長崎地方裁判所 平成17年(わ)390号 判決 2006年9月22日
主文
被告人を懲役13年に処する。
未決勾留日数中230日をその刑に算入する。
押収してあるペテナイフ1本(平成17年押第○号符号1)を没収する。
理由
【犯行に至る経緯】
被告人は,平成17年10月8日午後6時30分ころから,長崎県大村市a町b番地cアパート2階の当時の被告人方で焼酎を飲み始め,同日午後7時ころには被告人と同じアパートの1階に住むBがこれに合流し,午後9時前ころには被告人の姉Cと交際していたことから知り合ったV(当時53歳。)が被告人の誘いに応じて合流し,3人で飲むようになった。その後被告人ら3人は,外出して,翌9日午前零時30分ころまで焼鳥屋,居酒屋の2か所で飲酒した。
被告人は,同日午前1時ころ,被告人方へ帰宅したが,その際,Vも被告人に付いて被告人方へ上がり込んだ。その後,Vは,一旦大村市内にある自宅に帰ったが,再び被告人方へ来て酒を飲み,酔余の上,被告人に絡んだりしていたが,これを疎んじた被告人は,同日午前5時29分ころ,大村市内に住む妹のDに電話を掛けて,Dに対し,Vが暴れているから被告人方へ来るよう依頼した。Dは,被告人方へ行き,Vに対し家に帰るよう声を掛けたが,被告人とVに争っている様子がなかったことから,1人で自宅へ帰っていった。その後,Dから連絡を受けたCは,同日午前6時30分ころ,電話でVに対し,「何しよっと」,「いい加減にせんね」,「Dちゃんに迷惑かけて」,「帰らんね」などと注意した。Vは,Cに対し,「ごめんね,今から帰るけん」と言った。
Vは,その電話の後,寝ていた被告人に対し,「わいの電話すっけんがおいがやかましゅう言われたやっか」と怒鳴り,被告人の胸ぐらを掴んで,「のぼすんな」と言って,いきなり左手で被告人の顔面を殴った。被告人は,殴られた勢いでひっくり返ったが,Vは,再び被告人の胸ぐらを掴んで引き起こし,そのまま台所の方へ被告人を引っ張っていった。Vは,居間と台所の敷居辺りで,被告人の胸ぐらを掴んだまま被告人を殴ろうとしたため,被告人がVをその後方にある台所の方へ突き飛ばした。被告人が,Vに対し,「何でおいば殴らんばと」と言うと,Vは,「殴ったけんなんや」と言いながら,台所の流し台の上にある棚に普段から置かれていたペテナイフ(刃体の長さ約15センチメートル。平成17年押第○号符号1。)を持ち出し,被告人の方へ向けてきた。被告人は,Vとペテナイフを取り合うようにしてもみ合った後,ペテナイフを奪い取った。
【罪となるべき事実】
被告人は,前述したとおり,Vが酔余の上で被告人に絡み,被告人の顔面を殴り,ペテナイフを持ち出してきたことに憤激し,Vからペテナイフを奪い取った直後も怒りが治まらないため,Vを殺害することを決意し,同日午前6時49分ころ,前記被告人方6畳居間において,右手に持ったペテナイフで,Vの左頬部,左頸部,左上腹部及び左前胸部を突き刺して,左心室切破等の傷害を負わせ,よって,同日午前8時22分ころ,同市de丁目f番地g独立行政法人EF医療センターにおいて,Vを左心室切破に基づく失血により死亡させて殺害の目的を遂げた。
【証拠の標目】
省略
【事実認定上の補足説明】
序論弁護人及び被告人の主張
弁護人は,Vが,激高して被告人方台所に置かれていたペテナイフを持ち出して被告人を攻撃したため,被告人は,ペテナイフを奪おうとしてVともみ合い,ペテナイフを奪ったものの,Vと一緒に倒れてしまい,被告人が持っていたペテナイフの上にVが倒れてきたために被告人の意に反してVの左前胸部にペテナイフが刺さり,Vが死亡したもので,被告人は,V殺害の実行行為と評価できる行為をしておらず,殺人及び傷害の故意もなかったので殺人罪及び傷害致死罪のいずれも成立せず,被告人は無罪であると主張し,被告人も捜査段階の終盤及び公判において概ねこれと同様の供述をする。
しかしながら,当裁判所は,判示のとおり,被告人はVに対する確定殺意をもって殺人の実行行為を行いVを殺害したものであって,殺人罪が成立すると判断したので,以下,殺人の実行行為及び殺意のいずれの点についても認めた理由を補足して説明する。なお,弁護人は,被告人の捜査段階の供述調書のうち,自白あるいは不利益事実の承認を内容とするものにつき,信用性のみがない,あるいは,任意性及び信用性のいずれもがない旨主張(一部不同意を含む。)しているので,所論に鑑み,まず,弁護人が信用性のみを,あるいは任意性及び信用性の双方を争っている被告人の捜査段階における弁解録取を含む自白あるいは不利益事実の承認を内容とする供述調書(以下,「自白調書」という。弁護人が一部不同意の意見を述べている不同意部分を含む。)を除いた証拠関係を検討し,その後被告人の自白調書を検討することとする。
第1部被告人の自白調書を除いた証拠関係の検討
被告人とVが現場で揉め事を起こす直前までの本件の経緯については,概ね争いがないが,本件当時現場には被告人とVしかおらず,Vが死亡したため目撃者がいない。しかし,本件直後に110番通報を受けて警察官が現場に急行したため,現場には大量に出血しているVが倒れており,そこに被告人もいて凶器も遺留され,多くの血痕が残っていたので採取,鑑定され,また,Vの死体も解剖されて死因・負傷状況が鑑定され,さらに,犯行直前には被告人から電話連絡を受けたDが被告人方に来たし,Cは被告人方に電話を掛けており,本件当時被告人方の隣に住む住人が被告人方から聞こえてくる物音を聞いていて,被告人の事件直後の言動も証拠化されている。これらの関係証拠の分析と評価が重要性を持つので,これらの証拠評価の検討を進めながら,本件当時の被告人とVの身体の動きはどのようなものであったのか,Vの負傷が被告人の意図的な攻撃の結果生じたものであるかどうか,意図的な攻撃の結果であるとすると被告人に殺意はあったのかどうか,などという点を中心に検討する。
