福島地方裁判所 平成20年(ワ)136号 判決 2013年12月12日
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求の趣旨
被告は,原告に対し,5263万0514円及びこれに対する平成20年5月24日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,福島刑務所に受刑者として収容されていた原告が,同刑務所の医師及び職員が収容中の原告に対して適切な投薬を行うべき注意義務を怠った過失,精神科領域の投薬を継続すべき注意義務を怠った過失又は適切な処置を施すべき注意義務を怠った過失により,原告の臀部等に褥瘡(じょくそう)を生じさせ,さらには左足腓骨神経麻痺を生じさせたとして,被告に対し,主位的に,国家賠償法1条1項に基づき,予備的に,安全配慮義務違反に基づき,損害賠償として,逸失利益,慰謝料及び弁護士費用の合計5263万0514円並びにこれに対する訴状送達の日の翌日である平成20年5月24日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
1 前提事実(認定に供した証拠等の掲記がない事実は,当事者間に争いがない。)
⑴ 当事者等
ア 原告は年月日<省略>生まれの男性であり,平成14年6月6日から,平成21年7月29日まで,福島刑務所に収容されていた者である。収容時の身長は181.0cm,体重は148kgであった。(証拠<省略>)。
イ 被告は,福島刑務所において,公務員である刑務所職員及び医師をして,その管理運営,受刑者の健康管理等の公権力の行使を行わせている(以下,福島刑務所の刑務所職員を単に「刑務所職員」と,同刑務所の医師を「刑務所医師」といい,刑務所職員と刑務所医師を併せて「刑務所医師ら」という。)。
⑵ 原告の診療経過
ア 福島刑務所収容前の診療経過
原告は,福島刑務所に収容される以前に,a病院では糖尿病,b病院では精神病,c病院では交通事故による頸椎,脊椎等の異常について,それぞれ治療を受けており,血糖降下剤,精神安定剤,痛み止め等複数の薬剤を処方されていた(証拠<省略>)。
イ 福島刑務所収容後の診療経過
原告は,福島刑務所収容後,上記各医療機関での治療に引き続き,福島刑務所内において,別紙「投薬経過一覧表」<省略>各欄記載のとおりの投薬を受ける等の医療行為を受けていた(証拠<省略>)。
遅くとも平成17年1月13日には原告の両下肢に浮腫が認められ,同月18日に,原告は,福島刑務所内の拘置監から病舎(休養等が必要な被収容者を専門に収容する居室)に転室となった。そして,同月19日には,原告の臀部及び両下肢のかかとに褥瘡が認められた。
原告は,その後,同年4月12日から同年5月10日までの間,右臀部褥瘡の治療及び手術のため,d病院に移送され,同年4月28日,同病院において,右臀部褥瘡の壊死組織を切除する手術を受けた(証拠<省略>)。
また,原告は,同年6月16日から同年8月8日までの間,左下肢運動障害のリハビリテーション等を目的に,八王子医療刑務所に移送された(証拠<省略>)。
2 争点
⑴ 刑務所医師らの過失の有無
ア 平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間,刑務所医師は,褥瘡の発生を回避するため適切な投薬を行うべき注意義務を怠ったか否か。
イ 刑務所医師は,褥瘡の発生を回避するため,平成17年1月13日以降も精神科領域の投薬を継続すべき注意義務を怠ったか否か。
ウ 平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間の原告への対応について,刑務所医師らは,褥瘡及び腓骨神経麻痺の発生を回避するため,適切な処置を施すべき注意義務を怠ったか否か。
⑵ 上記注意義務違反と原告に生じた褥瘡及び左足腓骨神経麻痺との間の因果関係の有無
⑶ 原告の損害
第3争点に関する当事者の主張
1 争点⑴ア(平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間,刑務所医師は,褥瘡の発生を回避するため適切な投薬を行うべき注意義務を怠ったか否か。)について
⑴ 原告の主張
ア 褥瘡の原因は,同一部位の長時間の圧迫であり,褥瘡発生の危険因子としては,①基本的動作能力,②病的骨突出,③関節拘縮,④栄養状態,⑤皮膚湿潤,⑥浮腫があり,その他,糖尿病,肥満,痛感鈍麻,過鎮静,不潔などがある場合に,褥瘡発生のリスクが高まるとされている。
イ 原告には,肥満や糖尿病の持病などの危険因子があったが,刑務所医師により,鎮静作用及び肝蔵(ママ)に悪影響を及ぼすおそれのある多量の薬剤を投与されていたことにより,平成16年12月17日頃には肝機能障害が生じ,浮腫が生じ始めていた。また,同月21日頃には過鎮静の兆候を生じ,同月25日には,刑務所職員が声をかけても起きずに寝ていて立ち上がれない状態になっており,痛感も鈍麻していた。さらに,原告は,同日の朝食及び昼食を食べず,夕食も半分も食べられず,栄養状態も低下し,臀部及び下肢には浮腫が生じ,失禁により皮膚湿潤という状態にあった。そして,同月25日から平成17年1月7日までの間は,体動できない状態にあった。こうした状況において,原告は,平成16年12月中旬以降,刑務所職員に対し,身体が動かない異常を何度も伝え,投薬を減量してくれるように何度も申し入れていた。
ウ このような原告の状況からすれば,刑務所医師としては,原告に対して以後も鎮静作用を及ぼすおそれのある薬剤等の投与を継続すれば,相互作用によって増強された薬剤の効用によって,原告の過鎮静の状態が悪化し,原告が体位変換等をできなくなり,同一部位が長時間圧迫され,褥瘡が生じるおそれがあることを当然に予見することができ,かつ,薬剤の投与を中止するなどして,それを回避すべきことが可能であった。
したがって,刑務所医師は,褥瘡の発生を回避するため適切な投薬をする義務を負っていたということができる。
エ それにもかかわらず,刑務所医師は,平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間,漫然と別紙「投薬経過一覧表」<省略>各欄記載のとおり鎮静作用を及ぼすおそれのある薬剤の投与を継続したのであるから,刑務所医師には,褥瘡の発生を回避するため,原告に対して適切な投薬を行うべき注意義務を怠った過失がある。
⑵ 被告の主張
以下のような事情からすれば,平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間,原告に褥瘡発生の危険因子は存在せず,刑務所医師が,原告に褥瘡が生じ得ることを予見することは不可能であったというべきであるから,刑務所医師に,褥瘡の発生を回避するため上記期間の投薬を中止する等の措置を講ずべき注意義務は存在しない。仮に,同義務が存在するとしても,刑務所医師による投薬に不適切な点はないから,注意義務違反はない。
ア 平成17年1月18日の血液検査の結果によると,肝臓の炎症の指標であるGOT及びGPTの値は,それぞれ53 IU/L(基準範囲は11 ~ 35 IU/L(以下,同様に括弧内の数値は基準範囲を表す。)),43 IU/L(6~ 39 IU/L)であり,基準範囲の上限をやや上回った程度の値であって,軽微な異常を示す程度のものにすぎない。他方,肝臓のタンパク合成能の指標であるコリンエステラーゼや血清アルブミンの値は,それぞれ1688 IU/L(3600 ~7600 IU/L),3.2g/dL(3.7~ 5.2g/dL)と基準範囲の下限よりも低く,これは当時の原告が軽度の低栄養状態であったことによるものと推認されるものの,褥瘡の危険因子となる低栄養状態とは,血清アルブミンの値が3.0g/dL未満程度のものをいうのであるから問題とはならない。また,著しい肝障害のときに上昇する総ビリルビンの値は,0.37mg/dL(0.2 ~ 1.2mg/dL)と正常値である。こうした血液検査の結果を総合すると,当時の原告に治療を要する程度の薬剤性の肝機能障害が生じていたとは認められない。そして,このことから,同日と近い平成16年12月17日から平成17年1月7日までの間も,原告に肝機能障害が生じていたとは認められない。
イ 向精神薬が投与されている患者の精神運動興奮,鎮静の基準として国際的に認知されたAgitation-Calmness Evaluation Scale(以下「ACES」という。)によれば,過鎮静とは,睡眠を伴う鎮静とされ,①言語的及び身体的活動はなく,深い睡眠状態にあり,激しい言語的刺激又は身体的刺激あるいはその両方によりかろうじて覚醒しても,刺激をやめると直ちに睡眠状態に戻る状態(ACES8点),又は,②深い睡眠状態で,激しい言語的刺激又は物理的刺激を与えても覚醒できないといったように,言語的及び身体的活動が著しく低下し,呼びかけに対しても開眼できず,会話ができない状態(ACES9点)をいう。原告は,平成16年12月17日から平成17年1月7日までの間,身体活動の低下はみられるものの,体を動かすことはでき,一貫して会話できるなど,言語活動及び意識レベルに何ら問題はなかったのであるから,同期間の原告の状態は,ACES8ないし9点に該当するような過鎮静の状態とは認められない。なお,投与されていた各薬剤の添付文書には,副作用として眠気などの記載があるが,その記載は抽象的なものにすぎず,実際のそれらの発生頻度は低く,投与したら必ず過鎮静の状態になるというわけではない。
ウ 原告の両下肢に浮腫が生じたのは,平成17年1月13日である。原告は,平成16年12月17日頃から浮腫が生じていたと主張するが,同日頃から平成17年1月13日までの間,診療録上,原告に浮腫が生じたことを窺わせる記載はない。
エ 平成16年12月17日から平成17年1月7日までの間,原告に痛感鈍麻の症状は生じていなかった。診療録に,原告が痛感鈍麻の状態にあったことを窺わせる記載はない。
オ 診療録上,平成16年12月25日に原告が尿失禁した旨の記載があることは認めるが,監督当直日誌等には,同月27日から平成17年1月7日までの間,原告が失禁した旨の記載はなく,上記診療録の記載以外に,原告が尿失禁をしたと認めるに足りる証拠は一切ない。
カ 肥満は,褥瘡発生の抽象的危険性を示すものにすぎない。また,原告は軽度の糖尿病患者であって,原告が糖尿病患者であったことは,褥瘡発生の危険性を高める事情とはならない。
キ 精神科における入院患者に褥瘡が生じるのは極めてまれで,褥瘡が発生する者の8割が,脳血管障害・脊髄疾患など自発的体位変換を困難にする身体障害が存する場合であり,重篤な急性疾患等により体動ができず,あるいは意識のない患者が典型例である。この点,原告は,精神科の患者である一方,自発的体位変換を困難にするような重篤な器質的疾患を有していない。
2 争点⑴イ(刑務所医師は,褥瘡の発生を回避するため,平成17年1月13日以降も精神科領域の投薬を継続すべき注意義務を怠ったか否か。)について
⑴ 原告の主張
