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金沢地方裁判所 平成11年(ワ)307号 判決 2003年2月17日

原告

甲野太郎こと

甲太郎

外3名

上記4名訴訟代理人弁護士

敦賀彰一

浅野雅幸

被告

同代表者法務大臣

森山眞弓

同指定代理人

長谷川鉱治

外6名

主文

1  被告は,原告甲太郎に対し金82万5000円,同甲野二郎,同甲野三郎及び同甲野四郎に対しそれぞれ金27万5000円並びにこれらに対する平成11年6月24日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告らのその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用はこれを6分し,その5を原告らの負担とし,その余を被告の負担とする。

事実及び理由

第1  請求

被告は,原告甲太郎に対し金540万円,同甲野二郎,同甲野三郎及び同甲野四郎に対し各180万円並びにこれらに対する平成11年6月24日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2  事案の概要

本件は,亡甲野花子(以下「花子」という。)の相続人である原告らが被告に対し,花子が被告の設置にかかる病院に入院中,その承諾がないのに比較臨床試験の被験者とされ,治療方法に関する自己決定権を侵害されて精神的苦痛を被り,国家賠償法1条1項,民法715条もしくは民法415条に基づき被告に対して損害賠償請求権を取得し,これを原告らが相続したとして,その賠償を求めた事案である。

1  前提事実(争いがないか,証拠(甲9,乙1,11の1及び2,乙12,19,証人丙田次郎)及び弁論の全趣旨により明らかに認められる)

(1)  当事者

ア 花子(昭和22年11月24日生)は,平成10年12月21日に死亡した。原告甲野太郎こと甲太郎(以下「原告太郎」という。)は,花子の夫,原告甲野二郎(以下「原告二郎」という。),原告甲野三郎(以下「原告三郎」という。)及び原告甲野四郎(以下「原告四郎」という。)は,いずれも花子の子であり,その相続分は,原告太郎が2分の1,その余の原告らが各6分の1である。

イ 被告は,金沢市内に○○大学医学部附属病院(以下「被告病院」という。)を設置している。被告病院産科・婦人科は,教授1名,助教授1名,講師3名,助手6名,医員3名,研修医4名で構成されている。平成6年ころから,同教授は乙山一郎(以下「乙山教授」という。)が務めている。

(2)  花子に対して化学療法が開始されるまでの経過

ア 花子は,平成9年5月,石川県小松市内の庚山レディースクリニックにおいて子宮筋腫の病名で腹式子宮全摘術を受けたが,その後食欲不振,体重減少等の症状が現れたため,同年11月ころ,根上総合病院内科で診察を受けたところ,左水腎症に罹患していること,左尿管下端付近に腫瘤があること等の指摘を受けた。

イ 同月26日,花子は,被告病院泌尿器科を受診し,その指示によって同病院婦人科の診察を受けた。その結果,花子の膣断端部にしこりが認められ,病理検査で腺癌細胞(クラス5)が認められたため,「子宮頚部断端癌」と診断された。この診断は,一般に,膣に腺癌が発生することは考えられないことから,庚山レディースクリニックでの子宮摘出は全摘でなく,上部切断術であり,残存した子宮頚部に腺癌が発生したものと考えられたことによるものであった。

ウ 同年12月2日,花子は,精査加療目的で被告病院婦人科に入院した。入院時の身長は149センチメートル,体重は34キログラムであった。主治医は,丙田次郎医師(以下「丙田医師」という。)であった。入院後の画像検査の結果,花子の膀胱後面の骨盤内にも腫瘍が認められた。

エ 同月18日,丙田医師らは花子に対し,腫瘍摘出等を目的として開腹手術を施行した。その結果,右卵巣腫瘍が認められ,これとは別に,膣断端部にも腫瘍が認められた。後者は,膀胱及び周囲の組織と強固に癒着して硬結となっていて,摘出が不可能であると判断された。そこで,丙田医師らは,右卵巣腫瘍の部分摘出,左卵巣切除及び膀胱尿管吻合をして閉腹した(以下「本件手術」という)。

手術後の病理検査の結果,右卵巣の腫瘍と膣断端部の腫瘍はともに粘液性腺癌であることが判明したが,いずれかが原発癌で他方が転移癌か,双方が同時に発生した重複癌かの確定はできなかった。

オ 平成10年1月16日,丙田医師は,花子及び原告太郎に対し,手術後の追加治療について次の説明をし,花子及び原告太郎は,花子に対してシスプラチン製剤による化学療法が開始されることに同意した(なお,花子に癌告知をしていなかったので,花子に対しては,あくまでも卵巣腫瘍であると説明された。)

(ア) 花子には,右卵巣と膣断端部に腫瘍があったこと,両者の関係は不明であること

(イ) 膣断端部の腫瘍の完全切除ができない状態であったため今後も治療が必要であること,どちらの腫瘍も腺癌なので,放射線治療よりも化学療法の有効性が高いこと

(ウ) 化学療法の場合,抗腫瘍剤を4,5日かけて1回投与し,これを1か月に1回の割合で,3,4回行うこと

(エ) 抗腫瘍剤の副作用には,吐き気,脱毛,白血球低下等があること

(3)  卵巣癌に対する化学療法について

ア 卵巣癌に対する化学療法としては,欧米では,1970年代後半以降,白金製剤系の抗悪性腫瘍剤であるシスプラチンにアルキル化剤系の抗悪性腫瘍剤であるサイクロフォスファミド及びアドリアマイシンを加えた併用療法(以下「CAP療法」という。)が一般的となった。その後,アドリアマイシンの副作用が臨床上問題となるに至り,CAP療法からアドリアマイシンを除いた療法(以下「CP療法」という。)が考え出され,欧米においてCAP療法とCP療法の比較検討がなされた結果,抗癌効果及び生存率に有意な差は認められず,他方副作用はCP療法の方が軽いことから,CP療法はCAP療法に匹敵する治療法であるとの世界的コンセンサスが確立した。

我が国においても,昭和58年にシスプラチンが卵巣癌等に対する効果を効能として製造することが承認されて以来,CAP療法が一般的となっていたが,その後CP療法もCAP療法と優劣差のない標準的治療法として使用されるようになった。なお,シスプラチンには,悪心,嘔吐,食欲不振等の消化器症状,重篤な腎障害,白血球減少,聴器障害,肝障害,末梢神経症状等の副作用があり,とりわけ腎毒性が顕著である。

イ タキソールは,樹皮から抽出されたシテルペン誘導体から開発された新薬であり,これとシスプラチンもしくはその改良剤であるカルボプラチンを組み合わせた併用療法(以下「タキソール療法」という。)は,最強の組み合わせとして期待され,1996年,アメリカの医学雑誌に初めてその有効性が報告された。我が国においては,平成9年12月,タキソールが卵巣癌治療のための薬剤として認可された。

ウ 花子が化学療法をうけた平成10年1月当時,我が国においては,CP療法とCAP療法が同等の効果を持つ標準的な治療方法としての医療水準にあり,タキソールは,認可直後であったので,これを第1次薬剤として投与した症例は少なく,副作用の発現様式や効能が十分に判明している状況にはなかったため,医療現場において,卵巣癌に対する化学療法としてタキソール療法を第1次的に選択するコンセンサスは得られていなかった。

(4)  北陸GOG研究会について

ア 「Hokuriku Gynecologic Oncology Group」(略称「北陸GOG研究会」)は,婦人科腫瘍の正しい診断と治療成績向上のための研究を目的とし,会員を○○大学及びその関連病院の婦人科学医師として,平成7年5月に設立された研究会である。事務局は○○大学産婦人科学教室に置かれ,代表世話人には乙山教授が就任した。これには,北陸地域の13の医療施設が参加した。

