那覇地方裁判所 平成17年(ワ)101号 判決 2007年11月28日
原告兼亡甲野花子訴訟承継人(以下「原告」という。)
甲野一郎
外3名
亡甲野花子訴訟承継人(以下「原告」という。)
甲野桜子
同
甲野桃子
甲野桜子,甲野桃子法定代理人親権者母
甲野菊子
原告ら訴訟代理人弁護士
芳澤弘明
被告
日本赤十字社
被告代表者社長
近衞忠煇
被告訴訟代理人弁護士
与世田兼稔
同
中西良一
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は,原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
被告は,原告甲野一郎,同丙山一美に対し,各807万円,同甲野次美,同甲野二郎に対し,各872万円,同甲野桜子,同甲野桃子に対し,各372万円及びこれらに対する平成17年3月11日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,被告が経営する沖縄赤十字病院(以下「被告病院」という。)に入院中であった甲野花子(以下「花子」という。)が,脳梗塞を発症して重篤な後遺障害を受けたことについて,被告病院で花子を担当した医師に,① 抗凝血剤(ワーファリン又はヘパリン)の投与時期が遅かった,また,② 実際の投与に当たり,適量を定めるための検査(PT−INR(以下「INR」という。)検査)を行わなかったという過失があり,さらに,被告病院の看護師らに,③ 花子の異変を医師に報告すべき義務があるのにこれを怠ったという過失があり,これらの過失がなければ花子に脳梗塞が発症して重篤な後遺障害が残ることもなかったとして,被告に対して使用者責任(民法715条)に基づく損害賠償及び遅延損害金を求めた事案である。
なお,当初,原告甲野一郎,同丙山一美,同甲野次美及び同甲野二郎とともに花子が原告となっていたが,花子は,訴訟係属中の平成17年12月11日に死亡し,原告らが花子の地位を受継した。
1 前提事実(当事者間に争いがないか,各掲記の証拠又は弁論の全趣旨により認定できる。)
(1) 当事者
花子(昭和7年7月*日生まれ)は,平成15年12月27日,被告病院に入院したが(以下,花子の同日の入院を「本件入院」という。),平成17年12月11日に死亡した。
原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)は花子の長男,原告丙山一美(以下「原告一美」という。)は花子の長女,原告甲野次美(以下「原告次美」という。)は花子の二女,原告甲野二郎(以下「原告二郎」という。)は花子の二男であり,原告甲野桜子(以下「原告桜子」という。)及び甲野桃子(以下「原告桃子」という。)は,いずれも花子の三男亡甲野三郎の子であり,花子の代襲相続人である。
(2) 花子の既往歴(甲A1ないし3,12,13,15,19,20,乙A1,弁論の全趣旨)
ア 花子は,昭和59年より糖尿病を患い,泉崎病院,中頭病院及び屋宜内科医院で糖尿病の治療を受けてきており,高血圧症,高脂血症及び心房細動(非弁膜症性)の既往も併せ有し,これらの治療のため,インスリン,降圧剤及びワーファリン等を処方されていた。
イ 被告病院における花子の受診歴及び入院歴
(ア) 眼科
昭和60年11月8日初診。網膜症ありと診断される。その後,被告病院に入院するたびに同科を受診。
(イ) 整形外科
平成8年8月5日から同月14日まで,交通事故により入院。右頸骨高原骨折,頭部打撲及び腰部打撲と診断される。
(ウ) 泌尿器科
平成14年5月18日受診。神経因性膀胱及び膀胱炎と診断される。
(エ) 内科
平成14年5月31日受診。食道異物(メバロチン錠を包装ごと服用)のため緊急内視鏡を施行し除去した。入院はしていない。
(オ) 脳神経外科及び内科
平成15年4月16日,脳塞栓症の診断で脳神経外科に緊急入院。主病名は,脳梗塞(心原性脳塞栓症),糖尿病,高血圧症,心房細動及び脳血管性痴呆であり,副病名は視機能障害,不眠症及び神経因性膀胱であった。
前医(屋宜内科医院屋宜宣治医師(以下「屋宜医師」という。))の下では,ワーファリンを1日当たり4.75mg服用していた。このときは既に3回目の脳梗塞であり,発作のたびに認知症の症状が進行していたと推測される。
ラジカットを含む急性期の治療を行った後,同年5月1日には内科へ転科し,同月23日には回復期リハビリテーション病棟へ転棟した。被告病院においてワーファリン量の調節を行い,1日当たり4.5mg服用で,INR値は1.69から2.19に落ち着いた。
リハビリテーションにより車いす移動や自力歩行(伝い歩き)ができるまでとなり,同年7月10日に退院した。
退院後は,再び屋宜医師の下で通院治療を開始した。
(カ) 整形外科
平成15年7月17日から同月26日まで,右膝痛(被保険者診療録(甲A19)の記載は右膝関節打撲(関節内血腫),整形外科外来診療録(甲A20)の記載は右膝関節内血腫)で入院した。
退院後は,再び屋宜医師の下で通院治療を開始した。
(キ) 脳神経外科
屋宜医師の下で通院治療中であった平成15年8月2日,膝の内出血があり(INR値は5.01であり,血液の凝固能が著しく低下している状態),脳出血の可能性を疑われ,屋宜医師より被告病院脳神経外科を紹介された。
CT検査の結果によれば出血はなかったが,ワーファリンの一時中止が指示された。入院はしなかった。
その後は,再び屋宜医師の下での通院治療を継続した。
(3) 花子の入院,診療の経過(甲A9(枝番含む。以下同じ。),乙A1,10)
花子は,平成15年12月27日午前5時ころ,自宅で意識を失ったため,救急車で同日午前5時30分,被告病院へ搬送されたところ,脳神経外科の当直医であった一色医師が応対した。
搬送時の花子の状態は,意識レベルⅢ−200(刺激で覚せいせず,少し手足を動かしたり顔をしかめる状態),血圧は最大210mmHg/最小100mmHgであり,気道確保のために気管内挿管が行われた。花子は,脳幹部梗塞(疑),けいれん,意識障害等と診断され,抗けいれん剤(フェノバール,セルシン,アレビアチン,10%キシロカイン)及びラジカットを投与された。花子は,被告病院へ入院となり(本件入院),病室に収容後は,人工呼吸器を装着され,内科に転科し,二宮昭雄医師(以下「二宮医師」という。)が担当することとなった。
