大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福島地方裁判所 昭和49年(ヨ)36号 決定 1974年11月18日

債権者 国分正朗 外九名

債務者 阿部写真印刷株式会社

主文

本件申請をいずれも却下する。

事実

債権者らは「債権者らが債務者に対し雇傭契約上の地位を有することを仮に定める。債務者は債権者らに対し、昭和四九年二月二一日から本案判決確定に至るまで毎月二五日限り一か月別紙(二)賃金目録記載の金員を仮に支払え。」との裁判を求め、債務者は主文同旨の裁判を求めた。

当事者双方の主張は、別紙(三)のとおりである。

理由

一  債務者は、昭和二八年九月一六日に設立され、青写真及び写真の複製加工・製図写真の作成・印刷物の印刷及び製本加工・出版業務等を営んでいる株式会社であるが、同四四年一二月に郡山支社を発足させて組版業務を分担させたこと、債権者渡辺みつ子は同四五年二月、同佐藤たか子は同年三月、同高橋房子は同年四月、同白石和恵は同年九月、同柳沼太利雄・同六角伸・同横田三恵・同関根久子は同四六年三月、同渡辺幸子は同四七年五月、同国分正朗は同年八月にそれぞれ債務者に雇傭され、郡山支社勤務となつたこと、同年一〇月四日に阿部写真郡山株式会社(以下、「郡山会社」という。)が設立され、右郡山支社の業務を引きつぎ、債権者らを含む従業員は引き続きそこで勤務していたこと、同四九年二月二〇日郡山会社が解散し、そのころ解散を理由に債権者らに対し解雇の意思表示がされたこと、その当時の債権者らの賃金は別紙(二)賃金目録のとおりであること、以上の事実については、当事者間に争いがない。

二  債権者らは、郡山会社は形式上債務者と別個の法人であるが、実質は従前どおり債務者の一支社にすぎないから、郡山会社の法人格は、少なくとも債権者らに対する関係においては、否認されるべきであり、従つて、債権者らは、依然として債務者に対して雇傭契約上の権利を有する旨・主張する。ところで、株式会社の法人格を否認すべきことが要請されるのは、法人格が全くの形骸にすぎない場合、またはそれが法律の適用を回避するために濫用されるが如き場合であると解される。そこで、以下、この点について検討する。

三  当事者間に争いのない事実および疎明により検討した事実関係は、次のとおりである。

(一)  郡山会社の資本および株主構成

郡山会社の設立当時における発行済株式総数は一四、〇〇〇株(一株の額面五〇〇円)、払込資本金は七、〇〇〇、〇〇〇円、株主構成は、阿部一郎(債務者の代表取締役)四、〇〇〇株、債務者六、〇〇〇株、早水敬三郎(郡山支社長、その前は債務者の印刷事業部印刷工場組版課長)・原田漸(債務者の印刷事業部印刷工場長)各八〇〇株、上村徳治(債務者の印刷事業部総務次長)・新保昭雄(債務者の取締役・経理部長)各四〇〇株、田辺幸雄(債務者の経理次長)二〇〇株、大橋功(債務者の専務取締役)一、四〇〇株(現在では大橋功に代つて、阿部不動産株式会社が所有)であつて、いずれも債務者およびその役員・従業員などの関係者である。なお、債務者の資本金は四九、四〇〇、〇〇〇円である。

(二)  郡山会社の役員等の人事構成

前叙のように債務者の役員ないし従業員である早水敬三郎・原田漸が代表取締役、上村徳治が取締役、新保昭雄、田辺幸雄が監査役にそれぞれ就任し、右のうち、早水敬三郎は郡山支社発足当時からの支社長で、郡山会社設立と共にその社長となり、常勤の代表取締役としてもつぱら郡山会社の業務遂行に当つていたが、上村徳治は必要に応じ郡山会社へ来て事務処理に当つており、その他の役員は郡山会社に常勤していなかつた。設立以後において、早水敬三郎・上村徳治のほか、管理職として、いずれも郡山において採用した梅津豊次が総務課長、水野久が業務課長の職にあり、その他課長補佐・係長若干名がおかれていた。

(三)  郡山会社の業務

郡山会社は、写真植字及びタイプによる組版・印刷物の印刷及び製本加工・製図写図の作成等を目的として設立されたが、その設立に際して、従前の郡山支社の営業をそのまま譲り受け引きついだものであり、当初しばらくの業務は従前とほとんど変化はなく、仕事は全部債務者から送られていたが、後になつて、債務者以外からの注文による仕事も若干受けるようになつた。そして、これらの取引は、郡山会社の名でなされ、債務者との取引も組版業務の請負関係(債務者からの発注単価は、他の地方同業者に対する場合と同様の基準で決定されていた。)に切替えられたものである。

(四)  郡山会社の表示等

郡山会社は、設立後間もなく郡山税務署長・福島県郡山県税事務所長・郡山市長等に対し、その名において法人設立の届出青色申告の承認申請をなすと共に、社内に対する関係では、自らの就業規則を作成し(もつとも、郡山労働基準監督署への届出は、遅れて昭和四八年六月になされている。)、従業員に対して身分証明書を発行し(もつとも、郡山会社のものに切替えたのは昭和四八年初夏になつてからであるが、右会社設立に際し、上村取締役が従業員を一堂に集めて新会社設立に伴い新会社の従業員となる旨を説明している。)、社外に対する関係では、社屋たる建物賃借人の名義を郡山会社に変更して同会社が賃料を支払い(もつとも、看板は、昭和四八年初夏になつてから郡山会社のものに変えられた。)、従業員の保険診療についても、郡山会社が事業主として手続をとつていた(健康保険の資格取得は昭和四七年一一月一日、健康保険証は同月二〇日被保険者たる従業員に交付)。

(五)  郡山会社の経理・財産等

郡山会社は設立以来解散に至るまで、自らの損益計算書・貸借対照表等の計算書類を作成していた。郡山会社の所有する財産は、設立に際し債務者から譲り受けたものであるが、その後、債務者の財産と郡山会社の財産とが混同していたと認めるに足りる疎明はない(もつとも、郡山会社は、その社用の自家用トヨタバンにつき、登録上の使用者名義を債務者会社郡山支社(登録上の所有者名義はトヨタカローラ福島株式会社)としたままでこれを使用していたが、このことから、一般的に財産の混同があつたと推認できるものではない。)。また、債権者らは、その賃金につき債務者がこれを計算し、郡山会社に送金して支払つていたと主張するが、これを疎明するに足りる資料もない(もつとも、郡山会社は、その設立後も昭和四八年六月分までの賃金につき、債務者会社名の印刷された給料袋(郡山会社名の訂正印を押したものもある)および債務者会社の給料明細書用紙(同会社名の記入はない)をそのまま利用していたのであり、事務処理上ルーズといわざるをえないが、このことから、右債権者ら主張の事実を推認できるものではない。また、この点につき、債権者らの援用する他の疎明(陳述書等)は、債務者の反対疎明に照らし採用するまでには至らない。)。なお、債務者会社には、睦月会と称する社内貯蓄制度があり、郡山会社設立後も昭和四八年五月まで、その従業員がこれに加入し、毎月積立を継続していたが、その後全員が退会して積立金の払戻を受けた。