イ 平成7年9月,北陸GOG研究会では,卵巣癌に対する最適な治療法を確立するために,CAP療法とCP療法とを無作為で比較する試験ないし調査を始めた(以下「本件クリニカルトライアル」という。)。そのプロトコール(実施要綱,以下「本件プロトコール」という。)によると,その具体的な目的,方法等は次のとおりである。

(ア) 目的

卵巣癌の最適な治療法を確立するために,Ⅱ期以上の症例を対象として,高用量のCAP療法とCP療法で無作為比較試験をすることにより,患者の長期予後の改善における有用性を検討する。あわせて,高用量の化学療法におけるG―CSF(顆粒球コロニー形成刺激因子。皮下注射または静脈注射することにより,白血球数減少を予防したり,回復を早める効果がある。)の臨床的有用性についても検討する。

(イ) 対象症例

次の条件を満たす症例。組織学的に上皮性卵巣癌であることが確認されていること,臨床進行期Ⅱ期以上(花子もこれにあたる)であること,75歳以下であること,パフォーマンスステイタスが0ないし3であること,充分な骨髄・肝・腎機能を有すること(腎機能については,血清クレアチニン値が2.0mg/dl以下であるか,またはクレアチニンクリアランス値が60ml/min以上であること),少なくとも2サイクルの投与が可能であること,患者本人またはその代理人の同意を得られたこと

(ウ) 割付方法

術後,残存腫瘍が2cm以下の群と,2cm以上の群に層別した上で,無作為に割り付ける。

(エ) 登録方法

対象症例と判断した場合は,投与予定直前に登録事務局に電話またはファックスで連絡し,治療法の指示を受ける。

(オ) 治療法

治療法は,高用量CAP療法と高用量CP療法とし(いずれもシスプラチン90mg/m2を用いる),投与周期は原則として3ないし4週間毎とし,8サイクル行う。

(カ) 減量基準

できるだけ全量を投与することが望ましい(少なくとも2サイクル目までは全量投与とする)。全量投与が困難な場合には,基準をもうけて減量してもよい。腎機能に関する減量基準は次のとおりである。

a 血清クレアチニン値が1.2〜1.5mg/dlまたはクレアチニンクリアランス値が40〜60ml/minの場合は,シスプラチンを75パーセント

b 血清クレアチニン値が1.5〜2.0mg/dlまたはクレアチニンクリアランス値が30〜40ml/minの場合は,シスプラチンを50パーセント

c 血清クレアチニン値が2.0mg/dl以上またはクレアチニンクリアランス値が30ml/min以下の場合は,中止又は延期

(キ) 全例にG―CSFによるレスキューを行う。特に2サイクル目より予防的にG―CSFを投与する。

(ク) 評価項目

担当医師は,治療終了後5年間追跡調査を実施し,再発確認時期,生存の有無,副作用等を評価する。

(ケ) 登録集積期間及び目標症例数

平成7年9月9日から平成9年8月末まで。各群60例。

(コ) 高用量CP療法の場合の投与スケジュール

一日目にシスプラチン90mg/m2(体表面積当たりの投与量を表す)とエンドキサン(サイクロフォスファミド)500mg/m2を投与し,5日目にエンドキサン(サイクロフォスファミド)500mg/m2を投与し,これを4週間毎に行う。

ウ 北陸GOG研究会は,本件クリニカルトライアルの実施と並行して,「ノイトロジン特別調査Ⅱ」(以下「本件ノイトロジン調査」という。)を実施した。これは,CAP療法,CP療法におけるノイトロジン(G―CSFの一。抗癌剤によって白血球の大幅な滅少が見られた場合に,白血球減少を予防したり,回復を早めるために皮下注射又は静脈注射する薬剤)注の投与のタイミングの検討を,好中球(白血球を構成する1要素)数回復効果及び発熱等によって検討すると共に,ノイトロジン注併用により化学療法が完遂できるか否かについて,その際の奏功率及び安全性と併せて検討するものであり,研究代表者は乙山教授で,試験依頼者は中外製薬株式会社であった。被調査者としては,原則として,本件クリニカルトライアルの被験者のうち,好中球数が1000/mm3(白血球数が2000/mm3)未満になった者を予定していた。

エ 平成11年4月10日から13日にかけて東京で開かれた第51回日本産科婦人科学会学術講演会において,本件クリニカルトライアルの結果が報告された。この報告内容が記載された日本産科婦人科学会雑誌(51巻)によると,その目的として,進行卵巣癌の術後化学療法における高用量シスプラチン(90mg/m2)を中心としたCAP療法とCP療法の効果及び副作用の比較判定をすること,方法として,インフォームドコンセントの得られた術後の上皮性卵巣癌ステージⅡ以上の症例で,年齢75歳以下,十分な骨髄・腎・肝機能を有し,パフォーマンスステイタス3以下の52例を対象とし,症例を無作為にCAP群とCP群に振り分けたこと等が記載されている。

(5)  花子に対してなされたその後の治療等

ア 丙田医師は,平成10年1月20日,花子に対してCP療法による化学療法の1サイクル目を開始した。投与量は,(4)のイの(コ)のとおりであった。

イ その後,花子には腎機能障害が認められ,腎毒性のあるシスプラチン製剤の使用継続がさらに腎機能障害を増幅させることが懸念されたこと,腫瘍は増大傾向を示していてCP療法が奏功していないと考えられたことから,CP療法は1サイクルで中止され,代わって同年3月3日からタキソール療法が開始された。

ウ タキソール療法は3サイクル行われたが,これによっても花子の膣断端部腫瘍に変化が見られず,むしろ増大傾向にあったことから,丙田医師は,マイクロセレクトロンによる放射線治療に変更することとした。その開始を控えた同年6月9日,花子は,その希望によって一時退院した。ところが,その後花子は,被告病院を受診しなかった。

エ 花子は,平成10年7月22日から,石川県内の辰口芳珠記念病院に入通院して治療を受けたが,同年12月21日,死亡した。

2  当事者の主張

(1)  原告ら

ア 本件クリニカルトライアルは,いわゆる比較臨床試験である。

(ア) そもそも比較臨床試験とは,当該患者の治療を第1目的とせず,新薬や治療法の有効性や安全性の評価を第1目的として,人を用いて,意図的に開始される科学的実験であり,複数の治療方法や薬物の有効性ないし安全性を比較研究することを目的とするものである。したがって,比較臨床試験においては,その治療方法も,当該患者の病状等具体的事情に即して選択されるのではなく,無作為に各治療方法が割り付けられることになる。

このように,比較臨床試験は,その目的及び治療方法の選択において,通常の診療と性質を異にするから,被験者となることの同意は,通常の治療行為について事前に包括的同意があったとしても,これに包摂されるものではなく,比較臨床試験を実施しようとする医師は,患者に対し,その目的,治療方法の選択方法,予想される利益,可能性のある危険等を具体的かつ詳細に説明した上,被験者となることにつき真意に基づいた真摯な同意を得る義務があるというべきである。

(イ) 本件クリニカルトライアルは,患者の病状等個別的事情の如何に関わらず,標準的投与量(75mg/m2/4週)より著しく多い高用量(90mg/m2/4週)のシスプラチンを投与し,患者の長期予後の改善における有用性を検討するとともに,かかる高用量の抗がん剤の投与によって被験者にいわば作為的に好中球減少症を生じさせ,これにノイトロジンを投与して,高用量の化学療法におけるG―CSFの臨床的有用性を検討することを目的としており,当該患者の治療を目的としておらず,本件ノイトロジン調査と一体となって薬物の有用性について研究することを目的とするものである。

