釧路地方裁判所 平成18年(わ)34号 判決 2006年8月21日
主文
1 被告人を懲役9年に処する。
2 未決勾留日数中120日をその刑に算入する。
理由
【犯行に至る経緯】
被告人は,本件犯行当時,釧路市内の小児科医院を開業する医院長であり,被害者は,被告人の妻であり,同小児科医院の事務長であった。
被告人と被害者は,・・(中略)・・昭和62年9月,婚姻した。・・(中略)・・。
被告人は,小児科医院の経営を被害者に任せ,婚姻生活においても,主導権を握る被害者の意向に沿って生きることに喜びを見いだしていた。一方,被告人は,・・(中略)・・平成16年ころからは,特定の女性との間で,パソコンなどを使用して,親密な内容の電子メールを送受信していた。
平成18年1月28日,被害者は,被告人のパソコンを見て,被告人と女性との間の電子メールのやり取りを知った。被害者は,被告人に裏切られたことに大きな衝撃を受け,被告人や被害者の実母宛ての遺書をしたためたり,翌29日に札幌の出張から帰ってきた被告人に対し,離婚すると宣言した上,激高して包丁を持って追い回し,はさみで後頭部を突いて出血させたりした。・・(中略)・・。
同年2月14日夜,釧路市内の被告人方において,・・(中略)・・被告人を責めた。・・(中略)・・いたたまれなくなった被告人が,その場を逃れて洗面所で歯磨きをしていると,被害者は,和服の長い腰紐を首に巻き付けた上,「私,今ここで死んでやる。あなたの一番嫌なことをやってやる。」と言いながら,被告人方2階廊下の高さ約1.1mの手すりを乗り越え,1階居間と吹き抜けになった側に移動し,2階廊下の床の隅に両足を乗せ,両手で手すりにつかまった。2階廊下の床から1階居間までの高さは約3.75mであった。被告人は,急いで被害者の許に走り寄り,手すり越しに被害者と向かい合う状態になった。被害者は,被告人がすぐに止めなかったことをなじり,「私が死ねばいいと思ってるでしょ。」「あなたの本性が見えた。」「悪魔。」「裏切り者。」などとののしり,被告人の顔面をひっかくなどした。被告人は,むっとして,被害者の顔面を平手で押し,もみ合う中で,被告人が腰紐を右手でつかみ,一瞬で力を緩めたが,被害者は,「今度は殺す気。」「人を殺すような人間なんて生きている資格ないわ。」などと言いながら,廊下の側に戻ろうと手すりを乗り越えようとした。
【罪となるべき事実】
被告人は,被害者(当時55歳)が2階廊下側に戻った場合に被害者から受ける仕打ちに恐怖を感じ,同月15日午前零時15分ころ,被告人方2階廊下において,被害者に対し,殺意をもって,被害者の頚部に巻き付いていた腰紐を左右の手で握り,手すりの一部に引っかかっていた部分を左手で手前に強く引っ張るとともに,右手で握った部分を右足に体重をかけながら右後方に強く引っ張った。被害者は,「愛しているのに,どうして。」と言った後,意識を失い,1階居間に転落した。被告人は,1階に降りて被害者の容態を確認したところ,たとえ蘇生しても,重度の後遺障害が残ると判断し,ひと思いに殺した方が被害者の意思に沿うと考え,頚部に巻き付いていた腰紐の一方の端を左足で踏みつけ,他方の端を右手に巻き付け,左手を添えて全身の力を込めて強く引っ張り,よって,そのころ,同所において,同女を頚部圧迫による窒息により死亡させた。
【証拠の標目】
(省略)
【事実認定の補足説明】
弁護人は,被告人が,被告人方2階廊下において,両手に持った腰紐を強く引っ張って被害者の頚部を絞めた時点(以下「2回目の首絞め行為」という。)では殺意はなかったと主張する。また,被告人は,被告人質問において,2回目の首絞め行為の時点では,すべてが終わってしまうような恐怖を感じ,被害者がこちら側に来ないように腰紐を引っ張っただけで,殺そうというつもりは全くなかったと供述する。
そこで検討するに,前認定のとおり,2回目の首絞め行為の際,被告人が両手で引っ張った腰紐は,被害者の首に巻き付いていたのであり,向かい合っていた被告人は,当然これを認識していたのである。2回目の首絞め行為は,被告人が,腰紐をつかみ,一瞬で緩めたものの,被害者から「今度は殺す気。」などと言われた後の行為である。2回目の首絞め行為の態様は前認定のとおりであり,被告人は,「愛しているのに,どうして。」という被害者の言葉を聞くまで,手加減を加えず,被害者の首を絞め続けた。2階廊下の吹き抜け側にいる相手の頚部を絞め続けて,しかも相手の死を予見していないことなど,考え難い。被害者は,それ以前の数日間,被告人と女性との関係について,いたぶるかのように責め続け,被告人は耐え忍んでいたことに加え,本件犯行直前,被害者から「悪魔。」「裏切り者。」などとののしられたり,顔面をひっかかれて,腹の立つ気持ちも抱いていたのであるから,被告人が,2回目の首絞め行為の前の時点で,とっさに殺意を抱く動機もあるといえる。被告人が被害者を2階から突き落とさなかったからといって,殺意がなかったことにはならない。被告人は,1階に転落した被害者の蘇生を図るでもなく,かえって腰紐を強く引っ張ることによって被害者の息の根を絶った。加えて,被告人は,身柄を拘束されてからさほど間がない平成18年2月16日,検察庁において,2回目の首絞め行為の際,殺意の有無について,どちらとも言えないと述べており,その時点での殺意の存在を明確に否定してはいなかった。
