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金沢地方裁判所 平成11年(ワ)633号 判決 2002年11月14日

金沢市N一丁目10番10号

原告

同訴訟代理人弁護士

甲野太郎

東京都港区芝大門一丁目1番3号

被告

日本赤十字社

同代表者社長

丙山三郎

同訴訟代理人弁護士

乙川次郎

主文

1  被告は原告に対し,金60万円及びこれに対する平成11年12月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用はこれを10分し,その9を原告の負担とし,その余を被告の負担とする。

4  この判決第1項は,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

被告は原告に対し,951万2800円及びこれに対する平成11年12月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

本件は,被告に雇用されて准看護婦として稼働していた原告が,被告から,2度にわたって不当,違法な配置換えの辞令を受けたため,退職を余儀なくされる等の損害を被ったとして,被告に対し,不法行為に基づく損害賠償を求める事案である。

1  基礎的事実〔争いがないか,証拠(乙1ないし3,5,7ないし10,16ないし18)及び弁論の全趣旨によって明らかに認められる〕

(1)  当事者

ア 被告は,日本赤十字社法に基づいて設立された特殊法人であり,赤十字の理想とする人道的任務を達成することを目的とし,その目的を達成するために,血液センターの経営その他血液事業の普及発達を図る事業を行っており,石川県赤十字血液センター(以下「血液センター」という)を設置,運営している。

血液センターは,県民医療に必要な輸血用血液の安定確保と安全性の高い輸血用血液の供給及び血漿分画製剤原料血漿の確保を主たる業務とし,所長の下に事務部と技術部が置かれ,それぞれ事務部長と技術部長が統括している。事務部に総務課,業務課及び供給課がおかれ,技術部に採血課,製剤課及び検査課が置かれている。事務所は金沢市B町に所在し(以下「血液センター本所」という),これと別に同市C町に「C町献血ルーム」と呼ばれるC町出張所が設置され,C町出張所には,管理係と採血係が置かれている。

なお,後記の原告に対する第1回異動が行われた平成10年1月1日及び第2回異動が行われた及び平成11年7月1日当時,血液センターの所長はO(医師である。以下「O所長」という),事務部長はN(元県庁の職員であって,医療分野での特別の資格は有していない。以下「N事務部長」という),技術部長はO所長が兼務し,技術副部長はG(薬剤師である。以下「G副部長」という)であった。

イ 原告(昭和29年3月15日生)は,昭和46年4月に准看護婦の資格を取得し,昭和49年8月1日,被告に雇用職員として採用され,同年11月1日,被告に准看護婦として採用され,血液センター本所の採血課に配属され,以後同課で勤務していたが,平成5年7月1日,c町出張所採血係に配置換えとなった。

(2)  献血の手続

ア 献血には,一般献血(200ミリリットルと400ミリリットルがある)と成分献血(血漿と血小板がある)がある。血液センターでは,かねて,正看護婦に対してはすべての献血の採血を担当させていたものの,准看護婦に対しては,一般献血及び血漿成分献血の採血のみを担当させ,血小板成分献血の採血を担当させていなかったが,平成7,8年ころから,准看護婦に対しても,順次教育の上,血小板成分献血の採血も担当させるようになった。

イ 献血希望者に対しては,まず受付担当者が献血手帳や本人申告に基づいて受付適否の判断,インフォームドコンセント,献血申込書や問診票の内容の確認,希望献血種別の選択等をし,次に,事前検査担当者が事前採血の上,血液比重等の献血する際に必要な検査を実施し,次に,問診室で検診医師が問診をした上で採血可否判断をし,これに基づいて看護婦に対して採血指示を出し,次に,看護婦が採血室で採血し(以下,事前採血と区別して「本採血」ということがある),採血終了後受付担当者が献血手帳の発行,体調の確認,献血後の注意事項説明等をする。

ウ なお,血液センター本所採血課とC町出張所採血係は同じ採血業務を行っているが,一般にC町出張所の方が献血希望者が多く,多忙である。

(3)  本件第1回異動

原告は,平成10年1月1日,c町出張所採血係から血液センター技術部採血課に配置換えとなった(以下「本件第1回異動」という)。

(4)  本件針刺し事故

ア 平成11年6月7日,Yが献血のために血液センター本所に来所した。Yは,血漿成分献血を行うことを同意し,非常勤嘱託看護婦であるIがYの左正中静脈より事前検査のための採血を行った。同日午前11時10分ころ,原告が本採血のため,Yの左尺側皮静脈に向かって採血針を穿刺したところ,Yが「痛い」と訴えたため,原告は直ちに抜針した(以下「本件針刺し事故」という)。