第1一連の経緯等
関係各証拠(被告人の公判供述並びに弁護人が信用性を争わない,あるいは,任意性及び信用性の双方を争わない被告人の捜査段階における供述調書(一部同意の同意部分を含む。)を含む。)によれば,以下の各事実を認めることができる。
1 被告人とVについて
被告人は,8人兄弟の5番目の三男として生まれた。姉のC(昭和29年生)及び妹のD(昭和42年生)が大村市内に居住している。被告人の身長は,約163センチメートルであり,利き腕は右である。
V(昭和26年生。当時53歳)は,平成17年5月ころ,Cと知り合い,そのころからCと交際を開始した。ただし,VとCは,同年10月4日か5日ころ,たわいのない揉め事になり,それ以後,本件までの数日間連絡を取り合っていなかった。被告人は,平成17年5月ころ,Cから自己の交際相手としてVを紹介され,Cや被告人のアパート,飲み屋などでVと酒食を共にするようになった。Vは,普段は物静かであるが,酒を飲みだすといつまでも飲み続け,よくしゃべるようになり,他人に絡むことが多かった。Vの身長は約172センチメートルであり,利き腕は左である。
2 被告人方の間取り等
被告人方は,木造瓦葺2階建ての共同住宅で1,2階に各2世帯ずつの合計4世帯が入居できるようになっている。被告人方は,同住宅2階北側の部屋で,西側にある玄関から入ると台所になっており,台所の東側に居間(6畳),更にその東側が寝室(6畳)という間取りになっている。
台所の西側端には長さ約170センチメートルの流し台が置かれ,その上方の窓下枠に棚が取り付けられている。なお,ペテナイフは,普段は,この棚の上に置かれている。
居間のほぼ中央には,約80センチメートル四方で高さ約37センチメートルのテーブルが置かれている。居間の北側には北西方向に扇風機,北東方向にテレビ台が置かれている。居間の南側には,向かって右端(西端)から幅約90センチメートルの片開戸の押入があり,その左側(東側)には二枚引戸の押入がある。
3 本件犯行に至る経緯
(1) 事実
被告人は,平成17年10月8日午後6時30分ころから,自宅で焼酎を飲み始め,午後7時ころ被告人と同じアパートの1階に住むBがこれに合流し,午後9時前ころ被告人の誘いに応じてVが合流し,3人で飲むようになった。被告人ら3人は,午後10時ころに被告人方にあった焼酎を飲み終えると,近くの焼鳥屋へ行き,Bの友人1人も加わって,途中店を変えながら,翌9日午前零時30分ころまで飲酒した。被告人,V及びBの3人は,同日午前1時ころ,被告人方まで戻り,被告人及びBは各自の自宅へ戻ったが,Vは被告人に付いて被告人方へ上がり込んだ。
被告人は,自宅に戻るとそのままテーブルの近くで寝てしまった。一方,Vは,まだ飲み足りないと考え,大村市内にある自宅に一旦帰宅して自宅にあった飲みかけの焼酎を持って,再び被告人方に上がり込み,酒を飲み始めた。
Vが酒を飲みながら被告人に絡んできたことから,被告人は目を覚まし,適当に応対していたが,そのうちVから被告人に関係のないことをあれこれ言われるにとどまらず,粗暴な言動をされて面倒くさいと考え,同日午前5時29分ころ,携帯電話でDに電話をし,Vが被告人方へ来ていること,Dに被告人方へ来てほしい旨述べた。このとき,被告人は,電話口で,「(Vが)暴れよらすとさ」,「ほら,ほら,何か投げよらすばい。はよ,来てくれんね」と言った。そこで,Dは,Cに携帯電話で電話し,Vと被告人がまたけんかしているが,Cが行くとややこしいことになるので,自分が行ってくると伝えて,車で5分くらいのところにある被告人方へ行った。すると,Vが被告人方居間にいたが,被告人とVが争っている様子はなく,Vは,被告人に向かってDに対して一緒に謝ろうなどと言った。Dは,Vに対し,そろそろ家に帰るよう声を掛けたが,Vが帰る様子はなく,被告人も落ち着いた状態であったため,Dは,被告人方から帰宅し,Cに被告人方へVが来ていたが,揉め事になっている様子はさほどなかった旨伝えた。そこで,Cは,同日午前6時30分ころ,Vとの電話で,Vに対し,「何しよっと」,「いい加減にせんね」,「Dちゃんに迷惑かけて」,「帰らんね」などと注意した。Vは,Cに対し,「ごめんね,今から帰るけん」と言った。
Vは,Cとの電話の後,テーブルの近くで寝ていた被告人に対し,「わいが電話すっけんがおいがやかましゅう言われたやっか」と怒鳴り,被告人の胸ぐらを掴んで,「のぼすんな」と言って,いきなり左手で被告人の顔面を殴った。被告人は,殴られた勢いでひっくり返ったが,Vは,再び被告人の胸ぐらを掴んで引き起こし,そのまま台所の方へ被告人を引っ張っていった。Vは,居間と台所の敷居辺りで,被告人の胸ぐらを掴んだまま被告人を殴ろうとしたため,被告人がVをその後方にある台所の方へ突き飛ばした。被告人が,Vに対し,「何でおいば殴らんばと」と言うと,Vは,「殴ったけんなんや」と言いながら,台所の流し台の上にある棚に普段から置かれていたペテナイフを持ち出し,被告人の方へ向けてきた。被告人とVとは,ペテナイフを奪い合うようにしてもみ合い,被告人は,Vの左手に握られていたペテナイフを奪い取った。その後,最終的にペテナイフがVの左前胸部に刺さり,Vは,左心室切破による失血で死亡した。
