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金沢地方裁判所 昭和28年(行)10号 判決 1955年12月16日

原告 実正宗義

被告 金沢国税局長

訴訟代理人 宇佐美初男 外五名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「被告が原告の所得につき昭和二十八年七月二十七日付で為した、(一)昭和二十二年分所得金額二百七十七万七千二百円、所得税額二百二十一万七千九百二十円、(二)昭和二十三年分所得金額四百九十八万六千七百円、所得税額三百七十万三千二百五円、(三)昭和二十四年分所得金額五百二十八万二千六百円所得税額三百九十三万二千七百十円との審査決定額を、(一)昭和二十二年分所得金額十万円、所得税額四万一千四百七十八円、(二)昭和二十三年分所得金額二十三万四千九百二十四円、所得税額一万五千六百十四円、(三)昭和二十四年分所得金額二十四万四千九百円所得税額七万六千九百五十円と夫々変更する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、請求の原因として次の通り陳述した。

(一)原告は肩書地で物品の販売業を営んでいるものであるが、(二)その昭和二十二年分の所得金額は十万円で所得税額は四万一千四百七十八円となり、昭和二十三年分の所得金額は二十三万四千九百二十四円で所得税額は一万五千六百十四円となり、昭和二十四年分の所得金額は二十四万四千九百円で所得税額は七万六千九百五十円となり、昭和二十三年分について同二十四年一月三十一日に、同二十四年分について同二十五年一月三十一日に夫々右の通り金沢税務署長宛確定申告書を提出した。(三)然るに金沢税務署長は昭和二十三年分所得金額を二十四万七千百十円所得税額を二万二千三百八十九円と、昭和二十四年分所得金額を三十二万六千四百円所得税額を十二万一千三百四十円と夫々更正し、更に被告は昭和二十六年三月十六日昭和二十二年分所得金額を四百七十三万六千三百円所得税額を三百七十八万五千二百円と決定し、また昭和二十三年分所得金額を五百三十三万四千二百十二円税額を三百九十九万七千六十円と、昭和二十四年分所得金額を七百九十一万六千五百十八円所得税額を六百十七万一千五百二十円と夫々再更正をなし、原告はその旨通知を受けた。(四)そこで原告は之を不服として法定期間内に被告に対し審査の請求をなしたところ、昭和二十八年七月二十七日付で昭和二十二年分所得金額を二百七十七万七千二百円所得税額を二百二十一万七千九百二十円と、」昭和二十三年分所得金額を四百九十八万六千七百円所得税額を三百七十万三千二百五円、昭和二十四年分所得金額を五百二十八万二千六百円所得税額を三百九十三万二千七百十円と夫々審査決定をなし、原告はその旨の通知を受けた。(五)然しながら原告の右各年度に於ける所得金額及び所得税額は(二)項の通りであるべきで之を超過する被告の審査決定の額は失当であるからその超過部分の取消を求める。被告の主張に対し、

被告は原告の右各年分の所得金額及び所得税額について審査決定をなすに当つては、所謂資産増減法によつて原告の所得を調査算出したものであるというが、原告は昭和十九年末現在には営業上の利得金として少くとも六十万円を所持していたものであり、このことは原告が昭和十九年に大分地方裁判所に於て物価統制令違反の罪に問われ懲役十年罰金五万円、追徴金六十万円に処せられていることから推して明かである。而して原告はその後右利得金を以て貴金属類(金、宝石、写真機等)の購入をなして昭和二十一年春の現金封鎖政策を免れ、更に物価の急高騰に伴い右貴金属類を換価して同年末には現金二千万円程度を所有していたものであり、爾後昭和二十四年末に至る迄の間に於ては単に右手持の現金が銀行預金、出資金、建物、動産等に換えられたに過ぎず、その間何ら被告の主張するような資産の増加はない。従つて被告が昭和二十二年一月一日現在の原告の資産を僅かに二百万一千二百三十二円と査定し、之を基にして昭和二十四年末に至る資産の増加を算定しているのは単なる推定に過ぎず不当であると述べた。