花子は,徐々に意識レベルが回復し,同月28日午後1時30分には人工呼吸器を外されて酸素続行とされ,徐々に酸素量は減量可能とされた。同日午後8時45分には気管内チューブも抜管された。同月31日には食事をとることができるようになり,ワーファリン2mg,デパケンシロップ等の内服を再開した。血糖はスライディングスケールを用い,レギュラーインスリンでコントロールした。
平成16年1月5日に点滴はすべて終了し,同月9日に花子は退院予定であった。
しかし,花子は,その後,同月9日に右中大脳動脈に脳梗塞を再発し,以後,意識混濁,左半身麻痺,嚥下障害におちいり重篤な状態が続いていたが,平成17年12月11日,被告病院において死亡した。
なお,花子が入院した平成15年12月27日から平成16年12月10日までの花子の診療経過等については,別紙診断経過一覧表のとおりである(なお,当事者間に争いのある部分については,診断経過一覧表の原告らの主張欄に原告らの主張を記入している。)。
2 争点及び争点に対する当事者の主張
(1) 二宮医師の注意義務違反の有無
ア 二宮医師は,平成15年12月28日又は遅くとも同月29日までには,ワーファリンを投与すべきであったか。
(原告らの主張)
(ア) ワーファリン投与が必要不可欠であったこと
花子が平成15年12月27日早朝,自宅で意識を失ったのは,花子が同月28日には抜管もされ,意識混濁の状況からも脱して意識は十分に回復するなど,比較的短時間で改善傾向を示したことからすると,一過性脳虚血発作(TIA)であったといえる。一過性脳虚血発作は,脳梗塞の前駆症状と考えられ,その完成型脳梗塞に移行することを予防するためにはワーファリンの投与が不可欠であった。
(イ) ワーファリン投与が可能であったこと
花子は,本件入院時,気管内挿管と人工呼吸器装着をされていたが,同月28日には意識が十分に回復し,抜管もされている。抜管後は,流動食もとれるのであり,ワーファリンの投与は十分に可能であった。
これに対し,被告は,たとい意識が回復し,気管内チューブを抜管しても,直ちに食事や内服が開始されるものではない旨主張する。しかし,花子の場合,ワーファリンの投与は欠かせないものである以上,例えば液状にしたワーファリンを鼻腔に通した管から胃に導入するなどの方法を講じてでも,ワーファリンを投与するべきであった。実際,二宮医師も,花子が脳梗塞を発症した平成16年1月9日以降は,この方法で栄養剤とともにワーファリンを投与していた。
仮に,ワーファリンの投与は意識レベルの完全な回復を待って行うべきであったとしても,花子は平成15年12月29日には意識を回復していたのであるから,遅くとも同月29日には何の問題もなくワーファリンを投与することが可能であった。
(ウ) 二宮医師の義務違反
以上からすれば,二宮医師には,同月28日か,遅くとも同月29日までには,花子に対し,適量のワーファリンを投与すべき義務があったが,同人はこれを怠ったものである。
(エ) なお,被告は,心原性脳塞栓症に多い出血性梗塞も危惧されたため,早期の抗凝固療法は避けるべきである旨主張する。しかしながら,花子の本件入院時の梗塞は一過性脳虚血発作(TIA)であり,一色医師らも,当時の花子の症状について,心原性脳塞栓症だとはみていなかった。すなわち,心原性脳塞栓症や脳梗塞を疑っていたのであれば,引き続きCT検査をなすべきであったところ,一色医師らは,それをしていないのであるから,出血性梗塞を危惧したものといえないことは明らかである。
(被告の主張)
(ア) 花子の意識レベルは,平成15年12月27日及び28日の時点ではいまだ低く,生命自体が極めて危険な状態にあり,花子は,ワーファリンの投与よりも救命措置が優先されなければならない状態であった。同月30日ころから花子の意識レベルは徐々に改善し,同月31日になって花子の健康状態が安定してきたことから,同日の夕食から経口摂取を開始し,これに伴い,錠剤であるワーファリンの投与が開始されたものである。
なお,原告らは,同月28日にはワーファリンを投与することが可能であった旨主張するが,花子は緊急入院患者で,かつ,気管内挿管され,人工呼吸器も使用中であり,内服薬の投与は困難であった。そして,花子の意識が回復し,気管内チューブを抜管しても直ちに食事や内服が開始されるわけではなく,しばらく輸液のみで経過観察することが重要である。そのため,同月31日まで安全を確認した後,食事及び内服を開始したのである。
(イ) 仮に,同日までに内服が十分に可能な状態にあったとしても,花子は本件入院時脳幹部梗塞と診断されているところ,心原性脳塞栓症に多い出血性梗塞も危惧されたためにワーファリンを投与しなかったものである。
イ 平成15年12月28日までに花子に対してワーファリンを投与すべきであったとはいえないとしても,二宮医師は,花子に対してヘパリンを投与すべきであったか。
(原告らの主張)
ヘパリン注射は,抗凝固療法の一つであり,ワーファリンの効果が実現するまでの補完的薬剤として広く用いられている。ヘパリンは注射薬であるため,被告の主張するように花子に対してワーファリンを投与することがためらわれたとしても,ヘパリンを投与することは可能であり,二宮医師には,花子に対して,遅くとも平成15年12月28日には,ヘパリンを投与すべき義務があったというべきである。
(被告の主張)
前記ア(被告の主張)(イ)のとおり,二宮医師は,花子に出血性梗塞の危険性があると判断していたのであるから,ワーファリンの投与をしなかったのと同様の理由で,ヘパリン注射の必要性もないと判断したものである。
ウ 二宮医師が,平成15年12月31日から花子にワーファリンを投与するに際して,INR検査をすることなく投与量を1日2mgと定め,その後も平成16年1月9日まで同検査をすることなく,上記投与量を維持したことは不適切であったか。
(原告らの主張)
(ア) 二宮医師は,平成15年12月31日から,花子に対して,ワーファリンを2mg投与した。二宮医師が投与量を決定したのは,同年12月30日に,花子の前医である屋宜医師から,同年11月20日よりワーファリン量は2mgと2.5mgを交互服用の指示であったと聞いたためであろう。
しかし,そもそも,ワーファリンの適切な投与量は,併用薬剤や食事によって同一個体でも変化するので,2mgが適切であったかどうかは,あくまでも入院時の検査結果によって定めなければならない。
