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福島地方裁判所いわき支部 昭和63年(た)1号 決定 1992年3月23日

請求人

甲野一郎

弁護人

上田誠吉

折原俊克

増田隆男

弓仲忠昭

浅井嗣夫

渡辺正之

安田純治

滝田三良

大学一

安藤裕規

安藤ヨイ子

鵜川隆明

佐々木広充

高橋一郎

安部洋介

安藤和平

永井修二

大堀有介

福西宣孝

小畑祐悌

宮城弘喜

廣田次男

斎藤正俊

宮本多可夫

地主康平

荒木貢

船木義男

主文

本件について再審を開始する。

理由

第一  事件の発生から本件再審請求に至るまでの経緯の概要

一  昭和四二年七月ころ以降、いわき市内においては窃盗又は窃盗目的と見られる住居或いは建造物侵入事件が続発していたところ、同年一〇月二七日、同市<番地略>所在の日産サニー福島販売株式会社いわき営業所(以下、単に「日産サニー」という)の宿直員が殺害され金品が盗まれるという事件(以下「日産サニー事件」という)が発生した。右日産サニー事件の捜査は難行し、容疑者を割り出せないまま翌昭和四三年四月に至ったが、その間には、同地方においては、前同様に窃盗事件等が頻発していた。

二  請求人は、同年同月二七日午後四時三〇分ころ同市<番地略>所在の子鍬倉神社境内の八坂神社の社殿の縁の下等に置かれていた大工道具その他を運び去ろうとしていたところを、これより先に右大工道具等を発見し、賍品ではないかとの見当をつけて同所付近に張り込み中の平警察署員らによって任意同行を求められ、同署における事情聴取の結果、右大工道具を窃取したことを自白したため、同日午後八時三五分右窃盗事件により緊急逮捕された。

翌二八日朝から請求人方の捜索がなされたが、その際、請求人の妹・節江が父・吉栄の命を受けて自宅にあった鉋等を秘かに隠匿遺棄しようとしているところを捜査官に発見された。右鉋等は四月二六日朝、請求人が自宅に持ち帰ったもので、賍品たる大工道具の一部であることが確認された。

三  同月三〇日請求人は、同署に勾留され、以後、本格的な取調べがなされることになった。そのような中で、請求人は他の窃盗事件についても自白するなどしていたが、同年五月七日に至り、日産サニー事件についての自白を開始した。そこで、翌八日、あらためて強盗殺人の嫌疑で再逮捕されるとともに、請求人の身柄は同事件の捜査本部が置かれている内郷署に引致された。同月一〇日同事件で勾留(併せて接見禁止)、同月一八日に二九日まで勾留延長され、その間殆ど連日の取調べを経て、同月二九日、日産サニー事件につき住居侵入・強盗殺人罪により起訴された。その公訴事実は別紙一のとおりである。

その後、窃盗等の余罪の取調べが継続され、同年七月一日、これらについて追起訴がなされた。その公訴事実は別紙二の「罪となるべき事実」第二、第三と同じである。

なお、五月三〇日に接見禁止は解除されている。

四  七月三日、第一回公判期日が開かれ、本起訴分のみの審理が行われたが、請求人は「公訴事実のうち『風呂敷で猿ぐつわをはめた』とあるが、それは工具室から持ち出したうちのぼろ布で猿ぐつわをしたのである。その他の事実は全部間違いない。」旨陳述した。また、各証拠物についても具体的な供述をした。

五  同月一〇日の第二回公判期日においては、追起訴分の審理がなされたが、請求人はこれについても「全てそのとおり間違いない。」旨陳述した。

なお、右期日において、第一審弁護人は、証人齊藤吉栄、同武山節江の尋問を申請し、採用された。

六  同月一七日の第三回公判において、右証人両名の尋問がなされた。請求人は、同日午後になって、本起訴分の公訴事実を否認するかのような供述をし始め、同月三一日の第四回公判以後は明確に否認に転じ、以後一貫して、否認し通したが、昭和四四年四月二日、請求人を無期懲役に処する旨の判決がなされた。右判決において認定された罪となるべき事実は別紙二のとおりである。

七  控訴審たる仙台高裁は昭和四五年四月一六日、請求人の控訴を棄却する旨の判決をなし、最高裁は昭和四六年四月一九日上告棄却の決定をなした。更に請求人においてなした異議申立も同月三〇日棄却され、前記第一審判決が同年五月三日に確定した。

八  請求人は宮城刑務所で服役したが、昭和六三年三月三一日仮出所し、同年七月一八日、当裁判所に再審請求をなした。

第二  本件再審請求の理由は、弁護人上田誠吉、同折原俊克、同増田隆男、同弓仲忠昭、同浅井嗣夫、同渡辺正之作成の昭和六三年七月一八日付書面(「再審請求書」と題するもの。なお、これには後記第三の三の請求人番号1ないし6が添付されており、これらがいずれも新証拠として提出された。)、弁護人折原俊克、同浅井嗣夫、同渡辺正之作成の平成元年六月二六日付書面(「再審請求補充書(一)」と題するもの)、弁護人折原俊克、同増田隆男、同渡辺正之作成の同年九月一三日付書面(「再審請求補充書(二)」と題する書面)、弁護人折原俊克、同弓仲忠昭、同上田誠吉、同増田隆男、同渡辺正之作成の同月二〇日付書面(「再審請求補充書(三)」と題するもの)、弁護人折原俊克作成の平成二年三月五日付書面(「再審請求補充書(四)」と題するもの)及び請求人作成の陳述書に記載されたとおりであるが、これを整理要約すれば、大略次の趣旨に帰すると解される。

一  日産サニー事件について

1  被害者の致命傷となった頸部に存する刺切創を含む三か所の刺切創は、右犯行の凶器とされた果物ナイフ及びドライバーによるものではない。これは新たな証拠である船尾忠孝ほか一名作成の昭和六一年一〇月一日付鑑定書(以下「船尾鑑定」という)により明らかである。したがって、右凶器で刺して殺害に至ったとする請求人の自白は、その殺害行為の重要部分で完全に矛盾に逢着し、措信し得ないこととなり、これを前提とした確定判決もその根拠を失うことになる。

2  請求人が右犯行時に着用していたとされる黒色アノラックには多量の血液が付着した筈であるのに、有馬孝作成の昭和四三年五月二二日付鑑定書によれば、そのルミノール血液反応は陰性であった。ところが、船尾鑑定によれば、予め晒木綿及び白衣に血痕を付着させた後、入念な洗濯を行った実験においても、ルミノール試験が陰性化することはありえなかったのであるから、右アノラックには血痕が付着していなかったことに帰し、これを犯行時に着用していたとする請求人の自白は信用できないことになる。

3  その余の新証拠について

(一) 請求人の捜査段階での自白は捜査官の意のままに作られたものであり、その好例として、捜査官側に本件犯行当日の事件発生直前に請求人が実弟齊藤源吉と共に自動車運転者の法令講習会に出席していた事実が知得されていたか否かによって、その間の請求人の行動につき全く異なる事実が調書化されているのである。このことは新たな証拠である齊藤源吉の自動車運転者会々員受講証明証により裏付けられる。

(二) 日本工業株式会社の昭和六二年二月一〇日付回答書によれば、犯人が逃走した際に印象したと思われる現場脇溝付近の靴跡写真につき、その靴は日本工業株式会社製の校内履き布靴であるものと認められ、また犯行現場である表側事務室に遺留された足跡からすると、その大きさは二六センチメートルから二七センチメートルであるところ、請求人は、素足で23.5センチメートル、夏は十文三分(24.93センチメートル)、冬に厚い靴下を履いて十文半(25.41センチメートル)を履くというのであるから、右現場足跡は請求人の足の大きさとは符合しない。

(三) 昭和四二年一〇月二〇日から同年一一月一日までの福島民友新聞のテレビ番組欄によれば、犯行があったとされる当夜の請求人のアリバイに関する実弟齊藤源吉の供述が裏付けられる。

(四) 新聞報道によると、「ナイフから犯人のものと見られる指紋検出に成功」「現場から犯人の足跡や指紋が採取された」(昭和四二年一〇月二九日付福島民報)、「足跡から見ると犯人は皮の短グツをはいて侵入」(同月三〇日付同新聞)などとされ、「犯人も手傷負う?」の見出しで犯人負傷の可能性に言及されている(同月三一日付同新聞)。これらは警察からの取材によるものと思われるので、検察官の原公判不提出記録の中に右に該る証拠で、かつ請求人以外の真犯人の存在を疑わせる証拠が存する疑いがある。

(五) 昭和四三年五月二〇日付福島民報によると、捜査官は別件で請求人を逮捕した直後から本件の強盗殺人事件と関係ありとの見込みをつけて執拗な取調べをなしたことが窺われ、その自白経過からして請求人の自白は強要された疑いがある。

4  以上の新証拠によるほか、請求人と犯行現場及び犯行とを結びつける物証がなく、請求人にはアリバイがあり、また、請求人の自白には任意性及び信用性がない。

(一) 物証がないことについて

(1) 請求人が右犯行に使用したとされるドライバーや、犯行時に着用しており、格闘の際ガラスがはずれるなどしたという腕時計、犯行現場から逃げ帰る際に乗車したというバイクに被害者の血液が付着していない。

また、被害者を縛ったとされるロープにも血液は付着していなかったものと思われる。

(2) 果物ナイフを持ち出した被害者と激しい格闘が繰りひろげられたものであるから、犯人も何らかの怪我をしているものと思われるのに、現場及び遺留品から請求人の血液型と一致する血液が全く検出されていない。

また、現場検証の際、合計九六個の指紋が採取されたが、請求人の指紋と同一もしくは類似しているものはない。

(3) 現場から採取された毛髪のうち、宿直室枕元の一本と敷布からの一本が、請求人の毛髪と類似ないし酷似するとの鑑定がなされているが、毛髪の同一性についての鑑定手法は客観化された確立されたものではないので、これによって請求人を犯人とする決め手となるものではない。

(二) 証人齊藤吉栄、同武山節江、同齊藤源吉の各アリバイ証言は、犯行当日の請求人の行動について一致し、信用性があるものである。しかして、武山節江の供述調書で原公判に提出されていないものがあるので、これを取り調べる必要がある。

(三) 請求人は、てんかん気質を混じえた循環気質という気質的障害を有しているほか、虚言傾向があり、人に迎合しやすいという未成熟な性格であるところ、請求人の自白は、拘禁中に催眠状態類似の状態の中でなされたものであり、その苦痛から逃れるため暗示に対し積極的に迎合していったものである。また、捜査段階においては、大きな声でどなられたり、机をこづかれたり、トイレや食事の時間も満足に与えられずに、脅迫ないし強制によって自白したものであり、公判廷における自白についても、右のような取調べの影響が残存していたものである。

また、請求人の自白には、秘密の暴露と目されるものはなく、そればかりか、客観的な真実に反する点や不自然ないし不合理な点が少なくなく、重要な点で変遷が著しい点で信用性がない。

5  昭和四二年一一月一七日付検証調書によれば、本件現場からは犯人が遺留した可能性のある毛髪が多数発見されているのであるが、とりわけ、被害者の手掌中より発見された毛髪は、格闘時に犯人の毛髪を引きちぎったものである可能性が極めて高い。

それ故、これらの毛髪についても、前記4の(一)、(3)の毛髪と同様に請求人の毛髪との対照鑑定が行われているものと思われる。そして、もし右鑑定の結果が、請求人の毛髪との類似性を少しでも示すものであったならば、検察官によって必ず証拠調べ請求がなされている筈であるところ、そのようなものは原公判の記録中に全く現われていないのであるから、これらは請求人のものではなかったことを示している。

そして、右手掌中の毛髪が被害者のものでもなかったということになれば、これを被害者の手掌に遺留した人物こそが本件の真犯人ということにならざるを得ず、請求人の無実を明らかにすることとなるのである。

二  その他の窃盗事件等について

1  これらについても、請求人の自白以外に請求人と右各犯行を結びつける物証はない。

2  また、右自白には秘密の暴露と目すべきものは何らないばかりか、客観的証拠と必ずしも符合しない点が含まれていたり(例えば、別表記載の(一)については被害品であるエンジンスイッチが置かれていた場所が被害届と異なっており、同(二)については施錠の有無について食い違っている)、賍物が発見されていないものがあるなど信用性がない。まして、右自白の大部分は、日産サニー事件についての自白がなされた後のものであり、これが前記のとおり任意性も信用性もないものである以上、その後になされた窃盗等に関する自白も又信用性がないのは当然である。

第三  当裁判所の審理方針と審理経過

一  確定判決の認定した事実は別紙二のとおりであり、本件再審請求はその全部について請求人が無罪であるとの主張を前提にするものであることは、既に見たところである。しかし、当裁判所は、以下の理由により、そのうちの住居侵入・強盗殺人の事実(日産サニー事件)をまず重点的に取り上げることとした。

1  確定判決の認定した犯罪事実のうち最も重大なものは日産サニー事件であり、しかも、本件再審請求自体が同事件に力点を置いたものとなっている。

2  一方、本件再審請求は、請求人のなした自白に任意性及び信用性がないとの主張がその最大の眼目であるところ、日産サニー事件を除くその余の窃盗事件等についての自白にはいわゆる新証拠と呼ぶに相応しいものはなく、せいぜい日産サニー事件についての自白の任意性或いは信用性が否定されるということになれば、その後になされた自白についても一定の疑問を生ずることになるかもしれないというにとどまる。

これを裏返せば、日産サニー事件についての請求人の自白に任意性及び信用性が認められれば、その他の窃盗事件等についての自白の信用性等を疑う余地はまず存しないものと言ってよい。

3  以上によれば、いずれにしても日産サニー事件について再審事由の有無を検討することから始めるべきことは明らかである。

二  本件再審請求を受けて当裁判所がとった措置等の主なるものを列挙すれば、以下のとおりである。

1  昭和六三年七月二二日、福島地検いわき支部に対し、原公判記録の送付方を依頼した。同記録は同年九月七日に送付された。

2  同年七月二八日、請求人及び(主任)弁護人並びに前記検察庁検察官に本件請求に対する意見を求めた。弁護人からは同年九月一四日、検察官からは平成元年三月二八日各意見書が提出された。

3  原公判に提出され押収されていた証拠物の蒐収を図るべく、それらが還付されたものと推認される先に宛て、昭和六三年九月二六日から二九日にかけて照会等をした。即ち、日産サニー(現いわき支店)支店長に対して、果物ナイフ、折りたたみ椅子、手提金庫(破損した中箱を含む)、封筒(大小)八枚、紙片七枚、風呂敷、鉄棒、ベアリングレースプーラー、自動車用スプリング、いわき拘置支所長に対して接見表(自43.5.31、至43.10.26)三三枚、いわき中央警察署長に対して録画フィルム、星幸一郎(日産サニー事件の被害者星雅俊の兄)に対して腕時計上蓋及び腕時計本体について、それぞれ保管の有無を照会するとともに、その提出方を求めたが、右のうち録画フィルムについては存在するとの回答があり、平成元年一月九日に提出されたが、他は全て所在不明ないしは存在しないとの回答であった。

請求人からはこれより先の昭和六三年九月一四日にアノラックが提出され、ドライバーと果物ナイフについては当該証拠品と類似のものが提出されたが、ドライバー、腕時計、原動機付自転車についてはいずれも所在不明であるとの上申があった。また、平成元年一月九日に請求人からズボンが提出され、接見表については、その写しが同年六月二九日に検察官から提出された。

なお、請求人に対する取調状況及びその供述を録音した録音テープは、裁判所及び検察庁のいずれにおいても発見することができなかった。

4  日産サニー事件の犯行現場である日産サニー(現いわき支店)の建物が近々取壊し予定であるとして、請求人側から現場検証(証拠保全)の申立があり、昭和六三年一〇月一九日これを実施した。

5  平成元年四月ころ以降、原公判に提出されなかった記録や証拠物の提出について意見の調整が図られてきた結果、後記齊藤源吉の各供述調書謄本(請求人番号11)及び請求人の供述調書(検察官番号19)が証拠開示命令或いは提出命令を経由することになったほかは、いずれも検察官から提出された。

6  平成元年一二月一二日、鑑定人船尾忠孝の証人尋問を東京地裁で施行した。

なお、同証人については、後記牧角鑑定及び牧角証言の後である平成三年八月七日にも当裁判所において尋問を実施した(以下、これらを併せて「船尾証言」という)。

7  平成二年三月七日に証人齊藤源吉、同武山節江、五月二三日に同齊藤ウタの各尋問を実施した。

なお、これより先の三月一日、重要な人証等の取調べは公開の法廷でなすべきこととする旨を明らかにし、右三名の尋問からこの方針が実施された。

8  同年六月八日、検察官から鑑定人牧角三郎作成の鑑定書(以下「牧角鑑定」という)が提出された。

同年一〇月一七、一八日、同鑑定人の証人尋問(以下「牧角証言」という)を実施した。

また、それに先立って、同鑑定によって、確定審で取り調べられた鑑定人前田春雄作成の鑑定書(以下「前田鑑定」という)に対するいくつかの疑問が指摘されるなどしたため、前田春雄の検察官に対する供述調書(検察官番号28)が作成され、提出された。

9  同年一一月二二日、請求人の陳述書が提出され、続いて同月二八日及び同年一二月一九日に請求人本人質問を実施した。更に、平成三年一二月一一日にも再度施行した(但し、この分については非公開)。

10  平成三年三月一三日、証人加藤宰の、同日及び同月一五日に同佐藤満雄の各尋問を実施した。

11  同年九月二日、検察官から鑑定人石山昱夫作成の鑑定書(創傷関係)(以下「石山(創傷)鑑定」という)、同年一〇月一四日同鑑定人作成のルミノール実験の鑑定書(以下「石山(血痕)鑑定」という)が提出された。

同年一一月五日、六日に同鑑定人の証人尋問(以下「石山証言」という)を実施した。

12  平成二年一二月一九日の打合せのころから、犯行現場で採取された毛髪についていわゆるDNA鑑定をなすことが可能であるか否かについて模索してきたが、「毛髪の長さが短かすぎる。毛根がついていないと難しい。」との回答に接し、結局この点は断念せざるを得なかった。

13  平成三年一二月四日、検察官から、福島県警察本部鑑識課警察技術吏員有馬孝作成の検査結果回答書が提出された。

14  平成四年一月八日から二四日にかけて、後記職権分番号2ないし5の照会をなし、いずれも回答に接した。

15  平成四年一月三一日、検察官及び弁護人からそれぞれ最終意見書が提出された。

三  前記二で述べたものを含めて、当審で取調べた書証及び証拠物を請求者別に分類して掲記すると以下のとおりである。<省略>

第四  確定判決の審理及び判断とその証拠構造

一 確定判決の証拠構造の特色は、①請求人と日産サニー事件(以下、本件事件といい、この犯行を本件犯行ということがある)の犯行を結びつける確実な物証が何一つ無いこと、②その反面、請求人の具体的で詳細な自白があることである。もっとも右①について言えば、本件犯行現場から採取された毛髪が請求人の毛髪と対照鑑定され、そのうち、宿直室に敷かれた布団の枕元の二本と敷布からの三本について、前者のうち一本は請求人のものではないが、他の一本は「類似している」(但し、同一人のものかは不明)、後者のうち二本は請求人のものと相違するが、一本は「酷似する」(福島県警察本部刑事部鑑識課技術吏員有馬孝作成の昭和四三年五月二八日付及び同年六月六日付各鑑定書)とされている。しかし、毛髪の同一性についての鑑定方法は未だ確立したものがあるとは言い難く、「酷似」にしろ、「類似」にしろ、単に対照資料同士に積極的な矛盾が存しないというに止まって、それ以上に積極的に現場に遺留された毛髪が請求人のものであるということまでをも示しているものではないから、右鑑定結果及び右毛髪をもって、本件犯行と被告人を結びつける客観的な証拠とすることはできない。現に、確定判決もこれをそのような証拠とみなしていないことが明らかである。

しかも、③右自白は捜査段階のみならず、第一審の第二回公判までは維持されていること、④捜査段階の自白について、それが得られた際の取調状況及び自白内容が録音テープに録音されていること、請求人が立会い、指示説明をなした現場検証の模様が録画フィルムに収められていること、といった事情がある一方、⑤自白の内容には著しい変転が見られ、また、客観的な状況と符合しない点も少なくないことが注目されるのである。

二  右①、②のような証拠構造及び③ないし⑤のような請求人の自白の状況及びその内容からして、請求人が否認に転じた後の確定審における審理が、右自白の任意性及び信用性をめぐる攻防を中心とするものになったことは必然的な成り行きであった。

その結果、確定判決は、請求人の自白には任意性も信用性もあるものと判断して、前記のとおり有罪判決を宣告したのであるが、その判示するところを以下に要約して掲記しておくことにする。

1  まず自白の任意性について、確定判決は、請求人が昭和四三年五月七日に自白するに至った経緯、その内容、供述態度の迫真性、その後の検察官の取調べにおける捜査官側の慎重な姿勢及びそれにもかかわらず請求人が進んで供述した形跡が窺えること、公判廷においても当初は右自白を維持していたこと、第一審の第三回公判以降において否認に転じた後の「自白した動機・経緯」についての請求人の主張に説得力がないことなどの諸点に鑑み、請求人の自白には任意性があるものと判断した。

