長崎地方裁判所 昭和32年(ワ)133号 判決 1958年6月06日
原告 伊野照子
右代理人弁護士 中山八郎
被告 林田義信
右代理人弁護士 岩本建一郎
主文
一、原告の請求を棄却する。
二、訴訟費用は原告の負担とする。
事実
≪省略≫
理由
一、按ずるに、正当事由のあることによる解約の申入によつて、賃貸借契約を消滅せしめる為めには、その申入が為された日から起算して、六ヶ月の期間を経過した日を現在として、その時に於て、現実に、正当事由の存在することを必要とすると解するのが相当であると解せられるところ、(その理由は後記の通りである)、成立に争のない甲第二号証と証人伊野ツナエの証言(第二回)及び原告本人の供述と、当事者間に争のない事実とによつて、原告が解約の申入を為した日であると認められるところの昭和三十一年八月二十七日から起算して、六ヶ月を経過した日である昭和三十二年三月一日現在に於て、原告に解約の申入を為すについて、正当事由のなかつたこと後記の通りであるから、右解約の申入によつては、原告主張の賃貸借契約を消滅せしめるに由ないところである。故に、右解約の申入によつて、右契約が消滅したことを前提とする原告の本訴請求は、その前提に於て、既に理由がないから、爾余の点についての判断を為すまでもなく、失当として排斥されることを免れ得ないものである。
二、正当事由の存在時期について、前記の様に解するのを相当とする理由は、以下の通りである。即ち、法に謂うところの解約の申入なるものは、賃貸借契約を、賃貸人側から、一方的に、消滅せしめる法律行為であるから、所謂形成行為に属し、従つて、その申入を為すについてはそれを為し得る権利(形成権)の成立あることを前提とするものであるところ、その権利の成立については民法に於て、原則的な定が為されて居るのであつて、それによつて成立するところの権利が、即ち、民法上の解約告知権である。而して、借家法は、民法の特別法であるから借家法上の規定が民法上の原則規定に対し、制限規定であることは、多言を要しないところであるから、借家法上の解約告知権に関する規定は、民法上の規定に対する制限規定であると解すべきこと勿論である。この故に、借家法が定めるところの告知権に関する規定は、民法が定めるところの告知権に関する原則規定に対する制限規定であると解しなければならないものである。
而して、借家法が定めるところの告知権に関する規定は、二個あるのであつて、その一は、正当事由の存在に関する規定(第一条の二)であり、他の一は、六ヶ月の予告期間の設定に関する規定(第三条第一項)である。
而して、右両規定は、その立言形式から観ると、告知権の行使に関する制限規定であると解せられるから、この両規定は夫々、告知権の行使に関する要件を定めて居るものと解さなければならない。従つて、右両規定によつて定められて居るところの正当事由の存在と予告期間の設定とは、夫々、告知権の行使に関する要件を為すものであると言わなければならない。
而して、右両者が、権利行使の要件である以上、その権利行使の時に於て、それ等が存在しなければならないことは、多言を要しないところである。
然るところ、借家法第三条第一項の規定は、告知権を行使する為めには、六ヶ月の期間を置かなければならないと言う趣旨の規定であると解せられるから、その定めるところの六ヶ月の期間は、権利行使の為めの法定の準備期間(別の言葉で言えば、権利行使の為めの予告期間である)であると言うことが出来る。従つて、その期間の設定は、権利行使の為めの準備段階たるに過ぎないものである。故に、その期間の設定が為されても、それを以て、権利の行使であると言うことは出来ないものであるから、権利の行使は、その為めの準備期間として設定された右期間の経過した日に於て、為されたことになるものであると言わなければならない。(尤も、前記条項は、この期間の設定と申入行為とを結合して規定して居るので、一見すると、それは、権利行使の効力の発生要件の様に見えるのであるが、その実質は、右の様なものであるから、効力の発生の要件ではないと言わなければならない。)従つて、右条項によつて為される六ヶ月前の解約の申入は、権利行使の為めの準備期間の設定とその期間の経過した日に、権利行使を為す旨の意思表示と解されるから、それが為された日から、六ヶ月の期間を経過した日に於て、告知権の行使が為されたことになるものであると言わなければならない。故に、告知権行使の日は、右六ヶ月の期間を経過した時であることになるものである。