二宮医師は,上記のとおり,花子が屋宜医師から再発防止のためのワーファリン投与を受けていたことを知っていただけでなく,花子が同年4月16日に脳梗塞で被告病院に入院した際,二宮医師自らワーファリンを投与している。
そうであるなら,花子が再度入院した本件入院直後にINR値の検査をし,速やかにワーファリンを投与すべきであった。
(イ) 本件入院前の平成15年12月26日を最後に,花子にはワーファリンが投与されておらず,同月31日の時点において中4日間の空白期間があり,前医である屋宜医師によって投与されていたワーファリンの効果は限りなくゼロに近くなっていたと考えられることからすれば,二宮医師が同日に花子に投与すべきであったワーファリンの量は4mgないし5mgが相当であった。中断後の投与量は,従前より多めに行うというのが臨床医の常識である。そして,投与後は,2,3日中にワーファリン強度が治療域に達しているかどうかを確認するためにINR検査をし,その値を基にワーファリンの投与量を調整すべきであった。
(ウ) 二宮医師は,平成16年1月9日にINR検査を実施したが,そのときのINR値は1.12と低く,極めて危険なものであった。仮に,二宮医師が平成15年12月31日から平成16年1月9日までの間にINR検査をし,その値が治療域にあるように適量のワーファリンを投与していれば,花子が同日の重篤な脳梗塞を発症しなかった可能性は高い。事実,花子がそれより前に発症した脳梗塞はいずれも軽度のものにとどまっていたが,それは適切なワーファリン投与による抗凝固療法の賜物であった。しかし,二宮医師は,周到に実施すべきINR検査を実施せず,その結果,適量のワーファリンを投与しなかった。
(エ) 被告は,INR検査はワーファリンの投与効果をモニタリングするためになされるものである旨主張するが,そうであれば,本件入院時において脳梗塞が疑われた花子に対しては,なおさら前医のなした投与量の効果を知るために,投与再開に先立ってINR検査をなすべきであった。
また,被告は,二宮医師がワーファリンの投与量を1日当たり2mgとした根拠の一つとして,過去に花子がワーファリンを1日当たり4.5mg内服中に下肢に内出血が起きたことをふまえ,花子の出血の危険を考慮したということを挙げているが,以下のような経緯からすれば,二宮医師がそのような考慮をした事実は認められない。
すなわち,花子は,本件入院前に脳梗塞症で被告病院に入院していた際,平成15年6月6日にINR検査がされ,1日当たり4.5mgのワーファリンを服用していたが,二宮医師は,それ以降,花子が同年7月10日に退院するまでINR検査をしていないし,同退院に当たってもINR検査をしなかった。また,花子は,同月17日に膝出血で被告病院に再入院したが,二宮医師は,同再入院後同月26日の退院に至るまで,一度もINR検査をしないまま,1日当たり4.5mgのワーファリンを投与していた。さらに,本件入院に関しても,二宮医師は,同年12月27日から平成16年1月9日までの間,一度もINR検査をしていない。このような二宮医師の行為からすると,同医師が,本件において,花子の過去の出血を危惧したために,ワーファリンの投与を控えたり,投与を開始するに当たってもその量を1日2mgにとどめたものとは到底認められない。
(オ) また,二宮医師は,花子の既往症,とりわけ心房細動についても知っていたのであるから,当然に心エコー検査(心房内血栓形成の有無確認のための検査)もしてしかるべきである。
花子が過去において脳梗塞を発症し,被告病院に入院した際には,二宮医師は脳梗塞と診断し,循環器系が専門の三井医師の意見も求めて心エコー検査を実施した。花子のその時の脳梗塞が心臓内の血栓の飛散に原因があるかもしれないということでこの心エコーの検査は不可欠のものであったからである。
花子の前回入院時(平成15年4月16日から同年7月10日)には心房内血栓がなかったとしても,その後本件入院まで8か月が経過しており,この間に何らかの変化が起こったのではないかということを疑い,本件入院時にも心エコー検査をすべきであった。
前回の検査の結果,もやもやエコーが認められ,ワーファリンの投与量を増やし,血栓が消滅したという経緯がある以上,今回も心エコー検査をすべき義務があるというべきである。
(被告の主張)
(ア) ワーファリンは,低用量でも脳梗塞再発予防に有効であるとの報告がある。二宮医師が,平成15年12月31日から花子にワーファリンを投与するに際して,投与量を1日当たり2mgとした根拠は,① 同月30日に,花子の前医である屋宜医師から,花子に対するワーファリン投与量は同年11月20日から2mgと2.5mgの交互服用の指示であったと聞いたこと,また,② 前医の下でのINR検査の結果が,同年11月20日にはINR値2.08,同年12月9日にはINR値1.73であったことによる。一般に,再投与の場合,新規投与の場合と異なって,維持量に近い量で始めることは問題ないとされている。また,前医の検査結果を自己の診療の診断根拠となすことも許されるというべきである。
そして,平成16年1月9日時点のINR値は1.12であり,目標治療域の1.6ないし2.6に比べると低いが,その後のINR値は治療域にあることからしても,投与量2mgは有効な量であったことが確認できる。
むしろ,二宮医師は過去に花子がワーファリン4mgの投与で下肢の内出血を起こしたことを経験しており,原告らの主張するようなワーファリン4mgないし5mgの投与は,花子の出血の危険を増大させるものであった。
以上の点もふまえると,平成16年1月9日におけるINR検査の結果(INR値1.12)から,直ちにワーファリン投与量を増量すべきとの診断につながるとも限らず,むしろ,同結果から,従前の投与量を維持しつつ,引き続き投与の効果を見守るという診断もあり得る。
(イ) 花子は昭和59年ころより糖尿病を患い,泉崎病院,中頭病院及び屋宜内科医院で糖尿病の治療を受けてきており,高血圧症,心房細動も併せ有し,これらの治療のため,インスリン,降圧剤及びワーファリン等を処方されていた。そして,花子は,本件入院前は,屋宜医師からワーファリン2mgと2.5mgの交互服用の指示を受けて,継続的に服用していた。
