那覇地方裁判所 昭和47年(ワ)162号 判決 1974年5月08日
原告
吉岡攻
右訴訟代理人
金城睦
外五名
被告
沖縄県
右代表者知事
屋良朝苗
右訴訟代理人
真喜屋実男
外三名
主文
被告は、原告に対し、金五〇万円およびこれに対する昭和四七年六月六日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は、被告の負担とする。
この判決は、原告の勝訴部分に限り仮に執行することができる。
事実
第一 当事者双方の求めた裁判
一 原告
1 被告は、原告に対し、金五〇万円およびこれに対する昭和四七年六月六日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告は、原告のため日刊紙沖繩タイムス、同琉球新報、同朝日新聞、同毎日新聞の各社会面に、見出しに三倍活字、本文に1.5活字、記名、宛名およびその肩書に二倍活字を使用して、別紙文言の謝罪文を各一回掲載せよ。
3 訴訟費用は被告の負担とする。
4 第1項につき仮執行宣言。
二 被告
1 原告の請求を棄却する
2 訴訟費用は原告の負担とする
第二 原告の請求の原因
一 (本件事件の発生)
当時琉球政府の公務員であり普天間警察署に勤務する司法警察員警部嘉手苅福信(以下単に「警察官嘉手苅」という。)は、一九七一年(昭和四六年)一一月一八日、那覇地方裁判所に対し、被疑者「松永優外一〇数名」の者に対する殺人並びに公務執行妨害被疑事件(以下「本件被疑事件」という。)につき、後記のとおりの捜索、差押許可状の発付を請求し、右同日同裁判所裁判官より請求どおりの令状の発布以下単に「本件許可状」という。)を受け、更に同日、当時琉球政府の公務員であり琉球警察本部に勤務する司法警察員巡査部長村山盛美(以下単に「警察官村山」という。)は、同本部長新垣徳助(以下単に「警察官新垣」という。)の命により、本件許可状に基づいて、右原告方を捜索し、その際、証拠品として、原告所有の未現像フイルム二本、ネガフィルム七四コマ等を差押えた。
(1) 被疑事件名 「殺人並びに公務執行妨害」
(2) 被疑者の氏名 「松永優外一〇数名」
(3) 捜索すべき場所 「那覇市泉崎町一の一三の七泉荘三階二号室吉岡攻の自宅(原告方)」
(4) 差し押えるべき物 「一 右被疑者等の共犯者と認められる者の本件犯行に供したと思料されるヘルメット、覆面タオル、火炎ビン(製造用原料を含む)、鍬の柄、角材等その他当時着用していたと思料される衣類、靴、
二 その他本件に関する書類、メモ、現場撮影写真、そのネガ」
(5) 被疑事実の要旨 「被疑者は一九七一年一一月一〇日午後二時ごろから那覇市内与儀公園において、沖繩県祖国復帰協議会(会長桃原用行)が主催し、開催した「一一・一〇返還協定に反対する完全復帰を要求する県民総決起大会」並びに集団示威行進に参加した者であるが、同日午後五時四七分ころ、中核派学生集団、全軍労牧港支部青年部等過激派グループが浦添市字勢理客在普天間警察署勢理客巡査派出所警備に従事していた警備部隊第四大隊第二中隊(中隊長警部仲間松雄)六八名に対し、火炎瓶、投石、投瓶等で攻を加える等公務執行妨害を敢行した際、右集団約一〇数名位と共同し、前記中隊所属第三小隊第三分隊長巡査部長山川松三を捕促し、浦添市字勢理客一番地中央相互銀行勢理客出張所前一号線道路上に引きずり倒して鍬の柄、角材、旗竿等で殴打し、または足蹴りし、足踏みし、更に火炎瓶を投げつけて、同巡査部長を外傷性脳障害により、同日午後五時五〇分ころ死にいたらしめた。」
二 以下略
理由
一 (本件事件の発生)
請求原因第一項の事実は、当事者間に争いがない。
二 (被告の責任原因)
(一) そこで、被告の責任原因の存否について検討する。
(1) 警察官嘉手苅が、原告を本件被疑事件の被疑者として裁判所に対し、捜索差押許可状の発布を請求して、本件許可状の発布を受けたこと、本件許可状の被疑者の氏名欄には「松永優外一〇数名」と記載されていること、本件被疑事件について、捜査当局は、原告を被疑者として捜査の対象とし、本件捜索差押をしたことは当事者間に争いがない。
(2) 原告が一九六九年(昭和四四年)五月ころに沖繩に来たことがあることは被告の認めるところであり、<証拠略>によると、原告は、新聞社、雑誌社などに所属しないで自己の自由な立場で報道に従事しているフリーの報道写真家であり、一九六九年(昭和四四年)一〇月九日沖繩における米国の高等弁務官報道調整官から、報道関係者身分証明書の発給を受けて、沖繩に滞在し、その間朝日新聞東京本社出版局の「アサヒグラフ」誌と提携して沖繩に関する作品を一九六九年一一月から一九七〇年一一月までの間同誌に発表していたことが認められること、
