那覇地方裁判所 平成15年(行ウ)8号 判決 2003年12月25日
原告
甲
同訴訟代理人弁護士
上間敏男
被告
国
同代表者法務大臣
野沢太三
同指定代理人
西郷雅彦
同
上野英二
同
福山命
同
安里康市
同
仲村朝安
同
具志堅光男
同
藤井典明
同
我那覇隆
同
髙嶺淳
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1原告の請求
原告の平成3年2月8日にした昭和62年分の所得税の修正申告書記載の4898万4000円の租税債務が存在しないことを確認する。
第2事案の概要
本件は、原告が、同人の提出した平成3年2月8日受付の修正申告書に基づく昭和62年分の所得税の租税債務が存在しないとして、国に対しその不存在確認を求めた事案である。
1 争いのない事実
(1) 原告は、A病院を経営していた。
(2) 昭和62年1月24日、原告は、有限会社B(以下「B」という。)に対して、同病院の土地・建物(以下「本件物件」という。)を売却した。
(3) 原告が平成3年2月8日受付で提出した修正申告書(乙1―以下「本件修正申告書」という。)には原告の署名押印が存する。
(4) 被告は、原告に対する前記修正申告に係る租税債権に基づき、原告の勤務する医療法人C外1名を第三債務者として、原告の給与債権を差し押さえ、さらに、名護簡易裁判所に支払督促の申立てを行った。
2 争点
(原告の主張)
原告は、昭和57年7月から昭和61年末までA病院を経営していたところ、昭和62年1月24日Bに対して本件物件を売却した。このとき、原告は、同売買に係る手続の一切を元税務署員であった乙(以下「乙」という。)に委任し、買受人も乙自身であると認識していたところである。
そして、原告は、乙から内金1億7000万円を受領し、残額については、原告の納付すべき不動産譲渡税の支払に充てることとし、乙においてこれを支払うことになった。このことについては、名護税務署職員においても、乙を納税義務者と認め、原告からは徴税しないと明言していた。
また、原告は、乙から、上記売却後も病院と病院長の名義を従前のままとし、患者の診療に当たって欲しいと要望されたため、同年10月ころまでの間、名目上の病院長として週1回の割合で同病院において診療を行い、乙から給与を支給されていた。この間、原告は、同病院の実質的な経営者が誰であるかも知らず、病院運営や経理上の相談も受けたことはなかった。
しかるに、本件修正申告書には原告の署名押印が存するところ、これは、税務署の職員から、当時の同病院の名義が原告に存するから、原告が税務申告の名義人になると言われて署名押印を迫られ、内容も分からないままやむなくこれに応じたにすぎないのである。
このように、原告には給与以外の所得がないにもかかわらず、形式的な名義上の責任があるとして、譲渡所得に係る租税まで徴税されることは不当である。
(被告の主張)
(1) 申告等に係る税額が過大である場合には、原則として、更正の請求(国税通則法23条)によるべきであり、納税者が、錯誤を根拠にして納税申告書の無効を主張することはできないが、その錯誤が客観的に明白かつ重大であって、法の定めた方法以外にその是正を許さなければ、納税者の利益を著しく侵害すると認められる特段の事情が存する場合には、例外的に、錯誤による無効を主張することができるというべきである。
しかるに、本件修正申告書には、国税通則法19条4項所定の事項が漏れなく記載されて適正な修正申告書の体裁を備えており、同申告書の記載からは明らかな誤記・計算違い等の一見して看取できるような錯誤の存在は全く窺えず、客観的に明白かつ重大な錯誤はない。
(2) なお、原告の主張については、次のような反論が可能である。