また,患者は,CAP療法を実施する群とCP療法を実施する群とに無作為に振り分けられ,化学療法投与スケジュールは,予め定められた本件プロトコールに従い,しかも前記のとおり標準的投与量よりも高用量のシスプラチンを投与するものとされ,同時に本件ノイトロジン調査の対象にもなるというものであるから,本件クリニカルトライアルが,患者の治療を目的とした一般診療における化学療法の実施結果を単に集積する統計作業ではなく,患者の治療よりも研究に主眼がおかれた比較臨床試験であることは明らかである。

(ウ) したがって,ある患者を本件クリニカルトライアルの対象症例にしようとする場合,医師は,その患者に対し,本件クリニカルトライアルの目的,治療方法の選択方法,予想される利益,可能性のある危険等を具体的かつ詳細に説明した上,被験者となることにつき真意に基づいた真摯な同意を得る診療契約上の,もしくは信義則上の義務がある。

イ しかるに,丙田医師及び乙山教授は,平成10年1月19日,花子の同意を得ることなく,無断で花子を本件クリニカルトライアルの被験者として,症例登録票に必要事項を記入して症例登録し,その後本件プロトコールにしたがった治療を行い(ただし,花子の腎機能が著しく悪化したため,8サイクル予定されていたCP療法は1サイクルで中止された),花子の治療方法に関する自己決定権を侵害した。これは,診療契約に違反するとともに,花子に対する不法行為である。

なお,花子が症例登録されたことは,花子の症例登録票(甲5の1)が作成されていることから明らかである。

ウ 花子は,平成10年4月ころ,自らが知らないうちに本件クリニカルトライアルの被験者とされていたことを知って多大な精神的苦痛を被った。更に,次の事情を斟酌すると,花子の精神的苦痛を慰謝するに相当な金額は,金900万円を下回らない。

(ア) 本件クリニカルトライアルが実施された当時,CAP療法及びCP療法の有効性や副作用については既に知見が確立しており,本件クリニカルトライアルを実施する必要性がなかった。本件クリニカルトライアルの真の目的は,本件ノイトロジン調査の被調査者を確保することにあった。

(イ) 花子に投与されたシスプラチンは高用量であった。

(ウ) 平成10年1月16日,花子のクレアチニンクリアランス値は51.30ml/minであり,腎機能が低下していた。本件プロトコールによると,これは,本件クリニカルトライアルの対象症例にすることができず,開始後であれば,シスプラチンを25パーセント減量するべき数値である。しかるに,丙田医師は,本件プロトコールにしたがったCP療法を実施した。その結果,花子の腎機能は著しく悪化し,花子は,同月29日から,体温や血圧の常時管理を余儀なくされるほどの状態に陥った。

(2)  被告

ア 花子が本件クリニカルトライアルに症例登録された事実はない。

(ア) 北陸GOG研究会における症例登録の流れは,以下のとおりである。

すなわち,北陸GOG研究会が行う比較研究の対象として登録可能な症例があれば,担当医は症例登録票を作成し,事務局に郵送又はファックスで送付する。事務局への連絡が電話でなされた場合には,事務局が担当医から事情を聴取して症例登録票を作成する。事務局は集まった症例登録票をデータ入力し,事務局の責任者である乙山教授が同票の記載事項に基づいて最終的に登録の可否を決定する。もっとも,問題のない症例については,事務手続上,事務局が登録の可否を判断する。

このように,症例登録票は,本件病院及び関連病院が北陸GOG研究会の比較研究の対象として登録可能な症例を事務局に連絡する連絡票としての性格と,登録の可否を判定する判定票としての性格を併せ持つものである。

(イ) 丙田医師は,本件クリニカルトライアルをより信頼性のあるものにするためには少しでも多くの症例を集積したほうが良いと判断し,花子については手術の結果,重複癌の疑いが濃いものの,重複癌であるとの病理組織学的確定診断はなされていないこと,年齢や全身状態などの条件は満たしていたことから,平成10年1月19日ころ,担当医として花子についての症例登録票(甲5の1)を作成し,事務局に送付した。

この段階での症例登録票は,事務局に症例登録の可否を問う連絡票にすぎず,これをもって花子が本件クリニカルトライアルに症例登録されたことを示すものではない。

ところが,同月19日,乙山教授から,花子は重複癌の疑いが濃厚であり,本件クリニカルトライアルへの登録対象とはならない旨の指示があったため,花子は本件クリニカルトライアルへの登録から除外された。

(ウ) 花子が本件クリニカルトライアルに症例登録されていないことは,本件プロトコールが重複癌の患者を除外していること,花子のクレアチニンクリアランス値が本件プロトコールの基準値を下回っていたこと,花子に対してはCP療法を1サイクル実施されたのみであって,本件プロトコールにしたがった薬剤の投与がなされていないことからも明らかである。

イ 仮に,花子が本件クリニカルトライアルに症例登録されていたとしても,本件クリニカルトライアルは,いわゆる比較臨床試験ではない。

(ア) そもそも比較臨床試験とは,基本的には,医薬品の承認申請のため,製薬企業からの依頼によって行われるものであり,医薬品の開発段階における新薬開発治験(薬事法2条7項,14条3項)と,市販後の医薬品について厚生大臣の再評価を受けるために行う市販後臨床試験(同法14条の4第4項)がある。

また,法律上の根拠はないが,院内の医療従事者の発意で新たな治療法を模索,研究するために行われる試験的要素の強い臨床研究として,院内臨床試験があり,これには,市販医薬品の保険適用外使用(患者の個別医療及び医薬品の適用拡大,新治療法の開発を目的とした試験研究)と,院内特殊製剤の製造と使用(市販医薬品や試薬を様々な剤形に加工したものを用いる新治療法あるいは診断法などの開発研究)がある。

このように,比較臨床試験とは,有効性の確立していない薬品若しくは再評価が必要な医薬品について行われるものであり,治療よりは試験または実験に重点がおかれるため,その実施に際しては被験者に対するインフォームドコンセントが特に厳しく義務づけられている。

これに対し,当該症例についての有効性が確立し,当該症例についての使用が承認され,再評価の必要性も問題となっていない医薬品を,当該症例に対して標準的な使用方法と使用量の範囲内で使用する行為は,一般診療の範疇として,医師の裁量が認められている。

(イ) 本件クリニカルトライアルは,卵巣癌に対する化学療法として,有効性に差異がない標準的な治療方法であるCAP療法とCP療法について,治療成績を集積し比較したものにすぎない。

これは,当時,北陸地方の多くの病院で,卵巣癌の化学療法が十分に効果が上がる方法で行われていないのではないかと憂慮される状況にあったため,被告病院が,卵巣癌に対するCAP療法とCP療法について,国内外の研究成果の分析や臨床経験の集積等から最も治療効果のあるものとして採用していた投与量及び投与方法の臨床結果を統計上明確にし,各関連病院に最良の治療方法を示すことを目的としたものであった。

本件プロトコールの内容も,一般診療の範囲内のものである。すなわち,本件プロトコールによるシスプラチンの投与量(90mg/m2/4週)は,一定の幅のある標準的な投与量(50ないし80mg/m2/3週,これを4週当たりに換算すると66ないし106mg/m2/4週となる。)の範囲内である。なお,医師には,投与する薬剤の量を,患者の年齢,体重,症状,病態,臨床検査所見等に応じて通常量の2分の1から2倍程度の範囲内で増減する裁量が認められている。また,本件プロトコールは,好中球又は白血球が基準値以下となった場合にG―CSFによるレスキューを行うことを予定しているにすぎず,高用量の抗がん剤の投与によって作為的に好中球等の減少を生じさせようとするものではないし,本件ノイトロジン調査も一般の保険適応の範囲内でノイトロジンの有効性等を調査するものにすぎない。

