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福岡高等裁判所 昭和54年(ネ)544号 判決 1981年3月31日

控訴人

伊藤龍文

松下竜一

外五名

被控訴人

九州電力株式会社

右代表者

永倉三郎

右訴訟代理人

澤田喜道

外三名

主文

一  本件控訴はいずれもこれを棄却する。

二  控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

控訴人らは、「一原判決を取消す。二本件を福岡地方裁判所小倉支部に差戻す。」との判決を求め、被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の主張及び証拠の関係は、左のとおり付加する外、原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。

(控訴人らの主張)

原判決は環境権が現行の実定法上具体的権利として是認できないことを理由に控訴人らの火力発電所の操業差止め、埋立地の原状回復を求める本訴を却下したが、同判決は以下(一)ないし(三)において詳述する理由により取消し差戻しを免れない。

(一)  控訴人らが本訴を提起したそもそもの目的は、被控訴会社豊前火力発電所の差止め及び埋立地の原状回復にあるのであるから、本訴の訴訟物は右差止め請求権ないし原状回復権の存否以外にあるべき道理はないのであつて、該請求権等のよつで生ずべき権利が環境権であろうと人格権であろうとその外の生活利益であろうと問題になる余地はない。しかるに、右差止め請求権のよつて生ずべき権利として控訴人らが環境権のみを主張している旨控訴人らの主張を誤解ないし曲解した上、環境権の権利性を否定して本訴を却下した原判決は、訴訟物についての解釈を誤り、判断を遺脱する違法を犯したものといわなければならず、取消し差戻しを免れない。

(二)  本訴請求原因として、仮に、右差止め請求権等の根拠となるべき権利の主張が必要であるとしても、控訴人らは、原審口頭弁論において、環境権のみならず人格権の主張をしたに拘らず、環境権以外の判断をしていない原判決は違法である。即ち、控訴人らは、現に先に引用した原判決事実摘示第二の一の3の(三)の(1)の(イ)において、火力発電所の操業により予測されるべき健康被害の蓋然性を陳述したのみならず、原審で陳述した準備書面の中でも、原審における控訴人側証人の証言の中においても、被控訴会社豊前火力発電所の操業により深刻な大気汚染が発生し、控訴人らを含む多数の地域住民に対し重度の呼吸器障害等の健康被害をもたらすであろう蓋然性を縷々主張立証しており、このことは本訴差止め等請求権が控訴人らの人格権に根ざすことを如実に物語るものといわなければならない。加うるに、環境権とは本来人格権を包摂し且つ人格権のみでカバーできない外延部まで法的保護の対象として包みこもうとして考案された法的権利であることに照らせば、環境権の主張があればその前提として当然人格権の主張があるものと理解されなければならない。しかるに原判決は、控訴人らが主張した環境権の内容中に人格権は含まれない旨控訴人らの主張を一方的に曲解したため、人格権についてなんらの判断なく本訴を却下したものであり不当である。

(三)  仮に、原審口頭弁論における控訴人らの主張が環境権のみであり、該主張中に人格権の主張とみられるべきものが存在しないとすれば、原判決は次の二点において釈明権の行使、これは同時に釈明義務の履行というべきであるが、を怠つた違法を犯しており、所詮取消しを免れないものである。

その第一点として、控訴人らが主張した環境権の主体、客体及び内容の各範囲につき、原審は一度も釈明を求めることなく、「環境権なるものの各個人の権利の対象となる環境の範囲、すなわち環境を構成する内容の範囲及びその地域的範囲は漠然としている上、その侵害の概念も明確でなく、さらには権利者の範囲も限定しがたく、その権利概念自体まことに不明確なもの」であるという理由から環境権の法的権利性を否定したが、控訴人らは元来抽象的な権利としての環境権を主張しているものではなく、被控訴会社豊前火力発電所の操業によつて大気汚染が予測されるべき環境についての具体的な生活利益を主張している。即ち、本訴提起の前後を通じて、環境の地域的範囲としては、豊前火力発電所の高濃度な排煙が到達するであろう半径二〇キロメートル以内の地域を該当地域として主張し、環境侵害の態様としては、同発電所から豊前平野に排出されるべきイオウ酸化物は年間二万トンに達する旨有害物質の質、量を特定し、排出による人身被害を含む各種公害の発生の蓋然性を指摘し、更に権利者の範囲としては、控訴人らを含む豊前平野で生活するものが本訴差止め請求権等の環境権を有する旨主張してきたものであるから、適切な求釈明があれば、当然、環境権の主体、客体及び内容の各範囲について具体的な主張ができた筈である。そうとすれば、原判決のような環境権の抽象的解釈に基づく訴却下の判断は回避できたわけであり、原判決は、明らかに原審の釈明義務の不当な不履行に基因するものといわなければならない。

