釧路地方裁判所北見支部 平成15年(ワ)27号 判決 2006年4月17日
主文
1 被告は,原告に対し,1164万5156円及びこれに対する平成13年10月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用はこれを5分し,その2を被告の負担とし,その余を原告の負担とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
被告は,原告に対し,3518万0801円及びこれに対する平成13年10月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,北海道市営競馬組合が行う地方競馬(以下「ばんえい競馬」という。)の競争馬(以下「ばん馬」という。)であるキタミハクリキ号(以下「本件馬」という。)が,被告の運営する静内診療所エクワインメディカルセンター(以下「被告病院」という。)で喉頭形成術(以下「本件手術」という。)を受けた際,同病院の獣医師が本件馬に針を残置するなどしたため,本件馬を安楽死させざるを得なくなったとして,馬主である原告が被告に対し,債務不履行又は不法行為に基づいて,損害賠償請求をした事案である。
1 前提事実(証拠を掲げない事実は当事者間に争いがない。)
(1) 当事者等
ア 原告は,平成11年4月10日ころ,本件馬(当時2歳の牡馬)を500万円(手数料50万円を含む。)で購入した。
(甲12)
イ 被告は,被告病院を運営する農業協同組合である。
春野一郎獣医師(以下「春野獣医師」という。)は,平成13年4月当時,被告の診療部長であり(証人春野一郎),被告病院で診察,手術等を行っていた。
春野獣医師は,我が国で初めて,馬の喘鳴症に対して喉頭形成術をした獣医師である。
(2) 本件手術に至る経過
ア 本件馬は,平成11年5月3日から平成12年1月30日までの間,24回のレースに出走して6回優勝し,同年5月29日のレースでも優勝し,同年6月11日のレースでは9位であった。
(甲17の1ないし24,甲18の1,2)
イ 本件馬は,同年6月16日,帯広畜産大学付属家畜病院(以下「畜大病院」という。)において,喘鳴症(喉頭片麻痺)と診断された。
喘鳴症とは,喉鳴りとも言われ,馬の喉頭口が狭まり,深い呼吸をする際に特異な喉頭狭窄音(喘鳴音)を発する疾病である。これによって呼吸が十分できない場合には,競争能力に影響が生じる。その主な原因は,喉頭部にある披裂軟骨の麻痺である。多くの症例は,左側の披裂軟骨だけが麻痺し,喉頭片麻痺といわれる。披裂軟骨は,息を吸う場合,外側に開き(これを「外転」という。),気道を開け,食道を閉じる機能を果たすので,左側の披裂軟骨だけが神経麻痺を起こして外転しないと,息を吸う場合,気道が狭くなり,喘鳴音が発生する。喉頭片麻痺の原因は,未解明である。喘鳴症は,それ自体として,排膿や瘻管を形成する疾病ではない。
ウ 同日,畜大病院において,本件馬に対し,喉頭形成術がされた(以下「前回手術」という。)。
喉頭形成術とは,小角突起という筋肉に包まれている披裂軟骨と輪状軟骨の筋突起との間にプロテーゼ(人工装具)を装着する手術であり,具体的には,披裂軟骨と輪状軟骨を直接,非吸収性の糸で結束する手術(小角突起を外転させる手術)である。
エ 本件馬は,同年9月16日から平成13年2月18日までの間,14回のレースに出走し,5回優勝した。
(甲18の3ないし16)
(3) 本件手術
同年4月ころ,本件馬の喘鳴症が再発した。
原告と被告は,同月12日,本件馬に喉頭形成術を行うことを主たる内容とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結し,同日,被告病院において,本件馬にとって2回目となる喉頭形成術である本件手術が,春野獣医師によって行われた。
その際,春野獣医師は,本件馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に披裂軟骨と輪状軟骨の筋突起をプロテーゼ(人工装具)で結束する際に用いられる縫合針を残置した。
(4) 本件馬の死亡
本件手術後,本件馬は,排膿したり,異物性瘻管が形成され,左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に及ぶ結合組織の肥厚(増生)が生じるなどして,気管チューブを挿入できない程度に声門が狭窄した上,披裂軟骨が変形し,小角突起切除術をしても声門の拡張ができない状態になった。