(六)  郡山支社および郡山会社設立の経緯

債務者の業務は、写真事業部門と印刷事業部門とに大別されるが、後者は、タイプ打及び写真植字により版下を作製(組版)するPTO印刷の方法を採用し、作業の大部分が女子従業員(とくにタイピスト)によつて行われる労働集約型の事業であるところ、女子従業員の大半は在職期間が短いので、退職した者にもタイプ等の仕事を下請に出して(「個人外注」又は「社外々注」といわれる。)受注量を消化するのが常態であつた。ところが、債務者の事業所がある東京及びその周辺においては、これら従業員の採用・養成及び社外々注の確保について次第に困難な事情が多くなつたので、債務者としては、東京に近い郡山市に進出して、人手不足を補い組版作業の生産能力を高める目的で、郡山支社を開設したのであるが、将来は、相当規模の組版工場を作り、これを土台にして印刷まで行い、別会社に独立させて経営を合理化し、地元企業として発展させ、ひいては、債務者の組版作業の生産能力確保に資するという構想であつた。郡山支社は、開設後次第に生産能力を高め、昭和四七年五月ころから黒字基調に転じ、経営の見通しがつくようになつたので、当初の構想を実現すべく郡山会社の設立に至つた。

(七)  郡山支社および郡山会社の賃金水準

いわゆる地場賃金を参考として決定されたもので、福島県商工労働部の「賃金等労働関係実態調査報告」及び福島県郡山商工労政事務所・福島県労政協会郡山支部発行の「諸調査に表われた労働事情」(いずれも昭和四八年七月現在のもの)と対比して検討するに、とくに低いものであつたとは断定できない。しかし、債務者本社の賃金水準との間には格差があつた(疎甲第二一号証・第三一号証によれば、初任給において月額平均八〇〇〇円の格差をもつて発足したといわれている。)。

(八)  郡山支社および郡山会社における労働運動

1  昭和四六年六月一五日付で、郡山支社の従業員らが近内恒子を代表者として、当時の郡山支社長・早水敬三郎に対して、賞与支給の基準・作業量・休息等について九項目に及ぶ労働条件改善についての要望書を提出し、支社長はその一部を認めて若干の改善がなされた。債権者らは、右の運動に引き続いて、労働条件改善等のため職場団交をくり返したと主張するが、これを疎明するに足りる資料はない。

2  郡山会社設立後の昭和四七年一二月ころ、債権者らを含む従業員は、年末の賞与について多くの者が不満を持ち、それがきつかけとなつて、労働条件改善のため、労働組合を結成しようとする動きが出た。

3  昭和四八年三月一八日債権者らを含む郡山会社従業員二五名は、全日本自由労働組合に加入し、同組合福島県支部阿部写真郡山分会(以下、「組合」という。)を成立させ、翌一九日郡山会社代表取締役・早水敬三郎に対し組合結成を通告した。

4  組合成立の直後から昭和四八年六月ころにかけて、労働条件改善の要求をめぐつて、組合と早水敬三郎、上村徳治、梅津豊次らとの間で数次にわたる団体交渉が重ねられ、組合において争議行為に及ぶなど運動が激化すると共に、労使間の対立が深刻になつていつた。

四  そこで、まず、郡山会社の法人格が形骸に過ぎないかどうかを判断するに、以上説示の事実によれば、債務者と郡山会社とは、いわゆる分離独立型の親子会社に該当するものと考えられるが、郡山会社の株主や役員の構成及び業務の内容等を見れば、債務者は、郡山会社を支配できる地位にあつたものということができる。しかしながら、郡山会社は、機構上、債務者とは別個の組織・財産を有し、独立採算制のもとに、債務者との取引をも含め、その名で業務を運営し、その収支を明らかにする計算書類を作成していたのであつて、郡山会社の実質が全く債務者の一支社に過ぎないといえるような会社財産ないし業務の混同があつたものとは、とうてい認め難い。また、郡山会社において株主総会や取締役会等法定の手続を無視していたものと認めるに足る疎明も、全くない。そうとすれば、郡山会社は、前叙のごとく債務者の支配を受ける立場にあつたとはいえ、いまだ、その法人格をもつて全くの形骸に過ぎないものと断定することはできない、といわなければならない。

五  それでは、債務者が郡山会社の法人格を濫用する目的で、これを設立したものといえるであろうか。この点につき、債権者らは、債務者が低賃金を合理化する目的を持つていたと主張するが、前叙(三(七))のように、郡山支社の賃金水準が地元の福島県内または郡山市周辺のそれと比較して、とくに低いものとは断定できないし、また、債務者本社の賃金水準との間に、格差はあつたと認められるものの、大都市と地方都市との間に存する生活条件の相違を考えるならば、その間の賃金水準に格差があつても、それをもつて必ずしも不合理とはいえないであろう。次に、債権者らは、債務者が従業員の労働条件改善運動を回避する対策として郡山会社を設立した旨主張するが、右設立後二か月余を経過してから組合結成の動きが出、組合成立後、すなわち郡山会社設立から約五か月後に労働運動が盛んになつたのであつて、設立前においては、わずかに要望書提出があつた程度にすぎないから、郡山会社設立が債務者の労働運動対策としてなされたもの、とも考え難い。以上のことに、前叙郡山会社設立の経緯(三(六))を考慮するならば、債務者は、組版作業の生産能力を確保するために郡山市に進出し、その経営を合理化し危険を分散する目的で郡山会社を設立したもので、そこに、法人格を濫用する意図があつたとは認められないのである。

六  以上のように、債務者と郡山会社とは、実質的にも別個の法人格を持つていたものである。そして、債権者らは、郡山会社設立後、それを認識したうえで勤務を続けたものであり、特に異議が出たことを認めるに足りる疎明はないから、債権者らの雇傭関係は、債務者から郡山会社に移転したものというべく、その後は、債務者が直接雇傭契約上の義務を負担することはないといわなければならない。

七  なお、債権者らは、郡山会社設立後の労使間の紛争が郡山会社の解散・本件解雇にまで至つたのは、債務者が債権者らによる組合運動を抑圧する意図をもつて、郡山会社に対する支配力を利用しその法人格を濫用したためであるとも主張しているようである。しかし、右主張のような債務者の団結権侵害行為があるかどうかはさておき、かりにそれがあるとしても、そのことによつて、前叙のように雇傭契約の当事者ではない債務者に対し「雇主」たる地位を認めるところまで、郡山会社の法人格を否認することは困難というべきであろう。けだし、法人格否認の法理は、法人制度の目的に照らし必要な限度において相対的に適用すべきものと解されるので、右のような法人格の濫用による団結権侵害行為に対しては、これを排除するに必要な限度で、換言すれば、不当労働行為に対する救済の問題としてその限度で法人格否認の法理を援用すべきものと考えられるからである(労働組合法上の「使用者」につき、形式的な雇傭契約上の使用者に限られず、実質的にこれと同視しうる支配従属関係を及ぼしうる者をも含むとの見解も、同様の基盤に立つものと考えられる。)。すなわち、右のような債務者の団結権侵害行為を理由として、債務者に対し、不当労働行為による責任を追求して労働委員会による行政的救済を求めるのは格別、本件におけるがごとく雇傭契約上の責任を追求して司法的救済を求めることは難しいといわなければならないから、この点において、右債権者らの主張は採用できない。

八  要するに、債権者らの法人格否認に関する主張は、すべて採用できないから、債権者らは、債務者に対し雇傭契約上の権利を有するものではなく、債権者らの被保全権利は認められないことに帰する。このような本件において、保証を立てさせて疎明に代えることも相当ではないので、その余の判断をするまでもなく、本件仮処分申請は失当であるから、いずれも却下することとし、主文のとおり決定する。