ア 原告は、本件修正申告書について、税務署の職員から、当時の病院の名義が原告に存するから、原告が税務申告の名義人となると言われて署名押印を迫られ、内容も分からないままやむなくこれに応じたにすぎないなどと主張するが、税務署職員がそのような言動をした事実はないし、一般に、納税者が申告書の内容を理解しないまま署名押印のうえ修正申告書を提出することは考え難く、本件のように多額の租税債務を負担する場合はなおさらのことである。本件修正申告書の提出から12年を経過し、この間、原告は、不服申立等も行わないまま155万円もの納税を行っているにもかかわらず、本件修正申告書の無効を主張することは不可解である。
イ また、本件修正申告書の記載内容を検討すれば、次のような点を指摘することができる。すなわち、
(ア) 当初提出された昭和62年分の確定申告書(以下「当初申告書」という。)に記載されたその他の事業所得及び医療報酬に係る源泉所得税を本件修正申告書において零円に修正しているところ、このことは、原告が、昭和62年1月24日に本件物件をBに譲渡し、以後、A病院の名目上の病院長として週1回の割合で診療を行い、その対価として給与を受け取っていたという主張に符合するものである。
(イ) 本件修正申告書において、新たに給与所得700万5000円が生ずることとされているところ、このことは、本件物件の譲渡後、原告がA病院における診療の対価として給与を受けていたという主張に符合するものである。
(ウ) 本件修正申告書において、分離長期譲渡所得金額が2億3516万8000円から1億7856万9578円に減額修正されているが、いずれにしても原告に譲渡所得の金額が生じていることは明らかであるから、給与以外の所得がないとする原告の主張は誤りである。
敷衍すれば、本件物件の売却に際して作成された覚書(乙6)により、売買代金の支払方法として、原告が金融機関等に有する債務を乙において支払うこととされており、さらに原告には債務引受履行保証金名目で1億7000万円の小切手が交付され、売却時において本件物件の引渡しも済んでいることなどからすると、原告の昭和62年分の所得税の確定申告に際し、譲渡所得の金額の計算を行う必要があることは明らかであると解されるところ、本件修正申告書においては、当初申告書に記載された譲渡所得金額の計算に誤りがあったことからその金額が減額修正されているものの、いずれにしても、原告に譲渡所得の金額が生じていることは明らかというべきであるから、給与以外の所得がないとする原告の主張は誤りである。
なお、上記覚書には、譲渡税は乙の負担とする旨の記載が存するが、租税行政庁は、課税要件が充足される限り、法律で定められたとおりの税額を徴収しなければならず、原告についても、譲渡所得の課税要件を充足している以上、原告と乙との私法上の法律関係にかかわらず、被告が原告に租税債務の履行を求めることは当然である。
第3争点に対する判断
1 争いのない事実、証拠(甲4の1及び2、乙1、2、4ないし6)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 原告は、かつてA病院を経営していたところ、Bの代表取締役であった乙との間で本件物件や同病院の営業の譲渡について交渉を進めていた。
(2) 昭和61年12月31日付けの、原告と乙との間で取り交わされた2通の覚書(以下「本件各覚書」という。)が存在する。
同各覚書には、次のような記載がされている。
ア 乙6号証
「譲渡人・甲を甲とし、譲受人・乙を乙として、別紙不動産の譲渡に関し、甲、乙間に次の通り、協議が整い、この覚書を作成し、調印した。
一、(売買代金)は、八億七千万円であることを確認する。
但し、継続医療費等については、別に協議する。
譲渡税及び諸費用等(退職手当、退職金を含む)乙の負担とする。
二、(代金支払方法及び時期)
甲の金融機関等に対する債務金は、乙が債務引受けする。
― 以下省略 ―」
イ 乙4号証
「譲渡人・甲を甲とし、譲受人・乙を乙として、別紙不動産及び営業の譲渡に関し、甲、乙間に次の通り、協議が整い、この覚書を作成し、調印した。
一、(引受債務)
引受債務は、次の通りであることを確認する。
1、甲の金融機関等に対する債務金全額
2、甲の薬品会社等に対する未払薬品代金
但し、継続医療費等については、別に協議する。