同年9月4日,畜大病院において,本件馬の瘻管が洗浄された際,本件手術において披裂軟骨と輪状軟骨の筋突起の間にプロテーゼとして装着された縫合糸と同種の縫合糸(エチボンド)が約20㎝除去された。また,同年10月5日にも,同様の縫合糸が約8㎝除去された。
同月23日,本件馬について安楽死の措置がされた。
2 争点及びこれに対する当事者の主張
(1) 春野獣医師に本件手術における手技その他の過失があるか。
ア 原告の主張
(ア) 主位的
春野獣医師は,本件手術の際,本件馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に縫合針を埋没させ,その付近に不要な縫合糸を残置するなどの極めてずさんな手技をした。
針の残置は,喉頭形成術の手技に全く予定されないものであるばかりか,あまりにも基本的なミスであり,予見できないものでも回避できないものでもない。
また,喉頭形成術において,最終的に体内に残される縫合糸(エチボンド)の長さは,通常10㎝程度であるところ,本件馬の排膿部からは,約20㎝及び約8㎝の縫合糸(エチボンド)が摘出されている。春野獣医師は,針を取り出そうとしたができず,動揺し狼狽したため,このような不要な糸まで残置させたのである。
(イ) 予備的
仮に,上記(ア)が過失でないとしても,春野獣医師は,原告に対し,本件馬の体内に縫合針を残置したことを告げる義務があったのに,これを故意に行わなかった(予備的その1)。仮に故意でないとしても,重大な過失によって告げなかった(予備的その2)。
原告は,このことによって,本件馬に対し可能な限り有効な本件手術後の治療を受けさせる機会を失い,最終的に,本件馬を安楽死させざるを得なくなった。
イ 被告の主張
(ア) 原告の主位的主張について
本件手術において用いられた針が,本件馬に残置されたことは認めるが,喉頭形成術自体は成功しており,春野獣医師に注意義務違反はない。
仮に,針や,通常以上の長さの糸を本件馬の体内に残置しないことが本件診療契約の内容となるとしても,後記のとおり,そのことと本件馬の死亡との間に因果関係はない。
(イ) 原告の予備的主張について
春野獣医師は,本件手術終了時,針の残置について,全く認識していなかったし,重過失があったとの点も争う。
(2) 春野獣医師の過失と本件馬の死亡との間に因果関係があるか。
ア 原告の主張
本件手術の際,春野獣医師が,本件馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に縫合針を残置し,同部位付近に不要な縫合糸を残置するなど,ずさんな手技であったため,手術室内の空気中の細菌や手術台周辺に散在する雑菌類等により,同部位付近に感染症が生じ,左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に及ぶ結合組織の炎症性肥厚(増生)をもたらし,本件馬は安楽死を余儀なくされた。解剖時の写真には,残置された針の末端部分で軟骨から外にはみ出した部分と接していたと思われる組織に暗赤褐色の変色がある。このことは,本件手術において,春野獣医師によって残置された針及びその接着した付近一帯に感染症を生じさせたことを裏付ける。さらに,残置された針と,摘出された糸とはつながっていた可能性もあり,その場合,春野獣医師に責任があることは明らかである。
本件手術後,本件馬は,岩見沢競馬場の診療所に搬送され,抗生物質を投与され,梨本厩舎に移送され,抗生物質ペニシリンが投与され,表皮の術創にイソジンによる消毒が行われ,その後預けられた川端悟(以下「川端」という。)のもとでも,抗生物質が投与され,表皮の術創の消毒が行われていた。本件馬に対する術後管理には,何の落ち度もないから,春野獣医師の過失と本件馬の安楽死との間の因果関係は,切断されない。
イ 被告の主張
春野獣医師は,本件手術において,本件馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に縫合針を残置したが,その周辺組織は,解剖時においても化膿していないから,針の残置と本件馬の死亡との間に因果関係はない。
本件馬に生じた異物性瘻管の原因となった異物は,本件手術において披裂軟骨と輪状軟骨の筋突起の間にプロテーゼ(人工装具)として装着された縫合糸である。本件においては,手術中に細菌の感染が起こった術中感染の可能性と,この縫合糸に体内臓器や組織に存在する細菌が血流を介して移動し,感染症を引き起こした血行感染の可能性がある。
血行感染の場合,結合組織の肥厚は,本件手術とは無関係な機序により生じたことになるから,本件手術と本件馬の死亡との間に因果関係はない。