原判決が釈明義務を怠つた第二点としては、仮に控訴人らにおいて本訴差止め請求の根拠となるべき権利として環境という用語を使用し主張したからといつて、その真意が社会的、文化的に健康で快適な生活を営むに足る良好な環境を享受し支配する権利を意味すること、即ち、いわゆる人格権の内容をなす生活利益の擁護を意図していることは、控訴人らが原審口頭弁論の随所において豊前火力発電所の操業によつて発生すべき公害による控訴人らの健康被害に種々言及している事実に徴し客観的に疑う余地がなかつた。従つて、原審としてはすべからく控訴人らの真意を汲んで、本訴差止め等請求権のよつて生ずべき根拠として、環境権が実定法上不適法な権利であるならば、人格権をもつて適法な権利である旨法律構成することにより、適切な釈明義務を行使した上、人格権に対する実質的な判断を示すべきであつたし、右は、最高裁判所第三小法廷が昭和四四年六月二三日言渡した判決理由の趣旨からも明らかである。しかるに、法律を語るべき裁判所の職責を無視し、人格権として容易に法律構成できる控訴人らの主張を、敢て環境権の主張のみと即断して訴訟判決をした原判決には、釈明義務を怠つた違法のあることが明白である。

特に、右第一、二点の釈明義務の不履行は、本訴が法律的に素人である控訴人らの提起にかかることに対する原審の無理解と配慮の欠如にその一因があることを考えれば、極あて違法性が高いという非難を免れることはできず、原判決は取消しの上速やかに福岡地方裁判所小倉支部へ差戻されなければならない。

(被控訴人の主張)

原判決の訴却下の結論は以下(一)ないし(三)において述べる理由により全く正当である。

(一)  原判決は、控訴人らの主張を曲解した事実はもとよりその主張する環境権の中身を一方的に独断した事実もないのであるが、控訴人らは原審口頭弁論において終始豊前平野の環境権のみを主張したのであつて、それ以外に自らの健康等についての生活利益を主張したことは一度もなかつた。右の事実は、控訴人らの訴状、準備書面の記載内容及び本件口頭弁論の全趣旨を仔細に検討すれば明白である。

しかして仮に控訴人らが、当審において訴を追加的、選択的に変更し、新しく豊前火力発電所の操業差止め等請求権の根拠となるべき具体的権利として環境権以外のなんらかの権利を主張する場合においては、右は控訴人らの故意又は重大な過失に基づく時期遅れの主張であるから許されないし、然らずとしても、被控訴人は一審の判断を受ける機会を奪われる結果となることを回避するため、控訴人らの右訴の変更に同意しない。

(二)  控訴人らは原審において終始豊前平野の環境のみを問題とし、豊前平野の環境権のみを主張したのであつて、それ以外に人格権侵害の法的主張をしたことがないのはもちろん、自分らの健康被害等人格権の侵害に関する具体的事実を主張したことは一度もなかった。そもそも、控訴人らは原審において当初から環境権のみを主張し人格権を主張する意図を有しなかつたことは、控訴人松下が本件訴訟を巷間「豊前環境権裁判」と名付けている事実、同控訴人が座談会豊前環境権訴訟判決批判・岐路に立つ環境保全裁判において「あと方法は裁判以外にないということになつたとき、原告になろうと言う者が漁業者にも農業者にもいなかつたし、また、どういう形で裁判できるのかわからなかつた。そういうときに、たまたま伊達の環境権裁判が報道されたわけです。それには「環境権」について憲法二五条によつて裁判をやることができるんだという解説があり、それを読んで、飛びついたということです。」と述べている事実、更に、原判決言渡後、この判決に対する感想を求められた同控訴人が、新聞記者に対し、「われわれは環境権を主張しているが、これは憲法に基づいた権利だ。今回の判決で憤りを感ずるのはわれわれが法的に環境権を主張しようと憲法学者なども含めた立証計画を早くから裁判所側に提出していたのに、裁判所はこれを認めず、環境権はないんだと判断したことだ。」(甲第四六号証の七「独断判決、控訴する」の項)と語つている事実からも、明らかなところである。

