福岡高等裁判所那覇支部 1970年(ネ)32号 判決
主文
一 原判決を次のとおり変更する。
控訴人儀間拡、同儀間翼、同大須賀キク、同儀間栄子、同上原悦子、同上原英生、同上原めぐみ、同儀間幸五郎、同儀間千代子、同儀間佐知子、同儀間崇、同儀間祥子は、被控訴人具志彦修に対し、別紙目録記載の各土地につき、一九五七年四月一二日同目録記載の受附番号により儀間亘および儀間拡名義をもつてした各所有権登記の抹消登記手続をせよ。
被控訴人具志彦修のその余の請求および被控訴人蔡氏門中の各請求を棄却する。
二 訴訟費用は、第一、二審(琉球上訴裁判所における各上告審を含む。)を通じ、本訴につき生じた分は、これを二分し、その一を被控訴人具志の、その余を控訴人儀間拡、同儀間翼、同大須賀キク、同儀間栄子、同上原悦子、同上原英生、同上原めぐみ、同儀間幸五郎、同儀間千代子、同儀間佐知子、同儀間崇、同儀間洋子の負担とし、参加により生じた分は被控訴人蔡氏門中の負担とする。
事実
第一 当事者の申立
一、控訴人ら代理人
1 原判決中控訴人ら敗訴の部分を取り消す。
2 被控訴人らの請求を棄却する。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
二、被控訴人ら代理人
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人らの負担とする。
第二 当事者の主張
一、被控訴人具志彦修および被控訴人蔡氏門中の請求の原因
1 被控訴人門中は、法律上いわゆる権利能力なき社団であり、被控訴人具志は同門中の代表者である。
(一) 沖繩における門中制度の形成と組織等
沖繩の社会組織の中には、門中という血縁集団ないし同族団があり、古来それは社会的実在として人々に大きな影響を与え、個人主義的な現在の社会においても門中意識はいまだに根強いものがある。
いま、その沿革をたどれば、門中という組織は、宗家(本家)を中心に祖霊に対する共同祭祀をとり行なう男系的血縁集団として発生したが、一五、六世紀の頃、尚真王が、各地の領主(按司)およびその従臣を悉く首里を中心とする都市地域に移住させ、王府の統治機構のもとにおいて中央集権化をはかるとともに、支配階級たる士族と被支配階級たる百姓とを厳然と区別する身分制度を定め、その後首里王府において、百姓の他部落移住を厳禁する旨の法令を発布し、さらに一七世紀末(一六八九年)、王府に系図座がおかれ、士族に姓氏を賜わり、家譜を作成させるようになるに及んで、士族と百姓との血縁関係は断絶し、一方において、農村地域における門中が、小規模の集合体で固定化する傾向をたどつたのに対し、他方、都市地域における士族の門中は、右の政治的、社会的背景のもとに、強固な同族意識による団結を形成するに至つた。
そして、琉球王府は、門中の同族意識による団結を統治の上で利用することに努め、一七三三年、一般住民の日常生活の行動基準として、御教条を公布し、門中の相互扶助、特に門中の者が挙つて宗家を援助すべき旨を説き、これによつて、宗家の盛衰は門中の名誉、不名誉なりとの観念を生ずるに至つた。首里王府は、さらに、公祖公課、個人債務についても門中にこれを弁償せしめる慣習を作り、財産上の争について門中による和解の途を講ぜしめ、解決を得ないときに始めて平等所(ヒラジュ)に訴え出られることとし、また部落の秩序を紊すなどのいわゆる気遣者(キマカセモノ)についても門中の合議にかけさせ、あるいは地方役人および領主たる総地頭の承認を得て流刑、所払などを平等所に申請することができることとした。
このように、門中は、単なる祭祀を行なうのみでなく、かかる行政および司法上の下級事務をも委託されていたところから、その処理に必要な組織内容を整備し、一定の地域に定着して、管理運営がなされるに至つた。すなわち、門中には、宗教的、形式的権威者である大宗家を中心に補佐役があつて門中の執行機関をなし、主要なことは諮問機関たる長老の意見を聞き、特に重要な事項については議決機関たる門中総会の議を経て決定し、門中財産の維持管理や共同祭祀などについてそのための労役を担当する者がおり、共同祭祀の費用等は、経常費として、男女の頭別、もしくは、各戸別に賦課されたものであり、これらはいずれも不文の慣例すなわち事実たる慣習として行なわれていた。
(二) 唐栄と門中意識
唐栄とは、明朝の初期洪武二五年(一三九二年)、琉球王察度の招きにより、中国福建省から移住、帰化した人(ピンジン)の、いわゆる三六姓が居を構えた久米村(クニンダ)を指すが、転じて右三六姓およびその子孫を指称した。唐栄には、他の士族と異り、さらに地扶持という特権があり、その子弟には、或る年令以上の者に年五斗ないし四石の扶持が与えられ、右地扶持は、康熙年間の初期から家譜に記録されるようになり、また唐栄には官生(支那留学生)の特権も与えられていた(ただし後には首里の士族にもその特権が与えられた。)から、士の身分はもとより、それ以上に唐栄の株が尊重され、門中意識(特に唐栄意識)が強固になつていつた。ちなみに、家譜(系図)は、右の特権を公証する戸籍であり、その資格証明書であつたから、系図座は、首里、那覇、久米村、泊村に在住する諸土に各家譜を編修させ、一部は系図座に納め、一部は国王の朱印を押捺して各家に保管させたものである。
(三) 被控訴人蔡氏門中の組織とその性格
被控訴人門中は、前記の、いわゆる三六姓の一人蔡崇を始祖とし、その子孫によつて構成された血縁団体であつて、古来、祖先の祭祀およびこれに附随する諸行事の執行、構成員の親睦、門中財産の維持管理を目的とし、さらに近来、門中員の子弟の学事奨励、門中員中の貧困者の救済を目的として、固有の事業を行ない、社会的に独立した社団としての性格を具有するに至つたものであり、右門中には、慣行により、意思決定機関として門中総会、執行機関として長老を中心とする集りが存在するとともに、庶務係として当(アタイ)が門中員の中から選出され、さらに対外的な代表者として、大宗家(儀間家)および中宗家三家(上原家、志多伯家、具志家)の当主がこれに任じ、右の諸機関によつて前記事業の運営がなされてきた。もつとも、今次大戦後、別紙物件目録記載の各土地(以下「本件各土地」という。)の所有権の帰属をめぐり、門中員の間で分裂が生じたため、前記事業の大半はその執行を一時中断するのやむなきに至つたが、右門中は、現在なお社団たる性質を保有し法律的に実在するものであつて、このことは、同門中が前記事業の一部である門中財産の維持管理の執行として本件訴訟を追行していることからも明らかである。
