福岡高等裁判所那覇支部 昭和60年(ネ)56号 判決 1991年5月30日
控訴人 選定当事者 甲野太郎
<ほか一名>
(選定者は別紙選定者目録記載のとおり)
右両名訴訟代理人弁護士 宮良長辰
同 宜野座毅
同 糸満清
被控訴人 国
右代表者法務大臣 左藤恵
右指定代理人 市川正巳
<ほか一四名>
主文
本件控訴をいずれも棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実
第一申立て
一 控訴人ら
1 原判決を取り消す。
2(一次的請求)
(一) 別紙所有物件等目録「控訴人・選定者」欄記載の控訴人及び選定者が同目録「所有物件」欄記載の各土地の所有権を有することを確認する。
(二) 被控訴人は、別紙損害金目録「控訴人・選定者」欄記載の控訴人及び選定者に対し、同目録「第一次請求・請求金額」欄記載の各金員並びに昭和五二年四月一日から右(一)記載の各土地の明渡ずみに至るまで一か年につき同目録「第一次請求・賃料相当額」欄記載の各金員をそれぞれ支払え。
(三) 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
(四) 第(二)項につき仮執行の宣言。
3(二次的請求)
(一) 別紙共有持分目録(一)ないし(七)記載の各土地につき、各「控訴人・選定者」欄記載の控訴人及び選定者が各「持分」欄記載の共有持分を有することを確認する。
(二) 被控訴人は、別紙損害金目録「控訴人・選定者」欄記載の控訴人及び選定者に対し、同目録「第二次請求・請求金額」欄記載の各金員並びに昭和五二年四月一日から右(一)記載の各土地の明渡ずみに至るまで一か年につき同目録「第二次請求・賃料相当額」欄記載の各金員をそれぞれ支払え。
(三) 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
(四) 第(二)項につき仮執行の宣言。
二 被控訴人
1 主文同旨
2 請求認容の場合につき担保を条件とする仮執行免脱の宣言。
第二主張
当事者双方の主張は、次のとおり付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する(ただし、原判決一一丁表一行目の「陸軍」を「旧陸軍」と、同一三丁表九行目の「登記署も税務所も」を「登記所も税務署も」とそれぞれ改め、原判決三丁表一行目の「別紙物件目録(一)ないし(七)」、同三行目の「別紙選定者目録」、同五行目の「別紙所有物件等目録」、同三丁裏五行目から六行目及び同五丁表一二行目の各「別紙共有持分目録(一)ないし(七)」、同五丁表四行目の「別紙所有物件等目録」、同四丁裏五行目、同五丁表八行目及び同裏一行目の各「別紙損害金目録」、同五丁裏一〇行目から一一行目にかけての「所有物件等目録」、同一二行目の「別紙物件目録(三)」及び同一三行目の「別紙物件目録(四)」の次に「(本判決添付のもの)」をそれぞれ加える。)。
一 本件土地の特定について
1 控訴人ら
本件土地は、控訴人ら又は控訴人らの前主が昭和一九年四月ころに所有していた土地と位置・形状・面積において同一性のある土地である。
沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法(以下「土地明確化法」という。)が公布され、土地明確化作業が行われたので、控訴人らは、本件土地について、土地明確化法に基づいてとられた明確化作業の手順に準じて、配列図及び地積表を作成した。
土地明確化法は、土地明確化作業の実施に当たっては、「……位置境界不明地域に係る道路、河川、用排水路、墳墓、立木竹、石垣、井戸、その他の位置境界不明地域について字等の区域内の各筆の土地の位置境界を明らかにするため参考となる物が現に存在し、又は存在した場所を記載した地図を作成することにしており(同法五条一項)、また、このような図面並びにこれに関する写真を関係地主の代表者に交付し、関係地主に対し全員の協議によって区域内の各筆の位置境界を確認するよう求める(一〇条一項)」ことにしている。控訴人らが、本件土地について、沖縄陸地測量株式会社に明確化作業を依頼したのは、同社が本件土地の周辺の土地及び本件土地についての明確化作業を那覇防衛施設局から請け負って土地明確化法に定める手順に従って実際に作業を行ったものであるから、その際に用いた手順と同様の方法で本件土地の明確化作業をしてもらう必要があったからである。すなわち、本件土地の明確化作業は、沖縄陸地測量株式会社が那覇防衛施設局から請け負った土地の明確化作業と同じ方法で行ったものであり、同社の作成にかかる配列図及び地積表は、土地明確化法に基づいて作成された図面及び簿冊に準ずるものとみなすことができ、十分に本件土地の同一性を示すものである。
2 被控訴人
控訴人らの主張は争う。
(一) 土地明確化作業に携わった測量会社が作成したとする甲第七号証の一ないし三の配列図等は、次に述べるとおり土地明確化法による地図及び簿冊(以下「地図等」という。)とは同一視できず、昭和一九年当時の各土地の位置等を示すものとはいえない。
すなわち、土地明確化法は、沖縄県の区域内において、太平洋戦争による破壊又は在日米軍の行為により土地の形質が変更され、又は土地登記簿及び公図が滅失したことにより各筆の土地の位置・境界が不明となった土地が存する地域が広範かつ大規模に存在し、これが関係所有者等の社会経済生活に著しい支障を及ぼしていることから、沖縄開発庁長官又は防衛施設庁長官が実施機関の長となり政府、県、市町村等の協力を得て、最終的には、関係所有者の協議によって各土地の位置・境界を確定することによって沖縄県民の生活の安定と向上に資するために制定されたものである。
そして、その結果作成された地図等は国土調査法一九条五項の規定による指定を受け(土地明確化法一七条)、これら地図等の送付を受けた登記所は、これらの地図等に基づいて、土地の表示に関する登記及び所有権の登記名義人の表示の変更の登記をすることとなるのである(国土調査法二〇条二項)。
このように、土地明確化法は、土地の位置境界の「確認」という用語を用い(一〇条等)、また字等の区域内の各筆の土地の位置境界を再現させようとする規定(五条)等も存在するが、現実には、各土地の位置境界等は完全な形での再現は不可能であることから、関係所有者による「全員の協議」(一〇条)すなわち、いわゆる集団和解方式により各土地の位置境界を確定しようとするものといわざるを得ない。
すなわち、境界は、ある土地とある土地の地番界であって公法上のものであることから、当事者間による任意の処分は許されず和解はできないものであるが、土地明確化法は、沖縄県内において位置境界不明確地域が広範かつ大規模に存在しているために関係所有者が社会的経済的損失をうけ、かつそれが今後の沖縄経済の発展、県民の生活の安定を阻害するという緊急に解決すべき難局に直面していたため、その打開策として土地の位置境界の確認という形式をとりながらも、実質は土地の位置境界の集団和解方式を立法的に行ったといえるのであり、したがって、土地の位置境界に関しては立法による創設的なものといえる。
したがって、控訴人らが主張するように土地明確化作業を那覇防衛施設局から請け負った測量会社に依頼し、本件土地について同じ手順によって地図等を作成したとしても、元来土地明確化法に基づいて作成された地図等でない以上は同法に基づく地図等と同価値のものとみなすことは到底できないというべきである。
(二) また、控訴人らは、土地明確化法に基づく土地明確化作業と同じ方法で配列図等を作成したと主張するが、右作業は土地明確化法に基づくものでない以上、たとえ同じ方法で行ったと主張しても土地明確化法の定める手順を完全に遵守することはできないのである。
すなわち、土地明確化法に基づく土地明確化作業は、まず駐留軍用地については防衛施設庁長官が実施機関の長となり(二条二項)、明確化のための計画についての政府の措置並びに沖縄県及び関係市町村の協力(三条三、四項)、位置境界不明確地域の地図の閲覧・公告(七条)、各土地の位置境界の確認のための関係所有者の協議をする場合における実施機関の長における援助(一一条)、関係所有者の位置境界の協議後の現地における実施機関の長の所属職員の立合い(一二条三項)、現地確認後の図面等の作成と立ち会った者による署名押印(一二条四項)等の諸手続に従って実施されなければならないが、控訴人らの行った作業には当然これらの手続を踏んでいないのである。
そして、土地明確化法の定める前記のような公的機関が関与する諸手続は、土地明確化作業が土地所有権という重大な財産権に関するものであり、かつ公法上の地番界を決定するものである以上、到底欠落させることのできない手続といわなければならない。したがって、控訴人らの作成した配列図等は、作成手続からみても到底土地明確化法の定める地図等と同価値のものと評価し得ないものである。
(三) 以上のとおり、控訴人らが作成した配列図等は、土地明確化法に基づかないものであるという点からも、また、土地明確化法の定める重要な手続を履践していないという点からも土地明確化法の地図等と同価値のものとみることはできないのであるから、配列図等に記載されている各筆の土地の位置境界等は、その作成手順を根拠として名筆の土地の正しい位置境界等を示すものとは到底いえない。したがって、本件土地については、旧陸軍が買収したかどうかということをあえて問題にするまでもなく、控訴人らの主位的請求は主張自体失当であることは明らかである。
二 西原飛行場等の買収について
1 控訴人ら
乙第一九号証の「土地ノ代償ノ支払ニ関スル通牒」からは、旧中飛行場の用地買収手続はなされなかったと推認することがより合理的である。
(一) 右通牒は、旧中飛行場とほぼ同時期に建設された旧東飛行場(西原飛行場)の所在地である西原村及び浦添飛行場の所在地である浦添村の各村長にも送られている。
しかし、昭和二〇年一二月一〇日米軍が撮影した西原飛行場の航空写真及び浦添飛行場の航空写真が示すとおり西原飛行場も浦添飛行場も完成した飛行場として機能していたところ、西原飛行場については、旧中飛行場よりも一年も早い昭和一八年四月ころには村長、区長、地主の代表者を集めて接収する旨告げられ建設工事が集められたにもかかわらず、農作物の補償金は支払われているが売買手続は進められず土地代金の支払はなかったとされ(沖縄県総務部総務課作成の旧日本軍接収用地調査報告書、かつ、西原及び浦添の両飛行場敷地はいずれも国有地とは認められていないのであるから、通牒の宛先に北谷村が記載されているからといって、本件土地について用地買収が行われたものと推認することはできない。かえって、昭和一八年四月ころでさえ土地代金の支払がなされていないのであるから、昭和一九年一〇月ころ戦況は敗色濃厚で米軍の沖縄上陸も近いと予想される緊迫した状況下にあっては、用地買収が行われず土地代金の支払はなかったと推認するのがより合理的である。
(二) 乙第一九号証の通牒によると、土地の代価の支払は臨時資金調整法により国債の購入又は長期据置預金で実施し、現金の交付は負債整理等特別の必要がある者に限定することとされているが、アンケート調査において、国債を買わされたとする回答は一つもないこと自体通牒の内容と合致しない。
したがって、乙第一九号証の通牒先に北谷村が掲げられていることや土地代金を現金で受領したとするアンケート調査があることから、本件土地について用地買収手続がなされ、土地代金が支払われていると認定することはできない。
2 被控訴人
控訴人らの主張は争う。
(一) 控訴人らが主張するように、西原飛行場について、旧陸軍による土地の買収がなかったと断定することは問題であるといわなければならない。控訴人らの引用する旧日本軍接収用地調査報告書によると、西原飛行場の買収状況については、買収当時から約三四年後に高年齢の人(当時八二歳)からの説明をもとにして記載されているようであるが、西原飛行場についての以下に述べる昭和二四年から同二七年までの米国民政府と西原村との文書のやり取りからみる限り、同飛行場について旧陸軍による土地買収がなされなかったとはいえない。
(1) 一九四九年四月一九日付け財第一四〇号「旧日本軍飛行場敷地に対する土地所有申請について」により、米国民政府琉球財産管理課から関係各村長あてに旧日本軍飛行場敷地の土地代金の一部しか受領していない各村の地主について土地申請をさせるよう促したところ、西原村は、関係者の調査を行い、該当土地の筆数、坪数及び各個人に支払われた金額を記載した調書を作成した。右調書の内容は、買収単価として坪当たり四円二〇銭(一部については坪当たり五円五〇銭)で代金の大半を受領している旨の報告がなされていた。
(2) 一九五二年五月米国民政府琉球財産管理課が関係村に所有権調査を行ったところ、当時の西原村長玉那覇馨及び買収当時の役場書記大城康秀の両名は、次のような内容の証明書を米国民政府琉球財産管理課長宛に提出した。
「当時日本軍が西原飛行場施設に該関係土地を買上げたときは前所有者は土地登記のするため登記書類一切を司法書士を通じて日本軍に名義移動をするため首里登記所に提出されるようになっていた。