また、環境権と人格権の関係について、控訴人らは当審において環境権は本来、人格権を包摂する法的概念である旨強調するが、これは控訴人ら独自の発想に基づく議論であつて採るに足らない。世上いわゆる環境権論者の所説に従つても、人格権でまかないきれない場合に始めて環境権が主張されることとなるのであつて、控訴人らが主張するような「人格権を包摂する環境権」なる権利概念を承認する理論は存在しない。

(三)  控訴人らは原審裁判所の釈明権不行使の違法をいうが、右主張はあたらない。環境権の内容、範囲につき、控訴人らは、原審口頭弁論において終始抽象的に環境権の侵害を主張し、具体的な環境権の内容としては潮干狩をする権利・海水浴を愉しむ権利・磯遊びをする権利・景観を眺望する権利・水産資源を守ろうとする権利である(原審における控訴人らの準備書面第一〇、四頁)との主張を繰り返した外、「環境権というのが実際に何だということも、非常に漠然としております。非常に我々象徴的に使つてるわけです」と釈明して、それ以上に環境権の主体、客体及び内容の各範囲を明確にする積りがないことを意思表示し、豊前火力発電所操業差止め等請求権の根拠となるべき具体的権利の主張につき、原審裁判所が第二回口頭弁論で求釈明したのに対し「環境権以外にどういう権利を法的に我々はいおうとしているのかと問われたところで、我々は分らん。……それじあ法律に照らして、成程これが何法の何条を侵害してるんだということは、それは法律の専門家である裁判所側で判断していただけませんかというのが、私達の考えなんです」と強弁し、環境権以外に明確な法律構成の主張をする意思がないことを明らかにしているのであつて、このような控訴人らに原審裁判所の釈明権の不行使を非難する資格はない。(証拠)<省略>

理由

一当裁判所は、当審における新たな証拠調の結果を参酌しても、控訴人らの本件差止め等の訴はいずれも不適法であり却下を免れない、と判断するものであるが、その理由は左のとおり付加する外原判決理由説示と同一であるから、ここにこれを引用する。

(控訴人らの主張に対する判断)

(一)  先ず控訴人らは、本訴の訴訟物は被控訴会社豊前火力発電所の差止め等請求権の存否以外にないに拘らず、原判決は右請求権の根拠となるべき権利まで訴訟物に含めしめた違法を犯している旨主張する。

しかしながら、審判の対象となるべき民事訴訟上の請求(訴訟物)とは実体法上の請求権を指称する法概念であり、請求権毎に個性ある別個の権利として特定して主張され、確定且つ保護されるべき性質のものと解すべきである。これを本件についてみると、控訴人らが本訴において訴求する被控訴会社豊前火力発電所の操業差止め等請求権のよつて生ずべき実体法上の権利が、いわゆる環境権であるか、人格権であるか、或はまたその他の実定法上の具体的権利であるかによつて、本訴の訴訟物はそれぞれ異ると解すべきであつて、右差止め等請求権を根拠づける実体法上の権利を度外視して本訴の訴訟物を論ずることは相当でなく、右の理は、給付訴訟において所有権に基づく返還請求権と占有権に基づく返還請求権とが別個独立の訴訟物を構成すると解すべき法理と同一である。

確かに講学上、給付訴訟の訴訟物とは相手方から一定の給付を求めうる実体法上の地位があるとの権利主張であるから、実体法上の請求権の個数をもつて訴訟物の個数と解すべきでなく、紛争解決の法的利益の個数ないし紛争の派生する生活事実関係の個数をもつて訴訟物の個数と解するいわゆる新訴訟物理論があり、同理論に従えば控訴人らの本訴差止め等請求の眼目は豊前火力発電所の操業差止めと埋立地の原状回復のみにあるのであるから、差止め等請求の根拠が環境権であると人格権その他の権利であるとを問わず訴訟物は一個であり、原判決は環境権のみならず差止め等請求権を基礎づけるべき人格権その他の権利について判断を示した上本案判決をなすべきであつた旨解釈する余地がないではないのであるが、同理論は特に訴訟物の特定、識別及び既判力の範囲を生活事実関係の同一性という非法律的な基準に求める点において法概念としてなお不明確な部分が多く、当裁判所の左袒しがたいところである。また仮に同理論に従うとしても差止め等請求権を基礎づけるべき実体上の権利の主張は不可欠であるところ、本件の場合、控訴人らはいわゆる環境権以外に人格権等なんらの権利も主張していないとみるべきこと後に説示するとおりであるから、控訴人らの主張は所詮主張自体失当であり、採用できない。