2  次に、自白の信用性について、第一審判決は概ね以下のとおり判断している。

(一) まず、捜査段階における自白の信用性を肯定すべき理由として次の諸点を列挙する。(1)自白を裏づけるに足る物証が数多く存在する。即ち、①被害者を縛ったというロープ、②血痕の付着した自動車用スプリング、③パイプの曲がった折りたたみ椅子、④手提金庫、封筒、紙片に血のついた手袋で触れた痕跡がある。(2)犯人ないし事情を十分に知る者でないと述べえない部分が含まれている。即ち、⑤昭和四三年五月一四日付司法警察員に対する供述調書、五月一九日付検察官に対する供述調書(以下、この種の調書について、前者を「員面」、後者を「検面」と略記する)に添付された請求人作成の各図面が現場の状況と概ね一致している(捜査官の手元にある図面を盗み見て書いたとする請求人の弁解は信用できない)、⑥五月二六日の現場検証に先立ち、司法警察員や検察官に対し、大きい事務室に大小二つのキャビネットがある旨及びその位置を明示しているが、これも現場の状況に一致する、⑦右現場検証に立ち会った際、「犯行時より机が二つ位増えている」旨供述したが、これも事実に符合する、⑧五月二七日付検面では、「小さい事務室の机の下の方の抽斗に黒いケース入りのカメラがあった」旨供述しているが、事実と符合する、⑨盗取したズボンと同じ生地を選び出した。

(二) また、公判廷における自白についても、「風呂敷で猿ぐつわをはめた」とする点のみを進んで訂正し、その余は全部認めるという態様のものであること、果物ナイフその他の証拠物についても、被害者の腕時計とそのガラス蓋を除いてすべて具体的な説明をしていることに照らして信用することができるものとしている。

3  同様に、控訴審判決は「本件が自己の犯行であることにつき何ら動揺が見られないだけでなく、犯行の具体的状況に関しても大綱において一貫性に欠けるところがなく、しかも真実犯人でなければ供述しえない重要な部分を含んでいる」から信用性を認めるに十分であるとしたうえ、右の真実犯人でなければなしえない供述として、前記⑤、⑦、⑧のほか、⑩被害者が倒れていた南側通路の状況につき、「窓側に現在の長椅子があったほか、犯行時は小さい事務室側にも何か衝立のようなものがあった」旨供述したが、事実、サービス課事務所側には陳列ケースが置かれてあったことを指摘し、更に、(イ)被害者をロープで縛った、(ロ)軍手のような手袋をはめて偽装工作をした、(ハ)被害者が振り上げた折りたたみ椅子を鉄棒で叩いたなどの供述が客観的に裏付けられたとして、これらについて次のとおり詳細に判示している。

(イ) 被告人は、五月二〇日及び二一日の取調べにおいて、検察官に対し、「私はこれを言うと自分があまりにも無残にサニー会社の宿直員を殺したと思われるのではないかと考え、今まで警察で述べたことも、又聞かれたこともなく、どうしても言い出せなかったが、検察官から何かほかに思い出すことがあるかと聞かれ、この際、心の中の苦しみを一切述べることにした。」旨供述の動機を述べたうえ、被告人が鉄棒で殴打する等して転倒させた被害者に対し、整備工場内から持ち出したロープで同人を縛り、ボロ切れで猿ぐつわをかましたこと、しかし後刻、可哀相な気がしてこれらを取りはずしてやったことをそれぞれ供述するに至ったのであるが(なお、被告人は、この点の供述を全く自発的になしたのであり、検察官から何らの暗示をも受けなかったことを第一審公判廷で明確に認めており、「自分が検察官にロープや猿ぐつわのことを話したら、検察官から『そういうこともあったのか』と言われた。」とも述べている)、この点は、実は、五月七日における最初の自白の録音テープを子細に聴取すれば明らかなとおり、被告人が号泣しながら警察で最初に自白した中において、「しばった人は私のそばへ座って来るのです。こわくて寝られなかったのです。」「窓をこじ開けて寝ている人を脅かして猿ぐつわをかましたのです。」などと、相手方を縛ったこと、猿ぐつわをしたことを甚だ断片的ながらすでに述べていたのであり、被告人自身、右のごとく警察ですでに述べてあったことにその後気づいていなかったのである。ところで、被告人を取調べて前記のような供述に接した検察官は、被告人が使用後同会社の整備工場内に放置したと述べているロープが、本件発生直後の施行にかかる警察の検証調書にもその他の関係記録にも何ら現われていなかったので、その点の裏付捜査をしたところ、右検証に際し警察が整備工場内を撮影し検証調書には添付しなかった残りの写真の片隅にロープが写っており、その写真のロープは、その特徴からみて、犯行の前日である昭和四二年一〇月二六日に、同会社の従業員が自動車の牽引に使用し、そのあと整備工場内に置いたものに相違ない旨確認され、しかも、検察官において、右写真のロープが押収されておらず事件発生後すでに半年余りを経てその行先も知れないので、あらためて六種類のロープにつき、右の従業員をして同人が前記牽引に使用したロープと類似するものを選ばせ、他方被告人にもその供述にかかるロープと類似のものを選ばせた結果、両者が同一のロープを選び出したのである。しかして、このような捜査の経緯に照らせば、右写真のロープは、被告人が被害者を縛るのに使用したというロープに相違ないものと認められるのであって、結局、捜査官がその手持資料の関係で予測しえなかったロープに関する被告人の右供述が、その後の捜査により裏付証拠を得たのであり、犯人でなければ知りえない右事実が証明されたのである。なお、これらの点に関し、右ロープの写真からもうかがえるように、犯行には一見無関係のごとくに整備工場の片隅に放置されてある使い古しのロープを、検証に際し捜査官がいわば見過ごしこれを押収しなかったからといって、直ちに所論のごとく、右押収しなかったのは右ロープに血痕が付着していなかったからにほかならないと断じ、自白の裏付証拠にはなりえないと非難するのは、必ずしも当を得ない。また、同会社事務室内において被告人から鉄棒で殴打されるなどし力を失って倒れた被害者が、被告人からさらにロープで両腕を縛られたのに、なおも自らの力で立ち上がり、よろよろと歩いて整備工場の方へ逃げ出したとする被告人の自白は、被害者の右のような行動も所論のごとく経験則上ありえないものでは必ずしもないのであって、ロープで相手方を縛ったとの本件自白が、所論主張のように不合理、非現実的なものであるとは認められない。

(ロ) 被告人は、かねて他から窃取した手袋を着用して本件犯行に及んだのであり、その手袋は掌のほうが滑り止めのイボイボになっているドライバー用の手袋(イボ手袋)である旨供述していたところ、検察官の五月二六日の取調べに至り、「実は、私はイボ手袋のほかにも軍手のような手袋をその時使用した、それは、相手方を殴ったり刺したりして倒した後、私は大変なことをしたと思い、つかまっても罪を軽くしようと二人組の犯行のように見せかけることを思いつき、当初からはめていたイボ手袋の上に、同会社内で入手した軍手のような手袋を右手だけ二重にはめて、血をこすりつけ、手提金庫やその中の封筒、紙片、事務室のロッカーその他至るところに二種類の痕跡を残すようにした。私は、このように偽装したのは非常に悪いことをしたと思い、今まで隠してきたのだが、この際一切を述べる決心をしたのである。」旨供述するに至った。ところで、被告人は、検察官に右供述するまでの間に、捜査官から手提金庫等の本件証拠物を示されたりしたことは一度もなく、右供述の際も、単に検察官が手提金庫を警察から取り寄せ自分の手許でそれを見ていたにすぎないのであり、すなわち被告人は、捜査官の暗示、誘導によらず、全く自発的に右供述をなしたのであって、そのことは、被告人自身も原審公判廷で認めているのである(被告人は、「私は検察官が手提金庫を見ているとき、検察官に私の心の中を全部見抜かれたという気持になり、イボ手袋のほかに軍手のことも述べたのである。」などと述べている)。しかるところ、検察官が、その後同月二九日に鑑定の嘱託をした結果、六月一八日付鑑定書により、本件証拠物の手提金庫、封筒、紙片、パイプ製折りたたみ椅子、果物ナイフには、ゴム編模様および表編模様の二種の手袋によって印象された血痕が付着していることが明確にされ、右供述の裏付けも得られたのである。

(ハ) 被告人は、被害者に発見されて鉄棒で同人に殴りかかった際、一回目は空振りし、二回目は相手の振り上げて来た椅子のパイプを力一杯叩いて「カチーン」と大きな音がし、手がしびれた旨一貫して供述しているのであるところ、被告人が右供述に及んだについては、第一審公判廷で被告人自身も認めるとおり、予め捜査官から、本件折りたたみ椅子を示されたり、そのパイプの部分が折れ曲がっているとの事実を知らされたりしたことは全くなく、右椅子を示されたのは取調べの最終段階に至ってであり(警察官からは五月二六日に、検察官からは同月二七日に初めて示された)、しかもその示されたパイプの曲損部分が被告人の供述による曲損部分と大差ないものであったことは、被告人がその際確認して検察官に述べているだけでなく、原審公判廷においてもそのことを認めているのである。しかして、検察官が、その後同月二九日に鑑定の嘱託をした結果、六月一九日付鑑定書により、本件折りたたみ椅子の後脚部横張り棒(パイプ)の痕跡は本件鉄棒の先端部から三センチメートルの部分により打撃された痕跡であることが判明し、右供述の裏付けが明確になったのである。

第五  当裁判所の判断

一 再審事由としての「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」(刑訴法四三五条六号)については、「当該証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したかどうかという観点から、当該証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきである」と解されているところであり、当裁判所もまた右の見解に従うべきものと考える。

そうすると、本件再審を開始すべきか否かは、結局のところ、原公判記録と前記第三に掲記した各証拠を総合して判断すべきこととなる。

二  ところで、本件につき主として問題となるのが請求人の自白の任意性及び信用性であることは確定審における場合と基本的に変わるところはない。

1  そして、確定判決の自白の任意性に関する前記判断は、当裁判所も又、これを是認すべきものと考える。これをやや具体的に見れば、本件請求人の場合にあっては、請求人が五月七日に自白をなすまでは、捜査官において、請求人が本件事件の犯人に違いないなどといった予断を抱いて取調べをなしたというわけではなく、また、請求人に対する苛酷な取調べが長期間に亘って続けられたというものでもない。確かに、右自白以後は再逮捕・勾留され、身柄も本件事件の捜査本部が置かれた内郷署に移されて、連日のように取調べがなされるに至ったことは記録上も明らかであるが、ここでも請求人は捜査本部員たる内郷署の菊地巡査部長の取調べを一時拒んだことはあるものの、平署から矢野警部補及び佐藤巡査部長が応援派遣されて請求人の取調べに当たることとなってから後は、自発的・積極的に詳細な供述をなすに至ったことが確定審において取り調べられた証拠(確定審における証人佐藤満雄の証言や請求人立会の上での現場検証の模様を撮影した録画フィルム等)から明らかである。そして、このことは当審における証人佐藤満雄及び同加藤宰の各証言によっても更に裏付けられているところである。

なお、右の判断に際しては、前記録音テープの存在が特に大きな意味をもったであろうことが窺えるのであり、この点は、例えば控訴審判決が「(請求人は)自ら苦悶の末、号泣しながら進んで本件犯行をざんげ自白したもので、右自白は、所論警察官の脅迫や誘導、暗示などによるものでないことが明らかであり、そのことは、右自白を録取した前記録音テープに如実に現われているところである。」と判示するなど、これについて確定審裁判所がそろってその証拠価値を高く評価し、右同様に認定しているところからしても明らかである。ただ、前記第三のとおり、当審においては右録音テープを取り調べることはできなかったが、確定審裁判所の評価に照らしても右録音テープの迫真性が窺えようというものであり、いずれにしても右の確定審の判断に何ら問題はないものと思われる。

2  ところで、請求人は捜査段階で自白をした際の取調状況について、当審においても確定審におけると同様の主張(「連日、長時間の取調べを受けた」「食事時間も不規則で、トイレにも希望どおり行かせてもらえなかった」「タバコを喫えなかった」など)を繰り返したほか、新たに「机を押されて壁の方に飛んで行ったことがある」「黙っていると、机をはたかれたように記憶している」「警察官に、お前が黙っているなら親も兄弟も刑務所に入れることができるんだぞと脅かされた」などと主張するに至り、請求人本人質問においてもこれに副う供述をしている。なお、請求人は、第一審の第一二回公判においても、「警察から、親兄弟が共犯者だから言えないのだろうと言われた」「否認すれば、親兄弟を入れると言われましたし・・・」「自分一人で犯人になればよいと思って(自白した)」などと供述しているが、右は窃盗事件について自白した動機として述べたものである(もっとも、控訴審第四回公判においては、本件事件について「警察で共犯者がいると責められ、親兄弟とこういうことをやったんだろうと言われた。具体的に源吉も共犯だろうと言われた。」などと述べている)。

しかし、請求人が第一審の第三回公判で否認に転じた後は、請求人をしてこのような主張をすることを妨げる何らの事情もなかった筈であるのに、右時点以降においても、右のような主張はなされていないのであり、今更になってこれが主張されるということ自体がかえって不自然であるものと言わざるを得ない。また、当審における証人佐藤満雄の証言によっても、右主張にかかる暴行・脅迫などはなかったものと認められる。

そうすると、請求人の自白に任意性があるとする前記確定審の判断は、当審の審理を踏まえても何ら変わるところはない。

三  自白の信用性について

1 一般に、任意性のある自白は、特段の事情のない限り信用性があるものと見て差し支えないであろう。特に、それが本件事件のような重大事犯に関するものであるときは、自白者としても、彼が通常の社会生活を営むに足るだけの能力を有する者であれば、自白が死刑又は無期懲役といった厳しい判決に直結しかねないということくらいは認識し得るものと思われるのであるから、自白防衛本能からしても、真犯人でない者が、虚偽の自白をするというようなことはまず考え難い事柄に属する。

過去において、殺人・放火・強盗殺人・強姦殺人などの重大事犯について被疑者の詳細な自白があるにもかかわらず、無罪判決がなされ、或いは確定した有罪判決がその後再審により覆されたという事例も少なくないが、その多くは自白の任意性についてもまたそれなりに疑問がもたれ、そのことと相俟って自白の信用性が否定されるに至ったというものであって、本件のように、自白の任意性についてはおよそ疑問を抱く余地はないのに自白の信用性が大いに問題とされるというような事例は珍しい部類に属するであろう。本件の特徴はまさにここにあるものということができる。それだけに請求人の自白の信用性の有無の判断には困難なものがあるのであり、その検討に際しては十分慎重な態度で臨まなければならない。

2  ところで、検察官は、前記のような確定判決の判断を全面的に擁護するほか、これに加えて確定判決において摘示されなかった以下の諸点を指摘し、これらはいずれも請求人の自白の信用性を肯定する方向に作用する要素であると主張している(検察官の平成四年一月三一日付意見書)ので、便宜ここで検討しておくことにする。

(一) 検察官は、「請求人は、勤務先から貸与された黒色のアノラックを着用して本件犯行現場に行ったとしたうえ、『金網の塀を乗越える時に多分左側のポケットと思いますが、金網にひっかけて破けたのです。そのため、私がネズミ色のビニールテープで裏打ちをしたのです。』と供述し、事実、本件アノラックには請求人がいうような特徴点があることが確認されたのであるから、これが自白の信用性を高めるものであることは多言を要しないところである。」と主張しているところ、当裁判所も基本的にこの意見に同調すべきものと考える。

もっとも、検察官は、右は秘密の暴露と解することができる旨主張するけれども、これが真に秘密の暴露たりうるためには、例えば、請求人が乗り越えたとされる金網部分に本件アノラックと同種の糸くずが引っかかっていることが発見されるなど、右自白が客観的な事実であることが確認されなければならないものというべきであるから、右主張には直ちに左袒することはできない。

(二) 五月二四日付検面及び当審における証人加藤宰の証言によれば、請求人は、五月二四日の検察官の取調べの際、「被害者とは昭和四二年七、八月ころ、尻子町の和可久食堂で一度会ったことがある。」「事件後二、三日過ぎて、『どこかで会った人をやっちゃった』と思い付くようになり、どこで会ったか考えてみたら、私がつけの金を払いに行った際、胸のポケットにサニーのネームを付けた白ジャンバーを着て、ラーメンのようなものをカウンターの処で食べていた人であることを思いついた。」「私は昨年一一月ころ、和可久食堂に支払いに行った時、やはり右と同じ服装をした人が来ていて『生き返ったのか』とびっくりして金を払わずに逃げて帰ったことがある。」などと供述したうえ、被害者が日産サニーの同僚らと写っている写真の中から被害者を指示特定したことが認められる。そして、捜査官側においては「和可久食堂」について何ら知るところがなく、「可」という字も請求人がわからないというので平仮名で書いた(右加藤証言)というのであり、現に右調書がそのような記載になっていることからすれば、右自白は請求人が自ら進んでなしたものであることは明白である。また、翌二五日、和可久食堂の手伝いをしている佐藤美弥子の取調べがなされ、これによって、請求人及び被害者がともに同食堂に出入りしていたことが裏付けられるとともに、同日、日産サニー所長の西岡増雄から、同社の制服(白半コート)が提出されて、被害者の服装に関する部分も裏付けられたのである。

そうすると、検察官がいうように右の点をもって「秘密の暴露に準ずるもの」ということができるかどうかはさておき、これが請求人の自白の信用性を著しく高めるものであることは確実である。しかも、請求人が否認に転じた後に、右のように写真中の被害者を特定することができた理由について述べるところを見るに、これには変転が著しいものの、要するに、①やまかんで指示したら当たってしまった、②三という数字が好きなので三番目の人を基準に選んだら当たった、③捜査官から被害者の体格を聞知していた、④新聞やテレビで被害者の顔を見ており、しかも以前和可久食堂で被害者らしい人を見たことがあった、⑤取り調べ検察官の顔色を窺って表情の変化を見て選んだ、というにある。しかしながら、①及び②は全く論外であり、特に②に至っては、請求人が指示したどの写真を見ても被害者は三番目に位置していないのであるから、客観的事実に反する弁解であって、とるに足りないものである。また、③及び⑤にしても被害者を指示特定することができた理由としては十分なものではなく(⑤については具体的な状況によっては、そのようなことが可能になる場合もあることは必ずしも否定できないが、請求人の述べる程度のことによってはそれが確実に可能だとは思われない)、④については、請求人は他方で日産サニー事件の新聞やテレビの報道は見ていないと強調しているところであって、これと根本的に矛盾する弁解と言わざるを得ない。

ただ、この点については次のような疑問も残ることは指摘しておかなければならない。即ち、前記自白によれば、本件犯行後間もなくして被害者が顔見知りの者であることなどに思い当たっていたというのであるから、そのような事実について五月二四日になってはじめて供述をなすに至ったことに対してはやはり不自然な感じを抱かざるをえないのである。まして、請求人は被害者について、五月一四日付員面では「年の頃がそう若くも見えない男の人」と述べているのに対し、五月二一日付検面では「背のあまり大きくない若い人」と述べていて、一見して明らかな程にくい違った供述をしていることなどは、前記自白が真実であるとすれば、いささか奇妙なこととしなければなるまい。

(三) 請求人は否認に転じた後に、「(自白をしたときは)真犯人になりきってしまっていた」などと陳弁するけれども、何故にそのような状態に陥ったのかというその理由について述べるところは、自白の任意性について既に検討した域を出ないのであり、また、どのようにしてそのような状態から脱し得たのかについても極めて不自然・不合理な弁解に終始しているということも又、検察官の指摘するとおりである。

この点は、それ自体が自白の信用性を増強する方向に作用するというものではないが、少なくともこのような弁解によっては自白の信用性が何ら減殺されることがないということだけは確実である。

(四) なお、検察官は、手提金庫をこじ開けるのに使用されたベアリングレースプーラーについて、「請求人は、現場検証立会後の五月二六日、手提金庫の座金部分をベアリングレースプーラーの先端で胴突きした旨供述するに至った。同供述は、現場検証の立会を契機としてなされるに至ったもので、記憶喚起の経過が自然であるうえ、手提金庫の痕跡を想定しただけでは他の道具によっても破壊可能で特にベアリングレースプーラーを手提金庫の破壊道具と指摘してその用法を特定した供述は重要な意味を有するものと思料される。(中略)そして、右供述にもとづき、手提金庫の痕跡を形成した道具を特定するためになされた昭和四三年六月一九日付鑑定書により、手提金庫の破壊に用いた道具及びその使用方法に関する請求人の供述の真実性が裏付けられたのである。」(前記意見書一〇五頁以下)と主張している。

しかし、右ベアリングレースプーラーに血痕が付着していたことからすれば、犯人がこれを何らかの用に供したことは当初から分かっていたことであり、しかも手提金庫の座金部分の打撃痕がベアリングレースプーラーの頭部分によるものであることは専門家の目で見れば比較的容易に判明する類の事柄だといわなければならない(右鑑定書によっても、「肉眼や計測検査によるだけでも、大きさ、形状等により概ねプーラーの頭部と共通するところが認められる」ものとされている)。また、右鑑定そのものは請求人の自白後になされたとはいえ、捜査官が右の程度の事実さえ知らなかったとはた易く考え難いところである。また、そもそも、本件事件の捜査については、このような科学的捜査の結果を書面化することが著しく遅れていたのではないかと疑われるふしがある。例えば、後記六の1、(一)、(3)の風呂敷につき、昭和四三年五月二二日付で血液の付着の有無についての鑑定書が作成されていることなどは殆ど信じ難いことであり、果物ナイフと折りたたみ椅子に付着していた血痕指紋等の採証報告書さえ、同年五月二九日付で作成されていることについても同様である。そして、当裁判所の平成四年一月八日付照会書に対する検察官の回答(前記職権分番号2)によれば、後者については、当時の捜査官も書面化することが遅れたものであることを自認しているのである。そうすると、この種の鑑定書の日付については一定の警戒心をもって受けとめなければならないことにならざるを得ない(手袋痕に関する鑑定や折りたたみ椅子の打撃痕に関する鑑定についても同様である)。加えて、請求人は当初は鉄棒を使用した旨供述していたものであることなどをも考慮すれば、いずれにしても、この点は余り重視することはできない。

