那覇地方裁判所沖縄支部 昭和55年(わ)138号 判決 1981年4月20日
主文
被告人を懲役三年に処する。
未決勾留日数中一一七日を右刑に算入する。
本件公訴事実中、殺人の点につき被告人は無罪。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、別紙犯罪一覧表(以下別紙という。)記載のとおり、昭和五三年九月五日から昭和五五年六月一九日までの間、前後四〇回にわたり、単独又は別表記載の共犯者と共謀のうえ、沖繩県中頭郡嘉手納町字嘉手納七番地駐車場ほか三九か所において、高良文昌ら所有にかかる現金合計一七万七五〇〇円、物品合計四七六四点(時価合計約一七四七万三九四四円相当)を窃取したものである。
(証拠の標目)《省略》
(累犯前科)
被告人は、昭和四一年三月一一日岡山地方裁判所で強姦致傷、強盗未遂、窃盗、強盗致傷、銃砲刀剣類所持等取締法違反罪により懲役一〇年に処せられ、昭和五一年一月一一日右刑の執行を受け終ったものであり、この事実は検察事務官作成の前科調書によって認める。
(法令の適用)
被告人の判示各所為は刑法二三五条、六〇条(ただし別表35については六〇条を除く。)に該当するが、前記前科があるので同法五六条一項、五七条により各罪につき再犯の加重をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条により最も重い別表5の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をし、その加重した刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一一七日を右刑に算入することとする。
(無罪部分の理由)
一 本件公訴事実中、殺人に関する部分は、
「被告人は、昭和五〇年八月一〇日ころの午後九時三〇分ころ、沖繩県具志川市《番地省略》A(当時四五年)方において、同人が貸金の返済に応じないばかりか、かえって被告人の前科をその愛人に暴露してやるなどと言ったことに憤慨し、右Aを手拳で殴打して立ち去ろうとした際、同人からいきなり刺身包丁を突き付けられて更に激昂し、同人から右包丁を奪い取り、殺意をもって同人の胸部、両腕部などに切りつけ、その胸腕部等に多数の切創等を負わせ、そのころ同所において、同人を右傷害に基づく失血により死亡するに至らしめて殺害したものである。」というのである。
二 本件に至る経緯及び被告人の行為の態様
《証拠省略》を総合すると、次の事実を認定することができる。
被告人はタクシーの運転手として稼働していた昭和五〇年五、六月ころ、古くからの知り合いでかつて沖繩刑務所で共に服役したことのある公訴事実記載のAを客としてタクシーに乗車させ、その後も度々客として乗せているうち同人宅に立ち寄る程度の付き合いをするようになったところ、右Aはタクシーに乗車する毎に花札賭博のことを話し、あるときは被告人に那覇の大金持ちを誘拐して金儲けしようと持ちかけたり、刃体の長い包丁(押収してある前記刺身包丁と思料される)を携え、「女に逃げられたので探し出して耳や鼻を切り落して殺してやる。」などと息巻いたりしていたので、被告人はAとの関係をできるだけ当らず触らずの程度に止めようと心掛けていたが、昭和五〇年八月八日ころ同人をタクシーに乗車させた際、同人から金を貸してくれるようせがまれ、やむなくタクシーの水揚げ金の中から三万円を翌日返えす約束で貸し与え、翌日公訴事実記載のA宅を訪ねるも留守で返済を受けられなかったので、更にその翌日である同月一〇日ころの午後九時過ぎころ右貸金の返済を受けるべく同人宅に赴き、当夜は風雨の強い日で表出入口の戸が開いていなかったため裏出入口から屋内に入り、同人に早速来意を告げたところ、同人はパンツだけの姿でいかにも迷惑そうにいらいらした様子で部屋内をうろつきながら花札で負けたので金はないと言い、被告人が会社に納める金だから是非返えして欲しい旨迫ったのに対し、Aは逆にお前は友人同志なのに少しの間も待てないのかとなじり、次いで金持ち誘拐の仲間に加わるよう重ねて誘いかけ、被告人からその申出を拒絶されるや、今度は被告人が服役したことをその同棲中の女にばらすなどと悪態をついた挙句、「お前は図体ばかり大きくて何の役にも立たん奴だ。馬鹿野郎。」と言うなり被告人の顔面を手拳で殴りかかってきた。そのため被告人はとっさにそれを避けて逆にAの顔面を殴り返えし、よろけて倒れた同人に対し「お前は友人にそんなことをするのか。」と怒鳴り、これ以上居ても貸金の返済を受けられないと思い裏出入口の方に向って立ち去りかけた。ところが、被告人はそのとき突然背後からドタドタと迫って来る足音に身の危険を感じ背後を振り向いたところ、Aが刃渡り約三〇・三センチメートルの刺身包丁を握り持ち、腰の高さ程に身構え、刃先を被告人の脇腹付近に向け、血相を変えて突き刺しかかって来るのを認め、とっさに左に身をかわしてAの右手首を右手で掴み、左手で同人の腰を抱き抱えるようにして組み合ったまま奥の方へ移動し、そこで被告人の後方にある表出入口の戸を開けようと試みたものの、施錠されていて開けることができず、そのため一層危機感を深めつつ取っ組み合いを続けるうちAと共にうつ伏せに倒れ、そのはずみで同人の右刺身包丁を持っている手がゆるんだので、その隙に逸早く同人からその包丁を奪い取って立ち上ったところ、同人がすかさず立ち上って枕を投げつけるなどして襲いかかろうとしたため、包丁を奪い返されては我が身が危いと思い、身を守るため、同人が死に至るかも知れないがそれもやむをえないとの気持ちで同人に向けて右包丁を振り下ろし、更に同人が息つくひまもなくおおいかぶさるような格好で飛びかかろうとしたため、その胸部付近目掛けて右方から左方へ横なぐりに切り付けたが、同人がその後も一向に攻撃の手をゆるめようとせず、傷つき血まみれになりながらも少しもひるむことなく果敢に立ち向い、必死に被告人から包丁を奪い返そうとしたためこれを防ごうとして乱闘となり、その際無我夢中でAに切り付け、よって公訴事実記載の日時、場所において同人を失血死させて殺害した。