(裁判官 佐藤邦夫 岩井康倶 佐藤道雄)

別紙(一)、(二)<省略>

別紙(三)

(債権者らの主張)

申請の原因

第一

一 債務者会社は、昭和二八年九月一六日に設立され、(1)青写真及び写真の複製加工(2)製図写真の作成(3)印刷物の印刷及び製本加工(4)出版業務等を営んでいる株式会社である。そして、債務者会社は肩書地に本社を、東京都目黒区五本木一ノ七ノ一に写真事業部を、東京都下府中市美好町三ノ五六に府中事業部(府中工場)を、神奈川県川崎市木月住吉町一八七二に川崎事業部(川崎工場)を、東京都港区高輪一ノ二ノ一三に印刷事業部を、横浜市港北区新吉田町二一八に印刷事業部(横浜工場)を、及び福島県郡山市清水台二ノ一三ノ二四に郡山支社(同四七年一〇月四日阿部写真郡山株式会社を設立し、形式上別個の法人形式をとつたが実質は従前通り債務者会社の「一支社」にすぎない)を各々有し、従業員は、合計約五〇〇名程度である。

二 債権者国分は、同四七年八月二六日に、同渡辺みつ子は同四五年二月二〇日に、同柳沼、六角、横田、関根は各々同四六年三月八日に、同佐藤は同四五年三月二日に、同高橋は同年四月一〇日に、同白石は同年九月一日に、及び同渡辺幸子は同四七年五月二一日に、各々債務者会社に雇用され、以後債務者会社郡山支社において勤務していたものである。そして債権者らは同四八年三月一八日結成された全日本自由労働組合(略称全日自労)福島県支部郡山分会印刷班の組合員である(班の執行委員長は債権者国分、執行副委員長は同渡辺みつ子及び書記長は同柳沼である)。

三 債権者らの賃金は、同四九年二月現在別紙賃金目録記載のとおりであり、該賃金は毎月二五日に支払われる約であつた。

四 しかるに、債務者会社は、債権者らを同四九年二月二〇日郡山支社閉鎖(解散)を理由に全員解雇し、債権者らを同月二一日より債務者会社の従業員として取扱わず、同日以降債権者らに賃金の支払いをしない。

第二(阿部写真印刷会社を債務者とした根拠について)

一 (債務者会社が債務者会社郡山支社を形式上別法人にするに至つた経緯)

1 債務者会社は、同四四年一二月に福島県郡山市清水台二ノ一三ノ二四に郡山支社を発足させた。発足当初の郡山支社はタイプ部門のみで、従業員も約一〇名程度であつたが、翌年二月頃に従業員を四〇名に増加し、更に同四六年にはトレース、写植、カメラの各部門を新設し、従業員も約六〇名程度に増加し本格的に業務を開始するようになつた。尚、郡山支社発足当初は支社長は存在せず、申請外早水敬三郎が係長として債務者会社横浜工場より転勤し、その後同四五年七月同人が郡山支社長(以下早水敬三郎を単に支社長という)となつた。

2 ところで、郡山支社の労働条件は劣悪そのものといつても過言ではないような状態であつた。即ち、連日残業を強制され女子従業員(郡山支社の従業員の四分の三は女子)に対し深夜残業を強いることも決して珍しいことではなく日常茶飯事として行なわれてきたのである。そして、残業の疲れを有給休暇で補なおうとしても、支社長から「休暇をとるとボーナスを減らす」などとイヤ味をいわれ、事実上とることができないような状態であつた。また、更衣室や昼食をするための食堂がなく、休憩室はあることはあるが非常に狭くロツカー等も数人が共同して使用し、鍵を支社長が保管しているような状態であつた。そして、賃金は低額でしかも債務者会社の本社等と郡山支社との間に大幅な差別がなされていた(ちなみに、四七年度の初任給で比較してみると、本社では、金四万三、〇〇〇円であつたのに対し、郡山支社では金三万円であつた。)このような低賃金、劣悪な労働条件のため、郡山支社では支社発足後四年間で約九〇名もの従業員が退職したというような状況である。

3 郡山支社の劣悪な労働条件、低賃金、郡山支社の従業員に対する賃金の差別等に不満を持つた郡山支社の従業員は、債権者渡辺みつ子、同佐藤、申請外菊地正三らを中心にして同四六年六月頃より社内サークル「シーズンクラブ」を通じて労働条件の改善、賃金の引き上げ等について話し合いを持ちボーナスの一律化、ベースアツプ、外注価格の引き上げ(債務者会社は外注―下請―制度を大幅に取り入れているが、外注の労働者は全く債務者会社の支配に服し従属している関係にあるので実質的には債務者会社の雇用労働者である)等、十項目に及ぶ要求書を作成し、郡山支社に勤務するほぼ全従業員に当る約六〇名の「従業員の要求を直ちに実現することを要請する」旨の署名を添えて郡山支社に提出し、職場団交を行なつた。そして職場団交の結果、一部の要求項目(休憩室の問題、三時から一〇分間の休憩)を獲得することができたのであるが、労働組合を結成し、労働者の強力な団結のもとに団体交渉を行なわなかつたため他の要求項目は実現することができなかつた。従つて、郡山支社における劣悪な労働条件や賃金差別はその後も一向に改善されないため、不満を持つ従業員特にタイプ部門の従業員らが中心となつて、労働条件の改善や賃金差別の撤廃を要求し、職場団交をくり返したり、又、多数の従業員が職場に嫌気をさし郡山支社から去つていくという状況が継続していた。

4 このような状況の中で、債務者会社は、代表取締役阿部一郎が中心となつて同四七年一〇月四日突然阿部写真郡山株式会社を設立し、郡山支社に対し、債務者会社とは別個の法人形式をとるにいたつた。これは、郡山支社の従業員が特に債務者会社の本社等と郡山支社との間の大幅な賃金差別に不満があることを知り、差別を合理化するために郡山支社に名目的に債務者会社とは別個の法人形式とつたにすぎないものである。以下その点につき論述する。

二 (阿部写真郡山株式会社は債務者会社の「一支社」にすぎない)

郡山支社は前記のごとく、郡山支社の従業員の不満特に債務者会社の本社等と郡山支社との賃金差別を合理化するために、同四七年一〇月一四日名目的に阿部写真郡山株式会社(以下単に郡山会社という)として別個の法人形式をとるにいたつたが郡山会社の実体は、従前同様、債務者会社の「一支社」にすぎないものである。

以下では、郡山会社(支社)の人事構成、株式構成、経営政策等についてその実体を明かにする。

1 (人事構成について)

役員についてみると、債務者会社横浜工場から転勤し、郡山支社長となつた早水敬三郎及び債務者会社横浜工場長原田漸が各々代表取締役に就任し、平取締役として債務者会社本社総務部長(同四八年三月二〇日に債務者会社取締役に就任)上村徳治が、監査役として債務者会社取締役新保昭雄、及び債務者会社経理担当社員田辺幸雄が各々就任している。尚郡山会社が同四九年二月一一日の「解散」後、代表清算人にも代表取締役であつた早水敬三郎が就任している。

このように郡山会社は、全役員が債務者会社の取締役や従業員を兼任しており、それらの者によつて郡山会社の経営が掌握されている。このことは郡山会社が債務者会社の統制のもとに完全に支配され、債務者会社の「一支社」にすぎないことを明確に示している。

2 (株主構成について)