<立証 省略>

被告指定代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として次の通り陳述した。

原告主張の請求原因事実に対し、(一)原告は肩書地でゴム製品類の販売業を営んでいるものである。(二)原告が昭和二十三、二十四年分の所得金額及び所得税額につきその主張の日に主張通りの確定申告書の提出があつたことは認める。同二十二年分については申告書の提出はなかつた。(三)は認める。但し被告の為した再更正及び決定の日は昭和二十六年二月十日であり、また金沢税務署長のなした昭和二十三年分についての更正の日は昭和二十四年二月二十五日であり、昭和二十四年分についての更正の日は昭和二十五年二月二十五日である。(四)は認める。但し審査決定に係る昭和二十三年分の所得税額は三百七十万八千六百十九円であり、昭和二十四年分の所得税額は三百九十五万一千九百六十円である。また原告が審査請求をした日は昭和二十六年三月七日である。(五)は否認する。被告は原告の審査請求に対し金沢国税局協議団の協議を経てその所得を調査し、審査の決定をなしたものであるが、被告において原告の各年度に於ける収支関係を明確にした帳簿書類、記録等が得られず、従つてこれによつて正確なる所得を把握するについて原告の協力を得ることができなかつた為に所謂収支計算法による所得金額の計算をすることは不可能であつたので、所謂資産増減法によつて昭和二十二、二十三、二十四の各年分の所得金額を計算したものであり、その計算の内容並びに算出された所得金額及び所得税額は別表(一)の一、二の通りである。従つて被告は正当な根拠に基いて原告の各年分の所得金額及び所得税額を算定して審査決定をしたものであるから何ら違法はない。原告は昭和二十二年期首に於て二十万円の手持現金があつたと主張しその前提として昭和二十一年春頃相当量の貴金属類を所持していたと主張するがその事実はない。このことは原告が昭和二十一年三月三日当時かかる貴金属類につき財産税の申告をしていないことから明かである。

以上の通りであるから原告の請求は失当であると述べた。

<立証 省略>

理由

(一)原告が肩書地で物品の販売業を営むものであること、(二)原告がその所得につき昭和二十三年分所得金額は二十三万四千九百二十四円で、所得税額(以下括孤内は所得税額を示す)は一万五千六百十四円であり、昭和二十四年分は二十四万四千九百円(七万六千九百五十円)である旨の確定申告書を右各年度の夫々翌年の一月三十一日にいずれも政府に提出したこと、(三)金沢税務署長に於て原告の確定申告に係る所得金額及び所得税額を昭和二十三年分二十四万七千百十円(二万二千三百八十九円)、同二十四年分三十二万六千四百円(十二万一千三百四十円)と夫々更正したこと、(四)原告が昭和二十二年分所得につき確定申告書を提出しなかつたこと、(五)而して被告は法定期間内に右更正に係る原告の所得につき更に昭和二十三年分を五百三十三万四千二百十二円(三百九十九万七千六十円)と、昭和二十四年分を七百九十一万六千五百十八円(六百十七万一千五百二十円)と夫々再更正し、同時に右申告書の提出がなかつた昭和二十二年分につき四百七十三万六千三百円(三百七十八万五千二百円)と決定し、孰れもその旨原告に通知したこと、(六)そこで原告は被告の右処分を不服として法定期間内に被告に対し審査請求をなしたところ、被告は昭和二十八年七月二十七日原告の昭和二十二年分所得金額二百七十七万七千二百円(二百二十一万七千九百二十円)と昭和二十三年分所得金額を四百九十八万六千七百円、昭和二十四年分所得金額を五百二十八万二千六百円と審査決定をなし、原告は同日その旨の通知を受けたことは孰れも当事者間に争がない。また被告が右審査決定をなすに当り金沢国税局協議団の協議を経たものであることは原告の明かに争わないところである。然しながら被告の審査決定に係る原告の昭和二十三、二十四年分の各所得税額については当事者間に争があるが、成立に争なき乙第二号証の二、三によれば被告は原告の昭和二十三年分所得税額を三百七十万八千六百十九円と、同二十四年分を三百九十五万一千九百六十円と夫々審査決定をなしその旨の通知をいずれも原告宛出したことを推認することができる。

