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釧路地方裁判所網走支部 昭和54年(た)1号 決定 1982年12月20日

請求人 梅田義光

主文

本件について再審を開始する。

理由

(理由目次)

第一  確定判決

一  事件の発生と原一審判決に至る経緯

二  判決確定の経緯

三  確定判決が認定した犯罪事実

第二  確定判決の証拠構造

一  確定判決の証拠摘示

二  確定判決の証拠構造の分析

1 自白

2 共犯者供述

3 実行行為についての裏付証拠

4 大山の失踪直前の言動に関する証拠

5 大山の営林局における身分や職務等に関する証拠

6 梅田の生活状況等に関する証拠

7 梅田自白の任意性及び真実性に関する証拠

8 羽賀の犯行動機及び犯行準備状況に関する供述の裏付証拠

9 羽賀の強取金の処分状況に関する供述の裏付証拠

三  原二審判決の説示

1 梅田の自白に至る経緯

2 梅田自白の任意性

3 梅田自白及び羽賀供述の真実性

(一) 梅田の逮捕時及び取調べ時の言動と真実性

(二) 弁護人の主張に対する判断

(1) 凶器たるバツトについて

(2) 殺害行為の態様について

イ バツトによる頭部打撃

ロ ナイフによる頭部刺突

ハ 縄による絞頸

(3) 梅田作成現場図面の誤りと変遷

(4) 羽賀供述の変遷と梅田自白との食い違い

四  原三審判決の説示

五  証拠構造検討結果のまとめ

第三  一次再審

一  一次再審請求の経過

二  一次再審請求の理由の要旨

1 新証拠として提出した証拠

(一) 刑訴法四三五条六号の事由を証するものとして

(1) 洋服上衣とズボン各一着

(2) 船尾血痕鑑定書

(3) 梅田手記写し

(4) 羽賀簡易手紙

(5) 羽賀秘密文書

(6) 奥野蔀証言及び同書簡

(二) 刑訴法四三五条七号、四三七条の事由を証するものとして

(7) 釧路検察審査会議決書

2 理由

(一) 血液付着の有無

(二) 警察官による拷問、強制と梅田自白の任意性、真実性

(1) 梅田手記の証拠能力

(2) 梅田手記の「明白性」

(3) 原二審判決の任意性否定判断

(三) 阿部巡査と刑訴法四三五条七号、四三七条の再審開始理由

(四) 羽賀の「梅田は共犯ではない。」旨の事後供述

三  再一審決定(請求棄却)の理由の要旨

1 刑訴法四三五条六号に基づく再審請求について

(一) 梅田手記

(二) 犯行衣服及び船尾血痕鑑定書

(三) 羽賀簡易手続と羽賀秘密文書

(四) 奥野証言と奥野書簡

2 刑訴法四三五条七号、四三七条に基づく再審請求について

四  再二審決定(抗告棄却)の要旨

1 刑訴法四三五条六号該当事由の有無

(一) 梅田手記

(二) 本件作業衣と船尾血痕鑑定書

(三) 羽賀簡易手紙と羽賀秘密文書

(四) 奥野供述と同書簡

(五) 結論

2 刑訴法四三五条二号、七号(四三七条)該当事由の有無

五  再三審決定(特別抗告棄却)の要旨

第四  本請求とその審理経過

一  請求理由の要旨

1 新証拠

(一) 三宅供述録取書

(二) 船尾打撃等鑑定書

(三) 新田千代供述聴取書

(四) 那須供述録取書

(五) 鐙供述聴取書

2 理由要旨

(一) 再審要件及び再審審理

(二) 梅田自白の真実性

(1) 殺害行為

イ バツトによる打撃

a 三医師の一致した見解

b 新証拠から見た合理的打撃態様

ロ 後頭部の刺傷とされる創傷

a 随伴創傷説の合理性

b 独立創傷としてもナイフによるものではない

c 渡辺当審証言によつても不適合

d ナイフ刺突は訴因にない

e ナイフ供述と警察官による供述の強制

ハ 絞頸縄の巻き数

ニ 加害者複数説

(2) 新田千代供述聴取書と那須供述録取書

(三) 羽賀供述の信用性

(四) 結論

二  検察官の意見の要旨

1 基本見解

2 理由要旨

(一) 再審要件と白鳥、財田川事件各最高裁決定

(二) 新証拠に対する意見

(1) 船尾打撃等鑑定書及び船尾証言について

イ 本質的限界について

ロ 大陥没骨折を生ぜしめた打撃の方向について

ハ 菱形状骨欠損の成傷原因について

ニ 梅田自白の加害状況と右各創傷との整合性

(2) 三宅新供述について

イ その内容とこれに対する信用性についての全般的疑問

ロ 大陥没骨折を生ぜしめた打撃の方向について

ハ 菱形状骨欠損及び大脳刺創を生ぜしめた凶器

ニ 犯人複数説について

ホ 警察官からの絞頸縄の巻き数の記載に対する訂正要求

(3) 新田千代供述聴取書及び那須供述録取書について

イ 新田千代供述聴取書の内容は信用性に乏しい

ロ 那須供述録取書も「明白性」がない

(4) 鐙供述について

イ 鐙供述の内容

ロ 鐙供述は客観的事実に反する部分があつて信用できない

ハ 内容等においても不自然・不合理である

三  請求者・検察官の証拠調べに関する申出

1 請求者

(一) 書証及び証拠物たる書面

(二) 証人

(三) 証拠物

(四) 取寄せ

2 検察官

(一) 書証

四  当裁判所が取調べた証拠

1 請求者申出のもの

2 検察官申出のもの

3 双方の申出によらないもの

第五  当裁判所の基本的態度

一  再審要件と再審審理についての基本的考え方

1 刑訴法四三五条六号所定の証拠の「新規性」について

2 「明白性」について

二  一次再審との関係

1 刑訴法四四七条二項と本請求

2 一次再審の証拠資料の取扱い

第六  当裁判所の判断

一  序

二  梅田自白の真実性

1 新証拠と梅田自白の真実性

(一) 大山の頭部陥没骨折を生ぜしめた打撃

(1) 確定判決の認定事実とその証拠

イ 確定判決の認定事実

ロ 証拠

a 梅田自白

b 三宅鑑定書

c 渡辺鑑定書

(i) 要旨

(ii) 凶器の用法

d 渡辺医師の原一審第六回公判証言

(2) 新証拠と請求理由

(3) 考察

イ 渡辺原鑑定の証拠価値の喪失

ロ 梅田自白の打撃態様と大山頭蓋骨骨折状況との整合性

(二) 刺傷様骨欠損と脳損傷の成因

(1) 確定判決の認定事実とその証拠

イ 確定判決の認定事実

ロ 証拠

a 梅田自白

b 三宅鑑定書

c 渡辺鑑定書

(2) 新証拠と請求理由

(3) 考察

イ 菱形状骨欠損は独立創傷か随伴創傷か

a 三宅医師の見解について

(i) 孤立関係

(ii) 凶器との接触部位

(iii) X骨折線の形成

b 渡辺医師の見解について

c 船尾証人の見解について

ロ 独立創傷説から見た凶器

ハ 創傷部位との適合性

(三) まとめ

2 梅田自白全体の真実性を再検討した結果浮かび上がる問題点

(一) 検討対象

(二) 検討視点

(三) 検討結果

(1) 客観的事実に反していると認められる供述部分

<1> 青年会館裏の薪

<2> 絞頸縄の巻き数

<3> 犯行衣服の血痕付着

(2) 明白事実について説明・言及がない

<1> 肩胛骨骨折の成因

<2> ナイフ刺突による血痕の後始末

<3> 死体埋没作業で付着したはずの土や泥の後始末

(3) 自白内容自体常識的にみて不自然・不合理で首肯し得ない点

<1> 大山との出会い

<2> 自転車の存否

<3> 一〇月八日の謀議内容の矛盾

<4> 犯行日の決定過程

<5> 一〇月一〇日の待合せ時間の不特定

<6> 犯行直前の梅田の行動

<7> バツト隠し持ちの姿

<8> 三種の凶器使用

<9> ナイフによる頭部刺突

<10> 素手による死体埋没

<11> 暗闇における犯行

<12> 死体埋没状況

<13> 強取金の焼却

(4) 共に自白したはずの共犯者供述との不自然な食い違い

<1> 共謀成立の経過

<2> バツトの型状

<3> バツトの受渡し

<4> ナイフ

<5> 柴川木工場での待合せ状況

<6> 犯行直後に梅田と羽賀が会つた場所

<7> 金包み等の受渡し状況

<8> 強取金の分配についての約束

<9> 犯行日の後の会合

(5) その他の証拠と対比・総合すると不自然・不合理な点

<1> 梅田が羽賀宅で羽賀の母親に会つた日

<2> 羽賀の勤務先

<3> 羽賀の年齢

<4> バツトの太さ

<5> 絞頸縄の結び方

<6> 金員の入つた風呂敷の包み方

<7> 帰宅に要する時間

<8> アリバイ

a アリバイに関する証拠の存在とその取調べ経緯

b アリバイをめぐる当事者の攻防と裁判所の態度

c 証拠の内容

d 日記の作成経緯

e アリバイ成立の可能性

(序)

(関連証拠)

(認定事実)

(考察)

<9> 嫁捜し

(関連証拠)

(認定事実)

(考察)

<10> 梅田の人間像について

<11> 動機

<12> 犯人として結付ける証拠

(6) 自白内容の不自然な変遷

<1> 大山と会つた回数

<2> 梅田が一〇月六日頃北見市街へ出てきた目的

<3> ブローカー演技の話

<4> 梅田が犯行に加わる動機

<5> 犯行の打明け場所

<6> 実行行為者

<7> バツトの受渡し

<8> 青年会館の位置

<9> 凶器の使用順序及び刺突部位についての羽賀の指示

<10> 一〇月一〇日青年会館から柴川木工場までバツトを運ぶ態様

<11> ナイフの柄に巻いた布の色

<12> ナイフの刺突部位

<13> 絞頸と脱衣箇所までの運搬との関係

<14> ナイフの投棄について

<15> 大山の衣類等を風呂敷に包んだ時期

<16> 穴の位置の確認行為の有無及び時期

<17> 死体運搬経路

<18> 強取金の使途

(7) 「秘密の暴露」

3 まとめ

三 羽賀供述の信用性

1 序

2 羽賀供述成立の経緯

(一) 羽賀逮捕から梅田逮捕まで

(二) 梅田逮捕から原一審判決まで

3 羽賀供述の信用性に関する問題点

(一) 羽賀供述自体の不自然な変遷

(1) 証拠

(2) 変遷箇所及び変遷状況

イ 復員時から、本件犯行に関して第一回目会うまでの二人の関係

<1> 付合いの状況

ロ 本件犯行に関して梅田と第一回目会つた日

<2> 日にち

ハ 同第二回目会合

<3> 日にち

<4> 会つた時刻と状況

<5> 強殺対象者の話

<6> 偽名使用

<7> 取引品名

<8> ブローカー手数料

<9> 取引品の持主の住所

<10> 大山が帰つた後の二人の打合せ内容

ニ 同第三回目会合

<11> 日にち

<12> 大山が来る前の二人だけの犯行現場打合せ

<13> 「ホツプ」名

<14> その持主の氏名・住所

<15> 凶器についての打合せ

<16> 大山の金員準備可能日を知つた時期

<17> 次回会合の約束

ホ 同第四回目会合(現場見分と予行演習)

<18> 日時

<19> 待合せ場所

<20> 会つたときの状況

<21> この日二人でやつたこと

<22> 凶器としての刃物準備の打合せ

<23> バツトによる打撃についての打合せと予行演習

<24> 大山死体の脱衣場所と死体運搬経路

<25> 死体運搬の仕方

<26> 梅田のおじけ発言に対する脅迫言辞

<27> 別れた場所とバツトの行方

ヘ 同第五回目会合(犯行直前)

<28> 会つた時間及び状況

<29> 別れた後の羽賀の行動

ト 同第六回目会合(犯行直後)

<30> 梅田の犯行時間

<31> その間の羽賀の行動

<32> 会つた場所

<33> 会つたときのやりとり

<34> 大山の衣類等を受取つた場所

チ 同第七回目会合(犯行日の後)

<35> 日にち

<36> 梅田の来訪目的

<37> 梅田の金員要求を断つた理由

リ まとめ

(二) 変遷以外の羽賀供述の信用性に関する疑問点

(1) 梅田のアリバイや送別会の日の誤認等

(2) 強取金の行方に関する供述

イ 一二万五〇〇〇円の押収経緯

ロ 羽賀供述の内容

ハ 羽賀の当時の収入状況

ニ 羽賀の当時の支出状況

ホ 右金員の出所

(3) 相田賢治主謀者供述

イ 右供述の登場経緯と帰趨

ロ 右供述の意味するもの

ハ 梅田実行共犯者供述との類似性

(三) 羽賀供述の信用性再検討のまとめ

四 梅田自白の真実性及び羽賀供述の信用性検討のまとめ

五 その他の留意点

1 梅田自白の任意性

2 梅田共犯供述についての羽賀の自己矛盾供述

六 その他

第七 結論

一 結論に至る筋道

二 結語

(略語及び表記方法)

一  事件の表示

「大山事件」及び「本件犯行」=昭和二五年一〇月一〇日夜、北見市内において、大山正雄を被害者として実行された強盗殺人、死体遺棄事件

「小林事件」=昭和二六年六月一一日昼間、北見市内において、小林三郎を被害者として実行された強盗殺人死体遺棄事件

二  人名、法人及び場所等の表示

「梅田」=単に梅田というときは、本再審請求者である梅田義光を意味する。

「羽賀」=単に羽賀というときは、羽賀竹男を意味する。

「大山」=単に大山というときは、大山事件の被害者大山正雄を意味する。

「小林」=単に小林というときは、小林事件の被害者小林三郎を意味する。

「清水」=単に清水というときは、小林事件の共犯者清水一郎を意味する。

「営林局」=単に営林局というときは、北見営林局を意味する。

「林友会」=単に林友会というときは、財団法人北見林友会を意味する。

「小公園」=北見市小公園のこと。北見市四条東一丁目に所在していた。

「図書館」=小公園内東側にあつた北見市立北見図書館のこと

「青年会館」=北見市東陵町にあつた高台東部青年会館のこと。後に東陵青年会館と改称された。当時、高台東部青年団長が管理していた。

「本件犯行現場」=大山事件の実行行為がなされた場所、北見市高台第五区今村佐市方山林内山径から付近の沢床に至る辺り

三  審理及び担当裁判所の表示

「原一審」=本件確定判決をした第一審裁判所である釧路地方裁判所網走支部

「原二審」=右の控訴審である札幌高等裁判所第三部

「原三審」=右の上告審である最高裁判所第一小法廷

「確定判決の審理」=原一、二、三の全審理

「再一審」=本件確定判決に対し、昭和三七年一〇月三一日に提起された一次再審請求について、第一審として審理・決定をした釧路地方裁判所網走支部

「再二審」=右決定に対する即時抗告により、抗告審として審理・決定をした札幌高等裁判所第三部

「再三審」=右抗告審決定に対する特別抗告により、特別抗告審として審理・決定をした最高裁判所第二小法廷

「当審」=本件確定判決に対し、昭和五四年一二月一七日に提起された二次再審請求について、第一審として審理した当裁判所

四  裁判の表示

「本件確定判決」=大山事件についての原一審判決が昭和三二年一二月二二日確定したもの

「原一審判決」=原一審が、大山事件について、梅田と羽賀に対し、昭和二九年七月七日宣告した同年六月二八日付け有罪判決。なお、原一審は、羽賀と清水に対する小林事件も併合審理し、一通の判決書で同時に有罪の宣告をしているので、全部を含めていう場合もある。

「原二審判決」=原二審が昭和三一年一二月一五日宣告した同日付け控訴棄却の判決

「原三審判決」=原三審が昭和三二年一一月一四日宣告した同日付けの上告棄却の判決

「判決訂正申立棄却決定」=右判決に対しなされた各判決訂正申立を原三審が同年一二月一九日付けでいずれも棄却した各決定

「再一審決定」=本件確定判決に対してなされた一次再審請求を棄却した再一審の昭和三九年四月二四日付け決定

「再二審決定」=右決定に対する即時抗告を棄却した再二審の昭和四三年六月一五日付け決定

「再三審決定」=右決定に対する特別抗告を棄却した再三審の昭和四三年七月一二日付け決定

五  記録の表示

「確定記録」=原一審から原三審までの全審理記録。小林事件の記録も含まれている。

「確一」=原一審の全審理記録

「確一の一」=確一のうち、梅田に対する大山事件の審理に、羽賀の同事件、羽賀及び清水の小林事件の審理が後に併合されて判決が言渡され、控訴申立に至つた全記録。最も基本となる記録である。

「確一の二」=確一のうち、羽賀に対する大山事件の併合前の独立記録

「確一の三」=確一のうち、羽賀に対する小林事件の併合前の独立記録

「確一の四」=確一のうち、清水に対する小林事件の併合前の独立記録

「確二」=原二審の審理記録

「確三」=原三審の審理記録

「一次再審記録」=一次再審の全審理記録。二分冊になつている。

「再一」=一次再審の第一審の審理記録。第一分冊(全五五一丁)がこれである。

「再二」=同第二審の審理記録。第二分冊一一八九丁まで

「再三」=同第三審の審理記録。第二分冊一一九〇丁以下

「当審記録」=当審の審理記録

「不提出記録」=原一、二、三審及び再一、二、三審のどの審理にも提出せずに、検察庁が保管していた関係書類。そのうち、当審において取寄せた分は、当裁判所が二冊に編綴し、丁数を付してある。

「不」=不提出記録中、当裁判所が取寄せて二冊に編綴したものの中の証拠を引用するときに「不―一」のように右丁数を付してその所在を示す。

六  証拠の表示

「検調」=検察官に対する供述調書

「事調」=検察事務官に対する供述調書

「員調」=司法警察員に対する供述調書

「巡調」=司法巡査に対する供述調書

「実見」=実況見分調書

「第五回公判証言」=第五回公判における証言

「第三回公判供述」=第三回公判における被告人としての供述

「昭和二八年五月一日証言」=昭和二八年五月一日の期日外尋問でなされた証言

「三宅鑑定書」=原一審で取調べられた三宅宏一医師作成の昭和二七年一〇月二四日付け鑑定書(確一の一―二六〇)

「三宅供述録取書」=当審で新証拠として取調べた三宅医師の弁護士三名に対する昭和五四年一一月五日付け供述録取書

「三宅当審証言」=当審における証人三宅宏一の証言

「三宅新供述」=三宅供述録取書の記載内容と三宅当審証言の内容を総合したもの

「渡辺鑑定書」=原一審で取調べられた渡辺孚医師作成の昭和二七年一二月二日付け鑑定書(確一の一―二四五)

「渡辺原鑑定」=渡辺鑑定書の記載、同医師の原一審第六回公判証言及び原二審第二回公判証言を総合した鑑定所見

「渡辺当審証言」=当審における証人渡辺孚の証言

「船尾血痕鑑定書」=一次再審で新証拠として取調べられた船尾忠孝医師作成の昭和三六年六月一六日付け(再一―一六八)、昭和三七年一〇月八日付け(同―一七七)及び昭和三九年二月八日付け(同―五一五)の三通の鑑定書

「船尾打撃等鑑定書」=当審で新証拠として取調べた同医師作成の昭和五四年二月二七日付け鑑定書

「船尾証言」=当審における証人船尾忠孝の証言

「鐙供述聴取書」=当審で新証拠として取調べた弁護士竹上英夫作成の昭和五六年四月一〇日付け供述書に添付されている弁護士三名による鐙貞雄の供述聴取書写し

「鐙供述録取書」=当審で取調べた鐙貞雄の弁護士鈴木悦郎に対する供述録取書

「鐙証言」=当審における証人鐙貞雄の証言

「鐙供述」=鐙供述聴取書の記載、鐙供述録取書の記載及び鐙証言の内容を総合したもの

「新田千代供述聴取書」=当審で新証拠として取調べた弁護士今泉賢治作成の昭和五六年四月二七日付供述書に添付されている弁護士二名による新田千代の供述聴取書写し

「那須供述録取書」=当審で新証拠として取調べた那須広子の弁護士今泉賢治に対する昭和五六年八月五日付け供述録取書

「犯行衣服」=本件犯行時、梅田が着用していたものとされている上衣とズボン

「梅田手記」=梅田が、昭和二七年一〇月二一日、自ら申出て橋本友明検事のもとに出頭し、それまでになした自白が虚偽であり、虚偽自白の主たる原因は警察官による拷問や強制にあるとして自白の経緯等をその日にその場で書き、提出した同日付けの否認を内容とする手記

「美智子の日記」=梅田の妹美智子が昭和二五年春に中学校を卒業した頃から同年一二月頃までつけていたものという日記。原一審において、美智子の証言と相まつて、梅田のアリバイの成否が争われる証拠となつた。

「羽賀秘密文書」=羽賀の面会要請に応じて梅田の弁護人であつた中村義夫弁護士が、昭和三五年三月六日、札幌刑務所で羽賀と面会した際、看守の透きを見て内密に手交した羽賀作成の文書。梅田は本件犯行の犯人ではない旨虚言を申述してやるから金五〇万円を払えとの内容であり、再一審で新証拠として取調べられた。

「奥野書簡」=羽賀から、梅田は本件犯行の犯人ではない旨聞いたという内容の奥野蔀の右中村弁護士宛ての書簡。再一審で新証拠として取調べられた。

「奥野証言」=右と同旨の奥野の一次再審における証言

「写真集」=不提出記録中に存する写真集(不―三七)

七  本再審請求者及び弁護人の当審に対する訴訟行為の表示

本再審請求者及びその弁護人は、当審に対し、各種の訴訟行為をなしているが、本決定においては、便宜、これらの主体を請求者として表示する。

八  原文引用の仕方

証拠や裁判書等から原文を引用する場合、原文に忠実に引用するが、意味内容等損なわない限り、旧字体については常用漢字表の表記に改め、同表にない字体については、場合により、そのまま、あるいは慣用字体に又は平仮名に改めて引用する。送り仮名、句読点等についても、同様に、趣旨を損なわないように注意しつつ現代仮名使いに改めて引用する。明白な誤字、脱字及び誤記は訂正・補充して引用表記する。

九  証拠の所在及び該当箇所の示し方

記録中の証拠の所在箇所及び該当箇所は次のように示す。

例えば、「確一の一―一二三四」

ハイフンの前は、前記略語例にしたがつてどの記録であるかを特定し、ハイフンの次の数字はその記録中の丁数を意味する。右の例では、確一の一の記録中の一二三四丁にその証拠又は当該部分があることを意味している。

(添付図面)

記述の便宜と理解の助けのため、左記の図面を添付し、適宜理由中に引用する。

一  第一図 本件地理案内図 大山事件に関連する場所周辺の地理関係を示す。原一審裁判所書記官作成の昭和二八年八月三日付け検証調書添付第一図の必要部分を基に当裁判所が作成した。

二  第二図 犯行現場図 大山強盗殺人、死体遺棄の実行行為がなされた現場付近の図。右検証調書添付第六図を基に当裁判所が作成した。

三  第三図 死体埋没穴図 大山の死体が埋没されていた沢床の図。右検証調書添付第七図を基に当裁判所が作成した。

四  第四図 凶器に使用したというバツトの型状図 梅田第三回検調添付第四図(三)と羽賀第六回検調添付第四図とを参考に、両名が供述する凶器に使用したバツトの型状を対比するため、当裁判所が作成した。

五  第五図 大山頭蓋骨創傷図 三宅鑑定書添付の頭部創傷図表の必要部分を写し取り、これに当裁判所が符号を付して作成した。符号のうち、ABClmnn′xyは、当審で押収してある頭蓋骨模型の頭部に記入された符号と一致させてある。

六  第六図 大山頭蓋骨創傷図 渡辺鑑定書第一図を写し取り、これに当裁判所が符号を付して作成した。

七  第七図 大山左肩胛骨骨折図 渡辺鑑定書第二図を写し取つて当裁判所が作成した。

第一確定判決

一  事件の発生と原一審判決に至る経緯

北見営林局総務部会計課支出係員として職員に対する旅費支給事務を担当していた大山正雄(昭和四年九月二三日生)は、かねて、実姉京子の夫である義兄の長尾心一に対し、元同課経理係員として勤務していた羽賀竹男(大正一三年六月二二日生)と組み、利益の大きい「ホツプ」の取引で一儲けしようと思うので、その資金に充てる金員を貸してほしい旨申入れていたところ、右長尾からその承諾を受け、昭和二五年一〇月一〇日(火曜日)、営林局を退庁した後の夕方、北見市一条東二丁目の富山旅館で同人と落合い、現金八万円を受領したうえ、同人に対し「待合せているから行く。一、二時間のうちに取引きを終えて戻つて来る。」旨言いおいて出掛けたが、以後行方不明となつた(右富山旅館の位置及び以下の地理関係は別紙第一図参照)。

翌日以降、大山は、営林局を無断欠勤する形になつたが、同日現在で、大山は、少なくとも、同営林局職員に支給すべき旅費引当金一三万余円を保管していたはずのところ、この金員もまた大山と共に行方不明となつた。

そして、同月一一日頃、自ら公金を拐帯逃走したことを自認しながら、同営林局幹部の不正行為の証拠を握つている旨をちらつかせて官憲への届出を阻止すべく脅迫した大山名義の脅迫文書が、当時の同営林局会計課長宮島富太郎宅に届いたため、同営林局では、大山が公金を拐帯逃走したものと判断し、同月末頃、脅迫文書が届いたことを秘し、大山が公金を拐帯して失踪した旨を明らかにして、同人の捜索願を北見市警察署に提出した。警察は、大山を被疑者とする業務上横領被疑事件として捜査を開始し、同人に対する逮捕状も取得してその行方を追及したが、同人の行方は、判明しなかつた。

そうしているうち、翌昭和二六年六月一一日(月曜日)、留辺蘂営林署庶務課会計係員の小林三郎(大正一二年三月三〇日生)が、旅費、製品費等前渡資金として北海道拓殖銀行北見支店から現金四七二万四五八七円を受領したまま、同営林署に戻らず、行方不明となる事件が発生した。

同日夜、同営林署からその旨の届出を受けた留辺蘂町警察署は、業務上横領被疑事件として捜査を開始した。その結果、当時同営林署庶務課歳入係員であつて、右事件当日小林と共に前渡資金受取りのため北見市へ出張することになつていた高橋照和から、「同月九日に小林から、『一一日に受取る前渡資金のうち四五〇万円を、短時間の間、麻薬取引に流用するつもりだが内密にしてほしい。札幌から来る人があつて五〇万円ピンハネされるが、それでも利益はばく大だ。仲立人として北見の人がおり、絶対信用できる人だから心配ない。取引は、一一日北見市内中の島で、短時間の間に行われるが、一人では心細いので、見付からないように後から付いて来てほしい。』旨頼まれ、了承したが、一一日当日行違いになつて、小林と行動を共にすることができないまま、同人は、戻らず行方不明になつてしまつた。」旨の申述がなされ、中の島一帯の捜索等も行われたが、小林の行方は、判明しなかつた。しかしながら、その後の捜査により、当時財団法人北見林友会(林業知識の普及、林業関係者の便益増進等を主目的としたが、付随的に営林局署職員の福利厚生施設も兼ねる。)に主事補として勤務していた前記羽賀に対する小林との共犯容疑が深まり、同警察署は、同月二三日頃、同容疑で羽賀を逮捕し、引続き勾留して取調べたが、同人は否認し続け、同人の実姉信田ウメの取調べ等によつて、昭和二五年一〇月一五日頃、羽賀がウメの夫信田孝三の窮境を知つて、ウメを通じ相当多額の金員を貸し与えた事実及び昭和二六年六月中旬頃の逮捕直前に羽賀が、ウメに現金一二万五〇〇〇円を預けた事実を了知したものの、小林の行方もつかめないこともあり、決定的証拠の入手なく、同年七月一四日頃、羽賀は、処分保留で釈放された。

以後見るべき捜査の進展のないまま年を越したが、昭和二七年四月一五日頃、北見市若松区所在の信善光寺裏山において、白骨化した人骨と、これが埋められていたと見られる穴が発見され、鑑定の結果、小林の遺骨であることが判明し、事件は強盗殺人、死体遺棄被疑事件の方向に転回し、北見市警察署を中心とする小林三郎事件合同捜査本部が設置された。

右捜査本部は、既にこれまでの捜査によつて容疑をもつた者の洗い直し等により、小林事件の最も有力な容疑者である羽賀を大山との共謀による長尾心一に対する金八万の詐欺容疑で、前記信田孝三をかつて勤務していた大北土建株式会社に対する別件横領容疑で、昭和二五年三月頃までは前記大北土建株式会社北見出張所に雇われていた関係で信田孝三方に出入りし、小林事件当時は古物商の木幡義美の買子として同人に使われていた者であり、あちこちで不相応な金員費消をしているとの聞込みを得た清水一郎(昭和三年五月一五日生)を別件傷害容疑で、昭和二四年九月末までは北見営林署に、それ以後は林友会に主事として勤め、羽賀が同会を退職した昭和二六年七月末までは同人の同僚として比較的親しくし、小林事件に先立つ昭和二六年春先に北見市内の料亭で二回羽賀から供応を受けたが、その際羽賀と共に偽名を使つたことがある金田正三を別件横領容疑で、前記のとおり清水を買子として使つていた古物商であり、小林の遺骨が埋まつていたと思われる穴から出た間縄の一部の出所と目されていた木幡義美を別件で逮捕することとし、昭和二七年九月の三日から四日にかけて羽賀を除く四名を逮捕したが、当時東京に移り住んでいた羽賀については、事態を察知され、逃げられた。清水は、同月八日から身柄を留辺蘂町警察署に移され、小林事件につき取調べられ、当初否認していたものの、同月一一日頃から、羽賀の立案計画と周到な共謀準備に基づき、短時間の麻薬取引によつて大きな利益を得ることができるといううまい口実によつて小林に公金流用の決意をさせておびき出し、清水において小林を殺害して右公金を強奪し、死体等証拠となるものを遺棄した旨を自供したため、小林事件のほぼ全貌が浮び上つた。

ここに至つて、大山事件もまた同様の強盗殺人、死体遺棄事件なのではないかとの疑いが濃厚になり、小林事件の主犯と目される羽賀の逮捕が待望されていたところ、同月一七日午前九時頃、信田孝三宅に潜んでいる羽賀を前記詐欺容疑で逮捕した。

逮捕そして引続く勾留の当初、羽賀は、右の逮捕事実について頑強に否認した。主として羽賀の取調べを担当した北見市警察署の渡邉四郎警部補は、右のような羽賀の態度から大山事件についての取調べを断念し、小林事件についての取調べに移行した。

羽賀は、小林事件についてはその死体も発見され、清水の自供もなされていることから犯行を認め、ほぼ自供したものの、小林殺害、金員強奪の実行行為者たる清水から受け取つたはずの四百数十万円の金員の所在については真実を述べず、捜査官においてこれを発見できずに羽賀に対するその点の追及が急がれていたところ、同月三〇日夜になつて、羽賀の方から大山も殺害した旨の自供を始め、以後捜査の方向は、大山事件の方に急転した。

翌一〇月一日早朝から羽賀の案内で大山の死体発掘が行われ、一度は羽賀があらぬ場所を指示したため徒労に帰したものの、その後の指示により結局同日午前一一時頃から午後二時頃までの間に、北見市高台第五区今村佐市方山林内沢床を掘つた所から大山の全裸の死体が発掘した(別紙第二図及び第三図参照)。

右死体の発見と羽賀の自供により、大山事件もまた強盗殺人、死体遺棄事件であることが明らかとなつた。

自供当初、羽賀は、自己の単独犯行である旨供述していたが、同型の小林事件において清水という実行共犯者がいたこともあり、大山の死体の状況と羽賀の供述とで食い違う二、三の点の追及を受けるや、羽賀は、翌二日に、自分がやつたものではないと供述を変え、数時間の考慮の後に、「戦友の梅田義光に殺させた。」旨述べて、大山事件の実行共犯者として本再審請求者の名を持出した。

警察は、共犯者の逃亡をおそれ、格別の裏付捜査もせず、右羽賀の供述に共犯者名が出るや、直ちにその逮捕のため、北見市字下仁頃一区所在の当時の梅田方に警察官八名を派遣し、同日午後八時半頃に、自室で妻と共に就床していた梅田を、大山に対する強盗殺人、死体遺棄の容疑で緊急逮捕し、即刻北見市警察署に引致して取調べを開始した。

取調べに対し、梅田は、当初否認していたが、翌一〇月三日午後に至つて自白に転じた。翌四日検察庁に事件送致され、坂本好検察官の弁解録取に際して再び否認したが、その日警察署に戻つて来てからの警察官による取調べでまた自供に転じた。翌五日に勾留され、その勾留質問とその後の同月一六日、一七日及び一九日の橋本友明検察官の取調べでは自白し、それぞれ自白調書が作成されたが、その後同月二一日には、自ら申出て同検察官のもとに出頭し、被疑事実を否認したうえ、自供するに至つた原因、経過を詳細にしたためた梅田手記を検察官宛てに作成提出し、その後は否認の状態のまま、同月二四日、釧路地方裁判所網走支部に対し、大山に対する羽賀との共謀による強盗殺人、死体遺棄の公訴事実によつて起訴された(同支部昭和二七年(わ)第六〇号事件)。

羽賀は、同年一一月一〇日、同支部に、大山に対する梅田との共謀による強盗殺人、死体遺棄の公訴事実で起訴され(同支部同年(わ)第六二号事件)、更に、同年一二月一六日、小林に対する清水との共謀による強盗殺人、死体遺棄の公訴事実で追起訴された(同支部同年(わ)第七二号事件)。

清水は、同年一〇月一八日、同支部に、小林に対する羽賀との共謀による強盗殺人、死体遺棄の公訴事実で起訴された(同支部同年(わ)第五九号事件)。

原一審審理において、梅田は、終始一貫して公訴事実を全面否認したが、清水は、一貫して事実を認め、羽賀も大山事件、小林事件共に全面的に事実を認めた。

なお、羽賀は、大山事件については梅田が実行共犯者であるとの立場を貫き、小林事件については清水が実行共犯者であると主張すると共に、小林事件当時留辺蘂営林署会計係長として小林の上司であつた相田賢治(大正六年三月三〇日生)が同事件の大本の立案者であつて、羽賀はこれに使嗾されたにすぎず、清水から受取つた強取金も右相田賢治に渡したとする相田賢治主謀者説を主張した。この相田賢治主謀者説は、羽賀が身柄拘束、取調べの途中から供述し始めていたものであり、この供述に基づいて相田賢治は逮捕され、警察での取調べにおいて一時自白したものの、検察官による取調べの当初から否認に転じ、以後否認の態度が変わることなく、結局起訴されずに釈放された。相田賢治主謀者説は、羽賀に対する小林事件の公訴事実中にも採用されず、原一審判決の認定事実の中にも存在しない。

起訴された四つの事件は、後に併合審理されるようになり、昭和二九年七月七日の第三二回公判において、被告人三名全員につき、各自の全訴因について有罪の判決が言渡された。羽賀は死刑、梅田と清水はそれぞれ無期懲役であつた。

以上の事実は、本件において当裁判所が取調べた後記の全記録を総合して認められるものである。

二  判決確定の経緯

梅田は、原一審判決を全部不服であるとして、羽賀は、一部不服であるとして控訴したが、清水は控訴せずに原一審判決を確定させ、服役した。

札幌高等裁判所は、梅田、羽賀の各控訴事件を昭和二九年(う)第四七四号、四七五号事件として併合審理し、昭和三一年一二月一五日の第七回公判において、いずれも控訴棄却の判決を宣告した。

梅田は、これを全部不服であるとして、羽賀も、一部不服であるといずれも上告したので、最高裁判所第一小法廷は、右各上告事件を昭和三二年(あ)第一五七号事件として審理し、同年一一月一四日の公判でいずれも上告棄却の判決を宣告した。

これに対して梅田、その弁護人ら、そして羽賀もそれぞれ判決訂正の申立をしたが、同年一二月一九日おのおの申立棄却の決定がなされ、各棄却決定は、いずれも同月二二日各申立人に送達され、同日、梅田及び羽賀に対する前記原一審判決は確定した。

三  確定判決が認定した犯罪事実

原一審判決は、梅田と羽賀に対する大山事件についての罪となるべき事実を(一)として、次のように認定した。「被告人羽賀竹男と被告人梅田義光とは、昭和一九年一一月頃、共に北海道苫小牧市稔部隊第九二六〇部隊に入隊してから知合つた間柄であり、復員後、被告人羽賀は、昭和二二年七月頃から同二五年七月末頃まで、北海道北見市北見営林局会計課経理係に勤務しており、被告人梅田は、住居地で農業に従事していた。被告人羽賀は、昭和二五年七月末頃、前記営林局を依願退職したが、それは、その頃、拳銃不法所持の件で検挙起訴され、懲役五月執行猶予二年の判決言渡しを受けたことがその直接の機縁をなしていた。右営林局を退職後まもなくの頃であるが、就職先も思うように見つからずに失望しているところへ、営林局時代の知人に退職にからまる悪口を色々言われるのを耳にして、暗い自棄的な気持を抱くようになり、遂には、人生を太く短く渡ろうと考え、以前からそういう気も働いていたこととて、何か商売を営みたくなり、その資金も普通では入手し難いので、まとまつたものを得るためにはいかなる手段をも辞せず、発覚し易い詐取等の手段をろうするよりは、むしろ殺害強奪の方法をとるにしかずとさえ思いこむに至つた。そこで、昭和二五年八月末頃、北見市内で、かつての同僚である北見営林局会計課支出係大山正雄(当時二〇年)と会つた際、同人が営林局職員の旅費支給の業務に従事して、相当多額の公金を扱つているところから、同人を目的実現の対象として考えるようになつた。そして、以後同年一〇月五、六日頃までの間に、北見市北見駅前その他諸所で、同人と多数回にわたつて会合したすえ、同人が『ホツプ』取引に加わり、同人の保管している前記営林局職員の旅費等約二〇万円をその取引資金に短時間流用し、よつて得られる利益の分配にあずかることになり同年一〇月一〇日午後七時半頃、前記現金を携行して、北見市青葉町三番地柴川木工場付近に赴くことになつた。その間に、被告人羽賀は、殺害の実行者として、被告人梅田が軍隊時代からの知合いで話をうちあけやすく、又金銭にも不自由しそれを欲している状態にあつたところから、同被告人をその役にあてることを思いつくにいたつた。そこで、同年一〇月六日頃までの間に、北見市内で両者会つた際を利用して、同被告人に『ホツプ』取引にブローカーとして加わることを承諾させ、次いで、同年一〇月八日頃、北見市東陵町東陵中学校より東北約七〇〇メートルを隔たる仁頃街道から分岐した山径上において、同被告人に対し、『ホツプ』取引に藉口して、前記大山を殺害のうえ所持金を奪取し、死体は穴に埋める等の計画をうちあけ、同被告人がこれに応ずると、一〇月一〇日夜、同被告人は、『ホツプ』取引のブローカーとして、右大山を上記柴川木工場より前記山径付近に誘導し、野球用バツトを使用して、同人の頭部を殴打したうえ、縄で絞頸する等の方法により同人を殺害し、その死体は、同山径下の谷沢に前もつて掘つておく穴に埋め、かつ、同人の所携する現金を奪取し来ることとし、その他にも、犯行の方法、犯行の道具、犯行後の処理等について、詳細に指示連絡をとげ、ここに被告人両名共謀して、

(1)  被告人梅田義光は、前記相謀つたところに従い、昭和二五年一〇月一〇日午後七時頃、前記柴川木工場土場前道路において、殺害に使用すべき、短く加工した野球バツト、結節数個をつけた麻製細引及び柄に布を巻いたナイフ等を準備携帯して、前記大山正雄のくるのを待ちもうけていた。間もなく午後七時二〇分頃、右大山がそこにやつてきたので、同人と同行して『ホツプ』取引予定地へ向かい、同夜八時頃、前記の仁頃街道から分岐した山径(緩い勾配の下り坂)上を、近くに谷沢をのぞむ付近にまでさしかかつた。その時、前記大山の左側を歩いていたが、透きをみて右足を後方に引き、同人の背後から、隠し持つた前記野球バツトを取出すと共に、振るつて同人の右側頭部を強打し、同人が昏倒するや、ナイフを出してその頭部を突き刺し、次いで、麻製細引を取りその頸部に巻いて緊縛し、よつて、右側頭部打撃による脳挫創等により、その頃、同所で、同人を死亡させてこれを殺害したうえ、同人所持の現金約一九万円を強奪し

(2)  被告人梅田義光は、上記共謀したところにより、前同時刻頃、以上の犯行を隠蔽する目的から、前もつて掘つてあつた、右殺害現場付近にある谷沢底部の穴に、前記大山の死体を全裸にしたうえ、埋没して遺棄したものである。」

第二確定判決の証拠構造

いわゆる「新証拠」として提出されているものが「無罪を言渡すべき明らかな証拠」(刑訴法四三五条六号)であるかどうかは、「もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきである(最高裁判所昭和四九年(し)第一一八号昭和五一年一〇月一二日第一小法廷決定)。」とするならば、まずもつて確定判決が有罪認定をした証拠構造がいかなるものであるかを明らかにしておかなくてはならない。

一  確定判決の証拠摘示

原一審判決は、前記第一の三に示した認定事実の記載にすぐ引続いて、その認定に供した証拠の標目を次のとおり記載して示している。

「判示(一)(1)、(2)の各事実は、

一  当裁判所の第五回公判調書中証人長尾心一の供述記載、同第六回公判調書中証人渡辺孚の供述記載、同第七回公判調書中証人信田ウメの供述記載

一  当裁判所の第七回ないし第一〇回各公判調書中証人羽賀竹男の供述記載及び同証人の当公廷における供述(ただし、これらは被告人梅田義光のみに関する証拠)

一  宮島富太郎、三次政義の検事に対する第一回、第二回供述調書、大山律子の検事に対する第一回ないし第三回各供述調書

一  梅田房吉の副検事に対する第一回、第三回、第五回各供述調書、信田孝三の副検事に対する第三回、第五回各供述調書、桐山種三郎、遠藤富治、阿部正一の副検事に対する各第一回供述調書

一  正村俊雄、佐々岡茂の検察事務官に対する各第一回供述調書

一  鑑定人渡辺孚、同三宅宏一作成の各鑑定書

一  当裁判所の検証調書(昭和二八年六月一八日検証のもの)

一  副検事岡部良秀作成の検証調書(同二七年一〇月八日付けのもの)

一  被告人羽賀竹男の当公廷における供述

一  被告人羽賀竹男の検事に対する第一回ないし第一三回各供述調書(ただし、これらは被告人羽賀竹男のみに関する証拠)

一  被告人梅田義光の検事に対する第一回ないし第三回各供述調書

一  押収になつている麻の細引一本(昭和二七年領第三九号検第四一号)、現金一二万円(前同検第一八号)、現金四七〇〇円(前同検第一九号)、鋸一個(前同検第二六号)、包丁一個(前同検第二七号)、円匙一個(前同検第二九号)の各存在

を総合していずれもこれを認める。」

右判決書には、前記のとおり「判示(一)(1)、(2)の各事実」に対する証拠の標目を掲げるのみで、共謀の成立が認定されている「判示(一)の冒頭の事実」に対する証拠摘示がなされているか否か必ずしも明らかではないが、右記載からその摘示がなされているものと解するとしても、同判決書には、右のほかには証拠説明、証拠判断あるいは争点に対する判断についての説示が全くなく、右の証拠の標目の記載にすぐ引続いて法令の適用が示されているが、この中にも右のような点についての判断の記載は見られず、それをもつて理由説示のすべてを終わつている。

二  確定判決の証拠構造の分析

そこで、原一審判決が認定した事実、証すべき事実と証拠とを逐一具体的に対比する形で詳細に記載された冒頭陳述書、証拠申請の際の立証趣旨、被告人側の全面無罪の主張に対する検察官の詳細な論告、判決に摘示された証拠の内容そのもの(ただし、押収されていた証拠物は、既に失われている。)及び判決に摘示されなかつたが公判で取調べられた他の証拠を相互に対照して、摘示された個々の証拠のもつ意味を分析、分類し、これによつて証拠構造を明らかにすると、以下のようになる。

1  犯行動機、共謀の経緯、犯行及び犯行後の状況等全般にわたる自白として、梅田の第一ないし第三回各検調(確一の一―一五八一)、副検事岡部良秀作成の昭和二七年一〇月八日付け検証調書(同―四七六)

2  犯行の立案、共謀経緯、犯行準備、梅田に犯行の実行行為をさせた全経過についての共犯者の供述として、羽賀の原一審第七回ないし第一〇回公判証言及び同人の原一審公判供述(確一の一―七一〇、七四五、七六四、八〇一、八一七、一八六二、一八八二、二〇二八、二〇七一、二一二一、二二七五、二三七六)

3  以下は、すべて右1、2の裏付け証拠としての性格を帯有するが、まず、殺害、死体遺棄の犯行状況の裏付けとして、三宅鑑定書(確一の一―二六〇)、渡辺鑑定書(同―二四五)、渡辺孚の原一審第六回公判証言(同―六八五)、遠藤富治の第一回検調(同―二六九)、阿部正一の第一回検調(同―二七三)、押収してある麻の細引一本(昭和二七年領第三九号、検第四一号)、前記副検事岡部良秀作成の昭和二七年一〇月八日付け検証調書、原一審の実施による検証調書(同―九六五)

4  大山の失踪直前の言動、状況として、長尾心一の原一審第五回公判証言(確一の一―六〇一)、大山律子の第一回ないし第三回各検調(同―一四九)

5  大山の北見営林局における身分、職務、取扱い金員等についての同局職員の供述として、宮島富太郎の第一回(確一の一―一一〇)及び第二回(同―四四二)各検調、三次政義の第一回(同―一一五)及び第二回(同―一五二)各検調

6  梅田の生活状況等の説明として、梅田房吉の第一回(確一の一―五二八)、第三回(同―四〇三)、第五回(同―四〇〇)各検調

7  梅田自白の任意性、真実性に関する証拠として、桐山種三郎の第一回検調(確一の一―五二二)

8  羽賀の犯行の動機、犯行準備状況についての供述の裏付けとして、信田ウメの原一審第七回公判証言(確一の一―七〇一)、佐々岡茂の第一回事調(同―三四二)、正村俊雄の第一回検調(同―四五三)、押収してある鋸一個(昭和二七年領第三九号、検第一九号)、同じく包丁一個(前同領号、検第二七号)、同じく円匙一個(前同領号、検第二九号)、信田孝三の第三回及び第五回各検調(確一の一―四六四以下)

9  羽賀の強取金の保管、処分状況についての供述の裏付けとして、押収してある現金一二万円(前同領号、検第一八号)及び四七〇〇円(前同領号、検第一九号)、前記信田孝三の第三回検調

以上見てきたところから明らかなように、その証拠の内容自体において梅田を大山事件の犯行と結付けるものは、1の梅田自白と2の羽賀供述以外にはない。

なお、原一審判決の証拠の標目に掲げられていないが、原一審が取調べた証拠の中に、右の結付きを示すものとして

<1> 梅田の昭和二七年一〇月五日付け勾留質問における陳述録取調書(確一の一―一六四九)

<2> 梅田の昭和二七年一〇月四日付け第三回員調(同―一六五一)

<3> 梅田の同月三日付け第一回員調(同―一七六七)

<4> 羽賀の昭和二七年一〇月二日付け、同月四日付け及び同月六日付け各員調(同―一七三〇以下)

<5> 羽賀の第一回ないし第一三回各検調(同―一三一七以下)

があるが、<1>は、第一回公判において梅田が大山の死体を殺害場所付近に埋没した事実を、また<2>は、第一五回公判において梅田が昭和二七年一〇月二四日取調べ警察官に対して犯行を自白していた事実を各立証趣旨として検察官による証拠申請がなされ、梅田の弁護人から警察における拷問があつたとして採用につき異議が申し述べられたが、同期日に採用取調べがなされたものであり、<3>、<4>は、梅田の弁護人の申請に基づいて検察庁から取寄せられ、同弁護人の証拠調べ請求により、刑訴法三二八条書面としてのみ採用取調べされたものであり、<5>は、梅田の弁護人の不同意により、結局羽賀に対する関係でのみ取調べられたものである。なお、<2>と<5>のうち第六回検調は、第一八回公判において、<3>、<4>などと共に、梅田の弁護人の証拠調べ請求に基づき、刑訴法三二八条書面として採用取調べがなされている。

三  原二審判決の説示

原二審判決は、「本件記録を調査すれば、大山正雄が昭和二五年一〇月一〇日午後七時二〇分過ぎ頃原判示場所において何者かにより殺害されたうえ現金を強奪されたことは明らかであるが、右犯行が本件各被告人によつてなされたかいなかについては原判決挙示の証拠中各被告人の供述を離れてこれを認めるに足るだけの証拠のないこと」を認めたうえ、梅田自白の任意性及び真実性、羽賀供述の真実性につき検討し、前者については警察官に対する供述調書の任意性に疑問を示しながらも原審判決がこれを証拠として摘示しておらず、検察官に対する調書には任意性も真実性も認められ、羽賀供述の真実性も否定できないとし、「右各供述調書に原判決の挙示するその余の原判示(一)事実の関係証拠を総合すると原判示(一)の各事実を優に認定でき、被告人梅田の原審ならびに当審での各供述中右認定と抵触する部分は前掲証拠に対比して措信し難いというほかなく、原判決もまたこれと同一趣旨に出たものと解すべく、その他記録を精査しても原判決には所論のような事実誤認はない。」と結論付けて控訴を棄却した。原一審判決の判示につき訂正するところもなく全面的にこれを是認した形になつている。

そして、梅田自白の任意性、真実性、羽賀供述の真実性につき、ほぼ次のように説示している。

1  梅田の自白に至る経緯

「本件は被告人羽賀の巧智にたけた手段により、当時大山正雄は自ら公金を拐帯して失踪したものと半ば捜査陣において断念の過程にあつた頃本件より約八か月後の昭和二六年六月一一日に発生した原判示(二)の小林三郎強殺事件が被告人羽賀と原審相被告人清水一郎の共謀にかかることが発覚し、被告人羽賀が昭和二七年九月一七日右事件につき逮捕されるところとなり、じ来その取調べが進められ、その終末の段階に至つた同年一〇月一日頃不用意に本件を自供したことにより、はしなくもこれがあかるみに出たものであつて、当初被告人羽賀は本件を単独でなしたものと自供し、その手段方法、死体の埋没箇所を指示するところとなり、これにもとづいて捜査の結果、ついに本件大山の死体が発見されたので本件が被告人羽賀の所為であつたことは一点の疑いもないところとなつたのであるが、その発見死体の状態や絞殺に用いたという麻ひもの長さその他において被告人羽賀の自供と必ずしも一致せず、すでに前記小林事件のこともあり、本件もまた他に共犯があることが疑われてこの点が追及されたところ、翌二日被告人羽賀は本件については被告人梅田が加担しその実行行為にあたつたものであることを自供するに至つたこと、かような次第で同日午後八時三〇分頃被告人梅田が自宅で逮捕せられ、翌三日司法警察員の面前で本件犯行一切を自供するに至つたが、更に翌四日副検事坂本好に弁解録取書を取られるに際して右自供を一旦は飜したものの、翌五日北見簡易裁判所において裁判官渡邊康司の勾留尋問に対し『ただ今告げられた事実中、羽賀と共謀したという点を除き、その余の事実は大体間違いありません。私はすべて羽賀の指図にもとづいてただ今読み聞けられたようなことをしてしまつたのであります。もし勾留された場合は現住所に居住する内縁の妻山本八重子に知らせて下さい。』と陳述し、逮捕後北見市警察署留置場に留置されていたのを同年一〇月一二日網走刑務所に移監され、同月二二日まで同所に勾留されている間、検事橋本友明の同月一六日より一九日までの四日間の取調べに際しても本件を否認することなく逐一自供し、ここに被告人梅田の検察官に対する第一ないし第三回の各供述調書が成立したことは原判決挙示の関係証拠及び当審証人坂本好の証言から十分これをうかがい得られる。」

2  梅田自白の任意性

「原審証人阿部正一、同菅原哲夫、当審証人高金光珠の各証言に所論引用の原審証人相田賢治の証言を併せ考えると、被告人梅田は逮捕せられた当夜北見市警察署取調室で待機中の多勢の司法警察員によつて交互に発問取調べを受け、翌三日も同様の状態であつたことやこのときすでに被告人羽賀の自供もあつたことからして、被告人梅田が当初本件犯行を否認したことに対しては、所論のようないわゆる拷問がなされないまでにしても相当程度の強制が加えられ、そのため本件犯行を自供したものとしてその任意性は必ずしも担保し難い情況にあつたことが認められなくもないが、本件記録をよく調べてみても、その後の取調べにおいて被告人梅田が強制を受けたと認めるに足る形跡はなく、かえつて被告人梅田は右自供の翌日坂本副検事の面前ではこれを飜しておるのであるから、引続きこれを維持しようとすれば容易にこれをなし得たにもかかわらず、原審証人菅原哲夫の証言によれば翌五日北見簡易裁判所に勾留尋問のため自動車で押送されているとき、巡査菅原哲夫に対し『昨日検事に嘘をついて申訳ない、今日は判事さんにすつかり申上げて謝るんだ。』と話していたこと、果たして前記認定のように裁判官渡邊康司に対しては本件を自供していることおよび原審証人伊藤武治の証言によると、被告人梅田が検事橋本友明によつて昭和二七年一〇月一六日夜九時頃から一一時頃まで網走刑務所職員事務室で主として現在までの経歴について、翌一七日から一九日までの間は釧路地方検察庁網走支部の支部長室で専ら本件犯行についてそれぞれ取調べられた際、検察事務官伊藤武治がこれに立会い、橋本検事の補佐として本件検察官調書を各作成したのであるが、当時被告人梅田の供述態度は復員軍人らしくはつきりしており、検事が『こうだろう。』というのに対し、被告人梅田が『いやそうではない。』という具合に言い争われた事実はなく、むしろすすんで供述する態度であり、検事はこれをメモしたうえ読みあげて検察事務官に被告人梅田の供述調書を各作成させたものであり、その間無理な供述をなさしめたものではないことが認められること等を併せ考えると、被告人梅田の警察での自供が強制にもとづくものとしても、その取調べは逮捕後比較的短時間で終了したものであつて、橋本検事の取調べはそれから約一二日を経過した後のことであること及びその取調べ状況からして、被告人梅田が橋本検事の面前で自白をなす際にまで、警察の強制的取調べによる畏縮した心理状態を持続していたものとは解し難く、すなわち被告人梅田の検察官に対する第一ないし第三回の各供述調書についてはその任意性を疑う余地なきものといわざるを得ない。」

3  梅田自白及び羽賀供述の真実性

(一) 原二審判決は、「阿部、菅原、伊藤の各証言、桐山種三郎の検察官に対する第一回供述調書によ」り、<1>逮捕直後の梅田の態度につき、「被告人梅田はその逮捕された際、親兄弟に俺は行くからと言つて素直に逮捕に応じ阿部と遠藤にはさまれてジープに座つたが、ことさら虚勢を張るように鼻歌を歌つたりこれが何とかの仁頃街道かといつたりして笑つたりしながらも、震えているようなので、これを感じた阿部からどうして震えるのだと尋ねられるや武者震いだと答えていること」を、<2>その晩、警察での取調べで羽賀と対質させられたときの言動につき、「同夜九時過頃被告人梅田は北見市警察署に引渡されお茶を飲んで一〇分位過ぎた頃から取調べを受けたが、半時間位してから被告人羽賀と対質させられた際、被告人羽賀が真剣な態度で『自分一人で責任を負う気になつていたが、いうことがくいちがうので隠せなかつた。』『事ここに至つたのだから素直に述べてくれ。』との趣旨をいつたのに対し、被告人梅田は『俺、君に会わないぞ、そうだわな、会わないな。』ということで終わり、声には元気なく被告人羽賀に哀願するような態度であつたこと」を、<3>検察官の取調べ時の言動につき、「橋本検事の最終取調べが終わつた後被告人梅田が大山の首に擬した模型に結んでいたひもの現状を保存するため、検事の指揮でこれを釘づけにしているとき、取調べを終わつて隣室との出入口近くの壁際に腰掛けていた被告人梅田が突然顔面を蒼白にしてひよろひよろと立上り橋本検事の前にまるで狐つきのような顔をして近寄つてきたが、夕方近くで部屋は薄暗くはあり、しかも本件犯行を自供した後でもあり、その態度には真剣味を増し、あたかも被告人梅田としては自己の犯行を他人からみられたというような状態であつたこと」を、<4>その直後の梅田の言動につき、「更にその取調べを終えて被告人梅田が看守部長桐山種三郎に伴われて巡査詰所に来た際同人に対し悄然として『自分が検事に対して申したとおりやつたことは間違いないのだ、失敗してしまつた。』といい、同人もすでに被告人梅田の供述調書の読み聴けに同席してその内容を知つていたので『あのとおりなのか。』というと、被告人梅田は『あのとおりやつたのだ。』とのべていること」を各指摘して「これと抵触する被告人梅田の各供述部分は前掲証拠に対比してにわかに措信し難いものがあり、これに被告人梅田の検察官に対する各供述調書の記載内容自体を併せ考えると、右供述において被告人梅田としては全然身に覚えのないことを述べているものとは理解し難く、かえつて、被告人羽賀の各供述(当審における分も含む)により認められるように、被告人羽賀はとくに被告人梅田を本件の渦中に陥れようとしているのではなく、そもそも本件非望を企図するにあたり、被害者大山とはかつて机をならべた仲の同僚ではあり、直接これに手を下すことはさすがに忍びないのと、他に共犯者があればこれに実行させることによつて自らは軽い刑責ですむとの奸智から、その共犯者を考慮物色中、ここにはからずも被告人梅田の訪問を受けるや、梅田とは軍隊生活をともにしたこともあつて、その気質性格を知るところから、大事を決行する屈強の人物としてこれを選ぶに至つたこと、かようにして被告人梅田はついに被告人羽賀の謀議に加わり本件犯行を実行した経験があればこそこれに基づいて検察官の面前で真実を述べたものと断ぜざるを得ない。」と結論している。

(二) 以上に引続いて、弁護人が真実性に乏しい徴憑として指摘する幾つかの点を掲記してその主張を要約紹介し、冒頭に総括的に「おおよそ、人の記憶は印象の深い部分とか意を留めていた部分が比較的に残り時の経過とともに次第に薄らぐものであり、また事実を供述するにあたつても、被告人心理の常として多少の誇張や隠蔽のあることは免れないことおよび本件は事件後約二年を経て発覚したことに徴して案ずると、」と判示して、後記のように弁護人の指摘事項に各論的に説示を加えた後、「以上いずれの点からするも、被告人梅田の供述が所論のように真実性に乏しいものとの心証は形成し難いのみならず、……(中略)かえつて被告人羽賀の当審公判廷での供述によれば、被告人羽賀は被告人梅田との本件共同謀議についての日時場所を必ずしも当初から特定する趣旨ではなく、当初は被告人梅田の動静をうかがい、次第に誘導して、結局被告人梅田がいうように昭和二七年一〇月八日頃原判示(一)の東陵中学校より東北約七〇〇米を隔たる仁頃街道から分岐した山径上で、『ホツプ』取引に藉口して大山を殺害のうえ所持金を奪取し、死体は穴に埋める等の計画をうちあけて被告人梅田の応諾を確定したことが認め得られるところであるから、これらの点につき被告人梅田が原審ならびに当審において極力否認するにもかかわらず、その検察官に対する各供述調書は任意になされかつ真実性のあることを前段説示のとおりというほかはない。」と締めくくつている。

各論的説示は以下のとおりである。

(1) 凶器たるバツトについて

まず、凶器たるバツトの入手経緯につき、梅田自白では、一〇月八日に羽賀から「そのバツトは俺が東陵中学の近くにある青年会館の裏側の縁の下に入れておく」と言われていたので、犯行日当日である一〇日夕方青年会館へ行つて「その裏側の縁の下付近の地面を手さぐりで捜して」入手したことになつているのに対し、羽賀供述では「このバツトは犯行前の八日の午後五時頃梅田と別れる前に同人に渡したように思う。」となつていて食い違いを示しており、また、右バツトの入手場所の状況につき梅田自白では、「その青年会館の裏側板壁にくつついて仁頃市街寄の方に薪が積んであり、その下部の方に手を突込んだところ丸い棒の様なものが手に触つたので引出して見ると野球用のバツトであつた。」となつているが、昭和一八年頃から高台東部青年団の団員になり、昭和二五年四月一日から翌二六年三月三一日までの間同青年団長として、右青年会館を管理していた太田三郎の巡調(確一の一―五二〇)によれば(なお、原二審は同青年会館を検証し、その際同所で同人を証人として尋問している)、昭和二五年三月二七日に、青年会館裏側ではなく、同会館の正面に向かつて左側の畠に面して一五〇本の楢薪材を積ませたほかは、青年会館のそこ以外の場所にその楢薪材以外の薪を積んだことはなく、昭和二七年一〇月現在は同会館の正面に向かつて左側だけでなく、裏側にも積んであるが、その中には昭和二五年当時の薪は一本も残つてないし、同会館の裏側に薪を積むようになつたのは、同人の記憶では昭和二七年春が初めてのことであるとなつていて、この点の前記梅田自白が真実に反すると指摘され、更に、右バツトの型状につき、梅田自白では「このようにして取出した野球用バツトはバツトとは申しても細い握り部分を鋸で切つた様にスコンと切られているものでありました。ですからその長さは二尺位しかありませんでした。」と第三回検調で述べ、その添付図面第四図(三)に、別紙第四図(一)の示すような図を記載しているのに対し、羽賀供述では「柄の方を鋸を使つて切り、長さ一尺五寸位にし、更にその細い方を四寸位削つて持ち易いようにしたものである。」となつており、同人の昭和二七年一〇月六日付け員調添付の「凶器図」に(バツター)として別紙第四図(二)のような図を書いていて、両者の示す型状に差異があることが指摘されている。これら各点につき原二審判決は、「バツト所在場所にはなるほど当審証人大田三郎の尋問調書によるも本件犯行当時薪が堆積されていたとは認め得られないが、右バツトは被告人梅田が被告人羽賀から漫然受取つた後自ら同所に隠蔽していたもので、したがつてその型状の細部について留意していなかつたものと考えられなくもなく、」と説示している。

