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福島地方裁判所 平成18年(わ)41号 判決 2008年8月20日

主文

被告人は無罪。

理由

(本件公訴事実の内容)

被告人は、福島県双葉郡<以下省略>福島県立a病院において、産婦人科医師として医療業務に従事していたものであるが、

第一  平成一六年○月○日午後二時二六分ころから、前記a病院において、A(当時二九歳)に対し、執刀医として帝王切開術を実施した際、同女は帝王切開手術歴一回を有する全前置胎盤患者であり、術前検査において、前回帝王切開創部への胎盤の付着を認めていた上、同日午後二時三七分ころに女児を娩出した後、前記Aの臍帯を牽引しても胎盤が子宮から剥離しなかったため、右手指を胎盤と子宮の間に差し入れ胎盤を用手剥離しようとして、胎盤が子宮に癒着していることを認識したのであるが、このような場合、胎盤の剥離を継続すれば、子宮の胎盤剥離面から大量に出血し、同女の生命に危険が及ぶおそれがあったから、直ちに胎盤の剥離を中止して子宮摘出手術等に移行し、胎盤を子宮から剥離することに伴う大量出血による同女の生命の危険を未然に回避すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、直ちに胎盤の剥離を中止して子宮摘出手術等に移行せず、同日午後二時五〇分ころまでの間、クーパーを用いて漫然と胎盤の癒着部分を剥離した過失により、胎盤剥離面から大量出血させ、同日午後七時一分ころ、同所において、同女を失血死させ、

第二  同日午後七時一分ころ、前記a病院において前記Aが死亡し、同日午後七時三〇分ころ、同所において同女の死体を検案した際、前記第一記載の手術中に胎盤の癒着部分を剥離した結果、胎盤剥離面から大量に出血し、これに起因する出血性ショックによって同女が死亡したものであり、同死体に異状があると認めたにもかかわらず、二四時間以内に所轄警察署にその旨届け出をしなかった。

(争点)

本件における争点は、①胎盤の癒着部位、程度、これに対する被告人の認識内容、②出血した部位、③出血についての予見可能性の有無、④A(以下「本件患者」という。)の死因、被告人の行為との因果関係、⑤被告人が行った医療措置の妥当性、相当性、結果を回避するための措置として剥離行為を中止して子宮摘出手術に移行すべき義務の有無、⑥医師法違反の成否、⑦被告人の検察官調書の任意性である。

(争点に対する判断)

第一本件の事実経過

関係各証拠(被告人の当公判廷における供述、第七回公判調書中の被告人の供述部分、第二回公判調書中の証人Bの供述部分、第二回公判調書中の証人Cの供述部分、第三回公判調書中の証人Dの供述部分、第三回公判調書中の証人Eの供述部分、第四回公判調書中の証人Fの供述部分、第四回公判調書中の証人Gの供述部分、証拠<省略>。証拠の表記は証拠等関係カード記載の甲乙弁の番号による。)により認められる本件の事実経過は、以下のとおりである。被告人の検察官調書の任意性が認められることは、第二記載のとおりである。

一  被告人は、平成八年四月、b医科大学(以下「b医大」という。)産婦人科学教室に入局し、同年五月二二日、医師免許を取得した後、平成一六年四月一日、福島県立a病院(以下「a病院」という。)産婦人科の一人医長に就任した者である。本件当時までの産婦人科医としての勤務年数は約八年七か月である。

二  a病院には、平成一六年○月○日当時、F院長(整形外科、以下「F院長」という。)の下、内科、外科、整形外科、産婦人科(被告人一名)、麻酔科に合計一二名の医師が常勤で勤務しており、看護師は九〇名前後、一般病床の数は一四六床であった。

同病院は、第二次救急病院に指定された双葉郡内における中核病院であり、設置されている科の一般的な診療を行う病院であったが、福島県知事からの地域医療支援病院の承認、及び医療法四条の二に基づく厚生労働大臣からの特定機能病院の承認は受けていなかった。

同病院では、輸血用の血液を常時置くことはせず、必要なときに準備し、不足した場合は、同病院から約五〇km離れた福島県いわき赤十字血液センターから、約一時間かけて自動車による搬送を受けていた。

三  本件患者は、昭和五〇年に出生、平成九年に婚姻し、平成一三年○月、c病院において、B医師(以下「B医師」という。)が執刀する帝王切開手術により、第一子を出産した。その後、本件患者は、第二子を妊娠し、平成一六年五月六日、a病院において診察を受け、妊娠五週と診断された。本件患者は、これ以降、第二子の妊娠出産について、被告人を主治医として、もっぱら同病院を入通院先とし、同年○月○日、被告人が執刀する帝王切開手術及び子宮摘出手術(以下、帝王切開手術については「本件帝王切開」、子宮摘出手術については「本件子宮摘出」、同日本件患者に対して行われた手術全体を「本件手術」という。)を受けた。

四  本件手術に至るまでの経過(本項については、すべて平成一六年の事実)

(1) 被告人は、平成一六年五月六日の初診時、本件患者に対し、超音波検査を実施した。この際、被告人は、胎児の姿を確認できず、前回帝王切開創を確認した。前回帝王切開創の位置は、おおむね通常産科医が切開する場所であったが、胎児の成長に伴い子宮壁が薄く伸びるにつれ、以後の超音波検査では確認することができなくなった。

(2) 被告人は、六月一日及びそれ以降の複数回の超音波検査において、本件患者の胎盤(以下「本件胎盤」という。)を子宮の低い位置に確認し、同月一五日には、胎盤が後壁にあることを確認した。被告人は、八月ころからは、本件患者が前置胎盤(胎盤の一部または大部分が内子宮口に付着している状態)である可能性について医師記録に記載していたが、一〇月二二日、全前置胎盤(胎盤が内子宮口をすべて覆う形で付着している状態)であると診断した。

被告人は、同日の診察時、本件患者に対し、避妊手術の希望の有無を確認したが、本件患者が希望しなかったため、外来診療録に「madせず。」(避妊しないとの意味)と記載した。

(3) 被告人は、夏ころ、本件患者とは別の前置胎盤の患者について帝王切開手術をしたが、輸血をすることなく無事に完了した。

(4) 本件患者は、その後も幾度か被告人の診察を受けていたが、一一月二二日、切迫早産への対応及び前置胎盤管理のため、a病院に入院した。入院時の本件患者は、身長一六〇cm、体重六八kgであった。

(5) 被告人は、一二月三日、本件患者に対し、経膣超音波検査を行ったところ、血流が豊富であり、尿中潜血がみられた。そこで、被告人は、絨毛が膀胱の中に入り込むほどの穿通胎盤になったために尿に血液が混じった可能性、あるいは、前置胎盤による出血のため血液の混じったおりものが尿に混じった可能性を考え、「血流(+)」「尿中潜血(±)につき」癒着胎盤、又は前置胎盤による出血に注意が必要である旨医師記録に記載した。

(6) 被告人は、一二月六日、本件患者に対し、カラードップラー検査を行ったが、芋虫状の血流がみられたので、医師記録に「膀胱下血流(+)」と記載した。この日、本件患者に尿潜血はみられなかった。また、被告人は、同日、本件患者の腹部及び胎児と思われる図面を医師記録に記載し、本件患者から見て左よりの部分に、赤で楕円状に胎盤を描いた。さらに、同日、被告人は、帝王切開時に超音波を使用するので、プローベを清潔にすること、MAP(濃厚赤血球。一単位は二〇〇ml。)を五単位用意することを決め、場合によっては単純子宮全摘出術を行うことを前提に、本件手術の準備をするよう指示した。

さらに、被告人は、同日、本件患者に対し、輸血や子宮全摘出術の可能性について説明した。

(7) 一二月七日にも本件患者に尿潜血がみられたが、被告人は、前置胎盤からの出血ではなく、毛のう炎による出血であると診断した。

(8) 被告人は、一二月九日ころ、本件手術の麻酔医であるD医師(以下「D医師」という。)に対し、本件患者の前回帝王切開創に胎盤が掛かり、手術中に出血が多くなる可能性があること、子宮を摘出する可能性があること、もしもの時はc病院のB医師を呼ぶことになっていること等を伝えた。

D医師は、同日、被告人からの説明を受け、通常の帝王切開であれば一本で足りる点滴ラインを、同時に多くの輸液等を入れるために二本、一八ゲージか二〇ゲージ(一八ゲージより二〇ゲージのほうが針が細い)で取るように指示した。

また、被告人は、同日ころ、外科医であるC医師(以下「C医師」という。)に対し、本件手術の執刀補助を依頼した。その際、被告人は、C医師に対し、本件患者が前回帝王切開であったこと、前置胎盤で、癒着があるかもしれないが、手術には差し支えないと思われること、c病院のB医師にも応援を依頼していることなどを伝えた。

(9) 被告人の医局の先輩であるH医師(以下「H医師」という。)は、一二月一一日、a病院に派遣された際、被告人から、前置胎盤の患者で、前回帝王切開で、今回帝王切開予定の患者がいることを聞き、癒着胎盤であった場合には、出血が多くなって人手を要する手術になることを話した。また、H医師は、被告人に対し、各種検査等から手術前に癒着胎盤の可能性が高いと判断していたところ、実際に手術してみると、予想よりもひどく、穿通胎盤であった症例を体験したこと、その際、二万ml弱の出血があり大変であったことなどを話し、人手が欲しい場合は、医局に相談して良いのではないかなどと勧めた。これに対し、被告人は、B医師を呼ぶ旨答えた。

(10) 被告人は、一二月一三日、医師記録に、本件患者の腹部、胎盤、胎児と思われる図面及び胎盤が左よりである旨の記載をした上、本件患者から見て右よりの部分に、U字型の切開案を記載した。

(11) 被告人は、一二月一四日夜、a病院において、本件患者及びその夫に対し、本件患者が前置胎盤であること、前回帝王切開創に胎盤がかかっている可能性があることの他、輸血の可能性、子宮摘出の可能性、血栓症、抗体等について説明した。この際、被告人は、子宮の切開場所について、胎盤の付着していない場所を切るつもりであり、U字型にする考えであることを子宮の図や患者から見て子宮の右よりにU字型の図形を書き込んだ図を書くなどして説明した。さらに、被告人は、何かあったらB医師に手伝ってもらうつもりであり、既に同医師には話してある旨述べた。被告人の説明を受け、本件患者は、手術承諾書、輸血に関する説明と同意書に署名した。

この際、本件患者らから、子宮を残してほしいという積極的要望は無かったが、被告人が、三人目の子供が欲しいか尋ねると、本件患者らは肯定した。

(12) ○月○日(本件手術当日)、被告人は、B医師に架電し、一回目の帝王切開を同医師が担当した患者について、被告人が二回目の帝王切開をすることになったが、胎盤が後壁に付着している全前置胎盤であり、何かあった際には応援を頼むかもしれないと述べた。

これに対し、B医師は、被告人に対し、MRI検査を実施したのか否か、前回帝王切開創に胎盤がかかっているのか否かを尋ね、被告人は、MRI検査は実施しておらず、前回帝王切開創に胎盤がかかっている可能性があるが、おそらく大丈夫である旨の回答をした。

なお、被告人がB医師に対し応援を依頼するのは初めてであった。

(13) 本件患者の入院後、a病院勤務の助産師、看護師達の間で、b医大で前回帝王切開の前置胎盤患者の帝王切開で大量出血となった症例が話題になった。その中で、b医大には産婦人科医が何人かいて、輸血も届きやすい場所にあるのに対し、産婦人科医が被告人一名しかおらず、輸血を追加注文しても届くまでに時間がかかるa病院で対応できるのだろうかという話が出た。この点に関連して、I助産師が、被告人に対し、本件患者の転院を進言したが、被告人は、大丈夫である旨答えた。

(14) なお、被告人は、b医大において、前回帝王切開で前置胎盤のとき、前回帝王切開創に胎盤がかかっている場合の癒着胎盤の発症確率は二四パーセントであり、患者が三五歳未満で、後壁付着である場合の癒着胎盤の発症確率は三、四パーセントであると学んでおり、本件手術の際にもそのような認識であった。

四  本件手術(本項については、すべて平成一六年○月○日の事実)

(1) 本件手術は、本件患者が妊娠三六週六日となった平成一六年○月○日に実施された。本件手術開始時の担当者及び各人の役回りは、以下のとおりである。D医師が本件患者の頭側に、D医師から見て本件患者の左脇に被告人、右脇にC医師が立ち、C医師の右脇にE助産師が立った。

ア 執刀医 被告人

イ 麻酔医 D医師

ウ 助手 C医師

エ 助産師 J助産師(以下「J助産師」という。)

E助産師

オ 看護師

(ア) オペ責(手術中の患者の血圧や心拍数などの状態の確認の補助、患者への声かけを担当する係)K看護師

(イ) 器械出し(医師に手術器具を渡す係)L看護師

(ウ) 外回り(出血量確認、雑務を担当する係)M看護師、N看護師

(2) 被告人は、午後二時二六分、本件手術を開始した。このころ、本件患者の血圧は八〇強―約四〇(最高値八〇強、最低値は約四〇との意味。以下、同時刻の血圧の最高値及び最低値については同様に表記する。)であり、脈拍は約一二〇であった。

(3) 被告人が本件患者の腹壁を切開し、筋鉤で傷口を広げると、切開部分の真下に子宮が見えるようになった。すると、子宮表面の一部分、本件患者の足下に近い側に男性の手の甲の静脈くらいの幅の静脈が数本、網目状に走行し、怒張していた。被告人は、本件患者の頭部方向に向かって切開を広げ、子宮がより広く見えるようにした上、子宮に直接プローベを当てて超音波により胎盤の位置を確認し、胎盤の付着した部分を避けて、本件患者から見て子宮右よりの部分をU字型に切開した。その後、C医師が、子宮切開部の断端からの出血を鉗子で挟んで止血し、流れ出てきた血液混じりの羊水を吸引機で吸引した。血液混じりの羊水を見て、I、C両医師及びE助産師は、通常よりも少々多いと感じた。

(4) 被告人は、午後二時三七分、体重三〇〇〇グラムの女児を正常に娩出させた。このころ、本件患者の出血量が通常の場合と比べて特に多いということはなく、その意識は明瞭で、会話も可能であった。また、午後二時三〇分から女児娩出直後である午後二時四〇分のころまでの本件患者の血圧の最高値は約九〇から一〇〇、最低値は約五〇から五五であり、脈拍は約一〇〇から一二〇であった。

(5)ア このころまでに子宮切開創から軽度の出血があったため、C医師が、女児娩出後、子宮の切開部分をペアン鉗子で子宮の筋肉ごと挟んで止血した。被告人はその止血断端を確認し、臍帯血を採取した上、子宮収縮剤を直接子宮体部に筋肉注射してから、胎盤を剥離するために臍帯を牽引した。