次に被告は原告の右各年度に於ける所得は原告から収支関係を明確にした帳簿類等の資料が得られなかつたので、所謂資産増減法なる間接的認定によつて算出する外なかつたもので、之によれば別表(一)の一及び二の通りになると主張し、之に対し、原告は昭和二十一年末従つてまた同二十二年一月一日当時手持の現金が約二千万円あり、爾後この手持金が同二十四年末迄に銀行預金、建物、動産等に換えられたに過ぎず、従つて被告の主張するような所得はないと主張し、被告の右主張を全般的に争つていると解せられる。而して証人関野太一の証言によれば、被告が原告の本件各年分の所得を調査するに当つて原告に於て信頼すべき帳簿書類等を備えて居らず、その協力が得られなかつたこと、従つて被告は原告の所得を所謂収支計算の方法によつて直接にその額を確定することができなかつたので所謂資産増減法なる間接的方法によつてその所得を算定せざるを得なかつたものであることを夫々認めることができ、しかも斯かる状況下に於て政府が納税義務者の所得金額(従つてまた所得税額も)を更正又は決定するに当つて所謂資産増減法(政府が青色申告の場合以外の納税義務者の所得金額の更正又は決定をなすに当つてその財産の価額若しくは債務の金額又は損失の額を推計して期末資産と期首資産を算定し、その差額即ちその年分の資産の増加額を算出した上で為す方法)を採ることは相当であるというべく、現行所得税法(同法第四十五条第三項参照)は右趣旨を確認しているのである。

そこで被告の右間接的認定による原告の本件各年度の所得の集計に於て相当性があるか否かを別表(一)の一、(一)の二につき逐次審按することとする。

第一、まず原告の昭和二十二年一月一日当時における資産状況についてみるに、

(一)  証人関野の証言から成立の認められる乙第八号証及び成立に争ない乙第九号証を綜合すると、原告は当期首に於て商品の売掛代金百五万円を取得所持していたことを推認することができる。

(二)  右証言及び同証言から成立の認められる乙第十号証及び成立に争ない乙第十一号証を綜合すると、原告は昭和二十一年三月三日当時不動産として静岡県伊東市玖須美竹之内百六十九番地所在宅地六十七坪五合七勺、住家木造瓦葺平家建、建坪十五坪五合及び共有温泉権利十六分の一を有していたが、その後昭和二十二年五月頃訴外竹内利一に右財産を二万七千円で売却したことを認めることができる。これは即ち原告に於て当期首に於て二万七千円相当の不動産等を所有していたものと認めるのが相当である。

(三)  右証言から成立の認められる乙第六十一号証の一及び五によれば、原告は当期首に於て静岡銀行伊東支店に普通預金二十一万三千五百円を有していたことを認めることができる。

(四)  (イ)右証言及び乙第十一号証を綜合すると原告は昭和二十一年三月三日の財産申告当時において不動産以外の資産として別表(二)の通り郵便貯金等合計六万三千百三十六円相当の資産を有していたことを認めることができる。(ロ)成立に争ない乙第十二号証により原告は昭和二十一年中の所得金額は八十一万円であり、従つて同年中、月平均六万七千五百円の所得金額があつたことを認めることができるので、これから原告の同年三月から十二月迄の十カ月分の所得金額を算出すると六十七万五千円となる。(ハ)成立に争ない乙第十九号証の一及び二によると原告は昭和二十一年三月から十二月迄の間に税法上必要経費に算入されない公租公課として家屋税等合計五百三十九円五銭を支出していることを認めることができる。(ニ)いずれも成立に争ない乙第二十九号証の一及び二、乙第六十六号証の一及び二によれば、総理府統計局調べ一人当り一ケ月間の平均支出金額は昭和二十二年十二月に於ては一千七百三十九円であること、また全都市消費者物価指数は昭和二十一年十二月が「九七」であるのに対し、昭和二十二年十二月には「二八二、二」であることを各認めることができるので、この比率に基づいて昭和二十一年十二月中の一人当り一カ月間の平均支出金額を算出すると五百九十七円となるが、成立に争ない乙第六十七号証によると原告の家族は昭和二十一年三月から七月迄は原告を含めて五人であつたこと及び同年八月から十二月迄は四人であつたことを各認めることができるので、原告が昭和二十一年三月より十二月迄に家族の生活費として支出した額は合計二万六千八百六十五円となること計数上明かである。