そして,患者にCP療法とCAP療法のいずれを割り振るかについても,実際は,担当医の判断により,その患者の症状に合った療法を選んでいるのであって,全くの無作為による割付は行われていない。

(ウ) このように本件クリニカルトライアルは一般診療の範囲内のものであって,比較臨床試験には当たらないから,その実施にあたっての説明義務も,通常の一般的な診療におけるそれと同様に考えるべきである。

そして,丙田医師は,花子及び原告太郎に対し,術後の化学療法を行う必要があること及びその副作用と危険性を説明し,化学療法を開始することについて花子及び原告太郎から同意を得た上,花子には貧血などの骨髄機能低下や体重減少など全身状態に問題があったため,CAP療法に比べ嘔吐などの副作用はあるが,骨髄抑制がより少ないCP療法を選択して実施したのであって,一般診療としてCP療法を行う際に必要な説明義務は尽くしている。

ウ 原告が主張する慰謝料斟酌事由についての反論

(ア) 本件クリニカルトライアルの目的は上記のとおりであって,本件ノイトロジン調査の被調査者を確保することではない。

(イ) 実際に花子に投与されたシスプラチンの量は,花子が卵巣癌の臨床進行期Ⅱ期以上であったことを考えると決して高用量ではない。

(ウ) 原告は,花子の腎機能が低下していた旨主張するが,化学療法を行う際の腎機能の評価は,水分摂取量や尿量による変動の大きいクレアチニンクリアランス値と,これらによる変動の少ない血清クレアチニン値の両者を総合的に勘案して行うべきところ,花子の場合,化学療法開始時において血清クレアチニン値は正常値であり,クレアチニンクリアランス値も基準値を多少下回っている程度であったから,シスプラチンの減量措置を講ずる必要はなかった。化学療法開始後に花子の腎機能が悪化したのは,右腎臓に通していたステントチューブが結石により詰まったために尿が流れなくなったことがその原因であり,シスプラチンの副作用ではない。

3  争点

(1)  花子は本件クリニカルトライアルに症例登録され,本件プロトコールに基づく化学療法を受けたか。

(2)  花子を本件クリニカルトライアルに症例登録することにつき,被告病院の医師には,これを説明して同意を得る義務があったか。

(3)  慰謝料金額

第3  当裁判所の判断

1  争点1(花子は本件クリニカルトライアルに症例登録され,本件プロトコールに基づく化学療法を受けたか。)について

(1)  判断の前提とすべき事実

ア 第2の1の事実に証拠(乙28の1ないし3,乙29の1ないし43,証人丙田次郎)及び弁論の全趣旨を総合すると,本件クリニカルトライアルの症例登録の手続について,次の事実が認められる。

(ア) 本件クリニカルトライアルにおける症例登録の手順は次のとおりである。すなわち,参加施設の担当医は,本件クリニカルトライアルの対象となり得ると考える症例があれば,本件プロトコールが対象症例の条件として掲げている前記各項目(診断名,臨床進行期,生年月日,年齢,パフォーマンスステイタス,骨髄機能,肝・腎機能,少なくとも2コース以上の化学療法が可能であるか否か)について,当該症例がこれらを満たしているか否かを記載した症例登録票を作成して(以下この記載部分を「条件部分」という。),登録事務局に送付する。事務局は症例登録票の条件部分の記載をもとに,対象症例としての条件を満たしているか否かを判断し,症例登録票の「当症例は選択条件を満たしています」又は「当症例は選択条件を満たしていません」のいずれかの欄にチェックする(以下この記載部分を「判定部分」という。)。登録事務局は,選択条件を満たしていると判断した症例について,CAP療法かCP療法かの割り付けを行い,担当医に通知する。治療方法の割り付けは,担当医から特段の希望がない限り,各治療方法の症例数が同数になるよう登録事務局が無作為に行う。登録事務局では,登録症例に症例番号を付して管理する。症例番号は,術後の残存腫瘍径が2cm以上の症例については1番からの,2cm以下の症例については201番からの通し番号と,CAP療法を選択したことを示す「A」と,CP療法を選択したことを示す「B」を組み合わせたものである。(例えば,「A―1」は,腫瘍径が2cm以上の最初の症例で,CAP療法を選択したことを意味している。)

(イ) 本件クリニカルトライアルの登録事務局は,当初,中外製薬株式会社であったが,平成10年3月から○○大学医学部産科婦人科学教室に移転した。そして,その移転の半年程度以前から,事実上,同教室において登録事務を行っており,丙田医師は,その登録事務を担当していた。

イ 原告は,本件訴訟に次の証拠を提出した。

(ア) 花子を対象症例とする症例登録票の写し(以下「原告提出症例登録票」という。甲5の1)

登録日欄に平成10年1月19日と記載され,条件部分が記載され,判定部分では「当症例は選択条件を満たしています」の欄にチェックが付され,症例番号欄には「B―220」との記載がある。これは,平成10年の春ないし夏ころ,原告太郎から相談を受けた本件病院産科婦人科の丁川五郎医師(以下「丁川医師」という。)が,丙田医師が管理しているファイルから発見し,コピーしたものである(甲8,証人丁川五郎)。丙田医師は,証人尋問において,上記記載が自分の筆跡であることを認めている。

(イ) 登録症例の一覧表の写し(以下「原告提出一覧表」という。甲5の2)

右肩に「No2」と記載され,31番から51番まで21症例の記載がある。「No1」も存在したと思われるが,これは当訴訟においては提出されていない。コンピュータ入力されたものが印刷されたものである。21症例は,登録日順に並べられており,最終登録症例(51番)の登録日は,平成10年6月23日である。その42番には,施設名が「○○大学」,担当医師名が「丙田」,登録日が「平成10年1月19日」,症例イニシャルが「TK」,選択療法が「B」と記載されていて,これが花子についての記載であることが明らかである。同番の空白部分に「甲野」と手書きの記載があるが,丙田医師は,証人尋問において,これが自分の筆跡であることを認めている。これも,(ア)と同じ機会に丁川医師がコピーしたものである。

ウ 被告は,本件訴訟に次の証拠を提出した。

(ア) 花子を対象症例とする症例登録票の写し(以下「被告提出症例登録票」という。乙13の2)

書式は,原告提出症例登録票と一部異なる。判定部分以外の記載は,パフォーマンスステイタスが原告提出症例登録票では「3」であるのが「2」になっている外は,原告提出症例登録票の記載と同じ。判定部分では,「当症例は選択条件を満たしていません」の欄にチェックが付され,欄外に重複がんである旨の記載がある。したがって,症例番号欄は空欄である。

(イ) 登録症例の一覧表(以下「被告提出一覧表」という。乙18)

1番から52番までの症例の記載がある。これは最終的な報告の対象となった52症例であると考えられる。これには,花子と思われる症例の記載はない。

(ウ) 最終的に登録症例とされた52例のうち,46例についての症例登録票(乙28の1ないし3,乙29の1ないし43)

このうち,乙29の37は,福井県立病院のイニシャル「AY」氏の症例登録票であり,症例番号は「B―222]である。同氏は,原告提出一覧表によると,花子の次の次の登録である。