なお,本件後の被告人の呼気1リットル当たりのアルコール濃度は,10月9日午前7時55分の時点で,0.71ミリグラム(酩酊度は発揚期・微酔)で,Vの血液1ミリリットル当たりのアルコール濃度は2.75ミリグラム(酩酊度は麻酔期・泥酔)であった。
(2) 被告人の供述の信用性
前記事実のうち,被告人が飲酒後帰宅してからVがペテナイフを持ち出すに至った経緯についての被告人とVの言動については,被告人の捜査段階の供述(弁護人が同意している供述調書)及び公判供述等により認められる。また,被告人の前記供述は,Vの利き腕が左であること,被告人の利き腕が右であること,被告人の右手の親指と人差し指の間には,ペテナイフによって成傷されたものと理解できる切創が認められること,被告人の長袖シャツの前面ボタンのうち第1,第3ボタンが本件の際脱落したことなどの客観的証拠により裏付けられているものといえる。また,Vが,被告人方へ来た後も,酔っぱらってほとんど一方的に被告人に絡んでいる状況にあり,Vが被告人の姉妹から注意されて怒ったことは,当時被告人がDに電話を掛けて,Vがかなり暴れているとして,深夜にもかかわらず同女を呼んだこと,被告人方へ様子を見に来たDはVを注意したこと,その後CもVに対して電話で注意していることによっても裏付けられている。本件前,Vが,交際相手のCから注意されたのをきっかけとして,被告人に更に絡んだところ,被告人から思わぬ反撃を受けたため,台所の棚からペテナイフを持ち出すという経緯は,自然である。
これらのことからすれば,被告人がペテナイフを手にするに至った経緯に関する被告人の前記供述は信用することができる。
第2凶器の性状等
本件当時,被告人が手に持っていたペテナイフは,刃体の長さが約15センチメートルであって,人に対する殺傷能力を十分有し,先端も鋭利な凶器であり,そのことはペテナイフを所有し,日常的に使用していた被告人も十分認識していたものである。
第3犯行態様等の検討
1 Vの創傷の部位・程度
Vの死亡後,その身体には次の創傷が認められたが,それらは,いずれもペテナイフによって成傷されたと考えるのが合理的なものである。なお,Vの身体の負傷部位につきその左右を言うときは,Vからみた場合のそれを意味する。
(1) 左前胸部の創傷
左乳頭のやや右下方約3.0センチメートルの部から右下方へ向かい?開したままで長さ約2.4センチメートル(?開の幅は中央で約1.0センチメートル,接着創長約2.8センチメートル)の刺創が認められる。同創傷の推定刺創管長は,約14.5センチメートルであり,直下の胸筋は正鋭に約3.0センチメートルにわたり刺切され,更に左第5肋骨は肋軟骨化骨部のすぐ外方で正鋭に刺切され,心膜は左側で約5.0センチメートルとその外側約2.0センチメートルの部で約7.0センチメートルにわたり正鋭に刺切され,左心室前面から左心室後面にわたり右下方から左上方に向かって左心室は正鋭に約7.5センチメートル刺切され,左心室前面の下創端は鋭角をなし,この創傷は左肺門部に達している。
この刺創が致命傷であり,同創傷は,ペテナイフの刃背を下方にしてやや内後上方に向かい刺入することにより成傷されたものと考えられる。ただし,この創傷により皮膚の傷口からいわば噴射状になって血が室内に飛び散ったとは考えにくい。
(2) 左上腹部の創傷
左上腹部では左季肋部から左下方へ向かい?開したままで長さ約2.0センチメートル(?開の幅は中央で約0.7センチメートル,接着創長約2.0センチメートル)の刺創が認められる。同創傷の推定刺創管長は,約5.5センチメートルであり,直下の外腹斜筋を約2.2センチメートルにわたり刺切し,左横隔膜部に達している。
同創傷は,ペテナイフの刃背を下方にしてやや内上方に向かい皮下を浅く刺入することにより成傷されたもので,身体の奥深くへは入っていない。また,この創傷によっても皮膚の傷口からいわば噴射状になって血が室内に飛び散ったとは考えにくい。
(3) 左頬部の創傷
左頬部の左耳珠の前方約3.0センチメートルの部からやや前下方へ向かい?開したままで長さ約4.0センチメートル(?開の幅は中央で約0.6センチメートル,接着創長約5.0センチメートル)の刺切創が認められる。同損傷の推定刺創管長は,約4.0センチメートルであり,直下の咬筋や軟部組織を正鋭に刺切し左頬部の深部軟部組織に達している。
同損傷は,ペテナイフの刃背を後方(後頭部方向)・刃部を前方(顔面方向)にして左頬部へ概ね垂直に刺入し,更にやや前下方に向かい刺切することにより成傷されたものと考えられる。同部位の創傷状況からすると,出血の程度は強く,本件によりVに生じた創傷のうちで最も勢いよく皮膚の傷口から出血があったと認められる。
(4) 左頸部の創傷
左側頸下部から左後頸下部には,やや左上方から右下方へ向かう長さ約2.2センチメートル,上下創縁正鋭で両創端比較的鋭角な刺創が認められる。同損傷の推定刺創管長は,約3.3センチメートルであり,直下の中斜角筋をほぼ横に長さ約2.0センチメートル正鋭に切破し,第3頸椎の左側面に達している。
同損傷は,ペテナイフが床面とほぼ平行に寝かせられた状態で,やや内上方の概ね垂直に向かい刺入することにより成傷されたものと考えられる。同部位には,小さな動脈が多数存在するので,この創傷によっても皮膚の傷口からある程度の出血があったと認められる。
(5) 上肢の創傷