而して、正当事由の存在が、告知権行使の要件であることは、前記の通りであるから、それは、右の時に於て、その存在がなければならないことになるものである。
以上が、正当事由の存在時期について、前記の通り解した理由である。
三、前記の時に於て、原告に、解約の申入を為すについて、正当の事由がなかつたと認めた理由は、以下の通りである。即ち、
(イ)、自己使用の必要性あることによつて成立する場合の正当事由は、単に、自己に於て、その使用の必要性があると言う事実のあることだけで成立するものではなく、その使用の必要性に存するところの緊迫性(緊急性)の度合が相手方のそれを超える場合に於て、初めて、その成立があることになるものである。何となれば、自己使用の必要性あることを理由とする場合の正当事由は、所謂正当性の衝突の場合であつて、その使用の必要性の存在すると言う点からのみ事を観れば、双方共に、その必要性があり、而も、賃借人には賃借権があつて、之によつて、賃借人は、その使用の正当性を、賃貸人に主張し得ると言う関係にあるのであるから、単に、自己使用の必要性があると言うだけでは、解約を為すことについての正当性は、発生し得ないものであるところ、その必要性に緊迫性が存在するに至ると、法は、一種の緊急状態を認め、賃貸人の自己使用の必要性の緊迫度が、賃借人のそれを超える場合に於ては、賃貸人に存するその使用の必要性に正当性を認め、賃貸人に、解約を為し得る権利を与えて居るのであつて、これが、即ち自己使用の必要性あることによる解約の正当事由であると解せられるからである。
従つて、自己使用の必要性のあることによる正当事由の成立の有無の認定については、常に、賃貸人側と賃借人側とに存する、夫々の、使用の必要性の緊迫度について、その比較衡量を為すことを要することになる訳であつて、裁判に於て、常に、この比較衡量の為されるのは、この理由のあることによるものである。而して、右必要性について存在することを要する緊迫性は、その性質自体からして、現在の事態として、その様な状態にあることを必要とするものであるから、その緊迫性は、正当事由の存在することを要する時の現在に於て、その存在がなければならないものである。
(ロ)、之を本件について観るに、原告(女性である)が、医科大学を卒業したこと並に婚姻適齢期にあるものであることは、弁論の全趣旨に照し、当事者間に争のないところであると認められるのであるが、原告が、未だ、医師の免許を得て居ないこと、及び現在に於て未だ、婚姻の相手方が確定して居ないこと、従つて、未だ、婚約の成立すらないことは、原告の主張自体によつて明白なところであるから、前記の時の現在に於て、現実に、医業を開業し、及び婚姻生活を営むと云う事態は、未だ発生して居ないと云わなければならない。従つて、その点から事を観れば右の時の現在に於て、本件家屋使用の必要性の存しないことは、多言を要しないところであり、従つて、それによる正当事由の成立の余地のないことは勿論であるが、他面、将来に於て、それ等の事態が発生するに至ること、及びその発生に備えて、事前に、その準備を為す必要のあることは、論を俟たないところであつて、而も原告提出の証拠を綜合するとその様な事態が発生した場合に於ては、本件家屋を使用することが最も便宜であることが認められるので、この点から事を観れば、原告に、本件家屋使用の必要性のあることは、之を認めざるを得ないのであるが、右に認定の原告側の諸事情と、被告提出の証拠を綜合して認められるところの被告側の諸事情とを比較するときは、前記の時の現在に於ては、原告側の必要性についての緊迫性の度合は、被告側のそれに比して、遙かに低いものであると認めれるので、その緊迫性の度合に於て欠くるところがあり、従つて、正当事由の成立は、未だなかつたものであると断ぜざるを得ない。故に、前記の時の現在に於ては原告には、本件賃貸借契約について、解約の申入を為し得る正当の事由はなかつたものと云わなければならない。
(ハ)、以上が、原告に、解約の申入についての正当の事由がないと認めた理由である。
四、仍て爾余の点についての判断は、之を省略して、原告の請求を棄却し、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八十九条を適用し、主文の通り判決する。
(裁判官 田中正一)