(二)  次に、控訴人らは本訴差止め等請求の根拠として人格権の主張をしたにも拘らず原判決にはその点の判断がない旨強調するので検討を加える。

個人の存在自体にかかわる生命、身体の安全、精神、健康、自由の保障等は、名誉、貞操、氏名権、肖像権等と並んで、人が人として存在するため、第三者の侵害から当然保護されなければならない人格的利益であり、その法的保護の絶対的必要性の要請から、実定法の規定をまつことなく、人格権の名称をもつて物権的請求権に準ずる具体的な妨害排除請求権を保障されるべきものと解することは現在異論をみないところである。もつとも、人格権の権利性については、その保護すべき人格的利益の多様性と人格権の包括性からして、権利の明確性に欠ける難点がないではないが、個々人の生命、身体、健康、自由、名誉等、具体化された個別的権利として権利の内容を把握することができる点に着目すれば、先に引用した原判決一七枚目表二行目から同裏六行目までの理由説示のとおり、控訴人ら主張の環境権の権利概念が極めて曖昧にして不明確であるのと異なり、人格権の権利性は法的概念として必ずしも内包外延が不確定であるとはいいがたいのである。従つて、また、差止め等請求権の法的根拠たるべき人権格の主張の有無を訴訟上判定するについても、右の観点から個々人の生命、身体、健康等の人格的利益が具体化された個別的権利として客観的なその内容を把握できる程度の事実主張がなされているか否かによつて判定されなければならないのであつて、差止め請求当事者において請求原因として人格権以外の権利主張をしている場合においては尚更然りといわなければならない。

これを本件についてみるに、控訴人らが原審口頭弁論において本訴差止め等請求の根拠として終始主張したところのものは、豊前平野、豊前海の大気汚染、温排水被害、油汚染等の公害の発生、海水浴場、潮干狩の場、水鳥の採餌場、散歩の場等の喪失という環境条件の悪化等であつた。控訴人ら個々人の健康被害等の蓋然性の具体的事実主張が全く見られないことは記録上明らかである。

確かに、控訴人らは原判決事実摘示第二の一の3の(三)の(1)の(イ)にみられるとおり、豊前火力発電所の操業により予測されるべき公害の一つとして、豊前市一帯における地域住民の呼吸器系疾患を中心とする健康被害の発生の蓋然性に触れた事実主張をしており、当審において、右は豊前市居住の控訴人らが自らの健康被害を主張する趣旨を当然に包含するものである旨釈明する。

しかしながら、原審における右事実主張を控訴人らの請求原因全体の流れの中に位置づけて読めば、右は控訴人らの個個的な人格的利益として具体的な健康被害を主張する趣旨ではなく、豊前市周辺に居住する地域住民全体の抽象的な健康被害の蓋然性を、農業被害、漁業被害、樹木被害等の蓋然性とともに環境汚染の一例として主張したに止まる趣旨を看取できるのであつて、控訴人ら固有の人格権の主張とは到底認め難い。けだし、控訴人ら固有の人格権の主張があると認めるためには、単に、豊前地域住民全体が被るべき健康被書を指摘するだけでは不充分であり、同地域に居住する控訴人ら個々人の人格的利益の侵害、例えば、健康被害の蓋然性に触れる具体的、個別的な主張の存在を必要とする、というべきであるに拘らず、控訴人らは原審口頭弁論において個別的な健康被害の蓋然性に触れる主張を全くしていないからである。この点に関する控訴人らの当審における前記釈明は、人格的利益の一身専属性ないし個別性を無視した論法に基づくものであり、採用の限りでない。

また、控訴人らは原審における証拠調の過程において控訴人らの健康被害に関する多くの立証を尽したことをもつて人格権の主張があることの証左である旨主張するごとくであるが、民事訴訟において訴訟資料たる主張と証拠資料たる証拠はその法律上の性格を峻別されており相互に援用を許されないものであることは多言を要しないのであつて、この点の控訴人らの主張も失当である。

更にまた、控訴人らは当審において、環境権の主張は本来人格権の主張を包摂するものである旨主張し、その根拠として環境権は人格権でカバーできない外延部分を法的保護の対象とするため考案された権利概念である旨指摘するが、仮に、控訴人ら主張の環境権の保護対象が人格権でカバーできない外延部分であるとしても、それはただ権利の内包と外延の範囲を異にする数個の権利が存在するということ以外のものではなく、法律上特定の権利が他の権利を包摂し、特定の権利主張が他の権利主張を包摂するという関係を肯認することは権利概念の明確性の要請上からもありえないところであるから、この点の控訴人らの主張は独自の発想に基づくものであり、主張自体理由がない。