(3) <証拠略>を総合すると次の事実を認めることができる。すなわち、
(イ) 原告は、朝日新聞社から報道写真家として沖繩県祖国復帰協議会が主催し開催した「一一・一〇返還協定に反対する完全復帰を要求する県民総決起大会並びに集団示威行進」(以下「一一・一〇ゼネスト」という。)に関する取材を依頼されていたため、一九七一年(昭和四六年)一一月七日は、那覇市内の官公労共済会館ホールにおいていわゆる中核派によつて一一・一〇ゼネスト決戦勝利に向けた政治集会が開催されたが、右会場に右翼の乱入したとのニュースを聞き、その状況を取材するために、「朝日新聞」の社名入りの腕章を着けて、右会場に赴き、約三〇分間に亘つて、集会参加者と機動隊との接触の現場を撮影し、その後は沖繩タイムス社会部の仲宗根朝倫記者、朝日新聞のカメラマンである石川文洋およびRBC(琉球放送)の記者二、三人らとともに記者会見に臨んだこと、
(ロ) 原告は、本件被疑事件の発生した一九七一年(昭和四六年)一一月一〇日にはバッグを持ちカメラを首に一台、右肩に一台下げて持ち「朝日新聞」の社名入りの腕章を左腕に着けて一見してカメラマンとわかるような服装で本件事件の取材をしたこと。そして同日午後四時三〇分ころは、デモ隊の活動を取材のため与儀公園から泊高橋の三叉路附近までは、朝日新聞社所属のカメラマンである訴外石川文洋、同松村成泰らと共に各自離れたり、あるいは前後したりしながらデモ隊の行動を前後左右から撮影するなどして取材したこと、その後原告は泊高橋の三叉路附近で、右石川と別れ、デモ隊の中の第二グループの先導車の上から写真の撮影をしていたが、那覇市勢理客方面へ約五〇米進んだ地点で、突然天久方面(デモ隊の先頭方向)から異様な叫び声をあげ、火炎瓶を持つたグループが駆け足で降りて来たのを認め、そのため、原告は、右先導車から降りて、そのグループの行動を約一五、六枚撮影し、更に、右グループの後を追い右グループが、泊の交番所や天久在の外人住宅に火炎瓶を投げている状況や警察官が死亡したときのトラブル等の状況を約一時間に亘つて撮影したこと。
(ハ) その後、原告は、朝日新聞社那覇支局の人達と共に、撮影したフィルムを現像すべく沖繩タイムス社に帰つたところ、当日のデモの際機動隊員が死亡した旨のニュースが入り、朝日新聞社の記者から死亡した機動隊員の顔写真の複写を依頼されたため、同人と共に琉球警察本部へ行き、顔写真を複写して後に再び沖繩タイムス社へ帰り、撮影してきたフイルムを現像し、その日のうちに死亡写真を焼付して沖繩タイムス社に提供し、同日午後一一時すぎころに帰宅したこと。
(ニ) 原告は、一九七一年(昭和四六年)一一月一八日に警察当局から本件許可状による捜索差押を受けた後、警察当局の強制捜査は、報道写真家である原告を刑事々件の被疑者として取扱い、更に報道写真家の社会的責任を無視する行為であるとして、本件事件の代理人である金城睦弁護士と共に警察当局に抗議をし、いずれも刑事々件手続として同年一二月一日那覇地方裁判所に対し、捜査当局のなした「差押え処分の取消」を求める裁判(いわゆる準抗告)を求め、更に一九七二年(昭和四七年)一月二七日には同裁判所に警察当局が原告方から押収した未現像フイルムを現像して複写を作つたことに抗議し、右複写物の返還を要求するため、警察官の処分の取消しを求める裁判を提起したが、いずれも理由なしとして棄却されたこと。
(ホ) 警察官村山は、一九七一年(昭和四六年)一二月七日原告に対し、本件許可状の執行によつて押収したフイルム等を返還し、その際原告は、還付請書に、右物件の受領が「捜索、押収の合法性、正当性を認めるものではない」との但書をつけて、右フイルム等を受領し、未現像フイルムを現像して焼付けして複写した写真については、警察当局は焼却したと述べて返還するに至らなかつたこと。
(4) <証拠略>によると次の事実を認めることができる。
(イ) 一九七一年(昭和四六年)一一月一〇日に、本件被疑事件が発生したため、捜査当局は、その日に捜査本部を設置し、当時の琉球警察本部長であつた、訴外の警察官新垣が、本件被疑事件の捜査本部長となり、警察官嘉手苅は右事件の捜査主任であり、警察官村山は捜査本部要員であつたこと、