私達は日本軍が土地買上げ当時共に当地に在留しておりました。私は(現村長)当時日本軍に土地を売り以上述べたような方法で手続をしましたことを知っている範囲内で証明致します。」
なお、村長の証明内容を裏付けるものとして、前記(1)の西原村作成の調書の中の売渡所有者の中に玉那覇村長の氏名もある。
(3) 以上の書類は、終戦後間もない時期に作成されたものであり、記載内容も具体的かつ詳細である。殊に乙第二四号証の証明書は、西原村長及び買収当時の役場書記という買収当時西原村に在留していた責任者が記載したものであることから、極めて信ぴょう性の高いものといわなければならない。
(二) もっとも、前記のような経緯にもかかわらず、西原飛行場が旧軍財産(国有地)として現在引き継がれていないことは事実である。しかしこれは、西原村が前記(1)、(2)のような報告及び証明を米国民政府にしておきながら、他方では一九五一年四月一日付け所有権証明書を西原飛行場敷地の旧地主に交付したことから、旧地主名義の登記が完了してしまい、西原飛行場敷地の所有権の帰属をめぐって米国民政府と琉球政府、西原村、旧地主らとの間で紛争が生じ、米国民政府が一九五六年三月二九日付け文書により琉球政府に対し所有権登記名義を是正するよう要請したところ、琉球政府は同年四月一八日付け文書により土地所有権につき問題があれば布告第八号三条に基づき巡回裁判所の決定のみをもって登記の変更ができる旨回答し、また、一九五七年一月一七日には西原村長において前記(2)の証明内容は間違いであった旨訂正したことなどから、米国民政府としては西原飛行場敷地の所有権に関する資料収集に努めたが、戦前の記録はすべて消失している等十分な資料収集ができず、また、琉球政府、旧地主等からは西原飛行場敷地に係る軍用地料の支払要求が激化し西原飛行場敷地が政治問題化したこともあって、当時の米国民政府の政策的考慮から一九五七年一二月二三日西原飛行場敷地の管理解除をなしたものである。
このように、一九五七年に至って米国民政府は西原飛行場敷地が日本の国有地であるとの主張を断念したものであるが、これは米国民政府の一つの政治的決着としてなされたものであり、旧陸軍が同敷地を買収していないということによるものではない。
(三) 以上のとおり、西原飛行場敷地については旧陸軍が買収したということも否定できないのであるから、控訴人らのように、西原飛行場敷地は買収されていないという前提の下に通牒の記載内容の信用性を否定することは誤りである。また、西原飛行場については農作物補償のみしかしていないという前提で旧中飛行場敷地の買収はなされていないという主張もまた同様に誤りである。
なお、昭和一九年四月ころの戦局は緊迫していたから買収はなされていないという主張については、宮古島の旧軍飛行場敷地はすべて昭和一九年五月以降に抵当権設定登記の抹消及び国への所有権移転登記がなされているのであるから、右主張も失当である。
三 不在であったと主張する者との買収手続について
1 被控訴人
(一) 本件土地の買収当時、控訴人らのうち不在であったと主張する二六名につき、個別に、不在期間、在村の管理者、戦後の所有権認定申請の状況、各種アンケートに対する回答状況等をまとめたものが別紙不在者調査表である。
以下、右調査表により明らかとなった事実に基づき、不在であったと主張する者に対しても正当な買収が行われたことを明らかにする。
(二) 二六名のうち不在者でない者
本件土地の買収当時、二六名がそもそも不在であったか否かは慎重に検討されるべきである。二六名中、公的な証明書により不在を立証した者は七名にすぎず、その余の者は単に自己の証言により不在の立証を試みているにすぎない。
次の八名については、買収当時、所有者が不在である場合に当たらないことは明らかである。
(1) 乙山二郎(選定者番号四一)
乙山二郎は、南洋に出稼ぎのため不在であった旨主張するが、自ら「戦後兄から私がもらいました。」と供述し、さらに「戦時中兄一郎が管理していました」と述べていることから明らかなとおり、買収当時の所有者は二郎の兄乙山一郎であり、同人が買収当時在村していたから、二郎の不在の主張はその前提を欠き失当である。
(2) 丁原三郎(丁原四郎(選定者番号五)の前主)
丁原四郎と三郎らとの身分関係は、別紙身分関係図のとおりである。三郎は、控訴人丁原四郎の叔父であるが、養父丁原五郎を昭和二一年三月三日家督相続しており、本件係争地の買収当時の所有者は右五郎であり、同人は、買収当時、在村していた。したがって、控訴人丁原四郎が買収当時所有者であり、不在地主であったとの主張はその前提を欠き失当である。
仮に、三郎が実父六郎から係争土地を取得したと主張するのであれば、六郎は昭和一一年死亡し、七郎が家督相続しており、三郎が係争土地を取得したことはない。
(3) 戊野八郎(選定者番号八四)
戊野八郎の主張によっても、同人は、買収事務が継続して行われていた昭和一九年一二月には既に在村していたものであり、代金の受領や移転登記手続に関与できたものと認められ、不在であったとの主張は理由がない。
(4) 丙山九郎(丙山十郎(選定者番号五三)の前主)
丙山十郎は、昭和一二年以前から両親や祖父(丙山九郎)、祖母らとともにサイパン島に移住していた旨主張するが、戸籍によれば、十郎の妹花子は昭和一五年一〇月一一日、同春子は同一九年一月七日、いずれも北谷村で出生し、父一夫が出生届出を行っていることが明らかであり、この事実に、十郎が昭和一九年当時わずな六歳の幼児であり、その供述が信用性の低いことを併せ考えれば、九郎を含む家族は、昭和一九年の買収当時、北谷村に居住していたものと認定するのが相当である。
(5) 戊川二夫(選定者番号五六)
戊川二夫は、昭和一四年四月から同二一年四月まで不在であった旨主張するが、戸籍によれば、同人は、昭和一九年五月五日北谷村で分家の届出を行っていることが明らかであり、同人は、在村していたか、少なくとも買収手続の行われていた時期に帰省したことがあると認定するのが相当である。
(6) 甲川三夫(甲川夏子(選定者番号二四)の前主)
甲川三夫は、昭和一九年一〇月一九日、北谷村で母秋子の死亡届出を行っており、同人が不在者でないことは明らかである。
(7) 甲原四夫(選定者番号四三)
甲原四夫は、昭和一三年から同二一年まで大阪に出稼ぎに行っていた旨主張するが、戸籍によれば、四夫の二男五夫は昭和一九年八月三〇日に北谷村で出生し、四夫が出生届出を行っていることが明らかであり、同人は、在村していたか、少なくとも買収手続の行われていた時期に帰省し、土地の売買等の重要な意思決定を自ら行い、その手続を妻等にゆだねていたものと認定するのが相当である。
(8) 丙原六夫(選定者番号四七)
丙原六夫は、大正一三年八月から昭和二一年一一月まで大阪に居住していたため不在であった旨主張するが、戸籍によれば、六夫の長男七夫は昭和一五年二月二四日、四女冬子は同一七年四月八日、五女松子は同一九年一月二三日、いずれも北谷村で出生し、六夫がいずれもそのころ出生届出を行っていることが明らかである。この事実によれば、六夫は、在村していたか、少なくとも買収手続の行われていた時期に帰省したことがあるものと認定するのが相当である。
(三) 不在者に対する買収手続の概要
(1) 仮に、不在地主があったとした場合、本件土地の買収手続に携わった球一六一六部隊は、沖縄本島における戦闘で全部隊が潰滅し、さらに公簿、公図等もほとんど滅失してしまったため、控訴人ら主張の「出征又は出稼ぎのため不在地主となっていた者」との買収手続について、これを直接証明する資料は存在しないが、同人らとの間においても、電報又は郵便による方法により不在地主との間で買収手続が行われ、又は少なくとも父母、妻等の近親者を不在地主の代理人として買収手続が行われたことは、ほぼ同時期に不在地主との間においても買収手続が行われた宮古、西表島における次の事実からも容易に推認することができる。
(2) 西表島における状況
昭和一六年当時、旧陸軍省は、西表島における不在地主の土地の買収及び土地所有権移転登記を迅速に処理するため、竹富村長に対し、不在地主からその権限の委任を受けるように依頼した。
これに対し、不在地主からは、一切の権限委任を承諾する旨の意思表示を「電報」で行っている例があるほか、郵便によった例もあり、右承諾書に印鑑証明書を添付した者もいる。すなわち、当時においても、隔地者間の承諾を得ることは、電報又は郵便による方法によって可能であったのであるから、地主が不在であるとの事実をもって、その承諾を得ることなく本件買収手続がなされたということはできないのである。
なお、この承諾書に基づき、一切の権限を委任された竹富村長は、土地売買の手続を行うとともに所有権移転登記を完了している。
(3) 宮古における状況
昭和一九年当時、旧海軍省は、宮古における不在地主との用地買収の代金支払について、父母等の近親者から全責任を負うとの引受証を提出させた上で売買代金を支払い、所有権の移転登記を完了している。同様の手続が沖縄本島においても採られたことは、丁田八夫(選定者番号一〇四)の、父の妹から印鑑がどうのという手紙があった旨の証言からもうかがえる。
(4) 宮古、西表島における旧軍飛行場用地等の契約は、本件契約とほぼ同時期ないし近接した時期に行われたのであり、本件契約において別異の方法によるべき特別の理由も見い出し難いのであるから、不在地主に係る本件買収手続においても、宮古、西表島におけるのと同様の手続が行われたことは容易に推認することができる。
(四) 郵便等による本人との契約
選定者丁原三郎(選定者番号五)、同甲村九夫(選定者番号二三)、同丙村十夫(選定者番号三七)、同甲原四夫(選定者番号四三)、同丙原六夫(選定者番号四七)、同丁村一男(選定者番号五五)、同戊川二夫(選定者番号五六)、同戊村十雄(選定者番号六〇)、同戊野八郎(選定者番号八四)、同丁田八夫(選定者番号一〇四)、同甲林三男(選定者番号一〇六)、以上の一一名については、控訴人らの主張によっても、本件土地の買収当時、日本国内に居住していた者であるから、前項で明らかにした不在者に対する買収手続からみて、郵便等の方法により売買契約が締結されたものと認定するのが相当である(別紙不在者調査表の「不在期間、所在地」欄参照)。
(五) 出征等の際の財産管理処分権の授与
(1) 長期間の出稼者や出征する軍人は、不在期間が長期にわたることから、特段の事情のない限り、離沖に当たり、不在中の財産の管理処分に関する権限を留守家族に与えたものと解するのが相当である。しかも、本件土地に関する売買は、当時の国策の遂行のために是非とも必要であった旧陸軍の飛行場建設用地に関するものであり、不在者が与えた権限を越えるものではない(高松簡裁昭和三六年一二月一三日判決・訟務月報八巻二号二二五ページ、宮崎地裁昭和五一年二月一三日判決・訟務月報二二巻三号六四四ページ、最高裁判所(昭和五五年(オ)第二七九号)昭和五五年一一月一四日判決、福岡高裁宮崎支部昭和五八年一月二四日判決・訟務月報二九巻八号一四七八ページ、最高裁判所(昭和五八年(オ)第四二八号)昭和五八年一二月一五日判決参照)。
(2) 仮に、不在者の両親、妻が財産を処分する権限を有していなかったとしても、右の両親、妻等の近親者は、少なくとも不在者の財産を管理する権限を有していたものであるから、当時の国情、本人の出征等による長期不在、不在者との身分関係等からすれば、被控訴人において、控訴人らの近親者が控訴人又はその先代を代理する権限を有すると信じたことには正当な理由があり、民法一一〇条の表見代理が成立する。
(3) 不在者であったと主張する控訴人らにつき、本件土地の買収当時の所有者は、不在中の財産の管理処分権限を別紙不在者調査表中の「在村の管理者」欄(控訴人ら主張等欄又は被控訴人主張等欄)記載の者に与えていたものである。
特に、選定者丁原四郎(選定者番号五)の前主丁原三郎(ただし、当時の所有者は三郎ではない。)は、昭和一九年六月一五日召集された者であるから、少なくとも買収の説明を受けた後に出征したものであり、留守を守る養父五郎及び妻竹子にその管理処分権を与えたことは明らかである。
(六) 二六名の戦後の行動
(1) 所有者らしい行動の有無
不在者であったと主張する二六名の戦後の行動は、所有者らしい行動に反し、郵便等による売買契約の成立又は管理処分権限を有する留守家族との売買契約の成立を推認させるものである。
(2) 所有権認定申請
ア 右二六名の本人又はその相続人は、所有権認定作業が行われた昭和二一年から同二六年にかけて、別紙不在者調査表中の「戦後の沖縄居住の時期」欄に記載のとおり全員沖縄に居住していた。
イ 本件係争地以外の他の地区については所有権認定申請を行い、その登記をしたにもかかわらず、本件係争地については何ら右申請を行わなかった者は、選定者丙村十夫(選定者番号三七)、同甲原四夫(選定者番号四三)、同乙林五男(選定者番号八八)、同甲林四男(選定者番号一〇六)の四名である。