Vの上肢には,左上肢を中心に次の切創等が認められるが,その創傷部位及び性状から,これらの創傷は防御創の可能性が大きいと認められる。
ア 左上腕後面で左肘頭のやや外上方約3.5センチメートルの部から内上方へ向かい?開したままで長さ約4.5センチメートル(?開の幅は中央で約1.0センチメートル,接着創長約4.5センチメートル),深さ約0.4センチメートルの切創が認められる。
イ 左前腕ほぼ中央内側部には,ほぼ横に向かう長さ約0.6センチメートル(?開の幅は中央で約0.6センチメートル)の切創が認められる。
ウ 左環指の爪は,先端部が長さ約0.7センチメートルにわたり正鋭に切離され,その左環指の末節関節部の皮膚は類円状に比較的正鋭に欠落している。
エ 左母指基節関節の内側部には,長さ約1.0センチメートルの線状の表皮のみの浅い切破が認められる。
オ 右手背で右小指基節関節部の外側部から右手背にわたり長さ約3.0センチメートルにわたり表皮は弁状をなし,直下の軟部組織は正鋭に切破されている。
カ 右小指球部には長さ約3.0センチメートル,深さ約0.7センチメートルの切破が認められる。
2 被告人の受傷状況
V死亡直後,被告人の右手の親指と人差し指の間には,鋭利な刃物で切ったような長さ数センチメートル程度の切創が認められたが,これは,ペテナイフによって成傷されたと考えるのが合理的である。
3 被告人方居間の状況
V死亡直後の被告人方居間の状況は次のとおりである。
(1) 居間の中央に置かれたテーブルから採取された血液痕(2か所)は,いずれも被告人の血液によるものであった。
(2) 居間北側の状況
居間の北側に置かれた扇風機の本体上並びにテレビ台の引出し及び観音開扉の表面には,滴下血痕の付着が見られた。扇風機から採取された血液痕(1か所)は,被告人の血液によるものであった。なお,テーブル北側の畳から採取された血液痕(1か所)は,Vの血液によるものであったが,110番通報により警察官が現場に臨場した際,同血液痕の近くには,Vの血液が多量に付着したペテナイフが落ちていた。
居間の北東側には,寝室との仕切壁(幅約90センチメートル)があるが,この壁の居間側の向かって右側(南側)から約24センチメートル,高さ約38センチメートルの位置に左下方に向かう飛沫血痕が付着していた。仕切壁の南端には約10センチメートル角の柱があるが,同柱の西面には飛沫血痕が3か所,南面には飛沫血痕が11か所付着していた。同柱から採取された血液痕(1か所)は,被告人の血液によるものであった。
(3) 居間東側の状況
居間東側から寝室西側にかけての畳には,多数の滴下血痕又は血液の払拭痕が付着している。この畳やその上に置かれていたティッシュペーパーから採取された血液痕(11か所のうち10か所)は,いずれも被告人の血液によるものであった。なお,110番通報を受けて警察官が現場に臨場した際,被告人は,居間と寝室の境付近に座っている状態であった。
(4) 居間南側の状況
ア 110番通報を受けて警察官が現場に臨場した際,Vは,居間南側の押入より北側90センチメートル程度の位置に体の中心を置き,頭を東にして東西にうつぶせに倒れていた。その倒れていた付近の畳には,幅約79センチメートル,長さ約103センチメートルの範囲にわたって血液が多量に付着していた。この畳から採取された血液痕(2か所)は,いずれもVの血液によるものであった。
イ 居間南側の押入襖付近の状況
(ア) 片開戸の押入襖のほぼ中央の高さ四,五十センチメートル程度の位置から二枚引戸の押入襖の右側(西側)ほぼ中央の高さ約70センチメートルの位置にかけて,左(東)上方へ向かう無数の飛沫血痕が付着している。その中から採取された血液痕(1か所)は,Vの血液によるものであった。
また,前記飛沫血痕のすぐ前の畳には,片開戸の押入と二枚引戸の押入の境にある柱付近を中心に,東に行くに従って押入から離れるようにして多数の滴下血痕が付着している。この畳から採取された血液痕(2か所)は,いずれもVの血液によるものであった。
居間南側の押入襖には,全部で3方向の飛沫血痕が認められるが,そのうち前述した飛沫血痕は,最も多量の血液が飛沫したものであり,その付着状況や同飛沫血痕のすぐ前の畳にも多数の滴下血痕が付着していることからすれば,この飛沫血痕及び滴下血痕は,いずれも移動するVの身体から直接飛び散った血液によるものと認められる。
(イ) 二枚引戸の押入襖の右側(西側)の右端(西端)付近の高さ約85センチメートルの位置から片開戸の押入襖の右端(西端)付近の高さ約125センチメートルの位置にかけて向かって右上方へ向かう飛沫血痕が認められる(その長さは明確ではないが,始点の高さを終点の高さまで上げて,そこから床面と平行に終点までの距離を図ると,その長さは約115センチメートルである。その中から採取された血液痕(1か所)は,Vの血液によるものであった。この飛沫血痕についても,その付着状況からすれば,Vの身体から直接飛び散った血液によるものと認められる。
(ウ) 二枚引戸の押入襖の右側のほぼ中央の高さ約35センチメートルの位置から左下方へ向かう飛沫血痕が認められる。この飛沫血痕は,その性状からして,ペテナイフを急激に振ったため,同ナイフに付着していた血液が飛沫したものと考えられる。
ウ 居間の南西角から北方向には幅約90センチメートルの壁があるが,右端(北側)より約50センチメートル,床面より高さ約140センチメートルの位置を頂点とした概ね三角形の範囲には,飛沫血痕が多数付着している。この壁から採取された血液痕(1か所)は,Vの血液によるものであった。この飛沫血痕についても,その付着状況からすれば,Vの身体から直接飛び散った血液によるものであると認められる。