ア 原告は,別紙「投薬経過一覧表」<省略>各欄記載のとおり,従前精神科領域の薬を大量に投与されており,それらの投薬を中止すれば,うつ状態などの精神症状が悪化し,体動が困難になる可能性があった。刑務所医師は,うつ状態等の悪化により原告が体動困難となり,よって褥瘡を生じさせる危険性を予見可能であり,かつ投薬を継続することによってこれを回避可能であったのであるから,精神科領域の投薬を継続することによって,褥瘡を回避すべき注意義務を負っていたものである。
それにもかかわらず,刑務所医師は原告に対して,平成17年1月6日には,代替措置や漸減して投薬する措置を講ずることなく,精神安定剤であるヒルナミンの投与を中止し,同月13日には全ての精神科領域の投薬を中止した。刑務所医師は,かかる投薬の中止により,原告を体動が困難な状態に陥らせたものであり,投薬に留意して原告の褥瘡発生を回避すべき注意義務に違反した過失がある。
イ なお,原告は,証人尋問及び鑑定の結果を踏まえて上記アの主張を追加したものであるから,上記アの主張は故意又は重大な過失により時機に後れたものとはいえず,本件訴訟の完結を遅延させるものでもない。
⑵ 被告の主張
ア 原告の上記⑴の主張は,証人尋問及び鑑定が終了した後,最終の口頭弁論期日である平成25年7月30日の第9回口頭弁論期日において追加されたものである上,従前,原告は刑務所医師による過剰な投薬を過失行為として主張してきたにもかかわらず,それとは正反対の投薬の中止についての過失をいうものであることからしても,時機に後れた攻撃防御方法として許されないから,却下されるべきである。
イ 刑務所医師は,原告に褥瘡が生じ得ることを予見することは不可能であったから,平成17年1月13日以降も原告に対して,精神科領域の投薬を継続すべき注意義務を負っていない。
3 争点⑴ウ(平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間の原告への対応について,刑務所医師らは,褥瘡及び腓骨神経麻痺の発生を回避するため,適切な処置を施すべき注意義務を怠ったか否か。)について
⑴ 原告の主張
ア 褥瘡の原因及び褥瘡発生の危険因子は,前記1⑴のとおりであり,腓骨神経麻痺の原因は,腓骨小頭の圧迫である。
前述のとおり,原告は,平成16年12月25日には,職員が声をかけても起きずに寝ていて立ち上がれない状態になっており,痛感も鈍麻していた。また,同日,原告は,朝食及び昼食を食べず,夕食を半分も食べられず,栄養状態も低下している状態にあった。加えて,同日には,臀部及び下肢に浮腫が生じており,失禁により皮膚湿潤という状態にあった。また,原告は,同日から平成17年1月18日までの間は,体動できずに寝たきりの状態であり,同月13日には,重度の浮腫が生じており,平成16年12月中旬以降,刑務所職員に対し,身体が動かない異常を訴えていた。
イ このように褥瘡発生の危険性が高く,また圧迫による腓骨神経麻痺が生じやすい状況においては,刑務所医師らは,原告をこのまま放置すれば,褥瘡ないし腓骨神経麻痺が発生し得ることを予見することが可能であった。また,原告に対し,定期的な体位変換,清拭,栄養補給を実施し,エアマットを適切に使用し,病舎へ移送するなどして,褥瘡等の発生を防止することが可能であった。
したがって,刑務所医師らには,原告に対し,定期的な体位変換,清拭,栄養補給の実施,エアマットの使用等の適切な処置を施すべき注意義務があったというべきである。特に,平成17年1月19日には,原告の臀部やかかとに褥瘡が生じており,浮腫に溜まった体液が褥瘡を通じて大量に出ている状態となって,原告の病状は悪化していたのであるから,刑務所医師らには,さらに高度の注意義務が課せられていたといえる。
ウ ところが,刑務所医師らは,平成16年12月25日から平成17年1月17日までの間,上記のような措置をいずれも行わず,かえって,同月13日以降は,原告の両下肢に生じた浮腫について,臀部及びかかとに局所的な圧がかかる誤った方法によって下肢挙上を行ったものである。そして,同月18日には,原告を病舎に移したものの,その後もそれ以外の措置を何ら講じなかった。よって,刑務所医師らには,褥瘡及び腓骨神経麻痺の発生を回避するため,原告に対する適切な処置を施すべき注意義務を怠った過失があるといえる。
⑵ 被告の主張
ア 平成17年1月19日に,原告の臀部及び両下肢のかかとに褥瘡が生じるまで,原告に存在した褥瘡発生の危険因子は,同月13日に下肢に生じた浮腫のみであり,以下のアないしオに述べるとおり,他の危険因子は存在しなかった。浮腫は,褥瘡発生の危険因子の一つではあるものの,浮腫が生ずれば必ず褥瘡が生ずるというものではなく,褥瘡発生可能性の測定指標であるOHスケールによっても,浮腫の発生のみでは,褥瘡発生の危険性は「軽度」に分類されるにすぎない。
加えて以下のような事情からすれば,刑務所医師らが,平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間,原告に褥瘡が生じることを予見することは不可能であったというべきであるから,刑務所医師らは,原告が主張する注意義務を負っていない。
また,上記期間における刑務所医師らの原告に対する措置に不適切な点はないから,仮に原告が主張する注意義務があったとしても,その義務違反はない。
(ア) 原告には,平成16年12月17日から平成17年1月19日までの間,身体活動の低下はみられるものの,体を動かすことはでき,身体的動作が不可能な状態は生じていない。また,一貫して会話できるなど,言語活動及び意識レベルに何ら問題はなかったのであるから,同期間の原告の状態は過鎮静にあたるものではなかった。
(イ) 平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間,原告に痛感鈍麻の症状は生じていなかった。診療録に,原告が痛感鈍麻の状態にあったことを窺わせる記載はなく,かえって,原告は,同月3日及び5日には,頭痛を訴えていた。
(ウ) 褥瘡の危険因子となる低栄養状態とは,血清アルブミンの値が3.0g/dL未満程度のものをいうところ,平成17年1月18日の血液検査における原告の血清アルブミンの値は3.2g/dLであった。
(エ) 診療録,監督当直日誌等には,平成16年12月25日に原告が失禁した旨の記載があることを除くと,同日以降,同17年1月19日までの間に,原告が失禁した旨の記載はなく,この期間において,原告が失禁をしたと認めるに足りる証拠は一切ない。
(オ) 肥満は,褥瘡発生の抽象的危険性を示すものにすぎず,原告が糖尿病患者であったことは,褥瘡発生の危険性を高める事情とはならない。また,原告は,精神科の患者であるが,自発的体位変換を困難にするような重篤な器質的疾患を有していない。
イ 原告は,刑務所医師が行った下肢挙上の方法が誤っている旨主張するが,上記方法をとることで褥瘡発生の可能性が高まるとはいえず,原告が自ら体を起こし,足を上げることができたことも併せ考えると,刑務所医師が行った下肢挙上について不適切な点はない。
ウ 原告は,左足腓骨神経麻痺についても主張するが,そもそも原告には,左足腓骨神経麻痺は生じていない。
仮に,左足腓骨神経麻痺が生じていたとしても,後記3⑵ウのとおりであって,原告の主張する原因・経緯によって生じたものとは認められない。しかも,左足腓骨神経麻痺が生じた時点すら特定されておらず,どの時点において,刑務所医師らがどのような行為をすれば,左足腓骨神経麻痺の発生が回避できたのかが全く明らかでない。また,原告は,自らの意思で体位変換することが可能であったのであるから,刑務所医師らが,原告に左足腓骨神経麻痺が生じることを予見することは不可能であったというべきである。
したがって,原告の左足腓骨神経麻痺に係る注意義務違反の主張は,失当である。
エ 以上によれば,刑務所医師らの平成16年12月25日から平成17年1月19日までの原告に対する対応に何らかの注意義務違反は存しない。
3 争点⑵(上記注意義務違反と原告に生じた褥瘡及び左足腓骨神経麻痺との間の因果関係の有無)について
⑴ 原告の主張
ア 上記各過失と原告の褥瘡との間の因果関係
(ア) 原告の褥瘡の発生機序
前述のとおり,褥瘡の原因は,同一部位の長時間の圧迫である。原告は,過鎮静のために,長時間仰臥位のまま体位変換をすることができなかったことにより,臀部及び両下肢のかかとが長時間圧迫され,遅くとも平成17年1月19日に,上記部位に褥瘡が生じたものと考えられる。
(イ) 平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間の不適切な投薬に係る過失と原告の褥瘡との間の因果関係
刑務所医師は,平成16年12月25日には既に過鎮静の状態にあった原告に対し,同日から平成17年1月7日まで,鎮静作用を有する多種の薬剤を漫然と投与したことにより,原告に深刻な過鎮静の状態を生じさせ,これによって,原告は,体位変換をすることができなくなった。その結果,原告の臀部及び両下肢のかかとが長時間圧迫され,褥瘡が生じたのであるから,上記期間の過剰な投薬に係る刑務所医師の過失と原告の褥瘡との間には因果関係がある。
(ウ) 平成17年1月6日ないし同月13日以降,精神科領域の投薬を中止した過失と原告の褥瘡との間の因果関係
原告の精神症状については,平成17年1月5日までは,大量の投薬がなされていたが,同月6日に幻覚などに効果のあるヒルナミンの投与が代替措置や漸減して投薬する措置を講じることなく中止されたことにより,原告のうつ状態などの精神症状は悪化し,さらに同月13日に全ての精神科領域の薬の投与が中止されたことによって悪化が進み,体を動かしにくくなったものである。その結果,原告の臀部及び両下肢のかかとが長時間圧迫され,褥瘡が生じたのであるから,上記各日以降に原告に対する投薬を中止した過失と原告の褥瘡との間には因果関係がある。
(エ) 平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間の原告に対する対応に係る過失と褥瘡との間の因果関係
原告は,平成16年12月25日以降過鎮静の状態にあったにもかかわらず,刑務所医師らが,定期的な体位変換,清拭,栄養補給,エアマットの使用等の適切な処置を施さなかったため,原告は体位変換をすることができなくなった。また,平成17年1月13日以降行われた下肢挙上は臀部及びかかとに局所的な圧がかかるものであった。その結果,原告の臀部及び両下肢のかかとが長時間圧迫され,褥瘡が生じたのであるから,上記期間の原告に対する対応に係る過失と原告の褥瘡との間には因果関係がある。
イ(ア) 平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間の原告に対する対応に係る過失と原告の左足腓骨神経麻痺との間の因果関係
前述のとおり,腓骨神経麻痺の原因は,腓骨小頭の圧迫である。原告は,過鎮静のため,体の左側を下にした側臥位の状態で長時間体位変換をすることができなかったことにより,左足腓骨小頭が長時間圧迫され,圧迫による神経障害が生じ,この神経障害が原因となって,左足に腓骨神経麻痺が生じた。
原告は,平成16年12月25日以降過鎮静の状態にあったにもかかわらず,刑務所医師らは,定期的な体位変換,清拭,栄養補給,エアマットの使用等の適切な処置を施さなかった。このため,原告は,体位変換をすることができなくなり,その結果,原告の左足腓骨小頭が長時間圧迫され,左足に腓骨神経麻痺が生じたのであるから,刑務所医師らの上記期間の原告に対する対応に係る過失と原告の左足腓骨神経麻痺との間には因果関係がある。