術中感染の場合,早期に異物の除去等の外科的手術を行うことにより,炎症による披裂軟骨の変形等による声門狭窄は避け得た。しかるに,本件馬を管理していた原告側が,そうした措置が採らなかったことにより,炎症が進行したのであるから,本件手術と本件馬の死亡との間の因果関係は,この時点で切断されている。
(3) 損害及びその額
ア 原告の主張
(ア) 積極損害
a 治療関係費用等 38万8528円
b 輸送費用 26万7750円
(イ) 逸失利益
a 休業損害 312万7250円
本件馬は,前回手術から3か月後にレースに復帰し,優勝している。本件手術が失敗しなければ,本件馬は,平成13年7月10日ころからレースに復帰し,同年10月25日ころまでの間,少なくとも10回のレースに出場できたと考えるのが合理的である。本件馬の平成12年度の1レース当たりの獲得賞金の平均は31万2725円である。したがって,休業損害は,少なくとも,10回のレース分に相当する312万7250円となる。
(計算式) 312,725×10=3,127,250
b 死亡逸失利益 2319万9019円
一般に,ばん馬は10歳まで出場し,引退の年まで賞金を獲得できる。本件馬が生存していれば,平成14年から5年間,引退まで毎年24レースに出走し得た。本件馬の生涯における1レース当たりの獲得賞金の平均は22万3265円であり,年間獲得賞金の平均は535万8360円である。5年間に対応するライプニッツ係数4.3295を用いて中間利息を控除すると,本件馬の死亡逸失利益は,2319万9019円となる。
(計算式) 5,358,360×4.3295≒23,199,019
c 種牡馬としての価値 500万0000円
本件馬の種牡馬としての価値は,少なくとも500万円を下らない。
(ウ) 弁護士費用 319万8254円
イ 被告の主張
(ア) 消極損害について
ばんえい競馬において10歳まで現役を継続する馬は,5歳以上の馬の中でも10%以下であり,ばんえい競馬に登録されているばん馬の中で,5歳以上の馬の平均年齢は,6.78歳であるから,本件馬が10歳まで出走し続ける蓋然性は極めて低い。本件馬は,喘鳴症で2回の喉頭形成術を受けていることに照らし,本件馬がばんえい競馬に出走し,賞金を得ることができるのは,せいぜい6歳程度までであると考えるべきである。本件手術前と同程度の賞金を獲得できる蓋然性も低い。引退時の価格も低廉になるはずである。
また,本件馬は,ばんえい競馬開催中は月15万円,それ以外の期間は月10万円の経費を要しており,逸失利益の算定に当たり,控除されるべきである。
(イ) 過失相殺
本件馬の管理を委ねられていた梨本厩舎ないし川端は,本件馬に対し,本件手術を行った春野獣医師の診察・加療を受けさせず,大きな病院で受診させることもなかった。獣医師による診察も数回である。このように,本件馬は,その症状に応じた治療の機会を奪われている。
本件手術において春野獣医師に過失があったとしても,本件馬が安楽死を余儀なくされたことには,原告側の過失に負うところが大であり,その過失割合は,8割を下らない。損害の公平な負担の観点からは,過失相殺ないし過失相殺の類推適用をするべきである。
第3 当裁判所の判断
1 争点(1)(春野獣医師に本件手術における手技その他の過失があるか)について
(1) 証拠(甲2,甲23の1ないし7,甲24,甲25,甲27,甲28,甲31,乙1の1及び2,乙2ないし5,乙A5の1ないし4,乙A9,乙A12,乙A13,調査嘱託の結果,証人春野一郎,証人夏川二郎,証人秋山三郎,証人梨本照夫,原告本人)によれば,本件手術時及びその後の状況として,次の事実が認められる。
ア 春野獣医師は,本件馬に抗生物質(マイスリン)を投与するなど,術前措置を施した上,手術を開始した。本件手術は,平成13年4月12日午前10時48分,本件馬に鎮静剤が投与され,全身麻酔のもと,同日午前11時40分ころ,表皮の切開に始まり,同日午後1時20分ころ終了した。本件馬が麻酔から覚醒したのは,同日午後1時40分ころであった。
本件手術の具体的な内容は,次のとおりであった。
(ア) 本件馬に麻酔をかけた後,台車の上に本件馬の右側を下にして乗せて寝かせ,本件馬の首の左側面を剃毛し,その部分を消毒した。その後,本件馬を手術台に移し,首の下に台を置いた。
(イ) まず,首の左側面の舌顔面静脈の上の部分を切開し,皮下組織及び唾液線を鈍性に剥離した。止血を行いながら,皮下組織を剥離すると,輪状咽頭筋と甲状咽頭筋が接しているところに達することから,輪状咽頭筋と甲状咽頭筋の間を鈍性に剥離し,披裂軟骨の筋突起を露出した。その後,輪状軟骨をタオル鉗子で掴んで引き出し,喉頭形成術を施した。