(四) 被控訴人門中の代表者
被控訴人門中の代表者は、慣行により、大宗家および中宗家三家の当主がこれに任じ、その任期は、特別の事情のないかぎり、その生存期間中とされていたところ、被控訴人具志は、大正五年旧五月一六日、先代具志承基の死亡によりその家督を相続して、中宗家たる具志家の当主たる地位を取得し、以後同門中を代表する地位にある。
なお、右門中の現在の代表者は、被控訴人具志(中宗家当主)および控訴人儀間拡(大宗家当主)、同志多伯順、同上原貞子(いずれも中宗家当主)であり、右代表者の代表権は、単独で行使しうるものである。
2 本件各土地は、被控訴人門中の所有である。
(一) すなわち、本件各土地は、もと、蔡氏三世の女子亜佳度(アカトー)の所有であつたが、同女は、成化八年(一四七三年)、その子孫に永く礼議と親睦の美風を伝えるために、私財を投じて本件各土地上に祠堂を創建し、右祠堂とともに本件各土地を被控訴人門中に寄附した。
爾後、同門中は、亜佳度の右遺志を受け継ぎ、祠堂に祖先および同門中の物故者を合祠して「忠尽堂」と呼び、祠堂および本件各土地を門中財産として共同で維持管理し、右財産から生ずる収益をもつて、祖先の祭祀およびこれに伴う諸行事をとり行ない、さらに明治時代に至り、門中員の子弟の学事奨励、門中員中の貧困者の救済の事業をとり行なうに至つたものであり、右経緯に徴すれば、本件各土地の所有権は、同門中の構成員全員に総有的に帰属するものというべきである。
しかしながら、同門中には法人格がないため、不動産登記簿上所有権者として登記することができず、そのためこれを奇貨として本件各土地を勝手に処分しようとする者が現われるに至つたので、同門中は、明治三三年頃、右土地の権利関係を明確にすべく、本件各土地が、当時の門中代表者である前記具志承基(被控訴人具志の先代)、亡志多伯棟(中宗家。控訴人志多伯順の先先代)、亡上原元基(控訴人上原貞子の先先代)および亡儀間経(大宗家。控訴人儀間拡の先先先代)の共同所有名義である旨那覇税務署備附の土地台帳に登載し(昭和五年頃の土地台帳には、儀間瑾ほか三名の共有名義で登載されていた。)、さらに、昭和六年一月一三日、登記簿上本件各土地の所有名義を信託的に同門中の代表者らの個人名義にすべく、被控訴人具志、亡志多伯晋(控訴人志多伯の先代)、亡上原光基(控訴人上原の先代)および亡儀間常誠(控訴人儀間拡の先先代)が、いずれもその頃その先代の家督を相続したことを原因として、本件各土地の信託的な所有名義人となり、那覇区裁判所受附第一六九号をもつて、本件各土地につき、持分を相等しくする共有の保存登記を経由したものである。
(二) かりに、(一)の事実が認められないとしても、被控訴人門中は、遅くとも昭和四年二月一〇日から、蔡氏門中の発展した団体として、所有の意思をもつて、平穏かつ公然に本件各土地を占有してきたものであり、その占有の始め善意無過失であつたから昭和一四年二月九日の経過ととともに取得時効が完成し、被控訴人門中は、本件各土地の所有権を取得した。
3 しかるに、原審被告亡儀間亘および控訴人儀間拡は、本件各土地につき、一九五七年四月一二日別紙目録記載の受附番号をもつて、所有権登記を経由している。
ところで、儀間亘は昭和四一年一〇月二一日死亡し、控訴人儀間拡、同儀間翼、同大須賀キク、儀間裕幸、上原祺昇、控訴人儀間幸五郎、同儀間千代子、同儀間佐知子、同儀間崇および同儀間祥子が相続人としてその権利義務を承継したが、その後上原祺昇が昭和四八年三月二日死亡して控訴人上原悦子、同上原英生および同上原めぐみが相続人としてその権利義務を承継し、また儀間裕幸は同年一〇月一七日死亡して控訴人儀間栄子が相続人としてその権利義務を承継した。
4 控訴人儀間常亀は、なんら法律上の原因なくして、本件各土地に対する昭和二七年四月二八日から同二九年一〇月一一日までの軍用地使用料として、合計一〇万〇、二二三円B円(二五万四、七三二円九五銭日円)を軍用地事務所から受領し、被控訴人門中の損失において、右金額を不当に利得している。
5 控訴人上原貞子、同志多伯順は、本件各土地が被控訴人門中の所有であることならびに同人らおよび被控訴人具志が被控訴人門中の代表者であることを争つている。
6 よつて控訴人らに対し、被控訴人具志と控訴人らおよび被控訴人門中と控訴人らの間において、本件各土地が被控訴人門中の所有であることの確認を求めるとともに、控訴人儀間常亀、同上原貞子、同志多伯順を除くその余の控訴人らに対し、本件各土地につき亡儀間亘および控訴人儀間拡が一九五七年四月一二日別紙目録記載の受附番号をもつてした所有権登記の抹消登記手続を求め、控訴人儀間常亀に対し、二五万四、七三二円九五銭およびこれに対する昭和二九年一〇月一二日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二、控訴人らの本案前の主張
1 被控訴人門中は当事者能力を有せず、かりに然らずとするも、被控訴人具志は、同門中の代表者たる資格を有しないから、被控訴人具志の本訴請求および被控訴人門中の共同訴訟参加の申立は却下されるべきである。
(一) 被控訴人門中は、二二世(約六〇〇年)にも及ぶ血縁団体であるため、門中員の範囲および数を確定することができないだけでなく、その組織における代表者確定の方法、総会の運営など団体としての主要な点が確立していないから、いわゆる権利能力なき社団ということはできない。
(二) かりに、被控訴人らの主張する門中が、過去において、祭事の施行、相互扶助を目的とする団体として存在していたとしても、現在、かかる実体は失われているから、右の団体は消滅したものというべきである。
もつとも、今次大戦後、蔡氏門中を称する団体があるが、それは、本件各土地の所有権の帰属をめぐり控訴人らと対立関係にある門中の一部の者らが、被控訴人具志を中心として結成したものであつて、歴史的に存在してきた門中とはなんら関係がなく、また、被控訴人具志は、右の者らの代表にすぎないのに、蔡氏門中の代表者であるかの如く、これを僣称しているのである。