(イ) 被告の主張するとおり,平成10年7月の交通事故により原告に左足腓骨神経麻痺が生じたとすると,平成14年6月の福島刑務所入所当時既に同麻痺が存在していたはずであるが,当時,原告にはそのような症状は生じていなかった。また,上記交通事故の手術で挿入されたワイヤーの断裂によっても,坐骨神経は損傷されていない。仮に,ワイヤーの断裂が左足腓骨神経麻痺に関連性を有するものであったとしても,断裂したワイヤーが,原告に生じた浮腫や過鎮静によって圧迫され,坐骨神経の損傷を生じたと考えられるから,因果関係は否定されない。
⑵ 被告の主張
ア 上記各過失と原告の褥瘡との間の因果関係
原告の臀部及び両下肢のかかとに褥瘡が生じたのは,平成17年1月19日のことである。原告に対する投薬は,同月13日には一切中止されているから,その6日後である同月19日に,原告が,過剰な投薬を原因として,長時間体位変換できない状態になることはおよそ考えられない。
原告は,平成17年1月19日までの間,長時間寝たきりの状態であったとの事実はなく,身体的動作が可能な状態であった。そして,褥瘡が理論上,2時間の持続的圧迫で生じ得ること,当時の原告の体重が100キログラムを超えることからすれば,原告の臀部及び両下肢のかかとの褥瘡は,同日の診察の直前の数時間,原告が,自らの意思により仰臥位で体位変換しなかったことにより生じたものと認めるのが相当である。
イ 平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間の原告に対する対応に係る過失と原告の左足腓骨神経麻痺との間の因果関係
前述のとおり,原告には,左足腓骨神経麻痺は生じていない。
仮に,原告に左足腓骨神経麻痺が生じていたとしても,前述のように,平成17年1月19日までの間に,原告が長時間体位変換できない状態にあったとの事実はなく,同日以降も原告が長時間身体を動かすことができないような状態にあったことを窺わせる事情は見当たらないこと,原告の体重が100キログラムを超えることからすれば,その原因は,原告が,同日の診察の直前の数時間,自らの意思で側臥位の状態で体位変換しなかったことにより生じたものとみるべきである。
また,原告は,平成10年7月の交通事故により,左股関節内骨折等の傷害を負っており,当該骨折はそれ自体坐骨神経麻痺を引き起こす可能性の高いものである上,上記骨折に関して受けた手術で,坐骨神経が所在する骨盤内の左大腿骨頸部に装着したワイヤーが,遅くとも平成17年8月の時点で断裂していることからすれば,断裂したワイヤーが骨盤内の坐骨神経を損傷し,原告に左足腓骨神経麻痺を引き起こした相当程度の可能性がある。
4 争点⑶(原告の損害)について
⑴ 原告の主張
原告に生じた損害は,以下のとおり,合計5263万0514円である。
ア 後遺症による逸失利益 3215万0514円
(ア) 原告の左足は,足首より先が麻痺しており,ほとんど動かない。これは,後遺障害等級8級7号「1下肢の3大関節中の1関節の用を廃したもの」に該当する。
また,原告には,臀部に大きな褥瘡手術痕が残った。同手術痕は,就寝時に痛みを伴うことから,後遺障害等級14級9号「局部に神経症状を残すもの」に準じるというべきである。また,原告の左膝と両足首のくるぶしにも褥瘡痕が残り,無視できない大きさであることを考え合わせると,褥瘡痕全体について,後遺障害等級14級に相当するというべきである。
(イ) 上記各後遺障害を併合すると,後遺障害等級併合8級に該当し,この労働能力喪失率は45パーセントである。
原告は,症状固定時である平成17年8月当時,35歳であり,原告の学歴(中卒)に対応する平成16年度賃金センサス学歴別男子の平均年収額である452万1100円を基礎としつつ,就労可能年数を67歳までの32年とし,ライプニッツ係数を15.8027として,原告の逸失利益を計算すると,3215万0514円となる。
イ 入通院慰謝料 240万円
原告は,平成17年1月18日に病舎に移されて以後,同年5月10日にd病院から福島刑務所へ搬送されるまでの113日間,褥瘡治療等のため入院し,さらに同年6月16日から同年8月8日までの54日間,八王子医療刑務所へ移送されて左足のリハビリ治療を行った。
また,原告は,平成17年5月11日から同年6月15日までの約1か月間は,通院状態にあった。
このような入院及び通院状態にあったことに対する慰謝料は,240万円が相当である。
ウ 後遺障害慰謝料 830万円
前記アのとおり,原告の後遺障害は,後遺障害等級8級に該当するから,これに対する慰謝料は,830万円が相当である。
エ 慰謝料増額事由 500万円
刑務所職員は,原告が体が動かないなどと訴えたにもかかわらず,適切な対応を採らず,寝たきりの状態の原告を放置したりするなどしており,原告に対する対応は誠実なものとはいえなかった。このような刑務所職員の対応により,原告は著しい精神的苦痛を受け,原告に生じた障害を悪化させた可能性が大きい。こうした事情は,慰謝料の増額事由になるというべきであり,500万円が増額されるべきである。
オ 弁護士費用 478万円
⑵ 被告の主張
原告が,平成17年1月18日病舎に転室になったこと,同年4月12日から同年5月10日までの間,右仙骨部褥瘡の治療及び手術のため,d病院に移送されていたこと,同年6月16日から同年8月8日までの間,左下肢麻痺の治療のため,八王子医療刑務所に移送されていたこと及び原告の臀部に褥瘡手術痕が残っていることについては認め,その余は全て否認ないし争う。
第4争点に対する判断
1 事実経過等
前記前提事実に証拠<省略>を総合すれば,以下の各事実を認めることができる。
⑴ 原告の既往症等
原告は24歳のころから糖尿病を患っており,収容以前にはa病院に通院し,血糖降下剤及び胃薬の投与を受けていた。また,30歳のころから精神科に通院しており,b病院から毎食後,就寝前,イライラ時の3種類に分けて精神安定剤の投与を受けていた。さらに,平成14年2月及び同年3月に交通事故に遭い,同年2月の事故の際には左ひじ及び左ひざの手術をし,同年3月の事故の際には脊椎6番及び尾骨を骨折する傷害を負ったことから,脊椎,頸椎,腰椎部に痛みを感じており,c病院からは複数の痛み止め薬の投与を受けていた。その他の既往症として,15歳のころからC型肝炎に感染し,また心筋肥大が認められ,27歳のころから脳腫瘍の疑いがあった。(証拠<省略>)
原告は平成10年7月12日に栃木県において交通事故に遭い,左股関節内骨折,頭部外傷,外傷性頭頸部症候群,両膝捻挫の傷害を負い,左股関節痛の症状について,後遺障害等級表の第14級10号「局部に神経症状を残すもの」と判定された(<省略>)。
⑵ 福島刑務所収容後,平成16年12月24日までの経過
ア 原告は殺人未遂,銃砲刀剣類所持等取締法違反,傷害,器物損壊及び暴行の事実で懲役7年の判決を受け,同判決は,平成14年12月13日に確定した。刑期は平成21年7月28日までとされた。(証拠<省略>)
イ 原告は福島刑務所に収容された後,e病院の胃腸科,内科及び整形外科の診療を受け,痛み止めや血糖降下剤等の投与を受けた。また,前記⑴の各病院において投与を受けていた医薬品のうち一部についても投与を続けることとなった。(証拠<省略>)
ウ 原告は平成16年3月から平成17年1月17日までの間は,拘置監階上第8室に収容されていた(証拠<省略>)。
エ 平成16年から平成17年1月にかけて,福島刑務所において原告を診察した刑務所医師は,主に,E医師,F医師及びG医師であった。E医師の当時の専門は内科一般であり(証拠<省略>),F医師は外科,特に消化器外科を専門とし(証拠<省略>),G医師は精神保健指定医であった(証拠<省略>)。原告は当時,精神症状を主に訴えていたことから,G医師が主に診察をしており,必要に応じてE医師,F医師も診察に当たっていた。
オ 平成16年2月20日(証拠<省略>)
原告はG医師から,1日当たり以下の量の投薬を受けた。
つくしA・M散 2.0g
テグレトール(200) 2錠
ヒルナミン 有効成分として50 mg
ピレチア 有効成分として50 mg
ベンザリン 有効成分として10 mg
トリプタノール(25) 6錠
酸化マグネシウム 1.5g
デパケン(200) 3錠
カ 平成16年5月7日(証拠<省略>)
原告は刑務所医師から,1日当たり以下の量の投薬を受けた。
デパケン(200) 3錠
つくしA・M散 3.0g
酸化マグネシウム 1.5g
アーテン(2) 6錠
ベンザリン 有効成分として10 mg
ヒルナミン 有効成分として50 mg
トリプタノール(25) 8錠
チネラック 2錠
リスパダール液 2cc
ピレチア(25) 2錠
ヒルナミン(25) 2錠
ポララミン 2錠
キ 平成16年10月14日(証拠<省略>)
原告はG医師から,1日当たり以下の量の投薬を受けた。
デパケン(200) 6錠
セルシン(5) 3錠
つくレA・M散 3.0g
ザジテン(1) 2カップ
べンザリン 有効成分として10mg
トリプタノール(25) 3錠
ク 平成16年11月1日以降,原告は刑務所医師から,別紙「投薬経過一覧表」<省略>各欄記載のとおりの投薬を受けた(証拠<省略>)。
ケ 平成16年11月12日(証拠<省略>)
原告の血糖値は116mg/dLであり,体重は112kgであった。
コ 平成16年11月25日(証拠<省略>)
G医師が原告を診察したところ,原告は「全然夜眠れない。人を殺す夢をみてばかり。尿モレはある。」等と訴えた。G医師は,別紙「投薬経過一覧表」<省略>記載のとおり,原告に対してトリプタノール(25)の投与量を1日当たり2錠増やして8錠とし,新たにピレチアを1日当たり有効成分として25mg投与することとした。
サ 平成16年12月8日(証拠<省略>)
原告は,E医師の診察を受け,腰痛を訴えた。
シ 平成16年12月9日(証拠<省略>)
G医師が原告を診察したところ,原告から「睡眠が悪い。薬が全然効かない。最近,幻覚もみるんです。人を殺す夢とか,ビルの屋上から人が落ちてきたり,壁の黒い点が動いてみえたり。工場に出る出ないは12月24日まで待て,と言われている。上の方で考えてくれているらしい。多分年明けかも知れない。腰痛もあるし。」等の訴えを受けた。G医師は拘禁反応の可能性もあると考え,精神科領域の薬として,トリプタノール(25)を2錠増量して1日当たり10錠とし,新たにヒルナミンを1日当たり有効成分として100mg投与することとした。
ス 平成16年12月16日(証拠<省略>)
G医師が原告を診察したところ,原告は「眠れる時と眠れない時がある。変な夢は見なくなった。変なのが見えるんです。小さいのが動いて。」等と述べた。G医師は拘禁反応と考え,気にしないよう原告に助言した。
原告は腰痛があり,足がうまく動かない旨述べ,椅子から立ち上がる際には難儀そうにしていたが,部屋から出るときにはスムーズに歩いていた。また,夜尿の症状はなかった。
G医師は,ポララミン及びザジテンの投与を中止した。
セ 平成16年12月21日(証拠<省略>)
F医師は,原告に対するヒルナミンの投与量を50mg減らして,1日当たり有効成分として50mgとした。