3  前記1で見たところによれば、一般論としては、任意性のある自白の信用性を否定するためには余程の事情がなければならないものというべきである。そこで、以下、項を改めて、請求人の自白の信用性を否定するに足る程の特段の事情が認められるか否かについて具体的に検討することとするが、その手順としては、確定判決が自白の信用性を肯定する根拠として挙げている諸点について再検討することから始めるのが順当であろう。

四  確定判決において列挙されている前記諸事項は、当時は未だ明確に意識されてはいなかったにせよ、その後自白の信用性判断のための判断基準として確立された感のある「自白内容の合理性」「体験供述」「秘密の暴露」「客観的証拠との符合性」に関連するものであるということができる。

そこで、これらの判断基準に従って右事項について再検討してみることとするが、これらの基準は相互に密接に関連したものであるので、以下では、まず「秘密の暴露」とみなすことのできるものがあるか否かを見たうえ、「客観的証拠との符合性の有無」を中心に検討を加える。

1 秘密の暴露とは、あらかじめ捜査官の知り得なかった事項で、自白によって捜査の結果客観的事実であることが確認されたというものであると一般に理解されている。そうすると、これは、取調べに当たった捜査官において被疑者を誘導したり示唆を与えたりすることがおよそありえない性質のものであるから、当該自白中に秘密の暴露といえるものが含まれているということとは、その自白の信用性を肯定する方向に作用する極めて有力な要素であるものということができる。それ故、仮に右自白に変転があったり客観的証拠と符合しない部分があるなどの一定の疑問点があっても、秘密の暴露がありさえすれば右自白の信用性を肯定してもよいものと思われる。もっとも、科学的で周到な捜査がなされればなされる程、捜査官はより精密な情報を獲得することができ、その認識も深まり「秘密」が少なくなる理屈であるから、秘密の暴露がないからといって当該自白の信用性が疑問視されるということにはならないのは勿論である。

2  右のような観点から、請求人の自白を見るに、一応秘密の暴露が問題にされうるものは、控訴審判決が列挙するもののうちでは前記(イ)、(ロ)、(ハ)の各点であるといってよい。

(一) まず、(イ)についてであるが、控訴審判決も指摘するとおり、請求人は最初の自白である五月七日の録音テープ(これをはん訳したものが昭和四三年五月一九日付「被疑者の自供状況について」と題する書面である)中には、「被害者を縛ったこと」「猿ぐつわをかましたこと」を供述していたのであるから、検察官においても既にこのことを認識していた可能性がある。そうすると、厳密にいえば、秘密性についてもいささか疑問があるものというべきなのかもしれないが、この点については、請求人も全く自発的に述べたものであることを自認しており、更に、「検察官は、『そんなこともあったのか』と言っていました。」とも供述しているところであるから、一応不問に付することとしてもよいであろう。

これに対して、「客観的な事実であることが確認された」という点においては大いに問題を残すものといわなければならない。即ち、本件事件については、被害者の血液型であるB型の血液が付着したロープが存在することが確認されたというわけではなく(問題のロープそのものは遂に発見されず、したがって、それに血痕が付着していたか否かなどは全て不明のままである)、せいぜい昭和四二年一一月一七日付検証調書に添付しなかったが、右現場検証の際に撮影された写真(昭和四三年五月二三日付現場写真撮影報告書)の中にそれらしきロープが写っていることが認められ、しかも、本件事件前日の一〇月二六日に該ロープを使用したという日産サニーの従業員らによってそれが確認され、更に、右従業員らと請求人に該ロープに類似するロープを選択させたところ、同じものを選択したというに止まるのである。

しかも、「請求人の自白のとおりであるとすれば、該ロープには相当の血痕が付着していたものと解されるから、そのようなロープが本件犯行現場に残されていたとすれば、被害者の遺体が発見された直後の一〇月二七日から同月二九日まで実施された前記検証調書にかかる現場検証の際に捜査官がそれを見落とす筈はない。然るに、それが注目されなかったということは該ロープに血痕が付着していなかったということにほかならない。」とする確定審以来の弁護人らの指摘には首肯すべきものがある。そればかりか、当審における審理の結果、右ロープについてはその存在そのものについて根本的な疑問が浮かび上がってきたのである(後記五の1)。

(二) また、(ロ)については、右手提金庫や封筒などを見れば、二種類の手袋様の血痕模様が付着していることは比較的容易に見てとることができるのであるから、確実な判断は昭和四三年六月一八日付鑑定書(寺島久男作成)によって初めて可能になったものであるとしても、それ以前に捜査官においてこの点についての認識がなかったとは到底思えないのである。したがって、このことだけによっても秘密の暴露には当たらないことになろう。

のみならず、同鑑定書は「ゴム編模様と表編模様の手袋の編目の印象による血痕と見るのが総合的に見て最も適合する」旨判定しているのであって、請求人の自白にある「イボ手袋」とはいっていないのであるから、これをもって請求人の自白が客観的真実に合致するものであることが確認されたということにはならず、この点においても又秘密の暴露の要件を充足しないものと言わざるを得ない。第一審判決が、請求人の五月二六日付検面及び右鑑定書を証拠の標目に掲げず、かつ請求人の自白に信用性があるとする根拠として(ロ)を何ら摘示するところがないのは、もちろん推測の域を出ないことではあるが、右の自白についてはむしろ信用性にいささか問題があると考えたからではないかと思われる。

しかるに、控訴審判決は、右のような第一審判決とは対照的に、この点をかなり重視していることは前記のとおりであるが、それには控訴審で取り調べられた昭和四四年三月三一日付鑑定書(前同人作成)中において、「鑑定資料第一図から第四図中、四角い枠で囲まれた範囲内にある擦過痕(矢印で示した部分)は、いずれもイボ手袋によって印象される可能性がありうる」とされたことが影響を及ぼしているのではないかと推測されるのである。しかし、同鑑定書の鑑定事項は、「昭和四三年五月二九日付鑑定嘱託書中、資料2号(写真17図)、資料6号の2(写真22図)、資料7号の3(写真29図)、資料7号の7(写真31図)に印せられている痕跡はイボ手袋によって印出可能であるかどうか」というものであり、右の鑑定は対象の中には、六月一八日付鑑定書中で、明確に「表編模様の痕跡」と判定された資料2号の「セ」部分、資料7号の3の「ア」部分、資料7号の7の「ア」及び「エ」部分、「表編模様の擦過痕跡」であるとされた資料2号の「ス」部分があるのに、これらについては何ら触れるところがないのである。両鑑定書の鑑定人が同一人物であることに徴すれば、これらの部分については先の鑑定(六月一八日付)の判定を変更する必要がないということであろうと考えるのは当然である(特に、資料7号の7の「エ」部分などは「表編模様の痕跡」とすべきことが一見して明らかであるように思われる)。そうすると、これらの血痕には「ゴム編模様」、「表編模様」の二つが依然としてあり、更にこれらとは別に、「イボ手袋によって印象される可能性がありうる擦過痕」があることになる(もっとも、これが、前二者の手袋によっても印象される可能性があるか否かについては何ら検討が加えられていない)というだけのことであって、これによっても請求人の前記自白が客観的に裏付けられたことにはなっていないという状況には何らの変化も生じていないのである。控訴審判決にはこの点において明らかな混同ないしは誤解があるものと言わざるを得ない。

(三) 被害者と犯人が格闘を演じたことが一見して明らかな事務室内に折りたたみ椅子が転がっており、同椅子の後脚部横張りパイプが顕著に屈曲していることは誰の目にも明白だったのであるから、同椅子が両者の攻防の道具として使用されたであろうことは捜査官において極めて容易に認識し得た事実に属する。そして、同椅子の脚部パイプに血痕指掌紋が付着していることからすれば、犯人は前記のとおり手袋をはめていたものと考えられるから、右はおそらく被害者の指掌紋であり、したがって同椅子は被害者が同部分を握って持ち上げていたことも容易に想像されるところである。一方、犯行現場には、被害者の血液型と一致する血痕及び被害者の毛髪が付着した鉄棒が遺留されていたのである(この点は証拠上明白である)から、犯人がこれを凶器の一つとして使用したであろうことは確実であるところ、その形状や材質からしてこれによって折りたたみ椅子の後脚部横張りパイプの屈曲が生ぜしめられたのであろうという想像は比較的容易になされうるものであるといわなければならない。

そうすると、(ハ)についても、そもそも秘密性という点において大きな疑問があるものというべく、この点のみをもってしても秘密の暴露に当たらないことは明らかである。

のみならず、後に詳細に検討するとおり(後記六の1、(二))、被害者が折りたたみ椅子を持ち上げて犯人と対峙した際の同椅子の用いられ方については、請求人の自白するところと客観的な証拠との間には重大な齟齬がある。即ち、「被害者が持ち上げた折りたたみ椅子の後後部横張りパイプを鉄棒で叩いた」という限りにおいては請求人の自白に誤りはないとしても、右は多分に抽象的な次元の事柄であって、やや具体的に立ち入ってその内容を検討するならば重大な疑問が生ずるのである。このようにして、右の範囲では客観的な真実であるということによっては、この関係における請求人の自白の信用性が肯定されるということには少しもならないのである。

(四)  以上によれば、控訴審判決が重視する前記(イ)、(ロ)、(ハ)の各点(これらは、第一審判決が列挙するもののうちの①、③、④に関連するものである)については、それぞれ重大な問題性を有することが明らかになった。

3  確定判決において、請求人の自白が客観的な証拠や状況と合致しているものとして列挙されているその他の事項は、いずれも捜査官側に確実に知られていたものばかりであるから、これらが秘密の暴露に当たらないことは明らかである。

しかし、既に述べたとおり、秘密の暴露に該当するものがないからといって自白の信用性が直ちに問題にされるべきではなく、より一層慎重に信用性の有無について検討し判断しなければならないというに過ぎない。そして、その場合において、捜査官側の誘導や暗示の可能性を排除することができるならば、右自白が客観的状況に合致するものであるということはやはり自白の信用性を肯定する方向に作用する重要な要素であることについては疑問の余地がない。

(一) そこで、確定判決が列挙するこれらの各点について具体的な内容に踏み込んで検討するに、これがいずれも客観的な事実であり、或いは客観的な状況ないしは証拠にほぼ合致するものであることは確定判決の摘示するとおりである。ただ、前記⑦については、昭和四三年五月二八日付検証調書によれば、正確には「大きい事務所の机の状況について、被疑者は、『前より机が多いように思います。一列目の机は今より少なく、広かったように思います。』と説明した」というものであり、右にいう一列目の机とは、右事務室内の所長の机と並ぶ机を指すものである。ところで、同室内の机の配置については、請求人が取調べ時に作成した各図面と昭和四二年一一月一七日付検証調書を対比すれば明らかなように、請求人作成の図面にはそもそも所長の机と並ぶ三個の机(一列目の机)の記載がないのであり、二列目の机についても三個少ないという具合であるから、このような認識をもって現場に臨んだ場合、「机の数が多い」との印象を受けるのは蓋し当然のことである。したがって、前記請求人の指示説明を以て、あたかも「犯行時よりも机が二つ位増えている」(そのこと自体は客観的な事実である)旨供述したかのように受けとめた確定判決の事実認定の姿勢には、単にいささか正確さを欠いたということでは済まされない性質の問題があるように思われる。また、⑥については、請求人は、問題の現場検証(昭和四三年五月二六日)に先立ち、五月一〇日付員面で同趣旨の供述を既になしているのであるから、掲げるとすれば右供述でなければならない筈である。控訴審判決がこれを掲記しなかったのは右の理由によるものであろう。

そうすると、⑥及び⑦については右のような問題点があることを留意するとして、次に検討されるべきは、これらの自白がなされた経緯、特に捜査官側の誘導や暗示がなかったかどうかという点であるが、請求人の自白については全体的に自発的・積極的に供述した形跡が窺えるということは先に請求人の自白の任意性について述べたとおりである。また、当裁判所は遂にその機会に接することができなかったけれども、請求人の取調べ状況を録音した録音テープの内容はそのような様が十分窺えるものであったろうことが、確定審の審理及び判決から容易に推察されるということも既に見たところである。それ故、前記⑤ないし⑩の各点はやはり重要な意味を有するものと一応考えられる。

(二) しかし、更に子細に検討すれば、必ずしも前記のようにはいえないようにも思われる。

(1) 右のうち⑤ないし⑧及び⑩は、いずれも犯行現場の状況に関するものであって、その意味では共通の根を有するものであるが、右の中では、⑤が時期的にも最も早いものであるし、また内容的にもその他の諸点の基礎ともなりうるものであるなど、最も重要な意義を有するものということができ、とりわけ五月一四日付員面に添付された図面こそが重要である。

(2) そこで、右五月一四日付員面に添付された図面について見るに、当裁判所は、これについては次のような疑問を覚えるのであり、更には不自然さや奇異の念さえ抱くものである。

まず、本件犯行現場である日産サニーは、本件事件発生の数か月前である昭和四二年八月に本件建物に移転したばかりであり、請求人が、仮にその自白どおり、前に一回電話帳の配達か何かで訪れたことがあるとしても、決して、本件建物の内部の様子に通じていたわけではない。しかも、請求人の自白によれば、深夜に侵入し、暗い中を物色しているところを被害者に気づかれて格闘となり、必死の攻防を展開した挙げ句、思いがけないことに被害者を惨殺してしまったというのであるから、請求人としては大いに気を動転させているものと考えられるのであり、そのような中で周囲の状況等にどの程度気を配り、記憶に止めることができたかといえばかなり疑問としなければならない。特に、後に見るとおり、請求人の自白は極めて重要な部分においてさえも著しく変転し、甚だしくは客観的な証拠に反するものさえ少なくないというのに、犯行現場の状況については間取りや構造はもとより机の配置などに至るまで、かなり正確に再現して図示することができたということの方がむしろ不思議なことではないだろうか。

また、そもそも本件犯行のように場所的な移動を伴って被害者と犯人との攻防がくり展げられている場合の被疑者の取調べは現場の見取図を抜きにしては到底不可能であるから、取調官の側では昭和四二年一一月一七日付検証調書そのものないしは少なくともその添付の現場見取図の内容などを事前に十分に頭に入れたうえで取調べに臨まなければならないが、右五月一四日の取調官が当初からの捜査本部の要員ではない平署員であったことをも考慮するならば、現にこれを手元に置いて取り調べたというようなことも大いに考えられるところである。したがって、取調官が請求人に犯行現場の図面を作成させるに際して、図面を直接請求人に見せたというようなことまではないにしても、請求人がこれを見ようと思えば見ることのできるところに前記検証調書の図面等を置いていたということも、あながち根拠のない憶測とばかりは言い切れないものがある。更に、これに先立つ五月一〇日には、身上経歴や家族関係から始まって、盗みの動機、本件犯行の概要(犯行前の足取り、侵入の経路、物色の順序・方法、そして被害者と格闘になったことなど)について取調べがなされ、これが調書化されているのであるから、請求人が五月一四日の図面作成前に、現場の状況についてかなり詳細な情報に接していたことは確実である。ところで、右一〇日の取調官は捜査本部員たる内郷署の菊地巡査部長であるが、先に指摘したように、この種の取調べには現場の見取図が不可欠ではないかと思われるのに、そのようなものを請求人に作成させることなしに如何にして前記のような内容の取調べが可能だったかという疑問がある。

そこで、請求人の自白の経過、特に前記図面の作成経過について若干見ておくに、請求人は別件の窃盗事件により四月二七日以降平署に逮捕勾留されて取調べを受けているうちに、五月七日に本件事件の自白を始め、同月八日に本件事件により再逮捕され、同日その捜査本部が置かれている内郷署に引致されて引き続き取調べ受け、同月一四日に至って現場の図面を作成したのである。しかし、請求人は五月七日の自白で極めて概括的ではあるが、まさに犯行の核心部分に関わる供述をなしたのに、同月八日の取調べにおいては、犯行時に着用していた衣類(黒色アノラックと縦じま純毛ズボン)、履いていたズック靴、及び犯行後におけるこれらの処分状況、所持していたドライバーと「鉄板を加工したもの」について供述調書が作成されているのみであり、同月九日付員面(これ以降は内郷署での取調べ)も、犯行後は勤務先である電報電話局の休憩室で泊まったこと、ドライバーを局のロッカーに入れたことなどのほかは八日付のそれと殆ど同じ内容に終始し、同月一〇日の取調べに至って前記のとおり漸く本格的な取調べが開始された感がある。しかも、ここでは、取調べの途中で請求人が「今のところ、あの時の状況を思い出すと死んだ人の顔が目の前にちらつき、頭も心も混乱してしまいますので、(中略)今日の取調べは勘弁して下さい」と申し出て取調べが中止されているのである。この点について、確定審における証人佐藤満雄の証言によれば、請求人が内郷署員に取り調べられるのを嫌い、取調べが順調に進展しないとして、請求人が最初に自白をなした相手である平署員の派遣を要請され、矢野警部補と佐藤巡査部長が捜査本部に参加し、以後請求人の取調べに当たったというのである。現に、五月九日及び一〇日の各供述調書は菊地巡査部長により作成されているが、一一日以降は矢野警部補が作成者、立会人が佐藤巡査部長(但し、同月一九日付のみは菊地巡査部長)となっていることが明らかである。そうすると、請求人の取調べの進捗状況が五月七日の自白後も必ずしもはかばかしくなく、特に、内郷署で取調べられるようになった当初はそうであり、取調官が交替した上で、それも五月一四日以降になって漸く軌道に乗ったものと見られるのである。請求人の取調状況に関する右のような事情については各種の解釈がありうるところであって、到底断定することはできない(例えば、請求人が罪障感にひどく責めさいなまれ精神的にも著しく不安定であったためであるというような受けとめ方も勿論可能である)が、請求人が必ずしも供述すべき知識と情報を未だ十分に持ち合わせていなかったからではないかと考えるのも全く根拠のないこととばかりはいえないであろう。いずれにしても、請求人において真に反省悔悟して五月七日の自白に及んだというにしては、このように一挙に核心部分に迫るような自白が獲得されなかったことについては一定の疑問が残るのは否めないところである。

(3) このように見てくると、請求人が該図面を作成したのが五月七日の自白に接着した時期、特に平署で取調べをうけていたうちであれば、その重みは格別のものがあったと思われるのであるが、内郷署に移された後、それも前記のような五月一〇日の菊地巡査部長の取調べを経た後に作成されたものであるだけに、この図面を作成したことを余り重視することには問題があるものと言わざるを得ない。

(4) 肝心の⑤についてこのような疑問があるということになると、⑥ないし⑧及び⑩はいずれも前記検証調書に記載されていることばかりであるから、請求人がなしたという言動を果たしてどの程度重視することができるかは同様に問題である。特に、⑥及び⑦については前記のような問題点もある以上、尚更のことである。

(5) なお、⑨については後に検討するとおり、これを盗んだ場所についての請求人の供述自体に疑問がある(後記六の1、(六))から、これもまたどこまで重視してよいかといえば問題が残るのである。

4  以上検討したところによれば、確定判決が請求人の自白に信用性があると判断した根拠として列挙されているものには秘密の暴露と見るべきものは何ら存在せず、それに準ずるようなものとして理解されていた前記(イ)、(ロ)、(ハ)の各点はむしろ客観的な事実に反するか或いは重大な疑問があることが明らかになり、その他の客観的な証拠ないしは状況と合致するものとされる諸点についても、果たして確定判決がいう程に重きを置くことができるかどうかは疑問がないわけではないことがかなり明らかになったものと思われる。

五  これまで見た限りでも確定判決の事実認定には一定の問題があるといわなければならないのであるが、更に、当審で取り調べた新たな証拠をも含めた検討の結果、次のような重大な事実が明らかとなった。

1 被害者を縛ったというロープについて

(一)  該ロープが写っているとして前記現場写真撮影報告書に添付された写真(以下、A写真という)と偶々同じ場所が含まれている昭和四二年一一月一七日付検証調書添付の写真96(以下、B写真という)には該ロープが写っていない。この点について、検察官は「撮影の角度によって、被写体の範囲に大きな差異をもたらすものであることからすれば、右のようにいうことについては疑問なしとしない」旨主張するけれども、右主張にいう撮影の角度の差異を考慮に入れても、なお右のように断ずることができる。ところで、B写真は現場の状況がそのまま写っているのに対して、A写真においては、血痕足跡と思われるものについて既に採証活動が開始されていることが明らかであるから、右二枚の写真の撮影がなされた時間的前後関係としては、Bが先でAが後であることは確実である。そればかりか、A写真においては、洗面台に傘が立てかけられており、床面は著しく濡れている(これは傘が立てかけられていることと相俟てば雨水によるものと思われる)こと、同検証調書には「一〇月二七日は曇天で午後三時三〇分ころから雨で次第に強くなった」と記載されている(このことは平成四年一月一四日付の小名浜測候所気象解説官鈴木豊信の「気象資料の送付について」と題する書面によって裏付けられた)こと、B写真においては薄日が射している状況であることなどを総合すれば、B写真は一〇月二七日の未だ雨が降り始める前に撮影されたものであり、A写真はどんなに早くとも相当本格的な降雨が始まってから後のものであるということになる。