そこで右(イ)(ロ)(ハ)(ニ)から昭和二十一年十二月三十一日当時、従つてまた昭和二十二年期首に於ける前示(一)(二)(三)以外の資産を算出すると左の通り合計七十一万七百三十二円(但し円以下四捨五入する)となること計数上明かである。即ち、

(イ)63,136円+(ロ)675,000円-(ハ)539円05銭-(ニ)26,865円 = 710,732円

よつて原告は昭和二十二年期首に於て以上(一)(二)(三)(四)合計二百万一千二百三十二円の資産を有していたと認定することができる。

原告は昭和十九年大分地方裁判所に於て物価統制令違反の罪により懲役十年、罰金五万円、追徴金六十万円の判決を受けていることから明かなように、昭和十九年末に於て営業上の利得金六十万円を所持していたもので、その後これを以て貴金属類(金、宝石、写真機等)の購入をなし、よつて昭和二十一年春の現金封鎖政策を免れ、更に物価の急高騰に伴つて右貴金属類を換価して同年末(従つてまた昭和二十二年期首に於て)にはその換価金約二千万円を現金で所持していたと主張するのであるが之を認めるに足る何らの証拠もない。

尤も証人後藤義隆の証言によれば、原告が昭和十九年大分地方裁判所に於て物価統制令違反の罪で追徴金六十万円に処せられ、而もその追徴金は未納のままであるという事実を認定することができるが、斯かる事実があるからと云つて直ちに原告が昭和十九年末に営業上の利得金六十万円を所持していたとは解し難いばかりか、却つて乙第十二号証及び証人関野の証言を綜合すれば、原告は昭和二十一年三月三日当時の財産税申告時に於て貴金属類(動産)の申告をなしていないことが認められ、結局右貴金属類を昭和二十一年頃所持していたことを前提とする原告の昭和二十二年期首に於て二千万円の現金を有していたとの主張は由なきことと云わねばならない。従つて更に原告の右二千万円の手持現金が爾後昭和二十四年末迄に銀行預金等に換えられたに過ぎないとの主張について何ら判断する迄もなく理由がないこととなる。

第二、次に原告の昭和二十二年十二月三十一日当時における資産状況についてみるに、

(一)  証人関野の証言からいずれも成立の認められる乙第十三乃至第十五号証及びいずれも成立に争ない乙第十六乃至第十八号証を綜合すれば、原告が訴外福井友太郎を介して訴外林屋亀次郎に前田家成巽閣の買収斡旋を依頼し、当期末に於てその買収資金の一部として二百五十万円を右林屋に預けてあつたこと、また乙第十六、十七号証、同証言から成立の認められる乙第二十号証及び成立に争ない乙第二十二号証を綜合することによつて原告が当期末に於て訴外実正作雄に百万円を預けていたことをいずれも夫々推認することができる。

(二)  乙第十七号証、右証言から成立の認めちれる乙第二十三号証及び成立に争ない乙第二十四号証を綜合すれば、原告が昭和二十二年十二月二十五日呉羽紡績大町工場に対しゴム板等合計十八万八千六百円を売却し、当期末に於てこの売掛金残額八万五千六百円の債権を有していたことを認めることができる。

(三)  乙第十六乃至第十八号証、成立に争ない乙第二十五号証及び右証言から成立の認められる乙第二十六号証を綜合すれば、訴外諏訪化学工業株式会社(取締役社長福井友太郎)の設立に先だつ昭和二十二年十二月下旬頃京都市布袋旅館に於て原告はその設立準備金の趣旨で右福井に現金二十万円を手渡していることが認められる。よつて原告は当期末に於て出資金二十万円を有していたと認めるのが相当である。

(四)  乙第十六、十七号証、いずれも成立に争ない乙第二十七、二十八号証、第三十一号証、第三十三号証、第六十八号証及び右証言から成立の認められる乙第三十四号証を綜合すれば、原告は昭和二十二年八月五日訴外武内宗七及び同武内宗八から金沢市上柿木畠三十七番地の一、宅地七十八坪五合三勺、及び同所々在家屋番号第九十四番、木造瓦葺二階建居宅一棟建坪四十坪七合、外二階十八坪六合、並に金沢市上柿木畠四十五番地宅地二十九坪九合三勺、同三十七番地の二宅地十八坪一勺と、同両宅地に跨る家屋番号百四番木造板葺二階建居宅一棟建坪三十五坪外二階二十一坪を二十三万円(全額を原告負担)で買受け、これを原告の妻である田辺漣子名義で各所有権の移転登記を得ていること及び右家屋の補修費二十万円を昭和二十二年十二月十七日支出していることを各推認することができ之は原告が当期末に於て価額四十三万円の不動産を実質上所有していたと認めるを相当とする。