原告は,運動該当日であったが,体調不良を理由として屋外運動に出席しなかった。
⑶ 平成16年12月25日から平成17年1月19日までの経過
ア 平成16年12月25日(証拠<省略>)
原告は,刑務所職員が声を掛けても寝たままであり,朝食及び昼食をとらなかった。その後,原告から刑務所職員に対し,失禁を理由に丸首シャツ,パンツ及びシーツの交換の願い出があった。原告が立ち上がれないことから,夕食時に,応援職員により原告を起こして丸首シャツ,パンツ及びシーツを交換した。夕食について,原告は主食と副食をそれぞれ半分程度食べた。
イ 平成16年12月26日(証拠<省略>)
原告は,刑務所職員に対し,食事や用便の際起き上がれないと申し出たため,朝,昼,夕の毎食事時及び用便時に,刑務所職員が原告の上半身を起こして食事をとらせ,用便を行わせた。午後9時以降の就寝時間以降については,原告の居室に尿瓶を用意し,原告自ら用便を行わせた。
ウ 平成16年12月27日(証拠<省略>)
E医師が原告の居室において原告を診察したところ,原告は体を前屈みにして「ダメ男です」と言い,食事は少しだがとっている旨伝えた。原告の処遇を担当する職員は,E医師に対し,原告が尿失禁し,体動ができない旨を伝えた。E医師は,原告に対するヒルナミンの投与量を25mg減らして,有効成分にして1日当たり有効成分として25mgとした。
原告は,入浴該当日であったものの,入りたくないと述べ,入浴を行わなかった。
エ 平成16年12月28日(証拠<省略>)
原告は,運動該当日であったものの,出たくないと述べ,運動を行わなかった。午後7時55分に,原告は刑務所職員に対し,腰痛のため起きて薬が飲めないと申し出たため,刑務所職員は原告の居室を開けて,原告に薬を服用させた。
オ 平成16年12月29日(証拠<省略>)
原告は刑務所職員に対し,通常の固さの米麦飯では歯の嚙み合わせが悪く食べることができないため,お粥にするよう希望したため,F医師の指示により,原告の食事のうち主食はお粥となった。
原告は,入浴該当日であったものの,体調不良を訴え,入浴を行わなかった。さらに,原告は刑務所職員に対し,腰痛で動けないと申し出たため,刑務所職員は,食事及び投薬の都度,原告の居室を開けて食事及び投薬の補助を行った。
カ 平成16年12月30日から平成17年1月5日(証拠<省略>)
原告は,平成16年12月30日,平成17年1月2日及び同月5日が入浴該当日であったが,同月2日に入浴したのみで,平成16年12月30日及び平成17年1月5日には,それぞれ体調不良及び入りたくない旨を述べて,入浴を行わなかった。
原告は,平成17年1月1日,同月3日及び同月5日の朝食について,頭痛等を訴え,食べなかった。
原告は,平成16年12月31日に,体に力が入らず起きられない旨述べ,平成17年1月4日の午後8時には,薬を飲んだり布団を掛けたりするために,刑務所職員による介助を得た。
キ 平成17年1月6日(証拠<省略>)
E医師が原告の居室において原告を診察したところ,原告は「体が動かないです。くすりは飲んでます。」と述べ,座った状態から布団の上で仰向けに寝転がった。E医師が両手を挙げるよう指示すると,原告はそれに従い,意識もあり,会話をすることもできたため,E医師は体が動かない旨の申し出は詐病作為的なものであると判断した。また,E医師は原告に対するヒルナミンの投与を終了した。
原告は,運動該当日であったものの,運動を実施しなかった。
ク 平成17年1月7日(証拠<省略>)
原告にこれまで処方されていた薬がなくなるため,原告に対し新たに投薬する必要があったところ,E医師は,別紙「投薬経過一覧表」<省略>各欄記載のとおり,ヒルナミンの投与を中止した以外は,平成16年12月21日以降と同様の投薬を継続した。
原告は,入浴該当日であったものの,入浴を実施しなかった。
ケ 平成17年1月11日及び同月12日(証拠<省略>)原告は,刑務所職員に対し,主食をお粥から通常の固さの米麦飯に戻すよう申し出たところ,E医師の指示により,原告の主食は通常の固さの米麦飯に変更された。
原告は,両日とも入浴該当日であったが,同月11日には入浴し,同月12日には入れない等と述べ,入浴しなかった。
コ 平成17年1月13日(証拠<省略>)
G医師が原告を診察したところ,原告は刑務所医師に相談なく処方薬の服用を止めている旨申し出たことから,G医師は内服薬の処方を中止した。
E医師が原告を診察したところ,原告の両下肢全体に浮腫が認められ,象の足のようにパンパンになってむくんでいた。E医師は下肢を動かしていないことにより浮腫が生じたものと考え,下肢挙上及び弾性包帯の処置をとった。また,原告の両膝には感染性の潰瘍性病変も認められたため,E医師は抗生剤軟膏であるアクロマイシン軟膏を塗布した。
原告は,運動該当日であったものの,屋外運動を実施しなかった。
サ 平成17年1月17日及び同月18日(証拠<省略>)
同月17日にE医師が原告を診察したところ,原告は「足が動きません。」と申し出た。原告の両下肢の浮腫は悪化していたが,原告は会話することができた。
E医師は,刑務所職員に対し,原告の収容居室を拘置監から病舎に変更するよう指示し,同月18日に原告は病舎に転室した。また,同日,原告に対して血液検査が行われた。
同月17日は原告の入浴該当日であったが,原告は居室内にてお湯とタオルにより体を拭き,入浴に代えた。同月18日は原告の運動該当日であったが,原告が運動を実施したか否かは不明である。
シ 平成17年1月19日(証拠<省略>)
同月18日に行った原告の血液検査の結果,血清アルブミン値が3.2g/dL(3.7 ~ 5.2g/dL),コリンエステラーゼが1688 IU/L(3600 ~ 7600 IU/L)と低い値であり,GOTが53 IU/L(11~ 35 IU/L),GPTが43 IU/L(6 ~ 39 IU/L)と高い値であり,F医師は原告に肝不全があるのではないかと疑った。他方,総ビリルビンは0.37mg/dL(0.2 ~ 1.2mg/dL)であり,基準範囲内の値であった。
F医師が原告を診察したところ,原告の両下肢には浮腫があり,仙骨部及び両足かかとに褥瘡があった。両下肢の浮腫からは褥瘡を通じて体液が出ている状態であった。F医師は褥瘡に対してはゲーベンクリームによる治療を行った。
原告は入浴該当日であったものの,原告が入浴を実施したか否かは不明である。
⑷ 平成17年1月20日以降の経過
ア 刑務所医師は,原告の褥瘡に対してイソジンによる消毒及びゲーべンクリームによる治療を続けた。原告の浮腫は著明な軽減を示し,平成17年2月1日までには劇的に改善するに至り,十分ではないが,運動ができる程度に回復した。(証拠<省略>)
イ 原告は,平成17年4月12日から同年5月10日までの間,右臀部褥瘡の治療及び手術のため,d病院に移送され,同年4月28日,d病院において,右臀部の褥瘡について,壊死した組織を摘出する手術を受けた。原告の臀部には当該手術によりできた手術痕が残っている。(証拠<省略>)
ウ 原告は,平成17年6月16日から同年8月8日までの間,左下肢運動障害のリハビリテーション等を目的に,福島刑務所から八王子医療刑務所に移送された(証拠<省略>)。同刑務所において,同年6月17日に診察を受けた際,腓骨小頭付近での圧迫による末梢神経障害(腓骨神経)が原因となり,左腓骨神経領域が選択的に障害されているとされた(証拠<省略>)。同年8月5日に診察を受けた際には,原告の左大転子に装着されていたワイヤーが断裂していることが確認された(証拠<省略>)。
エ 平成20年10月13日,原告は,福島刑務所の特別単独室棟保護室第5室において,室内の窓を右足で多数回強く蹴り付け,同月14日には,同保護室第4室において,同じく室内の窓を右足で多数回強く蹴り付け,それぞれ損壊した。これらの行為により,原告は,建造物損壊の被疑事実で,平成21年7月29日に福島刑務所を出所した後すぐに逮捕,起訴され,他の公務執行妨害の事実と併せて懲役1年6月の判決を受けた。当該懲役刑について,原告は<省略>刑務所で受刑し,平成23年1月27日に仮釈放となった。(証拠<省略>)
オ 原告は,上記仮釈放後の平成23年4月2日に,f病院神経内科のI医師(以下「I医師」という。)の診察を受け,左腓骨神経麻痺であり,左の前脛骨筋,長母趾伸筋,長趾伸筋に5分の1から5分の2の筋力低下があるとの診断を受けた。I医師は,原告の左足腓骨神経麻痺について,身体障害者福祉法別表に掲げる障害に該当し,4級相当であるとの意見を述べている。(証拠<省略>)
2 医学的知見
⑴ 疾病について
ア 褥瘡
(ア) 概要(証拠<省略>)
褥瘡とは,身体の同じ部分に長時間の圧迫がかかり,皮膚あるいは皮下脂肪組織(まれに筋肉を含む)の血流の循環障害が起こり,皮膚や皮下組織が壊死することをいい,床擦れと呼ばれることもある。
平成10年に刊行された褥瘡の予防・治療ガイドラインによると,褥瘡は深さに応じて,Ⅰ度からⅣ度に分類できる。Ⅰ度は,圧迫を除いても消退しない発赤,紅斑である。Ⅱ度は,真皮までにとどまる皮膚傷害で,水疱やびらん,浅い潰瘍である。Ⅲ度は,傷害が真皮を越え,皮下脂肪層にまで及んだ褥瘡である。Ⅳ度は,傷害が筋肉や腱,関節包,骨にまで及ぶ褥瘡である。
褥瘡の治療方法については,褥瘡発生後約1~3週間の急性期と,それ以降で局所病態が比較的安定する慢性期とに分けて考えることができる。急性期においては,褥瘡の発生原因を除去した上で,創面を保護し適度に湿潤な環境を保持すべく,ドレッシング材や外用薬を用いた治療を行う。慢性期においては,褥瘡が真皮までにとどまる浅い褥瘡(上記の分類にいうⅠ度及びⅡ度)と深い褥瘡(上記の分類にいうⅢ度及びⅣ度)に分けて考える。浅い褥瘡については,除圧の上,ドレッシング材や外用薬を用いた治療を行う。深い褥瘡については,壊死組織がある場合にはデブリードマンを行ってこれを取り除き,ドレッシング材や外用薬を用いて肉芽の形成を促進させる保存治療による方法のほか,デブリードマンの後,体の他の部位から皮膚を切り離して創部に植皮する植皮術や,近傍の組織により充填又は被覆する皮弁形成術といった外科治療による方法がある。
(イ) 発生原因(証拠<省略>)
褥瘡は上記のとおり,長時間の圧迫が原因となり,血流の循環障害が起こることによって発症する。仙骨部についてみると,仙骨部の毛細血管圧は30mmHg前後とされているが,仰臥位では仙骨部に200mmHg以上の体圧が集中するとされている。かかる200mmHg以上の持続性圧迫が2時間以上加わると,皮膚には壊死が生じ,褥瘡が発生することになる。そのため,看護の領域では2時間ごとの体位変換が強調されているところである。全褥瘡の50% ~ 60%が仙骨部に生じており,仙骨部は褥瘡の好発部位に当たる。
健常人であれば持続的な圧迫に対して寝返りを打ったり,椅子の座り直しをしたりして無意識に体位変換を行っており,褥瘡が発生することはない。知覚神経障害や運動障害があり,圧迫による痛みや痺れを感じることができなかったり,それらを感じても適切に対応することができない場合に,褥瘡が発生することが多い。
(ウ) 褥瘡発生の危険因子
褥瘡発生の原因となる危険因子としては,基本的動作能力,病的骨突出,関節拘縮,栄養状態の低下,皮膚の湿潤,浮腫,痛感の鈍麻等が挙げられる。