二宮医師は,上記のような医療情報に基づいて,花子の症状が安定してきた平成15年12月31日からワーファリンの再投与を開始したものであり,これは花子の心房細動等の上記病態に対する当然の治療であったので,投与開始時に改めてINR検査をしなければ投与の可否及び投与量が決定できなかったということにはならない。むしろ,INR検査はワーファリンの投与効果をモニタリングする検査というべきものであり,投与後における検査こそが必要かつ重要である。そして,その検査頻度については,既にINR値が安定している場合には1か月に1回が相当であるところ,本件においても,屋宜医師からの診療情報によれば花子のINR値は比較的安定していたものであり,屋宜医師により同年11月20日と同年12月9日にINR検査が実施され,その後,被告病院において平成16年1月9日にINR検査が実施されているのであるから,本件におけるINR検査の検査頻度も相当なものであった。
(ウ) 二宮医師は,花子の前回入院時に心房内血栓がないことを確認しているため,本件入院時には心エコー検査の必要性はないと診断した。
(2) 看護師らの義務違反の有無
(原告らの主張)
ア 花子は,本件入院後,尿意や便意を訴えることが可能で,補助によりポータブルトイレを使用できるまで回復していた。また,平成16年1月8日までは昼夜を問わず,2,3時間おきに尿意や便意を大きな声で訴えていた。
しかし,同月8日夜から9日朝の間は,前日までと明らかに違う状態であった。花子は,失禁し,ガウンまで濡らしていたので,五木春子看護師が花子の着替えをし,シーツの交換をしている。
このように,前日までと明らかに異なる状態であったのであるから,五木看護師は異変を疑うべきであったのにもかかわらず,これを見落とし,医師に報告しなかった。
イ また,朝の当番の六田看護師は,同月9日午前7時半ころに,花子から採血をしているが,この際,花子は,顔をゆがめ(顔面神経麻痺),返事もしなかった。そして,採血をする際には血管を浮かせるため手を握らせるが,その誘導にも反応しなかった。さらに,血糖値を測るため耳たぶを針で刺されても花子は眠ったままであった。
このように,異変を疑うのに十分な状況があったにもかかわらず,六田看護師はこれを見落とし,医師に報告しなかった。
(被告の主張)
被告病院の花子を担当していた看護師らによる看護状況は,別紙「看護記録」のとおりである。
看護師らは,定期的に巡回しており,平成16年1月9日午前7時30分から8時までの間は,花子は入眠している状態であった。
これらの経過に照らせば,原告ら主張の義務違反は認められない。
(3) 二宮医師の注意義務違反と結果との因果関係の有無
(原告らの主張)
ア 花子は,本件入院当時,脳梗塞を発症していたのではなく,一過性脳虚血発作(TIA)を発症していたところ,それが完成型脳梗塞に移行することを予防するためにワーファリンの投与が不可欠であり,二宮医師が,平成15年12月28日からワーファリンを投与していれば,完成型脳梗塞に移行することはなかった。
イ 二宮医師は,花子が脳梗塞を再発した平成16年1月9日にINR検査を行っているが,その結果は1.12であり,ワーファリン投与の効果がほとんどなかったことが示されている。二宮医師が平成15年12月31日から平成16年1月8日までの間にINR検査をしていれば,ワーファリン投与の効果を確かめて,必要に応じて投与量を増やすことができたのであり,そうすれば花子の脳梗塞は再発しなかった。
また,花子の前回の入院時に,心エコー検査の結果,もやもやエコーが認められ,ワーファリンの投与量を増やし,その結果血栓が消滅したという経過に照らせば,今回も二宮医師が心エコー検査を行っていればワーファリンの投与量を増やすことができたのであり,その結果花子の脳梗塞は再発しなかった。
ウ なお,花子に複数の脳梗塞の危険因子があったとしても,脳梗塞再発の可能性を標準並みに下げることは不可能ではなかった。
(被告の主張)
ア ワーファリンの抗凝固効果は,投与後12時間から24時間目に発現し,48時間から72時間目まで持続するとされている。
花子にワーファリン投与が再開された平成15年12月31日の夕食後から花子の脳梗塞再発時である平成16年1月9日までは,1週間以上の隔たりがある上,ワーファリン投与は継続され,遅くとも同月2日には薬効が発現し,それ以降存続していたと解されるから,本件入院時の平成15年12月27日から同月31日夕食後の投与再開までのワーファリン不投与と,花子の脳梗塞再発との因果関係は認められない。
イ そもそも,脳梗塞の危険因子としては,① 家族歴,② 加齢,③ 高血圧,④ 糖尿病,⑤ 高脂血症,⑥ 心房細動,⑦ 喫煙歴,⑧ 飲酒歴等が挙げられる。これらの危険因子を花子についてみると,②,③,④,⑥といった,8個中少なくとも4個もの危険因子を有しており,そもそも花子の脳梗塞再発の可能性は高かった。ワーファリンの服用によっても,脳梗塞の再発を完全に予防できるものではないし,いかなる治療によっても脳梗塞再発の可能性を標準並みに下げることは不可能な状態であった。すなわち,花子の脳梗塞再発は,同人の有している脳梗塞再発についての上記危険因子のためであって,仮に原告ら主張のとおりにワーファリンを継続投与していたとしても花子の脳梗塞の再発の可能性は否定できない。事実,花子は,継続的にワーファリンを服用していながら,脳幹部梗塞を再発し,実に4回もの脳梗塞再発での入退院を繰り返してきたのである。
ウ 原告らの主張の,二宮医師が心エコー検査を行っていれば花子の脳梗塞は再発しなかったとの主張は争う。
(4) 看護師らの義務違反と結果との因果関係の有無
(原告らの主張)
前記(2)(原告らの主張)ア,イのとおり,看護師らには異変に気付かなかったという義務違反があるが,看護師らは,異変にいち早く気付き,医師に連絡を取ることができておれば,花子に対する何らかの応急措置(処置)をとることができた。
(被告の主張)
争う。
(5) 損害
(原告らの主張)
ア 花子の損害 3300万円
(ア) 物的損害 500万円
a 治療費 778万3272円
花子の平成16年1月から4月までの治療費の合計は18万5316円であり,1か月の平均額は4万6329円となる。
平成12年の全国調査による沖縄県内の女性の平均寿命は86.1歳である。花子は平成16年1月には72歳であるからその余命年数は14年である。