郡山会社(支社)の株主構成は、発行済株式総数一万四、〇〇〇株中債務者会社代表取締役阿部一郎が四、〇〇〇株、債務者会社が六、〇〇〇株、代表取締役早水、原田が各々八〇〇株、取締役上村と監査役新保が各々四〇〇株、監査役田辺が二〇〇株を各々所有し、残りの一、四〇〇株を大橋功(郡山会社設立当初取締役に就任していたが、債務者会社の社員であることが明確となつた)が所有している。

このように債務者会社の関係者が発行済株式の全てを占め特に債務者会社と債務者会社の代表取締役阿部一郎とで特別決議に必要な発行済株式数の三分の二を越える一万株を所有しているのである。従つて、このことだけを取つてみても郡山会社が債務者会社の「一支社」に過ぎないということは明白である。

3 (経営について)

郡山会社の経営は郡山会社が名目的に独立の法人形式をとる以前と全く変りがなく、債務者会社の経営方針に完全に繰り込まれており、郡山会社独自で決定されることは全くなかつたのである。即ち、郡山会社は独自の営業部門がなく単に債務者会社から送られてくる原稿に基づいてこれも同じく債務者会社から送られてくるタイプ台紙、トーレス用紙、タツク紙、印画紙等にタイプやトーレス等を行なうだけなのである。そして、郡山会社は、債務者会社から送られてくる仕事以外の仕事は全く行なわないのである。また、経理も債務者会社の従業員が月に一度郡山会社に来て決算するだけである。

このことによつても郡山会社が債務者会社より与えられる数字を生産するだけの単なる債務者会社の「一支社」に過ぎないことが明確となつた。

4 (その他)

(一) 郡山会社の従業員の賃金の支払いは、郡山会社から債務者会社に従業員のタイムカードを送り債務者会社が給料計算をして賃金を郡山会社に送つて来て支払われていた(組合より、郡山会社は全く独立した権限がないのではないかと追求されたため、同四八年七月分の賃金から郡山会社で計算するようになつた)。

(二) 郡山会社が実質的にも債務者会社の別個の法人格を取得したのなら、従業員の身分に当然変更があるはずであるが変更に関する手続きは一切とられていない(従業員の身分証明書も債務者会社の身分証明書を継続して使用していた)。

(三) 郡山会社になつてからも郡山支社の看板を掲げていた(同四八年五月中旬、組合から指摘されて郡山会社の看板に取り変えるにいたつた)。

(四) 郡山会社の代表取締役である早水は、組合との団交の席上で度々「本社と相談しなければ決められない」と発言しており、何事についても郡山会社一存で処理することができなかつた。

このことからみても郡山会社は名目だけ法人形式をとつただけで、その実体は債務者会社の「一支社」に過ぎないこと明白である。

三 (法人格否認の法理の適用)

1 債務者会社と郡山会社との関係については、すでに述べたことから明らかである。即ち、債務者会社及び債務者会社の関係者で郡山会社の発行済株式の全てを保有しており(債務者会社及び債務者会社の代表取締役で発行済株式の三分の二を越える株式を保有している)、これにより債務者会社は郡山会社を完全に支配し、経済的には単一の企業体であり、又企業活動の面においても人事構成・経営・労働条件の決定等につき全面にわたつて債務者会社の郡山会社に対する支配は現実的・統一的になされており、その活動そのものの実質において経済的・社会的に単一性を有しているのである(即ち前記の通り郡山会社は債務者会社の一支社にすぎないのである)。

以上の関係からみたならば、郡山会社の法人格はまさに形骸的なものにすぎず、債務者会社は郡山会社の親会社として郡山会社に対する関係で独立性を否定され、郡山会社の第三者に対する関係では直接にその責任を負担しなければならないのである。

2 一会社の一支社が閉鎖された場合には、そのことによつて直ちに、その会社が消滅するものではなく、従つて会社と第三者との法律関係は、当然に継続される。ところが、その一支社がたまたま形式的には別個の法人格(子会社)であるというだけの理由で、その閉鎖(解散)によつてその支社(子会社)の法律関係を全てその段階で清算するが如きは、まさに法人格制度を濫用するものにほかならない。即ち本件において、郡山会社は解散したと称して、清算を経て消滅にいたろうとしているのであるが、このような場合は、形骸にすぎない法人格をさらに濫用したものとして法人格は否認され、債務者会社が第三者に対しその責任を負担しなければならないのである。

3 法人格否認の法理の適用を労働契約関係にあてはめてみると、郡山会社の法人格が全くの形骸であり、且つ濫用であることによつて、債権者らの利益が害される恐れがあるので、債務者会社が直接労働契約関係上の責任を引受けなければならないのである。

四 (結論)

以上の通りであるので、本件において阿部写真印刷株式会社に債務者適格があるのは明白である。

第三(解雇の意思表示)

郡山会社は、債権者らに対し、昭和四九年二月二〇日辞令交付をもつて(債権者らは、いずれもその受領を拒否した)「会社解散のため解雇する。」旨の意思表示をなした。

第四(解雇の意思表示の無効)

本件解雇の意思表示はいずれもつぎの理由により無効である。

一 不当労働行為

本件解雇の各意思表示は、債権者らが全日自労福島県支部郡山分会印刷班(以下単に「組合」と称する。)の組合員で、且つ組合活動をしたこと、更に債権者らが労働委員会に対し救済命令申立(団交応諾)をしたこと、の故をもつてなされたものであつて、労働組合法第七条一項、四項にあたり、無効である。

以下その理由を述べる。

1 前述したように、支社は劣悪な労働条件下におかれており散発的にではあるが、労働者から団体交渉の申し入れをしていたが、債務者会社は、この劣悪なる労働条件を合理化するために、支社を形式的に独立させた。このような形での独立会社の設立は、通常労務対策として行なわれることが多いが特に債務者会社は、取引先として、防衛庁、大蔵省、人事院、国鉄、日立、東芝、三菱等官庁や大企業が多く従つて機密文書が多く秘密保持のため、事業所を分散させ、また、従業員の中に労働組合が作られることを非常に嫌い、そのためにも労働者を分散させて団結することを困難にさせていた。

2 労働組合結成に至るまでの経過

(一) 昭和四七年一二月一〇日ボーナスが支給されたが、その金額があまりにも低いために(例えば、三年つとめた人でも五、六万円)従業員の間に多くの不満の声があふれ、債権者らを中心として、一二月一二日ほとんどの従業員が集まつて不満を言う会を開いた。この会においては、各人から不満が出され「賃上最低一万円」「一人一つのロツカーを」「更衣室と食堂を設置せよ」等の意見が出されたが、結局次のことが確認された。

(1) 支社長早水の力だけではどうしようもないから、阿部一郎に直訴すること。

(2) 各職場から代表者七名を選出し、要求書をまとめて作成していくこと。

(3) ボーナスは、二万円上のせをし、一二月の定期昇給は一万円の要求を出していくこと。

右確認に基づき代表者七名を選出し、右集会終了後直ちに代表者会議を開き、要求書の内容等について話し合つた。

(二) ところが、翌一三日、右集会に参加した一部の人達が、集会の内容を会社側にもらしたという情報が入つたので、代表者七名が会合を開き、要求書提出の行動を中止することとした。労働組合もないところで、このような行動をおこしていけば犠牲者が出るかもしれないと判断したからである。更に、右代表者会議において労働組合作りをすすめていこう、その結成時期は春闘時に合わせて四八年二月下旬か三月上旬にしようということが確認された。