(二) ところで、右検証調書の記載によれば、右現場検証は、昭和四二年一〇月二七日午後二時五分から午後九時一五分まで、同月二八日午前九時四〇分から午後八時四五分まで、同月二九日午前八時四〇分から同一一時五〇分まで実施されたものであり、添付の写真は一〇月二七日から一〇月三〇日までの間に撮影されたものであるというのであるが、写真の中には撮影日を表す表示板が入っていないものがあるばかりか、何らの注釈もないまま、一一月一日と記載された表示板があるものさえ含まれている有様である。そこで、右のような事情に鑑み、A写真の撮影日時を更に特定するべく、押収してあるネガを検するに、これは鋏様のもので適当な大きさ(おそらく保管の便宜を考えたものであろう)に切り離されてばらばらに袋に入っている状態になっているのであるが、写真の番号と被写体の関連性及び場所的近接性、並びにネガの切断面等を照合すれば、右A写真は一〇月二八日に撮影されたものと結論づけられる。そうすると、A写真が証拠として提出されるに至った前記現場写真撮影報告書にある「一〇月二七日撮影」の記載は真実に反するものであることが明らかである。何故に右のような誤った記載がなされるに至ったのかは明らかではないが、おそらく右報告書の作成者の思い違いによるものであろう(ただ、右報告書の作成者が写真撮影者自身であるということはいささか割り切れないものを残すということは指摘しておく必要がある)。しかし、A写真のもつ意味が甚だ重要であった(これは控訴審判決の判示するところ(前記(イ))を見ただけでも明白である)だけに、事は重大である。

(三) そして、確定審において取り調べられた証拠によれば、本件犯行現場は前記現場検証に先立ち直ちに現場保存の措置がとられたことが明らかである(日産サニーの回りには縄が張られて、同社の従業員らも立入禁止になったことが認められる)から、一〇月二七日撮影のB写真では存在しなかった傘やロープはその後捜査官側が持込んだものと解するのがむしろ自然である。そうすると、該ロープで被害者を縛ったとする請求人の自白は信用することができないし、また、少なくとも、右の自白がA写真によって裏付けられたとして、そのことを請求人の自白の信用性を肯定する根拠の一つとした控訴審判決の判断に問題があることは今や明白である。もっとも、それだからといって、直ちに被害者をロープで縛ったという請求人の自白が全て信用性を失うことにはならないが、この点は後記六の1、(一)において更に検討する。

なお、前記四の2、(一)において、血痕が付いていた筈のロープを現場検証に当たった捜査官が見落としたことに対する疑問を指摘しておいたところであるが、該ロープとされたA写真中のロープは本件犯行直後の犯行現場にはそもそも存在しなかったわけであるから、捜査官がこれを発見するに至らなかったのは蓋し当然のことであったのである。

2  確定判決は、本件犯行の用に供された凶器について、「鉄棒で被害者の左頭部を約二回殴打し」「果物ナイフやドライバーで、背部、腕部等数ケ所を突き刺し」「果物ナイフで頸部等を数回切りつけ」たと認定しているが、この点については次のような問題点があるものといわなければならない。

(一) 右のうち、ドライバーについては、これによってどの傷が生じたものと認定されたのか明らかでない。また、証拠物として請求され、取調べがなされたドライバー(昭和四三年押第20号の一二)は証拠の標目欄にも記載されていないところからすれば、確定審の裁判所はこれが犯行に供されたものとは認定しなかったものと思われる。

そうすると、侵入時に浴室の窓ガラスを割るためにドライバー様のものを使用し、また、物色時に施錠されたキャビネット等の扉をこじ開けるためにやはりドライバー様の器具を使用した痕跡があることからして、犯人がドライバー様のものを携えていたことはまず確実であるところ、ドライバーを凶器として使用したこと自体に関する証拠としては、請求人の捜査官に対する自白中に、「ドライバーのようなもので脇腹を切りつけた」(五月一四日付員面。但し、ここでは、右は「被害者が持っていたのを手放したもの」とされているので、犯人が携帯所持していたものとは異なるわけである)とか、「腰にさしたドライバーを逆手に持って相手の脇腹をえぐるように刺した」(五月一九日付検面)などとされており、また、第一審の第一回公判における被告事件に対する陳述が別紙一の公訴事実を概ね認めたものであったということがあるに止まる。そして、請求人のこの点の自白は右に見るとおり甚だ曖昧なものである。したがって、確定判決においても、これがどのように用いられたのか、また、それによって成傷せしめられたのは一体どの創傷であるのかなどは全く不明なままである。

(二) これに対し、鉄棒については、被害者に加えられた攻撃の部位も特定されており、現に被害者の左頭部には鈍器で成傷されたものと認められる三ケ月型の挫弁状創(前田鑑定にいう(1)創傷)が形成されている。また、鉄棒の先端から二〇センチメートルの部位に、被害者の血液型と一致するB型の血痕と共に被害者の頭髪が粘着していたことによっても、これが被害者の頭部への攻撃に用いられたことはまず確実である。もっとも、被害者の頭部には前記(1)創傷のほかに右頭頂部挫裂創(前田鑑定にいう(2)創傷)があり、これも又鈍器により成傷されたものであることが認められるから、確定判決が「左頭部を約二回殴打した」と認定したことについては疑問としなければならない。確定判決は、或いは左頭部の三ケ月型の挫弁状創について二回の打撃によって生じたものと考えたのかもしれないが、船尾鑑定及び牧角鑑定によればこれも又疑問と言わざるを得ない。

なお、前田鑑定は、(1)創傷について「創長等から考慮するに、鈍器の作用部分の長さは約10.1センチメートル内外で、骨折をともなわないこと及び弁状創の存すること等から、凶器は頭皮膚触線の方向に作用したと推定される。そしてその用法は恐らく被害者側について、凶器を左側頭部に略々上から下方に打ち下ろしたと推量される。用器の種類については、前記理由等により明言できないが、恐らく極めて鋭利な稜又は突起物を有しない長さ10.1センチメートル又はそれ以上の作用面を持つ鈍器、例えば棍棒の如きもの又はこれに類似する鈍器と推量される。」とし、(2)創傷については、「創洞は、両側に小ポケット創が形成され、又創長と右ポケット創に相当して骨膜がわずかに剥離されていること等から、本凶器はその作用部分の長さが約5.0センチメートル内外の鈍器で、その作用方向は頭部に対して直角よりむしろ斜めに作用されたと推定される。(1)創傷と同じく凶器の種類はこれを明言できないが、略(1)創傷を発起させたと同一性状を有する鈍器と推量される。」としている。

また、船尾鑑定は、「(1)、(2)創傷はいずれも鈍器打撲によって生じたもので、特に(1)創傷は比較的鋭利な稜角をもった一〇センチメートル以上の作用面を有する棒状の成傷器で生じたものと推定される。」としている。しかし、本件鉄棒は頭部が2.4×2.6センチメートルの六角型であるほかは稜はなく、むしろ全体としては丸い棒状(太さ二センチメートル)をなしていることが明らかであり、もしも右船尾鑑定が正しいとすれば、本件鉄棒は(1)創傷の成傷器としては適合しないということにならざるを得ない。

しかし、牧角鑑定及び牧角証言にあるように、「棒状鈍器が直接作用した部分には、創縁に表皮剥脱ができるはずであるから、(1)創について鈍器が作用した部分は、表皮剥脱が存在する小挫滅創部分であって、その範囲は一〇センチメートルよりもずっと短い範囲であったはずであり(もし仮に、「一〇センチメートル以上」の部分が、直接頭皮に作用したとすると、球形に近いという性状をもつ頭蓋骨には当然骨折を生じるはずである)、(2)創も挫裂創と認められるのであるから、五センチメートルよりも短い範囲というほかなく、また創の左右にポケット創があることから、角材の角稜部でできたものではなく、断面の丸い形の棒状鈍器によるほうができやすい」とみるのが相当である。したがって、本件鉄棒によっても、(1)、(2)創傷は成傷しうるものと見られる。

(三) 最も注目すべきは果物ナイフである。

(1)  被害者の死体には有刃器で成傷されたものと認められる多数の創傷があるところ、本件果物ナイフは調理室の流し台の抽斗から持ち出されたものであり、犯人と被害者が激しい格闘を演じたものと推測される表側事務室の南側出入口付近の床上に落ちていたものである。そして、これには被害者の血液型と符合するB型の人血が全体に付着していたことからすれば、これが凶器として用いられたのではないかと考えることには十分な理由がある。

(2)  しかしながら、右のように考えるについては以下のような問題点もあることを看過することができない。

①  本件果物ナイフは人を殺害するための凶器としてはいかにも脆弱なものとの印象は否めないところであり、特に、本件犯行にあっては多数回に亘って甚大な攻撃が加えられているところ、このような用法に耐えうるものであるかというについては、一般的な疑念を覚えないわけにはいかない。特に、前田鑑定にいう(19)創傷の如きはもっと鋭利で強靭な有刃器を連想させるものがある。もっとも、船尾、牧角、石山(創傷)の各鑑定は揃って右(19)創傷も本件果物ナイフによって成傷しうるとするのであり、もともとこの点についての前記疑念は漠然とした感覚的なものの域を出ないのであるから、これ以上、この点にこだわるのは相当ではないであろう。ただ、右各鑑定のいうところが、死にものぐるいの格闘が演じられている現実の犯行現場で真に当てはまるものでありうるのかについては、なお疑問が残るということだけは指摘しておきたい。

②  本件果物ナイフが、刃の付け根部分において「く」の字に折れ曲がっていたことは重要である。このことは、前記①の印象を具体的に裏付けるものであると同時に、このように折れ曲がってしまった後においては通常の用法に従ったのでは人を殺傷する凶器としてこれを用いることは著しく困難ないしは不適であり、端的に言えば、もはや使いものにならないものといってもよいであろう。このことは牧角証言によっても確認されているところである。

したがって、犯人が本件果物ナイフのみを用いて、被害者の死体にある有刃器によると認められる創傷を成傷させたのであるとすれば、右創傷を全て生ぜしめた後に本件果物ナイフが折れ曲がってしまったものと考えるのが自然である。そして、現に、請求人は五月一九日付検面において、「力一杯最後に突いた時、ねらいがくるって土間を突いてしまい、逆手に持っていた刃物が柄のところでぐにゃっと曲がりました。曲がったのであとはその近くに捨てました。」と供述している。しかし、このような供述は余りにもご都合的なものとの印象を払拭することができない。また、仮にそのような事実があったとすれば、本件果物ナイフの刃の先端部分が欠けるなどの異状を呈したのではないかと思われるのである。更に、被害者に対する最後の攻撃は遺体が発見された南側通路部分で敢行されたものと思われるから、右自白によれば、本件果物ナイフも同所付近に捨てられていなければならない筈であるのに、前記のとおり、これは表側事務室の南側出入口付近に遺留されていたのである。しかも、表側事務室と南側通路とはガラス戸で隔たれているのであり、右ガラス戸は五九センチメートルだけ開かれていたという状況であったことを考えると、わざわざ表側事務室に来て、或いは右ガラス戸の隙間から表側事務室の方に投げ捨てたというのは不自然なことといわなければならない。

③ 昭和四三年六月二〇日付福島県警察本部長作成の現場指紋等対照結果通知書(対照者・宍戸三七)及び宍戸三七作成の採証(指紋)報告によれば、本件果物ナイフの刃の付け根の左側(刃を下向きにして持った格好で見た場合)部分に被害者の右の親指の血痕指紋が付着しており、柄部分にも誰のものか特定することはできないがやはり血痕指紋が付着していたことが認められるのであるが、この点をどのように見るべきであろうか。

当裁判所は、特に被害者の右親指の血痕指紋について、その指先部分は柄の付け根側を向いているのか、それとも刃先側を向いているのかが重要な意味を有するものと考えるに至り、平成四年一月八日付照会書をもって検察官に照会したところ、同月二九日付回答書により次のような回答に接した。即ち、「果物ナイフの指紋部分を撮影した写真(回答書に資料(二)として添付されている)を本件現場指紋等対照結果通知書の作成者である宍戸三七に示したところ、『被害者指紋が現存していない現在においては断定的なことを言うのは難しいように思われる。』とのことであった。そこで、現在も指紋対照作業に従事している福島県警察本部鑑識課指紋第二担当課長補佐大石雄三に前記写真を示して事情聴取したところ、『指紋の態様いかんにかかわらず、関節部分に近づくと指紋の流線は平行になってくるが、写真によれば果物ナイフの刃の根本から採取された指紋は刃の根本から遠ざかるほど流線が平行になっているので、指の先端は柄の方に向いているものと考えられる。』とのことであった。」というのである。

しかし、右大石雄三の判読するとおりであるとすれば、被害者は、刃が下向きであれば下から当てがうようにして、また刃が上向きであれば上から押さえ込むようにして、いずれにしても右手掌部で本件果物ナイフの刃部分を握ったものと考えるのが自然であり、そのような状況は本件果物ナイフによる攻撃を防御する際に生ずることが予想されるところ、そうだとすれば、被害者の右手掌部には本件果物ナイフによっていわゆる防御創が形成されるのが自然の成り行きである。しかるに、前田鑑定書によれば被害者の右手掌部にそれらしき創傷は認められない。もっとも、昭和四二年一一月一七日付検証調書中には、被害者の手掌部には左右ともに創傷がある旨の記載がある(被害者の右手掌に長さ2.1センチメートル、巾0.2センチメートル位の切創があるとされている)けれども、右鑑定書に加えて、左手掌部の創傷については写真撮影がなされていてそれが確認できるのに、右手については親指の爪の切取痕を撮影した写真があるのみで手掌部の写真がないこと等に照らして信用することはできない。また、犯人の攻撃を防ぐために刃部分を握ったものであるとすれば、激しい動きの中での出来事であるのに、このように鮮明に指紋が印象されるものであろうかという疑問も残る。更には、そもそも指紋の流線が平行に近くなってくるのは関節部に近い部分だけに限られず、渦巻き状の中心部から離れるにつれ一般にそのような様相を呈するものといえるのではないかとも考えられる。そうすると、右回答結果をそのまま正当なものとして受け止めてよいか否かはなお問題が残るものといわなければならない。

また、右の点は一応措くとしても、柄部分に血痕指紋が印象されていることも重要である。犯行現場、特に手提金庫等に残された鮮明な血痕によれば、犯人は手袋をはめていたものと認められるから、右指紋は被害者のものと推認するのが合理的であるところ、柄の部分に被害者の血痕指紋が残っていたということは、被害者において相当の出血を見るようになってから後も、更に言えば、殆ど最後まで本件果物ナイフは被害者の手に握られていたのではないかと考える余地があることを意味するであろう。何故なら、犯人の手袋は凶行によって血まみれになっていた筈である(このことはロッカーや手提金庫等に残されている血痕によっても明白である)から、犯人が本件果物ナイフを握っていたとすれば、被害者が持っていた時に印象された右血痕指紋も血だらけの手袋痕によって消されてしまうものと考えられるからである。

ただ、本件果物ナイフの柄の尻の方には手袋による血痕らしきものが認められるのであって、このことをどのように理解すべきかは難問である。単純に考えるならば、このことは、手袋をはめた犯人が本件果物ナイフを握っていたが、その後被害者の手に握られたということになるであろうが、被害者が相当の深手を負わされた後に本件果物ナイフを犯人の手から奪い返したというのはいささか無理のある想定であるし、その後再び犯人にこれを奪い取られてとどめを差されるに至ったというのであれば、被害者の血痕指紋が消失させられてしまうという点では結局同じだからである。

したがって、この点の疑問に答えるには、(ⅰ)犯人が被害者にとどめを差した後、本件果物ナイフを被害者の手に握らせたか、或いは(ⅱ)本件果物ナイフは殆ど終始ないしは少なくとも最終的な局面においては被害者が握っていたか、のいずれかでなければならないことになる。

しかし、右(ⅰ)は、犯人がわざわざそのようなことをする合理的な理由を見出し難いし、請求人の自白にもその旨の供述は全くない。そうすると、(ⅱ)が考えられることになるが、これは必然的に本件果物ナイフ以外に有刃器たる凶器が用いられたことを意味するから、請求人の自白及び確定判決の認定に対して根本的な疑問を投げかけることにならざるを得ないであろう。

④  被害者の死体に残された創傷の中には、有刃器により成傷されたものではあるが、本件果物ナイフによっては成傷し得ず、或いは著しく成傷するに困難なものがある。

(あ) 前田鑑定により致命傷とされた(9)創傷及び重傷とされた(8)、(15)、やや重傷とされた(21)の各創傷について、同鑑定及び控訴審における証人前田春雄の供述(以下「前田証言」という)は、概ね次のようにいう。

(9)創傷は前頸部左側に存する創口の開した刺創であり、創口の左右径は約2.5センチメートル(上下両創縁接着時約2.9センチメートル)、上下径は最も広い部分において約0.8センチメートル、右創角尖鋭、左創角鈍に近く、上下両縁は正鋭、上下両創縁角、いずれも略々直角、創洞は内方に向かい、皮下及び胸鎖乳突筋を正鋭に刺切し、更に甲状軟骨の左上角を鋭利に刺切し、更に左総頸動脈径0.75センチメートルの分岐部の直下方において完全に切断し、左内頸静脈を不全切断し、(8)創傷の創洞に通ずる創洞面は正鋭で創洞の周囲軟部組織間に暗赤色凝血塊がある。皮ふ創口から頸動脈切断部までの深さ約3.1センチメートルであり、切断動脈断端は退縮し、離れている。本創傷の創洞は(8)創傷と交通しており、交通部分を含めた創洞の深さは不明であるが、成傷器が約3.1センチメートル以上刺入したことは明らかである。そしてその凶器としては、鋭利な片側刃器で刺入部の刃幅約2.9センチメートル以内、刃長3.1センチメートル以上の小刀、又は匕首に類するもので、本件果物ナイフもこの条件を満たす刃器で、これを被害者の仰臥位、又はそれに近い体位の前方から刺したと推定される。

(8)創傷は、前頸部喉頭隆起部に存する刺創であり、創口が開し、その左右径は創口開時に約2.6センチメートル(上下両創縁接着時に約2.7センチメートル)、上下径は約1.0センチメートル(最大)、右創角は尖鋭、左創角は鈍に近く、上下創縁は正鋭、上下両創縁角はいずれも略々直角、創洞は内左方に向かい、皮下および胸鎖乳突筋の内側筋を正鋭に切り、ついで甲状軟骨左下部を約1.2センチメートル鋭利に刺切し、更にこの部に相当して食道の左半部を刺切し、更に第二頸椎前面で止まる。皮膚創口から創底までの深さ約5.2センチメートルで創洞面は略々正鋭、創洞内軟部組織間に暗赤色凝血が多量にある。そして(9)創傷と交通している。また、(8)創傷の推定凶器とその用方について、刺入部の刃幅約2.7センチメートル以内、刃長約5.2センチメートル、又はそれ以上の片刃の鋭利な小刀、又は匕首に類する刃器で被害者が仰臥位又はそれに近い体位において、略々前面から刺されたものと推定される。

(15)創傷は、左大鎖骨上窩部に存する創口の開した創傷であり、その左右径は約4.1センチメートル、(上下両創縁接着時約4.3センチメートル)、深さは約7.0センチメートル、上下径は最も広い部分において約1.5センチメートル、左創角は鈍に近く、右創角は尖鋭、上下両創縁は正鋭、上創縁は暗赤色痂皮形成、両創縁角は略々直角、創洞は内方に向かい皮下及び左胸鎖乳突筋を正鋭に刺切し、第六頸椎前面で止まる。創洞面は略々正鋭で、創洞の周囲軟部組織に暗赤色凝血がある。そして、右創傷の成傷器および用方として、刺入部の刃幅約4.3センチメートル以内、刃長約七センチメートル、又はそれ以上の鋭利な片側刃器と推定され、小刀又は匕首に類する刃物で、刺突方法は(9)創傷の場合と同じく被害者は仰臥位、又はそれに近い体位において、前方から刺されたものと推定される。

(21)創傷は左背中央部に存する創口の開した破裂状創傷であり、その上下径は創口開時に約1.7センチメートル、深さ約3.2センチメートル、上創角は鋭、下創角は僅かに鋭、創洞の方向は略々(20)創傷に同じく内右上方に向かい、皮下組織、筋肉組織(長さ約1.2センチメートル)、その下部筋膜(長さ約0.9センチメートル)を刺切し、左第五肋骨体部に達して止む、創洞軟部組織間に暗赤色凝血少量が存する。