そうすると,14年間入院が継続する場合の治療費は,
4万6329円×12か月×14年=778万3272円
となる。
b 入院雑費 1277万5000円
(a) 近親者付添交通費 511万円
1000円(1日分)×365日×14年=511万円
(b) 諸雑費 766万5000円
1500円(1日分)×365日×14年=766万5000円
c 上記a,bの合計額は2055万8272円となるところ,本件においては,その一部として500万円を請求する。
(イ) 慰謝料 2800万円
植物状態に近い状態に陥った花子本人の無念さ,その精神的苦痛は余人には計り知れないほど甚大である。
その慰謝料としては,2800万円が相当である。
イ 原告ら固有の損害
敬愛する母親である花子との会話も不可能となり,日々そのような植物状態となった母親に接する沖縄在住の近親者の苦痛,県外にあってもそのような母親に思いを寄せ,また,時折帰郷して母親に接する近親者の精神的苦痛もそれなりに甚大である。
その慰謝料は,以下のとおりが相当である。
(ア) 原告一郎 50万円
(イ) 原告一美 50万円
(ウ) 原告次美 100万円
(エ) 原告二郎 100万円
ウ 弁護士費用 500万円
弁護士費用としては500万円を下らない。
その内訳は,以下のとおりである。
(ア) 花子 410万円
(イ) 原告一郎,同一美 それぞれ15万円
(ウ) 原告次美 同二郎 それぞれ30万円
エ 花子の死亡による承継
花子は,平成17年12月11日,死亡し,花子の訴訟上の地位は,原告一郎,同一美,同次美,同二郎が相続人として,同桜子,同桃子が代襲相続人として,それぞれ承継した。
よって,原告らは,花子の損害額3710万円を法定相続分にしたがって以下のとおり承継した。
(ア) 原告一郎 742万円
(イ) 原告一美 742万円
(ウ) 原告次美 742万円
(エ) 原告二郎 742万円
(オ) 原告桜子 371万円
(カ) 原告桃子 371万円
(被告の主張)
争う。
第3 当裁判所の判断
1(1) 前提事実(3)に加え,証拠(甲A9,21,22,乙A1,10,乙B4ないし9)及び弁論の全趣旨によれば,本件入院及びその前後における診療看護経過等について,以下の各事実が認められる。
ア(ア) 花子は,本件入院前,屋宜内科医院に通院治療中であり,屋宜医師の指示に基づいてワーファリンを服用していた。
(イ) そのころの花子のINR値は,以下のとおりである。なお,後記(2)オ記載のとおり,INR値が高いほど凝固能は低下していることを示し,花子に対するINR値の至適治療域は,1.6ないし2.6とされている。
平成15年8月4日 INR値2.57
平成15年8月18日 INR値1.98
平成15年9月3日 INR値2.55
平成15年9月17日 INR値1.84
平成15年10月1日 INR値1.96
平成15年11月5日 INR値1.97
平成15年11月20日 INR値2.08
平成15年12月9日 INR値1.73
(ウ) 花子は,平成15年11月20日からは,屋宜医師の指示により,ワーファリン2mg及び2.5mgを1日ごとに交互に服用しており,本件入院の前日である同年12月26日にも,同指示に基づいてワーファリンを服用していた。
イ 花子は,平成15年12月27日午前5時ころ,自宅で意識を失い,同日午前5時30分,救急車で被告病院へ搬送された。被告病院では当直医の一色医師が対応した。
搬送時の花子の状態は,意識レベルⅢ−200(刺激で覚せいせず,少し手足を動かしたり顔をしかめる状態),血圧は最大210mmHg/最小100mmHgであり,気道確保のために気管内挿管が行われた。花子は,脳幹部梗塞(疑),けいれん,意識障害等と診断され,抗けいれん剤(フェノバール,セルシン,アレビアチン,10%キシロカイン)及びラジカットを投与された。
花子は,被告病院へ入院となり(本件入院),病室に収容後は人工呼吸器を装着され,内科に転科されて二宮医師が花子を担当することになった。
ウ その後,花子に対しては,輸液を実施しながら,意識レベル,呼吸及び循環動態の観察がなされた。
花子の意識レベルは,平成15年12月28日午前7時ころにⅡ−10(刺激で覚せいし,普通の呼びかけで容易に開眼する状態)となり,一時Ⅲ−100(刺激で覚せいせず,はらいのける動作をする状態)に後退したものの,同日午後1時ころにはⅠ−3(覚せいしており,自分の名前及び生年月日が言えない状態)に回復した。
花子は,同日午後1時30分には前記人工呼吸器を外されて酸素続行とされ,同日午後8時45分には気管内チューブも抜管された。
エ その後も,花子に対しては,輸液を続行し,意識レベル等の観察が続けられた。
平成15年12月31日までは,花子の意識レベルはⅠ−2(覚せいしており,見当識障害がある状態)からⅡ−20(刺激で覚せいし,大きな声,又は体を揺さぶることにより開眼する状態)までを行き来していたが,同日夕食から食事を経口摂取することができるようになり,それとともに,二宮医師の指示により,ワーファリン2mg,デパケンシロップ等の内服も再開した。血糖は,スライディングスケールを用い,レギュラーインスリンでコントロールした。
花子に対するワーファリンの投与は,同日以降,平成16年1月8日まで,1日当たり2mgずつ行われた。また,同月2日から,花子には就寝時に睡眠薬(マイスリー錠10mg)が投与されていた。
オ 花子に対する点滴は平成16年1月5日にすべて終了し,また,同月6日の時点で,二宮医師は,花子に対し,同月8日から同月14日までの分につき,ワーファリン1日2mgを投与することを決定した。同月7日には,花子は同月9日に退院予定とされた。
カ ところが,平成16年1月9日,花子は,右中大脳動脈に脳梗塞を再発し,以後,意識混濁,左半身麻痺及び嚥下障害の状態に陥った。同日の花子のINR値は1.12であった。
同月8日から同月9日にかけての被告病院の看護師らによる看護状況は,別紙「看護記録」記載のとおりである。
キ その後も,花子は,重篤な状態が続いていたが,平成17年12月11日,被告病院において死亡した。
ク なお,花子が入院した平成15年12月27日から平成16年12月10日までの診療経過等については,別紙診断経過一覧表のとおりである。