しかし、子宮の内壁が、胎盤とともに、臍帯が付いている部分を頂点にした三角形のような形に反り返って胎盤に付着したまま持ち上がる状態となってしまい、胎盤を剥離することができなかった。そこで、被告人は、子宮をマッサージした後、再度臍帯の牽引を試みた。すると、子宮内壁が持ち上がってくることはなかったものの、胎盤は剥離できなかった。

そこで、被告人は、左手で胎盤を牽引しながら、右手手指を胎盤と子宮壁の間に差し入れ、指先で胎盤を押すようにして、子宮後壁上部から下部の方向に用手剥離を試みた。しかし、徐々に指で剥離することが困難となったため、被告人は、途中からクーパーも使用して、主にその閉じた先端部を子宮と胎盤の間に差し入れて削ぐようにしたり、クーパーのはさみの部分で切開を入れるなどして、かろうじて胎盤を剥離したが、最後には、突然、残りの胎盤が、するっと取れて胎盤の剥離が終了した。結局、胎盤剥離全体としては約一〇分の時間を要した。

被告人は、胎盤剥離中に、止血操作をしなかった。

イ 胎盤剥離中に出血が増加し、本件患者の血圧が低下した。午後二時四〇分時点の血圧は一〇〇強―五〇強であったが、午後二時四五分には約八〇―四〇弱となり、午後二時五〇分には八〇弱―四〇弱となった。また、午後二時四〇分時点の脈拍は一一〇弱であったが、午後二時四五分には約一一五、午後二時五〇分には、約一一〇であった。

ウ 麻酔記録の総出血量の記載は、午後二時四〇分ころから始められた。同時点ころの総出血量は二〇〇〇ml(羊水混みの量。以下、総出血量の記載については、すべて同じ。)であった。

本件患者の出血は、本件手術開始当初から胎盤娩出までの間は、C医師がそのほとんどを吸引器により吸引した。胎盤娩出以降はガーゼに血液をしみこませて吸収する方法が併用され、看護師がこれらの出血量の計測に当たっていた。C医師が吸引した血液については、吸引管に接続されたボトルの目盛りを見て計測できるため、ほぼ即時の計測が可能であったが、ガーゼについては、血液をしみこませたガーゼの重量を計測し、その重量から、ガーゼの重量を差し引いて出血量を計測していたため、出血量の計測に多少の時間が必要であった。

総出血量は、手術室の壁に貼られた記録用紙に記載され、看護師から口頭での報告がなされ、D医師及びK看護師により麻酔記録にも記載された。しかしながら、これらの報告及び記録の総出血量のうち、ガーゼによる計測が併用されて以後の部分は、上記のとおりの時間差が発生し、数分の誤差が生じうるから、少なくとも当該時間ころまでに当該出血量があったということを認定し得るに止まる。

エ D医師は、総出血量二〇〇〇という報告を看護師から受け、通常よりも出血が多いと感じたことや、このころには、C医師が持っている吸引器に吸い込まれる血液量も多くなってきていたことから、通常の点滴では急激な出血に追いつくことができないと判断し、左の点滴ラインを使ってパンピング(輸液ラインの途中に付いている三方活栓という道具と注射器を使って、輸液を強制的に吸引して押し込むことを繰り返す操作)を開始した。以後、D医師は、本件患者の蘇生を開始するまでの間、パンピングを継続した。D医師は、パンピング開始後間もなくの午後二時四五分ころ、本件患者の出血が増加し、血圧が下がり始めていることを確認したため、輸液をヴイーンFから、より血管内に留まるヘスパンダーへと切り替えた。

(6) 被告人は、午後二時五〇分、胎盤を娩出させた。娩出された胎盤の大きさは、短径一一から二一cm、長径二八cmくらいの楕円形であり、厚さは最も厚い箇所で約二・五cm、重量は七六六グラムであった。同胎盤に切開された痕跡はなかった。また、同胎盤は、分葉がはっきりとせず、実質が大きく二つに分かれていた。子宮内壁と胎盤の対応関係は、より多くの実質がついている側が子宮後壁に、膜状の部分を挟んだ反対側が子宮前壁に付着していた部分と認められた。本件患者の胎盤は、形が歪で大きく、重量のある胎盤であった。

(7)ア 被告人は、胎盤娩出後、アトニンO(子宮収縮剤)を使用したが、子宮内の所々からにじみ出るような出血が続いた。午後二時五〇分から五五分ころまでに、少なくとも二五五五mlであった総出血量が、午後三時五分から一〇分ころまでに少なくとも七六七五mlに達した。

また、本件患者の血圧はさらに低下し、胎盤娩出時に八〇弱―四〇弱であったものが、午後二時五五分には五〇弱―三〇弱となった。D医師がノルアドレナリン(昇圧剤)を使用し、午後三時には血圧の改善がみられ、七〇弱―約三〇となったが、五分後の午後三時五分には再度低下し、四〇強―二〇弱となった。

イ 被告人は、出血と血圧低下があったことから、胎盤娩出後、C医師と共に止血操作を行い、被告人が出血点付近を中心に子宮後壁側子宮頸部にガーゼを詰め、C医師と交互に子宮を手で覆うように圧迫したり、出血点と思われる場所にZ型に糸をかけて絞ったり、子宮動脈付近をペアンで挟んだり、再び子宮収縮剤を子宮に注射するなどした。しかし、、被告人らが子宮を圧迫している間は多少止血の効果があったが、少し手を離すと出血が続く状態で、なお出血は止まらなかった。被告人は、午後三時五分ころ、D医師と相談の上、MAPが到着し、本件患者の循環動態が落ち着くのを待って子宮摘出を行うこととした。

被告人は、胎盤娩出後、午後三時三〇分ころまでの間に、C医師からはa病院外科部長のO医師に応援を依頼するかどうかを尋ねられ、D医師からはc病院のB医師をいつ要請するのかの判断を求められたが、いずれも大丈夫であると必要性を否定した。

ウ D医師は、午後二時四五分に、ヘスパンダー五〇〇mlを本件患者の両腕から投与した後、午後二時五五分から午後三時ころ、準備してあったMAP五単位の輸血を開始した。同医師は、午後三時五分ころ、本件患者の血圧が低下し、さらに、同人から気持ちがわるいとの訴えがあったため、供給する酸素量を毎分二リットルから六リットルに増量した。

また、同医師は、午後三時一〇分、MAP一〇単位を血液センターに発注し、午後三時一五分以降、ノルアドレナリンの持続投与を開始し、あわせてノルアドレナリン六〇マイクログラムをワンショットで投与した。

本件患者の血圧は、午後三時一〇分には約八〇―四〇弱になったが、午後三時二〇分には再度低下し、午後三時二五分に六〇弱―三〇弱、午後三時二七分ころに六〇弱―二〇弱となった。このころ、本件患者の脈拍は、一二〇から一四〇の間であった。

(8)ア F院長は、午後三時三〇分ころ、a病院職員から、総出血量が五〇〇〇mlを超える患者がいることを聞き、心配になり、手術室に向かった。

イ a病院では、午後三時三〇分ころまでの間に、同病院職員から採血をするなどして、血液を集め、さらにD医師が、午後三時三〇分にMAP一〇単位を追加発注した。

同医師は、本件患者が出血性ショック状態に陥り、呼吸状態を管理することが必要となった上、本件患者から、脊椎麻酔が切れてきたことが原因と考えられる痛みの訴えがあったことから、午後三時三五分ころ、全身麻酔、気管挿管を行った。

ウ 本件患者の総出血量は、午後三時三五分から四〇分までの間に、少なくとも八四七五mlに達した。血圧は、午後三時三〇分ころから午後三時五〇分前ころまで六〇前後―三〇前後で推移し、一旦午後三時五〇分ころに五〇弱―二〇弱に落ち込んだ後、持ち直し、午後三時五五分頃から午後四時三〇分ころまで、再び六〇前後―三〇前後で推移した。脈拍は、午後三時三五分ころから午後四時三〇分ころまで、一三〇台を中心に一二〇から一五〇の間を推移した。

(9)ア F院長は、午後三時四五分ころ、本件手術室に到着し、本件患者の子宮を圧迫している最中の被告人に対し、O医師を応援に呼ぶかどうか尋ねたが、被告人は大丈夫である旨答えた。

イ D医師は、血液センターに対し、午後三時四五分に照射濃厚血小板二〇単位、午後三時五〇分に新鮮凍結血漿八〇mlを一〇パック発注し、午後三時五五分ころ、ショック対策にミラクリット五〇万単位を投与した。

本件患者の総出血量は、午後三時五三分から五七分ころには九六〇五ml、午後四時三分から七分ころには一万一〇七五ml、午後四時一〇分から一五分ころまでには一万二〇八五mlに達した。

午後四時には、a病院の職員から三〇〇〇ml採血(Rh+、A型)したものが手術室へ運ばれたが、結局使用しなかった。

(10)ア 午後四時二〇分に、血液センターからMAP二〇単位が到着した。被告人は、到着したMAPが輸血された後である午後四時三五分ころ、本件子宮摘出に移行し、膀胱を若干損傷したが、午後五時三〇分ころ、無事に子宮摘出を完了した。摘出された子宮は長さ約一九cm、幅約一二・五cm、厚さ約〇・七から二・四cmであった。

イ 本件患者の血圧は、輸血が行われた午後四時三〇分以降に急上昇し、午後四時三〇分には六〇強―三〇強であったものが、午後四時三五分には一〇〇弱―五〇弱、午後四時四〇分には約一二〇―六〇弱となった。脈拍は、午後四時三〇分に約一二〇であったものが、午後四時四〇分には約一四〇に上昇した。

しかしながら、本件患者の血圧は、午後四時四五分ころから下降を開始し、午後四時四五分には約一一〇―約六〇であったものが、午後四時五〇分には一〇〇強―六〇弱、午後四時五五分には九〇弱―四〇強となり、以後、午後五時四五分ころまで、最高値は約八〇から一〇〇強まで、最低値は約三五から五〇強までを昇降し、その後下降して、午後六時には六〇弱―約三〇となった。この間、脈拍は、一四〇前後で推移した。

本件患者の総出血量は、午後五時一八分から二二分ころには、少なくとも一万七〇五五ml、午後五時五八分から午後六時二分ころには一万九四七五mlとなった。

(11) 被告人は、子宮摘出を完了した後、膀胱損傷部を修復し、確認しようとしたところ、午後六時五分、本件患者はVT(心室頻拍)となり、以降、循環動態の計測は不能となって、午後七時一分死亡した。本件手術を通じての総出血量は二万〇四四五mlであった。本件患者の遺族の要望により、病理解剖は行われなかった。

五  本件手術後

(1) 被告人は、本件手術終了後病棟に戻るまでに、D医師と、出血が多い状態が続いたことが本件患者の死亡原因ではないかと話した。

被告人は、平成一六年○月○日午後九時ころ、D医師、看護師と共に、本件患者の遺族に手術経過を説明した後、本件患者の死亡診断書に、「(ア)直接死因 心室細動、(イ)(ア)の原因 出血性ショック、(ウ)(イ)の原因 妊娠三六週癒着胎盤帝切分娩、(エ)(ウ)の原因 不明」「直接死因に関係しないが、傷病経過に影響を及ぼした傷病名等はなし」、「死因の種類 病死及び自然死」と記載した。

(2) その後、被告人は、同日午後一〇時半ころ、D医師とともに、F院長に対し、本件手術の説明と報告を行った。

被告人は、本件患者に一回帝王切開の既往があったこと、前置胎盤であったこと、手術の経過としては、女児の娩出までは問題がなかったが、癒着胎盤であったこと、癒着部位は後壁であり、胎盤を剥離するときに上から剥離していったが、下方に用手剥離で進めていくと剥がれにくくなり、クーパーを使用して胎盤を剥離したが、大量出血が起きたこと、圧迫して止血した状態で血液の到着を待ち、状態が回復してから子宮摘出術を行ったこと、摘出が終わって閉じようとしたときに急に心室頻脈、心室細動となって、電気ショック三回を行ったが救命できなかったことを説明した。

また、D医師は、手術中に急に血圧が測れなくなったと思ってモニターを見たら心室頻脈であったことを付け加えた。

(3) a病院には、医療事故防止のための安全管理マニュアルがあり、同マニュアルによれば、病院長は医療過誤によって死亡又は障害が発生した場合又はその疑いがある場合には、速やかに富岡警察署に届出を行うことになっていた。F院長は、被告人らから上記報告を受け、さらに医療過誤の有無について確認した結果、医療準則に反する行為はなかったと判断し、警察署に対する異状死の届出をしなかった。

一方、被告人は、上記マニュアルにより病院長が異状死の届出を行うことになっていることを知らなかったが、自ら異状死について警察署に届け出ることはなかった。

(4) 同月二〇日には、F院長の意向により、安全管理マニュアルに基づき、本件手術の院内検討会が行われ、院長、副院長、外科部長、被告人、D医師、内科部長、事務長等が参加した中、被告人の説明が行われた。

被告人は、当該説明の中で、胎盤の付着位置は、大部分後壁であり、上から手で剥離していったが、下方になるにつれて剥離が難しくなってきたので、クーパーで剥離したというようなことを述べた。

第二任意性について

一  弁護人は、検察官調書における被告人の供述が任意性を欠くと主張し、概要、以下の理由を挙げる。

(1) 被告人は、多くの患者の診療を担当中で、近づいていた自分の子供の出産では自ら取り上げる予定であったところ、突然逮捕、勾留され、接見も禁止され、患者について引き継ぎ等もできず、心理的動揺が大きい状態におかれた。そのなかで、被告人に対し、二一日間にわたり連日の取調が実施され、その取調時間も一日最大九時間弱に及び、起訴前の一週間については、一日七時間から九時間に及ぶ取調が断続的になされた。

(2) 取調では、捜査官が、産科医療に関する基礎的な医学的知識を欠いたまま、誤った知識を前提に被告人に対し発問し、捜査官が思い描く供述を被告人がしない場合には、いらだち、声を荒げたり不機嫌となった。捜査官は、自らの医療知識を省みることなく、捜査官の希望する内容の調書の作成に終始し、被告人が調書の訂正を求めることは困難であった。

(3) 現に、被告人の供述調書中には、以下のとおり、客観的事実に反し、あるいは、基礎的医学知識の誤りが存在する部分がある。

①クーパーを胎盤剥離に使用することとなった経緯について、指が三本、二本、一本と入らなくなっていったとする部分があるが、客観的事実としては、胎盤剥離時には、手を手刀のようにして使用するため、指の側面一本分のみしか胎盤と子宮の間には入らないのであるから、上記のような三本、二本、一本という状況はあり得ない。