(2) 殺害行為の態様について

イ バツトによる頭部打撃

梅田自白調書には、「羽賀から示された畑と林との境付近の地点に差し掛かつた時私は右足を一歩後ろに引き同時に上衣の左側の内側に隠していた野球用バツトの太い方の部分を右手に握つて上衣の中からバツトを抜出し、次に両手でそのバツトの細い方の部分を握つて振りかぶりざま、その太い方の部分で大山の頭の後ろの方を殴りつけた」旨の記載があるが、大山の死体の頭部の損傷の状況からこれに加えられた凶器の種類、形状とその打撃方法に関し鑑定を行つた渡辺鑑定書には「作用面の形状は不明であるが極かたく相当重量のある鈍器で被害者の右前下方から後ろ上方に向かう打撃が右側頭部に加えられたものである。」との記載があり、また同人の原一審公判廷での「前記鑑定書に記載してあるような凶器が被害者の頭より右前下方から被害者の後ろ上方に向かつて動いて行つて被害者の右側頭部に衝突した。」という証言がなされている点に関しては、渡辺「鑑定書記載の打撃方向は頭部の部位自体を中心とするものであつて被告人梅田の供述どおりの打撃によつても本件頭部につき鑑定書記載のような結果発生の可能なことは原審ならびに当審での証人渡辺孚の各証言によつて明らかなところであり、」と説示している(大山の頭部創傷は別紙第五、第六図参照)。

ロ ナイフによる頭部刺突

梅田自白調書には、「大山が倒れると私は直ぐポケツトから用意してきたナイフ(同供述中、右ナイフは刃の長さ二寸五分位、幅五分位、厚さ一分位とされている。)を取出し腰を低くして右膝をつき大山の頭を目がけてグサツと突刺したが、ナイフを握つている右手の小指側の部分が大山の頭にガシツとぶつかつたので、ナイフの刃の部分は全部大山の頭に突刺つたのは覚えている」と記載されているが、三宅鑑定書には、頭部の刺傷につき「長さ一・八糎深さ約二・五糎の刺傷を大脳に与え」との記載があり、これに照らすと、梅田自白の攻撃態様は右刺傷と合致せず、右自白は真実性に乏しいと主張されているのに対し、原二審判決は、「同鑑定書を更によく検討すると『深さはすでに脳軟化を起こし大脳が下方に沈下しておること等より実際の長さは測定値より長いと推考する。』との記載や『刺創のために用いたる凶器は明らかではないが少なくとも骨表面に止まりたる箇所の凶器の幅は一・五糎以内である。』記載、またナイフ使用についての被告人梅田の供述として『刃の方を内側にしてそのナイフの柄を右逆手に握つていたように思うがはつきりしたことは分からない、大山の頭を目がけて突刺したが、そのどこに突刺したか夢中だつたのではつきりしない。』旨の記載からみて、凶器の幅はナイフ(刃の幅五分)とほぼ符合するので、これをもつて固い頭を突刺するような場合夢中であつた被告人梅田としてはその深さについて錯誤のまま記憶していたことを供述したと考えられなくもなく、」と説示している。

ハ 縄による絞頸

梅田自白調書には、「今度はポケツトから結び目を造つた麻縄を取出して大山の頸に巻きつけ二巻きして力一杯ギユツとその麻縄を絞めて両端を大山の右頸のところで一度交錯させてから、その縄の大山から見て左側のものを右の交錯か所で既に巻きつけた縄の下に差込んだが、この縄の結び方は私が雑穀俵を縄で縛る時の縛り方である。」旨の記載があり、しかも、死体発掘に立会つた警察官である遠藤富治、阿部正一の各第一回検調にも、同じく、縄は二巻きとしているのに対し、三宅鑑定書中外表検査四項頸部欄には「三重に頸部にまきつけられた断端に結節のある縄を見、前方やや右側より一重に結紮されている。」との記載があり、この点の梅田自白は真実に反するものであり、このように真実に反する供述を警察官共々なしているのは、明らかに身に覚えのないことを強要ないし誘導された結果にほかならない旨主張されている点に対しては、原二審判決は、「当審証人三宅宏一の証言によつてもやはり鑑定書記載のように三巻きと認めるほかはないが、」としてこの点の梅田自白の真実に反することを認めたうえ「かかる殺人という興奮状態においては二巻きか三巻きかは後で記憶することは必ずしも容易ではないこともうかがえるので、被告人梅田が二巻きと供述したことをもつて、その以前にたまたま死体検証に立会つた警察官が同様二巻きと誤認していたからといつて、直ちに右供述を強いたものとも解し難いし、」と説示している。

(3) 梅田作成現場図面の誤りと変遷

梅田が作成した本件犯行の現場図面が、取調べ開始直後の昭和二七年一〇月三日付け第一回員調添付のものと犯行現場に赴いた後の同月一七日付け第二回検調添付のものとで相違しており、前者は、青年会館が、仁頃街道から犯行現場へ分岐する道より更に仁頃側に書かれていて事実に反する図面になつているのに対し、後者は正しく右分岐する道より北見市街寄りで、東陵中学校との間に書かれているのであるが、これは、犯人でなく、したがつて犯行現場を知らなかつた梅田が、当初強制、誘導によつて誤つて記載していたところ、昭和二七年一〇月四日、警察官による、また同月八日、検察官による各現場検証に立会わされて見分して知つたがために以後正しい位置関係の図面を書けるようになつたもので、強制、誘導がなされたことの一徴憑である旨の主張がなされたのに対し、「かかる図面作成になれたものとは認め難い同被告人にとつては前後異るのがむしろ当然ともいうべく、」と説示している。

(4) 羽賀供述の変遷と梅田供述との食い違い

羽賀は、梅田から本件犯行の現場を教えられたと言いながら、その教えられたときの場所、状況につき、辰巳で羽賀の手帳に大体の略図を書いてくれたと言うかと思えば、図書館で同様のことがあつたとも言い、また梅田の手帳に書いたと言つているなどその都度供述内容を異にし変遷しており、また、犯行日が昭和二五年一〇月一〇日であること及び同月八日に両者が会つて打合わせをしたことについて両名の供述が一致しているほかには、それ以前の謀議の日時場所、犯行当日犯行直前に両者が会つたかどうか、犯行日の後に両者が会つたことがあるかどうかについて梅田自白と羽賀供述はことごとく相違しており、殊に大山を殺して金員を強取する旨を羽賀が梅田に打明けて同意を得たという重要な点につき、梅田は、同月八日羽賀とホツプ取引の場所へ行くということで、その途中本件犯行現場付近まで行つた際にそこでなされたと供述し、羽賀は、同年九月二〇日頃辰巳食堂で話したと供述していてひどく食い違つていることが各指摘され、梅田自白も、梅田に関する羽賀供述も真実性がないことの証左とされているが、原二審判決は、この点につき「被告人羽賀との供述の相違のあることや被告人羽賀の供述自体において多少のくいちがいのあることもまた前説示に照らしうなずける筋合いであつて、このことからにわかに被告人羽賀の供述を虚偽としてその真実性を否定し得ないだけでなく、」と説示している。

なお、「前説示」とは前記「おおよそ、人の記憶は印象の深い部分とか……。本件は事件後約二年を経て発覚したこと」を指しているものと理解される。

四  原三審判決の説示

原三審において、梅田の弁護人は、第一に、<1>急速を要し裁判官の逮捕状を求めることができないという事情がないのに違法に緊急逮捕をして身柄拘束して得られた自白であること、<2>残虐な拷問によつて得られた自白であることを理由に、原一、二審判決は憲法三八条二項に違反する梅田の自白調書を証拠とした違法があることを、第二に、本件で梅田を犯人として犯行に結付ける証拠は梅田の自白調書と羽賀供述しかないところ、両者とも真実性に乏しいと認められる顕著な事由があるから、これによつて有罪を認定した原判決は昭和二七年(あ)第九六号、同二八年一一月二七日最高裁判所第二小法廷において宣告された判例の趣旨に違反して有罪を言渡している違法があり、右判例の趣旨に従つて破棄すべきである旨を各主張し、梅田本人は、自己が拷問、強制、脅迫、誘導を受けて自白したのだからその自白によつて有罪判決をした一、二審判決は事実を誤認している旨を縷々主張して争つた。これに対し、原三審判決は、弁護人の右第一の主張に対しては「仮に被告人の逮捕拘禁が不法であつても、その一事でその後における供述調書が強要による証拠能力のないものであるといえないことは、当裁判所屡次の判例とするところであるから、所論被告人梅田義光に対する緊急逮捕(昭和二七年一〇月二日午後八時三〇分頃緊急逮捕され翌三日裁判官の適式な逮捕状が発せられている)が仮に所論のごとく違法であるとしても、それだけで、所論検察官に対する供述調書を違憲のものということはできない。また、仮に、被告人梅田義光が警察において所論四ないし六掲記の同被告人の供述、証人相田賢治、同高金光珠の証言のように拷問、強制を受けた事実があつたとしても、本件では警察における供述調書は証拠としていないのであるから、問題は生じない。さらに、警察における自白の強要が検察官に対する自白に因果関係を及ぼすこともないではないが、所論七の阿部正一の証言、所論八の被告人の供述その他の理由だけでは、この点につき原判決がなした所論摘示の結局被告人梅田の検察官に対する第一ないし第三回供述調書についてはその任意性を疑う余地なき旨の判示を失当であるとすることはできない。されば、所論違憲の主張はその前提を欠き採るを得ない。」と、また同第二の主張に対しては「所論引用の判例は本件に適切でないから、その前提を欠くものであり、その余は事実誤認の主張に帰し、いずれも、刑訴四〇五条の上告理由に当たらない。」とし、梅田本人の主張に対しては「検事の強制、脅迫、誘導があつたとの当審における新たな具体的主張事実についてはこれを認めるに足りる証拠がなく、その他の点に対する原判決の判示は、これを正当として是認することができるから(ことに、本件記録上相被告人羽賀竹男が、被告人梅田義光に対し何らかの恨みを抱く事情の認むべきものがないし、また、被告人梅田義光と共謀して本件犯行をしたと主張することによつて特に羽賀被告人自身の利益となるものとも認められないから、原判決が羽賀被告人の供述を虚偽としてその真実性を否定し得ないとした判示は首肯することができる)、所論は採るを得ない。」と説示し、上告棄却の判決をした。

これに対し、梅田は、事実誤認を主張して、その弁護人は、上告審判決には、梅田検調に真実性がないとの点につき説明を加えていないと主張して各判決訂正の申立をしたが、いずれも単に「理由がないので」として棄却された。

五  証拠構造検討結果のまとめ

以上に見てきたところから明らかなように、本件確定判決において、梅田を犯人として犯行に結付ける証拠は、梅田自白と羽賀供述以外に存在しない。確定判決が証拠の標目に掲げなかつたが取調べた証拠、二審において取調べた証拠の中にそのような証拠が存しないことももちろんのことである。犯人の身体や所持品に被害者の血液や毛等が付着していたとか、被害者の身体、所持品あるいは犯行現場付近に犯人の血液や毛等が付着し、あるいは所持品や指紋等が遺留してあつたとか、犯人の犯行をあるいは犯人が犯行に接着した頃犯行現場付近にいたのを目撃した第三者証人がいるといつた確実な物証や目撃証人は梅田の犯行に関する限り存しないのである。

以上のような証拠構造からして、原一、二、三審の全審理経過を通じて、争いは梅田自白の任意性と真実性及び羽賀の梅田共犯者説に関連する供述の信用性に集中してなされ、各判決もこれに対して判示し、あるいは説示を加えた。

そして本件が右のような証拠構造をなしているということは、再審審理に即して言うならば、新証拠によつて梅田自白の任意性又は真実性が、そして羽賀供述の右の点の信用性が動揺するならば、確定判決の有罪認定もまた動揺せざるを得ない構造をなしていることを意味する。

第三一次再審

一  一次再審請求の経過

梅田は、昭和三七年一〇月三一日当裁判所に対し、右確定判決に対する再審請求をなした(これが一次再審)が、同裁判所は、昭和三九年四月二四日、再審請求を棄却する決定をなし、これに対する即時抗告に対し、札幌高等裁判所は、昭和四三年六月一五日、即時抗告棄却の決定を、更にこれに対する特別抗告に対して最高裁判所(第二小法廷)が、同年七月一二日特別抗告棄却決定をなし、ここに一次再審請求についての請求棄却決定が確定した。

二  一次再審請求の理由の要旨

1  新証拠として提出した証拠

(一) 刑訴法四三五条六号の事由を証するものとして

(1) 洋服上衣とズボン各一着(当庁昭和三七年押第二八号の二及び一として領置された。)

本件犯行当夜着用し、ズボンには大山の血痕が付着していたとの梅田の自白に基づき、自白直後、北見市警察署に押収されたが、原各審公判廷に証拠として提出されないまま原一審判決確定後梅田の家族に還付されたものである。

(2) 船尾血痕鑑定書(再一―一六八、一七六、五一五)

右(1)の犯行衣服に人血付着の有無を鑑定したが、人血の付着は証明できない。そしてこの結論は、右衣服が血液付着後、通常の方法により洗濯され、あるいは、(保存が特別な条件の下でなされていた場合を除き)長年月、例えば一二年経過していたとしても差異はないものと推論される。右鑑定は、鑑定当時行いうる最良の方法たるベンチヂン法及びマラカイトグリーン法の二方法を併用し、しかもいわゆる間接法だけでなく、確実を期するため試薬を直接検体に滴下する直接法によつて行つた旨が記載されている。

(3) 昭和二七年一〇月二一日付け梅田手記の写真版一通(前回押号の七として領置。再一―一八四)

梅田の第一回ないし第三回各検調作成後、犯行を否認した際作成提出されたもの。原一審公判当時から梅田側が検察官に提出を求めたが、紛失を口実に一審判決確定までには提出されなかつた。

自白が全く虚偽であること、自白の原因、特に拷問、強制、誘導の事実を詳細に述べ、自白の成立ちを詳しく記している。これは(二)の刑訴法四三五条七号、四三七条証拠ともしている。

(4) 羽賀から弁護士中村義夫に宛てた昭和三五年一一月五日付け消印のある簡易手紙、羽賀から梅田房吉に宛てた同月一九日付け消印のある簡易手紙各一通(前同押号の五、六として領置。再一―三八一以下)

羽賀が、原一審判決確定後梅田の弁護人であつた弁護士中村義夫に対し、直接、又は梅田の父を通じて面会を求めた書簡である。

(5) 羽賀秘密文書一通(前同押号の三として領置。再一―一九七)

羽賀の前記(4)による面会要請に応じて、中村弁護士が、昭和三五年三月六日札幌刑務所に赴いて羽賀と面会した際、看守の透きを見て内密裏に羽賀が手交してきた文書。その記載内容の要旨は、梅田が再審請求をしたとき無罪判決を得られるように、「梅田が大山事件の実行共犯だというのは自分(羽賀)の虚言であつた。」という虚言を申し述べるなどして協力する換わりに五〇万円払えというもので、そういう協力をする気になつた理由は八年もたつて梅田が不憫になつたからであり、五〇万円を要求する理由は、無罪判決での梅田の喜びに引換え自分は世間から鬼畜とののしられ無期懲役に減刑される一縷の望みさえ奪われるだけでなく、親族も世間から迫害され一層悲惨な境遇に陥ることになるからその苦痛の代償であるとし、支払方法を指定している。

(6) 証人奥野蔀の証言(再一―四六二)及び同人から弁護士中村義夫に宛てた昭和三八年一一月一二日付け書簡一通(前同押号の四として領置。同―三七八)

右書簡は、強盗殺人事件の被告人として札幌大通拘置支所に勾留されていた奥野が、たまたま同時期同拘置支所に在監していた羽賀が梅田について奥野に言つていたことを中村弁護士へ宛て書き送つたもの。その記載内容の要旨は、「羽賀が私(奥野)に『梅田は犯人ではない。』『あいつには少しの罪もないんだ。』と何度も言つていた。また『梅田を犯人に仕立てて供述した理由は、そうしなければ自分の近親者に触れなければならなかつたからである。梅田が無罪となるよう証言してやればいいのだろうが、そんなことをしても自分の死刑は変わらず、梅田が喜んでいるとき殺されていくなんて馬鹿らしい。どうせ死ぬならうまい物でも食べて死にたいから梅田がそんな物でも差入れてくれれば無罪証言してやるのに。奥野さん、梅田に会つたらそう伝言してくれ。梅田の弁護士から、梅田の無罪証言と引換えに五〇万か一〇〇万円位せしめてやるんだ。』と述懐していた。」というにあり、証言は右内容を直接明らかにするものである。

(二) 刑訴法四三五条七号、四三七条の事由を証するものとして

(7) 釧路検察審査会の昭和三五年一月二六日付け議決書一通(再一―一五九)

原一審でなした証言が原二審判決で証拠となつている警察官阿部正一は、昭和二七年一〇月二日夜から三日にかけて、梅田に対し、暴行、脅迫による拷問を加えて自白を強要したにもかかわらず、右証言においてこれらの事実を否認する偽証をなしたとして、また、確定判決が証拠としている証言をなした羽賀は、梅田が本件犯行につき羽賀と共謀したことも大山殺害等の実行行為をしたこともないにもかかわらず、あるとの偽証をなしたとして、梅田が札幌高等検察庁検事長宛て告訴した(結局新証拠とはしなかつたが、この告訴状の写しが再一―一三一以下に提出されている。)ところ、これに対し、昭和三四年三月二六日釧路地方検察庁検事から不起訴処分にしたとの通知を受けたので、これを不服として同年一〇月三一日釧路検察審査会に対し審査の請求をした(いわゆる新証拠としてではなく、添付書類として再一―一四五以下に写しがある。)が、これに対し同審査会がなした不起訴処分相当の議決書。その理由中には、阿部正一は、請求人に対し、拷問とまではいかないとしても多少の暴行ないし強制をなしたことを認め得る旨の記載がある。

2  理由

(一) 犯行衣服に血液付着がない。

新証拠(1)(2)により、梅田自白中「犯行当夜着用していたズボンの前の腿のところに点々と上から垂れたように、丁度筆の先から墨を垂らしたような形に血が付いていたのに翌朝起きてから気が付き、早速馬小屋のそばにある池で洗い落とした。」旨の供述は、真実に反することが明らかになつた。

(二) 警察官による拷問、強制と梅田自白の任意性、真実性

新証拠(3)により、梅田が逮捕されて北見警察署に連行されてから翌日まで、その取調べに従事した複数の警察官から殴る、蹴る、手指の間に鉛筆を挟んで締めつける等の暴行及び脅迫等の拷問を受け、その苦痛に耐えられず、逮捕の翌日である昭和二七年一〇月三日に至つて警察官の強制誘導に従い虚偽の自白をするに至つたこと、そして検察官に対する三通の自白調書もまた、その後坂本副検事の弁解録取に際して否認したことに対し、警察官らにより否認撤回、自白強要の執拗な説得、誤つた利益誘導等の言動がなされ、これらが併わさつて結局右拷問の影響下になされた、任意性も真実性もない自白であることが明らかになつた。

(1) 右証拠は、接見禁止等決定のなされている間、取調べ検察官に対し、それまでの自白を飜して犯行を否認し、同検察官の指示により、梅田自身の自由意思で作成したものであり、刑訴法三二二条一項後段書面として証拠能力を有する。

(2) 梅田自白が警察官らの拷問による強制誘導に基づくものであることは原審の<1>原一審第二七回公判における梅田の供述、<2>同第二一回公判における相田賢治の証言、<3>原二審第四回公判における高金光珠の証言等から看取できるところであつたが、右新証拠が加わつて一層明白なものとなつた。

(3) 更に、この拷問に関しては、<1>原二審判決も「被告人梅田が当初本件犯行を否認したことに対しては、所論のようないわゆる拷問がなされないまでにしても相当程度の強制を加えられ、そのため本件犯行を自供したものとしてその任意性は必ずしも担保し難い情況にあつたことが認められなくもない。」と判示し、また、<2>新証拠(7)中にも「拷問とまでゆかなくとも多少の暴行ないし強制があつたと疑わしむるものがある。」との説示があり、表現のあいまいさ、不十分さにもかかわらず、暴行、強制が加えられ任意性に疑いある状況下で自白がなされた事実を認めているものである。

(三) このことは、原二審判決で、その証言が証拠とされている阿部正一元巡査が、梅田が自白するに至る取調べにおいて、同人に対し、刑法一九五条一項の罪(特別公務員暴行陵虐罪)を犯したものとして刑訴法四三五条七号、四三七条の再審開始理由が存することを示している。

(四) 羽賀の「梅田は共犯ではない。」旨の事後供述

新証拠(6)によれば、羽賀は判決確定後、大通拘置支所において、勾留中の奥野蔀に対し、「梅田は犯人ではない。」、「あいつには罪はないんだ。」と繰返し述懐しており、また梅田を共犯に仕立てた理由として、そうしなければ近親者に触れなければならなかつた旨をも述べていたもので、梅田の無実を端的に証明するものである。右新証拠中には、「羽賀が梅田の弁護人から五〇万円か一〇〇万円せしめてやる。」旨の、当時羽賀と梅田の弁護人以外知り得ない事実が含まれており、信用に値するものである。

三  再一審決定(請求棄却)の理由の要旨

1  刑訴法四三五条六号に基づく再審請求について

(一) 梅田手記

「ところで、一件記録によれば、なるほど、右梅田手記自体原審公判廷において証拠として提出され、取調べのなされた形跡はないが、第一審第二七回公判において請求人が右手記作成の経緯、その内容等を供述しており、さらに第一四回公判において検察事務官伊藤武治が、請求人から検察官に該手記が提出された旨証言しているのであつて、このことから考えると、該手記の存在及び記載内容は第一審以来裁判所の窺いうる状態にあつたものといいうるのみならず、請求人自身第一審公判廷において右手記記載と同趣旨の事実を供述して検察官に対する自白が任意性を欠き、かつ虚偽である旨争つていたこと一件記録により明らかなところであるから、第一審裁判所はこの点につき実質上考慮判断しているものというべく、したがつて、今、梅田手記が現れたからとて、それが刑事訴訟法第四三五条第六号にいわゆる新証拠に該当するか否かの点はしばらく置き、これをもつて請求人主張のごとく請求人の検察官に対する各供述調書の証拠能力を否定し、あるいは、その証明力を減殺し、ひいては、請求人に対し無罪を言渡すべき明らかな証拠に該るものとは到底解し難い。」

(二) 犯行衣服及び船尾血痕鑑定書

「本件衣服は、北見市警察署において請求人を逮捕して取調べたところ、本件犯行当時着用していたズボンには被害者大山の血液が付着していたので洗い落とした旨の供述を得たので、直ちに請求人方自宅に赴き、数ある請求人の衣服のうちから請求人供述にかかる犯行当時着用衣服の特徴等を手掛かりにこれと符合する衣服であると判断して押収したうえ血痕付着の有無につき鑑定を試みたものの血痕付着の証明が得られなかつたので、原審裁判所にその取調べ請求をしないまま第一審判決確定後に至るまで保管していたものであることが窺われるところ、本件鑑定書の記載によれば、現在行い得る人血検出の最良の方法とされているベンチヂン法及びマラカイトグリーン法の併用をもつて検査するも本件衣服には血液の付着を証明し得ないことが認められ、かつ、この結論は、本件衣服に血液付着後、通常の方法による洗濯がなされ、あるいは、保存が特別な条件の下でなされていた場合を除き、長年月、例えば一二年間、経過していたとしても何等の消長を来さないものと推論されることが認められるから、特に右反対の事情の認められない本件衣服については、当初から血液が付着していなかつたものと推認するに妨げない。」と判断した。しかしこの衣服が本当に犯行時着用していたものかにつき、疑問を呈しながらも、「本件衣服が請求人において検察官に対し本件犯行当時着用していた旨述べている衣服と同一衣服であるとの証明が得られた場合でも、第一審判決において認定しているがごとき犯罪を実行した際、加害者の着用していた衣服に被害者の血液が付着しない場合のあり得ることも経験則上絶無のこととはいい難いから(中略)本件着衣に血痕付着の証明が得られないことを理由として、直ちに請求人が本件犯罪の実行行為に関与したことを否定し去るわけにもいかない。もつとも、本件衣服が請求人において検察官に対し本件犯行当時着用していた旨述べている衣服と同一衣服であるとすれば、少なくとも請求人の検察官に対する第三回供述調書中、本件犯行の翌朝本件犯行当時着用していたズボンの大腿部付近数箇所に筆の穂先から墨を垂らしたごとく血痕が付着しているのを発見したので、直ちにこれを自宅裏の池で洗落としたとの記載部分は事実に反する供述に基づくものとせざるを得ないところ、本件事案は、一件記録の上から見る限り、その主要な証拠となつた請求人の検察官に対する自白中には、既に請求人において指摘するがごとき事実に反する点ないし共犯者たる羽賀の供述と齟齬する点が少なからず存し、その取捨選択については著しく慎重な考慮が払われたいわゆる難件であつたであろうことが想像されるだけに、今、更に、請求人の自白の一部に前記のごとき事実に相反する点が発見されたとすれば、右は本件事案の解明に当たりなにがしかの影響を及ぼさないとは断言し難いが、さりとて、請求人の自白中に右のごとき程度の虚偽部分が発見されたからとて、既に任意性及び信ぴよう性を兼ね備えたものと判断されている請求人の自白中犯行の共謀及び実行行為そのものに関する部分まで一挙に明白に虚偽であり、あるいは任意性がないものと断ずるにはあまりにも困難があるものといわざるを得ない。

しからば、本件衣服に人血の付着がないことを証明する右各証拠をもつてしては、いまだ請求人主張のごとく刑事訴訟法第四三五条第六号にいわゆる請求人に対し無罪を言渡すべき明らかな証拠とはいい難いい。」

(三) 羽賀から弁護士中村義夫に宛てた昭和三五年二月五日付け消印のある簡易手紙、前同人から梅田房吉に宛てた同月一九日付け消印のある簡易手紙各一通及び羽賀秘密文書

「羽賀秘密文書の内容は要するに請求人は本件犯行に加担しているものであるが、金五〇万円を提供するならば、請求人においてなす再審請求において無罪判決が得られるよう事実を歪曲した証言をする用意があるというにとどまるものであつて、右のことから羽賀が尋常一様の性格の持主でなかつたことは認められても、同人の第一審公判廷における供述中請求人に関する部分が全く虚偽であることまで明らかにされるものと解する余地はない。」

(四) 証人奥野蔀の証言及び奥野書簡

「証人奥野蔀の当裁判所における証言中には、断片的ながら、羽賀から昭和三一年一二月頃から同三三年中頃までの間に、請求人が本件犯行に関与せず、真犯人は別に居り、かつ、真犯人を名指しするのを直接聞いた旨の供述がみられるが、一方、同証人は何ら首肯すべき理由がないのに真犯人の名を明らかにすることを拒否しているのであつて、少なくとも同証人の右供述部分はにわかに措信し難い。また、右奥野書簡は、公判移行の際、検察官が証拠とすることに同意するものとは予期し難く、その立証趣旨を考え併せると、証拠能力あるものと認め難いので、この点において既に刑事訴訟法第四三五条第六号にいう『明らかな証拠』とはいえないものと解せられる。」

2  刑訴法四三五条七号、四三七条に基づく再審請求について

「請求人は、本件犯行に関し逮捕取調べを受けた際、北見市警察署司法警察員阿部正一から暴行脅迫等の拷問を受けたことを理由に、釧路検察審査会の昭和三五年一月二六日付け議決書及び梅田手記を提出し、刑事訴訟法第四三五条第七号、第四三七条に基づき再審請求をするが、同法第四三五条第七号による再審請求は、原判決の証拠となつた書面を作成し、若しくは供述をした司法警察職員において被告事件について職務に関する罪を犯したことが証明されたとき等に限られるところ、請求人において被告事件につき職務に関する犯罪を犯したと主張する司法警察員阿部正一の作成した書面ないし同人の供述は原判決たる第一審判決の証拠となつていないこと明らかであるから、請求人の同法第四三五条第七号、第四三七条による再審請求は阿部についての職務に関する犯罪の証明の有無の点等につき判断を加えるまでもなく、既にこの点において失当たること明らかである。」

四  再二審決定(抗告棄却)の要旨

1  刑訴法四三五条六号該当事由の有無

(一) 梅田手記

「本件手記は、それ自体こそ原訴訟で証拠調べされなかつたが、そもそも請求人自身で作成のうえ検察官に提出したものであつて、原一審公判廷においてみずからその経緯を供述するとともに、記載の内容についても一〇項目以上を列挙して具体的に明らかにしたものである。右手記にあらわれる新事実として所論の指摘する五点のうち、(1)取調官による暴行脅迫の程度態様(2)取調べ時間と拷問の事実という二点は、請求人が原一審以来の公判廷で反覆主張しつづけた事項であるし、(3)連行時に身震いした理由(4)橋本検事の取調べ時における請求人の心境(5)羽賀と対質した際の挙動という各点もまた、原一、二審公判廷における請求人の供述のなかに既にあらわれているのであつて、法四三五条六号の法意から考えて、以上の事実はいわゆる新規性を欠くものというべきである。

そうすると、右手記が提供するあらたな事実とは、たんに筆跡体裁等、右手記によつて立証すべき事項(所論にしたがえば、請求人の自白に証拠能力と証明力がないこと)の判断にはさほどの意味を持ち得ない、つまり『明らかな』の要件を欠く事実にすぎないことになる。結局本件手記は本条号に該当する証拠と言えないものである。」

(二) 本件作業衣と船尾血痕鑑定書

「本件作業衣と鑑定書は、請求人が犯行時着用していたという着衣に血液の検出されない事実を提供するが、その新規性には若干疑わしいところがある。」として、その理由を詳述したうえ、一転して右各証拠を「請求人の無罪を積極的に明らかにすべき間接証拠ないし有罪とするについての消極的間接証拠として」とらえたうえ、その価値について検討を加え、「本件作業衣に血液付着がない事実は、犯行と請求人の関与とを結びつける物的な積極証拠が着衣の点からもまた得られないという程の、消極的な意味を持つにとどまる。前記のように、その事実を推知しながらあえて証拠調べ手続にのせなかつたくらいであつてみれば、原裁判所がこの事実を、本件作業衣と捜査過程での鑑定書(その存在していたことは記録上明らか)という証拠方法により証拠調べしたとしても、そのゆえに有罪認定が妨げられるほど心証形成に影響したろうとは認められない。」としてその価値を否定し、また、「むしろ、本事実は、請求人の供述中事実に反する点があるということで、その自白の信用性判断に関連すべきものであろう。」としたうえ、「しかし、右判断に影響すべき消極の補助事実が既に原裁判所にすくなからず知られていたことは所論指摘のとおりであり、その中には例えばバツトの隠し場所の件などの重要なものも含まれている。原裁判所はその知つた積極、消極の諸補助事実を総合的に比較勘案し、そのうえで請求人の供述中犯行に関係ある自白の中心的部分は信用すべきだと判断したものである。多岐にわたる供述事項中、さらに一点、血液付着に関し事実に反する部分のあることが当時判明していたとしても(事実これが原裁判所に知られていたふしもあることは前述したところから明らか)、また、被告人が犯行時の真の着衣でないものを偽わつて押収させた疑いもまつたく理由のないことではあるまいから、そのために原裁判所の右判断が大きく影響され、被告人に無罪を言渡すほどに自白の信用性を低く見ることになつたろうとは認めがたい。」と判示し、「本件作業衣と船尾鑑定書は、本条号規定の証拠ではない。」と結論付けている。

(三) 羽賀の簡易手紙と羽賀秘密文書

「本件三通の文書をそのまま読めば、『請求人は本件犯行の犯人であるが、五〇万円出すなら再審請求で請求人に有利なよう虚偽の供述をしてやろう』という共通の趣旨のものである。これを所論のように、羽賀が請求人をおとしいれたことを謝罪し真実を告白する旨申出た趣旨に解しようとするのは、およそ無理である。

もつとも、羽賀竹男が私欲のためには偽証すらやりかねない男であることを明らかにすることによつて、その供述の信用性を弾劾すべき証拠となりうることは当然である。しかし、羽賀供述の信用性についての消極的な補助事実は、これを同人の性格に関するものに限つても、既に多くが原訴訟に現れていることは記録上明白であり、しかもそのなかには相田賢治に関する件のごとく、本件三通の文書に比してより重大な影響を信用性判断に及ぼすべき事実も含まれているのであり、してみると、この点に関して、原訴訟に明らかにされたのと同種類似の訴訟上の意味を持つ事実をあらたにひとつ追加するにすぎない本件文書が、もし原裁判所に知られていたとしても、ためにその有罪認定が妨げられるほど羽賀供述の信用性判断に影響したはずだとは認めがたい。本件三通の文書は本号規定の証拠にあたらない。」

(四) 奥野供述と同書簡

「現在強盗殺人、死体遺棄罪で服役中(これについて再審請求を準備中だという)の奥野蔀は、昭和三一年一二月から翌三二年中頃にかけ当時の札幌大通拘置支所において、在監者の運動や入浴の機会に、羽賀竹男から本件についていろいろ話を聞いたということである。その際羽賀は、初め本件人殺しの計画を請求人に持ちかけ、いろいろ相談もしたが、結局請求人では頼りないということで犯行からははずしたのである旨述べたという。ところでこの点当審の事実調べで請求人は全面的に否定する。」としたうえ、右各事実が両立しうる場合を列記し、次いで奥野供述の信用性に関して検討を加え「奥野供述が、羽賀の発言内容をそのまま伝えているとはとても言えない。」と断定し、「奥野供述、奥野書簡(その内容である羽賀供述も)は、本条号所定の証拠と言えない。」と結論付けている。

(五) 結論

「以上のとおり、所論の個々の各証拠はいずれも法四三五条六号に該当しない。うちいわゆる新規性ありと認められるもの(若干の疑わしいものも含め)を全部総合し原記録と対照してみても、原裁判所において知られていた積極消極の証拠(事実)関係に大きく影響し、その結果原裁判所の有罪認定が決定的に覆えつて、請求人に無罪を言渡すべき高い蓋然性があるとは認めることができない。」

2  刑訴法四三五条二号、七号(四三七条)該当事由の有無

「法四三五条二号の事由があれば、それが原判決の認定に影響を及ぼすと否とにかかわらず、それだけで再審が開始される法意にかんがみ、法四三七条による証明は極めて高度のものでなくてはならない。本件について言えば、羽賀竹男の原公判廷での供述につき、偽証罪の確定裁判を得られるほど確実な証明(証拠能力と証明力の点で)が必要だということである。この証明のないことは既述のとおり。

また、所論司法警察職員に対する供述調書は、原判決の証拠とされていないこと原決定のいうとおりである。七号に該当すべくもない。」

五  再三審決定(特別抗告棄却)の要旨

梅田は、再二審決定が刑訴法四〇五条三号に判例違反に該当する旨主張して、特別抗告を行つたが、「判例を具体的に摘示していないから、刑訴法四三三条の抗告として不適法である。」として棄却されている。

第四本請求とその審理経過

一  請求理由の要旨

1  新証拠

請求者は、刑訴法四三五条六号の新証拠として

(一) 三宅宏一の弁護士三名に対する昭和五四年一一月五日付け供述録取書(三宅供述録取書)

(二) 北里大学法医学担当教授船尾忠孝作成の昭和五四年二月二七日付け鑑定書(船尾打撃等鑑定書)

(三) 弁護士今泉賢治作成の昭和五六年四月二七日付け供述書(弁護士二名による新田千代の供述聴取書((新田千代供述聴取書))写し添付)

(四) 那須広子の同弁護士に対する同年八月五日付け供述録取書(那須供述録取書)

(五) 弁護士竹上英夫作成の同月一〇日付け供述書(弁護士三名による鐙貞雄の供述聴取書((鐙供述聴取書))写し添付)

を提出し、当審で取調べた三宅当審証言、渡辺当審証言、船尾証言及び鐙証言等を援用しつつ、昭和五四年一二月一七日付け再審請求書、昭和五五年九月一八日付け反駁書、昭和五七年三月二〇日付け意見書及び同日付け補充意見書において、本再審請求の理由を縷々主張しているところであるが、その理由の要旨は次のとおりである。

2  理由要旨

(一) 再審要件及び再審審理

右については、最高裁判所のいわゆる白鳥事件決定及び財田川事件決定の示した趣旨にのつとつてなされるべきである。

(二) 梅田自白の真実性

(1) 新証拠である右(一)、(二)の証拠そして三宅、渡辺各当審証言及び船尾証言並びに不提出記録中の大山死体等写真集(不―三七)等を総合すると、梅田自白中、中枢をなす大山殺害の実行行為に関する部分はいかなる面から検討しても真実とは合致しない、信用のできないものであることが明らかになつた。

イ バツトによる打撃

a 右三名の鑑定人とも、梅田の「大山の左側を同人と並んで歩きながら、突然停止するや、右足を一歩後方外側に引くと同時に同人の左側後方一尺位の位置から同人の後頭部を一撃した。」との自供では、大山が、打撃の瞬間何らかの理由により、顔を右に向ける等の動きをしたとの前提に立たない限り、大山の頭蓋骨にあつたような陥没骨折は生じ得ないとする点で一致しており、この点で梅田自白が客観的事実と合致しないものであることが明らかになつた。

そして、右のような前提とすべき事実を認めるべき証拠はなく、仮に、加害者たる梅田の気配を感じて顔の向きを変えたとしても、左側にいた梅田の行動を見るために左を向くことはあつても右を向くことは経験則上有り得ない。

b 新証拠である右(一)、(二)の証拠を総合検討すれば、大山の頭部の陥没骨折は、まず左肩胛骨に骨折を伴うような打撃が加えられ、同人が腰を落とすとか身をかがめる等してその頭部が加害者の肩の位置より低くなつたところを後ろから頭頂部に打撃が加えられることによつて生じたものと理解するのが最も合理的であるが、そうすれば梅田自白がこれに合致しないことは明白である。

ロ 後頭部の刺傷とされる創傷

a 前同新証拠を総合すれば、これは右頭頂部の陥没骨折に随伴して生じた副産物的創傷と解するのが最も合理的であり、そうすると、ナイフで突刺したという梅田自白が虚偽であることは明らかである。

b 仮にこれが陥没骨折とは別個独立の成傷原因による独立創傷としても、その成傷器がナイフのような軽量で刃の薄い物ではないとの点は、三宅、船尾両者において一致しており、三宅新供述では先のとがつた断面が三角状のもので例えばピツケルのごとき物としている。これによつても、ナイフで刺したとする梅田自白は、真実に適合していないことになる。

c 渡辺当審証言は、バツトによる打撃でできた二条の亀裂骨折の間に丁度ナイフが刺さればこの刺傷とされる形状の骨欠損が生じうるという稀有の可能性を指摘するが、百歩譲つてナイフによる刺傷としても、梅田自白にあるような被害者の態勢(仰向けに近い姿勢で顔を大山自身から見て右側の方へ向けて倒れた)と加害状況(その頭の方の地面に腰を低くして右膝をついた姿勢でナイフを右逆手に握り上の方から下に真つすぐこれを突下ろして)ではこの傷ができないことは渡辺当審証人自身も認めており、梅田自白の虚偽は明らかである。

d 検察官が、梅田の調書に、ナイフに関する詳細な供述をなさしめておきながら、起訴状の訴因に掲げなかつたのはその供述の不自然さを自認していたもののように思われる。

e 当該創傷をナイフによる刺傷としたのは、この傷を刺傷と誤認した警察官が梅田にその誤認に沿う供述を強制した結果である。このことは、不提出記録中の司法警察員作成の昭和二七年一〇月二日付け検視調書(不―四)に「右後頭部に(中略)刺傷様の穴あり、内部に至つている」「短刀様のもので頭を突刺し」とあること、当初の梅田自白に羽賀供述に対応するナイフについての供述がないが、同月四日の員調(確一の一―一七三六)末尾でとつてつけたように万一のため持つて行けといつたような記憶がある旨の供述がされていることから明らかであり、原一審公判廷における供述(第一一回及び第二四回)で、「着衣を焼却する際にも血痕が付着していなかつたので私としては刃物を使用しないと思つておりました。」(同―八三三)「解剖の結果の捜査官の話の内容が死体に刃物を使用していると感じたので話を合わしたのです。」(同―二一三二)と弁解していることが右の事実を裏打ちしている。

ハ 絞頸縄の巻き数

三宅新供述によれば、絞頸縄が三巻きとなつていたことを同人が認定して記載した鑑定書を提出した直後、警察官から二巻きの誤りであるから二巻きと訂正するよう強く求められたが断つた事実が認められ、この新事実は、梅田自白が警察官の誤認に基づいて強制されたものであることを明らかにしている。

ニ 加害者複数説

三宅新供述によれば、大山に対し三種類の凶器(バツト様のもの、ピツケル様のもの、絞頸縄)で攻撃がなされていると見られること等から犯人が複数であると考えられるとされており、梅田単独犯行を内容とする梅田自白が虚偽であることを明らかにしている。

(2) 新田千代供述聴取書と那須供述録取書

新田千代供述聴取書は、本件当時辰巳食堂に勤務していた同女が、辰巳食堂で梅田を見かけた事実がないのにあると虚偽の供述をしたこととその経緯を述べ、那須供述録取書は新田千代死亡のため、生前右事情を聞いていたその娘那須が新田の右供述を補強するものであり、これら新証拠によつて辰巳食堂で梅田と羽賀が食事をしながら話合つたという梅田自白と羽賀供述(両者でその日時、話の内容、状況は全く食い違つているが)が共に虚偽であることが証明される。

(三) 羽賀供述の信用性

前出の鐙供述聴取書及び同証言並びに同人の弁護士鈴木悦郎に対する供述録取書(鐙供述)は、同人が梅田や羽賀と何ら利害関係がなく、このような供述をすることで過去の汚点を公にし、現に不利益を受けるも何の利益なく、また供述の内容も具体的で信用性の高いものであるが、これによれば、昭和三三年頃から三五年頃まで札幌刑務所で同人が服役していた当時、同所に拘禁されていた羽賀から「梅田は戦後一、二回会つたことがある程度で、大山殺害には全く関係がない。自分が助かりたいために梅田を引きずり込んだが助からなかつた。」旨の告白を何回も聞いたというのであり、梅田が実行共犯者であるとする羽賀供述が虚偽であることを明白に証明している。

(四) 結論

以上の新証拠に、一次再審で取調べられた新証拠等の証拠資料を加え、原審審理において提出された既存の全証拠を総合検討すれば、原審及び一次再審において指摘してきた梅田自白の任意性と真実性、そして羽賀供述中梅田に関する部分の信用性を疑わしめる数々の不合理さと相まつて、もはや、これらを肯認することができないことは明白となり、これを採用証拠の中核として梅田有罪の結論を採つた確定判決は維持することができなくなつたことは明らかであるから再審開始決定を求める。

二  検察官の意見の要旨

1  基本見解

検察官は、請求者の本請求を争い、請求者提出の前記各新証拠につき、その新規性は認めるものの、いわゆる明白性がなく、刑訴法四三五条六号所定の「無罪を言渡すべき明らかな証拠」に該当しないと結論し、請求者主張の本再審請求の理由につき、昭和五五年六月二一日付け、昭和五六年八月一五日付け及び昭和五七年三月二〇日付け各意見書に詳細にその反対理由を述べているところであり、その要旨は、大略次のとおりである。

2  理由要旨

(一) 刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言渡すべき明らかな証拠」の意義については、請求者と同様最高裁判所のいわゆる白鳥事件決定及び財田川事件決定の示したところにのつとつて解釈されるべきであると考えるが、再審請求の理由の存否を判断するに当たつては、慎重な三審制度のもとに確定した判決の法的安定性が害されて法秩序を混乱せしめることのないよう、再審開始決定が観念的な判断に基づいたり、直接審理を行つた判決裁判所の心証形成過程をみだりにそんたくし、批判し、軽視したりすることにならないようすべきである。

(二) 新証拠に対する意見

(1) 船尾打撃等鑑定書及び船尾証言について

イ 本質的限界について

右鑑定は、鑑定作業が原資料(死体、血痕など)に基づかず、原資料の写真や原資料に対する鑑定書等の間接資料によるもので、特に、原資料である被害者の頭蓋骨そのものが存在しないところから、法医学鑑定としては本質的な限界があり、したがつて、一層慎重な態度と客観的な洞察が要請されるのに、犯行時における犯人の心理状態に目を覆い、加害者及び被害者の動作を動的にとらえることなく、梅田の自白内容の表れている状況を単に機械的、固定的にとらえて右自白の真実性を批判しているのであつて、資料の取扱方法及び思考過程等において妥当性を欠き、客観的根拠のない独自の推測意見を述べたにすぎず、それ自体信頼性に欠け、証拠価値がない。

ロ 被害者の右側頭部に大陥没骨折を生ぜしめた打撃の方向について

右鑑定及び船尾証言の結論は、生体及び頭蓋骨模型を用いたモデル実験において、打撃時における加害者と被害者との位置関係、加害動作、防御動作等の動的な諸条件を全く考慮せずに、被害者が前方を見て頭部を動かさないで佇立していることを前提として導かれたものであるが、被害者がバツトで殴打されようとしたとき、とつさに危難回避の動作に出て、その頭部の位置が変わり、場合によつては同人が右を向くという可能性が十分にあり、そのような位置関係にある場合には、本件のような陥没骨折が生じることも可能であつて、このことは船尾打撃等鑑定書も認めるところであり、また、渡辺当審証言にも合致するところである。

なお、証人渡辺孚は、当審において、渡辺鑑定書及び同人の原一、二審における証言中「打撃の方向は、被害者の右前下方から後ろ上方に向かつている。」との部分を「打撃は、被害者の後方やや斜め上から下に向かつて加えられたものである。」旨修正したが、これは、被害者の頭蓋骨を鑑定した当時、三宅鑑定書の内容を見なかつたため、右側頭骨の部分の二枚の骨片(別紙第五図の<イ><ロ>の部分)及びその下部右耳孔に向かつて広がつている部分(同図の<ハ>の部分)が遊離し、右<ロ><ハ>の部分が骨欠損の状態になつていたところから、三宅鑑定時において右骨欠損がなかつたことや、右<ロ><ハ>が後に取去られたものであることに気付かないで、右欠損部分も打撃によつて生じたものであると判断したからであり、この修正は十分に合理性がある。

ところで、梅田の自白には、被害者の回避等の動作についての記載がないが、それは、梅田が被害者を殴打する際、四囲の状況からして同人の動作・態度を十分認識できなかつたか、自白が犯行後約二年を経過した時点になされたことによるものであつて不自然ではない。

ハ 頭頂骨に存在する菱形状骨欠損の成傷原因について

この点に関する船尾打撃等鑑定書及び船尾証言は、直接に死体を解剖した結果に基づく三宅鑑定書及び三宅証言を無視したものであつて、採用できない。すなわち、三宅鑑定書及び証言によれば、菱形状骨欠損部分の真下の大脳右頭頂葉の部分に外見上短経〇・五センチメートル、長経一・八センチメートル、深さ二・五センチメートル(ゾンデにより測定)の矩形状の刺創が大脳に対しほぼ垂直に存在し、その創洞の周囲に出血の跡が見られ、右刺創は、当該部分に落下していた菱形状骨欠損部分の骨内板の挿入によつて生じたものではなく、生前傷と認められるというのであつて、右刺創が凶器の侵入によつて生じた独立の損傷であることが明らかであるのに、右船尾打撃等鑑定書及び船尾証言は、この明らかな事実を無視し、菱形状骨欠損部分とその真下の大脳右頭頂葉の部分に存在していた右刺創を一体として考察せず、それぞれを分離して考察しようとするものであつて、非合理的と言わざるを得ない。また、右の点に関する船尾の「死後二年を経過すると大脳が腐敗するので、その刺創等の有無を判断することは不可能である。」旨の証言は、右三宅鑑定書の記載及び証人渡辺の「死後二年を経過し、脳が腐敗して萎縮している状況下にあつても、傷害そのものの形状は覚知できる。」との当審証言に照らしても到底信用し難い。

これに反し、証人渡辺は、当審において、三宅鑑定書によつて認められる客観的な事実である菱形状骨欠損及び大脳部分に存在した刺創の形状を前提とした上で、<1>右側頭部の陥没骨折は、骨折線の形状からしてバツトによる一回の打撃によつて生じたものと考えられるが、この程度の打撃では骨外板と骨内板とが遊離するという現象は生じない、<2>大脳部分の刺創は、その形状からして幅のあまりない細身で先端が鋭利な刃器、例えばナイフ様のものによつても可能であつて、通常のナイフでは健全な頭蓋骨を貫通して大脳部分に刺創を与えることは困難であるが、右側頭部の陥没骨折を生じさせた打撃によつて本件菱形状骨欠損部分に骨折線や亀裂が生じたことは十分考えられ、そのような骨折線や亀裂(外見上認識できない程度の亀裂でも可。)が存在した場合には、ナイフの侵襲は可能であつて、その際、骨外板と骨内板とが分離することもあり得る旨証言しており、右証言内容は、前記船尾打撃等鑑定書に比し極めて合理的であるばかりでなく、被害者の頭蓋骨の損傷状況を矛盾なく説明して説得力に富み、梅田の「ナイフの刃の部分は全部大山の頭に突刺さつたのは覚えております。そのナイフを握つている右手の小指側の部分が大山の頭に『ガシツ』とぶつかつたのです。」との自白内容ともほぼ一致しているのである。

右に述べたように、被害者の大脳部分に刺創が存在したことは否定できない客観的事実であるから、仮に船尾証言のように菱形状骨欠損が右側頭部の大陥没骨折に随伴して生じたものであるとしても、新たな凶器(ナイフ)が、打撲によつて生じた骨折線や亀裂部分に侵襲する場合に比し、より容易に右菱形状骨欠損部分から大脳部分に侵襲することができると認められるのであつて、船尾証言は梅田の自白の真実性に何ら影響を与えるものではない。

以上いずれの点からしても、船尾の前記「菱形状骨欠損が新たな凶器の侵襲によつて生じた可能性はほとんどない。」旨の鑑定及び証言は、証拠としての明白性がないというべきである。

ニ 梅田の自白する加害状況からは、本件菱形状骨欠損及び大脳刺創を生ぜしめることはできないという点について

原審記録中の梅田の供述(確一の一―一六二九)によれば、「大山はウウンとうなつて道路の右側に倒れました。……」「身体を少し動かしウウン、ウウンとうなつていました。相当大きなうなり声でした。……」「其の何処に突刺さつたのか夢中だつたので判然としません。」「グサツと一回だけ突刺してからナイフを引抜き……ナイフを投捨てました。」「大山はまたウンウンうなつていましたと供述しており、被害者は断末魔のうなり声をあげて身体を動かしていたことは明らかであり、しかも、「このようにして頸を絞めたら、大山はうならなくなりました。大山の身体も動かなくなりました。」との記載もあることから加害者が麻縄で絞め終わるまで被害者が身体を動かしていたことも認められる。

しかも、これらの供述記載からすると、梅田は、被害者の頭部をナイフで刺した際、殺害のため被害者の頭部をバツトで殴打するという凶行に出たときの興奮状態の下にあつたことが窺われ、したがつて、ナイフを被害者の頭部のどこに刺したか正確に記憶しておらず、また、転倒後の被害者の行動を冷静に見詰めるだけのゆとりがなかつたとしても、それはむしろ当然のこととも言えるのであつて、右供述記載に表れている以上に被害者が身体を動かしていた可能性も十二分に認められる。

他方、被害者の行動能力について、証人渡辺は、当審において、豊富な鑑定経験に基づき、「頸動脈を包丁で切られ即死状態にあつた被害者が五寸釘を頭に打ち込まれた直後起上がつて歩き出した事例もあり、死亡によつて直ちに行動能力を失うものではなく、梅田の自白しているように被害者がバツトで頭部を殴打されて昏倒後『ウン、ウン』うなつている状態にあつたとすれば、その時点では被害者が体や首を持上げる行動能力のあつた可能性は十分あり、そのような状況下にあつては本件のような刺創を与えることも可能である。」旨証言している。

以上詳述したところから明らかなように、船尾鑑定及び証言は、被害者が全く身体を動かしていないことを前提とする点において妥当でないばかりか、被害者の頭頂部に刺創があることが必ずしも梅田の自白とは矛盾するものでないことを理解せず、梅田の自白を全体的に評価しないで部分的かつ表面的にとらえ、独断的な推測意見を述べたにすぎず、その証拠価値は低く、証拠としての明白性はない。

(2) 三宅新供述について

イ 三宅供述録取書には、三宅鑑定書の内容と異なる事項及び同鑑定書に全く記載のない事項として、<1>被害者の頭部に加えられた打撃の方向につき「被害者の後方やや高い位置からの打撃である。」(記載なし。)、<2>右頭頂部の刺傷につき「その原因となつた凶器は、ナイフ等軽量で薄い刃のものではなく、断面の三角なピツケルのごときものである。」(三宅鑑定書では、凶器の推定は困難とされている。)、<3>実行者の数につき「頭部骨欠損と陥没骨折が二種の異なる凶器によつて生じたと推考されることから、実行者は複数と推定した。」(記載なし。)の三点が記載されているが、三宅供述録取書の記載をみる限り、右の三点についての供述がいかなる根拠に基づく意見であるかが極めてあいまいであり、かつまた、一般に鑑定医が解剖に際して作成するメモが三宅医師のもとに今もなお存在し、そのメモの記載に基づいて右意見を述べたのか、その消息は不明であるが、鑑定時から二七年余を経過した時点で、鑑定書の記載と異なる事項を述べる根拠が明らかではなく、この点からして既に三宅供述録取書の信用性には多大の疑問をさしはさまざるを得ない。

ロ 右側頭部の大陥没骨折を生ぜしめた打撃の方向について

三宅新供述の要旨は、「右側頭部の大陥没骨折は、梅田の自白したような打撃の方向ではこのような骨折を生ぜず、加害者が被害者の頭部を基準にして、被害者の後方やや高い位置からバツト様のものを振下ろすことによつて可能である。」というにあり、その理由として、鑑定時陥没骨折部分の中央を走つている骨折線の延長線上の前頭骨の部位に血腫の痕跡と認められる淡暗赤色の出血斑が存在していたことから、打撃は後頭部ではなく、前頭骨の部分に命中したものと推定されること、若し後頭骨の部分に打撃が命中していたとするならば、骨折線が前頭骨にまで及んでいることからして右側頭部は陥没骨折にとどまらず当然骨欠損が生じていたはずであることなどを挙げている。

しかしながら、右三宅新供述は、証人渡辺の「バツトは作用面からみると、一種の段差をもつた矩形で、打撃の加わつた部分を中心としてその程度によりいろいろな方向に骨折線が走つても不思議ではない。」旨、「前頭骨の部分に出血斑が存在したとしても、頭皮等の軟部組織から出た出血が骨に染み込むとは限らないので、直ちにこれを血腫の痕跡であると速断することはできない。」旨の各当審証言(なお、船尾証言も結論において同旨)に照らすと、法医学上の理論的根拠に乏しいものであるばかりではなく、三宅当審証言中には「打撃が後頭部でなく、前頭部に加えられたとの判断を前提とした上で、打撃を加えた瞬間時において、加害者と被害者との相対的な身体の動きいかんによつては、梅田の自白にあるような加害者と被害者との位置関係にあつても、本件のような陥没骨折を生ずることは可能であり、被害者が右側を向いておれば当然生じ得る。」との部分もあり、三宅新供述はこれを全体的にみると、梅田の自白の信用性に影響を及ぼすような根本的な矛盾はない。

ハ 頭頂骨の部分にある菱形状骨欠損及び大脳刺創を生ぜしめた凶器はナイフではなく、ピツケル様のものであるという点について

三宅新供述によれば、右の凶器をピツケル様のものであるとする理由として、<1>骨欠損部の形状がナイフの形状と一致せず、三角錐状をしているピツケル様のものと似ていること、<2>菱形状骨欠損部分の骨外板が吹つ飛び、骨内板が頭蓋骨内に押込まれる状態で落下し、その先端の一部が大脳刺創部分に挿入していることから凶器はかなり重量のあるものと推定されること、<3>骨欠損部分の上部の鋭角の部分からほぼ直角に近い状態で左右に骨折線が走つており、ナイフによる損傷の場合には、このように横に骨折線が走ることはないなどが挙げられているが、原一審における三宅鑑定書には右のような記載はなく、原二審第二回公判でも右のようなことは全く証言しておらず、このような一連の態度にかんがみると、三宅新供述は信用性に欠けるものであり、しかも、<1>の点についていえば、鑑定経験の豊かな証人渡辺の「大脳部分の刺創の状況から、使用された凶器がピツケル様のものと考えることは到底できない。成傷器の形状は脳の刺創の形状に似た刃器で、ナイフでもよい。」旨の当審証言に照らしても到底信用できず(もつとも、この点について、三宅は「脳の組織自体は柔軟性に富み豆腐のようなものであるため、凶器の形状と刺創の形状とは必ずしも一致しない。」旨証言するが、この理論を極度に推し進めていくと、死後二年を経過した鑑定時において、なお短経〇・五センチメートル、長経一・八センチメートル、深さ二・五センチメートルの定型性を有する矩形状の刺創が存在したということ自体を否定せざるを得なくなり、自己矛盾に陥ることになる。)、次に<2>の点については、証人渡辺の「何らかの亀裂がある場所に通常のナイフを刺せば、骨外板と骨内板とが分離することもあり得る。」旨の当審証言及び証人船尾の「陥没骨折に随伴して骨外板と骨内板とが分離することが認められる。」旨の証言に徴しても、ピツケル様のものが凶器であつたと推定することは相当ではなく、また、<3>の点についても、証人船尾の「バツト様の鈍器で殴打した場合、力の加わつた方向ばかりでなく、これと直角に骨折線が走ることはありうる。」旨の証言及び証人渡辺の「バツトで殴打した場合、加わつた打撃の程度によりいろいろな方向に骨折線が走る。」旨の当審証言に照らすと、右三宅証言の指摘する骨折線はバツトの殴打によつて生ずることが可能であり、この点でも前記三宅新供述は誤りであつて、いずれにせよ採用できないものである。

ニ 犯人複数説について

三宅新供述によれば、大山正雄強盗殺人事件が単独犯行ではなく、複数人による犯行であるとされ、その理由が縷々述べられているが、その理由は根拠薄弱かつ信用性に乏しいか、又は、渡辺当審証言及び船尾証言に反するものであり、そもそも、三宅が犯人複数説を採るに至つたのは、三宅当審証言のように、「本来屋外における強盗殺人事件は計画的な犯行で、発覚を防止するためには短時間に犯行を終了させる必要があり、このためには犯人が複数であると考える方がより自然的、かつ、合理的である。」と考えたかつたからに過ぎないのであつて、その思考方法は、法医学とは無関係な根拠のない独断的なもので、推理の域を出ないものである。

ホ 警察官から被害者の頸部に巻きつけられてあつた縄の状況についての鑑定書記載部分の訂正を求められたとの点について

右の点につき、三宅は、警察官から被害者の頸部の縄の巻き数について、三巻きを二巻きに訂正して記載して欲しい旨の申込みを受けたというが、「右の申込みは真実を曲げてくれという程の強い調子ではなかつた。」旨証言しており、これによれば、警察官において鑑定書に記載された事実を曲げてまで梅田の既存の自白内容を鑑定書の記載内容に合わせようとした事実は存在しない。