また,これらの症例登録票は時期によって様式が異なっているが,被告提出症例登録票と同じ様式のものは乙29の40ないし43の4枚であり,それらの登録年月日は,平成10年3月13日から同年6月23日の間である。

エ 証拠(証人丙田次郎,乙1,20)によると,花子に対してCP療法が開始されるに至った経緯及び開始後の経緯について,次の事実が認められる。

(ア) 花子は,本件手術後,腹水が溜まり,右腎臓にも水腎症が発現するなど,症状が安定しなかった。平成9年12月26日には,花子の右尿管にステントが留置された。

その後症状が改善を示したので,平成10年1月12日,丙田医師は,泌尿器科の医師に花子の診断を依頼し,化学療法の開始の是非について意見を求めたところ,泌尿器科の医師は,左腎は腎機能の改善が認められるが,右腎は軽度の水腎が認められ,尿流の停滞があると思われるため,クレアチニンクリアランスを調べた上で,正常域であれば通常量の化学療法を行えると思うとの意見を述べた。

(イ) 同月16日,花子の腎機能を検査したところ,クレアチニンクリアランス値は51.3ml/min(正常値70〜130ml/min),血清クレアチニン値は0.5mg/dl(正常値0.5〜1.3mg/dl)であった。

同日,丙田医師は,花子に化学療法を開始することを決定し,花子及び原告太郎に対し,前記のとおり説明した上,その同意を得た。そして,同日,研修医である戊谷六郎医師(以下「戊谷医師」という。)に対し,花子を本件クリニカルトライアルに登録する手続を行うよう指示した。その際,選択すべき療法については指示していない。

(ウ) 同月20日,花子に対するCP療法が開始され,シスプラチン90mg/m2(花子の体表面積が1.2m2なので,108mgとなる)とエンドキサン(サイクロフォスファミド)500mg/m2(同様に600mgとなる)が投与され,同月24日,エンドキサン同量が投与され,1サイクルの投薬が終わった。

(エ) 同月23日,被告病院が庚山レディースクリニックで摘出した子宮の標本を取り寄せ病理検査に出したところ,同月27日,子宮の癌が内頚型腺癌であり,卵巣の癌は乳頭状腺癌であったから,花子の卵巣癌と子宮頚部癌は別の癌であると判断された。

(オ) 同月27日,花子は強い右腰痛を,同月28日には強い下腹痛を訴えた。同日の血清クレアチニン値は,4.4mg/dlであり,腎機能が著しく低下していることが判明した。同日,超音波検査の結果,膀胱の背側に境界が不明瞭な腫瘍塊があることが判明し,これが尿路系に浸潤している可能性が考えられた。同月30日,上記ステントを抜去したところ,ステント内部に結石があったことが判明した。痛みは,これによるステントの閉塞が原因であったのではないかと考えられたが,果たして,ステントの抜去により,花子の痛みはおさまった。

(カ) 花子の血清クレアチニン値は,同月30日が2.4,同月31日が2.5,同年2月1日が3.0,同月2日が2.7,同月4日が3.2,同月5日3.1,同月6日2.7,同月9日1.4,同月10日2.2,同月12日2.3(単位はいずれもmg/dl)と異常値を示し続けた。同年1月27日,花子は37度台の発熱を示し,同年2月2日からはこれが38度台に上がると共に,舌の発赤と痛みを訴えるようになった。花子の腹水からは真菌が検出され,その後も発熱は容易におさまらず(熱が38度以上に上がらなくなったのは,2月22日以降である),花子は,吐き気,下痢,腹部膨満感,腰背部痛,脱毛等に苦しんだ。同月14日,丙田医師は,花子の腎機能が低下しているので,シスプラチンは使いにくいこと,1サイクル目の化学療法が効果的とは考えにくいこと等から,今後は,放射線治療(膣腔内照射)の方がベターであると考えた。

(キ) 同月17日,花子に腎ろうが設置された。腎ろう設置の際の尿路造影で,右尿管が尿管交叉部で完全閉塞していることが判明した。丙田医師は,閉塞の原因としてリンパ節転移が考えられるが,放射線を膣腔内照射してもこの位置までは届かないこと,同時に花子に胸水貯留がみつかったことから,今後の治療としては放射線治療よりも全身化学療法が望ましいと考え,タキソール療法を検討することとした。

(ク) 同年3月2日に開催された症例検討会において,丙田医師は,花子の右水腎症が進行していること,血清クレアチニン値の上昇傾向が続いていること,腹部膨満感,吐き気,貧血が進行していることにより癌性腹膜炎が疑われること等からタキソール療法への変更を提案し,了承された。同月3日,花子に対し,タキソールとカルボプラチンが投与され,タキソール療法が始まった。

(2)  以上の事実に基づいて検討する。

ア 花子は,原告提出症例登録票が作成され,登録事務局によって選択条件を満たしていることが確認され,症例番号が付され,コンピュータ管理されていた登録症例の一覧表にデータ入力されたことによって,本件クリニカルトライアルの対象症例として登録され,本件プロトコールにしたがったCP療法を受け,第1サイクル目の抗がん剤の投与を受けたが,抗がん剤の副作用や癌の進行状況から第2サイクル目以降の投与が断念されることになり,これによって本件クリニカルトライアルの対象からはずれたものと認めるのが相当である。

イ これに対し,

(ア) 被告は,原告提出症例登録票は,担当医から登録事務局に対する連絡用のメモにすぎず,登録事務局において選択条件を満たすことを確認し,データ入力した上,乙山教授に登録の可否について最終的な判断を仰ぎ,その決定が出た後に正式に登録されるのであって,花子の場合は,乙山教授が平成10年1月19日に登録しないとの判断をしたので,改めて丙田医師が被告提出症例登録票を作成した旨主張し,証拠〔証人丙田次郎,丙田医師の陳述書(乙13の1,乙21,26)〕中には,その主張に沿う部分がある。

しかしながら,次の事情に鑑みると,上記部分はいずれも採用できない。

a 症例番号の付与,データ入力は,最終的に登録が決定した症例についてなされるのが一般的な方法であろうと考えられ,丙田医師が供述する,症例番号を付し,データ入力した後に最終的な登録の可否を決するという方法は,登録しないとの結論になった場合に,その後の手続が煩瑣であって(入力したデータの抹消,症例番号の変更等),そのような不合理な方法を採用したとの丙田医師の供述は直ちには措信しがたい。

b 丙田医師の供述どおり,仮に乙山教授が花子について登録しない決定をしたのであれば,丙田医師がするべきことは,入力したデータの抹消と原告提出症例登録票の廃棄,若しくは判定部分及び症例番号部分の訂正であると考えられるが,丙田医師は,これらの作業を全くしていない。他方,丙田医師は,被告提出症例登録票を作成したというのであるが,既に原告提出症例登録票が作成されているのに,これと別個に被告提出症例登録票を作成しなければならなかった理由が理解できない。

c (1)のウの(ウ)の事実,すなわち,被告提出症例登録票と同じ様式の症例登録票が平成10年3月13日以降の登録分であることに照らすと,被告提出症例登録票も,同年3月以降に記入されたのではないかとの疑いを払拭できない。

d 花子が登録されなかったのであれば,一旦入力された花子のデータは直ちに抹消されるべきであるが,原告提出一覧表によれば,花子のデータが少なくとも平成10年6月23日までは削除されなかったことが明らかである。また,花子が登録されなかったのであれば,その次に登録された残存腫瘍径が2cm以下の症例には220番を付すべきであると思われるが,「AY氏」の症例番号に鑑みると,平成10年1月20日以降に登録された残存腫瘍径が2cm以下の症例には,221番から番号が付されたことが明らかである。