イ 抜針後,Yが穿刺部位より手首にかけてのしびれ感を訴えたため,原告は,採血1係長H(以下「H係長」という)に報告し,O所長が診察し,軟膏を塗布し,湿布をして,しばらく様子を見ることとした。

ウ 同月10日,Yが血液センター本所に来所し,しびれ感と痛みが軽減しないことを訴えた。Yの左上腕は,伸展せず,曲がったままの状態であった。H係長は,Yに付き添って血液センター本所の隣にある石川県立F病院(以下「F病院」という)麻酔科に行き,診察を受けさせた。Yは,同病院のM医師に対し,採血針の刺入部の圧痛,刺入部を押すことによる左手関節部屈側の放散痛,左手関節部屈側の痛覚及び冷覚の知覚鈍麻を訴えた。M医師は,Yを「左正中神経損傷」と診断し,圧痛点への局所麻酔薬(2%カルボカイン0.5ml)とステロイド(デカドロン2mg)の混合液の局部注射,左星状神経節ブロック(1%カルボカイン6mlを使用した。なお,「神経ブロック」とは,神経節等に局所麻酔薬等を作用させて,その部分より末梢の神経を麻痺させる方法であり,「星状神経節」とは,第7頸椎横突起前面に存在する交感神経節である。),理学診療用近赤外線治療器による疼痛部位への光線照射,非ステロイド性消炎鎮痛薬の経口投与等の治療を行った。その後,Yは,同病院に2年以上通院を続けたが,その通院回数は,平成11年6月だけで12回を数えた。

エ なお,M医師は,平成13年2月26日付の当裁判所に対する意見書で,Yの傷害について,「左正中神経損傷」との診断名は誤りであり,正しくは,「左内側前腕皮神経損傷,末梢神経損傷に起因する痛み(カウザルギー)」であると述べた。

(5)  本件第2回異動

ア 原告は,平成11年6月30日,O所長から,翌7月1日付をもって,血液センター技術部採血課から血液センター事務部業務課へ異動させる旨の内示を受けた(以下「本件第2回異動」という)。

イ 原告は,同年7月1日,被告に対し,「残りの有給休暇をすべて使った日をもって退職する」旨が記載された退職願(乙13)を提出した。これによって,原告は,同年8月26日をもって被告を退職した。

ウ 被告から原告に送付された辞令によると,「兼ねて業務課勤務を命ずる。勤務は兼務課とする。」と記載されていた。

(6)  就業規則の定め

血液センター職員就業規則(乙2,以下「本件就業規則」という)中には,「職員の採用及び任免は,所長,副所長,及び各部長については社長,各副部長及び医薬品製造管理者については支部長,その他の職員については所長が辞令書をもって行う。」(4条),「任免の権限を有する者は,業務上その他必要あるときは職員に任命換を命ずることができる。」(8条),「前項(非常災害に際しての救護業務)以外の場合において所長が必要と認めるときは,第2項本文の規定(定められた職務への専念義務)にかかわらず職員を日本赤十字社の業務であって血液センターの業務以外の業務に従事させることがある。」(9条4項)との各規定がある。

2  当事者の主張

(1)  原告

ア 本件第1回異動は,原告の「手が遅い」との根も葉もない噂を鵜呑みにして恣意的になされた異動であること,一般の異動期ではない異例の時期における異動であること等から,何ら正当な理由のない違法なものである。

イ 本件第2回異動は,看護婦を本人の同意を得ないで事務職に異動させるものであること,M医師の誤診を鵜呑みにし,その診断が正しいのか否か,Yの傷害の程度等の検討を経ていないこと,過去の針刺し事故の場合にこのような異動がなされた事例がないこと等に鑑みると,何ら正当な理由のない違法なものである。

ウ 上記違法行為により,原告は退職を余儀なくされ,次のとおり,合計951万2800円の損害を被った。

(ア) 慰謝料 金500万円

(イ) 逸失利益 金451万2800円

本件第2回異動がなければ,原告は,その後少なくとも1年間は勤務できたから,1年間の給与収入(451万2800円)を失った。

エ よって,原告は被告に対し,不法行為に基づく損害賠償として,金951万2800円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成11年12月10日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。

オ 被告の権利濫用の主張は争う。

(2)  被告

ア 本件就業規則の定めによれば,被告とその職員との労働契約には,職員がその労働力の使用を被告に委ねるという包括的合意があり,被告は,この包括的合意に基づき,労働の種類,場所を一方的に決定する労働指揮権を有していることが明らかである。よって,被告の職員に対する配転命令は,被告の労働指揮権の行使として行うもので,被告の一方的意思表示によって効力を生ずる。