(3) 新田千代供述聴取書及び那須供述録取書について

イ 新田千代供述聴取書の記載は、同女の昭和二七年一〇月二五日付け員調(確一の二―九九)及び同月二六日付け検調(同―九四)並びに原一審第五回公判における証言(確一の一―六一九)と比べ、「以前に梅田が辰巳食堂に来たことはない。」とする点で異なるものであるところ、過去の供述及び証言をしてから約二八年余を経過した時点で、右の点についてのみ旧証拠と異なる事項を述べるに至つた経緯が明らかでない上、同女の「警察官に対し供述したのは、警察で調べられるのが嫌であつたので、何でもしやべれば早く帰してもらえていいと思つた。」とか、「証言をしたのは、警察にあんまり呼ばれてめんどうくさい、裁判所からも呼び出しがくるし、なんとか済んでしまえばよいと思つた。」等の供述は極めて不自然であつて到底首肯し難いものであること、同女が、弁護士から、当初警察官が来た時の情況を聞かれ、「警察官が写真を持つてきて、『この人見たことないですか。』というので、『アラツ』と言つた。」と述べており、同女が梅田の写真を見せられて『アラツ』と言つたのは、写真の人物に見覚えがあつたことを如実に物語つているものであるが、同女は右のように述べたあと、「(警察の人には)大勢のお客さんだから、『アラツ』といつても警察が調べて来ている人かどうかわかりませんよ、多くの人だから、似た人はいくらでもいますからと言つた。」旨不自然かつ不合理な供述をしていることに照らせば、同女の供述聴取書はその内容自体信用性に乏しいものと認められる。

ロ したがつて、右の供述聴取書を補強する趣旨で提出するという那須供述録取書自体に明白性がないことは明らかである。

(4) 鐙供述について

イ 鐙供述によれば、羽賀から梅田が無実であるとの話を聞くに至つた経緯につき、「札幌刑務所に服役した際、約一か月網工をしていた後、三舎階下掃夫として就業したが、一か月足らずで右の仕事を長岡宗一に代つてもらい、昭和三三年九月ころから数か月三舎階上の掃夫をし、三舎階上の九・一〇・一一・一二のいずれかの房に収容された。」旨証言しており、これによると、羽賀が札幌刑務所三舎階上に収容されている時期に、鐙も同じ三舎階上に収容され、掃夫として服役していたことになる。

ロ しかしながら、札幌刑務所長の回答書によれば、鐙は、麻薬取締法違反事件の既決囚として札幌刑務所に収容された昭和三三年六月二一日から同年七月三日までの新入期間の二週間は、後日羽賀が収容された三舎階上三四房に収容されていたこと、同月四日に一舎階上七房に転房し、網工として服役していたこと、その後同年八月一五日に転房し、三舎階下の掃夫として同年一二月二五日まで同舎階下一七房に収容されていたこと、同年一二月二六日から翌昭和三四年一二月二四日仮釈放されるまでは図書夫として就業し、その間、夜間は三舎階上二房に収容されていたこと、一方羽賀は、昭和三三年七月一〇日大通拘置支所から移監され、三舎階上三四房に収容されたことが認められ、したがつて、羽賀が三舎階上に収容されていた間に、鐙が同舎階上の掃夫をしていた事実はないことが明らかである。

しかも、鐙が三舎階下の掃夫を代つてもらつたという長岡宗一が札幌刑務所に服役したのは、昭和三三年ではなく昭和三四年四月一八日以降であり、したがつて、昭和三三年当時鐙が長岡と作業場所等を交代することは時期的に不可能であること、また、昭和三三年五月三一日から同年一二月一四日まで三舎階下担当の看守として鐙ら既決囚の戒護に当たつていた長沼清一は、検察官に対し、「自分が配置換えになる時点では、鐙は三舎階下の掃夫をしていた。」旨供述していること、更に、既決囚の就業内容は最終的には身分帳を保管している分類課において決定するところであつて、既決囚の戒護上その就業内容の変更及び収容房の移転を確実に把握しておくことが最も基本的かつ重要事項であることなどを総合考慮すると、鐙の右証言は事実に反することが明らかである。

ハ このように、鐙供述は右の点だけでも到底措信することができないが、他に、同供述中鐙が羽賀と接触するに至つた経過や同人との接触状況、鐙が羽賀から共犯者は無実である旨を聞いた経過や同人から聞いた内容には、不自然不合理な点があり、かつ、羽賀の死刑執行に至るまでの行動に照らし、羽賀が鐙の供述するような告白をするはずはなく、いずれにしても、鐙供述は措信できず、明白性もない。

三  請求者・検察官の証拠調べに関する申出

1  請求者

(一) 書証及び証拠物たる書面

(1) 三宅供述録取書

(2) 船尾打撃等鑑定書

(3) 梅田から竹上半三郎他宛の一〇九通の書簡(昭和五四年押第一七号の1ないし55、56の1・2、57ないし104)

(4) 本一冊(書名「裁かれる日本の裁判」、著者・日野健、昭和四五年エール出版社発行、同号の105)

(5) 本一冊(書名「魔の時間」、著者・青地晨、昭和五一年筑摩書房発行、同号の106)

(6) 本一冊(書名「語り出した民衆の記録」、オホーツク民衆史講座実行委員会発行、同号の107)

(7) 本二冊(書名「文芸北見創刊号及び第2号」、文芸北見発刊実行委員会発行、同号の108)

(8) 本一冊(書名「いけにえ」、著者・林晴生、昭和五四年ペツプ出版発行、同号の109)

(9) 本一冊(書名「女性自身昭和五四年八月二日号」、光文社発行、同号の110)

(10) 新聞(朝日新聞・毎日新聞・北海道新聞・北海タイムス・読売新聞・北見新聞)の切抜き七七枚(同号の111)

(11) NHK放送台本一冊(題名「一〇四通の手紙」、昭和五二年八月一一日(木)夜七・三〇―八・〇〇放送のもの、同号の112)

(12) 梅田作成の日記帳三冊(同号の113ないし115)

(13) 本一冊(書名「真犯人よ聞いてくれ」、著者・梅田義光、一九八一年朝日新聞社発行、同号の116)

(14) 弁護士今泉賢治作成の昭和五六年四月二七日付け供述書(弁護士二名による新田千代の供述聴取書写し添付)一通

(15) 弁護士竹上英夫作成の同年八月一〇日付け供述書(弁護士三名による鐙貞雄の供述聴取書写し添付)一通

(16) 那須供述録取書

(17) 昭和五五年一〇月一二日付け北海タイムスの切抜き一枚

(18) 同月一一日付け北海道新聞夕刊の切抜き一枚

(19) 鐙貞雄の弁護士鈴木悦郎に対する供述録取書一通

(20) 弁護士永井哲男作成の「検証報告書」と題する書面一通

(21) 網走測候所作成の同区内気象月報謄本二通

(22) 網走地方気象台作成の同気象台原簿謄本一通

(23) 日本気象協会北海道本部網走支部発行の「網走地方気象暦」と題する書面写し一通

(24) 本(書名「心理用語の基礎知識」、編集者・東洋他三名、昭和五六年有斐閣発行)の抜粋写し

(25) 本(書名「法医診断学」、著者・錫谷徹、昭和五二年南江堂発行)の抜粋写し

(26) 本(書名「法医学」、著者・何川涼、昭和五二年日本医事新報社出版局発行)の抜粋写し

(27) 昭和二七年九月七日、同月一〇日、同月一三日、同月一四日、同月一六日、同月一七日、同月一八日、同月二〇日、同月二一日、同月二八日、同年一〇月二日、同月六日付け北海日日新聞の抜粋写し各一通

(28) 昭和二九年九月一〇日、同月一一日、同月一四日、同月一五日、同月一七日、同月一八日、同月一九日、同月二一日、同年一〇月三日付け北見新聞の抜粋写し各一通

(29) 昭和三一年一二月一六日付け北海タイムスの抜粋写し一通

(30) 梅田作成の札幌更生保護委員会宛昭和四五年五月二二日付け上申書下書き一通

(31) 昭和五四年二七日付け読売新聞及び北海道新聞の抜粋写し各一通

(32) 昭和五四年六月二八日付け朝日新聞の抜粋写し一通

(33) 清宮由美子撮影の写真写し二葉

(34) 東山繁美撮影の写真二四葉

(35) 梅田作成の橋本友明宛書簡写し一通

(36) 斉藤次夫作成の林白言宛書簡写し一通

(二) 証人

(1) 船尾忠孝

(2) 三宅宏一

(3) 穴澤定志

(4) 橋本友明

(5) 渡辺孚

(6) 伊藤力夫

(7) 小野寺松四郎

(8) 鈴木(旧姓清水)一郎

(9) 小林政男

(10) 鐙貞雄

(11) 那須広子

(12) 梅田義光

(三) 証拠物

頭蓋骨模型(昭和五四年押第一七号の117)

(四) 取寄せ

(1) 釧路地方検察庁網走支部から梅田に対する強盗殺人、死体遺棄被告事件の記録全部(清水一郎に対する同事件の記録中、昭和二七年一〇月一六、一七、一八日付け穴澤検事作成各供述調書を含む。)

(2) 同支部から梅田に対する第一回再審請求事件の記録全部

(3) 同支部から右(1)の確定記録に編綴されていない検察官手持証拠の全部

2  検察官

(一) 書証

(1) 札幌刑務所長賀屋清一作成の昭和五六年四月二一日付け「捜査関係事項照会について(回答)」と題する捜査照会回答書謄本一通

(2) 検察事務官淀川裕子作成の鐙貞雄の前科調書謄本一通

(3) 札幌刑務所長賀屋清一作成の昭和五六年八月七日付け「刑死者に関する照会について(回答)」と題する捜査照会回答書謄本一通

(4) 同人作成の昭和五六年九月三日付け「死刑囚に関する照会について(回答)」と題する捜査照会回答書謄本一通

(5) 長沼清一の検察官に対する供述調書謄本一通

(6) 札幌刑務所長賀屋清一作成の昭和五七年一月一六日付け「第三舎内写真の送付について」と題する捜査照会回答書謄本一通

(7) 札幌高等検察庁刑事部長作成の法務省専用電報謄本一通

(8) 釧路刑務所長水島良夫作成の昭和五七年一月一八日付け捜査照会回答書謄本一通

(9) 検察事務官吉口市廣作成の昭和五七年一月二〇日付け電話聴取書謄本二通

(10) 札幌刑務所長賀屋清一作成の昭和五七年一月一九日付け捜査照会回答書謄本二通

四  当裁判所が取調べた証拠

1  請求者申出のもの

請求者提出の書証等全部、証人三宅宏一、同渡辺孚、同船尾忠孝、同鐙貞雄、頭蓋骨模型(昭和五四年押第一七号の117)、当庁昭和二七年(わ)第五九、六〇、六二、七二号事件の確定記録全部、当庁昭和三七年(た)第一号事件の確定記録全部、右両事件の不提出記録中当裁判所の釧路地方検察庁網走支部検察官に対する昭和五六年一〇月一五日付け、同年一一月一〇日付け、同年一二月一〇日付け各「公判不提出記録の提出について」と題する書面で提出を求めた書証等一六三点

2  検察官申出のもの

検察官提出の書証全部

3  双方の申出によらないもの

証人 斉藤藤治郎

第五当裁判所の基本的態度

一  再審要件と再審審理についての基本的考え方

本再審請求は、昭和三二年一二月二二日に確定した原一審判決に対してなされたものであるが、この間、昭和三七年一〇月三一日一次再審請求がなされ、昭和四三年七月一二日特別抗告棄却決定によつて一次再審請求棄却決定が確定したものであるところ、昭和五〇年五月二〇日には最高裁判所(第一小法廷)によりいわゆる白鳥事件決定(刑集二九巻五号一七七頁以下)が、そして昭和五一年一〇月一二日には同裁判所によりいわゆる財田川事件決定(刑集三〇巻九号一六七三頁以下)がなされ、再審につき新しい判例法理が展開され、本件についてもまた一次再審以来再審の要件や審理の在り方につき議論がなされていることでもあるので、必要な限度で当裁判所の考え方を示しておく。

1  刑訴法四三五条六号所定の証拠の「新規性」について

刑訴法四三五条が確定判決の実体的確定力を打破つて再審を開始する要件を規定し、そのうち六号は右確定力のうち判断内容の拘束力を破つて同判決の事実認定を維持し得ない場合を規定しているのであるから、同号の「あらたに発見した」とは、原判決確定に至る審理において事実認定の資料とされていなかつた証拠を判決確定後に裁判所が発見したことを意味するものと解すべきである。証拠の発見は裁判所にとつて「あらた」でなければならず、また、その証拠が原判決以前に既に存在していたか、又はその後に存在するに至つたかを問わない。「あらた」か否かの基準時は原則として原判決が事実認定の資料の収集をなしうる最終時点であろうが、「あらた」という要件の前記のような意義に照らして個別に判断されるべきものである。

なお、累次の再審請求を律する同法四四七条二項の要件と混同してはならない。

また、新証拠の種類、態様に格別制限があるわけではなく、後記の明白性を備える証拠価値のあるものであれば、再審請求についての審理において取調べられた証拠であつて確定判決の審理において提出された証拠と対比して新規性のある証拠はすべて含む。証拠方法として同一であつても証拠資料としての内容に「あらたな」ものがあればその新規性は肯定されるし、逆に証拠方法を異にしても同一供述主体で証拠資料の内容に「あらたな」ものがない(例えば、確定判決の審理において、証人として証言した者が内容的に同一な供述書を作成し、これが新証拠として提出される場合)のであれば新規性を欠くことになる。鑑定についても、その鑑定内容が前の鑑定と結論を異にするか、又は結論が同旨であつても鑑定の方法や鑑定に用いた基礎資料が異なるほど、証拠資料としての意義内容が異なるときは証拠の新規性を認めるべきである。

本件では請求者側で新証拠として提出したものについての新規性は検察官も、一部疑問を呈しながらも結局これを認めており、当裁判所もまたこれを是認するものである。

2  「明白性」について

前記最高裁判所の白鳥事件決定及び財田川事件決定の指し示すところに従うべきであると考える。すなわち刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言渡すべき明らかな証拠」とは、その証拠が有罪の確定判決における事実認定につき合理的な疑いを抱かせ、その認定を覆すに足りる蓋然性を有することであり、若し当の証拠が有罪の確定判決をした裁判所の審理中に提出されていたならば、合理的な疑いを生ぜしめることなくその確定判決における事実認定に到達したか否かの観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきであり、この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる意味において、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用されるものと解すべきである。

そして、この原則を具体的に適用するに当たつては、確定判決が認定した犯罪事実の不存在が確実であるとの心証を得ることを必要とするものではなく、確定判決における事実認定の正当性についての疑いが合理的な理由に基づくものであることを必要とし、かつ、これをもつて足りると解すべきであるから、犯罪の証明が十分でないことが明らかになつた場合にも右の原則が当てはまるのである。このことは、単なる思考上の推理による可能性にとどまることをもつて足れりとするものでもなく、また、再審請求を受けた裁判所が特段の事情もないのに、みだりに判決裁判所の心証形成に介入することを是とするものでもないことはもちろんである。

二  一次再審との関係

本件では既に一次再審を経ており、そこでも請求者側から新証拠として幾つかの証拠が提出され取調べられ、これに基づいて再審請求理由が主張され、裁判所の判断が下されて確定している。刑訴法四四七条二項は、再審請求に対する棄却決定があつたときは、同一の理由によつて再び再審請求できないと規定しているので、本件がこれに抵触していないかどうか、また一次再審の過程で提出取調べられた証拠資料は当審において判断資料としてよいものか否かの問題を解決しておく必要があるわけである。

1  刑訴法四四七条二項と本請求

当審で提出を受け、取調べた新証拠及びこれにより証すべき要証事実として主張されている理由と一次再審におけるそれとを対比すれば、明らかに両者とも別異のものであるから本請求は同条項に違反するものではない。

2  一次再審の証拠資料の取扱い

再審請求が数次に及ぶような場合には、原確定裁判の全訴訟資料のほか、従前の再審請求において新証拠として提出された資料もその証拠価値の肯認されるようなものである限り、新証拠との関係で再度全体的心証形成の素材として右判断の資料となしうるものと解するのが相当である(広島高等裁判所昭和五一年九月一八日決定((いわゆる加藤新一老事件決定))及び福岡高等裁判所昭和五四年九月二七日決定((いわゆる免田榮事件第六次再審請求抗告審決定))参照)。

なぜなら、新たに発見された証拠が数度にわたる場合とそうでない場合と対比して著しい不均衡を生ぜしめるようなことは相当でなく、確定した従前の棄却決定の判断内容の拘束力も、そこにおいて再審請求理由として主張された事実に関し、その判断の基礎となつた証拠資料に基づく当該裁判所の具体的な判断内容として確定する限度で生ずるにすぎないものであり、刑訴法四三五条六号の明白性の判断は前記のとおり総合的なものであるところ、個々の証拠の持つ意味、証拠価値も、従前の証拠資料の中で持つそれが、その後に発見された証拠をも加えた全証拠資料の中で判断してみると変化してくることも当然あるわけで、再審制度の本旨からみてその変化を再審手続に素直に反映させることを妨げる合理的理由は見いだし難いし、同法四四七条二項の立法趣旨も同一理由により裁判所の判断を重ねさせる無駄と弊害を禁ずるだけのことと考えられるからである。

したがつて、当裁判所は、本審理に当たり、当審で取調べた新証拠その他の証拠、確定判決の審理過程で取調べられた既存の全証拠と共に、一次再審の過程で取調べられた証拠をも判断の資料に供し、その全体を総合して検討するものである。

第六当裁判所の判断

一  序

本件請求者が刑訴法四三五条六号の新証拠として提出した各証拠が新規性を備えていることは、検察官も争わず、当裁判所も肯認できるので、以下無罪を言渡すべき明らかな証拠か否かにつき考察する。

確定判決が、梅田の有罪を認定するのに援用した証拠のうち、梅田をその犯行の実行者と結付ける証拠は、検察官に対する三通の供述調書と、検察官作成の昭和二七年一〇月八日付け検証調書中の梅田の指示説明部分を合わせた梅田自白と証人又は被告人としての羽賀供述のほかには存在せず、したがつて、梅田自白の任意性又は真実性そして羽賀供述の信用性が新証拠によつて動揺すれば、確定判決の有罪認定もまた動揺する構造になつていることは、既に第二において詳論したとおりである。

そして、請求者の主張は、原審一の審理の冒頭から本請求まで一貫して「冤罪」であるという点にあり、かつ、本請求で新証拠として提出されているものはすべて直接には梅田自白の真実性と羽賀供述の信用性に関するものである。そこで、当裁判所は、請求者の任意性に関する主張の中心が警察官による拷問によつて強制された自白であるというにあつて、証拠上も、この種の争点によく見られるごとく水掛論的色彩を帯びていること、真実性に疑問があるか否かということが任意性判断の有力な根拠となること、梅田自白の真実性が動揺するならば、その任意性を論ずるまでもなく再審を開始しなければならない可能性が生ずること等を考慮して、まず、梅田自白の真実性を、次いで羽賀供述の信用性を検討することとし、最後に梅田自白の任意性等に付言することとする。

二  梅田自白の真実性

1  新証拠と梅田自白の真実性

(一) 大山の頭部陥没骨折を生ぜしめた打撃

(1) 確定判決の認定事実とその証拠

この点については、既に第一と第二において判示したとおりであるが、なお、その重要性に鑑みてまとめておく。

イ 確定判決の認定事実

梅田が大山の頭部を所携のバツトで殴打した点に関し、確定判決は、「その時、前記大山の左側を歩いていたが、透きをみて右足を後方に引き、同人の背後から、隠し持つた前記野球用バツトを取出すとともに、振るつて同人の右側頭部を強打し(た)。」

と認定している。

ロ 証拠

右事実認定に供された証拠及びその内容は、次のとおりである。

a 梅田の第三回検調七項及び検察官作成の昭和二七年一〇月八日付け検証調書中の指示説明部分を総合した梅田自白の該当部分は、大略「羽賀から示された畑と林との境付近にさしかかつた。その際、大山は道路の右側の方を、自分は大山の左側でしかも道路の中央よりやや右寄りの辺りを並んで歩いて来た。その地点にさしかかつたとき、自分は、突然右足を一歩後方外側に引くと同時に上衣の左側の内側に隠していた野球用のバツト(同検調五項には、バツトの太い方を下にして持つたところ、バツトの細い部分の末端は、自分の左肩まできていたことになつている。)の太い方の部分を右手に握つて上衣の中から抜出し、次に両手でそのバツトの細い方の部分を握つて振りかぶりざまその太い方の部分で大山の頭の後ろの方を殴りつけた。大山は、『ウウン』とうなつて、歩いている方に向かつて右側後ろの道路端に倒れた。足の方は道路に出ていたが、上半身は道路の右側に生えている草むらの方に入つていた。斜め後ろに、仰向けに近い姿勢で倒れた。顔は大山自身から見て右側の方に少し曲げていた。身体を少し動かし『ウウン』『ウウン』とうなつていた。相当大きなうなり声だつた。しかし、ことばとしては何も言わなかつた。」

となつている。

b 三宅鑑定書

該当損傷についての記載の要旨は、

「右頭頂骨を中心とし、右側頭蓋骨前頭骨より頭頂骨後縁にわたる複雑陥没骨折(別紙第五図のBの骨欠損部とcの骨外板欠損部を結び、前方は前頭骨、後方は右乳様部に至る幅約一六センチメートル、高さ約一〇センチメートルの複雑陥没骨折)がある。前上方と下方の所は、右頭頂骨とこれに隣接する頭蓋骨とが解離している。矢状縫合延長線上の前頭骨に、頭頂縁より始まり、右前下方にそれる弧状の割線(同図K線)がある。その弧の中心部(同図A部分)すなわち右頭頂骨前上方より前頭骨頭頂縁にかけて、淡い暗赤色の出血斑と思われる相当程度の斑点がある。これらの陥没骨折は、骨折の状態やその他の状況から考えて、他の創傷の副産物としてできたものとは思われない。また、これらの骨折が打撲によつてできたものとすれば、その大脳に対する機械的破壊力の影響と刺戟によつてシヨツクを受けることが考えられ、生命を奪うのに十分であると推考する。

この骨折を生じさせた凶器としては、刃のない、相当幅のある棍棒様の鈍器と推考する。」

というにある。

c 渡辺鑑定書

(i) 該当部分の要旨は、

「頭骨に頭頂部から右側頭部全体にかけて大骨折がある。右側頭骨は約一〇センチメートル―一〇センチメートルにわたつて欠損している(別紙第六図<ロ><ハ>の斜線部分)。一〇・五センチメートル―四センチメートル及び三・五センチメートル―七センチメートルの二大骨片が残存しているが、おおむね右欠損部に相当する。右欠損部の頭頂側及び後頭側に、ほぼ円形の骨折線があつて、右欠損部を囲んでいる。欠損部の前端は、右眼窩直後一・五センチメートルの所から始まり、約二センチメートル上方に向かつてから半月状に後方に転回してほぼ六センチメートル水平状に後方に向かつてから急に直角に上方に向かつて縫合と合し、縫合離開を含めて約七センチメートル左方に向かい、更に後ろ左に転じて、四センチメートル―七センチメートルの遊離骨片を抱いて後方に下がり、縫合にまで至る骨折線に続く。これは、円状に前方に転回して耳(右)孔後方三センチメートルの所で、右側縫合に合して、右眼窩後方に向かつている。骨折線の最大径は、左右に一五センチメートル、上下に一六センチメートルである。しかしながら、これだけの骨折があつても、頭蓋底には全く異常は認められない。死後の変化も強いが、これらの骨折線を検査すると血液浸潤の見られる所が多く、生前の傷であることはほぼ明らかである。これらの創傷を生ぜしめた推定凶器の種類は、作用面の形状は不明であるが、作用面が大きく、極かたい相当重量のある鈍器と考えられる。」

である。

(ii) 三宅鑑定書には推定凶器の用法についての記載がないが、渡辺鑑定書には

「骨折線が上方ないし後方に囲うようにしかつ上方骨折縁に外板が内板より以上に欠損している部分があるところから、相当重い作用面の大きなかたい凶器による打撃が、被害者の右側頭部すなわち右耳孔の上方一〇センチメートル程の所に、被害者の右前下方から後方かつ上方に向かう方向に強烈に加えられたものと考えられる。」

との記載がある。

d 渡辺医師の原一審第六回公判証書

被害者が右利きの加害者より一歩程前に出た位置関係に両者が立つて、凶器を野球用バツトの握り部を切取つた約六〇センチメートル位のものと仮定した場合、そのバツトの作用面が渡辺鑑定書に記載している方向に動いて被害者の右側頭部に衝突することは可能であるし、また、その打撲によつて同鑑定書記載のような傷ができると思うと述べるほか、次のような供述をしている。

(中村弁護人)―検第二八号野球用バツト模造品を示し―これと同じようなものが凶器に使われた

ようになつているが、加害者が被害者の一歩後方から殴つた場合、鑑定書に記載したような傷ができる可能性はあるか。

(答) お示しのバツト模造品の重さと堅さがあれば可能性はあります。

(問) 加害者が被害者の左側を平行して歩いている場合、加害者が一歩真つすぐ後方に右足を引いただけで殴りうるか。

(答) ただ今示された条件で殴りうるかもしれんが、被害者が相変わらず同じ方向に歩いていれば鑑定書に記載したような骨折をおこさせることには大分無理と思います。

(問) そのような場合本件のような傷ができないと断定できるか。

(答) できないとは断定できませんが、加害者が強力無双な手の長い男であればできる可能性はありますが、普通の人とか普通の力では本件のような傷はできないと思います。

(橋本検察官) 二人並んで歩いておつて加害者が真つすぐ後方に一歩後退した場合はそのようになるかもしれんが、加害者が斜め右後方に一歩引いただけの条件ではどうか。

(答) そのような場合は鑑定書に記載してあるような傷ができます。

(裁判官) 骨折は力の作用するどの方向に向かつてできるものか。

(答) 本件の場合でいうと直接力の加わつた部分は陥没し、同所から放射状に走つていた方向が力の加わつた方向を示しているのです。それが頭頂部に及んでいたのです。

(問) 本件の場合陥没していた箇所はどこか。

(答) 右側頭部のやや前方のいわゆる耳の上あたりのところです。

(問) 骨折だけから考えると被害者の頭部の真上からの作用による骨折とは考えられないか。

(答) 考えられません。

(2) 新証拠と請求理由

請求書は、三宅供述録取書、船尾打撃等鑑定書、当審における証人三宅宏一、同渡辺孚及び同船尾忠孝の各証言共、こぞつて、梅田の頭部打撃の際、「大山が顔を右の方に向けた」という前提に立たない限り、梅田自白による大山の頭部打撃の態様と、大山頭蓋骨の陥没骨折等の損傷とは合致しないとしており、しかも、その前提事実は証拠上認めることができないと主張し、検察官は、三宅、船尾両名の所見を攻撃しているが、その主張の要点は、梅田自白の打撃態様も、動的に考察すれば、右の前提事実は認められるという点にあると思われる。

(3) 考察

前記(1)に示した各証拠と確定判決の認定事実をよく対比してみれば、確定判決は、梅田が大山の頭部をバツトで打撃した態様については基本的に梅田自白に真実性を認めてこれに依拠しながら、その裏付証拠中、大山の対応創傷の部位、程度及び推定凶器については三宅鑑定書と渡辺鑑定書、原一、二審での各渡辺孚証言(いわゆる「渡辺原鑑定」である。)を、そして、凶器の用法については三宅鑑定書には直接その記述がないので渡辺原鑑定をそれぞれその最も重要な柱とし、凶器の用法につき梅田自白と渡辺原鑑定が抵触するかに見える打撃の命中部位とその打撃の力の方向については、渡辺原鑑定の方を採用しているものと考えられる。すなわち、凶器の用法につき、梅田自白は、大山の頭の後ろの方を振りかぶりざまに殴つたとしているのに対し、渡辺原鑑定は、頭蓋骨に加えられた打撃が大山の右側頭部を右前下方から後方かつ上方に向かう強打であるとし、確定判決は振るつて右側頭部を強打と認定しているのである。

このように、右の打撃の命中部位とその打撃の力の方向についての確定判決の認定事実は、梅田自白のその部分を渡辺原鑑定のそれで置換えた形の認定になつているのであるから、この点についての渡辺原鑑定の証拠価値に変動が起きると、右認定は即変更なり再検討なりを迫られる構造になつているわけである。

イ 渡辺原鑑定の証拠価値の喪失

渡辺原鑑定をした渡辺孚を証人として当裁判所において取調べたところ、同証人は、自ら、渡辺原鑑定は大山が頭部打撃を受けてできた頭蓋骨の骨折状態とは異なる状態を前提にして、それとは知らずに鑑定したものであり、三宅医師が解剖を開始する際見分したときの状態を前提にするなら鑑定所見を変更しなければならない旨証言した。

三宅医師が解剖を開始する際見分したときの骨折状態とは、三宅、渡辺各当審証言及び両名の各鑑定書を総合すれば、別紙第五図のとおり、各骨折線及び縫合離開が存し、<イ><ロ>の骨部分がm骨折線を谷底として陥没骨折していたというものである。これに対し、渡辺孚が鑑定時見分した時の同頭蓋骨は、<イ>部分の骨はそこにあつたが、<ロ><ハ>の部分は骨欠損の状態(穴があいて頭蓋内が見える状態)になつていて、<ロ><ハ>の部分の二大骨片とB部分の骨内板が別の場所に遊離して残存していたものである。このために渡辺原鑑定は、右側頭部に位置する<ロ><ハ>の欠損部のほぼ中央であつて<ロ>と<ハ>の部分に相当する各骨片の接線たるn骨折線上に、作用面の広い、相当重量のある鈍器が強く作用し、しかも、その部位から見れば骨折線はほぼ後方かつ上方に走つているものと見て、その方向にその鈍器の力が働いたものであり、このことは、脳底に全く異常が認められないことからも裏付けられると判断したわけである。

右鑑定所見は、渡辺医師が目撃した骨折状況を前提にするかぎり、合理性が認められるところではある。

しかしながら、<ロ><ハ>部分の骨欠損が大山を死に致らしめた攻撃によつて生じたものでないことは明らかとなつた。すなわち、前掲各証拠に不提出記録中の司法警察員作成の昭和二七年一〇月二日付け(不―八)及び検察官作成の同月二一日付け(不―三六)各鑑定嘱託書、三宅宏一作成の変死者検案書(不―三)、司法警察員作成の同月二日付け検視調書(不―四)、大山治助作成の領収書(不―一五)、検察官作成の同月一三日付け検証調書(不―二五)、写真集(不―三七)並びに原一審記録中の司法警察員作成の同月一日付け実見(確一の一―一二一八)を総合すれば、昭和二七年一〇月一日羽賀の自供に基づいて発掘された大山の死体は、その後北見赤十字病院の三宅宏一医師による鑑定のため同病院に運ばれたこと、同医師は翌二日午前九時ころから同所で右死体を検案し、一時間半から二時間位の時間をかけて同死体の解剖、検査を行つたこと、その際同死体の頭部骨折の状況は別紙第五図のとおりの骨折線及び縫合離開が存し、<イ>部分と<ロ>部分の接線たるm骨折線を谷底として陥没骨折していたほか、Bの骨欠損部、B′とCの骨外板欠損部のほかに骨欠損部分は全く存しなかつたこと、同医師は頭蓋内検査のため、通常ならば鋸等で頭蓋骨周囲を切るところ、大きな陥没骨折で、すぐはずれそうな<イ><ロ>部分があつたために、その二つの骨片を手で「グワグワツ」と動かしてはずし、そこに開いた穴から頭蓋内をのぞいて頭蓋内の検査をしたこと、はずした右<イ><ロ>の骨片は、元の位置に戻すことなく、同死体付近に置いたまま鑑定のための解剖及び検査を終了したこと、同死体は即日警察から大山の父治助に引渡され、その後北見市内の高台墓地の土中に埋葬されたこと、同月一三日、大山治助及び同サト立会のもと、同所で同死体は掘出され、穴澤定志検事によつて同死体の検証がなされて再び同所に埋葬されたこと、三宅医師の鑑定書ができあがる同月二四日の以前である同月二一日橋本友明検事は、当時北海道大学法医学教室の助教授をしていた渡辺孚に右死体と絞頸縄等につき鑑定を委嘱し、同鑑定人は同日高台墓地に赴き、既に土中から掘出されていた同死体を検査したこと、その際頭蓋骨の状態は前記のように<ロ><ハ>部分が骨欠損の状態になつていたこと、同鑑定人は既に三宅医師が同死体につき鑑定をしていることを知らされておらず、したがつて同医師が鑑定のために<イ><ロ>の骨片を取りはずしたことも、その後何者かによつて<イ>の部分が元の位置に戻され、<ハ>の部分がはずされたことも全く知らされず、これらのことを知らないままその状態を前提に鑑定したこと、当裁判所が三宅医師を証人として取調べたところ、三宅医師が<イ><ロ>の各骨片を取りはずした事情が判明し、引続く渡辺孚証人の取調べを行うに当たり、その尋問の準備のため釧路地方検察庁網走支部検察官が同証人のいわゆるテストに際し、右一連の事情を同証人に知らせたが、そのときまで同証人は鑑定の前提事実が異なつていたことを知らなかつたことが認められる。

以上の事実は、確定判決をなした裁判所も一次再審につき審理決定をなした裁判所も知らなかつた新事実であり、これによれば、渡辺原鑑定は、バツト様凶器で打撲した状況を示す創傷、推定凶器及びその用法に関する限り、証拠価値を失つたものと言わざるを得ない。したがつてまた、これを梅田自白の右部分の重要な裏付証拠とし、殊に、打撃の命中部位と力の方向については、梅田自白を排斥し、渡辺原鑑定によつて「振るつて右側頭部を強打した」との事実認定をなした確定判決もその限りでは、そのより所を喪失することとなつた。

それでは、大山の頭蓋骨に加えられた打撃の命中部位とその打撃の力の方向につき、今や確定判決のように、渡辺原鑑定をより所にして「振るつて右側頭部を強打した。」と認定することができなくなつたとしても、翻つて、この点につき確定判決によつて排斥された梅田自白に依拠することは可能なのであろうか。これに対する答えも、結局は、その点に関する梅田自白が証拠によつて認定される客観的事実と一致するか否か、言い替えれば、この点の梅田自白が真実と認められるか否かによつて決せられるものである。そこで、以下、右の点について検討を加えることとする。

ロ 梅田自白の打撃態様と大山頭蓋骨骨折状況との整合性

梅田自白の打撃態様は、(1)ロaに示したとおりである。そして、打撃を受けて生じた頭蓋損傷の状況を最も忠実に示していると思われるのは前記鑑定の経緯からも明らかなように三宅鑑定書であり、三宅新供述である。したがつて、以下、別紙第五図を使用しながら考察を進める。三宅医師も、また三宅鑑定書に示されている骨折状態を前提とした場合の打撃態様について意見を述べた渡辺医師も、共に、当審において、大山頭蓋の後方に支点を置いてバツトが上方から下方に振下ろされ同頭蓋に衝突して該骨折が生じたとする点で共通の見解を述べた。

なお、船尾打撃等鑑定書及び船尾証言も、右の点に関する限り、ほぼ同旨の見解を示しているかのようであるが、当裁判所は、同医師の鑑定経験に由来する一般的経験則に関する所見については参考に供するものの、本件の大山の頭部に加えられた打撃状況に関する同医師の所見については、その所見の前提事実である大山の頭蓋骨の骨折状況について誤つた事実認識の上に立つている疑いがあるものとしてこれを採用しないこととする。

すなわち、まず、その鑑定書について言えば、第一に、同医師が大山頭蓋骨の骨折状況に最も適合する打撃態様として撮影した同鑑定書添付の付写真26から窺われるように、凶器の先端は、頭部と接触せず、凶器の相当中ほどの所が、X線(以下別紙第五図参照)付近に、水平方向から少なくとも四五度以上の角度をもつて衝突していることや、同付写真25によれば縫合離開が何ら描かれておらず、しかもm、n線が冠状縫合線できちつととどまつておらず、少しではあるが、同縫合線を突破して前頭骨にまで及んでいる図がモデル実験に供した頭蓋骨模型に描かれていることからすれば、m線を谷底として<イ><ロ><ホ>部分のみが陥没しており、しかもm線と冠状縫合の接する辺りが最も深く陥没していて、<ニ>部分は何ら陥没していないこと、l線と矢状縫合の接する点から前方の矢状縫合部分及び冠状縫合のうち、矢状縫合と冠状縫合の接点からn線と冠状縫合との接点までの部分がいずれも離解していた事実が十分考慮に入れられていなかつた疑いがあること、第二に、同付写真25では、三宅鑑定書に比較して、n線が鱗状(側頭)縫合線に相当近く描かれており、l線とn線との間隔を相当広く認識していたのではないかとの疑い(この認識では、バツトの打撃線が右方向にずれるおそれがある。)があるのである。

したがつてまた、当審において、証人として証言したところも、基本的に右と同じ事実誤認を前提にしているのではないかとの疑いを拭い去ることができないし、その誤認が十分正されたうえでの所見が述べられているものとは認めがたい。そのためか、凶器が頭部に衝突した際の相互の衝突部位とその角度につき、証言の後半部分では、鑑定書と同様、右頭頂部・右後頭部移行部付近に、頭頂面をほぼ水平と見た場合に、これに対して六〇度位の角度で衝突したものであり、したがつて、頭部と最初に接触した凶器の部分は、先端部ではなく、相当中ほどに寄つた辺りを示し、その力の作用方向は前頭部の方へ向かつている旨述べているのに対し、証言の前半では、凶器の命中した頭蓋骨部分の図示を求められて、<イ><ロ>部分の外周を全部含み、後方は<ニ>部分の方にまで及んでいるような広い面を描いており、証言の前後で矛盾しているのではないかとの疑いを抱かせる結果となつているのである。

したがつて当裁判所は、以下に、この点に関する船尾医師の見解を除外して考察することとする。

さて、三宅当審証言によれば、m骨折線を谷底にして<イ>及び<ロ>の部分が陥没していたというのであるから、バツト様鈍器はm骨折線上に命中したものと考えるのが合理的である。しかも同証言によれば、<ホ>部分の前方骨折線(K線)は、弧を描いており、<イ><ロ>部と接する部分の冠状縫合が離開し、しかもm線と冠状縫合が接する辺りに向かつて傾斜して陥凹していたといい、またm線の陥没状況も冠状縫合に近い前の方が一番深く陥没していたというのであるから、m線と冠状縫合の接点にそう遠くない辺りにそのバツト様の鈍器の先端部が命中したものと考えるのが合理的である。m線は、頭蓋を左右に分ける正中線をなす矢状縫合に対して、後ろに行くほど同縫合線から一層同頭蓋の右の方向に離れて行くという角度を持つたほぼ直線をなしている。したがつて、直線状の長さをもつバツト様鈍器の運動支点は同頭蓋に対して右後ろの方向にあつたことになる。すなわち、この凶器の一端を手に握つて大山の頭部へ振下ろしたものであるならば、その犯人の同凶器を握つた手の部分は大山の頭部の右後ろの方向(m線の延長線上)になければならないわけである。ところが梅田自白では、大山の左側に並んで歩き、同人の透きを見てとつさに右足を一歩右斜め後ろ外側に引いて殴つたことになつていて、大山がこれに気付かずそのままの態勢で殴られたようにも読める供述になつている。若し、そうであるならば、梅田は大山の左斜め後ろに位置することになるので、梅田自白の打撃態様と大山頭蓋骨の陥没骨折の状況とが適合しないこととなり、この点は当審で取調べた三宅、渡辺両名が一致して認めているところであり、そして若し、打撃に際して「大山が顔を右に向けた。」との前提事実があれば適合する可能性があることもまた一致して認めているところである。この二つの結論そのものを覆すような反対証拠は見当たらない。

そこで、梅田自白による打撃の態様と大山の死体の頭蓋骨の骨折状況との整合性を決定するポイントは、証拠上、打撃に際して「大山が顔を右に向けた」事実が認められるか否かにあることになるわけであるが、梅田自白を含め本件全証拠を精査するも、梅田の打撃に際して大山が顔を右に向けたことを示す直接の証拠はなく、また、間接証拠も見いだすことはできない。

なお、これまでの審理において、打撃に際して「大山が顔を右に向けた」か否かを意識させるようになつた経過をたどつてみると、原一審における検察官の論告(確一の一―二四二七)の中で、「殴打の瞬間被害者が(何かの気配を感じ)やや後方を振向き同時に首を左方に傾けその状態において斜め右上方からバツトの打撃が加えられたとすれば……」と指摘されたのがその初めであり、証拠中では、原二審第二回公判における渡辺孚の証人尋問の最後に(確二―二八二四)、検察官が「加害者が被害者の左を並んで歩いていて加害者が一歩さがつて打つ場合に被害者が気配を感じて頭を右にねじつた時に打つてできた傷とは考えられないか。」と質問し、証人が「種々の場合が考えられますが、その中の一つとして考えることは可能と思います。」と答えた所に初めて顔を出し、かつこれ以外にはない。すなわち、証拠中では、右に見たように、梅田自白の打撃態様と大山頭部創傷とを矛盾なく理解するため検察官が考え出した一つの論理的可能性ある仮定条件につき、右証人が種々の場合のうちの一つとしてその可能性があるとの鑑定所見を述べたに過ぎないやりとりがあるだけであつて、これによつて梅田打撃時大山が顔を右に向けた事実が証明されているわけではない。梅田打撃時、仮に、大山が顔を右へ向けたとするならば、その場合には梅田自白の打撃態様と大山頭蓋骨創傷とが適合するという論理的可能性が肯認されているだけのことである。

したがつて、当裁判所は、証拠上右事実を認めることができないから、結局、梅田自白中の打撃態様に関する部分は、大山の死体の頭蓋骨の骨折状況と整合せず、その骨折状況と整合しない梅田の右自白部分はその真実性に疑いがあると結論せざるを得ない。

しかしながら、検察官は「加害者と被害者の身体の動静を動的に把握すれば、打撃状況に関する梅田自白と大山の頭蓋骨骨折の状況とは整合する。」という趣旨の主張をしているので、以下この主張について検討する。

検察官の右主張の意味するところは必ずしも明確ではないが、仮に、それが、梅田自白以外の証拠中に右事実を認めるべき直接証拠も間接証拠もなく、梅田自白中にも右事実についての直接の記述がないとしても、およそ、加害者が、被害者の左側に並んで連れ立つて歩いている時に、とつさに右足を一歩後ろへ引いて上衣の左内側に隠し持つていたバツトを短かく切つた凶器を取出して、振りかぶつて被害者の後頭部を殴打する場合には、経験則上被害者は右の加害者の動作を察して顔を右に向ける蓋然性が高いものであるから、前者の事実がある場合には他に証拠を要せず後者の事実を認めるべきであるという事実認定についての経験則を主張するものであるならば、それは到底容認することのできない誤つた経験則の主張であると言うほかはない。なぜならば、被害者の左に並んで歩いていて、とつさに右足を一歩右斜め後ろ外側に引いてバツトで被害者を殴ろうとする場合、加害者と被害者の動静を経験則に従い動的に把握するにしても、その態度は千差万別であろう。原一審の論告や原二審の渡辺孚証人に対する検察官の尋問では「被害者が何らか気配を感じて頭を右にねじつた(論告ではやや後方を振向き同時に首を左方に傾けたとなつている。)」ことを想定し、当審における検察官の意見書では「とつさに危難回避の動作に出て、その頭部の位置が変わり、場合によつては同人が右を向くという可能性が十分にあつた」としているが、経験則から推し量るものである限り、気配を感じることなく、そのままの姿勢で打撃を受けた可能性、気配を感じて気配の原因を確認すべく左を向いた可能性(この時打撃すれば傷との不適合性は著しくなる。)、加害行為を察知して回避行動に出るにしても、右を向かず、そのまま前方へ逃げようとする可能性、かえつて左を向いて加害者の手なり凶器なりを押えに出る可能性、加害者を突飛ばして逃げる可能性、制止しようとしてもみあいになり、かなわずして加害者にねじふせられて頭部を殴打された可能性等々様々な可能性を推し量ることができよう。そのうちから特に右を向いた可能性を選んで他の可能性を合理的疑いを残さずに否定させるものは何か。やはりそれを選ばせる証拠の存在しかありえないことになろう。

検察官が、危難回避の動作に出る可能性の論拠として挙げている補助事実は、被害者が富山旅館を出る時義兄から「金を持つて夜出歩くのだから気をつけた方が良い。他人の前を歩いてはいけない。」などの注意を受けていたこと、月明りがほとんどなく、周囲は暗く、灯火をともした人家も遠い街はずれのさびしい道に導かれて行つたことなどであるが、右補助事実は右の数ある可能性の一つを特定するに足るものではなく、他に大山が右を向いた可能性を選ばせるに足る証拠は存しない。むしろ、検察官作成の昭和二七年一〇月八日付け検証調書添付の写真には、梅田の説明に基づいて、打撃のため右足を斜め右後ろに一歩引いた時の加害者と被害者の位置関係と打撃直後被害者が倒れた時の加害者、被害者の位置及び状況を実演した写真が添付されているところ、被害者が何らかの理由で顔を右に動かしたような状況は全然示されていないこと、梅田自白中、バツトを取出して両手に握つて大山の頭の後ろの方を殴りつけたというように大山の頭の後ろをねらつてそのとおりそこを打撃した趣旨の記載になつていること、自白では、打撃直後、大山は右斜め後ろの方に仰向けに近い姿勢で倒れたことになつており、その写真として右の検証調書添付の実演写真があるわけであるが、その写真の示す状況は右を向いたところを打撃されてそのような倒れ方をした状況とは合致せず、大山が前を向いたまま打撃されて右のような倒れ方をした場合の方に合致すること等を考慮すると、梅田自白では、大山は加害者の加害行為に気付かないまま打撃された内容になつていると考えるのが合理的である。検察官は意見書において、前記補助事実として示したような四囲の状況からして、梅田が被害者を殴打する際、同人の動作・態度を十分認識できなかつたとしても不自然ではないこと及び梅田自白が犯行後約二年を経過した時点になされたことを理由に、梅田自白中に、打撃時大山が右を向いたことについての記載がないことが自白の真実性を損うものではない旨主張しているが、前者については、前記のとおり、大山の動作を認識していなかつたとは言えないような記載(頭の後ろをねらつてそこに命中させた)になつているし、後者については二年経過後の自白といつても自白の内容は極めて詳細であつて、時の経過によつて記憶があいまいになつたとか過誤が生じたなどと言えないほどのものを持つていることなどから、少なくとも、現にそういう事実がありながらそのような理由で記載がおちている可能性よりも、そういう事実がなかつたからそういう記載がない可能性の方がより強いものと考えざるをえない。したがつて、「打撃に際して大山が顔を右に向けた」との前提事実は、梅田自白を含め本件全証拠によるもついにこれを認めることはできないと言わざるを得ない。

また、若し、検察官の前記「動的把握」云々の主張が、検察官としては、梅田自白の打撃態様と大山の頭蓋骨損傷とが整合するかどうかに関し整合する可能性を立証しさえすればその立証責任を果たしたことになり、その蓋然性まで立証しなくとも、裁判所はこれを整合するものと認めるべきである旨を主張するものであるならば、これまた当裁判所の是認できない主張である。すなわち、当然のことであるが、罪体事実について立証責任は検察官に負わされている。とは言つても、事実の証明は証拠の総合評価によるわけであるから、およそあらゆる細かな争点毎にすべて直接証拠を提出しなければならないものではないことはもちろんである。

しかしながら、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に即してこの問題を扱うよう義務づけられていることからすれば、自白と現にあつた傷と適合する可能性があるかが検察官の負わされている証明主題なのではなく、合理的な疑いを残さずに不適合の可能性を否定できるかを主題としなければならないことは言うまでもない。他に明らかに被告人を犯行に結付ける強力な証拠が多々あつて、ほんの一部についてだけ証拠が齟齬しているように見えるなどという場合には、むしろ統一的に理解するための論理的可能性が、単に可能性にとどまらず、その他の強力な証拠の影響を受けて蓋然性を帯びてくるということはあるにしても、本件ではそのような決定的証拠はなく、自白の全面にわたつて真実性が問われているうえ、右の適合性の論点は、末節の小さな一問題ではなく、犯行の実行行為の中枢に関する問題なのであるから、右に示したような証明主題として考えることは、決して、殊更些末な問題について検察官に対し過酷な立証責任を負わせることにはならないものと考えられる。この観点からするならば、まずは前記のような原一、二審における渡辺孚証言によつて合理的な疑いを残さずに自白と傷との不適合な可能性が否定しうるほどに立証されているか疑問が残るうえ、証拠によつて証明されていない「大山が顔を右に向けた」との事実を、梅田自白と大山頭部創傷とを矛盾なく理解するための論理的可能性ある一場合として導き出し、これを今度は梅田自白と大山頭部創傷とは矛盾しないかどうかという問の答えにあてはめて、右前提事実からすれば矛盾しないとするのは「問に対して答えるのに問をもつてする」誤りを犯すことになるのではなかろうか。

以上検討したところから明らかなように、検察官が主張する「動的把握」云々の主張が、経験則についての主張と解しても、また立証責任に関する主張と解しても、いずれも理由がないと言わざるを得ない。

これまでに考察したところから、前記の新証拠は、梅田自白の打撃態様と大山頭蓋骨骨折の状況とは整合しないのではないかという疑いに合理的根拠を与え、確定判決の審理において提出されていたならば、この点につき確定判決がしている事実認定に到達しえたかについて合理的疑問を生じさせたものと考えられる。

(二) 刺傷様骨欠損と脳損傷の成因

(1) 確定判決の認定事実とその証拠

イ 確定判決の認定事実

梅田が大山の頭部を所携のナイフで突刺した点に関し、確定判決は、

「同人が昏倒するや、ナイフを出してその頭部を突刺し(た)。」

と認定している。

ロ 証拠

右事実認定に供した証拠及びその内容は次のとおりである。

a 梅田の第三回検調では、前記(一)(1)ロaに示した内容に続き、

「大山がこの様にして倒れると、私はすぐ、ポケツトから、用意してきた前述ナイフ(第三回検調の二項と五項によれば、梅田が高等小学校当時買つた七徳ナイフで、刃の長さが二寸五分位、刃の幅が五分位、刃の厚さが一分位、柄は茶色鉄板製で、長さが三寸位、幅が一寸位のものであつて、犯行直前柴川木工場の所で家から用意してきた布きれをその柄に二巻きちよつとして上衣の左ポケツトに入れておいたもの)を取出し、腰を低くして右膝をつき、大山の頭を目がけて突刺しました。ナイフを右逆手に握つて『グサツ』と突刺したのです。刃の方を内側にしてそのナイフの柄を右逆手に握つていたように思いますが、はつきりしたことは分かりません。大山の頭を目がけて突刺したのですが、そのどこに突刺さつたか夢中だつたのではつきりしません。そのナイフの刃の部分は全部大山の頭に突刺さつたのは覚えています。そのナイフを握つている右手の小指側の部分が大山の頭に『ガシツ』とぶつかつたのです。上から下に真つすぐそのナイフを突下ろした様に思います。私がこのようにしてナイフで大山の頭を突刺した位置は大山の頭の方にいてやつたのです。『グサツ』と一回だけ突刺してからすぐナイフを引抜き、その場所から付近の沢の木の生えている方に向つて力いつぱいナイフを投捨てました。このようにナイフを使いましたが、私自身はどこにも怪我はしませんでした。」

となつている。

b 三宅鑑定書

同鑑定書によれば、

「頭頂骨の中央より少し右側に長径約二センチメートル、短径約一・五センチメートルのほぼ菱形状の骨欠損(別紙第五図B部分)がある。これにより約二センチメートル下方に長径約一・五センチメートル、短径約〇・七センチメートルの骨外板欠損(同図C部分)がある。」とされ、頭蓋内腔につき、「大脳は沈下萎縮し、脳膜は希薄な青色を呈して腐敗変色し、右大脳頭頂葉後ろの右頭蓋骨骨欠損部にほぼ一致する部分に深さ約二・五センチメートル、長径一・八センチメートル、短径〇・五センチメートルの刺創がある。この創傷部の脳膜には出血の跡がある。この刺創の付近に頭蓋骨骨内板欠損部にほぼ一致する骨内板骨片がある。」との記載があり、そして、説明の第五項複雑陥没骨折に関する推考に続き「右頭頂骨後方にある表面の外板欠損二等辺三角形(前同図のBとB′をあわせたもの)なる菱形骨欠損(B部分)(内板は外板とほぼ直角に前上方部が離脱して頭蓋内に落下し、大脳右頭頂葉内に挿入されてあつた)が前記複雑陥没骨折の副産物的損創としてできたものか否かは不明であるが、この骨欠損が比較的他の骨折線と孤立していること及びその骨欠損部の内板が遊離して大脳外面にあつたこと、すなわち、内板が右脳内に挿入されたような状態にあつたこと等を考慮すると独立した他の創傷と考えられないことはない。この創傷の大脳に対する影響は前記のように長さ一・八センチメートル、深さ約二・五センチメートルの刺創を大脳に与え、機械的破壊による障碍及びシヨツクの招来と考えられるが、直ちに生命を断つ程のものかは疑問である。この骨欠損を生じさせた凶器を、骨欠損部の型から推定することは困難であるが、少なくとも、その凶器のうち、骨表面にとどまつた部分の幅は一・五センチメートル以下である。大脳にあつた前記損傷が、骨内板の挿入によつてできたものか又は凶器の直接の侵襲によるものであるかは不明である。またその傷の深さは、その脳が既に脳軟化を起こし、大脳が下方に沈下していること等から実際の長さは測定値より長いと推考する。前記骨欠損(B部分)より二センチメートル下方にある小さな骨外板欠損(C部分)は、他に同じような欠損部がないことやその欠損部(C部分)の型から推考して、前記の骨欠損(B部分)と同じ凶器により、同じ方法で弱くつけられた痕跡とも考えられるが、また陥没骨折の副産物としてできたものと考えられないことはない。」

と結んでいる。

c 渡辺鑑定書

三センチメートル―一センチメートルの小骨片があつたことと大骨折を生じさせた凶器の作用方向についての推考の一つの根拠として「上方骨折縁に外板が内板より以上に欠損している部分がある」との記載があるほか三宅鑑定書の前記のような記載に対応する記載はない。なお、渡辺当審証言によれば気が付かなかつた由である。また脳についての記載が全くないことから、鑑定の際見分した大山の頭蓋内に脳はなかつたものと思われると証言している。

(2) 新証拠と請求理由

請求者は、<1>主として船尾打撃等鑑定書及び船尾当審証言によつて骨欠損部B、外板欠損部B′及びCはいずれもX、y骨折線と共に、<イ><ロ>部分の陥没骨折に随伴してできたものと考えるのが最も合理的であり、そうすると、ナイフで頭を刺したとする梅田自白は真実に反するし、また、<2>独立創傷としても、三宅新供述によれば、その成傷凶器はナイフのような刃の薄い、軽量のものではなく、ピツケル様のものでなければならないとされているのだから、やはり梅田自白は真実でないことになるし、<3>仮にナイフとしても、傷の深さや部位が梅田自白とは適合していないことになり、いずれの点からしてもこの部分の梅田自白が真実性を有しないことは明白であるとする。

これに対して検察官は、船尾医師の随伴成傷説は、三宅鑑定書の、B骨欠損と統一的に理解されるべき大脳の生前傷たる刺創の存在を無視するもので証拠価値がなく、また、三宅新供述の、ナイフでなくピツケル様のものという点も、渡辺当審証言の、二叉に走る骨折線を橋架ける格好でナイフがその骨部分に対して垂直に刺されば、B骨欠損を生じさせることは可能とする説を採用すべきことを主張し、傷の深さの点は三宅鑑定書に実際は測定値より長いと思われる旨の記載があるし、傷の部位の点は、ナイフによる刺突時大山が頭を動かしていた可能性があるうえ、梅田が興奮にかられて刺突部位を正確に認識しえなかつた可能性が多分にあることを主張して反論している。

(3) 考察

イ 菱形状骨欠損は独立創傷か随伴創傷か

当裁判所は、大山頭蓋骨の骨折状況に三宅、渡辺両名の見解を勘案しながら検討したところ、新旧の全証拠上、B骨欠損部は<イ><ロ>部分の複雑陥没骨折を成傷した棍棒様鈍器による打撃に随伴して生じた可能性を合理的な疑いを残さないほどに否定し去ることはできないとの結論を得た。このことは、再審要件に即して言えば、大山頭蓋骨にはナイフによる刺突の痕跡がなく、したがつて、大山の頭部をナイフで突刺したとする梅田自白は真実に反するのではないかという合理的な疑いを否定し去ることができないことを意味している。以下、右両名の見解を検討しながらその理由を示し、船尾医師の見解について一言する。

a 三宅医師の見解について

三宅鑑定書は、B骨欠損部及びB′骨外板欠損部が、陥没骨折の副産物的損創としてできたか否かは不明であるとして、その可能性が相当にあることを認めるような表現を用いながらも、この骨欠損が比較的他の骨折線と孤立していること、B骨欠損部の内板がほぼそのままの形状で遊離し、右骨欠損部にほぼ対応する大脳内に一部挿入されたような状態であつたこと等を根拠に独立創傷と考えられないことはないとして、結局は独立創傷の可能性の方がより強いと考え、後者の結論に傾いている。そして、三宅新供述では、陥没骨折の骨折線l、m、nがすべてX線の所でとどまり、突抜けていないことを根拠として付け加えている。

なお、三宅新供述では、<イ><ロ>の陥没部もAに近い前方が最も深く陥没していたことや右頭頂骨と前頭骨の接ぎ目に血腫痕があること等を根拠に、その血腫痕の辺りに凶器が最も強く当たつたこと、打撃の当たつた部分は頭のてつぺんより前であり、そこから後ろの方はこの場合は当たらなかつたとし、当たつた所は出血して血腫ができ、当たらなかつた所は血腫ができなかつたものであり、したがつて、l、m、nの骨折線は、時間的に見れば、当たつた所にまずでき、その衝撃で後ろの方まで骨折線が走つて行つてできたこと及びバツトを握つた加害者の肩より、大山の頭部が下の方にある位置関係で、加害者がバツトを上から下へ振下ろし、バツトの先端部がA付近の血腫痕の辺りに衝突した旨の見解が付加されている。

そして、この見解に、三宅証人が当審法廷で頭蓋骨模型を使用して打撃状況を実演したところ(当審昭和五六年一〇月二三日取調べ調書添付の写真4の1から3参照)等を総合すると、右三宅新供述には、前頭部寄りの血腫痕のある辺りに相当する頭部にだけ凶器が接触し、そこより後ろの方の、X線まで達するl、m、nの骨折線部分は、右接触部に加えられた衝撃力の伝導によつて走つた骨折線であるとの認識に立つならば、右の打撃によつて、凶器の作用面が頭部に接触していないX線の付近に、右l、m、n線とほぼ直角の角度をなすX骨折線ができるはずがなく、したがつてまた、l、m、n線がいずれもX線の所でとどまる必然性も理解できないが、それにもかかわらず、X骨折線が現に存在し、l、m、n線がX線でとどまつているのであるから、まずもつてX線が他の成因によつて生成され、その後にl、m、n線が走つて来て、既に生成されているX線でとどまつたものと考える方が合理的なのではないかという推論の過程をもつているように思われる。

三宅医師は、三名のうちで大山殺害時に最も近い時点で、しかも埋没されていた状況に最も近い状態で、大山の死体を直接に解剖・見分し、その認識に従つて意見を組立てている点でも、その認識から所見を組立てる推論過程に、理解し難い不自然な飛躍などが見られない点でも、信頼に値する誠実な見解を提供しているものと認められる。随伴創傷の可能性も認めながら、なお、独立創傷の結論に傾く論拠として示すものもそれなりに合理性があり傾聴に値する。

しかしながら、当裁判所は、三宅医師が挙げる独立創傷説に傾く論拠に対して以下のような疑問を拭い去ることができない。

(i) まず、B骨欠損部が、<イ><ロ>の陥没部から比較的孤立しているとの見解についてであるが、なるほどB骨欠損部自体は<イ><ロ>部と接線も接点もなく、わずかにB′骨外板欠損部をも加えるとb1点が接点となつているだけであるから、その意味では、B骨欠損部は<イ><ロ>陥没骨折部からは比較的孤立していると言うことができる。しかしながら、B骨欠損部は、<ニ>骨部の外周であるy骨折線のb2からb3部分を<ニ>骨部と共有し、<ニ>骨部とはそれを境に隣接していて孤立していない。そして、<ニ>部は<イ><ロ>陥没部とX線を境にして隣接しており、同陥没部から孤立していない。孤立しているか否かという関係で言えば、B骨欠損部は<ニ>部から孤立していないので、<ニ>部の生成に随伴して生成される可能性があり、<ニ>部は<イ><ロ>部から孤立していないので、<イ><ロ>部の生成に随伴して生成される可能性がある。したがつてまた、<イ><ロ>部を生成した打撃が、更に、C骨外板欠損部を含む<ニ>部(その外周であるX線、y線)、B骨欠損部及びB′骨外板欠損部を生成する可能性もあることになる。この意味では、直ちに、B骨欠損部が<イ><ロ>部から孤立していると断定しうるかは疑問である。

(ii) 次に、バツトの先端部がA血腫痕付近に衝突したが、その後ろの方はバツトと頭部とは接触しなかつたとの見解については、まず、三宅鑑定書に記載されている推定凶器に関する推論と新供述では若干の見解の相違が生じているのではないかという疑問がある。