4 ペテナイフの状況
ペテナイフは,110番通報を受けて警察官が現場に臨場した際,居間のテーブル北側に,柄の側の背部からみて刃体の右側面を下にして落ちていた。ペテナイフには,全体にわたって血液が大量に付着しているが,採取された血液のほとんど(25か所中22か所)はVの血液である。被告人の血液は,わずかに3か所で認められるのみであり,そのうち2か所は,刃体部で,柄の側の背部からみて左側にVの血液の上に重なるように付着し,残りの1か所は,柄部のほぼ中央部で,柄の側の背部からみて右側に付着している。
5 被告人の着衣の状況
被告人は,本件当時,長袖シャツ及びジーパンを着ていたが,本件後,それらには血痕が付着していた。
長袖シャツの前面全体には血痕が付着しており,特に胸部,左袖上部及び右袖口には,Vの血液による血痕が著しく付着していた。また,長袖シャツの背面には左背面と両袖部に血痕が付着しており,そのうち左背面部及び左袖部の血痕は,いずれもVの血液によるものと認められ,右袖部の血痕は,Vの血液によるものと被告人の血液によるものとが混在していた。さらに,長袖シャツ前面のボタン6個のうち,第1,第3ボタンが脱落して寝室床上,居間南東側畳上に落ちていた。
ジーパンの前面は両大腿部から両先端にかけ広く血痕が付着しており,特に右大腿部(先端から47センチメートルの位置)には,Vの血液による約9×約7センチメートル大の濃い血痕が付着していた。また,ジーパンの背面は臀部及び両下腿部から先端にかけ広く血痕が付着していたが,ここから採取された血痕(3か所)は,いずれも被告人の血液によるものであった。
6 前記1から5の評価
(1) Vの左前胸部,左上腹部,左頬部及び左頸部という人体の枢要部に刺創又は刺切創が認められ,いずれも左上半身に集中している。このこは,被告人がペテナイフを使って意図的にVの左上半身,それも人体の枢要部を狙って攻撃を加えたことを裏付ける間接事実と評価できる。
また,左前胸部の刺創はペテナイフが刺入部位に対して内上後方に刺入されることにより,左上腹部の刺創は内上方に刺入されることにより,左頬部の刺切創及び左頸部の刺創は概ね垂直に刺入されることにより成傷されている。被告人の着衣の前面には,Vの血液が多量に付着しており,Vの上肢には左上肢を中心に防御創と考えられる切創等が認められる。これらの事実は,被告人がVに対し正対した状況をまじえながらペテナイフを右手に握持した状態で,人体の枢要部であるVの左上半身を狙い,集中して執拗な攻撃を加えたことの間接事実と評価できる。
さらに,Vの身体の枢要部に対する被告人の連続した攻撃の結果,Vの左頬部には推定刺創管長約4.0センチメートルの刺切創が成傷され,左頸部には第3頸椎の左側面に達する推定刺創管長約3.3センチメートルの刺創が成傷され,左上腹部には推定刺創管長約5.5センチメートルの刺創が成傷され,左前胸部には,左第5肋骨が正鋭に刺切され,左心室前面から左心室後面にわたり右下方から左上方に向かって左心室が正鋭に刺切され,左肺門部にまで達する推定刺創管長約14.5センチメートルの刺創が成傷されている。加えて,Vには多数の防御創と理解できる傷が存在していることをも併せ考慮すると,これらの刺創は,いずれの攻撃においても強い力が加えられたことを示しているが,ペテナイフの刃体の長さが約15センチメートルであることからすれば,特に左前胸部への攻撃は,その刃体のほとんどをVの身体に刺し入れながら,肋骨を切断し心臓を貫いているといえ,極めて強い刺突行為であったと認めることができる。
Vが多数の刺創又は刺切創を含む傷害を負ったことと比較すると,被告人の身体に生じたのは右手の怪我のみであったこと,自己防衛的な姿勢が強い被告人の公判供述においてさえ,被告人がVから奪い取ったペテナイフをその後Vが奪い返すことはなかったということからすれば,被告人の右手の負傷がいつ生じたのかその時期は明確でないが,被告人はVがペテナイフを持ち出してかなり早い時期にこれを奪い取り,その後は一方的にペテナイフを使って攻撃を加え続けたものとみることができる。
(2) 居間の南西角から北方向にある壁,居間南側の押入襖には,飛沫血痕が飛沫方向を違えて複数付着している。Vは,最終的には,同襖より北側約90センチメートル付近に体を置き,頭を東にして東西にうつぶせに倒れていた。これらの事実は,これらの血痕付着位置あるいはVが最終的に倒れていた位置付近において,被告人及びVがそれぞれ激しく体を動かしながら,被告人においてVを攻撃していったものと認められる。
(なお,居間南側の押入襖に付着している3方向の飛沫血痕のうち,片開戸の押入襖のほぼ中央の高さ四,五十センチメートル程度の位置から二枚引戸の押入襖の右側(西側)ほぼ中央の高さ約70センチメートルの位置にかけて,左(東)上方へ向かう無数の飛沫血痕及びその前面畳に付着している滴下血痕については,前述したとおり,Vの身体(左頬の刺切創の可能性が高い。)から直接飛び散ったものと認められるが,このことからすると,Vが負傷した各時点におけるVの姿勢の中には,Vがかなり低い姿勢を取っていたときもあった,あるいは,Vの顔が下向きになっていたときもあったものと思われるが,その際の被告人及びVの姿勢等が具体的にどのようなものであったのかについてまで,証拠上は確定できない。)