(イ) 被告は,本件プロトコールが重複癌の症例を除外しているから,重複癌であった花子が登録されることはあり得ない旨主張するが,証拠(乙12)によると,本件プロトコールには,明示的に重複癌の症例を除外する旨の記載はないことが認められる。もっとも,本件クリニカルトライアルの目的を達成するためには重複癌の症例を対象にするのは適当でないということはできる。しかし,上記第2の1の(2)のエの事実によると,平成10年1月16日の時点において,丙田医師は,花子の卵巣癌と子宮頚部癌の関係について,重複癌なのか,いずれかが原発癌でいずれかが転移癌なのかについて判断しかねていた(この点は,乙山教授も同様であったと推認できる。重複癌であることが判明したのは,CP療法の1サイクル目が終了した後である同月27日である。)のであるから,とりあえず花子を登録しておこうと考えた可能性は充分に認められる。また,本件クリニカルトライアルが,当初,平成9年8月末までにCAP選択事例とCP選択事例を各60例集積することを目標としていたのに,その期間を4か月以上経過した平成10年1月においても,目標数の3分の1程度しか集まっていなかった(花子が登録されていたとすれば,それは42例目になる)から,丙田医師や乙山教授には,適当でない可能性のある症例も取り込んで登録数を増やそうとする十分な動機があったということができる。そして,現に,登録担当者である丙田医師は,丙田医師の供述によれば,乙山教授が登録を可とする可能性があると考えて,登録の手続をすすめたのである。そうすると,重複癌であった花子が登録されることがあり得ないなどとは,到底言うことができない。

(ウ) 被告は,花子のクレアチニンクリアランス値が本件プロトコールの基準値を下回っていたから,花子が登録されることはあり得ない旨主張するが,丙田医師は,花子の腎機能に問題がないと判断したことは丙田医師が供述するところであるから,到底同主張を採用できない。

(エ) 被告は,花子に対しては,本件プロトコールにしたがった薬剤の投与がなされなかったから,花子が登録されたことはあり得ない旨主張するが,上記のとおり,1サイクル目の投与がなされた後,抗がん剤の副作用その他花子の身体状態から治療方法が変更になったのであって,そのことと,1サイクル行われたCP療法が本件プロトコールに基づくものであったこととは何ら矛盾しない。

2  争点2(花子を本件クリニカルトライアルに症例登録することにつき,被告病院の医師には,これを説明して同意を得る義務があったか。)について

(1)  比較臨床試験について

ア 原告は,「当該患者の治療を第1目的とせず,新薬や治療法の有効性や安全性の評価を第1目的として,人を用いて,意図的に開始される科学的実験であり,複数の治療方法・薬物の有効性・安全性を比較研究することを目的とするもの」を比較臨床試験と定義し,本件クリニカルトライアルは「比較臨床試験」であると主張する。これに対し,被告は,「比較臨床試験」とは,(1)医薬品の製造承認を受けるための臨床試験(治験),(2)医薬品の市販後調査のうちの市販後臨床試験,(3)病院内で,市販医薬品の保険適用外使用や院内特殊製剤の製造と使用を目的とした院内臨床試験等に限られ,本件クリニカルトライアルのような医薬品の保険適用使用内での最適治療法の開発研究は,「比較臨床試験」には該当しないと主張している。

イ 当裁判所は,医師が患者を試験ないし調査の対象症例とすることについて患者に対するインフォームドコンセントが必要か否かは,その試験ないし調査が「比較臨床試験」に該当するか否かによってアプリオリに決まるものではなく,具体的な試験ないし調査のプロトコールの内容,実際にその患者に施された治療の内容等が,インフォームドコンセントの趣旨に鑑みて,その説明を必要とするものであるか否かによって,判断されるべきものであると考える。

(2) 一般に,癌患者に対して化学療法を施す場合,使用する抗がん剤が相当程度の副作用を生じさせるものであるから,医師には,患者の自己決定権を保障するため,その患者に対し(患者本人に対して癌告知ができない場合には家族に対し),患者の現在の症状,治療の概括的内容,予想される効果と副作用,他の治療方法の有無とその内容,治療をしない場合及び他の治療を選択した場合の予後の予想等を説明し,その同意を得る診療契約上の,若しくは信義則上の義務があるというべきである(本件において,丙田医師は,上記の説明義務は果たしたものと認められる)。しかし,その薬剤を用いて一般的に承認されている方法の治療をする限りにおいて,医師が,投与する薬剤の種類,用量,投与の具体的スケジュール,投与量の減量基準等の治療方法の具体的内容まで説明しなくても違法とは言えないと考えられる。なぜなら,刻々と変化する患者の病状にしたがって臨機に適切な処置を必要とされる医療の本質から,治療方法のすべての具体的内容について医師の説明と患者の同意を要すると解するのは不可能であって,上記の具体的内容は,まさに医師がその専門的知見に基づいて決定するべきこととして,医師の裁量に委ねられていると解せられるからである。この点を患者の立場から見れば,一般に,患者は,医師が,患者の現在の具体的症状を前提に,患者が自己決定し,医師と患者との間で確認された治療の目標(いかなる副作用が生じようとも治癒を目標とする場合もあるし,激しい副作用を起こさない範囲での治癒を目標とする場合もあるし,むしろ苦痛を軽減して残された時間を充実させることを目標とする場合もあると思われる。)を達成することだけを目的として,許された条件下で最善と考える方法を採用するものと信じており,その信頼を前提に,治療方法の具体的内容を専門家である医師の合理的裁量に委ねるのが通常の意思であると考えられる。そして,この信頼こそが医師に上記裁量が与えられる基礎であるということができる。

そうすると,医師が治療方法の具体的内容を決定するについて,上記目的(以下「本来の目的」という)以外に他の目的(以下「他事目的」という)を有していて,この他事目的が治療方法の具体的内容の決定に影響を与え得る場合,医師に上記裁量が与えられる基礎を欠くことになるから,医師が医療行為をなす上で必須である上記裁量を得るためには,その他事目的について患者に説明し,その同意を得ることが必要である。すなわち,本来の目的以外に他事目的を有している医師が医療行為(当然上記裁量を随伴する)を行おうとする場合,患者に対し,他事目的を有していること,その内容及びそのことが治療内容に与える影響について説明し,その同意を得る,診療契約上のもしくは信義則上の義務があるということができるのである。

(3)  そこで,患者を本件クリニカルトライアルに症例登録することが医師の説明義務に含まれるか否かを検討すると,①本件クリニカルトライアルに登録されると,CAP療法とCP療法との選択は,無作為に割り付けられること,②上記割付によって療法が決まると,薬剤の投与量,投与スケジュールは本件プロトコールに定められたとおりに実施されること,③本件プロトコールどおりの実施が困難な場合,投与量を減量できるが,その減量基準,減量幅も本件プロトコールにおいて定められていること,以上の事実が指摘できる。