三宅鑑定書では、陥没骨折の形状から、凶器を、刃のない、相当幅のある棍棒様の鈍器と推定しており、三宅医師自身、当審において、右の「棍棒様の」という表現は、その幅が均一であるという意味までは含んではいないが、棍棒のような長さを持つているという意味は含まれているとし、また、鑑定時、その陥没骨折の形状を見たとたん、バツトによる打撃の形状だと思いながらも、バツトにとらわれず鑑定しようとしたが、やはりバツトによるものと考えざるを得なかつた旨証言している。

このように、陥没骨折の形状を根拠に、凶器を、相当幅があり、棍棒のような長さを持つているという意味で棍棒様の鈍器と推定するためには、この陥没骨折の形状が、その凶器の作用面の形状に規定されて形成されたものであるという認識が前提になければならないであろうし、三宅医師も鑑定時は右認識を当然の前提としていたはずである。そして相当幅のある、かつ、棍棒のような長さを持つた鈍器の作用面の形状が陥没骨折の形状を規定するということは、取りも直さず、その凶器の、ある程度の広さを持つ作用面が頭部に接触し、その接触によつて凶器の作用面の形状と相似形状の骨折形状が頭蓋骨の方に形成されたということであろう。

ところが、当審における「バツトの前端の方は頭部に当たつたが、後ろの方は当たらなかつた。」趣旨の前記見解は、後ろの方が当たらなかつたとする点で、鑑定時に立つていたと思われる、棍棒のような長さを持つた幅のある凶器の、ある程度の広さを持つ作用面が頭部に接触したとの右認識と異なつてきているのではないかという疑問が生じるのである。

右の疑問のほか、三宅証人は、<イ><ロ>部分の陥没骨折の最前部の方が最も深く陥没していたことを一つの根拠として、同骨折部の後ろの方は、凶器と頭部が接触しなかつたのではないかとの考え方に傾いていつたように思われるが、凶器がバツトとすると、加害者がバツトの一端を握つて上から下に振下ろして打撃を加える場合、バツトは、加害者の肩か肘辺りを支点とする円運動をして被害者の頭に衝突することになり、支点に近い握り部より、支点から遠い先端の方が、より強い力で頭部に衝突することになるうえ、羽賀第六回検調(確一の一―一三七一)添付第四図によれば、凶器として使用されたバツトを細工したものは握り部から先端の方に行くほど太くなつていたものであつたことになつており、このバツトが、大山の頭部に打当てられたとき、仮にバツトの中心軸が大山の頭部の衝突面に対してほぼ平行になつていたとしても、バツトの先端が当たつた方の部分が最も陥没することとなるはずである。したがつて、陥没骨折の前の方が最も深く陥没しているということ自体は、陥没の浅い後ろの方が凶器と接触していないと見る根拠とはなし得ないのではないかと考えられる。

次に、l、m、n線のA血腫痕付近だけ凶器の作用面が頭部と接触したが、後ろの方は接触せず、衝撃力の伝播によつて自走して骨折線ができたものとすると、l、m、n骨折線のX線の方に近い、凶器と接触しなかつた部分がこのようにほぼ平行線を形成するものかも疑問となる。X線の方向に進むに従つて、骨部分の強弱などに影響され、もつと複雑な骨折線を描くことになるのではないだろうか。ところが、事実は、l、m、n線は、前の方と変わりなく、後ろの方もほぼ平行に走つている。そして、<イ><ロ>部分はそれぞれm線を谷底とするほぼ矩形の形状となつている。このことは、やはり、この矩形状の陥没骨折の形状全体が凶器の作用面に規定されて形成されたものと見るべきことを根拠付けているのではなかろうか。

また、前の方のA血腫痕付近だけ凶器と頭部が接触したが、後ろの方は接触しなかつたと見る理由の一つとして、「接触したか否かと頭蓋骨外板面に見られる血腫痕の有無」とを対応させて見ている点についても、凶器と頭部との接触によつて強い力を受けた所に血腫痕が残つたと見ることまで否定する合理的理由は認められないにしても、頭部頭蓋骨面に血腫痕の見られない陥没部分については、凶器と頭部が接触していないとまで言い切れるものか、疑問である。

(iii) 更に、B骨欠損部への凶器刺突によつてX骨折線ができたとする見解であるが、三宅医師がピツケル様凶器が侵入した跡と指摘する骨欠損部を仔細に観察すると、それは、決して二等辺三角形(b1・b3・b4・b1で囲まれるBとB′を合せたもの)ではなく、菱形(b2・b3・b4・b5・b2で囲まれるB部分のみ)と考えるべきものなのである。侵入した凶器の断面周囲線は、前者ではなく、後者の周囲線内に納まるものでなければならない。さもなければ、B′部分の残存内板も落ちていなければならないからである。三宅医師は、凶器が刺突したことによつて、その周囲に骨折線が走る場合には、凶器断面の外周の角の部分、したがつて、その凶器が侵入することによつて欠損させた骨欠損部の外周の角の部分から直接、その骨欠損部をほぼ中心位置にして放射状に骨折線ができるのが通常であるのに、大山頭蓋骨では、凶器刺突による骨欠損部と見られるB部から、X線、y線共に右側頭部の方向にのみ長く走つている実情の説明として、B部へ侵入した凶器が傾いて<ニ>部分の骨を下から上へ浮き上がらせる力が働き、そのために、そのような骨折線の方向となつたとも考えられるとしている。すなわち、X線はそのようにして形成されたものと推定しているわけである。

しかしながら、前記のとおり、侵入した凶器が<ニ>骨部分と接しているのは、b1からb3ではなくせいぜいb2からb3の範囲だけである。したがつて、b2からb1の間の骨折線は、凶器の壁面で直接穿孔されてできたものではなく、凶器壁面で穿孔されてできたB骨欠損部の外周の一角であるb2から放射状に走つてできた骨折線であることになる。b5からb1の骨折線も同様である。そして、b1点は、その凶器の壁面から遠く離れ、b2からb1へ及びb5からb1へそれぞれ走つて行つた骨折線の交差した点であるにすぎないことになる。このような性格のb1点から、特にb2―b1線に対しては、ほぼ九〇度の角度をなすX骨折線が、一方は矢状縫合の方向に、他方は右側頭骨の方まで、しかもこれらが一本の線となつて走るものか疑問とせざるを得ない。

また、三宅医師の右見解では、同医師がl、m、n線はなぜX線で止まつているかを疑問としていると同様、b3―b1線及びb4―b1線がなぜX線でとどまつているのかが疑問となるほか、b1点からBの外の方に向けて放射状の骨折線が形成される蓋然性が高いものと思われるのに、それがないのはなぜかも疑問となる。

以上、指摘した疑問に合理的説明がなされない限り、B骨欠損部は、<イ><ロ>陥没骨折部に加えらた打撃によつて、同陥没骨折に随伴して生成したものと見る考え方を否定し去ることはできないものとせざるを得ない。しかも、前記のとおり、三宅医師自身、B骨欠損は<イ><ロ>陥没骨折に随伴して生成した可能性も認めているところである。これによれば、梅田自白中の、頭部をナイフで突刺したという部分は、大山頭蓋骨の創傷状況と符合しない疑いを残すこととなる。

b 渡辺医師の見解について

渡辺医師は、当審において、B骨欠損部の生成に関し、「大山頭蓋骨の陥没骨折は、バツトによる一回の打撃によつて生じたものと考えられるが、右打撃によつてB骨欠損部辺りに骨折線や亀裂が生じたことは十分考えられるところであり、そのような骨折線や亀裂が存在した場合にはナイフの侵襲は可能であつて、その際、骨外板と骨内板とが分離することもあり得る。」旨述べ、あたかも、いわゆる独立創傷説を採るようであるが、同見解は、三宅供述録取書によつて初めて明らかにされた「陥没骨折部の内、離開した冠状縫合に近い方が最も深く陥没していた。」という事実を正しく認識し、それを踏まえたうえでB骨欠損部付近の骨折線の生成を考慮したものであるか疑わしい点と、B骨欠損部の成因に関し、X、y線及びb1―b4線はいずれも陥没骨折に付随して生じたとしながら、b3―b4線は、y線とb1―b4線を橋架ける形でナイフが突刺さつたもので、その結果Bの骨欠損とB′の骨外板欠損ができたとする点において当裁判所の是認できないものがある。

特に後者について言えば、渡辺鑑定書では、前提事実が異なつていた関係もあつて、凶器を鈍器とし、それの作用した力の方向を後方かつ上方と推定する根拠の一つに、上方骨折縁に外板が内板より以上に欠損している部分があることを挙げていた、すなわちB及びB′の三角部分は鈍器の力の副産物としてできたものであると見ていたにもかかわらず、渡辺当審証言では、単に副産物ではないとするだけではなく、最終的にナイフによる刺突によつてできたというところまで見解を変えているものであり、その変化が生じた理由につき、合理的なものとして理解できるものは示されていない。恐らく、その部位に対応する脳の部分にナイフによると思われる刺傷があつたことを聞かされて(前記のように、渡辺医師の鑑定時は頭蓋内に既に脳はなかつたようで、このことは全く知らぬ所であつた。)、その点につき、果たしてナイフによるものか、自ら十分に吟味する機会をもたないまま、その事実は動かし難い確かなものとの前提のもとに、このような成因についての考え方を打出したものではないかと思われる。

この考え方は、三宅鑑定書によると、b3―b4の長さが約一・五センチメートルで、梅田自白の七徳ナイフの幅とピタリと一致しているわけであるが、それだけに既にできていたb1―b3線とb1―b4線の間に、正に寸分たがわず納まつていることになつて、誠に稀有な偶然が起きたとの感を免れないこと、右の考え方によればb3―b4線はナイフの突入により、その壁面によつて形成された骨折線ということになるが、それならばほぼ直線状をなすべきであるのに、実際は、緩やかではあるが、逆S字形の曲線となつていること、ナイフによる穿孔創で骨外板と骨内板が分離するということは通常ありえないところと思われるのに、ここでは、B′部分については骨内板が残つて骨外板はそれから分かれてなくなつており、B部分については、分かれた骨内板は頭蓋腔内にほぼそのままの形状を保つて落込み残存していたが、骨外板はなくなつていること、そして当審証言において、弁護人から、ナイフで刺して骨外板と骨内板が分かれることがあるかとの問に、骨折線が既にあるようなところを刺した場合にはそういう状態が起こりうる旨答えながら、すぐ再度念を押されると、そういう場合もあるかもしれないが、よく分からないと答え、更によく分かりませんかとの問に、はい、と答えて、自らの最初の証言の証拠価値を否定する証言をしていること等を考えると、渡辺当審証言のB骨欠損部の成因についての考え方は到底採用することができない。

c 船尾証人の見解について

次に、船尾打撃等鑑定書及び船尾証言であるが、前述のとおり、そもそも、陥没骨折を生ぜしめた打撃態様を判断する前提事実を正しく認識していなかつた疑いがあるので、同骨折との随伴関係の判断もまたその影響を受けている疑いがあり、その誤認が正されない限り、同医師の見解をそのまま採用することは到底できないものと言わざるを得ない。

以上の検討のとおり、当裁判所は、B骨欠損部は、B′骨外板欠損部とともに<イ><ロ>陥没骨折部に加えられた打撃により、右骨折に随伴して形成されたものとの見解を合理的な疑いを残さない程度に否定することはできないものとの結論を得た。そうだとすれば、大山の頭部に加えられた攻撃の中には、ナイフ刺突がなかつた疑いが存在することになり、梅田自白の、ナイフで大山の頭部を突刺したという部分はその意味で真実に反する疑いが残ることになる。

三宅鑑定書もまた、大脳損傷につき、「骨内板の挿入によつてできたものか、また凶器の直接の侵襲によるかは不明である。」とし、B及びB′の成因につき、「独立せる他の創傷と考えられないことはない。」という表現と共に「前記骨折の副産物的損創として起こつたかどうかは不明である。」として、両者共陥没骨折に随伴し、その成傷打撃によつて副産物として生成した可能性をはつきりと認める記載になつていたのである。

ロ 仮に独立創傷とした場合、凶器は何か

前述のように、渡辺当審証言がナイフの可能性があるとするほか、船尾当審証言は、独立創傷である可能性はほとんどないと見ることもあつて、凶器は不明とし、三宅新供述はピツケル様のものとしているわけである。渡辺当審証言がナイフの可能性ありとする論拠が定かでなく、その前提事実がどれだけしつかりと吟味されたものであるのか疑わしいほか、通常、到底ありえようはずがないほどの極めてまれな偶然に依拠せざるを得ない結果となるなどの点から採用し得ないことは前述した。

これに対し、三宅医師は、そもそもバツト様凶器は先端の方がA付近を強く打撃したが、X線に近い方の後半は頭部に接触していないとの認識から始まつて、したがつて、l、m、n線をすべて遮断し、しかも、それらにほぼ九〇度の角度で交わるX線ができる機縁をその打撃は持つていないのに現にできているのはなぜか、そして、X線を境にその陥没骨折と反対側に、しかもその陥没骨折の骨折線l、m、nとつながりを持たない別の所に起点と終点を持つy骨折線も存在し、B部分はこれと接しているのはなぜか、B及びB′部分はy骨折線やX骨折線とは接線、接点を有し、つながりを持つているが、A斑点部分はもとより、l、m、n線とは直接には何のつながりも有していない、すなわち比較的孤立しているのではないか、そしてB部分は骨欠損になつており、しかも外板と内板が分かれて内板がほぼそのままの形状で頭蓋腔内に、しかも脳の刺傷と思われる中に挿入されたかのように落込んでいたのはなぜか、分かれた外板が見付からなくなつていたのはなぜか、これに隣接するB′部分は、やはり外板と内板が分離し、内板だけそこに残り、やはり外板は見付からなくなつていたのはなぜか、という当然生ずべき疑問に統一的、有機的に答えられる結論として、しかも、随伴創傷の可能性が多分にあつて明確にそれを否定できるわけでもないことを率直に示しながら、B骨欠損部の形状に適合し、その部分の外板と内板を分け、外板を吹飛ばし、内板をそのままの形で骨折させて押込めるような刺突凶器で、しかも、その刺突によつてB′部の外板も吹飛ばし、X、y骨折線をも形成させうるような重量を持つた凶器としてピツケル様のものという結論を採りたいとしているのである。仮に独立創傷と考えるならば、これまでに示されているもののうち、十分考え抜かれ、合理性を持つた結論として三宅医師の結論を支持せざるを得ないことはもはや多言を要すまい。

そうすると、梅田自白のナイフで刺したとする点はやはり真実に反することとなるわけである。

ハ 仮に独立創傷、しかも、ナイフによるものとしても、創傷部位が合わない

前記(二)(1)ロaに示した梅田自白のナイフによる刺突態様は、前記(一)(1)ロaの頭部打撃とこれによる大山の昏倒にすぐ引続いてなされたものである。この梅田自白で見る限りでは、大山が仰向けに近い姿勢で顔を右側の方へ少し曲げて倒れている所へ、梅田がナイフを逆手に上から下へ真つすぐ下ろして突いたと読めるため、刺傷は顔面及び前頭部の左半部あるいは左側頭部付近になければならないこととなるわけである。ところが、B骨欠損部は、頭部右半部(矢状縫合の右側、右頭頂部から右後頭部への移行部付近)にある。一致しないと主張される由縁である。

検察官は、ここでまた、前記の頭部打撃の際、大山が頭を右に向けた可能性についての動的考察と同類の主張をしている。すなわち、梅田自白の中に、「どこに突刺さつたのか夢中だつたのではつきりとしません。」とあるように、このような犯行を行つている犯人の心理状態として転倒後の被害者の行動を冷静に見詰めるだけのゆとりがなく、かつ、「身体を少し動かし『ウウン』『ウウン』とうなつていた。」、「頸を絞めたら、……大山の身体も動かなくなりました。」という梅田自白や、「頸動脈を包丁で切られ即死状態にあつた被害者が五寸釘を頭に打込まれた直後起き上がつて歩き出した事例もあり、死亡によつて直ちに行動能力を失うものではなく、梅田の自白しているように被害者がバツトで頭部を殴打されて昏倒後『ウウン』うなつている状態にあつたとすれば、その時点では被害者が体や首を持上げる行動能力のあつた可能性は十分あり、そのような状況下にあつては本件のような刺創を与えることも可能である。」旨の渡辺当審証言のように、バツトで殴打されても被害者は相当の行動能力を持つているものであり、したがつて、梅田が供述している以上に大山が転倒後動いていた可能性があるというのである。

これについては、頭部打撃についての動的考察なるものについて批判したところがほぼそのままあてはまる。検察官の立証命題は、自白の刺突態様と傷の一致の可能性ではなく、両者の不一致の可能性の合理的な疑いを容れない程度の否定である。梅田が逆手に握つたナイフを上から下へ真つすぐ突下ろした際、斜め後ろに仰向けに近い姿勢で、顔を大山自身から見て右側の方へ少し曲げていた大山が、右頭部・右後頭移行部が真上になるように動かしたことを証明する直接の証拠はないばかりでなく、それを間接的にも窺わせるに足るだけのものは存しない。検察官の援用する渡辺当審証言は一般的可能性を指摘するにとどまるものであり、その挙げる事例も五寸釘を打込むという特別事情が介在してのものであつて、そういう事情の認められない本件に適切でなく、『ウンウン』うなつている一事からそういう被害者は体や首を持上げている蓋然性が高いのだということまで意味しているものであるならば、鑑定意見としては軽率のそしりを免れまい。

また、大山が、前記のように、仰向けに倒れているとした場合には、B骨欠損部のある右頭頂・右後頭移行部が真上になるようにするためには、単に頭を持上げただけでは足らず、少なくとも上体を起こさなければならないし、逆にうつぶせの状態からであれば、頭を持上げただけで右部位が真上になるが、梅田自白では、打撃した際、大山が仰向けに倒れたこと自体は明確に供述されているのであるから、うつぶせ状態になるためには、仰向けからうつぶせへ一八〇度体を動かさねばならないことになる。前者のように、大山が仰向けの状態から上体を起こしたとすれば、梅田が膝を付いて、倒れている大山の頭を刺したとする自白とかけ離れることになるし、後者のように、仰向けからうつぶせになつたのだとすれば、これまた、仰向けに倒れている大山の頭をねらつたとする自白とはほど遠い事実を推認させなければならないことになる。

検察官の右主張の中には、やはり、梅田自白の刺突態様と三宅鑑定書に明らかにされている刺傷様創傷部位とを統一的に総合考慮しようとすれば、大山のそういう動きを考えねばならないし、それを考慮に入れれば、統一的に矛盾なく理解しうるという論理操作が含まれているように思われる。これが、問に答えるのに問をもつて答えるとの誤りであることは既に指摘したところである。

梅田自白の刺突態様と大山頭蓋骨のB骨欠損部の部位が適合しないのではないかとの疑いは合理性を持つこととなり、前記新証拠が確定判決の審理中に現れていたならば、前記事実認定に達しえなかつたのではないかと考えられる。

(三) まとめ

以上、新証拠である、三宅新供述、船尾打撃等鑑定書、渡辺、船尾各当審証言を、原一、二審の取調べた該当証拠、当審で取寄せた不提出記録中の証拠及び頭蓋骨模型等を総合検討した結果、梅田自白中、犯罪事実の中枢をなす実行行為、特に殺害行為のうち、バツトによる頭部打撃とナイフによる頭部刺突という二つの行為につき、前記のような合理的疑いを生じさせた。右の新証拠が確定判決の審理に現れていたならば、右の点の実行行為の事実認定を現にしたようになしえたか疑問が生ずることとなつた。

しかしながら、実行行為の一部に関する自白が証拠から導きだされる客観的事実と一部相違しているとしても、なお、全体として梅田自白がその真実性を有するものとするならば、右の相違あるいは「何らかの理由による不一致」とされ、梅田有罪は覆らないとの考え方もあり得るわけであるので、そこで当裁判所としては、進んで自白内容全体の真実性についても検討を加えることとする。

2 梅田自白全体の真実性を再検討した結果浮かび上がる問題点

(一) 検討対象

検討対象は、梅田自白全体であるが、具体的には確定判決の証拠の標目に掲げられている梅田の第一回ないし第三回検調三通と同意証拠として犯行態様の認定に重要な役割を果たしているものと考えられる検察官作成の昭和二七年一〇月八日付け検証調書中の梅田の指示説明部分に限られる。これらを、確定判決の審理で取調べられた証拠だけでなく、一次再審の過程で取調べられた証拠及び新証拠はもとより当審で取調べた証拠を総合した全証拠に照らして再検討しなければならない。

(二) 検討視点

最高裁判所(第一小法廷)昭和五七年一月二八日判決(昭和五五年(あ)第六七七号)は、被告人の自白の信用性を検討するのに、自白中に「秘密の暴露」(あらかじめ捜査官の知り得なかつた事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたもの)があるか、自白に客観的証拠の裏付けがあるか、犯行の真犯人であれば容易に説明することができ、また、言及するのが当然と思われるような証拠上明白な事実についての説明が欠落していないかどうか、自白中に、不自然・不合理で常識上にわかに首肯し難い点が数多く認められるかどうか、という視点を用いた。当裁判所もこれを参考としたうえ、なお本件の特殊性に鑑み、証拠上明らかに客観的事実と思われる事実に反する内容が含まれているか、を独立の一視点とし、他に共犯者が存在し、共犯者供述が最も重要な補強証拠となつている点から、梅田自白と共犯者たる羽賀供述との間に真実性を疑わせることになるような食い違いがないかどうかという視点をも付加え、更に梅田自白自体に不可解な変遷がないかどうか、との視点も独立して設けたうえ、順次検討したところ、以下のような問題点を指摘せざるを得ないこととなつた。

(三) 検討結果

(1) 客観的事実に反していると認められる供述部分

梅田自白中、大山の頭部に対するバツトによる打撃態様とナイフによる刺突に関する部分が客観的事実に反する疑いが濃くなつたことは既に詳述したが、そのほか以下のとおり客観的事実に反する供述部分が認められる。

<1> 青年会館裏の薪

梅田第三回検調では、大略「犯行日の二日前に、羽賀から、大山殺害に使うバツトを青年会館裏の縁の下に隠しておくと言われていたので、犯行当日である昭和二五年一〇月一〇日、柴川木工場で大山と落合う直前の午後六時半頃、青年会館へ行き、その裏側の縁の下付近の地面を手探りで捜したところ、青年会館の裏側、すなわち仁頃市街寄りの方に薪が積んであり(上の方は板壁にくつつき、下の方は板壁と二、三寸位開いていた)、その下部の方に手を突つ込んだところ、丸い棒の様なものが手に触つたので引出してみると野球用のバツトであつた。」となつているが、当時この青年会館を管理していた高台東部青年団団長太田三郎は、同人の巡調(確一の一―五二〇)及び原二審の昭和三〇年九月二三日証言(確二―二七七八)において、当時青年会館の裏側には薪は積んでいなかつたと供述しており、薪を積んでなかつた事実は、原二審判決も確認していたものである。

<2> 絞頸縄の巻き数

梅田第三回検調(確一の一―一六三一)では「麻縄を取出して大山の頸に巻付け二巻きして力一杯『ギユツ』とこの麻縄を絞めて両端を大山の右頸のところで一度交錯させてから、その縄の、大山から見て左側のものを右交錯箇所で既に頸に巻付けた縄の下に差込みました。」となつていて、絞頸縄は二巻きしたこととなつているが、三宅鑑定書及び原二審三宅証言によれば、大山の死体の頸に巻付いていた縄は三巻きであり、この点は原二審判決によつても梅田自白が客観的事実に反していることが確認されている。

<3> 梅田の犯行時着用ズボンに血痕付着がなかつた。

梅田第三回検調一〇項(確一の一―一六三九)では、大山殺害の翌朝「起きてから昨夜はいていたズボンを見たところ、そのズボンの前の腿のところに点々と上から垂れたような血がついていました。ちようど筆の先から墨を垂らした様な形に血がついていたのです。左側の方が右側よりも余計に血がついておりました。私はびつくりしてそのズボンを早速馬小屋の傍にある池へ行つて洗いました。洗濯石鹸を使つて洗つたのです。血はすぐ落ちました。ズボン以外の衣類には血がついておりませんでした。」となつている。しかしながら、一次再審において新証拠として提出された、梅田が本件犯行時着用していたとされる上衣とズボン及びこれにつき血痕付着の有無を鑑定した船尾血痕鑑定書によれば、双方とも血痕付着の事実がなかつたことが確認され、再一、二審決定もそのことは認めている。ただし、右各決定は、右衣服の押収の経緯や梅田の員調、検調に、右衣服を直接示されて犯行時着用のものと特定したことの窺われない事実を併せ考えると右衣服が直ちに梅田が検察官に対し本件犯行時着用していた旨述べていた衣服と同一衣服と断ずるにはいささか疑問の余地もないではないとしているが、それに続く判示において同一の場合と同一でない場合の双方を論じていることからすると、少なくとも同一の場合の可能性を証拠上から合理的な疑いを残さない程に否定することができないとの判断があつたように思われる。

なお、右の押収の経緯につき、前記第三の三1(二)のとおり、梅田が北見市警察署の取調べで、ズボンに大山の血液が付着していたので洗い落とした旨の自白をしたので、直ちに梅田方に赴き、数ある梅田の衣服のうちから自白にかかる犯行当時着用衣服等の特徴等を手掛かりにこれと符合する衣服であると判断して押収したうえ、血痕付着の有無につき鑑定を試みたものの血痕付着の証明が得られなかつたので、原審裁判所にその取調べ請求をしないまま第一審判決確定後に至るまで保管していたものであることが窺われるとしている。

不提出記録中、梅田房吉作成の昭和二七年一〇月四日付け提出書(不―二〇〇)、司法巡査阿部正一作成の同日付け領置調書(甲)(不―二〇一)、司法巡査阿部正一及び同横道春雄共同作成の同日付け「証拠品の領置について」と題する書面(不―一九九)及び司法巡査小野寺松四郎作成の同年一二月六日付け「証拠品の鑑定について」と題する書面(不―一三)によれば、梅田が犯行を自白し、ズボンに大山の血が付いていたので洗い落としたことを供述した日の翌日に当たる昭和二七年一〇月四日、梅田の自供に基づき、阿部、横道両巡査が梅田宅に赴き、梅田の実父房吉が、北見市警察署長宛に、梅田が使つていたことがある物で、今回捕まつたことに関係あると言つているそうだからとして、濃茶色鳥打帽子一個、薄ねずみ色上衣一枚及び薄ねずみ色ズボンのほどき布四枚の三点を任意提出し、阿部巡査においてその領置調書を作成し、後に右三点について、血痕付着の有無につき、国家地方警察北見方面隊鑑識課に鑑識依頼がなされ、その回答として血液の反応は認められない旨の口頭回答があつたことの報告がなされている。この上衣と一次再審で提出された上衣の異同を明らかにする証拠は見当たらない。また右の四枚のズボンのほどき布地と一次再審で提出されたズボンとは、それ自体の形状が異なることからすると別物のように思われるが、前者の還付関係や後者の押収関係など、その異同を明らかにする証拠が見当たらないので、これまた判然としない。いずれにしても血痕付着が証明されないとの結論が出されていることになる。

(2) 他の証拠から明白な事実であつて真犯人なら容易に説明ができ、また言及するのが当然と思われる事実について、説明・言及がない。

<1> 肩胛骨骨折の成因

大山の死体にこの骨折があつたことは渡辺鑑定書に明らかにされている。すなわち、「左肩胛骨には、ほぼ中央に一・五センチメートル―一・八センチメートルの矩形の骨折があり、その周囲に出血がある(別紙第七図参照)。これも生前の傷である。この骨折を生ぜしめた推定凶器も頭部大骨折を生ぜしめたそれ(作用面の形状は不明だが、作用面の大きな、極かたい、相当重量のある鈍器)と同様の鈍器によると考えられる。」

これによれば、犯人がバツト様鈍器で頭部と左肩胛骨の所の二箇所に打撃を与えたことになり、梅田自白では左肩胛骨の部位に対する打撃についての記載は一切存しないから、その真実性を疑わしめることとなる。

ところが、その後の渡辺医師のこの骨折の成因についての供述内容は明らかに変化してきている。しかし、同医師自身は、当審証言において、見解の変化を認めていないかのようであり、そのためになぜそのように変化したのかが十分明らかになつていない。まず、原一審第六回公判における証言の該当部分は次のとおりである。

(中村弁護人)大山死体の左肩胛骨に傷があつて、その傷は頭部の傷と同じ様な鈍器によるものだと

鑑定書に記載してあるが、この傷はどの様なものでできた傷か。

(答)鈍器に衝突してできた傷であります。また、体の方が鈍器にぶつかつてもできる傷です。

(問)被害者が転んだ場合にこの様な傷はできないか。

(答)普通の転び方ではできません。

(問)被害者が頭部をたたかれて倒れた場合この様な傷ができるか。

(答)被害者が被害者自身の体の重みで倒れた場合はこのような傷はできません。

(問)加害者が被害者を引きずつて行つた場合はどうか。

(答)引きずり方にもいろいろありますが、岩石のない、ごく平たんな所を引きずつた位では本件のような傷はできません。

(問)仮に草の上を引きずつて行く際、立木にぶつかつた場合はどうか。

(答)平らな所を引つ張つて行つて立木にさわつた場合でもできません。

(裁判長)左肩胛骨の傷は前に示したようなバツトでできる可能性はあるのか。

(答)あります。

渡辺鑑定書では、頭部の大骨折の成傷原因の記載の仕方と左肩胛骨のそれとを対比すれば明らかなように、後者についても鈍器が運動をしていつて当該部位に衝突し、当該創傷を生ぜしめた記載になつていた。ところが、右証言では、左肩胛骨の成因に関し、体の方が鈍器にぶつかつてもできる可能性が開かれている。渡辺鑑定書では、頭部創傷も左肩胛骨創傷も共にその成因が同種凶器による同様のでき方であるように記載されているわけであるから、右証言が、頭部創傷についても同様に、体の方が鈍器にぶつかつてもできる可能性があることを意味しているのか疑問を生じざるを得ない。しかし、同鑑定書では、その可能性は薄いとして排斥していたのではなかろうか。すなわち、同鑑定書の鑑定主文(第六章)三死因、自他殺の別の欄に、「右側頭部打撃による脳挫創が死因で、他殺であろう。過失死の場合も考えられるが、身体の他の部分にほとんど損傷が認められないからその可能性は薄い。」としているからである。

右の過失死とは墜落死とか交通事故死等を含むであろうが、これを否定する根拠が「身体の他の部分にほとんど損傷が認められないから」というにある以上、頭部創傷について、頭の方が動いて行つて鈍器に衝突した可能性が薄いだけでなく、肩胛骨骨折についても、体の方が動いて行つて鈍器に衝突した可能性も薄いことになるのではなかろうか。右証言によれば、どちらが動いて行つたかはともかくとして相当の衝撃が加わらないとその部位にそのような骨折は生じないとしているからである。若し、頭部骨折と左肩胛骨骨折とでこの点の可能性の度合いが違うものとして証言している趣旨ならば、両者で可能性の度合いが異なると認識するについて相応の合理的根拠が示されなければなるまい。そのような根拠は示されていない。

左肩胛骨骨折の成因に関する渡辺医師の供述内容は、当審証言において、一層渡辺鑑定書の記載内容から離れてきている。離れた内容は三つに要約できる。一つは、鑑定書では、頭部骨折と共に単に「生前の傷」としていたところ、当審証言では、左肩胛骨に関する質問に対し、その「生前」の意味は、死亡前の傷と同じ徴候、生活反応が現れうる程度の死後極短時間をも含むものと証言していることであり、二つめは、その成傷器につき、鑑定書では、前記のとおり、頭部骨折を生ぜしめた作用面の形状は不明だが、作用面の大きな、極かたい、相当重量のある鈍器と同様の鈍器としていたところ、当審証言では、角のあるものとし、更に「相当重量のある」としていた点について、凶器の方が運動して衝突した場合には、相当重量のあるものであろうが、体の方が運動して行つて、例えば木の枝を切つた切り口のようなところに衝突した場合は、また別の考え方もできるかもしれないとする点である。原一審での証言時には、バツトでできる可能性があることを端的に認めていたが、当審証言でのように角のあるものとすると当然バツトのような角のないものは否定されることになろう。

三つめは、成傷器と体とどのように衝突した可能性が最も高いかという点に関してである。鑑定書では、相当重量のある鈍器としていたところから、成傷器の方が運動して衝突した場合だけを考えていたことが窺える。原一審証言時は、体の方が動いて行つて成傷器と衝突した可能性を切開いたものの、その逆の場合とどちらの可能性がより高いかについては言及していなかつた。当審証言中、当初裁判長の質問に対し、どちらの可能性が高いかは分らない旨答えた。しかし、すぐ引続く質問で、大山が立つていたところへ成傷器が運動して衝突した可能性に対しては、はつきりその可能性が小さいとして否定的証言をした。根拠は、肩胛骨という部位の特徴と骨折状況とである。この部分までの証言によれば、立つている所を犯人が凶器で打撃した可能性だけ否定されたが、他の三つの場合、すなわち、立つている被害者の体が動いて行つて角のある成傷器に衝突した可能性(例えば、立つて犯人と向かい合つている被害者が犯人に強い力で突き飛ばされたところ、背後に立木の枝の切り口があつた場合)、倒れた被害者の体に対し、成傷器が動いて行つて衝突した場合(例えば、倒れた被害者の左肩胛骨の部位に対し、犯人が角のある相当重量のある鈍器で打撃した場合など)、倒れた被害者の体が動いて成傷器に衝突した場合(例えば、倒れた被害者の体を強く振り回す、あるいは崖から落とすなどして木の切り口や角のある石に衝突したような場合)についてはどの可能性がどの程度強いのかいまだ定かでないはずである。

ところが、その後のこの点に関する同人の証言は、最後の場合だけが述べられ、他の二つの場合は問題とされていない節が見受けられる。これが、若し、前二者の可能性より最後の可能性が最も高いのだという渡辺医師の判断があつて、そのような証言になつているのであれば、当初の裁判長の質問に対する答えの時からも既に証言内容が変化していることになろうし、それなりの合理的根拠が示されねばならないところである。

この肩胛骨骨折は、三宅医師が鑑定当時気付かず、見落としていたものであり(同医師は、当審証言で卒直にそのことを認めている。)、したがつて、その状況は、渡辺医師だけが認知し、現在に至るまで頭部骨折状況のようにその認知した骨折状況が誤りであつたといつた事情の変化がないわけである。それにもかかわらず、その成因についての考え方が前記のように変化してきたのはなぜなのであろうか。理解に苦しむところである。前提事実が同一でありながら従前の自己の見解を否定し、変更するについては、こういう点を十分考慮に入れていなかつたとか、その後の鑑定体験の中で当時経験していなかつた新たな体験をしたとか、当時これこれの思い誤りがあつたというような合理的理由があつてしかるべきであるのに、そういう理由が示されていないからである。一つめの「生前の傷」の意味についても渡辺医師は、鑑定当時も死後短時間を含めて考えていたはずであるというが、この言葉は何も肩胛骨骨折についてだけ使われているのではなく、頭部大骨折についても使つていたのである。そして「生前の傷」と判断した根拠もその骨折の付近に血液浸潤の生活反応が見られた点に求められており、この点でも共通なのである。そして、右側頭部打撃による脳挫創を死因と判断していたのである。すなわち、頭部の骨折に関しては結論として明らかに死亡前の傷の意味で「生前の傷」という言葉を使用していたわけである。この点を弁護人の質問で突かれたが、明確な答えが得られなかつた。

次に、成傷器の形状につき、角のあるものとした点であるが、その根拠として、肩胛骨の付近は厚い筋肉でおおわれているところ、その骨自体も頭蓋骨のように硬くないのに、骨折線は非常に角張つているということを挙げている。そのこと自体は鑑定時においても何ら変わるところがなかつたわけであるから、それならばなぜ鑑定当時角のあるものとしなかつたのか逆に問い直されねばならない。この点も納得のいく理由は示されていない。

三つめの成傷器と体との衝突態様については、そこに述べたとおり、残された三つの可能性のうち、どれが一番高い可能性と考えるのかを明確にし、その根拠が示されねばならないであろう。

以上のとおり、渡辺医師が、見解を変化させたことについては、その変化を納得させるだけの動機と根拠が示されていないので、そのまま採用することはできないが、それはそれとして、これまで検討してきたところからすれば、成傷器が動いて行つて大山の左肩胛骨に衝突した場合(渡辺当審証言では、大山が立つていてかような打撃を受けた可能性は少ないとしているが、大山が倒れていたところにこういう打撃が加えられた可能性は明確な根拠をもつて否定していない。)にせよ、大山の体の方が動いて行つて成傷器に衝突した場合(大山が立つていた場合も倒れていた場合も共に可能性として残している。)にせよ、その衝撃は相当に強いものでなければならないとされるのであるから、真犯人であるならば、何らかこの点についての説明・言及があつて当然と思われるのに梅田自白にはそれらしきものが何も見られない。

<2> ナイフ刺突による血痕の後始末

既述のとおり、梅田自白によれば、梅田はナイフを右逆手に握つて上から下へ、ナイフの刃の部分が全部大山の頭に突刺さり、ナイフを握つている右手の小指側の部分が大山の頭に「ガシツ」とぶつかるように刺したことになつており、少なくとも、その右手になにがしかの血液が付着した蓋然性があると思われるのに、そのことも、また、その後始末についても梅田自白は何も触れていない。真犯人であるならば当然説明・言及があるはずのところである。

<3> 死体埋没作業により、手、衣類等に付着したはずの土や泥の後始末

梅田自白によれば、大山絞頸後、一人でこれを引きずり、途中衣類等を全部脱がせて裸にしたうえ、羽賀が掘つておいたはずの沢床の穴まで死体を引きずりおろし、穴に入れて、手袋もせず素手で穴の脇に積まれていた土を深さ四尺にも及ぶ穴に入れて埋没したことになつており、暗夜明かりも持参せずにやつたことになつているのであるから、なおさら手、靴、ズボン、上衣等に土や泥が付着したはずであり、したがつてまた、その後始末についての説明・言及がなされて当然と思われるのに、帰途小便をしたり、金勘定をしているにもかかわらず、翌朝ズボンに血が付いているのに気付いて血を洗い落としたとするほか、右の土や泥の付着と後始末について何ら説明・言及がなく、真実性を疑わせる一要素となつている。

(3) 自白の内容それ自体において、不自然、不合理で、常識上にわかに首肯し難い点

<1> 大山との出会い

梅田自白では、梅田は羽賀から、一〇月八日に大山殺害、金員強奪の話を聞かされ、その二日後には、札幌から来た井上と称するブローカーとして単身大山と落ち合つて犯行現場へ行つたのであるが、その以前の九月二〇日頃、買物のため北見市内へ古い自転車で出掛け、買物を終わつて帰宅途中の昼頃、同市内で大山と連れ添つた羽賀と会つたことになつている。梅田としてはこれが大山と会つた初回であり、犯行日が二回目ということになつているのである。この初回目の時、羽賀が梅田に「農家の景気はどうだ。」と言い、梅田は「景気どころではなく、相当苦しい生活である。」ことを話したのである。その後三人連れ立つて小公園内の図書館へ入り、その廊下で三〇分位も雑談をし、その際、羽賀は、大山を梅田に「この人は俺の友達で訓子府から来ている大山正雄君だ。」と紹介し、梅田を大山に「これは俺の戦友なのだ。」と紹介した。その後図書館を出て食堂に入り、三人で食事をしてから別れたことになつているのである。

この時、いかに大山に対して梅田の名前や職業を教えなかつたからといつて、自転車を引いた百姓風の梅田と農家生活についてのやりとりをしておいて、次に会つた時には札幌から来たブローカーと名乗り単身大山と会つて取引場所へ同道するなどということが常識的に考えて首肯しうることであろうか。大山において、到底信用することはできなかつたであろう。

<2> 自転車の存否

一〇月八日梅田は、細引の付いている自転車で北見市内に出掛けて羽賀と会つたのであり、どこかへ置いていつたような供述もなく、かつ、自宅方向にある犯行現場付近へ行くのであるから、自転車を手元に引いて歩いていると思われるのに、羽賀はその細引の存在に気付かないかのように「細引がないか」と尋ねたことになつており、しかも、梅田は、「ある。今自転車についている。」と答え、羽賀が「その細引を……」と結び目を作るよう指示したことになつているのであるが、手元に自転車がないかのような不自然なやりとりになつている。

<3> 一〇月八日の謀議内容の矛盾

一〇月八日の現場付近の本件犯行の謀議内容であるが、羽賀が、犯行を行う一〇月一〇日は自分も一緒に行くつもりだが、万一行けない時は梅田一人でやつてくれと言つたことになつているのに、実際の実行行為のやり方についての指示内容は、梅田が単独でやる場合のことだけで、二人でやる場合についての指示や謀議が全然なされていないことになつており、不自然というべきである。

<4> 犯行日の決定過程

梅田自白では、一〇月六日頃羽賀からホツプ取引での儲け話を聞かされ、「次は二、三日中に出てくる。」と答えただけのやりとりで終わつたのに、一〇月八日に出て来て、たまたま会つた羽賀から、大山を殺して金を奪う話をされて加担の決意を余儀なくされ、それも一〇月一〇日に決行、梅田の単独犯行、加えて、凶器の準備から、凶行のやり方まですべて指示されたのであり、しかも、羽賀は、それからバツトの細工したものを青年会館の裏に隠し、大山の死体を埋める穴を掘ることになつている。

一〇月六日に別れた段階では、本件凶行の合意も、次に会う日の約束もなされていなかつたのに、次にたまたま会つた一〇月八日に羽賀がこんな指示をできるものであろうか。大山は相当多額の公金を流用し持つてくる立場の人間である。こちらで日を指定しさえすればいつでもそのような大金を持参できるわけではない。したがつて、犯行の日は、大山がその大金を都合して持つて来ることができる日に制約されるわけである。

一〇月一〇日というのはそういう日なのであるから、一〇月八日に羽賀が梅田に犯行日を一〇日にしようと言つたとするならば、それは大山との折衝でその日に金の都合がついて持参する旨の了解が既についていなければならないわけである。そして、大山との間でそのような了解を取付ける犯人は、自身で犯行を実行しない以上、それ以前に犯行場所や、犯行実行者、実行方法につき、少なくとも基本的な目途が立つていなければならないであろう。ところが、右梅田自白では、実行させるべき人間として羽賀が考えている梅田に大山を殺して金を奪うんだということの了解さえ取付けていないばかりでなく、今度いつ会えるのかその約束すらはつきりしていないことになつているのである。「二、三日中に来る。」というのでは、一〇月の八日に来るのか、九日に来るのか、一〇日に来るのか羽賀の方には分からないわけである。梅田自白では、前述のような筋書きになつているのであり、いかにも不自然である。

<5> 一〇月一〇日の待合せ時間の不特定

一〇月一〇日、大山や羽賀と会う時間が、「夕方」というだけで特定されたことがないような供述になつているのも不自然というべきである。

<6> 犯行直前の梅田の行動

梅田自白によれば、大山との待合せ時間が近づいているのに、その待合せ場所である柴川木工場で、自転車の荷台から麻縄を解き、羽賀から言われたとおり結び目を作り、持参した雑布を破いてナイフの柄に巻き、バツトを衣服の左内側へ隠すといつた殺人用具の準備をしたことになつているのである。

いつ相手が来るかも知れないその待合せ場所で、しかも、待合せ時間に近くなつた頃に(自白では、柴川木工場に午後七時頃着き、大山が七時二〇分頃来たことになつている。)凶器に細工して準備するなどということが常識的に首肯し得るであろうか。

<7> バツト隠し持ちの姿

前述したように、梅田は、バツトを上衣左内側へ隠した格好(バツトの細い方は肩の高さまで来、太い方は上衣の裾から三寸位はみ出していたので左掌でこれを隠すように支えた格好)で、大山と羽賀を待ち、大山だけが来るや、その左側へ出て、現場まで三〇分位の間そのままの格好で歩いて行つたことになつているが、不自然な格好であり、大山に異常さを察知されずにすむであろうか。

<8> 三種の凶器使用

梅田自白によれば、バツトの短いものとナイフと絞頸縄の三種の凶器を一人で使用したことになつているが、周到な計画に基づく犯行として、命中しやすく、速やかに行動能力を奪える凶器と確実に死に致らしめる凶器ということで二種までは納得できるものの、三種の凶器を一人で使うというのは不自然の感を免れない。

<9> ナイフによる頭部刺突

また、ナイフで頭を刺すというのも奇異である。常識的には心臓などの刺さりやすい部位をねらうものであろう。

<10> 素手による死体埋没

大山死体の埋没のための土かぶせを一人で、しかも素手でやつたことになつているが、不可能ではないとしても、そもそも、素手で土をかぶせるということ自体不自然なことであるうえ、ひどく長時間を要することになろう。自白にある程度の時間では到底できようはずはない。

<11> 暗闇における犯行

照明用具も月明かりもない、せいぜい星明りの夜の山径で、頭部をバツトで殴打、ナイフで刺突、縄で絞頸、一旦沢寄りの草むらの中に死体を引きずつて衣類等を全部脱がせ取り、更に死体を四間位沢寄りに引つ張つて、羽賀がその付近の沢に掘つておくと言つていた穴を捜しに行つて見付け、死体の所へ戻つてこれを引きずり、沢床の深さが四尺位あつたその穴に引きずり込み、その穴の仁頃街道寄り及びその反対側の縁に盛上げられていた土を素手で穴に落とし込んで死体を埋没し、それから先程衣類を脱がせた所へ戻つて、持参していた風呂敷に大山の品物全部を包み、最初に大山が倒れた所の草むらの中に落ちていた大山が持つて来た風呂敷包とその付近に落ちていたバツトを拾つて戻つて来たわけであるが、このようなことのすべてを、前述のような明るさの中でできることか否かは疑わしい。特に、草むらや立木の陰などは全くの闇で、物の輪郭の識別すら不可能なほどであるはずである。犯行時から二年後ではあるが、時期的にはいずれも一〇月初旬で犯行日とほぼ同じ時季に現場の見分がなされたが、その際作成された司法警察員作成の昭和二七年一〇月一日付け実見(確一の一―二一八)及び検察官作成の同月八日付け検証調書(確一の一―四七六)によれば、本件犯行現場付近は、小山の起伏する丘陵地帯で、仁頃街道から北方へ分岐する本件山径の両側は畑となつているが、本件犯行現場に近くなつてからは両側が山と沢で、樹木が密生し、人通りも少ないさびしい所であり、そして、頭部打撲、ナイフ刺突、絞頸をした辺りの沢側の道路縁は、ささ、よもぎ、はぎ等が四、五尺位の丈に延びて密生しており、そのために道路を歩行していては沢の見透しがきかない状況である。更に、右各調書によれば、これらのよもぎ類の中を約六メートル分け入つた沢寄りの約四〇度の下り勾配の斜面で雑草の生えている所に大山死体の衣類を脱がしたという地点があり、そこから道路にほぼ平行に七メートル四〇センチメートル位北方へ行つた雑草地帯が裸にした大山死体を引きずつてから穴を捜しに行つた所であり、沢床の穴に引きずり下ろす直前の場所であつて、その雑草地帯から穴まで約九メートルの距離があり、その雑草地帯の東南方一メートル九〇センチメートルの所から約五〇度の傾斜になつていて、これを直降した最深部に穴があつたのであり、この穴の左右に迫つた崖は両方とも約八〇度の急勾配で高さ約四メートル前後である(別紙第三図)。以上によれば、最初の打撃地点は、山径の沢寄りの縁の丈の高いささ類と、そして反対の縁まで迫つている白樺などの樹林の陰になる可能性があり、また、衣類を脱がせた地点もこれらの密生したささ、よもぎ類の陰になつて真つ暗であつた可能性が強く、その付近の地面に落ちた物の識別は困難であつたはずである。ましてや、一段と深く落ち込み、両方の崖の上にはこの谷沢を覆うようにして樹木が密生している沢床の穴などはその所在すら判別不可能であつた疑いが極めて強い。なお、この点につき、右実見添付の写真第七は、午前一一時から午後二時三〇分の間実施された同実況見分の際に撮影された写真であると考えられるが、密生する樹木の葉の透き間から真昼の陽の光がわずかに漏れ差しているほかは直射光が大部分遮られて陰になつている。このような状況にあつたはずであるにもかかわらず、梅田自白中、大山死体から衣類を脱がせる際の状況や、そもそも、穴の位置さえ確認していないにもかかわらず、最短経路で死体を運般し、穴に埋める状況についての供述は、全く暗さの障害を受けていないかのような内容になつている。

<12> 死体埋没状況

梅田自白では裸体にして引きずつてきた大山の死体を一旦置いて、自分だけで沢に下りて穴を見付けて来た後、「今度は、大山の死体の両手を握つて穴の縁に引つ張り下ろしました。そしてその穴の仁頃街道寄りの縁の方から大山の死体を穴の中に落としました。ところが、その時は死体がうまく横にならず、上半身が穴の縁に寄り掛かつて立つてしまつたのです。ちようど人間が座つたような格好になつてしまつたのです。そこで私は大山の死体の足の方から、その左足を両手で引つ張りました。すると死体はストンと穴の中にうまい具合に入つたのです。」と続いているが、その内容は具体性に乏しく、どのような形で死体が動いたのかなど疑問を感じざるを得ないものになつている。暗闇の雑草の生い茂る傾斜約五〇度の急斜面を九メートル近く両手を握つて引つ張り下ろす苦労もさることながら、その斜面から、穴の縁で土の盛つてある所に死体を引きずり下ろすとすると、大山の死体は頭部を斜面の下に向ける格好で下ろされてきたことになるであろうが、その縁に到着した時には頭部が下の、いわゆる逆さまの格好だつたのであろうか。それとも途中で体を回転させて足や臀部が下になるようにして下ろしたのであろうか。すぐ次に「仁頃街道寄りの縁の方から死体を穴の中に落とした」とあるが、どのようにして落としたのであろうか。

斜面を引きずり下ろす時と同様、自分が先に四尺位の深さの穴の中に入つて死体の両手を引つ張り落としたのか、それとも縁からは体勢を変えて、手か、足かで死体を穴の中へ押したり突いたりするような形で落としたのであろうか。その時落とされる大山の死体はどんな格好をしていたのであろうか。そのすぐ次に「ところがその時は死体がうまく横にならず、上半身が穴の縁に寄掛かつて立つてしまつたのです。」と続いているので、五〇度の斜面を頭を下に両手を持つて引つ張り下ろされてきて、穴の中に落とされたとき、どうしてそんな格好になつたのか、斜面と穴の途中の穴の縁ではどんな格好になつていたのか疑問とならざるを得ないのである。

<13> 強取金の焼却

梅田自白によれば、大山からの強取金のうち四万五〇〇〇円(千円札四五枚)を羽賀から渡されて受取つたことになつているが、そのうち三万六〇〇〇円は、その年の一一月末頃自宅の風呂場で燃やしたことになつている。理由は、これ以前に持つてみたことのある最高の金額が一万円位であるのに比し大金であるうえ、大山を殺して取つた金であるため毎日暗い気持で夜な夜な大山や羽賀の顔が浮かんできて眠れない苦しい気持に耐えられなかつたというにある。人を殺して金を取ろうというほど経済的に苦しかつたはずの犯人が、極めて計画的かつ周到に犯行を実行して得た金員を燃やしてしまうというのは常識的に見て不自然である。そして、この燃やした頃までに約五千円位使つていたが、残りのうち三万六千円を燃やし、三千円余は小遣銭として残し、昭和二六年の夏頃までに全部費消したと言つているのである。大部分の金は燃やしてなくなつてしまつたので、もはや大山や羽賀の顔は夜な夜な浮かんでこなくなつたのであろうか。犯行後一月程で耐えられなくなつた者が、金額は小さくなつたとはいえ、三千円余の金をその後半年程も所持してチビチビ使うというのも解せぬ話である。そして、合計八千円余の使途も、煙草代、馬具の修理費、自分の衣類、釘、トランク、手提鞄等を買う時の足し金にしたり、先妻胞子の入院見舞として果物や養命酒を買う時の足し金にしたというのであるが、訳のわからぬ金がこれらに使われたという点の裏付けが十分でないばかりでなく、その費目自体を見ても、これが人を殺してまで金を奪わねばならない程経済的に困窮していたことを示すものであるか甚だ疑問とせざるを得ないところである。

(4) 共に自白したはずの共犯者供述との不自然な食い違い

羽賀供述自体、後に示すように変転甚だしく、いずこにその真実があるのかとらえ難い点が相当にあるが、梅田自白との関係では共犯者供述であり、両者が真の共犯者であるとするならば、その自白、供述内容は、ほぼ一致してしかるべきものである。

もつとも、共に自白する共犯者間の供述が、相互の責任の重さという点では自己に有利に相手方に不利に供述しがちであるとか、同一の事象を見る位置が異なつているとか、記憶違い等の理由で食い違いを示すこと自体はしばしば経験するところであるが、梅田自白と羽賀供述の間には、これらの理由をもつてしても理解のし難い、また、これが一体綿密な計画と準備の上で犯行を共にした者同志の供述なのかと疑わざるを得ないような食い違いが存するのである。以下順次示して行く。

<1> 共謀成立の経過(打合せ日時、場所、会つた回数及び話の内容)

右のような食い違いの最も甚だしいのが共謀成立の経過である。そもそも両者は、戦時下軍隊に召集され、稔部隊で兵隊同志として知合つたのである。復員後の昭和二三年頃、たまたま梅田が羽賀宅を訪ね、そこで両者が会つたことについては食い違いがない。問題はその次の出会いから、本件犯行までである。この間会つた回数、日時、場所、時々の内容、状況等、ことごとく異なり、一致点を見いだすのが困難なほどである。以下あらましを記しておくこととする。

羽賀供述の方は、梅田に対して証拠として用いられているのは、証人又は共同被告人としての公判廷における供述であるが、基本的枠組みは検調と同旨であり、むしろ公判廷供述では、あいまいになつたりする部分も多いうえ、検調の方がよくまとまつているので、梅田、羽賀両名の各検調の内容によつて示すことにする。

まず、犯行に関連して、梅田と羽賀が会つた日及び場所として両者が供述している日及び場所を対比一覧表にしておく(いずれも昭和二五年)。

(羽賀供述)

第一回目

九月一三日~一五日頃

羽賀宅及び辰巳食堂

第二回目

九月二五日頃

辰巳食堂

第三回目

一〇月三日頃

図書館

第四回目

一〇月八日頃の午後二時頃

柴川木工場前及び犯行現場付近

第五回目

一〇月一〇日犯行直前

柴川木工場前

(梅田自白)

第一回目

九月二〇日頃

北見駅前付近路上、図書館及び辰巳食堂

第二回目

一〇月六日頃

羽賀宅及び北見市東五丁目付近路上

第三回目

一〇月八日頃の昼頃

北見市東五丁目付近路上及び犯行現場付近

次に、それぞれどのように共謀が形成されていつたのか、その流れの中で、それぞれの会合日がどういう位置をしめているのかを概観しながら対比してみると、

羽賀供述では、大山をだまして金を携帯させて殺害し、その金員を奪うことを企図し、その実行共犯者を物色中のところ、たまたま第一回目、母親不在中の羽賀宅へ梅田が訪ねてきたので、手頃な人物と思い、梅田を誘つて辰巳食堂へ赴き、同所で水を向けてみたところ乗り気だつたので、「梅田がブローカーに成り済まして、営林局の人に、ある品物を買つて転売すれば儲かる話をして信用させて金を持出させ、これを二人で殺してその金を奪う。」旨話して、梅田の了解を取付け、第二回目、第三回目双方に偽名を使わせたうえ大山に梅田をブローカーとして引合せ、面識を得させるとともに、ブローカーに成り済ました梅田にまことしやかな取引話をさせて大山を信用させ、なお第二回目、二人だけになつた際、梅田から犯行場所として適当な所として本件現場付近を教えてもらつてそこを犯行現場とすることに決め、第三回目の時、大山に対し、その取引場所は本件犯行場所付近にあることを話しておき、第四回目は、二人で実際に犯行現場へ行つて、実地見分しながら、殺害方法、殺害場所、凶器、役割分担、死体の処理、衣類を脱がす場所、埋めるべき穴を掘る場所、死体の運搬経路、事後の衣類や凶器の処理につき入念な打合せをし、しかも、バツトを短く切つて細工したものを梅田に渡して、予行演習をし、第五回目は犯行直前であり、のつぴきならない用事で羽賀が大山と一緒に来れなくなつたが、同人の了解も得てあるので梅田一人でやつてくれるよう申渡したという流れになつているのに対し、

梅田自白では、買物に出た北見市内で、たまたま大山と連れ立つて歩いていた羽賀と行き会い、大山と梅田の間では、羽賀が「訓子府の大山君」、「戦友」として紹介し、しばらくの間三人で世間話をし、食事をして別れたというだけで、事件に関する話などは全くなく、第二回目買物で北見市内に出たついでに羽賀宅を訪ねたところ、居合わせた母親と話をしているうちに戻つてきた羽賀と連れ立つて歩きながら、同人から「梅田がブローカーになつてホツプの取引をして金儲けをしよう。金は大山が持つて来る。」旨の話をされて、乗り気の返事をし、第三回目偶然羽賀と出会つた際、同人から「高台の佐藤という家でホツプの取引をすることになつているから、これからその家を見に行こう。取引は一〇日にする。」と言われて、本件犯行現場付近まで行つたところ、佐藤宅行きを中止し、「実は大山を殺して金をとる。」旨の話を持ち出され、断れば命にかかわる旨脅迫されて、やむなく加担することを承諾し、凶器準備、殺害方法、殺害態様、衣類剥奪、死体埋没、所持品・衣類・凶器などの引渡しなど指示されるとともに、若し当日羽賀が来れないときは梅田一人でやるように言われて承知したという流れで、後は一〇月一〇日の単独実行へと続いて行つたことになつている。

羽賀供述では、最初に犯行の中心部分の概括的共謀の成立があつて、以後順次その具体化が進行して行き、梅田自身も、大山に対する関係では二回にわたつて現実に、ブローカーとして会い、まことしやかな話をすることによつて大山を信用させる不可欠の役割を担つているのに対し、梅田自白では、一〇月八日に犯行についての共謀成立も、実行方法の具体化も一気に成立し、後は犯行当日単身ブローカーとして大山と落ち会つたことになつており、大山に対する関係で現実にブローカーとして立ち現れ、羽賀と共同して大山を信用させるための言動を取る過程は全く存在しなかつたことになつている。その関係によるものであろうか、羽賀供述では、第一回目を除いて、以後はすべて、次回、いつ、どこで会うか約束し、その約束どおり会つたことになつているのに対し、梅田自白では、そのような明確な約束のもとに会つた日は一日もなく、すべて買物に出たら偶然出会つたか、又は、その際ついでに羽賀宅を訪れて会つたことになつている。また、ホツプ取引の話も、羽賀供述では、大山をだまして金を持つて来させる方便である旨羽賀が梅田に説明した事項として登場してきているのに、梅田自白では、一〇月八日までは、羽賀が梅田をもだます方便としての役割を与えられている。同様に、そのホツプ取引の場所である家が高台の本件犯行現場の方にあるということは、羽賀供述では、既に自己の共犯者となつた梅田が現実にブローカーとして大山に対して欺罔の演技を始め、その過程で羽賀に犯行場所とするのに適当な場所として教えたところ、羽賀が本件犯行現場を殺害の場所として決定し、そこに大山をいざなう方便としてのみ登場しているのに対し、梅田自白では、第一義的にはまだホツプ取引の儲け話にブローカーとして振舞う程度の話に乗り気でいるだけの梅田を、羽賀が、自ら既に犯行場所として選定しておいた本件犯行現場へ、梅田をだましてそこへいざなうための方便として、第二次的には、大山を犯行現場へ誘い出すための方便として登場しているのである。

更に、羽賀供述では、犯行直前までは、羽賀と梅田の両者で共同実行する前提で打合せや準備がなされていたところ、一〇月一〇日の犯行直前に最後の打合せとして二人で会つたときに、実はのつぴきならない用事で来られなくなつたが、大山の了解は得てあるので、梅田一人でやるよう頼んで梅田の了解を得たことになつているが、梅田自白ではこの過程は一〇月八日頃の会合の中に組込まれてしまつていて、一〇月一〇日の犯行直前に、両者が会うようなことはなかつたことになつている。