(3) 以上によれば,被告人は一方的にVの身体の枢要部に意図的な極めて強い攻撃行為をしたものと認められるとともに,これらの事実は,被告人に殺意があったことを強く裏付ける間接事実と評価できる。
第4犯行直後の被告人の言動
1 被告人は,犯行直後,次のような言動を示している。
(1) 午前6時50分ころ
被告人は,犯行直後の本件当日午前6時50分ころ,Cに対して電話し,大声で泣きながら「Vさんばやってしもうた」,「はよ,来てくれろ」,「何でおいや」などと言った。
(2) 午前6時54分ころ
被告人は,同日午前6時54分ころ,Dに電話し,「はよ,来てくれろ」,「Vさんばやった」と言った。
(3) 午前6時55分ころ
被告人は,同日午前6時55分ころ,被告人方の隣室の住人にも聞こえる程度に,何かおいおいと泣いてるような感じで,「おいが殺したとやあ」と大声で言った。
(4) 午前7時08分ころ
被告人は,同日午前7時08分ころ,110番通報した。この際,被告人は,「殺人みたいな形になりました」と述べ,受理したI警部補から「誰ば殺人のごとなって殺したと」などと問われたのに「いや,倒れとるばい」,「つじさんていう人」と答え,同警部補から「なんでそんなになったと」と問われたのに対し,「些細なことで,あの,何か『やってみろ』みたいな形になったもんやけん」と答え,「そいで,包丁か何かで刺したと」,「どうしたと」と同警部補から引き続き問われたのに,「気付いたときには刺しとっとたい」と答えた。
(5) 駆けつけてきた警察官に対して
被告人は,110番通報を受けて現場に駆けつけてきた警察官に対し,「Vさんと喧嘩し,何時刺したか等は覚えていないが,気が付いたら台所の包丁がVさんに刺さっていた」と述べていた。
2 前記1の評価
被告人の前記各言動をみると,被告人は,犯行直後の各場面において,いずれも自己の意図しないペテナイフの動きによりVが負傷ないし死亡したものと理解できるような言動を示していないものと評価できる。むしろ,これらの犯行直後における被告人の各言動は,いずれも,Vとの揉め事の中で被告人がVを意図的に攻撃したためVを負傷ないし死亡させたものと理解している言動と評価するのが自然かつ合理的である。このことも,被告人がペテナイフを使ってVに対し,意図的に攻撃を加えたことを示す間接事実と評価できるし,また,さらに,当時被告人に殺意があったことと整合するものといえる。
第5犯行の動機
本件当日の経緯に照らしても,被告人は,Vから単に言葉によって絡まれるにとどまらず,いきなり顔面を殴られた上,ペテナイフまで持ち出されたことから,かなり憤激したことが推認でき,Vからペテナイフを奪い取った後も,怒りが治まらなかったため,Vに対する攻撃に転じ,居間の南側付近を移動しながら,右手に持ったペテナイフで,Vの左頬部,左頸部,左上腹部,左前胸部を次々と刺突し,その際,被告人からの攻撃を防御しようとしたVの上肢を切り付けたものと認められ,当時被告人が酒に酔っていたことも考慮すれば,殺人の犯行動機として十分理解できる。
第6被告人の弁解
1 被告人は,ペテナイフでVが負傷した経過について,公判廷で次のように供述している。
Vがペテナイフを持ち出した後,被告人は,ペテナイフが握られていたVの左手を両手で掴み,互いにもみ合ったため,その過程でペテナイフはいろんな方向を向いていた。その後,被告人は,右手でVの左手の甲を掴んで,被告人の左手をペテナイフの柄の方に突っ込んでペテナイフを奪い,ペテナイフを持った被告人の左手の肘を伸ばした状態で自分の左腰の後の方に回した。Vは,左手で被告人の右腰を掴み,右手で被告人の左手を掴んできた。被告人の左手はVの右手に掴み,被告人の顔の付近まで持ち上げられたため,被告人は,Vの右手を振り払うため,左手を被告人からみて右側に振り下ろしたが,被告人の右側は,Vの左手によって被告人の右腰が掴まれていたため,被告人の左手は腹の前付近で止まった。すると,Vの右手が被告人の左腰辺りに来て,Vが両手で被告人の体を自分の方に引き寄せたため,ペテナイフがVの腹に刺さってしまった。その後,Vは,片膝を突くような状態となり,更に両膝も突いて,被告人の方に倒れてきたため,被告人は右肘を突いて左手を頭越しに右側に持っていった。ところが,Vが更に倒れてきて,Vの左腕がペテナイフを握っていた被告人の左腕に絡まり,被告人の左腕が引っ張られたようになり,被告人は横向きになったが,そのときペテナイフが垂直に立った状態になった。Vは,そのまま,被告人の左腕の上にうつぶせに倒れ,被告人もうつぶせの状態になった。Vがうつぶせに倒れるとき,Vは左手の肘を曲げた状態で左手の平を畳に突いて,それから左手を引いて手の甲が畳に突くようになり,Vの左腕は左斜め下に下がっていて,手の甲が畳に突いた状態になっていた。Vの胸の傷は,多分,Vが倒れたときにペテナイフが刺さったのだと思う。他方,Vの他の傷がいつどのようにしてできたかは分からないし,首や頬からの出血や襖や壁に血が飛び散ったことにも気が付かなかった。ただし,Vが被告人の方に倒れてきて被告人の腕が引っ張られていくときに,何かに当たったように思うが,何が当たったかは分からない。
2 供述内容の検討
被告人の前記公判供述は,以下のとおり,それ自体,Vの身体に生じた創傷の客観的状況等と相容れない不合理な内容といわざるを得ない。
(1) Vの左前胸部の刺創について