2 被控訴人門中は、被控訴人具志の控訴人らに対する本訴請求と同一の請求をなし、被控訴人具志と訴訟の目的が合一にのみ確定すべきものとして、本訴請求に共同訴訟参加の申立をしているが、右参加は、訴訟の目的が合一確定を要する場合にあたらないから、不適法であり、却下されるべきである。
3 かりに、然らずとしても、被控訴人門中が本件訴訟に参加し、みずから、本件各土地が自己の所有であることの確認を求めている以上、被控訴人具志が被控訴人門中とは別個に、独立して、本件各土地が同門中の所有であることの確認を求める法律上の利益はないから、被控訴人具志の本訴請求は却下されるべきである。
4 かりに、然らずとしても、控訴人上原、同志多伯は、単に、本件各土地が被控訴人門中の所有であることを否認しているにすぎないのであつて、その否認の結果、被控訴人らの地位を不安定ならしめる事実は全く存在しないから、少なくとも、被控訴人らが右控訴人らに対し、本件各土地の所有権の確認を求める各請求部分は、確認の利益を欠くものというべく、よつて、右の各請求はいずれも却下されるべきである。
三、請求の原因に対する控訴人らの答弁
1 請求の原因1(一)および(二)は認める。同(三)のうち、いわゆる蔡氏門中が蔡崇の子孫によつて構成された血縁団体であつたことは認めるが、その余の事実は否認する。被控訴人らの主張は、門中の歴史的由来ないし首里王朝時代の門中の実態に関するものであつて、かかる門中は、廃藩置県により首里王朝が崩壊するとともにその存在理由を失い、急速に消滅し、昭和一〇年代には、もはや、被控訴人らの主張するような門中の実態は存在しなかつたものというべきである。同(四)のうち、被控訴人具志の先代具志承基が被控訴人ら主張の日に死亡したことは認めるが、その余の事実は否認する。
2(一) 請求の原因2(一)のうち、亜佳度が被控訴人ら主張の頃、その主張の趣旨のもとに本件各土地上に祠堂を創建したこと、右祠堂において祖先の祭祀およびこれに伴う諸行事、学事奨励、貧困者救済の諸事業がとり行なわれたこと、本件各土地が、明治三三年頃、亡儀間瑾ほか三名の共同所有名義で土地台帳に登載され、さらに、昭和六年一月一三日、亡儀間常誠ほか三名の共同所有名義で所有権保存登記が経由されたことは、いずれも認めるが、その余の事実は否認する。
(二)(1) 本件各土地は、儀間家初代蔡崇が、中山王察度から私宅の土地として下賜されたものであるが、蔡崇が、地理師の言に従い他の土地に私宅を構え、本件各土地を放置してあつたのを好便に、亜佳度が本件各土地上に祠堂を創建し、爾後、門中において右祠堂を拝所として使用したにすぎないのであり、したがつて、祠堂の所有権の帰属はともかく、本件各土地は、儀間家(大宗家)の世襲財産として承継伝来し、控訴人儀間常亀、同上原貞子、同志多伯順を除くその余の控訴人らの所有に属するに至つたものであつて、被控訴人門中員の総有に属するものではない。そして、被控訴人らの主張する諸事業の執行は、すべて大宗家たる儀間家の特別会計のもとになされたものであつて、被控訴人門中によつてなされたものではないのである。
(2) 沖繩県土地整理法(明治三二年法律第五九号。以下「土地整理法」という。)施行の際、本件各土地の所有権が何びとに認定付与されたかは、右法の解釈によつてうかがい知ることができる。すなわち、同法一一条には、那覇、首里の屋敷地は手形、差出等を有すべき者の所有とする旨が規定されているところ、儀間家は、その以前に、本件各土地につき、藩から差出と称する地券を交付され、これを所持していたから、右土地整理事業の際、本件各土地が当時の儀間家の当主たる経の所有と認定されたであろうことは、容易に推測しうるところであり、このことは、土地整理法施行の直後である明治三三年二月九日頃、本件各土地が、土地台帳上、儀間経の所有名義で登載されていたことによつても裏付けられるものである。しかして、土地整理法に基づく所有権の付与は、単なる土地所有権の確認ではなく、創設的な所有権認定であつたことに留意すべきである。
(3) 本件各土地につき、儀間常誠ほか三名の共有名義で所有権保存登記が経由されるに至つた事情は次のとおりである。すなわち、儀間家二〇世経は、明治二四年、二五歳の頃、同家一九世元の養嗣子となつたが、性いん逸にして家事を好まず、世襲財産である本件各土地をも蕩尽するおそれがあつたので、明治三五年頃、元の妻オミカメの要請により、経の子瑾(当時一歳)が成年に達するまで右財産を保全すべく、土地台帳上、本件各土地が儀間瑾、志多伯棟、上原元基、具志承基の四名の共有名義である旨登載してあつたところ、瑾は成年をまたずして大正一〇年に死亡し、そのほかの所有名義人も相次いで死亡し、かつ、本件各土地が未登記のままであつたため、昭和六年、儀間家二二世常誠の代になつて、同人の命により、二三世亘(控訴人拡の先代)が、ほかの共有名義人らの各家督相続人らの印影を得て、本件各土地につき、形式上、儀間常誠、志多伯晋、上原光基、被控訴人具志の共有名義で、所有権の保存登記を経由するに至つたものであり、右登記が、今次大戦に至るまで抹消されずに残つていたのは、抹消登記手続のはん雑を避け、その費用を節減するなどの事情があつたからにすぎない。
右経緯に照らすと、右登記は実体関係を反映したものではないから無効というべきであり、本件土地につき、控訴人拡およびその先代亘のためになされた現在の登記こそ実体に合致し、有効というべきである。
(三) 同2(二)は否認する。
3 請求の原因3は認める。
4 請求の原因4のうち、控訴人儀間常亀が被控訴人ら主張の金員を受領したことは認める。
第三 証拠<略>
理由
第一控訴人らの本案前の主張に対する判断
一判断の前提たる事実の確定
1 沖繩における門中制度の形成と組織等、唐栄と門中意識が被控訴人ら主張のとおりであることおよび蔡氏門中がいわゆる三六姓の一人蔡崇の子孫によつて構成された血縁団体であつたことは、いずれも当事者間に争いがない。
2 <証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