このように両者を比較してみると、共謀成立の全体的流れ、会つた回数、時期、場所、話の内容、状況が全く相違しているほか、大山を殺して金を奪うという話が出て了解した日やその場所及び状況、ホツプの取引であることを梅田が教えられた日や、その場所及び状況、梅田が辰巳食堂へ行つた回数やその日時及びその際の話の内容並びにその状況、図書館で会つた日やその状況及び話の内容、犯行場所の選定者(羽賀供述では梅田、梅田自白では羽賀)、偽名の使用状況(羽賀供述では梅田に大山の本名を教えたが、ブローカーとして会う時には双方偽名を使わせたことになつているのに対し、梅田自白では、梅田についてだけ偽名を使つたことになつている。なお使つた偽名そのものは、羽賀は検調や公判廷では忘れたと言つているが、昭和二七年一〇月四日付け員調((確一の一―一七三六))では、梅田を札幌から来たブローカーの井上、大山を、北見の方で今回の取引に資金を出してくれる大井ということにしたことになつている。梅田自白では、羽賀から、札幌からきたブローカーの井上に成り済ませと言われたことになつている。)、ホツプ取引の家の名(羽賀の検調や公判廷での供述では忘れたと言つているが、右員調では「林」としている((確一の一―一七四六))のに対し、梅田自白では「佐藤」としている。)、二人で逐一犯行場所の確認特定をしたか否か、バツトは一〇月八日に羽賀が梅田に手交したのかどうか、犯行日犯行直前に梅田と羽賀が会つたかどうか等々、ことごとく食い違つており、この食い違い状況は、犯行後二年も経つてからの供述として記憶の深浅や混乱が見られるとか、犯人の心理として自己に有利に粉飾するといつた理由では到底納得し得ないものと言わざるを得ず、そもそも共犯者として同一事実を共通に体験した者同志の供述なのかどうか疑わざるを得ないものである。

<2> バツトの型状

梅田の第三回検調添付第四図(三)で示すバツトの型状と、羽賀の第六回検調添付第四図で示すそれとは明らかに異なる(別紙第四図(一)、(二)参照)。

<3> バツトの受渡し

梅田自白では、一〇月八日に、羽賀から、同人が後でバツトを東陵中学の近くにある青年会館の裏側の縁の下に入れて置くと言われ、一〇月一〇日の犯行当日、大山と柴川木工場で落合う直前に梅田が青年会館へ行つて、その裏側の縁の下付近から探り当てて、そのバツトを持つて来たことになつているのに対し、羽賀供述では、一〇月八日の打合せの際に羽賀がバツトを持参し、犯行現場付近で、犯行当日持つてくるよう言い添えてこれを梅田に手渡し、犯行の予行演習をしたことになつている。

<4> ナイフ

梅田自白では、一〇月八日犯行現場付近で、「羽賀から『俺も小刀はあるが、あれはうまくない。おまえ小刀を持つていないか。』と言われ、私は『小刀はある。』と答えましたら、羽賀は『どんなナイフだ。』と言いました。『昔買つた七徳ナイフだ。』と私が答えましたら、羽賀は『それでもよいさ。バツトで大山を殴りつけた後、そのナイフで大山の頭を刺せ。』と言いました。ただ、頭のどこを刺せとは言いませんでした。」となつているが、羽賀供述では、この点供述が若干変遷し、検調までの段階では、一〇月四日付け員調に「万一やり損なつた時に使う様にその時の準備として何か刃物を用意して行く様に行つた記憶もあります。」(確一の一―一七五〇)と記載されているのに、原一審第九回及び第一一回各公判における証人としての供述(確一の一―七八二、八三三)や第二二回公判における被告人としての供述(確一の一―二〇四六)によれば、「一応刃物は用意するが、その刃物はできるかぎり使用しない。つまり刃物を使用すると血跡を残すばかりか、加害者に血が付くので発覚するおそれがある。その上、加害者自身も血を見て逆上するからというような話をしました。」となつており、やり損じた場合のことを考えて刃物を持つて来いと言つたことになつているわけであるが、いずれにせよ使用目的が、やり損なつた場合の備えであつて、梅田自白のように殺害のため頭を刺せなどというのとは明らかに異なつている。

<5> 柴川木工場での待合せ状況

一〇月一〇日の犯行直前に、梅田と羽賀が会つたかどうかという点で食い違いがあることは前述した。羽賀供述では、「のつぴきならない用事ができて、大山と一緒に来られないかもしれないが、そのときは一人でやつてくれ。」と頼み、その際梅田と会つていることになつているのに対し、梅田自白では、梅田は四時頃自転車で自宅を出発し、北見市内に着いたがまだ明るく、早いと思つて一時間位夜店を見て回り、暗くなつてから青年会館へ行つて二〇分位かけてバツトを捜し出し、七時ころ待合せ場所の柴川木工場へ来たことになつている。

問題はその後、大山が来るまでの間の梅田の状況である。梅田自白では、柴川木工場に着いて、自転車のスタンドを立てると、その荷台に結付けてあつた麻縄を解き、バツトを荷台に置いて、その麻縄に羽賀から指示されたとおりの結び目を作つてポケツトにしまい、更に持参した雑布を破いてナイフの柄に二巻きで一寸位巻きつけ、布の端を、巻いた布の間に差込んでポケツトにしまい、バツトを手にとつて上衣の左内側に収納したところ、七時二〇分頃大山が来たことになつている。これに対し、羽賀供述では、前記のように梅田に頼んで、すぐ一旦、桜町の自宅へ引返し、戸外が暗くなつた頃、また、柴川木工場へ出掛け、その裏手の土場の後ろ側にある桜と思われる木の傍らにしやがんで土場越しに仁頃街道の方を見ると、梅田がその道路に立つているのが見えたが、同人はその土場の前の仁頃街道をブラブラとして居りましたとされている。そして、同じく羽賀供述によれば、羽賀がその地点についてから三〇分位もたつたころ大山がやつて来たというのであるから、大山が来た時からさかのぼつて時間を対比すれば、羽賀は、梅田が柴川木工場へ着いてからのほぼ一部始終の行動を見ていたはずである。ところが、羽賀供述では、梅田が凶器の準備をした様子は全く述べられていない。この点もまた食い違つていることになる。

<6> 犯行直後に梅田と羽賀が会つた場所

梅田自白では、一〇月八日頃羽賀と会つた時、羽賀から、「一〇日の日、大山と一緒に行けなかつたときは、東陵中学の付近の道路上にある二本榎の付近で待つているから、衣類や現金を持つて来い。」と言われていたので、大山の死体を埋めてから、それらの品物を持つて、二本榎のうち、仁頃寄りの方の二本榎で、北見の方に向かつて道路の左側にある榎の五、六間位手前の所まで来たら、そこに羽賀が立つていたことになつているのに対し、羽賀供述では、梅田と大山の後をつけて二本檜の所まで行き、その付近を行つたり来たりブラブラしていたら、仁頃街道を仁頃の方から自分の方に向かつて来る梅田らしい姿が見えたので、すぐ北見の方へ引返し、途中、三楽園の方へ行く脇道へ入つて駆出して柴川木工場付近の仁頃街道に出、今度はそこの交差点から仁頃街道を仁頃の方へ向かつて歩いて行つたところ、約五〇メートル位の所で(なお、羽賀の第九回公判証言((確一の一―七八八))、同人の第二二回公判供述((確一の一―二〇五七))ではいずれも七、八〇メートルとなつており、また、同人の第八回検調((確一の一―一四三一))では、仁頃街道とその一本東寄りの道路との別れ道付近となつている。)会つたことになつており、食い違つている。

<7> 金包み等の受渡し状況

梅田自白では、前述の場所で羽賀と会つたが、「そこで、羽賀が『御苦労さん。うまく埋めてきたか。』と言つたので、埋めて来たことを話し、『これを持つて来たよ。』と言つて風呂敷包と野球用バツト一つを羽賀に渡した。それから二人連れ立つて仁頃街道を北見の方へ歩き出した。羽賀は私から受取つた品物のどれかをいじつていた。二間位も歩いた頃、黙つたままで千円札の束を私に突き出した。私も黙つてその千円札の束を受取つて上衣の右ポケツトに入れた。そして羽賀と連れ立つて柴川木工場まで戻つて来た。その間羽賀とどの様な話をしながら歩いて来たか覚えていない。とにかく、大山を殺したことで頭が一杯だつた。柴川木工場の材木置場の材木の間に置いて来た私の自転車を取出して、同工場の前の道路で羽賀と別れた。その別れ際に、羽賀は、私に『絶対だぞ、絶対だぞ。』と言つた。これは大山を殺した事を絶対他人に漏らしてはならないぞという意味だと思つた。」となつているのに対し、

羽賀供述は、変遷があるが、大要を示している第八回検調(確一の一―一四三一)によれば、仁頃方向から来る梅田と出会つて、羽賀は『梅田君どうもすまなかつた。今度の自分達の問題をもうかぎつけた者がいるのだ。その人間がつきまとつて困るので、それを押えていたのと、アリバイを作るのとで一緒に現場へ行けなくてすまなかつた。』と言つて、一緒に現場へ行かなかつたことの言い訳をいろいろした。もちろん全部でたらめのことを言つた。梅田は、私にただ『殺(や)つた。』と位しか言わず、口数が非常に少なかつた。そして二人一緒に柴川木工場の土場の材木と材木の間(仁頃街道の方から柴川木工場に向かつて、すぐ左側の材木置場と二番目の材木置場の間)に入つた。二人とも中腰で向かい合つた。梅田は仁頃街道の方を背にしていた。そして梅田から、最初、大山の衣類等を包んであると思われるかさばつた風呂敷包を受取つた。四隅が十文字に結ばれ、その結び目の間に凶器のバツトが差込んであつた。羽賀はこれを受取るとすぐ、自分の右横の地面の上に置いた。次に現金を包んであつた風呂敷包を受取つた羽賀がこの包みを広げて行くと、更に中の品物を新聞紙のような手触りの厚さの紙でグルグルと一方から巻いてあつた。この紙を逆に戻して広げて行くと中に千円札が入つていた。その千円札の山の厚さ(一山しかなかつた。)の四分の一位に見当をつけて取出し、その分の千円札を梅田に渡した。その際自分は『取りあえずこれだけ渡しておく。しばらくの間、その金は使わない方がよい。大山君がいなくなつたことについて、一般の人達や警察がどのように考えるか、その方向がはつきりしてから使うようにしろ。』と注意した。そして、また『今後北見へはあまり出て来ない方がよい。』とも言つておいた。梅田は『うん。』と言葉少なに合点していた。私達はそこに一〇分間位居たと思う。そして、話はその程度で終わり、羽賀が先にその土場から出た。」となつており、また、羽賀の原一審第二三回公判供述(確一の一―二一一七)では、別れ際、梅田に対して「絶対だぞ。」と言つたことはないとしている。

品物のやりとりをした場所、状況、会話内容について食い違いを見せている。

<8> 強取金の分配についての約束

梅田自白(確一の一―一六〇九)では、「大山を殺して取つて来た金の分配については相談しておりません。」となつているのに対し、羽賀の第九回公判証言(確一の一―七九五)によれば、事件を起こす前の約束では殺害して強奪した金を半々に分けるということになつていたとしている。

<9> 犯行日の後の会合

梅田自白(確一の一―一六四一)では、大山を殺した晩に羽賀と別れてから、昭和二七年一〇月二日警察に逮捕されるまで、羽賀と一度も会つていないし、手紙のやりとりをしたこともないとなつているのに対し、羽賀の原一審第九回証言(確一の一―七九五)では、「凶行後梅田と文通はないが、一回会つたことがある。それは昭和二五年一一月の初め頃で、自分が桜町の実家から義兄の家へ行くべく、大通り東五丁目の角まで行くと、梅田が徒歩で私方へ来るのと会つた。梅田は、約束の金を要求したが、自分は、『事件が発覚したらどうする。いつか金をやるが、今は駄目だ。』と言つて断つた。そうして、北見駅前まで一緒に歩いて来て、同所の交差点で別れた。その後は一度も会つていない。」となつており、ここでも、梅田自白と羽賀供述は大きな食い違いを示している。

(5) その他(共犯者供述以外)の証拠と対比し、あるいは総合してみると不自然・不合理な点

<1> 梅田が羽賀宅で羽賀の母親に会つた日

梅田自白では、梅田が、昭和二五年一〇月六日頃、羽賀宅を訪れた際、当初、羽賀は不在で、その母親が居たのでしばらく同女と話をしていたことになつているが、羽賀の実母である羽賀ふじよの昭和二七年一〇月二二日付け第一回検調(確一の一―三八一)によれば、戦後二、三年した頃の六月頃のある日の昼頃、梅田が羽賀宅を訪れたが、羽賀は不在で同女が応待したことがあり、同女の記憶にある梅田の羽賀宅来訪はこの一回きりであるとされていて、右梅田自白は、この証拠と矛盾している。

梅田は、この点につき、原一審第二五回公判で(確一の一―二一六三)復員後逮捕されるまでに羽賀と会つたのは、昭和二三年六、七月頃羽賀宅を訪れたのと、同年一一月末頃の午前中、北見市へ出て来た際、北見バス会社の前でたまたま行き会つた二回だけであるとし、自白で、昭和二五年一〇月六日頃羽賀宅を訪れたというのはでたらめだが、その状況は、昭和二三年六、七月頃訪問した時の状況を擬して供述したものであると述べ、その時の状況として、「午前一一時頃、羽賀宅へ行つたところ、羽賀は不在で、その母親がいたので、私は『竹男君と軍隊時代一緒だつた。』と言い、同女と二〇分位話をしていたところへ、羽賀が昼食に帰つて来た。そして、私に対し『よう君が来ていたのかと言い、それから戦友のことや軍隊のことを話した。私は羽賀に『どこへ勤めているのか。』と聞くと羽賀は『営林局に勤めている。』と言つた。また、羽賀は『中隊長の根本さんが北見営林局に勤めているが会つて行かないか。』とか『近いうちに東京へ出張するのだ。』とか言つた。前者に対しては『会いたくない。』と断つた。羽賀の母は、嫁さんの話をした。私は当時地下足袋に不自由していたので、そのとき羽賀に『地下足袋に不自由しているが、どこか地下足袋を世話してくれないか。』という話をした。その他市街の景気や農家の景気の話もした。羽賀が『何も御馳走するものはない。』と言つてコーヒーか紅茶かどちらか御馳走になり、羽賀の母からは甘煮の豆を御馳走になつた。羽賀宅には一時間か一時間半位居た。」旨述べている。

前記羽賀ふじよの供述中、羽賀が不在であり、同女が応待したこと、梅田と羽賀が戦友であつたと聞かされたこと、梅田が地下足袋に困つていたこと、煮豆を御馳走したこと、昼頃一時間位居たことなどが符合している。

羽賀供述は、変遷があり、検調(確一の一―一三七三)段階では、事件に関して梅田が羽賀を訪れたのは昭和二五年九月一三日から一五日頃(前記第一回会合)の一回だけであるとしていたが、第九回公判での証言(確一の一―七一九)では、「時期は、昭和二二年四、五月頃のまだ私が営林局に勤めるようになる前のように記憶するが、」としながらも、梅田が桜町の羽賀宅を訪れたことがあるのを認め、時候の挨拶をしたこと、母が梅田に嫁をもらつたか尋ねたりしたことを供述し、第二二回公判での被告人供述(確一の一―二〇三〇)では、昭和二二年の六、七月頃の昼頃とし、梅田が地下足袋が手に入らないだろうかという話をしたとしている。

梅田の父房吉は、昭和二七年一〇月二〇日付け第二回検調(確一の一―三八八)では、昭和二二、三年頃、第一七回公判証言(確一の一―一六九八)では、昭和二五年よりは前で、復員してきた翌年頃の夏と思うがはつきりしないとしながらも、いずれも、梅田から、羽賀宅を訪問してきたこと、昼御飯を食べてきたこと、羽賀が営林局に勤めていると言つていたことなどを聞いたことがあるとし、特に後者では、当初羽賀が不在で母親と話をしているうち羽賀が帰つて来たとしている。なお、不提出記録中の房吉の昭和二七年一〇月六日付け員調の三項(不―三七四)には、二三年か二四年頃、梅田が羽賀宅を訪れたこととその状況についての供述が記載されており、羽賀供述を除いた前掲各証拠とほぼ符合する内容となつている。この調書は、梅田が逮捕されてから五日目に作成されたもので、一〇月四日に坂本副検事の所で自白を飜して否認したものの、その後北見署へ戻つてまた自白に転じ、その自白を維持していた段階で取調べられ調書化されたもので、作為的供述をする理由がなく、信用性の高いものと思われる。

以上によれば、羽賀ふじよの前記供述調書の記載の方が裏付証拠があり、梅田自白より信用できるものと思われる。

<2> 羽賀の勤務先

梅田自白では、一〇月六日頃羽賀宅を訪れた際、羽賀の母親が「竹男は林友会に勤めている。」と言つたことになつている。しかしながら、羽賀供述によつても、昭和二五年七月末に営林局を退職し(確一の一―七二一)、それから一〇月までの間は、職捜しはしたが、良いところがなく、家でぶらぶらし(同―七二二)、同年一一月二〇日に財団法人北見林友会に入つた(同―一三二八)ことになつており、当時北見林友会の理事であつた斉藤武志の第二回検調(確一の一―二九九)によれば、同年一二月一一日から雇入れたことになつていて、いずれにしても、一〇月六日頃はいまだ林友会に勤めていないことが明白であり、羽賀の母親がそのようなことを言うはずがないわけである。この供述の成り立ちにつき、梅田は、前記のように昭和二三年頃尋ねた時の状況のままに、羽賀の母親が「竹男が営林局に勤めている。」と言つた旨供述したところ、捜査官から(原一審第二五回公判((確一の一―二一八〇))では、「刑事に教えられて」、昭和三二年一〇月二四日付け上告上申書((確一の三―三四九五))では、「検察官に言われて」)、営林局ではなく、林友会である旨教えられてこれに従つたものと主張している。

<3> 羽賀の年齢

また、梅田自白では、その際、羽賀が、「俺も二四、五歳になつたのだから女房をもらわなくちやならない。」と言つたことになつているが、羽賀は、大正一三年六月二二日生で、昭和二五年一〇月六日当時、満二六歳、数え年二七歳であり、二四、五歳というと昭和二三年頃が該当するので、これまた、梅田自白は、事実に反するばかりでなく、梅田が、昭和二三年頃尋ねた時の状況を擬して供述したということを裏付ける証左となつている。

<4> バツトの太さ

梅田第三回検調五項(確一の一―一六二三)によると、犯行当日青年会館の縁の下から捜し出したバツトにつき、「そのバツトの細い方の末端から三寸位上を私が片手で握ると親指と人差指との間に一寸五分位の透き間が開きました。」となつていて、そもそも、それ程太いバツトが存在するかどうか疑わしいが、原一審第二六回公判における被告人質問に際し、裁判長が、羽賀の供述に基づき作成された右バツトの模造品(検第二八号として原一審で取調べ、領置していた。)の右自白当該部分を梅田の右手に握らせたところ、向かい合つている親指と人差指の間に約一分位の透き間ができたとされている。これによれば、バツトの太さに関する梅田自白は、その真実性に疑いがあるというべきである。

<5> 絞頸縄の結び方

梅田自白によれば、大山絞頸縄の結び方は、雑穀俵を縄で縛る時の縛り方であつて、相当手荒く俵を取扱つても縄は緩みませんとされているが、三宅鑑定書添付の絞頸部前面模型図によれば、三巻き目の左右から首の前面中央部に来る縄を交差させただけの形になつているのであつて、手荒く扱つても緩まないなどという結び方でないことは明らかである。なお、原一審第二七回公判で、裁判長の指示により、右縛り方を実演し、右図と異なることが確認されている(確一の一―二二四二)。

<6> 金員の入つた風呂敷の包み方

梅田自白では、柴川木工場へ大山が来た時、同人は右手に風呂敷包を一つ持つていたが、その風呂敷包の結び方は、四方の隅を十文字にして結んだものではなく、長い方の部分の端を結んでいただけであつた記憶であり、そこから二人で犯行現場の方へ行く途中、大山はその風呂敷包を右手に持つたり左手に持替えたりしていたことになつている。

ところが、羽賀供述では、犯行現場から引上げて来た梅田から受取つた金が包んであつた風呂敷包の状況につき、風呂敷の一端からその対角に向かつて品物をグルグル巻きにし、他の両端を結ばずにその上に畳んだだけのものだつたことになつている。梅田自白では、大山を殺害して埋没した後、犯行現場付近に落ちていたその風呂敷包を拾つてそのまま羽賀に渡したことになつているので、包み方について両者の供述に食い違いがあることになるわけである。この点、原一審第五回公判の長尾心一証言によれば、大山は現金を風呂敷に包んで自分の腰に縛りつけ、その上に上着を着て出かけたとのことであるので、羽賀供述の方が長尾証言と符合し、梅田自白はこれらと矛盾する格好になつている。

<7> 帰宅に要する時間

梅田自白では、犯行当夜自宅に帰り着いたのは夜一一時頃であり、羽賀供述では、梅田と柴川木工場で別れたのが夜一〇時頃ということになつている。これによると一時間位で帰り着いたことになるが、夜無灯火の自転車で起伏のある七曲りといわれるような無舗装の道を、しかも途中で一休みして四五枚の金勘定をして一時間位で帰り着くというのもやや不自然である。不提出記録中の緊急逮捕手続書(不―一五七)によれば、梅田宅で午後八時三〇分頃逮捕された梅田が北見市警察署の司法警察員伊藤力夫のところに午後九時三〇分に引致されており、その間約一時間を要しているが、この間は警察の自動車で引致されたものであり、このことは原一審における警察官らの証言や梅田の自白とで争いのないところであるし、請求者の主張の中に、昭和五四年六月二六日夜、舗装されたこの道路を後ろから弁護人が自動車のライトをあてたうえ、梅田を自転車で走らせたところ、一時間二九分を要した旨の実験結果の報告部分があり、これに反するような証拠も、右梅田自白を除いては存しない。

<8> アリバイ(妹美智子の日記及び美智子証言)

a アリバイに関する証拠の存在とその取調べ経緯

原一審において、梅田の弁護人は、梅田の妹美智子(昭和九年七月一五日生)の日記と同女の証言を、梅田が本件犯行当日とその以前に北見市内へ出て、犯行及び謀議をなしたとの事実に対するアリバイとして援用した。

右証拠を原一審が取調べた経緯は、次のとおりである。

検察官は、冒頭陳述書において、本件犯行当日、梅田が午後四時頃まで自宅で農作業をしていた事実を証明する証拠(その部分の梅田自白に対する関係では補強証拠)として、証拠物である右美智子の日記及び同女の昭和二七年一一月一〇日付け第一回検調(確一の一―八四一)を指摘のうえ、証拠申請し、前者は即日取調べられたが、後者は弁護人が不同意としたため、検察官は、同一の立証趣旨で同女を証人として証拠申請し、採用決定がなされた。第五回公判において、その証人尋問が実施されたが、同期日においてはその取調べは中途で中止された。そして、その期日において、梅田の弁護人は、検察官が、冒頭陳述において、羽賀供述にのつとり、梅田が、九月初旬頃から一〇月一〇日大山と会う直前まで合計五回、北見に出向いて羽賀と会い、本件犯行の謀議をなしたとする点とその一〇月一〇日に北見市内に出向いて本件犯行に及んだとする点について、梅田のアリバイ等を立証趣旨として、右美智子を弁護側証人として証拠申請し、採用された。そして、第六回公判において、同女につき、検察官申請証拠の取調べ続行と右弁護側証拠としての新たな取調べが併せて行われたのである。右取調べにおいて、同女は、弁護側の立証趣旨に沿う証言、殊に昭和二五年一〇月一〇日は、梅田が同女と共に終日農作業に従事していたので北見市内へ出掛けたことはなかつた旨の証言をなしたので、検察官は、同証人が、検察官の面前では、その日のことについては、はつきり記憶していない旨述べていたもので、実質的に相反供述であるとして、前記同女の第一回検調を刑訴法三二一条一項二号後段書面として取調べを求め、弁護人はこれに対してはしかるべくとの意見を述べ、原一審裁判所は、これにより右書証を採用し取調べた。

b アリバイをめぐる当事者の攻防と裁判所の態度

検察官は、原一審論告において、右のアリバイに関する証拠につき特に一項を設けて(第三章第一節第七項)、詳細な論駁を行つた。その要旨は、美智子の日記の一〇月一〇日分の記載内容自体には、梅田が、当日午後四時頃から午後一一時頃まで、自宅に居なかつた事実と矛盾する事実の記載はなく、それにもかかわらず、右の記載に基づいて、梅田がその時間帯も含めて家に居た旨を証言する美智子の証言は、妹として、殊更、兄に有利に述べているか、せいぜいその頃の通常の生活状態を前提にして推測を述べているにすぎないものであつて信用できないものであるというものである。

これに対し、梅田の弁護人は、原一審最終弁論において、まず、右日記の真実性(昭和二五年の該当日頃、美智子が、日記としてその日の出来事を記載し作成したものであつて、後に、梅田のために、殊更有利に作出したものではないという趣旨と思われる。)については、同日記に記載されている天候が、網走測候所長気象資料回答と符合することによつて明らかであるとしたうえ、美智子の証言は、自ら記入していた右日記に記載されている仕事の性質から、美智子が一人ではできず、梅田と共に日常やつていた仕事あるいは梅田でなければできない仕事であることを主要な根拠として、梅田が、美智子と共に作業をしていた、したがつて北見へ出ていない旨証言しているのであるから、合理的根拠に基づいた証言として信用に値するものである旨主張した。

原一審裁判所は、梅田のアリバイを認めなかつたわけである。そして右攻防に関する判断の説示は全くなされていない。

認定事実中には、犯行当日、梅田が、北見へ出て来るまで、どこで何をしていたか記載されていないし、証拠の標目にも、そのための証拠として検察官が提出した、前記美智子の日記や同女の証言、その第一回検調も掲げられていない。

弁護人及び梅田は、その後、原三審宛ての上告趣意書や上告上申書、また、一次再審の過程において、右アリバイに関する証拠を援用し、あるいは、これをさらに敷衍してアリバイ主張を繰返したが、これらに対する検察官の具体的反論は一切なされることなく、また、裁判所も、この点に関する特別の説示は一切しなかつた。原二審においては、梅田やその弁護人がこの点を特に主張をしていなかつたことと、原三審や一次再審の各裁判所は、三審構造や、再審構造に鑑み、それぞれの裁判所に課された役割や、右証拠の証拠価値評価の両面から、特別説示の必要をみなかつたことによるものと推察される。

c 証拠の内容

梅田美智子の日記は、原一審において、検第三〇号として提出、領置されたが、昭和三八年二月一八日付け再審請求追加趣意書(再一―二六九)によれば、上告棄却後、還付された後に、同女の父房吉が破棄したということで、現在直接これを検することはできないが、竹上半三郎弁護人ら作成の上告趣意書(確三―三一六〇)及び右一次再審請求の追加趣意書(再一―二六九)によれば、一〇月一〇日欄の記載内容は次のとおりである。

「朝起き、六時半頃起きて顔を洗つて御飯を食べてから、むしろをひいて、まめをなした。それからとろろをほつた。昼から山へ行つてくさを運んできた。かえつて来て、くさをつんだ。それからまめをたわらに入れた。それからからづてからほくそをかりに行つた。兄さんと、そして家に運んで来て、とうきびを切つてやつた。家にあがつてふろに入つた。御飯をたべてから日記をかいた。そしてすぐねた。七時頃。」

そして、前記美智子証言では、当時、畠へ出て仕事をするのは梅田と中学を卒業したばかりの同女の二人であつて、父房吉はたまにしか畠に出なかつたところ、右日記の記載中、「山へ行つてくさを運んできた。かえつて来てくさをつんだ。」とあるのは、裏山から馬を使つて二、三回草を運び、家の西方に生えている松の所へ二山に積んだもので、同女は馬は使えず、当時馬は兄である梅田が扱つていたので、この作業は自分一人ではできず、兄と二人でやつたもの、「それからまめをたわらに入れた。それからからづて」とあるのは、納屋で豆を俵に入れ、縛つてから片付けたことを書いたもので、豆は唐箕にかけてから俵に入れたので兄と一緒だつたと思う旨、また、「ほくそをかりに行つた。兄さんと、そして家に運んで来て、とうきびを切つてやつた。」とあるのは、家の前の道路縁に牧草を刈りに行つたもので、刈つた牧草をもつこに積んで運び、牧草ととうきびを混ぜて押切りで切つて馬にやつたのであり、自分一人では押切りで馬の草やとうきびを切れないので兄と一緒にやつたものである旨、また、作業を終えて風呂に入つた時も夕御飯の時も兄は家に居て、この日外へ出掛けたことはない旨などが述べられている。

なお、右証言に際しては、九月一日から一〇日までの毎日、一五日、一六日、二二日から三〇日までの毎日、一〇月一日から五日までの毎日、七日から一〇日までの毎日の各欄の記載の朗読をさせられながら、それぞれ、梅田と一緒だつたかどうかを中心に朗読部分の内容につき簡単な質問がなされ、答えているが、検察官の冒頭陳述の共謀過程に対するアリバイ立証とされていたため、その該当日及びその周辺の日については漏れていないものの、梅田自白にある九月二〇日、一〇月六日の朗読と質問はなされていない。梅田自白と羽賀供述で共通していた一〇月八日については、朗読と質問がなされているので、その証言部分を要約しておく。

「えごまを立てに行つた。」と書いてあるのは、梅田方の斜め横にある「えごま」を立てに行つたもの。義光兄と私と二人で行つたような気がする。「それが終わつてから杉山の方へ行つて豆を運んで来た。」と書いてあるが、そこまでの距離ははつきり分らないが、少し離れており、そこに畠を作つている。そこに豆を二反か三反歩位植えている。豆は茎のまま馬車で運んで来た。「昼からもその続きをした」となつているが、全部で四、五回位運んだと思うけれども午前に何回、午後に何回ということは記憶がない。私は馬を使えないし馬車で豆を運ぶこともできないので、日記には兄と仕事をしたとは書いてないけれども、その日は義光兄も一緒に仕事をしたと思う。兄は昼からも一緒に仕事をした。その時運んだ豆は全部落とした。その日は杉山の方の豆は全部運んだような気がする。二、三反の豆を落とすのには二日位はかかる。その日は唐箕までかけたと思うので、遅くまで、真つ暗になるまでかかつた。豆落としは家のそばの角でやつた。その日は父も手伝つた。義光兄が一緒にやつたことははつきり記憶している。豆落としが終わつて家に上がつた頃は電気がついていた。このこともはつきり記憶している。家へ上がつた順序は、父が一番先で、義光兄と私は一緒だつた。「風呂に入つた。」と書いてあるが、私は一番後から入つたと思う。夕御飯を食べる時、義光兄は家に居たと思う。「日記を書いて七時頃寝た。」と書いてあるが、これも時計を見て書いたものである。私が日記を書いていた時に義光兄がそばに居たかどうかははつきり分からない。

d 日記の作成経緯

美智子の日記は、昭和二五年春、同女が中学を卒業した後、日々、その日の出来事を自ら記すことによつて作成されたものと認められる。

その理由としては、まず、梅田美智子の前記証言、同女の第一回検調、橋本友明検事作成の領置調書(確一の一―九一)、不提出記録中の副検事岡部良秀作成の昭和二七年一〇月二〇日付け捜索差押令状請求書(不―二二四)及び不提出記録目録中昭和二七年一〇月中に作成された書類中番号62、73の欄の各記載によれば、検察官は、昭和二七年一〇月二二日令状により、犯行時の梅田の着衣、大山の所持品、凶器などを求めて梅田宅の捜索差押を実施した際、美智子の日記の存在を了知し、同女に対し、その日記を持参して検察庁に出頭することを求めたところ、同女はこの求めに応じ、同年一一月一〇日、同日記を持参して釧路地方検察庁北見支部に出頭し、橋本友明検事の取調べを受けたが、その際に、同日記を任意提出し、同検事においてこれを領置したことが認められ、このように、そもそもこの日記は検察官において同女から任意提出を受けて領置し、犯行当日家を出て北見市内へ赴くまでの梅田の行動についての梅田自白を補強する証拠として証拠申請して、取調べられたものであり、したがつてこれがアリバイ証拠として弁護人により援用される事態になつても、検察官は、論告において、当然のことながらその成立自体については全く攻撃せず、ただ、記載内容にアリバイ事実が含まれていないことを主張するにとどまつており、その後現在に至るまでこの点の争いがなされた形跡は全くないこと、次に、前記美智子証言や同女の第一回検調のほか、梅田自身の供述類を除き、その頃同女が日記をつけていたことを示す証拠として、梅田たづ子の昭和二八年三月一二日付け検調(不―三九九)があるのに対し、右事実に反する証拠は存在していないこと、また、既述したごとく、同年一〇月一九日第三回検調に自白をした梅田は、同月二一日に橋本友明検事に否認の梅田手記を書いて提出した後、犯行否認の態度を崩すことなく、同月二四日起訴されたわけであるが、梅田美智子の昭和二七年一〇月七日付け第一回巡調(不―四二九)二項、不提出記録目録中の昭和二七年一〇月中に作成された書類中番号57、58の欄の各記載及び梅田作成の上告趣意書中の記載部分(確三―三二一三)を併せ考慮すれば、妹として梅田が逮捕されるような恐ろしい事をするとは信じられないでいた美智子は、同月二日から同月七日までの間に、梅田が警察で一切自白した旨の新聞報道を見て驚いた状態でいたところ、同月一五日梅田に対し、接見等禁止決定がなされたため、起訴の前後を通じて、梅田が初めて弁護人と面会して事情を話した同年一一月一三日頃の以前である同月一一日に、検察官からの求めに応じ、右日記を持参したことが認められ、この日記は言わば受動的に捜査線上に証拠として提出されたものであること、すなわち、美智子も、梅田の家族も同年一〇月二一日以降梅田が犯行を否認していることを知り得ない状況下で同日記は任提領置されたこと、仮に何らかの理由で美智子が、同日以降即座にその事情を了知したとしても、同女の第一回検調によれば、右日記は八七枚にも及ぶものであり、これを同月二二日(捜索の日)あるいはもつと長く見て同年一一月一〇日(任意提出の日)までに同女が作出することは不可能であると考えられること、更に、弁護人の原一審最終弁論によれば、日記に記載されている各日の天候が網走測候所長気象資料回答(確一の一―四七三)と符合する旨主張がなされ、この点に対する反論も反対証拠も存しないこと、加えて、美智子の原一審第五回及び第六回証言時において、検察官や各裁判官から同日記の真正作成に疑問を抱かれるような日付けの訂正の点、一〇月九日から新しい紙になつている点、一二月頃まで記載したというのに一〇月三〇日までの分しか記載がなかつた点などにつき綿密な尋問がなされたが、結局同女の証言によつてその疑問がほぼ解消されていること等が挙げられる。

e アリバイ成立の可能性

(序)

右美智子証言も、また日記それ自体の記載によつても、以下の証拠によつて認められる事実を併せ考慮すれば、昭和二五年一〇月八日及び一〇日、梅田が北見市内に出ることなく、美智子らと共に終日農作業に従事していたとの事実、あるいは、少なくとも、両日とも、梅田自白がその日の行動として述べている事実と相当部分矛盾する事実が存在しているのではないかとの疑いを払拭し去ることができない。

(関連証拠)

梅田家そして梅田自身の昭和二五年一〇月頃の生活状況、農作業状況を窺わせる証拠として次のようなものがある。なお、書証については作成日付け、証言については証言をした日の順序で列挙しておく。

【1】 前記梅田美智子の日記

【2】 司法警察員斉藤次夫作成の昭和二七年一〇月四日付け「事実調査について」と題する捜査報告書(不―二〇五)

【3】 斉藤敬吉の同月五日付け員調(不―二一〇)

【4】 梅田房吉の同月六日付け第一回員調(不―三七〇)

【5】 梅田美智子の同月七日付け第一回巡調(不―四二九)

【6】 梅田ナカの同日付け第一回巡調(不―三九三)

【7】 同女の同月一九日付け第一回検調(確一の一―四一九)

【8】 梅田房吉の同月二〇日付け第二回検調(確一の一―三八四)

【9】 北見市農業協同組合下仁頃支所長大江泰治作成の同月二二日付け調査依頼回答書(確一の一―四一一)

【10】 梅田房吉の同月二二日付け第三回検調(確一の一―四〇三)

【11】 梅田美智子の同年一一月一〇日付け第一回検調(確一の一―八四一)

【12】 梅沢敬次郎の同日付け第一回検調(不―二三三)

【13】 梅沢やゑの同月一一日付け第一回検調(不―二四八)

【14】 田中秀一の同月一三日付け第一回検調(確一の一―四二八)

【15】 斉藤敬吉の同日付け第一回検調(確一の一―四二四)

【16】 安田兼市郎の同月一四日付け第一回検調(不―二五八)

【17】 安田サダの同日付け第一回員調(不―二六三)

【18】 杉山憲逸の同月二〇日付け第一回検調(不―二八二)

【19】 梅田房吉の同日付け第五回検調(確一の一―四〇〇)

【20】 安田梅則の同年一二月四日付け第一回検調(不―二六八)

【21】 原一審第五回(昭和二八年三月一一日)及び第六回(同月一二日)公判における梅田美智子証言(確一の一―六三〇、六五三)

【22】 斉藤敬吉の同月一二日付け検調(不―三〇四)

【23】 梅沢敬次郎の同日付け第二回検調(不―三〇七)

【24】 梅田日出男の同日付け検調(不―四〇六)

【25】 梅田光春の同日付け検調(不―四二一)

【26】 梅田たづ子同日付け検調(不―三九九)

【27】 梅田ナカの同日付け検調(不―三九五)

【28】 梅田房吉の同日付け第四回検調(不―三八四)

【29】 原一審第一七回公判(同年一一月二五日)の梅田房吉証言(確一の一―一六七〇)

以上のほか、梅田自身のこの点に関する供述として

【30】 昭和二七年一〇月四日付け第二回員調の四ないし六項(不―九五)

【31】 同月一六日付け第一回検調の九項、一〇項(確一の一―一五八一)

【32】 同月一七日付け第二回検調の一項(確一の一―一五九三)

【33】 同月二四日付け第四回検調(不―九九)

【34】 原一審第二四回(昭和二九年二月二日)公判供述(確一の一―二一五二)

【35】 同第二八回(同年三月一六日)公判供述(確一の一―二二八八、二二九四、二三一五)

【36】 昭和三二年七月一七日付け上告上申書(確三―三二三六)

のうち三二七九丁から三二八八丁並びに添付の押切り器の図面(確三―三二九九)及び梅田方山林、田畑等図面(同―三三〇一)

【37】 再二審昭和四二年一月一〇日付け審尋調書(再二―九二〇)

【38】 当審昭和五七年三月二〇日付け上申書二八枚目以下

(認定事実)

以上【1】から【38】までの証拠を総合すれば(ただし、【21】の美智子の証言については、梅田と一緒であつたか否かについての結論的証言部分をすべて除き、日記の記載の朗読を求められ、これに関して質問を受け、応答していることによつて右日記の記載内容を窺わせる部分のみを使用する。)、以下の事実を認めることができる。

まず、梅田房吉、ナカ夫婦は大正六年一二月結婚して以来、北見市字大和一二号で農家を営んできたものであるが、昭和二五年九月、一〇月頃、梅田の家で農作業をするべき田畑、山林は、所有の畑が約三町一反五畝、水田が約一反、山林が約二町歩であり、このほか、近くの杉山憲逸方の畑約二反半位を借用していた。家畜としては、馬一頭、鶏等小家畜若干を有していた。

次に、家族及び農作業人員と梅田の占めていた位置についてであるが、家族は、父房吉(当時五九歳)、母ナカ(当時五三歳)、妹(次女)たづ子(当時二三歳)、妹(三女)美智子(当時一六歳)、弟(五男)日出男(当時一二歳)が当時梅田と同居していた家族で、姉(長女)花江、兄(長男)義春及び弟(六男)秋夫は当時既に死亡しており、弟(三男)和美(当時二二歳)は釧路市内に、弟(四男)満晴(当時一八歳)は北見市大通り東七丁目にそれぞれ住込み稼働して別居していた。

同居家族のうち、父房吉は、昭和二三年頃から神経痛で右手が曲らなくなり、灸の治療でどうにか動くようになつたものの無理な仕事はできず、以後畑仕事はほとんど梅田にやつてもらうようになり、房吉自身としては家の買物、部落の用事、野菜畑の手入れのほか、例えば、梅田が馬車で運んで来た豆等を降ろしたり、むしろを敷いたり、その上に豆を広げたりするなどの手にあまり負担のかからない畑仕事の手伝いをする程度であつた。特に、馬を扱つての作業や馬の飼料とするためにとうきび殻、デントコーン等を押切り器を用いて切断する等の作業はできず、前者は梅田、後者は梅田と美智子が行つていた。

母ナカは、脚気で、少し無理をすると手足がむくむために畑作業はほとんどできず、家の近くのかぼちや等の野菜畑の草取りなどの手入れ、水田の見回り、鶏等小家畜の世話の余力で、梅田らの刈取り作業、脱穀作業の手伝いをする程度であつた。

妹たづ子は、小柄で体も弱く、畑へは全くと言つてよい程出ることなく、炊事など家の中の仕事をしていた。農繁期の余程忙しい時に手伝いに畑に出る位のものであつた。

妹美智子は、この年の三月に中学を卒業し、その後家に居て、梅田と共に主として農作業に従事するようになり、以後、梅田逮捕時まで、この二人が梅田家の農作業の主力としての担い手になつた。しかし、美智子は右卒業前は、学校の休みの時に手伝いをする位のものであつたし、体も小柄な方(四尺七、八寸、一一貫位)で、梅田の指図に従い、比較的力を要しない作業や、梅田の作業の手伝いをするといつた従的立場にあつた。

弟日出男は、当時中学一年生であり、在学中の美智子と同じ立場であつた。

梅田は二男であるが、兄が昭和二〇年に戦死しているため、梅田家の跡取り息子の立場にあり、同年一〇月の復員後、ずつと同家にあつてその農作業に従事してきた。昭和二五年当時、二六歳の独身男性たる働き手として梅田家の農作業のまさに大黒柱の位置を占め、近隣農家の「模範青年」「稼ぎ道楽」と言われる働き振りであつた。また、梅田が他へ出面取りに行くことはあつたが、人を雇つて作業をさせるようなことはしていなかつた。

この当時、梅田家では、「五月号」と名付けられた馬を一頭所有し、農耕、運搬等に使役していたが、この馬は、昭和二五年春に、これ以前に使つていた牡馬と交換して入手した七才の競馬馬で、身が軽く、足も早いこともあつて、危険なため、房吉は、女、子供にはその扱いをさせず、専ら梅田がこの馬を扱つていた。房吉自身も、前記のとおり神経痛で体が不自由なので、蹄鉄修理などのために引いて行くことがある位のものであつた。そして、日々の農作業の最後に、使役したこの馬を馬小屋に戻し、これに飼料を与える日課となつていたが、昭和二五年九月、一〇月当時は、とうきびの果実を取つた残りの茎や葉と、一反ほどの牧草用地に栽培した赤花クローバーを切つて混ぜた物を与えていたところ、とうきびの茎などを一寸位に切り刻むのに使用していた押切り器は、比較的力を要し、危険でもあるので美智子一人ではできず、通常梅田と美智子の二人が組になつてこれを使用していた。一昼夜に与える馬糧として、長さ六尺位、幅三尺位、深さ一尺位の飼葉箱にほぼ一杯分を与えていたが、これを与え終わると一日の農作業が終わり、入浴、食事へと続く日課となつていた。

また、前記の田畑に、昭和二五年に植付けして収穫した農作物であるが、少なくとも、前記水田一反位に作られた稲、杉山方からの借用地のうち一反位に作られたきび、小麦、ライ麦、えんばく、同借用地のうち一反半位に作られた長葉大豆、このほか、秋田大豆など大豆類、長うずら豆、小豆、手亡、青えん豆、とうきび、馬鈴薯、ビート、ハツカ、そば、亜麻、えごま、とろろ芋、かぼちや、牧草としての赤花クローバーがあつた。また、冬期間の家畜の飼料とするため、この年から、秋口に、裏山のかや草を刈つて乾燥させて保存することとした。

更に、昭和二五年九月下旬頃から一〇月一〇日頃までの間に梅田家の田畑ではどのような作業がなされ、またどのような作業をしなければならない状態に置かれていたかについてであるが、まず九月、一〇月全体を大まかにみて、九月初め頃は夏作の麦類の脱穀、同月一五日の仁頃神社の秋祭りの日は一日作業を休み、以後豆類の刈取り、乾燥、一〇月一〇日頃から豆類の脱穀にかかるとともに大豆等の刈取りになり、一〇月一杯雑穀の刈取り、脱穀にかかるといつた段取りであつた。その間まる一日作業を休むのは九月一五日の祭りの日だけであり、農家として、主要な作物の収穫期に当たつていて、収穫と出荷又は保存作業、冬を迎える準備作業等に追われ、一年中でも最も忙しい農繁期になつている。そして、特に、前記【1】の日記、【2】の美智子証言によれば、九月下旬からの作業として、同月二三日には「そば刈り」「豆引き」、二五日には「とうきび刈り」、二六日には「手亡かけ」「稲刈り」「そば刈り」、二七日には大豆など「豆積み」「稲刈り」「手亡かけ」、二九日には「小豆落とし」「大豆刈り」、三〇日には「豆落とし」「大豆積み」「稲しばり」、一〇月一日には「稲かけ」「大豆刈り」「豆刈り」、二日には「豆の旋風機かけ」「稲きびの唐箕かけ」「大豆積み」「そば運び」「豆落とし」等がなされ、三、四、五日には橋造りと道直し作業、以後七日までと九日は不明であるが、八日は「えごま立て」「豆運び」「豆落とし」、そして一〇日には「豆乾かし」「とろろ掘り」「草運び」「草積み」「豆の俵入れ」「牧草刈り」等の作業が行われており、他方【10】の房吉検調五項によれば、生産物は、近くの山本澱粉工場に直接売つていた馬鈴薯を除いて、すべて農協に売り、その代金は全部房吉の貯金に入金されていたところ、【9】の農協回答書によれば、この年九月は一八日付けでハツカ、一〇月は三日付けでビート種子代、同月六日付けで小麦、同月一二日付けで青えん豆、同月三一日付けでハツカ、長うずら豆、小豆、手亡、一一月一五日付けで大豆、同月二六日、二七日付けで長うずら豆、大豆、ライ麦、一二月一〇日付けで大豆の名義で各入金が記されているから、それ以前にこれらの作物が農協に出荷されたわけであり、したがつてそれまでにその収穫、出荷作業が順次引続いてなされていたことになる。右の農協への出荷入金は、一〇月の末と一一月に最も集中しているところからみても、九月下旬から一〇月下旬にかけての収穫、出荷作業の繁忙さを推察するのはそう難しいことではない。なお、網走測候所作成の気象資料回答書(確一の一―四七三)によれば、九月一五日以降は、一七、一九、二八日が雨であつたほかは一〇月三一日まで雨の日はなく、九月末から一〇月一杯連日農作業が行われたものと考えられる。

加えて、そのような農繁期の中で、梅田らの毎日の生活過程、日課はどのようなものであつたかについてであるが、妹たづ子が朝六時頃起きて家族の朝食の用意をし、梅田と美智子は、六時半頃起床して朝食をとつた後農作業を開始する。房吉は七時か八時頃起きて食事し、妻ナカと共に家の近くの野菜畑の手入れなど自らの作業をする。昼には一同家に戻つて昼食をとり、一時間位休息をし、大体午後一時頃から午後の作業を開始する。そして、梅田と美智子は一日の農作業の最後の仕事として、馬を馬小屋に戻し、とうきびの茎などを押切り器で切つて、一日分を与え、日によつて早い、遅いはあつても、大体午後六時過ぎ頃から七時頃までに家に上がり、入浴、食事をして就寝する。なお、美智子は、九月一五日の作業を休んだ祭りの日と翌一六日、そして雨の降つた同月二八日の夜映画を見に出掛けている。

以上認定した事実を覆すような証拠は見当たらない。

(考察)

これらの事実を前提に、再度、【1】の美智子の日記と【21】の同女の証言を見直してみると、次の事に気付く。

まず第一に、美智子の日記の随所に書いてあり、そして一〇月一〇日欄にも記載してあつた「馬の草を切つた」とか、「とうきびを切つてやつた」という作業は、その内容において、押切り器を用いて行う日課であり、当時体の不自由な房吉もなしえず、専ら梅田と美智子の行う作業であつたが、比較的力もいるうえ、危険でもあつて、中学を出たての美智子一人ではできない作業として、まず必ずといつてよい程梅田と二人で組になつて行われていたものであり、そして一日のうちでその作業が行われる時期は一日の作業の最終段階、すなわち作業を終えて家へ上がる六時過ぎ頃から七時頃の直前の時期であることからして、この記載があるということは、その日その時期まで梅田が美智子と共にその作業をしていたものと推測するのが合理的である。昼間は、その馬を馬小屋の外に出して農耕、運搬に使役するわけであるから、その要がなくなつたとき、すなわち作業を終了するときにこれを馬小屋に収め、飼料を与えるというのが農家生活において合理的な姿であることは多言を要しない。

そうすると、一〇月一〇日四時頃仕事を切上げて本件犯行に赴いたとする梅田自白に対し、右の日記の記載はアリバイとなつていることになる。また、若し、仮にそのようにして早めに切上げて梅田が出掛けたとなると、この馬を馬小屋に収めたり、とうきびの茎等を押切りで切ることは美智子一人ではできないし、さりとて放置することを許されない日課なのであるから、房吉にでも手伝つてもらうほかなく、神経痛に悩む房吉にこのような作業をなさしめることは日課に外れる異常な事態なのであり、美智子の日記にも何らかその痕跡をとどめないはずはないのではないかと考えられる。

第二に、したがつて、舌足らずではあるが、その趣旨を証言する美智子の前記証言も、そしてまた、これを敷衍する【36】の梅田の上告上申書の記述も、以上の証拠に照らせば、若干の誇張部分が含まれていたことを否めないにしても、大筋においてそれなりの合理的根拠に裏打ちされているわけであり、少なくとも、有力な反対証拠が提出されるなどの事情が出現しない限り、これらを合理的根拠のない、身内びいきや犯人心理としての有利な事実の捏造等として一蹴する根拠は乏しいものと言わざるを得ない。

第三に、一〇月八日に関しては、前記日記に、「えごまを立てに行つた」こと、「それが終わつてから杉山の方へ行つて豆を運んで来た」こと、「豆を落とした」こと、「豆落としが終わつてから家へ上がつたこと」が作業として記載されており、美智子の証言では、えごまを立てることも、杉山の方の畑から馬車を使つて豆を運んで来ることも自分一人ではできないし、この日豆は四、五回運び、父房吉も手伝つて家のそばの角で豆を落としたのであり、この間梅田と一緒に作業をした記憶がはつきりとある旨述べられているのに対し、梅田自白では、この日昼頃北見市内に出て、羽賀と会い、既述のような打合せをして午後六時半頃自宅へ帰つたことになつており、前記美智子の日記及び証言は、明らかにアリバイを示す証拠になつている。また、第一、第二に述べた馬の世話、馬糧切りの点はこの日についても当てはまることである。

第四に、梅田自白によれば、九月二〇日頃から一〇月一〇日の二〇日間位の間に四回、一〇月の六日頃から一〇日までの間の五日間位の間に一日置き位に三回、それも六日頃は、時間は定かでないが、買物を済ませて、羽賀宅へ行つて、母親と話しているうちに昼頃になつたというのであるから、午前中から家を出て来たことになるし、午後一時頃に羽賀と同人宅を出て歩きながらホツプの儲け話をして帰つたというのであるから、自転車での所要時間も含めれば、二時半から三時頃に帰つたことになり、八日については前述のように昼頃(あるいは家を出たのはその一時間余前であろうか)北見市内へ出て、六時半頃帰宅、一〇日についても四時過ぎに家を出て、夜一一時頃帰宅したことになつているのであり、美智子の日記を含む前掲証拠によつて認定した前記事実は、全体として右自白に抵触し、その証拠は、右自白に重大な疑問を投げかける有力な反対証拠となつている。なぜなら、前記のような一年中でも最も忙しい程の農繁期に、前記のような家庭事情に置かれている大黒柱たる梅田が、五日の間に一日置きに三日、それも、二日間は真つ昼間、一日は代替の難しい馬糧切りを残しての作業時間中から北見市内に出て行くなどということは、有り得ないと言つてもよい程不自然な事と言わなければならないからである。また、梅田自白では、北見へ出た目的につき、九月二〇日頃は、「手拭、シヤツ、釘等を買うため」、一〇月六日頃は、「ちよつとした日用品を買うため」となつているが、前記【9】の農協回答書、【21】の美智子証言六三二丁裏から六三三丁表、【28】の房吉検調、【29】の同人の証言一六七四丁裏及び【35】の梅田の供述の各証拠を総合すれば、この程度の日用品は、房吉や梅田が下仁頃の市街、仁頃農協で買つていたし、それで済ましており、北見まで出るのは、特殊な金物等の買物か、盆などで農作業が休みの時等限られた特殊な場合だけであつたと認められ、ましてや、梅田第一回員調四項(確一の一―一七六七)にあるように、一〇月六、七日頃に仕事の合間を見て「遊びに」北見市街へ出るなどということは到底有り得ないことと言うほかはない。

更に、それにもかかわらず、仮に梅田自白にあるとおり、連日北見市街へ出て来たものとするならば、それは梅田の家族にとつて極めて異常なことであるのみならず、土地への定着性の強い農家生活を、同一の場所で大正六年頃から続けてきていることをも考慮すれば、近隣の住人にとつても異常なことであつて、裏付捜査をすれば例え二年経過後ではあつても、何らかその異常さの痕跡を残さないはずはないと思われるのに、前掲した証拠はもとより、全証拠を精査しても全くその痕跡を見ることができないというのも不自然なことである。

前掲証拠によれば、梅田家の財布は当時房吉が一手に握り、義光が買物をするにはいちいち房吉に断わつて同人から金をもらわなければできないことになつていたし、北見へ出るのに父たる房吉に断わらずに出るようなこともなかつたというし、何よりも農繁期の農家の大黒柱が抜けた穴は埋めようがないほど大きいことを考えればなおさらである。

<9> 嫁捜し

主として不提出記録中の証拠を中心とする以下の各証拠を総合検討すると、梅田は、本件犯行当時、このような凶悪な犯行に携わるものか疑問とならざるを得ないような嫁捜しをしていた状況を示す事実が認められる。

(関連証拠)

前記<8>cに掲げた証拠のうち、【2】ないし【5】、【7】ないし【10】、【12】ないし【14】(【14】については、その四項)、【16】、【17】、【20】ないし【23】(【21】については、第六回公判における証言中、六六八丁裏から六六九丁に記載されている部分)、【26】ないし【29】の各証拠

【39】 堀籠胞子の昭和二七年一〇月二〇日付け第一回検調(不―四三二)

【40】 梅田満晴の同月二二日付け第二回検調(不―四一八)

【41】 梅田房吉の同年一一月一〇日付け第四回検調(不―三八〇)

【42】 北見市警察署仁頃巡査部長派出所巡査部長斉藤次夫作成の同月一三日付け「昭和二五年度一〇月中の天候調査について」と題する捜査報告書(不―二五六)

【43】 溝口シズエの同月一五日付け第一員調(不―二七二)

【44】 中橋ソノの同日付け第一員調(不―二七五)

【45】 同女の同月三〇日付け第一回検調(不―二七八)

また、梅田の供述関係として

【46】 第一回検調九項

【47】 原一審第二八回公判供述(確一の一―二三一六)

【48】 原二審における昭和二九年一二月二日付け上申書(確二―二七一〇)

【49】 原二審における昭和三一年七月一七日付け上申書(確二―二九四八)

【50】 当審における昭和五七年三月二〇日付け上申書の一〇枚目以下及び三二枚目裏以下

(認定事実)

以上の証拠を総合すれば以下の事実が認められる。

梅田の父房吉は、梅田が数え年二六歳になる昭和二五年には嫁をもらつてやりたいと考え、同年春頃から近隣農家の梅沢敬次郎(当時三九歳位)に「息子の義光に嫁を世話してくれ。」と頼んでおいた。梅沢敬次郎は、梅田が真面目な青年で働き者であり、房吉に対し「良い嫁がいたら世話しよう。」と言つておいた。

そのような折り、同年九月一六日、敬次郎の妻「やゑ」(当時三八歳位)の叔母で、常呂郡常呂町字登一九二番地の農業安田兼市郎(当時五五歳位)の妻となつている安田サダ(当時五二歳)が、その長男と共に、実家にあたる右梅沢方のハツカ刈りの手伝いにやつて来た。翌一七日、ハツカ刈りをしながら、敬次郎は、サダに対し、近隣の梅田という家に義光という働き者の兄さんが居て嫁さんを捜しているが、登部落の方に良い嫁さんが居ないかという話をしたところ、サダから「家の付近の娘といえば、溝口さんの所に年頃の娘が居る。」旨を聞き、サダに「よろしく頼む。」旨言つておいた。

そして、同月下旬頃、梅沢敬次郎は、梅田方の近くにある山本澱粉工場に馬鈴薯を積んで行く途中、梅田房吉と出会つたので、房吉に対し、サダから聞いた、登部落の溝口という家に年頃の娘が居ることや、一度見に行つて来て梅田に世話したいと考えている旨を話し、その後、自分の妻やゑに「安田の叔母さんの話していた娘の話を梅田のおとつさんに話しておいた。」旨告げた。房吉は、敬次郎から聞いた右の話を梅田に伝えた。

一方、安田サダは、同年九月一杯、梅沢方でハツカ刈り等を手伝い、同年一〇月一日頃帰宅し、同月三日頃、夫兼市郎に対し「梅沢敬次郎の家では、梅田という人の息子を大変に褒めていて、どこかにその良い嫁が居ないだろうかと言つていた。」旨話したところ、兼市郎から「家の付近なら溝口出義さんところの娘のほかは適当な娘は居ないだろう。」と言われた。

そこで、安田兼市郎は、同年一〇月一〇日午後四時頃、登部落のお祭りの日で仕事を休んでいた溝口出義方を訪れた。主人は不在であつたが、障子張りをしていたその妻シズエ(当時四二歳位)に対し、四方山話の中で「実は仁頃に居る人で嫁さんを欲しい男があるのだが、お宅のフミ子さんを嫁に出さないだろうか。」と話した。ところが、この時には、フミ子には既に嫁ぎ先が決まり、三日後には相手方が結納を持参して来る段取りになつていたのであるが、兼市郎がせつかく親切に話してくれているので右事実を話しそびれたシズエは、「娘の事であれば夫に相談したうえでなければなんとも申上げられない。」旨を告げた。そしてシズエは、その夜、帰つて来た夫出義に、兼市郎の話をしたところ、夫から、フミ子は嫁に行くことに決まつていることを言つておけばよいのにと言われた。安田兼市郎は、別途、その娘は既に嫁入り先が決まつている旨を聞き知つた。

ところで、梅沢敬次郎は、前記のとおり、安田サダに梅田の嫁の世話を頼んでおいたものの、自分の所が妻と二人だけで農家を営んでいるものであるうえ、農繁期になつてきたことでもあつて、なかなか、安田サダを訪れて、その話を具体的に進展させることができないでいた。なお、梅沢方と安田方とは、この当時、自転車で片道優に二時間半位はかかる程の距離関係にあつた。

そして、一〇月に入つて間もなくの頃、敬次郎は、梅田房吉と会つた機会に「仕事が忙しくて三号(安田サダ宅のある常呂町登地区を通称「三号」と言つていた。)に行けないから、義光さんを出面に出してくれないか。」旨頼み、房吉の方は「そのうち出すから。」と返事をした。房吉は、このことを梅田に伝えた。

一方、梅田は、前記のように、父房吉を通じて、梅沢敬次郎が常呂町の登地区の溝口という家の娘を自分の嫁の候補者として考えている旨を聞かされ、自己がかつて郵便局の集配手をしたいた(梅田の第一回検調によれば、一七歳の秋頃から一八歳の春までと、二〇歳から二一歳で軍隊に入るまでの間は仁頃郵便局で集配手をしていた。)ときに、溝口宅も自分の配達区域の中に入つていたので、その家の所在とそこに娘が居ることは分かつていたので、その娘を見るため、同年一〇月六日頃から一一日頃までの間のある日の午前一〇時半頃、自転車で、溝口宅へ単身赴き、溝口宅へ入る口実として豚の子を買いに来たように装うことを案出し、溝口宅へ入つて行つて、在宅していた娘に対し「お宅に売つてくれるような豚の子は居ませんか。」と申向け、これによつてその娘を見、「居ないよ。」との返事で引下がり、午後三時頃帰宅した。

そしてこれにより、梅田は、右の溝口家の娘を嫁にもらう話に乗り気になつて、梅沢敬次郎に、早くその話を進めてもらうためと併せて出面賃を得て小遣銭稼ぎをするべく梅沢方の畑仕事の手伝いをすることにし、同月一三日の朝、梅沢方に行き、敬次郎に対し、「この間話のあつた娘を嫁にくれるならもらう。」「その家へ行つてその娘さんを嫁にもらえるかどうか聞いて来て欲しい。自分は、二、三日前にその家へ行つてその娘を見て来た。」旨話した。敬次郎と共にこの話を聞いていたその妻やゑは、誰も梅田に付いて行かないのにどのようにして先方の家へ行つたのか不思議に思い、梅田に対し、「何と言つてその家へ行つたの?」と尋ねたが、梅田は、これに対して、「豚の子は居ないかと言つて行つたのだ。」と返答をした。敬次郎は、梅田の右申入れに対し、「仕事が忙しいからなかなか行けない。」旨話すと、梅田は、「あなたの家の仕事を手伝うから嫁の話をまとめて来て下さい。」旨申出た。敬次郎は、これを了承し、「明日常呂に行つて来てやる。」旨述べた。この日、梅田は一日、梅沢方を手伝い、三人で大手亡を四反位刈取つた。梅田は、翌一〇月一四日も朝七時頃から梅沢方の手伝いに行き、昨日取つた大手亡のはさ掛けをした。