ウ 他の地区についての所有権認定申請の有無は不明であるが、少なくとも本件係争地について右申請をしなかったことが明らかな者は、選定者丁村一男(選定者番号五五)一名である。
エ また、本件係争地について、所有権認定申請の有無を客観的資料により明らかにしていないが、所有権認定申請手続に及んだとか、同手続に及ぼうとしたが、村、字等の係官から本件係争地が国有地である等の理由で手続を止められたと証言しながら、何ら不服申立ての手続をしなかった者は、選定者丙林六男(選定者番号一一)、同乙山二郎(選定者番号四一)、同丙原六夫(選定者番号四七)、同丁林七男(選定者番号四九)、同戊川二夫(選定者番号五六)、同戊村十雄(選定者番号六〇)、同戊林八男(選定者番号六五)、同甲本九男(選定者番号七〇)、同乙本十男(選定者番号八一)、同戊野八郎(選定者番号八四)の一〇名である。
オ 戦後に本件係争地に係る土地所有権認定申請手続を行ったと明らかに認められる者は、選定者丙山九郎(選定者番号五三)、同丙本一雄(選定者番号五四)、同丁本二雄(選定者番号九六・ただし、母名義)、同丁田八夫(選定者番号一〇四)、同戊本三雄(選定者番号一一六・ただし、母名義)の五名のみである。
しかし、これらの者についても、手続が中断されていることからすると、本件係争地が国有地であるとの理由で申請が却下されたものと思われるが、これらの者は、本件係争地について、一応申請はしたものの、旧陸軍による買収手続の事実を否定し得なかったため、土地所有権委員会の処理について、何ら異議を述べず、中央土地調停委員会に対する調停の申立ても行わなかったものと考えられる。
(3) アンケート調査
ア 不在者と称する者の大部分は、「土地所有権喪失申請書」並びにこれに基づく「国家総動員法により接収された土地の地主申請書の再確認書」において、買収や代金の一部受領の事実を認めているものである(別紙不在者調査表中の「アンケート調査に対する回答の有無及び内容」欄参照)。
イ 選定者丙林六男(選定者番号一一)、同戊村二男(選定者番号六〇)は、そもそも右アンケート調査において地主として申告しておらず、所有者らしい行動を行っていない者である。
ウ 二六名中、売買契約を締結したことはない旨回答している者は、選定者甲村九夫(選定者番号二三)、同甲川夏子(選定者番号二四)、同丁林七男(選定者番号四九)、同丙山十郎(選定者番号五三)、同戊川二夫(選定者番号五六)、同丁田八夫(選定者番号一〇四)の六名にすぎない。
(七) 無権代理行為の追認
仮に、留守家族が管理処分権を有していなかったとしても、二六名は、前記(六)に述べた所有権認定申請を行わず、行ったとしても申請の取下勧告や却下に対して本訴提起まで約三〇年近くの長期間にわたりそれ以上の異議の申立てをしなかったものであり、同人らは留守家族を代理人とする売買契約を追認したものである。
(八) 結論
以上のとおり、控訴人らが不在者であったと主張する二六名中には、そもそも不在者に該当しない者が少なからず存在するものであり、また、不在者に該当する者についても、旧陸軍は、不在者から、郵便等による契約の方法により、又は正当な代理人との契約の方法により本件土地を買収したものである。そして、右の正当な買収の存在は、不在であったと称する者の戦後における所有権認定申請の状況、アンケート調査に対する回答状況等により裏付けられるものであって、不在者との間で何ら売買契約がなかったとの控訴人らの主張は、失当であるといわなければならない。
2 控訴人ら
(一) 被控訴人の(一)の主張は争う。
昭和一九年四月ころの本件土地の所有者のうち、出征又は出稼ぎのため沖縄に不在の者は二六名もいたのであるから、これら不在者との売買契約がどのようにしてなされたかを明らかにしない限り、これら不在者との売買契約は認定できるはずがない。
本件土地の接収当時、沖縄県外に居住していた者の氏名等は次のとおりである。
接収当時の所有者 不在期間とその事由
乙本十男(選定者) 昭和一六年六月一四日召集出征し、同二二年復員
丙林六男( 〃 ) 昭和一六年三月二〇日入隊し、同二一年八月二一日帰沖
戊林八男( 〃 ) 昭和一六年五月召集を受け、同二二年一月復員
戊本三雄( 〃 ) 昭和一九年三月二〇日入隊し、同二四年復員
丙村十夫( 〃 ) 昭和一八年一〇月本土へ徴用、同二一年七月帰沖
戊野八郎( 〃 ) 昭和一八年徴用で長崎へ、同一九年一二月ころ帰沖
戊川二夫( 〃 ) 昭和一四年四月入隊し、同二一年一〇月帰沖
乙山二郎( 〃 ) 昭和五年南洋へ出稼ぎ、同二〇年一二月帰沖
丙原六夫( 〃 ) 大正一三年八月二四日大阪へ出稼ぎ、昭和二一年一一月二五日帰沖
戊野八郎( 〃 ) 昭和一六年八月召集を受け、同二二年八月復員
甲本九男( 〃 ) 昭和一八年一二月出征し、同二二年一〇月復員
丁村一男( 〃 ) 昭和一五年呉の軍事工場に徴用、同二二年暮れ帰沖
甲原四夫( 〃 ) 昭和一三年大阪へ出稼ぎ、同二一年帰沖
丁原四雄(選定者丁原七男の父) 昭和初期フィリピンへ出稼ぎ、現地で召集を受け、同二〇年四月二日戦死
甲沢五雄(選定者甲沢六雄の父) 昭和一八年出征し、同二〇年一二月一日満州で戦死
丙沢七雄(選定者丁田八雄の祖父) 昭和一五年八幡製鉄に勤務し、同二一年一一月死亡、相続人丁田八夫は同五九年四月五日死亡
丁原三郎(選定者丁原四郎の父) 昭和一九年六月一五日召集を受け、同二一年七月六日召集解除
甲村九雄(選定者甲村九夫の父) 昭和一五年ころ大阪へ出稼ぎ、同二一年ころ帰沖し、同三六年四月二三日死亡
戊村二男(選定者戊村十雄の父) 昭和一九年大阪へ出稼ぎ、同二一年ころ帰沖
丁沢一平(選定者丁沢竹子の夫) 昭和一八年召集を受け、同二一年復員し、同三八年一月一六日死亡
丙本一雄(選定者丙本二平の父) 昭和三年南洋テニアンへ出稼ぎ、終戦後引揚げ、同四四年一二月三〇日死亡
丙本九郎(選定者丙本十郎の祖父) 戦前南洋サイパン島へ行き戦後引揚げ、昭和三〇年死亡
甲林四男(選定者甲林三男の父) 昭和一八年ころ召集を受け、終戦後復員
甲川三夫(選定者甲川夏子の夫) 昭和二年フィリピンへ出稼ぎ、同二一年引揚げ
丁本三平(選定者丁本二夫の父) 昭和一三年南洋パラオへ出稼ぎ、同二〇年七月九日死亡
戊沢四平(選定者戊沢梅子の父) 昭和一七年召集を受け、同二〇年戦死
(二) 同(二)の事実は否認する。
(1) 乙山二郎(選定者番号四一)
乙山二郎は、昭和五六年六月一六日付けの証人尋問調書二項で「この土地はもと、私の叔父乙山五平の所有でしたが、私が生まれる前、五平の死亡により私の兄一郎がもらい、戦後兄から私がもらいました。」、同三項で「この土地は戦時中、兄一郎が管理していました。」と述べているが、右証言の真意は、もともと本件係争地は、二郎の叔父乙山五平の所有であったが、五平に家督相続人不在のため、五平の死亡後相続人選定の間、一時的に一郎が管理していたというものである。
その後、二郎は、昭和六年に一郎から本件係争地の贈与を受けたが、戦時中は一郎に管理させ、昭和二〇年一二月に南洋ロタ島から沖縄に引き揚げた後、一郎から返還されたものである。また、二郎は五平から係争土地以外の土地三筆も引き継いでおり、実質上の養子関係で五平の祭祀を承継し、今日に至っている。以上から明らかなとおり、係争土地の接収当時の所有者は、一郎ではなく、二郎である。
(2) 丁原三郎(丁原四郎(選定者番号五)の前主)
丁原三郎は、戸籍上、丁原五郎の養子となっているが、実際には五郎の家族には入らず、実父丁原六郎と居住を共にしていた。その関係から、三郎は実父六郎から贈与により本件係争地を取得したものである。なお、三郎は、係争土地以外の土地については、養父五郎から昭和二一年三月三日家督相続により取得している。
(3) 戊野八郎(選定者番号八四)
被控訴人は、戊野八郎が昭和一九年一二月に帰沖したという理由で、その時期に代金の受領や移転登記手続に関与できたので、八郎は本件係争地の不在地主でないと主張しているが、沖縄本島においては、いわゆる一〇・一〇空襲(昭和一九年一〇月一〇日の空襲)以後は、いよいよ沖縄が戦場と化する時期を迎えており住民は疎開を余儀なくされていたのである。したがって、八郎は、この時期以前は県内に不在であり、それ以後の時期(昭和一九年一二月)において、代金の受領や移転登記手続の業務をすることは全く不可能である。
(4) 丙山九郎(乙山十郎(選定者番号五三)の前主)
被控訴人は、戸籍上乙山十郎の妹花子が昭和一五年一〇月一一日、同春子が同一九年一月七日にいずれも北谷村で出生し、父一夫が出生届出を行っているので、祖父(乙山九郎)を含む家族らは、昭和一九年当時、北谷村に居住していたものと認定するのが相当であるとしているが、九郎ら家族は、戦前サイパン島に移住し、同二一年二月に沖縄へ引き揚げて来たのであり、昭和一九年当時は北谷村に居住していたものではない。十郎の妹花子、同春子も北谷村で出生したのではなく、サイパン島で出生した。
戸籍上、十郎の妹花子、同春子が北谷村で出生し、父一夫が、その出生届出を行ったとなっているのは、一夫ら家族がサイパン島から沖縄へ引き揚げた後の仮戸籍申告に際して、父一夫が花子及び春子は本籍地の北谷村で出生の形をとった方が都合がいいという理由から戸籍申告をしたため、そのようになっているのである。
(5) 戊川二夫(選定者番号五六)
被控訴人は、戸籍上、戊川二夫は昭和一九年五月五日北谷村で分家届出を行っているので、同人が在村していたか、一時帰省したことがあると認定するのが相当であるとしているが、二夫は、昭和五六年五月一二日付けの証人尋問調書四項で「私は昭和一三年の徴兵検査で甲種合格し、翌一四年四月に鹿児島歩兵四五連隊に入隊しましたので、本件土地は沖縄を離れる時に、母方のおじさんに管理してもらいました。」と、また、五項で「私は昭和一九年四月当時は、兵庫県尼崎市の製鋼工場で働いていました……昭和二一年一〇月に沖縄に帰って来た。」と証言しているように、昭和一九年五月当時は兵庫県に居住しており、北谷村に一時帰省をしたこともない。二夫が分家をしたのは、同一九年五月五日であるが、その届出場所は兵庫県尼崎市であった。また戸籍によると、二夫は、同二〇年八月二〇日兵庫県尼崎市で長女花江の出生届出を行っており、そのことは二夫が昭和一九年五月五日当時においても兵庫県に居住していたことを立証するものである。
戸籍上、二夫が昭和一九年五月五日北谷村で分家の届出を行ったとなっているのは、同二一年一〇月に兵庫県から沖縄へ引き揚げた後の仮戸籍申告に際して改めて戸籍申告をしたため、そのようになっているのである。
(6) 甲川三夫(甲川夏子(選定者番号二四)の前主)
被控訴人は、戸籍上、甲川三夫が昭和一九年一〇月一五日北谷村で母秋子の死亡届出を行っているので、同人が不在者でないことは明らかであるとしているが、三夫は、昭和二年にフィリピンへ出稼ぎに行き、同二一年に沖縄へ引き揚げて来たのであり、昭和一九年ころは沖縄にはいなかった。また、右戸籍によると、三夫は昭和二〇年七月二五日フィリピンで妻春江の死亡届出を行っており、そのことは三夫が同一九年当時フィリピンにいたということを立証するものである。
戸籍上、三夫が同一九年一〇月一五日北谷村で母秋子の死亡届出を行ったとなっているのは、同二一年にフィリピンから沖縄へ引き揚げた後の仮戸籍申告に際して、改めて戸籍申告をしたため、そのようになっているのである。
(7) 甲原四夫(選定者番号四三)
被控訴人は、戸籍上、甲原四夫の二男五夫が昭和一九年八月三〇日北谷村で出生し、四夫が出生届出を行っているので、同人は在村していたか又は本件係争地接収のころに帰省し、土地の売買等の重要な意思決定を自ら行い、その手続を妻等にゆだねていたものと認定するのが相当であるとしているが、四夫は、昭和五六年八月四日付けの証人尋問調書四項で「私は、本件土地を買った後の昭和一三年に大阪へ行き、終戦後の昭和二一年ころ戻って来ました。」と証言するとおり、本件係争地接収のころに帰省したことはない。四夫の二男五夫も北谷村ではなく大阪で出生したのである。
戸籍上、四夫の二男五夫が北谷村で出生し、父四夫がその出生届出を行ったとなっているのは、四夫が大阪から沖縄へ引き揚げた後の仮戸籍申告に際して、改めて戸籍申告をしたため、そのようになっているのである。
(8) 丙原六夫(選定者番号四七)
被控訴人は、戸籍上、丙原六夫の長男七夫が昭和一五年二月二四日、四女冬子が同一七年四月八日、五女松子が同一九年一月二三日いずれも北谷村で出生し、六夫が出生届出を行っているので、六夫は在村していたか又は本件係争地接収のころに帰省したことがあるものと認定するのが相当であるとしているが、六夫は、昭和五六年六月一日付けの証人尋問調書二項で、「大正一三年八月二四日に大阪へ行き、昭和二一年一一月二五日に沖縄へ帰りましたが、その間ずっと大阪にいました。」と証言するとおり昭和一五年、同一七年、同一九年当時は大阪に居住しており、本件係争地の接収時期に帰省したこともない。六夫の長男七夫、四女冬子、五女松子は北谷村ではなく、大阪で出生したのである。
戸籍上、長男七夫、四女冬子及び五女松子が北谷村で出生し、六夫がその出生届出を行ったとなっているのは、大阪から沖縄へ引き揚げた後の仮戸籍申告に際し、六夫が七夫、冬子、松子については、本籍の北谷村で出生した形をとった方が都合がよいという理由から戸籍申告をしたためである。