②被告人が本件手術中に行った超音波検査の結果については、胎盤が前回の帝王切開創にかかっているようなかかっていないような微妙な感じであるとする部分があるが、被告人は通常帝王切開する位置であると思われる部分を検査し、同部位への胎盤の付着を否定した上で手術を続行したものであるから、調書の内容は客観的事実に反する。

③本件帝王切開の際、胎盤のある部分を切っていたことが分かりましたとする部分があるが、これは事実とは異なる。

④被告人が過去に経験した帝王切開手術時における胎盤の用手剥離がスムーズにいかなかった例に関し、用手的に剥離困難となった時点で剥離を中止、直ちに子宮摘出に移っていたという供述調書と、剥離を継続した経験についての調書があるが、被告人は、過去の経験で胎盤の用手剥離を剥離途中で中止したことはなく、胎盤の剥離を継続したものであり、この点に関しても、自らが真実供述したものであれば、剥離を中断したなどと虚偽の内容の供述をする理由はない。

⑤子宮は癒着胎盤でなくとも血管で胎盤とつながっており、胎盤の娩出があれば通常の出産であっても子宮内の胎盤付着面から出血が見られるとする部分があるが、解剖学上、子宮は血管で胎盤とつながっていることはありえないので不自然である。

二  しかしながら、弁護人主張の各事情は、検察官が論証しているとおり、いずれも任意性を欠く理由とはならない。

(1) 被告人は、逮捕から起訴までの間、複数の弁護人と長時間にわたり接見し、防御に関する助言を受けていたと認められる。被告人は、このような状況の下で(第七回公判における被告人供述)、各供述調書の内容について、読み聞かせを受け、自ら署名指印している。このような事情が存在することを考慮すると、そもそも弁護人主張の各事情は任意性を疑わせるような具体的な事情とは認められない。

(2) 各事情について、一応、検討しておく。

ア 弁護人主張(1)の前半の心理的動揺の点については、これらの事実は、そもそもその内容自体に任意性を失わせる要素を含まない。

イ また、同後半の取調日数、取調時間等の点については、任意性を失わせるほどの長時間とは言えない上、適宜休憩を挟みながらの取調べであり(第七回公判における被告人質問)、その取調時間や態様から任意性が失われるとは認められない。

ウ 弁護人主張(2)については、被告人も同様の供述をする。しかしながら、そもそも、被告人の供述は抽象的であって、任意性を疑わせるに足りるだけの具体的な事実を述べていない。また、癒着胎盤の臨床的診断方法についての認識や考え方という重要な点について、被告人の求めに応じて訂正されている調書が存在しており、調書の訂正を求めることも困難であったとは認められない。

エ 弁護人主張(3)の具体例について

(ア) ①について

胎盤の用手剥離時に手を手刀のようにして使用する際の具体的方法として、P医師(以下「P医師」という。)は、当公判廷において、小指や薬指等の指先で探るようにしながら、子宮の壁と胎盤側の組織を剥離していく方法を述べている。したがって、被告人の検察官調書における供述のように、三本、二本、一本と入らなくなる事態も、一般論としてはあり得る。

(イ) ②について

弁護人の主張する「客観的事実」は、被告人の公判廷供述から認められる事実であることがうかがわれるが、捜査段階の供述内容がこれと齟齬しているからといって、信用性の判断は別としても、任意性が否定されるものではない。

(ウ) ③について

弁護人が事実に反する記載として主張する部分は、胎盤のある部分に帝王切開創が位置していることを示すQ医師の鑑定結果を表す写真を示されて応答したものであることが明らかである。したがって、当該記載は、被告人の供述の任意性を左右するものとは言えない。

(エ) ④について

弁護人が、虚偽の内容になっているとして挙げる部分は、被告人個人の体験というよりも被告人が過去に臨床経験を積んだ病院における取り扱いについて述べている部分であることが読みとれる。また、そもそも、胎盤の用手剥離開始後に剥離途中で中止している例を念頭に置いているか否かも明確ではないので、真実と異なる記載がされているとは評価できず、被告人の供述の任意性を左右するような内容ではない。

(オ) ⑤について

弁護人が不自然な内容が記載されていると主張する検察官調書は本件において証拠採用されておらず、弁護人が弁論において当該供述調書を正確に引用しているか否かも定かではないので、弁護人の主張を認めることはできない。

第三出血部位について

一  出血部位

本件では、以下に述べる手術経過等によれば、胎盤剥離開始後の出血のうちの大部分は、子宮内壁の胎盤剥離部からの出血と認めるのが相当である。

(1) 手術経過

ア 事実経過で認定したとおり、被告人は、本件帝王切開で、腹壁・子宮を切開し、児を娩出させた後、胎盤を剥離し、その後本件子宮摘出に移行している。したがって、出血部位として考えられるのは、①腹壁・子宮を切開した際の切開創、②胎盤剥離面、③子宮摘出の際の切断面や傷つけた膀胱等の三か所である。

イ この内、①腹壁・子宮を切開した際の切開創については、切開直後に流れ出る羊水を含む血液の量は通常よりも多量であったが、本件手術に加わった医師らの中で、当該切開創から強度に出血した旨証言する者はおらず、むしろC医師は、大量に出血しているところはなかった旨証言していることからすれば、当該部位からの出血量が多かったとは認められない。

ウ 他方、③本件子宮摘出の際に大量出血を招く原因が生じているか否かについては、本件子宮摘出中、被告人及びC医師は、膀胱を損傷しているが、同所からの大量出血は認められず、他に本件子宮摘出により大量出血を招くような事態が発生したこともうかがわれない。

エ 一方、②被告人が胎盤剥離を行った後、出血量は急激に増加し、胎盤剥離開始直後から本件子宮摘出に移行する前である午後四時一〇分から一五分ころまでの間に約一万mlの出血がある。この間、腹壁・子宮を切開した際の切開創はおおむね止血されていたと認められるから、胎盤剥離面以外で大量出血する部位が存在するとは考えにくい。被告人、D医師、C医師ら本件手術を担当した医師らも、胎盤剥離面以外からの出血には言及していない。

(2) R医師の鑑定結果

R医師(以下「R医師」という。)による鑑定(同医師の公判廷における証言、同医師作成の鑑定書からなるが、これらを併せて「R鑑定」という。)には出血部位という明確な鑑定事項はないが、死因の判断等の中で、出血部位について触れている部分があり、その概要は、以下のとおりである。

出血ショックの原因として、癒着胎盤をクーパーで剥離した時の出血以外に考えられる原因として、①帝王切開術における子宮壁の損傷に伴う大血管の断裂、②前置胎盤剥離面からの出血、③子宮の収縮不良による弛緩出血、④本件子宮摘出術における他の臓器の損傷あるいは骨盤内大血管の断裂が考えられる。子宮前壁の切開創の他に子宮の損傷はないので、帝王切開術における子宮組織の血管断裂の可能性は除外可能である。被告人がクーパーにより癒着胎盤の剥離を実施する前に既に出血量が二〇〇〇mlに達していたと推測されるが、その原因として弛緩出血の可能性も除外できないものの、通常弛緩出血は胎盤剥離後発生することあるいは前置胎盤では通常剥離面からの出血が多いことを考え合わせると、被告人が用手剥離した部分からの出血の可能性が考えられる。胎盤娩出後も、子宮摘出が決断されるまで約七〇〇〇mlの出血が記録されているが、これは胎盤をクーパーで剥離した切断端からの持続的な出血と考えられる。この出血の原因として、止血が十分でないことにDICが加わったことが考えられる。入院カルテには、本件子宮摘出の間、膀胱損傷が発生した他は、特別な所見は記載されていないが、出血量は午後四時一五分ころから午後五時一五分ころまで四九七〇ml増加している。この出血については、入院カルテの記載及び供述においても言及がほとんど見あたらないことに加えて、本件患者の解剖がなされていないことにより、この出血が新たな骨盤内の臓器損傷による出血なのか、あるいはDICを発症したための子宮全摘断端よりの出血なのかは判断できかねる。本件患者に認められた大量出血の一部分はDICあるいは子宮摘出における他臓器損傷による出血と考えられるが、大部分は胎盤剥離時点及び引き続いた胎盤剥離面からの出血によるものと考えられる。

(3) R鑑定の内容は、本件手術の経過から推測される出血部位に合致するものである。

(4) 以上からすれば、出血部位ごとに正確な出血量を計測することは不可能であるものの、総出血量のうちの大半が胎盤剥離面からの出血であると認められる。

二  次に、胎盤剥離中の出血の程度について、検察官は、遅くとも午後二時五五分ころまでに、本件患者の総出血量が五〇〇〇mlに達した旨主張し、弁護人は、その証拠はないと反論するので、ここで検討する。

(1) 麻酔記録には、総出血量として、午後二時五〇分から五五分ころまでに二五五五ml、午後三時五分から一〇分ころまでに七六七五mlの出血があったことを示す記載がある。

麻酔記録の総出血量の記載については、出血量の計測・記載のプロセスから、ガーゼの使用を開始した胎盤剥離後は、実際の出血状況が麻酔記録に反映されるまでに時間的遅れが生じるという点は、事実経過で述べたとおりである。しかし、本件手術開始から午後二時五〇分に胎盤が娩出されるまでの間はガーゼの使用はなく、C医師による吸引のみであったこと、二五五五mlとの記載は、午後二時五〇分から五五分の欄であることからすれば、前後数分の誤差を考慮しても、胎盤娩出時である午後二時五〇分時点での総出血量は二五五五mlを超えていないことが認められる。

次に、二五五五mlの記載がされた時点である午後二時五〇分から五五分の間は、胎盤娩出直後に止血のためにガーゼを使用していることからすると、最大五分間分の出血がガーゼに吸収され得るから、午後二時五五分ころの実際の総出血量は上記数値を超えていたことは認められる。

弁護人は、被告人が、剥離完了時までガーゼを使用していないことを理由として、総出血量二五五五mlの記載がされた午後二時五二、五三分時点の総出血量が上記数値である旨主張する。しかし、実際には、剥離完了後すぐにガーゼが使用されたと認められ、二、三分の経過に過ぎないといっても、その間出血があったのであるから、記載時点の総出血量は上記数値を超えていたとみるべきである。また、そもそも誤差があり得ることに鑑みると、午後二時五〇分から五五分の欄に記載された総出血量の数値は、胎盤娩出時点の総出血量が最大でも二五五五mlであるということを認める根拠とはなるが、それを超えて、午後二時五五分時点における総出血量についての批判として的確とは言えない。

(2) 次に、検察官主張のとおり、被告人が、医師記録に「剥離終了まで時間を要し、出血も多かった。約一五分。約五〇〇〇ml」「一四:五〇 胎盤娩出 出血量up、血圧down このあたりでbleeding五〇〇〇mlぐらいか」などと記載し、本件手術後、F院長に対し、胎盤娩出中の出血量増大を報告していることからすれば、被告人自身、本件手術終了直後には、胎盤剥離中に出血量が増大したとの認識を有していたと認められる。また、D医師が、胎盤剥離中に、本件患者の子宮内の広い範囲からわき出るように出血している様子を目撃し、C医師も、被告人がクーパーを使用し出してから出血量が増えたように感じた旨証言していることからも、胎盤剥離中に次第に出血量が増加してきたことが認められる。さらに、本件患者の血圧が午後二時五五分ころ急速に下降し、午後二時四五分には輸液をヴィーンFからヘスパンダーに切り替え、午後二時五四分ころから午後三時ころまでノルアドレナリンが使用されていることなどから、午後二時五五分ころには、本件患者の全身状態が急速に悪化する状態にあったと認められ、原因として、胎盤剥離中の出血量の増加を考えることができる。

(3) しかしながら、検察官が、五〇〇〇mlという具体的数字の根拠として挙げる医師記録の記載等からは、被告人が、胎盤娩出後程なくして五〇〇〇mlの報告を受けたことは推認されるものの、被告人が、実際には一三分以内である胎盤娩出に要した時間を、医師記録には約一五分と記載していることからみても、これらの記載は、被告人が事後の大まかな記憶に基づいて記載したに過ぎず、分単位での正確な記載とは言えないと考えるのが自然である。また、検察官は、J助産師が、MAPを持って手術室に到着した際、出血量が五〇〇〇ml出ていると聞いたことを根拠に挙げるが(弁一二四)、本件手術前から準備してあったMAPが輸血された時間は、午後二時五五分から午後三時ころであると認められるから、総出血量が五〇〇〇mlに達したのが、正確に午後二時五五分あるいはそれ以前であるとまで断定することはできない。

なお、弁護人は、J助産師が輸血を指示された後、階下の薬剤部から手術室まで血液製剤を搬入するのに要する時間を考えれば、同助産師が血液製剤を手術室に運んだのが午後二時五五分というのはあり得ない旨主張するが、そもそも同助産師が血液製剤の搬入を指示された時間が明らかではないので、当該主張を採用することはできない。

また、弁護人は、被告人が止血操作をしていたので、出血量は抑えられていたとも主張するが、午後三時五分から一〇分までの間には総出血量が少なくとも七六七五mlに達しているのであるから、被告人らの止血操作にもかかわらず出血量が増大したことは明らかであり、当該主張を採用することはできない。

(4) 以上によれば、胎盤剥離の最中に出血量が増加してきたこと、胎盤剥離完了時点の総出血量は二五五五mlを超えていないこと、その後も出血が継続し、遅くとも午後三時ころまでに総出血量が五〇〇〇mlに達したことは認められる。しかし、午後二時五五分に既に総出血量が五〇〇〇mlに達していたとまでは認められない。

第四本件患者の死因及び被告人の行為との因果関係について

一  当事者の主張

(1) 検察官は、R鑑定、手術直後の被告人の認識、D医師の認識から、本件患者の死因が出血性ショックによる失血死であり、被告人が胎盤剥離を継続した行為と本件患者の死亡結果との間には因果関係が認められると主張する。

(2) 弁護人は、本件患者の死因を出血性ショックによる失血死と確定することはできず、羊水塞栓あるいは産科DICにより死亡したとも考えられるので、被告人の行為と本件患者の死亡結果との間に因果関係は認められないと主張する。