(ウ) 喉頭形成術を実施する際,本件馬は,出血が多量に認められたため,止血に時間がかかるなどし,一般的な手術の所要時間よりも時間がかかった。
(エ) 喉頭形成術を実施する際に使用された針は,エチボンド(乙A6の2)であった。エチボンドは,湾曲した金属製の針の後端に非吸収性の糸(ポリエステル製)が接着されている形状をしており,軟骨に縫合糸を通したところで,金属製の針とそれに続く縫合糸を切断して使用するものである。
(オ) その後,輪状咽頭筋と甲状咽頭筋の筋膜をバイクリル(乙A6の6)で縫合し,皮下組織を縫合した。バイクリルは,湾曲した金属製の針の後端に吸収性の糸が接着されている形状をしており,縫合作業を終えると,金属製の針とそれに続く縫合糸を切断して使用するものである。そして,皮膚をナイロン糸(非吸収性。乙A6の9)を用いて縫合し,術創にガーゼを当てるなどして手術が終了した。
(カ) 本件で使用された縫合針及び糸は,すべて滅菌処理を施された新品が使用された。
イ 春野獣医師は,本件手術終了後,原告に対し,術後措置について,特段の指示を行わず,抗生物質を渡すようなこともなかった。
冬木四郎獣医師(以下「冬木獣医師」という。)は,岩見沢競馬場の「ばんえい競馬馬主協会診療所」において,同年4月13日午前0時41分,本件馬に対し,抗生物質を投与した。
その後,本件馬は,北海道樺戸郡新十津川町にある梨本照夫調教師(以下「梨本調教師」という。)個人の厩舎(以下「梨本厩舎」という。)に移され,本件手術の翌日か翌々日ころ,同所で,冬木獣医師の診察を受けた。数日間,梨本厩舎の厩務員らは,本件馬に対し,冬木獣医師から処方された抗生物質などを投与するなどした。本件馬の術創は,腫れている状態であったが,排膿のある状況ではなかった。
同月の下旬又は同年5月の上旬ころ,本件馬は,北海道空知郡奈井江町の川端のもとに預けられた。川端は,本件馬の術創部分の腫れがなくならないので,秋山三郎獣医師(以下「秋山獣医師」という。)に本件馬を診察してもらった。秋山獣医師は,同年5月から7月ころ,本件馬の術創部に膿がたまっている状況であったことから,同部位を切開して排膿し,術創部の消毒等をすることを川端に指示した。
同年8月25日ころ,梨本調教師が岩見沢競馬場から与えられている厩舎に移された。冬木獣医師は,同月25日,同月27日,本件馬に対し,岩見沢競馬場の「ばんえい競馬馬主協会診療所」において,抗生物質を投与した。同月31日以降,本件馬の術創の部位には膿瘍,排膿が継続的に認められたことから,本件馬には,「ばんえい競馬馬主協会診療所」において,膿瘍を排出する外科処置等が施された。
ウ 同年9月4日,本件馬は,畜大病院において,夏川二郎獣医師(以下「夏川獣医師」という。)の診察を受けた。本件馬の栄養状態は良好であったが,喉頭部の内視鏡検査(口腔から内視鏡にて喉頭部を観察する検査)を行った結果,喉頭片麻痺の症状は最重度(グレード4)であり,披裂軟骨の変形,喉頭部の腫脹が認められた。当該腫脹は,膿瘍形成が原因として疑われた。また,本件馬の本件手術による術創から排膿があった。そこで,夏川獣医師は,本件馬の喉の部分に形成された当該排膿部に続く瘻管(組織内に形成される管状の膿の排出路)内に鉗子を挿入して探査するなどしたところ,約20㎝の縫合糸が摘出された。この縫合糸は,本件手術において喉頭形成術のプロテーゼとして利用された非吸収性の糸(エチボンド)と同一種類のものであった。夏川獣医師は,瘻管内に挿入した鉗子で掴むことができた部分は,本件瘻管の中に遊離した状態(瘻管内の膿汁が排出され,空間ができた部分に存在している状態)であったことから,これを鉗子で引っ張ってはさみで切断し,摘出した。当該縫合糸が存在していた場所は,本件手術が施された部分の付近に形成された瘻管内であった。
なお,この点,春野獣医師は,このとき摘出された糸は,皮下組織等を縫合した吸収性の縫合糸(バイクリル)だと思う旨証言し,冬木獣医師の陳述聴取書(甲24)においても,それに沿う記載がある。しかし,実際に当該糸の摘出を行った夏川獣医師は,調査嘱託の回答及び証言において,一貫して,喉頭形成術のプロテーゼとして利用された非吸収性の糸(エチボンド)であったと明確に述べる。実物を見ていない春野獣医師及び冬木獣医師の推測をもって,これを覆すことはできない。
同月5日以降,本件馬は,岩見沢競馬場等の「ばんえい競馬馬主協会診療所」において療養することとなったが,本件手術の術創部の膿瘍が継続する状態となった。