蔡氏二世譲の女(三世環の姉)亜佳度は、一五歳で結婚し、一七歳にして夫を失つたが再婚をせず、その後紡織、機織を業として財を貯え、成化八年(一四七三年)、財を投じて、唐栄(久米村)の東北に土地(本件各土地はその一部である)を求め、右土地上に祠堂を創建し、右祠堂とともに本件各土地を蔡氏一族に寄附し、蔡氏の祖先と観音菩薩とをまつつて供養し、清泰寺と名づけた。右祠堂の境内は広く、山林に囲まれており、亜佳度の没後、右祠堂の管理は、蔡氏一族の者が輪番でこれにあたつていたが、崇禎年間(一六二八年―一六四四年)に紫金大夫(唐栄の最高責任者で、総理唐栄司とも称した。)の役にあつた喜友名親方(蔡氏九世諱堅)が、蔡氏の者はほとんど公職の身にあり、祠堂を守ることは公務の妨げになるとの理由で、友僧である参雪に委託して祠堂を守らせることとし、祠堂を囲む山林や境内からの収益はすべて祠堂の管理維持費に充てさせることを取り決めた。しかして、康熙二九年、蔡氏一一世炳により、蔡氏の家譜が作成されたが、家譜(家譜四本堂を含む)には、祠堂創建の右由来が詳細に記されたうえ、祠堂の創建が亜佳度の貞烈な美徳に基因するものであるとして、後世の者はそのことを肝に銘じ、祠堂を尊び重んじ、これを末代に伝え、先人の偉業を守り抜くことが肝要であると説示され、右のことは子子孫孫に伝えられてきた。祠堂の管理は、その後、参雪に次いで、円覚寺に寄宿する諸僧によつてなされていたが、その管理が疎略であ たため、蔡氏一族の代表者の願出に基づき、雍正一〇年(一七三二年)から、再び一族の者が輪番でこれにあたることとなり、その頃から、右祠堂はその号を忠尽堂と称されるに至つた。
3 <証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。
蔡氏一族は、その後、亜佳度の遺志を受け継ぎ、祠堂および本件各土地を共同で管理し、それから生ずる収益をもつて、祖先の祭祀およびこれに附随する諸行事をとり行なつてきたが、政治的、社会的背景のもとに、同族意識による団結が強まり、沖繩における一般的な門中組織の形成過程と軌を一にして、男系血族を中心とする血縁団体としての門中組織に発展するに至り、年を経て血族が増加するに伴い、財産の維持管理および事業の運営に必要な諸機関がおかれるようになつた。そして、遅くとも明治時代には、門中の右事業運営の諸業務は、毎年恒例の彼岸祭に参集した門中員の総意によつて選任された三人のアタイ(当番員)がこれにあたり、それぞれ書記、会計その他の業務を分担し、重要な事項については、門中員の長老の集りで決定し、さらに対外的な代表者としては、大宗家(儀間家)および中宗家三家(上原家、志多伯家、具志家)の当主がこれに任じ、その任期は、特別の事情のないかぎり、その生存期間中とするとの慣行が確立した。明治時代以降、門中は、前記事業のほか門中員の子弟に対する学事奨励、門中模合(頼母子講の一種)などの定期的行事を行ない、さらに、本件各土地の一部を門中員の中の貧困者に貸与してその扶助を図つたが、大正一三年頃、門中の長老の集りの決定に基づき、本件各土地の隣接地であつた約三〇〇坪の土地(乙第一八号証中の朱線部分)を、二高女の敷地として那覇市に売却し、右売買代金のうち一、〇〇〇円で国債証券を購入し、一、〇〇〇円を屋号兼久段なる者に貸し付け、さらに、昭和七年頃から、本件各土地の一部を門中員に賃貸して(契約の詳細については後述)賃料を得、右貸金およびその利息収入、右賃料収入、銀行預金およびその利息収入、本件各土地山林での伐木、採草等による収益を基本財産として、これをもつて、祭典費、税金、アタイに対する手当、その他の雑費に充当し、その収支の明細は、門中の書記によつて報告された。なお、祠堂は、大正時代に一部改築されたが、その費用および労務はすべて門中においてこれを負担したものであり、また、昭和五年頃、本件各土地の隣地の所有者である国吉有慶との間で境界につき紛争が生じた際にも、門中の長老が境界確定に立会つてこれを解決したものである。しかして、門中の対外的な代表者が、慣行により、大宗家および中宗家三家の当主と定められていたことは、前説示のとおりであるところ、明治三三年頃の代表者は、大宗家の当主儀間経および中宗家の各当主、志多伯棟、上原元基、具志承基であつたが、儀間経は明治三六年に、その子瑾も大正一〇年に、志多伯棟は同六年に、上原元基は同五年に、具志承基は同年五月一六日に(この点は当事者間に争いがない。)、それぞれ死亡したので、儀間常誠、志多伯晋、上原光基(親権者上原マツル)、被控訴人具志が、それぞれ各先代の家督を相続して当主たる地位を取得し、さらに、儀間常誠は昭和二三年に、志多伯晋は同八年に、上原光基は同一九年に、それぞれ死亡したので、儀間亘、控訴人志多伯順、同上原貞子が、それぞれ各先代の家督を相続して当主たる地位を取得した。
ところで、現在、蔡氏門中に属する者は、極めて多数にのぼるけれども、蔡氏の家譜は、古来、分家のたびに転写譜され、あらたに分家の家譜として作成され承継されてきたから、大宗家のみならず中、小宗家もしくはそれらの分家に至るまでその家譜記録が完備しており、これと現行の戸籍簿とを照合し、さらに、姓名に関する特殊な法則ないし口伝により基本的な系統を推測し、併せて、門中員として名乗り出た本人の口述をも斟酌すれば、門中員の範囲は確定することが可能な状態にある。
なお、今次大戦後、本件各土地の所有権の帰属をめぐり門中員の間で対立関係が生じたため、戦前、蔡氏門中として統一的に行なつてきた前記事業の執行は、一時中断せざるを得なくなり、祖先の祭祠およびこれに附随する行事も、現在では、双方の立場に分れてとり行なわれている状況であるが、被控訴人具志らは、本件各土地の管理、維持の必要上、本件各土地が門中の所有であることを主張して、本件訴訟に至つたものである。
二被控訴人門中の当事者能力の有無と被控訴人具志の代表資格の有無
控訴人らは、被控訴人門中は権利能力なき社団にあたらず、かりに然らずとするも、被控訴人具志は、同門中の代表者たる責格を有しないから、被控訴人らはいずれも当事者能力を欠くものであると主張する。よつて按ずるに、さきに認定した事実によれば、被控訴人門中は、いわゆる三六姓の一人蔡崇を始祖とし、その子孫たる男系血族をもつて構成された血縁団体であつて、その範囲も十分確定し得べき状態にあり、遅くとも今次大戦勃発時までには、門中財産の維持管理、事業の執行を主たる目的とし、団体意思の形成、業務の執行、組織、代表者の選出、財産の管理など主要な点に関する規範ないし慣行を確立して、社会的に独立した団体として実在するに至つたものであり、戦後、本件各土地の所有権の帰属をめぐり門中員の間に対立関係が生じたため、本来の目的の遂行が困難となつたとはいえ、いまなお、右目的の一部を執行して団体の同一性を維持し、社団として存続していることが認められ、これらの点に鑑みるときは、被控訴人門中は、いわゆる権利能力なき社団に該当するものと認めるのが相当である。
