那覇家庭裁判所 平成8年(家)1181号 1996年11月05日
主文
本件申立てをいずれも却下する。
理由
第1申立ての趣旨及び実情
1 申立ての趣旨
申立人は、以下の趣旨の訂正及び関連戸籍についての同趣旨の訂正を求める審判を申し立てた。
(1) 本籍沖縄県那覇市字○△××番地戸主上原政和の改製原戸籍中、本籍欄に「沖縄県那覇市字○△××番地」とあるのを「沖縄県島尻郡首里市崎山町×丁目××番地」と訂正する。
(2) 本籍沖縄県島尻郡真和志村字○△××番地戸主仲宗根政史の除籍中、本籍欄に「沖縄県島尻郡真和志村字○△××番地」とあるのを「沖縄県島尻郡首里市崎山町×丁目××番地」と訂正する。
2 申立ての実情
申立ての実情は別紙記載のとおりであり、要するに、申立ての趣旨において訂正を求めた改製原戸籍及び除籍(以下「本件改製原戸籍」「本件除籍」という。)は、いずれも戸籍整備法に基づく戸籍再製作業中の昭和29年の仮戸籍申告において、それぞれ本籍欄の記載を「沖縄県島尻郡真和志村字○△××番地」(以下「○△××番地」という。)として申告されているが、真実の本籍は、臨時戸籍に記載されているとおり、昭和35年6月2日まではいずれも「沖縄県島尻郡首里市崎山町×丁目××番地」(以下「崎山町×丁目××番地」という。)であり、このことは、申立人を含めた兄弟らがいずれも本件除籍及び改製原戸籍中で「本籍で出生」と記載されていて崎山町×丁目××番地で出生していることや、右臨時戸籍の記載、申立人を含めた兄弟らの卒業台帳等の記載から明らかであるから、再製による戸籍記載の錯誤につきその訂正を求めるというものである。
第2当裁判所の判断
1 本件記録によれば、次の事実が認められる。
(1) 本件除籍によれば、事件本人亡仲宗根政史(なお旧姓「上原」、以下「政史」という。)と亡上原マサ(以下「マサ」という。)との間の子供として、長女上原ヒサ子(以下「ヒサ子」という。)、三女玉城尚子(以下「尚子」という。)、長男亡政明(平成8年7月に本件除籍に登載)、二男事件本人上原政和(以下「政和」という。)、三男亡政行、四男申立人が登載されている。
(2) 大正11年8月4日、長女ヒサ子が、当時事件本人政史の一家が間借りしていた崎山町×丁目の住宅内で出生した。昭和5年9月17日に三女尚子が、昭和11年3月14日に事件本人二男政和が、昭和16年7月27日に四男申立人が、いずれも崎山町×丁目のヒサ子が生まれた場所と別人所有の土地内の住宅で出生した。
(3) 申立人らの一家は、戦争中の避難生活、終戦後の収容所生活を経て、昭和22年ころ崎山町に戻り、戦前とは別人から土地を借り、住宅を建てて生活していたが、昭和24年に○△の宅地を購入の上、同年秋ころ、崎山町から○△に転居した。
(4) 昭和20年5月31日に戦災により滅失した事件本人政史の戸籍の戸籍整備法に基づく再製作業のため、昭和29年5月ころ、当時、○△の区長であった○○が事件本人政史の妻マサの○△の自宅を訪れ、マサ及び同居していた長女ヒサ子からの聞き取りの後、同法6条1項に基づく仮戸籍申告書のほか、同条2項に基づく届出として、マサを届出人とする昭和29年5月付けの事件本人政史の死亡届(死亡年月日昭和20年6月12日午後3時)、同月付けの死亡現認書、事件本人政和を届出人とし親権者を母マサとする昭和22年3月5日付けの政和による家督相続届(昭和20年に死亡した長男政明が戸籍に登載されたのは既に述べたように平成8年のことであり、現在の二男である事件本人政和を長男として家督相続届がなされた)、届出人をヒサ子とする昭和26年9月25日付けの出生届を、いずれも○○がマサらに代わって記載し、マサ及びヒサ子は右記載を確認の上、それぞれ押印した。
これらの申告書等の本籍欄の記載は、全て○△××番地になっており、いずれも昭和29年6月4日に真和志市役所に受け付けられた。
(5) 前記資料を基に、事件本人政史の戸籍再製作業が行われ、昭和30年6月2日付けの真和志市長から戸籍調査委員長に対する諮問がなされ、同日10日付けで、調査審議の結果、いずれも適当で信憑性十分な申告かつ適法な届出との答申がなされた。