二  以下、本件患者の死因及び被告人が胎盤剥離を継続した行為と本件患者の死亡との間の因果関係について検討する。

(1) R鑑定の内容

ア 本件患者の死因及び被告人の行為と本件患者の死亡との間の因果関係に関するR鑑定の概要は以下のとおりである。

本件患者の直接的な死亡原因は心室細動による心停止と判断可能である。本件手術前の諸検査結果及びカルテの記載に呼吸困難、脱力感等の記載が見あたらないことから、妊娠中から本件手術までの間に、本件患者が虚血性心疾患等の心室細動の原因となるような疾患を合併していたとは考えにくく、帝王切開術中にショック状態となり、心筋への血流が途絶、循環不全をきたし、心室細動に陥ったと考えるのが妥当である。妊娠中、分娩中、あるいは帝王切開術中にショック状態に陥る原因として、①不整脈、心筋梗塞等の心原性ショック、②出血による循環血液量減少性ショック、③羊水塞栓等の血管閉塞性ショック、④敗血症性ショック、アナフィラキシーショック等の血管拡張性ショックが挙げられる。このうち、心原性ショックは前記のとおり考えにくく、血管拡張性ショックについてもカルテの記載から判断する限りは考えにくい。血管閉塞性ショックについては、羊水塞栓特有の症状である呼吸困難、胸内苦悶の記載がカルテに見あたらないこと、及び羊水塞栓は陣痛開始後起こることが多いとされているが、本件は陣痛開始前に帝王切開術が実施されていることからすれば羊水塞栓症発生の可能性は低い。午後三時ころより体内循環血液量が極度に不足している状態が持続していることは、低血圧、極度の貧血状態、無尿状態にあることから明白である。以上からすれば、本件患者は、胎盤剥離時から本件子宮摘出中にまで継続した大量出血によりショック状態に陥ったと考えられ、他の原因は考えにくい。

イ 同医師は、産婦人科医として三〇年以上の経験を積んでおり、腫瘍を専門とはしているが、分娩にも携わっており、少なくともカルテ等から本件患者の死因を鑑定し得るだけの学識と経験を備えているものと認められる。そして、鑑定内容からは、同医師が、カルテ等の資料を十分に分析し、他の原因で本件患者が死亡した可能性の有無を慎重に検討した上で、結論を出していることがうかがわれる。その内容についても、以下のとおり、本件手術の経過にも合致し、本件手術直後の被告人及びD医師の判断とも合致している。したがって、R鑑定の死因についての部分は、是認できる。

(2) 手術経過

前記認定のとおり、本件手術においては、胎盤剥離直後に用意しておいた輸血を使用した後、追加注文したMAP等が輸血されるまでの一時間三〇分以上の間に、輸血のないまま約一万mlの出血があった。この間、血圧は低く、脈拍の高い状態が続き、追加注文したMAP等を輸血した直後に一旦は回復したものの、一五分程度で再度悪化し、さらに一時間近くの間、血圧は低く、脈拍の高い状態が続いた後、午後六時過ぎに心室頻拍、心室細動に陥っている。

このような本件患者の全身状態の推移からすれば、本件手術中に輸液や輸血が行われたことを考慮しても、本件患者の循環血液量の絶対量が不足していた状態が長時間継続していたことは明らかである。したがって、本件患者は、末梢組織に十分な酸素が供給されなくなり、不可逆的なダメージが及び、輸血により循環血液量が一時的に回復してもショック状態から回復できず、大量出血に起因する心室細動により死亡したとするのが自然である。

(3) 被告人の認識

被告人は、本件患者の死亡から間もない時点において、死亡診断書に出血性ショックと記載し、医師記録にも、癒着胎盤剥離部からの大量出血や、出血性ショックの急性輸血輸液から低体温となり心不全になった旨記載している。したがって、被告人も、本件手術終了直後には、本件患者は出血性ショックにより死亡したと判断していたことが認められる。

(4) D医師の認識

D医師は、当公判廷において、本件患者の死因について、出血が持続し、パンピングをしても血圧が上昇しなかったことなどから、出血性ショックであると考えられると証言している。

(5) 以上から、本件患者の死因が出血性ショックによる失血死であることは明らかである。

三  因果関係

上記のとおり、本件患者の死因が出血性ショックによる失血死であり、前述(第三・一)のとおり、総出血量のうちの大半が胎盤剥離面からの出血であると認められることからすれば、被告人の胎盤剥離行為と本件患者の死亡との間には因果関係を認めるのが相当である。また、前記のとおり、被告人も、医師記録に、癒着胎盤剥離部からの大量出血と出血性ショックと心不全が順次因果で結ばれていることを示す記載をしていることからすると、被告人の行為と本件患者の死亡との間の因果関係を肯定していたと認められる。

四  弁護人の主張について

(1) 弁護人は、羊水塞栓、産科DICの可能性を理由に、因果関係が認められない旨主張する。

しかしながら、弁護人が、羊水塞栓の兆候の可能性として挙げる本件患者の気分不快は、そのころ、本件患者の血圧が急速に降下し、最高四〇強―二〇弱にまで至っていることからすれば、D医師が証言するように、血圧低下による気分不快と解するのが相当である。また、被告人は、カルテに羊水塞栓の可能性を記載していないし、他に羊水塞栓をうかがわせる兆候はなく、R鑑定も羊水塞栓の可能性は低いと結論づけていることなどからすれば、羊水塞栓の可能性についての弁護人の主張を認めることはできない。

(2) また、産科DICについては、仮に本件患者が産科DICの状態に陥っていたとしても、その原因として、癒着胎盤剥離面からの大量出血以外のことは考えられないから、被告人が癒着胎盤を剥離した行為と、失血死の原因となった大量出血との間の因果関係が否定されるものではなく、弁護人の主張は失当と言える。

第五胎盤の癒着部位、程度について

一  当事者の主張

(1) 検察官は、本件患者の癒着胎盤が子宮後壁から前壁にかけての嵌入胎盤であった旨主張し、その根拠として、①Q医師(以下「Q医師」という。)の鑑定結果(同医師の公判廷における証言、同医師作成の鑑定書、捜査関係事項照会回答書からなるが、これらを併せて「Q鑑定」という。)の外、②現実に、本件患者の胎盤の用手剥離が不可能又は著しく困難な状態であり、胎盤剥離に通常よりも長い時間がかかっていることを挙げる。

(2) これに対し、弁護人は、S医師(以下「S医師」という。)の鑑定(同医師の公判廷における証言、同医師作成の鑑定書、鑑定書(追加)からなるが、これらを併せて「S鑑定」という。)を根拠に、癒着の部位は、子宮後壁の一部で、面積としては一〇×九cmの範囲であり、前回帝王切開創を含む前壁には存在しなかった上、絨毛の侵入の程度は、筋層全体の五分の一程度である旨主張する。

(3) なお、癒着胎盤とは、脱落膜の欠損ないし欠落により、胎盤絨毛が直接子宮筋層に接着している、あるいは子宮の筋肉層内に侵入している異常胎盤であり、絨毛の侵入程度によって、以下の三分類に類型化されている。

ア 狭義の癒着胎盤(楔入胎盤)placenta accreta

絨毛が直接子宮筋層表面に付着するが筋層内には侵入していないものを指す。

イ 嵌入胎盤 placenta increta

絨毛が筋層内に侵入したものを指す。

ウ 穿通胎盤(穿入胎盤、穿孔胎盤)placenta percreta

絨毛が筋層内を貫通して子宮漿膜面にまで及んでいるものを指す。

二  Q鑑定の結果

Q鑑定の内容は、要旨以下のとおりである。(標本番号については、別紙のとおりであり、「子宮割面」の写真のとおり並べられたAからHまでの八分割標本は、それぞれ右側が子宮前壁である。以降、標本番号については同様の表記をする。)

(1) 範囲

本件子宮を分割した標本一ないし三九から作成された断片を顕微鏡により観察し、絨毛組織が脱落膜を介さずに子宮筋層と接している場合を楔入胎盤と判断し、絨毛組織が子宮筋層に入り込んでいる場合を嵌入胎盤と判断し、癒着胎盤と確認された部分から癒着胎盤の範囲を推定すると、子宮後壁では摘出子宮の下半分にかけて、子宮前壁では(本件患者を正面からみて)中央から右寄りの子宮下部と中央から右寄りにかけての子宮体部となる。

具体的には、子宮前壁では、標本二九、三〇、三一、三三、三四が楔入胎盤、標本二四、二七が嵌入胎盤、子宮後壁では標本一、四、七、八、九、一〇、一一、一二、一四、一六、一七、一九、二二が楔入胎盤、標本三、一三、一八、二〇、二一が嵌入胎盤である。

(2) 前回帝王切開創との関係

子宮前壁の(本件患者を正面からみて)右寄り下部の標本二七から作成された顕微鏡標本MA―二七を観察した結果、縫合糸と、その周辺に膠原繊維が多く見られる瘢痕組織が確認された。組織の損傷があってから時間が経過した古い傷と考えられるので、その部位が前回の帝王切開創であると判断した。同標本は、嵌入胎盤である。

(3) 癒着の程度

胎盤残留部については、嵌入胎盤に該当し、本件患者の子宮に胎盤が残存している部分の子宮壁の厚さを同じ高さの他の部分の子宮壁と比較した結果、子宮筋層の約半分まで胎盤絨毛が子宮筋層内に侵入していると推定される。

三  S鑑定の結果

一方、S鑑定の内容は、要旨以下のとおりである。

(1) 範囲

ア 子宮前壁については、標本組織の観察に加え、肉眼的に本件胎盤の母体面右側(前壁側)部分に光沢のある脱落膜が観察されること、子宮切片の前壁内側部分が滑らかであることから、癒着胎盤は認められない。

子宮後壁については、癒着胎盤と考えられる部位は、本件胎盤の母体面中央左側(後壁側)部分にある。そのほかの部分は白く光沢があり、脱落膜が存在している。

イ 具体的には、標本三、四、七、八、一一、一二、一三、一九は楔入胎盤であり、標本一七、二〇、二一、二二は嵌入胎盤である。

ウ なお、本件帝王切開による切開創より子宮底部に近い前壁部分には、陳旧性の壊死絨毛が観察されるため絨毛膜無毛部であり、胎盤が付着していたとは考えられない。

また、後壁の標本六、九、一四、前壁の標本二四、二六、二七、二九、三〇、三一については、標本内のごく一部に絨毛が観察され、量もきわめて少なく、表面に浮遊する膜状の成分にごく一部が見られるものなので、他の部位からのアーチファクト(本件手術手技の過程や標本作製の過程で本来の場所から移動して別の場所に付着・混入したもの)の可能性を否定できない。

後壁の標本一〇については、絨毛が観察されるが、脱落膜があり、標本一八については、空隙の中に絨毛が観察されるので、アーチファクトを考える必要がある。前壁の標本三四については、本件帝王切開創の部分で、止血処置を含めた手術手技に伴うアーチファクトが生じる可能性が高く、また、脱落膜が存在する。

(2) 前回帝王切開創

ア 本件摘出子宮は子宮頸管を含めて子宮全部が摘出されていること、標本二七の切片が子宮の下部に位置していることからすれば、標本二七は子宮頸管部の組織標本であり、前回帝王切開創部分がある子宮体部ではない可能性が高い。

イ また、標本二七は、組織が二本の糸で絞られ、それぞれ糸の正反対の方向に空隙ができているが、本件患者の前回帝王切開時の糸の場合であれば、組織が糸を全部取り巻いてしまうのが普通なので、同標本に見られる糸は、比較的最近、すなわち本件手術の際の縫合糸という可能性がある。

(3) 程度

癒着胎盤と判断された顕微鏡標本を観察し、絨毛が子宮筋層のどの程度の深さまで侵入しているかで判断するのが通常であり、標本一七、二〇、二一、二二を顕微鏡観察すると、絨毛の侵入の程度は、筋層全体の五分の一程度である。これらの標本を肉眼的に観察してもほぼ同程度である。

四  検討

(1) 前提となる関連事実(既に認定した事実部分と重複する部分を含む)

まず、本件胎盤の付着位置、癒着状況に関しては、証拠《省略》から、以下の事実が認められる。

ア 本件胎盤の大きさは、短径約一一から二一cm、長径約二八cmほどの楕円形であった。

イ 本件胎盤は全前置胎盤であり、内子宮口を覆い、子宮前壁と後壁の双方にまたがって付着していた。

ウ 被告人が、臍帯を牽引して胎盤を剥離しようとしたところ、臍帯が付いている部分を頂点として子宮が反り返り、子宮後壁内側が胎盤とともに三角形の形に持ち上がる状態になった。したがって、胎盤は主に後壁に付着していたと推定される。

エ 本件胎盤の、より実質の多い部分が後壁側に、膜状の部分を挟んだ反対側が前壁側に付着していた。

オ 摘出された本件子宮の体部後壁(標本二一付近)には、長さ約二・八cm、幅約二・八cm、高さ約一cmの胎盤断片が残存し、子宮壁に付着していた。したがって、その上には間違いなく胎盤が付着していた。

カ 本件胎盤に切開跡はない。また、被告人は、児を速やかに、かつ、容易に取り出している。したがって、被告人が、本件帝王切開の際に切開した部分には、本件胎盤が存在しなかったことが推定される。

キ 被告人は、子宮後壁の上部(底部方向)から下部(頸部方向)に用手剥離を進め、途中から徐々に用手剥離がしにくくなったことから、クーパーを使用して剥離した。しかし、子宮口から前壁にかけての部分付近は、クーパー使用も用手剥離もしないのに剥離できた。

ク 被告人は、本件手術直後から、癒着と判断した部位については、子宮後壁が中心と述べ、あるいは記録に残している。

ケ 胎盤の娩出が通常十数秒から一、二分であるところ、本件では約一〇分を要している。

(2) 癒着部位について

ア Q鑑定について

(ア) Q鑑定によれば、子宮の後壁のうち、最も子宮底部付近に位置する標本一、九、一四等に癒着胎盤が認められるのと同時に、子宮前壁についても本件帝王切開創よりも子宮底部に近い標本二九、三三、さらには、本件帝王切開創の存在する部分に当たる標本三〇、三四、また前壁の子宮口に近い標本二七、三一にも癒着胎盤が認められる。

しかしながら、子宮の収縮が場所によって均一ではない可能性があることを考慮しても、前記の事実、とりわけ、本件胎盤の形や大きさ、本件帝王切開創部分と胎盤の位置関係、臍帯を引いたときの胎盤と子宮の形、本件胎盤の剥離時の状況等に関する事実のほか、妊娠末期の子宮の容量は五リットルで筋層の厚さが一・五cm、妊娠週数三六週の子宮は、標準的には子宮底長三〇から三六cmであり、子宮底部の方が膨らんだ縦長の形状であることに鑑みれば、Q鑑定が指摘する上記標本部分すべてに癒着胎盤があったかは相当に疑問であり、Q鑑定の結果をそのまま癒着胎盤が存在する範囲と認定することはできない。

なお、標本一、九、一四等に関しては、Q医師自身、当公判廷において、残留している絨毛組織が非常に少なく、明らかに胎盤が残存している箇所との連続性が明確ではないことを理由に、胎盤があったのか、癒着があったのかどうかという判断はできない旨述べるなどしている。