なお、本件全証拠によつても、被控訴人門中に、入会手続、総会ならびに代表者選出等に関する定款もしくは成文の規約が存在することを認めるに足りないが、前認定のように、同門中の意思決定、業務の執行、代表者の選出については、職前から確立された慣行が本文の規約として存在し、門中員によつて承認されていることが認められるから、定款もしくは規約の存しないことをもつて、ただちに、被控訴人門中が社団であることを否定しなければならないとは解されない。
してみれば、被控訴人門中は、権利能力なき社団であつて、代表者の定めがあるから、民訴法四六条により、当事者能力を有するものというべきである。
次に、前認定事実によれば、被控訴人門中代表者たる地位は、大宗家および中宗家三家の各当主の一身専属的なものであり、その死亡後は、家督相続その他の原因によつて、右各家の当主たる地位を取得した者がこれを承継するという慣行が、一種の特約として、門中員の間で承認されていたところ、被控訴人具志は、大正一〇年五月一六日、代表者であつた具志承基の死亡により、その家督を相続して、中宗家(具志家)の当主たる地位を取得し、代表者たる地位を承継して現在に至つているものと認められるから、被控訴人具志は、被控訴人門中の代表者たる資格を有するものというべきである。
なお、本件各土地が昭和五年頃、那覇税務署備附の土地台帳上、大宗家および中宗家の当主であり、同門中の代表者であつた儀間瑾ほか三名の共同所有として登載されていたことおよび昭和六年一月一三日那覇区裁判所受附第一六九号をもつて儀間常誠、志多伯晋、上原光基および被控訴人具志の四名の共有名義で所有権保存登記が経由されたことは、当事者間に争いがなく、右事実によれば、前記大宗家または中宗家の各当主が被控訴人門中を代表する権限は共同してのみこれを行使しうるべきものであると窺われないでもないが、かりにそうであるとしても本件訴訟の経過に照らして明らかなように被控訴人においてその代表者と主張する控訴人らが被控訴人門中の存在自体を否定している以上被控訴人具志においてその代表権を行使しうるものと解すべきである。
三被控訴人門中の共同訴訟参加の適否、確認の利益、当事者適格について
本件記録に徴すれば、被控訴人具志は、権利能力なき社団たる被控訴人門中の代表者として、その構成員全員の受託者たる地位に基づき、本件各土地が同門中の所有であることを主張して、これを争う控訴人らとの間で、その確認を求めるとともに、本件各土地の現在の登記名義人である原審被告儀間亘(同人死亡後はその承継人)および控訴人儀間拡に対し、右登記の抹消登記手続を求め(なお、同控訴人らに対しては、同控訴人らと被控訴人具志との共有保存登記をすべきことをも求めたが、右請求は棄却され、被控訴人らにおいて、右部分につき附帯控訴はないから、当審の審理の対象からは除外されている。)、さらに控訴人儀間常亀に対し、本件各土地の所有権に基づき不当利得の返還を求め、被控訴人門中(代表者具志彦修)は、第二回差戻後の原審において、被控訴人具志の本訴請求と同一内容の請求をなし、その訴訟の目的が被控訴人具志と合一にのみ確定すべきものとして、本訴請求に共同訴訟参加の申立をなしたものであり、これに対して、控訴人らはいずれも、本件各土地は儀間亘の承継人および控訴人儀間拡の所有であると主張して被控訴人門中の権利を否認するとともに、同門中が権利能力なき社団であることおよび被控訴人具志が同門中の代表者であることをも否認していることが明らかである。
しかるところ、控訴人らは、まず、被控訴人門中の共同訴訟参加の適否について争うので、この点について判断するに、本訴請求において、被控訴人具志は、民訴法四六条に従い、権利能力なき社団の代表者として訴訟を追行しているのであるから、本訴の判決の効力は、当然、権利の帰属者たる被控訴人門中にも及ぶものと解されるのであつて、本件において、被控訴人門中の請求は、被控訴人具志との間で合一確定の必要があるものというべく、かつ、被控訴人門中は、後述のとおり、その請求について、当事者適格を有するものであるから、結局、被控訴人門中の本件共同訴訟参加の申立は適法のものといわなければならない。
次に、控訴人らは、被控訴人門中が本件訴訟に参加し、みずから、本件各土地が自己の所有であることの確認を求めている以上、被控訴人具志が、これとは別個に独立して、本件各土地が被控訴人門中の所有であることの確認を求める法律上の利益はないと主張するので、この点について判断するに、本来、権利能力なき社団の資産は、その社団の構成員全員に総有的に帰属しているのであつて、社団自身が私法上の権利義務の主体となることはないから、社団の資産たる不動産についても、社団はその権利主体となり得ず、したがつて、登記請求権を有するものではなく、また、かかる不動産については、社団の代表者が、社団の構成員全員の受託者たる地位において、個人の名義で所有権の登記をするほかないと解されるところ、本件における前記主張によれば、被控訴人具志がかかる趣旨における受託者たる地位に基づき本訴請求をなしていることが明らかであつて、このような場合、被控訴人具志は、被控訴人門中において、みずから、本件各土地の所有権の確認を求めていても、なお、右地位に基づき、本件各土地の現登記名義人に対し登記の抹消手続を求め、その前提として所有権の確認を求める法律上の利益があるものというべきである。
しかして、本件訴訟において、権利能力なき社団たる被控訴人門中がみずから原告となるのが相当であるか、その代表者の地位にある者が個人として原告となるのが相当であるかは、権利能力なき社団の資産たる不動産が何びとに帰属するか、或いは、右不動産につき何びとに登記請求権が帰属するかという、所有権確認訴訟ないし登記手続請求訴訟における本案の問題にほかならず、単なる訴訟追行の資格の問題にとどまるものではないというべきである。