(2) また,証拠(甲B7,11ないし14,17ないし22,乙B1ないし3,11,12)によれば,ワーファリン及びINR検査について,以下のとおり認められる。
ア 効果・効能等
ワーファリン療法は,抗凝血剤であるワルファリンカリウムを投与して血栓塞栓症(静脈血栓症,心筋梗塞症,肺塞栓症,脳塞栓症及び緩徐に進行する脳血栓症等)の治療及び予防に用いられる抗凝固療法である。ワーファリンは,循環血液中の血液凝固因子に直接には作用せず,肝臓でビタミンK依存性凝固因子の第Ⅱ(プロトロンビン),Ⅶ,Ⅸ,Ⅹ因子の蛋白合成を阻害することにより,抗凝血作用及び血栓形成の予防作用を示す。ワーファリンは,錠剤として製剤されており,経口投与が予定されている。
イ 重要な基本的注意事項
ワーファリンは,血液凝固能検査等による出血管理を十分に行いつつ使用し,また,初回量及び維持量は血液凝固能検査等の結果に基づき慎重に決定することとされている。
併用注意薬剤との併用により,ワーファリンの作用が増強し,重篤な出血に至ったとの報告がある。
ウ 重大な副作用
脳出血等の臓器内出血,粘膜出血及び皮下出血等を生じることがある。
エ 用法,用量
ワーファリンに対する感受性は個体差が大きく,同一個人でも変化することがあるので,治療域を逸脱しないよう努力する。
ワーファリン療法の導入期においては,初回に大量に投与し,数日をおいて凝固能を測定し,その結果から維持量を決定するloading dose法と,初めから常用量に近い投与量を数日続け,凝固能をみながら維持量を決定するdaily dose法とがあるが,前者には急激な凝固能の低下による出血などの危険性や,逆に,プロテインCの低下が先行することによる凝固亢進状態を招く危険性があることから,現在では後者の方法が主流となっている。いずれの場合にも,緊急に凝固能を下げる必要のある場合には,ヘパリンを併用してワーファリンの効果発現が遅れる点をカバーする(なお,「発症48時間以内の脳梗塞ではヘパリンを使用することを考慮してもよいが,十分な科学的根拠はない。」とする見解もある。)。
オ 治療域の設定根拠
ワーファリン療法における治療域の設定は,血液凝固能を低下させて血栓形成を十分に予防するとともに,かつ出血を起こさない範囲の血液凝固能レベルとして,経験的に決められてきたものである。
ワーファリン療法で使用される血液凝固能検査には,INR検査とトロンボテスト(TT)がある。
INR検査は,ワーファリンの投与量や投与回数をコントロールするためになされる血液凝固能検査の一つであり,プロトロンビン時間(PT)の測定値を国際標準比(International Normalized Ratio:INR)によって標準化したものである。
INR値が高いほど血液の凝固能が低下した状態になっていることを示す。
なお,非弁膜症性心房細動(NVAF)患者が,一過性脳虚血発作(TIA)や脳梗塞の既往,高血圧,糖尿病,冠動脈疾患及びうっ血性心不全といったリスクを一つ以上有する場合において推奨される治療域は,70歳以上の患者の場合,INR値1.6ないし2.6とされている(上限を2.5とする文献もある。)。
カ 高齢者用量
高齢者は,成人に比し,体内薬物動態(吸収,分布,代謝及び排泄)が低下しており,それに伴って血漿蛋白の減少,肝臓での薬物代謝及び腎排泄の遅延,肝臓でのビタミンK依存性凝固因子合成能の低下などの加齢による生理現象が生じていることから,一般成人に比してワーファリンの感受性が強く,また,血管が弱く出血しやすいことなどから,ワーファリンによる出血のリスクが高くなることに常に注意しなければならない。
キ 代謝,効果発現時間及び持続時間
ワーファリンの消失半減期は約35時間である。連日投与で約1週間後に定常状態に達し,血中濃度の変動は比較的わずかである。
ワーファリンの経口投与後の血中濃度は2時間ないし12時間で最大となる。その抗凝血効果は12時間ないし24時間目に発現し,十分な効果は36時間ないし48時間後に得られる。また,その作用は48時間ないし72時間持続する。
ク 返跳(リバウンド)現象
長期にわたって投与していた抗凝固薬の投与を急に中止した場合,従来,血栓塞栓症の発症頻度が増加すること(リバウンド現象)が危惧されていたが,このような現象は生じなかったとする調査結果もあり,十分な結論は得られていない。現時点では不明な点が多く,ワーファリンの投与中止は漸減中止の方法によることが望ましい。
2 争点(1)(二宮医師の注意義務違反の有無)について
(1) 争点(1)ア(二宮医師は,平成15年12月28日又は遅くとも同月29日までにはワーファリンを投与すべきであったか。)について
ア 1(2)ア記載のとおり,ワーファリンは錠剤として製剤されており,経口投与が予定されている。
そうであるところ,1(1)イないしエ記載のとおり,花子は,平成15年12月28日の午後には意識レベルがⅠ−3(覚せいしており,自分の名前及び生年月日が言えない状態)まで回復し,人工呼吸器も外され,同日夜には気管内チューブも抜管されたものの,同月31日までは意識レベルがⅠ−2(覚せいしており,見当識障害がある状態)からⅡ−20(刺激で覚せいし,大きな声,又は体を揺さぶることにより開眼する状態)を行き来し,同日夕食から食事を経口摂取することができるようになったものである。したがって,花子の嚥下機能はそのころまで正常ではなかったといえるのであって,同月28日や同月29日の時点で,花子に錠剤であるワーファリンを経口投与することは不可能であったと認められる。
そして,上記のような花子の状態の推移に照らせば,花子に対して,二宮医師が,救命措置や,全身状態の安定を図るなどの急性期の治療を優先し,全身状態が安定し,食事の経口摂取が可能となった段階で,慢性期の再発予防薬であるワーファリンの経口投与を実施すると判断したことには,臨床的に合理性があると認められる(乙B10,13,証人二宮昭雄,同四谷和夫)。
イ 以上から,二宮医師には,平成15年12月28日又は29日の時点において,花子にワーファリンを投与すべき義務があったということはできない。
(2) 争点(1)イ(平成15年12月28日までに花子に対してワーファリンを投与すべきであったとはいえないとしても,二宮医師は,花子に対してヘパリンを投与すべきであったか。)について