(三) 四七年一二月二五日ベースアツプの金額が判明したが、昇給した結果でも平均賃金が四万二、三千円であつた。翌日七人の代表者会議が開かれ、労働組合結成準備会発足の方針が確認された。

一二月二九日、従業員一七名が集会をもち、労働組合結成準備会の発足が満場一致で可決され、役員選挙も行なわれ、会長に債権者国分、副会長に債権者渡辺、書記長に債権者柳沼、常任役員に債権者六角外二名、非常任役員に債権者佐藤たか子外一名が選出された。

その後数次にわたり、大小の学習会がもたれ、労働法関係の学習、諸要求の点検等をしていき、準備会員の増加に努め、ついに四八年三月一八日、債権者らを含む二五名にて労働組合を結成した。

3 労働組合結成から団交に至るまで

(一) 労働組合を結成した翌三月一九日郡山会社に対し労働組合結成を通告すると共に、同日午後一時に諸要求一五項目にわたり団体交渉をもつことを申入れた。諸要求は左のとおりである。

(1) 四月に最低二万円のベースアツプをせよ。

(2) 更衣室の改善をせよ。

(3) 生休、産休を有給にせよ。

(4) 残業をしなくともよいように仕事にあつた人員、人員にあつた仕事量を組め。

(5) 吉田洋子をタイプに復職させよ。

(6) 職場の民主化をはかれ。

(7) K式ライトを一人一台に、コードの配線は安全にせよ。

(8) 隔週週休二日制もしくは全土曜日半日制にせよ。

(9) 組合事務所を設置せよ。

(10) もつと広い休憩室を設置せよ。

(11) 夏期一時金を十万円プラス一・五カ月支給せよ。

(12) 遅刻、早退の時間と、残業時間の相殺をやめよ。

(13) 新舎に食堂を設置せよ。

(14) 予備活字を六階にも常備せよ。

(15) 一〇時と三時にそれぞれ一五分間(当時一〇分間)昼に一時間(当時四五分間)の休憩時間を与えよ。

これらの要求は、すでに準備会当時に出されていた諸要求五五項目を整理、陶汰したものである。

(二) 右団交申入れに対し、郡山会社は「本社と相談しなければ」という理由で、三月二六日午後一時に延期された。

(三) 更に三月二二日郡山会社は「ちやんとした回答をするには二六日では期間がなさすぎる。どうせやるならちやんとやりたい」と、団交を二六日から二九日に延期した。

(四) 三月二三日郡山会社は「二九日の団交には、上部団体を入れないように」と通告してきたが、このようなことは組合に対する不当な支配介入となるので、これを拒否した。

(五) 三月二九日午後五時、組合は約束通りに団交をするべく集合したが、郡山会社は「団交は四、五人の代表で行ないたい。その点で意見の相異があり不成立だと思つたので、今日は行なわない。」と一方的に引き延した。

(六) この間三月二四日債権者国分外三名らの昇給問題につき、債務者が約束を履行しなかつたので、急拠団体交渉をして、右四名に対する昇給を確認させているが、この団交は正式な団交とは言えない形であつた。なおこの団交において「上部団体を入れないように」という発言に対する謝罪を要求したが、謝罪しようとしなかつた。

(七) 三月三〇日午後五時半から、ようやく団交(事実上は第二回目)がひらかれた。郡山会社側からは、早水郡山会社社長、上村徳治本社総務部長、梅津豊次(債務者会社の嘱託として求人あつせんを行なつている者であるが、四八年五月ころ郡山会社の総務課長となつた。)が出席した。

組合側では、諸要求一五項目の説明をし、その回答をせまつたが、上村が「何故このような要求書が出されたのかききたい」とくり返し、早水は終始沈黙していた。結局早水が四月二日か三日に本社へ行つて相談し、その結果を四月六日の次回の団交の席上明らかにすることとなつた。

(八) 以上、結局郡山会社は、いたずらに団交をひきのばし、更に団交をひらいても誠意のある態度はみせなかつた。また本社の意向というのが決定的に強く、早水の権限が全くないに等しい状態であつた。

更に「上部団体の人を入れないように」という発言にもみられるように、組合に対する不当な支配介入を行なつた。

4 第三回団交に至る経過

(一) 四月六日に行なうはずであつた団交を郡山会社は「理事の一人が会議のため来郡できなくなつた」との理由で、引きのばしてきた。

(二) 四月六日梅津が債権者国分、同渡辺に対し「国分君、君は共産党員なのか、全日自労の人達は共産党員だ。ここの職場の人達は若い人が多いから共産党に利用されるぞ」との発言をした。

(三) 組合は、組合員全員の団交における出席を要求してきたが、郡山会社は「全員でやるなら上部団体の人を入れないでくれ」と要求し、またも支配介入を行なつたが、結局前回の団交と同じメンバーでやろうということになつた。

(四) 四月一〇日午後五時半より団交が行なわれた。梅津が団交時間を一方的に二時間と指定してきたが、組合の反論により打破された。

次に早水支社長が、一五項目に対する回答を発表したが、いずれも要求を拒否するということに等しいものであつた。

しかし、組合の追及により賃金が地場産業より安いか否か、及びロツカー購入をするか否かについて検討することとし、次回は四月二〇日にすることとした。

5 第四回団交に至る経過

(一) 四月二〇日に団交が行なわれる予定であつたが、債務者において調査中という理由で四月二七日に延期された。

(二) ところが四月二七日は、交通ゼネストのため上村総務部長が来郡できないために、交通が正常になり次第再開するということで延期された。

しかし、交通が正常になつてからも一向に団交再開の意思が見うけられないので、組合は五月二日に団交再開申入れを行ない、五月九日午後五時三〇分行なわれることになつた。

(三) 第四回団交においては、郡山会社より「賃金は地場産業より上まわつている」旨回答したが、組合より「ベースアツプの時期(一二月)が地場産業より八カ月も遅れている」旨反論をうけたので、再検討することとした。五月一五日本社において定例会議があるので、その時早水支社長も出席して検討し、その上でもう一度五月一六日団交を行なうこととした。

6 第五回団交

(一) ベースアツプの要求に対し、郡山会社より四千円(六月付)という有額回答があつた。

組合の確認により「四八年一二月の昇給時期を六月にくり上げ、六月分昇給四千円とあわせて一二、〇〇〇円アツプとする(一二月定昇においては通常八千円アツプしていた)」という案であることが確認された。

(二) 組合では、待機していた組合員と協議し、右案を受諾することとしたが、郡山会社は「先程のことは勘違いだつたので全て取消してほしい。四千円というのは、来年の六月までの昇給額で、最低千円からです。」と前言をひるがえし、実質上の賃下げをしてきた。

組合は、これで引き下がる訳にはいかず、決裂寸前の状態になつた。

7 第六回団交に至る経過

(一) 五月一八日朝礼の場において梅津が「組合結成後会社側から何の報告もなかつたが、今日一応の経過を報告します。社長の方からきけば分りますが、なお社長に対して一切の質問を禁じます。そして、今後は皆も軽卒な行動をとらないように、まして皆はまだ若く社会的にも未熟だから後悔するような行動はつつしんでほしい。なお両親などとも相談してみた上で決めてほしい。これは私個人の皆さんに対する希望であり、忠告でもあります。」という暗に組合運動を牽制する旨の発言をし、それをうけて、早水が今までの団体交渉の経過を報告した。