基本的動作能力とは,ベッド上の自立体位変換,すなわち自力で体の向きを換えられるかをみるものであり,自力で体位変換ができる場合でも,患者が好む得手体位や,疼痛のために同一体位を続けざるを得ない場合は,自力での体位変換はできないと評価する。
病的骨突出とは,仙骨部で顕著にみられるものであり,廃用性萎縮などで殿筋,皮下脂肪が極端に減少し,仙骨部が突出して見えることを指す。
関節拘縮とは,四肢の関節に稼働制限があることを指し,関節の屈曲拘縮,伸展拘縮,変形などが該当する。
栄養状態低下とは,褥瘡発生を予防するために必要な栄養が適切に供給されていない状態で,血清アルブミン値3.0 ~ 3.5 g/dLが基準とされ,これを下回る場合に考慮される。
皮膚の湿潤とは,多汗,尿・便失禁等で起こるものであり,これが生じていると危険因子として考慮される。
浮腫は,下腿脛骨前面,足背,背部などで指圧痕を残すかで評価し,これが認められる場合には危険因子として考慮される。
痛感の鈍麻は,知覚神経障害により,圧迫による痛みやしびれを感じることができない状態かどうかを評価し,これが認められる場合には危険因子として考慮される。
(エ) 褥瘡発生の危険性の把握(証拠<省略>)
褥瘡の発生を予防するためには,褥瘡発生の危険性を把握するためのリスクアセスメントが行われている。リスクアセスメントを行うについては,リスクアセスメント・スケールと呼ばれる指標を用いることが一般的であり,日本においてはブレーデンスケール,K式スケール,OHスケール等のリスクアセスメント・スケールが用いられることが多い。
このうち,OHスケールは,厚生労働省長寿科学総合研究班による調査に基づき作成された指標であり,「自力体位変換」「病的骨突出」「浮腫」「関節拘縮」の4項目について点数を付け,その合計点(0~ 10点)が1~3点の場合に軽度,4~6点の場合に中程度,7~ 10点の場合に高度とリスクを評価するものである。
(オ) 褥瘡発生の予防方法(証拠<省略>)
褥瘡発生を予防するためには,重力によって皮膚表面と接触面との間に生じる力である体圧を分散することが必要である。具体的には,体圧を分散させるマットレスを用いる,下腿全体に枕を挿入する等して膝を軽く曲げた状態にし,下肢全体を挙上する,介助者により定期的な体位変換を行う等の方法がある。
また,失禁等により湿潤した状態にある場合には,乾燥と清潔を保持することも重要である。
イ 浮腫(証拠<省略>)
浮腫は水腫の一種であり,液状成分が皮下組織に過剰に貯留した状態を指す。全身性の浮腫には心臓,肝臓,腎臓等の疾患を原因とするものがあり,局所性の浮腫にはリンパ管の閉塞や静脈血栓等を原因とするものがあるほか,多様な原因によって浮腫は生じる。
浮腫が生じた場合,原因となる基礎疾患や全身状態を把握し,これをコントロールすることが重要となる。また,浮腫が生じた皮膚は薄くなり,外力による損傷を受けやすく,前記アのとおり,褥瘡の危険因子でもあることから,組織間液の還流を促すために下肢挙上や体位変換を行う,体圧を分散させる等の措置をとることが効果的とされる。
ウ 腓骨神経麻痺(証拠<省略>)
腓骨神経は,第4,第5腰神経と第1,第2仙骨神経に由来する。初めは坐骨神経として脊椎から出た神経幹が骨盤の大坐骨孔を通り,臀部から大腿部に入り,大腿背面のほぼ中央部を下向し,膝窩(膝の裏のくぼみ)頂付近において,脛骨神経と総腓骨神経とに分かれる。総腓骨神経はそこから腓骨頂の付近で前面に出て,そこで浅腓骨神経と深腓骨神経とに分岐する。浅腓骨神経は,さらに分岐を繰り返して,長腓骨筋,短腓骨筋に筋枝を出し,最終的には足背部,母指の内側面及び背側面,第2,3足指の背側面と側面とを支配する。深腓骨神経も分岐を繰り返し,前脛骨筋,長趾伸筋,長母趾伸筋及び第3腓骨筋に筋枝を出し,最終的には第1,2足指の隣接面や短趾伸筋等を支配する。
腓骨神経が膝窩,腓骨頭・腓骨頸へ外部から圧迫を受ける等して麻痺すると,足関節,足指の背屈不能(垂れ足)と足背から膝下下肢外側にかけての感覚障害を来たす。外部からの圧迫の具体的原因としては,外科的手術中や睡眠中の圧迫,ギプス固定,足を組んで座ること等がある。
エ 過鎮静(証拠<省略>)
精神疾患に対する薬物の中には,中枢神経系の興奮性を低下させ,精神活動を鎮静する薬物がある。過鎮静とは,医学的に定まった定義があるわけではないが,薬物等による鎮静作用が過剰に生じた状態を指すものとして用いられる表現であり,精神科領域では,過度の睡眠を伴う鎮静は,治療の妨げや症状の悪化につながる可能性があるとして,回避すべきものとされている。
鎮静の程度を評価する指標としては,高度の精神運動興奮から覚醒不能の状態までを連続的に評価するACESがあり,多くの海外臨床試験で使用されている。ACESは,高度の精神運動興奮を1点,覚醒不能を9点とする,1項目,9ポイントの尺度であり,このうち睡眠を伴う鎮静は,8点の深睡眠(言語的活動及び身体活動はなく,深い睡眠状態にあり,激しい言語的刺激(例えば,大声による名前の反復呼びかけ)又は身体的刺激(例えば,激しく繰り返し患者の肩を揺すること)あるいはその両方によりかろうじて覚醒しても,刺激をやめると直ちに睡眠状態に戻る。)及び9点の覚醒不能(深い睡眠状態で,激しい言語的刺激及び物理的刺激(例えば,激しく繰り返し患者の肩を揺するなど)を与えても覚醒できない。)の2つのみである。
オ 肝機能障害及び各種検査値(証拠<省略>)
(ア) 肝臓は人体中最大の腺であり,消化腺の一つである。胆汁の分泌のほか,糖分貯蔵・血糖調節,有害物質の解毒,血漿タンパク・ヘパリン・貧血阻止物質の産生など,生存に不可欠の作用を担っている。
(イ) 肝機能検査は血液検査により行うことが一般的である。関連する検査値のうち,GPT及びGOTはそれぞれALT,ASTと呼ばれることもある逸脱酵素の一種であり,細胞障害による細胞膜透過性の亢進若しくは壊死によって血中に漏出する。肝障害が発生すると,GPT及びGOTの値は上昇することとなる。このうち,特にGPTは肝組織中に非常に多く含まれており,他の臓器には少ないことから特異性が高い。GPTの基準範囲は6~39 IU/L,GOTの基準範囲は11 ~ 35 IU/L程度であるが,それぞれ500IU/L以上の場合には高度増加,100 ~ 500 IU/Lの場合には中程度増加,100 IU/L以下の場合には軽度増加とされている。
(ウ) アルブミンは血漿タンパク質の主要な構成部分であり,肝臓でのみ生成される。血漿膠質浸透圧の維持,物質の運搬などの役割を担っており,アルブミンが減少すると,血漿膠質浸透圧が低下し,組織腔に液体の貯留傾向が生じることとなる。
血清アルブミン値の低下は高度な肝実質障害を反映するが,他方,低栄養でも低下する。標準範囲は3.7 ~ 5.2g/dLであり,肝硬変については,3.0g/dL以下の場合には予後不良のことが多いとされる。
(エ) コリンエステラーゼは酵素の一種であり,臨床検査においては,肝細胞でのみ合成される非特異的コリンエステラーゼを指す。コリンエステラーゼの血中濃度は肝臓のタンパク合成能を知る有力な情報となり,脂肪肝では高値を示すが,アルブミンの合成低下を来すような肝実質障害の場合には低下する。また,栄養不良を原因として低下する場合もある。標準範囲は3600~ 7600 IU/Lである。
(オ) 血液中のヘモグロビンは代謝により間接ビリルビンとなり,さらに肝臓の作用により直接ビリルビンとなり,胆汁中に排泄される。総ビリルビンは間接ビリルビンと直接ビリルビンを合わせたものである。肝機能が障害されると,ビリルビンの排泄が障害されるため血中濃度が上昇し,黄疸の原因にもなる。標準範囲は0.2~ 1.2mg/dLである。
⑵ 原告に投与された医薬品について
ア スパントール(証拠<省略>)
スパントールは,フェンプロバメートを有効成分とする筋弛緩薬であり,フェンプロバメートとして1回200 ~ 400mgを,1日3回投与する。薬効として,筋弛緩作用があるほか,鎮静作用もある。また,フェノチアジン系薬剤(下記オのヒルナミンが該当する。)と併用する場合には,相互に作用が増強されることがあるので,単独投与することが望ましいとされている。
イ セルシン(証拠<省略>)
セルシンは,べンゾジアゼピン系のジアゼパムを有効成分とする抗不安薬であり,ジアゼパムとして1回2~5mgを,1日2~4回投与する。薬効として,馴化,鎮静作用がある。また,フェノチアジン誘導体(下記オのヒルナミンが該当する。)と併用する場合には,相互に中枢神経抑制作用を増強することから,眠気,注意力・集中力・反射運動能力等の低下が増強することがあり,併用注意とされている。
ウ デパケン(証拠<省略>)
デパケンは,バルプロ酸ナトリウムを有効成分とする抗てんかん剤,躁病・躁状態治療剤であり,バルプロ酸ナトリウムとして1日当たり400 ~1200mgを1日2~3回に分けて投与する。副作用として傾眠が5.5%に見られる。また,べンゾジアゼピン系薬剤(前記イのセルシン,下記カのべンザリンが該当する。)と併用した場合,ベンゾジアゼピン系薬剤の作用が増強することがあるとされている。
エ トリプタノール(証拠<省略>)
トリプタノールは,アミトリプチリン塩酸塩を有効成分とする抗うつ剤であり,うつ病・うつ状態に対しては,アミトリプチリン塩酸塩として1日30~ 75mgを初期用量とし,1日150mgまで漸増し,まれに300mgまで増量することもある。抗うつ薬の中では比較的鎮静効果に優れており,上記のとおり,初期には,1日30 ~ 75mgの投与量にて開始し,過鎮静などの副作用の発現に注意することとされている。また,バルプロ酸ナトリウム(前記ウのデパケンが該当する。)と併用した場合,トリプタノールの作用が増強されるおそれがあるとされている。
オ ヒルナミン(証拠<省略>)
ヒルナミンは,フェノチアジン系のレボメプロマジンマレイン酸塩を有効成分とする精神安定剤であり,レボメプロマジンとして1日当たり25 ~200mgを分割投与する。強力な鎮静作用を期待して,統合失調症,躁病及びうつ病における不安・緊張に対して投与されることが多い。
カ ベンザリン(証拠<省略>)
べンザリンは,べンゾジアゼピン系のニトラゼパムを有効成分とする睡眠誘導剤であり,不眠症に用いる場合,ニトラゼパムとして1回5~10mgを就寝前に投与する。薬効として鎮静催眠作用や静穏作用がある。
キ ポララミン(証拠<省略>)
福島刑務所では,ジェネリック医薬品であるネオマレルミン徐放錠を,先発薬品であるポララミンとして処方している。ネオマレルミンは,ポララミンと同様に,d─クロルフェニラミンマレイン酸塩を有効成分とする抗ヒスタミン剤であり,d─クロルフェニラミンとして1回6mg(1錠)を1日2回投与する。5%以上又は頻度不明の副作用として鎮静がある。
3 争点⑴ア(平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間,刑務所医師は,褥瘡の発生を回避するため,適切な投薬を行うべき注意義務を怠ったか否か。)について
⑴ 原告は,刑務所医師には,褥瘡発生の危険性が高い状態にあった原告に対し,平成16年12月25日から平成17年1月7日にかけて,原告に褥瘡が発生する危険性の大きさ及びその褥瘡発生の予見可能性があったことを前提に,適正な投薬を行うことによって原告に褥瘡が発生することを回避すべき注意義務があったと主張する。そこで,まず,上記期間において,刑務所医師において褥瘡発生の予見可能性があったかについて検討することにする。