ア 証拠(甲B12ないし14,17,21,乙B2)によれば,ヘパリンは,血中の生理的凝固阻害因子であるアンチトロンビンⅢと複合体を形成し,トロンビン,活性化第Ⅹ,Ⅸ,file_3.jpg,file_4.jpg因子の凝固活性を阻害する薬剤であって,即効性を有し,注射等による静脈内投与の方法によるものであること,そのため,脳梗塞急性期における抗凝固療法として用いられることがそれぞれ認められる。
しかしながら,脳梗塞急性期のヘパリン投与は科学的根拠はないとする文献もあり(乙B1,13)また,脳梗塞急性期に抗凝固療法を行うことにより出血性梗塞を助長するおそれがあるとされている(甲B13)。
そうであるところ,前提事実(2)記載のとおり,花子には脳梗塞(心原性脳塞栓症),高血圧症,心房細動などの既往歴があり,また,ワーファリン療法継続中に膝の内出血があり,ワーファリンの一時中止の指示がされたこともあることに加え,1(1)イ記載のとおり,本件入院当初,花子の症状は脳幹部梗塞と疑われたことに照らせば,同ウ記載のように,いまだ輸液を実施しながら,意識レベル,呼吸及び循環動態の観察がされていた平成15年12月28日の時点において,ヘパリンを投与しなかったことが相当性を欠くものということはできない。
イ 以上から,二宮医師には,平成15年12月28日の時点において,花子にヘパリンを投与すべき義務があったということはできない。
(3) 争点(1)ウ(二宮医師が,平成15年12月31日から花子にワーファリンを投与するに際して,INR検査をすることなく投与量を1日2mgと定め,その後平成16年1月9日まで同検査をすることなく同投与量を維持したことは不適切であったか。)について
ア 二宮医師は平成15年12月31日から花子にワーファリンを投与するに当たり,INR検査をすることなく投与量を1日2mgと定めた根拠として,① ワーファリンの投与が初回ではなかったこと,② ワーファリンの中止期間が4日間と短期間であったこと,③ 前医である屋宜医師からの情報では,本件入院前のワーファリン量は2.5mgと2mgを交互に投与していたものであり,再開時のワーファリン量は2mgで十分と判断できたこと,④ 過度の抗凝固療法は出血性梗塞を惹起し,逆に重篤な結果を来す可能性があること,といった諸点を挙げている(乙A10,証人二宮昭雄)。
イ そこで,以下,この点について検討する。
(ア) まず,1(2)オ記載のとおり,花子のように,70歳以上で,かつ,一過性脳虚血発作(TIA)や脳梗塞の既往,高血圧,糖尿病,冠動脈疾患及びうっ血性心不全といったリスクを一つ以上有する非弁膜症性心房細動患者の場合(花子の場合,少なくともこれらのうち三つのリスクを有していたと認められる(前提事実(2))。),INR値の至適治療域は1.6ないし2.6とされている。
そして,ワーファリンの感受性は個体差が大きく,同一個人でも変化することがあることから,投与に当たっては適宜のINR検査等によって対象者個人についての至適投与量を決定すべきものである(1(2)イ,エ)ところ,花子は,本件入院前,既に前医である屋宜医師の下で継続的に抗凝固療法を受け,平成15年11月20日の時点でINR値が2.08と上記治療域内にあり,同日以降はワーファリン2mgと2.5mgを1日ごとに交互に服用することとされ,これにより,20日後の同年12月9日時点におけるINR値も1.73と治療域内にあったことが認められる(1(1)ア)。そうすると,前医の下での上記方法によるワーファリンの投与量は,花子に対して有効性を発揮していたことが認められる。
(イ) 加えて,1(2)記載のとおり,ワーファリンの投与に際しては,過剰投与や併用注意薬剤との併用等による出血の危険に常に注意を払うべきとされ,また,ワーファリンの至適投与量は個人差が大きく,さらに,高齢者の場合は一般成人に比べて出血の危険が一層高くなるものとされている。
そして,前提事実(1)及び(2)記載のとおり,花子は,本件入院当時71歳と高齢であり,糖尿病,脳梗塞(心原性脳塞栓症。本件入院までに3回の脳梗塞発症歴あり。),非弁膜症性心房細動,高血圧症及び高脂血症等の既往歴を有していた。
また,同記載のとおり,花子は,平成15年7月ないし同年8月ころ,1日当たり4.5mgないし4.75mgのワーファリンの投与を受けていたところ,同年7月には右膝の関節内血腫で入院し,さらに,同年8月2日,膝の内出血が発症し,INR値5.01という血液の凝固能が著しく低下していることを現す数値が出たことから,脳出血の可能性を疑われ,ワーファリンの投与を中止されたことがあったものであるが,出血の危険性というワーファリンの副作用からすれば,これは,ワーファリンの過量の投与が原因によるものと認められる。
これらの既往歴等に照らせば,花子の場合は,抗凝固療法の実施によって出血が起きる危険性がある程度現実的に高くなっていたものといえるし,さらには,出血を起こした場合の生命への危険の点でも重篤なものになることが予想されるところである(乙B13)。
そうすると,このような花子に対して,抗凝固療法としてワーファリンを投与するに当たっては,より慎重に出血の危険を回避する必要があったといえる。
(ウ) これらからすると,上記(ア)のとおり,有効性の認められる従前の屋宜医師によるワーファリンの処方量(1日2mgと2.5mgの交互投与)を基準に,上記(イ)のように,花子に存する抗凝固療法による出血の危険を加味して,同人へのワーファリンの投与量を1日2mgと定めることには,同時点においては,従前のワーファリン投与の効果がほとんど失われていたものと推測されること(1(2)キ参照)をも考慮してもなお,相応の根拠があったものと認められる。
なお,事後的にみても,証拠(甲A8,乙A1)によれば,実際に,被告病院における平成16年1月19日以降のワーファリン1日2mgの投与によって,同月24日には花子のINR値は1.91となり,治療域に達していたものであることからすれば,この1日2mgという量が,中断後の投与再開に当たってそもそも花子に対して全く効果を発現しえない,妥当性を欠くものであったということもできない。
ウ これに対し,原告らは,四谷和夫医師の証言をふまえ,再開後の投与量としては,従前より多めの4mgないし5mgを一挙に投与するのが相当であった旨主張するが,前記イ(イ)で説示したとおり,花子にはある程度現実的に出血の危険が認められたことからすると,二宮医師に,投与再開に当たって,このような危険を冒してまで,原告ら主張の量のワーファリンを投与すべき義務まで認めることはできない。