(二) 組合では、五月一九日に団交申入れを行ない、五月二九日に開かれた。

(三) 第六回団交の第一の論点は、郡山会社の団交における当事者能力の問題であつた。組合では、以前からばく然と本社と支社との関係をとらえており、とりあえず郡山会社を相手として交渉を続けていたが、支社長早水の権限のなさにあきれはて、直接本社と交渉をもつた方がよいのではないかと考えていた。

しかし、早水らの回答は「当事者能力はある」ということであつた。

(四) しからば、四千円を上積みできないか、少なくとも六月に六千円、一一月にもう一度の昇給を考えることはできないかと組合で提案したが、債務者においては四千円の線を動かそうとせず、団交は決裂するに至つた。

(五) その後、六月一日梅津は債権者柳沼に対し「労働組合は組合運動のための組合運動であり、もつと組合員のための組合運動をやれ、あんただけがストとか会議に出ていて、一人ヒロインになつたような気がしている」という組合に対する支配介入発言をなした。

(六) 六月一八日組合員吉田洋子は、勤務時間中の午後四時二〇分に水野久(非組合員)に、電話で仕事のことで話があると呼び出されて喫茶店に行き、「組合に入つていると今後種々と問題が起るので、止めたらどうか」と言われた。勤務時間中のことでもあり、水野久の個人的行為にとどまらず、債務者の指示によつて、このような発言をしたものと思われる。

8 本社あての団交申入れ

組合は、その上部団体である全日本自由労働組合を通じて、債務者会社代表取締役社長阿部一郎に対し、五月三一日付をもつて団体交渉の申入れをなした。

債務者会社は六月一〇日「阿部写真郡山株式会社は別個の独立法人でありますので、当方は何等の権限も有しませんし、従而団体交渉に応ずべき理由もありません」旨の回答をし、団交を拒否した。

9 争議行為

(一) 組合は、債権者柳沼、同渡辺につき六月八日指名ストをおこなつた。

(二) 六月一〇日一二時四五分より債権者国分外七名が終業時まで指名時限ストをおこなつた。

(三) 六月二七日八時四〇分より一二時まで債権者国分、同渡辺が指名時限ストをおこなつた。

(四) 七月一〇日九時から九時四五分まで債権者国分が指名時限ストをおこなつた。

(五) 七月二〇日一二時四五分から終業時まで、債権者柳沼が指名時限ストをおこなつた。

(六) 八月一日一〇時から終業時まで組合員全員が時限ストをおこなつた。

10 地労委への提訴

(一) 七月九日組合及びその上部機関たる全日本自由労働組合福島県支部は、債務者会社を相手として、福島地方労働委員会に対し団体交渉に応ずるよう救済申立をなした。

(二) その後地労委の勧告もあり、八月八日あつせん申請へときりかえた。

11 その後の団交

(一) 郡山会社は、七月三一日タイプ部門であつた債権者高橋、同白石を編集に配転すること、及び写植部門(二名)を廃止することを発表した。組合は、何の理由もなしに一方的に四名の不当配転は許すことができないとして即刻団交申入れを行ない、八月六日団交をひらかせ、タイプの配転は取消す、写植の廃止は一時棚上げにするという成果を得た。

ところが、郡山会社は八月一六日一方的に文書にて写植部門の廃止を通告してきた。これは後述するように事業を縮少し、計画的偽装解散へもちこむ一つの過程であつた。

(二) 八月二七日団交がひらかれ、郡山会社の全権委任をうけたと称する高原慶一(経営協議会事務局長)が初めて出席した。しかし、右高原も四千円の線を譲ることなく、又権限についても疑義が生じたので、もう一度検討した上で団交をひらくこととなつた。

(三) 九月四日高原との事務接渉で要旨左のような協議が成立した。

(1) 今後の仕事については、早急に新ビルに移ることとし、その仕事の配分は、社員を主とし外注はその補完的なものとする。

(2) 賃金については、六月から四千円、八月から二千円を一律引上げる。

(3) 一一月段階で業務実績の上に立つて、賃金の再引上げを交渉するものとし、その目安は四千円前後とする。

(4) 一二月定期昇給は、以後毎年六月とし、漸次四月に近づけるものとする。

(5) 会社は給与規則を早急に作り、組合に提示する。

(6) 四八年度夏期一時金については、増額しない。但し、非組合員に対し、新ベースで一時金を支給したときは、組合員も同じ扱いとし、その差額を支給する。

(7) その他の諸要求については、今後の団交の中で解決をはかる。

(8) 争議の全面的な解決の時点で、会社は一定額の立上り資金を組合に支給する。

(9) 組合結成後一連の不当労働行為については、遡及して救済をする。その内容は、おつて協議する。

(四) 九月二六日団交がひらかれ、賃金問題は一応解決し、争議全体も解決の方向へと向うかのようにみえた。

(五) しかし、一一月二二日、一二月一〇日等の団交においては、約束された事項が一向に進展せず、結局六千円(六月と八月)の賃上げが実行されたのみであり、年末一時金はゼロ回答であつた。しかも、高原が権限をもつていないことにより、依然として本社の意向が一番重要な要素となつていた。

12 解散に至る経過

(一) 債務者は、四八年一二月から郡山支社に対し全然仕事をまわさなくなつた。

(二) しかし、仕事がないということは虚偽である。

(1) 社外外注に対しては以前と変らず、注文が殺到している。しかも四九年一月中旬ころ、上村和雄(債務者従業員郡山支社勤務、非組合員であり、四八年一二月二五日付で退社した者である。)が、社外外注をしている一六名の者に対し個別訪問をなし「このタイプは横浜工場のものだから、契約を阿部写真印刷株式に書替えてほしい。書替えなければ、もうあなたのところには仕事はこない。郡山会社はもうつぶれるのだ。私の連絡場所は、共立会計センター(後述する如く、清算人会田の事務所である。)である。」旨の話をし、タイプ請負契約書の当事者を「阿部写真郡山株式会社」より、「阿部写真印刷株式会社」へと変更するべく契約書の書替えをした。

(2) 社内外注においても仕事は殺到しており、三英堂ビルにおいては鍵をかけながら仕事をしていた。

(3) クリエートの村上好一(以前より債務者の下請をしていた者)は、既に四八年一一月末に、郡山支社が解散になることを知つており、債務者からは依然として前と変りなく仕事をもらつていた。

(三) 組合は、仕事のないこと等に疑問を抱き、四九年一月二二日団交を申入れ、一月三一日団交が行なわれた。この団交において、明らかになつた事実は、次のとおりである。

(1) 外注は、本社との直接の契約に切替えた。貸与機械は三、〇〇〇~四、〇〇〇円で本社へ売却した。

(2) 支社が形式的に独立した際、以前の本社と従業員との労働条件は引ついでいない。一方的に労働条件を決定した。

(3) 早水は、本社からの出向社員という資格であり、給与関係は一切本社との間で決裁されている。

(4) 就業規則は、四八年九月になつて労働基準監督署に提出されている。

(5) 一二月の赤字は四〇~五〇万円であるとされている。

(6) 高原は何らの権限もなく、会社役員会の単なる窓口にすぎなかつた。

(四) 組合は、二月六日付で仕事を与えるべく要求をしたが、債務者は石油シヨツクの理由をあげて、誠意ある回答はしなかつた。

(五) 二月一八日債務者は居あわせた従業員に対し、口頭で「二月二〇日付で会社は解散する」旨を告げ、二月二〇日解雇辞令を従業員に手渡そうとしたが、債権者らはこれを拒否し、即座に団交に切替えた。その団交の内容は左のとおりである。