(ロ) 当時の捜査当局としては、本件被疑事件が、デモ隊との接触の中で発生したものであり、集団の中で発生した事件として、捜査の進展は困難を予想していたこと、そこで、現場の実況見分、現場写真の収集、捜査員からの現認報告等の資料を集めて、事件の検討をはじめ、事件発生の翌日に開かれた捜査幹部会議では、本件被疑事件は、「いわゆる中核派を中心としたグループによる事件」であるとの推測がなされ、それに対する捜査の方針が打ち出されたこと。
(ハ) 捜査当局としては、本件被疑事件の捜査の過程で、中核派に関する捜査資料に基づき、本件被疑事件発生前の資料や、事件当日の現場写真等を参考にして捜査の対象となる人物の割り出しに務め、事件当日に撮影された写真に原告が写つていることから原告に対しても本件事件に関する被疑者との疑いを持つに至つたこと、その際、原告の職業については、フリーカメラマンのようだとの推測はできた状況であつたが、捜査本部に報告されることはなかつたこと、更に捜査当局は、本件事件当日の原告の行動については原告が現場で写真を撮影しているとの認識はあつたが、その身分は、いわゆる中核派のグループに属する写真撮影者と考えていたこと、
(ニ) その後、捜査当局は、原告に関する資料を収集し、その報告によると、原告は、いわゆる中核派の人達とは行動を共にし、本件被疑事件の発生する前である一九七一年一一月七日に開催された中核派の集会にも、一般の人は立入ることが出来ない会議にも出席し、写真撮影していたと報告され、更に、米国の反戦行動家として知られるバーバラ女史が沖繩に来た際も、その女性と話合つているとの報告を受けたこと、そのため、捜査当局は、原告は、いわゆる中核派の同調者と推測するに至つたこと。
(ホ) 捜査当局は、一九七一年(昭和四六年)一一月一八日午後三時ころ、警察官村山外三名が原告方を訪ね、本件許可状の執行をなし
「1 カラーフイルム三六枚撮り
(未現像)一本
2 白黒フイルム二〇枚撮り
(未現像)一本
3 暴動決起宣言のビラ 一枚
4 ネガ(一一・七官公労共済会館)
一二コマ
5 ネガ(一一・一〇ゼネスト撮影)
一八コマ
6 ネガ(一一・一〇ゼネスト撮影)
二三コマ」
を証拠品として押収したこと、警察官村山らが、原告に本件許可状を示して、本件令状の執行を開始し、執行の終りころになつてから、原告からは、「これからは差押令状とかいうような堅苦しいものは持つてこないで、直接協力を要請してくれ、そうすれば、私も協力できるところは協力しますから」といわれ、警察官村山らは、「実はあなたとは面識もなく協力要請もできなかつたが、今後は直接頼みに来るのでよろしく」との趣旨のことを原告に話したことがあつたこと
(ヘ) 捜査当局は、原告からの本件許可状の執行に対する抗議があつてから、原告の職業を調査し、原告が米国民政府より、沖繩に出入を許可されている報道関係者であることがわかつたこと
(二) 以上の各事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。そうすると、右認定の事実によれば、原告は、本件被疑事件発生前の一九七一年(昭和四六年)一一月七日の中核派政治集会および本件被疑事件発生の日である一一・一〇ゼネストの日には、いずれも、朝日新聞社の社名入りの腕章を着用して、報道写真家としてその取材活動に従事していたことが認められ、更にその原告の行動からは、原告が、カメラマンとして、本件被疑事件の現場付近にいたことは、一般人の見解からして、一見して明らかであつたというべきである。そして、本件被疑事件を捜査している警察当局としては、右の原告の行動から、原告を本件被疑事件の被疑者と決定するについては、原告の身分関係、職業等について、調査に慎重を期しておれば、原告が本件被疑事件の被疑者と目されるような行動をとつていないことを確認しえた筈である。
そうすると、本件被疑事件を捜査している捜査当局としては、原告の職業関係ついての調査することなく、簡単に原告がいわゆる中核派グループの同調者であると速断し、本件被疑事件の被疑者と考えて、本件許可状の申請をなし、その後に、右許可状に基づいて、強制捜査をしたことは、個人の生命、身体及び財産の保護をその責務としている警察(警察法二条参照)としてはいささか較卒であつたとのそしりを免れない。
