秋田地方裁判所 平成22年(ワ)299号 判決 2011年2月24日
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別紙1当事者目録記載のとおり
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は、原告らの負担とする。
事実及び理由
第1請求
別紙2請求目録記載のとおり
第2事案の概要
1 本件は、被告の従業員である原告らが、被告に対し、後記本件賃下げ合意が錯誤無効であるとして、平成21年2月分から平成22年12月分までの賃金について、賃下げ前の賃金との差額の支払を求める事案である(遅延損害金の起算日は、弁済期の後であり、利率は、商事法定利率である。)。
2 争いのない事実等(証拠等を掲げたもののほかは当事者間に争いがない。)
(1) 当事者
ア 被告は、昭和58年9月1日設立、資本金2000万円、製鉄原料の回収、加工及び販売等を目的とする株式会社であり、秋田市内に本社及び工場、秋田県能代市に工場を有し、平成22年8月31日現在の従業員数は39名である。
被告は、株式会社a商事(本店青森県弘前市。以下「a商事」という。)の秋田県におけるグループ会社である。(書証省略)
イ 原告らは、いずれも被告の従業員であり、かつ被告の従業員で組織するY労働組合(以下「Y労組」という。)の組合員である。(弁論の全趣旨)
(2) 被告の給与体系は、月給制で、毎月20日締め翌月5日払いであり、原告らの給与額は、平成21年1月分(同年2月5日払い)までは、別紙3賃金一覧表記載のとおりであった。
(3) 原告らと被告とは、平成21年2月26日から同年3月2日までの間に、同年2月分(同年3月5日払い)からの原告らの賃金の引き下げについて合意した(以下「本件賃下げ合意」という。)。
なお、本件賃下げ合意後の原告らの賃金及び引き下げ額は、別紙4賃金引き下げ額一覧表記載のとおりである。
(4) 被告は、平成21年3月19日、原告らと同様に賃下げに同意した訴外17名の従業員に対し、いわゆるリストラを通告した(後日1名については撤回。以下「本件リストラ」という。)。(弁論の全趣旨)
(5) 本件リストラを受けて、平成21年4月、Y労組が結成された。Y労組は、本件リストラにつき、不当な整理解雇であるとして争い、同年5月28日、被告とY労組との間で、本件リストラの対象者について金銭解決の合意がされた。(書証省略)
3 争点及び争点に関する当事者の主張
本件賃下げ合意の錯誤無効の成否
(1) 原告らの主張
原告らは、被告から、「賃下げをしないと、リストラをしなければいけなくなる」旨言われて、人員削減を避けるために賃下げに同意するよう説得され、賃下げに応じればリストラが行われることはなく、みんなの雇用が守れると考え、本件賃下げに同意した。
しかし、被告は、原告らと同様に賃下げに同意した訴外16名の従業員について本件リストラを行い、同年4月20日をもって解雇した。
原告らは、賃下げをしたとしてもリストラをするのであれば、賃下げに同意することはなかったのであり、本件賃下げ合意は、錯誤により無効である。
(2) 被告の主張
ア 被告において、本件賃下げに合意すれば従業員のリストラを行わないとの説明を原告らにしたことはないし、原告らが主張する整理解雇をしたことはない。原告らが指摘する訴外16名の従業員は、被告の退職勧奨に応じて退職したものである。
イ 原告らの主張は動機の錯誤であるが、原告らにおいて動機が表示されていない。また、原告らは、退職勧奨の対象になっていないし、他の従業員がリストラされないと思ってという動機の錯誤だとすると、一般取引上の通念に照らして要素性が認められない。さらに、そもそも意思表示をした時点で不確定であった将来発生する事象に関する予測・期待は、錯誤の対象となり得る事柄ではない。
(3) 原告らの反論
ア 動機の表示
原告らは、平成21年2月26日、B取締役(以下「B取締役」という。)と面談した際、「賃下げはどうにかならないのか。」と再考を求めた。これに対し、B取締役は、賃下げをしなければリストラをすることになるので、賃下げに協力してほしい旨述べた。
また、原告X9(以下「原告X9」という。)及び原告X4(以下「原告X4」という。)が同月27日に被告代表者A(以下「A社長」という。)と面談し、賃下げについて同意を求められた際、A社長から、「このままでは本当にリストラを始めなければならなくなる。」とリストラを回避するために賃下げが必要であるとの説明を受けた。
このように、原告らと被告との間では、「賃下げをすれば、リストラはしない。」ということが共通の認識になっていたものであり、リストラを回避するために賃下げに同意するという動機は、被告に表示されていたというべきである。
イ 要素性
原告らは、従業員全員の雇用を維持するために賃下げに同意したのであり、賃下げを行ってもリストラを行うということであれば、原告らは賃下げに同意することはなかった。