したがって,被告は原告に対し,原告の同意を得ずに,原告の勤務場所を血液センター本所あるいはC町出張所に決定する権限及び原告を看護婦以外の業務に従事させる権限を有するから,本件第1回異動及び本件第2回異動が違法となることはない。

イ 仮に,被告が上記権限を有しないとしても,本件第1回異動及び本件第2回異動には,次のとおりの正当な理由があるから,これが違法となることはない。

(ア) 本件第1回異動について

a 原告は,平成7年5月から同年9月まで病気療養のため休暇を取り,同年10月からC町出張所に勤務していたが,病気療養後であったので,被告は,原告に対し,本採血と比較して身体的負担の少ないと思われた事前検査を担当させていた。その後,2年半が経過し,被告は,原告が採血業務全般の勤務をすることが可能であると判断し,平成10年4月1日から原告を血液センター本所で血小板成分献血の採血も含む採血業務全般に従事させようと考えたが,身体を慣らすため及び血小板成分献血の教育のために3か月程度の期間が必要であると考え,同年1月1日付で本件第1回異動を発令したものである。

b センター技術部採血課での業務とC町出張所採血係での業務内容はまったく同じであり,しかも勤務地はいずれも金沢市内であり,いずれで勤務しても,原告の生活上の不利益や負担が生ずることはまったくない。

c 故に,本件第1回異動は正当である。

(イ) 本件第2回異動について

a 本件第2回異動は,原告が本件針刺し事故を起こしたこと,これによってYが被った損傷の診断名が「正中神経損傷」という重大なものであり(なお,その診断名は誤りであったが,Yが受けた損傷が重大なものであったことに変わりはない),その治療のために長期間の通院を要する上,治療方法として,各種の副作用が伴う星状神経節ブロックを行う必要がある等,Yが受けた肉体的,精神的苦痛には重大なものがあったことから,事故の再発防止や原告の当時の精神状態,被害者に対する配慮等を考え,当分の間,原告に穿刺操作の業務を休ませることが相当と判断したものであって,その理由は正当である。

b 本件異動は,原告を業務課に異動させるものではなく,技術部採血課と事務部業務課の兼務とするものである。

c 平成11年6月30日,原告は,O所長がした本件第2回異動の内示に対して承諾する旨を表示した。

d 故に,本件第2回異動は正当である。

ウ 因果関係

原告は,自らの意思で退職を決意したものであるから,本件第1回異動及び本件第2回異動と原告の退職との間には因果関係がない。

エ 権利濫用

原告は,本件針刺し事故を起こし,Yに身体的精神的損害を被らせ,かつ,被告に財産的な損害を被らせておきながら,Yや被告に対して真摯な謝罪をせず,自らの行為を正当化して本訴請求をしているものであり,このような請求は,権利の濫用として許されない。

第3当裁判所の判断

1  証拠(甲4,5,7,9ないし11,14,15,乙3,6,8ないし13,17,18,20,23ないし26,証人O,同G,同N,原告本人)及び弁論の全趣旨によると,次の事実が認められる。

(1)  本件第1回異動に至るまでの経緯

ア 原告は,被告に准看護婦として採用されて以来,一貫して採血業務に関わり,医療職の俸給表にしたがった給与の支給を受けてきた。

イ 平成3年に原告の上司の採血課長として,T(以下「T課長」という)が着任した。そのころから原告がC町出張所に配置換えになった平成5年7月1日までの間,原告は,Tからいじめられていると感じ,他の同僚看護婦はT課長の取り巻きとなったため,職場で自分だけが浮き上がっていると感じ,精神的につらい日々を過ごした。ストレスが溜まり,自分の精神状態の不調を感じ,神経内科に通った時期もあった。

ウ 平成6,7年ころ,T課長に関する中傷的な内容が記載されたビラが血液センター本所,C町出張所等に出回った。これは,当時「怪文書」と呼ばれ,職場の話題になり,これを作成したのが誰であるかが職場の関心事となった。そして,怪文書の作成者を憶測する噂が流れたが,その噂の中に,原告が作成者であるとするものがあった。それを知った原告は,精神的に衝撃を受けた。

エ 平成7年4月,原告は,肺癌の診断で金沢大学医学部附属病院に入院して手術し,同年10月から職場に復帰した。

(2)  本件第1回異動の経緯

ア 病気から復帰した原告は,C町出張所で,献血者の事前検査の業務に従事した。なお,前記のとおり,そのころ血液センターで勤務する原告を除く准看護婦は,順次教育を受けた上,血小板成分献血の採血ができるようになっていたが,事前検査に従事していた原告は,その教育を受ける機会がなく,平成9年当時,未だこれができなかった。