そうすると、その点において警察官嘉手苅が、原告を本件被疑事件の被疑者として捜索差押許可状の発布を請求して、本件許可状の発布を受け、警察官村山が、琉球警察本部長である警察官新垣の命により、本件許可状に基づいて、原告所有の未現像フイルム二本、ネガフイルム七四コマを差押えた行為は、たとえ裁判官による本件許可状の発布にもとづくものであつても、捜査官としては、当然遵守すべき捜査方法に慎重さを欠いた点があり、それが、右警察官らの過失にもとづく違法なものであるといわなければならない。そうして、右警察官らの行為は、警察権の行使と解するのが相当であるから、当時の琉球政府は、右警察官らの行為により、原告の蒙つた損害を賠償する責を負うものというべきである。
(三) なお、原告は、本件被疑事件の捜査につき、本件許可状は、被疑者の特定を欠いた違法なもので、無効であり、したがつて、これにもとづく本件捜査差押処分も違法である旨主張するので検討するに、本件許可状に被疑者の氏名として「松永優外一〇数名」と記載されていることは、当事者間に争いがない。しかしながら、刑訴法二一九条一項が、捜索差押許可状に被疑者の氏名の記載を要求している立法趣旨が、令状が他の被疑事件に流用される危険を防止することにあることからすると、本件許可状<証拠略>に記載されている罪名、捜索すべき場所、差し押えるべき物および有効期間とをも併せ考えると、本件許可状に、被疑者の氏名として、「松永優外一〇数名」と記載されていることは、その記載方法は妥当性を欠くとの非難があるにしろ、決して被疑者の特定を欠いた違法なもので、無効であるということはできない。従つて、この点に関する原告の右主張は、理由がない。
(四) 警察官嘉手苅、同新垣および同村山らが、いずれも琉球政府の公務員であつたことは、当事者間に争いがないから、琉球政府は、政府賠償法(一九五六年立法第一七号)一条の規定により、原告に生じた損害を賠償する義務を負うべきところ、被告は、一九七二年(昭和四七年)五月一五日沖繩の復帰に伴い、右の義務を承継した。
三(原告の損害)
そこで、以下原告が受けた損害と賠償の方法とについて検討する。
(一) 原告は、前記認定のとおり、新聞社、雑誌社に所属しないで自己の意思に基づいて取材活動をする報道写真家であり、それが、本件被疑事件の被疑者として取扱われ、本件捜索差押処分を受けたため、報道写真家としての社会的信用の低下等、相当の精神的苦痛を蒙つたことは明らかであるので、被告は、原告に対し、相当の慰謝料を支払うべき義務があるところ、<証拠略>によると、原告は報道写真家として若手の新進写真家として有望であること、および原告が、捜査当局によつて被疑者として取り扱われ、撮影した写真が、捜査に利用されたことならびに押収後返還されたネガフイルムにはキズやホコリ等がついていたことが認められ、その他本件に現われた諸般の事情を考慮すると、その慰謝料金額は原告が主張する金五〇万を全額認めることが相当である。
(二) そこで、更に、原告の被告に対する謝罪広告の請求について検討する。
<証拠略>によれば、原告は、本件捜索差押処分を受けて以来、いわゆるマスコミによつて本件被疑事件の被疑者として報道されたことはなく、むしろ、被疑者として取り扱われたことについて、捜査当局に対し、抗議をなしていることが認められ、更に<証拠略>によれば、本件被疑事件を捜査した警察当局が原告に対してなした行為は、報道の自由を侵害する重大問題であるとして原告を支援する「報道の自由・吉岡カメラマンを守る会」(会員約三〇〇名)が、沖繩と東京において結成され、原告の支援活動を続けていることが認められるが、当裁判所としては本件事案の性質上、本件において、捜査機関の捜査の違法性の確認と、それによる原告に対する慰藉料の支払を認容することで十分であると考えるし、加えて、別紙謝罪文の掲載を命ずることが、必要かつ適切な処置であると認めることはできない。従つて、この点に関する原告の請求は失当と認めて、これを棄却する。
四(結論)
以上のとおりであるから、原告の本訴請求は、被告に対し、慰謝料金五〇万円およびこれに対する本件訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和四七年六月六日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるので、これを認容することとし、その余の請求は失当として棄却することとし、訴訟費用の負担については、民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言については、同法一九六条一項を、それぞれ適用して主文のとおり判決する。
(小野寺規夫 比嘉正幸 喜如嘉貢)
謝罪文<略>