右説示のとおり、控訴人らが原審において差止め等請求の根拠として人格権を主張したことを理由に原判決の取消し差戻しを求める主張は採用することができない。

(三)  更に控訴人らは、原判決が取消されるべき理由として原審裁判所の釈明権の不行使の違法を指摘するので、以下この点について判断する。

控訴人らはその第一点として、原審は環境権の主体、客体及び内容の各範囲について具体的な釈明の機会を与えることなく、一方的且つ抽象的に環境権の主体、客体及び内容の範囲を曲解してその権利性を否定した点において違法がある旨主張する。

ところで、私権をその内容である社会生活における利益(権利者の享受する利益)の差異に従つて分類すれば、人格権、身分権、財産権、社員権等の種類が挙げられるが、近代法が承認する右諸権利の大きい特徴は、そのいずれもが客観的にみて権利者の利益範囲を明確に画することができる点にあるといえる。換言すれば、権利の主体、客体及び内容の各範囲において明確な利益限界をもたない権利、明確な利益範囲が固定しない権利は、実定法上その権利性を承認されえないのである。これを控訴人ら主張の環境権についていえば、その定義として抽象的に「健康な生活を維持し、快適な生活を営むに足る良好な環境を享受し、かつこれを支配しうる権利」と理解する以上に、権利の主体、客体及び内容の各範囲につき、控訴人らの事実主張を待たなければ客観的に明確な利益限界を有する権利として理解ないし把握し難いということ自体、その権利性がなお未熟である証左であるといわなければならない。のみならず、権利の主体、客体及び内容の各範囲についても、環境権には法的権利性を承認できる程度に明確な客観的限界を画することができない。控訴人らは、原審において主張した環境権の具体的事実主張として、環境の地域的範囲は半径二〇キロメートル以内の地域である旨、環境侵害の態様は年間二万トンのイオウ酸化物の排出による各種公害の発生である旨、権利者は豊前平野の地域住民である旨を当審においてそれぞれ釈明しているが、そのいずれもが法概念としてはあまりに曖昧模糊としており、この程度の明確化をもつて環境権に法的権利性を与えることはできないし、他に、先に引用した原判決がその一七枚目表二行目から同裏六行目までの理由説示において指摘した環境権の権利概念の不明確さについて的確に釈明するところのものは何もない。

もとより、特定の私権の内包と外延のみならず、新たな私権の成立と消滅についても、本来、一定不変のものとして固定しているものではなく、価値観の多様化と意識の変遷とに伴ない、歴史的、社会的に微妙に変化することは避け難いものであるから、その意味において、いわゆる環境権論者が環境権の名の下に保護を求める生活利益の具体的権利性が、将来、なんらかの形において法的に承認されるときが来ないと断言することはできない。しかしながら、右の生活利益の内容は、人間が健康な生活を維持し、快適な生活を営むに足る良好な環境を享受し、かつ、これを排他的に支配することであり、必然的に所有権の行使の差止め等、他者の私権の行使に対する制限を伴なうものであるから、その権利性の承認には、当然ながら慎重な配慮が要請されるのであつた。いわば、権利濫用の法理の具体的適用について慎重な配慮が要請されるのと同一である。しかして、そのための最小限の条件としては、当該利益の主体、客体及び内容が権利の衝突による法秩序の混乱を生ぜしめないと認められる程度まで、客観的に明確な限界を画することができるものであることを必要とすると解すべきであるが、本件の場合、控訴人らが主張する環境権なるものが、その効力において、被控訴人の豊前火力発電所の操業に関する私権の行使を強力に制限し、その結果、独り被控訴会社のみならず、引いては現代及び将来におけるわが国経済に少なからざる損失を及ぼすであろうことを勘案し、右効力との対比において、その主体、客体及び内容を考えると、上来説示したところから既に明らかなとおり、現段階におけるわが国の法秩序に混乱を生ぜしめないといえる程度まで、客観的に明確な限界を画すことができるものとは到底いい難いのである。これを要するに、控訴人らが主張する環境権なるものは、わが国において、未だその具体的権利性を承認するまでに成熟した権利であることは認め難いという外はない。