(五)  乙第十七号証、第六十八号証、並に右証言から成立の認められる乙第三十二号証、第六十一号証の一及び四を綜合すれば、原告が当期末に於て実正宗義若しくは田辺宗義名義で静岡銀行伊東支店及び日本興業銀行富山支店に合計七百四十五円八十銭の普通預金を有していたことを認めることができる。

(六)  乙第十七号証並びにいずれも右証言から成立の認められる乙第三十五号証、第三十七号証及び成立に争ない乙第三十八号証によれば、原告は昭和二十二年九月頃訴外柚木某から劇場日吉座経営のため映写機を十八万円で購入し、爾後当期末を越えて之を所有していたこと、及び同映写機の修理代として昭和二十二年中に七万円を支出していることを各推認することができる。よつて原告は当期末に於て二十五万円相当の機械を所有していたと認めるのが相当である。

よつて原告は昭和二十二年期末に於て以上(一)乃至(六)合計四百四十六万六千三百四十五円八十七銭の資産を有していたと認められる。

(1)  そこで昭和二十二年中に於ける純資産増加額は右認定の当期末資産から当期首資産を差引いた額、即ち二百四十六万五千百十三円八十七銭となること計数上明かである。

(2)  然しながら乙第六十七、六十八号証並に成立に争ない乙第二十五号証の一及び二を綜合するに、原告の昭和二十二年中に於ける家族数は同年一月から同年五月末迄は原告を含めて四人であり、同年六月から同年末迄は右四人の外に更に四人が加わつていること、及び総理府統計局調による同年中の一人当り一カ月間の平均支出金額は同年末に於て千七百三十九円であつたことを認めることができる。そうすると原告及びその家族の生活費として原告が同年中に支出した額は合計十三万二千百六十四円であつたと認めるのが相当である。

(3)  右証言並に乙第十一号証及びいずれも成立に争ない乙第三号証、第六十九号証の一及び二によれば、原告は孰れも税法上当期の必要経費に算入されない公租公課として昭和二十二年中に別表(三)の通り町民税等合計二十万七千百六十一円五十銭を納入していることを認めることができる。

よつて昭和二十二年分所得金額は(1) (2) (3) の合計額二百八十万五千円(但し昭和二十五年法律第六十一号国庫出納金等端数計算法により百円未満を切捨てる)である。

次に所得税額についてみるに、当時施行中の所得税法によれば、昭和二十二年分基礎控除額は四千八百円であるから右所得金額から之を控除した額、即ち課税所得金額二百八十万二百円に同法所定の税率を適用して税額を算定すると二百二十四万百六十円となること計数上明かである。而して原告は当期の税額について之を減ずべき事由として他に何らの主張もしていないので右算定の税額について原告は納入の義務ありといわなければならない。

然しながら被告の審査決定に係る原告の昭和二十二年分所得金額及び所得税額は前示認定の通りであつて、之はいずれも右各算定額より低いのであるから毫も不当なものとはいい得ないのである。

第三、原告の昭和二十三年十二月三十一日当時における資産状況についてみるに、

(一)  乙第十六、十七号証、第二十号証及び第二十二号証を綜合すれば、原告は当期末に於て訴外実正作雄に百万円を預けていたことを、また乙第十七号証及びいずれも証人関野の証言から成立の認められる乙第三十九号証、第四十一号証成立に争ない乙第四十号証を綜合すれば、当期末に於て訴外三賀志さいに五十万円の貸金のあつたことをいずれも夫々推認することができる。