譲渡税及び諸費用等(退職手当、退職金を含む)乙の負担とする。
二、(債務引受の方法及び時期)
甲は、債務引受証と引換え、乙に対し本件土地建物の権利証等の関係書類を交付する。
― 以下省略 ―」
(3) 昭和62年1月23日、原告は、乙から債務引受履行保証金名目で1億7000万円の小切手を受領した。
(4) 翌24日、原告は、Bに対し、8億7000万円で本件物件や同病院の営業を含めて売却し、これを引き渡し、本件物件は同月28日に所有権移転登記がなされた。
(5) 昭和63年3月15日、原告は、名護税務署に対し、昭和62年分の所得税について、当初申告書を提出した(その内容については、別表1記載のとおりである。)。
(6) 平成3年2月8日、原告は、名護税務署に対し、昭和62年分の所得税について、本件修正申告書に署名押印のうえ、これを提出した(その内容については、別表1記載のとおりである。)。
(7) なお、原告の本件修正申告書に係る滞納税額の推移は別表2記載のとおりであり、原告は、平成5年8月12日から平成9年8月29日まで計5回にわたり155万円を納税した。
2 以上の認定事実を前提に原告の主張について検討する。
(1) わが国の申告納税制度の下において、申告等に係る税額が過大である場合には、更正の請求(国税通則法23条)によってこれを是正すべきであり、納税者が、錯誤を理由として申告書の無効を主張することは、原則として、認められないと解されるところ、例外的に、その錯誤が客観的に明白かつ重大であつて、法の定めた方法以外にその是正を許さないならば、納税義務者の利益を著しく害すると認められる特段の事情がある場合に限り、法定の方法によらないで記載内容の錯誤を主張することができるものと解するのが相当である(最高裁判所昭和39年10月22日第一小法廷判決・民集18巻8号1762頁参照)。
(2) しかるに、原告は、税務署の職員から原告が税務申告の名義人となる旨言われて署名押印を迫られ、内容も分からないまま本件修正申告書に署名押印をした旨主張するが、税務署職員が原告の主張するような言動をしたとする客観的な裏付けは見出せず、5000万円に近い多額の税負担をしなけれならなくなるような本件修正申告書の内容を分からないままこれに署名押印したとも考え難いところであって、本件修正申告書を無効であると認めることはできない。
(3) また、原告は、乙との間で、原告の不動産譲渡税を乙において支払う旨の合意があり、このことを税務署職員も認めていたなどと主張する。
確かに、前記認定のとおり、原告は乙との間で、本件各覚書を交わし、その中で、譲渡税については乙において負担する旨が約されている。
しかしながら、原告と乙との間の私法上の合意の存在は、およそ原告の納税義務に消長を来す筋合いのものということはできないのであり、そのような合意をもって原告の租税債務の存在を否定することができないことは明らかである。なお、原告は、名護税務署職員においても、乙を納税義務者と認め、原告からは徴税しないと明言したと主張するが、同事実を認めるに足りる証拠はない。
(4) さらに付言すれば、前記認定のとおり、原告は、本件物件の売買に伴い、乙から債務引受履行保証金名目で1億7000万円の小切手を受領しており、さらに、乙から依頼を受けて、A病院で診療を行い給与を取得しているのであるから、実質的にみても、本件修正申告書に見合う租税を負担すべき根拠は充分に存するということができる。
(5) そして、本件修正申告書において、明らかな記載漏れや誤記、計算違いなどは見当たらず、他に客観的に明白かつ重大な錯誤を裏付けるような事情や本件修正申告書を無効とすべき事情は何ら窺われない。
3 以上によれば、本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 窪木稔 裁判官 鈴木博 裁判官 升川智道)
別表1
昭和62年分の所得税の申告の経緯及び修正金額
<省略>
別表2
原告の昭和62年分の所得税の修正申告に係る滞納税額の推移
<省略>