思われる事実もないわけではない。例えば、請求人の逮捕前の言動、すなわち、先に経過(前示第八の二1(一))において説示したとおり、白福事件発生の数日後、宮地村において、請求人は人吉署の刑事であると名乗り、人吉の殺人事件で捜査に来たと申し向けたことや、一勝地村の伊藤イチ方において、昭和二三年一二月末ころ人吉を訪れたことはないかとの警察官の問いに対し、同月二六日ころ山に登つて以来一度も人吉方面に下りたことはないと虚偽の事実を答えたこと等である。しかし、これら請求人にとつて不利とみられる事実を考慮しても、前示の如き請求人の自白内容の疑点が解消されるものではない。

三よつて、本件抗告は理由があるので、刑事訴訟法四二六条二項を適用して原決定を取り消し、同法四四八条一項により本件について原第一審判決をした熊本地方裁判所八代支部において再審を開始すべきものとし、なお、同条二項に従い原第一審確定判決による死刑の執行を停止することとして、主文のとおり決定する。

(山本茂 川崎貞夫 矢野清美)

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