エ 同年10月4日,本件馬は,喘鳴音が重度となり,前日の朝からは,呼吸困難,呼吸時の雑音が著しくなったため,畜大病院において,夏川獣医師の診察を受けた。本件馬は,栄養状態は良好であったが,その呼吸において狭窄音が発する状態であり,内視鏡検査において,喉頭片麻痺が最重度(グレード4),左側の披裂軟骨が変形し,右側に変位する状態であって気道が著しく狭窄している状態であった。本件馬をX線撮影にて検査したところ,披裂軟骨の筋突起部に縫合針様の異物が認められた。また,本件馬の喉の部分(本件手術の術創部付近)には,瘻管が形成されていた。この瘻管に造影剤を注入し,X線撮影をしたところ,本件馬には,気管の背中側及び食道部に広汎な瘻管が形成されていた。そこで,夏川獣医師は,本件馬に全身麻酔をかけ,瘻管など化膿している組織を摘出し,併せて,瘻管内から約8㎝の縫合糸を摘出した。この縫合糸もまた,本件手術において喉頭形成術のプロテーゼとして利用された非吸収性の縫合糸(エチボンド)と同一種類のものであった。これが存在していた場所は,本件手術が施された部分の付近に形成された瘻管内であった。その後,本件馬は,麻酔から覚醒したものの,呼吸困難が重度であったため,夏川獣医師は,本件馬の気管を切開し,気道管を挿入して気道を確保する措置をとった。
本件馬は,同月6日,入院していた畜大病院を退院し,排膿が治るまで気道管を装着したままとし,原告において経過観察することとなり,その後,梨本調教師が旭川競馬場から与えられている厩舎に移され,同月14日ころまで,同競馬場内の「ばんえい競馬馬主協会診療所」において診察・治療を受けるなどしていた。
原告は,同月23日,本件馬の呼吸時に発生する狭窄音の改善が認められず,更なる外科措置を含めた予後を判定するために,本件馬を畜大病院に受診させた。本件馬に対し,内視鏡による検査が行われた結果,症状として最重度(グレード4)の喘鳴症(喉頭片麻痺)であり,左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に及ぶ結合組織の肥厚(増生)が原因で,呼吸困難を解消させるための外科措置が適用できない披裂軟骨小角突起の変形による気道閉塞であると診断された。上記結合組織の肥厚(増生)は,当該部位に炎症が発生していることが原因で生じたものであった。結局,本件馬は,呼吸困難症状が著しいため,同日,安楽死の処置がされた。本件馬は,死亡時4歳であった。
オ 夏川獣医師は,同月24日,帯広畜産大学で本件馬を解剖した。本件馬には,左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に結合性組織が増生しており,左披裂軟骨の右方への変位及び声門狭窄が生じ,左甲状軟骨内に48㎜の縫合針(エチボンドの針。以下「本件針」という。)が一本,その全長をすべて軟骨内に埋没した状態で突き刺さっていた。本件針は,左甲状軟骨から容易に抜去することができず,夏川獣医師は,左甲状軟骨を骨ノミで割り,取り出した。左甲状軟骨の本件針に接触する組織全面にわたって,組織の壊死や化膿があるわけではなく,本件針に腐食はなかった。本件針は,折れたものではなく,針全体が摘出された。解剖時,本件針に糸はついていなかった。
このとき,縫合糸が2㎝程度摘出された。この縫合糸もまた,本件手術において喉頭形成術のプロテーゼとして利用された非吸収性の糸(エチボンド)と同一種類のものであった。
(2) 縫合針(エチボンド針)を喉頭部の左甲状軟骨内に残置することは,喉頭形成術の内容ではない。本件手術の際,本件馬の左甲状軟骨内に埋没させる状態で本件針を残置した行為は,獣医師に課せられた注意義務に反する過失行為である。
また,一般に,喉頭形成術において,馬の体内にプロテーゼとして残置すべき縫合糸は必要最小限の長さであることが求められるし,喉頭形成術を行った場合,通常,輪状軟骨と披裂軟骨を糸で結束するために馬の体内に残るべき縫合糸(エチボンド)の量は,10㎝程度である(証人夏川二郎)。
しかるに,平成13年9月4日,夏川獣医師が本件馬を診察した際,本件馬の喉の部分に形成された当該排膿部に続く瘻管(組織内に形成される管状の膿の排出路)内から,本件手術において喉頭形成術のプロテーゼとして使用される縫合糸(エチボンド)と同じ種類の縫合糸が約20㎝摘出され,また,同年10月4日,夏川獣医師が本件馬を診察した際にも,同じ種類の縫合糸(エチボンド)が約8㎝摘出された。これらの縫合糸(エチボンド)が摘出されたのは,いずれも,本件手術が施された部分の付近に形成された瘻管内からであった。そして,同月24日,本件馬が解剖された際,同じく縫合糸(エチボンド)が約2㎝摘出された。