その結果、昭和31年9月28日に本件除籍及び改製原戸籍がそれぞれ再製された。
2(1) 以上の事実によれば、事件本人政史の一家は、戦前は首里市崎山町の複数の場所に居住し、戦後、収容所を出た後はいったん崎山町の別の場所に戻るが、昭和24年に○△に転居していること、昭和20年に戸主であった事件本人政史及び長男政明が死亡したため、昭和29年5月ころ、妻のマサと同居の長女ヒサ子とで、戸籍再製作業のための仮戸籍申告等を行い、本籍を○△××番地と申告したが、右申告等は同人らの意思に基づき行われていること、本件除籍及び改製原戸籍は戸籍整備法の手続に従い、適法に再製されていることが認められる。
(2) これに対し、申立人は、戦前及び昭和35年6月2日までの本件除籍及び改製原戸籍の本籍欄は○△××番地ではなく、崎山町×丁目××番地であったと主張するが、戦前の戸籍の写し等、本籍欄にどのような記載があったかを直接示すものは存在しないため、申立人の主張するとおり崎山町×丁目××番地に訂正すべきか否かにつき、申立人の示す主な根拠資料を順次検討する。
まず、申立人は、臨時戸籍の本籍欄に崎山町×丁目××番地の記載があり、線を引いて訂正の上、○△××番地の記載があること、戸主(世帯主)マサの欄に「昭和35年6月2日本籍欄訂正」との記載があることを理由に、本件除籍及び改製原戸籍の本籍欄は、昭和35年6月2日までは○△××番地ではなく崎山町×丁目××番地であったと主張する。しかし、臨時戸籍は、昭和21年9月19日沖縄総務部長通牒の「臨時戸籍事務取扱要綱」に基づきその調整が開始されたものであるが、昭和29年3月1日施行の戸籍整備法に基づいて滅失した戸籍が再製された後は、閉鎖されるべきものであるから、そもそも本件除籍及び改製原戸籍が再製された昭和31年9月28日の後に、臨時戸籍の記載が訂正されることはあり得ないこと、臨時戸籍は、戸籍整備法に基づき再製された戸籍とは異なり、所定の手続に従い戸籍が再製されるまでの間、配給等の諸手続の際に沖縄県民を特定するためのいわば住民票のような役割を果たしたものにすぎないこと、臨時戸籍の本籍欄が線を引いた上で訂正されているが、訂正印はなく、また、戸主欄の「戸」と「主」の間に「世帯」の文字が書き加えられており、いずれにしてもこれらの訂正等の経緯が不明であること等からすれば、臨時戸籍の記載は、申立人の右主張を裏付けるには足りないというべきである。また、右臨時戸籍とは別に、当該臨時戸籍の抄本と称する書面が後に提出されており、昭和29年11月4日付けの真和志市長の認証がなされている記載があるが、既に述べたような臨時戸籍の役割等に鑑みれば、この書面の本籍欄の記載のみをもって、申立人の右主張を認めるには足りないというべきである。
次に、申立人は、本件除籍及び改製原戸籍の申立人を含む兄弟らの身分事項欄の出生事項として、いずれも「本籍で出生」と記載されており、かつ、申立人らは戦前は崎山町×丁目××番地に居住していたのであるから、本籍は崎山町×丁目××番地であると主張する。しかし、既に認定したとおり、申立人を含む兄弟らは、同じ崎山町でも長女ヒサ子と三女尚子以下とが別々の場所で出生しており、全員が崎山町×丁目××番地で出生しているということはできないから、右出生事項の記載も、申立人の右主張を裏付けるには足りないというべきである。
なお、申立人は、申立人を含む兄弟らの卒業台帳等をその根拠資料として提出しており、一部は申立人の主張に沿うものが存在するが、右資料のみをもって、申立人の主張を認めるには足りないというべきである。また、三女尚子の昭和29年1月10日付けの婚姻届(尚子の嫁ぎ先の仮戸籍申告に伴う戸籍整備法6条2項の届出)において、尚子の本籍が崎山町×丁目××番地である趣旨の記載がみられるが、同様にこの記載のみをもって、事件本人政和の本件除籍及び事件本人政和の本件改製原戸籍の本籍欄が申立人の主張どおりであるとすることはできない。