(二)  乙第十四号証、第十六乃至第十八号証、第二十五、二十六号証及びいずれも右証言から成立の認められる乙第四十二、四十三号証、第四十五号証、第五十二号証、第七十、第七十一号証、成立に争ない乙第四十四号証を綜合すれば、原告は当期末に於て訴外福井友太郎を通じて訴外諏訪化学工業株式会社に対し出資している金額が別表(四)の通り合計四百四十六万三千六百九十二円十二銭に及んでいたことを、また右証言から成立の認められる乙第四十七号証の一乃至三並に成立に争ない乙第四十八号証を綜合すれば、原告は訴外犬山繊維株式会社に対し出資している金額が百三十万円に及んでいたことをいずれも夫々推認することができる。よつて原告は当期末に於て出資金として以上合計五百七十六万三千六百九十二円十一銭を有していたと認めるのが相当である。

(三)  乙第十六号証、第二十七、二十八号証、第三十一号証、第三十三、三十四号証及び右証言から成立の認められる乙第四十九号証を綜合すれば、原告は当期末に於ても前示昭和二十二年十二月三十一日当時の資産として計上した不動産(四十三万円)を所有し、そのうち家屋については昭和二十三年中に同家屋の補修費として三十五万五千九百三十五円及び同家屋内の電気工事費として十三万七千三百六十八円七十銭を支出していることを、また乙第十六、十七号証、第三十四号証及び成立に争ない乙第五十、五十一号証を綜合すれば、原告は諏訪化学工業株式会社名義で金沢市長町六番丁五十番地の十五所在家屋番号第六十七番地木造瓦葺二階建居宅一棟建坪十六坪二合、外二階十四坪六合、並に同町六番丁五十番地宅地十四坪七合及び同町六番丁五十番地の十五畑十五歩をいずれも昭和二十三年八月二十三日訴外野里信二から二十万円で買受け、当期末に於て実質上之を所有し、且つその後昭和二十三年中に右家屋の補修工事代金九万五千四十円を支出していることを夫々推認することができる。よつて原告は当期末に於て右合計百二十一万八千三百四十三円七十銭相当の不動産を所有していたと認めるのが相当である。

(四)  乙第三十二号証、第六十八号証、並に右証言から成立の認められる乙第六十一号証の一及び三を綜合すれば、原告が当期末に於て実正宗義若しくは田辺宗義名義で日本興業銀行富山支店及び静岡銀行伊東支店に合計七百七十二円三十六銭の普通預金を有していたことを認めることができる。

(五)  乙第十七号証、第三十五号証、第三十七、三十八号証を綜合するに、当期末に於ても前示昭和二十二年期末におけると同様の映写機(二十五万円)を有していたことを推認することができる。

よつて原告は当期末に於て以上(一)乃至(五)合計八百七十三万二千八百八円十七銭の資産を有していたこととなる。

(1)  そこで昭和二十三年中に於ける純資産増加額は右認定の当期末資産から当期首資産(昭和二十二年期末資産と同じ)を差引いた額、即ち四百二十六万六千四百六十二円三十銭となること計数上明かである。

(2)  然しながら乙第六十七、六十八号証及び成立に争ない乙第三十号証の一及び二によれば、昭和二十三年中における原告の家族数は原告を含めて八人であること、及び総理府統計局の調査によると同年十二月における全国都市一世帯当り平均人員四、七九人に対し一カ月一世帯当り平均支出額は一万五千十三円であつたことを認めることができる。そうすると原告及びその家族の生活費として原告が同年中に支出した額は合計三十万八百八十六円八十五銭(銭以下四捨五入)であつたと認めるのが相当である。

(3)  乙第三号証、第六十九号証の一、二及び成立に争ない乙第五号証によれば、原告は孰れも税法上当期の必要経費に算入されない公租公課として昭和二十三年中に別表(五)の通り家屋税等合計四十一万九千三百八十二円を納入していることを認めることができる。

よつて昭和二十三年分所得金額は(1) (2) (3) の合計額四百九十八万六千七百円(但し国庫出納金等端数計算法による百円未満を切捨てる)である。

次に所得税額についてみるに、当時施行中の所得税法によれば、昭和二十三年分基礎控除額は一万三百二十五円であるから課税所得金額は四百九十七万六千三百七十五円となるので之に同法所定の税率を適用して税額を算定すると三百七十一万四千六百円(扶養親族控除前の税額)となることと計数上明かである。而して原告は当期の税額について之を減ずべき事由として他に何らの主張もしていないので右算定の税額について原告は納入の義務ありといわなければならない。