次に、控訴人らは、控訴人上原、同志多伯は、単に本件各土地が被控訴人門中の所有であることを否認しているにすぎず、その否認の結果、被控訴人らの地位を不安定ならしめる事実はないから、少くとも、同控訴人らに対する被控訴人らの各請求は確認の利益がないと主張する。しかし、同控訴人らが被控訴人門中の所有を否認するとともに被控訴人門中が権利能力なき社団であることおよび被控訴人具志が同門中の代表者であることをも否認していることは、前説示のとおりであつて、このことを、権利能力なき社団の資産たる不動産について、前記方法による登記によるしかないことに照らしてみると、被控訴人具志もしくは同門中において、右不動産の登記名義を同門中に回復するについては、右控訴人らの右主張がその障害となることは明らかであるから、被控訴人らは、右控訴人らとの関係においても、権利の帰属を確定する利益を有するものというべきである。
従つて、控訴人らの右各主張はいずれも採用するに由ないものである。
第二本案の判断
一1 本件各土地が、昭和五年頃、那覇税務署備附の土地台帳上、儀間瑾ほか三名の共同所有として登載されていたことおよび昭和六年一月一三日那覇区裁判所受附第一六九号をもつて、儀間常誠、志多伯晋、上原光基および被控訴人具志の四名の共有名義で所有権保存登記が経由されたことが当事者間に争いがないことは、前説示のとおりであるところ、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。
儀間家二〇世経(俗称ハークー)は、明治二四年、二五歳の頃、同家一九世元の養嗣子となつたが、性いん逸にして家事を好まず、放蕩三昧に明け暮れた結果、多額の借財をなし、その返済に窮した挙句、明治三二年旧暦二月二〇日、本宅の敷地の一部を川畑市兵衛に売り渡し、また、その頃、本件各土地をも、尚育王より拝領の三味線とともに屋号山原屋嘉に担保として差し入れるなどの所為に出た。そこで、蔡氏門中は、経の養母(元の妻)、オミカメの懇請もあつたところから、同年旧暦三月一五日、中宗家の志多伯棟ほか四名が発起人となつて門中模合を発起し、模合落礼金をオミカメに貸し付けて経の借財の整理をさせるとともに、他方、経による財産の蕩尽を防ぐため、右の各不動産を門中の有力者の所有名義として土地台帳に登載し、もつてこれを保全すべく、本宅の敷地の残余の部分につき、中宗家の志多伯棟ほか四名(この四名は中宗家ではない。)の共同所有名義として、土地台帳上の登載をなしたが、本件各土地については、古来、門中財産として取り扱われてきたものであるところから、そのことを明確にするとともに、特に、厳重な保全の方法を経べく、明治三三年二月九日、当時大、中宗家の各当主であり、門中の代表者であつた儀間経、志多伯棟、上原元基、具志承基の共同所有名義として、土地台帳上の登載がなされた(なお、昭和五年頃には、儀間瑾ほか三名の共同所有名義で登載されていた。)。
しかして、右両土地については、将来、その保全の必要がなくなつたときは、いつでも経の単独所有名義に変更する旨が約されていたが、経がその後間もなく(明治三六年)死亡し、もはや右の保全の必要がなくなつたところから、本宅の敷地については、明治四一年一一月二日、経の子瑾の親権者であつたオミカメの要請により、右土地の共有名義人であつた志多伯棟ほか四名から瑾に対し、登記簿上、その所有名義が返還されたにかかわらず、本件各土地については、オミカメにおいて、右と同様に、瑾の所有名義に変更し得た(本件各土地が、屋号山原屋嘉から取り戻されていたことは、「約定書」(乙第一四号証)の記載から推認することができる。)はずであるのに、これをなさず、これより先、同年八月一三日、殊更、本件各土地の共有名義人であつた志多伯棟ほか二名に対し、所有名義の変更を猶予していた。そして、その後、オミカメは明治三六年に、瑾も成人を待たずして大正一〇年に、それぞれ死亡し、儀間常誠が瑾の家督を相続するに至つたが、常誠は、本件各土地につき前記保全の必要性がすでに消滅していることを知りながら、また、もし欲するならば、いつでも、極めて容易に、土地台帳上もしくは登記簿上、自己の単独所有名義に変更することができたのに、約一〇年間もこれを放置し、共有名義であることになんらの異議もとどめなかつたばかりか、昭和六年一月一二日、その子亘に命じ、前記共有名義人らの各家督相続人である志多伯晋、上原光基(親権者上原マツル)、被控訴人具志の承諾を得たうえ、右の者らと自己とが、各家督相続によつて本件各土地につき共有権を取得したとして、本件各土地につき、前記のとおり、所有権保存登記を経由した。なお、本件各土地の一部については、①昭和七年三月二〇日、当時の共有名義人である儀間常誠、志多伯晋、上原光基、被控訴人具志と仲井真世昌ほか一二名との間に賃貸借契約が、②同八年一二月一六日および同一三年八月二〇日の二回にわたり、右儀間ほか三名と古波蔵必達との間に地上権設定契約が、それぞれ締結され、右の契約書は、いずれも常誠の命により、亘がこれを作成したが、右①②の契約書には、本件各土地が右共有名義人四名の所有であることが明記されており、また、②の契約書には、常誠が土地所有者の総代である旨が表示されていた。そして、本件各土地についての前記四名の共有名義の所有権保存登記は、その後も、常誠において、右登記の抹消手続を求め、あるいは自己の単独名義に移転することが、手続上、経済上極めて容易であつたのに、これをなさなかつたため、右登記は、今次大戦の戦禍により登記簿が焼失するに至るまで、抹消されずに残つていた。
2 以上の事実が認められ、<証拠判断省略>。
3 なお、前顕乙第一三号証(「覚」と題する書面)および同第一四号証(約定書)には、本件各土地が大宗家(儀間家)の所有に属することを是認するかの如き記載部分があるけれども、さきに説示した沖縄における門中制度の形成と組織等に徴すると、明治時代の門中においては、なお封建的家族制度の影響のもとにあつて、大宗家の当主をもつて門中の中心的地位者とみなしていたことが認められ、かかる時代的背景のもとでは、本来、大宗家の固有財産と区別されるべき門中財産についても、特別の事情のないかぎり、なお、大宗家の当主をもつてその所有名義人となすべきものとの観念が支配したであろうことが容易に推察し得るところ、乙第一三号証には、本件各土地の歴史的由来(右由来のうち、本件各土地が中山王から蔡崇に下賜されたとの云伝の部分が措信できないことは、後述する。)が記されたうえ、「本件各土地は、大宗所有なりと雖も、神主奉祀された土地」である旨の記載があり、明らかに本件各土地を大宗家固有の財産と区別していることが窺われるだけでなく、「養母から申出次第、いつにても大宗名義に返還する」旨の記載があり、単に所有名義の返還のみを約したことが窺われ、また乙第一四号証の所有権を返還云々の記載も法的な所有権の返還を意味するものではなく、同号証の文言全体からみて前記同様所有名義のみの返還を意味するものであることが看取されるのであり、結局、右乙号各証は、いずれも、前記観念のもとに作成されたものであつて、必ずしも、本件各土地が大宗家の所有に属することを是認する趣旨のものではなく、前認定のとおり、保全の必要がなくなつたときに、所有名義のみを変更することを約したにすぎないものと解すべきである。