(4) 被告の再反論
被告においてやむなく退職勧奨を実施することを決定したのは、原告らから賃下げの同意を得た後であって、原告らが賃下げに同意した当時において、後に退職勧奨を行うことは全く予定されていなかった。
同意時点の客観的事実と原告らの認識が異なっていたという事情も全くないのであって、錯誤を論ずる前提を欠く。
第3当裁判所の判断
1 認定事実
前示争いのない事実等に証拠(省略)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められ、括弧内の証拠中この認定に反する部分は採用することができず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。
(1) 平成20年9月のいわゆるリーマンショックの影響を受け、鉄スクラップなどの相場が極端に冷え込み、被告は、同年10月決算において、4億6000万円強の赤字という状況であった。
(2) 平成21年2月5日の全体説明会
同日、A社長(当時はa商事社長)は、全体説明会を開催し、被告の全従業員に対し、(1)のとおり、経営状況が非常に悪いことを説明した。
その際、A社長は、このままの状態が続くと大幅な人員削減も避けられない状況に陥るという見通しについて話すとともに、誰か辞めてくれる人はいるかといった問い掛けもした。
その一方で、A社長は、既存の工場があるものの余り機能していなかった廃自動車のリサイクル部門(以下「アルトレック事業」という。)に力を入れるという方針、その他の部門の事業縮小といった選択肢についても言及した。
(3) 同月17日のA社長との個別面談
同日、A社長は、被告の従業員と個別の面談をした。その際、A社長は、被告の従業員に対し、どのような仕事が出来るか、どのような資格を持っているかなどの事項を聴取した。
(4) 同月26日のB取締役との個別面談
同日、B取締役は、被告の従業員と個別の面談をし、給与の減額内容を説明するとともに、被告の厳しい状況を伝え、給与減額への同意を求めた。その際、B取締役は、原告らに対し、リストラを回避するために、賃下げに協力してほしい旨話した。
これに対し、原告X9及び原告X4は、給与減額の必要性について疑問を呈し、同意せず、A社長との面談を求めたものの、その余の原告らは、提示された給与減額に同意した(但し、原告X8(以下「原告X8」という。)は、同月1日から同月末日まで、関連会社におけるアルトレック事業の研修に出ていたため、同年3月2日に同意した。)。
(5) 同月27日の面談
ア 同日昼、原告X9及び原告X4は、A社長と面談し、賃下げについて考え直してほしいと要望したが、A社長は、このままでは本当にリストラをしなければいけなくなると言って了承せず、話合いは、平行線をたどって終わった。
イ 同日夜、原告X9及び原告X4は、B取締役の面前で本件賃下げに同意した。その際、原告X9は、原告X4に対し、リストラを避けるために本件賃下げに同意しようと諭した。
2 以下の検討によれば、本件賃下げ合意の錯誤無効の成立は認められない。
(1) 将来の事象に関するものであること
原告らは、賃下げに応じればリストラが行われることはないと考え、本件賃下げに同意したというが、そうした動機は、将来の事象に関する期待・予測にすぎず、意思表示時に存在した事実の認識を誤ったものではないから、基本的には錯誤の対象にはなり得ないというべきである。
(2) 合意時に既に本件リストラが決定していたとも認められないこと
もっとも、仮に、被告が、本件賃下げ合意時に既に本件リストラを決定していたのに、原告らに対して、これを秘して、リストラを回避するためと称して賃下げに応ずるよう求めたとすれば、原告らにおいて、本件賃下げ合意時にそのような決定がないものと信じたということで、意思表示時に存在した事実の認識の問題と捉えることも可能かもしれない。
この点、被告は、本件賃下げ合意時には、アルトレック事業を立ち上げるべく準備を進めている状態であり、人員削減する予定はなく、その後、自らも自動車解体業を営む顧客から、秋田県でアルトレック事業を始めるのであれば今後取引をしないと通告されたため、断念せざるを得なくなり、退職勧奨に方針転換したものであって、その時期は平成21年3月10日ころのことであったと主張し、A社長もこれに沿う供述をしている。
これについては、前記認定事実(4)のとおり、原告X8が、同年2月末日まで、関連会社におけるアルトレック事業の研修に出ていたり、同月25日及び同年3月6日にアルトレック事業の部門に異動させる候補の従業員との面談が行われる(書証省略)など符合する事実も認められる。
これらによれば、本件賃下げ合意後わずか10日余りで方針転換することになったことについては被告の経営陣の見通しの甘さを指摘せざるを得ないところではあるが、被告の経営陣は、本件賃下げ合意後に本件リストラの必要性を具体的に認識したものであることがうかがわれる。