なお、前田証言によれば、(21)創傷がドライバーによるものらしいと考えているようにもとれる。

(い) これに対し、船尾鑑定は(8)、(9)及び(21)の各創傷は本件果物ナイフによっては成傷し得ず、また(15)創傷は成傷し難いと結論づけている。

その理由は概ね次のとおりである。

(8)創傷の成傷器は先端より約5.2センチメートル内外のところが、刃幅約2.7センチメートル以下の片刃の刃器で、両創角の性状から見て前頸部の右側に刃部が、左側に峯部がくるように刺入したものと思考される。なお、有刃刺器の刃幅の推定は、受傷部の皮膚の性状によって異なるが、一般的には創口開時と両創縁接着時の長径を加算して二で除した値が成傷器の推定刃幅といわれている。したがって、本創傷では約2.6センチメートル強と計測される。そして、前記のように本件果物ナイフは、刃幅約2.5センチメートルであり、鑑定時に用いた資料たるこれと類似の果物ナイフも刃部が先端より柄部までその幅がほぼ一様で約2.4ないし2.6センチメートルと計測されるから、創口の直径および深さとの関係から、前頸部皮膚面に対して垂直ないしそれに近いかたちで、約5.2センチメートル内外刺入することが必要となる。この場合、少しでも角度をもって斜めに約5.2センチメートル刺入すればその刺入口の長径は当然該刃幅の約2.4ないし2.6センチメートルより大きくなり、本創口の長径と一致しなくなる。

更に、該ナイフ前端部の長径は約2.3センチメートルで、幅は峯部側約1.3センチメートル長の部分が約0.1センチメートルないし0.1センチメートル弱である。その他の部分も幅は薄くなるが刃部とは言い難い。したがって、前頸部皮膚面に対して垂直ないしそれに近いかたちで刺入することは不可能と思考される。そして、本件果物ナイフが刺入するには、(ⅰ)前端部上隅角を作用点とし、同部が比較的尖鋭になる様に角度をつけて皮膚面に作用させるようなかたち(すなわち、この場合は外力作用点が一点に集束されるため皮膚が破綻し、その破綻孔を足がかりとして鈍的部分が強引に進入してくる)をとるか、或いは(ⅱ)前端部下隅角の刃部を作用点として前者と同様なかたちをとるか(この場合刃部であるので容易に進入しやすい)のいずれかである。そのいずれの場合であっても前頸部皮膚面に対してかなり斜めに刺入する必要がある。したがってこのようにして成傷された創口長径は2.6ないし2.7センチメートル以上となるから、本件ナイフによる成傷は考え難い。

さらに、(ⅰ)の場合には先端部に刃がないため、その創口ならびに創洞性状は(8)創傷のそれとは明らかに異なったものとなる。

右とほぼ同様の理由から、(9)創傷は本件果物ナイフによっては成傷せず、また(15)創傷は成傷し難いものと考えられる。

また、(21)創傷の成傷器は創口の長径、筋、筋膜の創口、深さ、および創角の性状、ならびに創縁性状(創縁の性状は記載がないが、前田鑑定によれば、その右上にある(20)創傷とほぼ同一形状であるというのであるから、正鋭に近いものと思われる)から判断して、先端から約3.2センチメートル内外のところで刃幅が約1.7センチメートル内外以内で、しかも筋及び筋膜の創口がそれぞれ約1.2センチメートル、約0.9センチメートルであるから、結局は刃器の先端から約3.2センチメートルの部分の刃器の幅が約1.2ないし0.9センチメートル以内と判断される。よって、本件果物ナイフは(21)創傷の成傷器たり得ないことが明らかである。

(う) これに対し、牧角鑑定は、麻酔を施した生きた仔豚に対して刺入実験を行った結果、刃器刺入時の「皮膚の押し下げ現象」が生じることが明らかになったとし、船尾鑑定が本件果物ナイフによって成傷し得ないか、又は成傷することが困難とする各創傷がいずれも成傷可能であるとし、船尾鑑定はこの特異な成傷機転を知らないため誤った判断をしたものであるという。

また、石山(創傷)鑑定も、結論的には牧角鑑定と同様、右各創傷が本件果物ナイフによって成傷可能であるとする。例えば、(9)創傷は、開創で、接着時の長さが2.9センチメートルであるから、凶器の幅はそれ以下のものであればよく、本件果物ナイフはこの条件にふさわしいものであるとし、本件果物ナイフの先端は鈍であるから刺入時に相当大きな創口を形成しなければならないとの見解(船尾鑑定)に対しては、「押し切り効果」を応用すれば説明可能であるとする。即ち、「頸部に対して加害者が刃を下にして振り上げ、この状態で皮膚面に振り下ろせば、果物ナイフの先端に連続している刃の部分が皮膚面に直接的に切開創をつくり、刃の一部が頸部に刺入し、この状態で被害者の創口の左創端に向かって圧迫させながら押し切り状に刃の存在している部分が滑走していったあとで、刃幅が完全に刺入するところまで、創口が広がり、ついで、頸部(左側)の軟部組織を刺通していったあとで抜去すれば、(9)創は十分に説明することができる。」というのである。また、(8)創傷については、弁状創と見るべきであり、また、下創縁角は鈍、上創縁角は鋭と見ることができる(下創縁においては脂肪組織と見られる部分が帯状に露出しているのに対して、上創縁にはそのような所見は存在しないからである)として、その限りで前田鑑定の所見を修正したうえで、「上創縁に皮膚がまくれあがったように存在しており、しかも創口は開しており、真皮を露出しているところから、まず、この部に有刃器の刃が皮膚面を削ぐようにして作用したものであることが考えられる。そして、かなり矩形型に上右方に向かっており、この部で鋭の創角を形成しているのが明らかである。即ち、果物ナイフの刃の部分の先端部が左前頸部を半回転しながら左から右にまわり、刃幅の部分が頸部の正中において横走するようになったところで後方に向かって刺入したという風に考えると、本創の刺入時の刃器の動きを無理なく説明出来る。こうして、まず弁状側(前田鑑定にいう開創)が生じてから、果物ナイフの峯の方で被害者の左頸部の左創端部を圧迫しながら主として後方に向かって刺入したとすれば、甲状軟骨の左半部に損傷を与えることは容易に生じ得るということになる。これについて、創口の幅が2.6ないし2.7センチメートルであるから、果物ナイフの刃幅(2.5センチメートル)から見て本創を形成するのは不可能であるとする見解(船尾鑑定)は全く根拠がないし、前述の方法を用いれば、刃幅と同じ程度の刺入口でも無理なく頸部の深部に刺入することが可能である。」と述べている。更に、(21)創傷についても、刃物の全刃巾を完全に刺入させない形での「押し切り」の原理を応用した刺入実験の結果、創口が2.2センチメートル内外で、創洞の深さが3.1センチメートル内外のものは容易に形成されることが判明したから、創口径が1.7センチメートル内外で創洞の深さが3.1センチメートルという(21)創傷の如きものも不可能ではないとするのである。

(え) このように、結論を全く異にする鑑定が並存しているところ、まず、牧角鑑定のいう「押し下げ現象」については、有刃器による成傷過程を動態的に観察したものとしてまことに興味深いものではあるが、それは高速度カメラの世界ではじめて観察されうる現象であって、現実の成傷の場面においては、極限まで押し下げられた皮膚が遂に破断し、刃物が体内に刺入され始めてもなお該刃物の先端部分は更に体内に向かっているのであり、しかもその時には一旦押し下げられた皮膚の表面は元に戻ろうとし始めているわけであるから、これが完全に元の状態に戻る前に刃物を抜き去ることが可能であるとか、或いは一旦押し下げられた皮膚は完全に元の状態にまで戻ることはないということかの、少なくともいずれかを右「押し下げ現象」とともに併せて証明しない限りは、刃物の刃巾よりも小さい創口が形成され得るということの説明にはならないものと言わざるを得ない。しかも、牧角証言によれば、本件果物ナイフ類似のナイフによっては、先端部を皮膚面に垂直に突き立てたり、或いは峯部の角(船尾鑑定にいう「前端部上隅角」)を作用点として斜めに突き立てたりしても、いずれも体内に刺入することはできず、これが可能なのは刃部の角(船尾鑑定にいう「前端部下隅角」)を作用点として突き刺す場合だけであるというのであるから、特に(21)創傷の如きは、犯人と被害者が相互にどのような位置関係にあって、被害者の体位がどのような状態にあるときに、どのように攻撃をすれば成傷しうるというのかについては全く説明はなされていないように思われる。いずれにしても、牧角鑑定をそのまま採用することはできない。

次に、石山(創傷)鑑定のいう「押し切り」効果(原理)について見るに、同鑑定は、本件果物ナイフのように先端が平坦でしかも刃部になっていない刃物によっても、その刃巾程度或いはむしろこれよりも小さい創口により一定の深さ以上の創傷が右原理を応用した実験によって成傷可能であることを証明したものであって、これ又注目に値するものということができる。しかし、右鑑定における実験は、右のような結論を証明するという明確な目的のもとに実施されたものであって、そのことからくる限界や問題点を含んでいるように思われる。例えば、「豚の背面を用いた押し切りによる刺創実験」は、「果物ナイフの先端部をやや斜めにして、皮膚面に鈍の部分と刃の部分が当たるようにして、両方の部位に力がかかるようにして果物ナイフを引いていくと、刃の部分が移動するにつれて、この部分が皮下に刺入していく。こうして果物ナイフの全部の刃巾が完全に刺入し、しかも創口の巾が刃巾と同じであるという創を形成することができる。そのうえで力を垂直に加えていくと、無理なく果物ナイフの全長を刺入させることができる。そして、ナイフを抜去した後で刺創口の長径を測定するとナイフの刃巾と完全に一致している。」というものであるが、右に見たところからも明らかなように、まず果物ナイフを皮膚面にやや斜めに当てたうえで徐々に刺入していき、しかも全部の刃巾が完全に刺入したところで果物ナイフを皮膚面に垂直にして力を加えていくというような成傷過程は、本件果物ナイフを凶器として用いた場合の通常の殺傷行為とは大きくかけ離れたものであることは見やすいところである。即ち、右実験においては当初は刃の方により力がかかるようにして刺入していったのであるから、力のかかり方としてはそのままの格好が持続されるのが自然であるし、実際の場合にもそうであるものと思われるのに、途中で、敢えて皮膚面に垂直にして力を加えていったということがいかにも作為的であるものといわなければならない。このことは、同鑑定(四五頁)に「司法解剖においても、刃物の刃巾と創口の長径が完全に一致していたことを経験していない法医学者は存在しないであろう。こういった場合、刺創形成時に刺入及び刺出に際してどのような方向に力がかかっているかが肝腎で、峯の方に力がかかっていれば刺入口の大きさは拡大しない。この逆に刃の方に力がかかれば創口は大きくなってくるのである。」とあるところと相俟って、垂直方向か或いはむしろ峯側に力がかかるようにして刺入し、かつこれを抜去するのでなければ、本件果物ナイフの刃巾と同程度の創口径では止まらないということを自認する結果になっているように思われる。思うに、右引用部分にあるような現象は、同じく片刃刃器であっても、先端が尖鋭であるか或いはそうではなくても先端部分も刃部となっているために最初から皮膚面に垂直に突き刺しても体内に刺入することができるような場合に生じるのであって、本件果物ナイフのように先端が平坦で、かつ刃部になっていないような片刃刃器では垂直に突き立てても刺入しないのであるから、全く前提を異にするのである。これを要するに、実際に本件果物ナイフを凶器として用いて刺創を与えようとすれば、先端部の刃側を作用点としてある程度斜めに突き刺すのでなければ体内に刺入できないのであるし、皮膚に破断を生じた後も勢の赴くままその角度を保って刺入されていくものと考えるのが自然であり、したがってその刃巾よりもかなり大きな創口を生ずるものとするのが道理である。右以外の結果は、「押し切り」の理論をもってしても、あくまで実験上で得られるものにとどまるか、或いは余程通常とは異なる力のかけ方がなされた時にのみ初めて生じうるというにとどまるものと考えられる。なお、念のために付言すれば、本件の場合において(8)及び(9)創傷が成傷せしめられたのは、被害者が南側通路部分に倒れて殆ど動かなくなってからのことであるから、被害者の思いがけない反応というような要素は想定し難いところである。また、仮に石山(創傷)鑑定の押し切り実験類似の現象が実際にも生じる可能性があるとしても、例えば(8)創傷の創洞の内部において、胸鎖乳突筋の内側筋を正鋭に切り、ついで甲状軟骨左下部を鋭利に刺切し、食道左半分を刺切しているというようなその結果は、刃部のない本件果物ナイフの先端部が作用したものとするには大きな疑問が残るのである。更に、(21)創傷については実験を繰り返してもそのような結果は得られていないのであり、また、そもそも実験に供された豚の背中と人間の背中の(21)創が形成されていた部分とでは著しく条件が異なる(後者においては直下に肋骨があって、峯側先端部で押し下げるといっても自ら限度がある)ことは明白である。そうすると、船尾鑑定の前記結論は極めて常識的で素直なものであって、牧角、石山(創傷)両鑑定をもってしてもなお排斥されるには至っていないものということができる。

ところで、検察官は、船尾鑑定に対して、解剖写真などの資料面で牧角、石山(創傷)両鑑定に比較して格段に制約されたものとなっており、また、さしたる実験も行っておらず(少なくともその資料が明示されていない)、したがって成傷過程の動態的考察がなされていないのであって、その意義には自ら限界があるなどと批判を加えている。当裁判所も又、右の検察官の指摘には首肯すべきものがあると考えるものであって、既に見たところからも明らかなように、船尾鑑定の手法が極めて単純で素朴なものにとどまっている点については一定の危惧と物足りなさを覚えずにはいられないのである。加えて、このような手法が(1)、(2)創傷の成傷器に関する考察において破綻を示したことは既に見たところであり、また、本件果物ナイフの先端部峯側角を作用点にして突き立てた場合にも果たして刺入可能なのかという点についても疑問が生ずる(前記牧角証言参照)など、問題点も少なくないものといわなければならない。しかし、反面では、再鑑定としての限界を自覚した控え目な態度に終始し、それに相応しい手法を採用したものと評することもできるのであって、それだけに、(8)、(9)、(21)の各創傷と本件果物ナイフの成傷器としての符合性についての判断には説得力がある。

(お)  以上によれば、船尾鑑定がいうとおり、(8)、(9)、(21)の各創傷は本件果物ナイフによっては成傷し得ず、また(15)創傷は成傷することが困難であるものといわなければならない。そして、これらの創傷は、先端が尖鋭な或いはそうでなくとも先端部にも刃部のある片刃刃器(以下、想定刃器という)によって形成されたものと解するのが合理的である。

なお、前田証言中には、「頸部の刺創はこれをおおむね直角またはそれに近い位置で皮膚面に侵入された場合はこのような刺創は作られる可能性はあると思います。」とある。そして、この点に関連する裁判官の質問に答えて、「その場合、この果物ナイフの先が平であるということは必ずしも妨げにはならない」ともしているところであるから、これは本件果物ナイフの先端部がほぼ垂直に突き立てられた場合であっても皮膚内に刺入されるものとする趣旨の証言であろうと解される(もっとも、同証人は裁判官から「直角」の意味を問われたのに対し、「直角というと皮膚面にまっすぐまたはそれに近い状態、斜めでもけっこうですけれども、要するに皮膚の前方から刺されたと見ていいと思います。」などとも供述しているのであって、この部分の意味は必ずしも定かではない)。そうだとすると、この前田医師の見解が採用し難いものであることは、前記各鑑定からして既に明らかである。

(4)  以上、本件果物ナイフが本件犯行の凶器として使用されたとした場合に生ずる種々の疑問について検討を加えてきたが、その結果は、いずれも前記想定刃器のような凶器が使用されたことに結びつくものである。もちろん、前記(一)のような事実が存在するのであるから、本件果物ナイフもまた本件犯行の用に供されたことまでを直ちに否定するものではないが、少なくとも本件果物ナイフの外にも前記想定刃器が使用されたものと考えるのが合理的である。

このことは、被害者が持ち出した本件果物ナイフを使ったというだけで、他に右のような想定刃器について何ら触れるところのない請求人の自白及びこれを信用してなした確定判決の事実認定を根底から揺るがすものと言わざるを得ない。

なお、石山(創傷)鑑定はドライバーの先端部の角を万力でねじ折って鋭い断面を形成した場合には、右の部分が皮膚に接触するように斜めにドライバーで刺突したうえで、これを刺突した方向にこね上げるように操作すれば(21)創傷を成傷することが可能であるとして、右のようなドライバーであれば成傷器たりうると結論している。右鑑定の中で試みられた実験とその結果得られた結論は成傷過程についての法医学的な研究成果としては貴重なものであることを認めるのにやぶさかではないが、右実験の前提としてドライバーに施された加工はいわば右のような結果を得るために繰り返された実験を通じて着想された創意工夫であって、本件犯行において用いられたドライバーがそのようなものであったという前提は何らないのである。確かに、確定審において証拠物として押収されていたドライバーの先端部の角に欠損があったこと、それが右のような着想のヒントともなったことは認められるけれども、そもそも右ドライバーは確定判決において証拠として掲記されていないものであるし、また、その欠損の状況も右実験で試みられたようなものであるとは到底認められない。これを要するに、右実験結果は所与の前提とはされていない右のような特殊な状況を作り出したうえで初めて得られたものと言わざるを得ないのである。

(四) 次に、本件犯行の用に供された凶器との関係で、請求人の自白の中に秘密の暴露というべきものがないかどうかにつき、以下において若干の検討をしておくこととする。

(1) 請求人が五月七日になした最初の自白については、前記のとおりその録音テープは遂にこれを取り調べることはできなかったが、昭和四三年五月一九日付「被疑者の自供状況について」と題する書面が提出されたことにより、ほぼその内容を把握することが可能になった。これによれば、請求人は「むごい体にしてしまって」「私がしばった人は私のそばへ座ってくるのです」「宿直員にあんなことしちゃって、わからぬようにして申し訳ないです」「寝ている人をおどかして」「さるぐつわまではましたのです」などの断片的な供述をしているのみであり、必ずしも本件事件の自白だということがはっきりしているわけではないが、いずれにしても単なる事務所荒らしではない何か大きな犯行の自白をしようとしていることは十分窺うことができる。次いで、同日付の員面において、「近くにあった鉄棒でめっちゃくっちゃに叩いたのです。相手の人は死んだと思います。」などと供述するに至るのである。

(2) ところで、当裁判所がなした、いわき市立図書館に対する照会の結果送付された新聞記事で見る限り、日産サニー事件の報道においては、本件犯行の凶器としては専ら果物ナイフが着目され、鉄棒が用いられたことについては等閑視されていたものと認められる。また、矢野警部補や佐藤巡査部長はもともと捜査本部の要員ではなかったことからすれば、同人らは同事件の内容についてそれ程詳細かつ正確な情報を持ち合わせてはいなかったものと思われる。右は、前記請求人の自白において、果物ナイフを使用したことについて何ら触れられていないことによっても裏付けられるし、そのことは又、右自白が取調官の誘導などによるものではないことをも物語っているものということができる。

(3) そうすると、五月七日の時点において、「鉄棒で殴った」という限りにおいてではあるが、それ自体客観的な証拠に合致する自白がなされ得たのは何故だろうか。これをもって、秘密の暴露とみなすことができるであろうか。

しかし、本件凶行には有刃器が用いられ、むしろこれが主たる凶器であることは明らかであるのに、右自白はその点について何ら触れるところがないこと、後に見るとおり、鉄棒の形状等についても請求人の供述が変遷していること(後記七の1)からすれば、全体としては右はむしろ客観的な事実に符合しない自白との感が強いのであって、これをもって秘密の暴露と見ることはできない。

六 主として確定審で取り調べられた証拠自体に基づいて、あらためて分析・検討の結果、請求人の自白ないしは確定判決の事実認定には以下のような問題点があることが新たに判明した。

1 請求人の自白の中には明らかに客観的な証拠と符合しないもの或いは他の証拠との関係で重大な疑問を生ずるものがある。

(一)  「被害者をロープで縛るなどした」という供述について

(1)  請求人は、五月二一日の検察官の取調べの際、「被害者をロープで縛ったうえ、その下に板スプリングを重りとして差し込み、また猿ぐつわをした」ことを自白するに至った。即ち、被害者と格闘となって、鉄棒で殴打し、ドライバーあるいは果物ナイフで刺したりした後、被害者が更に抵抗したり、外に連絡されたら大変だと思ってこのようなことをしたというのである。そして、「その後、被害者がふらふらと立ち上がり逃げだしたので追いかけていると、表通りに面した方でバタッという衝立にでも触れて倒れる音がした。行ってみると虫の息だったのでかわいそうになりロープやら猿ぐつわをはずしてやった」というのであるから、被害者は縛られるときには既に相当の深手を負っていたことになり、出血も相当多量にのぼっていたものと思われる。そうすると右板スプリングにもかなりの血液が付着した筈である。まして、請求人は、同月二六日に至り、「(犯人が二人のように見せかけるための偽装工作として)右手にイボ手袋の上から軍手のような手袋をはめて、板金の真中を右手で持ち、端の方を左手で持って、いかにも二人で板金を引っ張ったようにし、意識的に手袋の血がはっきり付くようにきっちり握った。」と供述し、更に「その前に軍手様の手袋にコンクリート床に付いている血を擦りつけ、イボ手袋にも軍手様の手袋の血を付けた」とまで供述している(もっとも五月二七日付検面(確定審証拠番号(一二一)。以下の番号も同様である)では、「ロープで縛ったり、板金を差し込んだりした後に軍手様の手袋を右手にはめたものである」としたうえ、前記偽装工作は板金を外す時になしたものである旨供述を変更している)のであるから、板スプリングには明瞭な血痕が付着している筈である。請求人も「いずれにしても、板金には二つの手袋の跡を付けるつもりでそうしたし、板金にも跡が付いている筈です。」と述べているところである(右同検面)。しかるに、犯行現場に放置されていた板スプリングにはごま粒大の四個の血痕しかなく、右血液の血液型はB型であることまでは判明したが、MN型については微量であるため検査が不能であったという程に僅少だったのである。これは、前記請求人の自白と相容れない客観的な事実である。