(1) 取締役会は二月三日行なわれ、株主総会は二月一一日行なわれた。

(2) 従業員に対しては、二月分の給料、解雇予告手当、退職金を支払う用意がある。

(3) 累積赤字は、一一月で六七万円、一二月には一五〇万円ということになつている。

(4) 外注関係は、本社との直接契約なので、郡山支社は一切関係ない。

13 以上述べてきたことから考えると、郡山会社を故意に解散させ、組合員を阿部資本内から排除しようとしたのが郡山会社解散の真相であり、債権者らの解雇の真相であると断ぜざるを得ず、本件解雇の各意思表示はいずれも無効といわざるをえない。

二 解雇権の濫用

本件解雇は次のとおり解雇権の濫用であるので無効である。

1 債務者会社と郡山会社との関係は、前述したごとく同一体であり、全体の資本としては大きな黒字であり、従業員を解雇しなければならない経済状態ではない。

2 かえつて、外注や郡山会社の下請は現在仕事におわれて忙しい状態である。

外注の説明をここで少し述べると、外注の中には社内外注(現在六名)と社外外注(現在二二名)とがあり、社内外注は、郡山市内にある三英堂ビルの一室を借りて仕事をし、社外外注は自宅で仕事をしている。外注で働らいている人達の大部分は、郡山会社で約二年間働らき半ば強制的に退職させられ、外注に回された者であり、四五年末ころから発足した。

外注の人達の月収は高く、十万ないし十五万円の収入がある。

3 従つて、本件解雇をする経済的必然性というものはなく、まして一五〇万円位の赤字で倒産することは考えられない。よつて、本件解雇は継続的契約関係における信義誠実の原則に反し、解雇権の濫用であつて、その各意思表示はいずれも無効といわざるをえない。

第五地位保全の必要性

債権者らは、いずれも債務者会社よりの給料をもつてその生活を維持してきたものであり、本件解雇によりその生活の基盤が失なわれることは明白である。本案判決確定を待つていたのでは、危殆にひんするおそれがあるので、申請の趣旨記載の裁判を求める次第である。

(債務者の主張)

申請の原因に対する答弁

一1 申請の原因第一の一の中、福島県郡山市清水台二―一三―二四に郡山支社を有するとの点は否認。阿部写真郡山株式会社は独立の会社であり、債務者の支社ではない。

その余は認めるが、東京都港区高輪一の二の一三にあるのは、現在は印刷事業部ではなく印刷営業部であり、又各事業部を債権者ら主張のように、府中工場等のように称したことはない。

2 申請の原因第一の二は認める。但し、国分は八月二八日、渡辺みつ子は二月二一日、渡辺幸子は五月二五日(いずれも債権者ら主張の年の)に債務者に雇傭された。

債権者らは、いずれも、債務者に雇傭されその主張のように郡山支社に勤務していたが、昭和四七年一〇月、同支社が廃止され、その営業が申請外阿部写真郡山株式会社に譲渡された際、右営業譲渡に伴つて、債権者らの雇傭契約関係も申請外会社に譲渡され、債権者らはこれを承諾し、以後申請外会社に労務を提供し、申請外会社から賃金の支払を受けていた。従つて、債権者らは債務者の従業員ではなく、申請外会社の従業員であつたが、昭和四九年二月二〇日、後述のように申請外会社により解雇された。

なお、昭和四八年三月一八日、申請外会社に対し申請外会社の従業員により労働組合が結成されたとの通知があつたが、結成通知があつたのは全日本自由労働組合福島県支部郡山阿部写真郡山分会からであつた。

3 申請の理由第一の三につき、債権者らの申請外阿部写真郡山株式会社における賃金としてであれば認める。

4 申請の理由第一の四は否認する。

債権者らは、前述のように、申請外阿部写真郡山株式会社の従業員であつたが、解雇されたものである。

二1(1) 申請の理由第二の一の1は認める。但し、早水敬三郎は、郡山支社転勤当時、印刷工場組版課長であり、係長として転勤したものではない。又早水が支社長になつたのは昭和四五年四月である。

(2) 申請の理由第二の一の2は争う。

(3) 申請の理由第二の一の3の中、郡山支社の従業員から、昭和四七年六月、要望書の提出があつたこと、これについて菊地正三ら五名の従業員と話合を行い、その結果更衣室に畳を入れて休憩室を作り、午後三時から一〇分間の休憩をとることを事実上認める等の措置をとつたことは認めるが、従業員が要望書を提出するようになつた経過は不知、その余は否認する。

右話合は一回行われたのみであり、その後労働条件の改善や賃金差別の撤廃要求があり、職場団交を繰返したというような事実はない。

(4) 申請の理由第二の一の4の中、昭和四七年一〇月、阿部写真郡山株式会社が設立されたことは認めるが、その余は否認する。

2(1) 申請の理由第二の二の阿部写真郡山株式会社が債務者の一支社である旨の主張は、否認する。

申請の理由第二の二の1の前段は認めるが、後段は否認。

但し、早水は印刷工場組版課長から郡山支社長、原田は同工場長、上村は印刷事業部の総務次長であつた。又、清算人としては、早水の外、会田富雄が就任している。

(2) 同2の前段は認めるが(但し、大橋は現在株主ではない)後段は否認。

(3) 同3は否認する。

(4) 同4も争う。

3 申請の理由第二の三および四は否認。

三 申請の理由第三の中申請外会社が債権者らに対し、債権者ら主張の日に、解散したので、解雇する旨の意思表示をしたことは認めるが、その余は否認する。

四1 申請の理由第四の一の本件解雇が不当労働行為であるとの主張は否認する。

(1) 申請の理由第四の一の1は否認。

(2) 同2の中、労働組合が結成されたことは認めるが、その余は不知。

(3) 同3ないし7につき、申請外阿部写真郡山株式会社との団体交渉の経過については不知。

(4) 同8については認める。

(5) 同9は不知。

(6) 同10は不知。

但し昭和四八年七月二五日付で全日自労福島県支部郡山阿部写真印刷分会から斡旋申請があつた旨の通知を受けたことはあるが、債務者が、同組合員等の使用者でない旨の回答をしたところ同組合は申請外会社への斡旋に変更したものである。

(7) 同11は不知。

(8) 同12は争う。

(9) 同13は否認。

2 申請の理由第四の二の解雇権濫用の主張も否認する。

五 申請の理由第五の中、債権者らが債務者から給料をもらつていたとの点は否認。その余も争う。

債務者の主張

一 郡山支社設立の経緯

債務者は、昭和四四年一二月、郡山市に郡山支社を設け、組版関係の業務を行うようになつたが、これは次のような事情からである。

債務者の業務は、大別して写真事業部門と印刷事業部門との二つに分けることができるが、このうち印刷事業部門の業務はいわゆるPTO印刷といわれるもので、活字を組んで文字版を作るのに代えて、タイプ又は写真植字機を使用して版下を作製し、これをフイルムに撮影して、刷版に焼付け、この刷版をオフセツト印刷機にかけて印刷するものである。