してみれば、原判決の環境権の解釈にはなんら不当、違法な廉は見当らないのであつて、原審の釈明権不行使を問うまでもなく、この点の控訴人らの主張は失当である。

控訴人らは釈明権不行使の第二点として、控訴人らの本訴差止め等請求の真意が控訴人らを含む地域住民の健康被害の防止に深く関つていることは明らかであつたから、原審は右差止め等請求権の法的根拠としていわゆる人格権の主張をなすべき旨控訴人らに釈明を求めるべきであつたし、本訴が本人訴訟であることを考慮すれば特に然りである。と強調する。

しかして、<証拠>と記録を総合すれば、本訴請求については、原審において昭和四八年一二月一四日から弁論終結の同五四年五月一八日まで一八回の口頭弁論が開かれたこと、昭和四九年三月一四日の第二回口頭弁論において、原審裁判所は控訴人らに対し本訴請求の法的根拠につき環境権の主張のみか或は他の法的権利の主張もするかの釈明を求めたのに対し、控訴人らは「現在のところ、訴状第一準備書面の記載のとおりである」旨釈明したが、右訴状等の記載によれば、本訴請求の法的権利は環境権のみであり人格権の主張は存在しないことが明らかである。

ところで、凡そ民事訴訟における釈明権行使の問題は、具体的には、個々の訴訟の各段階において生起するものであるから、抽象的、一般的にその基準ないし限界をいうことは極めて困難であるが、当事者の主張とその法律構成の関係についていえば、一応は「当事者の主張が法律構成において欠けるところがある場合においても、その主張事実を合理的に解釈するならば、正当な主張として構成することができ、当事者の提出した資料のうちにもこれを裏付けうる資料が存するときは、当事者らに対してその主張の趣旨を釈明すべきである(最高裁判所第三小法廷昭和四四年六月二四日判決、集二三巻七号一一五六頁)」といえる。そして右趣旨に同調すれば、本件の場合、原審裁判所において、控訴人らに対し本訴差止め等請求権の法的根拠が環境権でなければ人格権である旨釈明を求めることができなかつた特別な事情は記録上見当らないのである。

しかしながら、釈明権の不行使は、原審口頭弁論終結時の訴訟状態を基準として事後的に審査した場合において、釈明権を適切に行使したならばその紛争について適切、妥当な判断を下したであろう客観的蓋然性があつて、始めて違法性を帯びるに至ると解すべきところ、原審口頭弁論終結時において、たとえ控訴人らに対し本訴差止め等請求権の法的根拠が環境権の外には人格権である旨明示して釈明を求めたとしても、被控訴会社の私権の行使が制限されることによる法的秩序の破壊、操業差止めにより被るべき社会的、経済的損失及び豊前海を被控訴会社豊前火力発電所建設以前の状態へ原状回復することの経済的不可能性等の諸事情を右操業により控訴人らが将来被るかもしれない健康被害との対比において総合勘案するならば、原審裁判所が右内容の求釈明の措置に出たからといつて、本訴請求に関する紛争について原審がより適切、妥当な判断を下したであろう客観的蓋然性の存在は、いわゆる受忍限度論に言及するまでもなく、これを肯認することができないことは、本件における一切の証拠及び口頭弁論の全趣旨に照らして見易い道理である。これに加うるに、本件の場合、控訴人らは本訴提起の最初から差止め等請求権の法律構成として環境権の主張をしているのであるから、単に事実主張のみがあつて全く法律構成の主張らしきものがない前記最高裁判所判例の事案と同日に論ずることはできないし、民事訴訟における弁論主義の建前と主張責任の原則を合理的に解釈すれば、人格権の主張について原審に釈明権の違法な不行使があるとは到底いえない。しかのみならず、前示のような環境権の法的性格及び弁論の全趣旨から窺えるとおり、本訴提起の動機の一つは控訴人らにおいて地域住民の代表として公害反対を標榜することにあり、原審における主張立証の過程においてそれなりに強硬で独善的な訴訟態度に終始したこと等諸般の事情を総合すれば、原審の第二回口頭弁論における求釈明は、裁判所として時宜を得た適切な釈明権の行使を尽したものであつて、本訴が本人訴訟である点を考慮しても、控訴人らから非難されるべき筋合いは全くない、といわなければならない。

以上の次第にて原審の釈明権不行使の違法を指摘する控訴人らの主張も所詮採用の限りではない。

二よつて、控訴人らの本件差止め等の訴を却下した原判決は相当であり、本件控訴は理由がないから、いずれもこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(高石博良 鍋山健 足立昭二)

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