(三) 同(三)の主張は争う。
被控訴人は、宮古、西表島における不在地主との旧軍買収手続の証拠を提出して、本件土地における不在地主との買収手続も同じ方法でなされたものであることは容易に推認できる旨主張しているが、むしろ逆である。
(1) 西表島における状況
ア 被控訴人は、西表島における買収手続について、本件土地の買収とほぼ同時期ないし近接した時期に行われたものであると主張しているが、西表島における買収は昭和一六年一〇月一日に西表砲台敷地の買収としてなされたものである。昭和一六年一〇月一日という時期は、わが国が大東亜戦争に突入した同年一二月八日より以前である。
本件土地が飛行場建設用地として買収手続に入ったとされる時期は昭和一九年四月から一〇月にかけてであって、そのころはサイパン島が陥落し戦局が重大な転機を迎えた時期(昭和一九年七月七日)であり、また、土地代金の支払についての陸軍経理部長の通牒があったとされる昭和一九年一〇月一一日の前日は、いわゆる一〇・一〇空襲によって沖縄が灰燼に帰した日であって買収の時期及び状況は全く異なり、むしろ同じ方法で手続が行われたとは到底考えられない状況にあったというべきである。しかも不在地主は鹿児島県、大阪市、基隆市に居住する三名で、当時は電報や郵便によって通信が可能な状況にあったのである。
イ 被控訴人は、宮古及び西表島における旧軍飛行場用地等といい、西表島における買収も本件土地と同様、飛行場建設のための買収であるかのように主張しているが、西表島の舟浮港は水深が深く軍港として利用されたことがあり、昭和一六年には舟浮要塞司令部が設置されており(沖縄大百科事典)、同年一〇月一日の土地買収も砲台敷地の買収であり、米軍の本土上陸を目前に控え緊迫した状況にあった本件土地の買収とは全く事情が異なる。
ウ 《証拠省略》によると、売買の契約内容は極めて一方的、強圧的で通常の経済取引とは到底考えられないものであるが、昭和一六年一〇月一日当時のわが国は支那事変における有利な戦局の時期にあったのであるが、そういう時期でさえも右のようであったから、昭和一九年七月サイパンが玉砕し、本土上陸が目前に迫った緊迫した戦局下において、沖縄での飛行場建設用地の取得が通常の状況でなされたものではないことは公知の事実である。
(2) 宮古における状況
ア 時期については西表島の場合と同様のことがいえる。被控訴人は昭和一九年当時と主張しているが、丙川六平所有土地の売買契約が同一八年一〇月一〇日であることは登記簿謄本によりこれを知ることができる。昭和一八年一〇月当時と本件土地の買収手続がなされたとする同一九年一〇月では一年も隔たりがあり、時々刻々戦局は変わって行く時期であったから、前述のとおり宮古島における売買契約が本件土地の買収と同時期又は近接した時期ということはできない。
イ 被控訴人は、宮古における不在地主への用地買収代金の支払について、父母等の近親者から全責任を負うとの引受証をとって売買代金を支払い、所有権移転登記を完了した旨主張しているが、所有者本人丙川六平が出征中で不在であることは明らかであり、かかる場合、近親者が代金を受領したから売買契約が有効に成立したということにはならない。かえって、乙第八五号証の三の領収証は、本人不在のまま本人名義で発行されたもので偽造文書であることを自ら証明しているようなものである。そのことからすると本件土地の買収手続は、諸般の状況からして通常の経済取引としてなされていないということができる。
(四) 同(四)及び(五)の主張は争う。
(五) 同(六)の主張は争う。
(1) 被控訴人は、アンケート調査において、丙林六男及び戊村十雄の両人が地主として申告しておらず、所有者らしい行動をとっていないものであるとしているが、そもそもアンケート調査は、本件土地の所有権返還を国に対して陳情するというのが主目的であり、地主の特定は必ずしも主目的ではなかった。六男及び十雄の両人は、たまたまアンケート調査時において登録住所地にいなかったために連絡がとれず、アンケート調査が行われなかっただけであり、本件係争地の所有者であることには変わりがない。
(2) 被控訴人は、控訴人らが不在であったと主張する二六名中、売買契約を締結したことがない旨回答している者は六名にすぎないとしているが、前記のとおり、このアンケート調査の主目的は、本件土地の所有権返還を国に対し陳情することにあった。当時の嘉手納村軍用地等地主会長戊田七平は、日本政府の各省庁に対して土地返還の陳情をするため、このアンケート調査を実施したのであるが、地主らは、実際には本件土地の代金を受領していないにもかかわらず、当時の総務長官から「地主であることを証明するため土地代金は一部取ったと言った方がいい。」との示唆を受け、代金を受け取った形にした方がよいと判断し、地主会の事務員らに対して、代金は一部受領した旨記載するよう改ざんを指示したものである。実際には、本件土地の全地主らは、売買契約を締結したことはなかったし、代金を受領したこともない。
(六) 同(七)の主張は争う。
(1) 特別布告第三六号第五条は、「かくして、発行された土地所有権証明書は、適法な土地所有権の証拠として認められるが、裁判所の正規の裁判手続によってこれに優先する所有権が認定されたときは、裁判所の認定が優先する。」と規定しており、また、布告第八号三条二項は、「土地所有権証明書を所持する地主に対する土地所有権の優先取得権を申請する場合、右申請者は、法定(廷)において真の土地所有権を決定するために、当該管轄地区巡回裁判所に訴訟を提起しなければならない。」と規定し、右布告は、いずれも訴訟によって土地所有権証明書の効力を争うことができるような定めをしている。
(2) 他方、手続の面においては、琉球政府の設立以前の民裁判所制を規定した一九五〇年七月一三日特別布告第三八号(民裁判所制度)は、一条二項で、「治安裁判所、巡回裁判所は琉球諸島の各臨時政府の機構内の一独立部門たる司法部の機関で、その裁判権は合衆国又は連合国の陸海軍裁判所の裁判権に服する者及び外交上の免責を有する者を除き、各地方的域内の総ての人に及ぶ。」と規定し、琉球列島の各群島政府の区域内にある者に対し、その定めある者を除き民事及び刑事の裁判権を有する旨を定めている。ところで、前記の特別布告第三六号及び布告第八号に基づいて、本件土地について日本国を所有権者として発行された土地所有権証明書の効力を争う訴訟においては、一九四五年米国海軍軍政府布告第七号(財産の管理)により、「国有財産」を管理するアメリカ合衆国の「軍政府長又は軍政府長により財産管理官として任命された他の士官」である財産管理官を被告としなければならないことになるが、財産管理官は特別布告第三八号のいう「合衆国又は連合国の陸海軍裁判所の裁判権に服する者」であるところ、同人に対しては民事訴訟の提起は許されない。
(3) ところで、特別布告第三八号は、公布後間もない一九五二年一月三日に米国民政府布告第一二号(琉球民裁判所制)によって廃止され、以後沖縄の日本復帰のときまで布告第一二号が琉球政府の裁判所制の基本法をなしていた。この布告第一二号一条二項は「琉球民裁判所は……布令の定めるところに従って、琉球列島におけるすべての者に対して民事の裁判権を有する。」と定めていたが、この規定は同日付けの民政府布令第五八号により直ちに次のように改正された。すなわち、「民政府布告第一二号(琉球民裁判所制)第一条第二項の規定により合衆国軍に雇用若しくは同伴されている国際連合国民及びその家族は同布告により定められた民事裁判権の行使を受けない。」と規定した。そして、一九五七年六月五日に公布された琉球列島の管理に関する行政命令は、第一〇節e項において、「本節のいかなる規定も、合衆国議会が特に権限を与えない限り、合衆国政府又はその機関に対する裁判権を、琉球政府の裁判所又は民政府の裁判所に与えるものと解釈してはならない。」と規定し、琉球政府の裁判所は日本復帰のときまでアメリカ合衆国政府又はその機関に対する裁判権を保有することはなかったのである。
このように、特別布告第三六号及び布告第八号においては、訴訟手続によって土地所有権証明書の効力を争うことができるように規定していても、日本国が所有権者と記載された土地所有権証明書の効力を争うことは手続法上できないことになっていた。
(七) 同(八)の主張は争う。
四 本件売買契約の無効について
1 控訴人ら
仮に、本件土地について買収手続がなされたとしても、昭和一九年七月二二日当時売買代金は未だ支払われておらず、その後においても支払ったとする証拠は全く存在しない上、当時の地権者及びその承継人である控訴人らはこれを受領していないと主張しているのであるから、国は、国民の土地を挙国一致の国民総力戦という当時の国策とこれに導かれた滅私報国、一億一心のスローガンの下に戦争への強力な協力態勢にあった社会状勢の下で、国民の土地を強制的に接収し、その代金の支払がなされないまま終戦に至ったものであり、被控訴人の主張する売買契約は、本人の意思に基づかないものであるから無効である。
2 被控訴人
控訴人ら主張の事実は否認する。
旧陸軍は、本件土地は当時の所有者から適法に買収したものであり、意思の抑圧等の契約の無効事由は何ら存しない。
第三証拠《省略》
理由
第一 当裁判所も、控訴人らの本訴請求はいずれも理由がなく、棄却するべきものと判断するが、その理由は、次のとおり付加・訂正・削除するほかは、原判決理由説示のとおりであるから、ここにこれを引用する。
一 原判決一五丁表四行目の「第二〇号証、」の次に「第九九、第一〇〇号証、」を、同一六丁表一行目の「のであるが、」の次に「成立に争いのない甲第七号証の一ないし三及び」を、同三行目の「明らかであるところ、」の次に《証拠省略》によれば、控訴人ら又はその前主が昭和一九年当時、本件土地の一部又は右仮地番の付された土地の所有権を有していた事実につき、客観的資料によってこれを立証しようと試みる者は、控訴人ら一二三名のうちの六名にすぎない。しかも、」をそれぞれ加え、同六行目の「到底認め難いところであり、」を「認め難いところである。控訴人らは、前掲甲第七号証の一ないし三の配列図及び地積表は、土地明確化法に定められた作業手順に準じて作成されたものであるから、これに表示された本件土地は、控訴人ら又は控訴人らの前主が昭和一九年四月ころに所有していた土地と位置・形状・面積において同一性がある旨主張する。しかしながら、土地明確化法は、土地の位置境界の確認という形式をとりながら、その実質は土地の位置境界の確定を関係所有者全員が参加してする和解方式で行うことを立法により是認したものであり、したがって、もとの所有地と異なる位置に新しい所有地が協議により定められ、それが実質上もとの所有地と連続性のあるものとみなされる効果は、土地明確化法に基づく手続によった場合にのみ認められるものと解すべきところ、前記配列図及び地積表が土地明確化法に基づいて作成されたものでないことは控訴人らの自認するところであるから、控訴人らの右主張は採用することができない。仮に、本件のような事案においては、土地明確化法の定める手続に準じて控訴人らの土地の位置境界を推定する以外に方法がないとしても、弁論の全趣旨によれば、甲第七号証の一ないし三の配列図及び地積表は、控訴人らの申告に基づいて沖縄陸地測量株式会社が作成したものであるが、その作成に当たり、地図等を公告して控訴人ら以外の関係所有者に申し出る機会を与えた形跡はなく、また、本件土地内にも当然に存在したと思われる里道、水路等の国有財産を管理する関係当局が各筆の土地の位置境界を確認する協議に参加したとも認められないから、本件土地の関係所有者全員の協議による位置境界の確認があったとはいえず、結局、土地明確化法の定める重要な手続を履践していないので、前記配列図及び地積表は、土地明確化法の定める手続に準じて作成されたものと評価することはできず、これをもって、控訴人らが主張するような本件土地との同一性を示すものとして取り扱うことはできない。なお、《証拠省略》によっても、いまだ控訴人ら主張のような本件土地との同一性を認めることはできず、他に控訴人らの右主張事実を認めるに足りる的確な証拠はない。」と改める。
二 原判決一六丁裏九行目の「乙第二〇号証、」の次に「第九九、第一〇〇号証、」を加え、同末行から同一七丁表一行目にかけての「第一九号証、」を「第一九、第一〇一号証、」と改め、同一七丁裏一行目から二行目にかけての「経由した。」の次に「なお、旧野原、旧洲鎌の各飛行場用地のうち、一五筆の土地については、昭和一九年五月一日の売買を原因として、昭和一九年一一月一三日から同二〇年五月一六日までの間に所有権移転登記手続が経由された。」を加える。
三 原判決一八丁裏八行目の「ことができる。」の次に行を改めて次のとおり加える。