イ 平成9年当時,C町出張所には,所長代理としてB(以下「B所長代理」という)が,採血係長としてU(以下「U係長」という)が,採血係に原告外4名の看護婦がいた。原告は,几帳面で生真面目な性格で,同係の他の看護婦との人間関係が円滑にいっていなかった。

ウ 平成9年10月ころ,B所長代理からN事務部長に対し,原告の手が遅いこと,原告がいることによってC町出張所採血係の仕事の円滑な処理が阻害されていること等を理由に,原告をC町出張所から血液センター本所に配置換えして欲しいとの申出がなされた。N事務部長がU係長に確認したところ,U係長も,原告について,B所長代理と同旨の意見を述べた。N事務部長は,かねて原告がC町出張所の同僚の間で浮き上がっていて,精神的に苦労していると見ていたこともあり,なるべく早く,原告を血液センター本所に配置換えしたいと考え,平成10年1月1日付での配置換えをO所長に上申した。なお,当時,被告においては,毎年4月,7月,10月及び1月の各1日が定期異動時期とされていたが,血液センターにおいては,毎年4月1日付及び7月1日付の異動が普通であって,1月1日付での異動は,ほとんど例がなかった。

エ N事務部長から上申を受けたO所長は,多忙なC町出張所に配属する看護婦は,血小板成分献血の採血を含むすべての採血ができる看護婦が望ましいと考えたこと,当時原告に事前検査を担当させていたのは,病み上がりの原告に対し,本採血業務よりも比較的負担の軽い事前検査業務が望ましいと考えていたからであったが,既に復帰後2年が経過していたので,そろそろ本採血業務に従事させたいと考えていたこと,そして,原告に対しても血小板成分献血のための教育をしたいと思ったが,そのためには,多忙なC町出張所よりも,時間的に余裕のある血液センター本所採血課に配属するのがよいと考えたこと等から,N事務部長の上記上申に賛成した。

オ 原告の配置換えについてN事務部長から意見を求められた血液センター総務課長K(以下「K総務課長」という)は,原告を多忙なC町出張所採血係から時間的に余裕のある血液センター採血課に配置換えすることには賛成したものの,その時期については,異例な異動となる1月1日付ではなく,最も異動の多い4月1日付でするべきだとの意見を述べたが,N事務部長の受け入れるところとはならなかった。

カ 平成9年12月25日ころ,原告は,B所長代理から,平成10年1月1日付での本件第1回異動の内示を受けた。異例な時期の異動に納得できなかった原告は,血液センター本所に出向き,N事務部長に異動の理由の説明を求めた。N事務部長は,原告を納得させるためにはやむを得ないと考え,原告が手が遅いと評価されていること,B所長代理から異動の申し入れがあったことを述べた。原告は,かつて他人から「手が遅い」との評価を受けたことがなかったので,これに強い衝撃を受けた。

キ 平成10年1月1日付で,本件第1回異動が発令され,原告は,血液センター本所採血課採血1係に配置換えとなり,同時に,血液センター本所採血課採血1係の看護婦DがC町出張所採血係に配置換えになった。

(3)  NTT甲支店事件

ア 平成10年12月22日,原告を含む血液センターの職員数名がNTT甲支店を訪ね,同支店職員に対し,献血を募った。

イ 平成11年5月26日,被告の渉外担当者がNTT甲支店を訪問したところ,同支店の担当者から,上記献血募集の際,数名のNTT職員から同支店の献血事務担当者に対し,被告の受付担当者及び事前検査担当者の献血者に対する言葉遣いについて抗議があったとの苦情が述べられた(以下「NTT甲支店事件」という)。なお,このときの事前検査を担当したのは原告であった。

ウ 同月28日朝,H係長が,原告を含む採血1係員に対し,「ドナーからナースの対応が悪いと指摘の電話があったそうだから注意して下さい。」との指示をした。その時のH係長の態度から,その件に自分が関わっていると感じた原告は,その話の出所を調べ,NTT甲支店の件であることを知った。原告は,トラブルについて身に覚えがなかったが,H係長に謝罪の意を表した。しかし,原告は,そのころから,H係長の自分に対する態度が冷たくなったと感じ,職場での孤立感を深めた。

エ 同年6月1日に開かれた採血課の会議でもG副部長から,NTT甲支店事件の話がなされ(ただし,固有名詞は出されていない),今後このようなことがないよう注意された。同月3日,全体朝礼でO所長が甲NTT事件を取り上げ,「看護婦の態度が悪くて5,6人の献血者がカルテを破り捨てて帰ってしまった。」と説明し,今後このようなことが無いようにと指示した。看護婦の固有名詞こそ出されなかったものの,原告は,精神的に追い込まれた。また,同月にNTT甲支店に献血募集に行くメンバーとして原告が予定されていたのが,その後変更となったが,そのことも原告の精神的落ち込みを深くした。