⑵ 鑑定人Jが平成25年5月1日付けで作成した鑑定書(以下「J鑑定」という。)によれば,本件において原告に褥瘡が発生した機序につき,高度の浮腫があったこと,過鎮静ではないにせよ身体活動低下があったこと,有効な除圧体位がとれなかったかもしれないこと,基礎疾患として糖尿病があることなどが複合的に関与して褥瘡発生に至ったと類推はできるが,確定的論拠をもった説明は困難であるとし,また原告に褥瘡の発生しやすい要因は一般的には揃っていなかったとの医学的判断を示している。
そこで,J鑑定の合理性について,褥瘡の危険因子に沿って検討する。
⑶ 基本的動作能力について
ア 上記のとおり,ベッド上の自立体位変換,すなわち自力で体の向きを換えられるか,自力で体位変換ができる場合でも,患者が好む得手体位や,疼痛のために同一体位を続けざるを得ないかを,危険因子として検討する必要がある。
この点,J鑑定は「原告が…洋式トイレを使用できる程度の身体的活動が可能であったこと,自力で食事もとれていたこと」が事実であるならば,褥瘡の発症しやすい要因は一般的には揃っていなかったとしており,原告が自力での体位変換ができる程度に自力での体動が可能であることを前提としていると解することができる。
イ この点,原告は,平成16年12月21日頃には過鎮静の徴候を生じ,同月25日には,刑務所職員が声を掛けても起きずに寝ていて立ち上がれない状態になり,痛感も鈍麻しており,平成17年1月7日までの間は,自力での体動ができない状態にあったと主張し,原告本人の供述中には,①平成16年12月25日頃から,ずっと寝たままで動けず,同日頃から平成17年1月18日に病舎に移るまで,大便をしたのは介助を受けて行った1回のみであり,食事もほとんどとることができなかった旨の上記主張に沿う供述部分があり,また,原告の陳述書(証拠<省略>)中には,②原告は体動ができない状態であったことから,平成16年12月24日,平成17年1月2日及び同月11日に入浴を実施した事実はない旨の上記主張に沿う陳述記載部分がある。
ウ そこで検討するに,前記1事実経過等及び後掲の各証拠によれば,以下の事実が認められる。
(ア) 原告は,平成16年11月1日から同年12月9日まで,体が動かない症状を訴えることはなかった。同月16日の診察において,原告は腰痛で足がうまく動かない旨訴え,椅子から立ち上がる際には難儀そうにするも,部屋から出る際はスムーズに歩いていた。同月27日の診察の際の担当の話では,原告は体動ができないとのことであった。平成17年1月6日の診察の際には,原告は,体が動かない,布団の上では臥位になったままと訴えていたが,E医師の指示に従い,両手を挙げることは可能であった。(証拠<省略>)
(イ) 原告は平成16年12月25日には,尿失禁により丸首シャツ,パンツ及びシーツを汚損した。同月26日は,用便時に刑務所職員の介助を得る必要があり,午後9時以降は尿瓶を用いた。それ以外の日については,失禁により衣類やシーツを汚損したり,用便について刑務所職員の介助を得たりしたことはなく,自力で洋式便器に移動した上で用を足した。(証拠<省略>)
(ウ) 平成16年11月1日以降,原告は週に2回ないし3回の運動及び入浴を欠かさず実施していたが,同年12月16日の運動を不実施として以降,同月21日,同月22日,同月29日及び同月30日には体調不良を理由に運動及び入浴を不実施とし,同月27日及び同月28日並びに平成17年1月4日及び同月5日については出たくない又は入りたくないことを理由に運動及び入浴を不実施とし,その他,同月6日の運動及び同月7日の入浴を不実施とした。平成16年12月21日から平成17年1月7日までの間で,原告が運動又は入浴を実施したのは,平成16年12月24日及び平成17年1月2日の2回の入浴のみであった。(証拠<省略>)
(エ) 原告は,平成16年12月25日の朝食及び昼食を食べず,平成17年1月1日,同月3日及び同月5日の朝食を食べなかったが,その余の食事をしている。また,平成16年12月26日,同月28日及び同月29日並びに平成17年1月4日には食事をしたものの,食事や服薬のために刑務所職員の介助を得た。(証拠<省略>)
エ(ア) 上記ウの事実によれば,原告は平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間,運動及び入浴を行う頻度が著しく低下した上,食事をとらないことや,食事や用便の際に介助を要したこともあり,自力での体動が一定程度低下していたことは否定できない。
しかしながら,ほとんどの食事や用便は原告が自ら行うことができたのであり,運動や入浴を不実施とした理由も,出たくない,入りたくないといった原告の希望によるものもあり,必ずしも自力での体動が困難であったことのみが理由ではなく,E医師の診察の際にも両手を挙げる動作ができたりする等,自力での体動ができていたことが認められる。そして,原告は,E医師の診察や刑務所職員に応答することができており,原告に意識障害があったことをうかがわせる証拠はない。
これらのことからすれば,原告が,平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間,自力での体位変換が困難な状況にあったものと認めることはできない。
(イ) また,原告に,自力での体位変換が困難となる程の疼痛があったことをうかがわせる証拠はなく,また,原告は仰臥位でいることが多かったことがうかがわれるものの,食事,用便,診察等の際には体を動かしており,仰臥位が得手体位であって体位変換が困難であったとまではいうことはできない。
オ(ア) そこで,原告の上記供述部分(①)の信用性について検討すると,原告の供述を裏付ける証拠はなく,かえって不食簿(証拠<省略>)には上記ウエで認定した事実と同様の記載があり,この記載と原告の上記供述部分は矛盾しているところ,不食簿の記載を信用することができない事情もない。大便についても,同日頃まで便秘の症状を訴えたことはないにもかかわらず,約3週間の期間のうち1回のみしか行っていないというのは不自然である。そして,原告自身,平成16年12月頃の記憶は断片的で,日にちの記憶ははっきりしない旨供述しており,原告の経験した食事や用便等の事実について記憶が失われている可能性も否定できない。
そうすると,原告の上記供述部分は,客観的裏付けを欠く上,不自然なものというべきであり,これを採用することはできないといわざるを得ない。
(イ) また,原告の上記陳述記載部分(②)の信用性について検討すると,原告の上記陳述記載部分を裏付ける証拠はない上,運動・入浴日誌(証拠<省略>)には,上記ウウ認定のとおりの上記各日に入浴した旨の記載があるところ,原告の上記陳述記載部分は運動・入浴日誌の記載に反するものといえるが,上記各日に限って刑務所職員が誤った記載をするなど,運動・入浴日誌の記載の信用性を疑わせる証拠はない。
そうすると,原告の上記陳述記載部分は,客観的裏付けを欠くものであって,これを採用することはできないといわざるを得ない。
(ウ) したがって,自力での体動ができない状態にあった旨の原告の上記主張は,これを認めるに足りる証拠がなく,採用することはできない。
カ 以上のことから,平成16年12月25日から平成17年1月7日にかけて,原告が自力での体位変換が困難な状態にあったものと認めることはできず,J鑑定の上記前提は,証拠から認められる上記事実と合致しており,その判断の合理性を肯定できるといえる。
キ(ア) 原告は,原告の体動が困難になった原因について,刑務所医師による不適切な投薬が原因であると主張する。そこで,刑務所医師による投薬に不適切な点があったか,及び上記投薬と褥瘡発生との間に因果関係がマ マがあるかの2点について検討する。
(イ) 鑑定人Kが平成25年5月31日付けで作成した鑑定書(以下「K鑑定」という。)によれば,平成16年11月1日から平成17年1月12日までの間に原告に投与された薬剤については,ヒルナミン,トリプタノール,デパケンを含め,その投薬量はいずれも適量であるとした上,同月6日までの原告の体動不全の原因としては,幻覚などの精神症状の悪化,腰痛及び抗精神病薬であるヒルナミンの影響が考えられるが,ヒルナミンの投薬は同月6日に中止されているため,その他の医薬品を含め,原告に対する投薬は,同日以降の原告の下肢の浮腫の原因となった体動不全には関係がないと判断している。
そして,K鑑定の上記医学的知見とそれに基づく判断について,その合理性を疑わせるに足りる証拠は見当たらない。
(ウ) そうすると,刑務所医師が別紙「投薬経過一覧表」<省略>のとおり投薬したことに不適切な点があったとは認め難く,また,平成17年1月6日以降の原告の体動不全と上記投薬との間の因果関係の証明はないものといわざるを得ない。
したがって,原告の上記アの主張を採用することはできない。
⑷ 病的骨突出について
上記のとおり,廃用性萎縮などで殿筋,皮下脂肪が極端に減少し,仙骨部が突出して見えるかを危険因子として検討する必要がある。なお,廃用性萎縮とは,固定等の理由で本来の活動が制限されたり停止した時に,筋肉を収縮することなく長期間経過すると起こる機能的な萎縮のことをいう。
この点,J鑑定においては,褥瘡発生部分の臨床写真が存在しないことを前提とする旨の記載があり,その他病的骨突出には何ら言及がないことから,原告の仙骨部及び両足のかかと部分の病的骨突出は認められないか,考慮しないことを前提としているといえる。
本件においては,原告に,褥瘡が発生した仙骨及び両足かかと部分に病的骨突出があったことを認めるに足りる証拠はない。
したがって,J鑑定の上記前提が誤りとはいえない。
⑸ 関節拘縮について
ア 上記のとおり,四肢の関節に,屈曲拘縮,伸展拘縮,変形などの稼働制限があるかを危険因子として検討する必要がある。なお,関節拘縮とは,関節外の軟部組織が収縮性変化を起こし関節の可動性が減少し,あるいは消失した状態をいう(証拠<省略>)。
J鑑定には,関節拘縮への言及がないことから,原告の関節拘縮を認めないか,考慮しないことを前提としていたものといえる。
イ 原告は平成16年12月27日頃には関節拘縮の状態にあったと主張するが,原告が刑務所医師らに対して関節拘縮の症状を訴えた形跡はない。また,原告本人の供述によっても,その症状は,左足の膝から下の感覚がなく,足首を思うように動かせないというのであり,足首その他の関節が動かないというものではない。その他の関節についても,可動性が減少ないし消失している事実を認めることはできない。
ウ そうすると,J鑑定が原告の関節拘縮を認めないか,考慮しないことを前提としていたことは,誤りではないといえる。
⑹ 栄養状態低下について
ア 上記のとおり,褥瘡発生を予防するために必要な栄養が適切に供給されていない状態であるかを危険因子として検討する必要があり,より具体的には血清アルブミン値3.0 ~ 3.5g/dLを下回る場合が褥瘡発生の危険があるとされているので,これを検討する必要がある。