CAP療法及びCP療法のいずれも保険適用が認められ,卵巣癌に対する優劣のない標準的治療法として承認されているとはいえ,CP療法は,アドリアマイシンの抗癌効果を見込めない一方,副作用がCAP療法よりも軽いという特徴があるのであるから,医師としては,患者の身体状態,癌の特徴及び進行状況等を具体的に検討して,その患者にCAP療法とCP療法のいずれが適しているかを選択するとともに,薬剤の投与量,投与スケジュール等を決定するべきものである。そうではなく,療法の選択を無作為割り付けに委ね,薬剤の投与方法を本件プロトコールに従うのは,患者のために最善を尽くすという本来の目的以外に,本件クリニカルトライアルを成功させ,卵巣癌の治療法の確立に寄与するという他事目的が考慮されていることになる。そうすると,丙田医師が,花子を本件クリニカルトライアルの対象症例にはしたものの,本件プロトコールにこだわらず,花子にとって最善の治療方法を選択したと認められる特段の事情のない限り,丙田医師としては,花子に対し,本件クリニカルトライアルの対象症例にすることについて説明し,その同意を得る義務があったというべきである。なお,北陸GOG研究会自身が,本件プロトコールにおいて,対象症例の条件として,患者本人またはその代理人の同意を得られたことを掲げ,日本産科婦人科学会学術講演会における本件クリニカルトライアルの発表においても,インフォームドコンセントを得られた症例を対象とした旨説明したのであって,これによれば,北陸GOG研究会としても,同様の認識を有していたものと推認できる。

(4)  そこで,上記特段の事情の有無について検討する。

ア 被告は,本件プロトコールでは療法の選択が無作為割付と定められているが,実際には,医師が療法を指定することがあり,丙田医師も,花子にとってはCP療法が望ましいと判断してCP療法を指定した旨主張し,丙田医師の供述中には,その主張に沿う部分がある。

なるほど,証拠(乙29の37)によると,主治医が登録症例について療法を指定する例があったことが認められる。しかし,花子については,丙田医師の指示を示す直接の証拠は存在しない。更に,証拠(乙28の2,3,乙29の2,7,8,11,16,18ないし20,22,24,25,27ないし30,34,35)によると,花子以前の登録症例のうち,残存腫瘍径2cm以下の19例のうち,CAP療法が選択されたのが10名,CP療法が選択されたのが9名であることが認められるから,花子に対して無作為割付がなされても,CP療法が選択されていた可能性が高いと考えられる。丙田医師自身が登録事務を担当していたから,花子に関しては,主治医から登録事務局に対する指定の意思表示が存在し得ず,結局,花子に対してCP療法を選択した丙田医師の動機にかかる問題であって,本件で提出された証拠によっては,花子に対するCP療法の選択が,無作為割付によるものではなく,丙田医師の指定によるものであったと積極的に認定するのは困難である。

イ その他,実際に花子に対して施されたCP療法の1サイクルは,シスプラチンその他薬剤の用量も,投与スケジュールも本件プロトコールのとおり行われており,丙田医師が,本件プロトコールにこだわらず,花子にとって最善の治療方法を選択したと認め得る事情はない。

ウ よって,本件で取り調べた証拠によっては,上記特段の事情を認めることはできない。

(5)  以上の検討の結果によれば,花子に対する説明と花子の同意を得ることなく,花子を本件クリニカルトライアルの対象症例として登録し,本件プロトコールにしたがった治療をした丙田医師の行為は,花子の自己決定権を侵害する不法行為であるとともに,診療契約にも違反する債務不履行にも当たるというべきである。

3  争点3(慰謝料金額)について

(1)  原告が慰謝料斟酌事由と主張する事実について検討する。

ア 本件クリニカルトライアルの目的について

(ア) 証拠(甲10,乙3,32,41)によると,次の事実が認められる。

a 平成9年1月に発行された「産婦人科の実際」46巻1号の「欧米における卵巣癌化学療法の現況」(近畿大学医学部産科婦人科学教室,池田正典執筆)には,現在ではシスプラチンのDose Intensity(単位時間当たりに投与する用量,mg/m2/週)は16mg/m2/週が臨床上の限界値と考えられているが,近年,G―CSFなどの薬剤の登場により,よりaggressiveな化学療法が試みられていることが記載されている。

b 平成12年8月に発行された「日産婦雑誌」52巻8号に掲載された婦人科腫瘍委員会による「卵巣がんの治療の基準化に関する検討小委員会の報告」には,CAP療法においても,CP療法においても,標準的化学療法として推奨されるシスプラチンの用量は,4週間隔で75mg/m2であること,G―CSFなどを併用することにより,通常の化学療法よりDose Intensityを高めた高用量化学療法に関する検討がなされていることが記載されている。

c 乙山教授は,平成6年ころ大阪大学から○○大学に教授として赴任したが,シスプラチンのDose Intensityについて世界的なスタンダードが25mg/m2/週であると認識し,我が国においては副作用によるトラブルを恐れるあまり用量が低めに設定されているとの問題意識を持ち,G―CSFを併用して高用量化学療法を定着させるべきであると考えていた。そして,当時北陸地域では,一般的な投与量が10mg/m2/週であったため,これを世界的なスタンダードに近づける必要があると考え,平成7年,○○大学医学部産婦人科で「悪性卵巣腫瘍の○○大学産婦人科治療指針」(以下「本件治療指針」という)を定め〔これによると,臨床進行期Ⅱ期以上の患者に対しては,高用量CAP療法もしくは高用量CP療法(いずれもシスプラチンの量は90mg/m2)を行うこととされている〕,これと相前後して,北陸GOGで本件クリニカルトライアルを始めた。

(イ) 上記のとおり,本件クリニカルトライアルの目的は,北陸地域において高用量化学療法を定着させることにあったと認められるのであって,結果的に,同時に行われた本件ノイトロジン調査の被調査者を確保する機能を果たしたとはいえ,これが目的だったとまで認めることはできない。

イ 花子に投与されたシスプラチンは高用量であったか

(ア) 証拠(甲6,16の1ないし3)によると,ブリストル・マイヤーズスクイブ株式会社製造のブリプラチン(一般名シスプラチン)の添付文書によると,卵巣癌に対する標準的用法,用量は,50ないし70mg/m2を1日1回投与し,少なくとも3週間休薬する方法であると記載されていることが認められる。

(イ) この事実に上記アの各事実を併せ考えると,本件プロトコールに基づくCAP療法及びCP療法は,少なくとも我が国ないし北陸地域においては,それまでの一般的な医療慣行から踏み出した内容を有するものであって,そこで定められたシスプラチンの用量は,Dose Intensityの面においても,1回の投与量の面においても,それ以前の医療慣行に基づく標準的な用量よりも「高用量」であったというべきである。丙田医師は,本件プロトコール及び本件治療指針における「高用量」との表現は,標準的な用量に対する「高用量」ではなく,本件治療指針で臨床進行期Ⅰ期の患者に対して施すこととされている低用量のCAP療法及びCP療法(シスプラチンの使用量が60mg/m2)に対する「高用量」である旨供述するが,採用できない。

なお,被告は,シスプラチンの標準的投与量は,世界的には75ないし100mg/m2/3ないし4週であると主張するが,仮にそうであったとしても,上記判断と矛盾しない。更に被告は,本件プロトコールで定めた90mg/m2/4週のDose Intensityは22.5mg/m2/週であって,前記添付文書のそれは16.7ないし25mg/m2/週であるから,本件プロトコールが定めたシスプラチンの用量は添付文書の範囲内であって「高用量」ではない旨主張するところ,そうであっても,上記の意味で「高用量」であることは否定できないし,抗がん剤の効果は,主にDose Intensityの影響を受けると考えられるが,副作用の程度は,Dose Intensityもさることながら,むしろ一時に投与される薬剤の量の影響を強く受けると考えられるから,Dose Intensityの対比だけで「高用量」か否かを判断するのは相当でないというべきである。