(4)  本件針刺し事故及び本件第2回異動について

ア O所長,N事務部長及びG副部長が,原告から本件針刺し事故の経緯について事情聴取したことはなかった。

イ 平成11年6月18日,G副部長はM医師に面会を求めて,Yの症状について説明を受けた。これによると,Yの症状は,良い方に向かっているが,日数がかかりそうであり,左手が硬縮する恐れもあるとのことであった。G副部長は,血液センターに帰り,N事務部長に対し,M医師との面会結果の報告をしたが,その際,Yの「片腕が使えなくなるかも知れないとの話であった。」と話した。

ウ これを聞いたN事務部長は,Yに重大な後遺症が残るようなことになった場合,その事故を起こした担当看護婦を引き続き採血業務に従事させていたのでは,Yに弁明できなくなると考え,翌出勤日である同月21日(同月19日及び20日は土曜日,日曜日であった),G副部長に対し,しばらくの間,原告をして採血作業を休ませることを提案した。Gは,准看護婦である原告から採血業務を取り上げるのは重大な問題だと考え,即答を避けて熟慮したが,当時,被告の依頼によって,YがF病院で診察を受けるたびに血液センター本所に立ち寄っており,Yと原告が顔を合わすことも十分あり得たところ,原告が採血業務に従事しているのを見ればYはいい気持ちはしないであろうし,原告は,Yを見れば精神的に動揺するであろうから,当分の間,原告を採血業務以外の業務に就かせた方がいいと考え,同日もしくはその翌日ころ,N事務部長に対し,提案に同意する旨返事をした。更にその翌日ころ,N事務部長とG副部長はO所長に対し,その旨の提案をしたところ,O所長は,Yに対する手前,何らかのけじめを示す必要があるが,他方で原告を処分するのは相当でないので,しばらく採血以外の業務に従事させるのが相当であるとして,これに賛成した。そして,三者間で,現在献血の受付業務は事務部業務課員が担当しているが,以前には採血課の看護婦が担当していた時期もあったことから,原告を献血の受付業務に従事させること,そのために血液センター事務部業務課に配置換えすること,異動は7月1日付にすることが合意された。

なお,正中神経とは,腕神経叢の中で最大の神経であり,これを損傷すると,一般に症状は深刻であり,完治まで長期間を要し,後遺症が残存するおそれもあるが,内側前腕皮神経は,細い神経の一つであり,これを損傷しても,その症状は軽微である。Yが「正中神経損傷」と診断されていることについては,G副部長は,同月20日ころM医師に面会して説明を受けて知ったが,そのことの持つ意味は判っていなかった。O所長は,同月10日にM医師に電話をかけた際に,M医師から説明を受けて知り,完治までに2,3年はかかるだろうと考えていた。

エ ところで,原告は,同月24日から29日まで休暇を取った。その間に,被告内部では,異動の準備が進められ,同月末に作成された採血課の7月の業務予定表には原告の名がなく,業務課の7月の業務予定表には原告の名が記載されていた。

オ 同月30日,原告が1週間ぶりに出勤した。G副部長は,原告を呼び,「しばらくの間業務課に配置換えしたい。籍は採血課に残し,しばらくしたら採血課に帰れるようにする。」と本件第2回異動の内示をした。原告は,「そのような処遇をされると,採血課に戻ったときにプレッシャーを感じて針を刺すことができなくなる。他の看護婦達もプレッシャーを感じ,針を刺す業務に恐怖を持つことになる。」等と述べて消極的な言辞を繰り返した。G副部長は,2時間程度原告を説得した後,原告を所長室に連れていった。所長室では,O所長が,G副部長とN事務部長を立ち会わせた上,原告に対し,「重大な事故を起こしたので,当分の間,業務課へ配置換えをし,受付業務をして貰う。」旨告げたところ,原告は,「先生の言われることはわかりました。」と言って,所長室から退去した。その後,G副部長は,更に原告と話を続けたが,原告が取り乱していると判断し,当日の業務に就かせることなく原告を帰宅させた。