他に、被告において、本件賃下げ合意時に既に本件リストラを決定していたと認めるに足りる的確な証拠も見当たらない。
(3) 要素性にも疑問があること
また、仮に、被告が、本件賃下げ合意時に既に本件リストラを決定していたとしても、原告らが本件リストラの対象になっていないことによれば、通常人でもその点について錯誤がなければ本件賃下げに同意しなかったであろうといえるか疑義がある。
3 以上の次第であるから、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 佐藤久貴)
別紙1
当事者目録
原告 X1
原告 X2
原告 X3
原告 X4
原告 X5
原告 X6
原告 X7
原告 X8
原告 X9
原告ら訴訟代理人弁護士 小林昶
同 寺沢修平
被告 株式会社Y
同代表者代表取締役 A
同訴訟代理人弁護士 小根山祐二
別紙2
請求目録
1 被告は、原告X1に対し、金46万円及び内金32万円に対する平成22年6月6日から、内金14万円に対する平成23年1月6日から、各支払済みまで年6分の割合による金員を支払え
2 被告は、原告X2に対し、金36万8000円及び内金25万6000円に対する平成22年6月6日から、内金11万2000円に対する平成23年1月6日から、各支払済みまで年6分の割合による金員を支払え
3 被告は、原告X3に対し、29万9000円及び内金20万8000円に対する平成22年6月6日から、内金9万1000円に対する平成23年1月6日から、各支払済みまで年6分の割合による金員を支払え
4 被告は、原告X4に対し、29万9000円及び内金20万8000円に対する平成22年6月6日から、内金9万1000円に対する平成23年1月6日から、各支払済みまで年6分の割合による金員を支払え
5 被告は、原告X5に対し、18万4000円及び内金12万8000円に対する平成22年6月6日から、内金5万6000円に対する平成23年1月6日から、各支払済みまで年6分の割合による金員を支払え
6 被告は、原告X6に対し、31万0500円及び内金21万6000円に対する平成22年6月6日から、内金9万4500円に対する平成23年1月6日から、支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
7 被告は、原告X7に対し、金41万4000円及び内金28万8000円に対する平成22年6月6日から、内金12万6000円に対する平成23年1月6日から、各支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
8 被告は、原告X8に対し、金18万4000円及び内金12万8000円に対する平成22年6月6日から、内金5万6000円に対する平成23年1月6日から、支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
9 被告は、原告X9に対し、金71万3000円及び内金49万6000円に対する平成22年6月6日から、内金21万7000円に対する平成23年1月6日から、各支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
別紙3
賃金一覧表(1か月当たり)
氏名
基本給(円)
職位手当(円)
無事故手当(円)
特別調整手当(円)
総支給額(円)
X1
150,000
10,000
10,000
0
170,000
X2
141,000
20,000
10,000
0
171,000
X3
160,000
10,000
0
0
170,000
X4
160,000
10,000
0
0
170,000
X5
160,000
0
0
0
160,000
X6
170,500
10,000
0
0
180,500
X7
160,000
20,000
0
0
180,000
X8
160,000
0
0
0
160,000
X9
172,000
45,000
0
55,000
272,000
別紙4
賃金引き下げ額一覧表(1か月あたり)
氏名
基本給(円)
職位手当(円)
無事故手当(円)
特別調整手当(円)
総支給額(円)
引下額(円)
X1
145,000
5,000
0
0
150,000
20,000
X2
145,000
10,000
0
0
155,000
16,000
X3
152,000
5,000
0
0
157,000
13,000
X4
152,000
5,000
0
0
157,000
13,000
X5
152,000
0
0
0
152,000
8,000
X6
162,000
5,000
0
0
167,000
13,500
X7
152,000
10,000
0
0
162,000
18,000
X8
152,000
0
0
0
152,000
8,000
X9
163,000
23,000
0
55,000
241,000
31,000