大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

長崎地方裁判所 昭和38年(わ)113号 判決 1963年7月15日

被告人 前田誠

昭七・一〇・一生 無職

主文

被告人を死刑に処する。

理由

(事実)

一、被告人の経歴

被告人は、福岡県八幡市(現在北九州市八幡区)において前田精一郎と同竜子との間に六人兄弟中の三男として生育し、昭和二〇年四月地元の尋常高等小学校に入学したが、終戦により当時八幡製鉄所の工員であつた父親の収入では家計を維持するにも困難となり、そのためとかく学校も欠席しがちであつた被告人は、やがては家庭生活に楽しみを持てなくなつて、翌二一年八月、高等科二年在学中遂に学業を放棄して無断家出をし、北九州方面を転々し一旦は家に連れ戻されたが間もなく家出して浮浪の生活に戻り、下関市において浮浪児養護施設に強制収容されたが規律ある生活になじめず一月有余にして無断帰宅したところ、既に病臥中の両親が昭和二二年五月下旬頃相次いで死去するや葬式後数日を出ずしてまたもや家出して、別府大分方面を流れ歩き、同年七月二日大分市立養護院若葉園に浮浪児として収容され、その斡旋により同市の印刷工場に見習工として通勤しているうち、他人の金を盗んだことが露見したため、同年九月九日同園を逃走して帰宅したものの、既に一家は離散しており、やむなく弟三人が養護されていた八幡聖小崎育児院に暫く身を寄せていたが、同年一〇月初め頃長崎市の聖母騎士園にあこがれて無断で飛び出し、同市に赴き、当時上戸町にあつた同園に収容されることになつた。聖母騎士園においては、同園の新制中学課程の教育をうけ比較的落着いた生活を続けていたが、偶々同園の教師から叱責されたのがもとで逃走を思い立ち、尋常の手段では脱走できないと考え、昭和二四年一月一七日同園に放火したところ、右聖母騎士園の建物ばかりでなく隣接の元三菱造船工員寮や、上戸町中学校校舎など建坪合計一九〇〇坪余を焼燬し、あまつさえ園児数名を焼死させる予想外の大惨事を惹き起したので、結果の重大さに驚き脱走を思いとどまり、発覚しないまま、昭和二五年満一八才を迎え、同園の収容制限年齢を超過した理由で、八幡市在住の叔父前田静夫に引取られて、同市の印刷工場に勤めたが永続きせず、一週間位いで給料の前借りをしたまま飛び出し、再び同園に戻つて炊事の手伝等雑役に従事した後同園の世話で横浜市において職を得たが、昭和二七年二月、思いたつてさきの放火事件について自首をし、昭和二九年一月二八日長崎地方裁判所において懲役三年の実刑を言渡されて服役し、昭和三一年五月一日佐世保刑務所を仮出獄して当時北高来郡小長井に移転していた聖母騎士園の雇人小石五郎に引取られ、一時農夫或は印刷工として出稼したことはあるがいずれも永続きせずに同園に立ち帰りともかく約五年間を雑役夫として働いた後、昭和三六年七月頃同園で知つた長崎市本原町三丁目三九八番地岩永勇の左官の弟子となつたが、勤労意欲なく、同人に伴われ東京に出稼しているうち、昭和三七年八月頃無断で同人の許を飛び出し、所々を転々とした末同年末福岡市所在の新島商事の士工となつて働き、昭和三八年三月三日頃再び長崎市に舞い戻つて前記岩永勇と共に左官をしていた松原勉を同市○○町○○番地の割棟長屋に訪ね同人方に寄食する身となつた。