春野獣医師は,その証人尋問において,本件手術の際,前回手術に係る縫合糸(エチボンド)はなかった旨供述している。これを前提とすれば,以上の合計約30㎝の縫合糸(エチボンド)は,すべて本件手術の際,本件馬の体内に残置した縫合糸(エチボンド)であることになる。仮に,前回手術に係る縫合糸(エチボンド)が本件馬の体内に存在していたとしても,合計約30㎝の本件馬の体内から摘出された縫合糸(エチボンド)のうち,少なくとも,約20㎝の縫合糸については,春野獣医師が行った本件手術の際,本件馬の体内に残置されたものであることになる。
そうすると,本件手術の際,通常要する限度を超えた約20㎝又は約10㎝の縫合糸(エチボンド。以下「本件糸」という。)を本件馬の体内に残置した行為は,獣医師に課せられた注意義務に反する過失行為である。
したがって,その余の点(原告の予備的主張)を検討するまでもなく,被告の責任原因が認められる。
2 争点(2)(春野獣医師の過失と本件馬の死亡との間に因果関係があるか)について
(1) 前認定のとおり,平成13年10月24日の解剖の際,本件針に接触する左甲状軟骨の組織全面には,組織の壊死や化膿があったわけではなく,本件針に腐食もなかった。本件針に接触したと思われる部分に暗赤褐色の変色があるようにも見える(甲3添付写真,甲23の7)が,夏川獣医師(乙A1の3,乙A5の1,乙A13,証人夏川二郎)及び冬木獣医師(甲24)は,いずれも,本件針それ自体が,結合組織の肥厚(増生)をもたらす化膿性の炎症を引き起こしたとは認められないとの見解を示している。
本件針は,左甲状軟骨内に容易に抜去することができないほど,埋没し深く突き刺さっていたのであり,体内に手術用の針が残置されていても,繁殖牝馬として生きている馬の実例があること(乙10,証人春野一郎)に照らすと,本件馬の左甲状軟骨内に埋没した本件針が異物としてその周辺組織に作用し,それが上記結合組織の肥厚(増生)をもたらすような炎症を引き起こしたものと認めることは困難である。
そうすると,本件針の残置のみをもって,本件馬を死亡に至らしめた左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に及ぶ結合組織の肥厚(増生)の原因と認めることはできない。
(2) 一方,前認定のとおり,平成13年9月4日及び同年10月4日,夏川獣医師が本件馬から摘出した縫合糸(エチボンド)は,本件馬の喉の部分に形成された当該排膿部に続く瘻管(組織内に形成される管状の膿の排出路)内にあった。
証拠(乙A13,証人夏川二郎)によれば,縫合糸(エチボンド)が存在していた瘻管は,異物によって形成された瘻管であること,瘻管とは慢性の化膿性の疾患であり,化膿が生じてから瘻管が形成されるまでには相当長い時間がかかること,本件手術で使用した縫合糸(エチボンド)が汚染されていた場合,術後数日以内で化膿が生じ,排膿が生ずるはずであることが認められる。しかるに,前認定によれば,平成13年4月13日ころ,本件手術の術創部から排膿が生ずる状況ではなく,その他,術後数日以内に化膿が生じ,排膿が生ずる症状があったことを認めるべき証拠はない。したがって,本件において,術中感染があったとは認め難い。
他方,血行感染とは,体に細菌が入り,それが血流を介して体内の弱い部分に集まり,感染症を引き起こすものであり,本件手術においてプロテーゼとして使用された縫合糸(エチボンド)は,非吸収性の糸であって,性質上,血行感染を誘発する原因となり得るものであり(乙A13),また,本件馬の喉の部分に形成された瘻管は,喉頭形成術においてプロテーゼとして適切に残置されるべき縫合糸の位置とは異なる部位に,それなりの広がりをもって形成されている(甲23の6,証人春野一郎)。経験則上,通常想定される長さを超える縫合糸を適切でない場所に残すと,適切な位置に縫合糸を残す場合に比して,血行感染を生じさせる可能性を増大させるものと考えられる。そして,本件馬の左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に及ぶ結合組織の肥厚(増生)が,当該部位に炎症が発生していることを原因として生じたことに照らせば,本件手術の際,春野獣医師が本件馬の体内に残置した本件糸が,本件馬の体内において血行感染による感染症の発症を誘発し,その後,縫合糸そのものが結局において細菌汚染の温床となって,それが瘻管を形成させたと解すべきである。
結局,本件手術の際,春野獣医師が,本件馬の体内に本件糸を残置したことが原因となって,本件馬の喉の部分に瘻管が形成され,結合組織の炎症を生じさせ,同組織の肥厚(増生)をもたらし,本件馬が呼吸困難となり,安楽死させざるを得ない状況に至らせたのであり,本件糸の残置と本件馬の死亡との間には因果関係がある。