「控訴人らは、乙第一九号証の通牒は、旧中飛行場とほぼ同時期に建設された旧東飛行場(以下「西原飛行場」という。)の所在地である西原村及び浦添飛行場の所在地である浦添村の各村長にも送られているところ、右通牒のあて先として掲げられている西原村及び浦添村については、飛行場用地としての買収手続は行われておらず、右両飛行場の敷地は国有地とも認定されていないから、右通牒のあて先に北谷村の村長が掲げられていることを理由に、本件土地の買収手続が行われたものと推認することはできず、かえって、本件土地の買収手続はなされなかったと推認するのが合理的である旨主張する。
しかしながら、一九四五年(昭和二〇年)一二月一〇日米軍が西原村に所在する西原飛行場を撮影した航空写真であることに争いのない甲第二八号証、同日米軍が浦添村に所在する浦添飛行場を撮影した航空写真であることに争いのない《証拠省略》によれば、旧陸軍は、西原村に西原飛行場を、浦添村に浦添飛行場を建設していたこと、「土地代價ノ支払ニ関スル件通牒」には、あて先として前記の下地村、大濱村、伊江村、北谷村の各村長のほかに西原飛行場の所在地である西原村、浦添飛行場の所在地である浦添村の各村長が掲げられていること、沖縄民政府は、一九四九年(昭和二四年)四月一九日付け財第一四〇号「旧日本軍飛行場敷地に対する土地所有申請に就いて」と題する書面によって、関係各村長あてに旧日本軍飛行場敷地の土地代金の一部しか受領していないことの確証ある地主については土地所有権申請をさせるよう促したところ、西原村は、関係者の調査を行い、該土地の筆数、坪数及び各個人に対する代金の既払、未払の各金額並びに買収単価は坪当たり四円二〇銭(一部については坪当たり五円五〇銭)で代金の大半を受領しているという内容の調書を作成し、その旨の報告をしたこと、米国民政府琉球財産管理課は、一九五二年(昭和二七年)五月関係村に所有権調査を行ったところ、当時の西原村長玉那覇馨及び買収当時の役場書記大城康秀の両名は、同月七日琉球財産管理課長テ・イ・スミスあてに「当時日本軍が西原飛行場施設に該関係土地を買上げたときは前所有者は土地登記のするため登記書類一切を司法書士を通じて日本軍に名義移動をするため首里登記所に提出されるようになっていた。私達は日本軍が土地買上げ当時共に当地に在留しておりました。私は(現村長)当時日本軍に土地を売り以上述べたような方法で手続をしましたことを知っている範囲内で証明致します。」と記載した証明書を提出したこと、なお、前記西原村作成の調書中、売渡所有者の中には玉那覇村長も名を連ねていること、ところが、西原村は、沖縄民政府や米国民政府には前記のような報告書や証明書を提出しておきながら、他方では、西原飛行場敷地の旧地主に、一九五一年(昭和二六年)四月一日付けの土地所有権証明書を交付したため、旧地主名義の登記が経由されてしまい、西原飛行場敷地の所有権の帰属をめぐって米国民政府と西原村、旧地主らとの間で紛争が生じたこと、米国民政府は、西原飛行場敷地は旧陸軍が買収した土地であるから国有地である旨主張したのに対し、西原村は買収されていない旨主張し、旧地主らは異議申立てをして争ったので、結局、米国民政府は、西原飛行場敷地の管理解除をなしたこと、浦添飛行場敷地の所有権の帰属についても、米国民政府との間で紛争が生じ、同民政府は浦添飛行場敷地も旧陸軍が買収した土地であるから国有地である旨主張したのに対し、浦添村は買収されていない旨主張して争ったので結局、米国民政府は、浦添飛行場敷地についても管理解除をなしたこと、以上の各事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
右の事実によれば、西原飛行場及び浦添飛行場の両敷地は、もと旧陸軍によって買収されて国有地となっていたものと推認されるところ、米国民政府と旧地主らとの間に右両飛行場敷地の所有権の帰属をめぐって紛争が生じ、結局、米国民政府は右両飛行場の管理解除をしたため、右両敷地は現在国有地として引き継がれていないというにすぎず、右両敷地について、飛行場用地としての買収手続がなされなかったことを前提とする控訴人らの前記主張は採用することができない。
さらに、控訴人らは、前記通牒によると、土地の代価の支払は、臨時資金調整法により国債の購入又は長期据置貯金で実施し、現金の交付は負債整理等特別の必要がある者に限定されていたが、アンケート調査では国債を買わされたとする回答が一つもないという点で通牒内容と一致せず、したがって、右通牒のあて先に北谷村長が記載されていることや土地代金を現金で受領したとする右アンケート調査があるからといって、本件土地の買収手続がなされたと認定することはできない旨主張するけれども、右アンケート調査によれば、土地代金の一部を北谷村信用組合に貯金させられた旨の回答が多数あり、通牒の内容と矛盾するものではないから、控訴人らの右主張も採用することができない。」
四 原判決一八丁裏九行目及び同二〇丁表一行目の「証人丁野九平」を「証人丁山九平」と、同一八丁裏一〇行目から一一行目にかけての「一九四八年四月七日軍政府布告第七号」を「一九四五年(昭和二〇年)四月五日付けの米国海軍軍政府布告第七号」と、同二〇丁表一二行目の「実情について」を「実情調査について」とそれぞれ改め、同二一丁表一〇行目の「乙第一一号証の一ないし六一、」の次に「乙第一一三号証の一、二、第一一四ないし第一二〇号証、第一二一号証の一、二、第一二二号証の一ないし三、第一二三号証」を、同一一行目の「各証言」の次に「及び弁論の全趣旨」を、同二一丁裏一行目の「第一九号証」の次に「、乙第一一三号証の一、二、第一一四ないし第一二〇号証、等一二一号証の一、二、第一二二号証の一ないし三、第一二三号証」をそれぞれ加え、同二行目の「七二名」を「八七名」と、同四行目の「五四名」を「五九名」と、同六行目の「一五名」を「一六名」と、同七行目から八行目にかけての「沖縄市町村軍用地等地主会」を「沖縄市町村軍用地主会連合会」とそれぞれ改め、同九行目から一〇行目にかけての「乙第一一号証の一ないし六一」の次に「、原本の存在及びその成立に争いのない甲第六九号証の三ないし六一」を、同二三丁表四行目の「措信できない。」の次に行を改めて次のとおり加える。
「また、控訴人らは、当審において、本件土地は実際には買収されておらず、その代金の支払も受けていなかったにもかかわらず、当時の総務長官から、地主であることを証明するため土地代金は一部受け取ったことにした方がよいとの示唆があったので、アンケート調査の内容を代金は一部受領と訂正した旨主張し、当審証人戊田七平、同乙野八平の証言中には、右主張に沿うかのような証言部分がある。しかしながら、前掲甲第一八号証の一ないし七二等のアンケート調査(土地所有権喪失申請書)によれば、右アンケートの相当数につき代金の支払に関する部分が訂正されていることが認められるけれども、もともとアンケート調査の回答の大多数は代金の一部を受領したという内容であって、訂正は、単にその一部受領の形態を書き直したにすぎず、そのほか、代金の一部受領を全部受領と、未受領を全部受領と訂正したものも見受けられる。したがって、買収されていないとの回答を代金の一部受領、すなわち買収の存在を認める回答に訂正したものではないから、右証言も、前記アンケート調査の信用性を左右するものではない。」
五 《証拠付加・改め省略》と改める。
六 原判決二三丁裏五行目の「証言」の次に「及び当裁判所に顕著な事実」を、同二四丁表二行目の「これによると、」の次に「沖縄諮詢会総務部の監督の下に」を、同八行目の「調査を行い、」の次に「必要に応じ他の字土地所有権委員会とも協議し、」を、同一〇行目の「調査し、」の次に「必要に応じて他の村土地所有権委員会とも協議し、」をそれぞれ加え、同二四丁裏三行目から四行目にかけての「調停にあたらせることとされた。」を「調停に当たらしめ、当該調停委員会はこれを沖縄諮詢会総務部に報告するものとした。」と、同二五丁表一行目から二行目にかけての「土地所有権証明書用紙」を「土地所有権の未記入証明用紙」と、同三行目の「土地所有権証明書を作成し、」を「土地所有権証明用紙に必要事項を記入完成し、村長未署名のまま一括保管し、」とそれぞれ改め、同四行目の「縦覧に供し、」の次に「異議ある者には同一の土地に対して権利を主張するため書面による申請通知を村土地所有権委員会に提出する機会が与えられ(第三条第一項)、」を加え、同六行目の「第三条」を「第四条第一項」と、同一二行目の「第三条」を「第三条第二項」と、同二五丁裏三行目の「第四条」を「第四条第二項」と、同五行目の「六月三〇日」を「六月一三日」とそれぞれ改め、同八行目の「結局」の次に「、異議申立てのない土地については、」を加える。
七 原判決二六丁表九行目の「甲第六号証の一ないし四」の次に「乙第六号証の一、第一四〇号証」を、同一〇行目の「甲第二〇号証の一、二」の次に「乙第九八号証」を、同二六丁裏七行目の「別紙物件目録(二)」及び同一〇行目の「別紙物件目録(七)」の次に「(本判決添付のもの)」を、同二七丁表二行目の「測量調査を行った。」の次に「土地所有権認定作業につき、各市町村に対し事務の統括、指導を行う立場にあった沖縄民政府総務部長は、一九四七年(昭和二二年)一〇月六日、土地調査事務に関する注意事項等を内容とした土地調査事務通信(第二号)において、各市町村長に対し「戦前飛行場其ノ他日本軍使用ノ土地ニシテ其ノ賠償金ヲ既ニ受取リ乍ラ「土地代四―二割ハ強制天引貯金(産業組合等)ニ振替ヘラレ現金ハ八割領収済ナル理由ニテ」今回ノ土地所有申請ヲ更ニ旧地主ヨリ提出セントスルモノアリ斯ル如キハ二重ニ土地代ヲ受取ラントスル悪徳行為ナルニ付若シ申請セントスルモノアルトキハ受付ザル様字委員ヘ示達セラレタシ尚本件ニ於テハ戦前賠償金取扱者(収入役等ニ付其ノ支拂ノ済否ヲ確メタル後処理スルコト)(首里、小禄、浦添、西原、中城、北谷、読谷等特ニ注意セラレタシ)尚日本政府有ノ土地ニ対シテハ村委員字委員協議ノ上調査ヲ作出シ置クコト」と指導した。」をそれぞれ加え、同二七丁表五行目の「証明する旨の」を「記載した旨の村長未署名の」と、同一二行目の「一九四八年四月七日軍政府」を「一九四五年四月五日付けの米国海軍軍政府」とそれぞれ改め、同一三行目の「財産の管理」の次に「(以下「布告第七号」という。)」を、加える。
八 《原判決は付加・改め・削除省略》
九 原判決二八丁表九行目の「認められる。」の次に行を改めて次のとおり加える。
「控訴人らは、特別布告第三六号及び布告第八号に基づいて、本件土地について被控訴人を所有者として作成された土地所有権証明書の効力を争う訴訟においては、布告第七号により米国民政府財産管理官を被告としなければならないことになるが、一九五〇年(昭和二五年)琉球列島米国軍政本部特別布告第三八号「民裁判所制度」、一九五二年(昭和二七年)琉球列島米国民政府布令第五八号「琉球裁判所制度の民事裁判権」及び一九五七年(昭和三二年)六月五日付け、「琉球列島の管理に関する行政命令」により琉球政府の裁判所は、日本復帰のときまでアメリカ合衆国政府又はその機関に対する裁判権を保有することはなかったのであるから、特別布告第三六号及び布告第八号においては、訴訟手続によって土地所有権証明書の効力を争うことができるように規定していても、被控訴人が所有者として作成された土地所有権証明書の効力を争うことは、手続法上これができないことになっていた旨主張する。
なるほど、控訴人ら主張のとおり、本件土地について日本国を所有権者として発行された土地所有権証明書の効力を争う場合には、布告第七号による財産管理官を被告としなければならないが、右特別布告第三八号、布令第五八号及び琉球列島の管理に関する行政命令により、琉球政府の裁判所は、日本復帰のときまでアメリカ合衆国政府又はその機関に対する裁判権を有しなかったから、特別布告第三六号及び布告第八号において、訴訟手続によって土地所有権証明者の効力を争うことができるように定めていても、日本国が所有権者と記載された土地所有権証明書の効力を争うことは、訴訟手続上不可能であったことが認められるけれども、右事実をもってしても、前記の認定判断を左右するものではない。」
一〇 原判決二八丁裏八行目の次に行を改めて次のとおり加える。
「(五) なお、過去における控訴人らの本件土地返還運動の内容をみると、《証拠省略》によれば、嘉手納村軍用地地主協会は、一九七一年(昭和四六年)一〇月、大蔵大臣らに対し本件土地所有権の返還を求める要請書を提出しているが、その内容は、旧陸軍による本件土地の買収を認めた上で、地主が戦時下の国策に協力したにもかかわらず、代金の全部又は一部を受領していないことないしは半強制的に国債を購入させられた事情を訴えて本件土地の返還を要請するものであったことが認められ、右認定に反する証拠はない。右の事実は、前記控訴人らのアンケート調査結果と相まって、本件訴えを提起する以前の段階における控訴人らの認識を窺わせるものといわなければならない。」
一一 不在であったと主張する者に対する買収手続について
控訴人らが本訴で所有権の確認を求める各土地が、昭和一九年当時控訴人ら又はその前主が所有していたとする土地と位置・形状・面積において同一性があるという事実についての立証がなされていないことは前記のとおりである。しかし、本件事案の特殊性を考慮し、かつ、被控訴人において、昭和一九年当時の所有者らから、本件土地を旧中飛行場用地として買収した旨主張するので、右土地の同一性があること及び控訴人ら又はその前主が昭和一九年当時当該土地の所有権を有していたものとして、以下の認定判断を行うものである。