よつて、右乙号各証によつても、前認定を左右するに足りないというべきである。
次に、控訴人儀間常亀(当審第二回)、原審被告儀間亘(原審第一回)の各本人尋問の結果および弁論の全趣旨によれば、儀間常誠が、昭和五年頃、本件各土地に隣接していた土地につき、保安林解除図を添付して保安林解除の申請をなしその解除を得たことが認められ、また<証拠>によれば、常誠が、その頃、右土地(沖縄県那覇市久米町二丁目一〇七番の一、保安林のうち一九一坪六合)につき、「出願人(所有者)儀間瑾名義で保安林解除図を作成したことが認められる。しかしながら、右乙第一九号証が右保安林解除申請の際添付されたものと同一であるか否かについては他にこれを明らかにする証拠がないだけでなく、かりに同一のものであるとしても、右土地は、その頃、土地台帳上儀間瑾ほか三名の共有名義で登載されていたのであつて、かかる申請は、共有者の一人が保存行為としてすることができるのであるから、右乙号証に「出願人(所有者)儀間瑾」と表示されているからといつて、そのことから直ちに右土地が儀間瑾の単独所有に属していたものと認めることはできず、したがつて、右乙号証および右各供述によつても、なんら前認定を左右するに至らないものというべきである。
4 また、控訴人らは、本件各土地は、蔡氏始祖蔡崇が中山王察度から私宅の土地として、下賜されたものであるところ、蔡崇が地理師の言に従い他の土地に私宅を構え本件各土地を放置してあつたのを好便に、亜佳度が本件各土地上に祠堂を創建し、爾後、門中において右祠堂を拝所として使用したにすぎないのであり、従つて、右祠堂の所有権の帰属はともかく、本件各土地が亜佳度の所有に帰したことはないと主張し、前顕乙第一三号証には、本件各土地の歴史的由来として、右主張に副う記載部分がある。しかしながら、右記載部分は、蔡氏の家譜の記載に反するばかりか、本件に現われた文献その他の資料によつて、なんらその真実性を裏付けうるものでもないから、にわかにこれを措信しがたいものというべく、かえつて、右の蔡氏家譜および前顕鑑定の結果によれば、蔡氏家譜中「ト地干唐栄東北之間」の「ト」とは選定したとの意であり、またここにいう「捐資」とは、子子孫孫への大きな期待をもつてする資金の投じ方の意と解すべきところ、他方、所有権の観念が確立していなかつた当時においては、祠堂とその敷地との関係は、社会通念上、別個独立のものではなく、一体のものとして観念されていたであろうことが講学上および弁論の全趣旨から推察されるのであつて、これらを併せ考えると、特段の事情のないかぎり、亜佳度は、前認定のとおり、本件各土地を他から求めて祠堂を創建し、右祠堂とともに本件土地を蔡氏一族に寄附したものと認めるのが相当である。
5 また、成立に争いのない甲第一一号証の一、二(東恩納寛浄著「南島風土記」中「蔡氏堂」)は、蔡氏家伝、蔡世昌の久米村記、李照元録、宝案所収の表文などを根拠として、蔡氏の私寺であつた清泰寺は、蔡氏一世裏が自ら資を捐てて建立したか、あるいは、蔡襄の子蔡璟(亜佳度の兄)が寺とともに宗祠を併置したものであり、後に澹園公(蔡温)の時代に仏寺を廃して儒礼に帰し、忠尽堂と号したものであろうと考証している。しかし、同号証は、他方、資料の球陽尚円紀には、蔡譲の女亜佳度が資を捐てて祠堂を建て観音を勧誘したと記されている旨も紹介しているのであつて、右考証の時点において、前記蔡氏家譜が資料として勘案されておれば、前認定に副う考証もまた可能であつたろうと推察でき、したがつて、甲第一一号証の一、二によつても前認定を動かすに足りないというべきである。ちなみに、成立に争いのない甲第一三号証(琉球史辞典)によれば、蔡温の生存期間は一六八二年から一七六一年までであつたことが認められるから、蔡氏の仏寺が廃され忠尽堂と名づけられたのが蔡温時代であつたとの点については右の考証は、前認定に照らし、十分首肯し得るものである。
6 次に、控訴人らは、沖縄における近代的土地所有権制度は土地整理法の施行によつて確立され、土地所有権は土地整理法によつて創設的に認定付与されたものと解すべきところ、同法一一条によれば、那覇、首里の屋敷地は、手形、差出を有すべき者の所有とされ、儀間家は、その以前に、那覇の屋敷地たる本件各土地につき、藩から差出の交付を受け、これを所持していたから、同法施行に際して、本件各土地は、儀間家の当時の当主たる儀間経の所有と認定されたものと推認すべきであり、このことは、明治三三年二月九日頃、本件各土地が、土地台帳上、儀間経の所有名義で登載されていたことによつても裏付けるに足りると主張する。
しかして、土地整理法一一条によれば、「仕明地、仕明知行地、請地、払請地、拝領地及那覇、首里両区内の屋敷地は手形、差出等を有すべき者の所有とする。」と規定されていることが明らかであるが、儀間家が、本件各土地につき、藩から差出の交付を受け、これを所持していたとの点を明らかにする直接の証拠はなく、また、乙第一三号証によつても、いまだ、明治三三年二月九日頃、本件各土地が、土地台帳上、儀間経の所有名義で登載されていたことを認めるに足りないから、土地整理法施行に際して、本件各土地が儀間経の所有として認定されたものと推認することはできないというべきである。