ところで、前記のとおり、第一審判決は、板スプリングに血痕が付着していたことを自白を裏づけるに足る物証の一つとして挙げているのである。もっとも、右判決は「スプリングを差し込んだ」ということを明確には認定せず、曖昧に「ロープ等で縛り」と認定するに止めているのであるが、右のとおり、スプリングに血痕が付着していることを自白を裏づける物証として指摘しているところからすれば、この自白に副った心証を形成したということであろう。しかし、請求人の自白が右のような内容のものであることからすれば、「板スプリングに血痕が付着していたこと」が自白の信用性を支えることにはならず、むしろこの程度の微量の血痕しか付着していなかったということが、自白の信用性を大いに揺るがすものと解すべきだったのではないだろうか(この点は、「上告趣意」において的確に指摘されているとおりである)。これに対して、控訴審判決は、「ロープで縛り、ボロきれで猿ぐつわをかました」ことについては詳細に論じながら(前記(イ))、「板スプリングを差し込んだ」ことについては何ら触れるところがない。しかし、当裁判所は、前記のとおり、「ロープで縛った」「その下に板スプリングを差し込んだ」「猿ぐつわをした」というのは、被害者の抵抗や外部への通報等を防ぐために請求人が講じた手段として相互に密接な関連性を有するものであり、いわば三位一体の関係にあると考えるものであり、そうすると、控訴審判決のように「ロープで縛った」ことと「猿ぐつわをかました」ことを取り上げながら、「板スプリングを差し込んだ」ことについては何ら触れないのはいかにも片手落ちの感を免れないのである。おそらく、控訴審は、第一審とは違い、前記のような板スプリングの血痕付着の状況と請求人の自白とが余りにも齟齬するものであることに気付いて、この点については認定をしなかったものであろうと推測されるのであるが、それならそれで、そのような到底採用し難い供述が自白中に含まれていることをどのように考え、また、それにもかかわらず何故に前二者については信用できるとの判断をなし得たのかを明らかにすべきだったものと考える。

なお、弁護人は、その最終意見書において、「『請求人が、被害者をロープで縛り、猿ぐつわをし、板スプリングをロープと被害者の身体の間に挟み込んだ』という請求人の自白は、本件の犯行の態様、経過を説明する中心的な部分として、第一審判決及び控訴審判決において、請求人の犯行と認定する際の重要な根拠とされている。しかしながら、請求人のロープについての自白の信用性がなく、これを裏づける物証もないことからすれば、第一審判決及び控訴審判決における認定の重要部分は、根拠を失うことになる。そうすると、血痕の付着した板スプリングのように、被害者を縛ったロープと関連しているとされた物証もまた、その意味を失う。」などと主張しているが、右は前提となる控訴審判決の判示についての理解も、また板スプリングに血痕が付着していることに対する理解についても適切でないことが明らかである。

(2)  これに関連して、ロープに関する請求人の自白が、以下に詳細に検討するように、顕著な変転を見た末、最終的には、捨てた場所については前記写真に写っている工場北側壁付近となり、またその性状も同写真に写っているとおりであるという供述に落ち着いたのであるが、前記五の1で見たとおり、その写真が実は一〇月二八日に撮影されたものであって、同月二七日撮影の分には右のようなロープが写っていないことが明らかになったことを重視しないわけにはいかない。即ち、被害者を縛ったとするロープについては、①それがあった位置が、工具室の棚(五月二一日付検面)から小型トラックの荷台(五月二五日付検面(一一七)、五月二七日付検面(一二一))に変更され、②ロープを外した後に捨てた場所が、工場の車の下(五月二一日付検面)から、元どおり小型トラックの荷台に戻した(五月二五日付検面(一一七))となり、更に最終的には、写真に写っている工場北側壁付近に変更され、③ロープの性状についても、「長さ三メートル、太さが小指くらい、麻製」とあった(五月二一日付検面)が、「長さ四、五メートル、太さ親指くらい、古い麻製のもの」(五月二五日付検面(一一七))に変更されている。また、④五月二一日付検面では「ロープなどを外してやった」とあるのに、同月二五日付検面(一一七)では「苦しそうなので、猿ぐつわと板金をはずしてやった。縛ってさえおけば大丈夫と思った」と述べ、更に、五月二五日付検面(一一九)においては、「被害者が縛られたまま逃げ出し通路部分で倒れたが、虫の息になっていたのでかわいそうになり、ロープも外してやった」となるのである。

そして、いずれもさしたる理由も付け加えられず、或いは何らの理由もないままにこのような変更が繰り返されているのである。特に、右②及び③は、請求人の自白が写真に写っているロープがそれであるというように、客観的な真実に反するものに収斂されていくだけに重要である。

ところで、蒲生昭和の昭和四三年五月二三日付員面及び同日付現場写真撮影報告書を総合すれば、捜査官側は、右同日には右蒲生調書により、請求人が被害者を縛ったとするロープは、日産サニーにおいて自動車牽引用に使われていたものであり、直径1.5センチメートル位、長6.7メートルの麻製のものであるとの見当をつけ、更に、事件直後の検証実施時の写真を昭和四二年一一月一七日付検証調書に添付していないものを含めて調査しなおしたところ、右蒲生の供述に類似するロープが写真に写っていることを発見し、ほぼ右ロープに間違いないとの判断を固めたものと推察される。このように理解して、はじめて請求人の自白が前記のとおり変転していること、それにもかかわらず最終的には右写真に写っているロープないしはそれと矛盾しない供述へと収斂していくこと、しかし、その納得のいく説明は何らなされていないことが全て了解しうるのである。そうすると、「ロープで縛るなどした」ということ自体は請求人の自発的な自白であったことは疑いを入れないとしても、該ロープを特定する過程においては捜査官側の誘導や暗示があったのではないかと考えざるを得ないのである。例えば、この点は本件事件前日に右ロープを使って車を牽引してきたという大和田国夫の供述の変遷を見ても明らかである。即ち、同人は、昭和四三年五月二三日付員面においては、「昭和四二年一〇月二六日の朝、渡辺芳郎と二人で富岡の堀川整備工場から車を牽引してきた。ロープを使ったことは確かだが、どんなものか思い出せない。ワイヤーか麻製かも思い出せない。」としていたが、昭和四三年五月二五日付員面では、「当時、会社で使用していた麻製の古いロープを使った。太さ、長さについては記憶がない。」と変化し、五月二七日付検面では、「写真のようなロープであった。」として、これに似ているものとして二番のロープを指示したこととされている。しかし、このような顕著な変転、それも当初は麻製かワイヤーかさえ明らかでないとしていたのが、次第に具体的かつ鮮明になっていくその過程について特に納得のいく説明があるわけではない(せいぜい、最後の検面に「牽引の際、出だしに一回切れたので結んだ」とあるくらいである)。一方、渡辺芳郎は同月二五日付員面で、「麻製で、かなり古く先端がぼそぼそになっていた。太さは親指と小指の中間くらいで長さは7.8メートル」とし、「写真に写っているロープだと思う。」と結論している。右は前記大和田の供述に比較すれば、かなり明確ではあるが、同月二七日付検面では「長さが一〇メートルくらい」とこれも又変化しているのである。思うに、これらは牽引をした日からほぼ七か月後の供述であって、しかも、仕事柄、自動車の牽引作業などは決して珍しいことではないものと思われるから、記憶がはっきりしないのがむしろ自然なことであって、しかも、先に見たとおり、写真に写っているロープは警察側が検証作業の必要上現場に持ち込んだものではないかという疑いが濃厚となった現在では、右両名の供述の価値も甚だ疑問というほかはなく、それにもかかわらず、当時右写真に写っているロープへと供述が収斂していったことの中に、捜査官側の態度が色濃く反映していることを窺い知ることができるのである。

(3) 同様に、「猿ぐつわをした」という布についても請求人の自白は種々変転を極めている。即ち、請求人は、五月二一日付検面において、猿ぐつわをかましたのはボロ布であるとしながらも、「布団がわのような感じで風呂敷のような木綿布。しま模様が入っていた。」などと具体的に供述し、そもそもボロ布=風呂敷であるかのようにも述べていたのであり、しかも、右の同一調書中で、最初「ボロ布」と表現していたのが、風呂場で濡らしたという時以降は「風呂敷」となり、最後に証拠物たる風呂敷を示されて遂に「これだろうと思う。」ということになるのである。ところが、第一審の第一回公判においては、わざわざこの点のみを否定し、「工具室から持ち出してきたうちのボロ布で猿ぐつわをしたのです。」と陳述し、その結果、猿ぐつわをした「ボロ布」なるものは結局その存在が明らかでないことになってしまったのである。そして、請求人は、右風呂敷については「これで自分の足を拭いたものと思う。」と陳述したのであるが、変更前の供述のとおり猿ぐつわをするのに使用したのであれば勿論のこと、仮に右のように足を拭くのに使ったものであるとしても、その時期は本件犯行後風呂場で手足などを洗った後であるものということになろうから、いずれにしてもそれなりの血痕が付着するか、少なくともルミノール反応は陽性になることは避けられないものと思われる。ところが、昭和四二年一一月一七日付検証調書及び有馬孝作成の昭和四三年五月二二日付鑑定書によれば、検証当時右風呂敷は若干水に濡れてはいたものの、血痕の付着は全く認められず、またルミノール反応も陰性だったのである。

これもまた、請求人の自白(捜査段階のものであれ、第一審第一回公判における陳述であれ)と完全に齟齬する客観的な事実である。なお、右鑑定書によれば、「風呂敷で猿ぐつわをした」というようなことはおよそ考えられない筈であるのに、その点についての考察を怠ったまま、請求人の自白のみに依拠して右を前提にして公訴提起がなされているのは当裁判所の到底理解し難いところである。請求人が第一回公判で前記のような陳述をなしたために、第一審判決は「布で猿ぐつわをした」と認定することが辛うじて可能になったわけであるが、もしも右陳述がない場合にはこの点について一体どのような認定が可能だったというのであろうか。

(4)  以上検討してきたところを総合すると、もはや、「ロープで縛り」「その下に板スプリングを差し込み」「ボロ布で猿ぐつわをした」という請求人の自白はその全体が到底信用できないものと言わざるを得ない。

そうすると、請求人は、控訴審判決が前記(イ)において判示しているように、自白するに至った動機(その裏には、それまで供述できなかった理由を含む)までまことしやかに述べたうえで、このような虚偽供述をしたということになるわけであるが、このことを一体どのように理解すればよいのかという重大な疑問が生ずることになろう。

(5) なお、当裁判所は、板スプリングと風呂敷については、犯人はこれらを全く使用していないものと考える。ところが、これらは偶々鉄棒やベアリングレースプーラーが遺留されていた場所付近に置かれていたうえ、右のとおりスプリングには微量とはいえ血痕が付着しており、また、風呂敷は濡れていたために、いずれも本件犯行に何らかの関係があるものという思い込みが働き、既に見たような請求人の自白がなされることになったものと思われる。そして、右のような思い込みをしたのは当然のことながら捜査官側であって(請求人が真犯人であるとすれば、そのような思い違いをすることは考えられない)、このことは、供述調書等には明瞭な形では現われなくとも捜査官の誘導が右自白を引き出したことを物語るものといわなければならない。

右のように考える理由は次のとおりである。

① もしも、これらがその用法はともかく凶行そのものに関連して、若しくはそれに密接に関連して用いられたとするならば、かなりの量の被害者の血液が付着したものと思われるのに、風呂敷には全く血痕の付着が見られず、また、スプリングにもごま粒大の極く微量の血痕が四個付着しているのみであった。

② これらの傍には洗濯機が置かれており、その排水用ホースの上にスプリングの一方の端が乗っていることからすると、犯人がわざわざそのような置き方をしたとか、或いは犯人が放り投げたところ、偶々右のような状態になってしまったというようなことはいずれも想定し難いところであって、おそらく、日産サニーの従業員のうちの誰か(被害者かもしれない)が洗濯をする際に、排水口を一定方向に向けるための重しにしていたのではないかと想像される。

③ では、スプリングに血痕が付着し、風呂敷が濡れていたのは何故であるか。

これらの付近には血で汚れた鉄棒とベアリングレースプーラーが投げ出されていたこと、その辺りは水で薄められた血痕が広がっていたこと、それは前記洗濯機の排水口の向き具合と符合することからすれば、元々洗濯機から排出された水の一部がコンクリート床面に溜まっていたところへ、右鉄棒とプーラーが投げ出されたため、これに付着していた血痕が水に溶け込んで拡散したものと推測される。

そして、スプリングの血痕は、右鉄棒やプーラー(その位置関係からして後者の可能性の方が大である)が投げ出された際に飛び散るかした血が付着したものと思われる。なお、昭和四二年一一月二日付鑑定書によれば、ごま粒大の血痕四個はスプリングの反り返った外側に付着していることが認められ、それはホースの上に乗っていた状態では床に面した側であるが、ホースに乗っているために床面との隙間が比較的大きくあく側であるから、右のようにして血痕が付着することも決して不可能なことではないものと思われる。

また、風呂敷は元々雑巾の代用品か何かとして使用されていたものであり、そのために濡れていたのではないかと推測される。

(二)  「被害者が折りたたみ椅子を振り上げてかかってきた」等とする供述について

(1) 請求人は、その五月一四日付員面及び同月一九日付検面等において、証拠物たる折りたたみ椅子について、概ね「被害者が折りたたみ椅子を頭上に持ち上げてかかってきた。請求人がこの椅子を鉄棒で力一杯叩いたところ、被害者は頭を打ったのか、よろけながら椅子を投げつけてきた。」などと供述しているところ、被害者が右椅子を持ち上げたこと、犯人が鉄棒で同椅子の後脚部横張りパイプを叩いたこと、これによって右部分が折れ曲がってしまったことは、既に前記四の2において検討したとおり事実であるものと認められ、また同椅子が犯行現場で発見された状況、即ち、被害者と犯人の格闘が演じられたものと見られる表側事務室の床上に倒れていたことからすれば、被害者がこれを投げつけたものと見ることに何ら矛盾や不自然な点はない。

(2) しかし、昭和四二年一一月一七日付検証調書によれば、右折りたたみ椅子には座席面、背当て部の表裏に全般的に、また脚の一部にもおたまじゃくし型の血痕が付着しており、特に背当て部の背面にそれが顕著であることが認められる。そして、同検証調書添付の写真によれば、右椅子は座席面と背当て部の角度を約五五度位にして後ろに倒れていることが認められ、この状態では、構造上(背当て部の背面に回っているパイプに支えられる格好になって)背当て部の背面(裏)は床面に接着しないことが明らかである。したがって、右背当て部背面の血痕は床上に投げ出される以前に付着したものであり、また、遠藤正作成の昭和四三年六月一九日付鑑定書に「椅子の背当て部背面には滴下したと思われる血痕が数多く付着している」とあるところからすれば、これらの血痕は滴下して付着したものと考えられる。そうすると、右血痕は被害者がこれを持ち上げているうちに滴下して付着したものと想定するのが最も自然であるところ、それには、被害者は右椅子を頭上に振り上げたのではなく(或いはそのような格好をしたこともあったかもしれないが、少なくとも主としては)、椅子の脚部を前に突き出すような形でほぼ胸から腰の辺りに構えて、殆ど水平ないしはせいぜいやや上向き加減にして持っていたものであり、かつ、そのような状況がある程度の時間続いたものと思われる。そして、被害者は、既にそれ以前に上体の前側にかなりの傷を負っており相当多量に出血をしていたか、或いは遅くとも右のようにして犯人と対峙している最中に右のように負傷せしめられて相当の出血を見るような状態になったものと考えざるを得ず、また、そのような傷として最も適合するのは前記前田鑑定にいう(1)、(2)創傷、特に(1)創傷であるものと思われる。しかも、右のように同椅子の背当て部に特に多量の血痕が滴下していることからすると、請求人が五月二六日の検証の際に指示説明しているように、椅子の左右のパイプを各左右の手で握って振り上げた(昭和四三年五月二八日付検証調書添付の写真16及び17参照)というものではなく、これとは正反対に、左側パイプを右手で、右側パイプを左手で握って持ち上げた(これにより、椅子は裏返しの状態になり、背当て部の裏側が上を向いた形になる)ものである。これを要するに、被害者は右椅子を持ち上げ、右のように構えて犯人と待峙することにより、犯人からの攻撃を防ごうとしていたものと推測されるのである。なお、後脚部横張りパイプの折れ曲がり具合については、前記検証調書中の写真や前記鑑定書中の写真によっても正確なところは見分できないが、右鑑定書にある逆「へ」の字に曲がっているという観察結果を前記写真と併せて考えれば、右の観察は椅子を前から見ていることが明らかである。もっとも、椅子を立てたまま観察しているのか、それとも折りたたんで裏返しにした形で横たえて観察しているのかは、平成四年一月九日付当裁判所の照会に対する検察官の回答によっても明らかではない。後者であれば、同パイプの曲がり具合は専ら上方向(椅子を立てた形で見た場合を前提にしている。以下、同じ。)に向かっていることになろうし、前者であれば、右と同様の可能性もあるが、むしろ主としては前方向に向かっていることになろう。右は換言すれば、鉄棒で叩いたために生じた打撃痕が後脚部横張りパイプの下側にあるのか、それとも後側側面にあるのかということでもある。断定するまでには至らないけれども、前記写真等によれば、同パイプの曲がり具合はやや上向きではあるが、前方向に向かっているように見て矛盾はないものというべく、このこともまた前記結論を支持しているものと考えられる。

(3)  ところが、請求人の前記自白どおりの折りたたみ椅子の用いられ方であるとすれば、同椅子にこれ程の血痕が付着することは到底あり得ず、特に、背当て部の背面に血液が滴下するというようなことはまず絶対にあり得ないことである。なお、請求人は、「(鉄棒で椅子を力一杯叩いたとき)被害者は頭を打ったかもしれない」とし、それが椅子のパイプ部分による(五月一四日付員面)のか、それとも鉄棒による(同月一九日付検面)のかについては供述が変転しているのであるが、前記鑑定書によれば、同椅子の屈曲部の痕跡は鉄棒の先端部から三センチメートルの部分によって打撃されたものであるというのであるから、鉄棒が同時に被害者の頭部にも当たった(それによって、前記(1)又は(2)創傷を生じた)というようなことはおよそ考えられないところである。

そうすると、単に同椅子の用いられ方が異なるというに止まらず、犯人と被害者の攻防の状況が、前記請求人の自白にあるのとは根本的に様相を異にすることにならざるを得ないのである。

(三)  請求人の自白によれば、被害者は最初から手に光るもの(これが結局本件果物ナイフであったことになる)を持っていたことになっている。しかし、西岡増雄の現場検証の際の指示説明(昭和四二年一一月一七日付検証調書)及び同人の員面等によれば、右ナイフは調理室の流し台の抽斗にしまわれていたものであり、これを被害者が持ち出したものであることはまず確実であるところ、流し台とガスレンジ台の境目辺りの調理室床面に直径七センチメートル位の円形状の血痕があること、それ以外の血痕足跡等は印象されていないことに徴すれば、右血痕は被害者がこれを持ち出す際に滴下した血であるものと見られる。そうすると、被害者は右の時点においては既に一定の負傷をし、かなりの出血をしていたということになる。

(なお、右抽斗の前側下部に血痕が付着しているかどうかにつては調査した形跡がないために、この時点において既に被害者の手に血が付いていたかどうかまでは不明である。)

(四)  請求人はまた捜査段階(五月一七日付及び五月二八日付(一〇八)各員面)並びに公判段階(第一審の第一回公判)を通じて、証拠物たる請求人のシチズン製腕時計について、「本件事件の際これをかけていた。ガラスと秒針が飛んでしまった。今ついているガラスは後で予備のガラスをはめたものである。」と述べている。そして、右時計に秒針がついていないことは証拠上明らかである。

しかし、もしも被害者との格闘の際に右のような状態が生じたのであれば、格闘現場にそれらが落ちている筈であると考えるのが自然であり、一〇月二七日から一〇月二九日にかけて詳細に亘る現場検証が実施されているのであるから、秒針はともかくとして、ガラスは例え割れたとしてもその破片くらいは発見されるものと思われる。検察官は、その平成四年一月三一日付意見書において、ガラスが割れれば細片となって発見され得なかったということもありうる旨主張するけれども、割れたからといって捜査官によって発見され得ない程に粉々になるというものではあるまい。

(五) 本件犯行現場に請求人の指掌紋は全く残されていないところ、請求人の自白によれば、請求人は日産サニーに侵入した際、ドライバー用のイボ手袋をしており、また途中からは偽装工作用にイボ手袋の上に更に軍手様の手袋をはめた(但し、右手のみ)というのであり、犯行後、風呂場で血のついた手などを洗った際にも手袋をしたまま洗ったというのであるから、請求人の指掌紋が現場に残されていないということ自体は特に不思議なことでも何でもない。そして、犯人が血まみれの手で触れた痕跡として犯行現場に残されているものを見るとき、犯人は手袋をしていたことが確実であるから、右請求人の自白はこのような本件犯行現場の痕跡と矛盾しないものということができる。