カ 原告は,職場における同僚達の態度から,同僚達は,原告が上記内示を受ける以前から本件第2回異動の内容を知っていたと感じ,いたたまれない思いがした。そして,今までにも看護婦の針刺し事故はしばしばあったが,それを理由にした人事異動はなかったこと,怪文書事件,本件第1回異動,NTT甲支店事件,本件第2回異動と続く自分に対する処遇を考えると,本件第2回異動は,採血課が自分を必要としていないという意思表示であると考えられ,他方,受付業務は最近システムが変わったばかりであり,自分がこれを担当しても周囲に迷惑をかけるばかりで,戦力にはならないと考え,自分の居場所がないと感じた。そして,結局,本件第2回異動は,被告が原告に対して暗に退職を求めているのだと思い,退職の意思を固めた。

キ 翌7月1日,原告は,退職願をG副部長に提出した。G副部長は,これを預かりの形にして原告の慰留につとめたが,原告の意思が変わらないため,同月14日,これを受理した。なお,O所長は,7月1日からしばらく出張し,同月7日に久しぶりに出勤して原告から退職の意思を告げられたが,原告を慰留しなかった。

ク ところで,Yに対する「正中神経損傷」との診断は誤診であり,正しくは,「左内側前腕皮神経損傷」であった。左尺側皮静脈と正中神経は,長掌筋,橈側手根屈筋,円回内筋及び浅指屈筋並びにそれぞれの筋を包む筋膜によって隔てられているので,通常の採血業務で行う針刺において正中神経に接触することは考え難く,まして,左尺側皮静脈に向かって穿刺した採血針が正中神経に接触することはまずあり得ない。

ケ なお,血液センターにおいて平成7年から11年までの5年間に発生した神経損傷事故は,本件針刺し事故以外に次の3件があったが,被告は,いずれの場合も,その当事者である看護婦に懲戒処分をしていないし,本件のような人事異動もしていない。

(ア) 平成10年3月23日血液センター本所で発生。診断名は「橈骨神経軽度損傷」,同月30日から同年11月3日まで塗り薬塗布の治療を要した。

(イ) 平成11年10月3日C町出張所で発生。検査採血の際の神経圧迫による。同月7日から同年11月5日まで湿布,電気治療,内服薬の治療を要した。

(ウ) 平成11年10月24日採血車で発生。穿刺時,親指付根部分に電撃痛,痺れ感の知覚神経損傷を生じる。同月25日から平成11年1月27日までビタミン剤投与の治療を要した。

2  これに対し,原告は,G副部長から本件第2回異動の内示があった際,G副部長は,本件針刺し事故だけではなく,NTT甲支店事件も異動の理由である旨説明したと主張し,原告本人の供述及び原告の陳述書(甲4)中には,その主張に沿う部分がある。しかしながら,G副部長は,その証人尋問において,その事実を断固として否定していること,N事務部長及びO所長の証人尋問においても,本件第2回異動を決定する過程において,NTT甲支店事件がその理由とされた形跡がないこと等の事実に照らすと,G副部長と原告との約2時間にもわたる対話の中で,G副部長の口からNTT甲支店事件の話題が出たことがあったとしても,G副部長が,これを異動の理由として説明したとまで認めるのは困難であり,原告本人の供述及び陳述書だけから原告の上記主張事実を認めることはできない。

そして,他に,1の認定事実を左右するに足る証拠はない。

3  判断

(1)  本件就業規則8条に「任免の権限を有する者は,業務上その他必要あるときは,職員に任命換を命ずることができる。」との規定があることに鑑みると,被告は,原則として,職員に対し,その同意なく,勤務地や職種の変更を命ずることができると解せられる。しかし,ある職員との労働契約において,勤務場所や職種を限定する旨の合意がある場合に,限定された勤務場所や職種の変更を命ずるについては,被告の業務上やむを得ない理由のない限り,原則として当該職員の個別の同意を要すると解するのが相当である。

(2)  本件第1回異動について

ア 上記認定事実によれば,N事務部長は,B所長代理から出された,「原告と他の看護婦との人間関係の不調和や原告の仕事の仕方がC町出張所採血係全体の仕事の円滑な処理に悪影響を与えているので速やかに原告を配置換えして欲しい」旨の要望をかなえることを目的として本件第1回異動を提案し,K総務課長は,原告を身体的に楽な場所に異動させてやりたいと考えて発令時期を除いてこれに賛成し,O所長は,折から原告に血小板成分献血を教育するのにも好都合であると考えて発令を決定したものである。

イ ところで,N事務部長が原告に対し,異動理由について,「原告の手が遅い。」と説明したことは,その内容が容易に反論しがたい抽象的なものである上,原告に対し,そのことについて事前に告知したことがなく,弁明の機会も与えていないこと,その説明を受けた原告としては,これが通常の異動日である4月1日を待たないで発令されるものであるだけに,被告側の原告に対する「手が遅い」との評価が深刻なものと受け止めざるを得ないこと,原告がかねて職場における人間関係に苦労していたし,そのことをN事務部長も知っていたこと等に鑑みると,原告に対する配慮を欠いた不適切なものであったということはできる。