1 不在であったと主張する二六名のうち不在者でない者
(一) 乙山二郎(選定者番号四一)
別紙物件目録(三)の17の土地は、もと、二郎の叔父五平の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、五平が右二郎の兄乙山一郎に贈与し、戦時中は同人が管理していたこと、二郎は昭和五年に南洋へ出稼ぎに行き、昭和二〇年一二月に沖縄に引き揚げてきたが、その直後に兄一郎から兄弟の分け前として右土地の贈与を受けたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、別件物件目録(三)の17の土地について、買収当時の所有者は、二郎ではなく同人の兄乙山二郎であり、同人が右土地の買収当時在村していたことは明らかである。したがって、右土地の買収当時、二郎が不在であったとする控訴人らの主張は、その前提を欠き失当である。
(二) 丁原三郎(丁原四郎(選定者番号五)の前主)
別紙物件目録(一)の3、同(四)の10及び同(五)の5の各土地が昭和一九年当時三郎の所有であったとしても、控訴人らが主張するように三郎が同一九年六月一五日召集を受け不在であった事実は、本件全証拠によるもこれを認めることができない。したがって、右各土地の買収当時、三郎が不在であったとする控訴人らの主張は採用することができない。
(三) 戊野八郎(選定者番号八四)
別紙物件目録(六)の20、22の各土地が昭和一九年当時戊野の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、八郎は、昭和一八年に徴用で長崎へ行き、同一九年一二月ころ帰沖したこと、八郎は、嘉手納村軍用地等地主協会が一九七〇年(昭和四五年)三月ころ、土地所有権の喪失理由、代金受領の有無等についてアンケート調査をした際、右の各土地について坪当たり一円で売り、土地代金の六〇パーセントは受け取り、一〇パーセントは村信用組合へ預金させられた旨の回答をしていることが認められ(る。)《証拠判断省略》
右の事実によれば、八郎は、少なくとも昭和一九年一二月ころは在村しており、別件物件目録(六)の20、22の各土地の買収手続等に関与できたものと推認するのが相当である。したがって、左土地の買収当時、八郎が不在であったとする控訴人らの主張は採用することができない。
(四) 丙山九郎(丙山十郎(選定者番号五三)の前主)
別紙物件目録(三)の31と同(七)の35の各土地が昭和一九年当時十郎(昭和一二年一二月二二日生)の祖父丙山九郎の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、戸籍には、十郎の妹花子は昭和一五年一〇月一一日、同春子は同一九年一月七日いずれも中頭郡北谷村で出生し、父一夫が出生届をした旨記載されていること、十郎は両親及び祖父母と同居していたものと推認され、父一夫は昭和二三年一月二八日に死亡し、祖父九郎は昭和三〇年八月二七日死亡したことが認められ(る。)《証拠判断省略》
控訴人らは、沖縄の戸籍は今次大戦により焼失し、戦後の戸籍整備は、関係当事者の努力にもかかわらず、ずさん極まりない例が多く、公的証明書でありえない旨主張し、成立に争いのない甲第六六号証にはこれに沿う部分も認められるが、控訴人らも、戦後における仮戸籍の申告を正しくしたのに誤って記載されていると主張するものではなく、控訴人らの申告どおりに記載されていることは明らかに争わないところである。そうだとすれば、戸籍の記載自体からその誤謬が明白である場合を除き、控訴人らにおいて、戸籍の記載が誤りであることを客観的資料により明らかにしない限り、戸籍の記載をもって一応真実であるとするほかはない。しかして、右の客観的資料が何ら提出されない本件の場合においては、前掲甲第六六号証によってもいまだ前記認定を左右するに足りず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない(以下、戸籍を証拠とする場合には同様である。)。
右の事実によれば、別件物件目録(三)の31と同(七)の35の各土地の買収当時、十郎の祖父九郎は、十郎らとともに中頭郡北谷村に居住していたものと推認するのが相当である。したがって、右各土地の買収当時、右九郎が不在であったとする控訴人らの主張は採用することができない。
(五) 甲原四郎(選定者番号四三)
別紙物件目録(三)の19の土地が昭和一九年当時四夫の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、戸籍には、四夫の二男五夫は昭和一九年八月三〇日中頭郡北谷村で出生し、四夫が同年九月三日右五夫の出生届をした旨記載されていることが認められる。
右の事実によれば、別紙物件目録(三)の19の土地の買収当時、四夫は、中頭郡北谷村に居住していたものと推認するのが相当である。《証拠判断省略》したがって、右土地の買収当時、四夫が不在であったとする控訴人らの主張は採用することができない。
(六) 丙原六夫(選定者番号四七)
別紙物件目録(三)の25の土地が昭和一九年当時六夫の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、戸籍には、六夫の長男七夫は昭和一五年二月二四日、四女冬子は同一七年四月八日、五女松子は同一九年一月二三日いずれも中頭郡北谷村で出生し、六夫が、いずれもそのころ出生届出をした旨記載されていることが認められる。
右の事実によれば、別紙物件目録(三)の25の土地の買収当時、六夫は、中頭郡北谷村に居住していたものと推認するのが相当である。《証拠判断省略》したがって、右土地の買収当時、六夫が不在であったとする控訴人らの主張は採用することができない。
2 不在者に対する買収手続
(一) 西表島における状況
《証拠省略》によれば、旧陸軍省は、昭和一六年当時、不在地主の土地の買収及び土地所有権移転登記手続を迅速に処理するため、竹富村長に対し、不在地主から権限の委任を受けるよう依頼する文書を送付し、これに基づき竹富村長は、各不在地主に対し、村長への権限の委任につき承諾の有無を確認したところ、当時、鹿児島県に居住していた丙野十平は、昭和一六年一〇月二二日一切の権限委任を承諾する旨の意思表示を電報で行っていること、当時、台湾基隆市に居住していた戊野一彦は、昭和一六年九月一〇日付けの土地売渡承諾証書と同年一一月五日付けの印鑑証明書を郵送しており、また、当時、大阪市に居住していた平山二彦は、同年九月一〇日付けの土地売渡承諾書を郵送していること、右承諾書により一切の権限を委任された竹富村長は、土地売買の手続を行うとともに、昭和一七年二月から七月にかけて、同一六年一〇月一日の売買を原因とする陸軍省への所有権移転登記を完了していることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、旧陸軍省は、昭和一六年から同一七年当時、西表島においては、不在地主との間の用地買収手続を電報又は郵便による方法によって行っていたものと推認することができる。
(二) 宮古島における状況
《証拠省略》によれば、旧海軍省は、昭和一八年一〇月一〇日、丙川六平から同人所有の宮古郡平良町字西里立行一一四〇番畑を購入し、同一九年七月二七日所有権移転登記を経由したこと、昭和一九年当時、右丙川六平は出征中であったため、旧海軍省から土地代金の支払について依頼を受けていた平良町長丁川三彦は、平良町東町内会長乙川四彦、実母丙川ハナ、親戚代理人戊原五彦らから、もし将来に異変ありたる節は私共にて全責任を負い一切貴殿に御迷惑をかけない旨の昭和一九年八月二一日付けの引受証を提出させた上、実母丙川ハナに売買代金一一八八円六〇銭を支払ったこと、なお、右代金の領収証は、佐世保海軍経理部長あて丙川六平名義で作成されていることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、旧海軍省は、昭和一八年から同一九年当時、宮古島において不在地主との間の用地買収手続を行うに当たっては、父母等の近親者を不在者の代理人として取り扱っていたものと推認することができる。
(三) 登記事務、電報・郵便業務等
《証拠省略》によれば、那覇区裁判所嘉手納出張所は、中頭郡北谷村字屋良亀甲七五九番畑について、昭和一九年一二月二七日に抵当権設定登記の抹消登記をしていること、旧陸軍省は、昭和一九年五月一日乙原六彦から同人所有の宮古郡下地村與那覇ミナアイ原所在の畑等四筆を買い受け、同年一二月八日陸軍省を取得者とする所有権移転登記手続を経由していること、球一六一六部隊経理部は、宮古島陸軍航空基地の建設に当たり、昭和一九年一〇月に名寄帳(宮古島西飛主方向、所有者甲田七彦ほか一三名)を、同年一二月に土地売渡証書綴をそれぞれ作成していること、いわゆる一〇・一〇空襲は、那覇市に多大な被害をもたらしたが、他の被災地の被害はそれほど大きくなく、北谷村における被害は旧中飛行場周辺に限られたものであったこと、この空襲を境にアメリカ軍が上陸してくるのではないかという危機感を抱くようになったが、いまだ住民の生活を著しく混乱させたり、種々の行政活動を停止させたりするものではなく、その後、沖縄への爆撃は昭和二〇年まで行われなかったこと、いわゆる一〇・一〇空襲によって那覇市内及び読谷、知念、本部の各郵便局は焼失したが、無線通信は、真和志送信所及び首里受信所の被害が軽微のため、間もなく再開され、電信電話は、かねてから非常の場合に備えていた措置局が無事であったので業務が続けられ、郵便関係は、那覇郵便局電話課庁舎において業務を取り扱っていたこと、その後、昭和二〇年二月中旬ころには、電報及び郵便等の業務はほとんど停止状態となっていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、球一六一六部隊経理部は、昭和一九年一〇月以降においても買収価格の確定や所有権移転登記手続を行っており、那覇区裁判所嘉手納出張所は、同年一二月中も登記事務を行っていたこと、電報及び郵便業務は、遅くとも昭和二〇年二月初旬ころまで行われていたことは明らかである。
(四) 買収当時に不在であった者等について
(1) 丙林六男(選定者番号一一)
別紙物件目録(一)の10、12及び同(四)の24の各土地が昭和一九年当時丙林六男の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、六男は、昭和一六年三月に入隊し、同二一年五月復員して博多に上陸、同年八月二一日沖縄に帰ってきたが、昭和一九年ころ、北谷村には母親と兄弟が居住していたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、六男は、昭和一九年当時、出征して不在であったが、右各土地の管理を同人の母と兄弟にゆだねていたと推認するのが相当である。
(2) 甲村九雄(甲村九夫(選定者番号二三)の前主)
別紙物件目録(二)の10の土地が昭和一九年当時甲村九雄の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、九雄は、昭和一五年ころ家族と共に大阪へ出稼ぎに行き、同二一年ころ帰沖したが、昭和一九年ころ、右土地を九雄の姉の子に管理させていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、九雄は、昭和一九年当時、大阪市に居住して不在であったが、同人の姉の子に右土地の管理をゆだねていたことが明らかである。
(3) 戊沢四平(戊沢梅子(選定者番号三二)の前主)
別紙物件目録(三)の6の土地が昭和一九年当時戊沢四平の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、選定者戊沢梅子(昭和一五年三月一〇日生)の父戊沢四平は、昭和一七年ころ海軍に召集され、同二〇年二月ころ戦死したこと、昭和一九年ころ梅子の母戊沢松江が右土地を耕作していたが、同人のアンケート調査に対する一九七〇年(昭和四五年)一二月二八日付けの回答では、所有者は松江であり、土地代は一部受領した旨の回答をしていることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、四平は、昭和一九年当時、出征して不在であったが、右土地の管理を同人の妻戊沢松江にゆだねていたと推認するのが相当である。
(4) 丙村十夫(選定者番号三七)