とはいえ、本件犯行現場に圧倒的に多く残されているのは「ゴム編模様」と「表編模様」の二種であって、イボ手袋痕としては、手提金庫等に残された擦過痕のうちのあるものが、イボ手袋によって印象された可能性があるとされているのみであるというのは、やはり不自然なことといわなければならない。特に、既に詳細に見たとおり、本件果物ナイフの柄には被害者のものと考えるほかはない血痕指紋があるのに対し、前記のとおり、手袋をしていたものと思われる犯人がこれを握ったことを窺わせる痕跡としては、柄の尻部分にゴム編模様の血痕が付着しているのみであり、イボ手袋痕は付いていないというのはいかにも奇妙なこととしなければならない。もっとも、請求人の自白によれば、請求人は一次攻撃により被害者に瀕死の重症を負わせた後、これをロープで縛りスプリングを差し込むなどしたが、その後これを外してやったところ、被害者が逃げ出したので、二次攻撃として本件果物ナイフで頸の辺りをめった突きにしてとどめを刺したというのであり、右一次攻撃後に軍手様の手袋をはめた(但し、それが右スプリングを差し込むときか、或いは抜き取ってやるときかについて変転が見られることは前記(一)で見たところである)とあるから、これを前提にすれば、本件果物ナイフの柄にイボ手袋痕ではなく「ゴム編模様」の痕跡があること自体は不思議ではないということになるかもしれない。しかし、そもそも「ロープで縛るなどした」という供述自体が到底信用できないものであることも既に前記(一)で検討したとおりである。そして、そのほかに一次攻撃と二次攻撃を分つものはないのであるから、被害者に対する攻撃は一連のものであったと見るのが相当であり、したがって、その間にイボ手袋の上に更に偽装工作用に軍手様の手袋をはめる余裕があったとは到底考えられない。

(六) 昭和四二年一一月一七日付検証調書には、宿直室押入れの状況についての見分の結果が明らかにされていない(例えば、押入れの戸は開いていたのか閉まっていたのか、戸に血痕の付着はなかったのかどうかなどについては何らの記載もない)ので、直ちに断定することはできないが、このような検証調書記載の状況から推測すると、押入れについては特に捜査官の注目を引くようなものはなかった(即ち、押入れの戸は閉められており、また戸に血痕の付着などの異状も発見されなかった)ために、犯人は押入れの戸にも中のものにも手を触れていないものと考えられたのであろうと思われる。

しかるに、請求人の最終的な自白によれば、押入れの中からタオルケットを取り出し(請求人は、五月二六日の現場検証の際、二枚引き戸の押入れの向かって左側の上段部分から取り出したとの指示説明をしており(昭和四三年五月二八日付検証調書添付写真35参照)、この点は後記草野の供述と異なっているように思われる)、また、同様に阿部のズボンを盗んだとされているのであるから、この点について根本的な疑問が生ずる。しかも、請求人はその五月一六日付員面(一〇二)においては、「宿直室に押入れがあったかどうかは記憶にありません。」とさえ供述していたのである。また、そもそも右タオルケットは、宿直員が直接身体に掛けるものとして新たに宿直室に備え置かれたものであり、宿直員らもこれを毛布の下に入れて使用していたものであること、本件事件発生の夜の前日の宿直員であった草野隆盛もそのようにして右タオルケットを使用し、翌朝(一〇月二六日)これを四つ折りして布団の間に入れて押入れの向かって右側の上段にしまったことが認められる(同人の員面)のであるから、被害者が右タオルケットをわざわざ押入れの中に残して、これを使用しなかったなどということは到底考え難いところである(右草野においても、被害者もこれを使っていたものと思う旨供述している)。

そうすると、犯人は、夜具としておそらく毛布の下に使用されていた右タオルケットをそこから引っ張り出したものと考えるのが相当である。

また、ズボンにしても、阿部は宿直室のカーテンレールに吊るしてその上から風呂敷をかけておいたと供述しているのである(同人の昭和四二年一一月一日付員面)。もっとも、それはかなり前のことであるから、その後、誰かがこれを押入れ内にしまい込んだということもありえないではないが、この点を確認するための捜査が尽くされた形跡は全くない。そうだとすると、押入れの戸などに異状がなかったものと思われることと相俟って、阿部の供述にあるとおり、ズボンは依然としてカーテンレールに吊るされたままになっていたものであり、それが盗まれたものと考えるのがむしろ自然なことといわなければならない。

(七) 手提金庫をこじ開けた場所について

(1) この点について、請求人は、「布団の上でやれば音がしないだろうと思って、宿直室に持っていった」(五月一六日付員面(一〇二))、「布団の上で鍵の部分を鉄棒で何回か殴りつけた」(同月一四日付員面。もっとも、それに用いた道具については、同月二六日付検面(一二〇)において、鉄棒のほかに先の方が曲がった鉄棒(ベアリングレースプーラーのこと)も使っている旨訂正され、これが、昭和四三年六月一九日付鑑定書により裏付けられたことは前記三の2、(四)のとおりである)と供述し、現に、座金部が破壊され、中身が物色された状態の同金庫が宿直室に放置されていたことは昭和四二年一一月一七日付検証調書により明白である。

(2) しかし、同検証調書(特に、添付写真81)によれば、宿直室の布団のシーツ上にいくつかの血痕足跡があるのみであり、前記(1)のような作業がなされたことを示す痕跡は全く認められないのである。

即ち、右鑑定書にあるような方法で座金部を破壊するためには、同金庫を横倒しにして座金部のある正面部分を上向きにしなければならないが、犯人がはめた手袋は血だらけの状態であるから、右の過程で金庫の外表部分にも相当の血痕が付着するであろうことは避けられず、したがって又、布団の上にもそれらしき血痕が付くものと思われる。

(3) 加えて、右の作業をするためには、少なくとも一方の膝については跪くような姿勢をとるのが最も自然であろうと思われるところ、そうすると、犯人のズボンの裾に付着した血痕が布団の上ないしは周囲の畳の上に付着するものと思われるのであるが、そのような痕跡もない。

また、鉄棒やベアリングレースプーラーにもたっぷりと血が付着していたのであり、しかも金庫をこじ開けた後にはこれらを一旦は布団又は畳の上に置いたものと思われるが、その跡を示す特徴的な(細長い棒状の)痕跡も発見されていない。

(4) これらの点を総合すると、宿直室の布団の上で右金庫をこじ開けたとする請求人の前記供述は果たして真実なのであろうかという疑問が生ずる。むしろ、同金庫を工具室前に運んで行き、同室からベアリングレースプーラーを持ち出して、同所で前記のような作業をしたのではないかと考えるのが自然ではないかとさえ思われるのである。

もっとも、前記(六)のとおり、布団のシーツの上にはタオルケットがあったものと考えられるのであるから、この上で前記のような作業をしたというのであればシーツや畳の上にそれらしき痕跡が残っていなかったとしても何ら不思議なことではないものといわなければならない。

そうすると、この点については断定的にいうことはできないことになるが、ただ、昭和四二年一一月一七日付検証調書中において、犯人が手提げ金庫を取り出した表側事務室の大型ローカーの前の血痕足跡(そのような足跡がなかったとは到底考えられないのであり、少なくともルミノール検査に反応する程度のものはあったものと思われる)及びそれが何処へ向かっているかを明らかにしておれば、比較的容易にこれを解明することもできたのではないかと思われるのであり、このような作業がなされていないことは惜しまれるところである。

2 犯人であれば当然に説明が可能であり、また説明するであろう筈の犯行現場に残された特徴的な状況ないしは犯人のなした不可解な行動について、請求人の自白中においては何ら触れられておらず、或いは十分に納得のいく説明がなされていないものがある。

(一) タオルケットについて、請求人は、被害者がかわいそうになったので掛けてやろうと思って持っていったと言いながら、「(被害者の遺体のある付近の)床の血を拭いてみたが固まってきているので風呂場で濡らしてきて拭いた。しかし、それでもとれそうにないのでそのまま被害者の頭の付近に置いておいた。」などと供述している(五月二〇日付検面)。

しかし、右は、遺体にかけてやろうと思って持ち出したのに、何故そのとおりにせず床の血を拭いてみることになったのか、また、結局かけてやらなかったのは何故なのかなどについて、何らの説明もしていないのである。また、最も新しい、しかも大量の出血があった筈の南側通路床上の血痕がそれ程に早く固まってきていたなどということは到底信じ難いことである(もっとも、五月一四日付員面及び同月一六日付員面(一〇二)には、「余りに多い血なので、途中で止めてしまった。」とある)。

(二) 南側通路に置かれた長椅子の座席部分が何か濡れたもので拭われた形跡があるのに、請求人の自白においてはこの点について何ら説明がなされていない。

右の座席面の状況については昭和四二年一一月一七日付検証調書においても右と同様の記載があり、しかもわざわざ右長椅子の状況を明らかにするためだけの写真が二枚(写真67及び68)も添付されているなど、捜査官においてもこの点について大いに注目していたことが窺えるのである。そして、前記(一)のとおり、それ自体はいささか不自然なものであるにしても、タオルケットを濡らしてきて床面の血を拭き取ろうとしたなどと供述してもいるのであるから、この座席面の状況について全く触れるところがないというのは全く不可解なことと言わざるを得ない。或いは、請求人の取調べに当たった警察官が本件事件の捜査本部の当初からの要員ではない平署員であったために、現場の状況についての認識が十分でなかったという制約があるのかもしれないが、その他の捜査本部員らや検察官もいるのであるから、この点を問い糾すということは当然なされて然るべきであった。

ところで、濡れたタオルケットが付近にあったことからすれば、これで長椅子を拭いた可能性も勿論あるが、右痕跡が座席面に向かって右側においては二条になっているものが左側では重なって一本になっているところ、右側の二条になっているうちの手前側の分については端の部分が飛沫が飛び散っていること、線の巾がほぼ一定であることなど、その痕跡の形状からするときは、十分に水分を含ませたデッキブラシかモップのようなものを座席面に叩きつけるようにして置いた後そのまま一気に柄を押して拭いたようにも見えるのである。それはともかく、いずれにしても、右座席面についてはわざわざこのような作業をしなければならないだけの理由があったものと考えるのが自然であり、それはおそらく、犯人が捜査官側によって自己の犯行と見破られることを惧れるような何らかの痕跡を残したためではないかと推測されるのである。しかし、右の想定を裏づけるに足る資料は全くないから、この点について、これ以上具体的に究明することは断念せざるを得ない。

(三) 昭和四二年一一月一七日付検証調書によれば、表側事務室の所長の机の左隣りに渡辺久美子の机と椅子があるところ、同女の椅子の背当て部表側に相当量の血痕が付着していることが明らかである。おそらく、右の状況は被害者が相当な手傷を負わされた後に渡辺の机の座席側に逃げのびて、右机を挟んで犯人と対する(即ち、机の巾だけの間隔をあける)ことによって、ひき続き加えられるかもしれない犯人の攻撃から身を守ろうとしたことを物語るものと思われるのであるが、請求人の自白にはこの点について何ら説明がなされていないのである。もっとも、請求人も、被害者がふらふらと立ち上がった後右事務室内の机の回りを逃げ回ったという趣旨の供述はしている(例えば五月二一日付検面など)のであり、しかも、そもそも請求人は右渡辺の机については認識していないことが明らかであるから、これらを総合すれば、この点については請求人において右事務室内の机の配置を誤認していただけのことであるとして説明することも不可能ではないかもしれない。

(四) ベアリングレースプーラーの頭部分を手提金庫の座金部に叩きつけてこれを破壊し、同金庫をこじ開けたことは、前記昭和四三年六月一九日付鑑定書により明らかであるところ、このような方法を採るのであれば、鉄棒だけでも十分だった筈であるのに、何故わざわざベアリングレースプーラーを持ち出して、これを使ったのか、その点の合理的な説明は何らなされていないままである。

(五) 昭和四二年一一月一七日付検証調書には、サービス事務所内の被害者の机の、上から三段目の抽斗には血痕の付着した破れた封筒六枚及び給料袋六枚があったとされている。この血痕については、それが新しいもので本件犯行と関連性のあるものと判断されたのか、それとも明らかに古いもので本件犯行とは無関係と考えられたのか、右検証調書上からは明らかではない(そもそも該血痕は給料袋にも付いていたのかどうかさえ判然としないが、この点はおそらく肯定してよいのであろう)。これがそれ以上注目された形跡がないことからすれば、後者であったのかもしれず、もしもそうだとすれば、検証調書の記載の適否が問われることがあるのは別論として、事実認定に関して格別問題にすることはない。しかし、仮に前者であるとすれば甚だ重要な意味合いを帯びてこよう。何故なら、このことは犯人が血で汚れた手でこれに触ったこと、したがって被害者を負傷させた後にも同室内に立ち入っていることを当然意味するが、その他の諸状況は全てこれを否定するもののように思われるからである(請求人の自白も又然りである)。特に、右抽斗の下部把手部分をはじめとする右机の全体、なかんずく同抽斗中の他の在中品に血痕が認められないこと(もっとも、その旨の記載があるわけではない)に照らすとき、果たして犯人がどのようにして右封筒等にだけ触れることができたのか、真犯人でなければ容易に解きあかすことのできない難問であるといってよいように思われる。

そして、請求人の自白はこの点について何ら触れるところはない。

3 請求人の自白中には、具体的かつ詳細で、いかにも真犯人でなければ供述し得ないようなものであるにもかかわらず、客観的な証拠によって裏付けられないものや、更にそれ以上に、不自然・不合理と評すべき部分さえある。

(一) 請求人は、犯人が二人組であるように見せかけるための偽装工作の一つとして、左右の靴をわざわざ履きかえて歩いたり、また、わざと歩幅を変えて歩くなどしたと供述するのであるが、足跡からして複数犯を疑わせるに足るようなものは特段発見されるに至っていない。

(二) 請求人は、「(前同様の偽装工作として)宿直室の被害者の靴に手を入れて押入れの前や布団の辺りに靴跡を付けた」と供述する(五月二六日付検面)のであるが、そのような痕跡も発見されていない。

しかも、五月二七日付検面(一二一)では、検察官から「宿直員の靴だと、あとで調べれば二人組でないと判るのではないか。」と至極もっともな質問を受けたために、請求人の供述に明らかな動揺が生じていることが見てとれるのである。結局はそのような動揺を克服した形で、靴の材質や大きさなどについてまで具体的に供述するに至るのであるが、その反面、「私はそう強く跡を付けたわけではありませんが、靴跡が残ればよいと思って跡を付けました。」「この靴の底には血をつけてありません。」と述べているのである。これは、それらしき足跡が見られないとの指摘を受けてなされた供述ではないかと推測されるのであるが、これでは何のための偽装工作だったのかということになってしまうであろう。また、請求人が述べるような方法で足跡を付けることになれば、膝を付いた形の四つん這いになるのが最も自然な姿勢であろうが、そうだとすれば、血の付いたズボンの膝から下を引き擦ることになるからそのような血痕が付く筈であるし、また右のような姿勢をとっていないとしても、右の工作をした個所付近に何かしら不自然な請求人の血痕足跡が印象されるものと思われるのに、右のようなものは全く見出せない。

また、血まみれの手袋の上にボロ布を巻いたくらいで当該靴の中に血痕が付かなかったとはた易く信じ難いのであるが、そればかりか、昭和四二年一一月一七日付検証調書中にはそのような靴の存在については何ら記載がなく(但し、同調書添付写真71には、出入口にツッカケのようなものが写っているが、靴ではないことが明らかである)、請求人においてもその靴をその後どのようにしたのかについて全く述べていないことなどからすれば、そもそもそのような靴があったのかどうかさえ大いに疑わしいものといわなければならない。

七 請求人の自白にはまことに変遷が多い。しかも、その変遷が本件犯行の最も重要な事項、即ち、被害者の殺害方法及びこれに密接に関連する被害者との攻防の状況等、いわばその核心部分に関するものを含めて広く全般的に亘っている。そして、その訂正・変更すべき理由について納得させられるような説明がなされていないことが殆どなのであるから、この点はやはり自白の信用性を甚だしく減退させるものと見ないわけにはいかない。

ただ、既に他の関係で自白の変転ぶりをも詳細に検討したものも多いので、それらについてはここで繰り返すことはせず、新たなものだけを見ておくこととする。もっともその多くは既に上告趣意や控訴趣意書の中で主張されているところであり、その評価にかかる部分はともかく、客観的な事実の指摘は概ね正当であるから、以下においては、項目ごとに簡潔に列挙するにとどめる。

1  本件犯行に用いられた凶器の種類及びその用法という犯行の根幹に関わるような重要な事項についても供述が変転している。即ち、自白の当初においては、凶器としては「鉄棒」だけしか登場していなかった(例えば、五月七日付員面では、「単なる盗みのつもりで入ったところ、宿直員に見つかり格闘となって、夢中で近くにあった鉄棒でめっちゃくっちゃに叩いてしまったのです。相手の人は死んだと思います。」などと供述していたのであって、鉄棒のみによる殺害を供述している。この点は同月八日付員面でも基調は変わらず、「鉄棒」が「鉄パイプのようなもの」と若干漠然とした表現となったかわりに、結果については「殺してしまった」と明確な表現に変わっているだけである)ものが、五月一四日付員面において、「被害者が手放したドライバーのようなもので脇腹を切りつけた」という供述が突然登場し、更に、五月一六日付員面や五月一九日付検面になると、「鉄棒」のほかに請求人が腰にはさんで持参したというドライバーが加わり(但し、前者にあっては「背中辺りを一回突き刺した」とあるのに、後者においては「脇腹をえぐるようにして刺した」とあり、大きく異なる)、「相手の持っていた光るもの(これは後に(但し、その時期はまちまちである)刃物だということがわかったとされる)を使った」という供述にもなるのである。

このような凶器の種類及びその用法に関する供述の変転や不明確さは、請求人の自白の信用性を大いに揺るがすものと言わざるを得ない。

また、右の鉄棒についても、その形状やこれを持ち出した場所についての供述にも看過できない変遷があることは、既に前記上告趣意(四七頁以下)に詳細かつ適確に指摘されているところである。

2  請求人は、当初、テコバールとドライバーを用意して日産サニーに侵入した旨供述していたのであり、現にテコバールを使って小さいロッカーをこじ開けたなどとも供述していた(五月八日付員面から同月二〇日付検面まで)のに、その後何らの合理的な説明もないまま、これについて「テコバールは局のロッカーに置いてあったが持ち出さなかった」とされてしまうのである(同月二五日付検面(一一七))。

また、ドライバーについても供述は変転し、特に、本件犯行後の隠匿先について局のロッカーとしながら(同月九日付員面)、同月二八日付員面においては、局から領置したドライバーについては本件犯行に供したものではないとし、自宅から押収した六丁の中から一丁を指示するといった有様である。

3  タオルケットについては、当初は「風呂場に乾してあったと思うバスタオルのようで大きなものを湯舟に浸して引きずっていった」と供述していた(五月一四日付及び一六日付各員面)のに、その後「宿直室の押入れの中から取り出した」ことに変更され(同月二〇日付及び二一日付各検面)、更に「バスタオルではなく、タオルケットか毛布」となり(同月二五日付検面)、最終的にはタオルケットとなるのである(同月二七日付検面(一二一))。

しかも、右の最終的な供述である「タオルケットを宿直室の押入れから取り出した」ということ自体が疑問であることは既に前記六の1、(六)において見たとおりである。

4  侵入後の物色状況と物色場所の時間的順序、金員を盗取した場所及びその状況(例えば、机の抽斗の施錠の有無など)並びに金額についても供述は変遷を極めており、これを秩序立てて追跡することは容易でない程である。また、偽装工作に用いられたという軍手様の手袋を盗んだ場所についても同様に変転している。

その他、請求人の供述の変遷は、本件犯行前の足取り、犯行後の足取り、犯行時に着用していて血の付いたズボン、ズック靴、イボ手袋などを処分した場所及び処分状況、アノラックの洗濯場所と洗濯状況等々、まさに枚挙に暇のない程である。

八 自白の信用性判断についてのまとめ

1 以上、検討してきたところによれば、請求人の本件犯行に関する自白には秘密の暴露と目することのできるものは含まれておらず、反対に、客観的な事実(証拠)と符合しないものも多く、中でも前記六の1、(一)ないし(五)は特に重要な意味を持っているものと考える。更に、同六の2(特に、(一)、(二)及び(四))並びに3において指摘した諸点や同七に列挙したような顕著な変遷も見られるのである。そうすると、請求人の自白が任意性があることについては疑いを差し挟む余地がないものであり、また右自白の信用性を増強する方向に作用する諸要素もないことはない(前記三の2参照)ものの、結論的には、その信用性を肯定するのは困難なことと言わざるを得ない。

2  もちろん、犯人は、一旦自白するに至ったからといって必ず全ての真実(自己の記憶にあるところ)を余すところなく吐露するというものではなく、より犯情を悪くする事柄についてはなお隠し通そうとしたり、或いは積極的に虚偽の供述をすることさえあるのであり、また、他方において時間の経過とともに記憶そのものが曖昧になったり、そもそも犯行現場の異様な雰囲気等の中で客観的事実を初めから誤って認識してしまうというようなことも十分ありうるものといわなければならない。そして、そのような曖昧であったり、更には真実と齟齬する供述が、その後捜査が進展するにつれて客観的な証拠が蒐集され、或いは取調官の説得等によって訂正されるなどして次第に真相に迫ったものとなり、また具体的で詳細なものになっていくということもあるのである。