ウ しかしながら,本件第1回異動を発令した理由が上記のとおりであり,それなりの理由があり,これに合理性がないとはいえないこと,異動後の職務も異動前と同じ採血業務であること,C町出張所も血液センター本所も同じ金沢市内にあって,通勤等の負担は変わらないこと,被告においては1月1日付の異動は例が少なかったとはいえ,一応年4回の定期異動の発令日であること等の事情に鑑みると,本件第1回異動の発令を違法とまでは評価できない。

(3)  本件第2回異動について

ア 上記認定事実によれば,本件第2回異動は,本件針刺し事故の直接の行為者である原告を採血業務からはずすことによって,Yに対し,被告が本件針刺し事故についてけじめを付けたことをアピールすることを主たる目的としてなされたものということができる。

イ ところで,原告は,准看護婦として被告に採用され,医療職の俸給表に基づく給与の支給を受け,(准)看護婦の業務である採血業務のみに携わってきたものであるから,原告と被告との労働契約には,職種を(准)看護婦業務とする限定があったものと認めるのが相当である。そうすると,原告に,看護婦業務とは関係のない事務部への配属を命じるのは,原告の同意がある場合か,被告の業務上やむを得ない理由がある場合でない限り,許されないことになる。

ウ そこで,本件第2回異動に原告の同意があったか否か検討するに,原告がO所長に対して述べた「わかりました。」との言葉は,「異動の内示に同意した。」との趣旨にも,「内示の内容を理解した。」との趣旨にも理解できるところ,原告が翌日に退職を申し出たことに照らし,原告の意図は後者にあったと認めるのが相当である。そして,G副部長から本件第2回異動の内示を受けた際に原告が消極的な言辞を繰り返したこと,O所長の内示の方法が,原告の同意を求める言い方ではなく,内示内容を告知する言い方であったこと,内示を受けた当日の原告は,G副部長をして,取り乱していると思わせるような状況ではあったこと等の事実に鑑みると,O所長は,原告の意図が後者にあることを知り得たし,少なくとも,原告の同意を得たとの確信を持てないまま,本件第2回異動の発令をしたと推認するのが相当である。そうすると,本件第2回異動が原告の同意を得て発令されたものと認めることはできない。

エ そこで,本件第2回異動において,原告の同意なく本件第2回異動を発令することができるほどのやむを得ない事情があったと認められるか否かを検討する。

(ア) 上記1の事実に第2の1の事実を総合すると,次の事実を指摘することができ,この事実によれば,本件第2回異動は,被告の業務上やむを得なかったのではないかと考える余地がないではない。

a Yが,平成11年6月10日から,土日を除いて毎日のようにF病院に通っていたが,同月下旬に至るも,症状が顕著には改善していなかった。そして,G副部長がM医師から,完治まで日数がかかりそうであり,左手が硬縮する恐れもあると聞いたことから,G副部長やN事務部長が,これが重大な事故であり,Yの手前,何らかのけじめが必要であると考えたことには一応の合理性が認められる。

また,O所長は,「正中神経損傷」との病名を聞いて,Yの症状が重大であると認識したところ,これは誤診であったが,Yの診断名が何であれ,G副部長がM医師から聴取したYの症状に照らせば,Yの手前,何らかのけじめが必要であるとのO所長の判断にも一応の合理性が認められる。

b 他方,本件第2回異動は,技術部採血課と事務部業務課との兼務を命じるものであって,原告の採血課所属の准看護婦との地位を失わせるものではないし,原告を短期間で採血課に戻すことを予定していたものであるから,客観的な労働条件の面で,原告にさほど大きな負担をかけるものとは言い難い。

(イ) しかしながら,やむを得ない事由の具備を消極的に解するべき事情として,次の事実が指摘できる。

a Yに対し,被告がけじめをつけたことを示す方法にも様々な方法が考えられる。血液センター本所を訪れるYに原告が引き続き採血に従事している姿を現認されるのを避けることを目的とするのであれば,本件第2回異動以外にも,①原告をもっぱら献血車による外回りの業務に専属させる方法,②原告を採血課内部の採血以外の(准)看護婦業務に専属させる方法,③再びC町出張所に配置換えする方法等,原告の職種の変更を伴わない方法もあり得る。O所長らが,本件第2回異動以外の代替方法の有無,その是非について真剣に検討した形跡は証拠上窺われない。

b 本件第2回異動は,懲戒処分ではないが,本件針刺し事故を理由として,准看護婦である原告に看護婦業務をさせない内容の人事異動であるから,原告が懲戒処分的な意味合いがあると理解することは避けられないし,第三者が見ても,そのように理解されることは否定できない。