(3) 前認定のとおり,本件馬は,平成13年4月13日ころ,梨本厩舎において,厩務員によって抗生物質を投与され,同月下旬又は同年5月上旬ころから同年8月25日ころまでの間,川端のもとで秋山獣医師の診察を受けていた。本件馬の術後管理は通常の水準であって(甲27,乙A12,証人秋山三郎),これを下回る術後管理がされていたことを認めるに足りる証拠はない。原告において,術後の処置に関する指示を一切しなかった春野獣医師に,再度診察させるべき義務を観念することはできないし,仮に春野獣医師に受診させたとしても,本件馬の体内に残置した縫合糸(エチボンド)を原因とする血行感染を防ぎ得たと認めるに足りる証拠はない。
そうすると,本件馬の血行感染による感染症の発症が,原告ないし原告側の術後管理の不適切によるものとは認め難い。
(4) そして,春野獣医師は,本件手術当時,被告の経営する被告病院の診療部長であるから,被告は,春野獣医師の過失(春野獣医師が,本件手術の際,本件糸を本件馬の体内に残置したこと)と相当因果関係にある損害について,不法行為(使用者責任)に基づく賠償責任を負う。
3 争点(3)(損害及びその額)について
(1) 積極損害
ア 治療関係費用等 38万8528円
証拠(甲4,甲5,甲6,甲8,乙3,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,①本件手術の費用として11万2988円要したこと,②本件馬を平成13年10月4日から同月6日まで畜大病院において検査,入院させた際,11万4760円を要したこと,③同年9月6日から同年10月18日までの本件馬に対する「ばんえい競馬馬主協会診療所」における診療費として合計14万2030円を要したこと,④本件馬を預けた原告の知人が本件馬を獣医師に治療してもらい,その際,治療費として1万8750円を要したことが認められる。
イ 輸送費用 26万7750円
証拠(甲7,原告)及び弁論の全趣旨によれば,原告は,平成13年10月6日,畜大病院から本件馬を退院させてから旭川の厩舎に移動させ,その後,北海道常呂郡佐呂間町の山本久男のもとに本件馬を預け,同月23日,診察のため,同人のところから畜大病院まで移動させ,これらの輸送費用として26万7750円を要したこと,春野獣医師の過失によって本件馬の容態が悪化しなければ,こうした支出を要しなかったことが認められる。
(2) 消極損害
ア 休業損害 83万0284円
前認定のとおり,本件馬は,平成12年6月,畜大病院で前回手術を受けた3か月後である同年9月から月2,3回出走している。しかしながら,2回目の喉頭形成術による喉頭部の機能回復(喘鳴症の改善)の可能性は,さほど高くない(乙6,証人春野一郎,証人夏川二郎,証人梨本照夫)。すなわち,春野獣医師の過失がなければ,喘鳴症を発症する前の状態はもとより,前回手術後,喘鳴症が改善した状態と同じ程度にまで回復した可能性は,むしろ少ない。獣医学書によれば,喘鳴症(喉頭片麻痺)は,走行能力に悪影響を及ぼすものとされている(甲19の546頁,甲21の253頁)。その他諸般の事情を総合すると,春野獣医師の過失がなかった場合に本件馬によって得られる利益は,本件手術前の水準の7割程度と認めるのが相当である。
証拠(甲17の1ないし24,甲18の1ないし16,証人梨本照夫)及び弁論の全趣旨によれば,ばん馬の出走は月2回が標準的であり,本件手術前の本件馬も同様であったこと,ばんえい競馬は,平成17年度までは,毎年5月から翌年の2月まで10か月間開催されたこと,本件馬が得た優勝賞金と出走手当から進上金等を除いた収入額は,生涯平均1レース当たり22万3265円であったこと,上記進上金等とは別に,本件馬の飼育・調教の経費として,ばんえい競馬開催中が月15万,それ以外の期間が月10万円を要したことが認められる。
本件手術前の生涯平均の収入額を前提として,本件手術後の3か月後である平成13年7月から同年10月までの間,月2回合計8レースに出走したとすれば,その間の収入額は178万6120円(1レースあたり22万3265円×8回)となる。この間(ばんえい競馬開催中)の経費である月15万円の4か月分合計60万円を控除すると,118万6120円となる。
したがって,春野獣医師の過失がなかった場合,本件馬によって得られる休業期間中の利益は,上記額の7割に相当する83万0284円となる。
(計算式) (223,265×8-150,000×4)×0.7=830,284