(ウ) 一般的に高用量化学療法を定着させることの評価については,医学的な専門的判断にかかわることであって,当裁判所はその是非を判断できない。しかしながら,本件プロトコールが,対象症例の条件として,充分な骨髄・肝・腎機能を有することを掲げ,腎機能に関する減量基準の定めについても,慎重を期し,血清クレアチニン値とクレアチニンクリアランス値のいずれかが基準を下回った場合には,これに該当することとしていることにも鑑みると,高用量のシスプラチンを投与するに当たっては,医師としては,その副作用に十分配慮しなければならないというべきである。

(エ) そうすると,腎機能が低下し,平成10年1月16日のクレアチニンクリアランス値が減量基準を満たしていた花子に対して,シスプラチンを投与するについては,少なくとも本件プロトコールの減量基準にしたがって25パーセントを減量するのが適当であったと考えられる。しかるに,丙田医師が花子に対し,減量することなく高用量のシスプラチンを投与したのは,本件プロトコール中の,「少なくとも2サイクル目までは全量投与とする」との一節にしたがったものと考えざるを得ない。

なお,被告は,クレアチニンクリアランス値は,水分の摂取量や尿量によって異なるので,信頼値が低く,血清クレアチニン値の方が信頼度が高いところ,化学療法開始前の花子の血清クレアチニン値は0.5mg/dlと正常値を示していたから,花子の腎機能に問題はなかった旨主張し,証拠(乙21,証人丙田次郎)中には,その主張に沿う部分がある。しかしながら,証拠(甲7の1,2,証人丙田次郎)によると,クレアチニンクリアランス値は尿量の変化による影響を受けにくく,臨床的にすぐれた価値を有していること,血清クレアチニン値は,クレアチニンクリアランス値が50ml/min以下に低下してこないと異常を示さないこと,血清クレアチニン値は患者の体格や筋肉の量が影響し,花子のような小柄な体格であることが原因で低い値が出ることがあること等の事実が認められ,更に,丙田医師が花子の診断を依頼したいわば腎臓については専門家である泌尿器科の医師が,「クレアチニンクリアランス値が正常域であれば通常量の化学療法を行える」旨の意見を述べ,クレアチニンクリアランス値を重視していたことをも考え合わすと,丙田医師の上記判断は断定的に過ぎるというべきであって,丙田医師は,花子の腎機能の低下を疑い,より慎重な対応をすべきであったというべきである。

また,被告は,丙田医師が花子に投与したシスプラチンの用量は,本件治療指針にしたがった適切なものであった旨主張するが,証拠(甲11)によると,臨床進行期Ⅱ期以上の患者に対して,高用量CAP療法もしくは高用量CP療法を行うことを定めた本件治療指針は,同時に両療法の無作為比較試験を行うとされていることが認められ,本件クリニカルトライアルへの登録が当然のこととされていたことが推認される上,そもそも「治療指針」とは標準的な治療法を記載したものであり,医師としては,患者の病態や全身状態に応じて,治療指針を適宜修正して具体的な治療方法を決めるべきものであるから,上記治療指針にしたがったからといって,それが花子に対する適切な用量だったということにはならない。

ウ 花子に本件プロトコールにしたがった抗がん剤が投与されたために,腎機能の低下その他激しい副作用を生じさせたか。

(ア) 花子には,もともと左水腎症があったが,本件手術後は右水腎症も発症し,平成10年1月16日のクレアチニンクリアランス値は正常値以下であって,腎機能の低下が認められたから,丙田医師としては,強い腎毒性を持つシスプラチンを花子に投与するについては,その用量について慎重な配慮をするべきであった。しかるに,丙田医師は,本件プロトコールにしたがい,90mg/m2という高用量のシスプラチンを投与したため,これがその後の花子の腎機能の低下の一因となったというべきである。

被告は,花子の化学療法開始後の腎機能の低下は,結石によるステントの閉塞が原因であり,シスプラチンによる副作用ではない旨主張するところ,前認定の事実によれば,なるほどステントの抜去によって花子の下腹部痛等は治まったが,その後も血清クレアチニン値が異常値を示し続けたのであるから,腫瘍による尿管圧迫で尿流量が低下したことも一因であったと考えられるとしても,シスプラチンの副作用もまた一因であったと認めるのが相当である。

(イ) なお,花子は,腎機能の低下以外にも,抗癌剤の副作用に苦しんだ。この苦しみとシスプラチンが減量されていた場合の苦しみとの間に違いがあったか否かを判断するのは困難である。そして,被告は,真菌の感染によって起こった花子のカンジダ血症は抗真菌剤の投与によって治癒しており,吐き気や嘔吐は抗がん剤の副作用として通常のものであるし,発熱も尿路の確保と抗生物質の投与で緩解しており,花子の白血球数が減少していないことからも全身状態の顕著な悪化は認められないと主張し,証人丙田次郎も同様の供述をする。

しかしながら,証拠(甲21の1ないし3,乙1,9,証人丙田次郎,証人丁川五郎)によると,花子に見られた発熱は,約3週間にわたって38度以上の高熱が続くという激しいものであったこと,血液中に真菌が発生することは全身状態の悪化を端的に示しているが,真菌にまで感染するのは抗癌剤の副作用としてもまれであること,白血球数に減少が見られなかったことは,真菌の感染によって白血球数が増えたためであると考えられること等の事実が認められ,これらの事実によれば,シスプラチンの投与量が高用量であったが故に,副作用の程度が激しくなった可能性は否定できないと思われる。

(ウ) 他方,花子は,本件手術後,丙田医師から,化学療法を実施すること,予定される概括的なスケジュール,予想される副作用の内容等の説明を受け,これに同意していたのであり,結果的に花子に生じた副作用は,本件プロトコールにしたがった投薬がなされた結果,より激しくなった可能性があるとはいえ,花子の予想を超えるものであったとまでは言い難い。

(2)  証拠(甲2の1,2)及び弁論の全趣旨によると,花子は,丙田医師が,花子のために最善の治療をしてくれていると信じて苦しい抗がん剤治療に耐えてきたのに,本件クリニカルトライアルに登録されていたことを知り,自分に対する治療が一種の実験だったと理解し,激しい憤りを感じたことが認められる。そして,その事実に(1)の各事情を総合勘案すると,花子が被った精神的苦痛は,金150万円をもって慰謝されるのが相当であると認められる。

また,本件事案の内容,審理経過,認容額及び弁論の全趣旨に照らすと,被告病院の医師による前記違法行為と相当因果関係のある損害として賠償を求めうる弁護士費用としては,15万円を相当と認め,原告甲太郎はその2分の1を,その余の原告らはその6分の1を負担したものと推認する。

したがって,原告太郎は,花子の死亡により同人の不法行為もしくは債務不履行に基づく損害賠償請求権の2分の1に相当する75万円を相続し,これに自ら負担した弁護士費用7万5000円を加えた82万5000円の損害賠償請求権を有し,原告二郎,同三郎及び,同四郎は,花子の死亡により同人の前記損害賠償請求権の6分の1に相当する25万円をそれぞれ相続し,これに自ら負担した弁護士費用各2万5000円を加えた27万5000円ずつの損害賠償請求権を有することになる。

4  結語

よって,原告らの本訴請求は,原告太郎が被告に対し,金82万5000円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成11年6月24日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で,原告二郎,同三郎及び同四郎が被告に対し,各金27万5000円及びこれに対する前記同様の日である平成11年6月24日から各支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度でそれぞれ理由があるから,その範囲で認容し,その余はいずれも理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担について民事訴訟法61条,64条本文,65条1項本文を適用し,仮執行の宣言は相当でないから付さないこととして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・井戸謙一,裁判官・佐藤達文,裁判官・上田賀代)

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