梅沢敬次郎は、同日午後、約束どおり前記溝口宅の娘の話を進めるため、安田兼市郎宅へ赴くこととし、昼食後、午後一時頃家を出、午後四時頃同人宅へ到着した。

この日、安田宅では、妻サダと子供二人が、右兼市郎の弟である分家の安田梅則及びその家族と共に、他の農家へみぶよもぎの苗取りの手伝いに行つていて不在であつたが、兼市郎は、丁度精米所から帰つて来て馬車をはずしているところであり、梅沢敬次郎は、早速、兼市郎に、前にサダから聞いた溝口家の娘のことを尋ねたところ、兼市郎から、その娘は既に嫁入り先が決まつている旨を聞かされ、「溝口さんの方が駄目ならば、ほかにどこか嫁に出るような娘は居ないだろうか。」と尋ねてみた。兼市郎が「中橋岩吉さんの所にも一人、娘さんが居るのだが。」と言うので、敬次郎は「そこでも良いから話をして欲しい。」旨述べ、即座に、二人連れ立つて右中橋宅を訪れた。折良く岩吉、ソノ夫婦が居合せ、兼市郎は、二人に、梅沢敬次郎を、自分の妻の実家の仁頃で農業をやつている人として紹介し、その仁頃の梅沢宅の近所の梅田という家に正直でいい息子が居るから中橋方の次女を嫁として出さないかと打診したが、中橋夫婦の意向は、同女は体が弱く、病院通いをしている身であり、まだ嫁に出すつもりはないというものであり、二人は、やむなく中橋宅を辞し、そこで別れた。安田兼市郎は帰宅後、妻サダに右のいきさつを話した。梅沢敬次郎は、同夜一一時頃自宅に帰りつき、妻やゑに右経緯を話し、一、二日後梅田を訪れて、房吉や梅田にも右経緯とともに溝口家の娘は既に嫁ぎ先が決まつていて駄目である旨を伝えた。

なお、梅田は、一〇月一四日、昼過ぎから梅沢敬次郎が登地区へ出掛けて行つた後も、同人の妻やゑと共に同人宅の作業を手伝い、夕方仕事を終わつてから、同人宅で夕食を御馳走になり、二日分の手間賃として現金五〇〇円をやゑから受領して帰宅した。

以上のように、梅沢敬次郎、安田兼市郎を通じての嫁の話は成功しなかつたが、翌昭和二六年になつて、梅田は、梅田家と付合いのある仁頃の高井愛次郎及び高井正美(堀籠胞子の姉の夫)の世話で、美幌町豊岡の農家堀籠俊次の娘胞子と同年二月五日頃見合いをし、同年三月一四日頃結婚した。

(考察)

以上の事実に梅田自白を対比させてみると、後者において羽賀との共謀過程や犯行日とされている昭和二五年一〇月六日、八日、一〇日という時期は、実は、父房吉を通じ、近所の梅沢敬次郎から溝口家の娘を自分の嫁の候補として考えているが、農作業が忙しくて行けないし、自己に出面に来て欲しい旨言われていた時期であり、また、梅田としても登地区の溝口家は思い当たる家でもあるので、一度、折を見てその娘を自分の目で見に行こうと考えていた時期でもある。そして、梅田は、実際溝口宅へ行つたのである。このこと自体は、前記【13】の梅沢やゑ検調によつて裏付けられている。この【13】は、梅沢敬次郎の妻やゑが梅田の起訴後、第一回公判前である昭和二七年一一月一一日橋本友明検事の取調べで供述した調書であり、公判に提出されなかつたものであるから、梅田自身は、この調書の内容はもちろんその存在自体も、当審において、検察庁の協力を得て取寄せ、弁護人に閲覧を許すまで、知り得なかつたはずのものである。それにもかかわらず梅田自身は、前記【47】の示すとおり、昭和二九年三月一六日の原一審第二八回公判において溝口宅へ行つたことを陳述していたのである。

なお、溝口宅へ行つた日時については、右の【47】、【48】の梅田上申書では一〇月六日であると指摘し、その記録は確かであると言つていたが、この度弁護人に閲覧を許した前記【13】の梅沢やゑの検調では、梅田が梅沢方へ出面に行つた二日のうちの初めの日の朝に、梅田が「二、三日前に行つて来た。」旨述べていたとなつているのと同じく、【50】の梅田上申書の一二枚目表では、「実は二、三日前にちよつと自転車で一走り見に行つて来たと話したのです。」となつている。このほかにはこの日時を示す証拠は見当たらない。梅田が梅沢方へ出面に行つた日が一〇月一三日と一四日であることは前記の証拠関係からまず間違いのないところと考えられる。

特に【17】の安田サダ員調、【20】の安田梅則検調、【42】の捜査報告書、【44】、【45】の中橋ソノ員調及び検調を総合し、その【20】が日記の記載を根拠に一四日と特定していること、その日の天候も【42】と符合していることが重要な根拠となる。もつとも、【13】の梅沢やゑは、敬次郎が登地区へ出掛けたのは、梅田が手伝いに来た最初の日の午後としているが、【12】、【23】の梅沢敬次郎の供述及び【50】の梅田上申書に対比すると右やゑの記憶違いであると考えられる。

さて、以上により、梅田が梅沢方へ手伝いに行つた最初の日である一〇月一三日の「二、三日前」という日を文字どおり当てはめれば、一〇月一〇日か一一日ということになる。一〇日は犯行日であるが、前記の梅田美智子の日記の当日の記載に照らしてまず溝口方へ行つた日ではないと考えられる。梅田の当初の一〇月六日である旨の記憶が正確なものであるならば、梅田自白では、この日北見市街へ買物へ出て、昼頃羽賀宅へ赴いたことになつているのであるから、真つ向から矛盾する事実ということになる。これまでの証拠によつては確定し難いところである。しかしながら、羽賀に金儲けの話に誘われ、一〇月八日には大山を殺害して金員を強奪する決意をし、一〇日には実行する姿と、嫁の口を聞かされて、その娘の家に会いに行つてその顔をながめて来ることを期している姿とは常識的に見て、なんともそぐわない不自然さを指摘しないわけにはいかない。

また、梅田自白では、犯行日後は、今までに持つたことのない四万五〇〇〇円という大金を持ち、しかも大山を殺して取つた金であるために、夜になれば羽賀や大山の顔が目に浮かんで寝付かれず、毎日暗い気持でいて、何回その金を焼いてしまおうと思つたか知れないという気持でいたことになつているが、これまた、犯行日から中二日しかたつていない一〇月一三日早朝、嫁の話を早く進めてもらうことと小遣銭稼ぎの一石二鳥をねらつて梅沢方へ行つて、仕事を手伝うから溝口方へ行つて話を進めて欲しい旨を自分の方から積極的に催促しに行き、実は二、三日前にその家へ、売るような豚の子はいないかと言つて入込み、娘の顔を見て来た旨を話す姿はこれまた統一して受取るには不自然すぎると思われる。

<10> 梅田の人間像について

梅田の親兄弟、近隣居住者、軍隊時代の僚友等、梅田が逮捕される以前の日常生活において梅田と接していた者が梅田を評するのに、羽賀はともかく、こぞつて正直者、働き者、信頼に足る、陰日向がないなど供述し、これに反する証拠が一つも見当たらないという点も本件のような凶悪犯罪の実行者像とそぐわない点として指摘される。

<11> 動機

梅田自白では、昭和二五年一〇月六日頃、買物のため北見市内に出掛けた際、何となく羽賀宅を訪れ、そこで会つた羽賀と二人で梅田の帰り道の方へ歩いて行く途中で、羽賀から、ビール原料のホツプの取引をして金儲けをする話に誘われ、札幌から来たブローカーになるよう言われたのに対し、「私も家の生活は苦しい方でしたから羽賀の様な話で金儲けができればよいと思つたので」その仕事をする時期を尋ね、今度、市街へ出てくるとき羽賀宅へ寄るよう言われ、同月八日市街へ出たところ、出会つた羽賀に連れられて取引場所へ行く途中、羽賀から「今になつてから断らんだろうな。」と二回位念を押されて「絶対断りはしない。」と答えていたところ、取引場所へ行かず、本件犯行現場付近で、急に、実は金を持つてくることになつている大山を殺して金を奪い、死体を穴に埋めるという話を聞かされ、「今になつてからやめるというならば、お前の命にかかわるぞ。」と言つて脅されたので、「私も気が弱かつたせいもありますが、『命にかかわる』と言つて脅されたのと、羽賀の話を感違いしていた点はありますが、何度も羽賀に対して羽賀の金儲けの話を手伝うということをはつきり言つていた意地とで、大山を殺して金を取るという話を聞いた後から今更そんな事をするのはいやだと言い切れなくなつてしまつたのです。そこでとうとう羽賀の話を引受けたのです。」ということになつているが、前記<8>、<9>、<10>で詳述したような梅田の人間像や生活振りに照らすと、強盗殺人、死体遺棄という重罪に加担する決意をする動機としてはあまりに弱すぎると言わざるを得ない。ホツプ取引の儲け話と強盗殺人、死体遺棄の話との間には常識的に考えても大変深い溝があると言うべきであり、命が危ないぞと一回脅迫文句を言われ、それまで儲け話を手伝う手伝うと言つてきた手前などという程度のことで乗越えられると考えるのは不自然である。

<12> 犯人として結付ける証拠

羽賀が、昭和二七年一〇月二日に共犯者として梅田の名前を持出す以前において、捜査官が入手し、あるいは作成した大山事件関係の証拠で現在残存しているものはおよそ百数点に上るが、この中に梅田をにおわせるものはただの一点も存しない。大山事件において、羽賀の名前が早くから捜査線上に浮かんでいること、また、小林事件において、羽賀ももちろんのこと、清水の名も逮捕の半年以上も前から浮かんでいることと対照的である。

梅田逮捕後起訴までの間に、同様およそ一七〇点の証拠が入手作成され残存している。この中にも、梅田の自白関係調書及び羽賀の供述調書類並びに自白時及びその直後、その自白を是認するような言動があつたとする桐山種三郎の第一回検調のほかには、梅田を本件犯人として結付ける証拠は存しない。取分け、梅田が犯行に供し、投げ捨てたとする重要証拠物の七徳ナイフすら、警察官らの懸命な捜索にもかかわらず発見されていない。

梅田起訴後第一回公判まで一月半程の期間があるが、この間に、羽賀の本件大山事件の犯行の中枢部分に関する検調が作成されるとともに、梅田自白、羽賀供述両者の裏付捜査がなされ、羽賀の検調も含め、同じくおよそ一七〇点を越える証拠が入手又は作成されているが、羽賀については、この間の捜査により、辰巳食堂への出入り、営林局時代の勤務振り、バツトの入手先、両親、軍隊時代の僚友や営林局、林友会での上司等の述べる人物像、犯行後の金員の費消状況等につき、裏付けの意味内容を持つ証拠が収集されてきているが、梅田については、前記<8>アリバイ、<9>嫁捜しの項で援用したような、公判に提出されずに終わつて不提出記録中に残存している方が多い証拠、すなわち、犯行立証に役立たないばかりでなく、逆に反対証拠の意味を持つような証拠ばかりが集まつてくる結果となつている。

第一回公判以降も、裁判所における審理と別に捜査官の捜査が行われており、結審までにおよそ七〇点を越える証拠の入手、作成がなされているが、この中にも梅田を犯行に結付けるようなものは見いだせない。ただ、梅田の逮捕時以後の言動に関する阿部正一の第二回検調(確一の一―五六三)と横道春雄の第一回検調(同―五六六)が含まれているだけである。絞頸縄に付着していた頭髪、昭和二九年四月頃本件犯行現場付近の山林から発見された背広上衣について、いずれも梅田との結付きについて捜査がなされたが、結付きがないとの結果を得て不提出記録中に眠ることとなつた。また、昭和二八年三月一一日の第五回公判において、梅田美智子が、梅田の犯行日につき、自己の日記に基づいてアリバイ証言をなし、翌三月一二日引続いて開かれた第六回公判において正式に弁護側からアリバイ証人として取調べられることになつたため、同日から一〇日間位の間、捜査官において、梅田の両親兄弟、近隣住人について犯行日頃の梅田の言動及び美智子証言の信用性に関する学校時代の成績や知能等につき集中的な捜査がなされているが、これまた前と同じ結果でほとんど不提出記録の中に眠る結果となつている。

犯行に実際に携わつた者につき、いくら発覚が犯行後二年を経過した後であるからと言つて、これほどの捜査がなされて、これほど徹底して見るべき裏付証拠が現れないというのも不自然なことである。

(6) 自白内容の不自然な変遷

梅田の供述は、捜査段階において、否認、自白、否認、自白、否認という全体的変遷があるが、ここではそのうち、自己供述の内容自体にも体験した事実を供述したものとしては見逃すことのできない変遷があることを指摘しておく。

まず、梅田の自白の内容をとどめている証拠を作成日の順に符号を付して列挙すると、

【1】 昭和二七年一〇月三日付け第一回員調(確一の一―一七六七)

【2】 同月四日付け第二回員調(不―九五)

【3】 司法警察員遠藤富治作成の同日付け実見(不―一六)

【4】 同日付け第三回員調(確一の一―一六五一)

【5】 同月八日付け検調(不―九八)

【6】 副検事岡部良秀作成の同月八日付け検証調書(確一の一―四七六)

【7】 同月一六日付け第一回検調(確一の一―一五八一)

【8】 同月一七日付け第二回検調(確一の一―一五九三)

【9】 同月一九日付け第三回検調(確一の一―一六一四)

となる。

以下、共謀、実行行為、犯行後の状況まで時間的経過の順に変遷箇所と変遷内容を列挙する。

<1> 大山と会つた回数

【1】の員調では、犯行前二回大山に引合わされたことになつているが、【8】の検調では、九月二〇日頃の一回だけということになつている。

<2> 梅田が一〇月六日頃北見市街へ出て来た目的

【1】の員調では、「仕事の合間を見て」、「遊びに」出て来たことになつているが、【8】の検調では、「何を買いに出たのか品名は思い出せませんがちよつとした日用品を買うために」出たことになつている。

<3> ブローカー演技の話

【1】の員調では、一〇月八日頃、羽賀と会つた際の大山を殺して金を取れという話の中で、ブローカー風の格好をして大山を連れて行けということを羽賀から言われたことになつているが、【8】の検調では、いまだ犯行を打明けられる前の一〇月六日頃になされたホツプ取引による儲け話の中でその話が出たことになつている。

<4> 梅田が犯行に加わる動機

【1】の員調では、羽賀とは、軍隊時代一緒になつて、頭が良くて何をやらせてもできないことがないということで尊敬していたし、復員も一緒で特に親しく感じていた関係で何の疑問も抱かず、羽賀が言うのに任せたとしか記載がないが、【2】の員調では、金欲しさのあまりとされており、【8】の検調では、自分の家の生活苦、儲け話を途中でやめたとは言わないなと何度も念を押された経緯、命にかかわると脅迫されたことの三点を上げている。

<5> 犯行の打明け場所

【1】員調では、羽賀と会つた東五、六丁目辺りから東陵中学校裏手辺りの山径に行く過程でその話をしたことになつているが、【8】の検調では、その過程で取引場所の佐藤という家を見ておこうとの話がなされたというだけのこととされており、犯行現場付近を通り過ごしてから犯行現場付近まで戻り、そこで話したことになつている。

<6> 実行行為者

【1】の員調では、羽賀は柴川木工場まで大山を連れて来るだけで、そこから先大山を連れて行つて殺害し、金員を奪うのは、初めから梅田が一人でやることになつていて、羽賀が共同実行するとの前提は全く触れられていないのに対し、【8】の検調では、一応は二人で共同実行する建て前になつていて、ただ当日羽賀が若し来れなかつたときは梅田一人でやるよう言われたことになつている。

<7> バツトの受渡し

【1】の員調では、一〇月八日頃の大山殺害、金員強奪の話が羽賀からあつた際、羽賀が、「野球の『バツタ』の切つたのを出して、これで一歩下がつて頭をたたきつけ、」と指示し、その日梅田自身が青年会館の裏縁の下に突つ込んで隠しておいたことになつているのに対し、【8】の検調では、既述のとおり、その日は、羽賀は、「そのバツトは俺が東陵中学の近くにある青年会館の裏側の縁の下に入れて置く」と言つただけで、そのバツトを持参はしてなかつたし、したがつて、梅田に手渡しもしなかつたし、また、青年会館の裏側縁の下にそのバツトを入れたのも梅田でなく、後に羽賀が入れたことになつている。更に、一〇月一〇日の犯行直前に、青年会館へそのバツトを取りに行つた時間と状況について、【1】では、北見市街を回つて時間つぶしをした後、午後七時過ぎ頃柴川木工場へ行き、それから青年会館へ行つてバツトを取つて来たことになつており、しかもバツトを捜すのに苦労して時間がかかつた状況など何も供述されていないのに対し、【9】の検調では、時間つぶしの後、午後六時半頃青年会館に着いてバツトを捜したことになつており、自分が隠したものではない関係で、手探りで二〇分間位も捜してやつと探り当てたことになつている。

<8> 青年会館の位置

梅田自身が作成したものということになつている【1】の員調の添付図面によれば、仁頃街道から分岐して本件犯行現場付近へ通ずる山径より更に仁頃寄りの所に青年会館が描かれていて、明らかに誤つた位置に記載されているが、【3】の実見以降(特に【4】の員調、【8】の検調の各添付図面として梅田自身が作成したもの)では、右の山径より北見市街寄り、すなわち、東陵中学校と右の山径の間に正しく記されている。

この点の変遷について、梅田は、一〇月四日初めて現場へ連れて行かれ、その状況を知るとともに、青年会館との位置関係も現認したので、以後正しくその図を書けるようになつたのである旨主張しており、この主張に沿う結果となつている。

<9> 凶器の使用順序及び刺突部位についての羽賀の指示

一〇月八日頃の会合の際羽賀から梅田に対してなされた殺害方法についての指示のうちで、三種の凶器中、ナイフ使用の順番については、【1】の員調では、まずバツトで頭をたたく、次にひもで首を絞め、最後にジヤツクナイフでコメカミを突刺せという順序で指示をしたことになつているが、【8】の検調では、最初がバツトによる頭部殴打であることは同じだが、二番目にナイフによる頭部刺突、最後に細引による絞頸の順序で指示をしたことになつており、後二者の順序が入れ変わつている。また、そのナイフで刺突すべき部位については、【1】の員調では、「コメカミ」を突刺せと言つたことになつているのに対し、【8】の検調では、「大山の頭を刺せと言いました。ただ頭のどこを刺せとは言いませんでした。」となつている。

<10> 一〇月一〇日青年会館から柴川木工所までバツトを運ぶ態様

【1】の員調では、「自転車につけて」運んだことになつているのに対し、【6】の検証調書及び【9】の検調では、「手に持つて自転車に乗り」柴川木工所まで来たことになつている。しかも、【9】には、「その間バツトを隠して行かなかつたのは、人通りもないし、戸外も暗くなつておりましたから他人に見つかる心配はないと思つたからです。」とその理由がすぐ引続いて記載されている。

<11> ナイフの柄に巻いた布の色

【4】の員調では、「黒い布を巻いて使つた」となつている(確一の一―一六五四)が、【9】の検調では、「淡い青い様な色」(同―一六二四)となつている。

<12> ナイフの刺突部位

【1】の員調では、頭部「コメカミ」辺、【3】の実見では、「殴つたと思われる所」となつていて、バツトで殴つた部位は、「大山の後頭部」となつている。【6】の検証調書では、単に「頭部」【9】では、バツトによる殴打で、大山が、道路の右端の斜め後ろに仰向けに近い姿勢で倒れ、顔は大山自身から見て右側の方に少し曲げ、身体を少し動かし「ウウン」「ウウン」とうなつている状態を前提に、自分は大山の頭の方にいて、腰を低くして右膝をつき、ナイフを右逆手に持つて、大山の頭を目掛けて、上から下に真つすぐ突下ろしたが、夢中だつたのでどこに突刺さつたのかはつきりしませんということになつている。

<13> 絞頸と脱衣箇所までの運搬との関係

【1】の員調では、絞頸し、細引の一方の端を絞めた細引に挟み、これを道路横やぶまで引つ張り込んだということになつているが、【3】の実見では、麻ひもを大山の首に巻付けて絞めながら引つ込めたことになり、【4】の員調では、麻ひもを首に巻いて絞付けて引込んだとされ、【5】の検調では、絞頸により大山は絶命し、それからナイフを投棄した後、死体の両手をつかんで道路右側の斜面に引きずり下ろした、【9】の検調では、絞頸して、縄の端を交錯し、挟み込んだ後、大山の両手を持つて引下ろしたことになつている。

<14> ナイフの投棄について

【1】の員調では、大山の死体を穴に入れ、手で土をかけて埋めるとすぐナイフを沢に投げ捨てたことになつており、明記されてはいないが、埋めた穴付近に居て、その場所からナイフを投げたことになろう。【3】の実見では、刺した直後沢の下手の方向に投げたとされ、【4】の員調も同様に刺した直後、その場所で下手の方に向かつて投げたことになつており、大山の死体を脱衣箇所へ運ぶ前、まだ山径の刺した場所から投げたことになつているわけである。【6】の検証調書では、更に変わつて、ナイフで刺し、更に細引で絞頸して絶命させた後で、かつ、死体を脱衣箇所へ運ぶ直前、東方に高く力一杯投げたことになつている。投げた時居た場所は【3】の実見、【4】の員調と同じであるが、絞頸の前か後かで異なつている。

【9】の検調では、刺した後すぐナイフを引抜き、その場所から付近の沢の木の生えている方に向かつて力一杯投げ捨てたということで、また、【3】、【4】の供述に戻つている。

投棄方向については、【1】の員調では、死体を埋めた穴から更に下手の沢の方、【3】、【4】では、山径上から沢の下手、あるいは単に下手、【6】の検証調書では、刺した山径の所から東方というとほぼ埋めた穴の方向、【9】の検調では、沢の木の生えている方というので、埋めた穴付近から沢の下手全般を含む漠然とした表現になつている。

なお、このナイフの投棄時期などについての供述の変遷が生じた原因につき、梅田は、昭和二七年一〇月二一日付けの梅田手記(再一―一八七)や再二審における昭和四二年一月一一日の梅田本人の尋問(再二―九六〇)の際などに、初めは、殴つた所でなく、大山の死体を引つ張つた最後の沢の上で投げた旨述べていたが、警察官からそれではナイフと死人の手と一緒に引つ張つたことになるが、そんなことして引つ張れるかと反問され、考え直して、頭を突いた所で投げたと供述を変えた旨を申述し、これに沿う結果となつている。

<15> 大山の衣類等を風呂敷に包んだ時期

【1】の員調では、大山の衣類を脱がせて裸にした直後に包み、それから死体を運んだことになつているが、【3】の実見では、死体を穴に埋めた後、脱衣箇所に戻り、そこで大山の衣類全部を包んだことになり、それが【4】の員調では、また、【1】と同じく脱衣後すぐに包んだという供述に戻り、【6】の検証調書では、これがまた、【3】と同じく死体を埋めてから包んだと変わり、【9】の検調も、これと同じく埋めてから戻つて包んだことになつている。【1】は一〇月三日の取調べ、【3】と【4】は翌一〇月四日の実況見分と取調べである。二日の間にこの点の供述が二転しているわけである。そして、【3】は四日の午前九時二〇分から午前一〇時二〇分の間になされた実況見分に際しての梅田の指示説明であり、【4】はその後検察庁へ事件送致がなされ、坂本好副検事の弁解録取に際して事件全体の否認をし、その後警察へ戻つて来て否認を翻して自白をした時の調書でありいずれも、同一の日のうちに同じ遠藤富治巡査部長によつて作成されたものであるにもかかわらず、その違いが生じた理由については何ら説明がなされていない。

<16> 穴の位置の確認行為の有無及び時期

【1】の員調では、大山の衣類を脱がし、それを風呂敷に包んだ後、死体の手を引つ張つて穴の所まで引きずり、穴に転がし込んだことになつていて、穴の位置を確認にいつたとの供述はない。【3】の実見以降のものにはすべてそれがあるが、確認に行つた時期については変遷がある。【3】の実見、【4】の員調では、大山を裸にした後、その両手を持つて、草やぶの中を穴の上まで引つ張つて来て一時死体を置いて穴を見てきてから引きずり込んだことになつているが、【6】の検証調書では、大山の着衣全部を脱ぎ取つた後に沢の下に下りて行つて穴の掘つてあつた箇所を見きわめて再び死体の箇所に戻り、死体を沢沿いに引きずり、一旦休んでから、死体の手をつかんで、急な傾斜を引きずり下ろして穴に入れたことになつている。すなわち、脱衣箇所に死体を置いたまま穴を見付けに行つたことになつている。他の調書では、脱衣箇所から死体を引きずつて、ほぼ穴に近い崖の上辺りに死体を一旦置いて、穴を捜しに行つたことになつているのに対し、【6】の検証調書では、その付近は単に「一旦休んだ」にすぎないことになつているわけである。【9】の検調は、【3】、【4】とほぼ同様な記載となつている。

<17> 死体運搬経路

【1】の員調では、死体を埋める穴が沢床にあること自体記述されていないわけであるが、その添付図面でも穴が沢の中にあるのか、沢の上にあるのか、崖の中途にあるのか明確でなく、殴打昏倒した場所と思われる所から穴への経路も記載されていない。同図では、殴打昏倒位置から仁頃街道とほぼ平行に北見市街寄りの方へ来て沢にぶつかる辺りに穴があるような位置関係が描かれている。

【3】の実見は、梅田の指示により実況見分したところを遠藤富治巡査部長が記載したものであるが、仁頃街道とその山径の分岐点から約四四間その山径を入つた所が殺害場所であり、山径の殺害箇所からその山径にほぼ垂直方向に沢の方へ四間入つた所が脱衣箇所で、そこから右山径に平行に沢の下手方向へ約五間行つた所が死体を一時置いた箇所となり、そこから垂直に山径と反対の沢の方向へ真つすぐ五間位行つた所が丁度沢の中で、死体の埋没箇所だつたことになつている。【4】の員調の添付図面では、殺害箇所と穴の位置関係は、ほぼ【1】の添付図面と同じであるが、その間死体を運んだ経路と思われる線が描かれており、殺害場所と穴のほぼ中間地点で、両者より沢の下手方向へ少し出つ張つた位置に○印(これが、脱衣箇所なのか穴を捜すために死体を一時置いた箇所なのか判然としない。)があり、そこからやや沢の上手に戻る方向へ延ばした直線が沢の中に至つた所に埋没穴が描かれている。【6】の検証調書の添付第四図も、梅田の指示説明に基づいて岡部副検事が作成したものであるが、仁頃街道と右山径の分岐点から約九八メートルその山径に入つた所が殺害箇所であり、そこから約六メートル沢寄りに入つた所が脱衣箇所、そこから山径に平行に、沢の下手へ向かつて約七・四メートル行つたところが一旦休んだ所、そこから沢との境をなす崖に一番近い所まで一・九メートル、そこから約五〇度の傾斜の崖を沢の下手方向へ真つすぐ下りた所が埋没穴の南端になつている。

なお、埋没穴の両脇の崖は、傾斜約八〇度で、深さ一・三メートルの穴の底から道路側崖縁のアカダモの木の根まで垂直に約四・二メートルとなつている。【9】の検調の添付第六図は、梅田自身の作成したものであるが、殺害場所、脱衣箇所、裸にして引つ張つてきた所、埋没箇所と分けて【3】に近い図が描かれている。【3】、【9】の添付図面は、いずれも、死体を裸にして引つ張つて来て一旦置いた場所から穴までがほぼ一直線に描かれているのが特徴であるが、【6】によれば、それでは約八〇度の傾斜の崖を四メートル強も下りなければならず、そこを死体の手を引いて下りるのは至難と考えられるところであるが、この関係を明示しているのは【6】だけである。

<18> 強取金の使途

【1】の員調では、煙草銭にして正月過ぎ頃までに皆使つてしまつたことになつているが、【9】の検調では、昭和二五年の一一月末頃までに約五〇〇〇円を使い、同月末頃三万六〇〇〇円を自宅の風呂場で燃やし、小遣銭として千円札三枚と小銭を残したが、これは昭和二六年の夏頃までに費消したことになつている。使つた分の使途は、煙草代、馬具の修理費、自分の衣類、釘、トランク、手提鞄等を買う時の足し金、先妻の入院見舞として果物や養命酒を買う時の足し金であるとしている。更に、大部分を焼却した理由として、「私はそれまで四万五千円という大金を持つたことがありませんでした。それまでに自分が持つてみた最高の金額は一万円位のものでありました。金額がその様に大きい上にその金は大山を殺して取つた金であるため、私はその金を持ちながら毎日暗い気持で居りました。エエイ、焼いてしまおうと何回思つたか知りません。焼こうと思うと自分の家の経済的な苦しさを思い出し、なかなか焼くまでに至りませんでした。夜になれば大山や、羽賀の顔が目に浮かんできて、なかなか眠れませんでした。このような苦しい気持で日を送つているうちにどうしても右のような大金を持つているのが耐えられなくなつて(中略)燃やしました。」

と記述されている。

この点の供述の変化の原因について、梅田は、再二審における昭和四二年一月一〇日の梅田の尋問に際し(再二―九〇一)、羽賀から受取つた強取金の使途を問われて、初めは、丸太を売つてもらつた金が一万円位あつて、それで買つた品物を当てはめたが、それでは全然足りないのではないかと問い詰められて返答に窮し、「焼いた」と答えた旨申述している。不提出記録中の阿部正一及び横道春雄両巡査共同作成の昭和二七年一〇月四日付け「大山事件の参考書類について」と題する書面「不―二〇二)によれば、梅田が、羽賀から受取つた金の使途を別紙二枚に記入したので添付し報告するとして、梅田が自ら鉛筆で書いたものと思われる合計八六六五円に及ぶ使途品目、金額及び費消時期を表にしたわら半紙二枚が添付されており、更に、梅田の同月二四日付け第四回検調(不―九九、これは、一〇月二一日梅田が否認に転じ、それまでの取調べ検察官であつた橋本友明検事に対し、いわゆる否認の梅田手記を提出した後、穴澤定志検事が昭和二五年秋頃から翌二六年七、八月頃までの梅田の収支状況を取調べたときの供述調書である。)によれば、昭和二六年二月中頃、楢丸太約一一石を仁頃九号の浅野十九二に一万一〇〇〇円で売り、二、三日後にこの代金全額を自分がもらつたこと、これを自分の小遣銭にすることはあらかじめ父の了解を得ていたこと、右のうち二〇〇〇円位はそれ以前に父から借りていた金の返済として父に渡したことが記述されており、末尾に、買物表と題して、昭和二五年末頃から翌二六年六、七月頃までの間の梅田の支出状況を梅田本人が記載したわら半紙二枚が添付されている。金額の合計は一万四五四〇円位である。両者の表を対比してみると、結婚関係費目が前者には記載がない(後者には結納包紙三〇〇円位と結婚写真代一二〇〇円が計上されている。)か低くなつている(鞄とトランク代につき、後者は全額と思われる合計一八五〇円が計上されているのに、前者は、その足し金として合計四五〇円が計上されているだけ)ほかに毛糸チヨツキ(五〇〇円)と入れ歯(二八〇〇円)の費用が計上されていないが、後者からこれらを除いて(鞄等については差額)みると、使途費目も金額もほぼ類似している。以上によれば、強取金の使途に関する自白の変遷事情についての梅田の前記申述が裏打ちされているように思われる。

(7) いわゆる「秘密の暴露」がない

自白の内容に、あらかじめ捜査官の知り得なかつた事項で、捜査の結果客観的事実であると確認されたもの、いわゆる「秘密の暴露」に相当するものが含まれている場合には、その自白の内容自体において高度の信用性を有すると言えようが、梅田自白には、既に述べたところからも明らかであり、また、その内容を精査するもこれに該当するものは一つも含まれていない。原一審の論告において、検察官は、真犯人でなければ述べることのできない供述がある(例えば、一〇月一〇日柴川木工場で大山と落合つてから犯行現場へ赴く途中の会話等)として主張している点も、右のような意味において客観的事実として確認されたものではなく、「秘密の暴露」に相当するものではない。

3 まとめ

提出され取調べた新証拠に旧証拠を総合して梅田自白を検討したところ、犯行の中枢部分である殺害行為についての真実性に重大な疑問が生じ、そのため進んで梅田自白全体の真実性について、いろいろな角度から検討したわけであるが、既に見てきたとおり、客観的事実に反していると認められる供述が含まれ、他の証拠から明白な事実であつて真犯人なら容易に説明ができ、また、言及するのが当然と思われる事実についての説明・言及がなされていない点もあり、自白内容それ自体において不自然、不合理で常識上にわかに首肯し難い点が含まれ、かつ、共犯者である羽賀の供述とは、とても共通の体験をした者同志の供述とは見られない程の供述の食い違いが存するうえ、羽賀供述以外のその他の証拠との対比・関連においてみると真実とは首肯し難い不自然さや不合理さが判明し、また、梅田自白それ自身についても、真実性に疑問を生じさせるような内容的変遷が、単に多数あるというだけでなく、その変遷箇所が、そもそも羽賀との復員後の出会いから、共謀、準備過程、実行行為そのもの、その直前直後の状況、強取金の分配をめぐつての犯行後の出会いの有無、強取金の使途といつた、犯行の初めから終わりまでのすべての部分に、そしてまた枝葉末節だけでなく、これなくしては犯行そのものが存在し得ない必須重要な部分にまで及んでおり、しかもいわゆる「秘密の暴露」がないことが判明した。そしてまた、真実性を肯認するには不自然、不合理であるとして指摘した個々の点の重要度は様々であるが、中には、裁判所の審理においては今般初めて取調べられた不提出記録中の証拠を含めて検討した結果、犯行当日やそれまでの羽賀との打合せに北見市街へ出て来たということに対するアリバイが成立する可能性を払拭し切れないのではないか等言わば決定的疑問も含まれている。

三 羽賀供述の信用性

1 序

これまで判示してきたところから、新証拠により、実行行為の主要な部分に関する梅田自白の真実性が動揺したことを機縁に、梅田自白全体の真実性を再検討した結果、犯行の初めから終わりまでの全過程にわたり、犯行の重要部分にも及ぶような、あるいは、それ自体で決定的な意味をもつような疑問も含めて数多くの疑問が存することが判明したので、もはや梅田自白だけを柱にして梅田を有罪とすることは到底なし得ないばかりでなく、右梅田自白を有罪認定の証拠として援用することすらできなくなつたことが明らかになつた。

しかしながら、梅田有罪を支えるもう一つの柱として羽賀供述があることは、既に確定判決の証拠構造として分析し、記述したところである。仮に梅田自白が梅田有罪の証拠として供し得ないとしても、羽賀供述の信用性が揺がないものであれば、確定判決の事実認定の一部を変更して、なお、梅田有罪の結論を維持しなければならないということになるかもしれないのである。確定判決は当然のことながら、その審理において、羽賀供述の信用性についても審査し、その結果、基本的にこれを肯認して梅田有罪の柱たる証拠として使用したものである。これに対し、本再審請求者は、梅田共犯供述についての自己矛盾供述を羽賀自身がなしていたことを主な内容とする鐙供述録取書を新証拠として提出し、当審において取調べた鐙証人の証言を援用するなどしながら羽賀供述の信用性を攻撃している。

当裁判所は、右鐙証言等の検討に深く立入るよりも前に、前記のように、梅田自白の真実性を検討した結果その全体にわたつて合理的な疑問が数多く存することが判明したことにより、そのことが共犯者たる羽賀の供述の信用性に直接、間接に衝撃を及ぼさずにはいられないものと判断した。すなわち、梅田自白で検討した「羽賀供述との食い違い」は、羽賀供述にとつては、「梅田自白との食い違い」として同じ意味をもつものであり、また、梅田のアリバイに関する疑問なども、北見市内に出て来た梅田と打合せ共謀し、梅田に実行行為をさせたとする羽賀供述の信用性にも直接投げかけられる疑問であるばかりでなく、梅田自白の共謀過程に比して北見市内における会合打合せ回数が二回も多くなつている羽賀供述の共謀過程に関する供述の方が、なお一層のアリバイに関する疑問は強くなると言わざるを得ない。更に、また、羽賀供述では、自らは実行行為をしなかつたことになつているので、これに関する供述部分がなく、したがつてまた、死体の示していた状況に関する客観的証拠との整合性という意味での真実性が直接には問題にならないことは当然のことであるが、梅田自白によれば、実行行為は羽賀の指示どおりに行つたことになつているのであるから、その意味では、梅田自白につき、死体の状況などとの整合性を検討した結果生じた疑問は、間接的にではあるにしても、羽賀が梅田に実行行為についてした指示に対する疑問として影響を及ぼさないわけにはいかないのである。

以上の理由によつて、当裁判所は、羽賀供述の信用性については確定判決の審理において吟味済みであり、みだりに判決裁判所の心証形成に介入すべきではないと言つて済ますことのできない立場に置かれていることになり、梅田自白の真実性検討によつて当然羽賀供述の信用性判断に影響を及ぼすとして右に指摘した点にとどまらず、進んで、羽賀供述中、確定判決が梅田有罪の証拠として掲げた羽賀の公判廷における証言と被告人としての供述であつて、かつ梅田を有罪とすることに関連する部分の信用性を、新旧全証拠を総合して再検討すべきことを迫られているわけである。

そこで、当裁判所は、右羽賀供述の信用性につき、新旧全証拠を総合して検討することとするが、羽賀供述は、梅田に対する関係では、言わば第三者の目撃証言としての性格を有しているが、同時に羽賀自身が犯行の主犯であるから、その関係では犯人の自白であるという性格を併有している。梅田共犯者供述を始めた捜査過程では、後者の性格が前面に出ていたものである。梅田に対する関係では、羽賀供述の信用性として問題にするにしても、本来は犯人の自白として任意性と真実性が問題にされるべきものである。そのうち、羽賀供述の任意性についてはこれまで全く問題にされていなかつたし、問題にする必要もない。むしろ、捜査陣が羽賀供述に振回されていた観を否めないほどである。問題は羽賀自白の真実性である。そこで、以下、この点につき、検討を進めることとする。

2 羽賀供述成立の経緯

(一) 羽賀逮捕から梅田逮捕まで

第一の一で概観したように、羽賀は、昭和二七年九月一七日、大山との共謀による長尾心一に対する金八万円の詐欺容疑で逮捕された。以後、梅田逮捕に至るまでの羽賀に対する捜査の経緯は、羽賀の昭和二八年九月一八日付け員調(不―一〇七)、同人の第二回員調(確一の一―一一一七)、同第三回員調(同―一一二八)、同第四回員調(同―一一四一)、同第五回員調(同―一一四九)、同第六回員調(同―一一五五)、同人の同年一〇月一日付け員調(同―一七二六)、原二審渡辺四郎証言(確二―二八五九)、原一審高須雅男証言(確一の一―九九〇)、司法警察員伊藤力夫警部作成の実見(同―二一八)、原一審昭和二八年八月三日付け検証調書(同―九六五)、原一審菅原哲夫証言(同―一五四九)、同阿部正一証言(同―一五〇七)、司法警察員大館富男ほか七名共同作成の緊急逮捕手続書(不―一五七)、梅田に対する緊急逮捕状請求書(同―一五六)、同緊急逮捕状(確一の一―三八)及び昭和二七年九月一七日付け北海日日新聞抜粋写し(当審記録第三分冊)によれば、以下のとおりである。

前記のとおり詐欺容疑で逮捕された羽賀は、渡辺四郎警部補の取調べに対し、右被疑事実については積極的に否認する供述をし、否認の態度を変えなかつたので、渡辺警部補は、大山事件についての取調べを断念して、清水が自供している小林事件についての取調べに移つた。この結果、昭和二七年九月二三日には第二回員調、二四日には第三回員調、二五日には第四回員調及び第五回員調、二七日には第六回員調と一わたり小林事件の全体像についての自白調書が作成された。しかし、小林から奪つた金については、第二回員調の四項で、「四七二万円余りのうち、清水が一〇〇万程を取り、残りの三七〇万余りは、当時の小林の着装品と共に現在大阪のある人に預けてある。」旨の記述にとどめられ、この点の究明は保留されたままとなつていた。

そのような時期である九月三〇日夜、羽賀の方から、警察官に対し、自発的に、大山も殺害した旨の自供を始めた。この時の内容は、まず、羽賀が大山の失踪事件について俺は知つていると言出したことから大山事件についての調べが始まり、「やはり金を取るためにやつた。自分一人でやつた。大山を端野村のある場所へ連れて行き、バツトで殴り、首をひもで絞めて殺し、死体は殺した場所に三尺位掘つて埋めた。そしてある金額の金を奪つた。」というものであつた。

そこで、翌一〇月一日早朝から、羽賀の右自供に基づき、渡辺警部補は、大山の死体を発掘するべく、羽賀を連行し、常呂郡端野村字緋牛内の同人の指示箇所を多勢の警察官で掘つたが、死体が発見されなかつたので、羽賀に対し、「死体は発見されなかつたではないか。」と言つたところ、羽賀は、「実はここではない。他のところだ。」と言うので、一応その場所を引揚げて、北見市警察署へ戻り、同署において、同警部補が、羽賀に対し、「これでは俺の顔はまるつぶれだ。」と言うと、羽賀は、「申訳けない。今度は本当のことを述べる。」と言い、午後一一時頃、伊藤力夫警部、右渡辺警部補等警察官多数を、大山の死体が発掘された北見市高台第五区今村方山林中の谷沢付近へ案内した。そこで、羽賀が三尺位掘つて埋めたと言うので、羽賀の指示に従い、警察官だけで四尺位も掘つたが見付からず、また「嘘なのではないか。」と言う者もでてきたところ、羽賀が自分から「スコツプを貸してくれ。」と言つてこれに加わり、羽賀が埋没地点のやや上手、渡辺和吉巡査が、羽賀よりやや下手に位置し、代わる代わる掘つたが、羽賀が手を休め、渡辺巡査が掘つている時に、同巡査の使用していたスコツプの先に大山の足骨の一部が引つ掛かつて現れ、同巡査が「出た。出た。」と言つたところ、羽賀は突然「ハツ」と叫んで穴から飛出して、そこから五メートル位離れた所まで走つたので、被疑者である羽賀のその行動を案じて渡辺巡査も掘つていた穴を出、羽賀の所へ行つて「こちらへ来い。」と言つて、更に五メートル余離れた辺りで、たき火をしていた他の警察官の所へ連れて行つた。こうして大山の死体が発見発掘されたわけであるが、この日発掘現場から北見市警察に戻つた羽賀は、渡辺四郎警部補の取調べに対し、自分の単独犯説を徹し、「本日自分が案内して掘出した白骨死体は昭和二五年一〇月一〇日午後八時二〇分頃、ホツプ売買で儲けさせてやるとだまして、その付近に誘い出して殺して金を取つた大山正雄に間違いない。大山は現金一九万五〇〇〇円しか持つていなかつた。大山は私一人で殺した。取つた金は全部私一人で使つてしまつた。これらのことについては後で一切申上げる。」旨の記載があり、現場図面が作成添付されている昭和二七年一〇月一日付けの極簡単な員調が作成された。ところが、渡辺警部補は、発掘結果につき羽賀を取調べるに当たり、殺害の場所や方法並びに死体を埋めた時の方法等について尋ねたところ、埋めた場所が羽賀が言つたのと反対側の壁(沢の)際であつたこと、死体の頭の向きが羽賀の供述と反対であつたこと、首を絞めた麻ひもの作り方を羽賀にやらせてみたところ、実際の物より半分位短かかつたこと、既に捜査が進んでいる小林事件では、自分が実行行為をせず、清水にやらせていること等から、他に関係者があるものと見て調べを進め、その結果、翌二日になつて、羽賀は「殺したのは俺ではない。」と自己単独犯説を翻した。そう言いながらも羽賀は、「自分一人だけで済むのであれば他の者の名は出したくない。考えさせてくれ。」という趣旨のことを言つて共犯者の名前を出すのを渋り、前記渡辺四郎証言では約三時間位、当時の弁護人の反対尋問中の誘導尋問では六時間位もの相当時間を経過した後のその日の夜になつて「実は梅田義光君にやらしたのだ。」と供述した。

この供述があるまで、捜査線上に梅田の名前が浮かんだことはなく、したがつて、その名も住所も知らない状況であつたが、北見市警察では、梅田が羽賀の共犯者として大山殺害の実行行為をなしたものと即断し、その逃亡を恐れ、即時、大館富男警部補以下八名の警察官を梅田宅へ急派して緊急逮捕に赴かしめる一方、高飛びを警戒して、北見駅へ熊谷巡査部長と菅原哲夫巡査の両名を派遣し、見張らせた。こうして同夜午後八時半頃梅田は緊急逮捕された。

以上のように、大山事件が、羽賀の関与した強盗殺人、死体遺棄事件であることが発覚した直接の契機は、昭和二七年九月三〇日夜の羽賀の自白によるものであるが、羽賀の自白した「昭和二七年九月三〇日」とは、<1>既に、この日までに、清水が小林事件の全貌を自白し、小林からの四七二万円余の強取金の大部分を羽賀に渡した旨の供述がなされていたこと(清水の検調三通及び原一審公判供述並びに当審記録第三分冊中の昭和二七年九月一七日付け北海日日新聞抜粋写し)、<2>小林事件に関する、羽賀の最初の自白調書である同月二三日付け第二回員調には、右の強取金の行方について、「四七二万円余りのうち、清水が一〇〇万円ほどを取り、残りの三七〇万円余りは、小林の当時の着装品と共に現在大阪のある人に預けてあることは絶対間違いありません。」という記述があり、かつ、それだけの記述しかないこと。<3>同調書は、小林事件の犯行全般の概要が記述されているものであるが、同調書に続く、同月二七日付け第六回員調までの四通の各員調は、共謀の経過等につき補充的に詳細な自白が記載されているものであつて、その中には右の強取金の行方に関する記載は全く含まれていないこと、<4>財産犯の捜査においては、賍金は最も重要な証拠物の一つであつて、捜査官がその所在や使途を捜査の重点となし、したがつて、これが明らかとなつていない段階では、当然被疑者に対し、迫及取調べがなされるであろうことは捜査常識であること、<5>羽賀自身の自発的自白により大山事件についての取調べで中断はされたものの、小林事件に関する取調べ調書としては、前記第六回員調に続くものである同年一〇月九日付け員調では、<2>に記載した「大阪のある人」について、極めて詳細な内容の自白となつていること、<6>その自白自体、羽賀自身が第二〇回公判において、警察に対するレジスタンスとして虚偽の事実を述べたものであることを自認している(確一の一―一九四五)ことを併せ考慮すれば、右強取金の行方についての追及取調べが続けられていたころであると、推認することができる。

なお、当審記録第三分冊中の昭和二七年一〇月三日付け北見新聞抜粋写しには「小林については羽賀の供述にアイマイな点があり、捜査当局ではこれを全面的に信用せず、強奪した大金の行方その他物的証拠関係を追求中である。」との記載がある。

(二) 梅田逮捕から原一審判決まで

梅田の逮捕以後原一審判決に至るまでの羽賀の取調べ及び供述の経緯は、不提出記録中の羽賀の各員調、確定記録中の羽賀の員調・検調・公判証言及び公判供述、相田賢治の員調(確一の一―二〇〇八)及び同人の第七回検調(同―二〇一一)、原一審の相田賢治証言(同―一九七六)、前記渡辺四郎証言、羽賀に関する逮捕状(確一の二―四九)、同勾留状(同―五〇)、梅田手記の写し(再一―一八四)及び確定記録中の各公判調書並びに前記第一の一で認定した事実を併せ考慮すれば、次のとおりであると認められる。

前記のように、羽賀が梅田の名前を初めて供述したこの二日の日付で、梅田が実行共犯である前提で、梅田と知合つたいきさつから共謀、実行、証拠湮滅行為まで一わたり供述した調書(確一の一―一七三〇)が作成され、以後これを補充する形で、一〇月三日付け二通(不―一一九、同―一二六)、四日付け一通(確一の一―一七三六)、六日付け一通(同―一七五一)、七日付け二通(不―一三三、同―一四四)、八日付け一通(不―一三六)が続いて作成され、これで、羽賀の警察における大山事件についての供述調書作成は一段落し、翌九日付け(不―一三八)では、前記のとおり、小林事件における強取金の行方についての取調べ、供述がなされている。そして、一〇月一二日付け一通(不―一四六)で、大山事件におけるバツトの工作状況についての補充的取調べをもつて、両事件とも、羽賀の警察調書作成はすべて終了し、以後検察官による取調べに移行している。

このように、羽賀の大山事件に関する自供によつて小林事件の取調べが中断されたわけであるが、この直前の小林事件についての九月二七日付け第六回員調までの員調には、小林事件において羽賀が共犯と主張する相田賢治の名は全く見られない。大山事件に関する一〇月一日から八日までの員調にももちろんその名は見られない。大山事件についての取調べが一段落し、懸案の小林事件での強取金の行方についての本格的取調べが再開された一〇月九日付けの調書に初めて相田賢治(調書では相田賢二としている。)の名前が登場している。右調書には、小林より奪つた現金の入つている荷物を、大阪に本社のある大阪商事という会社の本社に貸与してもらつたボツクスに入れてある旨の供述があり、その東京の出張所が、東京の伊藤万商事株式会社にあつて、羽賀は、同出張所に大阪商事の出張員として勤務することになつていたが、その契機となつた伊藤万商事を紹介してくれたのが相田賢治であるという形で登場しているのである。そして、同調書の末尾に「私が今日まで相田さんの名前を言いにぶつたのは、相田さんも公務員だし、本当に私の親身になつて就職の世話をしてくれた方だし、申上げないで済むものであればと思つてお話しなかつたのであります。」という記述を残して結んでいる。この伊藤万商事及び大阪商事につき裏付捜査がなされた形跡は見当たらない。ただ、右調書作成日の三日後である一〇月一二日付けの相田賢治の員調(確一の一―二〇〇八)が作成されている。小林事件につき、羽賀と謀議があつたことをにおわす自白めいた供述が記載されている。

しかし、第一の一で述べたように、小林事件の共犯者として逮捕された相田賢治は、その後検察官の取調べ段階以後否認を続けて起訴されず、しかも、羽賀や清水の小林事件についての公訴事実中にも羽賀の主張する主謀者としてはもとより、共犯者としても記載されてはいないのである。

警察段階で自白をするに至つた経緯を述べた相田賢治の昭和二七年一一月一二日付け第七回検調(確一の一―二〇一一)が残存しているが、これは前記員調と共に、裁判所が、原一審第二一回公判において、被告人梅田、羽賀、清水の三名に対する関係で尋問事項を「被告人羽賀と相田賢治との関係、前渡金の受領方法、被告人羽賀との金銭授受関係等の諸点を明らかにするため」として、職権で、相田賢治を証人として取調べたところ、羽賀が嘘の供述をしていることや警察で受けた拷問の事実などを供述したため、これに対し、検察官から刑訴法三二八条書面として申請され、取調べられている。

さて、羽賀の検察官による取調べであるが、前半は橋本友明検事により、大山事件についての取調べがなされ、後半、穴澤定志検事により、小林事件についての取調べがなされている。すなわち、羽賀は、一〇月二一日、橋本検事の請求に基づき発せられた逮捕状により、大山に対する強盗殺人、死体遺棄被疑事件で逮捕され(確一の二―四九)、即日第一回検調(確一の一―一三一七)が作成され、翌二二日、羽賀は、同被疑事実で勾留され(確一の二―五〇)、同月二三日に、第二回(確一の一―一三三一)、第三回(同―一三四五)及び第四回(同―一三四七)、二四日に第五回(同―一三七一)、二六日に、第六回(同―一三七一)及び第七回(同―一四一一)、二七日に、第八回(同―一四二三)及び第九回(同―一四六〇)、三一日に第一〇回(同―一四六五)、第一一回(同―一四六八)及び第一二回(同―一四七二)の各検調が順次作成され、この日羽賀は更に一〇日間勾留延長されたうえ(確一の二―五〇)、翌一一月一日、第一三回検調(同―一四八一)が作成されて、大山事件についての供述調書の作成が全部終了し、羽賀は、勾留延長期間最終日の同月一〇日、大山に対する強盗殺人、死体遺棄を公訴事実として起訴されたものである。

羽賀の第一回検調が作成された一〇月二一日は、同月一九日までに自白検調をとられた梅田が意を翻して否認に転じ、否認の手記(いわゆる梅田手記)を橋本検事に提出した日であり、以後梅田は、否認の態度を変えることがなかつたため、羽賀の一三回に及ぶ詳細な検調が作成されたものの、前記のように右各検調の供述と梅田自白には甚だしい食い違いが多数あるにもかかわらず、これを相互に問いただす取調べを行うことは不可能となり、調書上そのような食い違いの存するままに起訴せざるを得なかつたものと推察される。

なお、羽賀は、右のように起訴された後、その起訴後の勾留を利用して、同年一二月五日から一五日までの間に、穴澤検事により、小林事件についての取調べを受け、第一四回ないし第二一回検調(確一の一―一一六以下)が作成されている。これらは、すべて相田賢治主謀者説を基調としている。

第二一回検調作成の翌日である同月一六日、羽賀は、小林に対する強盗殺人、死体遺棄事件で追起訴された。

公判における、各被告人の、各自の公訴事実に対する認否は第一の一に記載したとおりであるが、大山事件に関する昭和二七年一二月二三日の第二回公判において、梅田の弁護人は、検察官が証拠申請した羽賀の第一回ないし第一三回各検調全部について不同意としたため(同日の公判調書の梅田義光分の証拠関係カードの請求の順序一三六及び一五八の各結果欄に「決定」とあるのは、誤記と認める。)、羽賀は、昭和二八年三月一三日の第七回(確一の一―七一〇)ないし同年四月二七日の第一一回(同―八一七)各公判において証人として証言をした。また、大山事件についての両名の公判が併合された同月二八日の第一二回公判(羽賀の方は第八回公判)後の昭和二八年一二月一六、一七日の第一九回(確一の一―一八六二)、同月二三、二四日の第二〇回(同―一八八二)、昭和二九年一月二六日の第二二回(同―二〇二八)、同年二月一日の第二三回(同―二〇七一)、同月二日の第二四回(同―二一二一)、同年三月三日の第二七回(同―二二三九)及び同年五月三一日の第三〇回(同―二三七三)各公判において、被告人として供述をしている。

以上の確定判決の審理経過から明らかなように、梅田に対する関係では、弁護人の申請により、刑訴法三二八条書面などとして取調べられた一部の検調と員調があるが、犯罪事実を立証する証拠としては、羽賀の検調は取調べられておらず、したがつて確定判決も、公判における証人及び被告人としての右供述を証拠として掲げているのである。

3 羽賀供述の信用性に関する問題点

以上の、羽賀の供述の成立の経緯を踏まえ、その信用性を全体的に検討してみると、梅田自白の真実性検討の結果明らかになつた前指摘の点のほか、次のような問題点が浮かび上がつた。

(一) 羽賀供述自体の不自然な変遷

羽賀供述のうち、確定判決が、梅田に対する関係で証拠として採用し、有罪認定の証拠としているのは、前記のとおり、公判廷における証人又は被告人としての供述であるが、その信用性を全体として検討するためには、それまで及びそれ以後の羽賀の供述過程も含めてなされなければならない。以下、大山事件に関し、羽賀供述のとどめられている証拠を時の経過の順に符号を付して列挙し、変遷のあるもののうち主要な点を犯罪事実の時系列に従い、順次摘示することとする。ただし、昭和二七年九月一八日付けの否認の調書は除外する。

(1) 証拠

【1】 昭和二七年一〇月一日付け員調(確一の一―一七二六)

【2】 同月二日付け員調(同―一七三〇)

【3】 同月三日付け員調(不―一一九)

【4】 同日付け員調(同―一二六)

【5】 同月四日付け員調(確一の一―一七三六)

【6】 同月六日付け員調(同―一七五一)

【7】 同月七日付け員調(不―一三三)

【8】 同日付け員調(同―一四四)

【9】 同月八日付け員調(同―一三六)

【10】 同月一二日付け員調(同―一四六)

【11】 同月二一日付け第一回検調(確一の一―一三一七)

【12】 同月二三日付け第二回検調(同―一三三一)

【13】 同日付け第三回検調(同―一三四五)

【14】 同日付け第四回検調(同―一三四七)

【15】 同月二四日付け第五回検調(同―一三五八)

【16】 同月二六日付け第六回検調(同―一三七一)

【17】 同日付け第七回検調(同―一四一一)

【18】 同月二七日付け第八回検調(同―一四二三)

【19】 同日付け第九回検調(同―一四六〇)

【20】 同月三一日付け第一〇回検調(同―一四六五)

【21】 同日付け第一一回検調(同―一四六八)

【22】 同日付け第一二回検調(同―一四七二)

【23】 同年一一月一日付け第一三回検調(同―一四八一)

【24】 昭和二八年三月一二日の第七回公判証言(同―七一〇)

【25】 同月一四日の第八回公判証言(同―七四五)

【26】 同年四月三日の第九回公判証言(同―七六二)

【27】 同月一四日の第一〇回公判証言(同―七九八)

【28】 同月二七日の第一一回公判証言(同―八一七)

【29】 同年八月三日付け検証調書(同年六月一八日検証実施。同―九六五)

中、羽賀の指示説明部分(同―九七五、九八一)

【30】 同年一二月一六、一七日の第一九回公判供述中、一七日の分の冒頭部分(同―一八六二)

【31】 同月二三、二四日の第二〇回公判供述中、二四日分(同―一九四二、一九五九)

【32】 昭和二九年一月二六日の第二二回公判供述(同―二〇二八)

【33】 同年二月一日の第二三回公判供述(同―二〇七一)

【34】 同月二日の第二四回公判供述(同―二一二一)

【35】 同年三月三日の第二七回公判供述(同―二二七五)

【36】 昭和三一年五月二九日の原二審第五回公判供述(確二―二八九五、二九一九)

【37】 同年一〇月一一日の原二審第六回公判供述(同―二九七一)

【38】 原二審における同年一一月一四日付け上申書(同―三〇一二)

【39】 昭和三二年五月六日付け上告趣意書(確三―三二一八)

(2) 変遷箇所及び変遷状況

イ 復員時から、本件犯行に関して第一回目に会うまでの二人の関係

<1> 【2】一項では、「復員してからも交際しておりました。」とされ、【4】四項では、「復員してからたまたま文通したり、梅田が私の家に二、三回も遊びに来たりしたこともあります。以上の様な状況で梅田との気持を良く覚えたのです。」とあるが、【11】三項では、昭和二三年春頃一回私方に遊びに来たことがあるとしてその時の状況を述べ、梅田が羽賀宅を訪ねて来たのはその一回と本件犯行に関して会つた第一回目(八月末頃から九月初め頃)の二回だけであると言明している。

なお、以後、復員後梅田が初めて羽賀宅を訪れた時期については、【22】では、「昭和二二年四、五月頃」、【32】では、「昭和二二年六、七月頃」と少し動くが、復員後犯行に関する第一回会合までの間に会つたのがその一回だけとする線は崩れてはいないが、【38】(確二―三〇一七)では、「私と年賀状の交換あるいは数回来宅の事実より、その親密の程は……」と、初めの頃警察で述べていたようにいかにも複数回来宅して親しくなつていたかのように供述を変遷させている。

ロ 本件犯行に関して梅田と初めて(第一回目)会つた日

<2> 右の日がいつかであるが、【2】では、昭和二五年九月二五日頃、【5】四項では、送別会を九月二日頃とした後に、「九月一〇日」を確定的な日として供述している。しかも、この日昼頃梅田と会い、同じ日の夕方大山と会つたことになつている。それが【8】では、「九月一〇日頃」、【11】では、「私が北見営林局を退職してから間もなく同年八月末頃か九月初め頃」、【15】及び【16】では、送別会をやつてもらつた日を昭和二五年九月七日頃として、その送別会の四、五日後に大山と会い、それから二、三日後としている。これによれば、九月の一三日から一五日頃ということになろう。ところが【24】では、送別会の日を基準にして述べるのは同じだが、大山と会つた日と梅田と会つた日の前後が逆転し、「送別会の日から二、三日してから梅田に会い、それから二、三日してから大山と会つた」ことになつている。これでは、まず、「友楽座」映画館で大山と偶然会つて、「電拓」喫茶店で同人と第一回会談をしたのがその年の八月の二〇日から二五日頃とし、それから一〇日位たつて送別会があつたとの証言に引続いているので、梅田が訪ねて来て初めて事件の話をした日は、九月一日から七日頃までの間の日ということになろう。【32】、【33】(確一の一―二一〇七)は、九月一〇日前後頃としている。なお、【32】(同―二〇六三)では、送別会の日を八月も末近い頃であつたとしている。