別紙物件目録(三)の12、24の各土地が昭和一九年当時丙村十夫の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、十夫は、昭和一八年一〇月ころ徴用で佐賀県へ行き、同二一年七、八月ころ沖縄に帰ってきたが、昭和一九年ころ父母及び弟が北谷村に居住し、父八彦が右土地を耕作していたこと、十夫は、アンケート調査に対する一九七〇年(昭和四五年)三月一五日付けの回答では、昭和一九年五月に売る、土地代は坪当たり一円、土地代金の六〇パーセントは受領し、その内一〇パーセントは村信用組合に預金させられた旨回答していることが認められ、右認定に反する原審証人丙村十夫の証言は前掲各証拠と対比して採用することができず、他に右認定を覆すに足りる的確な証拠はない。
右の事実によれば、十夫は、昭和一九年当時、徴用のため不在であったが、右各土地の管理を同人の父丙村十夫にゆだねていたと推認するのが相当である。
(5) 丁林四雄(丁林七男(選定者番号四九)の前主)
別紙物件目録(三)の27の土地が昭和一九年当時の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、選定者丁林七男(昭和八年四月一三日生)の父丁林四雄は、昭和初期に妻竹江とともにフィリピンへ出稼ぎに行き、妻竹江と七男らは昭和一六年ころ沖縄に帰ってきたが、四雄は現地で召集を受け、同二〇年四月二日フィリピンで戦死したこと、昭和一九年ころ右土地は四雄の父丁林八彦によって管理されていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、四雄は、昭和一九年当時、出征して不在であったが、右土地の管理を同人の父八彦にゆだねていたことが明らかである。
(6) 丙本一雄(丙本二平(選定者番号五四)の前主)
別紙物件目録(三)の32、同(六)の11及び同(七)の19の各土地が昭和一九年当時丙本一雄の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、選定者丙本二平の父丙本一雄は、昭和三年ころ家族を伴って南洋テニアン島に移住し、同二一年ころ沖縄に引き揚げてきたが、昭和一九年当時右土地を同人の継母と義弟に管理させていたこと、二平は、アンケート調査に対する回答では、昭和一九年五月坪当たり一円、土地代金として六〇パーセント受領し、そのうちの一〇パーセントは村信用組合に預金させられた旨回答していることが認められ(る。)《証拠判断省略》
右の事実によれば、一雄は、昭和一九年当時、南洋テニアン島に居住して不在であったが、右各土地の管理を同人の継母と義弟にゆだねていたことが明らかである。
(7) 丁村一男(選定者番号五五)
別紙物件目録(三)の34、35の各土地が昭和一九年当時丁村一男の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、一男は、昭和一四年大阪へ出稼ぎに行き、同一五年呉の軍需工場に徴用され、同一七年家族を呼び寄せ、同二二年に家族とともに沖縄に帰ってきたこと、昭和一九年当時右各土地を義兄に耕作させていたこと、一男は、アンケート調査に対する回答では、昭和一九年五月、坪当たり一円で売り、総地代のうち六〇パーセントを受け取り、そのうち一〇パーセントは北谷村信用組合に預金させられた旨回答していることが認められ(る。)《証拠判断省略》
右の事実によれば、一男は、昭和一九年当時、徴用のため広島県に居住して不在であったが、右各土地の管理を同人の義兄にゆだねていたと推認するのが相当である。
(8) 戊村二男(戊村十雄(選定者番号六〇)の前主)
別紙物件目録(四)の3の土地が昭和一九年当時戊村二男の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、選定者戊村十雄(昭和五年七月一四日生)の父戊村二男は、昭和一九年ころは大阪に居住しており、同二一、二年ころ沖縄に帰ってきたこと、昭和一九年当時同人の妻梅江や十雄らは在村の伯父宅に身を寄せていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、二男は、昭和一九年当時、大阪に居住して不在であったが、右土地の管理を同人の妻梅江にゆだねていたものと推認するのが相当である。
(9) 戊林八男(選定者番号六五)
別紙物件目録(四)の16及び同(五)の4の各土地が昭和一九年当時戊林八男の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、八男は、昭和一六年六月一〇日召集を受けて中国・ソロモン群島を転戦し、同二一年三月一〇日召集解除となり、同二二年一月ころ沖縄に帰ってきたが、昭和一九年当時右各土地を母夏江に管理させていたこと、右八男はアンケート調査に対する一九六九年(昭和四四年)五月一五日付けの回答では、地代の一部を受領し、八〇パーセントは郵便貯金をした旨の回答をしていることが認められ(る。)《証拠判断省略》
右の事実によれば、八男は、昭和一九年当時、ソロモン群島に出征して不在であったが、右各土地の管理を母夏江にゆだねていたことが明らかである。
(10) 甲本九男(選定者番号七〇)
別紙物件目録(五)の1の土地が昭和一九年当時甲本九男の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、九男は、昭和一八年一二月中国に出征し、同二二年一〇月ころ復員したこと、昭和一九年ころ右土地は九男の父十彦が管理していたこと、右九男は、アンケート調査に対する回答では四〇〇坪を旧日本軍の飛行場建設のため買い取られ、代金は一部受領した旨回答していることが認められ(る。)《証拠判断省略》
右の事実によれば、九男は、昭和一九年当時、中国に出征して不在であったが、右土地の管理を父十彦にゆだねていたことが明らかである。
(11) 丁沢一平(丁沢竹子(選定者番号七二)の前主)
別紙物件目録(五)の3の土地が昭和一九年当時丁沢一平の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、一平は、昭和一八年四月一〇日召集を受け、昭和一九年一月門司を出発して南洋に赴き、同二一年六月四日除隊となって沖縄へ帰ってきたこと、昭和一九年ころ同人の母丁沢秋江は北谷村に居住していたこと、一平は昭和二二年七月五日選定者丁沢竹子と婚姻したが、同三八年一月一六日死亡したこと、竹子は、アンケート調査に対する回答では、土地代金は、一部受領した旨回答していることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、一平は、昭和一九年当時、南洋に出征して不在であったが、右土地の管理を同人の母丁沢秋江にゆだねていたものと推認するのが相当である。
(12) 甲沢五雄(甲沢六雄(選定者番号七四)の前主)
別紙物件目録(五)の10の土地が昭和一九年当時甲沢五雄の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、選定者甲沢六雄(昭和一五年五月二三日生)の父甲沢五雄は、昭和一八年ころ満州へ赴き、同二〇年一二月一日同地で死亡したこと、戦後の土地所有申請手続においては、同人の弟甲沢一介が自己の名義で右土地の所有権申請をしたので、後日一介は六雄との間で裁判所の和解により紛争を解決していることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、五雄は、昭和一九年当時、満州に居り不在であったが、右土地の管理を弟の一介にゆだねていたものと推認するのが相当である。
(13) 乙本十男(選定者番号八一)
別紙物件目録(六)の13、19の各土地が昭和一九年当時乙本十男の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、十男は、昭和一三年ころ、家族を沖縄に残し、単身で兵庫県伊丹市へ行き、同一六年七月一五日召集を受けて満州へ出征し、同二二年一一月二六日舞鶴に復員したが、昭和一九年ころ右土地は同人の妻が耕作していたこと、十男は、アンケート調査に対する一九七〇年(昭和四五年)三月一五日付けの回答では、土地代は全額受領した旨回答していることが認められ(る。)《証拠判断省略》
右の事実によれば、十男は、昭和一九年当時、満州に出征して不在であったが、右各土地の管理を同人の妻にゆだねていたものと推認するのが相当である。
(14) 乙林五男(選定者番号八八)
別紙物件目録(七)の6、7の各土地が昭和一九年当時乙林五男の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、五男は、昭和一六年七月一五日召集を受けて満州へ出征し、同一九年一二月現地でいったん召集解除となったが、同二〇年五月再び応召し、同二二年一二月に復員したこと、昭和一九年ころ右各土地は同人の母によって管理されていたこと、五男は、アンケート調査に対する一九七〇年(昭和四五年)三月一五日付けの回答では、土地代は一部受領した旨回答していることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、五男は、昭和一九年当時、満州に出征して不在であったが、右各土地の管理を同人の母にゆだねていたものと推認するのが相当である。
(15) 丁本三平(丁本二雄(選定者番号九六)の前主)
別紙物件目録(七)の28の土地が昭和一九年当時丁本三平の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、選定者丁本二雄(昭和七年一月八日生)の父丁本三平は、昭和一三年に出稼ぎのため南洋パラオ島へ行き、同一九年に現地で召集を受け、同二〇年七月九日戦死したこと、昭和一九年ころ同人の妻冬江が右土地を耕作管理していたこと、二雄は、アンケート調査に対する回答では、代金は全額受領した旨の回答と、北谷村役場の山川から一部受領した旨の回答をしていることが認められ(る。)《証拠判断省略》
右の事実によれば、三平は、昭和一九年当時、南洋パラオ島で軍務に従事し不在であったが、右土地の管理を同人の妻冬江にゆだねていたことが明らかである。
(16) 丙沢七雄(丁田八雄(選定者番号一〇四)の前々主)
別紙物件目録(七)の45、53、61の各土地が昭和一九年当時丙沢七雄の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、丙沢七雄の長男である丁田八夫は、昭和一三年一月に入隊し、同一五年ころ除隊となって帰沖したが、そのころ、父七雄が八幡製鉄に勤務していた関係で八夫も八幡製鉄で働き同所で終戦を迎え、同二二年一一月ころ沖縄に帰ってきたこと、七雄は昭和一九年ころ妹の甲谷花枝に右各土地を管理させていたこと、八夫はアンケート調査に対する回答では、家族全員出稼ぎのため内地(熊本)へ行っていたので、土地代金は受領していない旨回答していることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、七夫は、昭和一九年当時、八幡製鉄に勤務し不在であったが、右各土地の管理を同人の妹甲谷花枝にゆだねていたことが明らかである。
(17) 甲林四男(甲林三男(選定者番号一〇六)の前主)
別紙物件目録(七)の47の土地が昭和一九年当時甲林三男の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、四男は、昭和一八年海軍に召集されて佐世保に行き、同二一年ころ復員したが、昭和一九年当時右土地は同人の妻春枝(甲林三男の母)が耕作していたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右の事実によれば、四男は、昭和一九年当時、召集されて佐世保に居り不在であったが、右土地の管理を同人の妻春枝にゆだねていたものと推認するのが相当である。
(18) 戊本三雄(選定者番号一一六)
別紙物件目録(七)の68、86の各土地が昭和一九年当時戊本三雄の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、三雄は、昭和一九年三月に入隊し、満州に出征した後シベリアで抑留され、同二四年ころ復員したが、昭和一九年ころ右土地は同人の母が耕作していたこと、三雄は、アンケート調査に対する回答では、土地代は一部受領した旨回答していることが認められ(る。)《証拠判断省略》
右の事実によれば、三雄は、昭和一九年当時、満州へ出征して不在であったが、右各土地の管理を同人の母にゆだねていたものと推認するのが相当である。
(19) 戊川二夫(選定者番号五六)
別紙物件目録(三)の36、37の各土地が昭和一九年当時戊川二夫の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、二夫は、昭和一四年四月に鹿児島歩兵四五連隊に入隊し、同一七年五月に満期除隊となり、同一九年ころは尼崎市の製鋼工場で働いており、同二〇年七月一四日に同市で長女花江が出生し、同二一年一〇月ころ沖縄へ引き揚げてきたこと、昭和一九年当時右各土地は母方の叔父が管理していたことが認められる。前掲乙第一〇七号証の一には、二夫は昭和一九年五月五日中頭郡北谷村で分家の届出をした旨の記載があるけれども、これをもってしても、いまだ右認定を左右するに足りず、他に右認定を覆すに足りる的確な証拠はない。