したがって、自白にある程度の変遷があるのはむしろ通常のことであり、また、客観的な事実と符合しない部分が含まれていたり、不自然・不合理な点が散見されたりするからといって、直ちに当該自白の信用性が否定されるということにはならないのは当然である。

3  しかし、本件請求人の自白は右の程度が甚だ極端であり、自白中の極く一部にそのようなものがあるとか、せいぜい些末な事柄に属する部分についてそのような現象が見られるといった類のものではないのである。加えて、請求人は、「泣きわめき、身を震わせ、取調官の手に取り縋る」といった激しい精神的葛藤の中にあって、五月七日の最初の自白を始めたのであり、右のような請求人の自白態度をもって、自己の犯した罪へのおそれと著しい悔悟の念からくるものと見ることは不可能なことではなく、むしろ当然の解釈というべきではあろうか、それならば、何故かくも多くの、かつ、重大な疑問が見出されるのかということについて、却って説明することができないことにもなるのである。

この点について、当裁判所としては、請求人の自白は、真犯人が前記2の前段のような理由により虚実を織り混ぜて自白した場合であるとは考えない。何故なら、請求人は、一時期を除いて、ほぼ一貫して、積極的に具体的で詳細な自白を繰り返してきたのであり、しかも、虚偽であることが判明し或いは重大な疑問が抱かれるに至った供述にしても、それは自己が犯人であるという方向に向かうものであったり、或いはより犯情を悪くするものであるのである。即ち、請求人は、虚構の事実まで混じえながら、一貫して犯人として振る舞っているのであり、往々にして見られるところの、真実と虚偽との間を彷徨し動揺している、いわゆる「半割れ」の状態などとは全く様相を異にするのである。

また、その異常といっても過言ではない程に詳細な自白内容に照らせば、前記2の後段の理由によるというのも頷けない。かといって、請求人が、今日の日のあることを期して、故意に虚実を織り混ぜて自白しておいたというようなことはおよそ考えられないところである。

このように、請求人が本件犯行の真犯人であるとした場合、請求人の自白には到底考えられないような種々の重大な疑問が残るのである。しかし、さればといって、真犯人でもない者が何故に自己が犯人であるとして、かくも積極的に具体的で詳細な自白をなしたのか、これ又不可解なことではある。

これを要するに、当裁判所はこの点の真相を結局解明することができないままで終わらざるを得ないことになる。

九  その他の新証拠について

1  当審における証人齊藤源吉、同武山節江及び同齊藤ウタの各証言、並びに確定審に提出されず当審において初めて取調べられた右各人及び齊藤吉栄の各供述調書(謄本)(前記第三の三に掲記したうちの請求人番号11、検察官番号9、17、18)いずれも請求人のアリバイに関する証拠であるが、これらはその内容において確定審における証拠調べの結果の域を出ず、その意味でいわゆる新規性を有しないものと言わざるを得ない。

よって、これ以上立ち入って検討することはしない。

2  毛髪鑑定について

現場採証報告書及び昭和四二年一一月一七日付鑑定書(有馬孝作成)は、再審請求理由(前記第二、一の5)に関連して、弁護人の請求に基づいて検察官から提出されたものである。右の疑問については当裁判所もこれを一理あるものと受け止めたところであるが、右鑑定の結果によれば、被害者の左右両手の手掌に付着していた毛髪はいずれも被害者の頭毛であることが明らかとなった。思うに、被害者は犯人から鉄棒で殴打されたことにより、頭部に前田鑑定にいう(1)及び(2)創傷を負ったわけであるから、思わず(或いは意識してということも考えられる)手で右創傷部分に触るというようなことも十分ありうるものというべく、その際に頭毛が手に付着したのではないかと考えられる。そうすると、右鑑定結果には何ら疑問や矛盾はないものということができる。

ただ、右鑑定書によれば、表側事務室の所長の机前から採取されたもののうちの一本は陰毛であり、血液型はO型、また犯人の逃走口と思われる南側通路の窓枠に血痕と共に付着していたものも陰毛であり、血液型はB型であるが被害者の陰毛とは異なることが認められる。そこで、もしもこれらのうちのいずれかが犯人のものである可能性が高いということになれば、請求人の血液型はA型であるから、請求人は本件事件の犯人ではないことが明らかであるということになる。特に、窓枠に付着していたものについては、一見したところでは犯人との一定の関連性が考えられないではない。しかしながら、右事務室は人の出入りの激しい場所であること、掃除が完全に行き届いているとは考えられないことなどからすれば、右各陰毛のいずれかが犯人のものであると断ずる根拠に乏しく(そもそも、O型とB型の二種の陰毛があること自体からしてそのように言わざるを得ない)、しかも、本件犯行が一〇月二六日という当地では秋も相当深まったといってよい時期の、それも深夜に侵入するという態様のものであることに鑑みれば、犯人の服装も自ずからそれに相応しいものであったと思われるのであり、いくら被害者と激しい格闘を演じたとはいえ陰毛を床上に落としていく可能性のあるような服装をしていたなどということはおよそ想定し難いところである。そうすると、右窓枠に付着していたものについても、事務室の床上に落ちていたものを犯人が血痕と共に踏みつけ、逃走時に窓枠に付着させたものと考えるのが順当なところであって、いずれにせよ、本件再審請求との関係において、右鑑定書に格別の意義を見出すことはできない。

3 ルミノール実験について

本件アノラックに血液反応がないことは、昭和四三年五月二七日付鑑定書(有馬孝作成)によって明らかであり、確定判決もそのことを前提にして判断を示しているところである。

(一) しかし、船尾鑑定によれば、予め晒木綿及び白衣に血痕を付着させた後、入念な洗濯を行ったとしても、ルミノール試験が陰性化することはあり得ないとされる。そのうえで、同鑑定は、「犯行後これを洗濯し、その後押収されるまで長期にわたり反復着用したのであるから、鑑定時(前記昭和四三年五月二七日付鑑定書のそれ)に右血液反応がなくても格別不合理ではない」とする控訴審判決の判断について、「本鑑定資料(弁護人から船尾鑑定人に提供された資料)からのみでは、必ずしも控訴審判決の結論が科学的妥当性を欠くものとは直ちに判断することはできない」としつつも、「あくまでも種々の推測条件の上で成立する可能性のある結論ではあるが、陰性に転化する場合も皆無とはいい得ないものと考えられる。」としているのである。

(二) ところで、丸茂義輝外一名作成の平成二年九月四日付鑑定書によれば、本件アノラックの布地はナイロン繊維であること及びその裏面にはクロロプレンゴムのコーティングによる防水加工が施されていることが認められる。

(三) そして、石山(血痕)鑑定は、本件アノラックの布地と同様のナイロン布地を用いた血痕反応実験結果から、石鹸をタワシにつけ擦るといった洗濯手段(請求人の自供内容の方法である)によっても、ルミノール試験は陰性になりうるとする。また、有馬孝の平成三年一二月二日付実験結果回答書(以下「有馬実験」という)も、同様の結論を出し、更に、洗浄で除去できなかった血痕や拭い取れなかった血痕でも、それらが濃厚なものでない限り、直射日光に晒されれば血痕の予備検査は一週間以内に陰性化するものと考えられるとしている。

(四)  当裁判所は、実験材料に木綿を用いたこと(石山(血痕)鑑定及び有馬実験によれば、木綿布地とナイロン布地では血痕の洗い落ちに顕著な差があることが明らかである)、洗濯方法も請求人の自白にあるのとは異なること、日光に晒すというような条件を考慮していないことなどの点において、船尾鑑定についてはその結論に既に致命的ともいうべき限界があるものと考える。したがって又、同鑑定自身も控訴審判決に対して前記のような論及をするに止め、断定的な結論を留保しているものと思われるのである。

しかしながら、石山(血痕)鑑定及び有馬実験(特に前者)によるも、血痕反応が陰性化しにくいことは事実であり、また、被害者の負傷状況に加えて、犯人と被害者との間においては激しい格闘が演じられたこと、また、犯人が被害者にとどめを刺す際には倒れた被害者の上に上半身を覆い被せるような姿勢をとっていたものと考えられることなどに鑑みれば、かなり大量に返り血を浴びたと思われる本件アノラック(その点において、請求人の昭和四二年五月二五日付検面に「アノラックの右袖に血が付いているのと、右の胸から腹にかけていくらか付いている」などとあるのは多分に疑問としなければならない)に、血痕反応が全くないということに対してやはり疑問が残るのは確かである。とりわけ、被害者に猿ぐつわをかましたというボロ布をアノラックのポケットにしまったという請求人の自白が真実であるとすれば、同ポケットには覆い(雨蓋)があって、直射日光に晒されることはまずありえないのであるから、有馬実験の前提条件を欠くことになるわけであり、したがってこの部分についても全く血液反応がなかったということは更に疑問を強めるものではある。ただ、いずれにしてもこれらの鑑定結果等をもって、請求人に無罪を言い渡すべき証拠であるとすることができないのは自明であり、せいぜい、右の点に関連して、右自白の信用性を疑う一資料となりうるというに止まるものである。

4  次に、日本工業株式会社の回答書は、全体として曖昧との印象を免れないものであるから、このようなものを新規かつ明白な証拠として取り上げることはできない。

また、請求人の指摘する新聞報道についても、その報道の根拠が必ずしも明らかでないからやはり右と同様である。

第六  結論

一  以上、検討してきたところによれば、請求人が本件事件の犯人ではないとするだけの積極的な証拠はないことに帰する。

しかし、請求人の自白の信用性を肯定することも又できないものというほかはない。もっとも、このことは、請求人が本件事件の真犯人ではないということを意味するわけではなく、当裁判所としても、請求人がやはり真犯人なのではないかという疑問をなお拭いきれないものがある。特に、前記のとおり、真犯人でない者が何故に自己が犯人であるとする点では一貫した自白を維持したのかが解明されず、また、本件再審請求にあっても、これだけの陣容の弁護人団を擁して周到な準備をなした上で臨んだものと思われるのに、肝心の請求人の態度が、無実の罪で無期懲役という重い刑に服せしめられた者のそれにしてはいかにも迫力に乏しいとの印象を受けるのであって、この点はやはり疑問の残るところである。例えば、請求人本人質問においても、あくまで真相を訴え、無実を明らかにするという姿勢に欠け、曖昧なことや明らかに不合理なことを述べたり、また多くは黙して語らないといった状態に終始しているといった如くである。このことは、捜査段階において積極的に犯行状況などについて供述し、現場検証における指示説明に際しても進んで犯行状況を再現して見せるなど、むしろ生き生きとして見えることと対照的でさえある。また、請求人については、予て「後からすぐ嘘とわかることを言うところがある」と見られていた(第一審における証人中野正一の証言及び鑑定人白沢公男作成の「請求人の精神状態鑑定書」等)というようなことをも併せ考えると、本件事件の真犯人たる請求人が、興味本位に真実を脚色するなどして供述し、それが過度に及んだために、前記のような重大な疑問を払拭し難いような自白に堕してしまったのではないかと見る余地も全くないとはいえない。

しかしながら、右のような嘘を言う性癖が出現してしまったものと考えるのは事が事であるだけに無理があるものと言わざるを得ない。また、真犯人が自白しながら他方での虚偽の供述を織り混ぜるのは、概して自己に有利になるようにとの思惑であって、本件請求人の自白に見られるように、自己が犯人であることをより強く印象づけようとする方向で虚偽供述をしたり、犯情をより悪く思わせるような虚偽供述を織り混ぜるというのはどうにも不可解なこととしなければならない。また、右に指摘したもののうち、その余の諸点はいずれも多分に感覚的なものであって、このような要素を過大評価することはやはり問題であろう。

二  ところで、自白の信用性についての研究者は、「体験性を彷彿させる具体的で写実的な供述調書は、これを読む者をして有罪の強い印象を与えやすいが、この直感に頼り過ぎることは甚だ危険であり、こうした感覚面からくる自白の暗示的影響力にとらわれ、被告人と犯行を結びつける証拠の客観的な検討や、自白の信用性に対する他の角度からの慎重な吟味が怠られてはならない。」と警告している(司法研修所編「自白の信用性」四三頁)。自戒しなければならないことである。現に、請求人の自白は矛盾だらけのものであったにもかかわらず、捜査官においては、自発的かつ迫真性に満ちた態度で、具体的かつ詳細な自白をなす請求人の自白を信用せしめられ、その結果、客観的証拠に依拠した緻密かつ周到な捜査を怠ることとなってしまった嫌いがあることは、今や誰しも否定し難いところであろう。このことは、右の自白状況を録音した録音テープの証拠価値を過度に高く評価してしまった確定審の裁判所にもそのまま当てはまることである。録音テープの場合には、秩序だった整合性のある供述という点では供述調書に及ばないものの、その迫真性においては供述調書を凌ぐものがあるのではないかと思われるだけに、前記のような危険はむしろ大きいとさえ言えるであろう。改めて、捜査官や裁判官の感覚に訴えるこのような証拠のもつ恐ろしさを確認しておく必要があるように思われる。

三 以上のとおり、本件事件については、新証拠とそれ以外の証拠を総合すると、唯一の直接証拠である請求人の自白には幾多の疑問があり、それらは確定判決の本件事件についての有罪認定に合理的疑いを入れる程度のものであるから再審を開始するのが相当である。

しかし、その他の窃盗事件等についてはこれと同列に扱うことはできない。なるほど、請求人の一連の自白の中で最も重大な日産サニー事件に関するそれが信用性のないものであることと判断された以上は、少なくともその後になされた自白の信用性についても一定の疑問が持たれないわけではない。しかし、いうまでもなくこれらの事件は相互に別個独立のものであり、しかも、請求人は、確定審においても、また当審においても、これら窃盗事件等の被害場所についてはその多くを請求人が自ら進んで捜査官に述べたということを自認しているのである。そうであれば、これらについての自白の信用性を直ちに否定し去ることはできないものというほかはない。

そうすると、これら日産サニー事件以外の窃盗事件等については再審を開始すべきであるとするまでの事由はないことに帰する。

四 以上により、本件再審請求のうち日産サニー事件についてのみ再審を開始すべきこととなるが、確定判決においては、これらの全事件が併合罪として処理されたうえで一個の主文が導かれているわけであるから、本件決定の主文としては、「本件につき再審を開始する。」ということになるものである。

よって、刑事訴訟法四四八条一項により主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官西理 裁判官園田小次郎 裁判官中村俊夫)

別紙一

被告人は、昭和四二年一〇月二七日午前零時過頃、ドライバーを携え窃盗の目的をもって、いわき市<番地略>日産サニー福島販売株式会社いわき営業所(所長西岡増雄管理)に赴き、同営業所北側裏風呂場の窓から屋内に侵入し、表側事務室内を物色中、同営業所宿直員乙川二郎(当二九歳)に発見されて同人と格斗となり、同営業所整備工場内工具室から持ち出した鉄棒で同人の頭部を二回位殴打したうえ、同人の所持していた刃物(刃渡り約一六センチメートル)を取上げ、該刃物及び前記ドライバーをもって同人の身体を十数ケ所突き刺し、更に同人を同工場内に在ったロープで縛り、風呂敷で猿ぐつわを嵌めるなどしてその反抗を抑圧し、一旦猿ぐつわなどを外したものの、同人がロープで縛られたまま起き上がり、同営業所サービス事務所前附近に逃げ、うめき声を上げているのを聞いたので、ここに同人を殺害しようと決意し、同所に駈け寄り、前記刃物を逆手に持って同人の身体を十数ケ所突き刺し、よって同人を左前頸部刺創(左総頸動脈切断)などにより失血死させて殺害したのち、前記表側事務室内の大型キャビネットをこじ開けて手提金庫を取り出し、該金庫から同営業所車両係鈴木洋三所有の現金二、一〇〇円位、同営業所宿直室から右同係阿部貞夫所有の男物ズボン一枚(時価二、〇〇〇円相当)を強取したものである。

別紙二

(罪となるべき事実)

第一 昭和四二年一〇月二七日午前零時過頃、金品窃取の目的をもって、ドライバーを携え、いわき市<番地略>日産サニー福島販売株式会社いわき営業所(所長西岡増雄管理)に赴き、同所北側の金網塀を乗り越え、同営業所建物の北西隅にある風呂場の窓ガラスを右ドライバーで破壊し錠を外して右窓から屋内に侵入し、西側工具室から持ち出した長さ約七九センチメートルの鉄棒一本(昭和四三年押第二〇号の七)を携え表側事務室やサービス課事務所内を物色中、同営業所宿直員乙川二郎(当時二九歳)に気付かれ、果物ナイフ(刃渡り約一〇センチメートル、同押号の一)を携えて来た同人と右事務室内で格斗のすえ、前記鉄棒で同人の左頭部を約二回殴打し、同人が取り落とした前記果物ナイフを取り、右ナイフやドライバーで背部、腕部等十数ケ所を突き刺し、同所整備工場内に在ったロープ等を用いて同人を縛り上げ、布で猿ぐつわを施す等して同人の反抗を抑圧し、その後ロープ、猿ぐつわなどを外したものの、さらに被告人が宿直室を物色中、同人がサービス課事務所附近でうめき声をあげているのを聞き、殺意をもって前記果物ナイフでその頸部等を数回切りつけ、以上の打撲、刺創のため同人を即時同所で身体各部の刺創等(ことに左総頸動脈切断)による失血のため死亡させたのち、前記事務室大型キャビネットを前記鉄棒等でこじ開けて手提金庫(同押号の三)を取り出したうえ、右金庫在中の同営業所従業員鈴木洋三所有の現金二、一〇〇円位及び宿直室にあった同営業所従業員阿部貞夫所有のズボン一着(時価二、〇〇〇円位)を強取し

第二 別紙窃盗事実一覧表のとおり、昭和四二年七月二一日から昭和四三年四月二四日までの間一一回にわたり、他人の大工道具等雑品計二三点(時価合計二万七、〇五〇円位)及び現金合計約七万八、二〇〇円を窃取し

第三 金品を窃取する目的をもって

(一) 昭和四二年七月二二日午前零時頃いわき市<番地略>ヤマハ月販株式会社いわき連絡所長真弓喜代幸看守にかかる同所在同連絡所事務室内に侵入し、机の抽斗を開けて金品を物色中、戸を開けるような物音を聞き発見を恐れたためそのまま逃走し、

(二) 同年九月一七日午前零時頃同市<番地略>日東電工株式会社常務取締役工場長稲葉悌三の看守する同所在同工場事務室内に侵入し、ロッカー及び机の抽斗を開けて金品を物色したが、現金が見当たらなかったため、

(三) 昭和四三年四月四日午前零時頃同市<番地略>理髪業高木忠孝方店舗付住居内に侵入し、店舗の抽斗を開けて金品を物色したが、現金が見当たらなかったため、

(四) 同日午前三時頃同市<番地略>旅館業扇屋こと水竹甲子郎方旅館兼住居内に侵入し、帳場兼居室の茶箪笥及び仏壇の抽斗を開けて金品を物色中、家人に発見されたためそのまま逃走し、

いずれも、金品窃取の目的を遂げなかったものである。

別紙

窃盗事実一覧表

日時

場所

被害者

被害金品、数量

時    価

(一)

昭和四二年七月二一日

午後一一時頃

いわき市平字下の町七番地

スサト機工株式会社事務所内

管理者

上記会社社長

中村 浩

自動車のエンジンのスイッチ一個

(時価五〇〇円位)

(二)

同月二二日

午前〇時頃

同市平字大町二七番地

朝日生命保険相互会社

郡山支社平東営業所内

管理者

上記営業所長

草野 チヨ子

現金約 二、五〇〇円

(三)

同年九月一六日頃の

午後一〇時三〇分頃

同市平下神谷字天神七九番地

平農業協同組合

食肉処理場事務室内

管理者

上記場長

麻原 作衛

現金約 五、五〇〇円

(四)

同日時頃

同所

福島経済農業協同組合連合会

食肉販売所いわき分室事務所内

管理者

上記分室長

菊地 忠治

現金約 一、〇〇〇円

(五)

同年一〇月六日

午後一一時頃

同市平塩字出口八二番地

ときわ急行貨物株式会社

本社兼平営業所事務所内

管埋者

上記営業所長

牧谷 繁

現金約五五、〇〇〇円

(六)

同年一一月一〇日

午後一一時三〇分頃

同市平字正内町六四番地

株式会社山内商会事務所内

管理者

上記会社社長

山内 信

現金約 一、五〇〇円

(七)

同月一九日

午前〇時頃

同市平字北白土字三倉四五番地

山登機械工業株式会社事務所内

管理者

上記会社社長

山野辺 登一

懐中電燈一個

(時価五〇〇円位)

(八)

昭和四三年四月二四日

午後一〇時頃

同市平字八幡小路四一番地

福島家庭裁判所

いわき支部書記官室内

所有者

高崎 典宣

現金約 六、七〇〇円煙草

「わかば」三個

(価格一五〇円相当)

所有者

荒井 清治

現金約 三、〇〇〇円

(九)

同日時頃

同所

裁判所第一公衆控室内

所有者

酒井 武

座蒲団 一枚

(時価三〇〇円位)

(一〇)

同日時頃

同所

弁護士控室内

所有者

佐藤 公子

現金約 三、〇〇〇円

(一一)

同月二四日

午後一一時頃

同市好間町下好間字渋井一三七番地

鮫島昭男方家屋新築工事作業場内

所有者

浅野 喜久美

電気丸鋸等の大工道具一八点

(時価計二五、六〇〇円位)

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