三 当裁判所の判断
右認定事実に基づいて正当防衛の成否について検討することとする。
まず、急迫不正の侵害の存否についてみると、右認定のとおり被告人が貸金の返済を受けることができないためあきらめて帰りかけたところ、Aが突然背後から被告人の脇腹付近を目掛けて刃渡り約三〇・三センチメートルの刺身包丁を持って血相を変えて突き刺しかかったのであるから、Aのこの行為は、兇器の種類、形状、攻撃の態様及びその直前までの被告人とAとのいがみ合いの状況からみて被告人に対する殺意を窺わせるものであり、被告人の生命、身体に対する急迫不正の侵害であることは明らかである。
この点につき、検察官は、仮にその時点で急迫不正の侵害があったとしても、Aから右包丁を奪い取った時点で急迫不正の侵害は消失した旨主張する。確かに被告人は若いころボディビルで体を鍛え、昭和三一年にはボディビルの沖繩県初代チャンピオンとなったほどで、Aより体が一回り大きく体力、腕力では同人より優っていたことは明らかであり、その被告人が前示経緯によってAから包丁を奪ったのであるから、その時点から被告人がAより優勢になったことは否定できない。しかしながら、前記認定のとおりAは被告人から包丁を奪われても一向に攻撃の手をゆるめる気配をみせず、何らひるむことなく果敢に立ち向って包丁を奪い返そうとし、現に被告人に切り付けられて血まみれになりながらもそれをものともせず立ち向っていたものであり、しかも体は大きくないものの平素から気が荒く本件当時には前示のとおり逃げた女を探し出して殺してやるといって刺身包丁を持ち歩いていたものであり、他方被告人はAから突然刃物で襲われて興奮、狼狽していたものであるから、これらの事情に徴すると、混乱した当時の状況の下では、被告人は一旦包丁を奪ったとはいえAからその包丁を奪い返されるおそれが多分にあったのであって、被告人がAから包丁を奪って優勢になったからといってその時点で急迫不正の侵害が消滅したものということはできず、依然として被告人の生命、身体に対する急迫不正の侵害が継続していたものと認めざるをえない。
次に防衛の意思の存否についてみると、被告人は、供述調書において、「Aは日頃から短気者でいつも包丁を持ち歩き、女を探し出して殺してやると言っていましたので、たちが悪く、私はAにやられる前にやってしまえと思い無我夢中に切りつけたのであります。」、「Aを怖いと思っており、本当に殺されるんではないかと怖く、とにかくAをやっつけなければ、自分が大変になるという気になり、Aからその包丁を奪い取ってAをやっつけようという気になり、それからは、夢中で、Aから包丁を奪い取り、Aに切りつけて殺しました。」と供述しているのであり、Aの前記のような兇器に基づく突然の攻撃に対し、前記のとおり反撃した被告人の行為は、とっさの間にとられた自己保存の本能に基づく衝動的なものであって、まさしく自己の生命、身体を防衛する意思のもとになしたものと認められる。
進んで被告人の本件行為が防衛上必要にして相当な行為であったか否かについてみると、前記のとおりAは包丁を奪われた後もひるむことなく果敢に立ち向って包丁を奪い返そうとしていたのであり、しかも被告人は一旦包丁を奪ったとはいえAからその包丁を奪い返されるおそれが多分にあったのであり、それを奪い返されては同人に殺害されるのは必定と考えられること、そのときのA宅は裏出入口以外はすべて施錠されていたので、Aの攻撃を制止することなく逃げ出すことは事実上困難であったこと、Aの受けた創傷は多数にのぼり、その中には長いものは二四センチメートル、深いものは一〇センチメートルに達するものもあるが、いずれも切創であって突き刺すことによって生ずる刺創ではなく、しかもそれらは前面にあって背後には存しないことからすると、被告人がいたずらに殺害のために攻撃を加えたものではなく、主として相手の攻撃を制止するためにした行動と考えられること、それに被告人の本件行為は突然我が身が危険にさらされ、興奮、狼狽した際の行動であることのほか、本件の場合他に防衛行為としてとりうる適当な手段があったとは認め難いことなどを併せ考えると、被告人がAから奪った包丁でなお立ち向ってくる同人に切り付けた本件行為は、前示認定状況のもとでは、自己の生命、身体の防衛上必要にして相当な行為と認められ、やむをえない限度内のものというべきである。
四 結論
以上説示のとおり、被告人がAを殺害したことは認められるが、それは刑法三六条一項の正当防衛行為であって罪とならないから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 角田進 裁判官 根間毅 裁判官菊池徹は転補につき署名押印することができない。裁判長裁判官 角田進)
<以下省略>