原一審で取調べられた佐々岡茂の第一回検調(確一の一―三四二)によれば、羽賀の送別会が行われたのは昭和二五年八月一四日である。送別会との日にちの関係を基準にするならば、第一回目の会合は、もつと大幅に早い時期、すなわち八月の中、下旬にずれ込むことになろう。送別会がいつであつたか自体は二年も経つてからのことであるから、それが不正確であつたり、若干の変動を示すことは不自然なことではないにしても、いずれも送別会の日を基準にし、その送別会が行われた日として述べるところは、八月も末近い頃、九月二日頃、九月七日頃とせいぜい一〇日以内の誤差の範囲にとどまつているのに、それを基準に割出した梅田との会合日が、八月下旬頃から九月二五日頃までと、一月程も幅をもつて変動を繰返えしており、一〇月一〇日犯行日という動かすことのできない日からの隔たりとしてみると不自然な変遷と言わねばなるまい。しかも、一方で大山と会合を重ねてこれを欺罔する過程と、梅田を大山に対する演技者兼殺害実行者として仕立てあげる過程が、有機的関連をもつてない交ざつている流れがあつて、梅田との第一回会合もその流れの中で動かせない一定の位置、役割を与えられているのであるからなおさらである。

ハ 同第二回目会合

この日の会合は、おおまかに言つて、ブローカーとしての梅田を大山に紹介し、いかにも取引がうまくいつて、一晩のうちに金儲けができる話に真実性をもたせて大山を欺罔する点に主眼が置かれている。

<3> この日にちについては、そう大きな変遷はなく、【2】が第一回目に会った日であり、かつ、右第二回目の会合の目的と同様の話をした日を九月二五日頃としているほか、【5】七項では、九月二五日と確定日になつているのに、【16】六項では、九月二五日頃(送別会から四、五日後大山と会い、それから二、三日経つた頃梅田が羽賀宅を訪ねて来、それから二、三日して大山と会い、それから三日程たつた日)となり、【25】では九月下旬のある確定日、【32】の確一の一―二〇三三丁以下では九月二五、六日頃(一回目会つてから約二週間後)、同二〇六八丁では九月末頃という供述になつている。

<4> 次に、先に梅田と会い、大山と会う準備として、会う時の心構えやセリフについて打合せをした点もほぼ一貫しているが、その梅田と会つたときの時刻と状況につき、【5】では、まず羽賀自身が正午頃駅前に行き、一時間待つた午後一時頃梅田が来たことになつているが、【16】では、午後二時頃、約束どおり北見駅へ行つたら、梅田は、同駅に向かつて右側の右端にある北見市縮図板の、駅寄りの付近に立つていたと変わり、【25】では、午後の昼に近い頃北見駅横の案内図板の所へ行くと梅田は来ていたとなり、【32】は午後一時頃北見駅の右の案内図板の所で梅田と会つたとなつている。

<5> 次に、羽賀と梅田の話の内容のうち、まず、どこの誰を殺して金をとるのかという点を梅田に対してどう話したかという点であるが、【2】では、既に第一回目会合である九月二五日頃に「大山を殺して金を取るということを打明け」と、簡単な表現であるが、大山という名前だけは出ていたようであり、【5】では、第一回目会合の九月一〇日に、「北見営林局の会計課の旅費支払の係をしている大山という男」を殺して金を取る旨言つたことになつているが、【16】では、第一回目会合の時は「営林局の人間で自分の知つているある人」としか言つていないことになつており、第二回目会合の駅から辰巳食堂へ行く途中で、「これから営林局の大山正雄に会わせる。彼は旅費係をしているのだ。」、「大山正雄は置戸に住んでいる。」という話をしたことになつている。「大山正雄」という名前と「旅費係をしている」ことはこの時初めて告げられたことに変わつており、また、大山の居住地まで告げたことになつているわけである。

そして、更に、【24】(確一の一―七三三)では、第一回目の会合の話合いの内容に関し、「そのときの梅田君の大山に対する認識は営林局のこともその氏名も言わなかつたが、梅田君は私に対してどこの誰だと質問したので名前だけは言つた様に記憶しています。」となり、【25】(同―七五二)では、第二回目会合の話の内容に関し、「(問)梅田には大山はどこに勤めていると言つたか。(答)そのときは営林局に勤めている人だとは言いませんでしたが、大山君の名前は言つていたと思います。(問)旅費係をしていることは知つていたか。(答)そのときは知りません。(問)大山がどこに住んでいる人であるということは。(答)言つたかどうか記憶ありません。」という証言をしている。大山の名前は知らせたが、「営林局」の「旅費係」であることはまだ知らせていないことに、そして大山が置戸に居住していることを言つたかどうかは記憶がないことになつているわけである。【32】(確一の一―二〇三二)では、第一回目の話の内容として(同調書では、復員後本事件以外に会つた回数も入れているので第二回目となつている。)、「(問)被告人はその際梅田に営林局のある人を殺して金を取るというようなことを言わなかつたか。(答)営林局の人を殺すと言つたかどうかは忘れましたが、とにかく人を殺して金を取るのだというような大づかみなことを言つたのであつて、細かい点は言わなかつたと思います。」、そして第二回目会合のとき(同―二〇三六)は、「ブローカーにふさわしい言動とその他、大山君がしそうな質問に対する答えを教え」たというだけで、この日の話の具体的内容は忘れたことになつている。

<6> 次に、両名の偽名使用についてであるが、【2】では、第一回目会合後梅田を旭川(札幌と言つたかも知れない。)の井上というホツプの仲立業に仕立てたことになつているが、大山について偽名を使用したかどうか何も触れていない。【5】では、九月二〇日午後七時頃大山と第五回目会談をしたことになつており、「次回、ブローカーを紹介するから九月二五日午後三時頃またここに来てくれ。」と次回の約束をした際、「君は営林局の職員で国家公務員なんだからその辺も考えなければならん。例え一時的でも公金を流用することは決していいことではないんだから営林局の大山という名は言わんで、ただ、北見の大井という偽名を使う様にしておけ。」と言つたことになつており、梅田の方は、第二回目会合の大山が来る前の打合せの際、住所や氏名を聞かれた時には「札幌の井上という者です。」と話するように打合せしたことになつている。両者に対し、各使用偽名を明示して偽名の使用を指示し、しかも、大山に対する指示は、梅田に対し指示した時より前(九月二〇日)になされたことになつているわけである。

これが、【16】では、第二回目会合の際、梅田に対し偽名使用を指示したとする点は同じであるが、使用する偽名は記憶がなくなつたとして次のような供述をしている。「私は梅田に『君は某という名前を使え』と教えました。この『某』というのはその当時はでたらめの人名を教えてあつたのですが、現在どの様な人名を梅田に教えたか記憶がなくなつたので、その様に申上げたのです。そしてまた、札幌か旭川かどつちかの地名を言つて、そこに住所を持つている様に振舞う様梅田に話をした記憶があります。」、また、大山に対しては、九月二〇日の大山との第五回目会談の際ではなく、梅田をブローカーとして初めて大山に紹介するその日、梅田を辰巳食堂に待たせ、羽賀が大山を迎えに行き、駅の横の待合せ場所で会つてから辰巳食堂へ行く途中、「ブローカーに紹介するのだが、営林局の公金を使うのだから、そのブローカーには営林局の人間だということを言わない方がよい。また、名前も大山正雄という本名を使わない方がよい。」という話をして何とかいう偽名を使う様教えておいたことに変わり、また、その時教えた偽名は現在忘れてしまい思い出せないと、こちらの偽名も忘れたように変わつている。

ところが、【25】になると、梅田については、「なお、そのときは梅田は偽名をつかつた様に思います。」とある(確一の一―七五二)が、具体的に使用した偽名については質問も答えもなされていない。梅田がどこの人かということは大山に話をしなかつたことになつている(同―七五三)。また、その後「(問)大山正雄には本名で名乗るか偽名を使うかの点はどうか。(答)記憶ありません。」と、使用偽名どころか、偽名を使用するかどうか自体まで記憶がなくなつたように変わつている。

それが、【32】(同―二〇三六)では、「(問)ブローカーとしての梅田を大山に紹介するについてなにか方法を構じなかつたか。(答)梅田を札幌市の人だというようにして偽名を使いましたが、その偽名はなんという名であつたか覚えておりません。」となり、【33】(同―二一〇八)では、「(問)梅田は札幌から来た井上として大山に引合したのか。(答)梅田は本名を使わず、偽名を使つたのですが、井上とは言わないと思います。」と、単に使用した偽名を忘れたにとどまらず、「井上」という偽名ではなかつた旨の供述をするところまで変遷している。

<7> 次に、取引品名であるが、【2】では最初から、ホツプ売買を口実にだましておびき出して殺して金を取る計画として立案し、ホツプの名を大山らに出していたような表現になつているが、【5】も【16】も【25】も、少なくとも、この梅田との第二回会談の日は、大山に対しても、梅田に対しても、「ある品物」というだけで、それが「ホツプ」であることはまだ話していないことになつている。

<8> 次に、ブローカーとして取引に介入する梅田が受取るべき手数料の点であるが、【5】では、この日、梅田との間では、梅田が「一万円位もらいたい。」と言うことにする旨打合せたことになつている【16】では、梅田との打合せのところでは、「ブローカー料もいくらいくらと言つて定額を教えたのですが、いくらと話をしたか現在記憶がないのです。」となつているが、すぐ後の、大山が来てから、梅田が実際どのように話したかというところでは、「ブローカー料等についても話が出ました。これも私と打合せてあるとおりの願を梅田が話しておりました。一万円位の金額を話した様に思うのです。」となつている。

【25】(確一の一―七五一)では、「私の考えていた大山君は経済家で金を出ししぶりをする方であつたから、梅田と会わせるとき、礼金の程度を質問するだろうから、そのときは『私はもうけずくで世話をしているのではなく、羽賀を知つているからであるから利益の分配もお礼金もしないでくれ。』と言つてくれと言いました。」と、一万円どころか一銭もいらない趣旨に変わつている。それが、【32】(同―二〇三七)では、「(問)礼金についての話はなかつたか。(答)その話もありましたが、額は忘れました。」と一定額の要求を出したかの証言に戻つている。

<9> 次に、取引する品物の持主の住所についてであるが、【16】より前の証拠中には、この第二回目会合の段階でその点に触れているものがない。

【16】では、まず、梅田との打合せのところでは、「その品物の持主の住所の点については『買いとり代金を持つて来ない前にその住所を教えると買主自身がその持主と直接取引をする虞があるから代金を持つて来ない前には言うことができない。』という様に話をする様梅田に教えておきました。実際は、当時いまだ大山を殺(や)る場所を確定していなかつたので、その品物の持主の住所だとして大山を誘い込む地点を言うことができなかつたのです。」、また、大山が来てから梅田が実際にどう話したかというところでは、「その品物を持つている人の住所についても梅田と打合せたとおりに話して、その住所だとして何も大山君に教えませんでした。」となつている。

ところが、【25】(同―七五二)では、「(問)その品物を持つている人はどこにいるということは梅田には話をしたか。(答)話しません。(問)大山君にはどうか。(答)北見市の郊外にいる人だと話しました。(問)小公園で梅田と会つたとき、もつとくわしい質問があつたときを予想して話したのか。(答)その点も考慮に入れて話しました。取扱う品物は統制品だから何かの都合で融資が受けられなくなつた場合、持つている人の名前を知らせることは何かの点に面白くないことがあると言つて品物を持つている人の名前は言いませんでした。」となつていて、「北見市郊外にいる人だ。」という限度では話したことになつている点及び知らせない理由が、【16】では、直接取引の虞だつたのに、【25】では、統制品であるので万一融資を受けられなかつた場合不都合が生じることにあるとしている点で変遷しているわけである。

<10> 次に、小公園内の図書館で、一〇月三日頃、また三名で会うことを大山と約して、大山が先に帰つた後の、梅田と羽賀の打合せの内容についてであるが、【5】では、「後に残つた私と梅田は『まあ大体においてうまくいつた。』それで私は梅田に『こんどは殺す場所の選定を急ぐことになるんだが、俺も相当見たが、いまだそれが決まつていない。君は仁頃方面の地理が明るいんだが、是非そちらの方でいい場所を見付けてくれないか。頼む。そして三日の日にその場所を聞くからその日多少早めに図書館に来てくれ。』と言つて別れたのであります。」ということで、犯行場所を見付ける依頼だけをして別れたことになつているが、【16】では、「大山君が帰つた後で引続き梅田と大山を殺(や)る場所について相談をしました。その際、梅田から東陵中学の東北の山道を教えてもらつたのです。その場所が一〇月一〇日に大山君を殺して死体を埋めた場所なのです。私等はその場所で大山君を殺(や)ることに決めました。私はその場所に当時いまだ行つたことがありませんでしたが、その付近の仁頃街道は、営林局に勤めていた当時、仁頃の日吉からトラツクに薪を積んで来たりしていたので分かつておりました。」となり、そして、次、図書館で会う日は、大山と会う時刻よりも一時間位早めに来てくれるよう打合せた様になつている。すなわち、この段階で、もう犯行場所を梅田から教えてもらい、二人でそこを犯行場所とすることを決定したことに変わつたわけである。

【25】(同―七五四)は、この点、基本的に【16】と同様であるが、まず、時間が長くかかるので二人で何かを注文したこと、梅田が教えた場所を「山道」としてでなく、「東陵中学校付近の沢」としていること、梅田が説明に際して、羽賀の手帳に大体の略図を書いたこと、その説明によつて羽賀は、梅田がその付近の地理に明るいなと感じたこと、この時以前に羽賀も競馬場付近等心当たりを二、三箇所(競馬場付近以外の場所は忘れたとしている。)行つて見たが、大山との約束がせまつていたので土地の物色についてはあせつており、梅田からのこの時の説明を聞いてその場所は適当だと一応同所に決めたが、後から一度見るつもりでいたことが付け加わつている。

【32】では、同―二〇三七以下に、三人での話が終わつてからの状況につき、「(問)その話が終わつてからどうしたか。(答)三人が別々に別れました。(問)誰が最初帰つたか。(答)大山君です。(問)被告人と梅田はどうしたか。(答)大山君を殺害する場所の話をしたと思うのですが、そのときの話の内容は忘れました。(問)それからどうしたか。(答)梅田君と別れました。(問)次に合う打合せをしなかつたか。(答)したと思いますが思い出せません。」と、そして二〇四二丁には、「(問)辰巳で大山が先に帰つてから犯行の具体的な相談をしたのか。(答)大体のところを相談しました。(問)どのような相談だつたか。(答)梅田君が殺害する現場の位置を説明しました。(問)その説明で現場が分かつたか。(答)梅田君が同人の手帳に地図を書き、それによつて話をしたように思います。」とあつて、【16】【25】と同じく、この時に犯行現場の説明を受けたことになつているが、【25】では、梅田が羽賀の手帳に略図を書いたことになつているのに、【32】では、梅田自身の手帳に書いたことに変わつているのである。後にも述べるが、【5】では、第三回目に図書館で梅田と二人だけで打合せした際、梅田が羽賀の手帳二頁にわたり書いたことに加えて、その手帳を後に自宅で焼いたことを供述しているのである。

【33】(同―二〇七一)では、次回会合の約束について「梅田君に対しては前に辰巳で会つたとき図書館で会つて話をする日時を約しました。その日時は一〇月初め頃ということだけは覚えていますが、何日であつたかは現在記憶ありません。また大山君に対しては、北見駅横の小路で、図書館で会う日時その他を克明に打合せたと思いますが、現在その打合せの内容は記憶しておりません。」と供述しており、【25】の所で述べようとして打切られた供述が明確になつて出てきている。これによれば、少なくとも、この辰巳での三者会談の別れ際、大山と次回会合日につきどういう約束をしたのかにつき、供述の変遷があることになる。

ニ 同第三回目会合

この日の会合の主な目的は、前回に引続き、ブローカーとしての梅田が、前回大山から出された疑問についての調査結果を示して儲け話の真実性を決定的なものとする点にある。

<11> まず日にちについてであるが、【2】では、梅田が羽賀宅を訪ねて来て辰巳食堂へ行つた日と辰巳食堂で梅田と大山を一回目会わせた日をいずれも九月二五日頃としているので、第二回目の会合ということになるが、その日を一〇月三日頃としている。【5】【6】は、いずれも「一〇月三日」と確定日になつている。【16】は、一〇月三日頃、【25】は、「一〇月に入つて間もなくだが、その日時までは記憶していない。会合時間が、昼間一二時以後であつたと思う。それは大山が勤めている関係で平日ならば勤務時間中に来ることは、役所をさぼつてこれないことはないが、それではまずいので、平日以外の曜日だつたと思う。」となつており、これによれば、九月三〇日(土曜日)か一〇月一日(日曜日)ということになろう。【32】では、一〇月に入つて二、三日目頃、【33】では、一〇月初め頃となつている。なお、会合の場所は、小公園内の図書館で一貫している。

<12> 次に、大山が来る前の、梅田と羽賀二人だけの打合せ内容についてであるが、そのうち、まず、犯行現場に関し、【5】では、前述したように、第二回目会合の別れ際に、犯行に適する場所を捜しておいてくれるよう梅田に頼み、それを次回(第三回目)に聞くからということで別れたことになつているのを受けて、「殺す場所の話を聞くと、梅田は私の手帳二頁にわたり書いて説明してくれました。それがあの実行した所であります。梅田が書いて説明してくれたその手帳は、私、去年警察から釈放された頃に自宅で焼いたように思うから、ないが、その時梅田の書いてくれた図面は覚えているから今別に紙に書いて説明致します(実際には、この調書には、この別紙の添付がなく、【6】に別添第三号として添付されているものがこれに当たるものであろうか。)。私は、その間、別に書いた(これもこの調書には添付されていないが、【6】に別添第二号として添付されているものがこれに該当するものと思われる。)端野村緋牛内外四か所を見たが、いい所がないので到頭決められないでいたところ、ちようど梅田の説明でそこが良いと分かつたので、二人で話合い、殺す場所をそこに決めたのであります。」となつているが【16】では、前述のように、第二回目会合で、大山が帰つた後、辰巳食堂で梅田が本件犯行場所を説明し、二人でそこに決めたことになつているので、この第三回目のときには、もちろん、改めてその点の打合せをしたとの記述はなく、単に取引品としたホツプの持主の家の所在を、先に梅田が教えてくれた場所の近くにあるということにすることを打合せただけのことになつているのである。【25】も【16】と同じく、第二回目会合の時にこの点の打合せを済ませたことになつているので、第三回目の時にその点の打合せがなされたような供述は見られない。

【32】では、前記のように、第二回目辰巳で、大山が帰つてからこの点の打合せをしたことになつているが、確一の一―二〇四一丁裏及び二〇四二丁表によれば、更に第三回目図書館で、梅田と二人だけの時にもこの点についての打合せをした(両方でやつた)ことになつており、【5】の筋と【16】【25】の筋を合せたような内容に変遷してきているほか、それ以前の供述の中には見られなかつた現場選定の条件を出した旨の供述が登場している。すなわち「その現場の選定については、私が、条件として、北見市から余り遠くないところ、犯行を人に見られないところ、万一失敗しても被害者が容易に逃げのびることができないところという条件を出したのです。」というのである。

なお、右に【5】の供述として示した、羽賀において、端野村緋牛内四箇所の犯行予定地を見たとの点も、【16】では、「当時私の頭の中には、大山を殺(や)る場所として、信善光寺付近の裏山、平田農場付近、若松にある営林局の寮の裏山、東陵中学の前にある三楽園を予定しておりました。」となつており、【25】(確一の一―七五五)では、梅田の説明の前に、羽賀自身心当たりを二、三箇所行つて見たが、競馬場の付近は記憶があるが、その外は忘れたとそれぞれ供述し、変遷を示している。右に挙げられた場所のうち、端野村緋牛内は、羽賀が昭和二七年九月三〇日に自己の単独犯行として初めて大山事件について自白し、その死体埋没箇所として警察官を案内し、掘つてもその死体がなかつた所であり、信善光寺付近の裏山は、小林事件の犯行場所である。

<13> 次に、取引の品をホツプとする点であるが、既述のように、【2】では、当初からホツプ取引に藉口して立案した犯行で、当初からそのことは出ていたかの表現になつていたが、【5】から、それが当初「ある品物」としか表現されていなかつたことになつてきているわけである。そして、この【5】では、「すでに大山に対しては、少量で人間が持運びできる、そうして金額の張るものと言つていたのだから、それをホツプというものに決めたのであります。」と、この段階で初めて、梅田に対してもホツプという名を出し、大山が来てから大山に対しても初めてそれを告げたことになつている。【16】も同様であるが、ただ、大山に対して、ホツプである旨を告げたのは、【5】では、羽賀自身、【16】では、梅田となつていて変遷している。

ところが、【25】では、この点供述は一変する。二回目会合における梅田と二人だけの打合せ内容についての質問のくだりでなされたやりとりであるが、確一の一―七五二丁表から、「(問)取引の品物についてはどうか。(答)大山君は、家族にホツプの取引をすると言つている様であるが、私もその様に言つたと思いましたが、最近になつてホツプという品物の名前は言わなかつたと思います。最初は麻薬を言おうとしましたが、麻薬は特殊の仕事であるから、相手が恐怖するだろうと思つて言わなかつたのです。また、平凡な品物の名前を言うと、大山が、かげでそれを調べて、金額、数量等を看破されてはと思いましたので、取引をする品物はボカしておいたと思いますが、その品物は袋に入つている品物で、一袋に代金は二〇万円位だと言つた様に思います。」となり、【26】(同―七六四)では、「大山はどちらかというと詮索的な質問が多かつたので、品物の品名、それを持つている人の住所氏名、売込み先の住所氏名等について、前にも聞かれたが、今後も聞かれるかもしれないので、その点については、『品名は、統制品なるが故に、もし発覚した場合、大山の様に素人が介入した場合、まずいことがおきるから、言わないことになつている。それをどうしても聞きたいのなら、言つても良いと高飛車に出れ。』と言いました。」、そして、更に「(問)高飛車とはどういうことか。(答)威圧的に高いごろの言葉を使えということです。(問)高飛車に出て、大山から融資をことわられたらどうするつもりだつたか。(答)そのことも考慮に入れましたが、忘れました。」と供述し、ホツプ名を出さない筋に変わつたわけである。そしてこの趣旨は、羽賀が証人として供述する最後の【28】まで変わつていない。【5】や【16】の筋書の重要な一環である「ホツプ」取引を公判廷で自ら否定したことになる。また、子細に見ると、【25】では、品物の名は単にボカしておいたことになつているのに、【26】では、統制品を理由に高飛車な言葉で大山のその質問を封じ、しかもそれを梅田にやらせるというように変化している。

ところが、【32】では、梅田との打合せの内容は、大山を殺す現場を案内してくれという話のほか取引の話もしたと思うが、その内容は忘れたし、検察官の取調べの時に、それについてどう話したかも忘れたとしながらも、大山に対して実際にどう話したかの質問の中で、裁判長が、【16】の八項の該当部分の要旨(ホツプと決めて、その旨大山にも話したことになつている。)を告げたのに対し、「その取引品のホツプの金額は忘れましたが、その他は大体そのとおりの話をしたと記憶しております。」と答え、また、【16】と同じく、ホツプ名を出したとの供述に戻つており、【33】(確一の一―二一〇八)も、図書館での三者会談の際ホツプの話が出たような記述になつている。

<14> 次に、その品物の持主の氏名、住所についてであるが、【2】では、北見市高台東陵中学校付近の「林」という架空の農家とし、【5】では、羽賀の親密にしている人ということにして、その殺す場所の付近に想像上で全く架空の人物「林」という農家に決めたことになつている。そして、【6】七項にも、「林」の名が出ている。【16】では、「その持主の家は先に梅田が私に教えてくれた場所の近くにあるということにすること、それからその品物を持つている人はこういう名前の人であるということも打合せました。当時はそのホツプを持つている人の名前として特定の一人の人の名前を梅田に教えたのですが、現在はその教えた名前を忘れてしまいました。」となり、【26】では、前記のように、取引品名とともに、詮索的な大山に聞かれるかもしれないとして、あたかも品名とともに居丈高な言葉で質問を封じてしまつたかのような供述のほか、大山に対して梅田が実際に話した内容として(確一の一―七六七)、その人は以前から知つている人であつて間違いのない人であること程度のことしか言わなかつたかの供述に終始しているが、この供述自体以前の供述からは変遷供述とも言えようし、そもそも、このホツプ又はある品物の持主とその所在は、大山をだまして現金を携帯したまま犯行場所へ連れて行くための最も重要な意義を与えられていたものであるから、その意味では、大山に対して言つておくべき事柄であつて、右のような供述になること自体が不可解なものである。【33】(確一の一―二〇四一)では、【16】の該当部分の要旨を告げられて、大体そのとおりの供述をしたと記憶している旨述べているので、仁頃街道の二本榎の先の二つ叉道路の右手に少し下りたところにいる某(梅田に特定の名を一つ教えたが、それが何であるか忘れた。)である旨告げたように記憶していることになろう。

ところが、【35】では、「(裁判長問)梅田は、当公判廷で、『羽賀から、高台の佐藤という家にホツプを預けている。』と検察官に述べたと言つているが、被告人は梅田に対して『高台の佐藤という家にホツプがある。』と言つたことはないか。(答)言つた様に思います。(問)今までに佐藤以外の別な家にホツプを預けていると述べたことがあるか。(答)言つた様に記憶します。(問)どこで述べたか。(答)北見市警です。(問)どの様に述べたか。(答)覚えておりません。(問)検察官にはどの様に述べたか。(答)検察官にはそのことを聞かれた様に記憶しますが、どの様に申上げたか記憶しておりません。(問)検察官にはこの様に述べなかつたか。(被告人の検察官に対する第六回供述調書【16】中八項三枚目表五行目から八行目まで読み聞けた。)(答)そう言われれば述べた様に思います。(問)この点について警察で聞かれて述べた記憶はあるか。(答)記憶ありません。(問)この様に述べた記憶はないか。(被告人の司法警察員に対する昭和二七年一〇月二日付け供述調書【2】中四項二枚目表三行目から九行目まで読み聞けた。)(答)記憶ありません。(問)同年一〇月四日付け被告人の司法警察員に対する供述調書【5】一〇項にも「林」という農家云々と述べているがどうなのか。(答)記憶ありません。(問)それからこの様に述べた記憶はないか。(右同昭和二七年一〇月六日付け供述調書【6】中七項初めから九行目より一一行目まで読み聞けた。)(答)そういう趣旨のことを述べたと思います。また農家の名前の点は当時述べたと思いますが、現在は記憶ありません。」と供述している。これによれば、昭和二五年一〇月初めの梅田との打合せ当時、「佐藤」という農家の名前を梅田に対して言つた記憶はあるが、二年後の昭和二七年一〇月上旬、警察での取調べで、「林」という農家の名前を出した記憶はなく、結局、現在の記憶としては、犯行打合せ当時、ある一つの農家名を出したが、それが何という名前だつたのか記憶がないとの供述をしていることになろう。この供述自体、最初は、梅田に対し、「佐藤」と言つた記憶があると言つているのだから、厳密に言えば前後矛盾していると言えようが、以前の供述との対比では、「林」といつた記憶がなく、「佐藤」と言つた記憶があるとする点で変遷していることになろう。

<15> 次に、この時の梅田との打合せにおいて、大山を殺す凶器の選定、その作り方、作成分担についても打合せをしたかであるが、【5】一二項では、その打合せをしたとしてその詳細な内容が記述されており、一一項末尾には、「大山の死体を埋める穴は誰がいつ掘るかはまだ決めませんでした。」、また、同調書最末尾に、一四項として、取つて付けたように「その日大山が来る前に梅田との話合いで大山を殺す時の凶器のことでありますが、万一やりそこなつた時に使う様にその時の準備として何か刃物を用意して行く様に言つた様な記憶もあります。」という記述がある。この時に、この点の打合せをしたとする証拠はこれだけであつて、他の証拠は、その打合せは一〇月八日頃犯行現場付近でやつたが、この時にはやつていないことになつている。

<16> 次に、大山が、金は一〇月一〇日にできるということを羽賀達に言つた時期についてであるが、【2】では、一〇月五、六日頃、柴川木工場前の道路で(これは後に【8】で駅の横の小路と訂正される。)、大山と最後に会つた時、羽賀の方から一〇月一〇日夜八時頃金を持つてここへ来るように言つたことになつているが、【6】では、一〇月五日大山と会つた際、一〇日には間違いなく金はできると分かつたとしている。【16】では、辰巳での三者会談の二、三日後に大山と会つて、更にそれから四、五日した日、大山と会つた時に、大山が「これまで九月末頃金ができると言つていた予定がくるつて、一〇月中頃でなければ金ができない。」と言い、一〇月三日頃の図書館での三者会談の時に大山が「金は一〇日にできる。」と言つたことになつている。【25】(同―七五五)では、辰巳での三者会談の日、大山を駅に迎えに行つた時に、大山から金を融資する時期は月末には無理で一〇月の半ば頃になるかもしれない旨言われ、図書館での三者会談の時に一〇月一〇日にできるという話だつた(同―七六七、七六八)ことになつている。一〇月中頃になるとの話の時期が変わつている。【32】(同―二〇六八)では、辰巳での三者会談の少し後である九月末頃、駅付近で大山と会つた時に、大山から金が出る日を一〇月一〇日であると指定されたことになつている。

<17> 次に、次回の会合の約束についてであるが、三者まとまつて次回いつどこでどうするかという約束をした形跡はどの証拠にもなく、【6】では、「梅田には、いまだ大山が来ない中に、一〇月七日の午後三時頃仁頃街道の柴川木工場の付近で打合せをすることにしておきました。」とあり、対大山関係については、【5】も【6】も、この日次回の会合を約束した旨の記述はなく、次に一〇月五日に大山と会つているが、それはその日の正午頃、駅前の公衆電話を使つて営林局にいた大山に対し、「今晩七時頃打合せをしたいことがあるから駅前の辺りに来てくれ。」と言つて、改めて連絡を取つて会つたものであるとしている。【16】では、対梅田関係では、この日の大山が来る前の二人だけの打合せのときに、「大山を殺(や)る日と場所も打合せをするから一〇月八日の午後二時頃柴川木工場の土場あたりに来てくれ。」と伝えたとし、【6】と比べると、会合日は一日後になり、待合せ時間は一時間早くなつている。対大山関係では、【5】【6】と同じく、その日次回会合の約束をした形跡はなく、この次に大山と会つた日を一〇月六日頃(【6】より一日遅くなつている。)とし、その日昼頃、市内の大通り東六丁目角にある公衆電話(【6】では駅前の公衆電話としていた。)から、その日連絡を取つて会つたとしている。

【26】では、対梅田関係は(確一の一―七七五)、やはり図書館で、大山が来る前に約束したことになつているが、その約束の内容は「その日、大山との用件が終わつてから見に行こうと言つていたのですが、他に用事があつて行けなかつたのでその日に前述の七、八日頃検分することを約しました。」となつている。「その日」とは図書館での会合の日、「大山との用件」とは、三者会談のこと、「前述の七、八日」とはすぐ直前に梅田と二人で本件犯行現場を見分した日にちをそう証言したのを受けているのである。図書館での会合の日、大山との用件を済ませてから見に行こうとしていたという供述は、これが初めてである。

【26】の対大山関係は(同―七七二)、一〇月五日前後に会つたが、その日会う約束は、図書館で、大山と別れた時にしたと思うとするだけでなく、その日会う用件は、大山の方が羽賀に対し何か用件があるということで会つたような気がするが、よく分からないと言つている。これ以前の証拠と異なつている。

【32】では、対梅田関係は(同―二〇四一)、(図書館での打合せのとき)梅田を外へ出す前に、次に会う打合せをしたとし、そしてその二〇四三丁表では「(問)その現場を見に行つたのはいつか。(答)二五年一〇月八日の時刻は午後であつたという記憶はありますが、午後の何時頃であつたかは覚えておりません。(問)梅田と待合せた場所はどこか。(答)現場付近です。(問)待合せる場所を打合せたか。(答)詳しく打合せたと思うのですが、今では思い出せません。」となつており、次回会合の打合せをした時と場所の供述は従前と同じであるが、その日の待合せ場所は柴川木工場でなく現場付近としたかの供述になつている。対大山関係については質問も供述も見られない。

ホ 同第四回目会合(現場見分と予行演習)

<18> まず、日時について、【2】では、「一〇月七日頃」というだけで、時間の供述はない。【6】六項では、「一〇月七日午後三時頃」と確定日になつている。【17】一項では、「一〇月八日午後二時頃」と、一日後の確定日、時間は一時間早くなつている。【21】は、「一〇月八日」、【26】(確一の一―七七五)は、「一〇月七、八日頃」の時間は記憶していないが、午後の明るいうち、【29】は、「一〇月七、八日頃」、【33】(同―二一一〇)、【34】(同―二一三五)は、いずれも質問の中に日にちが入つているが「一〇月八日」、【37】(同―二九七七)は、犯行から三、四日前の一〇月七、八日頃の午後も遅くなつた頃だつたと思うが時間は記憶してないとある。初めの方で、確定日としたものが、動いた理由が気になるところだが、ほぼ、注意を要する変遷はない。

<19> 次に、梅田と待合せた場所であるが、【2】柴川木工場前、【6】柴川木工場付近、【7】柴川木工場の土場、【26】(同―七七五)は、柴川木工場の付近で落合つた様な気もするし、また現場で落合つたような気もするとした後、七七六丁裏では、落合つてどちらへ行つたかとの質問に対し、「落合つた場所ははつきり記憶していないので現場へ行つてから質問願います。」と言つている。【32】(同―二〇四一)は、「殺害する予定の現場」、(同―二〇四三)「現場付近」ということで、前三者から後二者への変化が注目される。

<20> 次に、梅田と会つた時の状況だが、【6】は、「行つてみると、間もなく梅田が街の方から歩いて来ました。」と、羽賀が先に約束の場所に着いて、後から梅田が来たことになつている。【17】は、「私は梅田との約束どおり、午後二時頃柴川木工場の土場に行きました。梅田は私より先に来てその土場付近の通路に待つて居りました。」と順序が逆転している。【26】(同―七七六)は、【17】と同じく梅田が先に来ていたと述べている。

<21> 次に、この日、二人で会つて何をやつたのかであるが、【2】では、「大山に話したことを伝え、一〇日の午後八時頃にここへ来て大山に会い、それから東陵中学付近の林の中の細道へ連れ出して殺せと指示しました。」というだけで、現場を見分したことも、犯行の予行演習をしたことも全く触れられていない。なお、「大山に話したこと」というのは、その直前の供述部分に、一〇月五、六日頃大山と最後に会つて「一〇日の午後八時頃金を持つてここに来て下さい。井上さんもその時間に来ることになつているから井上さんと会つたら、それから井上さんの案内で取引場所に行つてくれ。」と言つたというくだりがあつて、これを指している。

【5】【6】では、前述のように、一〇月三日頃の図書館で、大山が来る前の打合せの際に、犯行態様、凶器作成の分担、梅田分担の絞頸縄の作り方の教授を済ませたことになつており、この日は、死体を埋める穴の位置を決め、具体的にどの場所で殺害し、脱衣するのかを現場見分しながら決めたことになつているが、予行演習をした旨の記述は全く見られない。【16】【17】は、これとは違つて、この一〇月八日の日に犯行現場を見分しながら、初めて梅田と犯行態様、使用凶器等の打合せをしたことになつているが、現場見分をしながらそれらの打合せをしたにとどまつており、やはり、予行演習をした旨の記述はない。

【26】に至つて、初めて予行演習をしたとの供述が現れる(同―七七九)。手順を打合せて二、三回練習したと言つている。【32】(同―二〇四三)でも、予行演習をした旨述べているが、見逃せないのは二〇四八丁表に至ると「(問)とにかくその日は殺害方法の練習をしたのだね。(答)適確に位置についてやつたか又はこれを話だけで打合せただけだつたか、現在覚えておりません。」と供述していることである。すぐ前にした供述を自ら翻しているのである。そして【33】(同―二一一一)では、また記憶が復活したのか、予行演習をしたことを明確に供述している。

<22> 次に、殺害態様のうち刃物の点であるが、【1】から【5】の一三項までの証拠(殺害態様については【2】【5】が具体的に触れている。)の中には、刃物の使用及び刃物の準備に関する、あるいは、それを推測させる供述は全く含まれていない。

【5】は、大山との第二回目会談(送別会の日)から一〇月三日の図書館における三者会談までの、大山及び梅田との折衝(大山に対しては欺罔、梅田に対しては共謀成立と犯行準備)の過程を、接触の日毎に項を分かつて、その内容、模様を詳細に録取している調書であり、その一二項において、一〇月三日の大山が来るまでに梅田と二人でした打合せの一つとして、殺害態様、使用凶器、任務分担、罪証湮滅工作、凶器の作り方を話合い、決定したことが具体的に記述されているのであるが、この中に刃物のことが全く触れられていないことは注目に値する。そして一三項で、大山が来てからの三人での打合せ状況が記述され、この調書の最終項である一四項に、取つて付けたように、「その日、大山が来る前に梅田との話合いで大山を殺す時の凶器のことでありますが、万一やりそこなつた時に使う様にその時の準備として何か刃物を用意して行く様に言つた様な記憶もあります。」との記載があるのが認められる。

右に述べた記述の経緯、取つて付けたように加えられている文言の内容がひどくあいまいな記憶(「刃物」という、具体性のない抽象的文言であるうえ、その記憶もあるのかないのかもはつきりしないような記憶となつている。)を述べるものでしかないこと及びこの調書が作成された昭和二七年一〇月四日までの捜査の経緯、すなわち、同月一日の大山死体の発掘に臨場して実見(確一の一―二一八)を作成し、翌二日の三宅医師による死体解剖時、同死体の検視をして、調書(不―四)を作成した伊藤力夫警部は、その段階で、「頭蓋骨内部に達する刺傷がある。」と認識し、「鈍器様のもので頭部を強打昏倒させ、短刀様のもので頭部を突刺し、細引で首を絞め(中略)埋没したものであると認める。」(同調書の検視者の判断及びその理由欄)と判断していたこと、この二日の晩に梅田が逮捕され、翌三日自白に転じたが、殺害態様につき、右伊藤警部の判断と同じくバツトによる頭部殴打、次いでナイフによる頭部(ただし、頭部コメカミとしている。)刺突、最後に縄による絞頸と供述している(梅田の第一回同日付け員調、確一の一―一七六七)こと、そしてそのナイフは現場付近に投棄したとの梅田の供述に基づき、羽賀の【5】の調書作成の日である翌四日朝から梅田と同道してそのナイフの捜索をしている(原一審第一四回公判阿部正一証言、確一の一―一五〇七、及び同第一五回公判遠藤富治証言、同―一五六八)ことを考慮すれば、取調官が、【5】の調書作成の最終段階で、梅田との犯行態様についての打合せ内容についての羽賀の供述の中に刃物使用の形跡がないことに気付き、既に伊藤警部が死体検視によつて認知判断していたところや梅田の自白と異なるので、刃物使用に関して問を発したところ(【28】八三二丁裏によれば、「『大山君の頭部には刃物の傷痕があるがそれはどういう種類のものか』と聞かれました。」としている。)、これにより、刃物が使用されていたと感じた羽賀がそれに供述を合わせるべく答えて(【34】の二一三二丁以下によれば、大館警部補の話から刃物の使用を感じて話を合わせた旨供述している。)一四項の記載がなされたものと推認される。その意味で、この【5】一四項の記載自体が非常に信用性の乏しいものであるが、以後この刃物に関する供述は、殺害態様そのものの打合せの部分でまた姿を消してしまつたかと思うと、正面からこの点を問題にされるとまた姿を現し、しかも姿を現した時には、「刃物」は「ナイフ」に具体化し、「言つたような記憶もあります。」は「言つた」と確固とした記憶になるだけでなく、「言つた」時の梅田とのやりとりや刃物使用につき梅田に与えた注意まで登場してくることとなる。すなわち、【5】の調書の二日後に作成された【6】は、現場での見分と打合せの状況が記述されているが、刃物のことは一言も記載されていない。【17】は、一〇月八日の現場見分とそこでの打合せと翌九日の穴掘りについての供述を録取しているが、この中にも刃物の使用及び準備のことは一言も触れられていない。

【26】(同―七八二)では、「(問)大山を殺害する凶器は削つたバツトと縄だけか。(答)そうです。そのほかに、やりそこなつて大山が逃げたときは鈍器ではおいつかないので刃物を持つて来る程度でした。その時梅田君は適当なものがあると言つていました。(問)二人とも刃物を用意してくるのか。(答)そうです。(問)そのとき別れるとき、この次にどこで待合せるか約束したか。(答)一〇月一〇日午後七時か午後八時頃柴川木工場の付近で落合い、そこに前述のバツトを削つたのと縄と刃物を持つてくるということを約束しました。」とやつと刃物のことが再び登場する。その刃物についての打合せのとき、梅田が「適当なものがある」と言つていたという部分と、刃物は二人とも用意してくるという部分は新しく登場してきた供述である。

【28】(同―八三三)では、「(問)一〇月八日証人と梅田が現場を下検分した際、刃物の話は出たか。(答)出ました。(問)何のために刃物の話が出たのか。(答)大山君を殺害するのは、不意に鈍器で殴打し、大山君が倒れたところを縄で頸部をしめるという手順でありますが、もしそれをやり損えば刃物をつかうという話合いでしたが、できるだけ刃物はつかわないということになつていました。(問)そのような話をしたとき、『バツトで殴りつけてから刃物で頭をさせ』ということを梅田に言つたか。(答)ナイフの話を出したことはありますが、それを使うという話はしません。着衣を焼却する際にも血痕が付着していなかつたので私としては刃物を使用しないと思つておりました。」となつていて、ここでも、できるだけ刃物は使わないということになつていたという部分が初めて登場してくる。そして、(問)の中に、「ナイフ」ということばはなく「刃物」ということばしか使つていないのに、ここに初めて羽賀の供述中に「ナイフ」という刃物の具体化が現れる。公判審理を通じて、梅田自白ではナイフで刺突したことになつており、その点羽賀供述と食い違つていることが争点とされてきたが、そのことが十分かつてきた段階での供述である。

【32】(同―二〇四五)では、「(問)その他何か話をしなかつたか。(答)やり損じた場合のことを考え、刃物を持つて来いと言つたところ、梅田君は『よし』と返事しておりました。(問)具体的に刃物の形態を話したか。(答)話したかどうか覚えておりません。(問)その他なにか話をしなかつたか。(答)一応刃物は用意するが、その刃物はできる限り使用しない。つまり、刃物を使用すると血跡を残すばかりか、加害者に血が付くので発覚する虞がある。その上、加害者自身も血を見て逆上するから、というような話をしました。(問)徹底した話をしたのか。(答)細部の点まで話をしたのですが、現在では細かいことは記憶しておりません。(問)ナイフに布を巻くような話をしなかつたか。(答)ナイフを用意する話はしましたが、布を巻く話をしたかどうかは記憶ありません。」と供述している。羽賀が「刃物を持つて来い。」と命令調で言い付けたこと、これに対して梅田が「よし」と答えたこと、刃物を使用しない理由を具体的に三つ上げて説明したことはこの証言で初めて登場した供述である。なお、ここでは、最後に、(問)の中に「ナイフ」の語を使用しているので、それを受けたものと思われるが、「ナイフ」を用意する話をしたとして、刃物が「ナイフ」である供述をしている。【33】の二〇八四丁表では、ナイフを持つて来るよう指示したことは間違いないと、その二一一二丁では、予行演習のとき刃物を使う話をし、凶器でしくじつたら大山は逃出すからそのときは刃物を使え、なるたけなら刃物を使うなと言つたとの各供述をし、質問者の用語に応じて「ナイフ」と言つたり、「刃物」と言つたりしているが、刃物に関する供述の流れは、「言つた様な記憶もあります。」から「指示したことは間違いない。」へと、時が経つにつれて記憶が明確化していく変化が見られる。【34】(同―二一三二)も、右【33】と同旨の供述である。

<23> 次に、バツトでの打撃についての打合せ及び予行演習の点であるが、【2】の二項、三項、五項では、「私が直接手を下して殺さず梅田に殺させることにし、私は大山を殺す道具として梅田に対し、野球のバツタの短かく切つたのを、これで大山の後頭部をナグレと言つて渡しました。」、「同月七日頃に柴川木工場で梅田に会いまして(中略)一〇日の午後八時頃にここへ来て大山に会い、それから東陵中学付近の林の中の細道へ連れ出して殺せと指示しました。」とあるように、当初から梅田一人にやらせることを梅田との打合せにおいても出しており、したがつて、二人で大山を殺すやり方やその予行演習のことは供述されていない。七項に「申遅れましたが、梅田には大山を殺す時には二人で殺すということに話してありましたが、」という部分があるが、これは、一〇月一〇日犯行直前、梅田と会つて「のつぴきならない用事ができたので一人で殺してくれ。」ということを言つたことの伏線、あるいは動機として述べられているだけで、具体的内容がもられていない。【5】では、図書館における一〇月三日の三者会談の直前の梅田との打合せの内容として記述されているのであるが、「殺す方法は、三人で並んで現場に行く。俺が鈍器で大山の後頭部をたたいて昏倒させる。」としている。【6】は、一〇月七日、現場で見分して、殺す位置、脱衣位置、穴の位置などを決めたことになつているが、殴打の態様や予行演習については何も述べていない。

【17】では、「一〇月一〇日は私も大山君と一緒に来ることにして、待合せ場所である柴川木工場から大山君を殴りつける地点まで私が大山君の右側を歩き、梅田が大山君の左側を歩いて行き、仁頃街道から大山君を殺(や)る予定地の山道に入り、一撃を加える予定の場所まで来た時は、梅田が大山君より一歩後ろに下がつてバツトで大山君の頭を殴りつける様に話しました。」と述べ、「三人で並んで」が「羽賀が大山の右側、梅田が大山の左側を歩く」と具体化され、「羽賀が鈍器で大山の後頭部をたたく」が「梅田が一歩後ろに下がつて殴りつける」と役割が逆に変わつている。

【26】の七七九丁裏では、一〇月八日にした予行演習の内容として「私が前述したバツトで作つた棍棒で大山君の頭部を強打する。」、七八一丁では、「(問)大山君を殺すときの模様をどの様に梅田に説明したか。(答)大山君を間にはさんで、私が左に、梅田君が右側を横に並んで歩き、前述した地点に来たら、梅田君が大山に話をしかけ、大山君の注意をその方に引きつけて、そのすきに私が一歩さがりざま前述のバツトを削つたもので一撃を加えるという手順になつていました。」となつて、羽賀と梅田の並び方も、殴る担当者も【17】と逆転している。なお、梅田が大山に話しかけて注意をそらすという部分は初めて登場した供述である。

【28】(確一の一―八二〇)では、殴る役目は羽賀であつたとして【26】と同じであるが、並び方については「(問)大山を殺害の現場へ連れて行くのは証人が大山の右側を、梅田が大山の左側を歩いて行つて現場で殺すという打合せをしたのではないか。(答)その点については記憶ないが、現在その点を推理して見ると、大山君をたたくのは私の役目だし、私は右利きだから当然大山君の右側を歩くと相談したと思います。」とし、記憶がなくなつて推理の結果として述べているが、並び方はまたまた逆転している。その点を梅田の弁護人から「証人は、前回は、証人が左側を、梅田が大山の右側を横に並んで歩くと証言しているがどうか。」と突かれると「前回も前述した様に述べたと思います。私は右利きですから、大山君の右側でないかと推理によつて述べたのです。」と明らかに事実に反する強弁をしている。

【32】(同―二〇四四)では「(問)どのような練習をしたのか。(答)分岐点から大山を私と梅田君の中に挟んで横隊になつて穴の方に進んで行き、私は進行方向に大山君の左、梅田君は右(中略)私は右利きで大山君を殴る役だつたから大山君の左だと思う(中略)といううふに並んで歩き、透きをみて私が大山君の後頭部を殴つて倒す」と、殴るのが羽賀であるとする点は変わらないが(なお、【33】(同―二一一三)も、殴るのは羽賀が引受けたとして変わつていない。)、並び方はまたまた【28】と逆になつている。

以上のような逆転に次ぐ逆転の供述変遷状況は、到底、体験した事実の記憶を正直に述べようとして生じるものと見ることはできないであろう。

<24> 次に、大山死体の脱衣場所と死体の運搬経路の点についてであるが、【2】は、梅田による殺害行為と羽賀の穴掘りとの関連について何も供述がない。すなわち罪証湮滅工作についての指示が一切語られていないので、死体の脱衣、穴への運搬、埋没についての事前の指示、現場見分、予行演習等に関しては何も供述が存しない。

【5】の一二項で、初めて、殺害後、死体から衣類等を取去つて、死体は穴に埋め、衣類は羽賀が焼却するという罪証湮滅工作が打合せ内容として現れてくる(ただし、ここでは、図書館における一〇月三日の三者会談直前の梅田との打合せの内容として現れている。)のであるが、死体の運搬経路などはまだ具体化していない。脱衣箇所については死んだらすぐ裸にする旨の記述があつて、殺害場所で脱衣する趣旨のようにも読めるが明確ではない。

【6】では、現場見分の際の羽賀の指示として、「穴のすぐ上の辺りの道路で殺して、道路から少々入つた所で衣類を脱がす。そうして(中略)死体を穴の所に引下ろして(中略)埋め」るとし、脱衣箇所は殺害道路地点から少々入つた所という供述が初めて出現するが、その後の運搬経路はいまだ具体的でない。

【17】では、「殺したら、道路際から四尺位下の沢沿いの崖に死体を引つ張り下ろして、大山君の着ている衣類等を全部脱がして裸にして、それを風呂敷包に包んで置き、死体はその付近の沢に作る穴にうまく引つ張り下ろせる様にするのだが、その道順はその日の具体的な状況によつて梅田が決めることにしました。」となつて、脱衣箇所は「道路際から四尺位下の沢沿いの崖」と具体的に確定されてくる。その脱衣箇所から穴までの死体運搬の経路は、その日の具体的状況によつて梅田が決めることになつており、具体的経路はいまだ表現されていない。そしてここでは、既に梅田が一人で殺害行為に及ぶことが了解されているかのように当日梅田が決めることとされているわけである。

【26】(確一の一―七七九)では、前述したように初めて予行演習をした旨の供述が登場してくることもあつて様相が異なつてくる。「同所に穴を掘ることにきめてから本件の凶行の模擬練習をしました。それは、本件の凶行は路上の行動が主たるものになるので、大山君がいるものとの想定のもとに同地点まで大山君を誘導し、私が前述したバツトで作つた棍棒で大山君の頭部を強打するその予想地点の右手が三尺位低くなつているのですが、大山は同所に昏倒すると、梅田君が頸部を絞めて殺害し、同所で大山の着衣を脱し、同地点に着衣をおいて、裸になつた大山君を梅田君がかついで沢に掘つてある穴に埋めるという手順を打合せて二、三回練習しました。(問)その手順の練習は証人も現場に行つたことにして練習したのか。(答)そうです。」「(問)同所(一撃を加える地点)と死体を埋める穴との予定地との関係は。(答)その沢は小路に沿つて、小路の右側にあるのであるが、その小路のすぐ右側が傾斜になつていて、小路から七、八米さがつて沢の最端(高いところ)とその傾斜は接近しております。」、すなわち、一撃地点、昏倒地点、脱衣地点の各位置が一撃予想地点及びそこから右手の三尺位低くなつている地点との関係で明示されていない(【17】では、殺害地点から、四尺位下の沢沿いの崖まで「引つ張り下ろして」その崖で脱衣するとしていた。)が、脱衣箇所から穴までは、梅田が死体を担いで行くということで二、三回練習したというのであるから、この一〇月八日の日に既に羽賀と相談のうえで死体運搬経路は確定されていたことになる。その経路が何通りなのか、具体的にどこを通るのかはいまだ表現されていないが、予行演習もなしに、犯行当日梅田が決めることにしたという【17】の供述からは明らかに変動を生じている。

しかしまた、【17】でも【26】でも、脱衣箇所は、殺害箇所の比較的近くであり、そこで裸にしてから穴まで運搬するという筋自体、そしてそれが択一の余地を残さない筋道として明確に供述されている点は共通している。

【26】の証言がなされた昭和二八年四月三日の第九回公判のすぐ翌日である同月四日の第一〇回公判の証言である【27】(確一の一―八〇一)では、「(問)一〇月の七、八日頃の現場見分の際、梅田に対し、大山の死体を穴に引入れる方法について何か話したことはないか。(答)あります。当日は二人でやるという構想のもとに練習しましたが、前述した様に、私は梅田君一人にやらせるつもりでした。沢へ下りて行くには小路の路上からすぐ下りるのと畠を通つて沢の最端から下りるのと二つありますが、地形に応じてどちらが良いか調べてみたところ、路上からすぐ下りた方が入りやすいので、同所から死体を下ろす様にきめました。同所から死体を下ろすと穴の下手の方から死体を穴に入れる形になるのであるが、死体は一応、穴のそばにおいて、それから足を引つ張つてうまく穴に入れることができると梅田に言いました。」となる。ここで初めて、死体を穴へ運ぶ経路が具体化され、同時にその経路が二種あることも登場し、そのうち穴の下手から死体を入れることとなる経路の方に決定したことが供述される。しかしながら、まだこの段階では、これまでに述べられていた脱衣箇所に引続くものであるかの供述で、特に脱衣箇所の変更まで伴うものとして登場しているわけではない。

【28】(確一の一―八二七)では、梅田の弁護人の「大山君の死体の頭部は下手の方にあると述べたが、事実と違つていたと証人は言われるが、証人はどうして頭部が下手の方にあると思つていたのか。」との問に対する答えの中で「見分した際、死体を運ぶコースを打合せたとき、路上で大山を殺害し、同所から穴へ真つすぐ下りるのが最適と考えて(中略)死体は一たん穴の下手の方におろし、そこから足を引つ張つて穴へ入れるのが最も手順が良いのであります。」と述べ、また、その八三〇丁では、「そのときの状況に応じて適当に判断するという付則はありましたが、一たん穴を通り越して穴の下手の方から沢へ下りて穴のところへ運ぶという打合せをしました。」として【27】と同旨の供述をしている。【27】も【28】も、脱衣箇所についての従来の供述の変更がないことと同時に、殺害した場所から穴へ真つすぐ下りる経路として供述されている点で共通している。

ところが、次の【29】では、この二つの部分に変更が加えられてくる。これは、裁判所が本件現場の検証を行つた際、その現場において羽賀が指示説明として供述したものである。すなわち、「昭和二五年一〇月七、八日頃、私と梅田の二人がこの辺(別紙第二図<チ>点)で大山正雄を野球用バツトで殴打して殺害し、それから、この辺(同図<リ>点)に死体をおろして同人の着衣を脱がして裸体にし、この辺(同図<ヌ>点)から真つすぐ、あらかじめ掘つていた穴のそばへ死体をおろすか、もう一つは先に指示した地点(同図<チ>点)で殺害して路上をこの辺(同図<ル>点)まで路上を運び、この辺(同図<ヲ>点)からあらかじめ掘つていた穴の下手におろして、同所で大山正雄の着衣を脱すということを模擬練習しました。」となつている。

これによれば、まず、【27】【28】では、穴の下手から死体を入れることになる経路(【29】では<チ>―<ル>―<ヲ>の経路)についても、脱衣箇所については特に変更供述が伴つていなかつたのに対し、<チ>―<ル>―<ヲ>から沢に死体を下ろして穴の下手の縁に置くまでは衣類等を着けた状態で死体を運搬し、穴の下手の縁の所で脱衣することに明白に変更された。【29】では、殺害場所の近くで脱衣するのは、<チ>―<リ>―<ヌ>―穴経路であり、穴の下手から死体を入れることとなる<チ>―<ル>―<ヲ>―穴経路では、殺害場所の近くではなく、埋める穴の近くで脱衣する経路ということになる。この経路の振分けによれば、【28】までの証拠では、【2】の後のものは皆、殺害場所付近で脱衣するとしていたのであるから、この【29】の<チ>―<リ>―<ヌ>―穴経路のことを供述していたことになろう。しかし、それでは死体の向きが、実際と逆向きになつていると考える根拠が失われることになろう。

また、【27】【28】では、死体を穴の下手から入れることとなる経路も、殺害場所から真つすぐ沢に下りる経路として供述されていたのに対し、【29】では、殺害場所<チ>から二八メートルも沢の下手方向に隔たつた<ル>点まで、その山道を沢の下手の方に動き、そこから沢へ下りることに変更されている。二八メートルもの距離を歩くことが【27】【28】にも含まれているならば、それがその供述に現れないということは考えられないところであろう。変更と見ざるを得ない由縁である。

また、この【29】では、予行演習の際二つのコースを共に運搬の練習をしたような供述になつているが、以前の供述では、二つのコースが考えられるものの、穴の下手から入れることになるコースに決定したからこそ、死体の向きが実際と逆の向きになつている根拠となりえたのであつて、【29】のようにどちらのコースも考えられるのでは、そのうち穴の下手から足を引つ張つて入れるコースの方を梅田が選んだと考えたのはなぜかが更に問われなければならないことになる。

【32】(同―二〇四四)では、予行演習の内容として、羽賀が大山の左、梅田が右に並んで歩き、「透きをみて私が大山君の後頭部を殴つて倒す、その後は、倒れた大山君を少し底地に下ろし、梅田君がひもで首を絞め、着衣をはぎ、死体は梅田君か私のどちらかが担いで穴に運び、埋めるというような練習をしました。この時は、もちろん死体を担ぐ分担もきめたと思うのですが、誰の分担だつたか忘れました。(問)死体を穴まで下ろす手段はどのようにしたか。(答)死体を穴まで運ぶ方法としては、二つの道を選びました。一つは首を絞めてから一たん小径に上がり、沢なりに前述の目標にしていた木の付近から穴に下りるのと、もう一つは小径に上がらず、沢の下方に下つてから沢床を逆に穴まで登つてくるという二つの方法であります。」とされている。

ここでも【29】と同じく二つの死体の運搬経路が並列的に述べられているが、【29】で述べていた二つの経路とここに述べられている二つの経路とが同じものか疑問である。その疑問を生ぜしめる大本は、羽賀の殴打によつて倒れた大山を少し底地に下ろし、そこで絞頸し、かつ脱衣するという供述にある。以前の供述は、頭部の打撲から絞頸までの殺害行為は同一場所(すなわち、仁頃街道から分岐する山道上)で行われることになつていたのに対し、ここでは、殺害行為のうちの絞頸は、頭部打撲によつて倒れた地点から少し底地に下ろした地点で行い、引続き同地点で脱衣するというこれまでに全く見られなかつた新しい供述内容に変わつてきているのである。

また、【29】では、第一の経路も、脱衣地点(図面<リ>点)から沢の最も上手端の崖(<ヌ>点)に至り、そこから沢に下りて穴に至るというものであつたが、この【32】では、絞頸、脱衣地点から一たん小径に上がり、沢なりに前述の目標にしていた木の付近から穴に下りることになつており、これを別紙第二図に当てはめてみると、<チ>点で頭部殴打したものを<リ>点(少し底地に下ろし)に下ろし、絞頸、脱衣した後、その死体をまた<チ>点まで一たん上げて、小径を<ヨ>又は<イ>のすぐ上の辺りの小径まで(若し、目標にしていた木の付近という表現が<ル>点を意味しているのだとすると、これは【29】の第二コースに類似してくることになるが、そうすると、ここでは【29】の第一のコースに該当するものが全く存しないことになつてしまう。)運び、そこから<ヨ>又は<イ>点付近まで下ろし、その崖を穴まで下ろす(<イ>点からの崖は八〇度位の傾斜で下ろすことは不可能とされているから<ヨ>点から五〇度位の傾斜の崖を下ろしたものと見てやるべきか)ということになろう。しかし、これは【29】の第一の経路とは明白に別経路と言わねばなるまい。

また、もう一つの経路についても、【29】では、殺害地点(<チ>点)から、衣類等を着けたままその道を<ル>点まで運び、沢の上の崖<ヲ>点を通つて穴の下手の縁に下ろし、そこで脱衣するというものであつたのに対し、【32】では、頭部殴打で倒した地点(<チ>点)から少し底地に下ろした<リ>点で絞頸、脱衣し、<チ>点に戻らず(小径に上がらず)、<リ>点から<カ>、<ヨ>点等、道と、沢の北側の崖との間の所を通つて<ル>―<ヲ>線より更に沢の下手の方まで行つて(そうでないと「沢床を逆に穴まで登つてくる」という状況は生まれない。)、そちらの方の崖から沢床に下りて逆に穴まで登つてくるということになり、これまた【29】と、いや【29】だけでなく、それ以前のすべての証拠と異なる新しい供述内容になつているものと言わざるを得ない。