J鑑定には,原告の栄養状態への言及はないが,原告の診療録には後述のとおり血清アルブミン値の検査結果が記載されているところ,J鑑定は原告の診療録を鑑定資料とした旨の記述があることから,診療録の血清アルブミン値を参照しつつ,原告には特に問題視すべき状況を認めないことを前提としていたものといえる。
イ 証拠<省略>によれば,原告の血清アルブミン値は,平成16年11月18日の検査では4.6g/dL,平成17年1月18日の検査では3.2g/dLであったことが認められる。
上記原告の血清アルブミン値は,基準とされる3.0 ~ 3.5g/dLの範囲内かこれを上回っており,原告の栄養状態が褥瘡発生の危険因子といえるほど悪化していたものとはいえない。
ウ そうすると,J鑑定が,原告の栄養状態に関して特に問題視すべき状況を認めないことを前提としたことは,誤りではないといえる。
⑺ 皮膚の湿潤について
ア 上記のとおり,多汗,尿・便失禁等により,原告の皮膚が湿潤の状況にあったかについて検討する必要がある。
J鑑定には,原告の皮膚の湿潤に特に言及はなく,原告が洋式トイレを使用できていたことを前提としていることから,尿・便失禁等による皮膚の湿潤を認めないか,考慮しないことを前提としていたものといえる。
イ 原告は平成16年12月25日に,尿失禁により丸首シャツ,パンツ及びシーツを汚損しており,同日は尿失禁による皮膚の湿潤が認められる状態にあったものといえる(前記1事実経過等⑶ア)。しかし,監督当直日誌(証拠<省略>)には,その他の日に尿失禁,便失禁等により,シーツ等を汚損した等の記述はないこと,原告が皮膚の湿潤が認められる状態となる程多汗等であったことを認めるに足りる証拠はないことからすれば,その余の日において原告の皮膚が,褥瘡の危険因子となるといえるほど湿潤状態にあったと認めることはできない。
ウ そうすると,原告の皮膚の湿潤が認められる状態にあった日は1日のみであり,かつ原告に褥瘡が認められた日とは約1か月離れていることからすれば,J鑑定が原告の皮膚の湿潤を認めないか,考慮しないことを前提としたことは,誤りではないといえる。
⑻ 浮腫について
ア 上記のとおり指圧痕を残すような浮腫が生じているかを危険因子として検討する必要がある。
J鑑定は,原告に高度の浮腫が認められたことに言及しており,それがいつの時点の浮腫であるかには言及がないものの,危険因子として浮腫の存在は前提としていたものということができる。
イ そこで検討するに,平成16年12月17日から平成17年1月11日までの診療録には,原告に浮腫が生じた旨の記載は一切ない。特に同月6日の診察の際には,原告は,E医師に対し,体が動かない等の訴えをしているが,足が腫れている旨の訴えはしておらず,また,診断したE医師も原告の足の状態について何ら診療録に記載していない。他方,前記1事実経過等⑶コのとおり,平成17年1月13日には,原告の両下肢全体に象の足のようにパンパンにむくんだ浮腫があったことが認められる。(証拠<省略>)
これらのことから,原告の両下肢の浮腫は,少なくとも平成17年1月7日以降同月13日までの間に発生したと認めることが相当である。
ウ 原告は,平成16年12月17日頃から浮腫の発生が始まり,原告の体動が低下している間に少しずつ進行し,平成17年1月13日に至ってようやく発見された旨主張し,また,原告本人は,平成16年12月頃,首から下が動かないことに驚き,刑務官を呼んだ際,両足が見たことのないほどにパンパンに腫れていた旨上記主張に沿う供述をする。
しかし,原告の上記供述を裏付ける証拠はない。原告は,平成16年12月27日及び平成17年1月6日にもE医師の診察を受けているが,食事をとっていることや体が動かないことについてはE医師に伝えているにもかかわらず,診療録には一度も両足の腫れを訴えた形跡がないこと,原告本人も,原告の当時の記憶は断片的であり,日にちの記憶がはっきりしないところもある旨供述していることも併せて検討すれば,原告の上記供述は客観的裏付けを欠く上,不自然であってこれを採用することはできない。他に,原告の上記主張事実を認めるに足りる証拠はない。
したがって,原告の上記主張を採用することはできない。
エ 以上のとおり,平成16年12月27日から平成17年1月7日の間に,原告に浮腫が生じていたと認めるに足りる証拠はないが,他方,同日以降同月13日までの間に原告に浮腫が生じたことが認められる。J鑑定は,いつの時点で原告に浮腫が認められたかについては言及がないものの,浮腫の存在を前提としたことは誤りとはいえない。
⑼ 痛感の鈍麻について
ア 知覚神経障害により,圧迫による痛みやしびれを感じることができない状態かを,危険因子として評価する必要がある。
J鑑定は,痛感の鈍麻には言及がないことから,これを認めないか,考慮しないことを前提としていたということができる。
イ 原告は,平成16年12月25日頃,原告の痛感が鈍麻していた旨主張する。
しかし,診療録等の記載や原告本人の供述その他本件に提出された全証拠を検討しても,原告の痛感が鈍麻していたことを認めるに足りる証拠はない。かえって,原告は平成17年1月3日及び同月5日の朝食を頭痛を理由に食べておらず(証拠<省略>),このことは,少なくとも同日までは原告に痛感があったことをうかがわせる事情である。
原告は実際に褥瘡を発症しているので,いずれかの時点で圧迫による痛みやしびれを感じて体位変換ができなくなっていたことは否定し得ない。しかしながら,それが具体的にどの時点であったのかは明らかにはならず,少なくとも平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間に,体位変換ができなくなる程痛感を失っていたものと認めることは困難である。
ウ そうすると,J鑑定が痛感の鈍麻を認めないか,考慮しないことを前提としていたことは,誤りではないといえる。
⑽ 糖尿病及び肥満について
ア 原告は糖尿病や肥満が褥瘡発生の危険因子であり,原告がそれらに該当する旨主張する。
イ J鑑定は,原告が糖尿病に罹患していたことに言及しており,これが危険因子となった可能性を否定していないものの,褥瘡発生の原因となったかについては,確定的な論拠とはなり得ないとしている。
糖尿病は,症状が悪化した場合に糖尿病性昏睡を来すことによって,体動が困難となり,褥瘡発生の原因となり得ると認められるが,一般には,糖尿病は,褥瘡が発生した場合に治癒を遅らせる原因となるに過ぎず,褥瘡発生の危険因子とはいえないとされている(証拠<省略>)。
しかし,本件では,平成17年1月19日にF医師が診察した際,原告の血糖値は135mg/dLであり,尿ケトン体もなかったことから,原告の糖尿病は悪化していたものではない(証拠<省略>)。
加えて,原告に意識障害があったことを示す証拠がないことは上記のとおりであり,そうすると,原告の糖尿病が,上記糖尿病性昏睡をもたらすほど悪化していたものとは認められない。
したがって,J鑑定が,糖尿病が危険因子となることを認め,かつ原告にも糖尿病が認められたことを前提としつつ,それが褥瘡発生の原因となったかについては確定を避けたことは誤りとはいえない。
ウ また,J鑑定は,原告の肥満には言及がないものの,「痩せ型でない」ことを「(原告に)褥瘡の発症しやすい要因は一般的には揃っていない」ことの理由としてあげており,このことは,むしろ痩せていることが危険因子になるのであって,肥満であることは危険因子としてはみなさないことを前提としているものと解される。
肥満に関しては,そのことのみをもって褥瘡発生の危険因子とする医学的根拠について証明がない。
したがって,原告が肥満であることを褥瘡の危険因子とみなさなかったJ鑑定の前提は誤りとはいえない。
⑾ 以上のとおり,褥瘡の危険因子に沿って検討すると,J鑑定には,その前提においてその合理性を疑わせる事情は見当たらない。
また,J鑑定の医学的知見に基づく評価についても,その合理性に疑いを抱かせるような証拠は見当たらない。
⑿ 上記のとおり,J鑑定は,原告に褥瘡が発生した機序に関し,類推はできても確定的論拠をもった説明は困難であるとし,また,原告に褥瘡の発生しやすい要因が一般的には揃っていなかったとしている。
そうすると,[判示事項1]原告に褥瘡が発生するに至るまでの因果関係は,本件に提出された全証拠によっても明らかにはならず,また,刑務所医師が,原告に褥瘡が発生する危険を認識していたとも,予見可能であったともいえない。
したがって,刑務所医師に,原告に褥瘡が発生することが予見可能であったことの証明はないといわざるを得ないから,刑務所医師には原告に褥瘡が発生することを予見し,これを回避すべき注意義務があったとはいい難い。
⒀ したがって,その余の点を検討するまでもなく,刑務所医師に,平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間,褥瘡の発生を回避するため原告に対して適切な投薬を行うべき注意義務を怠った過失があるとする原告の主張には理由がない。
4 争点⑴イ(刑務所医師は,平成17年1月13日以降も,褥瘡の発生を回避するため,精神科領域の投薬を継続すべき注意義務を怠ったか否か。)について
⑴ 被告は,原告の争点⑴イに係る主張について,時機に後れた攻撃防御方法の提出であるから却下されるべきであると主張するので,以下検討する。
ア 本件は,平成20年6月24日に第1回口頭弁論期日が開かれた後,約3年の間に口頭弁論期日及び弁論準備手続期日が16回にわたって重ねられ,その後の平成23年7月26日に開かれた第13回弁論準備手続期日において,主張整理案どおりの主張整理がされることについて,当事者双方が了解した。その主張整理案においては,原告の主張する過失は2つに整理され,1つは「平成16年12月25日から平成17年1月7日までの間の投薬について,刑務所医師は,褥瘡の発生を回避するため,適切な投薬を行うべき注意義務を怠ったか否か」,もう1つは「平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間の原告への対応について,刑務所医師らは,褥瘡の発生及び腓骨神経麻痺を回避するため,適切な処置を施すべき注意義務を怠ったか否か」(本判決の争点⑴ウに当たる。)であった。前者の過失は,同主張整理案において,「刑務所医師としては,原告に対し,以後も鎮静作用を及ぼすおそれのある薬剤等の投与を継続すれば,相互作用によって増強された薬剤の効用によって,原告の過鎮静の状態が悪化し,原告が体位変換等をできなくなり,同一部位が長時間圧迫され,褥瘡が生じるおそれがあることを当然に予見し,薬剤の投与を中止するなどして,それを回避すべきであった。」とされているとおり,刑務所医師による過剰又は不適切な投薬を注意義務違反とするものであった(すなわち,本判決の争点⑴アに当たる。)。
上記のとおり主張整理がなされた後,平成23年12月6日の第4回口頭弁論期日にE医師の証人尋問が,同月20日の第5回口頭弁論期日において原告本人尋問が行われた。その後,原告が平成24年1月31日に鑑定を申し立てたことから,平成24年10月18日の第16回弁論準備手続期日において同申立てが採用され,平成25年6月4日までに鑑定人から鑑定書が提出された。同鑑定書を踏まえて原告及び被告が最終の準備書面を提出し,口頭弁論を終結するために,同年7月30日に第9回口頭弁論期日が開かれたところ,同期日において,原告が争点⑴イに係る過失を新たに主張したものである。