のみならず、前認定によれば、本件各土地には祠堂が存し、拝所として門中によつて使用管理され、その周囲は山林で囲まれていたというのであるから、その歴史的由来をも併せて考えると、本件各土地は、門中財産たる拝所ともいうべき特殊の性質を有するものであつて、土地整理法一一条にいう「拝領地及那覇、首里両区内の屋敷地」には該当せず、同法一七条により、一三条に準じて処理され、土地台帳上、その所有名義は信託的に門中の代表者四名の共有名義として登載されたものと解する余地もあり、その間の経緯について、直接の証拠がない以上、土地整理法施行に際し、本件各土地の所有権が何びとに認定、付与されたかは、結局、不明というほかない。
したがつて、本件各土地の所有権が何びとに属するかは、本件各土地の沿革、土地整理法施行前後における本件各土地の管理、収益等の事実、本件各土地につき所有権保存登記がなされた際の状況を総合して判断するほかないものといわなければならない。
7 そして、以上認定したところによれば、本件各土地は、成化八年(一四七三年)、蔡氏二世譲の女亜佳度により、本件祠堂とともに蔡氏門中に寄附されて以来、蔡氏大宗家の固有財産とは完全に分離され、門中財産として、蔡氏門中の独自の管理に服し、本件各土地上の山林から生ずる収益は祠堂の管理費用に充てられており、特に明治時代以降、本件各土地は、土地台帳上および登記簿上、蔡氏門中の代表者たる大宗家および中宗家三家の各当主計四名の共有名義とされ、また、同人らの名義をもつて本件各土地の一部を他人に賃貸し、あるいは地上権設定をしたが、このことにつき、大宗家の当主である儀間常誠および同亘はなんら異議をとどめず、本件各土地の管理および処分は、長老の集りによつて決定され、アタイ(当番員)が実際の業務にあたり、本件各土地の一部の売却金、前記賃料その他の収益はすべて被控訴人門中の収入として計上され、門中の諸経費に充てられてきたというのであり、これを法的にみれば、本件各土地は、亜佳度から権利能力なき社団たる被控訴人門中に贈与され、同門中の構成員全員に総有的に帰属するに至つたものであるが、同門中は法人格を有しなかつたところから、不動産登記の便宜上、信託的にその代表者たる被控訴人具志ほか三名の共有名義で登記されていたものと認めるのが相当である。
二本件各土地につき、儀間亘と控訴人儀間拡のため、一九五七年四月一二日別紙目録記載の受附番号をもつて所有権保存登記が経由されていることは、当事者間に争いがなく、また、成立に争いのない甲第二号証の一および本件記録に徴すると、儀間亘は昭和四一年一〇月二一日に死亡し、控訴人儀間常亀、同上原貞子、同志多伯順を除くその余の控訴人ら(控訴人儀間栄子は、亘の承継人たる控訴人儀間裕幸が昭和四八年一〇月一七日死亡したことにより同人を承継し、控訴人上原悦子、同上原英生、同上原めぐみは、いずれも亘の承継人たる控訴人儀間祺昇が昭和四八年三月二日死亡したことにより同人を承継した。)が同人を相続したことが認められる。
三控訴人儀間常亀が、本件各土地に対する昭和二七年四月二八日から同二九年一〇月一一日までの軍用地使用料として、合計一〇万〇、二二三B円(二五万四、七三二円九五銭日円)を軍用地事務所から受領したことは、当事者間に争いがない。
第三結論
一被控訴人具志および同門中の各所有権確認請求および各不当利得返還請求について
権利能力なき社団たる被控訴人門中の資産ないし債権債務は、社団たる同門中の構成員全員に総有的に帰属しているのであつて、同門中自身が私法上の権利義務の主体となることはないから、同門中が私法上の権利義務の主体であることを前提として、同門中に私法上の権利があることの確認を求め、あるいは、同門中に対し、私法上の権利に基づく不当利得の返還を求めることは許されないものというべく(もつとも、被控訴人具志が、同門中の代表者すなわち受託者たる地位に基づき、控訴人らに対し、本件各土地が同門中の構成員全員の総有であることの確認を求め、あるいは、同門中の構成員全員に対して不当利得を返還することを求めるのは許されるものと解すべきであるが、被控訴人具志の本訴請求はかかる趣旨の請求を含むものとは解されず、また、かりにかかる趣旨の請求を含むとしても、その場合には、当然、構成員の範囲を特定すべきであるところ、被控訴人具志の本訴請求は、右の特定を欠いていることが明らかであるから、この点において失当というべきである。)、したがつて、被控訴人具志、同門中の、各所有権確認請求および各不当利得返還請求は、いずれも棄却すべきである。
二被控訴人具志、同門中の各抹消登記手続請求について
本件各土地については、現在、儀間亘と控訴人儀間拡のため、所有権登記が経由されていることは当事者間に争いのないところであるが、右土地の所有権は、前記のように被控訴人門中の構成員全員に総有的に帰属しているのであるから、右登記は、実体的な権利関係に符合しない不実のものというべきである。
しかして、権利能力なき社団の資産たる不動産については、社団の代表者が、社団の構成員全員の受託者たる地位において、個人の名義で所有権の登記をすることができるにすぎず、社団自体は、右不動産につき権利主体たり得ず、登記請求権を有するものではないから、社団を権利者とする登記をすることは許されないものと解すべきであり、したがつて、権利能力なき社団たる被控訴人門中の代表者である被控訴人具志は、その受託者たる地位において、右登記請求権に基づき、本件各土地の現登記名義人ないしその承継人である控訴人ら(控訴人儀間常亀、同上原貞子、同志多伯順を除く。)に対し、その登記の抹消登記手続を求めることができるが、権利能力なき社団たる右門中は右の請求をすることはできないものというべきである。
よつて、被控訴人具志の右控訴人らに対する抹消登記手続請求は認容すべきであるが、被控訴人門中の抹消登記手続請求は棄却を免れない。
三してみれば、被控訴人具志の控訴人儀間拡、同儀間翼、同大須賀キク、同儀間栄子、同上原悦子、同上原英生、同上原めぐみ、同儀間幸五郎、同儀間千代子、同儀間佐知子、同儀間崇、同儀間祥子に対する所有権保存登記の抹消登記手続請求は正当であるから、これを認容すべきであるが、同被控訴人のその余の請求および被控訴人門中の各請求はいずれも失当であるから、これを棄却すべきところ、これと異る原判決は一部失当であるから、民訴法三八四条、三八六条に則り、主文一項のとおり変更することとし、訴訟費用の負担につき、同法九六条、九二条本文、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(森綱郎 宮城安理 堀寵幸男)
物件目録<省略>