然るに被告の審査決定に係る原告の昭和二十三年分所得金額及び所得税額は前示認定の通りであつて、之はいずれも右各算定額より低額であるから不当なものとはいゝ得ない。

第四、原告の昭和二十四年十二月三十一日当時における資産状況についてみるに、

(一)  乙第二十号証、第二十二号証を綜合すれば、原告は当期末に於て訴外実正作雄に対し合計八十三万一千二百三十六円を預けていたことを認めることができる。

(二)  乙第四十七号証の一乃至三及び第四十八号証によれば、原告は当期末に於て訴外犬山繊維株式会社に対する出資金合計三百三十万円(前期末の同会社に対する出資百三十万円及び昭和二十四年七月の同会社増資の際の二百万円)を有していたことを、また乙第十四号証、第十八号証、第二十五、二十六号証、第四十二乃至第四十五号証、第五十二号証、成立に争ない乙第五十四号証及び孰れも証人関野の証言から成立の認められる乙第五十六、五十七号証、第六十二、六十三号証を綜合すれば、当期末に於て原告は訴外福井友太郎を通じて訴外諏訪化学工業株式会社に対する出資金合計六百四十三万一千六百九十二円十一銭(前期末の右訴外会社に対する出資金四百四十六万三千六百九十二円十一銭及び当期に於て新たに出資した金額百八十七万八千円)を有していたことをいずれも夫々推認することができる。よつて原告は当期末に於て出資金として以上合計九百六十四万一千六百九十二円十一銭を有していたと認めるのが相当である。尤も乙第二十五号証、第五十三号証(いずれも訴外福井の検察宮に対する供述調書)によれば、右認定に反し昭和二十四年四月十五日五十万円と四月十九日四十五万円及び二万八千円、合計九十七万八千円の富士銀行富山支店、同訴外人名義当座預金口座への各入金は右訴外諏訪化学工業株式会社に対する出資金にあらず同訴外人が原告に手形貸付した返済金であるとの趣旨の記載があるが、乙第十四号証(大蔵事務官の同訴外人に対する質問顛末書)の記載内容に比照してもに遽に措信し難い。

(三)  昭和二十三年期末における不動産として同期末の資産に計上した百二十一万八千三百四十三円七十銭は昭和二十四年当期末に於ても原告は依然所有していることは前示昭和二十三年十二月三十一日当時の資産状況についての項中(三)に於て認定したところと同様に同項掲示の諸証拠により推認することができる。また右証言から成立の認められる乙第四十九号証によれば、原告は昭和二十四年中に右不動産のうち金沢市上柿木畠三十七番地の一所在の建物について電気工事代金(合計八万一千七百二十円のうち、値引及び不用返却分三千七百四十円、この差額)として七万七千九百八十円を支出していることを認めることができる。然らば原告は当期末に於て右合計百二十九万六千三百二十三円七十銭相当の不動産を有していたと認めるのが相当である。

(四)  乙第三十二号証、第六十一号証の一、第六十八号証及びいずれも右証言から成立の認められる乙第六十一号証の二、第六十四号証の一、二を綜合すれば、原告が当期末に於て実正宗義若しくは田辺宗義名義で静岡銀行伊東支店、日本興業銀行富山支店及び三井銀行大阪支店に合計三千七百八十一円十一銭の預金を有していたことを認めることができる。

(五)  昭和二十二年期末における機械として同期末資産に計上した二十五万円は昭和二十四年当期末に於ても原告は引続き所有しているものなることは前示昭和二十二年十二月三十一日当時の資産状況についての項中(六)に於て掲示したところと同様の諸証拠により推認することができる。