(イ) Q医師は、病理医として二三年の経験を積む病理診断の経験豊かな医師であるが、癒着胎盤の病理診断を行うのは本件が二件目であり、胎盤病理についての専門的な研究の経験はない。また、同医師は、再度の鑑定において当初の鑑定より癒着があったとする範囲を大きく広げているが、癒着の有無の決め手となる栄養膜細胞と脱落膜細胞を見分ける技量が、初めの鑑定書の段階と後の鑑定意見との間で違いがあることを自ら認めている。ここでQ医師の鑑定技量の当否を的確に判断することはできないが、同医師の癒着胎盤を鑑別する技量が完成されたものであるか否かについては疑問を差し挟む余地がある。また、同医師の鑑定方法は、標本の顕微鏡観察が中心であり、いわば純粋で機械的であって客観性は有するものの、胎盤の観察、臨床医の情報等を考慮していない。したがって、同医師の鑑定は、子宮筋層と絨毛の客観的な位置関係というレベルでは一応信用性が高いと評価できるが、その位置関係のみから癒着胎盤の範囲、程度を導き出せるかは疑問である。すなわち、上記のように他の事実と矛盾する結果となった場合は、結局、他の事実との整合性のある説明が求められることとなる。

イ S鑑定について

(ア) この点、S医師は、子宮片の肉眼的観察及び顕微鏡標本観察以外にも、本件胎盤の写真を鑑定資料に加えて、その肉眼的観察を行ない、アーチファクトを考慮するなどして鑑定結果を導いている。その結果、前記のとおり、子宮前壁の癒着を一切否定している。

(イ) S医師は、約二六年間で、摘出された子宮全体六〇例、子宮体部二八〇例、子宮頸部三七〇例の顕微鏡による病理診断を行い、その病理診断の中で二四例の癒着胎盤を診断している、いわば胎盤病理の経験豊富な専門家である。また、癒着胎盤の範囲や程度を鑑定するに当たり胎盤の肉眼的観察等の重要性を指摘し、上記のとおり胎盤が存在し得ない場所に絨毛が存在することにつき合理的説明を加えていることなどからすると、その鑑定手法の相当性や能力の高さは是認できる。

しかしながら、検察官の指摘にもあるが、S医師が参考としたのは、あくまで本件胎盤の写真に過ぎず、撮影時の光線の加減等により、胎盤の現物を観察することに比べて鑑定の正確性には自ずと限界があると考えられる上、現に、同医師が、脱落膜が欠落している部分として図示した範囲が、鑑定書と公判廷とで一部が異なり、異なっている部分の光沢と一致している部分の光沢に違いを感知できないことからすれば、本件胎盤の写真を根拠として癒着の有無を正確に判断することには困難が伴うと考えざるを得ない。また、同医師が、滑らかである部分としてあげた本件子宮切片内側部分は、本件子宮前壁のうちでも、Q鑑定においても癒着胎盤と判断されていない子宮底部にごく近い部分であることが鑑定書に添付された写真から認められる上、本件子宮の子宮前壁内側部分がすべて滑らかであると表現できるかは疑問の余地がある。

また、同医師は、鑑定書(追加)を作成する際には、改めて子宮片・顕微鏡標本の観察をしていない上、アーチファクトや標本二七が子宮頸部である可能性については、当初の鑑定で述べずに、鑑定書(追加)で初めて記載するなどしており、Q鑑定を弾劾する目的が過度に強調されているきらいがある。

ウ 以上を総合すれば、S鑑定は、Q鑑定と異なる部分について、Q鑑定に対し、合理的な疑いを差し挟む論拠を提供するには十分な内容を有しているものの、積極的にその結果のすべてを是認し得るまでの確実性、信用性があるかについては疑問の余地が残る。

以上の結果を具体的に示すと、Q鑑定が後壁の癒着胎盤と判断した標本から、S鑑定が一応合理的な理由を示して疑問を呈した標本を除いた標本については癒着胎盤があったと認められる。しかし、Q鑑定が癒着胎盤と指摘したその余の標本については確実な論拠を欠き、証拠上癒着胎盤とは認定できない。

(3) 前回帝王切開創について

ア 標本二七については、検察官指摘のとおり、同標本の湾曲等の形状と摘出直後の子宮の形状の比較、隣接する標本同士の断面の形状の比較を、肉眼で、各写真を用いて照合するだけで、容易に、今回帝王切開創の斜め直下に位置する湾曲部分の標本であると判断できる。S医師が指摘するような子宮頸部の標本である可能性はなく、子宮体部に位置するものであることは明らかである。

イ 標本二七が湾曲し、その湾曲部が左右に連続している上、その場所が今回帝王切開創と比べて若干子宮頸部に近い側であることからすれば、標本二七が前回帝王切開創部分付近であるとして矛盾はなく、被告人自身が、当公判廷において前回帝王切開創部分として指摘し、かつ、図で描いた部位(第七回公判)とも概ね合致する。

ウ 標本二七に見られる糸とその周囲の組織について、今回の手術の際の糸であるという弁護人の主張は、当該部分が子宮頸管部分であり、被告人が子宮動脈を結紮する際の糸であることを前提としているが、これは、前記のとおり、その前提が既に欠けているので採用できない。そして、S医師は、糸の周囲に膠原繊維があるとするQ医師の見解を否定するわけではなく、ただ古いとする根拠がないと述べるにとどまること、膠原繊維であるとすると組成されるまでに一定の時間の経過が必要であることなどを考慮すると、標本二七に見られる糸を前回帝王切開創の際の糸と見ることは不合理とは言えない。

エ 標本二七には絨毛の存在が確認され、Q医師は嵌入胎盤と判断している。しかし、同部分が用手剥離等によらず剥離できたとする剥離時の状況からすると、絨毛が観察されたことをもって、直ちに癒着胎盤と認めることは疑問が残る。前記のとおり、S医師は、標本二七については、癒着胎盤と評価することを否定しており、Q鑑定に対する弾劾としての機能はここでも妥当すると解される。

なお、前回帝王切開創部分に癒着胎盤があったか否かは、当事者双方が力点を置く部分であるので、さらに付言すると、標本二七部分の胎盤が容易に剥離ができたことは、後記のとおり、被告人が、本件手術以前に、前回帝王切開創への癒着を警戒していながら、本件手術後、癒着部分については医師記録に後壁が主である旨記載して前回帝王切開創への癒着を記載せず、F院長への本件手術経過の報告時を含め、一貫して前回帝王切開創への癒着を述べていないことからも裏付けられており、仮に、前回帝王切開創部分と推定される標本二七部分の胎盤が、病理学上の癒着胎盤と判断される余地があったとしても、そこでの癒着は、被告人が胎盤剥離中に癒着の疑いを持たない程度の癒着であったと考えられる。

(4) 癒着の程度について

ア 癒着の程度の数量的な計測については、Q鑑定、S鑑定とも、本件子宮の胎盤が残存している部分について、子宮筋層の厚み、残存胎盤の厚みなどを基礎資料として導き出している。その測定方法と結果は、それぞれ前述のとおりである。

Q鑑定は、胎盤絨毛が子宮筋層の中に入り込むと子宮の筋が消失するとの考えに立脚しているが、その消失の原因まで説明されているとは言えない。また、公判廷でQ鑑定の方法につき尋ねられたR医師が、聞いたことがないと述べていることなどからすると広く認知された方法かについても疑いがある。さらに、Q鑑定の方法で子宮に胎盤が残存している部分の子宮壁の厚さを同じ高さの他の部分の子宮壁と比較した場合、胎盤が残存していた部分は子宮の収縮が悪くなる可能性が高く、かつ、部分部分の収縮率を区々に算出する方法は指摘されていないから、正確な割合を算出するのは困難であり、誤差を含む。

一方、S鑑定の方法も、子宮収縮後の子宮の筋の厚さと、残存胎盤の厚さの比率は、収縮前の比率と同一ではあり得ず、また、子宮を切り出す方向により比較対照すべき子宮筋層全体の厚みが変わり得るので、やはり、正確な割合を算出するのは困難であり、誤差を含む。

イ 癒着の程度は、本件の争点の一つではあるが、本件の癒着胎盤が、ある程度子宮筋層に入り込んだ嵌入胎盤であることはQ、Sの両鑑定が一致するところである。両鑑定の差異が、その他の、剥離に要した時間、出血量等の客観的な要素、被告人の認識等の主観的な要素を総合して他の争点の検討をする場合に、その判断に質的な影響を与える可能性が大きいとは考えられない。したがって、ここでは一定の目安が提示できれば足りると考えることが可能であるから、両医師の鑑定方法を比較し、より、難点が少なく、簡明で理解しやすいS鑑定の結果に基づき癒着の程度を判断することとする。しかし、仮にQ鑑定の方法に依ったとしても、それを誤りと断ずる根拠もないから、他の争点を判断するに当たり、Q鑑定の結果を考慮する余地も残しておくべきと言える。

四  胎盤剥離の困難性と剥離に要した時間について

胎盤剥離開始後には可能であった用手剥離が次第に困難になり、被告人がクーパーを使用して胎盤剥離を継続したこと、胎盤の剥離に約一〇分と通常よりも相当長い時間がかかったことは、本件の事実経過で認定したとおりである。この事実は、癒着胎盤が広範囲に存在したこと、あるいは癒着の程度が相当に深いこと、あるいはその双方であることと矛盾せず、さらには根拠ともなり得る。しかし、癒着の広さ、深さを具体的な数値で表すことには役立たない。

五  結論

(1) 本件胎盤は、子宮に胎盤が残っている場所(本件患者から見て後壁右側)を含む子宮後壁を中心に、内子宮口を覆い、子宮前壁に達していた。後壁は相当程度の広さで癒着していたが、前回帝王切開創部分を含め、前壁に癒着があったことを認めるには合理的な疑いがある。

具体的な部位としては、少なくとも標本三、四、七、八、一一から一三、一六、一七、一九から二二の上には胎盤が付着し、少なくとも標本二〇、二一には嵌入胎盤、標本三、一三、二二には嵌入胎盤または楔入胎盤、標本四、七、八、一一、一二、一九には楔入胎盤が存在したことは認められるが、それ以上に具体的な箇所を認めることはできない。

(2) 癒着の程度は、嵌入胎盤であり、胎盤が残留し、かつ、最も癒着深度が深い子宮標本の断面を利用して計測した結果、絨毛の深さと子宮筋層全体の幅が約一対五程度であることが認められる。

なお、胎盤の癒着部位、程度に対する被告人の認識内容については、被告人の癒着胎盤の予見可能性のところで併せて検討する。

第六予見可能性について

一(1)  検察官は、被告人は、本件手術前の検査で、本件患者が帝王切開手術既往の全前置胎盤患者であり、その胎盤が前回帝王切開創の際の子宮切開創に付着し、胎盤が子宮に癒着している可能性が高いことを予想していた上、本件帝王切開の過程で、子宮表面に血管の怒張を認め、児娩出後には臍帯を牽引したり子宮収縮剤を注射するなどの措置を行っても胎盤が剥離せず、用手剥離中に胎盤と子宮の間に指が入らず用手剥離が不可能な状態に直面したのであるから、遅くとも自己の右手指を子宮と胎盤の間に差し入れて胎盤を用手剥離した時点で胎盤が子宮に癒着していることを認識したと主張する。

そして、被告人は、癒着胎盤を無理に剥がすと、大量出血、ショックを引き起こし、母体死亡の原因になることを、産婦人科関係の基本的な医学文献の記載等から学び、また、本件手術以前に、H医師から、帝王切開既往で全前置胎盤の患者の手術で二万ml弱出血した事例を聞かされていたのであるから、上記時点後に、胎盤の剥離を継続すれば、子宮の胎盤剥離面から大量に出血し、本件患者の生命に危険が及ぶおそれがあることを予見することが可能であったと主張する。

(2)  これに対し、弁護人は、被告人は、癒着胎盤であることを認識していなかった上、仮に癒着胎盤であることを認識したとしても、前置胎盤及び癒着胎盤の場合、用手剥離で出血があることは当然であり、出血を見ても剥離を完遂することで、子宮収縮を促して止血を期待し、その後の止血措置をするのが我が国の医療の実践であるから、大量出血を予見したことにはなり得ないと主張する。

二  癒着胎盤の予見、認識及び大量出血の予見の双方に関係する癒着胎盤の発生頻度、リスク因子、診断等についての一般論、概要は、医学文献及び当公判廷における医師らの供述によれば、以下のとおりである。

(1) 頻度、リスク因子

ア 癒着胎盤は床脱落膜の欠損により起こり、二〇〇〇から四〇〇〇例に一例発症するとの報告がある。

イ 脱落膜の形成不全を起こす素因として、前置胎盤、帝王切開、子宮筋腫などがあるため、癒着胎盤を発症しやすいリスク因子としては、前回帝王切開既往、前置胎盤(子宮下部は脱落膜がないか、あるいは薄いため)が挙げられる。

これらのリスク因子の中でも帝王切開既往が最も多く、二〇から三〇パーセントが次回妊娠時癒着胎盤となる可能性を持つとの文献もある。特に、前回帝王切開既往の子宮前壁(子宮創部)付着前置胎盤は、高頻度で癒着胎盤となるが、その原因としては、帝王切開瘢痕部付近は脱落膜が乏しく、その部分に着床した場合、筋層内への絨毛侵入につながりやすいためであると考えられている。前置胎盤で癒着胎盤となる頻度は五パーセントであるが、前回帝王切開の前置胎盤では二四パーセントとなるとの報告もされている。

(2) 診断等

ア 癒着胎盤である可能性は、ほとんどの場合、分娩第三期(児娩出から後産娩出まで)における胎盤娩出困難で疑う。なお、この点については、胎盤を剥がしてみて出血が止まらないというものも臨床的には癒着胎盤というとの証言もあり、被告人自身も出血量をより重視する考え方について言及している。

もっとも、癒着胎盤であるか否か、及び癒着の程度は、摘出子宮の病理検査により確定的に診断され、顕微鏡的な観察以前に癒着胎盤の三分類を確定的に診断することは不可能である。

イ 妊娠中の診断

(ア) 妊娠中は、超音波断層法、カラードプラ法、MRI検査などを用いて診断を行う。

超音波断層法を用いて癒着胎盤を診断する場合、胎盤直下の脱落膜と筋層に相当するsonolucent zoneの消失、胎盤付着部位の子宮筋層内に拡張した血管像を認める場合、胎盤内やその周辺に著明に拡張した絨毛間腔(placenta lacunae)の存在が診断に有用であるという報告がある。超音波検査では、胎盤直下の脱落膜や筋層に相当する部分の消失が診断に有用であるが、false positive, negativeの率も高い。胎盤付着部位の子宮漿膜や膀胱壁が薄くなっていたり不整な場合は、嵌入胎盤や穿通胎盤の疑いがある。