二、罪となるべき事実

右長屋の一室には嘗て被告人も岩永勇の弟子当時居住したことがあり、その頃から同じ長屋に住むMの二女K(昭和三一年六月一八日生)を可愛がつて遊んでやり、同女も被告人によくなついていたのであるが、被告人は右松原方において無為徒食の数日をすごした後同年三月一九日午前一〇時頃、右松原が仕事に出掛けた後前記新島商事宛に未払賃金を請求する旨の手紙を認め、これを発送するため同人方を出たところ、たまたま右Kが附近で友達と遊んでいるのを見かけ、同女を誘つて約二〇〇米離れた松山郵便局前のポストに右手紙を投函したが、その折同女から町に連れていつてくれとせがまれたので、そのまま、同女を伴つて同市浜町岡政浜蔵の各デパートに行き菓子等を買い与えたり屋上で遊ばせたりして数時間を過し、その帰途前記岩永勇方に立ち寄つて同人方に置いてある衣類を受け取ろうと思い立ち、同市中通りを通つて馬町諏訪神社前から県営バスに乗つて仁田口バス停留所で下車し、午後三時過頃本原町三丁目の運動場附近にさしかゝつた際、にわかに同女を姦淫しようと考え、木の実をとつてやると甘言をもちいて同女を同所から約一三〇米離れた同市三川町の通称布生山の山中に連れ込み、もつて猥褻の目的で同女を誘拐し、同日午後三時半頃同山中において同女が一三才に満たないことを認識しながら、同女のズボン及びズロースをずり下げて仰向けに寝かせ、「帰る」といつて泣きやまない同女の上に乗りかかつて強いて同女を姦淫しようとし、同女が幼少であつたためその目的を遂げなかつたが、その際同女に対し外陰部充血並びに溢血の傷害を負わせ、右犯行直後同女が激しく泣きじやくつているのを見て、その犯行の発覚を恐れて同女を殺害しようと決意し、その場で泣きながら坐つている同女の頸部に両手をまわして絞めつけ、一旦同女を絶息、こん倒させたが、すぐに同女が息を吹き返えすような気配を察知するや、更に同女の頸部を右手で絞めつつその口と鼻を左手で塞ぎ、よつて右扼頸による窒息に基き同女を死にいたらしめ、なおもその直後同女の死体から一切が発覚せんことを恐れて、同女の死体を同所から約三米離れた歯朶の繁みの中に運んで放棄し、もつて同女の死体を遺棄したものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の判示所為中、猥褻誘拐の点は刑法二二五条に、強姦致傷の点は同法一八一条、一七九条、一七七条後段に、殺人の点は同法一九九条に、死体遺棄の点は同法一九〇条に各該当する。そこで、以下前掲各証拠及び当公判廷において取調べたその余の証拠に照らして本件犯罪の情状について考えるに、被告人は僅か六才九月の無抵抗な幼女、しかも被告人を信じていたればこそ被告人に甘え親しみ素直に随順してくるKに対し、敢てこれを辱かしめた上、殺害したものであり、その所為は正に破廉恥にして極悪非道そのものである。判示認定のとおり、確定的な殺意に基き、しかも一旦息をふき返えしかけた被害者に対し重ねて加害の手を下すが如きは、人命を無視するも甚だしく、人間的心情のある者の容易になし得ないところであつて、単に一時的衝動として弁疎すべき余地はない。

被害者Kは両親の愛情につつまれて成長し今春漸く学齢期を迎え小学校入学の日を嬉々として待ちわびていた矢先、被告人の兇手に斃れたもので本人の末期の心情は推察するに難くなく、被告人は何の罪とがもないこの少女をその両親の手から永久に奪い去つたのであり、遺族の悲嘆、痛憤の念は想像に余りあり被害感情は現に極めて深刻である。また近時かかる幼児に対する誘拐殺人に関し、世人は著しい関心を集め、憂慮の念を抱いている折柄、被告人がかかる残酷非道な犯罪に及んだことは、ただに遺族に対してのみならず社会一般に異常な衝撃を与えその不安を醸成したものであつて、これまた軽々しく看過し得ないところである。更に本件審理の全過程を通じて看取しうる被告人の犯行に対する反省の程度は極めて劣弱であつて、遺憾ながら被告人に悔悛の情があるものとは認め難い。飜つて、被告人に有利な事情として酌量すべきものがあるかについて検討してみるのであるが、被告人がその学業なかばにおいて、大戦末期から終戦後の社会的混乱に遭遇し、家庭における生活難、学校における教育環境の質的低下が被告人の人格形成に悪影響を及ぼし、両親の病死と一家の離散が被告人から精神のよりどころを奪つたことは容易に察知しうるが、しかしながらその後聖母騎士園という比較的良好な保護環境に身を置き教育を受け、職業を斡旋され、過去の非行を反省し更生する機会に恵まれたにもかかわらず、三〇才に達した今日まで、その主体的努力を欠き無為な日々を重ねたことは、もはや境遇の不運をもつて本件犯行に対する直接有利な事情として特に酌量することはできない。なお、被告人の精神障害の有無につき附言すれば、本件各証拠に医師東家暁作成の鑑定書の「被告人は精神分裂病者その他の精神病者ではなく、意志欠如型と爆発型の特徴を加味した中等度の精神病質者である」旨の記載を併せ考えれば、被告人には法律上刑を減軽すべき高度の精神障害はなく、却つて被告人の人格像は既に三〇才に達した現在において、これが矯正は容易でなく、将来更に犯罪を繰り返えす危険性を内包しているものと認められる。

裁判所は、以上に述べたところの外、審理に顕れた一切の事情を勘案した結果、被告人に対しては、情状として酌量すべき余地はなく、判示殺人罪につき所定刑中死刑を選択するのが相当であるとの結論に達した。

よつて、被告人の判示各罪は刑法四五条前殺の併合罪であるが、そのうち判示殺人罪につき被告人を死刑に処する以上同法四六条一項により他の罪の刑を科さないこととし、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書に則り被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官 淵上寿 原政俊 尾崎俊信)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例