ところで,採血のための針刺しによって献血者の神経を損傷させる事故の発生は,希有なことではなく,被告においても,平成7年から11年までの5年間に本件針刺し事故以外に3件が発生し,その治療期間も本件針刺し事故のように長期に及んでいるものもある。しかるに,本件を除き,各事故を起こした看護婦に対し,何らの処分も人事異動もされていない。そうすると,本件第2回異動が他の同様のケースと比較して,不均衡な措置でないかとの疑いが生じる。

なるほど,上記3例においては,その治療内容は,塗り薬の塗布,湿布,薬の内服,電気治療等に止まっており,Yに対する左星状神経節ブロック等の治療とは,その危険性が異なるから,本件針刺し事故を特別扱いする理由がないとは言えない。

しかしながら,事故を起こした看護婦に対して実質的な処分をするのであれば,起こった結果もさることながら,その看護婦の過失の有無,程度を重視するべきである。しかるに,O所長においても,N事務局長においても,G副部長においても,本件針刺し事故の経緯について原告から事情聴取すらしていないから,原告が,採血に当たる看護婦として,通常果たすべき注意義務を怠ったのか否かについての認識すら持っていなかったのではないかと推測される。そうすると,懲戒処分的な意味合いを持つ人事異動を発令するには,そのための資料収集が十分でなく,手続が杜撰であったとの評価を免れない。

とりわけ,O所長は,Yの傷害が「正中神経損傷」と理解して,重大であるとの認識を持ったのであるが,医師であるO所長は,通常の採血業務で行う針刺しにおいて針先が正中神経に接触することは考え難いことを容易に知り得たと考えられるから,原告に対して懲戒処分的な意味合いを持つ本件第2回異動を発令するのであれば,その診断を疑い,原告から詳しく事情を聴取する等の慎重な対応をすることが望ましかったというべきである。

(ウ) そして,(イ)の諸事情を考慮すると,(ア)の諸事情にもかかわらず,本件第2回異動が被告の業務上やむを得なかったとまでは認めることができない。

オ よって,本件第2回異動は,労働契約上,職種を(准)看護婦業務とする限定があった原告を,その同意なく,かつ被告の業務上やむを得ない事由もないのに,他の職種への配属を命じたものであって,違法との評価を免れないものであるから,被告は,これによって原告が被った損害を賠償する責任がある。

(4)  原告の損害

証拠(甲4,原告本人)によると,原告は,本件第2回異動の内示を受けたことにより,これを本件針刺し事故を理由とする懲戒の趣旨による異動であると受け取り,自分としては,落ち度がなく,避けられなかった事故であると考えているのに,その弁明の機会も与えられず,実質的な懲戒処分を受けたこと,今までの針刺し事故の例と比較しても,余りに不均衡な措置であると思われたこと,怪文書事件では自らが作成者ではないかとの噂を流され,「手が遅い」という納得できない理由で本件第1異動を発令され,更に,NTT甲事件では身に覚えがないのにトラブルの責任者であるようにみられ,これらの出来事によって職場での孤立感を深めていたのに,更に,納得できない実質的な懲戒処分を受けたこと等から,自分は被告から暗に退職を求められているのだと思い詰めるほどの強い精神的衝撃を受けたことが認められるから,被告は,原告に対し,原告が被った精神的苦痛に対する慰謝料を支払う義務がある。そして,本件に現れた一切の事情を考慮して,その金額は金60万円をもって相当と認める。

なお,原告は,本件第2回異動と原告の退職との間に因果関係があると主張するが,本件第2回異動が原告の勤務場所や給与に影響を与えるものではなく,短期間で採血課に戻ることが予定されていたことに鑑みると,怪文書事件,本件第1異動,NTT甲事件等によって原告が職場での孤立感を深めていたことその他原告がるる主張する事実を考慮しても,本件第2回異動と原告の退職との間に相当因果関係があるとまでは認めることができない。したがって,原告が主張する損害のうち,退職による逸失利益は,これを認めることができない。また,慰謝料についても,退職に伴う精神的苦痛は評価の対象とすることができない。

(5)  なお,被告は,原告の本訴請求が権利の濫用である旨主張するが,被告が主張する事実を考慮しても,原告の本訴請求が権利の濫用と認めることはできない。

4  よって,原告の本訴請求は,被告に対し,不法行為に基づく損害賠償として,金60万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成11年12月10日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を命じる限度で正当として認容するべきであり,その余は失当として棄却するべきである。

(裁判官 井戸謙一)

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