カラードップラ法は、胎盤内やその周囲の著明な血管像内に周囲の筋層や組織に向かう血流の存在を診断するのに有用とされる。

MRI検査で癒着胎盤を疑わせる所見として、子宮筋層の不整、欠損、絨毛の子宮筋層への侵入像などが挙げられ、特に、超音波診断が難しい児娩出後の診断や子宮後壁付着の癒着胎盤の診断に有用であるとの報告がある。しかしながら、MRIを用いた妊娠中の癒着胎盤の診断は胎児が動くため鮮明な画像が得にくく、一般的ではない上、超音波断層法やカラードップラ法以上の所見が得られることは少ないともされている。

(イ) その他、子宮下部前壁に付着した穿通胎盤で膀胱へ穿通した場合、膀胱鏡により絨毛組織の膀胱壁への侵入が確認されることがある。

また、少なくとも、胎盤組織が子宮筋層に入り込んでいて、子宮の外側から見えるような明らかな穿通胎盤であれば、子宮切開前に子宮をみて、肉眼的にある程度診断可能である。

(3) 出血等との関連性

癒着胎盤は、適切に対応しなければ子宮収縮不全による大量出血をきたし、母体死亡の原因となるとする文献、嵌入胎盤、穿通胎盤の場合や広範囲の楔入胎盤の場合、大量出血の可能性が高いとする文献、無理に剥がすことにより、大量出血、ショックとなり、母体死亡の原因の一つであるとする文献がある。

出血量、死亡率については、穿通胎盤などでは輸血量が五〇〇〇mlを超えることもあり、子宮摘出が必要となる癒着胎盤症例の出血量は、平均三五〇〇ml(九〇〇から二一〇〇〇ml)との報告や、母体死亡率は二五パーセントであるとの報告があるとする文献もある。

三  被告人の癒着胎盤の認識について

前述のとおり、本件においては、子宮前壁に癒着胎盤があったことを認めるに足りる証拠はなく、癒着胎盤が確実に存在したと認められるのは子宮後壁のみである。したがって、子宮前壁について、被告人の癒着胎盤の有無に関する予見や認識を問題とする実益は乏しい。しかしながら、検察官の主張するところに従い、一応、癒着に関する被告人の予見、認識を、子宮前壁に関するものも含めて検討しておく。

(1) 被告人の本件手術直前の予見、認識

ア 本件手術に至るまでの経過は事実経過で認定したとおりであるが、被告人の本件手術前の予見、認識にかかわる部分を要約する。

被告人は、平成一六年一二月三日には、癒着胎盤の可能性を医師記録に記載し、同月一三日には、胎盤が(本件患者自身から見て)左寄りにあり、切開場所を右寄りにU字型にとることを意味する略図を医師記録に記載し、B、D、Cの各医師に対して、癒着の可能性を述べ、本件手術の数か月前に前置胎盤患者の手術を無事に行っているにもかかわらず、これまで応援要請をしたことのないB医師に応援要請をするなど、通常の前置胎盤患者の帝王切開手術以上に慎重な態度をとっていたことがうかがわれる。しかし、同時に、他方では、本件手術前の諸検査結果の中に、癒着胎盤を明確に裏付ける結果は残されておらず、被告人が現実に用意した輸血量は、通常の前置胎盤の場合の準備血の量に止まっている。

イ 以上の事実経過に照らすと、被告人は、検察官調書で述べるとおり、本件手術直前には、本件患者から見た場合に、胎盤は左側部分にあり、前回帝王切開創の左側部分に胎盤の端がかかっているか否か微妙な位置にあると想定し、本件患者が帝王切開手術既往の全前置胎盤患者であることを踏まえて、前壁にある前回帝王切開創への癒着胎盤の可能性を排除せずに手術に臨んでいたが、癒着の可能性は低く五パーセントに近い数値であるとの認識を持っていたことが認められる。

ウ この点、弁護人は、被告人は、本件患者の胎盤が前回帝王切開創に付着している可能性も、癒着胎盤を発症していた可能性も認識していなかった旨主張し、被告人も、公判廷で、かかる認識はなかった旨供述し、B医師に対して癒着の可能性を示唆したのは、応援要請を断られないように大げさに述べただけであるなどと、弁護人の主張に沿う供述をする。

しかしながら、被告人は、D、Cの両医師にも癒着の可能性について述べており、その後これを翻すような説明をした形跡はないこと、共に手術に臨む予定の両医師に対して、誇張あるいは虚偽を述べたり、自己の見解が変化した場合にこれを全く告げないということは考えがたいことからすれば、被告人の供述は信用できない。

(2) 被告人の本件手術開始後の予見、認識

ア 血管の怒張について

検察官は、癒着胎盤の特徴として、子宮表面に暗紫色の血管の怒張が見られることを挙げ、本件でも、本件患者の子宮前壁の表面に血管の怒張が認められ、被告人もこれを確認していると主張する。

しかしながら、事実経過で認定したとおり、血管の太さは男性の手の甲の静脈くらいの幅の静脈が数本、網目状に走行し、怒張していたものであり、被告人は、これにつき前置胎盤患者によく見られる血管であり、癒着胎盤の兆候としての血管の隆起とは異なると診断している。

癒着胎盤の兆候としての血管怒張については、P医師の証言によれば、胎盤が子宮の壁を突き抜けて子宮の表面に胎盤の裏側が見える現象であり、ごつごつした感じの強い構造物で一般に見るような血管とは異なった血管であると認められるから、被告人の診断に不自然なところはない。

また、そもそも、前述のとおり、子宮前壁に癒着胎盤の存在は確認されていない。

イ 術中超音波検査実施後のU字切開について

検察官は、被告人が(本件患者から見て)子宮の右寄りを切開しているのは、被告人が、子宮左寄り下部、すなわち前回帝王切開創の瘢痕部と思われる箇所に胎盤がかかっていることを確認し、その場所を避けるため、予定していた箇所を切開したと見るべきであると主張し、これは、被告人が術前の超音波検査により子宮前壁にどの程度胎盤がかかっているのか判断できていなかったことの表れであり、被告人が癒着胎盤の可能性があることを認識していた根拠になるとする。

確かに、被告人が術中超音波検査で胎盤の癒着の有無まで確認したことを認めるに足りる的確な証拠はない。被告人が公判廷で癒着の有無を確認したと述べる部分もあるが、具体性がなく、他では胎盤の辺縁部分を確認するためなどと述べていることからすると、被告人が胎盤の癒着の有無まで確認したとは認めがたい。

しかしながら、医師記録の記載等からは、被告人は、術前からU字切開する予定であったことが認められ、現実に、U字切開をしているのであるから、前述のとおりの術前の癒着の可能性の程度に関する認識がここで変化したと見ることもできず、本件手術前の被告人の予見、認識がこの段階まで維持されていたという意味しかないと言うべきである。

ウ 胎盤の用手剥離を試みたが、胎盤と子宮の間に指を入れることができなくなったことについて

(ア) 検察官は、被告人は、子宮収縮剤の注射、臍帯牽引、マッサージ等の処置をしたが、胎盤は子宮内壁から剥離しなかった。その後、子宮後壁の用手剥離を開始し、始めは胎盤と子宮の内壁との間に容易に指先を差し入れることができたが、徐々に差し入れることができなくなり、用手剥離が不可能な状態になった、被告人は、遅くとも、この時点で、胎盤が子宮に癒着していることを認識したと主張する。

(イ) これに対し、弁護人は、被告人が癒着を認識したのは、本件患者が癒着胎盤であるとの疑いをもった時点であり、それは、被告人の供述によれば、剥離がしにくくなってきて、クーパーを併用するようになった時点であると主張する。

(ウ) 当事者間の表現には微妙な違いがあるが、当事者双方とも、剥離がしにくくなった時点をもって、被告人が、癒着胎盤に対する処置を考えてしかるべき事態に直面したと捉えていると言える。

癒着胎盤の確定診断は、子宮摘出後の病理診断をもってなされるが、胎盤の用手剥離が困難又は不可能となった場合には、臨床的に癒着胎盤と診断することが可能であり、被告人も、検察官調書では、上記時点で癒着胎盤である可能性がある程度高いと思っていた旨述べ、確定的とまでは言えないものの、癒着の認識があったことを認めている。

(エ) したがって、被告人は、用手剥離中に胎盤と子宮の間に指が入らず用手剥離が困難な状態に直面した時点で、本件患者の胎盤が子宮に癒着している認識をもったと認めることができる。

もっとも、前回帝王切開既往の子宮前壁(子宮創部)付着前置胎盤が高頻度で癒着胎盤となる原因は、帝王切開瘢痕部付近は脱落膜が乏しく、その部分に着床した場合、筋層内への絨毛侵入につながりやすいためであると考えられているところ、この原因は子宮後壁に当てはまらないのであるから、前壁の癒着の予見、認識が、段階的に高まって胎盤剥離中の癒着の認識に至ったと考えることはできない。

四  大量出血の予見可能性について

癒着胎盤を無理に剥がすことが、大量出血、ショックを引き起こし、母体死亡の原因となり得ることは、被告人が所持していたものも含めた医学文献に記載されている。通常の胎盤では、胎盤剥離の際に脱落膜から剥離して、その後の子宮収縮によって血管の止血効果が働くのに対し、癒着胎盤を剥離した場合は、絨毛組織が直接筋肉に接しているため、剥離した部分の絨毛間腔から出血する。また、癒着により子宮筋の厚さが薄くなっているため、子宮収縮が悪くなり、収縮による止血が働きにくいことにより、出血多量となるおそれがあると説明されている。したがって、癒着胎盤と認識した時点において、胎盤剥離を継続すれば、現実化する可能性の大小は別としても、剥離面から大量出血し、ひいては、本件患者の生命に危機が及ぶおそれがあったことを予見する可能性はあったと解するのが相当である。

この点、弁護人は、冒頭で述べたとおり、前置胎盤や癒着胎盤の場合、用手剥離で出血があることは当然であり、出血を見ても剥離を完遂することで、子宮収縮を促して止血を期待し、その後の止血措置をするのが我が国の医療の実践であるから、癒着胎盤であることを認識したとしても、このことから、大量出血を予見したことにはなり得ないと主張する。

しかしながら、止血行為は、単なる剥離行為に止まらないから、止血の問題は、当該ケースにおいて、止血を期待して剥離行為を行うのが医療水準として相当か否かの問題、あるいは、結果回避義務の問題として検討する。

したがって、ここでは、被告人が、癒着胎盤である可能性を認識したことをもって、大量出血の予見は可能であると解することで次に移る。

第七被告人が行った医療措置の妥当性・相当性、結果を回避するための措置として剥離行為を中止して子宮摘出手術に移行すべき義務の有無について

一  当事者の主張

(1) 検察官の主張

被告人は、遅くとも用手剥離中に本件患者の胎盤が子宮に癒着していることを認識し、その時点で、剥離を継続すれば胎盤剥離面から大量に出血し、その生命に危険が及ぶおそれがあることを予見することが可能であったのであるから、被告人には、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行し、大量出血による本件患者の生命の危険を未然に回避すべき注意義務があった。胎盤剥離を中止し、子宮摘出手術等に移行することが本件当時の医学的準則である。被告人には、胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行せず、クーパーを使用して漫然と胎盤の癒着部分の剥離を継続した点において過失が認められる。

(2) 弁護人の反論

検察官が主張するような医学的準則はない。被告人は、胎盤剥離後の子宮収縮、及び、その後の止血措置により出血を止めることができることを期待して胎盤剥離を継続したものであり、このような被告人の判断は、臨床医学の実践における医療水準にかなうものであり、被告人の術中の医療処置は、本件の臨床現場における医師の裁量として合理的であり、妥当かつ相当である。

(3) この争点については、さらに論拠が細分されるので、以下、検察官の挙げる論拠を、弁護人の反論を踏まえつつ検討する。

二  子宮摘出手術等への移行可能性について

(1) 検察官は、被告人が、胎盤が子宮に癒着していることを認識した時点で、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行することは可能であったと主張し、その論拠として、①被告人は、帝王切開から子宮摘出に速やかに移行し得るよう、子宮摘出手術が容易な砕石位とし、子宮摘出手術に必要な輸血用製剤を準備し、手術に立ち会う看護師や麻酔医等に対しても、子宮摘出手術への移行可能性を告げていたこと、②本件患者らに子宮摘出の同意を得ていたし、癒着胎盤を認識した時点においては、本件患者に全身麻酔がかかっていなかった上、手術室の外には親族が待機していたことなどから、子宮摘出同意の再確認は容易であったこと、③午後二時四〇分ころは、本件患者の血圧は一〇〇強―五〇強、脈拍は一一〇弱、総出血量約二〇〇〇mlであり、全身状態の悪化はなく、子宮摘出に耐えられたこと、④胎盤を子宮内に残しても、子宮摘出手術は可能であること、⑤仮に、本件患者らが子宮温存を強く希望した場合でも、胎盤剥離を中止して閉腹し、抗ガン剤を投与して絨毛組織を変性させる保存的治療法を実施することが可能であり、被告人もその方法を知っていたことを挙げる。

(2) これに対し、弁護人は、血圧、脈拍が悪化しておらず、総出血量も二〇〇〇mlの状態で、子宮摘出を行えば、それ自体が医療過誤になる、あるいは、胎盤を残したままでの子宮摘出の実行は臨床の実践では行わず、胎盤の用手剥離を開始した場合は、これを完遂させることが、我が国の臨床医学の実践であり、胎盤の用手剥離をせずに子宮摘出に移行するのは、術前に癒着胎盤の診断ができており、かつ、患者が妊孕性の維持を希望していない場合及び開腹後一見して明らかに癒着胎盤である場合に限られるなどと反論する。

(3) 検討

ここで検察官が主張する移行可能性は、単に、移行が可能か不可能かという問題であり、移行が相当か否かはとは次元を異にすることがらである。したがって、弁護人が、臨床医学の実践とは異なる旨の主張を展開する部分は、この場面での批判としては的を得ていない。これらの点は医学的準則の問題等として検討すべきことがらである。単なる移行可能性自体は、事実経過として認定した事実及びR鑑定等から認めることができると言うべきである。この点は、P医師も、本件患者の状態はまだ悪くなく、いい状態なので、子宮摘出は可能である旨証言している。

なお、弁護人は、胎盤の剥離を完遂させた方が、子宮摘出をしやすいと主張し、その論拠として、子宮摘出をするには、子宮下部にある子宮動脈の結紮及び切断の処置をしなくてはならないが、前置胎盤の場合、胎盤が子宮下部に付着しているため、胎盤を子宮下部に残したままでは、手術操作をする術野が狭くなり、子宮動脈の結紮等の操作がしにくいこと、とくに、本件患者の胎盤は、通常と比べてかなり大きいことを上げる。確かに、P医師の証言等から上記の事実は認められるが、これは手術操作が不可能とまで指摘するものではなく、結局は、胎盤を子宮内に残したまま子宮摘出術を行うことは、通常の医療措置ではないと主張するところに力点がある。したがって、移行可能性自体を否定するまでの論拠にはならないと言うべきである。