以上を総合すると,被告人は,2回目の首絞め行為において,向かい合う被害者の身体の枢要部である頚部に巻き付いた腰紐を両手で強く引っ張ったもので,その動機も理解できるから,その時点で,確定的な殺意を有していたと認めるべきである。したがって,2回目の首絞め行為の時点での殺意を否認する被告人の供述及び弁護人の主張は採用できない。
【法令の適用】
(省略)
【量刑の理由】
1 本件は,医師である被告人が,深夜,自宅において,妻である被害者を,確定的殺意に基づいて,腰紐で絞殺したという事案である。
2 被告人は,2回目の首絞め行為の直前,被害者が手すりを乗り越えて廊下側に戻って来れば,これまで以上の叱責を受けるかもしれない,いよいよ離婚を突き付けられ,被告人の社会的信用を潰しにかかられるかもしれない,などといった恐怖を覚えたと述べるが,いずれにしても身勝手な動機といわざるを得ない。
被告人からみて,被害者は,完璧主義で,間違いや悪いこと,だらしないことを絶対に許せない性格であった。被告人は,そうした被害者に主導権を握らせ,被害者の意向に沿って生きることに喜びを見いだしていた。被害者の性格や,それまでの被害者と被告人の関係に照らすと,被害者が,夫と女性との付き合いを汚らわしく思い,裏切り行為として責めたことは,むしろ自然であって,被害者側の落ち度と見るべきではない。被害者のような女性を配偶者にしながら,女性との付き合いが単なる男性の息抜きであると理解を求めることこそ,虫のいい話といえよう(なお,弁護人は,被害者が,本件直前に抗うつ剤10錠を飲んで興奮しやすい状態になっていたと主張し,被告人も,これに沿う供述をするが,被害者の死体の鑑定結果における裏付けはない。)。被害者に責められる原因を作り出したのは,もっぱら被告人の背信行為にあったのであるから,本件犯行に至る動機・経緯に酌むべきところは少ない。
本件犯行の態様は,2階廊下の吹き抜け側という不安定な場所にいる被害者の頚部に巻き付いた腰紐を,被害者が失神する間際まで絞め続け,さらに1階に転落した被害者の頚部に巻き付いた腰紐の一方を足で押さえつけ,他方を手で力いっぱい引っ張り,被害者を窒息死させたという一方的かつ残虐なものである。
本件犯行の結果は重大である。・・(中略)・・私生活でも仕事の面でも支え続けてきた配偶者である被告人の手にかかって生命を絶たれた無念さは,察するに余りある。
被告人は,犯行直後,警察官に対し,被害者が自殺したとうそを言ったり,腰紐の一部を切り取って2階廊下の手すりにかけたりするなど,稚拙とはいえ,罪証隠滅行為を行っており,犯行後の情状も良くない。
被害者の実母は,捜査段階において,被告人が憎いものの,憎み続けると自分の身も心も持たないので,被告人を許さなければならないと思うことなど,複雑な思いを語っており,遺族の悲しみも深い。
以上の諸事情に照らすと,被告人の刑事責任は誠に重い。
3 他方,被告人が,本件以前の数日間,被害者から罵倒されたり暴力を加えられ,精神的に追いつめられていたことには同情の余地があること,本件当時,被害者が,自ら頚部に腰紐を巻き付け,2階廊下の手すりを吹き抜け側に乗り越えるという危険な行動をとっており,本件は,こうした被害者の行動に起因した偶発的な犯行であること,被告人が,捜査の初期の段階から,一貫して罪を認め,真摯な反省の態度を示していること,被告人が被害者の実弟に対し,弔慰金として200万円を支払い,被害者の実母に対し,今後生活費として月額5万円を支払う旨約していること,被害者の実母が,少なくとも被告人に対する厳罰を望んでおらず,被告人を許し,被告人を励ます趣旨の書簡をしたためていること,被告人に交通違反による罰金前科以外に前科前歴がないこと,本件が実名で大きく報道されるなど,被告人が一定の社会的制裁を受けていること,被告人の実弟が情状証人として出廷し,被告人の更生に協力する旨述べていること,被告人が,長年,小児のぜんそくやアレルギーの治療において貢献してきたこと,被告人の患者,教え子の看護学生,医師,友人,知人など2129名の者が嘆願書に署名していることなど,被告人のため酌むべき事情もある。
4 これらの情状を総合考慮した上,主文のとおりの量刑をした。
【求刑-懲役14年】
(裁判長裁判官 本田晃 裁判官 本村曉宏 裁判官 山口敦士)