【33】(同―二〇八六)では、自分の単独犯供述をしていた時に、犯行態様についてはどのように述べていたのかということに関する問答としてなされているのであるが、「(問)それから『どういう方法でやつた。』と聞かれたか。(答)聞かれました。そのときは鈍器で大山君を殴打して同人が昏倒したところを縄で首を絞めて、それから同人を道路横の低地へ引きずりおろして、同所で大山君の着衣を脱がして裸体にし、そこから死体をかついで穴のところへ持つて行き、その穴に死体を埋めたと供述しました。」、またその二〇八八丁以下では「(問)『どの様にして死体を穴まで運んだか。』と聞かれたか。(答)聞かれましたので、私は『大山君の死体を肩に担いで穴まで運んだ』と述べ、さらに『担いだときの状態は死体の頭が前になる様にして、路上へ一たん上がつて、穴の真上の路上から沢へ下りて、穴のそばで死体をひつくり返して地面に降ろし、死体の足を引つ張つて穴に入れました』と供述しました。(問)そのとき取調官から死体の頭をどちらの方向に埋めたということは聞かれたか。(答)聞かれませんでした。(中略)(問)そうすると被告人が現場検証の際指示した第二のコースを通つて死体を運んだと述べたのか。(答)そうです。(問)そのとき死体の頭はどちらを向いていると述べたか。(答)私は死体の頭は沢の下手の方になつていると考えてその様に述べました。」、更にその二一一三丁以下では、予行演習の状況についての問答として「(問)模擬練習したときは当日は来ないという腹であつたと言うが、そのときは被告人はどういうつもりで模擬練習をしたのか。(答)すきを見て凶器で大山君を殴打する方を私が引受け、梅田君は、倒れた大山君を小道の右側の畠に引きずりおとして首を絞めるという役割で練習しました。(問)衣類を脱がすのは。(答)どちらが大山君の衣類を脱がすことにしたか分かりませんが、一人は衣類を脱がし、一人は監視するということにしました。(問)死体を穴まで担ぐのは。(答)梅田君ときめました。(問)死体を埋めるのは。(答)死体を埋めることに関しては分担はきめていませんでしたので、二人で埋めることにしました。(中略)(問)死体の頭を沢の上手の方にしろと言つたのか。(答)死体を穴に入れてから死体の位置については何も言いませんでしたが、死体を穴まで運ぶ方法から考えて、そのまま死体を穴に入れるとすれば死体の位置はこうなると言いましたので、動作等から考えて結論的には死体の頭は沢の下の方になります。」となつている。

ここでも殺害行為のうち殴打の場所と絞頸の場所が分裂し、殴打地点である小道から右側の畠に引きずり落とした所で絞頸し脱衣することになつて、絞頸場所と脱衣場所が一致するという【32】の筋になつている。そして、裸にした死体を担いで、一たん道に上がり、その道を穴のすぐ上の辺りまで行き、そこから沢へ下りるという【32】の第一の経路をとつたことになつている。【32】では、二つの経路が並列的に述べられ、そのうち、死体の向きが、実際に埋つていたのとは逆に沢の下手の方に頭が位置する格好になるのは、右の第一の経路ではなく、第二の経路(絞頸脱衣場所から道に上がらず、道と沢の北側の崖との間を通つてずつと沢の下手の方まで行つて沢に下り、沢床を逆に穴まで登つて来る)の方であつた。【29】の第二のコースを通つて死体を運んだと述べたのかとの問に対して、そうですと答えているが、【29】の第二のコースとは、<チ>点から<リ>点へ下ろして絞頸・脱衣して、また<チ>点へ戻るとする点でも異なり、道路上を沢の下手の方まで運ぶ点で共通していても、そこを裸体にした死体を運ぶとする点でも異なつているのである。

以上見てきた脱衣場所(絞頸場所まで含まれる供述もある。)と死体運搬経路についての供述も、経験事実を記憶のままに誠実に述べようとしている同一人の供述とは理解し難い程の変遷振りを示しているものと言わざるを得ない。

<25> 次に、死体の運搬の仕方についてであるが、右に引用した中にも現れているが、大まかに言つて、「引つ張る」から「担ぐ」に変わつていつていることが分かるであろう。

【2】は、死体を穴に埋める打合せについて何も触れていないので、この点に関する供述は見られない。【6】の六項では、「死体を穴の所に引下ろして」とされ、【17】の一項も、「死体はその付近の沢に作る穴にうまく引つ張り下ろせる様にする」と、捜査段階の供述は皆「引つ張る」ことになつている(この点、梅田自白はすべて「引きずり下ろす」や「引つ張る」で一貫している。)。

ところが、公判段階の【26】(確一の一―七七九)では「裸になつた大山君を梅田君がかついで」となり、【28】(同―八二〇)でもその証言を確認し、【29】は「おろす」という表現しかないのでいずれか分からないが、【32】(同―二〇四四)では、「死体は梅田君か私のどちらかが担いで穴に運び」であり、【33】(同―二〇八七、二〇八八)は、単独犯自供時犯行態様につきどのように述べていたかの問答の中での供述であるが、「大山君の死体を肩に担いで穴まで運んだと述べ、さらに担いだときの状態は死体の頭が前になるようにして(中略)穴のそばで死体をひつくり返して地面に降ろし」となつており、引続きその二一一三丁裏では、予行演習のときの打合せとして、「(問)死体を穴まで担ぐのは。(答)梅田君ときめました。」ということで、すべて「かつぐ」ことに変わつている。しかし、五〇度の崖を一人で肩に死体を担いで下りることができるものかは疑問がある。

なお、死体を「引つ張る」のであれば、二人いるのにそのうちの一方だけがやることにするというのはかえつて不自然であるから、分担が問題にならなくても不思議はないが、「かつぐ」ことになると急傾斜を下りなければならないこともあり、二人で担ぐというのも不具合になるので、当然誰が担ぐのかその分担が意識されることになり、公判においてその点の問答がなされている。すなわち、【26】(確一の一―七七九)では、梅田が担ぐことにして二、三回練習したことになつており、【28】(同―八二〇)でも、梅田が担ぐという前証言が確認されているが、【32】(同―二〇四五)では、死体を担ぐ分担は決めたと思うが、どう決めたか忘れたことになり、【33】(同―二一一三)ではまた記憶が復活して梅田が担ぐことになつていたとしている。

<26> 次に、梅田がおじけた発言をしたのに対して脅迫めいた言辞で牽制したかどうかであるが、【17】の一項では、「梅田はこの八日の日死体を埋める穴の予定地点等を見て歩いた間、私に『なんだか恐ろしくなつた。何かほかに穏便な方法はないのか。こんなことをするのはやめたくなつたな。』と言つたこともありました。しかし私は『悪いことだがこうするのが一番安全なのだ。大山の方では既に金の準備をしているのに今になつて君がいやだと言つて止めたらどういうことになるのだ。後一歩というところでそんな気になつては困る。君がいやだというなら俺もほかに手を考えなければならない。』と話したことがあります。彼は私のこの言葉をどの様に解釈したか知りません。私のこの計画を手伝わなければ命が危いと考えたかも知りません。私としても梅田にどうしても協力してもらおうと思つていたのですから、私の言葉も相手を脅す様な調子になつておりました。梅田は結局そうは言つておりましたが、私の計画を手伝つてくれることになつたのです。」とある。これに相当する記述は他の証拠に全く見られない(抽象的な「気配」としては【11】の末尾に記載があるが)ところであるが、【26】(確一の一―七八一)では、「(問)そうしている間に梅田がおじけついたという言動をもらしたことはなかつたか。(答)その様なことはありません。私が前に検察官に取調べられたとき、梅田君をかばうつもりで『梅田が良心的な呵責に尻込みしていたので、それを私が脅したり、なだめたりして引つ張つて行つた。』と述べましたが、それは撤回します。」と【17】の前記供述を撤回している。

仮りに公判廷で撤回した供述が真実のものだとすると、羽賀は捜査過程でもつともらしい見てきたような嘘の供述をしていたことになるし、逆に【17】の前記供述の方が真実のものとすると、ある供述をしておきながら、後にこれを「梅田をかばうためにしたもの」との付言をすることで、元の供述の意味をゆがめるようなことを平気で言つていることになり、いずれにしても羽賀供述の信用性を容易に肯定することを妨げる不誠実さの徴憑と見ざるを得ないこととなる。

なお、【33】(同―二〇八二)も、梅田が途中でやめると言つたことは全然なかつたとしている。

<27> 次に、この日梅田と別れた場所とその際梅田がバツトを持つていたかどうか、そして別れて梅田が行つた方向についてであるが、【6】では、「帰り道、国道(仁頃道路に出るまで)に出るまで二人で一緒に、梅田はバツタを持つて来てそこで別れ、梅田が仁頃の方に向かつて行くのを見て、私は街の方に戻つて来たのであります。」となつているが、【17】では、「こうしてその日は梅田と柴川木工場付近の、大通りの方へ下る道と日本赤十字病院の方へ行く道との分かれ道の所で別れました。(中略)梅田は、私と別れてから仁頃街道を大通りの方へ向かつて下がつて行つた様に記憶します。大山君を殺(や)る予定地の所で渡したバツトは、その別れる際、梅田は手に持つていなかつた様に思います。帰り道にどこにも寄つた記憶もありません。」となり、【6】の供述日から二〇日後の供述で、別れた場所、その際梅田が羽賀から渡されたバツトを持つていたかどうか、別れてから梅田が行つた方向につき、ことごとく異なる内容の供述をしているわけである。ところが、【26】(確一の一―七八〇)では、「(問)下検分が終わつてからどうしたか。(答)その小路と仁頃街道との交差点で私は街へ、梅田君は仁頃へ帰つたか、また、柴川木工場まで一緒に来て別れたか記憶ありません。」と前記の自分の供述相互に相異が生じていることを意識した答えをし、かつ、どちらだつたか記憶がないとしているわけである。

ヘ 同第五回目会合(犯行当日犯行直前柴川木工場付近で)

<28> まず、会つた時間とその時の状況であるが、【2】では、「一〇月一〇日午後五時頃柴川木工場付近で梅田に会つた。」としている。この調書では、一〇月五、六日頃大山と最後に柴川木工場前の道路で会つた時、同人に、一〇日の午後八時頃金を持つてその場所へ来るよう言い、一〇月七日頃、同じく柴川木工場で梅田に会つた時、一〇日の午後八時頃そこへ来て、大山に会つて、東陵中学付近の林の中の細道へ連れ出して殺せと指示したことになつており、なぜ一〇日の午後五時頃梅田と羽賀が柴川木工場で会うことになつたのかについての供述はない。警察段階の調書には、このほかにこの会合の状況を記述した調書が見当たらない。ただ、【6】五項には、一〇月五日に大山と最後に会つた時、同人に対し「一〇日の午後八時頃には井上さんも来ることになつているから柴川木工場の前の所まで来てくれ。」と言つておいたとの記載がある。

検調段階である【17】九項末尾には、一〇月六日頃大山と会つた際、同人に「一〇日の午後八時頃柴川木工場の土場付近に来てくれ。その頃そこに先日のブローカーが待合せているから。」と言つておいたこと、【17】一項には、一〇月八日の梅田との別れ際、一〇日の夕方五時頃柴川木工場の土場で会う約束をしたことが記述されている。なぜ大山との約束時間より三時間も早く梅田と会うことにしたのかについての説明は特にない。そして、【18】三項には、「約束どおり同日午後五時頃柴川木工場の土場に行きました。梅田は私より先にその土場へ来て待つていた様に記憶します。」との記載がある。

公判段階の【26】(確一の一―七八五)では、私は当日午後六時頃約束の地点へ行くと梅田が柴川木工場の木材を積んでいるところに来ていました。」とあり、その直前には「一〇月一〇日午後七時半頃大山が柴川木工場付近へ来ることになつていたので、それより一時間位早く来る様に梅田と約束しました。それは何か打合せなければならないのでその様に言つたのです。」との記述があり、その七七三丁裏には、一〇月五日前後頃大山と会つた時のこととして、「一〇月一〇日に北見市の通常仁頃街道というところがあるが、その途中に柴川木工場があるが、その付近に午後七時半頃来てくれと明示したかどうかはつきり記憶ないが、その様に言つたと思います。」となつているが、その七八二丁表以下には、一〇月七、八日頃の現場見分等の後、梅田と別れるとき、「一〇月一〇日午後七時か八時頃柴川木工場の付近でおち合い、そこに前述のバツトを削つたのと縄と刃物を持つてくるということを約束しました。」となつている。大山との約束時間が明確でないことは、二年も経つてからの供述として不自然とは言えないにしても、梅田との約束時間と大山との約束時間との間隔が三分の一ほどに短縮されている点が注目される。

【32】(同―二〇五一)では、「結局一〇日に梅田君と柴川木工場の土場で会つたのは、薄暗い時刻でした。(中略)(問)梅田と会つたときの状況はどうだつたか。(答)私が土場に行つたところ、土場付近の道路上に梅田君が立つておりました。」とされ、なお、二〇五一丁表以下では、一〇月八日の現場見分の際の打合せ内容として、「一〇日の午後なん時と言つたか時刻のことは忘れましたが、大山君の退庁時間が午後五時であることをにらみ合せて、それ以後の多分七時頃に柴川木工場の付近に出てこいという話を梅田君にしましたが、この時刻は、大山君が同所に来る時刻より三〇分位ずれておりました。(問)『ずれ』とは。(答)梅田君に会う時刻より三〇分ないし一時間位先にしておいたような記憶があるのです。つまり梅田君と打合せする時間を置いたわけです。」となつて梅田との約束時間と大山との約束時間との間隔は更に短縮されるかの傾向である。【33】(同―二一一六)では、この日大山が柴川木工場の所へ来たのは午後七時半頃だつたとしている。

<29> 次に、そこで、自分は来られないかも知れないが、一人でやつてくれる様説得して梅田と別れた後の羽賀の行動であるが、【2】では、梅田と別れた後、隠れて、梅田のすることを見るために、同日午後七時半頃また柴川木工場付近に来たとの供述はあるが、その間どこに行つて何をしていたのかについては触れていない。また、梅田については、「午後七時半頃にこつそり柴川木工場付近まで行つたところ、梅田は既に来て」と、別れた後、梅田も一たん柴川木工場からよそへ行つたことを前提とする供述がなされている。【18】三項では、梅田と一応そこで別れた後、「私はすぐ桜町の自宅へ帰りました。梅田はしばらくその柴川木工場の土場付近に立つていた様に思います。が、その後どこへ行つたか分りません。」とあり、そして四項では、「当日、その後、戸外が暗くなつた頃、また柴川木工場の土場に出かけました。桜町の私方から出かけたのです。」と、自分は一たん桜町の自宅へ帰り、時間を見計らつてまた様子を見に柴川木工場へ行つてことを述べると共に、梅田の行動についての【2】のニユアンスを否定している。

【26】(確一の一―七八六)では、「(問)そのとき梅田とそれだけの話をしてそれからどこへ行つたか。(答)その場からすぐ市街の方へ、梅田君に急いでいるなあと感じさせる様に急ぎ足で歩きました。それから大山君と約束した二〇分位前に柴川木工場の裏手の方から、同所のものかげにかくれて路上の梅田の様子をうかがい見るということになるのであるが、その間どこをどう歩いて時間をつぶして同所へ来たか分かりません。」となつていて、桜町の自宅に帰つていたとしていたのが分からなくなつている。【32】(同―二〇五二)では、「忙しいふうを装つてその場を離れ、時間を過すため近くの道路を約一時間位歩いておりました。(問)どの辺を歩いたのか。(答)小公園の付近です。(問)自宅に帰らなかつたか。(答)……帰らないはずです。」となつて、分からないから、自宅でなく、小公園付近道路を一時間位歩いていたことに変わつている。

ト 同第六回目会合(犯行当日の犯行直後)

<30> まず、羽賀が、梅田と大山を尾行して行つて、二人が仁頃街道から本件犯行現場に至る道へ入つて行つたのを見てから、その付近から梅田が帰つてくるのを見たときまでの時間であるが、【2】八項では、約一時間位、【18】五項では、三〇分位、【26】(確一の一―七八八)では、二〇分、【32】(同―二〇五六)では、「一時間位のものだつたろうと思います。」と移り変わつている。

この時、梅田が行つたであろう単独実行の全過程(三種の凶器を使い分けての殺害、脱衣、死体運搬、穴捜し、死体運搬、素手による埋没、衣類・所持品等の包みや凶器の収集)と、その行われた場所の状況を併せ考えるならば、この程度の時間内に右の全行為を行うことは、明らかに不可能であると思われるが、それにしても、二〇分などという供述がなぜ体験者であるはずの者の口から出てくるのか不思議である。

<31> 次に、その間の羽賀の行動であるが、【2】七項末尾では、「しかし、私も東陵中学から仁頃の方へ半町位も向かつた所で『殺すのを見るのがいやになり』そこから柴川木工場の付近まで帰つて来ました。」となつており、【18】四項では、「こうして東陵中学の付近の仁頃街道上にある二本檜のうち、仁頃に近い方の木のそばまで二人の後をつけて行きました。私はその二本檜より先に行かず、その二本檜のうち、仁頃に向かつて右側の木の付近をブラブラと行つたり来たりしておりました。」とされ、引続きその五項では「こうしてその二本檜の付近で三〇分位もブラブラしておりましたら、仁頃街道を仁頃の方向から私の方に向かつてやつて来る梅田君らしい姿が見えました。私は相当長い間その二本檜の所でブラブラしていた様な感じがしました。」となつており、柴川木工場へ帰つて来たとする【2】の供述から変わつている。

ところが、【26】(確一の一―七八七)では、「(問)どこまでついて行つたのか。(答)東陵中学の付近に、道路の両側にアーチ型に二本木がありますが、そこを通り越して先に歩いて行く二人が小路に曲るところを見とどけました。小路を曲つてから二、三分で予定の現場でありますが、そのうちに声がすると思つていたが、五、六分たつても声が聞こえないので、うまくいつたと思つて、二本木のところまで引返し、二本木のかげにかくれて梅田の来るのを見とどけました。(中略)(問)二本木のところで待つていてそれからどうしたか。(答)二本木のところへ来て、二〇分過ぎてから梅田君らしい輪郭が見えた(中略)」となつており、この証言の直前の「間もなく現場の方へ二人で歩いて行きました。そこで私は路上に出て、先に歩いている二人の輪郭が分かる程度の五、六〇米の距離でその後をついて行きました。」という証言と、【29】の検証の結果欄三によれば、起点から仁頃街道を一八五二メートル北進した地点に本件現場へ通じる山道の入口があり、同起点から同様一二二〇米北進した地点に仁頃に近い方の二本木があるというのであるから、その二本木から右入口までは約六三〇メートル位の距離であることを考慮すれば、【26】の羽賀証言では、羽賀自身が、二人をつけて右山道への入口から五、六〇メートル位手前の辺りまで行つてまた二本木の所まで引返したことになり、二本木より先に行かなかつたとする【18】とも異なるし、柴川木工場まで戻つたとする【2】とも異なる証言をしていることになる。

【32】(同―二〇五五)では、「二人が仁頃道路から例の穴のある沢の小径に入つた後ろ姿を見て、私は、付近の、今通り過して来た、二箇所に立つている木の仁頃の方に、つまり小径の分岐点に近い木の辺りまで引返し、その後小径から分岐点に出てくる人影があるかどうかをみてをりましたが、これは犯行が終わつた梅田君が出てくるか大山君が逃げ出てくるかと窺つていたわけで、大山君が出てきたら逃げるのを阻止しよう、梅田君が出てきたら、梅田君より先に柴川木工場付近まで引返し、その付近で、さも、今、用事が終わつてきたようにして梅田君に会うことにしようと思つて見ていたわけです。(問)それからどうしたか。(答)随分長い間かかつたように思いましたが、一時間位のものだつたろうと思います。梅田君らしいのが小径から分岐点のところに出て来ました。(問)暗かつたと思うが分かつたか。(答)私は、待つている間、ブラブラ歩いて分岐点の方に大分近付いていたのが、梅田君であることは分かりました。(問)距離はどの位あつたか。(答)どの位あつたか分かりませんが、ただ、これについて言えることは、夜間、人の輪郭で、あれは誰だということが分かる程度の距離であつたということです。」となつている。

前半の、二人を尾行していつて、小径に入るのを見とどけてから二本木の所まで引返したとの点は【26】とほぼ同じであるが、問題はその後の行動である。【26】では、単に「梅田君らしい輪郭が見えたので」として、それがどこに見えたのか特定していなかつたので、二本木の所にいたまま見えたとしても矛盾は生じないが、【32】では、尾行をし、二本木の付近で待つていた目的を詳述し、そのため仁頃街道から小道への分岐点に二人のどちらの姿が現れるかを見張つていたことになつているため、梅田がその分岐点から出て来た輪郭が見えたと供述することとなり、そのために、暗さのこともあつて二本木の所から見えるか不審が生じ、「暗かつたと思うが分かつたか。」との質問を受ける結果になり、その間隙を埋めるために「待つている間にブラブラ歩いてまた分岐点の方に近付いていた」という新たな供述をすることとなつたように思われる。すなわち、二本木の所で待つていたのではなく、またその分岐点の方に歩いて行き、その分岐点に人が出て来たときに「夜間、人の輪郭で、あれは誰だということが分かる程度の距離」の所まで近付いていたという、以前には見られなかつた供述をしているわけである。

<32> 次に、梅田と会つた場所であるが、【2】八項では、その前に、自分が柴川木工場の付近まで帰つて来たことを前提にして「梅田が東陵中学の方から歩いて来たので、私は、さも急がしそうに、今着いた様な風をして梅田の方へ行くと」となつていて、柴川木工場と東陵中学の間で、柴川木工場に近い方で梅田の歩いてくる姿を見て、羽賀もその方へ近付いて行つたような供述になつている。後の供述に現れるような、梅田の姿を見掛けてから、一足先に、三楽園の方の道を通つて柴川木工場の方へ戻つたとする供述はここにはない。

【18】の五項では、二本檜の所でブラブラしていたことを前提に「梅田君らしい姿を見ると私はすぐ北見の方へ引返しました。というのは、梅田に対して『のつぴきならない用があつて大山君と一緒に行けないかも知れない。』といつておきながら、大山君を殺(や)る現場に近い前述の二本檜の所まで私が来ていたのでは、梅田に変な感じを与えはしないかと思つたからです。私は大急ぎで仁頃街道を北見の方へ引返し、その途中、三楽園の方へ行く脇道へ入つてから駆出しました。そして柴川木工場付近に出てから、今度は仁頃街道を仁頃の方へ向かつて歩いて行きました。すると仁頃街道とその一本東寄りの道路との分かれ道付近で梅田と出会いました。」となつて、う回して柴川木工場へ戻つた供述が始まる。【26】(確一の一―七八八)も右とほぼ同旨であるが、梅田と出会つた所は、「三楽園から柴川木工場付近の仁頃街道に出るところまで行つて、そこの交差点から仁頃街道を仁頃に向かつて歩きました。約五〇米位の地点と思いますが、そこで梅田君と会いました。」となつている。【32】(同―二〇五六)も、梅田の姿を見掛けて、それより先に柴川木工場付近へ戻つたこと、その際、三楽園の方をう回したこと、柴川木工場付近から仁頃街道を犯行現場の方へ向かつて歩いて行つて梅田と会つたことは【18】【26】と同旨であるが、梅田を見掛けて引返し始めた羽賀の地点は、二本木付近でなく、現場への分岐道に夜間、人の輪郭で誰と分かる程度の距離に近付いた辺りであること、梅田と会つた地点は柴川木工場から仁頃街道を七、八〇メートル現場の方向に引返した地点としている点で若干の相異が見られる。

<33> 次に、出会つた時の相互のやりとりであるが、【2】では、「梅田は私に会うと『すべて言われたとおり終わつた。』と言つたので、私は『いやどうも悪かつたな。実はのつぴきならぬ用事というのはこの仕事をかにつけたやつが一人居るので俺のアリバイをつくつておいたのだ。』と嘘を言つておきました。」とされ、そしてすぐ梅田が金包みをよこしたことになつている。【18】五項では、「私は『梅田君どうも済まなかつた。今度の自分達の問題をもうかぎつけた者がいるのだ。その人間がつきまとつて困るのでそれを押えていたのとアリバイをつくるのとで一緒に現場へ行けなくて済まなかつた。』と言つて、いろいろ一緒に現場へ行かなかつたことについての言い訳をしました。(中略)梅田は私に、ただ『殺(や)つた』と位しか申しませんでした。口数が非常に少なかつた記憶があります。」と羽賀が言つたことの内容は一層詳しくなつているが、ほぼ同様の供述と見うる。

しかし、【26】(確一の一―七八八)では、「私は梅田君に対し『どうも遅くなつてすまんかつた。』と言いました。私は、梅田君が、私が来なかつたことについて詰問するだろうと思つてそのときに言う言葉を用意していましたが、梅田君は、その時、興奮していたのか、何も言葉を発しませんでした。」となつて、現場へ行かなかつたことの言い訳は、口に出して言つたのではなく、梅田から詰問されたとき言おうと思つて用意しただけのことに変わり、また、梅田については「口数が少ない記憶」から「何も言葉を発しない」に変わつている。【32】(同―二〇五七)では、梅田と出会つて「話をしたのですが、その内容は忘れました。」となつている。

<34> 次に、梅田から、大山の衣類等を受取つた場所であるが、【2】八項では、東陵中学の方から来た梅田の方へ、柴川木工場付近に帰つて来ていた羽賀が行つて会い、嘘の話をし、「そこで梅田が『これは金だ。』と言つて風呂敷に包んだものをよこした(中略)この時金と一緒に大山の衣類とバツタを受取つた。」となつていて、これでは柴川木工場から少し東陵中学校の方へ行つた仁頃街道上で受渡しが行われたかのごとくである。

【18】六項では、「そして二人一緒に柴川木工場の土場の材木と材木の間に入りました。仁頃街道の方から柴川木工場に向かつてすぐ左側の材木置場の間に入つたのです。二人とも中腰になつて向き合いました。梅田は仁頃街道の方を背にしておりました。そして梅田から、最初に、大山君が着ていた衣類等を包んであると思われる、かさばつている風呂敷包を一箇受取りました。(中略)その結び目の間に(中略)バツトがはさめてありました。私はその風呂敷包を受取るとすぐ私の右横の地面の上に置きました。その次に、現金を包んであると思われる風呂敷包を一個受取りました。」とあつて、柴川木工場の土場の材木と材木の間で受渡ししたことに変わつている。【26】(確一の一―七八八)では、梅田と会つた所から引返して「柴川木工場の土場と山との間の空地の所へ行つて、私は梅田君に『どうもすまなかつた。うまくいつたか。』と言うと、梅田はうなずきました。私は梅田君が興奮していたので、そのことに関してはそれ以上何もふれませんでした。それから梅田君より、大山の着衣と棍棒を入れた風呂敷包を受取り、さらに金を受取つたのであります。」とあつて、土場の材木と材木の間でなく、土場と山の間の空地で受渡ししたことに変わつている。ただし、羽賀は、すぐ後になされた裁判官の「土場と山との間とは木材を積んでいる木材の山と山との間にある空地のことか。」との誘導尋問に「そうです。」とすぐに乗つている。

【29】では、同調書添付第三図で、そのどちらとも異なる、原木土場の木材搬入トロツコ線の北端より更に少し北の辺りの地点を指示している。

【32】(同―二〇五七)では、「柴川木工場の土場の丸太と丸太の一米半位の透き間に入り、金と大山君の着衣とバツトを受取りました。」と、【18】の供述に戻つている。

チ 同七回目会合(犯行日の後)

<35> まず、会つた日であるが、【4】では、二五年の「一一月一〇日頃」とされていたのだが、【18】一一項では、「一一月初め頃」とやや早まり、以後【21】一項も、「一一月初め」、【26】(確一の一―七九五)も、「一一月初め頃」としている。

<36> 次に、この日なぜ梅田が羽賀を訪ねて金を取りに来たかについてであるが、【4】では、「その時私は、大山を殺した日に、とりあえずこれだけやつておくからと言つて、五万円位をやつたものであり、私が取つた方が多いことを知つているので、その金をくれという意味が分かつたのであります。」となつており、【18】一一項では、「私は『ははあ、後になると自分から金を取ることができないと思つて、今のうちに金を取りに来たな。』と思いました。」とされ、【26】(確一の一―七九五)では、「用件は、事件を起こす前の約束では、殺害して強奪した金を半々にわけるということになつていたが、前述した様に、五万円しか渡していなかつたので金をもらいに来たのであります。」となり、これまで共謀による強盗殺人事件でありながら、強取金の分け前についての供述が全く見られなかつたものが、ここに初めて、梅田が羽賀を訪ねて金を取りに来た理由中に登場するのである。しかし、この点の証拠は、これだけで、羽賀の以後の供述でもこういう約束であつたとするものはない。確定記録中の他の証拠にも分け前の約束を示す証拠は存しない。この一箇所だけである。

<37> 次に、梅田がした金の要求を断わつた理由であるが、【4】では、「この前も言つた様に、この事件を『かにつけた』(感知の意)者が居るので、その男に相当取られたからもう金がないんだ。まあ、待て。さらに、警察の人にも目を付けられているんだから君も注意しれ。」と、かぎつけた者への口止料として支払つて金がなくなつたことを正面の理由にし、付随的に警察への発覚の危険が添えられている。したがつて、【18】のように、二人で一緒に歩いているものも危険だから別れようなどという言葉は出ずに、「まあ、そばでも食いに行くか。」と話を濁す誘いをかけたことになつているのである。これに対して梅田は「映画を見に行く」と言つていたことになつているのである。

ところが【18】では、理由の重点は逆転する。すなわち、「私は大山君の事件が私等に影響せずにかたずくという見通しができたときに、梅田の方から金をくれという請求があれば約束どおりの金を渡してやろうと思いましたが、当時は、その様な見通しもつきかねる時でありましたから、梅田には『君は仁頃に居て事情が分からないだろうが、大山の問題は警察でも捜査している。その見通しがどうなるか分からない時に金を出すことはできない。別に金を惜しむ訳ではないが、今言つた様な訳から出せないのだ。』と話をし、更に『既にこの事件をかぎつけた奴に口止料として金を支払つてある。』とでたらめを言つて、結局『今日は何も言わずに帰つてくれ。』と申しました。」となり、そのために、「ソバでも食いに行くか。」どころか、梅田がなおも是非必要なのだから頼むと数回繰返していたのに対し、「今出せば危険が多いから駄目だ。余り、二人が一緒に歩いていると他人に変な目で見られるから別れよう。」と言つたことになつているのである。

【26】(同―七九六)では、警察の捜査の見通し云々は消えて、事件をかぎつけた者に口止料を払つてまで発覚の危険を防止しようと気を使つているのに、一月もたたないうちに、渡した五万円も使つてしまつたことに憤りを感じたことを中心に、その点をたしなめて拒絶したことになつている。【32】(同―二〇六〇)では、金使いの荒いことと捜査の展開について述べているが、口止料を支払つたとの点については触れていない。

なお、【18】では、口止料の点はでたらめを言つたことになつているのに、【26】では、本当に事件をかぎつけた者が居て、これに実際に口止料を払つたことを前提にした供述に変わつている点も注目しなければならない点である。

リ まとめ

以上、羽賀の各供述を精査すると、復員後の梅田との出会いの状況から犯行計画の打明け、共謀の成立過程における各会合日の日時、場所、出会い状況、打合せ内容、犯行直前直後のそれ、犯行後約一か月程しての最後の出会いに至る「梅田との結付き」を供述するすべての過程において枚挙にいとまがない程の変遷が存し、取分け、一〇月八日犯行現場でなされた予行演習における大山死体の運搬経路の指示に至つては四転五転するなど、こと梅田に関する事柄については、これが体験した事実についての記憶を正直に述べようとして起こる変遷とは到底解し得ない変遷振りを示しており、その述べんとするところが奈辺にあるや確定し難く、そのこと自体で羽賀供述の信用性は乏しいと言わざるを得ない。

なお、付言すれば、その変遷の仕方を良く見ると、次のような特徴がある。

a 一回毎の供述は、おおむね詳細綿密になされていることが多く、ある一回の供述中の前後に、すぐ矛盾と気付かせるほどの撞着はそう存しない。しかし、以上見てきたように供述項目毎に供述の全体を子細に点検すると、その変遷振りの甚だしさは驚くほどのものとなる。すなわち、詳細綿密なある供述は、次の供述に際しては、別の内容の詳細綿密な供述に変遷する。

b 梅田自白との食い違いを指摘される場合には、明解に自己の供述の正しさを主張するが、自分自身の供述の変遷、矛盾や他の客観証拠との矛盾を指摘されたりすると、突如として、それまで詳細綿密にしていた供述をすつかり忘れてしまうなど、不自然な忘却供述も多々存する。

c 右の様に、忘れた、記憶がないと言つていたかと思うと、その後の供述では、また元に戻つたり、別内容に詳細に記憶が戻ることもある。

d 時期的に後の方の供述で、それまでに全く供述されていなかつたあるいはその痕跡すらなかつたような新たな事柄や理由、根拠が付け加わつてくることも再三ある。

e 日付け等時間的あるいは論理的前後関係の混乱が目立つ。

(二) 変遷以外の羽賀供述の信用性に関する疑問点

(1) 以上のように変遷はあるが、羽賀供述の大要は、羽賀が大山殺害の共犯として梅田を選定し、昭和二五年八月末ないし九月初め頃から一〇月八日までの間に数回北見市内で出会つて共謀し、一〇月一〇日梅田に大山殺害、金員強取、死体遺棄の実行行為をさせ、その直後に梅田から強取金を受取り、直ちにその内から分け前の一部を梅田に与えたが、一か月位した後、金を使い果たした梅田からその余の分け前を請求されたとするところであつて、検討対象である証言及び被告人供述にもその旨の詳細な供述がなされている。

しかしながら、八月末ないし九月初め頃から一〇月八日に至るまでの共謀成立過程並びに一〇月一〇日に梅田が実行行為をなしたとする点は、前記二2(三)(5)の<8>及び<9>において検討したごとく、梅田にはいずれもアリバイが成立する可能性が存するほか、共謀成立過程についても、羽賀供述では、梅田との共謀及び大山に対する欺罔過程の各会合の日々を割出すのに、八月一四日に開かれた羽賀と下山の送別会を基準として、それから何日位後という形でなされているが、羽賀はそもそも右送別会の日を八月末ないし九月七日頃という誤つた認識をしており、そこに二週間ないし三週間のずれがあるにもかかわらず、この点につき何ら合理的説明がなされておらず、また、一〇月一〇日に梅田が大山と連れ立つて犯行現場付近に行くのを目撃し、その後二〇分ないし一時間後に、大山を殺害し、金員を強取し、更に死体を穴に埋めて戻つてくる梅田に出会つたとする点は、前記二2(三)(3)の<10>及び<11>で検討したごとく、右供述するような短時間では右一連の犯行行為をなすことが不可能であることは明らかであつて、常識上到底措信し得ないところであり、また犯行後一か月位してから梅田が分け前を要求したとする点は、そもそも共謀の成立並びに実行行為そのものが否定されれば、事件後の会合など存しようはずがなく、いずれの点においても、他に何ら裏付証拠もなく、単にこれらと異なる旨を供述する羽賀供述も、こと梅田に関する関係では全く信用できないものと言わざるを得ない。

(2) また、他の証拠からみても、羽賀供述の信用性については疑問を生ずる点が多々あるが、強取金の行方に関する供述にその一例をみることができる。すなわち、原一審において、大山強殺による強取金の一部として取調べられた現金一二万円(検第一八号)と四七〇〇円(検第一九号)は、羽賀供述に反して、むしろ、清水が強殺によつて得た小林の鞄の中にあつた千円札の一〇万円束二つのうちから、四、五万円を取り除いた残りの一五、六万円を、昭和二六年六月一七日頃、羽賀に渡したが、その一部ではないかとの疑いがあるのである。

イ まず右金員の押収経緯を見てみると次のとおりである。

原一審証拠品総目録、第一回公判調書(確一の一―八)、冒頭陳述書一A(四)(ヨ)(同―一五)、第二回公判調書(同―四四)、領置目録(同―六四)、司法巡査各作成の昭和二六年六月二五日付け領置調書二通(同―七九、八〇)、羽賀の昭和二七年一〇月七日付け員調(三葉のもの。不―一三三)、羽賀の第一二回検調(確一の一―一四七三)、羽賀の第一〇回公判証言(同―八〇三)、信田ウメの証言(同―七〇一)、同女の昭和二六年六月二五日付け巡調二通(不―三二二、三二五)、同じく同月二九日付け員調(不―三二九)、同じく同年七月二日付け検調(不―三三四)、同じく昭和二七年一〇月一一日付け第一回検調抄本(確一の二―八五、この原本は確一の三―三三六)同じく同月一六日付け第三回検調(不―三三九)五項、同じく同月二〇日付け員調(不―三四六)、同じく同年一一月一八日付け第四回検調(確一の二―八八)、同じく同年一二月一六日付け第五回検調(確一の一―五四八)によれば、羽賀は、昭和二六年六月二三日に逮捕される数日前、現金一二万五〇〇〇円を、その内五〇〇〇円は費消してもよいとして姉の信田ウメに預けたが、小林三郎の公金の業務上横領被疑事件の共犯者として逮捕され、間もなく、自己の所持金は信田ウメに預けてある旨を供述し、これにより、同月二五日隠し切れなくなつた信田ウメが、羽賀から預かつた金員中まず一二万円を、また五〇〇〇円のうち、費消した二〇〇円と手元小遣いとして残した一〇〇円を差引いた四七〇〇円を各任意提出し、北見市警察において各領置したこと、羽賀は、右金員は、姉と母と弟から借りたものと自分の所持金とを合わせたものと言張り、同年七月一四日頃処分保留のまま釈放されたこと、羽賀は、釈放後、右金員は事件に関係ないものだから返してくれと検察庁に要求したが、返戻されないまま、翌昭和二七年九月一七日の逮捕に至り、大山事件を自供したが、その際、右金員は大山から奪つた金の一部に相当するものである旨供述し、原審公判において、その趣旨の証拠物として取調べられたことが認めらる。

ロ 右金員と大山からの強取金との結付きについて、羽賀はその第一二回検調(確一の一―一四七三)で次の様に供述している。

羽賀は、昭和二五年一〇月一〇日、本件犯行直後に、梅田から、大山の金包みを受取り、即座に、その札束のうち、目分量で四分の一位を梅田に渡し、残りを帰つて調べてみたら一四万五〇〇〇円あつたが、同月下旬頃、姉の信田ウメから、その夫孝三が一〇万円の金を作るのに苦労している旨を聞き知り、同年一一月初め頃、右一四万五〇〇〇円のうちから一〇万円を、姉ウメを通じ、その孝三に貸渡した。この一〇万円は、翌二六年二月中旬頃までの間に、三、四回に分けて返済された。羽賀は、この現金を一時桜町の自宅の衣類箱の中に隠しておいたが、同年五月末頃、これを全部北見林友会の羽賀の机の引出しの奥に隠した。羽賀は、同年六月一一日小林事件の実行を清水に行わせたが、その頃、北見林友会留辺蘂出張所か丸瀬布出張所から北見林友会本部へ三〇万円余の現金が持込まれ、同会理事加藤信吉の命により、これを預金するため、銀行へ持参するに際し、前記一四万五〇〇〇円のうち、その頃までに二万円費消した残りである一二万五〇〇〇円のうちの一〇万円を、右銀行に預金すべき林友会の金のうちの一〇万円の束(いずれも千円札であるが、後者は帯封がしてある。)と取替えた。同月二〇日頃、信田ウメから「清水が、『羽賀に対して逮捕状が出されて近く逮捕されるとの情報を聞いた。』と言いに来た。」旨聞かされ、右金員を所持していると危ないと考え、翌六月二一日頃、信田方へ行つて、姉ウメに右一二万五〇〇〇円を預けた。同月二三日羽賀は逮捕されたが、間もなく、自己の所持金は信田ウメの所に預けてある旨供述してしまい、信田ウメから前記のとおり一二万四七〇〇円が提出され領置された。

もつとも、昭和二七年一〇月七日付け員調(不―一三三)、第一九回検調二項(確一の一―一二八三)及び第一〇回公判証言(同―八〇三)では、貸した時期、返済を受けた時期、林友会の自分の机に移した時期などについて供述に変遷がある。特に公判証言では、林友会の一〇万円と取替えた点が全く供述されていない。

ハ しかし、羽賀の当時の収入の状況を見てみると次のとおりである。羽賀自身、第二回検調(確一の一―一三三一)で、林友会に勤めていた頃の月給は手取八五〇〇円位あつたとし、これはすべて父に渡し、月々の小遣として平均二〇〇〇円位もらつていたとし、母親の羽賀ふじよの第二回検調(同―三〇九)、昭和二六年六月二五日付け員調(不―三五八)及び同年七月二日付け検調(不―三六〇)では、羽賀の家計は、母ふじよが預かつていたとし、羽賀らは給料を皆母ふじよに渡し、母ふじよは羽賀らから、その都度使途を聞いて小遣をやつていた旨述べ、昭和二五年七月末羽賀が営林局を退職した時、一万円位やつたほかには、昭和二五年も昭和二六年も、羽賀にも他の者にも一度に一万円以上の現金をやつたことはないと言つている。そして、北見林友会の当時の理事加藤信吉の第一回検調(確一の一―二〇二)によれば、羽賀は、昭和二五年一二月一一日に林友会に雇われ、昭和二六年七月三一日に依願退職しているが、当初の月給は、四五〇〇円位、退職の頃は五五〇〇円位であり、退職金として三六六七円支払われた旨を述べている。羽賀供述の月給額と相当の開きがあるが、羽賀は原二審に対する昭和三一年一一月一四日付け上申書(二―三〇一二)の三〇二八丁以下において、宿直手当が月に少なくとも五、六千円あつたとしているので、これも含めて給料として母に渡していたものと考えられる。なお、右上申書では、年末と年度末に各一万円の定期外の臨時賞与が給料とは別封筒で支給され、これは自分の小遣銭に充てていた旨主張している。いずれにしても羽賀の当時の収入の状況は以上の程度にとどまつており、他に収入の道があつたような形跡は存しない。

ニ ところが、大山事件の後、小林事件を起こして金銭を入手したと思われる頃までの羽賀の支出の状況は次のとおりである。すなわち、

司法巡査横道春雄外一名共同作成の昭和二七年一一月四日付け小林事件捜査報告書(確一の一―五三五)、伊藤好子作成の上申書(同―五三六)、泉栄松作成の答申書(同―五三八)、兜森栄子作成の答申書(同―五四一)、西久保正儀作成の答申書(同―五四四)、土井公平作成の答申書(同―五四五)及び辰巳政清作成の答申書(同―五四七)を総合すれば、羽賀は、昭和二五年一二月頃から翌年六月頃までの間に、北見市内の飲食店や待合茶屋等で一一万円をはるかに越える金員を費消している事実が認められる。

また、信田孝三の昭和二六年六月二四日付け員調(不―三一九)によれば、同人は、羽賀から(i)昭和二六年二月一日一万円(同月六日返済)、(ii)同年三月中頃六万五〇〇〇円(同年四月中頃二万円、同月二四、五日頃一万円、同月末頃三万五〇〇〇円各返済)、(iii)同年五月二日一万円(同月一八日返済)、(iv)同月二二日二万円(同月三一日一万円、同年六月六日一万円各返済)の四回にわたり融資を受けていた事実もある。

前記の様な当時の羽賀の収入状況からは、右の様な金員の費消、融資に充てるべき資金の捻出は不可能というほかなく、当然、大山からの強奪金が充てられていたのではないかという疑いが強くなる。

ホ それでは信田ウメに預け、現に出てきた合計一二万四七〇〇円の現金の出所はどこであろうか。小林三郎からの強取金が振当てられる余地があつたかどうか検討してみなければならない。

清水一郎の第二回検調四項(確一の一―一〇八九)、七項(同―一〇九六)及び原一審第一九回公判供述(同―一八〇一)によれば、昭和二六年六月一一日小林事件実行後、同月一七日に、小林の鞄の方に入つていた(四五〇万円余は、リユツクサツクの方に入つていた。)千円札の一〇万円束二つのうちから、合計四、五万円を抜取り、残りを羽賀に手渡した事実が認められる。また、加藤信吉の第一回検調(同―二〇二)によれば、同月一六日、北見林友会丸瀬布出張所から三七万円が同会本部に入金され、加藤信吉において、たまたま、この一回に限り羽賀に対して預金のため銀行へ持参するよう命じたこと及び同月一八日頃羽賀がこれを銀行へ預金に行つた可能性が認められる。

これによれば、同月一七日清水から受取つた小林強殺による一部金たる一四、五万円(あるいはその一部)を右林友会の預金すべき三七万円の一部と交換することは可能であり、その後、姉を通じて清水からの逮捕間近との情報を受けて、すぐに一二万五〇〇〇円を姉の所へ持つて行くことも可能であつたと認められる。

羽賀は、原一審第一九回公判供述(確一の一―一八二九)において、六月一七日頃清水から右の様な金員を受取つたことは否認している(なお、捜査段階の供述中にはこの点に触れたものはなく、確認の質問がなされた形跡も見当たらない。)が、清水の自供の経緯、悔悟の情の真摯さなどあらゆる点からみて清水の供述の方が信用できるものであることは明白であり、羽賀がこの点を否認していること自体が前記のような強取金の擦替え供述をしていることの一つの証左と見られる。

(3) それでは、何故に羽賀は梅田を共犯者と主張したのであろうか。羽賀が既にこの世にいない今となつては、直接羽賀に問い糺す術もないが、小林事件における相田賢治主謀者説に何らかの鍵が存するように思われる。

イ 既に三2羽賀供述成立の経緯の所で記述したとおりの経緯で、羽賀供述の中に、相田賢治が主謀者であり、小林から強奪した金も大部分相田に渡したという供述が登場しているのであるが、この羽賀供述に基づき、相田は逮捕され、警察段階の取調べで自白したが、検察官の取調べに入るや否認し、以後否認の態度を崩すことなく、不起訴のまま釈放され、検察官は、小林事件について羽賀を起訴するについても、右相田賢治主謀者説を訴因に掲げないばかりでなく、冒頭陳述の立証すべき事実の中にも含ませておらず、論告でも右事実を認むべき証拠はないと論じた。しかし、羽賀一人これを登場させて主張し続け、公判においても、相田との折衝状況、金員引渡し状況等、事実体験したかに見える具体性を付して物語つた。そのためか、原一審裁判所は、職権をもつて相田賢治を証人として取調べたが、以後訴因変更の勧告等といつた措置を取ることもなく、確定判決の罪となるべき事実中に認定もしていないのである。にもかかわらず、羽賀は、控訴、上告、判決訂正の申立のすべてにおいて、小林事件については、この相田賢治主謀者説を原判決が採用しないという事実誤認に基づく量刑不当を主要な柱として前面に押立てて争い徹しているのである。

ロ 当裁判所は、羽賀の相田賢治主謀者説は、単に証拠上認めることができないと言うにとどまらず、その登場の経緯(特に、「レジスタンス」として強取金の行方について詳細な虚構事実を述べたその調書((昭和二七年一〇月九日付け員調、不―一三八))に初めて、相田賢治名を登場させていること)、時期、これに関する羽賀の供述の変遷状況とその不自然さ(大まかに言つて、当初使嗾されたことと)金を渡した所にしか相田は登場せず、本件犯行との関連の持ち方が不自然である。)、全く裏付証拠が得られないこと、羽賀の相田賢治証人に対する質問内容等を考慮すると、羽賀が、相田賢治こそ主謀者とすることで自己の刑責の軽減を計り、かつ強取金を同人に渡したとすることで強取金の真の行方を隠蔽するという一石二鳥の効果を意図して捏造した虚構の事実ではないかとの疑いが強いものであると考える。

ハ そして、梅田逮捕の唯一の決定的証拠となつた羽賀の大山事件についての梅田実行共犯者供述も、小林事件における羽賀の右相田賢治主謀者説と以下のような類似性があることを考慮せざるを得ない。

まず、登場の時期であるが、既に羽賀供述成立の経緯の項などで明らかなとおり、昭和二七年九月一七日逮捕され、大山事件につき頑強に否認し、取調官においてその取調べを断念し、既に清水が全貌を自白している小林事件の取調べに移行し、これについての取調べも、一わたり済んで強取金の行方が焦点となつてきた時期に、自分の方から大山事件について自供したものであり、当初単独犯である旨を、すぐに共犯者がいる旨を、そして数時間の考慮時間を要求したうえで、その後に梅田の名を出したものであるが、引続き大山事件についての羽賀の取調べが警察でなされ、これが一わたり済んだ同年一〇月九日に前記小林事件についての強取金の行方についての虚偽の供述と相田賢治名が初登場する調書が作成されているもので、逮捕後一〇数日以上たつた後の供述である点でも、小林事件の強取金の行方についての追及が焦点となつている時期に登場してくる点でも両者は類似性を有している。

次に、その時期まで両名の供述をしなかつた理由についてであるが、羽賀の原一審第一一回公判証言(確一の一―八二六)及び昭和二七年一〇月九日付け員調(不―一三八)六項によれば、両方ともその名を出さないで済むものならば自分だけのことにしておこうと思つたと(ただし、大山事件については、第四回検調((確一の一―一三四七))六項では、「梅田との間で大山事件については絶対に他人に漏らさない約束をしていたので」という趣旨でニユアンスの異なる理由を挙げている。)述べ、いかにも共犯者をかばうために自分一人が責任を負おうとした潔い態度の表れであつたと思わせる理由を持出している点で共通し、しかもその後の供述や公判審理における実際の態度が右とは全く裏腹に、共犯者と供述した者に不利となり、羽賀にとつて有利となるような証拠を引出すために、これらの者や、これらの者にとつて有利な証言をする者等に対し、執拗巧妙な質問をしかけるといつたものである点でも共通している。

また、その具体的な供述内容に不自然な変遷や常識的にも首肯し難い点等の不合理さが伴い、有力な客観的裏付証拠が何一つ得られない点でも共通している。最終審までの不服申立の理由として、大山事件については、自分は実行行為をしておらず、梅田が実行行為者であることを主要な柱とし、小林事件の方では、相田主謀者説を主要な柱(清水実行行為者主張とともに)としている点でも共通している。

以上によれば、大山事件における梅田実行共犯者説もまた小林事件における四〇〇万円余の強取金の真の行方と共に大山事件についての真の共犯者等を隠蔽する目的で持出されたものではないのかという疑いを拭い切れない。

また、清水の第一回検調(確一の一―一〇四四)によれば、小林事件に清水を引入れる際、清水に対して、以前に大山を殺(や)つたことを打明けたが、その際「札幌から来た二人と羽賀とが現場に行き、時刻が夜であつて拳銃がうてなかつたからバツトに鉛を詰めたものとサイダー瓶に砂を詰めたものを使つて頭を一撃し、引つくり返つたところをヒモで首をしめた。」と言つていた(なお、清水のこの供述は公判でもほぼ維持されており、前同様信用できるものである。)ことが認められるが、これに対し、羽賀が殊更この点を否認していることもまた右の証左と思われる。

(三) 羽賀供述の信用性再検討のまとめ

羽賀供述中梅田を共犯者とすることに関連する部分及び強取金の行方に関する部分は、前記の新証拠についての検討及び梅田自白で検討指摘されたほかに、当審において初めて取調べた不提出記録中の羽賀の各供述調書等も併せて検討すると、以上のように、共謀及び犯行の重要部分を含むほとんど全面にわたつて、数多くの、中には四転、五転する不自然な変遷や疑問点が存し、基本的に体験した事実の記憶を正直に供述したものとなしえないのではないかとの疑いがある。少なくとも羽賀供述の右に指摘した部分を信用できるものとして、これだけで梅田実行共犯者の事実を認定しうるほどの証拠価値を認めたりすることは到底できない。

四 梅田自白の真実性及び羽賀供述の信用性検討のまとめ

新証拠によつて犯行の中枢部分である殺害の実行行為の態様に関する梅田自白と客観的証拠である大山の死体の状況とが不整合であり、前者の供述の真実性が動揺したために、梅田を本件犯行に結付けるただ二つの証拠すなわち梅田自白の真実性と羽賀供述の信用性の再検討を迫られ、新証拠、新資料として提出されたものを含め、これまでに蓄積されていた全証拠に、当審で初めて取調べた不提出記録をも加えて総合検討したところ、既に見てきたとおり、梅田自白については、客観的事実に明らかに反する点、真犯人であるならば当然説明・言及があるはずなのにこれがない点、常識的に見てその真実性を首肯しえない点、共犯者たる羽賀の供述と同一体験者の供述とは思えないほどの供述の食い違いがある点、他の証拠との対比・関連で不自然に思われる点、その中にはいわゆるアリバイが成立する可能性が存するのではないかという決定的意味をもつものまでが含まれていること、そして自白自身の変遷等、いろいろな角度から見て実に多数の不合理部分、疑問点が存することが明らかとなり、羽賀供述中梅田を実行共犯者とすることに関連する部分及び強取金の行方に関する部分は、体験による記憶を正直に供述しているものとは考えられないほどの甚だしい変遷振りや疑問があることも明らかになつた。

既に検討した確定判決の証拠構造からすれば、もはや梅田を有罪とするには余りにも沢山の合理的疑問が存するものと言わなければならないであろう。

五 その他の留意点

1 梅田自白の任意性

梅田及びその弁護人は、梅田は北見市警察に逮捕された後の取調べにおいて大山事件の容疑を否認していたところ、警察官達から様々な拷問、強制を受け、梅田はこれに屈して、取調官達の強制、誘導に従いながら、虚偽の自白をしたものであり、確定判決が証拠の標目に掲げた梅田の検調三通及び検察官作成の昭和二七年一〇月八日付け検証調書中の梅田の指示説明部分は、その影響と引続く誤つた利益誘導や強制のもとに作成されたものであるから任意性がないとの主張を一貫して繰返してきた。右主張の中核をなす拷問の点については、原一、二審審理において証人として出頭した警察官達はいずれもその事実を否定する証言をした。したがつて、梅田の供述との間では水掛論的状況におかれていたともいえる。しかし、同時期に羽賀の供述に基づき逮捕され、警察段階で自白したものの、検察官段階でこれを翻して起訴されなかつた相田賢治が、警察の取調べの際拷問を受けたとして具体的に証言をなし、梅田が北見市警察署の留置場に収容されていた当時隣の房に収容されていた高金光珠の、梅田に拷問が加えられたことを窺わせる証言(確一の二―二八七八)もあつて、原二審判決では警察の当初の取調べに関し、拷問とまで言えないにしても相当程度の強制が加えられ、そのため梅田の員調については任意性を担保し難い情況にあつたことが認められなくもないと説示したが、検調と検証調書の指示説明部分については任意性があるものとした。梅田らは、警察においては相当程度の強制にとどまらず拷問が加えられたし、以後検調等が作成されるまでの間も誤つた利益誘導や強制が加えられたとして具体的詳細な主張をしており、当審における請求の中にもその主張は含まれている。

当裁判所は、これまでに審理判断したところだけで、その余の点につき判断するまでもなく再審を開始しなければならないとの結論に達したので、検調と検証調書の指示説明部分の任意性の審理には深く踏み入ることをしなかつたが、既述のとおり、真実性に数々の疑問がある自白がなぜなされたのか当然疑問となるところであり、その解明を任務とする裁判所の審理において十分審理が尽くされねばならない留意点である。

2 梅田共犯供述についての羽賀の自己矛盾供述

本再審請求者は、新証拠の一つとして、羽賀が死刑を執行されるまでの間、札幌刑務所の三舎階上に収容されていた頃、同じく同刑務所で服役し、三舎階上の掃夫(衛生夫)をしていた鐙貞雄に対し、「梅田は大山事件に全く無関係であり、自分が助かりたいために引きずり込んだ。」旨告白していたとの鐙供述聴取書を提出し、当審においても同旨の証言をなした。右の供述聴取書及び同証言は、札幌刑務所長作成の昭和五七年一月一九日付け捜査照会回答書(札刑受第一二四号)の謄本の「鐙がその当時三舎階上の衛生夫をしていたとの記録が身分帳に存しない。」とされている点と抵触していて、そのままでは信用性を肯定し難いところがあるが、その証言態度は真撃であつて、殊更虚言を弄しているような点も見受けられないこと、これまで梅田と何らかのかかわりを持つていた節も窺えないこと、右の事実を証言することによつて同人に何らの利益をもたらすことなく、かえつて自己の旧恥をさらけ出すことになり、現にそのために居住地と職を変えなければならない不利益を受けた事実が窺えること、当時の看守をしていた斉藤藤治郎の証言の方が、殊更職務意識にとらわれたものか、かえつて事実を素直に供述していないのではないかとの疑いを抱かせ、同証人自身も前記刑務所長の回答書の内容と食い違う供述をしていること等からすれば、右鐙証言を一蹴し去ることもできず、なお記憶違い、記憶の混乱、身分帳記載の正確性等吟味を要するところがあるものと考えられる。

ただ、右証言は、相当年数を経た事後の自己矛盾供述という意味しかもたず、羽賀のその供述の真意等更に判断を重ねないと本件犯行との結付きは明らかにならない性質のものであり、当裁判所は、前記のとおり、この点の一層の究明審理をなすまでもなく再審を開始せねばならないとの結論に達したので、留意点として指摘しておくことにとどめる次第である。

六 その他

以上で触れたほかに、請求者が、新証拠として、新田千代供述聴取書及び那須供述録取書を提出していることは、第四の一1で述べたとおりである。前者は、昭和二五、六年当時、辰巳食堂で店員として稼働していた新田千代が、原一審においてなした「梅田が辰巳食堂に一回来たのを見た記憶がある。」旨の証言は虚偽であること及びその虚偽証言をするに至つたいきさつを供述するものであり、後者は、新田千代の娘那須広子が、千代の生前、右趣旨の話を同女から聞いていたとして前者の証拠価値を補強する意味を有するものである。

新田千代の原一審第五回公判証言(確一の一―六一九)には、なるほど、梅田が一回辰巳食堂に来たのを見た記憶がある旨述べられているが、それは、本件大山事件から半年も後の昭和二六年六月頃だつたというもので、到底梅田を本件犯行に結付ける証拠とはなり得ず、せいぜい、辰巳食堂へは一度も行つたことがないという趣旨を述べる梅田の公判における否認供述に対する弾劾証拠としての意味を持ち得るにすぎないものであり、だからこそ、確定判決も、右証拠を重視せず、証拠の標目にも掲げていないものと思料され、既に検討したところから本件再審を開始しなければならないとの結論を得たことと相まつて、右証拠を正面から取上げて、その信用性、証拠価値を深く吟味する必要性を認めなかつたものである。

第七結論

一 確定判決が、大山事件につき、梅田を実行共犯者とする犯罪事実を認定した証拠構造によれば、梅田を右犯行に結付ける証拠は、梅田自白と羽賀供述しか存せず、したがつて、梅田自白の真実性及び羽賀供述の信用性が動揺するならば、確定判決の有罪認定もまた動揺するものであり、この点が本件の特殊性として指摘されるところである。

ところで、当裁判所は、本再審請求で新証拠として提出された三宅供述録取書と既出の鑑定書の各記載内容を理解する必要上、三宅医師を証人として尋問したところ、原一、二審においては必ずしも明確ではなかつた、同証人の鑑定時における大山の頭部損傷の状況が具体的に明らかになるとともに、打撃態様につき証言するところは、確定判決の事実認定と異なることが判明した。

そこで、当裁判所は、大山の頭部打撃に関して、右三宅医師の見解と異なる鑑定意見を原審において示した渡辺孚医師を引続いて取調べたところ、同医師は、大山の頭部損傷の状況につき、誤つた認識の基に鑑定を行つたことを認め、正しい前提に立てば、鑑定結果が異なり、右三宅医師の見解とほぼ同一となる旨を述べた。これにより、大山頭部打撃の態様に関する事実認定に供され、有力なより所とされた渡辺原鑑定は、その証拠価値を失うこととなつた。

しかしながら、右のように渡辺原鑑定の証拠価値が喪失したとしても、確定判決は、大山頭部打撃の態様に関する証拠のうち、梅田自白を排斥して渡辺原鑑定を採用したものであるから、右排斥された梅田自白の頭部打撃の態様が真実性を有しているならば、これによつて、なお有罪認定をなす余地があるわけであるが、この点につき更に新証拠と認められる三宅新供述と渡辺当審証言を旧証拠と総合して検討したところ、梅田自白は大山の死体の損傷状況と整合しない疑いがあることが明らかとなり、この部分に関する梅田自白の真実性に強い疑問が生じた。

このため、翻つて、当審までに現れた新旧全証拠による梅田自白全体の真実性と羽賀供述中梅田を共犯とする部分の信用性の再検討を余儀なくされた。この結果、梅田自白には客観的事実に反する点や不自然・不合理な点が多数存し、更には梅田のアリバイの存する可能性が窺えるなど、その真実性を担保しえないのではないかとの疑いが生じ、また、羽賀供述についても、その不自然な変遷や不合理な点が認められるなど、その信用性に多大の疑問が生じた。

このように、請求者の提出にかかる新証拠たる三宅供述録取書のほか、当裁判所が取調べた新証拠が確定判決の審理中に提出されていたならば、梅田を有罪と認定することはあり得なかつたものと思料される。

二 よつて、本件再審請求は理由があるから、刑訴法四四八条一項、四三五条六号により、本件について再審を開始することとし、主文のとおり決定する。

(裁判官 末永進 菊池光紘 島田清次郎)

別紙 第一図ないし第七図略

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