この点,四谷医師は,上記原告ら主張の量を投与して,翌日見てINR値が上がりすぎておれば,ビタミンKを投与するなどして調整すれば足りる旨証言するところ,ワーファリンの効能書(乙B3)等によれば,出血等の副作用に対しては,ワーファリンの投与を減量又は中止するとともに,ビタミンK剤の投与や,必要に応じて新鮮凍結血漿の輸注等の処置を行うこととされ,出血への対処法も示されている。しかしながら,花子の場合は,前記イ(イ)のとおり,一度出血が起こればそれがより重篤なものになることが予想されるところ,上記四谷医師のいう対処方法により,花子の出血の危険を完全に回避できるかは疑義の存するところである。
エ また,原告らは,ワーファリン投与に当たってのINR検査の重要性を指摘し,本件においても,ワーファリン投与に先立ってINR検査をするとともに,投与開始後も,ワーファリンの分量を決めるためにINR検査をすべきであったのに,二宮医師はこれらを全く行っていない旨主張する。
確かに,ワーファリンに対する感受性は個体差が大きく,同一個人でも変化することがあるので,治療域を逸脱しないよう努力するものとされ,また,ワーファリンは,血液凝固能検査等による出血管理を十分に行いつつ使用し,また,初回量及び維持量は血液凝固能検査等の結果に基づき慎重に決定することとされている(1(2)イ,エ)。
しかしながら,INR値を頻回に検査する必要があるのは,主として,初めてワーファリンを投与する患者の維持量を決するためであり,INR検査は,投与第1週に3回,第2週に2回行い,4週までは少なくとも週1回は行う,コントロールが安定しても,少なくとも1か月に1度のINR検査が必要である(甲B13)等とされている。
そして,ワーファリンの投与が数日間空いたときにINR検査をどの程度行うべきかを示した文献は見当たらない(証人四谷和夫)。
これらからすると,平成16年1月9日に行ったINR検査の結果がINR値1.12と治療域を下回るものであり(1(1)カ),二宮医師自身,花子の家族への説明の際,結果として花子へのワーファリン投与量2mgでは不足していた旨認めていること(甲A10,乙A1)からすれば,同日以前にINR検査を行う方がより望ましかったとの見方はあり得るとしても,イ記載のとおり,前医でのINR検査の日(最終の検査は平成15年12月9日)やその結果を踏まえ,二宮医師が平成16年1月9日までINR検査をしなかったことをもって,二宮医師の義務違反とまでいうことはできない。
オ また,原告らは,ワーファリンの投与に当たって心エコー検査を実施すべきであった旨も主張する。
この点,心エコー検査のうち,経胸壁によるもの(経胸壁心エコー検査)では心房内血栓の診断率は低いが,経食道によるもの(経食道心エコー検査)であれば心房内血栓の診断に有用とされている(甲B12,18,19,乙B13)。しかしながら,経食道心エコー検査によっても,脳梗塞の既往を有する非弁膜症性心房細動症例における心内血栓検出率は5%にとどまり,1回の経食道心エコー検査では検出されないことが多く,心内血栓の検出で抗凝固療法の適否を決定すべきではないとする文献もあること(甲B14)や,経食道心エコー検査は,食道粘膜の損傷等の侵襲等があり,認知症患者に対しては全身麻酔下で行うことが安全であるとされること(乙B13)にかんがみると,二宮医師に,花子に対するワーファリンの投与について決するため,経胸壁心エコー検査はもとより,経食道心エコー検査についても実施すべき義務があったということはできない。
(4) 以上より,二宮医師に原告ら主張の義務違反は認められず,その余の点について判断するまでもなく,被告は二宮医師の行為による民法715条に基づく損害賠償責任を負わない。
3 争点(2)及び(4)(看護師らの義務違反の有無及びそれと結果との因果関係の有無)について
(1) 平成16年1月8日から同月9日にかけての被告病院の看護師らによる看護状況は,別紙「看護記録」に記載のとおりと認められるところ(1(1)カ),証拠(甲A16,甲B23,乙A1,原告甲野次美)によれば,花子は,その前日までは,覚せい中は,家族がいないと娘の名を大声で叫び続けるなどし,そのような状態は,夜間でも同様であったことが認められる。しかしながら,同月9日午前1時に花子が尿失禁しており,看護師によるオムツやシーツ等の交換時に花子が目を覚まさず,その後の同日午前3時及び6時の各定期巡視の際にも花子が目を覚ましていなかったとしても,当時,花子に対しては,就寝時に睡眠薬(マイスリー錠10mg)が投与されていたことをも考慮すれば,これが前日までとは明らかに異なる異常な状態であって,この時点で花子の異変に気付いて医師に報告するなどの措置を講ずべきであったとまでいうことはできない。
これに対し,同日午前8時に採血しようとした際,花子はしかめ面をするのみで起きる気配がなく,針を穿しても,けわしい表情をするものの声を出さなかったというのであるが(乙B4,6),同日未明の尿失禁からの花子の一連の状態とその前日までの花子の状態とを勘案すれば,この同月9日午前8時の採血時の状況に接した看護師としては,花子に何らかの異変が生じているものと気付くべきものであったと解される。
(2) しかしながら,前記「看護記録」記載のとおり,同日午前9時20分の段階で,花子の家族からの連絡により,看護師が花子の容態を診るなどし,同日午前9時40分には二宮医師による措置が開始されているところ,同日午前8時の段階で看護師が花子の異常に気付き,速やかに医師に報告等をすることによっても,予後への影響はほとんどないと考えられることから(甲B15,乙B10,13,証人四谷和夫),結局,花子に生じた結果との因果関係は認められない。
(3) したがって,被告は看護師らの行為による民法715条に基づく損害賠償責任を負わない。
4 以上の次第で,その余の点について判断するまでもなく,原告らの本訴請求は理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 田中健治 裁判官 加藤靖 裁判官 渡邉康年)
別紙
診断経過一覧表<省略>
看護記録(甲野花子)<省略>