(3) 以上の検討の結果によれば、事件本人政史の一家が戦前には○△には居住していなかったこと並びに本件除籍及び改製原戸籍の申立人を含む兄弟らの出生事項に「本籍で出生」と記載されていることを重視すれば、確かに、本件除籍の戦前の本籍欄は○△ではなかった可能性もあり得るが、一方、申立人の主張するように昭和35年6月2日までは本籍欄が崎山町×丁目××番地であったか否かについては、本件記録中の全資料からも定かではなく、さらに、当時の世帯主であったマサが、申立人の兄弟の中で最も年長である長女ヒサ子と共に、自己の意思に基づき仮戸籍申告等を行い、その結果、本件除籍及び改製原戸籍が戸籍整備法に基づき適法に再製され、以後40年を経過している等の事情に鑑みれば、申立人の申立てどおりに本件除籍及び改製原戸籍の記載を訂正することは相当でないというべきである。
3 よって、本件申立てをいずれも却下することとし、主文のとおり審判する。
(別紙) 申立ての実情
申立ての原因
除籍及び改製原戸籍に錯誤の記載が発見されたから。
申立ての概要
1 除籍及び改製原戸籍の記載の現状
除籍及び改製原戸籍において、長女・ヒサ子(大正11年生)、次女・尚子(昭和5年生)、次男・政和(昭和11年生)、三男・政行(昭和13年生)、四男・政治(昭和16年生)はすべて、本籍(真和志村字○△××番地)で出生となっており、本籍と住所が同一場所になっている。また昭和29年受付の父・政史の死亡届(戸籍整備法に基づく戸籍整備資料)で届出人である母・上原マサの本籍(真和志村字○△××番地)と現住所が同一場所になっている。したがって、戸籍によると少なくとも第1子の長女・ヒサ子が出生した大正11年から末の子の四男政治が出生した昭和16年、さらに父・政史の死亡届が受付された昭和29年までは本籍が真和志村字○△××番地であった、さらに住所も本籍と同じであった。しかし、次の公文書の記載によって本籍(真和志村字○△××番地)は錯誤による記載で、真正の本籍は臨時戸籍に記載されているとおり昭和35年5月2日までは沖縄県島尻郡首里市崎山町×丁目××番地であったことは明白である。
2 除籍及び改製原戸籍の本籍欄の真正の本籍の証明
除籍及び改製原戸籍の本籍欄の真正の本籍の証明として次の公文書によって説明する。
記
昭和29年の戸籍整備法に基づく戸籍整備資料の受付当時からそれ以前の本籍は現住所に同じであった事が、戸籍の記載から明白である。
<1> 平成8年7月9日許可により戸籍に記載された長男・政明が昭和8年4月25日に出生した時の出生地が首里市崎山町×丁目××番地である。(除籍)
<2> 父・政史が昭和13年9月7日に裁判所に申請して登記された「土地売渡書」によると昭和13年当時の住所は首里市崎山町×丁目××番地であった。(土地売渡書写し)
<3> 昭和24年に首里市立○○小学校を卒業した次男・政和の卒業台帳によると昭和24年当時の本籍は首里市崎山町×丁目××番地で住所は首里市崎山区××-××番地であった。
(次男・政和の○○小学校の卒業証明書及び卒業台帳)
<4> 昭和26年に那覇市立○○○小学校を卒業した三男・政行の卒業台帳によると昭和26年当時の本籍は首里市崎山町×丁目××番地であった。(三男・政行の○○○小学校の卒業証明書及び卒業台帳)
<5> 昭和27年に那覇市立△△中学校を卒業した次男・政和の卒業台帳によると昭和27年当時の本籍は首里市崎山町×丁目××番地であった。(次男・政和の△△中学校の卒業証明書及び卒業台帳)
<6> 昭和29年に那覇市立△△中学校を卒業した三男・政行および同年に那覇市立○○○小学校を卒業した四男・政治のそれぞれの卒業台帳によると両方共昭和29年当時の本籍は首里市崎山町×丁目××番地であった。(三男・政行、四男政治の△△中学校及び○○○小学校の卒業証明書及び卒業台帳)
<7> 昭和30年に沖縄県立○○高等学校を卒業した次男・政和の卒業台帳によると昭和30年当時の本籍は首里市崎山町×丁目××番地であった。(次男・政和の○○高等学校の卒業証明書及び卒業台帳)