右の事実によれば、二夫は、昭和一九年当時、兵庫県尼崎市に居住し不在であったが、右各土地の管理を同人の叔父にゆだねていたことが明らかである。
(20) 甲川三夫(甲川夏子(選定者番号二四)の前主)
別件物件目録(二)の13の土地が昭和一九年当時甲川三夫の所有であったとしても、《証拠省略》によれば、甲川三夫は昭和二年ころフィリピンへ出稼ぎに行き、同人の妻春江が同二〇年七月二五日フィリピン群島ダバオ市カリナンで死亡し、三夫は同二一年ころ沖縄へ引き揚げてきたこと、昭和一九年当時、右土地は同人の父三介によって管理されていたことが認められる。《証拠省略》には、三夫は昭和一九年一〇月一九日に本籍地で母秋子の死亡届をした旨の記載があるけれども、これをもってしても、いまだ右認定を左右するに足りず、他に右認定を覆すに足りる的確な証拠はない。
右の事実によれば、三夫は、昭和一九年当時、フィリピンに居住して不在であったが、右土地の管理を同人の父三介にゆだねていたことが明らかである。
(五) 北谷村における状況
前記認定のとおり、昭和一九年当時、沖縄県に居住せず不在であったと認められる(1)選定者丙林六男は、別紙物件目録(一)の10、12及び同(四)の24の各土地を同人の母と兄弟に、(2)甲村九雄(選定者甲村九夫の前主)は、別紙物件目録(二)の10の土地を同人の姉の子に、(3)戊沢四平(選定者戊沢梅子の前主)は、別紙物件目録(三)の6の土地を同人の妻戊沢松江に、(4)選定者丙村十夫は、別紙物件目録(三)の12、24の各土地を同人の父丙村八彦に、(5)丁林四雄(選定者丁林七男の前主)は、別紙物件目録(三)の27の土地を同人の父丁林八彦に、(6)丙本一雄(選定者丙本二平の前主)は、別紙物件目録(三)の32、同(六)の11及び同(七)の19の各土地を同人の継母と義弟に、(7)選定者丁村一男は、別紙物件目録(三)の34、35の各土地を同人の義兄に、(8)戊村二男(選定者戊村十雄の前主)は、別紙物件目録(四)の3の土地を同人の妻戊村梅江に、(9)選定者戊林八男は、別紙物件目録(四)の16及び同(五)の4の各土地を同人の母夏江に、(10)選定者甲本九男は、別紙物件目録(五)の1の土地を同人の父十彦に、(11)丁沢一平(選定者丁沢竹子の前主)は、別紙物件目録(五)の3の土地を同人の母丁沢秋江に、(12)甲沢五雄(選定者甲沢六雄の前主)は、別紙物件目録(五)の10の土地を右六雄の叔父甲沢一介に、(13)選定者乙本十男は、別紙物件目録(六)の13、19の各土地を同人の妻に、(14)選定者乙林五男は、別紙物件目録(七)の6、7の各土地を同人の母に、(15)丁本三平(選定者丁本二雄の前主)は、別紙物件目録(七)の28の土地を同人の妻に、(16)丙沢七雄(選定者丁田八雄の前々主)は、別紙物件目録(七)の45、53、61の各土地を同人の妹甲谷花枝に、(17)甲林四男(選定者甲林三男の前主)は、別紙物件目録(七)の47の土地を同人の妻に、(18)選定者戊本三雄は、別紙物件目録(七)の68、86の各土地を同人の母に、(19)選定者戊川二夫は、別紙物件目録(三)の36、37の各土地を同人の叔父に、(20)甲川三男(選定者甲川夏子の前主)は、別紙物件目録(二)の13の土地を同人の父三介に、それぞれ管理をゆだねていた。
球一六一六部隊経理部は、旧中飛行場建設のため、昭和一九年当時、沖縄県下に居住していた控訴人ら又はその前主との間で本件土地の売買契約を締結したことは前記認定のとおりであるが、右の事実を前提として、当時不在であった者との売買契約の存否につき検討する。
前記認定のとおり旧陸軍省は、昭和一六年ないし一七年当時ではあるが、西表島において、電報又は郵便による方法によって不在地主との間の用地買収手続をしており、沖縄本島においては、昭和二〇年二月初旬ころまで電報・郵便の業務が続けられていたこと、旧海軍省は、昭和一八年から一九年当時、宮古島において、不在地主の父母ら近親者を不在地主の代理人として用地買収手続を進めていること、球一六一六部隊経理部は、いわゆる一〇・一〇空襲以後においても、飛行場用地買収のため、買収価格の確定、名寄帳の作成、所有権移転登記手続を行っていることが認められる。
右の事実によれば、昭和一九年当時、前記(1)ないし(20)記載の不在者らと旧陸軍省との間の用地買収手続は、電報又は郵便による方法によってなされたか、右の方法によることができない不在者らとの間では、本件土地の買収とほぼ同時期に行われた宮古島における事例と同様に、不在者らから前記各土地の管理をゆだねられ留守を守っていた不在者らの父母、妻、兄弟らにおいて、右不在者らを代理するという方法によってなされていたものと推認するのが相当である。そして、戦前、沖縄を離れて本土、南洋等へ長期に出稼ぎに行く場合や軍人として出征する場合には、留守を守る近親者に自己の財産の管理を依頼するだけではなく、事情によっては近親者がこれを処分することをもゆだねていたと解せられるところ、「滅私奉行」、「一億一心」、「一木一草も戦勝に捧げん」などの言葉に象徴されるように、当時の国民は、戦争目的貫徹のため国家や軍にあらゆる協力を要請され、国民も一致してこれに応えていた(この事実は、弁論の全趣旨によって認められる。)という当時の社会情勢を総合考慮すると、前記不在者らは、祖国を守る航空基地建設のためならば、自らが父母、妻、兄弟らに管理をゆだねていた前記各土地を、これら近親者が不在者を代理して旧陸軍省に売り渡す権限をも授与していたものと推認するのが相当である。右の事実は、前記(1)ないし(20)記載の不在者の中にも、戦後行われたアンケート調査において、旧陸軍省による買収により土地代金の全部又は一部を受領したと回答している者が少なくないこと、戦後の所有権認定申請手続において、本件土地につき申請をしなかったか又は国有地であるとの認定に異議を申し立てなかったことからも裏付けられる。
そうすると、旧陸軍省は、昭和一九年当時、右不在者とされる者らとの間においても、不在者らの前記各土地について適法に買収手続をなしたものと認めるのが相当である。
一二 本件売買契約の無効について
控訴人らは、本件土地の売買代金は支払われておらず、強制的に接収されたものであって、本件売買契約は控訴人らの意思に基づかないものであるから、無効である旨主張する。
しかしながら、仮に控訴人らが本件土地の売買代金の支払を受けていなかったとしても、売買契約が成立したものと認められる限り、代金支払の如何は、契約の成否に直接の影響を及ぼすものではなく、また、旧陸軍省による明示又は暗黙の強迫によって、控訴人らの意思決定の自由が全く奪われた状態で本件土地の売買がなされたというのであれば、当該意思表示は当然無効であると解されるけれども、さきに認定したような昭和一九年当時の緊迫した社会情勢を考慮しても、本件土地の売買契約が締結された当時、控訴人らが意思決定の自由を完全に失った状態で承諾の意思表示をしたものとは解されず、これを認めるに足りる的確な証拠もないのであるから、控訴人らの右主張も採用することができない。
一三 まとめ
前記説示によれば、次の諸点が明らかである。
本件土地は、戦前個々に地番の付された多数筆の土地であったが、旧陸軍による旧中飛行場の建設、沖縄戦とこれに続く米軍による接収、拡張工事等により戦前の形状を全くとどめず従来の境界が不明となった。
控訴人らは、本件土地に独自に仮地番を設定し、その各土地をそれぞれ単独所有している(第一次的主張)として、所有権の確認等を求めるのであるが、これらの土地が控訴人ら又はその前主において、昭和一九年当時(被控訴人がこれらの土地につき売買契約を締結したと主張する時期)所有していた土地と位置・形状・面積において同一性があるものとは到底認め難く、また、本件土地が控訴人らの共有である(第二次的主張)とする根拠も薄弱であり認めることができない。したがって、控訴人らの本訴各請求は、既にこの点においてすべて失当であることを免れないのであるが、前記土地の同一性についての立証の困難性を考慮し、かつ、被控訴人は、昭和一九年当時の所有者らから売買により本件土地の所有権を取得したと主張するところ、右事実が認められれば、控訴人らの所有権が認められないという関係に立つので、控訴人らが主張する所有権取得原因についての検討を省略し、右売買契約の存否につき判断を加えるものである。
ところで、沖縄戦における猛烈な爆撃と艦砲射撃、熾烈な地上線により、土地に関する公簿・公図類がほとんど滅失し、本件土地の買収に従事したとされる球一六一六部隊も潰滅したので、本件土地の売買を直接立証する証拠は存在せず、いきおい間接事実をもってその存否を判断せざるをえない。右の間接事実として、次のような事実が認められる。
1 旧軍は、昭和一八年から一九年にかけて、沖縄本島、伊江島、宮古島及び石垣島において、ほぼ同時期に飛行場の新設又は拡張工事を行い、必要な用地の買収手続をしたが、球一六一六部隊経理部長は、昭和一九年一〇月一一日付けで、買収の対象たる飛行場用地が存在する関係各村長あて、土地代金の支払方を依頼するとともに、支払方法を示達する通牒を発しているが、そのあて先には、本件土地の所在地である北谷村の村長も明記されていること
2 戦後、指令第一二一号、特別布告第三六号、布告第八号により土地所有権認定申請手続が行われたが、右事務につき、各市町村に対し事務の統括、指導を行う立場にあった沖縄民政府総務部長は、一九四七年(昭和二二年)一〇月六日付けの土地調査事務通信第二号において、土地調査事務に関する注意事項等の一内容として、戦前旧軍に飛行場用地等として売却し賠償金を受領しながら、土地代金の一部しか受領していないことを理由として、今回の土地所有権認定申請をする地主があるので、かようなものは受け付けないよう、また、戦前の賠償金取扱者(収入役等)に支払の有無を確かめた後に処理するよう関係委員に示達されたいとし、とくに注意すべき地区を掲記し、その中に北谷村が含まれていること、右土地所有権認定作業において、地元の事情に精通している五名の委員から成る嘉手納村(北谷村から分離して嘉手納村となった。)土地所有権委員会は、調査の結果、本件土地を被控訴人の所有と認めたこと、右委員会の報告に基づき嘉手納村長が被控訴人を所有者とする土地所有権証明書を発行することとなり、これに異議を申し立てる機会が与えられていたにもかかわらず、当時異議を申し出た者がなかったこと
3 布告第七号により米国民政府財産管理官が沖縄における国有財産の調査を行った際、一九五二年(昭和二七年)四月九日、当時の嘉手納村長、土地課長、土地課主任らは、米国民政府財産管理課調査官に対し、本件土地は、昭和一九年当時旧陸軍の飛行場用地として各所有者が被控訴人に売り渡し、代金は当時の北谷村役場の山川土地課長が受領し、同人が各土地所有者に支払い又は支払することになっていた旨の回答をしていること
4 琉球政府法務局長が一九六八年(昭和四三年)七月一一日付けで各市町村長あて発した「第二次大戦中旧日本軍により買上げられた土地の実情調査について」と題する照会に対し、当時の嘉手納村長は、本件土地が二回にわたり軍用地として買い上げられて国有地となったが、買収代金の一部未受領の者がある旨回答していること
5 嘉手納村軍用地等地主協会が一九七〇年(昭和四五年)三月ころ、旧中飛行場の建設用地として土地を提供した控訴人ら地主を対象として、「土地所有権の喪失理由」、代金受領の有無等につきアンケート調査をしたところ、控訴人ら地主の多数の者は、本件土地の土地代金を受領したことを明確に認めていること
6 控訴人らによる本件土地返還運動の一環として、嘉手納村軍用地等地主協会は、一九七一年(昭和四六年)一〇月、大蔵大臣らに対し本件土地所有権の返還を求める要請書を提出しているが、その内容においても旧陸軍により本件土地の買収を認めた上で、諸種の事情を訴え返還を求めるものであること
7 旧陸軍省は、控訴人ら又はその前主のうち、昭和一九年当時沖縄県に居住していなかった不在地主らとの間においても、適法に用地の買収手続をしたものと推認しうること
これらの間接事実を総合すると、本件土地は、遅くとも昭和一九年中に旧中飛行場建設用地として、当時の所有者らから売買契約によって旧陸軍省がその所有権を取得したものと認められ、右売買契約が控訴人らの主張するように無効なものとは認められないから、結局、本件土地が控訴人らの所有又は共有であることを前提とする控訴人らの主張は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がない。
第二 以上の次第で、原判決は相当であって、本件各控訴は理由がないから、民事訴訟法三八四条一項によりいずれもこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき同法九五条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 西川賢二 裁判官 宮城京一 喜如嘉貢)
<以下省略>