イ 原告による争点⑴イに係る過失の主張は,争点整理において確認された原告の刑務所医師による投薬が過剰又は不適切であったとの主張及び刑務所医師らが褥瘡等の発生を回避するため適切な処置を施さなかったとの主張とは異なり,刑務所医師による投薬の中止が過失行為に当たると主張するものであり,刑務所医師らがした投薬の内容又は処置の内容の適否ではなく,投薬を中止した判断とそれに基づく不作為が過失に当たるとするものであるから,新たな注意義務とその違反を主張するものといえる。前者においては,刑務所医師らが実際にした投薬や,原告がするべきであったと主張する処置の内容と原告の状態に照らし,医学的に適切な投薬や措置がされていたかが問題になるのに対し,後者においては,刑務所医師らが投薬を中止するに至るその判断が医学的に適切かが問題となるものであって,審理の対象とすべき行為が全く異なり,また判断の前提となる医学的知見も異なるものとなる。そうであれば,前者に関する主張立証が尽くされた後の訴訟の最終段階において,後者の主張を追加することは,時機に後れた攻撃防御方法の提出であるといわざるをえない。
ウ 原告は,争点⑴イに係る原告の主張は,証人尋問及び鑑定の結果を踏まえた主張であるから,時機に後れた点について重大な過失がないと主張する。
しかし,当時原告にうつ症状があり,抗うつ薬であるヒルナミンが投与されていたことは,本件訴訟の初期の頃から判明していたものであり(平成21年4月22日付準備書面3等でも原告が指摘している。),かつ,原告は,本訴の提訴前に証拠保全に臨み,原告の診療録も入手し,また,本訴の第1回口頭弁論期日において,被告からも原告の診療録が証拠(証拠<省略>)として,提出されたのであるから,ヒルナミンを含む全ての投薬が平成17年1月13日までに中止されていることを容易に認識することができたものと認められる。したがって,ヒルナミンを含む投薬を中止することにより原告のうつ症状が悪化し,これが褥瘡の原因となったとの主張を構成することは,本件訴訟の遅くとも上記主張整理案を確認するまでには,原告においても十分に可能であったといわざるを得ない。そうであるにもかかわらず,本訴の最終口頭弁論期日までかかる主張をしなかったことは,重大な過失に該当するというべきである。
エ 争点⑴イに係る過失の主張について判断するためには,平成17年1月頃の原告の精神疾患の状況や,原告に投与されていた薬物の効用,精神疾患と褥瘡又は腓骨神経麻痺との間の因果関係の有無等,従前十分に争点化されていなかった事実について,主張立証がされる必要がある。そして,薬物の効用等についての証拠はある程度提出されているものの,精神疾患の状況等については証拠も少なく,医療の専門的知見を基にした主張立証が行われる必要があることも併せ考えれば,更に相当程度審理を重ねる必要があるといえる。そうすると,原告による上記主張の追加が本件訴訟の完結を遅延させることとなるのは明らかである。
⑵ 以上のとおり,[判示事項2]原告の争点⑴イに係る過失の主張は,民訴法157条1項にいう時機に後れた攻撃防御方法に当たるから,これを却下することとする。
5 争点⑴ウ(平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間の原告への対応について,刑務所医師らは,褥瘡及び腓骨神経麻痺の発生を回避するため,適切な処置を施すべき注意義務を怠ったか否か)について
⑴ 褥瘡について
ア 原告は,刑務所医師らには,褥瘡発生の危険性が高い状態にあった原告に対し,平成16年12月25日から平成17年1月19日にかけて,褥瘡の発生を回避するために適切な処置を施すべき注意義務があったのに,これを怠った過失がある旨主張する。これは,争点⑴アにおけると同様に,刑務所医師らに原告に褥瘡が発生することの予見可能性があったことを前提に,適切な処置を施すことによって原告に褥瘡が発生することを回避すべき注意義務があったと主張するものである。
イ そこで,刑務所医師らにおいて,褥瘡発生の予見可能性があったかについて検討することにする。
J鑑定は,特に時期について明示せず,褥瘡の発生機序につき,確定的論拠をもった説明は困難であるとし,また原告に褥瘡の発生しやすい要因は一般的にはそろっていなかったとしている。その判断の合理性については,争点⑴アで検討したとおりであるが,そこで検討した平成16年12月25日から平成17年1月7日までの事実に加え,同月8日から同月19日までに新たにみられた原告の症状に照らし,その頃の原告の基本的動作能力及び皮膚の湿潤について,J鑑定の合理性を更に検討する。
ウ 前記前提事実,上記1の事実経過等に後掲証拠<省略>を総合すれば,以下の事実を認めることができる。
(ア) 平成17年1月13日には,原告の両下肢全体には浮腫が生じ,象の足のようにパンパンになってむくんでおり,下肢を動かしていないと認められた。これに対しては,E医師より,下肢挙上及び弾性包帯の指示がされた。このような浮腫は,同月17日及び同月19日の診察の際にも改善されることなく残っており,原告は足が動かないと訴えていた。
他方,平成17年1月8日から同月19日までの間,診療録等には,原告が食事や用便の際に介助を必要とした内容の記載はなく,食事をとらなかった旨の記載もない。(証拠<省略>)
(イ) 平成17年1月8日から同月19日までの間,診療録等には,原告が衣類やシーツの交換を申し出た旨の記載はない(証拠<省略>)。
エ(ア) 上記ウの事実関係のとおり,平成17年1月13日には原告の両下肢に浮腫が認められ,原告の両下肢が動かされていないと認められている。このことから,同日においては,同月7日までの状態と比べて,原告の体動,特に両下肢の体動が低下していたものということができる。
しかしながら,原告が食事や用便の際に介護を要したことの記録がないことに照らせば,食事や用便等日常生活に不可欠の動作については,自力で可能であったことがうかがえる。そうであるとすれば,この頃の原告が,自力での体位変換が困難となるほど基本的動作能力が低下していたとまでは認めることは困難である。
(イ) また,原告が衣類やシーツの交換を申し出た記録がないことに照らせば,この頃の原告には,尿,便失禁はなかったものということができる。
(ウ) 以上検討したことに加え,上記争点⑴アで検討したところも併せれば,上記J鑑定は,平成17年1月8日から同月19日までの間の事実を前提としても,なお合理性を有するということができる。
オ そうすると,[判示事項1]原告に褥瘡が発生するに至るまでの因果関係は,本件に提出された全証拠によっても明らかではないから,刑務所医師に,原告に褥瘡が発生することが予見可能であったとする事実についてその証明はないものといわざるを得ない。
したがって,刑務所医師には原告に褥瘡が発生することを予見し,これを回避すべき注意義務があったとはいい難い。
カ したがって,その余の点を検討するまでもなく,刑務所医師に,平成16年12月25日から平成17年1月19日にかけて,褥瘡の発生を回避するために原告に対して適切な処置を施すべき注意義務があったのに,これを怠った過失があるとする原告の主張には理由がない。
⑵ 腓骨神経麻痺について
ア さらに,原告は,刑務所医師らには,左足に圧迫を原因とする腓骨神経麻痺が生ずる危険性があった原告に対し,平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間,腓骨神経麻痺の発生を回避するために適切な処置を施すべき注意義務を怠った過失がある旨主張する。
イ(ア) 前記1事実経過等⑷オのとおり,原告は,平成23年4月2日に,I医師により,腓骨神経麻痺の診断を受けている。また,前記1事実経過等⑷ウのとおり,原告は,平成17年6月17日に八王子医療刑務所において診察を受けた際,左腓骨神経領域が選択的に障害されており,その原因としては,腓骨小頭付近での圧迫による末梢神経障害(腓骨神経)が考えられると診断されている。
これらのことからすると,平成17年6月頃には,原告の左足に腓骨神経麻痺が生じていたものと認められる。
(イ) 被告は,原告が,前記1事実経過等⑷エのとおり,平成20年10月13日及び同月14日に,右足で多数回強く蹴り付けて,福島刑務所の施設を損壊していることから,軸足となった左足に腓骨神経麻痺が生じていたはずがない旨主張する。
しかし,上記八王子医療刑務所における診察においても,原告が左足で立つことが不可能であるとの診断はされていないし,約6年後の診察ではあるが,I医師による診察によれば原告の左足は筋力の5分の1ないし5分の2の低下がみられるにとどまるのであって,これも左足で立つことができない程のものとはいえない。
そうであれば,原告の左足は,左足を軸足にして右足で窓を蹴りつけることができない程,麻痺し又は筋力が低下していたとまでは認めることはできず,原告の左足に腓骨神経麻痺が生じていることと,原告が上記のとおり福島刑務所の施設を右足で蹴りつけて損壊したことは矛盾しない。
したがって,被告の主張は上記アの認定判断を左右するものとはいえない。
ウ 次に,原告の左足に腓骨神経麻痺が生じたことに関して,刑務所医師らに注意義務違反があったかについて検討する。
原告は,平成16年12月25日から平成17年1月19日までの間,原告に褥瘡が発生する危険性が高かった状況は,同時に,圧迫による腓骨神経麻痺が生じやすい状況であったことをも意味し,それゆえ,刑務所医師らは原告に対し,褥瘡が発生することを防止するのと同様の処置を施して,腓骨神経麻痺の発生を防止すべきであったと主張するようである。
しかしながら,原告が主張する,原告の腓骨神経麻痺の発生機序については,これを裏付ける事実及び医学的知見は証明されているとはいい難い。
また,腓骨神経麻痺は睡眠中の圧迫や足を組んで座ることによっても発生するとされていること(前記2医学的知見⑴ウ)からすると,原告の左足に腓骨神経麻痺が生じた原因は,本件に提出された全証拠をもってしても特定できず,その発生時期がいつであるかも特定することは困難である。
そうであれば,[判示事項1]刑務所医師らが,原告に腓骨神経麻痺が発生することを予見可能であったことも,これを回避可能であったことも証明されていないといわざるを得ず,刑務所医師らに原告の左足に腓骨神経麻痺が発生することを予見して適切な処置を施すべき注意義務があったとはいえない。
エ したがって,原告の左足腓骨神経麻痺に関して,刑務所医師らに原告主張に係る過失があったと認めることはできない。
6 以上のとおりであるから,刑務所医師らに原告主張に係る過失が認められない以上,その余の点について判断するまでもなく,原告の国家賠償法1条1項に基づく損害賠償請求は理由がない。また,同様に,刑務所医師らに原告主張に係る過失が認められない以上,国が原告に対して負う安全配慮義務に違反したものということもできないから,原告の安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求も理由がないことに帰する。
第5結論
よって,原告の請求は理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判官 潮見直之 松長一太 島田壮一郎)
別紙「投薬経過一覧表」<省略>