右のうち、版下作製までの工程を組版というが、この工程には、

受注―頁付、レイアウト、文字の位置指定等の前作業―タイプ又は写真植字―図面、写真等の作成及び貼付―校正―完成。

の作業があり、右作業の大部分は女子従業員によつて行なわれているが、近年これらの女子作業者の採用が非常に困難になつて来た。

タイプ、写植、編集(タイプ、写植以外の前作業、図面等の作成及び貼付、校正等の作業をいう)等の作業に熟練して、一人前の作業が出来るようになるには平均して約二年を要するのに対して女子従業員の大半は、入社後平均して三、四年すると、結婚又は結婚準備のため、退職してしまうのが実情であつた。しかし、組版関係の作業を行うには、多額の設備資金を要するわけではなく、タイプライター等を設置する場所があれば容易に家庭においても行うことができ、しかも時間に制約されずに、収入の面においても比較的有利であるところからPTO印刷会社からタイプ等の作業をこのような退職者に下請に出すことが一般に広く行われており、どのPTO印刷会社も、多数のこのような個人外注(又は社外々注)を抱えて業務を行つているのが、業界の常態である。しかし、債務者の事業所のある東京及びその周辺においては、女子従業員が一旦退職してしまうと、地域が広いため、どこに居住しているかを確認することすらできず又多数の同業者がいるため、このような社外々注を確保することも困難な状況であつた。

右のような状況から、東京に比較的近い郡山市に進出し、組版作業のための人手を確保すると同時に、郡山のような地方都市であれば退職者と社外々注契約を結ぶことのできる可能性も大きいのではないかと判断して、支社を設け、組版関係の作業を行うこととしたものである。

他方、<1>右のような組版関係の作業は、受注、校正、納品等顧客との関係において、これを迅速かつ効率的に進めて、その要望に応ずる必要があり、殊に納期を厳守しなければならないところから、発注元の事業所と場所的に比較的近いところに工場等を設けて行うのが有利であり通常であるが、郡山市及びその周辺には債務者の顧客がいるわけではないこと、<2>独立会社の方が、従業員も独立心をもち、志気が上ると思われること、<3>相当程度の規模の工場ができれば、組版を土台に印刷関係の仕事まで行うことができるようになり地元からの受注も可能となるが、このような目的の独立の会社とした方が地方産業として発展性があること、<4>債務者としても、郡山支社を他の事業部と同じように管理運営する必要はなく、距離的にも離れているので、独立の会社とした方が無理、無駄がない等の事情から将来は、印刷業務をも行う独立会社とする計画で郡山支社を発足させたものである。

郡山支社は、昭和四六年四月頃からは、タイプ、写植、カメラ、トレース、編集等の要員もそろい、タイプライター、写植機等の外、カメラ、ゼロツクス等の設備も備え、人員も同月頃には、約六〇人に達し、昭和四七年五月頃には約一五人の社外々注と請負契約を結ぶことができて次第に生産能力を高め、経理的にも、設立以来赤字を続けて来たのが、同月頃からは黒字基調に転じようやくその経営も軌道に乗るようになつた。

二 申請外阿部写真郡山株式会社設立の経緯

昭和四七年一〇月四日、写真植字及びタイプによる組版、印刷物の印刷および製本加工、製図写図の作成等を目的として、申請外阿部写真郡山株式会社が設立された。

これは、次のような事情からである。すなわち、<1>債務者は、右に述べたように、将来は独立の会社とする計画で郡山支社を設置したが、郡山支社がようやく経営上軌道に乗り黒字になつて来たこと、<2>債務者が本社として、特に指示、管理すべき点もなくなつたこと等である。そこで、申請外阿部写真郡山株式会社を設立し、その株主には債務者、阿部一郎、大橋功(後に、その有する株式を阿部不動産株式会社に譲渡した)、早水敬三郎、原田漸、上村徳治、新保昭雄、田辺幸雄の八名がなり、資本金七〇〇万円を出資した。

申請外会社が設立されたので、債務者の郡山支社は廃止され、従来の郡山支社の営業は、すべて右申請外会社に譲渡され、従業員との雇傭契約関係もすべて申請外会社に譲渡され、従業員はこれを承諾した。債権者らについても同様であつて、以後申請外会社の従業員となつた。

申請外会社の役員には、株主である早水、原田、上村の三名が取締役に、同じく新保、田辺が監査役に就任し、申請外会社の経営に当ることゝなり、債務者とは経営、経理等すべてが分離された。

以上のとおり、申請外会社は法的にも正当な手続を履み、現実に出資を行つて設立された会社であり、設立の目的も右に述べたとおり正当な理由によるものである。

何ら、申請外会社の法人格を否認されるいわれはない。

申請外会社の株主および役員が債務者およびその関係者である点は、申請外会社の設立の経緯からいつて当然であり、かつ、申請外会社の経営の基礎を固め、発展を図る上からも至当であると考えられたからである。

又、申請外会社の仕事の受注先が債務者だけである点についても債務者からの受注を消化するだけで、当面は精一杯だつただけの話である。

三 申請外会社の解散の経緯

申請外会社は、昭和四七年一〇月設立から、昭和四八年六月ごろまでは、順調に利益を上げて来たが、同年七月からは赤字に転落した。赤字になつた理由は、生産高が低下したからである。これは従業員の作業能率の悪化によるものである。

昭和四八年六月頃から、タイプ、編集等の従業員が怠けて真面目に仕事をしないようになり、殊更緩慢な動作でタイプ打ち作業、編集をしたり、作業をせずぼんやりしていたり、雑談していたり、居眠りをしていたりするようになつて作業の能率が極度に悪化し、注意しても改めようとしなかつた。又このように社内の編集作業が進まないため、社外々注の生産高も落ちた。

このため作業の質も悪化して、ミスが増え、注文先からの苦情が増大したばかりではなく納期を守ることができなくなり、仕事の注文を受けることができない状態となつて、受注量も激減し、全く生産計画が立たないという状態に立ち至つた。従業員に対しても再三にわたり作業能率の向上、作業体制の改善を訴え協力を求めたが、結局なんの協力も得られなかつた。

債務者としても、納期に間に合わない等の事情で、申請外会社への発注を取消し、又は作業の途中で引揚げて来ざるをえない状況であつたが、昭和四八年六月から翌四九年一月までの間における発注取消件数は合計四三件、九、八二八頁、又昭和四八年六月から翌四九年一月までの間において作業途中であるにもかゝわらず申請外会社から引揚げて来た仕事の件数は合計六三件、六、七七五頁の多数に及んでいる。

以上のような状況であつたため申請外会社は、昭和四九年一月三一日現在の第二期決算において金三、八七一、三七四円の欠損金を生じたが、今後共、作業能率の向上、生産量の増加を図ることは困難であり、経営を継続しても赤字が累積するばかりであつて、やがて倒産に至ることが確実であると判断されたので、昭和四九年二月一一日株主総会を開催して解散の決議を行つた。右解散時における繰越欠損金は、金四、六七七、五二〇円であつた。

申請外会社の解散は、以上のとおり、正当な根拠に基き、株主総会の正当な判断によつて決定したことである。

申請外会社は、右解散を理由として、債権者らを含め、従業員全員に対し、同年二月二〇日解雇の意思表示をし、解雇予告手当と退職金を提供した。よつて右解雇は、何ら不当労働行為や解雇権の濫用には当らないものである。

四 以上のように、債権者らの主張はすべて理由がないといわなければならないが、かりに債権者らと債務者会社との間に雇傭関係が認められるとしても、郡山会社が解雇の意思表示をしたことにより、債務者会社にその効力が及ぶものということができ(商法五〇四条)、右解雇はなんら違法・不当なものでないこと既述の通りであるから、債権者らの主張は理由がない。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例