<8> 昭和32年に那覇市立△△中学校を卒業した四男・政治の卒業台帳によると昭和32年当時の本籍は首里市崎山町×丁目××番地であった。(四男・政治の△△中学校の卒業証明書及び卒業台帳)
<9> 臨時戸籍により1949年(昭和24年)10月21日首里市崎山町より転入により昭和35年6月2日本籍を沖縄県首里市崎山町×丁目××番地より那覇市字○△××番地に訂正(臨時戸籍)
<10> 昭和36年に沖縄県立○○高等学校定時制を卒業した四男・政治の卒業台帳によると昭和36年当時の本籍は那覇市字○△××番地であった。(四男・政治の○○高等学校の卒業証明書及び卒業台帳)
結語
以上の公文書の記録により昭和29年の戸籍整備法に基づく戸籍整備資料として提出された仮戸籍申告書の中で本籍を沖縄県島尻郡真和志村字○△××番地と錯誤の記載によってその後の戸籍に本籍の錯誤の記載が発生した。
前戸主政史は母マサと結婚後、首里市崎山町×丁目××番地の○○氏の土地を借地して住居をかまえ、戦時中の昭和20年4月22日に同住所で父政史は戦死したが、その後一家は南部に避難し、終戦後石川の収容所から首里市崎山区××-××番地の△○氏の土地を借地して家を建てて住んでいたが、昭和24年に真和志村○△の叔父の土地を購入して家を建て、同所に移転した。以上が我々家族の住所地の経緯であるが、臨時戸籍の記載からもわかるとおり、昭和35年6月2日以前の本籍は首里市崎山町×丁目××番地であった。それを裏付ける証拠として次男・政和、三男・政行、四男・政治がそれぞれ昭和35年以前に卒業した小学校及び中学校並びに高等学校の卒業時の本籍がすべて首里市崎山町×丁目××番地になっているが、昭和36年に○○高等学校を卒業した四男・政治の卒業当時の本籍は那覇市字○△××番地となっている。
(昭和28年10月1日に真和志村は市になりさらに昭和32年12月17日に那覇市に合併)
現状の本籍のままだといたる所で他の公文書とのくい違いを生じるが、本籍を首里市崎山町×丁目××番地に訂正すると、他の公文書とも符号する。さらに、上原家系図によると昭和24年(1949年)3月真和志村字○△××番地に宅地を購入、同年同所に本籍を定め首里崎山町より転居する。と記載されているが、宅地を購入して転居した年は臨時戸籍と符合している事から、昭和24年(1949年)10月21日に首里崎山町より真和志村字○△××番地に転居した事は事実である。そのために次男・政和は昭和24年3月に首里市崎山の○○小学校を卒業し、その2年後の昭和26年には三男・政行が真和志村にある○○○小学校を卒業した、その後兄弟は真和志村にある○○○小学校及び△△中学校を卒業した、卒業証明書により昭和24年3月から昭和26年3月にかけて首里市崎山校区から真和志村○△校区へ転校している事実がある。(各卒業証明書)
又、先の平成6年(家)第××××号戸籍訂正許可申立事件の家庭裁判所の審判における家庭裁判所の審判の判断として、戸籍の記載よりも学校の卒業台帳の記載の方が総括的に見て正しいものと判断して審判が下り、事件本人から何の異議もなく審判が確定した。
戦前から戦後にかけて首里市崎山町に住所をかまえ、戦後かなりたってから首里市崎山町より、真和志村○△に移転して来た事を立証するために、証拠資料を添付する。なお、一部は本戸籍の他の事項の訂正事件の裁判に提出したものである。
除籍及び改製原戸籍における錯誤又は遺漏によって訂正して記載し直した箇所がかなり発生しているが、その箇所を記述する。
<1> 次男・政和の出生の年の訂正(昭和52年10月26日訂正)
<2> 三女・尚子の父母との続柄の訂正(昭和37年4月5日訂正)
<3> 父・政史の氏の訂正(平成8年2月1日)
<4> 長男・政明戸籍の記載遺漏につき許可により記載(平成8年7月9日記載)
<5> 記載錯誤による父母との続柄及び戸主との続柄訂正(平成8年7月9日訂正)
注 事件関係人の人名は仮名にした。