また、T医師は、午後二時四〇分から四五分にかけて血圧は八〇―四〇と低下している、その数分後も出血が続いているわけであるから、何らかの操作で一時的にも止血を図ることが第一で、この時点で止血操作もなく子宮摘出に移ることはさらに危険を増す、急激に全身状態は悪化してきているので応急止血を行い、十分な血液を確保してから子宮摘出を行うことが妥当である旨鑑定意見を述べるが、検察官の主張の時点より微妙に遅い時点を捉えているものであり、的確な否定の論拠となっていない。

三  移行等による大量出血の回避可能性

(1) 検察官は、被告人が、胎盤が子宮に癒着していることを認識した時点で、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行していれば、胎盤剥離からの大量出血は回避できたと主張し、その論拠として、被告人のクーパー使用による剥離により、子宮後壁下部からの出血が急増したのは、無理な剥離で子宮内壁の動脈が子宮内壁に向けて開放された状態になったためと認められること、被告人の癒着認識時点ではこのような状態になっていなかったことを挙げる。そして、さらに、この癒着認識時点では、いまだ胎盤の大部分の剥離が終了していなかった上、速やかに子宮摘出手術等に移行することが可能な状態であったから、胎盤剥離を中止して子宮摘出手術に移行した場合に予想される出血量は、胎盤剥離を継続した場合に予想される出血量と比較して著しく少なかったと言えると主張する。

(2) これに対し、弁護人は、用手剥離は、多かれ少なかれ胎盤剥離面からの出血を伴い、正常分娩であっても、子宮収縮が悪ければ、出血は多くなり、胎盤剥離中にかなりの出血量に達することもあること、本件患者は、前置胎盤であり、胎盤の付着する子宮下部はもともと子宮の収縮が悪いため、胎盤剥離面からの出血は多くなり、胎盤の剥離にも通常より多くの出血を伴うのは当然であることから、胎盤剥離中の出血は、胎盤剥離を中止する理由にはならないと反論する。さらに、胎盤が残留していると子宮が収縮しにくいので、結果的に出血が止まるということは考えにくいから、胎盤剥離途中で剥離を中止しても出血は止まらないと反論する。

(3) 検討

確かに、弁護人の指摘するとおり、正常分娩でも出血が多くなることがあり、また、前置胎盤の場合は、通常の位置に付着した胎盤よりも剥離後の出血が多くなる傾向にあることは、P医師の証言等から認められる。しかし、同時に、同医師は、前置胎盤だけの場合と、そこに癒着胎盤がある場合では、癒着胎盤があるほうがはるかに出血量が多くなること、また、臨床的に癒着胎盤との診断に至るには、通常の出血よりも多く、剥離後なかなか出血が止まらないことも一つの要因になり、出血の仕方が通常の胎盤剥離後とは異なると証言する。またU医師も、臨床的には、胎盤を剥離してみて出血が止まらないというものも癒着胎盤といっているので、胎盤を剥離した時点で出血が多くなること、また、癒着胎盤では、自己の経験としても五〇〇〇から六〇〇〇mlの出血があったことを証言している。さらに、同医師は、出血が多くなる理由として、癒着胎盤では脱落膜が欠損していて、絨毛組織が直接子宮筋に接している、又は侵入しているので、癒着部分を剥離した場合に欠損ができ、そこからの出血が多いと述べる。

以上から、一般論として、通常の胎盤剥離の出血量よりも前置胎盤の剥離の出血量の方が多く、それよりもさらに前置胎盤と癒着胎盤を同時に発症している胎盤の剥離の出血量の方が多いということができる。

ここで、検察官が被告人の胎盤癒着認識時点とするのは、クーパー使用開始直前時点と置き換えることができるが、このころまでに被告人が用手剥離によって剥離を終えていた胎盤は、被告人が捜査段階及び公判廷で胎盤の写真に記入したところによれば、後壁部分と考えられる部分のおよそ三分の二程度であり、胎盤全体との関係では三分の一強程度である。この剥離部分は、被告人の供述等によれば、用手剥離で剥離できた部分で、そこからの出血はあまり見られず、出血が多かったのは、その後、被告人がクーパーを使用して剥離した後壁下部であったこと、用手剥離できた部分は、後壁の上の方に付着していた部分であり、病理学的にも癒着胎盤と認める根拠に乏しい部分であることから、この剥離部分からの出血量は、いわゆる通常の胎盤の剥離の場合の出血量と同じ程度と推認される。

そうすると、胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行した場合に予想される出血量は、胎盤剥離を継続した場合である本件の出血量が事実経過で認定したとおり著しく大量となっていることと比較すれば、相当に少ないであろうと言うことも可能であるから、検察官の主張は、不確実な要素を多分に含むものの、一応の合理性が認められる。したがって、結果回避については、単なる可能性の有無というレベルに止まるが、結果回避可能性が有ったとすることの証明はなされていると解するのが相当である。

なお、P医師は、鑑定意見書では、胎盤剥離作業の途中で用手剥離を中止することが、大量出血を防ぐことにつながるかどうかは、現実には予測不可能である、あるいは、本症例のように手術途中ですでに胎盤剥離作業が開始された後に癒着胎盤が発見された場合には、剥離を中止するよりも、速やかに剥離を終了して、子宮摘出に移る方が総出血量が少なくてすむ場合が多いと思われると述べている。しかし、この鑑定意見は、癒着を認識した時点での術者の予見や当為に関して述べられたものである。事後的に結果から見た場合については、同医師も、公判廷で、用手剥離を中断して子宮摘出に移れば救命可能性があったとするR医師の証言についての考えをきかれ、後方視的にみれば、そういうことが言えると思うと証言している。これは、本件では、事後的評価としては、結果回避可能性があったことを認めるものと解される。

四  医学的準則及び胎盤剥離中止義務について

(1) 検察官の主張

検察官は、移行可能性と回避可能性がいずれもあることを前提とした上、さらに、胎盤剥離を継続することの危険性の大きさ、すなわち、大量出血により、本件患者を失血死、ショック死させる蓋然性が高いことを十分に予見できたこと、及び、子宮摘出手術等に移行することが容易であったことを挙げ、癒着胎盤であると認識した以上、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行することが本件当時の医学的準則であり、本件において、被告人には胎盤剥離を中止する義務があったと主張する。そして、上記医学的準則の根拠として、医学文献及びR鑑定を引用する。

(2) 弁護人の主張

検察官は、胎盤剥離を中止した症例の存在を一例も立証していない。癒着胎盤で胎盤を剥離しないのは、①開腹前に穿通胎盤や程度の重い嵌入胎盤と診断できたもの、②開腹後、子宮切開前に一見して穿通胎盤や程度の重い嵌入胎盤と診断できたもの、③胎盤剥離を試みても癒着していて最初から用手剥離ができないものである。用手剥離を開始した後は、出血をしていても胎盤剥離を完了させ、子宮の収縮を期待するとともに止血操作を行い、それでもコントロールできない大量出血をする場合に子宮を摘出することになる。これが我が国の臨床医学の実践における医療水準である。

(3) 移行可能性、回避可能性については、既に検討したとおりである。ここでは、検察官の主張する、危険性が大きいか否か、すなわち本件患者を失血死、ショック死させる高い蓋然性が予見できたか否か、並びに、医学的準則及び胎盤剥離中止義務の存否を検討する。

ア 検察官は、次のとおり、詳述する。

(ア) 医学文献には、癒着胎盤の無理な剥離はしない旨記載されており、癒着胎盤を無理に剥がすと、剥離面から大量に出血することが知られている。被告人が癒着胎盤を認識した時点で、胎盤を剥離すれば胎盤剥離面から大量出血が起こることは十分予見可能であった。現に、胎盤剥離を継続したことから、児娩出から約三〇分の間に約七〇〇〇ml以上、最終的には二万mlを超える大量出血をしている。このように、短時間の間に大量の出血が見込まれ、癒着胎盤剥離の止血が困難であることに加え、人員体勢や準備輸血量をみると、産婦人科医は癒着胎盤症例を取り扱ったことのない被告人のみであり、助手のC医師は、産科医療の経験が不足しており、用意してあった輸血量はMAP五単位にすぎず、追加輸血は、発注しても一時間以上かかるという状況であったのであるから、大量出血により、本件患者を失血死、ショック死させる蓋然性の高さは十分予見できた。また、子宮摘出手術等に移行することは、前記のとおり可能であるとともに容易であった。

(イ) また、R鑑定は、①用手剥離が困難であった時点で癒着胎盤の診断を行い、子宮摘出を行う必要があり、クーパーでの胎盤剥離は行うべきではなかった、②子宮摘出に移行していれば結果回避は可能だった、③癒着胎盤の対応を誤れば取り返しのつかない重篤な状態に陥るのは容易に想像可能であり、本件結果を十分予見して処置を行う必要があったとして、検察官の主張に沿う内容となっている。

イ これに対し、弁護人は、用手剥離を開始した後は、出血していても胎盤剥離を完了させることの根拠として、以下の主張をする。

帝王切開後、用手剥離を始めるとすぐに出血が始まる。子宮収縮が悪ければ、出血は多くなり、胎盤剥離中にかなりの出血量に達することもある。胎盤が残存していると、子宮が収縮しにくいので、出血が止まることは考えにくい。

そこで、第一に、胎盤を剥離することで子宮が収縮し止血に至ることが期待できる。胎盤剥離面からの出血を抑えるためには、子宮内部の局所的な収縮ではなく、子宮全体の収縮を図ることが大事であり、子宮内部に胎盤が残存していれば子宮収縮が困難となる。この点から、胎盤を娩出することが優先される。第二に、止血には、胎盤が剥がれたところを実際に見て止血操作をしなければならないが、胎盤を子宮内部に残したままでは、ガーゼ充填や縫合等の止血操作が困難である。そこで、胎盤の剥離を完遂させてから、止血操作を行うことによって出血が収まることを期待する。第三に、止血が困難となり、子宮摘出に移行する場合、特に前置胎盤症例では、前記二(3)のとおり子宮下部に付着する胎盤が摘出操作の障害になるため、胎盤が付着したままでは、子宮摘出を行うことは困難である。

検察官が拳げる医学文献の記載は、盲目的操作によらざるを得ない経膣分娩についてのものであったり、用手剥離開始前に判明した穿通胎盤を前提に述べているもの、あるいは、超音波検査の結果、術前に癒着胎盤が診断できた場合について記述したものなどであり、また、用手剥離開始後の中止については、何の記述もなく、いずれも、胎盤剥離を途中まで行い、剥離部分から出血が始まっているのに、止血措置をせずに子宮摘出をせよという検察官の主張を裏付けるものではない。

公判廷で証言した産科専門医は、それぞれ、剥離を開始したら中止せず、剥離を完遂すると証言しており、用手剥離を開始した場合、剥離を中止せず完遂させることが我が国の臨床医学の実践における医療措置であることが根拠付けられている。

ウ 産科の臨床における医療措置

まず、産科の臨床医学の現場の医療措置について、証拠上明らかになったところを確認しておく。

(ア) B医師の証言要旨

産科の臨床医として三二年の経験があり、うち三〇年は産婦人科の一人医長として勤務し、一万件を超える分娩を担当した。帝王切開率は一五パーセントくらいである。これまで三例の癒着胎盤症例を経験したが、いずれも出血は多くなったものの、胎盤剥離を完了している。三例のうちの二例は、経膣分娩で、胎盤剥離の後に出血が止まったため狭義の癒着胎盤と診断した。一例は、二回目の帝王切開のケースで、用手剥離した時点で剥離面から出血があったが、剥離を完了させている。胎盤剥離を中止しなかった理由は、剥離を完了させれば、子宮が収縮することによって止血が図られるかもしれないと考えたことによる。胎盤を全部剥離してからガーゼを使って圧迫止血し、止血剤や子宮収縮剤の投与をしたが、出血が止まらず、子宮を摘出した。摘出後の子宮を切断してみると、子宮筋層に絨毛が三分の二くらい入っていた。剥離途中では、胎盤が邪魔で止血措置はできない。穿通胎盤、それに近い子宮奨膜まで嵌入した嵌入胎盤については、術前に分かった場合は子宮摘出を考えるが、術中に分かった場合は、穿通胎盤でなければ、出血があっても剥離が始まったら完了させるしかないので、用手剥離をそのまま続ける。子宮摘出は、胎盤剥離後の子宮収縮、止血操作が駄目だったときの手段となる。

(イ) T医師の証言及び鑑定結果(同医師の公判廷における証言、同医師作成の鑑定書からなるが、これらを併せて「T鑑定」という。)要旨

約三三年間で一万件以上の分娩に立ち会った。帝王切開率は約三〇パーセントで、帝王切開のうち一〇〇ないし二〇〇例は前置胎盤であった。そのうち臨床的に癒着胎盤の症例は八ないし一〇例くらいあった。胎盤を剥離せずに子宮を摘出したものは、一例のみであり、それは開腹後、子宮を見たのみで、前回帝王切開で子宮の前の方に胎盤がついていることがわかったので、穿通胎盤と判断し、分娩後にそのまま子宮摘出術をした。その他の例ではすべて胎盤を剥離している。経膣分娩で胎盤が剥がしにくい症例は一〇例以上経験したと思うが、用手剥離でとれなかった例もあり、手探りで胎盤を探してむしってくる、あるいはちぎってくるというかたちで胎盤を出すことも数例あった。胎盤の用手剥離を開始すれば、出血が多く始まるが、剥離を途中でやめると出血部位をそのまま放置することになる。圧迫止血のためには胎盤は障害である。子宮収縮を促すことにより止血が図られる上、剥離すればその後の止血操作が容易となる。確かに前置胎盤の場合、子宮の筋肉の発達が悪い子宮下部に胎盤がついているので、胎盤を剥がすと子宮収縮は良くないが、それでも剥がした方が全体的な収縮はできるので、まず胎盤を剥がしてしまうことが第一である。子宮摘出は最終的な止血手段であり、子宮摘出に移るかどうかは全身状態を見て決める。