被告人の公判供述によると,Vは倒れる際,両膝や左手に体重をかけながら,なおかつ左腕を被告人の左腕に絡めながら倒れたことになるから,Vの全体重が勢いよくかかるようにして倒れたものではなく,ペテナイフの長さ約15センチメートルに及ぶ刃体のほとんどすべてが刺入するような強い力が加わったというには疑問が残る。また,Vの左上腹部の成傷経過に関する被告人の公判供述と同部位の創傷状況からすると,被告人は刃背を下にしてペテナイフを握持していたと認められるところ,被告人の公判供述によれば,Vの左前胸部にペテナイフが刺さる直前,被告人は左腕が下になるような横向きの態勢で,ペテナイフを概ね垂直に立てたというのであるが,このような態勢(被告人が公判で再現した姿勢あるいは被告人が捜査段階の実況見分において再現した姿勢)ではVの左前胸部に生じる刺創は,左前胸部に対して刃背が右上,刃部が左下の状態となるのが通常であって,実際に生じた左前胸部に対して刃背が右下,刃部が左上の刺創を成傷することは著しく困難である。
これらのことからすれば,被告人の公判供述の説明は,Vの左前胸部の刺創状況と矛盾する。
(2) Vの左上腹部の刺創について
被告人の公判供述によると,ペテナイフを被告人から奪われたVは,被告人とVとの間に被告人が持つペテナイフがあり,しかもその刃先がVの方に向いているにもかかわらず,両手で被告人の腰を掴んで自分の方にかなり強い力で引き寄せたことになるが,このときに左上腹部の刺創ができたとみることは,そのようなVの行為をいわば自傷行為と同視することになり,そのような行為にVが及んだとは考えにくいし,左上腹部の刺創の創洞はVの身体の奥(後方)へ向かわず,皮下を浅く刺入されたものであるから,被告人の公判供述と矛盾する。このように,被告人の公判供述は,客観的に認められるVの左上腹部の刺創状況と矛盾する不合理なものである。
(3) 被告人の記憶の程度
被告人は,公判において,Vの創傷のうち左上腹部と左前胸部の刺創についてしか供述せず,その他の創傷については覚えていないと供述する。
しかしながら,左上腹部と左前胸部以外のVの創傷のうち,特に,左頬部の刺切創と左頸部の刺創等は,強い力によって成傷されたものであること,いずれの創傷もかなりの出血があり,居間南側の押入襖等への飛沫血痕の原因の一つにもなったと認められるから,被告人が左頬部及び左頸部の創傷に対する成傷過程又は創傷状況を記憶していないというのは不合理というほかなく,また,被告人が左前胸部及び左上腹部の刺創につき詳細に供述しながら,左頬部及び左頸部の創傷について記憶がないというのは,記憶の程度に差がありすぎて不自然である。
(4) Vの左上肢の傷
被告人は公判において,Vは,被告人からペテナイフを奪い取られるまではペテナイフを握っており,被告人からペテナイフを奪い取られた後は被告人の方へ倒れるまで被告人の右腰を掴んでいた旨述べるが,この供述からすると,Vの左上肢に対する創傷が生じた状況については合理的な説明ができないことになる。被告人は,Vが倒れるときにVの左手が被告人の左手に絡んだ際,何かに当たったような気がすると供述しているが,仮にその際ペテナイフがVの左上肢に当たったとしても,Vの左上肢の創傷は,ペテナイフにより生じたと理解できるものが4か所に及ぶから(左肘付近,左前腕(2か所),左環指爪),そのすべての創傷を被告人の公判供述によっても説明することはできない。
3 まとめ
これらのことからすれば,被告人の前記公判供述及びこれに沿う捜査段階の供述は信用できない。
第7犯行態様等及び殺意についての総合評価
以上の事実を総合考慮すれば,被告人は,Vから絡まれ,顔面を殴られ,ペテナイフを持ち出されたことに憤激し,Vからペテナイフを奪い取った後も,怒りが治まらず,Vに対する攻撃意図をもってペテナイフを使用して刺突を繰り返すなどの攻撃を加えたものと認められる。本件当時における被告人の故意の内容については,凶器として使用されたペテナイフの性状,ペテナイフを使用して攻撃を加えたVの身体の部位・傷害の程度,攻撃の回数・態様,犯行直後の被告人の言動,犯行動機等を総合すれば,殺人の確定故意を有していたものと認められる。
自白調書を除いた証拠関係を検討し,特に,目撃者がいないため関係証拠から認められる間接事実を慎重に評価し,それによって認定できる事実関係の範囲と程度を絞った上,認定した事実は以上のとおりである。まとめると,自白調書を除いた証拠関係のみによっても,判示の犯行態様,殺人の確定故意等が認定できる。
(なお,前述したとおり,被告人がかなり早い時期にVからペテナイフを奪い取り,その後一方的かつ集中的にVの身体の枢要部にペテナイフを使って攻撃を加えたことからみると,被告人の攻撃行為は急迫不正の侵害が終了した後の行為と評価すべきであるから,過剰防衛も成立しない。)
第2部自白調書の検討
前述したとおり,自白調書を除いた証拠関係のみによっても判示事実を認定できるが,念のため,弁護人が弁論において任意性及び信用性を争う自白を内容とする検察官に対する弁解録取書について検討する。まず任意性の点からみると,被告人が公判において供述する内容は,検察官の弁解録取時に調書は何ら作成されず,また,署名を求められたこともなかったにもかかわらず,勾留後,別の検察官から,弁解録取書と同内容の調書を見せられ,でたらめだと訴えたが,署名をしつこく迫られたため,被告人の訴えは受け入れられないと諦め,署名したというものである。しかし,被告人の主張を前提とすれば,裁判官による勾留質問の際に,検察官に対する弁解録取書が存在しなかったことになるが,そのような事態は想定できないから,任意性を争う弁護人の主張は採用できず,被告人の公判供述は信用できない。