イ 逸失利益 527万1325円
上記と同様,春野獣医師の過失がなかった場合に本件馬によって得られる逸失利益は,本件手術前の水準の7割程度と認めるのが相当である。
証拠(乙C1ないし5,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,平成17年4月1日現在,4歳馬が99頭,5歳馬が81頭,6歳馬が78頭,7歳馬が45頭,8歳馬が38頭,9歳馬が34頭,10歳馬が23頭であること,ばんえい競馬に出走するばん馬の分布状況によれば,出走時において,4歳馬から5歳馬になるまでに18頭が,5歳馬から6歳馬になるまでに3頭が,6歳馬から7歳馬になるまでに33頭が,7歳馬から8歳馬になるまでに7頭が,8歳馬から9歳馬になるまでに4頭が,9歳馬から10歳馬になるまでに11頭が,そして10歳馬23頭が,それぞれその年齢において引退することが認められる。そうすると,4歳馬まで引退しなかったばん馬の平均引退時期は,7歳である。
(計算式) (4×18+5×3+6×33+7×7+8×4+9×11+10×23)÷99≒7.02
本件馬は,死亡時4歳であったから,逸失利益の検討においては,7歳まで3年間の得べかりし利益を検討すべきである。10か月間,各月2回出走した場合,生涯平均の1レース当たりの22万3265円の収入額を前提とすれば,その平均年収は446万5300円となる(1レースあたり22万3265円×20回)。この額から,年間の経費170万円(15万円の10か月分及び10万円の2か月分の合計額)を控除すると,年間利益は276万5300円となる。3年間に対応するライプニッツ係数(年金現価表)2.7232を用いて中間利息を控除すると,7歳になるまでの逸失利益は753万0464円(小数点以下切捨て)となる。
したがって,春野獣医師の過失がなかった場合,本件馬によって得られる死亡までの逸失利益は,上記額の7割に相当する527万1325円である。
(計算式) {(223,265×20-1,700,000)×2.7232}×0.7≒5,271,325
(3) 種牡馬としての価値 388万7269円
原告が,本件馬を500万円(手数料50万円を含む。)で購入したことは前認定のとおりであり,証拠(甲12,甲16の1及び2,証人梨本照夫)によれば,喘鳴症を発症し,手術を一回受けたことがあるばん馬が,引退後,450万円程度で売られたことがあることが認められる。なお,梨本調教師及び坂本騎手作成の書面(甲14,15)には,いずれも「手術前の売買予想金額は1500~2000万円」との記載があるが,手術後の価値を見積もる上では参考にならない。その他諸般の事情を総合すると,本件馬は,7歳馬として引退する際,少なくとも,450万円の売却価値があったと認めるのが相当である。3年間のライプニッツ係数(現価表)0.86383760を用いて中間利息を控除すると,死亡当時の本件馬の価値は388万7269円(小数点以下切捨て)となる。
(計算式) 4,500,000×0.86383760≒3,887,269
(4) 過失相殺
以上の合計は,1064万5156円となる。
ところで,前認定のとおり,本件馬の術後管理において,通常の水準以下であったことをうかがわせる事情は認められない。そもそも,損害賠償の額を定めるについて斟酌される「被害者側の過失」とは,被害者本人と身分上ないしは生活関係上一体をなすとみられるような関係にある者の過失をいうものと解するのが相当であるところ(最高裁昭和42年6月27日第三小法廷判決・民集21巻6号1507頁),本件において,仮に,本件手術後,本件馬の診療に関わった獣医師らに何らかの過誤があったとしても,これをもって,被害者側の過失に当たるとはいえない。
したがって,本件において,過失相殺をすべきではない。
(5) 弁護士費用 100万0000円
本件事案の内容,認容額等諸般の事情に照らすと,原告が被告に対して請求し得る弁護士費用としての損害は,上記額が相当である。
第4 結論
以上によれば,原告の本訴請求は,1164万5156円及びこれに対する不法行為の後である平成13年10月25日から支払済みまで年5分の割合による金員の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し(債務不履行に基づく損害賠償請求は,この認容額を上回るものではない。),その余の請求は理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。なお,仮執行の免脱宣言は,相当でないので付さない。