(ウ) P医師の証言及び鑑定の結果(同医師の公判廷における証言、同医師作成の鑑定書からなるが、これらを併せて「P鑑定」という。)要旨

約三六年間に多数の分娩に直接、間接に関与した。d大学で経験した一二例(うち胎盤が前壁に付着したものが一〇例、後壁に付着したものが一例、側壁に付着したものが一例)の癒着胎盤のうち、子宮摘出をしたのは九例で、そのうち五例は、胎盤剥離をしないで摘出した。この五例は、術前の超音波検査の所見、患者に既に子供がいるかなどの社会的な背景、開腹時の子宮及びその周辺の所見、児娩出後の所見などを総合して、例えば、癒着胎盤が子宮の壁を貫いて子宮の外まで達しているなどの、誰が見ても剥離はしないという条件が整っていたもので、胎盤剥離の操作をしていない。外の七例は、すべて胎盤剥離をしている。前記九例のうちの残り四例は、胎盤剥離をして子宮温存を試みたが、結果的には出血が多いなどの理由で子宮摘出しており、剥離途中から、剥離を完了せずに子宮を摘出した例はない。用手剥離が一部終了している場合には、その時点で既に出血がある上、胎盤が残っていることは子宮収縮がしにくいということにつながるので、剥離を中止しても出血が止まることは考えにくい。胎盤剥離作業中に用手剥離を中止することが大量出血を防ぐことにつながるかどうかは現実的には予測不可能である。胎盤剥離作業中に癒着胎盤を発見した場合、剥離を中止するより速やかに剥離を終了して子宮摘出に移る方が総出血量が少なくて済む。そうして対応した症例が多い。用手剥離を途中で中止しないのは、胎盤剥離後の子宮収縮による止血を期待するため、胎盤を除去した方が子宮摘出術が容易であるため、剥離を中止したからといって出血が止まるとは限らないためである。

(エ) R医師の証言及び鑑定結果の要旨

R医師は、「約三〇〇〇件強の分娩を扱った経験があるが、現在、大学では、産科の臨床にはほとんど携わっていない。用手剥離は何回も経験しているが、癒着胎盤を剥離した経験はない。胎盤は通常は剥離するものなので、剥離できないということ、特に強固に癒着しているということは、癒着胎盤だと理解している。用手剥離で胎盤を剥離することができない場合は、癒着している範囲及び深さにもよるが、通常は、用手剥離を中断して子宮を摘出すると医学文献には書いてある。癒着範囲が狭い場合はそのまま剥離を続けることもあると思う。いろんな医学文献には、胎盤剥離を行っていて出血が大量の場合は、子宮摘出を考えると書いてある。強固に癒着している胎盤を無理に剥離させれば、そこから大出血するから無理な剥離は行わないと理解している。勤務している施設では、癒着胎盤の症例で二万、三万mlの出血を経験している。」などと証言し、鑑定書においては、前記のとおり、おおむね検察官の主張に引用したとおりの意見を述べている。

なお、R医師は、自身の所属するe大学医学部の医局検討会で、三四例の前置胎盤症例について検討したこと、うち癒着胎盤症例が三例あり、この三例についてはいずれも胎盤剥離を完了させていることをホームページに公表している旨証言している。

(オ) 以上のとおり、本件裁判においては、癒着胎盤の剥離を開始した後に剥離を中止し、子宮摘出手術等に移行した具体的な臨床症例は、検察官側からも弁護人側からも提示されておらず、また、当公判廷において証言した各医師も言及していない。

次に、上記医師らのうち、R医師のみが、検察官の主張でもある、剥離を中止し子宮摘出手術等に移行すべきという見解を述べる。しかしながら、R医師は、e大学教育研究院医歯学系の教授であり、同大学医歯学総合病院の産科婦人科長及び周産母子センター部長を務める産婦人科専門医で、産科の臨床経験も有するが、腫瘍を専門とする医師である。同医師の癒着胎盤の治療経験は、昭和五〇年代前半に助手として経験した一回のみであり、しかも、同事例においては、当時の執刀医の判断で胎盤剥離を完了した後に子宮を摘出している。同医師の鑑定や証言は、同医師自ら述べるとおり、自分の直接の臨床経験に基づくものではなく、主として医学書等の文献に依拠したものである。したがって、同医師の鑑定結果及び証言内容を、臨床における癒着胎盤に関する標準的な医療措置、あるいはこれを基準とした事案分析と理解することは相当ではない。

これに対し、T医師は、f大学大学院の周産期医学分野の教授で、f大学病院の周産母子センター長と大学病院の副病院長を兼務する医師であり、P医師は、g大学医学部産婦人科教授であり、両医師とも、日本産科婦人科学会の周産期委員会の委員長経験を有する、妊娠、分娩に関する医療、医学を専門とする医師である。産科の臨床経験の豊富さ、専門知識の確かさは、その経歴からのみならず、証言内容からもくみ取ることができ、少なくとも、臨床における癒着胎盤に関する医療措置についての証言は、医療現場の実際をそのまま表現しているものと認められる。

B医師は地方の中規模病院の産婦人科医であるが、臨床経験は豊富であり、癒着胎盤の治療経験もあり、臨床における癒着胎盤に関する標準的な医療措置についての知見を有し、それを実践していることがうかがわれる。

そうすると、本件では、以上のT、P、Bの三人の医師の鑑定ないし証言から、大学病院や地方病院などの臨床現場の標準的な医療措置をくみ取ることが可能であると考えられる。上記三人の医師は、いずれも、胎盤剥離を始めたら、途中で癒着の認識を持ったとしても、子宮収縮を期待する等の理由から、剥離を最後まで完遂させる旨述べているが、これをT、P両医師の証言に従って整理すると、次のとおりに要約できる。

開腹前に穿通胎盤や程度の重い嵌入胎盤と診断できたもの、開腹後、子宮切開前に一見して穿通胎盤や程度の重い嵌入胎盤と診断できたものについては胎盤を剥離しない。用手剥離を開始した後は、出血をしていても胎盤剥離を完了させ、子宮の収縮を期待するとともに止血操作を行い、それでもコントロールできない大量出血をする場合には子宮を摘出する。

したがって、以上が、臨床上の標準的な医療措置と解するのが相当である。

エ 医学文献の記載

次に、医学文献には、癒着胎盤の治療及び対処法について、以下のような記載がある。

(ア) 用手剥離を行っても胎盤娩出が困難な場合は、出血の有無、妊孕性保存希望の有無によって対処法は変わってくる。出血を認め、妊孕性保存希望がない場合、子宮摘出で、出血を認め妊孕性保存希望がある場合、内腸骨動脈結紮術、血管造影透視下内腸骨動脈塞栓術、出血を認めず、妊孕性保存希望がある場合、容易に剥離し得る部分だけに胎盤用手剥離を行い、癒着している胎盤に対して後日改めて超音波下に掻爬術を行う、あるいは化学療法、自然排出を期待する。

(イ) 超音波検査で筋層への浸潤が浅い楔入胎盤が疑われる場合、大量出血に備え血管確保の上、まず胎盤用手剥離術を行う。嵌入胎盤や穿通胎盤の場合や広範囲な部位での楔入胎盤の場合、大量出血の可能性が高いため、X線透視下での子宮動脈の塞栓術や輸血を準備した上で子宮全摘出術を行う。

(ウ) あらかじめ嵌入胎盤や穿通胎盤と診断されている場合や、開腹時、子宮壁を通して胎盤が見えるものは迷わず子宮摘出する。また胎盤剥離を試みるも剥がれなかったり、止血不能例でも直ちに子宮全摘を行う。

(エ) 子宮摘出術以外の手技で治療を行った癒着胎盤の患者について信じられないほど高い死亡率を記載している報告もいくつかある。しかしながら、最近の研究によってこの結論は支持されているわけではない。最近のあるレビューによると、臨床的に癒着胎盤の症例の四五パーセントは、子宮摘出手術以外の方法で、母体死亡を起こすことなく治療されている。癒着が部分的である場合、絨毛が侵入している部位の単純な切除を行いその場所に数針の八の字縫合をすること、または鋭的に掻爬を行うことは、時として効果的である。それでもやはり、将来子供を持ちたいと考えられる若い患者で局所的に癒着している症例以外では、子宮摘出術が選択すべき手技であり、癒着胎盤と診断がつけばすぐに子宮摘出手術に移行するべきである。

(オ) 以上が、医学文献における医療措置の概要である。これらから浮かび上がってくる癒着胎盤に関する標準的な医療措置は、次のとおりである。

用手剥離を行う前から嵌入胎盤、穿通胎盤であることが明確である場合、あるいは剥離を試みても全く胎盤剥離できない場合については、用手剥離をせずに子宮摘出をすべきという点では、概ね一致が見られる。しかしながら、用手剥離開始後に癒着胎盤であると判明した場合に、剥離を中止して子宮摘出を行うべきか、剥離を完了した後に止血操作や子宮摘出を行うのかという点については、医学文献から一義的に読みとることは困難である。

オ 癒着胎盤に関する医療措置についての臨床及び医学文献の記載は以上のとおりである。臨床における医療措置と医学文献の記載から読み取ることができる医療措置とが必ずしも一致しない部分があり、まさに、本件のような用手剥離開始後に癒着胎盤であると判明した場合に剥離を中止して子宮摘出を行うべきか否かについて、記載、見解が分かれている。

カ 判断

(ア) 検察官は、癒着胎盤であると認識した以上、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行することが本件当時の医学的準則であり、本件において、被告人には胎盤剥離を中止する義務があったと主張する。これは、一部の医学文献及びR鑑定に依拠するものであるが、R鑑定が、臨床経験よりも多くを医学文献に依拠していることは前述のとおりであるから、結局、検察官の主張は、医学文献の一部の見解に依拠したものと評価することができる。

(イ) しかし、検察官の主張は、以下の理由から採用できない。

a 臨床に携わっている医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に反したものには刑罰を科す基準となり得る医学的準則は、当該科目の臨床に携わる医師が、当該場面に直面した場合に、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じていると言える程度の、一般性あるいは通有性を具備したものでなければならない。

なぜなら、このように解さなければ、臨床現場で行われている医療措置と一部の医学文献に記載されている内容に齟齬があるような場合に、臨床に携わる医師において、容易かつ迅速に治療法の選択ができなくなり、医療現場に混乱をもたらすことになるし、刑罰が科せられる基準が不明確となって、明確性の原則が損なわれることになるからである。

この点につき、検察官は、一部の医学文献やR鑑定に依拠した医学的準則を主張しているのであるが、これが医師らに広く認識され、その医学的準則に則した臨床例が多く存在するといった点に関する立証はされていないのであって、その医学的準則が、上記の程度に一般性や通有性を具備したものであることの証明はされていない。

b また、検察官は、前記のとおり、胎盤剥離を継続することの危険性の大きさや、患者死亡の蓋然性の高さや、子宮摘出手術等に移行することが容易であったことを挙げて、被告人には胎盤剥離を中止する義務があったと主張している。

しかし、医療行為が身体に対する侵襲を伴うものである以上、患者の生命や身体に対する危険性があることは自明であるし、そもそも医療行為の結果を正確に予測することは困難である。したがって、医療行為を中止する義務があるとするためには、検察官において、当該医療行為に危険があるというだけでなく、当該医療行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにした上で、より適切な方法が他にあることを立証しなければならないのであって、本件に即していえば、子宮が収縮しない蓋然性の高さ、子宮が収縮しても出血が止まらない蓋然性の高さ、その場合に予想される出血量、容易になし得る他の止血行為の有無やその有効性などを、具体的に明らかにした上で、患者死亡の蓋然性の高さを立証しなければならない。そして、このような立証を具体的に行うためには、少なくとも、相当数の根拠となる臨床症例、あるいは対比すべき類似性のある臨床症例の提示が必要不可欠であると言える。

しかるに、検察官は、一部の医学文献及びR鑑定による立証を行うのみで、その主張を根拠づける臨床症例は何ら提示していないし、検察官の示す医学的準則が、一般性や通有性を具備したものとまで認められないことは、上記aで判示したとおりである。そうすると、本件において、被告人が、胎盤剥離を中止しなかった場合の具体的な危険性が証明されているとは言えない。

(ウ) 前記認定によれば、本件では、検察官の主張に反して、臨床における癒着胎盤に関する標準的な医療措置がそのまま医療的準則として機能していたと認められる。

(エ) 以上によれば、本件において、検察官が主張するような、癒着胎盤であると認識した以上、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行することが本件当時の医学的準則であったと認めることはできないし、本件において、被告人に、具体的な危険性の高さ等を根拠に、胎盤剥離を中止すべき義務があったと認めることもできない。したがって、事実経過において認定した被告人による胎盤剥離の継続が注意義務に反することにはならない。

五  以上の検討結果によれば、被告人が従うべき注意義務の証明がないから、この段階で、公訴事実第一はその証明がないと言わなければならない。

第八医師法違反について

一  検察官は、本件患者は、被告人の癒着胎盤に関する医療的準則に違反した無理な癒着胎盤剥離行為により、剥離面から大量出血が招来された結果、失血死したものであり、被告人の過失行為に基づく失血死なのであるから、本件患者の死因が異状死であることは明白であると主張する。

二  これに対し、弁護人は、医師法二一条の異状とは、検案すなわち死体の外表を検査した結果、識別される状態であるにもかかわらず、検察官はこの状態につき主張していない、仮に、異状の意味を過失の有無と同一に捉えたとしても、本件患者の死亡について被告人には過失がないから、本件は、死体に異状があった場合とすることはできないと主張する。

三  医師法二一条は、医師が、死体や妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認められたときは、二四時間以内に所轄警察署に届け出なければならないと定めている。

ここで同条にいう異状とは、同条が、警察官が犯罪捜査の端緒を得ることを容易にするほか、警察官が緊急に被害の拡大防止措置を講ずるなどして社会防衛を図ることを可能にしようとした趣旨の規定であることに照らすと、法医学的にみて、普通と異なる状態で死亡していると認められる状態であることを意味すると解されるから、診療中の患者が、診療を受けている当該疾病によって死亡したような場合は、そもそも同条にいう異状の要件を欠くと言うべきである。

本件において、本件患者は、前置胎盤患者として、被告人から帝王切開手術を受け、その際、子宮内壁に癒着していた胎盤の剥離の措置を受けていた中で死亡したものであるが、被告人が、癒着胎盤に対する診療行為として、過失のない措置を講じたものの、容易に胎盤が剥離せず、剥離面からの出血によって、本件患者が出血性ショックとなり、失血死してしまったことは前記認定のとおりである。

そうすると、本件患者の死亡という結果は、癒着胎盤という疾病を原因とする、過失なき診療行為をもってしても避けられなかった結果と言わざるを得ないから、本件が、医師法二一条にいう異状がある場合に該当するということはできない。

四  以上によれば、その余について検討するまでもなく、被告人について医師法二一条違反の罪は成立せず、公訴事実第二はその証明がない。

第九結論

いずれの公訴事実についても犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対し無罪の言い渡しをする。

(求刑 禁固一年 罰金一〇万円)

(裁判長裁判官 鈴木信行 裁判官 堀部亮一 宮﨑寧子)

別紙 当事者目録

一 検察官 村上満男

西村圭一

鈴木望

五十嵐恒彦

二 弁護人

私選弁護人(主任) 平岩敬一

私選弁護人 安福謙二

平岡敦

兼川真紀

水谷渉

木原大輔

渡辺慎太郎

特別弁護人 澤倫太郎

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