次に信用性であるが,検察官に対する弁解録取書は,内容的には,Vの胸部,腹部を刺突したことや当時確定的殺意があったことを認めるものになっている。しかし,この弁解録取書は,逮捕の翌日というかなり早い時期に作成されたものであって,そこでの供述内容自体概括的で犯行態様もかなり簡単な内容のものであり,録取内容の点において,その前日に作成された警察官調書及び弁解録取の翌日の勾留質問調書とも異なる上,捜査段階における最終的な供述内容とも異なるなど,供述内容の変動が激しい時期に作成されたものであるし,秘密の暴露のような信用性を格段に高める内容を含んだものでもない。したがって,検察官に対する弁解録取書に信用性を認めることはためらわれる。
そうすると,この検察官に対する弁解録取書を犯罪事実の認定資料とすることを否定する弁護人の主張は理由がある。しかし,前述したとおり,判示の認定は,自白調書を除いた証拠関係のみによって認定ができるのであるから,この点は事実認定の結論に影響を及ぼさない。
第3部結論
関係証拠を検討した結果は以上のとおりである。再論すると,被告人は,確定殺意をもって,判示の実行行為を行いVを殺害したものと認められる。これを否定する弁護人の主張は採用できず,弁護人の主張に沿う被告人の供述は信用できない。
【法令の適用】
被告人の判示所為は刑法199条に該当するが,所定刑中有期懲役刑を選択し,その所定刑期の範囲内で被告人を懲役13年に処し,同法21条を適用して未決勾留日数中230日をその刑に算入することとし,押収してあるペテナイフ1本(平成17年押第○号符号1)は,判示殺人の用に供した物で被告人以外の者に属しないから,同法19条1項2号,2項本文を適用してこれを没収し,訴訟費用は,刑事訴訟法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
【量刑の理由】
本件は,被告人が,被害者と一緒に飲酒していたが被害者から絡まれたりした上でペテナイフを持ち出されたことなどに憤激し,被害者からペテナイフを奪い取った後も,怒りが収まらず,殺意をもって,刃体の長さ約15センチメートルのペテナイフで,被害者の左前胸部等を突き刺し,これにより被害者を失血死させた殺人の事案である。
被告人は,被害者が持ち出したペテナイフを奪い取っているが,被害者はそれまで酔余の上で被告人の胸ぐらを掴んだり顔面を殴ったりはしていたものの,その経緯からすれば,被告人がペテナイフを奪い取ったことにより,立場は完全に逆転し,被害者の被告人に対する暴行は終了し,被告人の生命,身体に対する危険はほとんど現実化しないまま早々に解消されたものである。それにもかかわらず,被告人は,それまでの被害者の言動に対して憤激し,怒りを収めることなく,被害者の被告人に対する暴行とは比べものにならないほどの攻撃,すなわち,被害者の身体をペテナイフで多数回にわたり攻撃し,一方的かつ執拗に,人体の枢要部である被害者の左頬部,左頸部,左上腹部及び左前胸部をペテナイフで強力に突き刺す行為に及んでいる。このように,犯行態様は,生命に対する危険性が極めて高い刺突行為を一方的かつ執拗に繰り返した点で悪質であるとともに,被告人の被害者を殺害しようとする意思は強固であり,犯情は極めて悪い。本件犯行により,被害者の尊い生命は失われ,被害者の娘はもはや父に会うことができない深い悲しみを覚え,被告人に対する厳しい処罰を望んでいる。
被告人には前科2犯があるが,特に,昭和58年には,居合わせた客と酒の席で口論になって,屋外で待ち受けた際,刺身包丁でけんか相手の左前胸部を1回突き刺したが,殺害の目的を遂げなかったという殺人未遂罪により,懲役2年10か月の実刑判決を受けて服役したにもかかわらず,今回,またもや刃物を使って殺人の行為に及び,現実に他人の生命を奪ってしまったことは厳しい非難に値する。
被告人は,前記のとおり倒れた被告人が持っていたペテナイフの上に被害者が倒れてきたため,被害者の胸にペテナイフが刺さり,被害者が死亡するに至ったなどと不合理な弁解を述べて自らの行為を直視せず,その責任を回避することに終始しており,被害者の親族に対する慰謝の措置を講じようとしたこともないから,被告人が自己の所業について反省の念を深めているとは到底いうことができない。
これらのことからすると,被告人の刑事責任には極めて重いものがある。
他方で,被害者が,本件犯行当日,被告人方に長時間居続けて,酔余の上で被告人に絡んだり,些細なことから被告人の顔面を殴りつけたり,台所からペテナイフを持ち出したりしたことが,本件犯行のきっかけとなっており,被害者にも,被告人の本件犯行を誘発した落ち度があると認められること,被害者と当時交際していた被告人の姉が公判で被告人に罪を償ってほしいと述べながらも,今後被告人を監督していくと誓っていること,被告人も公判において被害者が死亡したことと自己の行為が無関係ではないこと自体を認めて被害者の冥福を祈る気持ちは持っていると述べていることなど被告人にとって有利に斟酌し得る事情も認められる。
しかしながら,以上の被告人に有利な事情を十分斟酌しても,被告人の刑事責任の重大性からすれば,被告人を主文の実刑に処するのが相当である。
よって,主文のとおり判決する。
【求刑 懲役17年,ペテナイフの没収】
(裁判長裁判官 林秀文 裁判官 安永武央 裁判官 小山恵一郎)