(六) 乙第十七号証及び何れも右証言から成立の認められる乙第五十九、六十号証を綜合すれば、原告は当期末に於て別表(六)の二に示す如きその所有に係るV型ゴムベルト二千四百八十本を訴外大日本紡績株式会社をして保管せしめていたこと並に原告が昭和二十四年十一月七日に訴外東洋紡績株式会社敦賀工場に対し訴外岩野護謨株式会社大阪支店をしてゴム手袋一千組(この価額十八万円及び運送賃等諸経費一千二百五十二円、以上(1) 合計十八万一千二百五十二円)を送付せしめた上、右訴外会社敦賀工場をして保管せしめていたこと、及び原告が昭和二十四年十一月中四回に亘り訴外東洋紡績株式会社岩国工場に対し訴外岩野護謨株式会社大阪支店をしてゴム手袋五千組(この価額合計九十万円及び運送賃等諸経費合計五千九百七十七円、以上(2) 合計九十万五千九百七十七円)を送付せしめた上、之を右訴外会社岩国工場をして保管せしめていたことを夫々認めることができる。而して成立に争ない乙第六十五号証(物価庁告示第六五八号)に示されたV型ゴムベルトの販売価格統制額は別表(六)の一に示す通りであるから、之に従つて右原告の所有していたV型ゴムベルトの価額を算出すると別表(六)の二の通りで、結局(3) 四十九万八千四百十六円六十銭となること計数上明かである。尤も乙第十七号証(原告の協議団本部長等に対する回答書)の記載中には右訴外大日本紡績株式会社に保管されていたV型ゴムベルトは使用に堪えざる粗悪品であり、上等のV型ゴムベルトに比すれば遙かに廉価なもので合計三千円程度のものに過ぎず、また右訴外東洋紡績株式会社敦賀工場に保管させていたゴム手袋は十万円程度のものに過ぎない旨の記載があるが遽に措信し難いところである。即ち原告は当期末に於てゴム手袋等(1) (2) (3) 合計百五十八万五千六百四十五円六十銭相当の商品を有していたと認めるのが相当である。

よつて原告は当期末に於て以上(一)乃至(六)合計一千三百六十万八千六百七十八円五十二銭の資産を有していたことゝなる。

(1)  そこで昭和二十四年中における純資産増加額は右認定の当期末資産から当期首資産(昭和二十三年期末資産と同じ)を差引いた額、即ち四百八十七万五千八百七十円三十五銭となること計数上明かである。

(2)  然しながら乙第二十九号証の一、二、第六十八号証及び成立に争ない乙第六十九号証によれば、昭和二十四年中における原告の家族数は原告を含めて八人であること及び総理府統計局の調査によると同年十二月における全国都市における国民一人当り一カ月間の平均支出金額は三千三百九十円であつたことをいずれも認めることができる。よつて原告が昭和二十四年中に原告及びその家族の生活費として支出した金額は合計三十二万五千四百四十円であつたと認めるのが相当である。

(3)  乙第三号証、第五号証及び成立に争ない乙第七号証によれば、原告は孰れも税法上当期の必要経費に算入されない公租公課として昭和二十四年中に別表(七)の通り町民税等合計八万一千三百六十七円八十銭を納入していることを認めることができる。

よつて昭和二十四年分所得金額は(1) (2) (3) の合計額五百二十八万二千六百円(但し国庫出納金等端数計算法により百円未満を切捨てる)である。

次に所得税額についてみるに、当時施行中の所得税法によれば、昭和二十四年分基礎控除額は一万五千円であるから課税所得金額は五百二十六万七千六百円となるので之に同法所定の税率を適用して税額を算定すると三百九十六万九百六十円(扶養控除前の税額)となること計数上明かである。而して原告は当期の税額について之を減ずべき事由として他に何らの主張もしないので右算定の税額について原告は納入の義務ありといわなければならない。

然るに被告の審査決定に係る原告の昭和二十四年分所得金額及び所得税額は前示認定の通りであつて之はいずれも右各算定額より低額なのであるから不当なものとはいゝ得ない。

なお被告は昭和二十二年乃至二十四年の各期首当時別表(一)に示す通り原告の負債はなかつたと主張し、原告は之を争つていると解せられるが、更にこれについて主張及び挙証責任を負うと解すべき原告に於て何ら具体的主張(態様及び数額につき)及び立証をなしていないので原告の右各年分の所得金額の算定に当り考慮すべき余地がない。

而して他に叙上の認定を左右するに足る証拠はない。

然らば被告が原告の昭和二十二乃至二十四年分の各所得金額及び所得税額につき冒頭で認定せる如く審査決定したことは相当にして原告の本訴請求は理由がないので之を棄却することゝし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用し、主文の通り判決した。

(裁判官 観田七郎 辻 三雄 三井喜彦)

別表(一)の一ないし七<省略>

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